アルハンブラ宮殿の歴史と技術と観光の仕方、グラナダ王国<イスラム建築の最高芸術>

 

アルハンブラ宮殿は南スペインのグラナダにある世界遺産。その技術と観光の仕方と歴史についてまとめました。「宮殿」という言葉から受けるヨーロッパの王宮とは違い全体が一つの「都市」を構成するスペイン・イスラム芸術の最高峰。見学する季節や時刻で随分印象が変わる。できればゆっくりした時間の中で太陽の位置で変わって行く影の動きや噴水の水の音、ヘネラリーフェから風に乗ってやって来る花の香を感じたい。

注意:アルハンブラ宮殿は現在入場予約制。非常に予約が取りにくいので予定が決まり次第ネットで予約を入れましょう。ページ最後に予約先アドレスがあります。

アルハンブラ宮殿
wikipedia cc Alejandro Mantecón-Guillén

アルハンブラ宮殿


アルハンブラ宮殿注意事項

アルハンブラ宮殿は現在入場時間予約制。当日券枠は少なく希望の時間に入れない事も。

*時間の予約はナスール(ナサリエス)宮殿の入場の事。時間に遅れると絶対入れません。

*アルハンブラ宮殿入場時に身分証明書が必要。

*ヘネラリーフェに関しては午前と午後に分かれているだけ。午前午後はナスール宮殿の予約の時間に準じる。

*アルハンブラ宮殿内カルロス5世宮は無料で自由に入れる。

*それ以外の敷地内も入場券なしで自由に歩ける。

*写真はフラッシュなしで撮れる。

アルハンブラ宮殿見取り図
筆者作成

アルハンブラ宮殿見学

アルハンブラ宮殿は計画性を持って創られた宮殿ではなく何世代にも渡って増改築を重ねた都市複合体。化粧漆喰やタイル、天井や儚い水の音等を楽しみながら進んでいきましょう。順路になっているのでそれに従って進んでいくと以下の順にみることが出来ます。

アルハンブラ宮殿カルロス5世の宮殿

自由に入れるので時間のあるところで見学。内部の博物館に彫刻や寄木の扉等が展示されている。この丸い中庭は音響が最高に良いので6月にグラナダ音楽祭の会場になる。

アルハンブラ宮殿見取り図
筆者作成

<アルハンブラ宮殿カルロス5世宮>

アルハンブラ宮殿内カルロス5世宮殿
筆者撮影

アルハンブラ宮殿・入場券のチェック

カルロス5世宮の少し先に個人とグループは別に入場口が作られている。そこでアルハンブラ宮殿の入場券のバーコードのチェック。

*注意*

指定時間より早くは入れない

又指定時間から30分の間に入らないと入場できないので注意。

アルハンブラ宮殿見学中切符は合計4回チェックがあるので最後まで失くさないように。

アルハンブラ宮殿入場券
筆者撮影

アルハンブラ宮殿はメスアール宮から見学

アルハンブラ宮殿見学用地図
筆者作成

アルハンブラ宮殿に現存する中で一番古い部屋。そしておそらくアルハンブラ宮殿の中で一番改造を強いられている場所なので往時の姿は留めていない。この部屋には裁判所があったがキリスト教徒の時代に変更がされ礼拝堂として使われた。奥にはミヒラブというメッカの方角を示す窪み。アラビア文字や漆喰彫刻、天井の寄木細工が繊細で美しい。

<メスアール宮入口・壁面全体が幾何学模様>

アルハンブラ宮殿メスアール宮
筆者撮影

 

アルハンブラ宮殿コマレス宮

「大使の間」と呼ばれる大広間を含むコマレス宮はアルハンブラ宮殿の中で最も重要な核をなすもの。アラヤネスの中庭(写真下)には大きな池がありそこに映るコマレスの塔は水の上にあるように見える。

アルハンブラ、コマレス宮
筆者撮影

アルハンブラ宮殿大使の間

アルハンブラ宮殿にやって来た使節と王が謁見に使った大広間。

天井は寄木細工で満天の星空をイメージして創られている。平面すべてに漆喰のアラベスク模様。

弱小国になっていたグラナダが最高の見栄を切って外交官たちと謁見をした。明るい外からやって来た使節はうす暗い大広間に入り目がくらむ。後ろと前の光で王が光輝いて見える仕組みだった。

この部屋でコロンブスがイサベル女王から宝石箱を受け取ったと言われている。

<アルハンブラ大使の間の天井・白は象牙が使われている>

アルハンブラ宮殿コマレス宮殿
筆者撮影

アルハンブラ宮殿の技術


アリカタード<石を使った象嵌>

アリカテ(ペンチの様な物)でタイルを切り取り組み合わせていく。模様はすべて幾何学模様。タイル作りのプロセスは粘土の分離から。土を細かく砕き水と混ぜこねて形にしていく。

モザイクの為には発色が肝心。緑には銅青、コバルト黄色には鉄とマンガン。赤の混合の秘密は今もわからない。かまどを作り木材を燃やして900度の温度で24時間かけて焼き24時間かけてさました。

アリカタード
筆者撮影

神秘学と数学

アルハンブラ宮殿はイスラム教徒達の生活の場、偶像崇拝の禁止の為イスラム装飾は生き物の形を作らない。基本的には反復するリズム、果てしなく繰り返される模様が空間を埋め尽くし無限を感じさせる。

アルハンブラ、アラベスク模様
筆者撮影

二次元空間における回転対称性を分類するとその数は17種類しかない。このアルハンブラ宮殿ではすべての回転対象を使って壁面を飾っている。

<私が一番気に入っているタイル。水の動きの様に見える>

アルハンブラ、モザイク
筆者撮影

 

アラベスク模様の基本はユークリッド幾何学。ピタゴラス(BC582頃~496)が体系化しアルジャワリ(800-860)が拡張した三角法の基礎。または我々の手の届かないところに永遠不滅の完璧な存在があるとするプラトン(BC427~347)のイデア論がアラベスクの発展に影響している。

アルハンブラ
筆者撮影

 

四角形は四つの等辺を持っていることから自然界の等しく重要な要素と考えられていた。土、空気、火、水の四大元素。どの一つを欠いても物質世界は滅亡する。正四角形を重ねた八角の星はイスラム教徒が好んで使った形。

インドで発見されたゼロをヨーロッパに運んできたのもイスラム教徒。「アラビア数字」という進んだ数学はアラビア人がヨーロッパへ運んだ。

アルハンブラ宮殿
筆者撮影

 

アルハンブラ宮殿 ライオンの中庭

ここからはアルハンブラ宮殿内のスルタン達(王達)のプライベートな空間。列柱の森が砂漠のオアシスを感じさせる。

ライオンの中庭
筆者撮影

12頭のライオンは12角形の水盤を支えている。

ライオンは10世紀から11世紀頃のものだと想定されている。口から水を出すライオンは太陽を現わす円盤を支え12頭は黄道帯の12宮であり12か月である。4x3の12も古代から良く使われた数。12頭のライオンはソロモンの神殿にあった12頭の鉄の牡牛であり海を支えている。この海は天空の水がめも表していて海でもあり天空でもある。

ライオンの口からは水が出るためには水圧が必要。アルハンブラ宮殿は丘の頂上に創られておらず中腹にある。丘の頂点には今も貯水池がありシエラネバダから水路によって水が貯められている。それぞれの場所に必要な水が流れるよう標高差と管の太さで水量と水圧の計算がされている。

アルハンブラと光

アルハンブラ宮殿の建築は完璧に東西南北を向いている。それによって窓から入る光が時間を教えてくれる。もともと不規則な地形を谷や起伏を埋め立てることによって整列させてある。

夏のグラナダの太陽は容赦なく高い所から照らしつける。高い位置で運行する太陽が各部屋には差し込まないので夏は涼しい。冬の低い位置で運行する太陽はより奥の部屋にま光を届けるので冬は暖かくなる。

アルハンブラ
筆者撮影

アルハンブラ宮殿鍾乳石飾り

イスラム建築の天井に良く使われるのが鍾乳石飾り。

イスラム教創始者モハメッドは最初は迫害を受けていた。しばらく鍾乳洞の洞窟の中で隠れて暮らしていた時に大天使ガブリエルからコーランのインスピレーションを授かったことに由来する。

アルハンブラ宮殿のライオンの中庭に面するに「二姉妹の間」の天井も鍾乳石様式で飾られている。平面図は四角形だが八角形の星の形にし5416の断片を張り合わせてある。当時はさらにその上の窓は色ガラスで時刻と共に光が移り変わっていくように創られている。

天井に移される光が動くイメージ。空間の中の際限のない変化は天空をイメージしたもの。

<二姉妹の部屋の天井、窓には色ガラス壁は彩色されていた>

アルハンブラ宮殿2姉妹の間の天井
筆者撮影

アルハンブラ宮殿の庭「ヘネラリーフェ」

アルハンブラ宮殿見取り図
筆者作成

アルハンブラの建物から外へ出て順路を20分程登って行くとヘネラリーフェ(Generalife)に着く。アラビア語で楽園という意味の庭園。

当時とはかなり様子は変えられているとはいえ庭園の本質は失われていない。

楽園と同時にアルハンブラに住む王家への食糧を供給する農園や果樹園だった。そして小高いヘネラリーフェに香りの良い果樹や花を植えて宮殿に良い香りが流れる仕組みになっていた。

アセキアの中庭

内側に向いて作られた庭が安心感を与え水の音が心地よい。

真夏のうだる暑さの中でもここは水と風の流れで涼しいように高度や方角を計算し設計されていいる。最近の発見では雨の音を再現するための管もあったようだ。

<アセキアの中庭・水の音が心地よい>

アセキアのパティオ
筆者撮影

水とイスラム教徒

飲み水や宗教儀式の清め、入浴等イスラム教徒は当時のキリスト教徒よりも水と密接に繋がっていた。

農業や庭園への供給の為に用水路をくまなく創り水を供給した。王宮だけではなく市街地にも街の人々の為の灌漑設備が創られていた。

砂漠で水は宝、色の無い砂漠の民には花々の極彩色は憧れの対象。アルハンブラは水と色をふんだんに使った宝と夢の宮殿都市。

アルハンブラ宮殿入場券<絶対予約要です>

アルハンブラ宮殿当日券は早朝から並んでも買えないケースが続出ですの予定が決まったらネットで予約を入れてください。

<予約の仕方>

2017年から予約の仕方が変更になっています。下の公式ページ(日本語)から予約が出来ます。予約が大変難しくなっているので予定が決まり次第予約をしておくことをお勧めします。

Alhambra De Granada.org
以前は代行サービスで購入できましたが現在本人(最高10枚まで)しか購入できなくなり入場時に本人確認の為のパスポートのチェックが有ります。

アルハンブラ宮殿行き方

まずはグラナダへ

グラナダへはマドリードから飛行機で1時間、バルセロナから約1時間30分

マドリードから路線バスで約5時間

鉄道(新幹線は工事中ですがまだ未開通)。

マラガから路線バスで約2時間15分

セビージャから路線バスで3時間

コルドバから路線バスで2時間15分

*モデルコース:マドリードから新幹線(アベ)でコルドバへ移動(約1時間45分)コルドバから路線バスでグラナダへ(2時間15分)

グラナダ市内からアルハンブラ宮殿

*徒歩:ヌエバ広場(Plaza Nueva)からゴメレス坂を25分くらい登って行くと裁きの門。門から中に入れるが切符売り場は更に城壁沿いに15分くらい登って行く必要がある。

*バス:グラナダ市内を走るC3アルハンブラバスに乗ると切符売り場まで。カテドラル前やヌエバ広場にバス停がある。

*タクシー:ヌエバ広場にタクシー乗り場。

 

アルハンブラ宮殿の歴史

イスラム教徒がやって来た

西暦711年ジブラルタル海峡を渡ってやって来たイスラム教徒により西ゴート王国が滅ぼされイベリア半島はイスラム化した。南スペインはアル・アンダルスと呼ばれシリアのダマスカスのウマイヤ朝支配下にはいる。ところが本家のシリアで革命が起こりウマイヤ朝が倒された(750年アッバース革命)。シリアからウマイヤ家の王子が1人逃げて来てコルドバを首都に後期ウマイヤ朝を始める(756年)。

<コルドバ・メスキータ内部>

メスキータ
筆者撮影

 

コルドバ・カリフ王国は10世紀アブデラーマン3世の時にシリアから独立。コルドバのメスキータ(回教寺院)はさらに拡張され街には大学や図書館、病院があった。後期ウマイヤ朝はその後11代250年の間は大きな内紛も無くコルドバ・イスラム王朝は栄華を極めヨーロッパのどの国とも比較できないほどの洗練された先進地域となった。

<コルドバの街、当時の面影が残る白い村>

コルドバの旧市街
筆者撮影

レコンキスタが始まる

11世紀初頭の権力闘争によりコルドバ・カリフ王国は分裂し後期ウマイヤ朝は1031年滅亡。北の方からキリスト教徒のレコンキスタ(国土回復戦争)が始まっていた。

<最初のキリスト教徒が勝利を得たコバドンガ>

コバドンガ
筆者撮影

トレドは再びキリスト教徒の手に落ち南スペインはタイファと呼ばれる小さなイスラム諸国が出来る。グラナダもその一つだった。北アフリカのアルモラビデ族がイスラム教徒の支援に入りいくつかの地域を支配下におさめる。12世紀にはアルモアデ族が入って来て領土を取り戻すがキリスト教徒軍はナバス・デ・トロサの戦いでイベリア半島北半分を取り戻した。イベリア半島のイスラム教徒の斜陽の時代、この混乱期にグラナダの丘の上に創られたのがアルハンブラ宮殿。

アルハンブラ宮殿ナスル王朝

「モハメッド・イブン・アラマール・イブン・ナスル」のちの「モハメッド1世」はハエンのアルホナの領主。ここはキリスト教徒との戦いの前線地帯だ。時代はコルドバが1236年に陥落しセビージャも間もなく陥落という頃。斜陽のイスラム教徒の王朝として1238年前述の「モハメッド1世」が始めたのがナスル王朝(日本は鎌倉時代)、グラナダ王国の始まり。

アルハンブラ宮殿の建築

<グラナダ最初の王モハメッド1世>

アルハンブラ宮殿、最初の王モハメッド

「モハメッド1世」はグラナダの丘の上に既にあった要塞を居城と決める。キリスト教徒に勝利するのは不可能と読んだ彼は協定を結ぶに至る(1246年対カスティーリア王フェルナンド3世)。カスティーリア王国に税金を支払いグラナダを首都とするアルメリアからジブラルタルまでの地域の独立が謳われていた。すでにあった要塞を改築し60年かけて水道を設置しアルカサバ(要塞)を拡張し宮殿を創った。(その宮殿部分は後に壊されて現存していない。)「モハメッド1世」の外交政策というと聞こえがいいがあらゆる周りの敵たちの顔色を窺いながらの外交。その息子「モハメッド2世」と2代70年の間にグラナダ王国は基礎を固めアルカサバを拡張していった。これがアルハンブラ宮殿の誕生。この時代は宮殿という華麗な物ではなく守りの城、要塞だった。

<アルハンブラ・アルカサバ>

アルカサバ
wiki Alcazaba in Alhambra, Granada
Author Michal Osmenda

アルハンブラ黄金時代

ナスル王朝の全盛期は「ユースフ1世」(1333年~54)とその息子「モハメッド5世」(1354年~91)の時代。「ユースフ1世」の時代にコマレス宮を中心とする部分が創られモハメッド5世の時にアルハンブラ宮殿内のライオンの中庭を中心とする建物が創られた。今見るアルハンブラ宮殿の主要の部分。

<水面に映るコマレス宮殿>

コマレス宮殿
筆者撮影

<ライオンの中庭は王達のプライベートな空間>

ライオンの中庭
筆者撮影

スルタンの力は絶大で王国の重要人物で構成される諮問委員会、裁判所が存在した。グラナダの街にはマドラサ(コーラン解釈の学校)や病院が置かれた。絹・織物市場や穀物取引所があり商業も盛んであった。「モハメッド5世」の後ナスル朝は約100年存続するがアルハンブラ宮殿以外の新しい建物はほとんど創られていない。

グラナダ王国の資金源

<ジブラルタル海峡>

ジブラルタル海峡
筆者撮影

ジブラルタル海峡は地中海と大西洋の入り口。当時そこを持っていたグラナダ王国は地中海の海上貿易に影響力を持っていた。その当時の海洋国家ジェノバは西地中海の制海権を持っておりジブラルタル海峡を越えられるかどうかは死活問題。グラナダ王国と条約を結び資金を援助し優遇措置を得ていた。ジェノバからの資金がグラナダ王国の経済やアルハンブラ宮殿で生活する王達を支えていた。

<1400年頃のジェノバ共和国の支配地域と海路>

1400年ころジェノバの支配権
Kayac1971
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斜陽のグラナダ王国

美しいアルハンブラ宮殿内部では次第に快楽的な生活が主流になる。長い繁栄と平和に退廃した無能な王が続き有力軍人達の対立でグラナダ王国内部の混乱。

レコンキスタが続く中キリスト教国カスティーリアがジブラルタル海峡を略奪。それまでの資金源が奪われた。

さらに敵対していたカスティーリアとアラゴンが王子王女の結婚によって連合国家になる。これがイサベルとフェルナンドの結婚(1469年)

カトリック両王の結婚

グラナダ王国内部

アルハンブラの内部では骨肉の争いが起こっていた。歴史から学ぶことは多い。すべての王国の崩壊は内部から始まる。

国王は息子に裏切られる

国王アブルハサン(ムルアセン)の息子ボアブディル(モハメッド12世)はその母アイーシャと協力して反乱を起こし父王の王位を奪う。

実はアイーシャはイスラム創始者モハメッドの血を引く高貴なお方。最初はモハメッド11世と結婚していたがその死後アブルハサンと結婚してボアブディルが生まれている。国王アブルハサンはキリスト教徒の美しい娘に恋をする。改宗奴隷だったイサベル・デ・ソリスを寵愛し妻にし王妃アイーシャと息子ボアブディルは苦渋の中で辛酸をなめていた。

アルハンブラ最後の王ボアブディル

母アイーシャと結託しボアブディルは父から王位を奪い取る。

王としていざ戦争へ出かけるが1483年キリスト教徒とのルセーナの戦いで捕虜になり再び父王アブル・ハサンが復帰。

キリスト教徒側は相手側の内部の揉め事を知っていたようで、内乱で自滅するのを計算しボアブディルにカスティーリアへの税金の約束を取り付けグラナダへ戻す。

グラナダでは叔父ザガルが実権を握っており再び内戦となる。

1485年ボアブディルは戦況不利と悟るとキリスト教徒側に逃げ込んだ。叔父のザガンがモハメッド13世として即位。

ボアブディルはキリスト教徒と手を組み叔父ザガルと戦争。ザガルが降伏し再びボアブディルはグラナダ王としてアルハンブラ宮殿へ復帰できると信じていたようだがキリスト教徒はグラナダからの全撤退を求めた。

ボアブディルが裏切られたと気づいた時には既に打つ手は無かった。包囲されたアルハンブラ宮殿は1492年1月2日無血開城。

<上院議会場にあるアルハンブラ宮殿の陥落の絵19世紀プラディージャ>

グラナダの陥落
De Francisco Pradilla – See below., Dominio público, Enlace

アルハンブラの陥落

ひとつの歴史の終焉。1237年から1492年255年の間に21人の国王達が千一夜物語を過ごした夢のまた夢は終わった。アルハンブラ宮殿の陥落。

ボアブディルが一族郎党を引き連れシエラネバダを超えるとき最後に振り返りアルハンブラを見て涙した。

母アイーシャは「おまえが男として守り切れなかったアルハンブラを見て女のように泣くがよい」と言ったそう。その峠は今も「ススピロ・デ・モーロ」「モーロ人の溜息」と呼ばれている。

<グラナダ議会場にあるボアブディル家族のアルハンブラ宮殿からの撤退>           白い服の女性が母アイーシャ

アイーシャ・アルハンブラ宮殿の出発
Aixa, de blanco en el centro de la obra de Manuel
Gómez-Moreno (1880), pintada en Roma

 

<最後の王ボアブディル>

ボアブディル王

ボアブディルはシエラネバダの山岳地帯に領土を与えられたがモロッコのフェズまで行きそこで暮らして生涯を終える。

今もシエラネバダのアルプハラにグラナダの落人たちが住んでいた白い村が残る。

<シエラネバダのアルプハラにある白い村>

アルプハラス
筆者撮影

その後のアルハンブラ宮殿

最も輝かしき戦利品アルハンブラ宮殿に入ったキリスト教徒たちはその美しさに驚愕した。

カトリック両王の孫カルロス5世はアルハンブラ宮殿を帝国の中心にする予定だった。すでにアメリカ大陸を手に入れハプスブルグ領土も手に入れたカルロス5世皇帝にはアフリカをも含む大帝国の野望があった。

時代はコンスタンティノープルが陥落してオスマン・トルコが東地中海で勢力を持っている頃。ウィーン攻略をしたトルコのシュレイマン大帝に攻撃を仕掛けるのに格好の場所だった。

<プラド美術館にあるカルロス5世ティチアーノ作>

カルロス5世
museo del prado

しかしアメリカ大陸の発見後経済的関心が大西洋に移り息子フェリペ2世は父王カルロス5世の宮殿造営を引き継ぐがそれは終わることはなかった。

19世紀ロマン派の時代

<19世紀の版画に出てくるライオンの中庭>

アルハンブラ19世紀版画
El Patio De Los Leones 1833 David Roberts

時は流れ人々の記憶にさえなくなったアルハンブラ宮殿は廃墟となり忘れ去られた。

そこにロマ族が住み浮浪者が滞在しこの城を気に留める者はいなかった。

そして更に時は変わりロマン派の時代。古いお城などが見直されていたころアメリカ人作家ワシントンアービングがロシア人の友人とアルハンブラを訪れ旅行記と城にまつわる物語を出版した。

「アルハンブラ物語」1832年初版、1851年改定版がベストセラーとなりアルハンブラ宮殿は広く世界に知られることになった。

<アメリカ人作家ワシントンアービング>

ワシントンアービング

 

アルハンブラ宮殿まとめ

アルハンブラ宮殿はスペインで最も入場者が多く切符の入手が難しい世界遺産です。アルハンブラ内部は光の動きや水の音を楽しみながら見学してください。