イスラム科学がルネッサンスを生み宗教改革がイエズス会を作ったという歴史のお話

アルフォンソ10世

 

 

イスラム科学とルネッサンス、そして宗教改革とイエズス会の登場までの歴史のお話。世界は繋がっていて歴史は絡み合って動いている。イスラム教が始まっていなければルネッサンスは興らなかったし宗教改革が無ければイエズス会は出来なかったのだ。イエズス会が無ければ日本にキリスト教は伝わらなかったかもしれない。世界布教を目指したイエズス会が結成されるところまでの歴史の物語です。

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Contents

イスラム圏は先進地域だった


バグダッドの「知恵の館」

長い間知識の先進地域はイスラム圏だった。アラビア半島でイスラム教が始まりモハメッド登場から僅か15年で巨大な大帝国を作り上げた。草原の民が作った道をアラビア商人たちは商品だけでなく文化や文明や知識を運んだ。

<商人たちのルート>

シルクロード
Whole_world_-_land_and_oceans_12000.jpg: NASA/Goddard Space Flight Center
public domain

交通網が整備され海上交通も盛んになり重要な街が貿易路として繋がった。

<ムーア人のバザール>

ムーア人のバザール
public domain
Title The moorish bazaar wikidata:Q20058474
Source/Photographer Edwin Lord Weeks

ウマイヤ朝の後のアッバース朝は古代のギリシャをはじめとする古典の知の遺産をアラビア語に翻訳して知識を継承していた。830年にバグダードに作られた「知恵の館」は図書館であり学術研究所であり天文台も併設されていた。

<13世紀の書物に描かれた当時の図書館>

13世紀のイスラム圏の図書館
By Zereshk – wikipedia public domain
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2809505

 

製紙法

タラス川の戦い(現カザフスタン751年)で唐と一戦を交えたアッバース朝が捕虜にした中国人に紙漉き職人がいた。これによって製紙法がイスラム世界に伝わる(別の説もあるそうです)。羊皮紙のコーランを作るためには300頭もの羊が必要だったが紙が伝わることで大量に作ることが出来たコーランは飛躍的に人々に伝わって行った。それまで羊皮紙にオイル・ランプから取られる煤で書かれた文字は水で簡単に消すことが出来き書類が改ざんされる恐れがあったが紙の伝搬でこれが出来なくなった事は大きな副産物だった。知識を多くの人が共有できる時代になった「紙の伝搬」は当時の社会に大きな変化を与えた。現在のインターネットの普及に似ている状態だと思う。

<13世紀?頃の紙にアラビア語で手書きの書物>

wikipedia CC BY-SA 3.0
Source/Photographer Transferred from en.wikipedia to Commons using CommonsHelper. on 9 February 2008 (first version); 9 February 2008 (second version). Original uploader was Danieliness at en.wikipedia.

 

「知恵の館」には古代ギリシャのプラトンの国家論、アリストテレスの形而上学、ユークリッド、アルキメデス、プトレマイオスの書物やヒポクラテスの医学書が積極的に集めれ訳された。インドの数学や天文学の著書が訳され最初のアストロラーベ(天文観測器)が作られた。インドとギリシャの数学を総合して代数学=アルゴリズムが確立した。バグダッドはユーラシア一の知識の宝庫だった。2003年米軍主導多国籍軍により陥落したバグダッドはそんな大切な街だった。

*古代ギリシャではすでに地球は丸かったしほぼ正確に地球の大きさを計測していた。平面充填や三角関数等の数学や物理、人はなぜ生まれ生きるか、物の根源は何なのかと哲学者が考えて暮らしていた。今から2000年以上も前の人々の知識。

12世紀ルネッサンス・知識の継承


十字軍遠征

セルジューク・トルコの拡大に驚いたビザンチン帝国がローマ法王ウルバン2世に支援を頼んだのが発端となりエルサレムに向かって聖地回復の軍が向かった。

<第5回十字軍の上陸するキリスト教徒の騎士たち>

第5回十字軍ダミエッテ上陸
wikipedia public domain

熱狂的に約200年の間合計7回略奪と残虐の限りを尽くしたが十字軍のキリスト教徒達だった。災難だったのはイスラム圏の民衆でこれは天災なのかと驚き逃げまどい焼き討ちに逢い殺戮され略奪された。十字軍遠征で人が移動し東方からの進んだ文明が遅れたヨーロッパに入って来た。

スペインのトレド

イスラム圏で大切に受け継がれた知識を今度はラテン語やカスティーリア語に訳す翻訳作業が始まった。スペインで実は戦争ばかりしていたわけではなかった。陥落した後期ウマイヤ朝のコルドバから学者が集まって来てトレドに呼ばれ厚遇された。

<トレドの街>

トレド展望台
筆者撮影

 

12世紀から13世紀にカスティーリア王のもと翻訳学校が作られアラビアの医術や天文学を積極的に取り入れていた時代があった。13世紀のアルフォンソ10世は「アルフォンソ天文表」を編纂させ17世紀(コペルニクス登場まで)ヨーロッパで使われていた。

<アルフォンソ10世賢王>

アルフォンソ10世
wikipedia public domain
Source http://www.asesoriamoran.com/historia_de_la_contabilidad.htm
Author Alfonso X el Sabio (1221 — 1284)
Permission
(Reusing this file)
PD-Old

イスラム圏とキリスト教世界の中継地点としての役割を担うトレドに翻訳集団が集まりイスラム教徒ユダヤ教徒キリスト教徒たちが協力して多くの文献をラテン語やカスティーリア語に訳した。これらによってヨーロッパは当時の先進技術に触れることになる。ヨーロッパの人々が古代のギリシャの知恵を知ったのはイスラム圏を通してだった。

イタリア・ルネッサンス


十字軍遠征をきっかけにイタリア諸都市は繁栄し香辛料の貿易で商人達が豊かな財力を手にした。胡椒などの香辛料は伝染病の予防に使われペストが流行ったヨーロッパで高価な値段で取引される貴重品だった。

<死のダンス、ペストの流行の頃の人々の人生観>

死のダンス
public domain

香辛料や絨毯、宝石等豪華な品物と共に東方からの進んだ文明が伝わって来る。繰り返すがいつの時代も商人たちは物と一緒に文化や知識を運んだ。長い間イスラム教徒達によって研究されていたアラビア語に訳されたギリシャの文献が商品と共に北イタリアに入って来て人々を刺激し科学を推し進めた。またコンスタンティノープルの陥落でビザンチン帝国の学者たちが北イタリアに逃げて来て知識を運んだ。

<コンスタンティノープルの陥落>

コンスタンティのポリスの陥落
wikipedia public domain
Source www.bnf.fr
Author Bertrandon de la Broquière in Voyages d’Outremer
フィレンツェ

お金があるところに洗練された文化が栄える。北イタリアは貿易で栄え富裕な商人たちが登場し潤沢な税金を払い国も栄えた。

<フィレンツェの街>

フィレンツェ
wikipedia CC3.0
Source Own work
Author Amada44

金融業で財をなしたメディチ家が登場しフィレンツェにプラトン・アカデミーを作った。名前はアカデミーだが学校というより仲間が集まるサロンのようなものでコシモ・ディ・メディチがメディチ家の別荘を利用してプラトンの著作をラテン語に訳させたのが始まり。コジモの孫のロレンツォもこれを引き継ぎ発展させ人文主義者だけでなく建築家や彫刻家、画家たちが集まり保護し援助した。

<ロレンツォ・ディ・メディチ、イルマニフィコ>

ロレンツォ・ディ・メディチ
wikipedia public domain

 

まだ子供だったミケランジェロは最初ドメニコ・ギルランダイオに弟子入りするがそのずば抜けた才能に感心した師匠からロレンツォ・ディ・メディチに紹介され引き取られる。ロレンツォが亡くなった後ミケランジェロはフィレンツェを離れしばらくしてからローマへ向かいローマ法王の仕事をすることになる。レオナルド・ダビンチも同じころにロレンツォ・ディ・メディチの仕事をしている。ルネッサンスのマルチ天才たちの登場だ。

 

科学者たちの登場

古典の書物がヨーロッパに伝わり絵画や彫刻、建築が発達したと同時に科学者たちは宇宙の真理を説明しようとした。世界の秩序には私たちには手の届かない神の力が関係あるに違いないと思いそれを知りたいと思った知的欲求が科学の始まりで今もそれは続いている。

遅れていたヨーロッパにコペルニクスやブルーノ、ガリレオが登場した。望遠鏡が作られ惑星の不規則な動きを見た科学者たちが天動説に疑問を持ち始めた

<コペルニクスの「天体の回転について」>

コペルニクスの天体
By Nicolai CoperniciCreated in vector format by Scewing – [1], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=31611378
<ガリレオ・ガリレイによる月の満ち欠けの研究図>

ガリレオの月の満ち欠けの研究
By Galileoyh – 不明, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=238890

*天動説=地球は不動のもので宇宙の中心にあり天体は地球の周りを廻っているという説。2世紀プトレマイオスが宇宙を説明しようと唱えた説だがギリシャの学者たちは既に地動説も説明しようとしていた。聖書の記述と天動説を結び付けたのがキリスト教。20世紀にローマ教会が地動説を正式に認めた。

 カトリック世界


ローマ法王とサンピエトロ寺院

キリスト教の力が絶対だった中世から十字軍遠征の失敗で権威を失墜したローマ教会。またペストの流行で街が壊滅する中、教会は苦しんでいる人々の救いにならなかった。聖職者も私財を肥やし聖職の地位を売買するものまであらわれた時代だった。

<ジョバンニ・パオロ、サンピエトロ寺院>

サンピエトロ寺院、ジョバンニパオロ
wikipedia public domain
 ローマ法王

ローマ法王はカトリック世界のトップ、神の代理人。今でも枢機卿達から法王選挙で選ばれる。ルネッサンス時代は莫大な袖の下を配り当選するローマ法王達が登場する。

アレッサンドロ6世

聖職売買と親族登用で有名なのがボルジア家のスペイン人ローマ法王アレッサンドロ6世。スペインのイサベル女王とフェルナンド王にカトリック両王(Reyes・catolicos)という名前を与え、トルデシージャス条約の線を引いて地球を2つに割ったのもこの法王だった。現代でも時々登場する権力を乱用し私利私欲の為に暴利をむさぼりこの世の春とばかり現生を生き抜く人物だ。神に近づく為に宇宙の秩序を解決しようとする人々の対局にいたのがローマ法王、神の代理人だった。

<アレッサンドロ6世>

アレキサンダー6世
wikipedia public domain http://www.comune.fe.it/diamanti/mostra_lucrezia/quadri/q08.htm

この時代のローマ法王は政治力の有る人物が多く権力を振りかざすいわゆる強欲な悪人だが豪快で決断力があり自己中心だが魅力的な人物が連続して登場した。

ユリウス2世

次のユリウス2世はアレクサンドル6世とは終生ライバルだった人物でアレキサンドル6世亡きあとローマ法王に選ばれると、ここぞとばかりボルジア家の力を一掃する。アレクサンドル6世の息子チェーザレ・ボルジアが力尽き戦死したのもこの時代。

<ユリウス2世、ラファエル画>

ローマ法王ユリウス2世
By ラファエロ・サンティ – National Gallery, London, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=100865

ユリウス2世は芸術愛好家でブラマンテ、ラファエロ、ミケランジェロなどに援助を惜しまなかった。ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の天井画を頼みサンピエトロ寺院の新築を決定する。ミケランジェロは彫刻家で何をおいても彫刻がしたかった。絵画なんてやりたくなかったのでこの注文から何とか逃げようとしていたがユリウス2世の説得と策略で有名なシスティーナ礼拝堂の天井画は完成する。

<ミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂一部、神の手>

システィーナ礼拝堂、ミケランジェロの神の手
wikipedia public domain
Web Gallery of Art[1]
Permission
(Reusing this file) PDArt
レオ10世

その後のレオ10世はフィレンツェのメディチ家出身。フィレンツェの黄金時代を築いたロレンツォ・ディ・メディチの次男。ミケランジェロやラファエルらを使い贅沢三昧に湯水の様にお金を使ってサンピエトロ寺院を飾り立てた。特にラファエルを取りたて多くの作品を注文した。

<レオ10世、ラファエル画>

ローマ法王レオ10世
By ラファエロ・サンティ –  パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=52177989

レオ10世の浪費はとんでもなくその資金が足りなくなると免罪符をドイツで売って資金を稼いだ。優秀な営業マンのような修道士テッツェルが登場しドイツの民衆に売りさばきローマに大金が流れ更にローマの街は飾り立てられていった。(ローマに対するドイツ民衆の憎悪は募り後のサッコ・ディ・ローマに繋がる)

<免罪符を売る修道士テッツェル、19世紀の絵画>

免罪符を売る修道士
wikipedia public domain
免罪符(贖宥状)

人は必ず死ぬ。カトリックでは死後の魂の存在は永遠だがその後、地獄へ落ちるか天国へ行けるかは大きな問題だ。地獄へ落ちたら燃え盛る炎で焼かれてしまう。でも、「これを買えばあなたの罪は許されて魂は間違いなく天国へ行けます!」という素晴らしいものが売り出された。これが免罪符(贖宥状)。

<レオ10世発行の免罪符>

レオ10世発行の免罪符
パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=384403

例えば「一年間位の収入だったのでは?」という説がある。少し高いが天国へ行けるのなら日常は少し貧しい生活をしてでも手に入れたい。買えば死んだあと天国へ行けるのだから。ところが暫くしてローマのお金が使いつくされると又新しい免罪符が販売された。今度の新製品は改良版「あなたの死んだお父さんもお母さんも天国へ連れていけます!」

<地獄で苦しむ人々、教会の彫刻>

教会の地獄の彫刻
筆者撮影

ペストの流行で家族の死を人々が身近に見た時代、教会の力は絶大で今日を我慢してでも天国へ行きたいと思った民衆の心を利用した。しかしそんな横暴がいつまでも続くわけは無く振り子は大きく揺れ戻す。

宗教改革


ここで登場するのがマルティンルター。修道士だったルターは腐敗する大きな権力に対し立ち向かった。1517年10月31日ビッテンベルク教会の門に95か条の論題を張り出してカトリック教会を批判した。この前年スペインではフェルナンド王が亡くなり孫のカルロス(後の神聖ローマ帝国カルロス5世)がスペインへやって来る。

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*カルロス1世スペイン王は(後の神聖ローマ帝国皇帝カルロス5世)生涯プロテスタントに苦しめられる。フランスはカトリックの国なのに対スペインでプロテスタントを煽りイギリスのエリザベス女王の時代は後ろからネーデルランドを動かしスペイン王フェリペ2世は苦しめられた。ずっとずっとスペインの頭痛の元になるプロテスタント問題がここから始まった。

 

<ルターが95か条の論題を張り出す。19世紀の絵画>

ルター95か条の論題
By Ferdinand Pauwels – flickr, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3767049

聖書の中に免罪符は出てこないしローマ法王の存在自体書かれていない。カトリックには山のように聖人がいるがこれも聖書には書かれていない事だ。「信仰は個人と神の間でなされるものではないのか」という神学論争をローマ教会に仕掛けた。

本人はこれほど大きなうねりになるとは思っていなかっただろうと想像するがこれが宗教改革となり、小さな一石が大きな波となった。

 

*当時の聖書はラテン語で書かれていて礼拝や聖歌、ミサで使われる言葉もすべてラテン語だった。庶民には全く解らず神の言葉は普通の人に理解できないものだった。それがわかる神父や聖職者は庶民と神を繋いでくれるありがたい存在だ。ルターはラテン語とギリシャ語の聖書をドイツ語に訳しそれがグーテンベルグの印刷術の発明によって一気に広まった。人々が自分たちが話す言葉で聖書を読めるようになった事は画期的な変化だった。聖職者を介さず人と神の間にあるのは聖書のみというのがプロテスタントでローマ法王、懺悔、聖人等すべて否定した。

 

<1568年の印刷所の様子、1時間に240枚印刷出来た。>

1568年印刷をする職人
By Jost Amman – Meggs, Philip B. A History of Graphic Design. John Wiley & Sons, Inc. 1998. (p 64), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2777036
対抗宗教改革

これは大変とカトリック教会が動き出した。実はもっと前から教会改革は様々な修道会によって行われていたし改革者たちウィクリフやヤン・フス、サボナローラなどが登場して各種修道会が作られ教会を改革し刷新しようとしていた。スペイン国内では積極的に様々な修道会が宗教の純化に向かっていた。ここにカトリック教会の中の宗教改革が始まった。これを対抗宗教改革又は教会改革呼ぶ。

トリエント公会議

混乱を収束させカトリックの立て直しを目指す為にカルロス5世の要望で始まったのがトリエント公会議。ローマ法王パウルス3世の招集により1545年に始まった。この会議はなんと1563年カルロス5世の死後までの間18年間に渡って断続的に行われた。

<トリエント公会議、17世紀の絵>

トリエント公会議
By 不明 – Staatliches Hochbauamt Donauwörth, Museo Diocesano Tridentino, Heiligenlexikon; transfered from de Wikipedia, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1148806

トリエント公会議にてカトリックの改革と異端審問が始まる事になる。異端審問や魔女狩りは既にあったが厳しい宗教裁判が行われるようになり振り子は極端に揺れ戻し特に書物の内容に対しても厳しい検閲が行われる時代がやって来る。

*カトリック公会議=カトリック教会においてローマ法王がすべての枢機卿、司教、神学者等を集めて教義や教会法について決定する最高議決機関。

 

<パウルス3世、ティチアーノ作>

パウルス3世
wikipedia public domain

イエズス会


結成

カトリック教会内部の宗教改革となる対抗宗教改革の中1534年ローマ法王への服従を誓いカトリックの世界布教を目指す修道会が作られた。ローマ法王を頂点とするピラミッド組織の軍隊のような規律を持ち宣教師は全員良家の息子で大学出のエリート集団、これがイエズス会。1540年にパウルス3世から承認をされ神とローマ法王の戦士として世界宣教に努めることを使命として結成された。イグナチウス・ロヨラを中心とし6人の同志と共にパリのモンマルトルの丘で誓約をたてた。

聖イグナチウス・デ・ロヨラ

ロヨラは1491年バスクの山の中のアスペイティアにあるロヨラ城で貴族の子として生まれた。今も出生のロヨラ城は残る。

<バスク地方アスペイティアにあるロヨラ城>

ロヨラ城
wikipedia CCBY SA3.0
Source Fotografía propia
Author Txo

フランスとスペインの戦争のパンプローナの戦いの対フランス戦で負傷し8か月ロヨラ城で療養する。その時そこにたまたまあった宗教書を読み漁るうちに回復する頃には神の戦士になっていた。元々はこの世の富と名誉を求めるタイプの人間だったロヨラは怪我によって精神世界の探究者となった。

<聖イグナチウス・デ・ロヨラ>

イグナチウス・デ・ロヨラ
De Peter Paul Rubens – Trabajo propio, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6675601

カタルーニャのモンセラの修道院で全生涯の告白をしマンレサの洞窟で瞑想と苦行。この頃の瞑想体験をまとめたのが「霊操」で今もイエズス会の重要な修練方法として使われている。聖地巡礼をした後バルセロナのラテン語学校に33歳で入学し子供たちと机を並べて勉強した。サラマンカ大学へ行った後、パリ大学に1528年に37歳で入学。そこで同志となる人物を探し計画を実現するため説得をして1534年8月15日聖母被昇天の日にモンマルトルの丘で神に誓願を立てた。その同士の中に同じバスク人のフランシスコ・ザビエルがいた。

聖フランシスコ・ザビエル

フランシスコ・ザビエルは今のスペイン北東部で生まれたバスク人。その頃スペインはカトリック両王がグラナダを陥落させほぼ統一された時代に北東部にあったナバーラ王国の貴族の子として1506年に産まれる。ロヨラより15歳年下になる。今もフランシスコ・ザビエルが生まれた城「ザビエル城」が残る。

<ザビエル城>

ハビエル城
CC BY-SA 3.0 es
Source Own work
Author Rayle026あ

*ナバーラ王国=ピレネー山脈ふもとにあった国でフランク王国からバスク人を中心に反乱を起こして別れた。スペインとフランスの国境にあるため紛争地となり1515年フェルナンド・カトリック王によってスペインに併合される。

 

<ムリーリョが描いた聖フランシス・コザビエル>

フランシスコ・ザビエル
De Bartolomé Esteban Murillo – Wadsworth Athenaeum, Hartford (CT) [1]Originally from la.wikipedia; description page is (was) here* 20:22, 6 Decembris 2005 [[:la:User:Tbook|Tbook]] 694×958 (108,346 bytes) (Imago Sancti Francisci Xavier)(Uploaded using CommonsHelper or PushForCommons), Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1262446
フランシスコ・ザビエルの父親はナバーラ王国の首相、母親は貴族の出身。5人兄弟の末っ子として生まれた。彼が6歳の時にスペイン(カルロス5世)とフランス(フランソワ1世)で戦争が起こり両国に挟まれ古くからの交通の要所だったナバーラ王国は中立を保とうとするがスペインから攻撃され併合される。(ロヨラが負傷したと同じ戦争だが敵味方だった)ザビエル家は没落していくがフランシスコ・ザビエルは18歳でパリ大学へ入り抜群の成績で卒業する。そこでロヨラに気に入られ説得されイエズス会の結成メンバーとなった。

ポルトガル王の援助

この頃スペインとポルトガルは既に大航海時代に入っていた。トルデシージャス条約(1494年)によりスペインは西へ、ポルトガルは東へと行先が決まっていた。東へ向かうポルトガルはアフリカ西岸からインド航路を発見し1510年にはインドのゴアを武力占領してインド洋の覇権を握っていた。

<ポルトガル船のルート、喜望峰からインド洋に入りインドのゴアへ>

バスコダガマのルート
By User:PhiLiP – self-made, base on Image:Gama_route_1.png, Image:BlankMap-World6.svg, GFDL, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4805180

マレー半島からマラッカ(1511年)を武力で占領し香辛料貿易と交易システムを築いていた。これによってベネチア共和国の経済は大打撃を受けた。更に明王朝の中国に入り1517年には広州で通商を開始している。

 

ジョアン3世はアジアのポルトガル領土にキリスト教を布教する為にイエズス会に協力を頼んだ。明朝の中国での交渉に失敗し武力だけでは無理だと思った為宗教の力を利用しようとした。イエズス会の目的は世界宣教、渡りに船の形でポルトガル船に乗ってインド航路を通ってインドのゴアを目指す事になった。

<ポルトガル王ジョアン3世>

ポルトガル王ジュアン3世
By クリストヴァォン・ロペス – From en:Image:John III of Portugal.jpg, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=481187

*ポルトガル王ジョアン3世はマヌエル1世とカトリック両王の3女マリアの息子。ジョアン3世の結婚相手が狂女ファナの末娘カタリーナ。

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ザビエルはリスボンに呼ばれ1541年4月35歳の誕生日にポルトガル船で出発。途中モザンビーク滞在後インドのゴアに翌年1542年5月に到着している。

<フランシスコ・ザビエルのルート>

ザビエルの旅
File:St. Francis Xavier – Asia Voyages.svg is a vector version of this file. It should be used in place of this raster image when not inferior.
File:Xavier f map of voyages asia.PNG Go-green.svg File:St. Francis Xavier – Asia Voyages.svg

その翌年1543年種子島にポルトガル商人が到着している。ザビエルはその後東南アジアで鹿児島出身の日本人アンジロウかヤジロウという名前の男に逢い日本に行くことを決心し1549年日本にキリスト教が伝わる。ザビエルの苦労の多い旅についてはまた別記事で書きたいと思います。

長い記事読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

投稿者: 大森由美

スペインに1989年から住んで日本からのお客様と旅に行ったり美術館を巡ったりしています。お休みの日は夫とキャンピングカーで放浪、スペインに長年住んでもスペインが大好きで日本から来たお客様にもスペイン大好きになってもらうために働いています。趣味はバイオリンとスキーとワイン。

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