イサベル女王<スペイン建国の母>とその時代

 

イサベル女王の時代、まだスペインという国はなくイベリア半島の中央にカスティーリア王国という国があった。騎士たちがイスラム教徒と戦いながら城郭を作り、そこを基礎に更に戦って城を築き国を強くしていった戦いの時代だった。スペイン語で城の事をカスティージョと呼ぶ。カスティージョが沢山あるカスティーリア王国に一人の王女が生まれた。スペインの歴史で重要なイサベルの生涯についてまとめました。

イサベル、カスティーリアの田舎の村で誕生


イサベル誕生

後のイサベル女王の生まれはマドリガル・デ・ラス・アルタ・ストレスというカスティーリアの小さな村。マドリガルは恋歌とか牧歌という意味でラス・アルタス・トレスは高い塔の複数形。「高い塔の恋歌」というロマンチックな名前の田舎の村でカスティーリア国王フアン2世の2番目の妃の長女として誕生。

宮殿というのもはばかれる質素なお城で1451年4月22日に誕生。奇しくも同じ年にコロンブスが生まれている。日本は室町時代足利義政将軍の時代。

<イサベル女王生誕の城は現在は修道院になっている>

マドリガル修道院
マドリガル・デ・ラス・アルタス・トレスの修道院

 

イサベルの父王ファン2世

父王フアン2世は49年の長い治世を行うが「カスティーリアの不運」と言われるほどの王で芸術を好む温和な人物だが政治は無能。母親がイギリスのランカスター家から嫁いできたキャサリン(スペイン語だとカタリーナ)。

この父王ファン2世の最初の結婚はアラゴン王家の王女マリア・デ・アラゴン。2人の間に娘3人息子1人に恵まれこの息子が次の王になるエンリケ。国王就任後はカスティーリア王エンリケ4世不能王と呼ばれる。

<イサベル女王の父、ファン2世>

ファン2世

 

ファン2世の2度目の結婚が後のイサベル女王の母

<イサベル・デ・ポルトガル>

ポルトガルのイサベル

ファン2世の2度目の結婚がポルトガル王女イサベル。同じ名前が多くて複雑だがこの2人の間に生まれたのが後のイサベル女王。

母イサベルは若く奔放で美しく、気弱なファン2世は次第に翻弄されるようになる。奔放なだけではなく常識を逸した行動が度々目立ち始める。そして夫である国王フアン2世をそそのかし言いなりに動かし長年の宰相をバジャドリードの広場で公開処刑する。気弱な国王ファン2世は後悔と自責の念で弱りきり人々の同情と軽侮の中亡くなる。

この時イサベル王女3歳、弟のアルフォンソ王子8か月。

義理兄エンリケ4世の即位

父王の突然の死去で兄のエンリケ4世即位。ここから王女イサベルの悲運な日々が始まる。時々狂気の行動をする母イサベルと王女イサベル、弟のアルフォンソは近くの荒野のアレバロの城に追放され、少ない共の者達と身を寄せ合うように貧しく暮らすことになる。

<エンリケ4世>

エンリケ4世
De Desconocido – web, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2261931

 

兄王エンリケ4世は父王にも負けず劣らずのグウタラ王で無能で女たらし。父王フアン2世が亡くなる少し前に妻であった王妃と離婚した。

カトリックでは離婚は認められていないが「その結婚に問題があることを証明」できればローマ法王の許可のもと「結婚の解消」が出来る。その理由がなんと「不能」。”何か不吉な力”によってこの王妃と関係が持てない。

この王様それ以来「エンリケ不能王」と不名誉な名前で呼ばれる。

そして再婚、王の仕事の大切なひとつは世継ぎを残す事。その為に新しい妻を迎えた。

エンリケ不能王が2度目の妻に迎えるのがポルトガル王の妹ファナ王女。若く美しく陽気な新しい王妃との盛大な婚礼が執り行われ側近たちは今度こそはと期待するが「その夜には何も起こらなかった・・・・」と王室記録官。

<ファナ王妃>

ホアナ、エンリケ4世妃

”高貴な女性とは特に無理”な「国王エンリケ不能王」は妻の女官のもとに通い始め王妃のもとには若くハンサムで野心家の「ベルトラン卿」が通い始める。

もちろん王と王妃の間には冷たい風が吹き始める。

王妃のご懐妊

突然のニュースは結婚6年目。エンリケ不能王の妃が懐妊したという。噂好きのスペイン人たちは昔もそうは違わなかったはず。国中でみんなの話題になった事だと想像できる。「王妃のお腹の子はベルトランの子供じゃないの?」

1462年に生まれた女の子は母と同じ名前ファナと名付けられ生まれた時から人々の好奇の目にさらされる。そしてついたニックネームは「ファナ・ラ・ベルトラネーハ=ベルトランの娘ファナ」

<フォナ・ラ・ベルトラネーハ>

ベルトラネーハ

不思議なのは国王エンリケ4世はベルトラン卿を随分厚遇し出世させていること。公爵の娘と結婚させ出世街道まっしぐら。これには嫉妬深い周りの貴族たちも面白くない。ついにイサベルの弟アルフォンソに与えられていた「サンチアゴ騎士団長」の名誉迄も与える有り様。嫉妬と屈辱の周りの不満分子たちは次第に王の知らないところで結束を始めていた。

国内の分断

この頃イサベル王女達はセゴビア城で質素に暮らしていた。

<セゴビア城>

アルカサール

カスティーリアの貴族の不満分子たちはエンリケ4世を見限りイサベルの弟アルフォンソを王に祭り上げようと画策し国内は分裂。優柔不断なエンリケ不能王は右往左往する中アルフォンソにアストゥリアス皇太子の称号を認め不満貴族達への懐柔策を始める。

しかし時すでに遅くアビラの高原に王座が置かれアルフォンソを新国王アルフォンソ12世として擁立。オルメドでの戦闘はアルフォンソ側有利に進み反乱を起こすトレドへ進軍するもその時突然、アルフォンソは倒れた。

前日夜に鱒を食べた後苦しみ始めたとあるが毒殺か疫病か不明。享年15歳。

イサベル女王の心の支えだった弟アルフォンソはブルゴスのカルトゥーハ・ミラフローレス修道院に眠る。

<ミラフローレス修道院にあるアルフォンソのお墓>

アルフォンソのお墓
Wikimedia Commons Author Ecelan

イサベルの聡明さ

アルフォンソの死後国内はまだ内戦状態でイサベルを女王と担ぎ上げようとする勢力がいる中17歳のイサベルは「兄エンリケ4世こそが正当の国王。がその嫡子の正当性に問題があるならばその次の王位継承権は自分にある」と主張した。

当時の人々が早熟であったとしてもカスティーリアの有力者の権力闘争の中で17歳の女性が堂々と大人相手に張り合い自分の意志を通した。

一躍未来のカスティーリア女王となる。

イサベル女王

イサベルの婿選びと結婚

当時の王族の結婚はすべて政略結婚。恋愛は別物で自国の利益の為に子供達はその道具としてあらゆる方法で使われた。王女達は15歳位で嫁に行くのが普通だったがイサベルは17歳。すでに周りの国々から色々な縁談話が来ている。

ポルトガル、イギリス、フランス。その中に隣のアラゴン・カタルーニャ連合王国の皇太子フェルナンドからの話があった。「おじいちゃん同士が兄弟」という関係で同じトラスタマラ王家。先方に送った密偵の話ではなかなかの美男で切れ者らしい。

イサベルの心がどこにあったか知る由もないが17歳の王女の心に恋心が芽生えても不思議ではないと思う。そしておそらくこの婚姻によるカスティーリアの利益も。

<アラゴンのフェルナンド>

フェルナンド王
De Michel Sittow – [1], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4714691
ところがそこには色々な周りの大人の思惑があり「ポルトガル王の後妻」の話が兄王から言い渡される。言いなりになるつもりはないイサベルは逃げた。

イサベルに味方したのはトレド大司教、そしてアラゴン王国だった。

度々フランスから圧力を受けているアラゴン側もこの結婚での利益に興味を持った。当事者フェルナンドはイサベルのひとつ年下だがマッキャベリの君主論に出てくる程の人物。

イサベルは時の権力者たちに捕らわれそうになるもバジャドリードに逃げそこへ一足早くフェルナンドが駆けつけ1469年バジャドリードのフアン・デ・ビベーロの屋敷で結婚式は執り行われた。(この建物は現存)

イサベル18歳フェルナンド17歳。この年ポルトガルでバスコダガマが生まれ、日本では応仁の乱の混乱の時代。

<イサベルとフェルナンドの結婚>

カトリック両王の結婚

イサベルの戴冠

<セゴビア城にあるイサベル女王戴冠の絵>

イサベル女王戴冠

優柔不断な兄王はまたしても有力者にそそのかされフランス王の弟と出生不明の娘フアナの結婚話を進めイサベルに対抗しようとするも当事者のフランス王弟の死去とエンリケ王側についていたローマ法王の死去。

新しいローマ法王シクストゥス4世は政治的混乱と飢饉で弱り切ったカスティーリアにルネッサンス時代の大人物を送り込む。

後のローマ法王アレッサンドロ6世ロドリーゴ・デ・ボルジア。

この野心家が祖国の混乱に心を痛めたかどうかは疑わしいがイサベルとエンリケの仲を取り持ちセゴビア城で和解。

その翌年あっけなくエンリケ4世死去、いつも針の筵にいた妃も何故かその半年後に35歳で亡くなっている。

セゴビア城にいたイサベルはサン・ミゲル教会で戴冠(この教会も現存)

1474年23歳のイサベルはカスティーリアの女王になる。イサベル女王の誕生、歴史家はこの日をスペイン近代史の始まりとする。

<セゴビア・サンミゲール教会>

セゴビアのサンミゲール教会

<教会入口に1474年12月13日イサベル女王戴冠>

1474年12月13日

 

そう簡単ではなかったイサベル女王就任

ところがそれでは納まらない勢力がこれまでファナ・ラ・ベルトラネーハを押してきた陣営。ポルトガル王アフォンソ(以前イサベルとも縁談があった王)とファナ・ラ・ベルトラネーハを結婚させる話が持ち上がる。

ポルトガル王とは叔父と姪の関係。姪のファナがカスティーリアの正当な継承者なら結婚すれば自分はポルトガルとカスティーリアに君臨出来るという目論見でイサベルに対抗し戦争。4年間の戦争の間に国は荒廃しついに和睦の条約でファナ・ラ・ベルトラネーハは諦め修道院へ隠居。

周りの都合で翻弄され続けたファナは自分の王位継承を信じて疑わずリスボンの修道院で69歳で亡くなるまで”我女王”のサインをしたという。厚い修道院の壁の中からこの後のイサベル女王の死やその子供たちの不幸な人生を知ったかどうかは不明。

この頃のスペイン

その時代のスペインは南にイスラム王朝のグラナダ王国が細々と存続していたレコンキスタの末期。キリスト教徒側ではイサベルとフェルナンドの結婚により今のスペインという国の概念がやっと出来る。

そして最後のイスラム国への戦争が始まる。

発端は南スペインでの小さな小競り合い。グラナダの美しいアルハンブラ宮殿の内部は陰謀と裏切りで権力闘争が続く中キリスト教徒軍が押し寄せてくる。それでも10年間耐え続けたのは奇跡だった。

フェルナンドとイサベル率いるキリスト教徒軍が迫りアルハンブラは無血開城。

1492年1月2日。ヨーロッパに残る最後のイスラム王朝グラナダ王国が滅びた。

<グラナダの陥落>

グラナダ陥落

 

コロンブスの登場

<サンタマリア号模型・スペイン海軍博物館>

サンタマリア号

いつもそうだ、時代はすでに準備ができている。

ルネッサンスの数々の発明によって航海術は進歩していた、そこで登場するのがコロンブスという謎の男。西回りでアジアに行けると信じたコロンブスがポルトガル王に断られスペインにやって来たのは1484年。何度か断られたり説得したりが続きグラナダ陥落後アルハンブラ宮殿でイサベル女王からの援助を手に入れ大航海時代が始まる。

第1回航海は1492年8月3日出発。

コロンブスは生涯に4回大西洋を渡っているが死ぬまでそこはアジアの一部と信じていた。コロンブスはイサベル女王死後は殆どの約束を反故にされ惨めな最後を遂げる。

<コロンブスの新大陸到着>

コロンブスのアメリカ到着

1492年

15世紀末のこの年、当時の人々はヨハネの黙示録に出てくるこの世の終わりがやって来ると世紀末感に怯えていた。ペストの流行がさらに世紀末感に拍車をかけていた頃グラナダの陥落、コロンブスの出港、と世界史的な事件が続く。

そしてスペイン人ローマ法王の即位。兄王とイサベルの和解に出てきた超野心家聖職者ロドリーゴ・デ・ボルジア、アレッサンドロ6世の即位。

有名なボルジア家出身で聖職者なのに愛人との間に子供がいた。息子が有名なチェーザレ・ボルジア、娘が絶世の美女のルクレチア・ボルジア、野心、好色、大物、自己中心、権力とお金の為なら何でもやるタイプの人物。聖職者にはもったいない。

<アレキサンダー6世>

アレキサンダー6世

トルデシージャス条約

コロンブスはアジアに着いた、そしてスペイン人ローマ法王の登場だ。そこで、ポルトガルが慌てた。

このままスペインに上手くやりこめられてはたまらない。地球を半分に割って将来揉めないように条約を結んだ。大西洋の上に縦に線を引いてここから西に将来発見されたらスペイン領土東だったらポルトガル領土。

これでスペインは西へ、ポルトガルは東へと行先がきまり航海者達は船を出す。

イサベル女王の子供達の運命


イサベル女王5人の子供達

混乱と戦争と権力闘争の中イサベル女王は1男4女をもうけている。愛情を注いで育てるこの5人の子供たちは可愛いだけではなく大切な戦略の道具。

当時のヨーロッパの勢力図を考え巡らせ将棋の駒のように誰との結婚が自国に有利かを冷静に見つめ結婚相手を決めていく。

カトリック両王とその子供達

長女イサベルはポルトガル王と結婚

長女イサベルはポルトガル王ジョアン2世の息子アフォンソ皇太子と結婚。夫婦仲は睦まじく娘イサベルはポルトガル宮廷で大切にされて幸せの絶頂のある日、夫のアフォンソが落馬して死亡。

子のまだ無いイサベル王妃は喪に服しスペインへ帰国。その後さらに亡き夫の父ポルトガル王ジョアン2世が死去し(王妻と折り合いが悪く突然の死には毒殺説)その妻の弟がマニュエル1世として即位(この辺りは陰謀の香りがする)。

イサベルはマニュエル1世から激しく求婚され再びポルトガル王妃になる。

このマニュエル1世の時代にポルトガルはインド航路発見、ブラジル到着。後に出てくるスペインの期待を担った弟ファンの死後王位継承権がイサベルにやって来るが息子を産んだ後すぐに死去。

残されたミゲールと名付けられた大切な皇太子はスペインを背負う運命の中1500年7月20日2歳の誕生日を迎えずにグラナダで死去。

今もグラナダの王立礼拝堂に埋葬されている。

長男ホアン

セビージャのアルカサールで誕生した皇太子ホアンはイサベル女王にとって特別な存在で大切に育てる、が体が弱かった。

ホアンの結婚はフランスを恨む者同士の連合で当時の先進国ブルゴーニュ公国の王女との結婚。神聖ローマ帝国皇帝の娘。

美しく華やかな17歳マルガレーテ王女との結婚で当時のスペイン宮廷は湧くが体の弱いホアンは結婚の行事のあと姉の結婚式に参加する途中サラマンカで突然死亡。(あまりにも美しいマルガレーテに恋し過ぎて、ベッドでの時間が多かったのが致命傷という説がある)すでに懐妊していたマルガリータは死産。

国中が喪に服した。今はアビラの修道院に埋葬されている。

<アビラのサント・トーマス王立修道院にあるホアンの霊廟>

ホアンのお墓
wikipedia
public domain.

次女ファナは後に狂女ファナ(ファナ・ラ・ロカ)と呼ばれる

ファナは兄ファンとの2重結婚で一足早くベルギーのフィリップ美公に嫁ぐ。

フィリップ美公は神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世とブルゴーニュ公国マリアの長男。洗練された都会人フィリップのとの蜜月は短く夫に翻弄されながら精神を病んで行き6年後祖国に帰るころは別人に変り果てイサベル女王を悲しませた。

兄ホアン、姉イサベルが続いて亡くなった後はスペインの王位継承権が手に入り再び夫妻でスペインに戻るがフィリップは突然死亡。父フェルナンドによる毒殺がささやかれるが謎のまま。彷徨いながらフィリップの遺体をグラナダに運ぶ一行、ファナは棺を時折開け死んだ夫に話しかけたとも遺体を隅々まで触って確認したとも言われる。

そのころファナはフィリップの子供を妊娠しており合計6人の子供を産んでいる。事実上スペイン女王となるが狂気が理由で父親と息子(のちのカルロス5世)によってトルデシージャスの城に幽閉されながら75歳まで生きる。

実際ファナが狂っていたかは謎で今の歴史家達は否定している。

<夫の棺と荒野をさまようファーナ>

ファーナラロカ

 

三女マリアはポルトガルへ

マリアは長女イサベルの亡くなった後妻としてポルトガル王マヌエルの所へ嫁ぐ。マリアのみが唯一の幸せな結婚生活を過ごし5男2女を王に与え惜しまれて35歳で亡くなる。

マリアの長女がのちのカルロス5世の妻、フェリペ2世の母イサベル王妃。

<マリアの長女イサベル、後のカルロス5世王妃>

ポルトガルのイサベル

四女カタリーナはイギリスへ

最も不憫な末娘カタリーナは15歳で同い年のイギリス皇太子アーサーと結婚する。病弱で気弱なアーサーは結婚後すぐ死亡。なんとその父親ヘンリー7世との縁談が起こるがヘンリー7世も死亡しアーサーの弟のヘンリー8世と再婚。

ヘンリー8世は5回の妻のうち2人は斬首刑というシェイクスピアに出てくる残酷で冷血な王。カタリーナとヘンリー8世との間の娘が有名なブラッディメアリー。プロテスタントを残酷に殺した為「血のメアリー」と呼ばれる。赤いお酒の名前はそこから取られている。

カタリーナはその後何度か妊娠、死産を繰り返す中ヘンリー8世は宮廷の若い女官アンブリンとの結婚の為カタリーナを離婚、いや結婚の無効を主張。アンブリンとヘンリー8世の間の娘が後のエリザベス1世女王。ヘンリー8世はローマ法王が離婚を許可しないので英国国教会を作りカトリックから分離する。

カタリーナは3年間城に幽閉され隔離された中で49歳で寂しく死んでいく。

<カタリーナ・デ・アラゴン>

カタリーナ

<ヘンリー8世>

ヘンリー8世

イサベル女王の最後


スペイン統一とグラナダの陥落やコロンブスの援助と華々しい歴史を生きたイサベル女王は期待の長男ファンの死と長女イサベルの死、その息子ミゲールの死と三女ファーナの狂気、母親としては悲しみの連続だった。晩年メディーナ・デル・カンポの質素なお城で最後まで国の為仕事をしたという。

少なくとも四女カタリーナの不幸を知らずに亡くなったのは幸いだった。1504年11月26日53歳の生涯を閉じる。

イサベル女王最後の日

遺言通り遺体はグラナダに運ばれサンフランシスコ修道院に埋葬されフェルナンド死後は共にグラナダ大聖堂横の王室礼拝堂にある。

<カトリック両王の霊廟、グラナダ王室礼拝堂>

カトリック両王の霊廟
wikipedia
public domain.

イサベル女王の娘、ファナの生涯の記事です。

狂女ファナ(ファナ・ラ・ロカ)の一生、スペインの歴史、ファナ1世女王の哀しい物語

質素で誠実で敬虔なカトリック教徒。国の為に自分を捨て戦ったイサベル女王は今もスペインで人気の女王様です。

 

バルセロナの魅力<ガウディだけじゃない魅力的な街バルセロナ>

 

バルセロナは歴史の古い街で地中海に面した陽光明るい都市。あまりにもサグラダ・ファミリア教会やアントニ・ガウディが人気ですがバルセロナの街はローマの遺跡中世がそのまま残り海と山に囲まれた経済活動盛んな魅力的な街です。今はスペイン17州の中のひとつ「カタルーニャ州の州都」ですがもともとはカタルーニャは「ひとつの国家」でその首都がバルセロナ。スペインという国が出来るより前からあった国でした。最近は近代建築も創られていて今も変化を続けているダイナミックな街です。今回はアントニ・ガウディ以外バルセロナをご紹介します。

ゴシック地区<バリオ・ゴティコ>

13世紀から15世紀の中世の街が残る地区。バルセロナ旧市街ランブラス通りの東側から大聖堂の後ろ側一帯に中世の建物がそのまま連続して残る。大都会の中に時間を止めた古い町並みが残されていて素敵なバルやブティックなども街並みに溶け込んで共存している地区。これがバルセロナの魅力のひとつ。

通りを歩くと人が住んでいる生活感、路地に入って行くと何百年もの人が生きてきた重みを感じる。私はこの地区が大好きでバルセロナを訪れると目的もなく歩きに行く。この中世の街のすぐ下にローマの遺跡が残り今も一部見学が出来る。紀元前一世紀頃に大聖堂のあたりに住み着き3世紀頃には要塞化していく。

最近は古い集合住宅が短期滞在者用のアパートホテルなどに変えられ住民が追い出されるケースが出てきた。早く行政が対応して住民を守ってもらいたいと心から願う。ロマネスク教会やカタルニャゴシック教会が点在しピカソ美術館もこの地区にある。是非とも足を踏み入れてさまよってこの町の魅力を感じて下さい。ヨーロッパに古い街はたくさんあるけれどこんな大都会の中に連続して13世紀から15世紀の建物が残っているところは他にあるんでしょうか?

 

<ゴシック地区・大聖堂>

バルセロナ、カテドラル

バルセロナの大聖堂は殉教聖人サンタ・エウラリアに捧げて創られたカタルーニャ・ゴシック様式の建造物。内部の地下へ降りると地下聖堂がありサンタエウラリアが埋葬されている。カタルーニャ・ゴシックは通常外側にあるフライングバットレスの部分を内側に入れ込んだ内部が広い様式。4世紀にはここに小さなバシリカが作られ11世紀にロマネスク様式の教会に変わり13世紀末から150年間位で作ったのが現在の大聖堂。サグラダファミリアがあまりにも有名ですが街の大聖堂はここ。地元の人はセウと呼ぶ。日曜日には前の広場に人が集まり「サルダーナ」を踊っている。この踊りはフランコの独裁政権時に禁止されたカタルーニャのアイデンティティそのもの。クリスマス頃は前の広場でクリスマスマーケットが開かれる。

<行き方>

地下鉄4号線Jauma I から徒歩5分

<時間>

8時から12時45分(日曜~13時45分)17時45分~19時30分(土日は17時15分から20時)

注意・極端に短いパンツやスカート、肩の出た服装では入場できません。お祈りの場なので教会に対する礼儀に気をつけましょう。

<ゴシック地区>・サンジャウマ広場(ジェネラリターと市役所)

大聖堂向かって右側の石畳通り(Carrer del Bisbe Irurita)をサンジャウマ広場に向かって歩くとそこは中世のムード。その先にカタルーニャ自治政府庁<パラウデラジェネラレイタ>カタルーニャが国家だったころからあるカタルーニャ政府の建物。現在の物は15世紀から17世紀にかけて建てられた。

向かいにはバルセロナの市役所。正面は19世紀だが横の方は14世紀のゴシックの建築が残る。パラディス通りに入るとローマ時代の神殿の円柱が残る。アウグストゥス神殿の遺跡。

<ゴシック地区>王の広場

バルセロナ王の広場

バルセロナはフランク王国がイスラム教徒の砦として創った伯爵領でそのバルセロナ伯爵の屋敷があった広場。コロンブスが最初の航海から戻ったときにイサベル女王に謁見をした場所。この下にはローマ時代の遺跡。

<ゴシック地区>バルセロナ市立博物館
バルセロナ歴史爆物館
http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0

バルセロナ旧市街ゴシック地区の地下はローマ時代の遺跡。建物自体が14世紀の建物で中に入ると地下に広大なローマ時代の遺跡を見ることが出来圧巻。ローマの遺跡は地中海沿岸諸国色々なところで見れますが現代の街の下に広がる遺跡を見れるところは他に聞いたことが無い。パリやロンドンもローマの街の上に創られていることを考えると地下にこのような広大な遺跡が今もきっとあるんだと思いをめぐらせてしまう。

<時間>

火曜から土曜 10時から19時 日曜10時から20時月曜休み

 

<ゴシック地区>サンタ・マリア・デル・マル教会

海の聖母教会

この地区の教区教会で今も使われているサンタ・マリア・デル・マル教会。カタルーニャゴシック様式ではたぶん最も美しい教会。創られた当時はすぐそこが海で「海で働く男たち」を守るマリア様に捧げて創られた。海の男たちが聖母の教会を作るため持てる僅かな財源を捧げ奉献した。毎日石を運んだ様子が正面入口に彫刻で残っている。内部は荘厳で静謐。私はバルセロナに行くと時間があればここへ行くと心が洗われるようなすがすがしい気分になれる。柱が細くて繊細なイメージで垂直線がどこまでも軽やかで昔はきっと海の音が聞こえたんだと想像しながら。

注意・地元の信仰の対象の大切な教会です。お祈りしている信者さん達やミサの時は適切な敬意が必要です。

<行き方>

地下鉄4号線 JaumaI 徒歩5分。

<時間>

9時から13時(日曜10時から14時)、17時から20時30分

<ゴシック地区>ピカソ美術館
ピカソの母
museo de picasso barcelona

この絵はピカソ15歳の頃の作品。紙にパステルで描いた母親の横顔。下を見ながら編み物でもしている様な目のとらえ方。優しいムードに包まれた作品。

 

ピカソは南スペイン,アンダルシアのマラガで生まれ青年時代をバルセロナで過ごしている。この美術館があるモンカダ通りは裕福なモンカダ一族の名前が取られた中世のお屋敷街で通りも広く中庭の有る門構えのしっかりした建築が続く。そのいくつかを利用して創られた美術館。ピカソ美術館は他の国にも沢山有りますがバルセロナが凄いのはピカソの若いころの物が充実している。ピカソの親友の寄贈とその後ピカソの家族からの寄贈の作品が中心なのでピカソの家族や身近な人々が作品の中に登場して暖かい気持ちになる。中学生くらいのピカソの作品や青の時代バラ色の時代等年代順に置いてあるので若いころのピカソの作品を楽しめる。

<行き方>

地下鉄4号線 Jaume I 徒歩5分

<時間>

火曜から月曜 9時から19時 木曜9時から21時30分

月曜休館(2017年7月24から9月25まで月曜試験的に開館)木曜18時から無料

 

<注意>たいていいつも大変混んでいます。入場券を買うのに何時間も待つことが多いのでネットで予約を入れていくことをお勧めします。

ピカソ美術館の予約のページに飛びます(英語)(https://entrades.eicub.net:8443/muslinkIII/venda/index.jsp?lang=3&nom_cache=PICASSO&property=PICASSO&grupActiv=1

カタルーニャ美術館

Museo  Nacional d`Arte de Catalunya

カタルーニャ美術館
By Sergi Larripa (User:SergiL) –  CC 表示-継承 3.0, Link

 

バルセロナの街の西側、モンジュイックの丘にある国立美術館で中世から20世紀までのカタルーニャ美術を中心としたコレクション。言葉を失うほどの素晴らしいコレクションで「ルネッサンス以前のヨーロッパ美術だけに絞る」とおそらく世界一のコレクション

見どころはロマネスク壁画の収集。雨の多いピレネーの山の中にある小さな村の教会のフレスコ画が湿度で傷みが激しくなっていた。ロマネスク教会は壁構造だったため壁画が多い。19世紀の終わりに国立美術館の技術者を総動員して小さな村の教会からフレスコ画を丁寧に細密にはがして移築した。祭壇画や木製の十字架等この美術館のロマネスク美術は他で見ることはできないレベルと量。

12世紀から13世紀の物なのでまだ緻密な表現、バランスも悪く単純な構図。キリストの頭が歪に長く目がアニメに出てきそうなくらい大きかったりする。どっしりとした存在感ドラマチックな構図はミロの絵のよう。独特の地中海ロマネスクの壁画はいくら見ていても飽きない程のユーモラスとバリエーション。

カタルーニャ美術館タウルのキリスト
https://en.wikipedia.org/wiki/Museu_Nacional_d%27Art_de_Catalunya

<行き方>

地下鉄 1・3号線 Espanya から徒歩10分

<時間>

毎日10時から20時(日曜日は~15時)

第一日曜と土曜の15時から無料。

モンジュイックの丘にはジュアンミロ財団美術館や考古学博物館、スペイン村、1992年のオリンピック競技場もある。

海洋博物館 Museo Maritim

海洋博物館
Fritz Geller-Grimm – Trabajo propioCC BY-SA 2.5

バルセロナ旧市街ランブラス通りの海側に立つコロンブスの塔のすぐそばにある博物館。造船所をそのまま使っているので巨大な実物大のガレー船と船の模型をそのまま展示。(7隻は14世紀3隻は17世紀の物)。バルセロナは古くから重要な港だった。実際にこの造船所は18世紀まで使われていた。カタルーニャが海洋帝国だった事が良くわかる。目玉はギリシャ沖レパントの海戦ホアン・デ・アウストリアが乗ったガレー船「レアル号」の模型。レパントの海戦は1571年足並みのそろわないヨーロッパ連合軍がオスマントルコを倒した海戦。

<行き方> 地下鉄3号線 Drassanesn 徒歩3分

<時間> 10時から20時毎日

まとめ

今もスペイン経済GDPの20パーセントを稼ぐカタルーニャの首都バルセロナは活気のある近代都市です。年間数多くの国際見本市も開かれホテル不足が問題。ホテルは早めに取りましょう。【Booking.com】世界のホテル割引予約

他にもまだまだ有るバルセロナの魅力。今回はゴシック地区中心ですがまた次回ほかのテーマでバルセロナを紹介したいと思います。写真が無くてやめたのはプエルト・オリンピコ(オリンピックの港)市内にある港へ行くとヨットハーバーの前にレストラン街、すぐ横にはビーチがあり海水浴が出来る。海も山も歴史もたっぷりで食も充実、サッカーは世界のトップ。こんな近代都市他にありますか?

 

アストゥリアス地方<グリーンスペイン>スペイン君主制発祥の地

アストゥリアスはスペイン北部の海と山に囲まれた緑の多い地域。私たち日本人のスペインのイメージからはかけ離れた景観が続き「グリーンスペイン」「緑のスペイン」と呼ばれる

スペインの歴史の中で重要なレコンキスタが始まり最初のキリスト教王国が作られたところでコバドンガカンガス・デ・オニス等歴史に出てくる都市やピコス・デ・エウロパという険しい山やコスタベルデと呼ばれる等の自然の景観が楽しめるところです。

アストゥリアス地図

 

 

首都オビエド

オビエド大聖堂

 

アストゥリアス州首都のオビエドは人口22万人の小さなこじんまりした街。ゴシック様式の大聖堂を中心に綺麗な旧市街。魚市場やシードラ屋、町中に銅像等があって散策するにもちょうどいい規模の美しい街。初めて行ったときに懐かしいような親近感を感じたのは山と海が近い小さな町に日本の素朴な綺麗な街が記憶の中でリンクしたと感じている。

大聖堂

ゴシック様式のサン・サルバドール大聖堂。中のカマラ・サンタにはビシゴート王国崩壊の時トレドから持って逃げた宝物、コバドンガの戦いペラヨが使った十字架そしてなんと聖骸布。埋葬されたイエスキリストの頭を包んでいた布です。。聖骸布というとイタリアのトリノが有名ですがこちらも同じく聖骸布。1メートルx0.6メートルで重厚な箱にしまわれていて年に3度一般公開されます。

カンポアモール劇場

毎年11月スペイン皇太子賞の授与式が行われる劇場。1981年から行われているスペインのノーベル賞にあたるもの。各界の貢献者に賞金5万ユーロとミロデザインのトロフィーが授与される。2011年には「福島の英雄」<東日本大震災で活躍した消防・警察・自衛隊の現場の指揮者5人に授与された>当時まだ皇太子だった現スペイン国王フェリペ6世は2017年日本に行った折ぜひまたあの「福島の英雄達に会いたい」と希望され再会を果たした。

ナランコ山に世界遺産のアストゥリアス建築

近くのナランコ山には世界遺産のアストゥリアス建築(プレロマネスク建築)がある。ロマネスクが始まるより前に高度な技術で天井を支えた石の建築でサンタ・マリア・ナランコサン・ミゲール・デ・リーリョ、少し離れてサンタ・クリスティーナ・デ・レーナ教会プレロマネスク建築群として世界遺産に指定されています。

サンタ・マリア・ナランコ

ピコス・デ・エウロパ国立公園

ピコスデエウロパ

アストゥリアスにあるピコス・デ・エウロパ山脈は海から30キロメートルの所に突然2500メートル級の険しい山脈。浸食によりギザギザになった石灰岩の峰は遠洋漁業から戻った船乗りたちによってヨーロッパの頂<ピコス・デ・エウロパ>と名付けられた。トレッキングコースや本格的な山登り、かわいい村があり独特の景観が素晴らしい。

1<フエンテ・デ>

 

ピコス・デ・エウロパの山に囲まれた標高1000メートルの地。国営ホテル「パラドール」は近代的な建物で快適な滞在が出来る。アストゥリアスでも最も人気なのは気軽に山が楽しめる。パラドールの横にロープ―ウェイがあり山頂駅迄運んでくれるので360度の景観は迫力。そこから山道を歩いて山小屋迄行くことも可能。地元のエージェントがやっている4輪駆動のジープで回るコースなども各種。山登りが得意でなくても険しい山が楽しめる。

2<カーレス渓谷>

ポンセボとカインの間にいくつかのトレッキングコースがあり山の中の散策又は本格的な山登りも出来ます。その中の代表的なコースを3つ紹介します。

<①ポンセボからブルネス>

ポンセボからブルネスに向かう登り1時間30分くらいでかわいい街ブルネスまで。登山電車フニクラで登ることも可能。ブルネスに着けばバルやルーラルハウスなど宿泊施設もある。

ポンセボからブルネスへの道

ブルネス

ポンセボからブルネス間は川沿いに登り道結構激しい部分もあるけど山の中景色がいいので初心者でも子供連れでも大丈夫。

ブルネスの村

ブルネス村

<②ルタ・デ・カーレス>カーレスルート

プエンテ・デ・ポンセボからポサダ・デ・バルデオンまでの片道12キロのルート。コースは平らで難しくはないが谷底が見える険しい景色を見ながらのドキドキするルート。往復すると24キロ。帰り道同じ道を歩かずルートを離れても帰れるが危険なところもあるので子供連れなどは本道を行くこと。

カーレスのルート

カーレスの谷

 

<③パンデバノからブルネスの山小屋迄2時間45分>

最初は山が見えないが途中からこの変わった形のウリエジュ(Urriellu)山を目指して登る景色のいいコース。最後の方は急な山道が続く。ウリエジュ山はブルネス・デ・ナランホという名前も持っているがなぜかこのウリエジュと言う名前が気に入ってこちらで紹介しています。

最初はこんな感じでなだらか

ナランホデブルネス

<Pico de Urriellu が見えてくると急な山道>

ウリエジュ

肩のところに山小屋がありそこまで2時間45分。途中から急な登りになります。本格的な登山シューズや水や防寒具が必要。

3<コバドンガ>

行き方 オビエドからバスで1時間40分から2時間30分。

<サンタクエバ>

サンタクエバ

アストゥリアスはスペイン発祥の地と言われる。ビシゴート王国崩壊の時トレドから逃れたキリスト教徒たちが隠れ住みペラヨ率いるキリスト教徒軍が722年最初にイスラム教徒から勝利を得たところ。険しい山の景色が続く深い谷の中にある聖域。<サンタクエバ>聖なる洞窟は勝利に導いてくれた聖母マリアを讃えて作られた。アストゥリアスの守護聖人ラ・サンティ―ナやペラヨのお墓ペラヨの娘婿アルフォンソ1世のお墓。礼拝堂は人々がいつも祈りを捧げている。

コバドンガ

<バシリカ聖堂>

コバドンガ

 

バシリカ聖堂はネオロマネスク様式19世紀後半の建造。山の中にいこの教会からの鐘が鳴り響く。コバドンガからさらに山道を車で登って行くとエルノ湖とエルシナ湖。コバドンガからバスが出ている。

 

<カンガスデオニス>

ペラヨがコバドンガの戦いでの勝利の後宮廷を置いた町。アストゥリアス王国の首都があった街です。石のローマ橋(実際は中世の橋)と川の景観は素晴らしいが他には特に何もない。2キロくらい離れた所に元修道院だったパラドールがあります。

<カンガス・デ・オニスのローマ橋>

カンガスデオニス

カンガス・デ・オニスのローマ橋はローマ時代の物ではなく中世に作り直された。この町は他に見るべきものはない。

スペインの歴史はこの記事です <レコンキスタの始まり。トレド陥落からレコンキスタ>

コスタベルデ

アストゥリアスの大西洋海岸線を「緑の海岸」<コスタベルデ>と呼ぶ。入り江の小さな漁師町や透明な水のビーチ等まだあまり観光地化していない素朴な街が沢山。緑の牧草から突然切り立った断崖絶壁、その向こうに透明で青い大西洋の荒波がザブーンと音を立てる。

ヒホン

ヒホンはアストゥリアス随一の大きな町で人口280万人ヨットハーバーや綺麗な広場等。中心部は昔の漁村のムードも残っている。オビエドからバスで40分。頻繁に出ているのでオビエドからの日帰りでも可能。

ヒホン

 

クディジェロ

コスタベルデにはきれいな小さな町が続く。美しい入り江の漁師町がありこれぞアストゥリアス。坂に向かって町が広がりどこに登っても絵になる景色。

 

プラヤ・デ・シレンシオ

アストゥリアス・コスタベルデで一番きれいだと言われている海岸。道路は崖の上なのでかなりの坂道を下りていく。その分静かで人が少なく海が綺麗。

シレンシオ海岸

シレンシオ海岸

ルアルカ

アストゥリアスには絵になる綺麗な漁村がいくつもある。昔は大西洋はクジラが沢山いたのでクジラ漁が盛んだった。嵐の日は船主たちは多数決で漁に出るかどうかを決めたそう。

ルアルカ

ラストレ 

向こうにピコス・デ・エウロパ山脈が見える。冬は山は雪で覆われ真っ白な山脈が街の向こうに見えて綺麗。昔は敵から見つからないように入り江の山肌に人々は住んだ。

ルアルカ

ブエルナ 

コスタベルベルデの水は透明で冷たい大西洋の風が吹いて波の音がドーンと遠くから聞こえる。ブエルナは小さな綺麗な村で入り江のビーチも綺麗でした。

ブエルナ

タソーネス

皇帝カルロス5世が最初に到着した港。船で髭をそり身づくろいをし香水も振りかけて下船したがあまりにも田舎でお気に召さなかったそうです。小さな漁村でシーフードレスランが並びスペイン人の観光客でにぎわっている。

タソーネス

アストゥリアスで何を食べる

アストゥリアスの名物は色々。海のそばなので魚介類はもちろん山には放牧地があるのでお肉も美味しい。有名なのはヤギのチーズ、豆の煮込み<ファバダ>と<コシード・マラガト>。<ファバダ>は白い大きな親指位ある大きな豆の煮込み。<コシード・マラガト>はエジプト豆の煮込み。飲み物はシードラ=リンゴの発泡酒です。素材がいいので何でもおいしい。一皿が無茶苦茶大きいので注意です。

<写真はファバダとアサリの煮込み>

 

行き方

マドリッドやバルセロナから飛行機やバスでオビエドまで。又は長距離バス。村と村の間はALSA のバスが走っている。小さな村もバスが走っているので細かく調べれば移動可能。車がある方が自由に動けますね。

ALSAのアストゥリアスの時刻表のページに飛びます。出発地と目的地を入れる       < https://www.alsa.es/destinos/asturias.htm>

まとめ

スペインは意外と山岳国で国内に険しい山脈が連なっている。今のような交通機関が発達していなかったころに山の中でそれぞれの文化が熟成していったので一つの国に沢山の国が有るようだと言われる。アストゥリアスは自然の景観の綺麗な素朴な地域。ピコス・デ・エウロパやコスタベルデはスペイン人に人気のデスティネーションです。フラメンコや闘牛以外のスペインも是非とも楽しんでください。buen viaje!

 

 

トレド観光行き方と歩き方、絶対外せない世界遺産の街歩き方モデルコース付き

 

トレド観光は数々あるスペインの世界遺産で絶対に外せない街。ここではトレドの行き方と歩き方、そして歴史を説明しています。日本を訪れた外国人が京都には絶対に行くように「もしもスペインであなたに1日しかなければトレドへ」と言われる世界遺産。マドリードから南に70キロの距離でバスで1時間、新幹線で33分。

トレドの街はコンパクトですが侵入してきた敵が迷うように作られている為それも楽しむ覚悟で散策。石畳の狭い曲がりくねった通りを歩くと突然広場に古い教会の塔その先にはユダヤ教会があったり時を忘れて歩けます。

スリがマドリードから出張しているようですので貴重品の管理は注意ですが基本安全です。

トレド行き方はバスか新幹線か各社ツアー


トレドの行き方それぞれのメリットとデメリット

*バスは1時間又は1時間20分ほどでマドリードとトレドを結び早朝から深夜まで約30分ごとに出ているので行きも帰りも予約せずに駅に着いて乗ればいいので非常に楽で値段は一番安い。ただトレド行きのバルターミナルが少しマドリード中心部から離れている。

*新幹線は予約が必要で本数も少ないため予定を立てにくいが乗れば33分でトレドに到着、そして快適。マドリードのアトーチャ駅出発なのでアクセスが楽だしトレドの駅もムデハル様式で昔の面影があり鉄道好きにはたまらないムードです。

*現地のツアーだと半日で戻って来れて見どころを現地のガイドと説明を聞きながら見て回れるので失敗が無い。モニュメントの説明はもちろんバスの中で色んな現地の話も聞けるので充分価値あり。その分好きなところに行ったり自分のペースの観光はできないし、迷子になる楽しみは奪われる。

トレド観光の参考に

*6月から9月の午後は暑いので午前中のトレドをお勧めします。午後の16時から17時が一番暑く日没は22時です。涼しい朝から行動してゆっくり目のランチ、午後は美術館などで過ごすと良いですね。(日曜日は大聖堂は午前中ミサの為入れません)

*モニュメントが沢山あるが町全体が世界遺産なのでどこにも入らなくててウロウロしても楽しめる。適当に歩いて迷子になっても街は小さいので大丈夫。

 

バスでトレドへ行く方法

「バスでトレド」が私のおすすめ。地下鉄6号線プラサ・デ・エリプティカ(街の南の方)バスターミナルから。

地下鉄トレド行きバスターミナル
筆者撮影

プラサ・デ・エリプティカの地下鉄の駅。出口=salidaとバスターミナルはこっちと矢印が有る方へ。

トレド行き地下鉄駅
筆者撮影

分かれ道があるとバスターミナル=Terminal de autobusesの矢印に向かう

トレド行きバスターミナル
筆者撮影

メトロの出口を出るとこのエスカレーターの左の方から向こう側へ行く。何社かのバス会社が乗りいれているのでALSAの窓口へ。

トレド行きバス
筆者撮影

マドリードからトレドに向かうバス会社ALSAの切符売り場。

トレド行き切符売り場
筆者撮影

 

有人の切符売り場が開いていればここでトレド行きの切符を買う。休憩時間で閉まっていれば外の機械で購入する。

トレド行きバスターミナル

トレド行き切符、片道で5€47セント

トレド行き切符
筆者撮影

切符を買うと出発口へ移動する。トレド行きの出発口は通常7番。

トレド行きバスターミナル
筆者撮影

エスカレーターを登って行きTOLEDOの標識に従って移動。

トレド行きバスターミナル
筆者撮影

乗る時にトレド行きの切符をドライバーに見せるだけ。荷物があればバスのトレンくに各自のせる。

トレド行きバス
筆者撮影

バス会社の時刻表ページ出発地目的地と日付を入れて検索

https://www.alsa.es/en/bus-schedules

切符は往復も買えるが帰りの時間を気にするより帰りは帰りでトレドで買えばいいと思う。

トレドのバスターミナルのALSAの切符売り場。

トレド行きバスターミナル
筆者撮影

新幹線でトレドへ行く場合

トレド行きの新幹線が出るのはアトーチャ駅=Metro 1号線Atocha Renfe。トレド行きの新幹線の本数が少ないがアトーチャ駅は便利なので片道新幹線利用も有りだと思う。バスターミナルよりアトーチャ駅はうんと便利な場所にある。

 

*アトーチャ駅は近郊線(Cercanias)と長距離線(Ave)に分かれている。

*トレド行きはAveの方に行く地上階(日本の1階)の手荷物検査場から出発。

*当日では切符が無い可能性があるのであらかじめ購入する事をお勧めします。ネットかアトーチャ駅の切符売り場で購入。

スペイン国鉄の時刻を調べるページhttp://www.renfe.com/EN/viajeros/horarios.html

下の記事はアトーチャ駅の構造をまとめています。参考にどうぞ。

マドリード・アトーチャ駅の解説書、新幹線乗り場やメトロとの連絡口、空港行きエクスプレスバスの乗り場を図解入りで説明

トレドにバスで着いたら

トレド地図

トレド・バス・ターミナルから

トレドに着くとバスが着くのは地下なので人の流れに従い上に登って行く。

トレドのバスターミナル
筆者撮影

トレドの街にあまりトイレが無いのでバスターミナルで済ませることをお勧めします。トレド・バスターミナル出ると右側へ移動する。(反対側のトイレ近くにも出口があるのでどちらから出ても大丈夫)

トレドバスターミナル
筆者撮影

ホテルとタクシー乗り場がある。ここからタクシーで展望台経由で街に行くのもひとつの方法。タクシーに乗らない場合はこのまま真っ直ぐ歩いて行く。

トレドバスターミナル
筆者撮影

前方に城壁が見えるのでロータリーを超えて横断歩道を渡り更に5分くらい歩いていく。

トレドバスターミナルから市内
筆者撮影

先の方にトレドの街に登って行くエスカレーターの入り口が見えて来た。

トレドの街へ
筆者撮影

このエスカレーターをどんどん上に登って行く。

トレド
筆者撮影

一旦外に出ると更に登って行く。

トレド
筆者撮影

最後は徒歩で5分くらい歩いて登るとトレドの中心のソコドベール広場に到着。

 

トレド、ソコドベール広場
筆者作成

トレドの観光はここから始めましょう。ソコドベール広場はトレドの中心の広場でインフォメーションや飲食店、トレドの観光バスやソコトレンの切符売り場がある。

トレド
筆者撮影

 

 

 

 

 

 

 

ソコ・トレンはソコドベール広場の少し上のアルカサール近くから出発。全景が見える丘に登って町を一周してくれる。音声ガイドを聞きながらトレドの街の景色を楽しめる。

トレド
筆者撮影

ダブルデッカーのトレド観光バスもアルカサール近くから出発。ソコトレンか観光バスをお好みで利用するといい。どちらも展望台に行く。

トレド
筆者撮影
トレドに新幹線で着いたら

トレド鉄道駅からも歩いてアルカンタラ橋を目指して登って行くと20分くらいでトレド中心部ソコドベール広場。

又は上記のエスカレーターのほうに歩いていき街に入る。街はずっと歩いて観光になるのでトレドの駅からタクシーを使うのもいいと思う。

タクシーを使う余裕のある方はここから展望台経由ソコドベール広場又は大聖堂迄タクシーで移動すると時間の節約です。

トレド
筆者撮影

赤い2階建てバスが1時間に一本鉄道駅に止まります。

<ムデハル様式のトレドの鉄道の駅内部>

トレド駅

展望台(トレドの観光はここだけでもいいくらい絶対行こう)

展望台(パノラミカ)は是非とも行きましょう。街の全景を見ることが出来ます。大抵のガイドブックなどのトレドの紹介の写真はここからです。

タクシー、ソコトレン、2階建てバス、徒歩等の方法でアクセスできます。時々歩いているツワモノも見かけます。45分くらい歩けば着きます。

*一日中逆光になりませんのでいつ行っても大丈夫。

*きれいな写真を撮るには朝か夕方の太陽が少し斜めになった方が綺麗ですが夏は夕方になるのは21時です。

*冬の朝が時々霧が深くて見えない時があります。時間が立って気温が上がれば霧も晴れます。

<トレド展望台からの景色>

トレド展望台

では再びトレドの観光はソコドベール広場から

トレド、ソコドベール広場
筆者作成

ソコドベール広場(plaza de zocodover)はもともとトレドにイスラム教徒がいたアラブ時代に<市>マーケットが立った広場。

ここからトレド大聖堂も近いしアルカサールやサンタクルス美術館もすぐそこ。電気の観光電車<ソコトレンZocotren>乗り場はここから坂道を少し登った所からし出発する。

 

*ソコトレンは約40分で街を一周、展望台で少し止まってソコドベールに戻ります。電車の中の音声ガイドは日本語もあるのでまずこれに乗って町の概要をつかむといいですね。

*二階建てのツーリストバス(Bus Turistico)もあり1日券なら乗り放題で展望台も止まります(新幹線の駅にも止まるのですが1時間に1本)。

*ソコドベール広場にインフォメーションもあるので地図をもらって観光を始めましょう。

<ソコドベール広場>このアーチをくぐるとサンタクルス美術館

ソコドベール広場

トレドの色んなモニュモント

<トレド観光モデルコース>

全部入場しなくてもこの順で歩くと大体無駄なく街を歩けます。

トレドのモニュメントの位置

回り方はさまざまですがモデルコースとして1・サンタクルス美術館>>2・アルカサール(省いても)>>3・トレド大聖堂>>4・サントトメ教会>>5・グレコの家>6・トランシトユダヤ教会>>7・サンタマリアラブランカ教会>>そのまま大通りをっ下って行くとカンブロンの門に出るので右に歩いていくとビサグラ門。ここからトレド・バスターミナルは歩いて下り5分。

トレド、サンタクルス美術館

トレドの中心ソコドベール広場から馬蹄形アーチの城門をくぐって少し下ると16世紀初期の慈善病院が美術館になっている。トレドの大司教で枢機卿だったペドロ・ゴンザレス・メンドーサが病人と孤児の為の慈善施設を作ろうとしたが実現できずに亡くなった。イサベル女王が彼の遺志を受け継ぎ完成させた。建築はプラテレスコ様式で壁面の見事な細かい彫刻は見事。内部にはトレド近郊で発掘された考古学関連の出土品、エル・グレコの聖母被昇天リベラ、ゴヤの作品やレパントの海戦(オスマントルコとヨーロッパ連合軍の海戦)で使った旗(ここの一番の宝)が展示されている。

アルカサール

ローマ時代に裁判所があった場所にアルフォンソ6世の時代に作られた要塞。その後トレドを支配した民族が使用して来た。カルロス5世の時に増築されその後度々の改造と戦争で破壊された。スペイン内戦ではフランコ軍のモスカルド大佐が72日間籠城した。内部は軍事博物館になっている。(内部はあまり面白くないので行かなくてもいいというのは私の個人的意見です。)

 

トレド大聖堂

ソコドベール広場からマクドナルドの横の細い通りを覗くとトレド大聖堂の尖塔が見える。またはメインストリートを10分程歩くとトレド大聖堂。入口は正面向かって左側の通り沿い。切符と一緒にイヤホンガイド(日本語無)が付いてくる。

<注意>入場時男性は脱帽、2017年現在写真はフラッシュなし可能。

<トレド大聖堂外観>

トレド大聖堂

トレド大聖堂の歴史

西ゴート時代7世紀に既に教会があった。その後のイスラム教徒の時代はそこに大モスクが作られ。レコンキスタの後1227年フェルナンド3世の時代に現在のゴシック様式で着工。完成したのが1493年。(なんと270年間)その後の増改築で内部はいろんな時代の物が混在する。現スペインカトリックの総本山。

内部

中央祭壇>>> 木製の祭壇に新約聖書の場面が彫刻されている。

聖歌隊席>>>中央祭壇に向かい合ってコロという聖歌隊席。クルミの木で作られた席の背もたれはグラナダの陥落の様子。奥の中央はアラバスタ―の一枚石に彫刻されたキリストのタボル山での変容。

<聖歌隊席・グラナダの陥落の場面>

聖歌隊席

後陣(Girola) >>>ここだけがバロック時代の物で午前中の太陽の光を取り入れるために後から作られた。光が当たる方にもおびただしいバロック彫刻がある。

聖職者会議室>>重要な会議が行われる部屋でムデハル様式の天井や高聖職者たちの肖像画が楽しめる。

サクリスティア>>>天井はルーカジョルダンによる聖母マリアの奇跡。奥にエルグレコの聖衣剥奪やキリストと12弟子たち。

<サクリスティアにあるエル・グレコ聖衣剥奪>

エルグレコ聖衣剥奪

テソーロ(宝物館)>>>聖体顕示台(custodia)は一年に一度聖体祭の時に外に持ち出されて街の中を山車に乗せて練り歩く。重さ200キロの純銀製に金箔。

<聖体顕示台>

聖体顕示台

 

 

聖母降臨の礼拝堂>>7世紀トレド大司教になった聖イルデフォンソの為に聖母マリアがカズラを届けに天から舞い降りてきたところ。もともとここにあった西ゴートの大聖堂の礼拝堂でイスラム教徒の時代も壊されずに守られた。聖母が降りてきた石に触れられるようになっている。

 

トレド、サント・トメ教会

14世紀のムデハル様式の教会にエル・グレコの最高傑作「オルガス伯爵の埋葬」が展示されている。絵が有名になったのでお祈りする人の邪魔にならないように絵画を見る人の入り口が後から併設されて入場料を払って見学。一枚の絵しかない世界でも珍しい美術館。実在したオルガス伯爵が私財を寄付して教会を修復し信者たちに感謝された。1323年にオルガス伯爵が亡くなった折この教会でお葬式をしているとトレドの守護聖人でもある「二人の聖人が天から降りて来て遺体の埋葬を手伝った」という伝説を16世紀にエルグレコが作品にした。絵の中にエル・グレコと息子のホルヘ・マニュエルが登場する。それ以外のお葬式に参列している人物達も全員エルグレコの時代の実在した人々がモデル。

<サントトメ教会のオルガス伯爵の埋葬>

オルガス伯の埋葬

 

トレド、エル・グレコの家美術館

実際にエル・グレコがここに住んだわけではなくこの地区に住んでいた。ここはトレドの裕福なユダヤ人地区だった場所で当時の邸宅の様子が良くわかる。20世紀の初めにベガ・インクラン公爵が自分の屋敷のひとつをエル・グレコとその時代の美術館の為に提供した。エル・グレコのトレド全景12使徒達聖ベルナルディーノ等の作品や16世紀の家具、ムデハル様式の天井など建築も素晴らしい。

<エル・グレコのトレド全景・今と街の様子はほとんど変わっていない>

グレコ トレド全景

トランシト・ユダヤ教会

トレドのこの地区は12世紀重要なユダヤ人地区だった。フェルナンド3世聖王アルフォンソ10世賢王の時ユダヤ人学者たちが重用され集まったので13000人のユダヤ人がトレドに住んでいた。当時は10のユダヤ教会があったようだが現存するのはこことサンタ・マリア・ラ・ブラ教会のみ。ここは14世紀にペドロ1世残酷王の財務官を務めたサミュエル・レビが出資して創らせた。

<トランシトユダヤ教会内部>

トランシトユダヤ教会

サンタ・マリア・ラ・ブランカ教会

トレド最古のユダヤ教会として創られた。先のトランシトと同じで興味深いのはユダヤ人は本来寺院を持たないので当時のモスクの様式でイスラム教徒によって創られた。1405年にキリスト教の教会になるが壊さずそのまま使っていたので当時の様子をしのぶことが出来る。ムデハル様式と同じで気にしていなかったし寛容な時代だったのですね。

<サンタ・マリア・ラ・ブランカ内部>

サンタマリアラブランカ

それ以外のトレドの興味深いモニュメント


もっとディープなトレドモデルコース

エスカレーター登ったら>>8・クリストデラルス教会とプエルタデルソル>>ソコドベール広場>>3・大聖堂>>>4・サントトメ>>5・グレコの家>>6・7トランシトとサンタマリアラブランカ>>4サントトメに戻り後ろの方へ>>9・サンロマン教会>>10サント・ドミンゴ・エル・アンティグオ教会>>ここから急な坂を下るとエスカレーターで城壁の方へ降りれます。右の方へ歩くとビサグラ門。ビサグラ門を背に少し歩くとタベラ病院。バスターミナルまで歩いて10分

クリスト・デ・ラ・ルス教会とプエルタ・デル・ソル

街の城門だった太陽の門(プエルタ・デル・ソル)はムデハル様式で14世紀頃の再建。上の登ることが出来る。すぐ横にローマの石畳と下水の後がありここがローマの街だったのが良くわかる。

そのそばにクリストデラルス教会。西ゴート時代の教会の廃墟を使って1000年ころにイスラム教徒がモスクを作った。教会の入り口の足元部分はローマの遺跡が見える。その後12世紀に教会に変えられた。言い伝えによるとアルフォンソ6世がトレド入城の際王に随行していたエル・シドの馬がこの教会の前で突然ひざまづき進まなくなった。不思議に思って中を調べると壁の中から西ゴートのキリスト像がランプに照らされて発見された。「光のキリスト」が教会の名前>>「クリストデラルス」

 

西ゴート博物館(サンロマン教会)

13世紀のムデハルの教会だったものでサント・トメの塔とほぼ同じ形。ビシゴートの宝飾品や13世紀の平面のフレスコ画は見事。この辺りは車も通らない史お店も無く中世のムードが良く残っている。

サント・ドミンゴ・エル・アンティグオ教会

1579年エル・グレコはこの教会の祭壇画を完成させた。トレドに来て初期の大きな仕事でもありエル・グレコの思い入れの有った教会。そしてエル・グレコの最後の作品もこの教会の祭壇画「羊飼いたちの礼拝」現在はプラド美術館蔵。画家のお葬式はこの教会で行われここに今もエルグレコは埋葬されている。

<プラド美術館にある羊飼いたちの礼拝は元はこの教会の祭壇画>

エル・グレコ

タベーラ病院

トレド城壁の外に大きな建物があり16世紀に完成した病院。エルグレコの息子はここの礼拝堂の建設に携わっている。図書館には古文書が残されていて調度品の数々象牙のキリスト像等。絵画ではエルグレコやティントレット、リベラ、カラバッジョなどの作品が並ぶ。

トレドの歴史を少し


ローマから西ゴート

ローマ人はトレドの戦略的な地形を利用してイベリア半島の中央にあるこの町にトレトゥムという要塞都市を作った。その後のゲルマン民族の大移動で5世紀に到来した西ゴート族は早くも554年にトレドを首都に選んでいる。周りが川に囲まれている地形は自然の要塞。40西ゴートレカレード王は589年の公会議でカトリックに改宗しスペインの宗教統一を果たす。陰謀と分裂で腐敗した西ゴートは711年イスラム教徒に敗北しトレドにはイスラム教徒たちが住むがキリスト教徒やユダヤ教徒と共

トレドとユダヤ人

スペインに多くの離散ユダヤ人が住んでいたが南がイスラム化した折迫害を受けキリスト教スペイン世界に多くのユダヤ教徒は移住してくる。12世紀にはトレドのユダヤ人人口は1万2000人を超えていた。スペインにいたユダヤ人をヘブライ語でセファルディと呼び独特の世界観を作って行く。ドイツのユダヤ人をヘブライ語でアシュケナジと呼んで区別した。

フェルナンド3世(1217-1252)は特に寛容な政策を取り様々な人種の融合が促進され賢王アルフォンソ10世(1252-1284)の時好んでユダヤ人学者を集め翻訳学校を開いた。アラビア語とラテン語に精通したユダヤ人やコンベルソ(改宗ユダヤ人)等知識人が集まり<トレド翻訳集団>が活躍。古典文献やイスラム教徒のアラビア語文書から哲学、神学、自然科学等が訳された。

アルフォンソ10世は特に自然科学に興味を持ち天文学に重心が置かれる。トレドで天体観測機器を使った観測を行わせ「アルフォンソ天文表」が作成されこれは1627年までヨーロッパの天文学の基本文献だった。フェルナンド3世とアルフォンソ10世はセビージャで亡くなりセビージャの王室礼拝堂に埋葬されている。

次第に反ユダヤ感情が高まりカトリック両王による1492年ユダヤ人国外追放で文化的経済的に大きな痛手を受ける。(特にフェルナンド王はユダヤ人からの借金取り消しと彼らの財産狙いだった)

トレドはムデハル様式の街

様々な人種と宗教が共存していたトレドにはキリスト教徒支配下のイスラム様式を開花する。この様式をムデハル様式と呼ぶ。当時のユダヤ教会(トランシト、サンタ・マリア・ラ・ブランカ)やキリスト教教会(サントトメ教会、サンロマン教会等)等トレドにはたくさんのムデハル様式を見ることが出来る。今ではほとんど考えられないことでカトリックの教会がアラビア様式。ほかの国では見ることのできない非常に珍しいものです。

大帝国スペインの首都に

グラナダ陥落のあと統一スペインの首都は移動宮廷と言って国王達が特に首都を定めなかったがカルロス5世とフェリペ2世の時にトレドは大帝国の首都になる。この時代が日の沈む事無き大帝国。

フェリペ2世が首都をマドリードに移動させることによってトレドは時間を止めた。エル・グレコはこの頃にトレドにやって来て生涯トレドで過ごした。またこの頃日本からの天正遣欧使節団がトレドで滞在していることがわかっている。日本からの少年使節達がトレドでエル・グレコの絵を見たかも、すれ違ったかもしれないのです。

トレド観光まとめ

スペインに沢山ある世界遺産の中でも重要なトレドがマドリードから簡単にアプローチできるのは観光客としては有り難い。持ち時間と興味によって半日でも一日でも又は一泊しても充分楽しめる街です。旧市街の中に小さなホテルがいくつかあって夕暮れ時の静かになった観光客が歩いていないトレドは本当に素敵です。

モデルコースを用意しましたが迷子になるのも旅行の楽しみのひとつ。発見や出会いがそういうところに隠れているに違いない。行ってらっしゃーい。

スペインの歴史ダイジェスト版