マドリード、(元)ミシュラン2つ星有名シェフが経営するカジュアル・レストランVi Cool

 

マドリードのおすすめレストランはいくつかこのブログで紹介していますが個人的にオヤジ系バルやレストランが居心地がいいのでクラッシックなお店ばかりを紹介してきました。「こんなところも行くんですッ」という事で今日はウエルタス通りにある「Vi Cool」=「ビ・クール」をご紹介。ウエルタス通りはソルの近くのサンタ・アナ広場からパセオ・デ・プラドに伸びている通りで沢山飲食店が並んでいます。そこにカタラン人有名シェフ、セルジ・アローラ氏がカジュアル店を2011年にオープンしました。星付きレストランだと100ユーロから200ユーロ位のコースが普通ですがここでは創作料理を一皿10ユーロから20ユーロで楽しめます。

 

Sergi Arola セルジ・アローラ


セルジ・アローラ氏はスペインで最も有名なシェフのひとり。最初はレストラン「エル・ブジ」のオーナーシェフ、フェラン・アドリア氏の元で修業した。今では世界各地にレストランを展開しテレビにも出ている有名人でミシュランの星付きレストランも経営していた(現在閉店)。最近はプライベートで色々問題があるようですが(Holaという芸能雑誌による)、料理とは関係ないのでここでは省略。今どきのスペインのヌエバ・コシーナ=創作料理の中心にいるシェフのひとりです。Vi Coolはそのセルジ・アローラ氏の料理を手ごろな値段で楽しめるカジュアル・レストラン。そのVi Cool のお昼の定食をレポートします。

*「エル・ブジ」は世界で一番予約が取れないと言われたカタルーニャのジローナ県のロサスという小さなな街にあった有名レストラン。座席50席のレストランに60人の従業員。人気が出過ぎて「自分の料理を見失った」とオーナー・シェフのアドリア氏は突然店を2011年に閉店し、今は料理の研究に没頭している。営業していた時も半年は料理の研究に費やし閉店、残りの半年のみ営業していた。(私はスペイン人のこういうところが好きでお金に支配されない人生観を持つ人達)

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マドリード、ウエルタス通りCalle de Huertas

ウエルタスはスペイン語で畑という意味でこの辺りは16世紀は菜園だった。この通り沿いと交差する小道に沢山バルやレストランがあり週末は地元の人々や観光客でいっぱいだ。地元では有名な飲食街でこの辺りどこで食事をしても失敗はあまりない。

<マドリード、ウエルタス通り>

ウエルタス通り
筆者撮影

(上)写真は平日の13時頃に撮ったので随分空いていますが週末の夜はスペイン人がカップルや家族とバル巡りに出てくる地域です。そのウエルタス通りの12番地に今回紹介するVi Coolはある。ソル広場から徒歩7分、サンタ・アナ広場の方から歩けば3分、プラド美術館からでも1キロ弱なので徒歩10分程。

<Vi Cool入り口>

マドリード、レストラン
筆者撮影

お昼の開店は13時。平日なので予約もしないで13時に行きました。入って予約してないですがと伝えると「今日は空いているから大丈夫よ~どこでも好きなところへどうぞ」。店内は斬新な装飾で明るい。

<Vi Cool  店内>

マドリード、ビ・クール店内
筆者撮影

<Vi Cool メニュー>

マドリード、レストラン、ビ・クール
筆者撮影

(上)カルタ(お品書き)は昼夜同じですがお昼はMenu del dia=今日の定食があり前菜+クラッシック前菜+メイン+デザートで13,90ユーロ。ドリンク別。これはお得なので今日はメニュー・デル・ディア=お昼の定食をいただきます。(カルタ=お品書きはスペイン語と英語が併記されていました。)

内容は季節によって変わると思いますが本日のメニュー・デル・ディアの内容。

{前菜}

野菜のビチソワに焼きリンゴとネギとヤギのチーズ

又は

シーザースサラダ

又は

ほうれん草のカネロニ

{クラッシック前菜}

私たちのパタタスブラバス

又は

キムチ風味のチキン手羽

{メイン}

クリーミーなお米料理

又は

ハンバーガー

又は

サーモンの照り焼き

とワインを一本今日はリベラ・デ・ドゥエロのバリーカ19ユーロを頼みました。若いワインで少し硬い飲み口、もう少し上を頼めばよかった。

<ワイン・リベラ・デ・ドゥエロ>

マドリード、レストラン、ビ・クール
筆者撮影
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Menu del Dia de Vi Cool


定食は前菜、メイン、デザートの中からチョイス制なので2人で違うものを頼んで両方味見出来るようにした。選んだのはビチソワとカネロニ、チキンとパタタス・ブラバス、ハンバーガーとお米料理を注文。レストランの人も「vais a compartir?」「分けて食べるの?」と聞いてくれたので「Si」「シー」

マドリード、レストラン、ビ・クール
筆者撮影

 

(下)最初にパン・コン・トマテ・イ・アホ。これはカタルーニャ地方で普通に食べる物。(パンにすりおろしにんにくとトマト)セルジ・アローラ氏はバルセロナ出身のカタラン人ですからね。アホはスペイン語でニンニクの事です。生のニンニクが入っているので薄皮はそのまま(手に臭いが着かない様に外さない)半分に切って自分でパンにすり込んでからおろしたトマトを乗せていただきます。

<パン・コン・トマテ、この横に生のニンニクが入っている>

マドリード、レストラン、ビ・クール
筆者撮影
entrantes callientes 暖かい前菜

(下)フランス料理の冷製スープ「ビシソワ」をスペインではビチソワと呼ぶ。スペイン語で「アホ・ブランコ」という言い方もありニンニクの利いた夏の冷製スープ。ここのは野菜クリームという感じで常温、中に小さな焼きリンゴとゴートチーズ。

<ビチソワ>

マドリード、レストラン、ビ・クール
筆者撮影

(下)カネロニもカタランの家庭料理です。パスタの中にほうれん草のクリームが入っていてオーブンで焼いて上にベチャメル・ソース(グラタン風ソース)。これは手間のかかる料理で自分で作ろうと思うと大変。

<ほうれん草入りのカネロニ>

マドリード、レストラン、ビ・クール
筆者撮影
entrantes clasicosクラッシック前菜

(下)パタタス・ブラバスはポテトにピリ辛ソースが乗ったスペイン・バルの定番料理ですがこちらはちょっとおしゃれにアレンジ。カリッと揚げたポテトの上にクリームと中にマヨネーズ。つまみとしては最高、可愛いし。

<パタタス・ブラバス>

マドリード、レストラン、ビ・クール
筆者撮影

(下)このチキンはまるで日本の居酒屋メニュー。何故か名前のキムチ味は感じず醤油の利いた衣。ネギがさっぱり感を出していい感じ。誰かキムチを間違って教えたか・・・?

<チキン手羽のキムチ風味>

マドリード、レストラン、ビ・クール
筆者撮影

 

Principales メイン

(下)Arroz Cremoso=アロッス・クレモソ=クリーミーなお米というのは日本だとリゾットの訳が解り易いかも。魚介の味がしっかりして少しアルディエンテで丁度よかった。

マドリード、レストラン、ビ・クール
筆者撮影

(下)ハンバーガーは本当にハンバーガー(パンにはさまれた)とは想定していなかった。ハンバーグが来ると思っていたらパンにはさまれたハンバーガーでびっくり。(スペイン語でハンブルゲッサというと両方を意味する。)でも大変満足。お肉もしっかりでパンもこだわりが感じられた。これはまたリピートしたい。そして付け合わせのポテトの揚げ具合が丁度良く100点満点でした。

マドリード、レストラン、ビ・クール
筆者撮影
Postre デザート

(下)デザートのチーズケーキは割とあっさり。こってりチーズケーキ好きには物足りないかもです。

<チーズケーキ>

マドリード、レストラン、ビ・クール
筆者撮影

(下)季節の果物を綺麗にカットして盛り合わせでした。

<フルーツ盛り合わせ>

マドリード、レストラン、ビ・クール
筆者撮影

メニューに出ていないデザートも教えてくれましたが今日は大好きなチーズケーキと果物で終了しました。

La cuenta 精算

メニュー・デル・ディア2名分とワインで46,8ユーロ。チップは2ユーロ置いてきました。

*お店のホームページが有るのですが店舗が他にもあり混乱しやすいページだったのでここではあえて載せませんでした。各レストラン紹介サイトなどで検索してください。

Vi Cool Madrid    住所 calle Huertas 12

毎日 13時から16時 20時から0時

時間や休みは変更がありますので注意。夜は予約したほうがいいでしょう。

<地図はソル広場から徒歩で>

 

最後に


定食の13,90ユーロはお得です。私は再びアラカルトで夕食に行きたいと思いましたが一緒に行った夫は「まあまあ」だそうでした。定食よりワインが高いのが我が家の問題、というか私の問題です。飲まない場合は定食なら安く上がりますね。有名店や星付きレストランに行くと最低ひとり200ユーロなのでマドリードでちょっとミシュラン星付きシェフの味を安価に試したいならいいのではと紹介しました。私は絶対次回アラカルト・メニューで夜に行きます。ではブエン・ビアッへ~

(補足*HOLA記事から料理と関係ないけどやっぱり書いとく事に)

セルジ・アローラさんはマドリードで1998年にLa Brocheで人気が出て次々レストランをオープン。マドリードにミシュラン2つ星獲得「Sergi Arola Gastro」で話題になったが当時のスペインの経済破綻の影響をもろに受けてしまった。そして今では当たり前の「メニュー・デグスタシオン」のみのカルタと「お客様はジャケット正装お願いします」も時代にマッチしなかった。そして長年一緒に成功への道を歩いてきた奥さんと離婚、テレビ番組で知り合った女優と話題に、でもすぐ別れ・・・今下り坂なのが残念。星付きレストランも2017年から閉店中です。早く元気になってまた話題になっていただきたいです。

 

スペインの治安は?盗難やスリの手口、本当にあったケースを紹介。スペイン旅行事情

 

 

スペインの治安は実はそんなに悪くはなく凶悪犯罪が非常に少ない国です。地元のスペイン人たちはみんなとっても親切で善悪の感覚も日本人と同じです。しかし大都会では残念ながら外国人スリ集団が活躍していて観光客を狙っています。

楽しい旅行をする為に知っているだけで防げることが沢山あります。ほとんどの犯罪がスリや置き引き、それも気が付かないうちになくなっていたというケースです。日本が安全なのでどしても日本からの方は隙が多く現金所持率が高いので盗難にあいやすい。ほんの少しだけ気をつけると防げるような盗難やスリ、置き引きが殆どです。それ程大きな被害は無くてもせっかくの旅行の思い出はズタズタになります。

ここではスリや置き引きの手口とケーススタディを楽しいスペイン旅行をしていただくためにまとめてあります。

旅レジに登録しましょう


テロや災害など緊急事態の為に日本の外務省が「旅レジ」をやっています。登録しておくと色々な災害や事件、テロなどの情報を送信してもらえますのでお勧めです。

旅レジのページへジャンプ

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本当にあったケースを知ってケース・スタディー


ちょっとしたスキを狙ってのスリ<本人の不注意編>

*食事をしているときに背もたれに掛けていた貴重品が入ったバッグが盗まれた。

*靴の試着をしているときに椅子の横に置いたパスポートを入れたカバンが無くなった。

*4つ星ホテルのビュッフェの朝食時座席確保の為にに置いたカバンが戻ったらなかった。

*リュックに入れた貴重品が街を歩いている知らない間になくなっていた。

*食事をしているときにテーブルに置いたスマホが気が付いたら無かった。(スマホやカメラの盗難も良くあります。特にI-Phoneは転売が出来るので気をつけましょう。)

*ホテルでベッドに貴重品が入ったカバンを置いたまま別の部屋の友人の所へ行ってほんの少しの間なので扉をあけて出た。戻ったら貴重品が消えていた。

*地下鉄で空港から町に向かうとき何人かに囲まれて気が付いたら夫婦2人とも貴重品が盗まれた。

これらは本当に本人の不注意です。食事をするときも貴重品が入ったかばんは膝の上や足の間と習慣付けましょう。ホテルの部屋は誰でも入ってこれます。プロの泥棒は狙っているのを忘れないように。空港から市内に地下鉄などで向かう場合は腹巻型や首からかけて洋服の中に隠せるタイプの貴重品袋に大切なものは入れましょう。空港からの地下鉄は観光客を狙ったプロのスリがいます。私もいつも地下鉄を使いますが普段は安全です。気をつければ防げますのでいつも注意をしましょう。

これは複雑<劇場型の凝った手口>

*複数人に話しかけられてしばらくして気が付いたら反対側に置いたカバンが無くなっていた。(相手は何人かのグループで犯行に及ぶ。話しかける人物、持って行く係り、持って走る役等)

*「日本が好き」と話しかけられ仲良くなって一緒にビールを飲んだらその場で眠ってしまい目が覚めたら貴重品が無くなっていた。(ビールに何か知らない間に入れられた可能性があります。)

*洋服にケチャップがついていて親切な人達が紙で拭いてくれ、その時におろしたカバンが気が付いたら消えていた。(スペイン人はとても親切なのでもしかしたら仲間じゃないかもしれませんがこれは怪しいですね。)

スペイン人の名誉の為に繰り返しますがほとんどが外国人のプロの集団です。少し見極めれば怪しい相手かどうかわかると思います。街で知らない人と友達になることはどこの国でもあり得ません。簡単に人を信用しないようにしましょう。

 

高級ホテルでの置き引き等 実際にあった手口

*ロビーで待ち合わせている間に横に置いたカバンが無くなった。

*ホテルの喫茶でお茶をしている間に背中にかけたバッグが消えてなくなった。

*高級ホテルで部屋に置いていたアクセサリーが無くなった。

*何人かで一緒に歓談中すぐ横に置いていたカバンが他の物にすり替えられていた。

*ホテル入り口で夜遅く煙草を吸っていたら手に持っていたバッグをひったくられた。

これらもちょっとした注意で防げそうな事ですね。高級ホテルだからと安心しないように。高級ホテルにいるプロの泥棒達はスーツに毛皮のコートで犯行に及びます。

出発前に準備出来る事

*パスポートのコピーを取っておきましょう。タックスフリーの手続きなどはコピーで代用できる場合が殆どです。本物はカバンの中でなく腹巻や安全金庫に入れコピーを持ち歩きましょう。また盗難にあった場合の再発行にもコピーがあると便利です。

*クレジットカードの番号と連絡先はクレジットカードに書いてあります。クレジットカードの盗難にあうと連絡先が分からなくなります。カードの連絡先やクレジットカードの16ケタの番号は別に控えましょう。盗難にあった場合の手続きの時間が短縮されます。

*腹巻型や首からかける貴重品袋を用意してきましょう。

*すべての貴重品を一か所で持たないように。それを取られたら動きが取れません。危険は分散して持ちましょう。

クレジットカードの盗難にあったら

*なるべく早くクレジットカード会社に連絡をしてカードを止めてもらいましょう。最後に使ったのはいつか聞かれます。それ以降に使われていたら不正使用されたことになり早く連絡すればカード会社の保険で対応してくれます。

パスポートの盗難にあったら

日本大使館や領事館に連絡をしてください。パスポートの再発行又は渡航書の手続きが必要になります。パスポートが無いと飛行機にさえ乗ることが出来ません。土日祝日、日本の祝日とスペインの祝日は休館です。緊急対応の電話があるのでメッセージを残せば緊急度に応じて対応してくれます。

今の格安航空券は日程の変更が難しく変更不可能だったり手数料が高かったりします。パスポートが無ければ飛行機に乗ることはできません。予定の日程で帰れないと分かったら変更手続きをするか新しく航空券を買いなおす事になります。その間の滞在や航空券代など余分な出費のもとです。パスポートの盗難は無いように注意しましょう。

 

 

日本大使館

マドリッド日本大使館 住所 calle Serrano 109                                            9:30~13:15/ 14:45~17:30  ( 7月8月9:00~14:30) tel:915 907600

バルセロナ領事部 住所Avenida Diagonal,640                                                      9:00~13:00 /15:00~16:00 tel:932 803433

地域によってあまりお勧めできない場所もある。

ホテル選びは慎重に。個人旅行でホテルを選ぶ場合はホテルの場所の治安も調べましょう。場所によってはあまりおすすめできない地域もあります。旅行中は朝出かけたり夜遅くなったりスーツケースを持って出かけたりするので治安の安全な地域のホテルに泊まりたい。値段だけで決めずに安全性や利便性も考えて取りましょう。

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最後に

治安に注意が必要なのは基本大都市だけで地方都市はまず問題ありませんがアンダルシアのセビージャ、グラナダ、マラガなど世界中の観光客が来るところは盗難があります。やはりいつでもどこでも注意をしましょう。

外国からきているプロのスリ集団達がほとんどです。全く気が付かないうちにカバンから貴重品だけが消えています。または何人かで仕掛けてくる劇場型もあります。まずは狙われないようにするのが一番大切です。

ちょっとした注意で旅行が楽しいまま終わるかとんでもない思い出になるかが決まります。日本が安全なのでうっかりしてしまう事があると思いますが狙われないように、狙われても大丈夫なように工夫をして楽しい旅行をしてください。

貴方の楽しいスペイン旅行の為に!

 

スペイン旅行の準備とモデルコース、旅行に必要な物は何?

 

スペインの旅行の準備を始めたけどどこ何日で廻る?どこに行こう?何がいるの?どうやって行くの?スペインの旅行の準備に必要な最初に知りたい事をまとめました。スペインは日本の1.3倍の国土。首都のマドリードは中央にあって北にフランス、西にポルトガルと国境を接している。南は地中海を挟んでモロッコ。ジブラルタル海峡のスペイン側は今も英国領で歩いて国境を越えられる。パリやロンドン、フランクフルト、アムステルダムなどから飛行機で2時間から3時間で主要都市に繋がっている。簡単なモデルコースを考えてみました。

 

スペイン旅行の準備


首都はマドリード。スペインのほぼ中央にあり大抵の航空会社でマドリードに飛ぶことが出来る。人気のバルセローナはカタルーニャ州にありフランスの南にあるのでバルセロナ行きのフライトがヨーロッパ各都市から出ている。南スペインアンダルシアならマラガに直接ヨーロッパの各都市から飛行機で繋がっている。

スペイン地図

日本からスペイン


日本からの場合は飛行機で来ることになりヨーロッパ系、日系、アジア系、中東系各航空会社がマドリード、バルセローナ、マラガ、ビルバオ、サンチアゴ等に乗り換えで日本から就航している。

*イベリア航空直行便が週3回成田空港からマドリードへ。2016年10月から復活したイベリア航空エアバスA330-200。機材が小さく週3便なので予約は早めに。東京近辺からはこれが最短約14時間ノンストップ。2018年秋から週5便に増える予定

イベリア航空ホームページ http://www.iberia.com/jp/

*ヨーロッパ各大手航空会社が東京羽田、成田、関空等から欧州主要都市経由で。ルフトハンザ、エアーフランス、KLMオランダ航空、スイス航空、ブリュッセル航空、アリタリア航空等。

*日本国空と全日空は東京羽田又は成田、関空からヨーロッパ各都市へその後同グループ会社のコードシェア便で各都市へ。

*エミレーツ、カタール等中東航空会社、ドバイやドーハ経由でマドリード、バルセローナへ。値段は安いですが長時間フライトになるのは覚悟。

*トルコ航空がイスタンブール経由でマドリード、バルセローナへ

*大韓航空、中国航空はソウル、北京からノンストップ便。

 

 

スペイン国内移動


地図で見ると近くに見えますがスペインは日本より大きな国です。マドリードからバルセロナは624キロあります。

飛行機

・各主要都市間は<イベリア航空>とイベリア航空のLCC会社<イベリアエクスプレス><ブエリング航空>又は<エアーヨーロッパ>が各都市を結ぶ

・ライアンエアー>>アイルランドの格安航空会社。一部のスペイン国内路線を飛んでいる。

新幹線(AVE)

・スペイン新幹線>>マドリード〜コルドバ〜セビージャ、マドリード〜コルドバ〜マラガ、マドリード〜バレンシア、マドリード〜バルセロナ、マドリード〜セゴビア〜バジャドリ。マドリード〜グラナダ間工事中。マドリード 〜サンティアゴは途中在来線のレールを走る。

<スペイン新幹線路線図>

 

スペインアベの路線
renfe

 

長距離バス

・長距離バス各社が全国網羅している。道路事情が非常に良いので安くて便利。

*最大手のALSAのページです。

https://www.alsa.es/destinos-nacionales

ALSAは大きな都市を外国まで結んでいるバス会社でそれ以外にも各都市を長距離バスが結んでいます。

 

旅行期間


長いほどたっぷり旅ができるがお休みの都合や料金や又は長すぎるのも疲れる等いろいろありますね。10日間~12日間ほどあればかなり楽しめるはず。今主流は「短く何回も」のようで6泊8日位の日程が人気。金曜日から金曜日まで8日間でも実際現地では6泊、エミレーツ航空などを使うとさらに遠いので5泊になる。フライトは値段だけではなくせっかくのお休みの時間も有効に使うならイベリア航空か日系又は欧州系エアーラインでヨーロッパ都市乗り継ぎで16時間から20時間(乗り継ぎ時間による)くらいで着きたい。

初めてのスペイン・モデルコース6泊8日


初めてのスペインで<現地6泊8日>なら例えば

「①マドリード3泊、新幹線移動でバルセロナ3泊」

「②マドリード2泊グラナダ2泊バルセロナ2泊、都市間の移動は飛行機」

「③マドリード2泊、新幹線でコルドバ下車、コルドバからグラナダはバス移動でグラナダ2泊、飛行機でバルセロナへ移動して2泊」

モデルコース8泊10日


「①マドリード2泊コルドバ経由でセビージャ1泊バスでグラナダへ移動し1泊バスでマラガへ移動し1泊、飛行機でバルセロナへ移動し3泊」

「②マドリード2泊コルドバ経由でマラガへ移動し3泊(マラガ連泊しながらグラナダやミハス等へ日帰り虚構)飛行機でバルセロナへ移動して3泊」

 

大手旅行会社のツアーだと無駄なく回れる。初めてのスペインはツアーで回るのもひとつの方法。効率よく見どころを網羅してくれる、その分旅の本当の楽しみは奪われる。コースを作る参考にもなりますので各社ツアーの内容を一度見てから計画を立てるのも良い。

スペインツアーでは定評のある日本旅行のツアーです。



スペインの世界遺産


文化遺産40件自然遺産3件複合遺産2件合計45件。

人気世界遺産

1・アントニガウディの作品群(サグラダファミリア教会等)

2・古都トレド

3・アルハンブラ、ヘネラリーフェ、アルバイシン地区

4・セゴビア旧市街とローマ水道橋

5・サンティアゴ・デ・コンポステーラ旧市街

6・バルセロナのカタルーニャ音楽堂とサンパウ病

7・ブルゴス大聖堂

8・アラゴンのムデハル様式の建築物

9・コルドバ歴史地区

10・メリダの考古遺跡群

 

順位は世界遺産オンラインガイドを参考にしました。https://worldheritagesite.xyz/europe/spain/

私の個人的な好みではトレドの中世の街、セゴビアの水道橋、グラナダのアルハンブラ宮殿、コルドバのメスキータ、バルセロナの街並みやガウディ―の建築。北スペインでバスク地方のサンセバスティアンで食べ歩き、ビルバオのグッゲンハイム美術館。サンティアゴデコンポステーラの聖地。一度のスペイン旅行では廻りきれませんね。

 

必要な持ち物


*3か月以上有効のパスポート(3か月以内ならビザは不要)と念のためコピー

*海外旅行保険(カードの保険だとカバーされないケースが多いです。よく調べて保険に入ってきましょう)

*クレジットカード(ビザ、マスターが一番使える)は個人旅行の場合絶対必要です。宿泊ホテルのデポジットとして提示を求められます。紛失した時の為に電話番号やカードの番号は控えましょう。

*現金(日本で両替した方がレートがいい。)日数にもよりますが最低300~位は500ユーロはキャッシュを持ってきましょう)クレジットカードが何故か使えない、盗難にあう、様々なケースが想定できます。プリペイドカードやデビットカードも使えます。各社色々ありますので調べて作って来ましょう。

セゾンのプリペイドカードです。海外でも国内でも使え両替のレートも良い

 

*腹巻型か首からぶら下げる貴重品袋(大都会での盗難置き引きが多発。パスポートと現金は腹巻に入れて行動)

*電気の差し込み口C型のプラグ。日本の電子機器などを充電する時に必要。(電圧は220ボルト)

*髭剃り、歯ブラシ、櫛、スリッパ、髪のトリートメント等(ホテルのカテゴリーによりますが5つ星以上でない限り付いていません。)

*常備薬、薬は同じものを探すのは大変です。特に命にかかわるものは飛行機に乗るときも手荷物で。スーツケースが目的地に着かないケースもあります。ロストバゲッジに備えて一泊分くらいの物は手荷物で持ちましょう。

ベラスケスとスペイン国王フェリペ4世。斜陽のスペイン・ハプスブルグの王達の歴史をベラスケスの絵画で説明

 

ベラスケスは17世紀にスペインで活躍した画家。本名は「ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス」。スペイン国王フェリペ4世に仕え生涯王の為に絵を描いた。時代は斜陽のスペイン帝国。プラド美術館の巨匠達の中でも格別の扱いの画家である。17世紀に同時にスペインで多くの天才画家たちが登場して

この時代をスペイン黄金世紀と呼ぶ。スルバラン、リベラ、ムリーリョ等天才的な画家たちが同時期に活躍した時代で多くの作品をプラド美術館で鑑賞できる。その中でもベラスケスはスペイン国王フェリペ4世に寵愛され24歳で国王付の画家になり並外れた成功を手にした画家。ベラスケスの絵画を見ながら斜陽のスペインの歴史をハプスブルグの終焉迄見ていきます。

 

ディエゴ・デ・ベラスケス


ベラスケスはスペイン国王フェリペ4世に24歳で気に入られ生涯宮廷画家として活躍した。ベラスケスが生まれた1599年トレドでエル・グレコは晩年を過ごしていた。ベラスケスは絵画だけでなく宮廷の様々の仕事を受け持ちその人格も高貴で国王に信頼された。王家の結婚式の準備なども取り仕切り時間を割かれた為絵画作品数は非常に少なく長い間海外では知られていなかった。

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セビージャで誕生

生まれは南スペインのセビージャ、当時のセビージャは大航海時代の船が入り人が集まる大都会だった。スルバランやムリーリョも同じ時代にコスモポリタンの街セビージャで活躍した。1599年6月6日にセビージャでベラスケスが洗礼を受けていることが分かっている。ベラスケスというのは母方の姓でアンダルシアでは母方の姓を名乗ることが多かったようだ。7人兄弟の長男として生まれ貴族の血を引く家系だったが格別裕福というわけでは無かったようだ。

<ベラスケスが生まれた頃のセビージャ>

16世紀のセビージャ
De atribuido a Alonso Sánchez Coello – [2], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1713560
新大陸からの富を積んだ船が入港するセビージャは当時のスペインで最も豊かな街で芸術も栄えていた。人が集まりインフレも激しく野望を持ったいかさま師や一攫千金を狙った詐欺師達が集まる混乱した大都会だった。

師匠フランシスコ・パチェーコ

1611年9月(12歳)にセビージャの画家フランシスコ・パチェーコに弟子入りしている契約書が残る。様々な事に才能を見せた息子に絵の才能を見抜いた両親が選んだ師匠だ。

パチェーコは画家で教養人で詩人で彼の家には芸術家や学者が集まるサロンのような場所になっており知的な雰囲気に溢れていた。そのためベラスケスも若いころから様々な事に興味を持つ人物に育つ。ベラスケスが幸運だったのは師であるパチェーコが弟子の優秀さを公然と認める心の広さを持った人物だったことだ。

<フランシスコ・パチェコ、ベラスケス1620、プラド美術館>

ベラスケスの描いたパチェコ
De Diego Velázquez – [2], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15587626
師匠の資格と結婚

1617年3月14日(18歳)ベラスケスは資格審査を受け当時の画家の最高位「宗教画の師匠」と認められ独立する。(絵画の師匠も資格制だった)

(下)ベラスケス初期(1618年19歳)の作品で無原罪の御宿り。ベラスケスが画家組合の親方に登録されておそらく初めての公的な仕事。無原罪の御宿りは「聖母マリアが母の胎内に宿ったときに既に原罪を免れていた」と言うカトリックの教義。対抗宗教改革の時代にスペインで好まれて多くの画家達が描いた。マリアのモデルはベラスケスが後に結婚するファナ。師匠パチェーコの娘。

<無原罪の御宿り1618年ベラスケス、ロンドン・ナショナルギャラリー>

ベラスケス無原罪の御宿り
Full title: The Immaculate Conception
Artist: Diego Velazquez
Date made: 1618-19
Source: http://www.nationalgalleryimages.co.uk/
Contact: picture.library@nationalgallery.co.uk
Copyright © The National Gallery, London

ベラスケスの師匠パチェーコは「絵画芸術論」を記した人物で宗教画の様々な規定をまとめた。「絵画芸術論」が出版されるのはパチェーコ没後だが師匠から様々な絵画論を聞いていたであろうベラスケスは師の規定に忠実にこの作品を描いている。”無原罪の御宿りのマリアは12-3歳の少女の姿で両手は胸の前で祈りの形をして、マリアの乗る純潔をあらわす三日月は下を向くべきである”とされた。

(下)又同じころに描いた風俗画。そこに描かれる手前のボデゴン(静物画)は見事な素材感。手前のお皿やナイフ、陶器の入れ物等が素晴らしい。

<卵を料理する老婆と少年、ベラスケス1618年、スコットランド国立美術館>

ベラスケス
De Diego Velázquez – Google Art Project: Home – pic Maximum resolution., Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=19980800

約1年後に師匠パチェーコの娘ファナと結婚。花嫁16歳ベラスケス19歳。2人の間に1619年に長女フランシスカ、1621年に次女イグナシアが生まれているが次女は夭折している。おそらくベラスケスの次に紹介する作品「東方三賢者の礼拝」の聖母が妻ファナで赤子キリストが長女フランシスカ、手前のひざまつく男性がベラスケス本人。画家20歳頃の作品でプラド美術館にある。

<ベラスケス、東方三賢者の礼拝、1619年、プラド美術館>

ベラスケス東方3賢者の礼拝

Adoración de los Reyes Magos
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)イエス・キリストの誕生を祝って東方の三賢者がベツレヘムの馬小屋で礼拝をするという聖書の場面。ベラスケスはこの頃既にセビージャでは有名な画家になっていた。

ボデゴンの画家

ベラスケスは初めボデゴン(静物画)で名を成している。下の作品は21歳のベラスケスが描いた当時のセビージャの日常の様子で「セビージャの水売り」。手前の大きな壺の透明な水滴が落ちていく様子が素晴らしい。交易の船が出入りしたセビージャは国際都市で北方で好まれた民衆の生活の絵を若いベラスケスは描いていた。

<セビージャの水売り、1620年ロンドン・ウェリントン美術館>

ベラスケス、セビージャの水売り
De Diego Velázquez – Apsley House Collection., Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=45378708
マドリード

1622年にベラスケスはマドリードを訪れエル・エスコリアル修道院で王家のコレクションに触れている。国王の肖像画を描ける機会を狙っての上京だったがその目的は果たせずセビージャへ帰った。ところがマドリード滞在時に描いたルイス・デ・ゴンゴラという詩人の肖像画が素晴らしい出来で後に「オリバーレス公・伯爵」によって再びマドリードに呼び戻されることになった。

<ルイス・デ・ゴンゴラ、模写、プラド美術館>

ベラスケス、ルイスデゴンゴラ
Luis de Góngora
ANÓNIMO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

上記作品「詩人ルイス・デ・ゴンゴラ」のベラスケスの本物は現在ボストン美術館にある。プラド美術館で現在見れる作品は模写。ベラスケスはマドリードに移動後の作品は肖像画が主流になりボデゴン(静物画)は描いていない。画風もティチアーノの影響がみられる軽いタッチに変わって行く。

オリバーレス伯爵

オリーバーレス公・伯爵(ドン・ガスパール・デ・グスマン)はセビージャ出身で当時の王の宰相を務め事実上の権力者だった。同郷の人物を引き立てることは当時からよくあったことでベラスケスはオリバーレス伯爵によって1623年にマドリードに呼び戻された。国王フェリペ4世の肖像画(消失)を描き王に気に入られ宮廷画家となる。オリ―バレス伯爵は約30年間フェリペ4世の後ろで権力をふるい斜陽のスペインにかつての栄光を取り戻そうとした。

<オリバーレス伯爵、ベラスケス1634年頃、プラド美術館>

ヴェラスケス、オリバーレス伯爵

Gaspar de Guzmán, conde-duque de Olivares, a caballo
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)この作品は35歳のベラスケスがオリバーレス伯爵を描いたもの。見上げる程の巨大な作品で前足を上げた馬に乗り振り返るオリーバーレス伯爵の大胆な構図。後ろ目に振り返る目にオリーバーレスの尊大な雰囲気がうかがえる。遠景の雲や空気のの層の描き方のタッチは後に「ベラスケーニョ」「ベラスケス風」と呼ばれる。

宮廷画家の名誉と王宮営繕監督という仕事

ベラスケスは24歳で国王の寵愛を受けそれ以来宮廷画家として絵を描くことになる。国王フェリペ4世はベラスケスの6つ年下だったが時間があると画家のアトリエを訪れ制作を眺めていた。ほかの画家の嫉妬を買い中傷を受けるベラスケスの為国王は他の3人の画家とベラスケスに「モリスコの追放」という作品を同時に描かせて競争させた。結果はベラスケスの勝利だったがこの作品は残念ながら1734年のマドリードのアルカサールの火災で焼失している。国王は気に入ったベラスケスに様々な肩書を与え色々な仕事をさせた為忙殺な日々の中ベラスケスが絵に費やせる時間は限られていった。

<フェリペ4世、ベラスケス1626-28年、プラド美術館>

ベラスケス、フェリペ4世

Felipe IV
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado
ルーベンスの来西

1628年にフランドルのピーター・ポール・ルーベンスが外交官の仕事でマドリードを訪れた。約9か月間の滞在でスペイン王家の肖像画を描きベラスケスとも親交を結んでいる。

(下)ルーベンスがマドリード滞在中にティチアーノの作品を模写した物が今もプラド美術館に残る。

<アダムとイブ、ルーベンス1628-29年、プラド美術館>

ルーベンス、プラド美術館
By ピーテル・パウル・ルーベンス – 1. The Yorck Project: 10.000 Meisterwerke der Malerei. DVD-ROM, 2002. ISBN 3936122202. Distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH., [1]2. Museo del Prado, Madrid, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=158489
ベラスケスとルーベンスはエル・エスコリアル修道院に2人で何度も通い王立コレクションに触れている。特にティチアーノを鑑賞していたベラスケスは是非ともイタリアへ行きたいと考えるようになりルーベンスと共にイタリアへ旅行する計画を立てた。しかしルーベンスはアント―ワープへ帰還することになり翌年ベラスケスは1人でイタリアへ旅行する。

1度目のイタリア旅行

ベラスケスの希望が叶えられ1629年8月にイタリアへ旅立つ。バルセロナからジェノバ、ベネチア経由でフェラーラを通りローマへ到着。ローマで1年程滞在した後当時はスペイン領だったナポリへ渡る。その頃ナポリではスペイン人の画家「ホセ・デ・リベラ」が活躍していた。リベラはベラスケスより8歳年上で既にナポリで成功して数々の聖人や哲学者などを描いている。下の絵はベラスケスがナポリへ行った頃のリベラの作品。ベラスケスとリベラは逢って話をしたのだろうか。仲間や同郷人が大好きなスペイン人同士肩を抱き合って話をしたに違いないと思っている。

<リベラ、デモクリトス1629-31年、プラド美術館>

リベラ、デモクリト

Demócrito
RIBERA, JOSÉ DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

ベラスケスは1631年1月にはマドリードに戻っている。イタリア旅行中に多くの模写などをしている作品は散逸しているが「ヨセフの長衣を受けるヤコブ」(エル・エスコリアル修道院蔵)と「ウルカヌスの鍛冶場」(プラド美術館蔵)は今もスペインで鑑賞することが出来る2枚。

<ウルカヌスの鍛冶場、ベラスケス1630年、プラド美術館>

ベラスケス、プラド美術館

La fragua de Vulcano
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)ベラスケスの神話画「ウルカヌスの鍛冶屋」、妻のビーナスの浮気の話を伝えにアポロンが降りて来た、「えっ」と驚いた顔のウルカヌスの表情が面白い。鍛冶屋で働く男たちの筋肉の描写、道具の素材感等が美しい。

<メディチ家別荘、1630?ベラスケス、プラド美術館>

ベラスケス、プラド美術館
Vista del jardín de la Villa Medici en Roma
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)ローマのメディチ家別荘を描いたもので2点並んで展示されている両手で持てそうな位の小さな作品。描いた時期についてはまだ議論されていて2度目のイタリア旅行時(1650年頃)という説も捨てがたい。絵の完成度やタッチ等が印象派の絵のよう。移り行く時、太陽の光の動きを意識して描かれている。

 

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フェリペ4世と斜陽のスペイン


国王フェリペ4世

国王フェリペ4世はベラスケスが不在の間は他の画家に肖像画を描かせなかったらしくイタリア旅行から戻ったベラスケスに早速注文した作品。

<銀と茶の衣装のフェリペ4世、ベラスケス1631-32年、ロンドン・ナショナルギャラリー>

ベラスケス、フェリペ4世
De Diego Velázquez – [1], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9555111

「銀と茶の衣装のフェリペ4世」はフェリペ4世国王27歳頃、しかし描かれた年代に関しては1635年説もある。絵のタッチにイタリア旅行で鑑賞して来たベネチアの巨匠の影響がみられる。

<狩猟の姿のフェリペ4世、ベラスケス1632-34年、プラド美術館>

ベラスケス、フェリペ4世
Dominio públicoocultar términos
File:Diego Rodríguez Velázquez – Felipe IV, cazador (Prado, Madrid).jpg

狩猟姿のフェリペ4世は国王と示すものを何も描かずこちらを向く王の内面や威厳を描きだしている。

芸術愛好家のフェリペ4世の治世

16歳でスペイン国王に即位したフェリペ4世は並外れて芸術を愛好した。絵画だけでなく演劇をこよなく愛した王だった。この時代にスペインの劇作家が多く登場したのはフェリペ4世が新しい芝居を求めたからでカルデロンやローペ・デ・ベガ等が登場している。芝居に夢中になり快楽の中で生きた王だが当時のスペインは30年戦争(1618-48)で壊滅的な状態だった。広大な領土は維持しながらもウエストファリア条約でオランダの支配権を失いポルトガルは独立しカタルーニャは反乱を起こした。経済はズタズタで救いようがない状態で税金を上げれば民衆は苦しみ農業生産は低下し国民は農民も貴族も翻弄されていた。政治はオリバーレス伯爵の私利私欲の道具にされ国王にとって政治は退屈だった。芸術以外に興味があったのは狩りでフェリペ4世はすぐれた馬術家で12時間馬上にいる事もいとわなかった。

 

ブエン・レティーロ宮の建設

国の斜陽を横目にマドリードでは眩いばかりの催しが行われ新しい宮殿の建設が始まった。建築内部を飾る為12点の戦勝を記念する作品が描かれることになった。今もプラド美術館の近くにこの建物の一部と広大な公園が残る。

<ブエンレティーロ宮殿、1637年>

ブエンレティーロ宮殿
De atribuido a Jusepe Leonardo – investigart.wordpress.com, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3014571

(下)ブエンレティーロ宮殿を飾る為に描かれた作品

<ブレダの開城、1634-35ベラスケス、プラド美術館>

ベラスケス、槍

Las lanzas o La rendición de Breda
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

オランダの街ブレダは30年戦争で10か月の包囲の後スペイン側に落ちた。中央部右側がスペイン側の指揮官スピノラ。寛大な降伏条件だった戦争でスペインの指揮官の表情や態度に温情感が読み取れる。実はこの絵が描かれた2年後にオランダはブレダを奪回している。

この時に同郷の画家スルバランをベラスケスは王に紹介しマドリードへ呼び寄せている。スルバランはベラスケスより一歳年上で同じセビージャ出身だった。スペイン人は同郷人が好きなのだ。スルバランがこの時にブエン・レティーロ宮殿の為に描いた作品が今もプラド美術館に残る。

<スルバラン1634年カディス防衛、プラド美術館>

スルバラン
museo del Prado

これらの勝利の場面ばかりを大きなサロンに飾ったさまは荘厳だったに違いないが現実のスペインは敗北と斜陽の時代だった。スルバランは他にも神話画「ヘラクレスの偉業」を描いていてプラド美術館で見ることが出来る。スルバランの作品は実は評価は高くなくこの後失意の中セビージャへ戻っている。

フェリペ4世の2回の結婚

フェリペ4世は2度結婚している。王家の結婚は全て政略結婚、王の重要な仕事は世継ぎを残す事だ。最初の妻はフランスの王女イサベル・デ・ブルボン、フランス王アンリ4世とメディチ家のマリード・メ・ディシスの長女。伝統的に戦争ばかりしていたスペインとフランスの間で行われた政治同盟の一環でブルボンからの妻を迎えた。

<イサベル・デ・ブルボン、ベラスケス1635年、プラド美術館>

ベラスケス、イサベル・デ・ブルボン
De Diego Velázquez – See below., Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15587965

これらはブエン・レティーロ宮殿の諸王の間を飾る為の作品。衣装の金糸の素材感が素晴らしい。王と王妃の大きな騎馬像画の間に大事なバルタサール・カルロス皇太子の肖像画が置かれた。

<バルタサール・カルロス皇太子、ベラスケス1635年、プラド美術館>

ベラスケス、バルタサールカルロス皇太子
museo del prado
wikipedia public domain

(上)この絵はベラスケスが描いたバルタサール・カルロス皇太子6歳の時の騎馬像。大切な世継ぎの絵を大きな部屋の中央上の方に飾り訪れた人々が見上げる様に描いた。描かれた約10年後にカルロス皇太子は突然17歳で早世。子供の時に決められた婚約者はオーストリア・ハプスブルグ家のマリアナ・デ・アウストリアだった。マリアナの母はフェリペ4世の妹マリア・アナなのでいとこ同士の結婚の予定だった。

<マリアーナ・デ・アウストリア、ベラスケス1652年、プラド美術館>

ベラスケス、マリアーナ・デ・アウストリア
By ディエゴ・ベラスケス – The Yorck Project: 10.000 Meisterwerke der Malerei. DVD-ROM, 2002. ISBN 3936122202. Distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=159947

大切な世継ぎである息子が亡くなってしまったフェリペ4世は息子の婚約者と結婚する事となる。大事な世継ぎがいないのである。妹の子供なので叔父と姪の結婚。ハプスブルグは「ベッドで帝国を築いた」と言われるがスペイン・ハプスブルグは親類同士の結婚で崩壊していく。フェリペ4世とマリアーナの間に生まれた長女が下の絵のマルガリータ王女。ベラスケスはマルガリータ王女を子供のころから何点も描いている。

<マルガリータ王女、ベラスケスと工房1655年、ルーブル美術館>

ベラスケス、マルガリータ王女
Web Gallery of Art: Inkscape.svg Image Information icon.svg Info about artwork
wikipedia public domain

これらのベラスケスが描いたマルガリータ王女の作品はせっせとウィーンに見合用に送られていく。マルガリータの嫁ぎ先は生まれた時からオーストリアと決まっておりオールトリア皇帝レオポルド1世に嫁ぐ。嫁入り道具に少しでも故郷の物をと母が持たせたものにスペインの馬術が有った。馬が躍るスペイン馬術学校がウイーンに今も有るのはマルガリータ王女の嫁入り道具のひとつだった。

<青い服のマルガリータ、ベラスケス1659年、ウィーン美術史美術館>

ベラスケス、青い服のマルガリータ
De Diego Velázquez – pAHSoRgE1VSx2w en el Instituto Cultural de Google resolución máxima, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=22003519
王の愛人

国王フェリペ4世には数えきれない程の愛人がおり庶子も30人を超えた。にも拘らずまともな世継ぎを残せなかったのは悲劇だ。その中でお気に入りは女優のマリア・カルデロ―ナだった。ふたりの間に息子も生まれており後にスペインの宰相になる。

<フェリペ4世の愛人、ラ・カルデローナ>

カルデローナ
De Sparganum – Trabajo propio, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7150433

 

ベラスケス1648年再びイタリアへ

ベラスケスの今度の旅はローマ法王イノケンティウス10世への特命大使として派遣された。絵画と彫刻作品の購入の仕事を賜り20年後2度目のイタリアへ旅立つ。その時にイタリアから持ち帰ったものが今もマドリード王宮に置かれている

国王フェリペ4世からの帰国の催促が度々あったが約2年半ベラスケスはイタリアに長居した。理由のひとつはマルタという名の未亡人がベラスケスの庶子を宿していた。その子はアントニオと名付けられた事以外はあまりわかっていない。実はベラスケスはその後1657年にもう一度イタリア旅行を国王に願い出ているが王に拒否されている。

<イノケンティウス10世、1650年ベラスケス、ローマ・ドーリア・パンフィーリ美術館>

 

ベラスケス、イノケンティウス10世
By 不明 – 不明, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=38007

(上)キリスト教世界のトップローマ法王は権謀術数の中生き抜く大変な職業だった。こちらを見つめ返す目に人を見透かすようなイノケンティウス10世の内面が良く表れている。ティチアーノを称賛していたベラスケスはおそらくティチアーノのパウルス3世を意識してこの絵を描いた。

<ティチアーノ、パウルス3世、ナポリ・カーポ・ディ・モンティ国立美術館>

パウルス3世
wikipedia public domain

 

<鏡を見るビーナス、1648年頃ベラスケス、ロンドン・ナショナル・ギャラリー>

ベラスケス
By ディエゴ・ベラスケス – Key facts. The National Gallery, London. Retrieved on 25 June 2013., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=984326

(上)ベラスケスの珍しい裸体画。当時のスペインは厳しいカトリックの体制の中ほとんどの画家が裸体画を描いていない、と公式では言われているが実は上流階級の個人の邸宅などには裸体画は飾られていた。フェリペ4世も王宮の中の食後の休憩部屋に祖父であるフェリペ2世が集めたティチアーノの裸体画やルーベンスの裸体画を飾っていた。それらは今もプラド美術館にある。フェリペ4世の特別扱いを受けていたベラスケスが裸体画を描くことにあまり問題は無かったに違いない。ベラスケスが描いた裸体画は他に3点あったと言われているがすべて現存していない。この絵はおそらくベラスケスの2度目のイタリア旅行中に描かれている。モデルはベラスケスの子供を産んだ愛人マルタではないかと推測されている。

ベラスケス晩年

1652年にベラスケスは王宮配室長に任命されている。この仕事は晩餐会の手配や準備などで画家に随分ストレスを与えたようだ。大変な仕事量の中も素晴らしい作品を残している。

 

<織女達、ベラスケス1655-60年、プラド美術館>

ベラスケス
Las hilanderas o la fábula de Aracne
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)晩年のベラスケスの作品「織女達」は手前に現実の織物を織る女性達。奥には神話の物語でアラクネが神を冒涜したため蜘蛛に変えられる変身物語を同時に扱っている。変身と時間、現実と神話の織りなす作品。奥のアラクネが織ったタペストリーはティチアーノのエウロパの略奪を使っている。

そのティチアーノの作品は現存しないがスペインに来ていたルーベンスが模写をしたものがプラド美術館に残る(下)。ベラスケスの織女達の奥にこの作品をアラクネが織ったタペストリーとして使っている。

<エウロパの略奪、ルーベンスがティチアーノを模写、プラド美術館>

エウロパの略奪 ルーベンス

El rapto de Europa
RUBENS, PEDRO PABLO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

 

 

(下)プラド美術館の作品で最も重要で有名な作品がベラスケスのラス・メニーナス。若い頃のピカソも絶賛している。ラス・メニーナスは一度もプラド美術館から外へ出ていない作品でおそらく将来も出ない。

 

<ラス・メニーナス、ベラスケス1656年、プラド美術館>

ベラスケス
Las meninas
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」という題名は19世紀につけられたもの。今も絵の解釈は様々でベラスケスが描いているのは王女なのか国王夫妻なのか。いずれにしても鏡を使う事で絵を見ているのか見られているのか私たちに混乱を与える。後ろにかかる2枚の絵はルーベンスの神話画で「無謀に芸術の神に挑戦をして失敗する人間たちの姿」なのは私たちに様々な事を示唆している。

 

当時のフェリペ4世の王女マリア・テレサとフランス王ルイ14世の結婚の準備でベラスケスはフランス国境のフエンテ・ラビアへ行った。マリア・テレサはスペイン王フェリペ4世と最初の結婚のイサベル・デ・ブルボンの娘。

<マリア・テレサ、ベラスケス1652-53年、ウィーン美術史美術館>

ベラスケス、マリアテレサ
De Diego Velázquez – Kunsthistorisches Museum, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=159945

マリア・テレサはフランスに嫁ぐがいつまでもフランス語がうまくなかった。義理母(ルイ14世の母)はスペインの王女(フェリペ3世の娘)なので義理母とスペイン語の会話を楽しんだという。

ベラスケスはこの結婚の準備の債務と旅に疲れ果て1660年6月26日にマドリードに戻り王宮内の自室で床に伏し8月6日に天に召された。国王フェリペ4世の哀しみと嘆きは大きかった。国王フェリペ4世はその6年後に亡くなりあまり悲しむ者も周りにいなかったという。混乱を残して亡くなりそれを受け継いだ皇太子はスペイン・ハプスブルグ最後の王となる。

画家の家族

<ベラスケスの家族、マルティネス・デル・マーソ1665年、ウイーン美術史美術館>

ベラスケスの家族
De Juan Bautista Martínez del Mazo – Kunsthistorisches Museum Wien, Bilddatenbank., Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4662029

マーソはベラスケスの弟子で後に宮廷画家となる。ベラスケスの娘フランシスカと結婚しその間の子供達が左側に再婚の妻とその子供達が右側にいる。背景にベラスケスが描いたフェリペ4世と奥の部屋で仕事をするベラスケス、又はマーソ自身がマルガリータ王女の絵を描いている。

 

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補足・その後のスペイン

フェリペ4世の唯一育った息子はカルロスと名付けられた。先ほど登場したマルガリータ王女の弟にあたる。体が弱く3歳まで歩けず8歳まで話せなかった。そして結婚はするが世継ぎのないまま1700年に崩御した

<カルロス2世、1673年カレーニョ、プラド美術館>

カルロス2世
museo de prado

その結果スペイン王位継承戦争が始まりヨーロッパ全体を巻き込んだ戦争となる。最終的にフランスのルイ14世の孫がスペイン王フェリペ5世として即位する。この時にイギリスにジブラルタルを奪われ今も返還交渉中だ。ここにカルロス5世から始まったスペイン・ハプスブルグ家が終焉した。

 

マドリード、ティッセン・ボルネミッサ美術館、主要作品と廻り方。マドリードで美術館三昧。

マドリードのティッセン・ボルネミッサ美術館は個人のコレクションだったとは思えない豊富な量と素晴らしい質を備えた美術館。マドリードのこの地区はプラド美術館とソフィア王妃芸術センターとティッセン・ボルネミッサ美術館で黄金の三角地帯を形成している。マドリードには大小合わせて90個の美術館・博物館がある中この3つの美術館は絶対外せないマドリードのアート・スポット。是非とも訪れてアートに浸ってみてください。今日はティッセン・ボルネミッサ美術館についてご紹介します。

 

ティッセン・ボルネミッサ美術館マドリード


ドイツの鉄鋼財閥ハインリッヒ・ティッセン・ボルネミッサ男爵とその息子のハンス・ハインリッヒ・ティッセン・ボルネミッサ男爵(どちらも故人)の2代にわたる個人のコレクションでプライベート・コレクションとしてはイギリスのエリザベス女王の物に次ぐ世界第2位のボリューム。古典絵画から近代絵画にいたる幅広いコレクションが特徴で13世紀から21世紀の8世紀にわたる西洋美術史をここで堪能することが出来る世界でも数少ない美術館です。

*毎週月日は12時から16時まで無料。12時に開館になり随分並んでいますが13時30くらいなら並ばずに入ることが可能です。本来の休館日にマスターカードの協力で無料で開放しています。

ビジャ・エルモサ宮殿

ティッセン・ボルネミッサ美術館の建物は元は19世紀の貴族のお屋敷ビジャ・エルモサ宮殿。その後一旦銀行家に購入されたが後にスペイン政府に売却されプラド美術館の管轄になり特別展などに使われていた。

<マドリード、ティッセン・ボルネミッサ美術館入り口>

ティッセン美術館
筆者撮影

その後ティッセン・ボルネミッサ・コレクションのスペイン政府へ誘致の話の折にこの建物を提供することでティッセン男爵と交渉がまとまる。ティッセン側は同時にヨーロッパの他の都市とも交渉しており特にロンドンは有力候補地だったが展示場のロケーションではマドリードが断然有利、中心部でプラド美術館の至近距離でありエレガントな建築物を提供で決定に至った。

建物の改装はスペイン人建築家ラファエル・モネオ氏によって1990年3月に行われ1992年700点のティッセン男爵のコレクションが運ばれた。その後1993年にスペイン文科省にティッセン・コレクションは売却された。ハンスハインリッヒ氏は5度の結婚をしておりこれらの絵画や財産の遺産相続で揉めていた。彼と父親のコレクションがバラバラにならないようにというティッセン男爵の願いで売却にいたる。

<マドリード、ティッセン・ボルネミッサ美術館入り口>

ティッセン美術館
筆者撮影

敷地内に入りカフェテリアとブックショップ、入ってすぐのサロンまでは入場券なしで入れます。ブック・ショップは楽しいものがいっぱいありムージアム・ショップとしてはレベルが高い。スカーフやネクタイ、文房具品や食器、アクセサリー等素敵なお土産が見つかる。(写真下)

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ショップ>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

ティッセン・ボルネミッサ美術館内部

*写真撮影可能(フラッシュ無し)で手荷物検査も無しです

*日本語のオーディオガイドが出来ました。5ユーロで簡単な説明ですが50点の作品を説明を聞きながら回ると事が出来ます。

 

切符を買うとこの大きなホールを進んでいく(写真下)。ここまでは切符が無くても入れます。広々したホールはスペイン人建築家ラファエル・モネオ氏の改築。

<マドリード、ティッセン・ボルネミッサ美術館内ホール>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

少し先の右側に切符の検査が有るのでそこで購入した切符を見せるとエレベーターで2階へ上がりましょう。建物は3階建てで0階1階2階となります。時代順に上から下へ展示されていますので古いものから順にみていくとヨーロッパの美術史全体を把握できます。20世紀美術にいきなり行く場合は切符の検査ある地上階フロア―に展示されています。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館エレベーター>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

 

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2階から=イタリア、プリミティブ絵画

ティッセン・ボルネミッサ美術館は時代ごとに展示されているので2階から1階そして0階と順番に見ていくと13世紀から現代にいたるヨーロッパの美術史を時代を追って鑑賞できる。最初の部屋はイタリアのプリミティブ絵画、13世紀の聖母像や未だ遠近法を知らなかった時代の素朴な作品が展示されている。

下の作品は板絵。1290年頃のフィレンツェの教会の物。教会建築がロマネスクからゴシックに移行した頃にこういう板絵が描かれるようになった。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館イタリア13世紀>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

中世の世界は全て神様によって支配されていた頃の教会の祭壇画。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館イタリア13世紀>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

 

ドイツの中世絵画

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ドイツ中世>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)ドイツの中世の画家の作品でイエスキリストの弟子達が当時の普通の家の中で書き物をしていたり奇跡が起こったり、家の中の道具やテーブルなどが丁寧に描かれている。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ドイツ中世>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)ドイツ中世絵画の聖人シリーズの一枚。聖マルコが福音書を書いているところ。無心に書いている感じが伝わる。部屋にある家具や置物が当時のドイツで家庭にあったのかと思わせる。

フランドル絵画

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ヤン・ファン・アイク>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

ヤン・ファン・アイクの受胎告知。小さな作品ですがティッセンボルネミッサ美術館のコレクションの最高の物のひとつ(私個人的に一番好きな作品です)。グリザイユで丁寧に描かれた彫刻の影と布地の量感等が素晴らしい。絵のサイズが解るように部屋の全体像も入れてみました。ヤン・ファン・アイクは顔料に少し油を混ぜた最初の画家で色に透明感を手に入れた初めての画家。柵も無く絵に近づけるので近くで鑑賞できる。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館フランドル>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

こんなに小さな作品でこっそり隠して持って帰れそうなくらいです。この辺りは同時代のフランドル絵画が展示されています。

ルネッサンス

ドメニコ・ギルランダイオの「ジョバンナ・トルナブオーニの肖像」はティッセン美術館で一番有名な作品。ここからルネッサンスに入り人間が描かれるようになった。ギルランダイオは15世紀後半にフィレンツェで活躍した画家でミケランジェロの師匠にあたる。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ネッサンス>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)板にテンペラ画、横顔の肖像画としては最高に美しい宝石といえる作品で衣装の豪華さや宝石等輝いている絵画。ジョバンナトルナブオーニはフィレンツェのメディチ家のロレンツォ・デ・トルナブオーニと結婚。この絵はジョバンナトルナブオーニが亡くなった後注文されたもの。後ろの背景に聖書とサンゴのロザリオが描かれ信仰をほのめかしている。

 

(下)ホルバインのヘンリー8世イギリス王。次々と妻を取り替え処刑したりロンドン塔へ送ったイギリス王。最初の結婚はイサベル女王の娘カタリーナ。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館>

ティッセンボルネミッサ
筆者撮影

皮肉にもヘンリー8世の隣にカタリーナの肖像画が置いてある。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

カタリーナ・デ・アラゴンはスペインのイサベル女王の娘で切望されイギリス王に嫁ぐが侍女のアン・ブリンが気に入ったヘンリー8世により離婚される。離婚が許されないカトリックでローマ法王からヘンリー8世は破門され英国国教会が作られた。カタリーナは最後までプライドを保ち凛々しく過ごした。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ラファエル>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

ラファエルの描いた少年。沢山の作品の中でも目を引く綺麗な絵でティッセン男爵個人の審美眼がうかがえる。こちらを振り返ったばかりの視線、髪の巻き毛も美しい。小さな作品なのですぐ近くで画家の筆のタッチまで見ることが出来ます。

ベネチア絵画

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ベネチア>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

ここはエル・グレコとベネチア絵画。エルグレコはベネチアで絵を修行した。初期の受胎告知と晩年の物が並べておいてあるので作風の変化が良くわかる。

スペイン17世紀絵画

ジュゼップ・デ・リベラのキリストの埋葬。晩年の作品でタッチが柔らかくぼかした技法。聖母の悲しむ表情、明暗法とドラマチックな場面がカラバッジオを思わせる。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館リベラ>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

 

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館スルバラン>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)フランシスコ・デ・スルバランの聖女シリーズの一枚で聖カシルダ。スペインの17世紀の巨匠のひとりスルバランは美しい聖女を等身大で何枚も描いている。

カラバッジオのエジプトのサンタ・カタリーナ。2018年4月現在修復中で展示されていません。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館カラバッジオ>

ティッセンボルネミッサ美術館
By ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ – The Yorck Project: 10.000 Meisterwerke der Malerei. DVD-ROM, 2002. ISBN 3936122202. Distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=148804

 

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オランダのバロック期レンブラント

オランダの画家レンブラントの自画像。オランダ絵画の黄金期に活躍したレンブラントの1642年頃の作品なので有名な「夜警」が描かれた同時代の作品。レンブラントは他に例を見ない程の自画像を描いている。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館レンブラント>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

この頃は裕福だったレンブラントだが彼は晩年財政難この絵の約15年後には自宅を売却することになる。

 

1階はオランダ絵画から印象派等

<マドリード、ティッセン・ボルネミッサ美術館オランダ風俗画>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

16世紀頃のオランダ絵画は楽しいものが多い。当時の民衆の生活や居酒屋、楽器も持った人々や子供達等が生き生きと描かれている。この時代スペインではキリスト教の厳格な絵画しか描かれていなかった宗教改革の真っただ中、対抗宗教改革が行われ魔女裁判や異端審問所が活躍していた。オランダでは裕福な商人たちによって民衆の生活の様子の作品の注文が有った。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館オランダ風俗画>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

ダビッドテニエルの風俗画の部分を拡大。居酒屋で集まる庶民の話声が聞こえてくる。オランダの作品は楽しい。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館オランダ風俗画>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)ヤン・スティーン、田舎の結婚式の部分を拡大。楽器を持った人が演奏していて楽しそう。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館オランダ風俗画>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)ダビッド・テニエールの田舎のお祭りの部分。酔っ払いが倒れていて介抱している人やヤレヤレと話している人や騒々しいお祭りの雰囲気が伝わって来る楽しい作品。

フランス絵画から印象派へ

印象派は人気がありこの美術館でも鑑賞する人が多いコーナー。エドゥアルド・マネ、ビンセント・バン・ゴッホ、トゥールーズ・ロートレック、クロード・モネ、エドガー・ドガ等豊富に楽しめる。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館マネ>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮

(上)エドゥアルド・マネの亡くなる前年の作品で「正面からのアマソナ」

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ロートレック>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)ロートレックの男性

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ドガ踊り子>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)ドガの踊り子、くるくる回っている美しいバレリーナ。いつも人でいっぱいです。

 

地上階0階

地上階に降りると20世紀のコレクションが納められています。ピカソやブラックのキュービズムからアンディーウォーホールやロスコ―等の現代絵画が展示されています。

キュービズムを同時にブラックとピカソが始めた。ほぼ同時期に楽器を持つ人物をブラックとピカソが描いている2枚が隣同士に並んでいる。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館キュービズム>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ブラック>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)キュービズムで描かれたブラックのマンドリンを弾く女性。マンドリンを弾く手が動いているのが見える。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ピカソ>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)同じころにピカソがキュービズムで描いたクラリネットを弾く男。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ミロ>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)ミロの構造という名の作品、ブルーが綺麗でした。説明不可能。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ピカソ>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)ピカソの鏡を見る道化師。1923年の作品。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)マルク・シャガールの鶏。シャガールはユダヤ系ロシア人の画家で後にフランス国籍を取得。一旦故郷へ戻った後にパリで描いた作品。随分毒舌家で知られた人物だが作品はメルヘンで可愛い。

アメリカ現代絵画

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

マーク・ロスコ―の無題。ロスコーはユダヤ系ロシア人でアメリカで活躍した。ロスコーはアメリカ現代絵画の画家、フロイトやユングに没頭し無意識の世界に興味を持っていた画家。大きな作品の前で深いロスコーの色を見つめていると瞑想の世界へ連れていかれる様な錯覚を覚える。66歳で私生活の問題や病気で悩み自殺している。

近代絵画は殆どが息子のティッセン男爵のコレクション。拡張部分に妻のカルメンティッセンのコレクションも展示されている。

行き方

地下鉄:5号線バンコデエスパーニャから徒歩10分又は2号線セビージャから徒歩10分

バス:マドリードの街を縦に走るカステジャーナ通りからの場合14番27番のバスが直ぐ近くに止まります。

プラド美術館斜め前:ネプチューンの噴水をはさんで斜迎え側。

 

ティッセンボルネミッサ美術館・開館時間や値段

住所:Paseo del Prado 8

常設展:火曜日から日曜日  10時から19時

値段:12ユーロ オーディオガイド:5ユーロ

美術館共通チケット「パセオデルアルテカード」29ユーロ60セント。プラド美術館、ソフィア王妃芸術センター、ティッセンボルネミッサ美術館の共通切符

毎週月曜日 12時から16時まで無料

毎週土曜日:特別展時間延長10時から21時

休館日:1月1日、5月1日、12月25日

 

*ティッセンボルネミッサ美術館公式ページです。特別展などはこちらから調べてください。

https://www.museothyssen.org/

最後に


ティッセン・ボルネミッサ美術館は個人のコレクションとは思えない程の作品の質と量で約800年にわたるヨーロッパの美術史を楽しめる美術館です。この記事では筆者の個人的な好みで作品を紹介しましたが素晴らしい作品がまだまだ沢山有ります。月曜日は無料なので私はなるべくその時のお邪魔しています。絵画好きにはたまらない素晴らしい作品をすぐそこまで近づいて鑑賞できる美術館で写真も撮れるのが有りがたいです。マドリードで時間があればプラド美術館からすぐ近くなので是非とも楽しんでください。

個人のコレクションとは思えない質と量、もちろん財力は当然ですがティッセン男爵の絵画に対する愛情が感じられるコレクションです。

 

マドリード中心部のカバ・バハ通りの美味しいバル2軒、カバ・バハ通りは300メートルに50軒の飲食店。

 

今日はマドリード中心部のおすすめ美味しいバル通り「カバ・バハ」CAVA BAJAをご紹介。マドリードの中心部のバル街はいくつかの地区に分かれていてそれぞれの地区で完結できる様になっている。マヨール広場近辺やラス・レトラス地区、チュエカ地区、それぞれ特徴があり何軒か梯子をすれば一晩中楽しめる。今日はマヨール広場から更に少し下って行ったところにあるカバ・バハ通り(Cava Baja)を紹介します。マヨール広場から5分くらい坂道を下って行くかメトロ・ラ・ラティーナからでもすぐです。既にサンミゲール市場も美味しいマッシュルーム屋もエビのアヒージョ専門店のカサ・デル・アブエロも行ったしという方をもう少しディープな世界へお連れしましょう。別に危険はないですがイギリス人の超酔っ払いが時々出没します。あ、でも食事中も貴重品には気をつけましょう。

カバ・バハ通りCall CAVA BAJA

マヨール広場とサン・ミゲール市場の間の下り坂を下りてマッシュルーム屋も通り過ぎると小さな広場に出る。プエルタ・セラーダという名の広場で昔はここに小さな城門があったところ。目印はこの十字架。

<プエルタ・セラーダ>

プエルタ・セラーダ
筆者撮影

丁度この十字架の向こうにまだ細い道が伸びていてそこが目的のカバ・バハ通りだ。(交差している通りではなく同じ方向に下って行く細い通り)

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近くにあるセバダ広場は穀物を集めたところでそれらを売る商店がこの通りに集まるようになったらしい。今は300メートルの細い通りにバルやレストランが集まり炭焼きの美味しい老舗レストランや美味しいピンチョが並ぶバル等が約50店舗程並んでいる賑やかなバル街になった。歩いてみて気に入ったバルに入ればそれで間違いない楽しい時間を過ごせる。週末は大変混みあうのでスペイン人の行く時間より少し早めに行く事をお勧めします。お昼は13時、夜は20時ならまだスペイン人には早すぎて空いている。月曜日は休むバルやレストランが多いので注意ですが開けているところもあります。

<カバ・バハ通り。CAVA BAJA>

カバ・バハ通り
筆者撮影

通りの壁にこのセラミックが見えたら大丈夫。通りの反対側にも通りの名前が壁に出ていますので確認しましょう。旧市街は似たような道がいっぱいですので注意。

カババハ通り
筆者撮影

 

カバ・バハ通りに入ると約300メートルの細い通りにバルやレストラン等飲食店が約50軒並んでいます。地元人気バルやピンチョス屋、伝統のある本格レストランもあり、又最近は店舗の変化も早く来るたびに変わって行きファーストフードも出来ていてちょっと残念です。週末のランチ時や週末の夜はマドリードの地元の人々でにぎわう地域で絶対おすすめのバル街です。日本のガイドブックなどに紹介されていないようですが心配いりません。少しディープなところですが安全です。お食事中の貴重品の扱いは気をつけてください。食事中のバッグの盗難等は時々あるようです

<カバ・バハ通り>

カババハ通り
筆者撮影

 

バルは何軒か梯子をするのがスペイン式、気に入ったバルに入ってピンチョやつまみを頼んでみてください。やはり混んでいるところは絶対に美味しいし失敗は無いですね。今日は私の個人的に行く美味しいおすすめバルを2軒ご紹介します。

カババハ通り
筆者撮影

ポサーダ・デ・レオン・デ・オロ

マヨール広場側から下ってて行くと右側にある。ポサーダは昔の宿泊施設の事で小さなブティック・ホテルも営業している。

カバ・バハ通り
筆者撮影

中はモダンなつくりで広々している。ワインセラーもあってこだわりが感じられる作りだ。ここは料理もしっかりしていて定評がある。座れる確率が高いので日本の方とご一緒して座っていただきたい場合はここに来ています。テーブル席でつまみがいただけるのは有りがたい。

<マドリードのバル通り、カバ・バハにあるポサーダ・デ・レオン・デ・オロ>

カババハのバル
筆者撮影

入ると最初はバルでワインを飲みながらサッカーを見ている人達。

<マドリード、カバ・バハ通りおすすめバル>

カババハ通りバル
筆者撮影

メニューは看板に料理とワインがリストになっている。席にもお品書き。手前はバルメニューで奥の座席はレストランメニューで少し内容が違う。レストランメニューの方が種類が多いので色々試したいときは奥へ行きましょう。言い方は、「食事です」Para comer=「パラ・コメール」だとしっかり食べます、「つまみだけです」=Para picar「パラ・ピカール」だとつまむだけです、少ししかいただきませんというニュアンスです。

<マドリード、カバ・バハ通りおすすめバル>

カバ・バハのバル
筆者撮影

私たちは「パラ・ピカール」つまみだけですで手前のバルコーナーへ。まずはワインを頼むとおつまみを出してくれました。エンパナディージャというパイ地の中に魚と野菜の詰め物。

<マドリード。カバ・バハ通りおすすめバル>

カバ・バハのバル
筆者撮影

<マドリード、カババハ通りのおすすめバル>

カババハのバル
筆者撮影

 

(上)今日はオックステールを注文しました。スペイン語でラボ・デ・トロ(Rabo de Toro)牛のしっぽを長時間煮込んだもの。ここはエレガントに骨は外れて食べやすくして出てきました。独特のコッテリソースが美味でした。これはレストランメニューでしたがバルでもいただけます。

 

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タベルナ・デ・ルシオ

マドリードの老舗の有名レストラン「ルシオ」の直営のタベルナです。ルシオは芸能人や有名人が来たら絶対訪れると言われている有名レストラン。カバ・バハといえばこのレストランなのですが予約も取りにくい。そしてレストランでは前菜メインとデザートと注文すると値段も2人で70ユーロとか100ユーロになる。タベルナはバルの少し上にあたるカテゴリーで料理がしっかりした居酒屋みたいな位置付けです。こちらの「タベルナ・デ・ルシオ」でレストランと同じ料理が少し安く、そしてカウンターで一皿だけでもいただけるのがうれしいのが人気の秘密。いつも劇混みです。ワインと一品だけにしたいときや梯子したいときは私はカバ・バハならここに来ます。

<マドリードのバル通りカバ・バハにあるタベルナ・デ・ルシオ>

カババハのバル
筆者撮影

 

ルシオの有名な料理はポテトの卵落とし。何とも単純で簡単な料理と呼んでいいのかと思う一品ですがこれをいただきにはるばる人々は劇混みのルシオに来るのです。Huevos rotosウエボス・ロトス 又は Huevos estrellados con patatasウエボス・エストレジャードス・コン・パタタス。ウエボスはスペイン語で卵の事でロトスは壊れたという意味でまさに卵がポテトの上で壊れています。まわりのスペイン人たちは見事に全員これを頼んでいます。私たちはウエボス・ロトスにチストラというバスクのソーセージが乗ったのを頼みました。

カババハのバル
筆者撮影

レストランで12ユーロ位の一皿がタベルナで9ユーロで少し安くいただけます。

ここはお肉も有名ですのでサーロインステーキ(ソロミージョSolomillo)を試してみました。

<マドリード、バル通りカバ・バハのタベルナ・デ・ルシオ>

カババハのバル
筆者撮影

お肉の味がしっかりしていて美味しいです。脂身のないお肉ですが牛自体の味が美味しいのがスペインの牛肉。放牧なので飼料も気を使って育ているのが美味しい牛肉の秘密です。でレストランだと一人でこれを一皿いただくのですがバルなので2人から3人で分けても大丈夫です。

<マドリードバル通りカバ・バハのルシオ。

カババハのバル
筆者撮影

行き方

マドリード中心部マヨール広場から徒歩10分、地下鉄5号線ラ・ラティーナから徒歩5分

まとめ

マドリードのカバ・バハ通りの美味しいおすすめバルを2軒ご紹介しました。ここは昔からの地元の人がやって来るバル通りで旧市街の中心地。ガイドブックに載っている中心部のサンミゲール市場やマヨール広場は観光客ばかりで最近は質もサービスも低下している。せっかくマドリードに来たら絶対美味しいものを食べてお帰り下さい。

 

聖フランシスコ・ザビエル、日本にキリスト教を伝えたスペイン人ザビエルとイエズス会の宣教師たち。

 

 

フランシスコ・ザビエルはスペイン人(バスク人)のイエズス会宣教師。ポルトガル王に派遣されアジアへ向かった。この頃スペインは女王フアナ1世(狂女ファナ)の時代。女王は既に城に幽閉され深い精神の闇の中で生き、ファナの息子カルロス5世(カルロス1世)がスペイン王と神聖ローマ帝国皇帝として君臨していた。カルロス5世の息子、フェリペはすでに最初の妻を亡くし22歳になっていた。イギリスではカトリックから破門されたヘンリー8世は既にこの世になくメアリー・チューダーの即位少し前、ドイツでは宗教改革のマルティン・ルターは3年前にこの世を去っていたがヨーロッパはカトリックとプロテスタントで分断されていた。鹿児島にザビエルが到着した1549年、信長15歳、秀吉12歳、家康6歳、ヨーロッパでも日本でも歴史の大物が同時に登場した。片道切符でリスボンを出発しアジアでキリスト教の布教に努め中国で亡くなったフランシス・コザビエルの人生を追ってみました。

時代背景


何故ポルトガル王からの派遣だったか
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大航海時代に入っていたスペインとポルトガルが海外領土で揉めないように条約が結ばれた。1494年スペインのトルデシージャスで結ばれた条約で大西洋に縦に線が引かれスペインは西へポルトガルは東へと行先が決まった。東へ向かったポルトガルはインド航路発見の後インドのゴアを武力で手に入れマラッカ迄も手中に収めていた。香辛料貿易を独占したポルトガルは貿易網を拡大し世界的な交易システムを築き上げた。マラッカはインド洋から南シナ海へのルートで古代からの需要な海の十字路だった。ポルトガルはそのマラッカを手に入れ多くの貿易商人達が居住していた。

ポルトガルの交易路
This file is licensed under the Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported license.
Attribution: The Red Hat of Pat Ferrick at the English language Wikipedia

更に明王朝の中国にまで進出したポルトガルは1517年には広州で貿易を開始しマカオに居住しはじめた。

<マカオの聖ポール教会>

マカオの聖ポール教会
パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=173567

 

ポルトガル商人達は火器を香辛料に替えインドのゴアに集め喜望峰を回ってリスボンに持ち帰った。それらはアントワープやロンドンに運ばれリスボンにはお金と人が集まった。ポルトガルのアジアの香辛料貿易は国家事業となりドイツのフッガー家も出資した。種子島にポルトガル人が到着したのはこの時代(1543年)で日本に火縄銃が伝わった。

<種子島銃>

種子島銃
Arquebus.(Tanegashima Hinawajyu・Japanese:種子島火縄銃)
this The Arquebus is in the Portugal Pavilion in Expo 2005 Aichi Japan.
Photo by Gnsin

1550年には平戸に商館を置いて中国産の生糸や火縄銃に使う火薬の原料を中国で安く買い日本で高く売りつけて大儲けをした。九州では大名たちがこの利益にあやかった。種子島にポルトガル人がやって来たときの船をチャーターしたのはマラッカから東アジアを中心に活躍していた倭寇の王直で海賊の頭だった。

<倭寇のルート>

倭寇のルート
Source Transferred from en.wikipedia to Commons.
Author The original uploader was Yeu Ninje at English Wikipedia

鉄砲が作れるようになっても火薬と玉が無いと武器として役には立たない。玉を作る鉛は国内にもあったようだが火薬の原料は硫黄、木炭、硝石で日本では硝石が取れずインドから輸入した。王直が硝石の取引をはじめ信長が大量に買い硝石貿易で随分とお金が動いた。

ポルトガル王ジョアン3世(1502-1557)

この大事業をやっていたのがポルトガル王ジョアン3世。ジョアン3世はスペインのカトリック両王の孫にあたる人物で父親はマニュエル1世、母親はイサベル女王の3女マリア。

<ポルトガル王ジョアン3世>

ポルトガル王ジュアン3世
By クリストヴァォン・ロペス – From en:Image:John III of Portugal.jpg, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=481187

ジョアン3世の結婚相手は同じくカトリック両王の孫のカタリーナ王女。カタリーナ王女は狂女ファナの末娘でトルデシージャスの城に幽閉されながらも最後まで手元に置いていた王女だ。

<トルデシージャス城で末娘カタリーナと暮らす狂女ファナ>

ファナ トルデシージャス
Francisco Pradilla, La Reina Juana la Loca, recluida en Tordesillas con su hija, la Infanta Catalina, 1906 – Museo del Prado

イグナチオ・デ・ロヨラが新しい修道会を創設したと聞いたジョアン3世はアジアのポルトガル植民地の異教徒へキリスト教徒を布教する宣教師を派遣してほしいと頼んだ。

*ジョアン3世とカタリーナ王妃の間に9人の子供が生まれるが育ったのは2人だけだった。一人娘はスペインのフェリペ2世と結婚したマリア・マヌエラ、皇太子ジョアン・マヌエルは病弱で16歳で父王より先に早世する。16歳で既に結婚はしており亡くなる少し前に息子が生まれセバスティアンと名付けられた。世継ぎセバスティアンが無謀な戦争に出かけて早世した結果スペインのフェリペ2世にポルトガルは併合されてしまう。

イエズス会の結成


この時代のヨーロッパではカトリックの総本山サンピエトロ寺院の建設にお金がかかり過ぎ、困ったローマが考えついた錬金術が免罪符の販売だった。搾取が多かったドイツを中心にローマ・カトリック教会に対しての反発から宗教改革が始まっていた。スペインを中心にカトリック側では倒れかけた教会を守るために様々な改革が行われるようになりその一環で対抗宗教改革が始まった。この背景の中で結成されたのがイエズス会だった。

イグナチオ・デ・ロヨラ

イエズス会はスペイン北部出身のバスク人イグナチオ・デ・ロヨラによって結成された当時の新しい修道会。ロヨラは若いころは戦争での功名を狙った戦士で現世の出世を願う人物だった。パンプローナでの戦いで負傷し治療中にキリスト教の聖人伝を読んでいるうちに熱中し元気になるころには神の戦士になっていた。ロヨラには申し訳ないがマニアックで狂信的なタイプの人だったと想像している。心を入れ替え瞑想と巡礼をし新しい境地を開き自分の信じた道へ突き進んでいった。

<イグナチウス・デ・ロヨラ>

イグナチウス・デ・ロヨラ
By 匿名 – http://www.spiritual-exercises.com/images/ignatius2.jpg, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=86025

その時にロヨラが作った瞑想法、心霊修業がイエズス会の修行法に今も使われている。パリ大学で仲間を見つけ異教徒と戦う戦士の為にとエルサレムに行こうとしたが不可能だったのでアジアへ行先を変えた。最初の予定ではポルトガル人のシモン・ロドリゲスとスペイン人のニコラス・ボバディージャの2人だったがニコラス・ボバディージャが重病にかかりピンチヒッターで決まったのがフランシスコ・ザビエルだった。

フランシスコ・ザビエル(フランシスコ・ハビエル)


1506年4月7日にナバーラ王国の貴族の子としてパンプローナ近くザビエル城で誕生。父方の祖父は農業を営んでいたがザビエルの2代前の人物が有能でパンプローナに出て来てナバーラ王室に仕え功績を立てた。父親も仁徳も学識もある人物で首相のような地位にいた。母は貴族の出でザビエル城は母の持参金の一部だった。

<スペイン北部パンプローナ近くのザビエル城>

ハビエル城
CC BY-SA 3.0 es
Source Own work
Author Rayle026

ナバーラ王国は交通の要所で重要な位置にあった。フランシスコ・ザビエル6歳の時にフランスとスペイン間で戦争が起こりザビエル9歳の時にスペインに併合された。今はスペインの17州のひとつナバーラ州となっている。父親はその心労で亡くなり王国が滅び家族の苦労を見て育ったザビエルは当時の若者が抱く出世や一攫千金等の夢は無く大学へ進み故郷の為に家の復興を助けたいと願う若者だった。

ロヨラとの出会い

1525年18歳でパリ大学へ留学し抜群の成績で卒業する。そこで知り合ったのがイグナチオ・デ・ロヨラだった。ロヨラは15歳年上の37歳で大学へやって来た変わり者、ザビエルはパリのソルボンヌ大学の聖バルバラ学院で既に哲学教授の講義をしていた大学教授だった。

大学の寮で同室になったロヨラをザビエルは初め遠目に見て避けていたようだ。パリ大学の教授の職を得ていたが次第にロヨラの言葉に感銘を受け1533年28歳の時に神の使徒として働く決意を固めた。1534年28歳の時パリのモンマルトル聖堂で6人の同士と共に清貧と貞潔を誓いキリストに従い聖地へ巡礼を誓う。8月15日聖母マリア聖天の日だった、この日がイエズス会創立の日となる。

<イエズス会16世紀の紋章>

イエズス会紋章
By Collegium Societatis Jesu – Annuae litterae Societatis Jesu: anni MDLXXXIV, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=50510456

ザビエル達「イエズス会同士」は聖地エルサレムへ向かう船に乗る為イタリアのベニスに歩いて向かったが戦乱で出港が出来ずベニスの病院で人々に奉仕する。ローマに向かいローマ法王パウルス3世に謁見しイエズス会が法王によって正式に認可された。(1540年)

<ローマ法王パウルス3世>

パウルス3世
wikipedia public domain

 

リスボンを出発

ロヨラに選ばれたボバディージャは病気にかかりロドリゲスは宮廷に引き留められピンチヒッターのザビエルのみがインドに向かう船に乗ることになった。1541年4月7日ザビエルの35歳の誕生日だった。

<リスボン、発見のモニュメント>

発見のモニュメント、リスボン
筆者撮影

インド航路を通り13か月の船旅で1542年にインドのゴアに到着。ゴアを中心にインド沿岸からマラッカ、モルッカ諸島をめぐり5年間の布教。布教の妨げになったのはポルトガル人商人たちの生活態度だった。拝金主義が横行し目の前の快楽におぼれる人々を見てフランシスコ・ザビエルを悲しませた。

インドの南は読み書きの出来ない人達も多く祈りの言葉を現地の言語に訳したりメロディーをつけたり苦労した。鐘を鳴らし子供達を集め歌で祈りを教え、家に帰った子供達が歌い家族に広まるようにした。

アンジロウ

フランシスコ・ザビエルは始めはインドのゴアを中心に布教していたがマラッカ、モルッカ諸島まで巡っていた時にマラッカでアンジロウ又はヤジロウという名の鹿児島出身の日本人に会った。ザビエルがロヨラへ送った手紙が残る。「私はこのアンジロウを通じてすべての日本人を想像しますと今迄発見された民族の中で最も研究心の発達したものだと考えます。」

アンジロウ又はヤジロウはおそらく日本で犯罪を犯して亡命し、悔悛しており救いを求めてザビエルを探し当ててマラッカ迄来ていた。罪を悔いておりザビエルを訪ねたがその時不在の為あきらめて船に乗って鹿児島へ戻ろうとしたら船が大時化に会いザブ~ンとマラッカに戻され運よくフランシスコ・ザビエルに謁見ができた。彼の出自や本名などは不明、ザビエルが日本を去った後布教活動から離れ海賊になった、又は仏僧の迫害を受け日本出国を余儀なくされ中国付近で海賊に捕まった等諸説ある。(*以降アンジロウで統一)

ザビエルはアンジロウと2人のお付きの日本人にゴアの学院でポルトガル語と教理を勉強させ洗礼を授けた。1549年4月15日ゴアを出発し中国船に乗り換えアンジロウの故郷鹿児島を目指す事となった。

ポルトガルのカラヴェル船
By Unknown – Livro das Armadas, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=28565761

 

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鹿児島へ

ポルトガル船が種子島についてから6年が経っていた。フランシスコ・ザビエルが鹿児島へ入港したのは1549年、奇遇にも聖母マリア聖天の日8月15日。同行したのはコスメ・デ・トルレス神父、フェルナンデス修道士、アンジロウと2人の日本人、中国人とインド人。

<南蛮寺が描かれた屏風>

南蛮屏風
By attributed to Kano Domi – 不明, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=353058

9月29日薩摩の領主島津貴久に一宇治城(イチウジジョウ)にて謁見が許されポルトガル船の貿易に魅力を感じていた島津は領内での布教の自由を与えた。フランシスコ・ザビエルはアンジロウの助けを借り日本語を学び布教を始めた。

島津家の菩提寺である福昌寺の住職、忍室(ニンジツ)と親しくなり2人は寺の縁側で語り合ったようで誠実なザビエルの人柄が重職に伝わったようだ。1年間の鹿児島滞在中に100人の人々に洗礼を授けた。しかし期待したポルトガル船がやってこないので島津は布教を禁止する。

都へ、京都へ

鹿児島を出発して平戸へ向かう。大名松浦の家来木村という侍とその家族に洗礼を授けザビエルは京へ向かう。木村の孫のセバスティアン木村は日本人最初の司祭となるが1622年に長崎で殉教している。

フランシスコ・ザビエルはその後博多へ渡り大内義隆の領内山口へ渡り一か月滞在。岩国から船で堺へ。貧しい身なりの外国人の旅人をかわいそうに思った堺の商人が豪商「日比谷了慶ヒビヤ・リョウケイ」を紹介してくれた。当時にしては珍しい瓦屋根3階建ての建物に住む富豪で了慶は後にコスメ・デ・トルレス神父やルイス・フロイスの面倒を見、自宅を教会に開放している。その屋敷のすぐ近くに千利休が住んでおり了慶は他の商人達と同じく茶人でもあり千利休とも親しくしていた。了慶は後に自身も洗礼を受けており、利休も洗礼したという説がある。茶室は神聖な場所でミサにふさわしく利用したかもしれない。茶道の帛紗(ふくさ)の使い方とミサの所作が似通っているのは以前から指摘されている。

<千利休>

千利休
By painted by 長谷川等伯, calligraphy by 春屋宗園 – http://www.omotesenke.com/image/04_p_01.jpg , Omotesenke Fushin’an Foundation, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=735711

堺の港は遣明船の発着港で日明貿易で栄えてた。種子島に鉄砲が伝わるとすぐその製造法が堺の商人によってもたらされ堺の経済を発展させていた。ポルトガル商人の窓口は平戸や長崎だったが堺の商人は九州に出向いて絹や生糸と銀を交換した。商人達が自治権を持ち街の周りに堀をめぐらせ武士の侵入を防いだ。有力商人達が会合衆(えごうしゅう)と呼ばれ力を持ち街を治めていた。彼らは茶の湯に集まり情報交換をしたり親交を深めており茶室は重要な場だった。イエズス会は日本の事を良くリサーチして茶の湯や茶室の事も報告されている。

 

ザビエルは日本の大学として聞いていた比叡山へ行こうと目指す。坂本という比叡山ふもとにある僧侶の街まで行くが比叡山に上る許可はもらえぬまま京都は応仁の乱で荒廃し足利将軍の政権は地に落ちていた。がっかりし鳥羽から堺へ向かう。比叡山をザビエルはヨーロッパの大学にあたる場所と考えておりで訪れたいと切望していた。

山口へ

フランシスコ・ザビエルは日本では地方の有力大名にこそ実権があると山口へ向かう。日本人の心理の一面を理解したフランシスコ・ザビエルは「日本人は体裁を重んじ、身なりによって人の品位を定める。身分の高い人物に会うためにはそれなりの身支度と贈呈品を持つのが礼儀」と知り平戸へ戻り衣服を整え時計、鉄砲、楽器、メガネ、洋画を馬の背に積み1550年に山口の城下町へ向かった。

<大内義隆>

大内義隆
By 日本語: 不明(異雪慶珠賛) – The Japanese book “Bōchō no Bijutsu to Bunka (防長の美術と文化)”, Gakushu Kenkyu-sha, 1983, パブリック・ドメイン, Link

大内公は機嫌を良くしフランシスコ・ザビエル達に「大道寺」という寺を提供し領民への布教を許した。(大内家はその後謀反を起こされ1551年に滅びる。)

 

昼夜を問わず訪問客が押し寄せ神の本質、霊魂の事、地獄や煉獄、地球の形状や太陽の運行について質問の質問にフランシスコザビエルは誠実に明快に回答をして行き人々の好奇心を満足させるが改宗者は現れなかった。

 

ある日同行のフェルナンデス修道士が通りすがりの日本人から顔に唾を吐きかけられても怒るでもなく落ち着いて静かに説教を続ける姿を見ていた民衆の中から洗礼を受けようという人物が現れ次第に改宗者が出て来た。

この頃ザビエルは「神」の事をアンジロウの訳に従って「大日」と呼び真言宗の僧侶から好感を持たれていたが良く調べると「大日」はキリスト教の「神」全知全能の創造主ではない事に気がき「大日」から「デウス」に呼び変え人々は混乱し僧侶たちと争いが起こる。

大分へ

大分港にポルトガル船が着き豊後の大友義鎮(後の大友宗麟)から招待を受けた。1551年当時22歳の大友義鎮はフランシスコ・ザビエルの人格に心を打たれ布教の許可を出したと言われるが戦後時代ポルトガル商人からの鉄砲の火薬の原料が本来の目的ではあるまいか。その30年後に自らも洗礼を受けドン・フランシスコと名乗り理想郷ムジカ(無鹿)を作ろうとする。ムジカはスペイン語で音楽の事。

<大友宗麟>

大友宗麟
By 不明 – 大徳寺塔頭瑞峯院蔵, パブリック・ドメイン, Link

そのポルトガル船にインドからの郵便物が無く宣教師たちを残しザビエルはゴアへ戻る。再び日本へ戻って来る予定だったが中国の情報を入手し「日本で布教の成功を手に入れるには中国へ」行こうと渡った上川島(広州)で熱病にかかり1552年に倒れた。46歳だった。

遺体はインドへ

上川島で亡くなったザビエルの遺体をすぐには運べないので一旦そこに埋葬された。2か月半後に墓を開けてみたら顔も体も腐敗していなく衣服も美しいままだった。マラッカの丘の上の聖母教会へ埋葬。イエズス会の神父がやって来て墓を開けるが遺体はきれいなままだった。フランシスコ・ザビエルの東洋の布教の拠点だったインドのゴアへ移動させ聖パウロ学院に安置、その後1624年にボムジェス教会に移管された。今もザビエルは銀の棺に入れられ10年に一度公開されている。

イエズス会は遺体をローマに移動させたかったが長い船旅に絶えられないだろうと右腕だけをローマへ送った。1622年3月12日カトリック教会によって聖人に列せられ「聖フランシスコ・ザビエル」となる。

ザビエル後のイエズス会宣教師たち


コスメ・デ・トルレス神父

ザビエルが去った後はコスメ・デ・トルレス神父が18年間日本に滞在し日本文化を尊重し質素な着物を着て日本人と同じものを食し地道に活躍した。ザビエルの遺志を継いで夢を実現させたのはコスメ・デ・トルレス神父だった。

ルイス・デ・アルメイダ神父

コスメ・デ・トルレス神父に感化されイエズス会に入信したルイス・デ・アルメイダはポルトガル人貿易商人で日本の貿易で巨万の富を手に入れていた。もともと南蛮外科医だったルイス・デ・アルメイダは山口でコスメ・デ・トルレス神父の誠実さに心を動かされ富と名声を捨てイエズス会に入信した。貧しい日本の田舎で子供達が間引きされ河に沈められているのを見て私財を投じ孤児院を建て命を救った。またハンセン病患者の為のホスピタルを作りマカオやゴアから自費で薬を取り寄せ多くの人々の命と心が救われた。これが日本初の病院となる。

ルイス・フロイス司祭

ルイス・フロイスはポルトガル人司祭で戦国時代に日本で信長や秀吉に謁見している。イエズス会からの命令で日本におけるイエズス会の活動を記録する事になる。この記録が「日本史」として今も読むことが出来る統一して第三者から語られた戦国時代の重要な全体像の歴史書となっている。

<ルイス・フロイスの日本史>

ルイスフロイス日本史
wikipedia public domain

 

最後に


フランシスコ・ザビエルは志半ばでこの世を去った。異国の旅で故郷を思い出す事は有ったのだろうか。インドへ出発した後日本に戻る予定だったと言われているが日本を去った後にイエズス会へ送った書簡には日本について書かれたものが無いという。南蛮商人達が日本を良いように搾取していたのは間違いなく、その後スペイン王フェリペ2世がポルトガルを併合し日本も侵略しようとしていたという説が有力だ。フランシスコ・ザビエルは日本の人々に愛着を持ち侵略されないように筆を控えたとも考えられる。ポルトガル人によって日本人が奴隷に売られているのをイエズス会は禁止するように呼びかけていた。

フランシスコ・ザビエルが洗礼した日本人のベルナルド神父がリスボンへ渡りローマでイエズス会へ入信している。おそらく最初にローマを訪れた日本人となる。長旅で病気にかかりポルトガルのコインブラで永眠した。故郷に帰らず遠い異国で屈辱もあっただろう人々の人生に思いを馳せる。

 

 

スペイン旅行のベストシーズン<スペインの気候と祝祭日>旅行の予定をたてる前に

スペインは北半球なので一年間の四季は日本と同じ春夏秋冬。雨季は秋から冬。内陸と海岸部でかなり気温や天候は違う。マドリードから北部は冬は雪が降るところもあり内陸で標高が高いので乾燥した厳しい寒さ。バルセローナは緯度は高いが地中海の影響を受け冬も夏も穏やかだが湿度がある。アンダルシアは南部だがグラナダはシエラネバダ山脈があり街の標高も高いので冬は冷える。同じアンダルシアでもセビージャやマラガは冬も比較的温暖で夏は暑い。

<ベストシーズンはいつ?>


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大雑把に言えば春と秋がベストシーズンです。例えば5月か10月なら過ごしやすく日照時間も長くさわやかな気候です。実は非常に難しい質問でスペインは大きな国で場所によって随分気候が異なる。夏はアンダルシアのセビージャなどは午後の最高気温は40度を超えるが北のピレネーやアストゥリアスは24度位。アンダルシアでも太陽海岸のマルベージャは最高気温と最低気温の差が少なく18度から28度くらいで海岸線なのに湿度も少なく過ごしやすく一年中ベストシーズン。冬は内陸の標高の高い地域ブルゴス、ソリアは非常に寒い。マドリードは朝マイナス5度くらいまで下がることもあり非常に厳しい寒さが続く。一方バルセロナ等の地中海の影響を受けるところは最低気温16度くらいなので温暖で穏やか。(平均気温なので年に何日か寒波がやってきたり温暖な年があったりします)その分夏は湿度が高い。

5月のある同じ日に太陽海岸で25度で真夏の服装をしていて北部のブルゴスに行くと2度だったことがあります。

春は3月後半にサマータイムになり比較的暖かくなっていきます。ただ三寒四温を繰り返し安定するのは5月中旬。マドリードから北部は山岳地帯なので年によっては6月前半まで寒くなる年もある。秋は9月頃から少し過ごしやすくなり10月いっぱいまで青空の広がる過ごしやすい季節です。

雨が降るのは秋から冬にかけてですが比較的降りやすい程度で(年によってかなり違います)5月頃から10月頃まで天候が安定するとほとんど降らない

という事でスペインは大きな国でどこに行くかでかなり気温が違います。

<春はベストシーズン>注意は復活祭に重なると超混みます。ホテルも取りにくく値段も高い。

年によって気候はかなり違いますが春は通常過ごしやすくサマータイムが始まる(3月末)ので一日が長くなり旅行シーズンとしてはベスト。ヨーロッパの人も動き始めるので観光地は混み始めます。お花も一度に咲きはじめ町は華やかになります。ピレネー山脈やピコスデエウロパ山脈は4月はまだ雪が降ることも。6月20日から学校が夏休みになるのでその少し前は季節もいいしまだ込み合う前で夏至の頃は日照時間が長いので一日を有効に使えます。

<注意>復活会は移動祝祭日で毎年変わります。春分の後の満月の日が起点なので旅行計画を立てる前にチェックしましょう。ヨーロッパの人が動くのでどこも大変混みあいますモニュメントはお休みになるところがある反面キリスト受難の山車を見たりスペインの別の一面を楽しめます

<夏は行くところによってベストシーズン>

ヨーロッパの人達のバカンスが始まると海岸線やピレネー山脈のリゾート地はスペイン全国どこも込み合いホテルも値段が上がります。一番混むのは7月後半から8月いっぱい。海岸線は一週間単位の予約の所も多く1泊2泊では取れないホテルもあります。夏も年によって涼しいときもありますが南の内陸(セビージャ・コルドバなどは非常に暑いです)観光するならなるべく午前中にして午後はのんびり過ごしましょう。夏至の頃太陽が沈むのは22時です。午後の17時は日本では夕方ですがスペインの太陽はてっぺんで一番熱い時間です。海岸線にホテルを取って午前中は観光午後は海でのんびりというのが理想。がそんなにのんびりした予定が立てられないケースの場合午前中街で観光その場合午後は移動。新幹線やバス、飛行機で暑い時間移動してその後ホテルに入って休憩してから出かける予定にする。スペインのほとんどのホテルはチェックアウト12時です。大きなスーツケースは宿泊ホテルで無料で預かって貰えます。

*注意*夏の午後の15時から18時はまだ太陽はてっぺんで一番暑い時間なのでこの時間に観光を入れると本当に暑さで倒れます。

マドリード等内陸の大都会真夏はオフシーズンになるのでホテルの値段が下がります。これはこれで狙いめでベストシーズンと言ってもいいかも(最近は観光客の増加傾向でキャンペーン値段は減りましたがチェックしてみる価値ありです)

スペイン北部ー<バスク・カンタブリア・アストゥリアス・ガリシア>ーは真夏も最高気温が24度くらいで朝は寒いくらいです。真夏でもしっかり防寒具が必要です。一日に気温差があり午後は30度を超えることもあります。さわやかな気候が続き雨もあまり降らないので北スペインは夏がベストシーズン

<注意>北部以外は大変暑いので無理のないよう行程を組みましょう。午後に気温が上がります。17時18時もまだ太陽は容赦なくギラギラ輝いています。お水をたくさん飲んで体調管理に気をつけましょう。内陸部は気温は高いですが乾燥しているので以外と過ごしやすいです。

<秋はベストシーズン>

秋は少し暑さも和らいで過ごしやすくなります。紅葉も楽しめまだまだ日照時間は長く南部は日中は暑いのでビーチにも沢山お客さんは来ています。10月末までサマータイムなので真夏のバカンスの人がいなくなり旅行には狙いめの良い時期でベストシーズンです。ピレネーやピコスデエウロパの山岳部はそろそろ雪が降ったりお天気は崩れるので注意しましょう。突然寒くなることもあるので週間天気予報などを見て持っていく服等は注意しましょう。

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<冬はオフシーズン>クリスマス休暇を除く

 

冬は日照時間も短く雨も降りやすく寒いのでオフ・シーズンです。ただ毎日降るわけではないので幸運に左右されます。クリスマスから年末年始を外せばホテルや航空運賃なども値段が下がるので狙いめ。2月から3月なら南の方は暖かくなりもう泳
いでいる北方のヨーロッパ人もいます。

12月に入るとどこの街もクリスマスのイルミネーションが始まりとてもきれいです。イルミネーションは12月初旬から1月6日まで。

<注意>スペインのクリスマスは全て何もかも閉まります

12月24日はカレンダー上は平日ですが20時頃には町は人が少なくなりお店も殆ど閉まります。12月25日は祝日で商店レストランともすべてお休みです。どちらも中華なら開いているので何もないときは中華を探しましょう。美術館博物館などもすべて閉まります。12月31日はホテルのレストランなどはたいてい<ガラディナー>予約制のパーティー(カテゴリー4つ星5つ星ホテル)有名レストランなどもパーティーになるので行くなら予約が必要です。値段は相当高くなりますので確認要です。1月1日も祝日美術館博物館含めすべてお休み。1月2日から平日です。1月5日の夜各町でパレードが行われます。当方の三賢者が子供たちにプレゼントを持ってやってきます。1月6日は祝日(東方三賢者の日)でこの日も美術館博物館含めすべてお休みです。

この時期に旅行する場合はどの町もイルミネーションがとてもきれいなので楽しめます。教会はすべての人に手を広げていますのでミサなどに参加するのもいい思い出になるでしょう。(マナーに注意・大切なお祈りの場です。クリスマスは宗教行事。多くの人の大切な場ですのでマナーに気をつけましょう。

天気予報のページです

スペインの天気予報のページこのままクリックすると今日の全国の気温。都市名を入れると詳しく調べることが出来ます。

https://www.eltiempo.es/

<全国共通固定祝日>連休の並びで変更になる年もあります


1月1日、1月6日、5月1日、8月15日、10月12日、11月1日、12月6日、12月8日、12月25日

<と移動祝祭日復活祭>

3月から4月に復活祭聖木曜日、聖金曜日,地域によっては聖金曜日と復活の月曜日

<各州の休みと市の休み>

各州の休み1日と各市の休み2日(5月3日はアンダルシアの日や7月25日はサンチアゴの日等地域の祝日があります)

<本当のベストシーズン>

という事で行く地域によって随分多様性があり同じ季節でも気温に差があり、またその年によって天候もずいぶん違います。それぞれの季節に良さがあって暑い国に熱いときに行き寒い国に寒いときに行くと色んな「何故」がわかることがあります。ベストシーズンはお休みがうまく取れてタイミングがあったときかもしれません。

日本より天候が良く変わり変化が激しいので夏も長袖のパーカー等、冬もTシャツ等スーツケースに入れてきましょう。

 

スペイン旅行クレジットカードとお金事情。プリペイドカードや現金について注意事項。

 

スペインへ行く旅行の準備を始めて心配なのはクレジットカードやお金の事。これは間違いなく最重要事項のひとつで検討が必要。どのくらいクレジットカードが使えるか、どのクレジットカードが便利か、デビッドカードやプリペイドカードは使えるのか、お金はどのくらい現金で持って行くのか、ユーロに替えた方が良いのか、日本円は使えるのか等のスペイン旅行の最新お金事情をまとめました。

 

クレジットカードは必需品


クレジットカードは個人旅行でスペインだけでなくヨーロッパを廻るなら絶対に最低1枚は必要です。ホテルに泊まる場合はデポジットとしてクレジットカードの提示を求められる。ツアーで旅行なら無くても何とかなる場合が殆どですが個人旅行なら出来れば1枚ではなく2~3枚あった方が安心です。スーパーマーケットでもお土産店でも美術館でも殆ど決済はクレジットカードが可能です。少額の場合5ユーロ以上等と指定している店舗もありますが日本よりもクレジットカードやデビットカードが日常的に使われています。今は海外で使えるプリペイドカードなどもあり使い分ければ万が一に備えられる。時々通信関連で原因不明のトラブルで利用不可な事、または盗難にあう事も想定できるので念のためサブカード補助カードやプリペイドカードや別のクレジットカード、デビットカードがあると安心です。

 

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どのクレジットカードが便利?

スペイン旅行にまず一枚絶対持って行きたいクレジットカードはVISAとMASTER。使えない所が無いと断言してもいいくらい利用できる店舗が多い。AMEXは店舗側の手数料が高いため小さな店等では断れる事もある。JCBは使える店舗は増えては来ているがまだまだ少ないのでサブカードとしてならいいでしょう。という事でメインカードにVISA /MASTERと別に既に持っているならAMEX/JCB等で合計3枚あると安心です。

ICチップは付いていますか?

スペインおよびヨーロッパ旅行ではクレジットカードは絶対にセキュリティーの高さからICチップ付きの物を持って行きましょう。磁気ストライプ式の物は情報を読み取りやすく複製が作りやすい為危険です。ICチップの入ったものは高度な高速暗号化機能が付いている為情報が盗まれにくい。もし現在使っているカードが磁気しかないものならICチップ付きの物に替えて出発しましょう。

 

暗証番号知っていますか?

クレジットカードの暗証番号をご存知ですか?スペインではクレジットカードを利用するたびに暗証番号を入力する必要があります(約15ユーロ以上)。又暗証番号が判れば現金をATMでクレジットすることも可能です。不明な方はは必ずクレジットカードの暗証番号を確認して出発しましょう。出発してから手に入れることはほぼ不可能です。

カード会社の連絡先を控えましょう

盗難にあった時などのクレジットカードの連絡先を控えましょう。クレジットカード自体に連絡先が入っているのでカードの盗難にあうと連絡先が分からなくなります。クレジットカードの16ケタの番号と共に連絡先と金融機関名などを別の紙に控えておきましょう。盗難にあった時のクレジットカード会社との手続きが迅速です。

 

 貴重品は分けて持ちましょう

スペインではスリや盗難に注意しましょう。大切なものは貴重品入れにまとめて持つと思いますが盗難にあうと全ての貴重品とクレジットカード、現金を取られてしまい身動きが取れなくなります。パスポートも携帯電話もクレジットカードも現金も全部盗られたケースも聞いています。危険は分散して分けて持ちましょう。なるべく腹巻型や首掛け型の洋服の中に入れられる貴重品袋を使い財布の中には1枚のクレジットカードといくらかの現金のみにしましょう。

暗証番号を入れる前に金額を確認しましょう

スペインのレストランなどで誤魔化しやぼったくりは聞いたことが無いですが念のため支払いの前に金額を確認、支払った後の控えの値段を確認しましょう。間違って違う金額の請求が入っている事が有ります。ホテルで飲んでいないミニバーの請求や頼んでいないルームサービスが付いていないか確認してから支払いましょう。間違って請求されていた場合キャンセルが可能です。その場で必ず確認してからそこを立ち去りましょう。

クレジットカードが絶対必要な時というのは


ホテルのデポジット

スペインではホテルチェックイン時にデポジット≪支払い保証金≫としてクレジットカード提示を求められます。旅行会社で予約をしてホテル代の支払いが終わっていてもクレジットカードが必要です。チェックアウト時に何もなければ請求は来ないので安心してください。クレジットカードが無い場合は現金で保証金を求められるケースもあります。プリペイドカードやデビットカードも使えますが一旦引き落とされるので注意。

レンタカーを借りるとき

レンタカーを借りるとき等もデポジット≪支払い保証≫としてクレジットカードの提示を求められます。

ネットでの入場予約

スペインの旅行でバルセロナのサグラダファミリア教会やピカソ美術館、グラナダのアルハンブラ宮殿等入場の予約を取った方が良いモニュメントが数多くあります。サッカーの切符や飛行機をネットで予約をしてクレジットカードで支払いをする場合もあると思います。ネットでの購入は全てクレジットカードでの決済になります。

クレジットカードのメリットは


安心です

スペインに限らずヨーロッパは日本よりは盗難や置き引き等の被害にあいやすい。現金は盗難に会えばもうあきらめるしかないがカードの場合は止めることが出来、盗難後に不正に使われた金額はカード会社が保証する。

レートが良い

お金は両替をすればするほど目減りする。日本円をユーロに替えるときに2~3パーセント位の手数料を銀行に支払う事になる。そして残ったユーロを日本円に替える時に又2~3パーセントの手数料を払うのでお金の価値は合計4~5パーセントは減ってしまう。レートの換算が入るので気が付きにくいがなるべくお金は両替しない方が得なのです。(後でレートが円高に振れて増えることは有りますが)クレジットカードの場合カード会社によって異なるが1.6~2パーセントの手数料なので断然お得です。

ATMで現金を引き出す事も可能

現金が足りなくなった場合もクレジットカードならATMでユーロを引き出す事が可能。自分のクレジットカードがどの種類のATMに対応しているのかを調べておきましょう。

<年会費無料でブッキングコムのポイントがたまるビザカードです>



ATMの注意

*クレジットカードの両替手数料と現地のATMの手数料が別途かかります。

*スペインのATMは道路沿いにあり日本の様に銀行の敷地の中に入らずに出金します。お金を出した時に盗難にあわないように注意が必要です。

*カードが機械の飲み込まれる事があります。カードをしばらく機会に差し込んだままにしておくと安全の為(取るのを忘れた場合の為)に機械が飲み込むシステムになっています。その場合は銀行の人に言えば取り出してくれますがセキュリティー関係の人の同行が必要で時間かかかります。又銀行の営業時間外だと別の日に行くことになります。なるべく銀行の営業時間にATMを使いましょう。

 

海外旅行傷害保険付帯のクレジットカードの注意

各クレジットカードが付帯している海外旅行傷害保険が有りますがそれぞれ条件等が違うので出発前に内容を確認しましょう。よく読むと死亡後遺障害のみ負担だったり疾病の入院費用が少なかったり、行きの交通費に使った場合のみの保険付帯だったりと各クレジットカード会社により様々です。ヨーロッパで怪我や病気をして手術や入院、又日本から家族を呼ばなくれば行けなかったり等があると高額な負担になります。内容を良く調べて必要なら別途保険に加入して出発しましょう。

デビットカード


使えます

スペインではデビットカードもクレジットカードと同じくらい普及しています。こちらは限度額ではなく銀行に残高があれば使えるのでクレジットカードと別に一枚あると便利です。VISAや JCBのデビットカードのみが使用可能です。さらにスペインのATMでもキャッシュが引き出せるので便利です。

注意

*日本国内のキャッシュカードのJ-Debitカードは海外では使えないので注意してください。

*ホテルのデポジットにデビットカードを使った場合いったん引き落とされてしまうので銀行残高が少ない場合は注意が必要です。その後予定していたところで使えなくなったりしないよう残高を確認しましょう。

*ATMでユーロを引き出す場合は金融機関によっては手数料がかかります。それと別に為替手数料と現地のATMの手数料がかかりますので注意が必要。各金融機関で確認してください。

*殆どのデビットカードが海外で利用する場合にon-lineで海外利用可に設定したり限度額を入れたりなど設定を変更する必要があります。ネットに繋がれば可能なので利用の前に確認しましょう。

*スペインのATMを使う時の注意は上記クレジットカードと同じです。

国際キャッシュカード


使えます

国際キャッシュカードも日本と同じ感覚でスペインのATMからユーロの現金を出すことが出来便利です。通常使っている各銀行の物はそのままでは使えない事が殆どです。出発前に各銀行で確認しましょう。

*日本の金融機関の手数料と現地のATMの手数料と両方かかります。出金するたびにかかるので少額を何度も出金すると無駄に手数料を払う事になりますので注意。

*スペインのATMを使う時の注意は上記クレジットカードと同じです。

プリペイドカード


事前にプリペイドカードにチャージしておきチャージした金額を限度に現地通貨をATMから引き出せるプリペイドカードです。国内でも利用できVISA が付いているのでショッピングでそのまま利用できます。銀行口座を開設しないで簡単に発行されるので簡単です。コンビニでチャージしてそのままカードを使うように簡単に利用できます。各社それぞれ為替手数料やチャージの規定が違うようです。決まった額をチャージして盗難や紛失の場合は連絡をして止めてもらうので現金より安心です。

<あらかじめユーロを入金して現地で出金できるプリペイドカード>




両替のレートが銀行よりもお得なのが良いですね。銀行で並んだり紙に書いたり煩わしい手続きも必要ないのがメリットです。

*ホテルのデポジットに使った場合はいったん引き落とされるので残高に注意が必要です。

*ATMで利用する場合は現地のATMの手数料が別途かかります。

 

現金ユーロはいくらいる?


やはり現金は必要

クレジットカードで殆ど対応できるとしてもやはり現金は必要です。乗換空港でお水を買いたい、到着空港からタクシーに乗るけどカードは受け付けないと言われた等があります。また夜にマドリードの空港についたけどATMが壊れていたとか、到着地で両替するつもりが滅茶苦茶レートが悪い等が想定できます。

日本でユーロに替えて来るのが一番

スペインの銀行で円をユーロに両替するより日本でいくらかユーロに替えてきましょう。時間が無い人は出発の日本の空港でも両替できますので日本からユーロを用意してきましょう。日本円は一番強いのは日本です。日本で両替するのがヨーロッパについてからよりもレートが良いです。

日本円は使えるの?

殆ど使えません。観光地等で時々使えるところがあってもレートが悪いケースが多いので確認してから使いましょう。ツアーで行程中に行くような場合はレートが銀行並みに良い所もあるので確認して使いましょう。街のレストランやバル一般商店では基本使えません。

 

スペインで両替の場合の注意

それでも仕方なくスペインに着いてから両替する場合は街にある両替商CAMBIO/CHANGE等と表示があるところはレートが大変悪いので銀行へ行きましょう。銀行で両替の時はパスポート等身分証明書の提示を求められます。仕方なく少額を両替する場合はホテルで替えた方が手数料を考えるとレートが良い場合もありますし時間も節約になります。

いくら必要

基本クレジットカードを使いホテルなどは先に支払ったとしてそれ以外に現金が必要なのはバルでの少額の食事やチップ、タクシー(クレジットカードが使えるタクシーもある)バスに乗ったりアイスクリームを食べたり等。又はATMの使い方がわからないや時間が無いけどとにかく今現金が必要な事も有ります。

物価の目安と想定額

食事はお昼の定食で10ユーロから18ユーロ。バルでビール一杯1.5ユーロ、バルで軽食を食べて15ユーロ。個人差がかなりあるとしても高級店での夕食はクレジットカードを使うとすれば1日例えば30~50ユーロx 滞在日数と少し予備費でいかがでしょう。

*10日間の旅行で300~500ユーロの現金があれば後はクレジットカードで大丈夫ではと思います。(これは個人差のある事なのであくまでも参考までに。)

*少額紙幣を用意しましょう。銀行で500ユーロを全部100ユーロ紙幣とか200ユーロ紙幣で用意すると使えない時があります。特にスペインの空港に夜到着しバスに載る場合やお水を買うのに100ユーロは取って貰えない事があります。

*現金は盗難にあうと保証が有りません。カバンの中には必要金額をいれ大きな金額は腹巻や体の中に入れるタイプの貴重品袋を使いましょう。

*大切なものを全部一か所で持ちとられてしまうケースがあります。危険は分散してクレジットカード全部とパスポートまとめて盗難にあわないよう分けて持ちましょう。

マドリードのセバダ市場のバル(メルカード・ラ・セバダ)魚屋のバルと市場の中は新しい食事スポット

 

メルカード・ラ・セバダ(セバダ市場)はマドリード旧市街のラ・ラティーナに位置する古い市場でソル広場やマヨール広場から歩いてすぐの所にある。日曜日はラストロ(蚤の市)もあり劇場や市場があるディープな地区だ。メルカード・ラ・セバダ(セバダ市場)はもともと16世紀に穀物を集めた市が立ったところに19世紀に鉄の建物が作られ現在でも広さはマドリードの市場で一番大きい。このところの郊外型のショッピングセンターとグロバリゼーションですっかり忘れ去られた存在でシャッターが下りている店舗も目立っていた。セバダ市場の中のある魚屋が土曜日にバルを始めたら次第に口コミで人気が出て他の店も土曜の午後にも仕事をやり始めた。今は毎週土曜日の11時から17時と第一日曜日の11時から17時まで。(注意*第一日曜日が復活祭等連休に重なる時は次の週になったり不定休な時も。)

 

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セバダ市場=メルカード・ラ・セバダ

メルカード・ラ・セバダ(セバダ市場)はマドリード中心部にある今も普通の生鮮食料品を扱う市場。マヨール広場からだとほんの950メートル、10分ほど下り坂を下りたところだ。平日は今も主婦や主夫たちがお買い物をしている。今もスペインの市場の中にはバルやレストランが入っていて買い物途中の人がお茶を飲んだり市場の新鮮な食材で作ったランチを食べるのは昔から行われていた。

<メルカード・ラ・セバダ、セバダ市場外観>

セバダ市場
筆者撮影

しかし郊外型の大型ショッピングセンターやスーパーマーケットが多くでき、さらに若者はこの地区にあまり住んでいなく高齢化が進んでいた。市場の店主も高齢化し後継者がいないままシャッターが下りたままの状態の店舗が増えていた。

<メルカード・ラ・セバダ。セバダ市場内部>

セバダ市場
筆者撮影

そんな中法律の改正もあり生鮮食料品店でも飲食が出来るようになり酒類(一部除く)の提供が可能になった。そこで若い魚屋の店主が土曜日に魚貝のつまみとワインやビールの小さなバルを始めたのが2015年頃。

<メルカード・ラ・セバダ、セバダ市場魚屋>

セバダ市場
筆者撮影

次第に口コミで人気が出て今はかなり混みあっている。新鮮で安いのが魅力だ。これとかあれと指させばいいので言葉の問題も無い。キッチンは無いので茹でるかセビチェの様に準備されたものだけになる。嬉しいのは地元のお客さんが多いのと働いている人も地元のスペイン人たちで観光客に辟易していなく対応が良いので気分が良い。

<メルカード・ラ・セバダ、セバダ市場魚屋>

セバダ市場
筆者撮影

私たちはまずマテ貝を頼んでみることにした。マテ貝はスペイン語でナバハス。砂抜きがちゃんとできていて茹でた後アリオリソースをかけてくれた。新鮮でおいしい。

<マテ貝、ナバハス>

セバダ市場
筆者撮影

満足したので追加に何しようか…と悩んでタコのガリシア風にします。タコはスペイン語でプルポ。今スペインのタコは値段が上がっていてガリシアもマドリードも値段は変わらないし高くなった。スペイン沖ではあまりとれなくなっていてモロッコ産が増えている。タコの味がスペイン産かモロッコ産かわかる程の通ではないので安くておいしければ満足だ。この分量だとレストランで今18ユーロはするのがセバダ市場で10ユーロ、これは即決いただこう。

白ワインはルエダ(カスティーリア・レオン)にする?アルバリーニョ(ガリシア)にする?と聞いてくれた。どちらも魚介類に持ってこいのさっぱり系です。私はルエダが好きなので「キエロ、ドス、コパス、デ、ルエダ、ポルファ」ワインの値段はたぶん一杯1ユーロ。

<タコのガリシア風、プルポ・ア・ラ・ガジェガ>

セバダ市場
筆者撮影

ちょっと満足したので色々他も見てみよう。魚屋が成功して人が来るようになったので他の店も土曜日の午後は休んでいたのがタパスや軽食を始めるようになったらしい。カウンターがあるところは元から市場内のバルとして営業していたところ。

<メルカード・ラ・セバダ、セバダ市場内部>

セバダ市場
筆者撮影

<セバダ市場内部>

セバダ市場
筆者撮影

寿司屋があった。最近どこにでもあるけどね。ブラジル人オーナーで日本に行ったことは無いが日本食店で修業して来たらしい。寿司とラーメンがあって配達もします。今回は試していないので何とも。また今度きますと言って別れて来た。

<セバダ市場、すし屋>

セバダ市場
筆者撮影

ハンバーガー屋は大きなビールを楽しんでいる北方系のヨーロッパ人が楽しそうに頬張っていました。

<セバダ市場、バル>

セバダ市場
筆者撮影

古本屋はゆっくり見たいけど今日はもうワイン飲んだので無理。面白い本が見つかる事が有るのですが。おじさんが真剣に何かを探していた。

<セバダ市場、本屋>

セバダ市場
筆者撮影

ビノテカ(ワインショップ)はかなり混んでいる。各地のワインが楽しめそうです。ここは平日もやっていた記憶がある。夫があまり飲めないので今日は残念ながら見るだけ。

<セバダ市場、ビノテカ>

セバダ市場
筆者撮影

他にもいろいろピンチョやタパス等があり一回りしたら楽しめる。

<セバダ市場、バルのピンチョ>

セバダ市場
筆者撮影

なんといってもサン・ミゲール市場(マヨール広場横)の様に混んでいないしお店の人が感じが良い。まだこれから頑張る人達のエネルギーに満ちている。

私たちは次は何をいただくか散々迷ってここにしようか・・・・。ここは平日もやっているバル・レストラン。手書きの看板も気に入ってカウンターに座ってみた。

<セバダ市場、バル・レストラン>

セバダ市場
筆者撮影

カウンターの中のセニョールはさっきから大鍋でパエリアを作ったりお皿を洗ったり忙しそうだ。振り向いてくれるだろうか(スペインではお客様が威張ってお店の人を呼びつける事はご法度です。気が付いてくれるのを遠慮深く待ちます)。カウンターでは市場の他の店からコーヒーやリキュール飲みに人がひっきりなしにやって来る。地元の人が来る店は基本美味しいに違いない。ここに決めた!。

<セバダ市場、バル・レストラン>

セバダ市場
筆者撮影

中の大きなセニョール怖そうだけど、初めてのお客でアジア人ですが振り返ってくれるでしょうか・・・と、そんな心配は必要なくすぐに「何する?」と聞いてくれた。グラスの赤ワインとエントレコット(牛肉)を注文。焼き具合も聞いてくれジュウジュウと目の前で焼いてもらいシェアーしました。平日は定食もやっているそうです。

<セバダ市場、エントレコット>

セバダ市場
、 筆者撮影

つまみも出してくれました。ラッキーにもセニョールがさっき作っていたパエリアが出来上がった。ウン、美味しかったです。店主はぶっきらぼうで愛想も何もないけどスペイン人らしい「良い人感」満載でした。マドリードの人に良くある媚びていなくて相手のリアクションは全く気にしていないけど実は優しい善良なおじさん。慣れるまでビビるけど解ってきたらこれは大変居心地いい「ほっといてくれる感」。

<セバダ市場、バルのつまみ>

セバダ市場
筆者撮影
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場所

*メトロ*5番線ラ・ラティーナ下車すぐ。。メトロを降りたらすぐ見えますがわからなければ「メルカード・ラ・セバダ?」と地元っぽい人に尋ねてください。誰でも知っている昔からある市場です。

*又はマヨール広場やソル広場から徒歩で10分とか15分です。

メルカード・ラ・セバダ=セバダ市場営業時間

市場自体は平日の9時から14時、お昼休みをはさんで17時30分から20時30分、土曜日9時から18時。通常やっているバルやレストランはこの時間帯で営業。

*魚屋のバルが出るのは土曜日11時から17時30分と第一日曜日(復活祭の日曜日などは翌週に変更になる)メルカード・ラ・セバダ(セバダ市場)の公式ホームページはまだ準備中の様です。