コルドバ・カリフ王国の繁栄、アッバース革命と後期ウマイヤ朝。

 

スペイン最南端にそこに立つとアフリカが手が届きそうに見える海峡が有る。大西洋と地中海の入り口の海峡の名前はジブラルタル。14キロのジブラルタル海峡を渡ってイスラム教徒がスペインへ入ってきて西ゴート王国が崩壊した。スペインにイスラム教徒の時代がやって来た。アラビア半島ではシリアのウマイヤ朝が勢力を広げて巨大な帝国を作っていた時代。トレドから逃げたキリスト教徒たちは北スペインの山岳地帯で戦いながら小さなキリスト教徒の君主国を作っていた。そんな時代にシリアで革命が起こり一人の王子が逃げて来た、後期ウマイヤ朝・コルドバカリフ王国の始まり。

後期ウマイヤ朝のはじまり

舞台はアラビア半島、今も内戦が続くシリアのダマスカスでアッバース革命が起こり14代続いたウマイヤ朝は倒された。ウマイヤ家はアラビア人優遇政策をとり身内ばかりを贔屓にしてた。不満が爆発し政敵アッバース家が革命を起こした。アッバース朝は後に首都を今のイラク・バグダットに定め東カリフ王国と呼ばれる。

<シリアのウマイヤッドモスク、現存する最古のモスク>

シリア、ウマイヤッドモスク
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Author Jerzy Strzelecki
*アッバース革命

イスラム教の創始者モハメッドが後継者を決めずに死んでしまう事によって当時のイスラム共同体は大混乱に陥る。そんな中ウマイヤ朝が実権を握りシリアのダマスカスを首都にウマイヤ朝が繁栄していた。711年にジブラルタル海峡を渡ってスペインに来た勢力はこのシリアのウマイヤ家からの勢力。661年に成立したウマイヤ家には最初から正当性に疑問があった。そしてウマイヤ家優遇政策を取り特権意識の強いウマイヤ家には敵が多かった。アッバース家は預言者モハメッドの叔父の血筋だがウマイヤ家によって中央政権から外されていた為、不満分子のシーア派と結んでついに革命が起こったのがアッバース革命。

 

 

*シーア派とスンニー派に分かれたところはこちらの記事をご覧ください。別のウインドウで開きます。<ウマイヤ家の始まり。スンニー派とシーア派はここから揉め始める>

ウマイヤ家の王子が逃げてくる

倒されたウマイヤ家の王子がはるばる北アフリカ経由でイベリア半島までやってきた。隠し持った宝石を売りながら助けられたり騙されたりしながらの逃亡劇。アル・アンダルス(南スペイン)のアミールを破り756年独立したアミールとして即位したのがアブ・ドゥラーマン1世。

*アミールはアラビア語で司令官、総督を意味し次第にイスラム世界で王族や貴族の総称になる。後にスペイン語化しアドミラル=司令官という言葉になる。

アブドラーマン1世は緑の目でカリスマ性のあるイケメン王子だったそう。シリアのウマイヤ家の血を継承することからスペイン後期ウマイヤ朝と呼ぶ。ここからスペインでのウマイヤ家によるアル・アンダルスの支配が始まる。

<コルドバの街とメスキータ>

コルドバ、メスキータ
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Author Toni Castillo Quero
メスキータ(スペイン・後期ウマイヤ朝のモスク)

スペイン・後期ウマイヤ朝は宮廷の内紛や陰謀などの続く中250年間コルドバを首都に栄える。その時に作り始め代々のカリフが拡大した回教寺院がメスキータという世界遺産。モスク(回教寺院)の事をスペイン語でメスキータと呼ぶ。

メスキータ内部

コルドバ、メスキータ

メスキータに入ってすぐの最初の部分の柱はローマの遺跡から持って来た柱が使われているので柱一本一本は2000年前の物。天井はオリジナルではなく後の修復再建。

中央部分はキリスト教徒の時代にほとんど柱が取り払われてしまった部分。大変残念ですが今では回教寺院メスキータの中に現役の大聖堂がある不思議な建築物になっている。

<内部の大聖堂聖歌隊席部分>

コルドバ、メスキータ、カテドラル部分
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Author Jan Seifert

奥の方のミヒラーブ(メッカの方向に向かって作られた窪み)には漆喰に美しい文字でコーランの一説が彫刻されていてその周りは唐草模様で飾られている。壁面を規則正しく文字や模様で埋め尽くすためにはユークリッドの幾何学が使われた。数学が発達していないと不可能なのです。

<一番奥のミヒラーブ、ビザンチンの技術者を連れて来て作った>

メスキータ、ミヒラブ

この時代のキリスト教徒の教会に行くと祭壇に新約聖書の物語や聖母マリア・聖人たちが彫刻されている。識字率が低かったので字が読めなくても絵によって、彫刻によって聖書を教えていった。宗教を広めるために絵画や彫刻が必要だった。イスラム世界はそれが許されなかったので識字率が高くなければいけなかった事がわかります。

 

回教寺院は通常異教徒は入れないことがほとんどです。内部がどういう風になっているかを見れる良い機会にもなります。

イスラム教徒は「偶像崇拝の禁止」が重要な教えなので彫刻に人間や動物を創ることが出来ない。コーランの一説(文字)を装飾し、神の言葉なので美しく完璧に。アラビア語で文字が繰り返し彫刻されています。その文字は今と同じアラビア文字なので読むことが出来ます。繰り返し神を称える言葉が視界に入ってくることによって神に近づき祈りは深くなる。

偶像崇拝が禁止なので回教寺院には祭壇はないのがモスク。では何に向かって祈るかというとメッカにあるカーバ神殿に向かって。回教寺院に入るとメッカに向かい祈ることが出来るミヒラーブいう部分がある。そこを美しい装飾で飾った。

*(実際コルドバのメスキータのミヒラーブは少し角度がずれています。もともとあった教会をもとに作った関係上基礎を移動させることが出来なかった様です)今はスマートフォンのアプリでメッカがわかるようになっています。

良く「アニメのメッカ」とか「スポーツのメッカ」とかいう言葉の「メッカ」はここからきています。サウジアラビアにあるイスラム教徒の最大の聖地。巡礼地。

スペイン・後期ウマイヤ朝絶頂期

アブドゥラーマン3世は自らをカリフとして僭称しバグダッドとの主従関係を断ち切り独立したカリフすなわち王となった(929年)。この時代がスペイン・ウマイヤ朝絶頂期。メディーナ・アサーラ宮殿を作りメスキータも増築が進む。次のアルハカム2世の時には貿易も盛んになりイスラム圏とヨーロッパ諸国をつなぐ架け橋となり人と物が移動し繁栄した。

軍事力は強化され北部のキリスト教徒の地域に軍事遠征が行われる。国家収入は商品取引による租税で占められた。都市では絹織物、陶器類、金属製品、武器や紙農産物などが取引された。取引相手は同じイスラム圏だけではなくヨーロッパのキリスト教徒圏も含まれていた。

アルアンダルスからはオリーブ油と織物や手工芸品等が輸出されヨーロッパからは毛皮、金属、武器、奴隷(スラブ人の白人奴隷とスーダンから黒人奴隷)を輸入した。

西方の真珠<コルドバカリフ王国>

人口は50万人モスクや大学、公共浴場、図書館が作られヨーロッパ最高の大学として数学、天文学、医学、化学などの中心だった。メスキータはさらに増築され一度に2万5千人もの人が礼拝できたそう。

<メスキータの塔、現在は大聖堂の鐘楼になっている>

コルドバ、メスキータ、塔
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スペイン・後期ウマイヤ朝はバグダッドに対抗し多くの学者を厚遇を持って受け入れ図書館を作り大学を創り学者を集めた。当時の図書館の蔵書は60万冊と言われている。

キリスト教ヨーロッパにまだこの時代大学はなかった時代ボローニャやパリに大学ができるのが12世紀。。コルドバはヨーロッパ中世の数学、天文学、医学、化学や文学など諸学問の中心地であった。その後約400年間にわたって学問の中心地となる。(レコンキスタのあとキリスト教徒たちによって知識の継承がされていった)西方の真珠と呼ばれた。

次第にキリスト教徒のレコンキスタが進んで1031年コルドバは陥落する。

メスキータは壊されずキリスト教徒の礼拝堂が内部の端の方に創られ日曜日にはキリスト教徒金曜日にはイスラム教徒が礼拝をして仲良く使っていた。

<メスキータ内部の礼拝堂部分>

コルドバ、メスキータ、礼拝堂

陥落後コルドバの学者たちはトレドに呼ばれこの後はキリスト教世界で厚遇され様々な知識がキリスト教世界へ伝わって行った。

 

ウマイヤ朝とアッバース朝、アル・アンダルス

アル・アンダルスは南スペイン全体のイスラム時代の呼び名。「スペインは違う」と言われるのは長いスペインの歴史の中で700年以上にわたるイスラム支配が有った。スペインに711年に入って来たイスラム教徒たちはイベリア半島を短期間に制圧。ローマ時代の橋や幹線道路が半島中に巡らせれていたのでそれらの道路を使いイベリア半島ほぼ掌握する。それらの橋には今も使っている物がある。そして西ゴートの貴族階級は抵抗せずイスラム軍と和解する方を選んだようだ。スペインのイスラム支配時代が始まった。

アル・アンダルースのイスラム支配

当時のシリアは先進地域でイスラム教を広めながら北アフリカを制圧し西ゴートの混乱に乗じてスペインに入って来た。北部の山岳地帯をのぞいてはアル・アンダルスと呼ばれ首都をコルドバに定めた。シリアのダマスカスからの「ウマイヤ朝カリフ」の支配下にはいり総督を派遣しイベリア半島を統治した。カリフはアミールと呼ばれる総督を派遣してイベリア半島を統治させた。

実際は差別のある混合部隊

イスラム教徒と書いているのは実際は民族的にはいろんな種族がやって来ていて共通点は宗教、すなわちイスラム教徒という事だけだった。アル・アンダルスはアラブ人シリア人ベルベル人などの混合部隊によって統治される。その彼らの間も軋轢や紛争があったようで特にシリアのウマイヤ朝アラブ人優遇政策を取ったので貴族や指導者階級はアラブ人でモロッコのベルベル人は山岳地帯や貧しい土地で生活を余儀なくされ格差がその後の確執の種になる。

他宗教にも寛容な政治

キリスト教徒やユダヤ教徒も税金さえ余分に払えば信仰の自由があったので財産を没収されたり戦って命を落とすより和平を選び懐柔されていく。又イスラム教徒に改宗し自由の身になる奴隷もいた。貴族階級にもイスラム教徒と婚姻関係を持ち支配階級に入るものもいたので宗教的にも寛容な時代だった。

 

イスラム教徒にとってユダヤ教もキリスト教も同じ聖典の民なので宗教的な対立はなかった。これが半島の征服を容易にしたと言われる。

トゥール・ポワチエの戦い

この勢力がさらに北へ進軍しピレネー山脈を越えてフランスまで行く。フランスはフランク王国の時代だった。勢い増したイスラム軍は732年トゥール・ポアチエの戦いでカール・マルテルに敗れる。以降イスラム教徒たちはアル・アンダルスに留まった。(カール・マルテルの息子がピピン。ローマ法王によって戴冠しそのお礼に土地をプレゼントしたのが今の法王領の始まり。さらにその息子がカール大帝)

キリスト教徒側では大勝利と歴史に名を残す大戦争になっているがイスラム側に記述では数多く戦った中の珍しく負けた戦争位の感覚だった。私たちが学校で習う世界史は全部ヨーロッパ側から見たもの。歴史は両側から見てみないと本当の理解は難しい。

ダマスカスで革命が起こりウマイヤ朝は倒れる

ウマイヤ朝の首都ダマスカスアッバース家が革命を起こしウマイヤ王朝は倒れた。もともとウマイヤ朝の成立にも不明な点があり不満分子が多かった。(4代目カリフ・アリーの暗殺はウマイヤ家によると言われている。その後ウマイヤ家はダマスカスを首都にウマイヤ朝を作った)アラブ人優遇政策など非アラブのイスラム教徒に対してもキリスト教徒と同じく税金が課せられていた。ムアーウィヤが今までの慣例に反して世襲制を導入。歴代のカリフたちの享楽的な生活などが厳格なイスラム教徒たちの非難の的だった。

アッバース家はイスラム教の始祖モハメッドの叔父の子孫。ウマイヤ朝を倒し新しい王朝が始まる。非アラブ人特にペルシャ人との融合し革命が起こった。アラブ人優遇政策をやめイスラム教徒はみな平等に非課税。ペルシアの進んだ文化と融合。

製紙法が唐から伝わる

話は少しそれますがこのアッバース朝時代中国は唐の玄宗皇帝の時代。領土拡大政策をとっていた唐に侵略されると思った弱小国家タシュケントから支援を頼まれたアッバース朝は唐と戦って大勝しています。この時の中国の捕虜の中に紙漉き職人がいて製紙法が伝わったと言われています。紙が使わることによって後に多くの古代の文献を訳したものを書き移し保存することが出来るようになる。

首都はバグダッドへ

次の時代に首都はダマスカスから今のイラクのバグダッドに移動し人が集まり大いに栄える。100万人とか150万人とかいろんな説があるがとにかく当時にしたら他に無いほどの巨大都市だった。

知恵の館

アッバース朝第2代カリフのアル・マンスール(754-775年)はビザンチンの皇帝に施設を派遣し古代ギリシャの数学の教科書、特にユークリッドの著書を求めている。そのために同じ重さの金を支払ったと伝えられている。

第7代カリフ、アル・マアムーンの時(830年)に知識吸収欲は最高潮となりバグダッドに知恵の館という政府機関を作っている。知恵の家には多数の学者を雇ってビザンチン帝国から求めてきたギリシャ語の文献をまずシリア語に訳しそれをアラビア語に訳した。ギリシャ語からシリア語に訳すのにキリスト教徒が雇われた。

国家権力を使って大規模な翻訳事業が約200年間行われ当時存在したギリシャ語の文献はほとんどアラビア語に訳されたという。訳したものを残すために紙に書くということが必要になる。その紙の製紙法は上記で触れた唐の時代の中国との戦いで手に入れた。

後期ウマイヤ朝(後ウマイヤ朝)

この革命から命からがら逃げたウマイヤ家の人々がいた。親戚筋を頼って隠れたり助けられたりしながらはるばるアル・アンダルス迄やって来てコルドバを首都にカリフ王国を創る。バグダッドも遠いところだったのであまり気にせずほっておいてくれたようで、ここからスペインで正当のウマイヤのカリフによるアルアンダルス支配、後期ウマイヤ朝(後ウマイヤ朝)が始まる。

スペインの歴史はドラマチックで次から次へと民族や宗教が変わって混血していくのです。

後期ウマイヤ朝の記事はこちらから <後期ウマイヤ朝の記事はこちら>

スペインの歴史ダイジェスト版はこちらから  <スペインの歴史ダイジェスト版>

西ゴート(ビシゴート)王国の崩壊、トレド陥落とイスラム教徒の侵入

スペインの歴史は複雑で様々な民族が足跡を残していった。ローマ帝国を崩壊させたゲルマン民族の大移動でスペインにやって来た西ゴート王国(ビシゴート王国)はトレドを首都に繁栄するが実は裏切りと陰謀の世界だった。人間の本能はいつの時代も同じで嫉妬と欲望の末大抵の王国は陰謀が渦巻き滅びていく。西ゴート王国も例外ではなく王室で日々血なまぐさい事件が続く。末期の西ゴート王国の歴史についての記事です。

西ゴート(ビシゴート)王国末期

国王と国王を選出する権利を持った大貴族と高位聖職者の間での利害関係の衝突で常に不安定な状態が続いていた。

 

 

506年にイベリア半島で西ゴート王国が始まって711年までに26人の国王が誕生した。204年間で26人もの国王の交代。陰謀に次ぐ陰謀。

<西ゴート王国首都トレド>

トレド展望台

711年スペインにイスラム教徒がやってくる

7世紀にアラビア半島で始まったイスラム教は急速に北アフリカを征服。シリアを首都にウマイヤ朝が始まっていた。

あまりにも早い伝搬に何故と思うのですが一説にはビザンチン帝国の弱体化と一部のコプト教徒(キリスト教の一派)はビザンチン支配を嫌いイスラムを受け入れたと言われている。それにしても一気に伝搬している。

8世紀初めには南スペインジブラルタル海峡をはさんでアフリカ側(現モロッコ)にすでにイスラム教徒が来ていた。混乱する西ゴート王国、民衆の中にも不満が高まっている中、北アフリカ原住民ベルベル族を中心とする総勢12000人のイスラム教徒が711年にイベリア半島に上陸。イスラム帝国北アフリカ総督ムーサの命令のもと凄腕指揮官ターリク・ブン・ジアードが率いる軍がジブラルタル海峡を渡って来る。彼はそこにあった岩山を自分の名前を付けジャバル・アル・ターリク(ターリクの岩)と名付けた。ここを今私たちはジブラルタルと呼ぶ。「スペインの歴史は違う」と言わるイスラム支配がここから始まる。

そこは14キロの海峡でヨーロッパとアフリカが一番近いところ。大西洋と地中海の入り口で今も戦略的に重要なところです。海峡のヨーロッパ側は現在イギリス領。

<ヨーロッパとアフリカの間の海峡>

ジブラルタル海峡

*イギリス領になった経緯:1700年スペインのカルロス2世が子供が無いまま他界。スペイン王位を狙ってハプスブルグとブルボンが戦争になりヨーロッパ各国は利害が絡みブルボンの勝利となる。この戦争でイギリスがスペインから奪ったのがジブラルタルで今もイギリス領土。

<スペイン側から、向こうに見える山はジブラルタル>

ジブラルタル

 

ある美女の伝説

話は戻り西ゴート王国。北アフリカのセウタ総督フリアン伯爵の令嬢フロリンダはトレドの宮殿に行儀見習いとして来ていた。とっても美しいフロリンダに国王ロドリーゴは思いを寄せていた。でも全く相手にしてもらえない。ある日彼女がタホ川で水浴びをしていたのを見つけたロドリーゴ王は無理やり思いを遂げる(今なら合意なのか強姦なのか裁判で争点になる部分)泣きながら顔を晴らした娘から話を聞いたフロリンダの父親は国王に復讐をすると娘に誓う。そしてセウタの城門を開けイスラム教徒たちイベリア半島に入れる手引きをし、娘の復讐を果たした。真偽のほうは不明だそうで歴史ではなくあくまでも伝説。

トレド陥落

イスラム教徒の軍がジブラルタル海峡を渡ったころ西ゴートの国王ロドリーゴは北スペインのバスク人の紛争の鎮圧のためにパンプローナに駐屯していた。慌てて10万人(一説には3万3千人)の西ゴート軍は南下するが大敗。おそらく味方同士の裏切りや兵士の士気の低下が原因と言われる。また西ゴート軍の大部分は貧しい農民や奴隷からなる歩兵部隊で斧やこん棒などで武装していても訓練は行き届いていなかった。

グアダレーテの戦い

<グアダレーテの戦いを指揮するロドリーゴ王>

グアダレーテの戦い
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南スペインのへレス・デ・ラ・フロンテーラ近くのグアダレーテ川の戦い。実はロドリーゴ王に不満を持つ西ゴートの貴族たちはターリクと密約をかわし国王を裏切っていた。国王を殺させてうまく立ち回ろうとしていたようだ。士気の下がった西ゴート軍の隙間にイスラム兵たちが切り込み西ゴート軍は敗走を始めるが川の流れが急で川幅も広く多くの西ゴート軍は溺れ死んだ。国王を裏切った貴族たちも殆ど助からなかったと伝えられる。

<現在のグアダレーテ川>

グアダレーテ川
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Author
Emilio J. Rodríguez Posada (1986– ) Link back to Creator infobox template wikidata:Q30564104

ロドリーゴ王の行方は分からず戦場には王の白い愛馬の遺体が横たわっていた。馬具にはきらびやかな宝石をつけたまま。そしてその近くには王のブーツが片方あったそう。これであっけなく西ゴート王国は崩壊した。

トレドはその後も文化都市だった。

トレドはイスラム圏に入るがイスラム教徒寛容な政策をとりキリスト教徒やユダヤ教徒も人頭税だけ払えば信仰の自由があった。長い間キリスト教徒の学者が訪れイスラム文化への窓口になり多くの学者が学ぶ3つの文化の融合する都市となる。アラビア語の哲学書や数学書などがラテン語に訳される翻訳集団ができる。

<トレド大聖堂13世紀から15世紀の建築>

トレド大聖堂

 

個人的に気になっている部分があって亡くなったロドリーゴ王の妃なんですが・・・「その後ウマイヤ朝北アフリカ総督ムーサ―の息子と結婚した。」とあって。国王を裏切ったのは西ゴートの貴族じゃなくって奥さんだったんじゃないのかしら・・・・・とほぼ想像ですが確信しています。総督の息子と結婚って若かったのか息子が年上好みだったかは謎。歴史の後ろに女の恨み。今も昔もよく似た事件があるものです。

イスラム勢力は716年ころにはイベリア半島のほとんどを征服。一部の西ゴート王国貴族や聖職者たちが持てるだけの財宝や聖遺物を持って北スペインの山岳地帯(アストゥリアス地方やバスク地方)に逃れた。その中に西ゴートの王の血を引くペラーヨがいた。

この後レコンキスタが始まり再びキリスト教徒がイベリア半島を奪い返していく。