マドリードで是非行きたい所<美術館・博物館・教会編>

マドリードで見逃せないポイントをご紹介します。市内の見どころはギュッと集まっているので地下鉄や路線バス、タクシーを使って効率よく回ることが出来ます。町がとっても綺麗で散策しながら建築を見たりバルに入ったりしながら楽しめます。まず今日は美術館・博物館・教会編です。

1・プラド美術館

エル・グレコ

ぜった外せないプラド美術館は王家のコレクションが納められた世界有数の絵画館です。建物は元自然科学博物館。殆どの絵画がガラスのケースに入っていなくてゆったり絵を鑑賞できます。エルグレコの受胎告知、ベラスケスのラスメニーナスゴヤの裸のマハヒエロニムスボスの快楽の園フラ・アンジェリコの受胎告知等美術史の本に出てくる作品がゆっくり堪能できる美術館です。サンヘロニモス教会横のヘロニモスの入り口のあたりはスペイン人建築家ラファエル・モネオによる改造部分。建築好きな方は必見です。

時間

毎日10:00-20:00(日曜10:00-19:00)閉館2時間前から無料

行き方

メトロ 地下鉄2号線バンコデエスパーニャ、セビージャ、1号線アトーチャから徒歩10分。

プラド美術館の回り方をまとめた記事です<プラド美術館・無駄なく回る1時間コース>

 

2・ソフィア王妃芸術センター

 

1992年開館の近代美術館です。ピカソのゲルニカが有名ですがダリの若いころの作品ミロの初期、ピカソやグリスのキュビズムダリやミロのシュルレアリズム等4階に行くとタピアスやチジーダ等近代の作品などたっぷり楽しめます。さっくり見ればそれほど時間がとられないので是非ともおすすめです。建築好きな方は後ろ側の増築部分がフランス人のジャンヌーベル(ヌーベルの入り口エントラーダ・ヌーベル)正面のガラスのエレベータ―(サバティーニの入り口エントラーダ・サバティーニ)はイギリス人のイアン/リッチー作です。

ゲルニカについて書いた記事です <ピカソのゲルニカ(ソフィア王妃芸術センター)>

時間

10:00-21:00 (日曜10:00-19:00)閉館2時間前から無料。              日曜日は14:30から無料。定休日火曜日

行き方

地下鉄1号線アトーチャ下車すぐ。プラド美術館から徒歩10分。

3・ティッセン・ボルネミサ美術館

ティッセン男爵2代にわたるコレクションをスペイン文科省が買い取り展示している美術館。個人の持ち物だったとは思えない素晴らしい幅のあるコレクションで13世紀から20世紀末までの多岐にわたる作品群。カラバッジョ、ファンアイク、ラファエル、ドガ、ロートレック、ピカソ、ブラック、ダリ、ミロ、アンディーウォーホール等何でもあるヨーロッパ屈指の美術館。隣に男爵の妻カルメンのコレクションが展示されている新館も併設。

時間

毎日10:00-19:00 月曜12:00-16:00(月曜無料)

行き方

地下鉄2号線バンコ・デ・エスパーニャ又はセビージャ徒歩10分 プラド美術館から5分

4・国立考古学博物館

有史以前の物から古代の遺跡、ローマギリシャビシゴートの芸術イスラムロマネスクゴシックの作品等スペインに来た諸々の民族が残していったものが楽しめます。マンモス象の牙バレアレス諸島の巨石文化、有名なエルチェの婦人像ローマ時代のモザイク中世キリスト教彫刻、等本当に楽しめて私のたまらなく大好きな博物館です。いつも空いていて見どころ満載。お買い物ゾーンのセラーノ通りにあるので是非寄ってみて下さい。博物館入り口手前にはアルタミラ洞窟の復元模型。洞窟の天井に野牛の壁画が描かれている。

時間

毎日9:30-20:00日曜祝日9:30-15:00 月曜休館

行き方

地下鉄4号線 セラーノ徒歩3分

5・マドリード王宮

マドリード王宮

1931年まで王室の住居として使われていた。今は国有財産となり公式謁見国際会議などに使われている。公式行事が無いときは見学することが出来、順路になっているので1時間から1時間30分くらいで見学することが来ます。パリのベルサイユ宮殿はフランス革命でかなり壊され家具なども殆どないですがマドリードの王宮はつい最近まで使われていたまま残されています。調度品、家具、絵画、天井画等言葉に尽くせません。中庭の端の方には武器博物館があり甲冑や武器等が置かれた部分があってそこに日本の鎧やカルロス5世の使っていた本物の甲冑が展示されています。

 

時間

4月―9月 毎日9:00-20:00(日曜祝日ー15:00)                       10月ー3月毎日9:30-18:00(日曜祝日ー14:00)

<注意>公式行事・謁見や特別行事で度々閉まります。

行き方

地下鉄2号線5号線R線オペラ下車5分、スペイン広場から徒歩10分

 

6・デスカルサス・レアレス修道院

カルロス5世の娘ファナ・デ・アウストリアが16世紀に設立したサンタ・クララ修道会。以後2世紀にわたって俗世を離れて生きる名門の貴族の僧院となる。中に入ると突然中世の壁画の中に、マドリードの繁華街にあるのを忘れてしまう16世紀の世界。ルーベンスの下絵によるタペストリーやブリューゲル、リベラ、スルバラン、ティチアーノなどの数々の作品を所蔵する。

時間

毎日 10:00-14:00 16:00-18:30(日曜祝日10:00-15:00)月曜閉館

行き方

地下鉄3号線ソル、カジャオから徒歩5分。2号線R線オペラから徒歩5分

7・サンフェルナンド美術アカデミー

ゴヤ・イワシの埋葬

18世紀以降のスペイン美術の中心である学院=アカデミーの中にある美術館。絵画や彫刻など16世紀から20世紀の作品約1400点の絵画1300点の彫刻15000点のデッサンを所蔵。ルバラン、ベラスケス、ムリーリョ、ゴヤ等。ゴヤはこのアカデミーの会員で有名なイワシの埋葬自画像がある。

時間

毎日10:00-15:00 月曜休館

行き方

地下鉄1号線2号線3号線ソルから徒歩5分

 

8・ラザロ・ガルディアーノ美術館

ホセ・ラサロ・ガルディアーノの個人的な美術のコレクションを後にスペイン国家へ寄贈したもの。象牙や七宝フランスのリモージュ中世の金銀細工、宝飾品、家具。絵画はエルグレコ、スルバラン、ムリーリョ、ゴヤ、ヒエロニムス・ボス等豊富な作品を楽しめる。これも個人のコレクションとは驚くばかり静かな邸宅で美しい芸術品や工芸品が楽しめるヨーロッパならではの美術館。

時間

毎日10:00-16:30(日曜ー15:00)月曜・祝日休館

行き方

地下鉄5号線ニューネス・デ・バルボア駅徒歩5分

8・ソローヤ美術館

光の画家と呼ばれたホアキン・ソローヤのマドリードの自宅兼アトリエが美術館になっている。入口にあるお庭や邸宅も必見。画家の道具なども展示されていてこじんまりしているが見ごたえのある美術館。画家の家族の海辺での作品など愛着を持って描かれたものが沢山展示されている。いつも空いているのでのんびりと鑑賞でき優雅な気分になる美術館です。

ソローヤ 海辺の散歩
De Joaquín Sorolla y Bastida – http://museosorolla.mcu.es, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=22735943
時間

毎日9:30-20:00日祝10:00-15:00月曜休館

土曜15:00からと日曜は無料

行き方

地下鉄5号線ルーベンダリオから徒歩5分

地下鉄10号線グレゴリオマラニョンから徒歩10分

 

 

9・ゴヤのパンテオン

ゴヤのパンテオン

 

正式にはサン・アントニオ・デ・ラフロリダ教会。サン・アントニオ(聖アントニオ)という聖人はお参りすると恋人ができるというご利益で若い女性に人気の教会。ゴヤが描いた天井画はサン・アントニオの奇跡を描いた見事な作品。ゴヤの天井画がお参りの人のろうそくで汚れるので同じ形の教会を隣に作りゴヤのパンテオンの方は無料で公開している。教会内部の祭壇の横にゴヤが埋葬されている。(すぐ隣にあるシードラ屋は地元の人に人気。ローストチキンとシードラを安価で楽しめます)

時間

毎日9:30-20:00 月曜・祝日休

まとめ

美術館や教会等まだまだあるのですが今回は以上です。入場時間や休館日はなるべく更新していますが変更もあるので公式サイトなどでもう一度ご確認ください。

 

 

スペイン旅行、マドリードから日帰りで行けるおすすめ世界遺産の街

 

スペイン旅行するなら絶対外せない数々の世界遺産。マドリードから日帰りで行ける世界遺産をご紹介。マドリードはスペインのほぼ中央に位置していて周りに沢山の世界遺産や綺麗な街があります。東京のような街で首都になったのが1541年。比較的新しい街なのでマドリードはお買い物や美術館を楽しんで観光は郊外の街へ出かけることになります。ここではマドリードから日帰りで行ける世界遺産と綺麗な街をご紹介します。もちろんそれぞれの街に宿泊すると更に素敵な時間を過ごせます。

1・トレド(世界遺産)

トレド全景

「もしもあなたに1日しかスペインで時間が無いのならばトレドを見てください。」と言われる。トレドを見るだけでスペインの歴史を見ることができます。

ローマ時代にすでにトレトゥムという要塞都市があり西ゴート王国首都イスラム教徒の時代は回教寺院が多く作られレコンキスタの後ムデハル様式(キリスト教徒時代のアラビア様式)からゴシックの大聖堂はスペインカトリックの総本山。キリスト教徒の時代にもアラビア人やユダヤ人の学者たちが重宝されアルフォンソ10世王の時は天文台が作られ天文学の研究がされていた。

トレドの街は16世紀エル・グレコの時代そのまま。そのころ九州のキリシタン大名の遠縁の子供達がイエズス会によりスペインにやって来てトレドに滞在。天正遣欧使節団は日本からの最初の公式の使節団で日本を出るころ12歳から14歳の4人の少年達。彼らが見た街がそのまま今も残ります。大聖堂や教会、イスラム建築やユダヤ教会等見どころ満載の街です。エル・グレコのオルガス伯爵の埋葬という有名な絵はサント・トメ教会にあります。

行き方

マドリード・アトーチャ駅からスペイン新幹線で33分又はバスターミナル(メトロPlaza de Eliptica)から約1時間。新幹線は早いですが本数が少ないです。バスは1時間又は1時間半ですが頻繁に出ていて便利です。行きは新幹線帰りはバスでもいいかもですね。どちらの駅もトレド中心部から登り徒歩20分くらいです。バスターミナルの近くに新しくエスカレーターが出来ていてソコドベール広場近くまで登れるようになりました。

とにかくスペイン旅行で間違いなく行かなくてはならない街がトレドです。

*トレドの行き方や現地の観光の仕方等。歴史やモニュメントについてまとめてあります。

 <要塞都市トレド。スペインで絶対外せない世界遺産モデルコース付き>

2・セゴビア(世界遺産)

 

水道橋

スペインを含むイベリア半島は2000年前にローマの植民地になり多くのローマの街ができる。セゴビアには当時水を街に運ぶための2000年前の水道橋が綺麗に残る。地中海沿岸に今も多くのローマの水道橋が残るがセゴビアはその形の美しさでは秀でている。

綺麗な旧市街も世界遺産で中世の街が残り街の規模が散策するのにちょうどいい。予定も決めずに歩いて廻って疲れたら立ち止まって中世の街を楽しめる。

セゴビア城はウォールトディズニーの白雪姫のアニメのモデルになった。13世紀頃にあった要塞を各時代の王達が改築して今の形になったのは16世紀頃。イサベル女王も生活していた事があるお城です。水道橋からお城まで2キロ位を旧市街を散策しながら歩いて楽しめます。途中沢山のレストランや商店、中世のロマネスク教会等があるのでのんびり散策やお食事を楽しめます。

名物料理は生後3週間以内の子豚をさっくりと焼き上げ肉は柔らかくジューシーで皮はパリッとしている子豚の丸焼き。街中のレストランで提供しています。

行き方

マドリード・チャマルティン駅からスペイン新幹線で約30分又はモンクロア・バスターミナルからバスで⒈時間15分。新幹線の駅は町から離れているので到着したらタクシー又は路線バスで水道橋迄。バスで行った場合はセゴビアのバスターミナルは水道橋から歩いて5分。本数が多いので便利です。セゴビア記事別途準備中です。

 

*セゴビアの行き方と歩き方をまとめた記事です

<ローマの水道橋がある街セゴビア>

3・アビラ(世界遺産)

アビラ城壁

中世の城壁で完璧に今も囲まれている町。大聖堂はスペインで一番最初に作られたゴシック様式もので後陣部分はロマネスク部分が残り建築の移り変わりが見れ興味深い。16世紀の聖女テレサの生誕の地でもあり生家や修道院が現存。城壁に上ることも出来て沢山の教会も楽しい。町は大変小さいのですべて徒歩で大丈夫。パラドールや昔の貴族のお屋敷を改装したホテルなど宿泊しても楽しめる。クアトロ・ポステスまで行くと綺麗に町の全景が見れる。

 

行き方

マドリードチャマルティン駅から列車で1時間30分から2時間。駅からアルカサール門までは徒歩20分。

各現地エージェントがアビラとセゴビアセットのツアーを販売しています。

 

4・アランフェス(世界遺産)

アランフェス王宮

タホ川の恵みで土地が豊かなアランフェスは作物が豊かで動物がいるので古くから狩りの館や春の別荘としての王宮があり代々の国王達に愛されてきた小さな町。カトリック両王の時代にすでにあったものをフェリペ2世が改装を行った。王宮だけでなく広大な庭園に農夫の家と言う名の別邸や船の博物館(王家の舟遊びに使った豪華な船が数々展示されています)。季節によってはチキトレンという電気で走るちんちん電車で街を回れる。

行き方

アトーチャ駅から近郊線セルカニアスで30分。駅から徒歩15分くらいで王宮。

夏限定でスペイン国鉄が蒸気機関車でマドリード・アランフェスを結んでいます。人気があるので早めに予約が必要。

5・エル・エスコリアル修道院(世界遺産)

エル・エスコリアル

フェリペ2世がフランスとの戦い(1557年サンキンティンの戦い)の勝利を記念して作らせた修道院兼王宮兼王家の霊廟。質素で堅実なフェリペ2世は修道士の様な姿で晩年ここで暮らした。一切の華美を排除しフェリペ2世が理想とした単純な形式にして気品と威厳に満ちた建築となる。中は国王が暮らした部屋、美術館、図書館等。エル・グレコが描いた「聖マウリシオの殉教」もここの美術館にある。この絵がフェリペ2世に気に入られずエル・グレコはトレドに仕事を求めて移住する。パンテオンはスペイン国王カルロス5世からの代々の国王達が眠る霊廟になっている。丁度完成したころ日本からやって来た天正遣欧少年使節団が宿泊している。

巨大な修道院兼王宮は多くの美術作品を公開しています。絵が好きな方は必見です。また図書館がありフェリペ2世のコレクションが納められています。

行き方

モンクロア・バスターミナルからバスで約1時間。エル・エスコリアルのバスターミナルから修道院は徒歩10分。

6・コルドバ

コルドバには2000年前に既にローマの街があった。今も町の中にローマ神殿が残る。756年から1031年の後期ウマイヤ朝の首都として栄華を極める。その時の回教寺院<メスキータ>が現在大聖堂になっている。メスキータの周りは白い村で散策も楽しい。新幹線を使えばマドリードから日帰りで充分行って戻れます。メスキータと白い街旧市街が世界遺産。

私個人的にはせっかくスペインまで来たらコルドバは是非見ていただきたい街です。スペイン史の重要な後期ウマイヤ朝の首都で1000年前には大学や図書館があり当時のヨーロッパの最高の文化が栄えた街です。

*コルドバの歴史の記事はこちら

 <スペインの歴史・後期ウマイヤ朝・コルドバカリフ王国>

行き方

マドリード・アトーチャ駅からスペイン新幹線で1時間40分。コルドバ駅からメスキータは約2キロ。路線バスかタクシーでメスキータ迄。

 

 

まとめ

旅行の形態として<移動と滞在>と分ける場合マドリードを起点に<滞在>して周りに沢山の世界遺産を見ながら毎日マドリードに戻って来るのも良いと思う。他にもクエンカやチンチョンやペドラサ等の日帰りで行けるかわいい街が沢山あります。マドリードで何日かの滞在型旅行だと荷物を持って毎日移動しなくて良く同じホテルに毎日帰って来るのはとっても楽です。バルセロナまでも新幹線で2時間半なのでホテルが高くて取りにくいバルセロナ、日帰りもチョイスのひとつに。では良い旅を~。

トレド観光行き方と歩き方、絶対外せない世界遺産の街歩き方モデルコース付き

スペイン人のとっても素敵なところ

ヨーロッパや世界のいろんな国を回ってきて私には一番居心地がいい国がスペインでした。これは個人的な経験とその人の性格や好みがかなり左右されるので「私にとっては」という話なので色んなご意見もあると思いますが今日はそのスペイン人のとっても素敵なところをご紹介します。

 

 

めちゃくちゃ他人に親切

他人というのは全くの赤の他人です。困っている人にとにかく親切で私は何度助けられてたか数えられません。地下鉄の駅の階段で転んだらすぐに沢山の人が走って助けに来てくれて抱きかかえられます。大きな荷物を持っていたら知らない男性が一緒に持ってくれたり(そこに下心は無く)、ベビーカーの人が階段で困っていたらいろんな人が一緒に持って上がります。以前年配の日本の方と一緒に夜歩いていてその方が少しヨロッとしたら5メートル向こうにいたスペイン人が走って来てコートを脱いで丸めてその人をベンチで横になりなさいと言って立ち去ろうとしてびっくりしました。いえいえコートお返ししますのでと断るのが大変でした。今もギリシャ沖でボートで来る難民を助けるためにスペイン人の消防士さん達が活躍していますし昔中国の「農村の貧しい家の2人めの子供」を救うために養子縁組キャンペーンで沢山の子供たちが救われました。スペインに住む許可証の無い外国人(つまり税金を払っていない居住者)に「医療と教育は無料で」というのがすべての政党のマニフィエストに入っていて実際そうなっています。この心の広さはどうやっても適いません。議論の順序が日本とは違って「まずは助けることが先にあり」その後のことは後でやって行く。後で混乱もあって大変なんですけれど。

人と人の距離感が近い

初めてあった人でもすぐに打ち解けていろんな話が出来る。エレベーターに乗り合わせたり地下鉄で隣に座ったり別に何でもないけど会話をしてすぐ別れる、この微妙な距離感がとっても居心地がいい。遠慮が無い分直球でわかりやすくてめんどくさくないのが好きです。そして都会でもどこでもみんなが知り合いみたいで安心感がある。

仲間意識が強い

いったん仲間と認識されたら全力で助けてくれます。友達とか仲間が大好きで「個人主義」と言われる中サッカーやバスケット、シンクロスイミング等が強いのはこれなんではないかと思っています。仲間で何かを成し遂げるときに援助を惜しまず馬力を出し切ってくれるので一緒に仕事をしても信頼できる。縁故主義や癒着にこれが繋がるんですが・・・・。

流されない

長いものに巻かれない。簡単にマスコミに誘導されないし反骨精神旺盛で流行とかにも簡単に乗らない。自分の意見をしっかり持っているので何がしたいかを知っている。中々同調してくれないので説得に困ることも多いですがいったん理解すると動きは速い。社会全体がそうなので政治家の演説も用意された紙を読んでいる人はいなくて自分の言葉で自分の信じている信条を語る。日本の政治家に足りないのはこれだと思います。

若い女も媚びない

社会が求めるスタイルに人間はなろうとする。これはいつの時代もそうだった。日本の女子高生(あるいはもっと低学年から)がお化粧したりアイドルに憧れたりするのは社会全体が「若い事」に価値を置いているから。こちらから見るとあれは異常で食い物にされていて消費されているのに社会全体で持ち上げている独特の現象。スペインのオンナの子はもっと自然体で野性的な感じで流行に媚びていない気がする。あ、もちろん全体的な印象で日本にも沢山そうじゃない人達もいるしスペインにもなんだかなあな子たちもいますが。これはマスメディア全体で経済や社会を動かそうとしている日本の問題で流行や美術館や音楽や何でも嗜好をコントロールしようとしていると感じます。それにの踊らされない強さがある。

偉い人もふんぞり返っていない

社会的に偉いと言われる人と何度か会ったり話す機会があったけど本当に対等。これはすべてのスペイン人が持っている神の前にはみな平等意識だと思う。威張っている人も居ると思いますが人間同士の上下関係みたいなのが少なくて楽です。お客様は神様的なのが無いので期待していないし求めていない。逆にお店のお姉さんの態度の悪さに怒りそうになる自分を制していい人ぶるのにてこずりますが・・・・。

掃除が上手

とにかく綺麗好きで小さな田舎の町でバルに入ってもお手洗いの綺麗な事には感心します。スペイン人のお掃除好きはもはや「技」のレベルです。家中隅々まで綺麗に磨き上げていて便利さより美しさを優先させるのでそこにゴミ箱あった方がいいのに無い。見えないところに格納されていて必要な時に出す。水道の蛇口やドアのノブまでいつもピカピカです。片づけと掃除はぜったいにスペイン人に適わない。自分の家はきれいにするのに公共の物はどうでもいい人が多くて困るんです…トホホ

語彙が多くて話が面白い

スペイン語の構成上もあるのですが話をしていてみんな導入部から展開部へもっていく話の仕方がうまい。そして単語量が半端なく多くて表現力が豊か。例えばですが食べ物の話だけでもこんなに展開できるのかと感心するし昨日のサッカーの試合の話を始めたら止まらない。スペイン語は沢山の語彙があって褒めたたえる言葉や綺麗な形容詞が豊かです。もちろんののしる言葉も豊
富ですのでビビります。

逆に「本当に驚くスペイン人の困ったところ」の記事もどうぞ

注意が必要なスペイン人の困ったところ>


まとめ

スペイン人と言ってもいろんな人がいて「考え方」や「良い人度」や「親切度」も違いますが何となく全体の特色をまとめてみました。すべては表裏一体なのでとっても良いこれらの個性が裏側では大変困った事にも度々遭遇しております。さらっとお読みくだされば幸いです。

 

スペイン建築史

 

 

スペイン程複雑に民族が入れ替わり立ち代わりやって来た国はそうはない。その過ぎ去って行った民族が色んなエッセンスをスペインに残していき生活や言葉、人々の風貌等に彩を添えている。北はピレネー山脈でヨーロッパと接し南はジブラルタル海峡からアフリカと、東は地中海が広がる。地理的にはまさに十字路として様々な民族が通り過ぎていった。今日はその中で形として一番残る建築について。スペインの建築史をまとめてみました。

未知の時代の不明な巨大な構造物

スペイン南部マラガ近郊のアンテケーラにドルメンという巨大な建造物が残る。紀元前3000年から2500年頃の物で31個の巨大な石で構成されたドルメンは無料で入ることが出来る。総重量1600トンというとんでもない大きな物で一番重いものは320トン。これを運んでくるだけでも私たちの想像を超えた人数やテクノロジーがあったに違いない。おそらく死者を埋葬するための物で家よりお墓に時間を労力を注いだのは死への恐怖や畏敬や不安が人類にとっての最も大きな関心事だった時代だったから。今も変わらないかもしれませんが。

<アンテケーラ・ドルメン内部>

アンテケーラのドルメン

バレアレス諸島のマジョルカ島、メノルカ島では紀元前1500年頃の巨石文化の遺跡が現存します。新石器時代の物で住居や神殿等。マルタ島にある巨石文明やイギリスのストーンヘンジとの関連は不明です。

フェニキア人

紀元前8世紀頃ガレー船に乗ってやってきた商業民族フェニキア人。南スペイン・アンダルシアの西端カディスにやって来て植民地化し寺院や巨大な建造物を建てたと言われるが残念ながら失われてしまい今残るのはお墓のみ。

<カディス フェニキア人墓地>

カディス フェニキア

このフェニキア人が使っていたのが表音文字でフェニキアン・アルファベット。今のABCアルファベットの元になります。建築は残りませんでしたがアルファベットは世界で今も使われているのが素晴らしい。どんな建築を作っていたのか知りたいなあ。

ギリシャ人

現在のスペイン東部カタルーニャにあるアンプリアス(エンポリオン)。紀元前6世紀頃今のフランスのマルセイユにいたギリシャ人がイベリア半島にパライアポリスという商港を開いた。ここが数年後に発展していく。現在の遺跡は1000年間にわたる色々なものが積み重なって解読は困難な遺跡が残っています。スペインに残る数少ないギリシャ建築。

<エンポリオン遺跡>

エンポリオン遺跡

イベロ族とケルト族

一応イベリア半島先住民族と言われるイベロ族ですが正確には族と言われるほどの整った文化形体は示しておらずもともといた原住民が後からやって来たカルタゴ人ギリシャ人ローマ人との接触のうち独特のイベロ族という文化を作って行ったのではと考えられています。建築らしいものは残っていないが塁壁に囲まれ堀をめぐらして中央に大通りを作り道路は舗装されていた。家の間口は狭く重層だったと考えられている。必ず寺院と墓地を持ち墓地は大きく巨石文化の影響がみられる。

又別系統でやって来たケルト人はピレネーを越えて紀元前8世紀頃にイベリア半島に入って来る。イベロ族と混血していきケルトイベロ文化を形成。「ヌマンシアの戦い」で有名なローマに対して籠城戦で抵抗したヌマンシアはケルトイベロの街。ただその遺跡は後のローマによってほとんど原形をとどめない(大抵の他の遺跡もローマ人の入植の後はローマ風に変えられている、ローマの罪なところ・・・)

ケルトの遺跡

スペインガリシアサンタ・テクラ、ポルトガル北部のブリテイロスサブローソイベロ、ケルト・イベロよりは建築や都市計画的には劣っていて初歩的。防御に都合が良い地形と水源を求めて集落を作った。家屋は平面で回るく石を積み上げて屋根は藁や枝。墓地としてのネクロポリスは持たなかった。2500年経ったいまもガリシア地方にパジャサと呼ばれる民家として受け継がれている。

<ガリシアのサンタテクラ遺跡>

サンタテクラの遺跡

ローマ

半島のローマ化は紀元前218年第2次ポエニ戦争から409年のゲルマンの侵入まで。精力的に道路を作りシーザー、アウグストゥスの時代に銀の道等1000キロ以上の道路の建設、橋や寺院そして円形劇場や浴場が作られた。驚くのが19世紀に使われていた橋のすべてがローマ時代の建設。今も使われているアルカンタラ橋は紀元後105年ころ完成の深い谷にかかる橋で今も大きなトラックが行きかう。メリダの街やセゴビアの水道橋、タラゴナの水道橋等。コンクリートやスクリューなど目を見張る技術が駆使された。ローマ人の土木に対する情熱には本当に驚かされる。この数行ではとても無理なので又の機会に詳しく書きたいテーマです。

<エストレマドゥーラ州カセレスのアルカンタラ橋>

アルカンタラ橋

 

ゲルマン民族の建築

ローマ帝国の崩壊後 ゲルマン民族はイベリア半島を支配するが文化的には支配したローマの模倣で終わる。あまり特徴のある建築は残っていないが金銀細工と独特の素朴な模様、イスラム以前の馬蹄形アーチは興味深い。現存するのは小規模な教会建築で幾何学模様と東方的な装飾や模様などが独特。

550年ころの建築と考えられるカベサ・デ・グリエゴ教会(ほとんど原形をとどめていない)661年サン・ホアン・デ・ロス・バニョスなどイスラム以前にすでに馬蹄形アーチは使われていておそらくシリアからの影響。(どういう経路でシリアの影響がイベリア半島までやって来たかの説明はついていないが昔の建築家や学者は長い旅をしていたようです。)

<カスティーリアレオン州パレンシアのサン・ホアン・デ・ロス・バニョス内部>

ゲルマン建築

アストゥリアス建築(プレロマネスク)

アストゥリアス建築というのは西ゴートの最後の王ロドリーゴが殺されて半島はイスラム教徒の手に落ちた頃わずかに残っていたキリスト教勢力によって作られた建築。アストゥリアス地方にのみ見られる建築で8世紀後半から10世紀にかけての物。まだ謎多き建築で後のロマネスク時代に使われる石造りの架構をすでに使っている

オビエド近郊のナランコの丘に848年に離宮として建てられたサンタ・マリア・デ・ナランコ。建物は2層で石造りのトンネルボールトの天井や柱の彫刻、控え柱も西欧でほとんど最初の登用。ロンバルディア様式が生まれるより以前に使われている。シリアからの影響と言われているがいまだに経路も明確にされていない。すぐ近くのサンミゲール・デ・リージョ教会等アストゥリアスに多数現存している。

<オビエド郊外のサンタ・マリア・ナランコ>

プレロマネスク建築

モサラベ

半島の回教徒は寛大な政策をとり住民には宗教の自由もあった。そしてイベリア半島のローマの道路や館、橋を見て感嘆しギリシャ思想に惹かれた。キリスト教徒たちは安全や経済的な理由からアラビア語を話し娘をイスラム教徒に嫁がせ息子をコルドバに留学させただろう、と思う。この時代のキリスト教徒をモサラベと呼ぶ。そしてイスラム教徒支配下のキリスト教美術もモサラベと呼ぶ。

<レオンのサンミゲールデエスカラーダ修道院>

モサラベ サンミゲールデエスカラーダ

レオンのサンミゲール・デ・エスカラーダ913年はコルドバ出身のキリスト教徒の建築家によるモサラベ建築。他にバジャドリッドマソーテにあるサン・セブリアン教会などが現存する。

イスラム建築

後期ウマイヤ朝コルドバのメスキータ

ダマスカスでの革命から逃れたウマイヤ家の王子は785年もともとそこにあったサン・ビセンテ教会を買い取って(略奪ではなく)回教寺院を作らせた。当時まだ回教寺院の様式が確立していなかったのもあって北アフリカにあったモスクをモデルにしたであろう。(現在の回教5様式に属さないそれ以前のモスク)

ローマの遺跡から持って来た円柱をメリダのローマの遺跡にある水道橋から学んだアーチで木造の天井を支えた。

<コルドバメスキータ内部>

コルドバ、メスキータ

コルドバ郊外にはメディナ・アサーラという夏の離宮。後の火災と略奪で見る影もないが10世紀の宮殿は金銀で噴かれた屋根、中央に大きな真珠、床には水銀のため池、8本のアーチには黒檀、象牙、宝石が埋め込まれていて日差しが入るとキラキラと輝いたという。

セビージャのアルモラビッドとアルモハッド

コルドバのウマイヤ朝の没落の頃北アフリカから2族が呼ばれアルモラビッド(サハラ砂漠の遊牧民)とアルモハッド(アトラスの山岳族)がセビージャで回教文化を開花させる。

セビージャのカテドラルの鐘塔ヒラルダの塔オレンジのパティオの一部、アルカサールのパティオ・デ・ジェソ、黄金の塔、アルメリアのカテドラルの石膏装飾、サラゴサのアルハフェリア宮殿等建築物が残る。

<セビージャのヒラルダの塔>

ヒラルダ

グラナダの回教王国 アルハンブラ宮殿

グラナダはコルドバ、セビージャ陥落の後スペインの唯一残ったイスラム王国。現在のマラガ、グラナダ、アルメリア県を合わせた約3万平方キロメートルの王国。もともとはキリスト教徒から守るために作られた見張りの城塞だった。赤い丘と呼ばれたグラナダを見下ろす丘陵地に9世紀にたてられた城塞を初代グラナダ回教王国王モハメッド1世が24の塔を城壁で結びそれ以降城塞から宮殿的なものに変わって行った。スペインに残るイスラム建築の最高峰。

外観の無装飾と比べ内部の繊細な装飾、増築していくことにより内部の平面構造は複雑になる。ユスフ1世のアラヤネスの中庭やモハメッド5世のライオンの中庭等が最も重要。レコンキスタが激しくなりキリスト教国から逃れてきたコルドバの建築家や芸術家たちの手腕による。

<ライオンの中庭>

ライオンの中庭

ふんだんな水と植物や花の色と香り、光を取入れアラベスク模様によるコーランの一説等等筆舌を越えたという言葉がこれほどふさわしい建造物は見たことが無い。水と香と色と光とそこに残る儚い美しさ、ゆらゆらと揺れる陰に平家物語の様な哀しさを感じる。

ムデハール建築

キリスト教社会に存続したイスラム教徒をムデハールと呼ぶ。半島のレコンキスタが進みキリスト教社会の中で安価な労働力としてまたスペインの王の東洋趣味などもあって頻繁にイスラム様式が使われる。レンガや石膏を使い馬蹄形アーチやモザイク、アラベスク模様を使った建築が教会にも使われ興味深い。キリスト教の教会がアラビア様式で創られ今現在もミサが行われている。多く使われた理由の一つは中世のスペインの道路事情が悪く良い石材を運ぶのは大変な労働。(ローマの街道は分断されていた)そして身近にいるイスラム教徒(安く使えた)に彼らの得意なレンガの細工を任せた。かかわっていた人達は美しいものであれば良く何様式なんて気にしていなかったと思う。後世の人達が様式に名前を付けたのだから。

<サアグンのサンティルソ教会>

サグアン、サンティルソ

サン・ファン・デ・ドゥエロの回廊、サアグンのサンロレンツォやサンティルソ。トレドのサントトメ教会やサンロマン等数えきれないくらいのムデハール建築がある。現代の私たちからは不思議な感じですがきっと気にしていなかったのだと思います。「神の家を美しく作ることが出来ればアラビア様式でも問題なし。」だったと。

ロマネスク建築

ヨーロッパ中世の建築様式で1000年ころから1200年ころまで流行した構造・丸いアーチの建築。ローマ人が好んで水道橋などに使った丸いアーチ(ローマンアーチ)を使っているのでローマ風>>ロマネスク様式、またはロマネスク建築。壁がふんだんにあるので壁画がふんだんに描かれた。

カタルーニャ

早くにイスラムを追い出してフランク王国から独立していたカタルーニャには現存する最も古い957年の教会堂がある。サン・エステバン・デ・バニョーラス(ジローナ)とサンタ・セシリアデ・モンセラ。又ピレネーの山中のタウルには12世紀回教徒の手から逃れた僧たちの一団が作った教会群がありすばらし壁画が残る。(壁画はバルセロナのカタルーニャ美術館に移築)

<タウルのサンクレメント教会>

ボイタウル サンクレメンテ

サンティアゴの道

サンティアゴの巡礼が盛んだったころとロマネスク建築が重なるのは偶然ではなく道と巡礼と一緒に伝わって行った。サンティアゴデコンポステーラに現在の大聖堂が創られ始めたのは1071年。当時の建築家や画家、彫刻家はインターナショナルに移動しながら注文を受けていた。サンティアゴの大聖堂を作るのにフランス人のロベールという腕利きの建築家が弟子を50人も連れてやってきた。当時フランスですでに始まっていたロマネスク様式をスペインに伝えながら旅をした。良く写真で紹介される現在のサンティアゴの教会堂の正面はバロック期の大きな物ですが内部や後陣部分はロマネスク建築。

<サンティアゴの大聖堂・栄光の門ロマネスク彫刻>

栄光の門

 

ゴシック建築

フランスで始まった建築様式。それまでのロマネスクでは天井の高さに限界があるのでもっと高くするためにリブボールトを入れて高い天井を手に入れる。それまでの壁構造から柱構造にすることで背を高く。先のとんがったアーチや大きな窓そこにステンドグラスを入れて外からの太陽の光を取り入れた。

<ブルゴス大聖堂>

ブルゴス大聖堂

 

フランスゴシック

ブルゴスのマウリシオ大司教がフランスからドイツを旅した時にゴシック様式に魅せられブルゴスに戻った後そこにあったロマネスク様式の教会をすごい情熱でゴシックに変えていった。レオンの大聖堂もおそらく同じ建築家による。

<レオンの大聖堂のステンドグラス>

カタルーニャゴシック

カタルーニャでは別系統で13世紀後半から14世紀にカタルーニャゴシック建築が発達。フランスゴシックのフライングバットレス(壁を外から支える為の石で作った部分)を内部に収めた独特の形。内部空間が広い。

<バルセロナ・海の聖母教会内部>

海の聖母教会

ルネッサンス

スペインにルネッサンスは無いという説も強くありますが時代的な要素や特徴はあるので一応ルネッサンスにいれました。大航海時代によりアメリカ大陸を手に入れた頃のスペインでイサベル女王の新大陸への興味とフェルナンド王のイタリア地中海地域への影響力が混じった形。

プラテレスコ様式

金銀細工に施す細かい細工を建築に石で掘って行く。サラマンカ大学の正面やアルカラ・デ・エナレスの建築家ロドリーゴヒルデオンタニョンによるスペインのルネッサンス代表作。

<サラマンカ大学>

サラマンカ大学

アルハンブラ宮殿のカルロス5世宮殿

1492年のグラナダの陥落のあとカトリック両王でさえも美しさに感嘆し壊されないように勅令を出したそうだがその孫カルロス5世はアルハンブラ宮殿の中に自分用の宮殿を創ることに。建築家はペドロ・マチューカ。ミケランジェロの弟子としてローマで学んだらしいがあまりよく分かっていない建築家。円形のパティオ均衡と調和はまさにイタリアルネッサンスの特徴。

<アルハンブラ宮殿カルロス5世宮内部>

アルハンブラ宮殿カルロス5宮

エルエスコリアル修道院とエレーラ様式

カルロス5世の息子フェリペ2世の時代スペインは日の沈む事無き大帝国になる。その大帝国の国王フェリペ2世は華美を嫌う地味で真面目で慎重な国王。

当時の王室建築家コバルビアスの建築に不満なフェリペ2世はナポリからファン・バウティスタ・デ・トレドを呼び寄せる。サンピエトロ寺院の建築にミケランジェロの傍らで働いていたらしいファン・バウティスタに巨大な建築物を依頼する。これがエル・エスコリアル修道院。ところがファンバウティスタが建設開始4年後に没してしまいその弟子ファン・デ・エレーラがその後を引き継ぐ。彼は建築家ではなく哲学者(すごい抜擢)だったがフェリペ2世の希望通りの装飾性を排除し単純な形態、質素なイメージの中に統一性のある非常にエレガントな修道院が作られた。

<エルエスコリアル修道院>

エルエスコリアル

バロック建築

スペインのバロックはチュリゲラ一族によって始まるのでチュリゲラ様式ともいう。装飾過剰なバロックは大航海時代の金銀と重なり絢爛豪華な悪趣味のやりすぎ装飾になって行く。でもなぜかスペイン人の得意とする様式でもある。サラマンカの大聖堂、マヨール広場やトレド大聖堂のナルシソトメのトランスパレンテ等。

<サラマンカ・マヨール広場>

サラマンカ マヨール広場

 

ネオクラシック建築

ローマ時代のクラッシックな建築をネオ新しく作った時代で神殿調の柱等を使ったすっきりした建築。マドリードのプラド美術館や現農業省等。

<マドリード・プラド美術館>

プラド美術館」

モデルニズム建築

ヨーロッパ世紀末芸術、フランスのアールヌーボー、イギリスのモーダンスタイル、ドイツのユーゲントシュティル、オーストリアのセセッションの時代。それまでの既成の芸術から自由奔放に作品を作り始めた頃カタルーニャは産業が産業が発展し建築が創られる。当時のカタルーニャのお金持ちが自由に別荘やマンションを建築家に頼んだので主に建築が盛ん。ガウディ―が有名だが当時はドメニクムンタネールの方が評価されていた。

<カサ・バトリョ、ガウディ作>

バトリョ邸

近代建築

現在国内外の建築家により近代建築が多く作られている。スペイン人ではサンティアゴ・カラトラーバやラファエル・モネオ、カナダ人フランクオーゲイリー(グッゲンハイム美術館)、フランス人のジャンヌーベル(ソフィア王妃芸術センター増築部分)等これはこれで又一つの記事として扱いたいくらい厚い層のあるテーマです。

<ビルバオ・グッゲンハイム美術館>

ビルバオグッゲンハイム

 

*スペインの歴史を5分で読めます

 スペインの歴史ダイジェスト版

まとめ

長い歴史の中で人間が残してきた建築を見るのが好きなので移り変わりをまとめてみました。石の文化で乾燥した空気等の好条件のもと(地震や台風が無いのも)ヨーロッパには本物の古い建築が残っていて肌感覚でこれらを楽しめるのはうらやましい限りです。素敵な建築の中にいるだけでブルッと嬉しい鳥肌になります。

スペイン語がこんなに沢山日本語に!<日本語になっているスペイン語をまとめてみました>

 

 

普段何気なく使っている日本語に実は沢山のスペイン語があります。「エー―これも~?」と思うよう様な単語もあって日本とスペインのつながりの長さに「ジ~ン」と来るのは私だけでしょうか。中国にいたポルトカル商人が台風の風に流され種子島に偶然やって来て鉄砲が伝来し(1543年)その後フランシスコザビエルが鹿児島にやって来てキリスト教が伝わったのが1549年。イエズス会の宣教師たちはキリスト教が禁止された後も隠れキリシタン達にミサをあげるために命がけで五島列島に潜伏しました。1582年九州からキリシタン大名の遣いとして4人の少年たちがイエズス会の宣教師によってヨーロッパに派遣されました。これが「天正遣欧少年使節団」。その後1614年江戸時代には伊達藩の遣い「慶弔使節団」が日本からスペインにやって来ています。遠い国ですが私たちお付き合い長いんです。日本語の中のスペイン語ポルトガル語をまとめてみました。

 

 

カルタ Carta

カードの事をスペイン語でカルタ。もうあまりしないかもしれませんがカルタ遊びのカルタ

カパ Capa>>カッパ

雨合羽(アマガッパ)なんて言葉はもう死後でしょうか。マント、表面にかぶせるもの。闘牛師の肩に掛ける布もスペイン語でカパ

マール Mar>>丸

海の事をスペイン語でマール。船に「にっぽん」「カイリン」等とつけるはスペイン語の海から。

パン   pan

これは意外と思う方多いんですがスペイン語でパンパンです。パン屋さんのパン。菓子パンパン

メディアス Medias>>メリヤス

編んだもの、伸び縮みする布地。ストッキングをスペイン語でメディアス。これが日本でメリヤスという言葉になる

イニエスタ Hiniesta>>エニシダ

春に黄色い花を咲かせる植物日本でエニシダと呼んでいる物をスペン語でイニエスタ。バルサのサッカー選手の名前です。イニエスタがなまってエニシダと呼ばれる。同じ植物をレタマRetamaとも呼びこちらは連玉と言われた。

タバコ Tabaco

コロンブスが新大陸に到着した時のお土産だったのがタバコ。スペインに持ち帰ってバルセロナから上陸したのでヨーロッパで最初にタバコを吸ったのはバルセロナの人達。その後日本に伝わったのでスペイン語でもタバコ。

カスティーリア Castilla >>カステラ

カスティーリア又はカスティージャはスペインの地域の名前。当時のスペイン大航海時代のカスティーリア王国の時代に日本にキリスト教が伝わった。スペインではビスコッチョというお菓子をカスティーリアのお菓子ですと紹介したのがカステラになったと言われている。

オジャ Olla>>おじや

オジャはスペイン語で鍋の事で今でも使う言葉。日本で鍋の後にお米を入れておじやにしますね。これもスペイン語からの借用です。意外ですね。

リアス Rias>>リアス式

スペイン北西部ガリシア地方にリアス・アルタス、リアス・バイシャスという入り組んだ海岸線がある。このリアスが日本語のリアス式海岸という言葉になった。

ボトン boton >>ボタン

ボトンはスペイン語で洋服に着けるボタンや機械にあるボタン。

ビドゥリオ VIdrio>>ビードロ

江戸時代にガラスでできた小さなおもちゃをビードロと呼んだ。口で吹くと音が鳴る。ビドゥリオはスペイン語でガラスの事。ポルトガル語でVidroビドロなのでこちらが近い。

ハボン Jabon >>シャボン

ハボンはスペイン語で石鹸の事。シャボン玉のシャボンです。ポルトガル語でシャボンなのでポルトガルからですね。

カラメロ Caramelo >>カラメル(キャラメル)

キャンディーの事をスペイン語一般名詞でカラメロという。カラメルソースとかキャラメル

コンフェイトウ Confeito>>コンペイトウ

ポルトガル語です。今もある砂糖菓子の事。

コパ copa >>コップ

英語のカップより先にこちらが到着している。スペイン語でコパcopaポルトガル語でコポcopo。

オンブロ Hombro>>おんぶ

オンブロはスペイン語で肩の事。ポルトガル語もombro。おんぶに抱っこのおんぶ

オチョ Ocho>>おいちょ

オチョはスペイン語で数字の8、ポルトガル語でオイトOito 。おいちょカブというゲームの名前になる。

バテイラ /バテリアBatera /Bateroa>>バッテラ

ポルトガル語で船、船団の事をバテイラ、スペイン語でバテリア。舟形に入れて作るからバッテラ寿司になった。

ボーロ Bolo >>ボーロ

ポルトガル語で丸いもの。日本に行って~ボーロという名前のお菓子に使う。

クルス Cruz>> 久留主、来栖

クルスはスペイン語で十字架の事。ポルトガル語も同じ。九州にクルスという苗字や長崎にある黒須島(クロス島)はこの十字架というスペイン語から。

アランビーケ Alambique>>蘭引

蒸留酒を作る器具。イスラム学者が発明した蒸留器具アランビックがスペイン・ポルトガルへ入りアランビーケとなり日本では江戸時代に薬油やアルコール類の蒸留に使った。

まとめ

まだまだいっぱいあって約400語位のスペイン語からの外来語があると言われています。ピンキリはピンタとキリスト、襦袢はポルトガル語の下着、水やりに使うジョーロ天ぷらもポルトガル語からと言われるが正確には不明でいくつかの説があるようです。使ったことないですが「なに~このアマ~」のAmaもスペイン語、ポルトガル語で家にいる女性や乳母等の事。主婦をama de casaアマ・デ・カサと今でも使う。鎖国の後オランダ人がやって来るのでその後オランダ語由来の外来語が増えていきます。私たちは知らないうちに実は沢山のスペイン語を使っていました。

最近では車の名前やマンションの名前オーディオ製品などにもスペイン語が良く使われていてプラサ(広場)やカーサ(家)は良く使われます。ディーガ(言って下さい)はDVDレコーダーの名前。日本車の名前は聞きなれたものが沢山です。シーマ(頂上)ファミリア(家族)スープラ(超越した)トゥルエノ(雷鳴)セレナ(穏やかな)プリメラ(一番目の)プレミオ(優れた賞)セリカ(天空)セフィーロ(西風)等。意外と身近にたくさんスペイン語があります。

アメリカの地名になっているスペイン語の記事

https://tabispain.com/spanish-name-of-city-ameria

スペイン旅行するなら注意が必要な<スペイン人の困ったところ>

どこの国にも良い人も悪い人も好きな部分も嫌いな事もあって色々な面があるのも承知で「ったくスペイン人って」と思うことがある。仕方ないと諦めながら時々「エー違うでしょ、それ」をちょっとまとめてみました。スペイン旅行するなら注意するべきスペイン人の困ったところです。日本に住んでいる外国人の「ったく日本人って」が知りたい。

スペイン人って


人によって答えが違う

まずはスペイン旅行中一番遭遇するのが「道を聞く」ではないでしょうか?これに注意が必要。街で道に迷って人に尋ねるときは最低3人は聞いたほうが良い。知らなくても教えてくれるし、間違ってるとは思わないので自信たっぷりに行き方を教えてくれる。次の人に聞いたら全然違う方向を教えてくれたりする。なのでもう1人聞いてみるべき。3人目も違ったらもう1人聞いて多数決にするしかない。

 

 

道を尋ねる位ならいいのですが生活していると労働許可証の更新や税務署への申告など猥雑な事務処理をやらなくてはならない。それさえ人によって違うことを言われるのでせっかく作った書類の形式が違ったり並んだ列が間違ってたり本当にこれは住んでいて困る。

会話の途中で話し始める

「人の話は最後まで聞きましょう」と思っているスペイン人は1人もいないんだと思う。テレビの討論会なんて司会者も含めて何が何だかわからないくらいみんな同時に議論している。複数の相手の話を聞きながら話す力は聖徳太子なみ。

スペイン語と日本語の構造もあってスペイン語は最初に動詞や否定形が来るので初めの方を聞けば大体相手の意見が想像できる。日本語は最後まで聞かないと何が何やら全く分からない。動詞は最後だし否定形も最後なので否定文かどうかさえ最後まで聞かないとわからない。

一度スペイン人が話し始めて全員の日本人が黙って聞いていたらスペイン人が黙ったことがある。「えっ?」「なんで黙るの」「黙られると聞いてないみたいで不安になる」そうです。

街を歩いてスペイン人同士が話しているのを注意して観察してみてください。2人いたら2人とも同時に話しています。3人でもたいてい同時に話しているのに会話が成り立っているのが凄いです。

自己主張が無茶苦茶凄い

これはほかのヨーロッパ人もそうだと思いますが絶対自分が正しく自分の主張を曲げない。正当性をどこまでも追及する。折り合いをつけるとか妥協するとか適当なところでまあまあ~が無い。なるべく対立を避けてなあなあになんてしない。小さな子供でもしっかり自分の欲しい物がわかっていて親に対して主張するしテレビの街頭インタビューなんて延々と話してる。相手に合わせることが無いので日本だと「空気が読めない人」扱いされる人がどっさりなのがスペイン。注意するほどでもないですが議論は絶対勝ち目なし。

信じてはいけない

これも注意が必要。日本はいいなあと思う事はこれ。小さな商店で何か注文してもちゃんと指定した日に来ているし誰かに何かを頼んだらその通りに出来ているのが普通だから。スペインではそうはいかない。車の修理を頼んでも予定通りに終わっていないし連絡もないので出かけようと思っていた時に車が使えないとか。

以前家のペンキ塗りを頼んだ時に決めた時間に家で待っていたけど結局永遠に現れなくてまた別の業者に頼んだ事があった。私の1日どうしてくれる。

まずはできないことを想定して事を進めるべし。ちゃんとした人もいっぱいいるけど基本知らないところで何かを頼んだらまずは信じない事。

No pasa nada とValeの使い方が間違っている。

気にしなければいい。そう自分に言い聞かせて暮らしてきたけど、時々「えっ?」と思うことがある。No pasa nada は「何でもないよ」とか「大丈夫」みたいな意味。相手が遅れてきたときにこちらがNo pasa nada なら別に何も言わないんです。遅れてきた側の人がNo pasa nada というのがスペイン。以前本当にあったのが横断歩道の歩行者がいるので車をブレーキを踏んで止めたら後ろの車はアクセル踏んできて(スペインでは信号黄色は多くの場合アクセル)コツンとぶつかった。車から双方降りて私の車のあてたところを見ながら相手はNo pasa nada! 違うでしょ~。地下鉄で足を踏まれたとき「ウィッ」と言ったら踏んだ人がNo pasa nada といったこともあったなあ。

valeの方は「オッケー」とか「いいよ」みたいな意味でカジュアルな表現。これも「ちょっと待てよ」と思う場面が良くある。バス停でバスを待っていた私。後から杖をついた年配の女性が来たのでどうぞお先にと譲ったときに「vale」と言われると心の中で「valeじゃなくてgraciasでしょッ」とつぶやく。あちこちでケンカにならないのはスペイン人的に問題ないからで心が狭いのは私なんだと思いますが。


まとめ

以上スペイン旅行で注意が必要な「スペイン人の困ったところ」をまとめてみました。スペインでも地域によっても違うでしょうね。これがローカルルールなのでケンカにもならず日常生活がすごされる。良い面も沢山あってスペイン大好きで住んでいますが日本人的に違うなと何年たっても思うことをまとめてみました。基本こういう時は怒らずに諦めるか笑うことにして自分を保っています。そうNo pasa nada(何でもない)とつぶやきながら。

カトリック両王のスペイン統一、イサベルとフェルナンドの結婚

 

カトリック両王と呼ばれるイサベルとフェルナンドが結婚する事でスペインは統一される。スペインは元はいくつかの小さな国家がレコンキスタと王様達の結婚で合併していった。約500年前にイサベル女王とフェルナンド王の結婚により今の統一国家という概念が出来る。

統一前のスペインの国々


カスティーリア王国

711年にイスラム教徒がやって来てビシゴート王国が崩壊後、北部アストゥリアス地方の山岳地帯に逃げていたキリスト教徒が初めての勝利を得た。これが「722年コバドンガの戦い」という最初のキリスト教徒の勝利。フランスからも沢山の騎士がやって来て戦った。戦争をしながらキリスト教徒達が国を広げてアストゥリアス王国建国、今のスペイン君主国の始まりだ。

<アストゥリアスにあるコバドンガ>

コバドンガ

イスラム教徒と戦いながらキリスト教徒の中心は少し南に降りてレオン王国ができる。もともとはレオン王国がイスラム教徒との砦としてひとつの伯爵を置いたのがカスティーリア王国の始まり。10世紀レオン王国が弱体化したときに主従関係を断ち切って独立伯領となる。1035年キリスト教徒が沢山入植してきて勢力が拡大しカスティーリア王国になりレオン王国と婚姻関係を持ちカスティーリア・レオン王国となる。

<1210年のイベリア半島>

1210年スペインの地図
wikipedia CC
Source Own work
Author Alexandre Vigo

当時フランスとスペインの国境の両側にナバーラ王国があった。いったんカスティーリアはナバーラに併合されるがサンチョ大王の死後カスティーリア・レオンは独立しアルフォンソ6世の時にトレドを陥落させる。

<トレド>

トレド全景

この頃はまだあまり十字軍的な意味合いはなくアルフォンソ6世はイスラム教徒ユダヤ教徒キリスト教徒三つの宗教の皇帝と呼ばれていた。異教徒も積極的に活躍できる政策で人々は宗教に関係なく寛容に暮らしていた。

<アルフォンソ6世のトレド入場>

アルフォンソ6世のトレド奪回
wikipedia CC
Source Own work
Author CarlosVdeHabsburgo
カタルーニャ

フランク王国のカール大帝はイスラム教徒をバルセロナから追い出し今のカタルーニャ一帯はフランク王国の中に組み入れられる。フランク王国は南仏のナルボンヌからバルセロナに至るあたりを16の伯爵地として統治しイスパニア辺境区と呼ぶ。その一つが今のバルセロのバルセロナ伯爵。

986年この辺境区の中心バルセロナ伯が結束を呼びかけフランク王国から独立。これが今のカタルーニャの歴史的起源。地中海に向けて港があり交易が盛んだったカタラン人たちはまるで冒険者たちの様に自由に勇敢に海を渡って地中海を渡り外国へ行って商売をしていた。伯爵から自分たちの権利を取り付けその代わりに忠誠を誓う立派な独立国家だった。

<カタルーニャの議会>

カタルーニャのコルテス

アラゴン王国

ピレネー山脈ハカでイスラム教徒を退治した住民たちが結束しアラゴン伯領が誕生。その後1035年ラミロ1世がアラゴン王国を築く。さらに勢力は南へ進軍し当時のイスラム教徒の拠点の一つサラゴサを制圧した。アラゴンは後にカタルーニャと併合するが今もアラゴン人とカタラン人は仲が悪い。

アラゴン・カタルーニャ連合王国

バルセロナ伯爵ラモン・ベレンゲール隣国アラゴンの王女と婚約してアラゴン王位を継承。ちなみにこの時ラモン・ベレンゲールは23歳、王女は3歳。この2人の結婚によりアラゴン・カタルーニャ連合王国が誕生。

<ラモンゲレンゲールとペトロニーナ>

ラモンバランゲーとペトロニーナ

 

地中海への勢力拡大を積極的に進めハイメ1世の時に地中海のマヨルカ島とイビサ島さらにバレンシア王国を手に入れる。13世紀にはシチリア王国の内乱を契機にシチリア王位につきサルディーニャ島や南イタリア・ナポリ王国も征服。カタルーニャ人たちはもともと商人。この地中海征服を利用し貿易をして各地に商務官を置いて経済活動を広げながら地中海一帯を勢力範囲として活躍する。

カスティーリア王女イサベル(1451年~1504年)


「スペイン建国の母」と言われるイサベル女王は父カスティーリア王ホアン2世の2番目の妻(ポルトガル王女)の長女。父が他界すると兄(父王ホアン2世の最初の結婚の息子)が国王エンリケ4世として即位するがイサベルと弟のアルフォンソは母とともに追放され惨めな時代を生きる。

<イサベル女王>

イサベル女王

 

この兄王エンリケ4世は不能王という不名誉なあだ名があってどうやら女性と関係が持てない。特に高貴な女性と・・・。ところが王妃(ポルトガル王女)が突然ご懐妊。父親は国王エンリケ4世では無いという疑惑の中王位継承問題が生じる。

<エンリケ4世>

エンリケ4世
De Desconocido – web, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2261931

イサベル女王の弟アルフォンソに王位継承権をと担ぎ出されるがひとつの国に2人の君主がいる状態で内乱になり、戦争の途中あっけなくアルフォンソが死亡。王位継承権はイサベルにわたるがイサベルは「兄がいる間は兄が国王である。だたその娘の出生に疑問があるなら自身がその次の王位継承者」と明確に宣言。これなんとイサベル17歳の時の言葉です。

アラゴン王子フェルナンド(1452年~1516年)


アラゴンの山の中ソス・デ・レイ・カトリコという町がある。今はお城がパラドール(国営ホテル)になっているがイメージ的には片田舎。アラゴン王子フェルナンドとしてそこで誕生。母は父王の2度目の結婚の王妃でカスティーリア貴族の娘。9歳の時に異母兄が死去しフェルナンドはアラゴン王国の正当な王位継承者になる。父親からシチリア王位を継承。父王を補佐しながらフランスと対抗。マッキャベリの君主論に名前が出てくるほどの冷血で冷静な君主。

<フェルナンド2世>

フェルナンド王

イサベルとフェルナンドの結婚

1469年カスティーリア王国のイサベル王女とアラゴン王国のフェルナンド皇太子が結婚。この結婚は秘密裏に行われた。国内での反対勢力もありイサベルの兄カスティーリア王エンリケ4世にも内密にひっそりとバジャドリッドの貴族の館で執り行われた。

<イサベルとフェルナンドの婚礼>

カトリック両王の結婚

今のように写真があるわけでもなく先に密偵は送られていたようだがこの結婚式で2人は初めて出会う。イサベル18歳フェルナンド17歳。フェルナンドはなかなかのいい男でイサベルは美人だったので若い2人はひかれあった…かも。

1474年カスティーリア王エンリケ4世が亡くなるとイサベルは王位継承権を主張。兄王の娘(出生に謎の有るホアナ)の即位を画策する新ポルトガル勢力を駆使しイサベル女王戴冠(1479年)。セゴビアのマヨール広場近くにあるサンミゲール教会にて戴冠しサベルはカスティーリア王国女王となる。

<イサベルの戴冠>

イサベル女王戴冠

同じ年アラゴンではフェルナンドの父王ホアン2世が死去。これでフェルナンドはアラゴン・カタルーニャの王となる。

これでカスティーリアとアラゴン・カタルーニャの共同統治が始まりかつてない強大な勢力がイベリア半島に誕生した。

カトリック両王の政策


異教徒追放

イサベルとフェルナンドが行ったことはまず国内キリスト教勢力をまとめる為コンベルソと言われる改宗ユダヤ教徒を弾圧する異端審問所が作られた。1480年から1516年までに6000人のユダヤ人が火あぶりの刑にあったと言われる。宗教的な統一という名目のもとユダヤ人の財産狙いだったに違いない。

グラナダ陥落戦

もう一つがグラナダへの軍事攻勢。1481年イベリア半島に残るイスラム王朝グラナダ王国へ攻撃を始めた。ロンダが14885年マラガは1487年に陥落。特にマラガは重要な港だった。のど元を抑えられながらグラナダは1年半の籠城戦のあと降伏した。

<グラナダの陥落>



1492年1月2日グラナダ王国アルハンブラ宮殿にイサベル・フェルナンド両王が入場した。800年近く続いたレコンキスタの終了。

コロンブスへの援助

グラナダ陥落の同じ年コロンブスイサベル女王から援助を手に入れる。陥落したアルハンブラ宮殿で宝石箱をプレゼントされそれをお金に換えて船の準備の一部を賄い西回り航海へ出発していく。

<コロンブスの新大陸到着>

コロンブスのアメリカ到着

フェルナンド王はコロンブスの事を快く思っておらずイサベル女王亡きあとはフェルナンド王はコロンブスとの約束事を反古にし惨めな対応を受け牢獄に繋がれる。

 

スペイン人ローマ法王アレキサンドル6世

1492年法王選挙でスペイン人ローマ法王が選ばれる。有名なボルジア家出身ローマ法王アレキサンドル6世はこの2人の偉業をたたえて1496年にカトリック両王という称号を与えた。

*話はそれますが、このローマ法王の息子がチェーザレ・ボルジアというイケメンの軍人、娘がルクレチア・ボルジアという絶世の美女。(ローマ法王に愛人がいて子供がいたんです!)

ローマ法王はカトリック世界のトップ。今も法王は選挙で選ばれるがこの選挙権を持つ位を枢機卿と呼ぶ。アレキサンドル6世は枢機卿にお金をばら撒いて法王の地位を手に入れた人物。が、それも当時では珍しい事ではなく宗教の世界とはいえ権力を手に入れる為権謀術数が渦巻くドロドロの状態のカトリック世界だった。そこでトップに立つにはそれなりのカリスマ性が有ったに違いない。

<ローマ法王アレキサンダー6世>

アレキサンダー6世

トルデシージャス条約

もともと1481年ローマ法王シクストゥス4世の時にカナリアス諸島以南の新領土はポルトガルに与えると決まっていた。その後スペイン出身のローマ法王アレキサンドル6世はこれを変更させポルトガルと揉めていた。新世界における両国の紛争を解決するために1494年スペインのカスティーリアにあるトルデシージャスで会議を開き地球に線引きをした。(ほかの国に許可も無くです)

<トルデシージャス条約条文>

トルデシージャス条約
By Biblioteca Nacional de Lisboa, photos probably taken by User:Joserebelo, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=472983

西アフリカのセネガル沖に浮かぶカボ・ベルデ諸島の370リーグ(1770キロメートル)の海上に縦に線を引きそれから東側に将来発見されたらポルトガル領土西側だったらスペイン領土と決まる。1506年ローマ法王ユリウス2世によって廃止される。

次の時代へ

ルネッサンスにより技術は既に進歩していた。進んだ科学はイスラム教徒により継承され昇華されている。羅針盤、天球儀、印刷術等ヨーロッパにイスラム圏を通り伝わった。いよいよカトリック両王の婚姻政策と大航海時代でスペインは大帝国になる準備は整った。日の沈む事なき大帝国の時代がやって来た。

 

レコンキスタの開始<トレドの陥落からアルハンブラの開城>までのスペインの歴史

711年にジブラルタル海峡からイスラム教徒がスペインに入って来る。招いたのは西ゴート貴族、実は王の腹心。晩年の西ゴート王国は腐敗と混乱の中、周りの貴族たちは国王を見捨て裏切った、そして裏切った貴族たちも無事では済まなかった。ついに西ゴート王国の首都トレドは陥落し王国は崩壊した。その日の夜中、トレドから持てるだけの財宝を持って馬で逃げた集団がいた。彼らは西ゴートの王の血を引く貴族達。スペイン北部の山岳地帯まで行きイスラム教徒と戦って小さな領土を手に入れ国を建国、そこからイスラム教徒への反撃を開始した。これがレコンキスタ=国土再征服の戦争。1492年にグラナダ王国が滅びるまでのレコンキスタの歴史記事です。

 

レコンキスタの開始

トレドがイスラム教徒によって陥落したとき王族貴族達の一部は馬に乗って持てるだけの宝物や聖遺物を持って北へ北へと逃げていった。スペインの北西部のアストゥリアス地方からフランスとの国境にあるバスク地方にかけての山岳地帯は今も険しい切り立った山が続く。冬は雪に閉ざされ作物もあまり取れない地域だ。

 

 

<アストゥリアスの山岳部>

カーレスのルート

 

不毛な地帯で険しい山岳部なのでイスラム教徒たちもあまり興味もなかったに違いない。(この時トレドから持って逃げた聖遺物や宝石が今もアストゥリアス首都オビエドの大聖堂のカマラ・サンタに保存されています。)

<アストゥリアス・オビエド大聖堂の中カマラサンタ>

オビエド・カマラサンタ

コバドンガの戦い・ペラヨ

スペインの歴史上重要な戦争、722年この山の中「コバドンガ」でキリスト教徒が初めて勝利を手に入れた戦いがコバドンガの戦い。レコンキスタの始まりです。

コバドンガにあるペラヨ像

この時のリーダーがペラヨペラヨはトレド陥落の時に逃れた王族の血をひくと言われるが詳細は分かっていない。勝利したキリスト教徒たちはペラヨを王に選びアストゥリアス王国を建国。これが最初のキリスト教国家で今のスペインの基礎。今もスペインの皇太子はアストゥリアス皇太子と呼ばれる。(イギリスの皇太子をウェールズ皇太子と呼ぶように)ここからスペインの歴史で需要なレコンキスタが始まる。

<コバドンガ>

コバドンガ

 

722年のコバドンガの戦いは西ゴート王国崩壊後たったの11年後にキリスト教徒が初めてイスラム教徒に勝った戦争。コバドンガに行くと険しい山の中に洞窟<サンタクエバ>がありそこにペラヨは今も埋葬されている。

<サンタクエバ、向こうにバシリカが見える>

サンタクエバ

アストゥリアスはキリスト教君主国スペイン発祥の地

722年アストゥリアス王国が建国される。今のスペイン君主国のもとになった国が出来た。アストゥリアスの人たちは長身で金髪に碧眼が多い。ビシゴートの末裔ゲルマンの血を引くからなのです。今のスペイン王妃(超美人)レティシアさんもアストゥリアスの出身。

 

フランク王国とサンティアゴの遺体の発見

丁度このころ今のフランスではフランク王国のメロビング朝宮宰カールマルテルがツールポワチエでイスラム教徒を撃退しその名声を高めた。

 

その息子がピピン3世として即位。フランク王国の国王になれたのはローマ法王(ステファヌ3世)の協力のお蔭なので見返りにラベンナを奪いのその土地をローマ法王に献上した(ピピンの寄進)これがローマ法王領の始まり。

その息子カール大帝が800年西ローマ皇帝に戴冠。その3年後スペインの北西の端で聖ヤコブの遺体が発見される。

聖ヤコブはスペイン語でサンチアゴ

聖ヤコブはキリストの12弟子のひとり。イベリア半島に布教にやって来ていたという伝説は古くからあった。エルサレムに戻った折にヘロデオ・アグリッパ王によって首を切られて処刑された。聖ヤコブの弟子たちが遺体を石の船に乗せて行先は風の向くまま旅に出た。その船がスペインのガリシアに着いたらしい。そしてその遺体が発見されたのが813年。大切に遺体を埋葬して教会を創ったら奇跡が起こった。山の中でイスラム教徒と戦っているキリスト教徒を助けに白い馬に乗った聖ヤコブが応戦してくれたのだ。

これは偶然ではなく政治と宗教が後ろにあったに違いない。

<白い馬に乗って戦う聖ヤコブ>

聖ヤコブ

スペインの歴史上重要なレコンキスタの始まり

「コンキスタール」は征服するという意味のスペイン語。これに「レ」再びという言葉をつけて「レコンキスタ」。国土再征服運動の始まり。聖ヤコブの力を借りながら「あなたが戦争で異教徒と戦って死んでしまうかもしれません。でも魂は間違いなく天国に行けますから」と聖戦が行われた。

周りの小さなキリスト教徒勢力を少しづつ併合し首都は山の中から次第に南へ移動。カンガスデオニスに宮廷が置かれさらにオビエドへ移動。

アストゥリアス地図

 

次第にレコンキスタが進み首都はレオンに。王様の結婚などでアストゥリアス王国はレオン王国となる。さらにカスティーリア王国との結婚や遺産分割によりレオンはカスティーリアに併合されカスティーリア・レオン王国となる。

この頃南スペインはコルドバカリフ王国

シリアで革命が有りウマイヤ家の王子がはるばるスペインのコルドバまで逃げて来た。そして後期ウマイヤ朝が始まりコルドバの街にはモスクや大学、図書館が作られ人口が増え学者が集まり繁栄を極めていた。世界遺産メスキータはこの時代に創られた。

<コルドバ・メスキータ内部>

コルドバ、メスキータ

コルドバカリフ王国の記事はこちらです。別のウインドウで開きます。     <後期ウマイヤ朝。コルドバカリフ王国の繁栄>

再びトレドはキリスト教徒の手に

歴史を振り返って永遠に続いた帝国はひとつもない。そして内部からの亀裂が崩壊に向かっていく。豊かなコルドバ王国は繁栄し紀元1000年にこれほどの栄華を極めた街は他に無かった。しかし世の常、権力者の欲望と裏切り、内部紛争もあり11031年に後期ウマイヤ朝が崩壊する。

 

これがキリスト教徒たちに追い風となった。レコンキスタは進んでいきアルフォンソ6世率いるキリスト教徒軍が1085年にトレドを奪い返す。

<アルフォンソ6世のトレド奪回>

アルフォンソ6世のトレド奪回
wikipedia CC
Source Own work
Author CarlosVdeHabsburgo

<トレドの街>

トレド

トレドを奪い返したカスティーリア国王アルフォンソ6世に2人の娘がいた。それぞれをレコンキスタで戦った勇敢な騎士と結婚させ土地を封土する。1人にカスティーリア王国を与え、もう1人は少し離れたイベリア半島西の端の方の土地を与えた。名前がポルト、そして川の対岸の街がカーレ。このふたつの名前がひっついてポルトカーレと呼ばれるようになる。これがポルトガルの始まりとなる。 

アルフォンソ6世

アルフォンソ6世の時代はイスラム教徒たちも税金さえ払えばイスラム教徒として生活することが許されていた、または現実路線を取る人達はキリスト教徒に改宗し優遇されていた。コルドバから沢山の知識階級のイスラム教徒たちがトレドに集まり次第にトレドは当時のヨーロッパ随一の学問の都になって行く。ユダヤ教徒やイスラム教徒などの豊かな技術と知識、金融とネットワークをうまく利用した政策が取られていた。

最後の砦グラナダ王国アルハンブラ宮殿

キリスト教徒たちがさらにレコンキスタを進め南下していき1212年のハエンのナバス・デ・トロサの戦いで圧勝。これが天下分け目の合戦となりキリスト教徒が力をつけ勢い付く。イスラム勢力は内紛と裏切りの中セビージャは1248年に陥落。

最後に残ったイスラム王朝がグラナダ王国。ハエンの領主がやってきてグラナダに王国を作り何世代もの王たちが不規則な地形を整備して宮殿を作った。

<アルハンブラ宮殿>

アルハンブラ、コマレス宮

スペインに残った最後のアラブ王朝の宮殿がアルハンブラ宮殿。1492年にカスティーリア王国イサベル女王率いるキリスト教徒軍により陥落するまでヨーロッパに残った最後のイスラム王朝です。奇跡ともいわれる存続で周りはキリスト教徒に囲まれ税金を払い裏切りや嫉妬が渦巻く宮殿の中では千一夜物語が続いていた。

アルハンブラ宮殿についての記事です。別のウィンドウで開きます。      <アルハンブラ宮殿グラナダ王国<イスラム建築の最高芸術>

1492年1月2日最後のアラブの王は無血開城を選び一族郎党を引き連れシエラネバダの与えられた土地を好まずモロッコへ逃げていった。グラナダの陥落でレコンキスタは終了しスペインはこの後大帝国へとなって行く。

 

イスラム教の歴史まとめ、ウマイヤ朝が始まりスンニー派とシーア派はここから揉め始めるんです。

イスラム教は比較的新しい宗教で創始者モハメッドが生まれたのが紀元後570年頃日本は奈良時代。イスラム教があっという間に伝搬していったなかでスンニー派とシーア派に分裂する。今もイスラム圏の多くの紛争はスンニー派とシーア派の宗派の違いによるところが多い。このブログのテーマはスペインですがスペインはほかのヨーロッパと違うのがイスラム支配を700年以上受けている。スペインの歴史を知るために少しだけイスラム教の始まりとシーア派とスンニー派に分かれウマイヤ朝が始まる歴史をまとめました。

 

モハメッドの誕生

イスラム教の創始者モハメッドは今のサウジアラビアのメッカで生まれた商人だった。現在サウジアラビアのメッカはイスラム教徒の最大の巡礼地となっている。日本語で使う「新婚旅行のメッカ」とか「山歩きのメッカ」などはここからきている言葉。

 

モハメッドは読み書きができなかったと言われているが非常に誠実で真面目な人格者だったようだ。

イスラム教の重要な教えの中に偶像崇拝の禁止があるため絵画などにモハメッドの肖像画が残っていないのは残念。

<巡礼者達であふれるのメッカ・カーバ神殿のまわり>

メッカカーバ神殿
wikipedia CC
Source Al-Haram mosque
Author Al Jazeera English
イスラム教の始まり

モハメッドは40歳超えたころ610年ころに大天使ガブリエルを通して神の声を聴いて唯一神を唱えた。神からの啓示はそれから23年間も続きその時に神から授かった啓示がコーランにまとめられている。

突然40歳を超えた大人が神の声を聴いたと言っても誰も信じてくれない。大変な迫害を受けたので622年420キロ離れたメディナに移住した。(その時のお弟子さんの数が150人イエスキリストは最初12人いや11人。)ジハードという聖戦を続けメッカを征服する頃には1万人もの人が従った。

メディナはイスラム教徒の第2の聖地。予言者のモスクはモハメッドが最初に建てたモスクであり住居でありイスラム共同体の本部にあたるところ。今スペインの企業がメッカからメディナに新幹線の工事をやっている。

<メディナの予言者のモスク>

wikipedia CC
Source Own work
Author Noumenon

モハメッドの死後

問題の始まりは632年モハメッドは後継者を決めずに亡くなってしまったことから始まる。(経営者の方は後継者選びちゃんとしましょう)イスラム教の信者の共同体はその代表を決める必要に迫られるが派閥がありうまく調整ができない。内々に決めるには組織が巨大すぎたのだ。

当時ウンマ(信徒共同体)には3つの派閥①モハメッドとメッカからメディナ一緒に移住した最古参。②メディナでモハメッドに援助したもの③最初はモハメッドに反抗したが後改宗したメッカの有力者ウマイヤ家

 

混乱に陥った共同体は崩壊を避けようという意見だけは何とかまとまり人選を始める

アブーバクル

最古参でモハメッドの妻アイーシャの父親アブーバクルが選ばれる。「モハメッドが最後の預言者、彼以降は預言者はいない」ことになっているのでアブーバクルはモハメッドの代理人ハリーファとされる。カリフという言葉はこれがなまったもの。(預言者というと予言者と紛らわしいですが予言する人ではなくて神の言葉を聞く人、それを伝えることが出来る人という意味です。)

ウマルその後ウスマーン(ウスマーンはウマイヤ家)

アブーバクルのあとウマルがカリフを継承。ウマルアブーバクルの親友。ウマルの時代にイスラム勢力はエジプトにまで拡大している。大きくなりまとまりが亡くなって来ていた。ウマルのあとにウマイヤ家ウスマーン。彼はウマイヤ家の一門を重用しすぎたようで嫌われて656年に暗殺される。

 

アリーの暗殺

4代目にアリーがカリフになる。ここからが大変。アリーはモハメッドの従妹で娘婿。しかしアリーは3代目のカリフ・ウマイヤ家のウスマーンの暗殺に関わっていたとして661年暗殺される。その後大混乱の中教団の総意でカリフは出なかったのでこの4代目カリフアリーまでを正統カリフ時代と呼ぶ。

シーア派の始まり

事実上支配者となったウマイヤ家ムアーイヤがその後シリアのダマスカスを首都にウマイヤ朝カリフとなる。ウマイヤ朝が領土を広げ711年にスペインに入って来たイスラム教徒たち。

<750年のウマイヤ朝の領土>

ウマイア朝領土750年
wikipedia
public domain

 

アリーとその血筋のみが正当と主張する人々はウマイヤ家に反抗する。アラビア語で党派をシーアシーア・アリー>アリーを支持する党派という意味。これが省略されシーア派と呼ばれる。彼らは今もムアーイヤ以降を認めていない。すなわちウマイヤ家に敗れた人達をシーア派と呼ぶ。今もシーア派は少数派。

アリーの息子もウマイヤ家に殺される

暗殺されたアリーとファティマ(モハメッドの娘)の間に息子がいた。名前がフセイン。父亡き後シーア派の最高指導者「イマーム」として精力的に布教していたが680年イラク中部のカルバラでウマイヤ家に包囲されて戦死している。このカルバラシーア派の聖地。

現イラクのカルバラのフセインのお墓はシーア派の巡礼地となっていてシーア派の宗教学校やイスラム法学者が集まる学問の中心でもある。

<イラクのカルバラ>

カルバラ
wikipedia CC4.0
Source Own work
Author Taisir Mahdi

毎年イスラム歴(太陰暦なので毎年太陽暦とずれます)1月10日にアシュラーという際礼が行われシーア派の人々はフセインの死を悼み剣を掲げ自分の背中を鎖の束で打ちながら行進をするらしい。1300年も経っているのに今もこの殺害を悼んで自分を傷つけ血を流して男たちはこぶしで胸を打ちながら行進するという事です。

シーア派の考えでは4代目のアリーは預言者モハメッドから初代イマームに任命されていた。イマームというのは聖なる世界と俗界を結んでくれる特別な存在。873年12代イマームがお隠れになりいまだにお隠れ中らしいです。終末直前に最後のイマームが救世主となって再臨しこの世の悪から救済されると信じられています。

イスラム教徒の85パーセントはスンニー派、シーア派は15パーセントと少数派。

アリーの暗殺が紀元後661年なので日本は飛鳥時代。聖徳太子没が622年で三蔵法師がインドに行ったのが629年なので大体その頃のお話です。

ウマイヤ家は革命で倒される

話は戻りその後ウマイヤ家が革命で倒され(750年)アッバース家の時代になる。アッバース家は後に首都をイラクへ移動させイスラム文化の栄華を極める。

倒されたウマイヤ家の正統の血を引く王子がスペインに逃げて来て作ったのが後期ウマイヤ朝・コルドバカリフ王国。代々の王たちがコルドバの街にモスクや図書館、大学を作って繁栄した。

<コルドバのメスキータの内部>

メスキータ コルドバ

コルドバを首都に後期ウマイヤ朝は756年から1031年まで栄華を極めます。「スペインは違う」と言わるのはこの長いイスラム支配がある国だからです。イスラム教徒達は古代のギリシャの文献をアラビア語に訳しインドの数学を自分たちの物にして進んだ先進文明を既に既に築いていた。そしてキリスト教徒の時代になってもイスラム教徒の科学者や学者がカスティーリアの王によって重用されていた時代があった。

 

知らない町で奇跡に救われた件

知らない町で

あの時はある日本の偉い方の同行で「行ったことはあるけど曖昧な記憶」の世界遺産の、でもあまり有名でもない街をご案内する行程になっていた。地図も見つからずとりあえず「エイッ」「気合で何とかなるッ」と歩き始める事にした。

ヨーロッパの街は大体慣れると中心があるので知らなくても何とかなることが多い。たいてい真ん中に教会と市庁舎その周りに寄り添うように人々が集まって町が作られ親鳥に寄り添う小鳥たちみたいだ。

旧市街に入り「どっち向いて歩こうか」って思っているところにお客様の携帯電話が鳴った。どうやら御家族からみたいで旅の事やら家の事やらしばらく会話は終わりそうにない。聞いていると申し訳ないので少し遠慮して離れたところに移動した。

そこに木のベンチがあって広告みたいな紙が折りたたんで置いてある。見逃しても構わないくらいに落ちているのか置いてあるのか。別にどうってこともないけど電話も終わりそうにないし何気にそれを手に取ってみた。

「・・・・・」「うそでしょ」

なんとそれはその街の地図。目を疑うとはこの事で「嘘でしょ」って何回も心の中で叫んだ。

電話は結構な長電話だったのでその間に回り方を決めて見るべきものを確認してまるで良く知っている街のように観光を終えることが出来ました。

これって偶然?それとも奇跡?

その後サンティアゴに行く日だったので「サンティアゴ様有難う~」と大聖堂で感謝のハグしてきました。

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