ウマイヤ朝とアッバース朝、アル・アンダルス

アンダルシア白い村

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アル・アンダルスは南スペイン全体のイスラム時代の呼び名。「スペインは違う」と言われるのは長いスペインの歴史の中で700年以上にわたるイスラム支配が有った。スペインに711年に入って来たイスラム教徒たちはイベリア半島を短期間に制圧。ローマ時代の橋や幹線道路が半島中に巡らせれていたのでそれらの道路を使いイベリア半島ほぼ掌握する。それらの橋には今も使っている物がある。そして西ゴートの貴族階級は抵抗せずイスラム軍と和解する方を選んだようだ。スペインのイスラム支配時代が始まった。

アル・アンダルースのイスラム支配

当時のシリアは先進地域でイスラム教を広めながら北アフリカを制圧し西ゴートの混乱に乗じてスペインに入って来た。北部の山岳地帯をのぞいてはアル・アンダルスと呼ばれ首都をコルドバに定めた。シリアのダマスカスからの「ウマイヤ朝カリフ」の支配下にはいり総督を派遣しイベリア半島を統治した。カリフはアミールと呼ばれる総督を派遣してイベリア半島を統治させた。

実際は差別のある混合部隊

イスラム教徒と書いているのは実際は民族的にはいろんな種族がやって来ていて共通点は宗教、すなわちイスラム教徒という事だけだった。アル・アンダルスはアラブ人シリア人ベルベル人などの混合部隊によって統治される。その彼らの間も軋轢や紛争があったようで特にシリアのウマイヤ朝アラブ人優遇政策を取ったので貴族や指導者階級はアラブ人でモロッコのベルベル人は山岳地帯や貧しい土地で生活を余儀なくされ格差がその後の確執の種になる。

他宗教にも寛容な政治

キリスト教徒やユダヤ教徒も税金さえ余分に払えば信仰の自由があったので財産を没収されたり戦って命を落とすより和平を選び懐柔されていく。又イスラム教徒に改宗し自由の身になる奴隷もいた。貴族階級にもイスラム教徒と婚姻関係を持ち支配階級に入るものもいたので宗教的にも寛容な時代だった。

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イスラム教徒にとってユダヤ教もキリスト教も同じ聖典の民なので宗教的な対立はなかった。これが半島の征服を容易にしたと言われる。

トゥール・ポワチエの戦い

この勢力がさらに北へ進軍しピレネー山脈を越えてフランスまで行く。フランスはフランク王国の時代だった。勢い増したイスラム軍は732年トゥール・ポアチエの戦いでカール・マルテルに敗れる。以降イスラム教徒たちはアル・アンダルスに留まった。(カール・マルテルの息子がピピン。ローマ法王によって戴冠しそのお礼に土地をプレゼントしたのが今の法王領の始まり。さらにその息子がカール大帝)

キリスト教徒側では大勝利と歴史に名を残す大戦争になっているがイスラム側に記述では数多く戦った中の珍しく負けた戦争位の感覚だった。私たちが学校で習う世界史は全部ヨーロッパ側から見たもの。歴史は両側から見てみないと本当の理解は難しい。

ダマスカスで革命が起こりウマイヤ朝は倒れる

ウマイヤ朝の首都ダマスカスアッバース家が革命を起こしウマイヤ王朝は倒れた。もともとウマイヤ朝の成立にも不明な点があり不満分子が多かった。(4代目カリフ・アリーの暗殺はウマイヤ家によると言われている。その後ウマイヤ家はダマスカスを首都にウマイヤ朝を作った)アラブ人優遇政策など非アラブのイスラム教徒に対してもキリスト教徒と同じく税金が課せられていた。ムアーウィヤが今までの慣例に反して世襲制を導入。歴代のカリフたちの享楽的な生活などが厳格なイスラム教徒たちの非難の的だった。

アッバース家はイスラム教の始祖モハメッドの叔父の子孫。ウマイヤ朝を倒し新しい王朝が始まる。非アラブ人特にペルシャ人との融合し革命が起こった。アラブ人優遇政策をやめイスラム教徒はみな平等に非課税。ペルシアの進んだ文化と融合。

製紙法が唐から伝わる

話は少しそれますがこのアッバース朝時代中国は唐の玄宗皇帝の時代。領土拡大政策をとっていた唐に侵略されると思った弱小国家タシュケントから支援を頼まれたアッバース朝は唐と戦って大勝しています。この時の中国の捕虜の中に紙漉き職人がいて製紙法が伝わったと言われています。紙が使わることによって後に多くの古代の文献を訳したものを書き移し保存することが出来るようになる。

首都はバグダッドへ

次の時代に首都はダマスカスから今のイラクのバグダッドに移動し人が集まり大いに栄える。100万人とか150万人とかいろんな説があるがとにかく当時にしたら他に無いほどの巨大都市だった。

知恵の館

アッバース朝第2代カリフのアル・マンスール(754-775年)はビザンチンの皇帝に施設を派遣し古代ギリシャの数学の教科書、特にユークリッドの著書を求めている。そのために同じ重さの金を支払ったと伝えられている。

第7代カリフ、アル・マアムーンの時(830年)に知識吸収欲は最高潮となりバグダッドに知恵の館という政府機関を作っている。知恵の家には多数の学者を雇ってビザンチン帝国から求めてきたギリシャ語の文献をまずシリア語に訳しそれをアラビア語に訳した。ギリシャ語からシリア語に訳すのにキリスト教徒が雇われた。

国家権力を使って大規模な翻訳事業が約200年間行われ当時存在したギリシャ語の文献はほとんどアラビア語に訳されたという。訳したものを残すために紙に書くということが必要になる。その紙の製紙法は上記で触れた唐の時代の中国との戦いで手に入れた。

後期ウマイヤ朝(後ウマイヤ朝)

この革命から命からがら逃げたウマイヤ家の人々がいた。親戚筋を頼って隠れたり助けられたりしながらはるばるアル・アンダルス迄やって来てコルドバを首都にカリフ王国を創る。バグダッドも遠いところだったのであまり気にせずほっておいてくれたようで、ここからスペインで正当のウマイヤのカリフによるアルアンダルス支配、後期ウマイヤ朝(後ウマイヤ朝)が始まる。

スペインの歴史はドラマチックで次から次へと民族や宗教が変わって混血していくのです。

後期ウマイヤ朝の記事はこちらから <後期ウマイヤ朝の記事はこちら>

スペインの歴史ダイジェスト版はこちらから  <スペインの歴史ダイジェスト版>

投稿者: 大森由美

スペインに1989年から住んで日本からのお客様と旅に行ったり美術館を巡ったりしています。お休みの日は夫とキャンピングカーで放浪、スペインに長年住んでもスペインが大好きで日本から来たお客様にもスペイン大好きになってもらうために働いています。趣味はバイオリンとスキーとワイン。

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