ビルバオとグッゲンハイム美術館<世界で最も成功した再開発の街と近代アート>

ビルバオは2018年のヨーロッパの最優良都市賞に選ばれた。リュブリャーナとウイーンとビルバオの3都市が最終選考に残っていた中からの最優秀賞。街の規模がちょうど歩いて廻れるサイズで視線に入るすべてのものがとても綺麗。私はもともと「バスク好き」なのですが「ビルバオ好き」になって帰って来たので色々調べたことをまとめました。

ビルバオ旧市街

ビルバオはバスク自治州ビスカヤ県の県都。都市の人口35万人だが周りの都市圏の人口を入れると100万人。北部スペインでは最大の街。街の名前ビルバオはバスク語では「ビルボBilbo」道路や街の標識はカスティーリア語(標準スペイン語)とバスク語2カ国語表記。

ビルバオは歴史ある街

もとは中世にサンチアゴの巡礼街道として栄えた小さな街。1300年頃にはネルビオン川に沿って発展し海洋交易で栄えた。今も旧市街に行くとサンチアゴ大聖堂や中世の街並み、ネルビオン川沿いには昔の風情が残る。

ビルバオ1575年
wikipedia public domain

鉄鉱石で栄えた街は1857年(日本の明治維新よりも10年も前)には鉄道が走りビルバオ銀行(現BBVA銀行の前身)やビルバオ証券取引所が設立されている。ビスカヤ橋は明治25年に創られた運搬橋。当時の先端技術で作られた世界で最も古い運搬橋で現在も公共の交通機関として使われている。

<ビルバオ郊外にあるビスカヤ橋>

ビスカヤ橋

<ビスカヤ橋の記事>

<1899年のビルバオ 製鉄工場>

1899年のビルバオ
Standard Oil Refinery No. 1 in Cleveland, Ohio, 1899 (Wikimedia Commons)

19世紀の中頃付近の山から取れる鉄鉱石の採掘で発展し船でイギリスへ輸出し帰りに石炭を持って帰って来た。これによって製鉄業が発展した工業の中心地。

世界で最も成功した再開発の街

ビルバオ

鉄鉱石が取れ歴史的に造船が主力だったビルバオは第2次世界大戦後は鉄鋼業で栄えたが次第に重工業の衰退、日本や韓国等との競争で負け、公害とETA(バスクの独立を求める過激派組織)のテロで人口減少が進み失業者があふれてスラム化し煤けたイメージの街になる。

工業都市としての未来が見えない中1983年に大洪水が起こり、これを機に工業の街からサービス業へと産業構造の大転換を図ることになる。

1989年に都市の再生と文化への投資の計画が始まる。「15億USドル」の総合的な再開発プロジェクトが計画され都市インフラの整備、文化施設の建設や港湾の再整備等18件のプロジェクトが準備された。

ビルバオ新空港や街のインフラの整備

ビルバオ空港
wikipedia CC
Source Own work
Author Basotxerri

街から9キロの所にあるビルバオ空港を2000年に新しく完成させた。建築家はスペイン人サンチアゴ・カラトラーバ。イメージは白い鳥が翼を広げて空を見上げる。きれいな流線型のカラトラーバらしいエレガントなデザイン。2002年街へ向かうバイパスが山の中に開通することによって街と空港のアクセスが抜群に良くなった。市内の地下鉄と同じICカードBARIKが使える。路線バスに乗れば中心部まで約15分。

<ノーマン・フォスターによるビルバオメトロの入り口>

ビルバオのメトロ

地下鉄やトラムを走らせ人の流れを即し、河によって分断されていた労働者地区と富裕層の地区を橋を架けて移動できるようにした。街作りのコンセプトは人の流れ。

<サンチアゴ・カラトラーバのスビスリ橋>

スビスリ橋

 

工場の跡地に公園を作り、商業施設や図書館等を整備し、グッゲンハイム美術館の誘致に成功した。自転車道や遊歩道を町中に巡らせ創ることで「人の移動」をコンセプトに入れた街を計画的に時間をかけて完成させた。「ビルバオプラン」は最も成功した街の再開発例と呼ばれている。現在のビルバオは町のいたるところに公園や広場があり人々がくつろぐ姿が街のゆとりとして感じられる。

グッゲンハイム美術館ビルバオ

グッゲンハイム美術館のビルバオ分館。鉄鋼の煤けた街から近代アートの街への変換の起爆剤になったのはこのグッゲンハイム美術館の誘致だった。1997年10月18日に開館。2017年は美術館開館20周年で記念行事が行われ、一か月間ビスカヤの住民は無料で美術館へ招待されました。

<住宅街の向こうに見えるグッゲンハイム美術館>

グッゲンハイム・ビルバオ

何でもないレンガの集合住宅の向こうに斬新な建物が見える、このグッゲンハイムの見えた方が一番かっこいい、と個人的に思う。

グッゲンハイム財団て何?

グッゲンハイム家はスイスに起源を持つユダヤ系ドイツ人の家系。後にアメリカに移民したマイアー・グッゲンハイム一家は鉱山の経営と精錬で財を成した。マイアー・グッゲンハイムの息子ソロモン・ロバート・グッゲンハイムが66歳で引退し現代アートのコレクターとなる。財団が設立されニューヨークのマンハッタンに美術館を開館。5番街の現在地に移ったのは1949年。別途姪のペギーグッゲンハイムがベネチアの館を購入し自身のコレクションを公開。彼女の死後ペギーグッゲンハイムコレクションとして同財団が運営。

<ニューヨーク五番街のグッゲンハイム美術館・フランク・ロイド・ライト建築>

ニューヨークグッゲンハイム美術館
wikipedia
Source Own work
Author Jean-Christophe BENOIST

最初は1939年に自動車ショールームを改装してグッゲンハイム氏のコレクションを公開した。1959年に上記写真の本館が開館。建築はフランク・ロイド・ライト氏。しばらくは本館のみの運営だったが1988年に館長がトーマス・クレンズ氏になり美術館を国際的に広げ行く戦略のひとつがビルバオ。

グッゲンハイム・ビルバオは開館した時は5つ目の美術館だったが現在運営中のグッゲンハイム美術館3館中のひとつとなる。

(グッゲンハイム・ラスベガス、グッゲンハイム・エルミタージュ、ドイツ・グッゲンハイムは閉館。グッゲンハイムヘルシンキは建設中止、グッゲンハイムアブダビは現在建設停中)

グッゲンハイム財団のグローバル戦略

グッゲンハイム財団の理事会が世界的な美術館グループを創造する計画を採択した「グローバル戦略」が決定した、丁度その時バスク州政府からビルバオ市の再開発への参加の要請があった。お互いの利害関係が上手くリンクした相思相愛の結果、数か月の交渉の末基本合意が結ばれた。

グッゲンハイム・ビルバオ

ここはスペイン国鉄のコンテナ置き場や造船所があった一帯でアバンドイラと呼ばれる。1993年にスペイン内外から5人が招待され指名コンペが行われアメリカに住むアルゼンチン人のシーザーペリの案が入選。遊歩道やショッピングセンタ―、ホテルなどのシンプルな案が採用された。写真右端の高層ビルはシーザーペリの設計、イーベル・ドローラ(エネルギー会社)本社ビル。

ビルバオの街
wikipedia CC
Source Own work
Author Andrea Bocchino www.andreabocchino.it
誘致の条件

条件は1億USドルの建設費用をバスク自治州が負担すること、5000万USドルを作品の新規購入費用に充てる事、グッゲンハイム財団に展示会一回あたり2000万USドルを支払う事。美術館年間予算1200万USドルを補助することなど。受け入れ側にとって負担の大きいこれらすべてを承諾しバスク州とビスカヤ県とビルバオ市で賄った。

グッゲンハイム美術館

 

 

建築に8900万USドルか使われ予算も日程も予定通り建設された。開館後すぐに世界中からビルバオに観光客が訪れ最初の3年間に400万人5億ユーロの経済効果を得る。バスク政府は観光客がホテルやレストラン、ショッピングで使う金額は年間1億ユーロになり支払った以上の恩恵があったとしている。2005年のビルバオ年間観光客数が5万人、現在年間約100万人の観光客を受け入れており最も成功した都市再開発の例で「ビルバオ効果」などと呼ばれている。今も都市計画は続いていて、街は活気あふれ未来へ目を向けている。

計画当社は「財力に任せて作品を買いあさるアメリカの美術館」をビルバオに置くことに懐疑的な人が多かったが結果を見て納得の住民が増えたのは間違いない。

建築家フランク・オー・ゲイリー

コンペには日本人の建築家、磯崎新、オーストリアのクープ・ヒメウブロイが参加。バスク州政府とグッゲンハイム財団による審査でフランク・オーゲイリーの案が採択された。

フランク・オー・ゲイリーはユダヤ系カナダ人。現在はアメリカ合衆国のロサンゼルスを本拠とする。1929年生まれ。本人は否定するが脱構造主義の旗手と呼ばれプリツカー賞や日本の高松宮殿下記念世界文化賞などの賞で評価を受ける。

建築家フランクオーゲイリー
¹Source http://www.flickr.com/photos/nationalbuildingmuseum/5489221895/?edited=1
Author National Building Museum; photo by Paul Morigi

ソフトウェア技術に精通し航空力学・機械設計ソフトを建築に使い複雑な形を現実の構造にするのに解決している。技術がゲイリーの建築に追いついた形だ。

フランク・オー・ゲイリーはビルバオの近くの山に登ったり飛行機から見下ろして街の地形に最もふさわしい建築を考えた。

ビルバオの街とグッゲンハイム

 

構造は鉄骨、その上に2㎜の亜鉛メッキが貼られ表面にチタンが貼られている。チタンはアメリカ製、イタリアで加工。複雑な構造を解析するため航空機などに使うコンピュータープログラムcatiaが使われた。

グッゲンハイム・ビルバオ

 

表面には平らな面が一切なくチタンの板がうねる。チタンは強く、錆びにくく、軽い、が細工が難しい。そして高額である。丁度ロシアの宇宙開発が下火になりチタンの値段が下がったという条件がそろった。

グッゲンハイム・ビルバオ

石とガラスとチタニウムの不思議な建物の全体像は咲き始める花の様にも、川に浮かぶ船の様にも、そして表面のチタンは魚の鱗のようでもある。フランク・オー・ゲイリーはユダヤ教の宗教的な儀式で家族で魚を食べる事が度々あった。子供の頃の記憶に何か独特の感覚があったようで魚をテーマにしたほかの作品もある。

<神戸にあるフィッシュダンス フランク・オー・ゲイリー>

フィッシュダンス
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Source Own work
Author 663highland

フィッシュダンスは神戸開港120年を記念して創られた作品。フランク・オー・ゲイリー設計、安藤忠雄監修。海のそばにあるので亜鉛メッキが錆び、神戸市が勝手にピンクに塗り替えて(鯉だから?)作者から「作品に対する侮辱」と大クレームが来て塗りなおしたという経緯がある。今も神戸のメリケンパークにさりげなく元の色で置いてあります。

脱構造主義について少しだけ

もともと脱構造主義は哲学用語。フランス人の哲学者ジャック・デリダの著書「脱構築」という思想に影響を受けている。既存の床と壁で創られたありきたりの建築からの脱皮で長い間アンビルド建築(建てられない建築)と呼ばれてきたが技術の進歩で現実化するようになった。イラク出身のザハアディド氏、日本では磯崎新氏、安藤忠雄氏、等が有名。

 グッゲンハイム美術館には外にも作品(これらは無料で見れます)
パピー <ジェフクーンズ>

<秋の着替えの後のパピー>

グッゲンハイム・パピー

ウエスト・ハイランド・ホワイト・テリア(犬)。年に2回だけ衣装替えします。春の方が花の色が鮮やか。内部から水をあげるシステムと一番上にも水が散布され機械が付いている。身長12.4メートルの巨大な子犬は美術館のシンボルになっている。

<春の着替えの後のパピー>

パピー グッゲンハイム

もともとはドイツの展示会用に創られた。鉄の骨組みはいったん解体されオーストラリアでステンレス・スティールの骨組みに作り直し灌漑設備を付け再建された。1997年にソロモン・グッゲンハイム財団が購入。ジェフクーンズいわく「アートというのは見た人が幸せな気分になればそれでいいのだ」だそうです。

除幕式の日に庭師に変装したテロリストが爆弾を仕掛けようとしたがビルバオ警察が未遂で発見といういわく付で今はまさにビルバオの新しい顔のひとつ。

 

ママン <ルイーズ・ブルジョア>

ママン

足の長い独特のスタイルの母蜘蛛は今にも動き出しそう。作者はフランスのソルボンヌ大学卒業の数学者。絶妙なバランスの巨大な蜘蛛のお腹には卵がいて大理石製。ルイーズブルジョアは子供の時から蜘蛛が好きで良く見ていた。複雑な環境で育った子供時代の母親に対する愛情や切なさがこの蜘蛛になった。

霧の彫刻<中谷芙二子・ナカヤフジコ>

霧

毎時0分に約5分間美術館の後ろ側の橋から霧が噴出する。風の少ない日はグッゲンハイム美術館が神秘的な霧で包まれる。アートとテクノロジー、自然とアートのコラボレーション。北海道出身のアーティストは父親が氷雪の研究者で世界的に有名な中谷宇吉郎。ナカヤフジコは霧の作品で自然と私たちの関わりを作品にしている。1970年の大阪万博ペプシ館ですでに霧の作品を展示。水の粒子や消えていくもの、自然界の変化を美術作品にすることで自然との共生を訴える。

火の噴水<イブ・クライン>

火の作品

若くして亡くなったフランス人イブ・クラインの1961年の作品。毎日18時30分に池から火が噴出する。夏はこの時間まだ明るいのでインパクトが小さいが冬は暗い中水の中から火が噴き出て迫力がある。

チューリップ<ジェフクーンズ>

チュ―リップ

ジェフクーンズについては賛否両論。「チープだ、悪趣味だ、売名行為だ」等さんざん言われているが今一番稼いでいるアメリカ現代アーティストのひとり。まるで「ネットでの炎上を狙ったツイート」の様に話題性に事欠かないアーティスト。スキャンダルも「チープに消費されていくアート」としてその短命ささえも売りにしている?チューリップはセレブレイションという一連の作品のひとつ。ステンレス・スティールを彩色したもの。子供の頃の誕生日や祝い事の楽しい思い出などを作品にしてある巨大なチューリップ。

内部

内部は常設展と巡回展で運営されていて常設展も入れ替えが行われる。巡回展はグッケンハイム財団の持つ近代アートを中心に展示される。以下2作品は常設展の中で恒常的にあるもの。

マターオブタイム(リチャードセラ)
リチャーセラ
© FMGB Guggenheim Bilbao Museoa, 2017

この巨大な部屋はリチャードセラの作品を置くために創られ、これらの巨大な作品はこの部屋に置くために制作された「サイト・スペシフィック・アート」=「場所限定作品」。鉄の街だったビルバオにふさわしい鉄の巨大オブジェ。巨大な何百トンの鉄の板は一部を除いてくぎ打ちされておらず微妙なバランスの中で置かれている。中に入ることが出来る彫刻というのは非常に珍しく60度の傾きは内側に向いたり外側に離れたり中に入ると独特な感覚。歩き回って時間と空間の歪の中で楽しんでいる人達も作品の一部。動かない彫刻が空間を切り取って動いているような不思議な感覚を体験できる。ドイツの工房で作り陸路ビルバオまで運び部屋の奥からクレーンなどを使って設置した。奥の部屋で模型やビデオで作品の事が説明されている。

インスタレーション・フォー・ビルバオ(ジェニーホルツアー)
ビルバオインスタレーション
Jenny Holzer
Installation for Bilbao, 1997
Electronic LED sign, 9 columns
Site-specific dimensions
Guggenheim Bilbao Museoa

ワードアート=言葉を使ったアート作品で、サイトスペシフィック作品=場所限定なのでここに置かれる為にだけ創られた。発光ダイオードの光の文字がまるで証券取引場のような感じを見る人に与えるが一つ一つの簡単な言葉が心を打つ。エイズの基金に使われた言葉が繰り返し大地から湧いてきては天から降って来る。「I love you」「I touch you」「I hate you」等の簡単な言葉が次々地面から湧いては消えていく。作者はグッゲンハイム美術館のこの曲線のある場所が随分気に入ったそう。表面は光が反射する素材を選び色が変わると部屋全体のムードががらりと変わる。建築の曲線と反射する光も作品の一部。

後ろ側は同じ言葉がバスク語でブルーの発光ダイオードで繰り返される。使うことを禁止されたバスク語が後ろ側に使われることが作者からのメッセ―ジになっている。バスク語になると部屋がブルーに暗く輝き哀しい思い出で満ちる。じっと座って言葉を読んでいると湧いては消えていく言葉の繰り返しに不思議な感情がこみ上げてくる。

その他

巡回展が中心で一年間を通して様々な特別展が行われる。

建築があまりにもインパクトがあるので作品が霞んで見えると言われているが他にも抽象芸術や彫刻など近代アートが楽しめる。ロシア人マルク・ロスコ―、アメリカ人アンディーウォーホールやバスキア、カタラン人のタピエスの壁画、バスク人のオテイサ、チジーダの彫刻。

その他のビルバオ見どころ

ビルバオ美術館

ビルバオ美術館
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Source Own work
Author MuseoBBAABilbao

2001年に改装され12世紀から近代までの作品が展示されている。エルグレコ、ムリーリョ、スルバラン、ゴヤ等スペイン絵画やクラナッハ、ゴーギャン、フランシスベーコン、広重とコレクションの幅は広く静かな中でゆっくり絵画を堪能できます。絵画好きなら足を運んでみては。

<ゴーギャン洗濯女>

ゴーギャン洗濯女
Laveuses à Arles. (Lavanderas en Arlés)
museo de bibao

旧市街

1300年ころにはサンチアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼街道の街として栄えていた。旧市街の中心にサンチアゴ教会がある。元は七つの通りと呼ばれていたようにサンチアゴ教会の周りに七つの通りが今もある。通りの名前も昔のままで風情がある。

<18世紀の絵と今も全く変わっていない>

中世のビルバオ
Public Domain
File:Bilboko irudi historikoa.jpg
Created: 18th century

旧市街は小さく店舗が沢山集まっていてショッピングも楽しめる。大聖堂とヌエバ広場やリベラ市場バスク博物館等を見ながら歩くと楽しい。

<旧市街の一角>

ビルバオ旧市街

リベラ市場は1929年に創られた当時ヨーロッパ最大のマーケット。現在もビルバオの胃袋になっていて2011年に改装が行われ上の階には飲食店が入った。

<リベラ市場は生鮮食料品と上の階にはバル>

リベラ市場

スペインの古い街には石の広場が残り何世紀も人が集まった。ビルバオのヌエバ広場は美味しいバルが集まっている。

<ヌエバ広場>

ヌエバ広場

ヌエバ広場のバル

<ヌエバ広場のバル グレ・トキのピンチョ>

グレトキはピンチョコンクールで優勝経験がある有名バル。

ヌエバ広場のバル グレトキ

スビスリ橋と磯崎アテア

<手前の橋がスビスリ橋で奥のツインタワーが磯崎アテア>

スビスリ橋と磯崎アテア

橋は1997年開通。サンチアゴカラトラーバらしい流線型の美しい橋で、川で分断されていた街の右岸と左岸を繋いだ。「スビスリ」はバスク語で「白い橋」という意味。雨の日に表面がツルツル滑ると住人のクレームが付いたり建築家が向こうに出来た磯崎アテアに向かって自分の橋が架かっているようで不満だなどと街に訴訟を起こしたりと何かと話題になった。

磯崎アテアは2008年に完成した日本人建築家磯崎新氏とバスク人建築家のイニャキ・アウレコエチェアによる複合ビル。アテアはゲートという意味。もともと税関の仮置き場だった行程差のある不規則な土地に創られた。83メートル23階建てでバスクでは一番高い建築となっている。

アルチャンダ展望台へ

<アルチャンダ展望台からグッゲンハイム美術館と街>

ビルバオの街とグッゲンハイム

スビスリ橋から山側の方へ少し歩くとフニクラの駅がある。ビルバオのmetroICカードが使える。登山電車でアルチャンダへ。

フニクラ駅

1915年に開業した登山電車。15分おきに運行していて約3分で山頂駅に。山の上にもレストランがある。ここからビルバオの街が見渡せる。

フニクラ

サン・マメス・サッカー場

アトゥレティック・ビルバオ

1898年設立のチームなので100年以上の歴史。ほかのスペインリーグのチームとの違いはこのチームのユースからの選手かバスク地方のクラブから来た選手しかいない。(バスク人の純潔主義で有名ですがバスク人でなくてもバスクのユース以下のクラブでプレーしていれば入団できるようです。)限られた人数からの選手達なのに常にトップレベル。もちろん一度も2軍に落ちたことが無いのが誇りの名門チーム。

<サンマメス球場>

ビルバオサンマメス球場
wikipedia CC
Source Own work
Author Euskaldunaa

 

 ビルバオ・アクセス

ビルバオ空港から市内を結ぶ3247番のバス。空港と中心部Plaza de Moyua又はtermibus(バスターミナル)へ。

ビルバオ市バス

ビルバオへはマドリードやバルセロナから飛行機で1時間。サン・セバスティアンからバスで1時間30分ー2時間。

ビルバオ空港へはイベリア航空、ブエリング航空、英国航空、エアーフランス、ルフトハンザ、アリタリア、ブリュッセル航空、スイス航空、タップポルトガル航空、トルコ航空、等が乗りいれている。

ビルバオの街

新市街や旧市街に個性的なバルが沢山ありそれだけでも来る価値あり。さらに美術館や様々な建築など街を目で楽しめる。

<新市街の人気バル、ビニャ・デ・エンサンチェのピンチョ>

720分料理したイベリコ豚。小皿で3.5ユーロでした。

タパス

治安がよく街がきれいでアクセスが抜群。ツーリスティック過ぎず生活感のあるところがいい。サン・セバスティアンは最近人気で随分混んでいるがビルバオはまだ静かで日常感たっぷり。そして物価はサンセバスティアンより安い。次回は「サントゥルセ(漁村)までイワシを食べに行こう」と心に決めた。

(バスクが潤沢に資金を使えるのは税収入を自分たちで使える権利を持っていて一部を中央政府に納入。バスク州だけのBDPはヨーロッパ平均より上。不満の多いカタルーニャとの違いがこれです。)

 

 

<カタルーニャの独立問題>なぜこんなに揉めているのかまとめてみた。

カタルーニャの歴史や民族については別記事で書いているのでここでは省略。今揉めているのはそれ以上の様々な事柄が絡み合っている。目まぐるしい出来事を自身の忘備録も兼ねて記録しておきます。

originally posted to Flickr as DSC_0024
Author Galceran
wikipedia C.C

2017年10月1日からの出来事を時系列で

カタルーニャ政府は2017年7月4日「分離独立関連法」を成立させ「10月1日の住民投票で賛成多数を得た場合48時間以内に独立を宣言する」と発表。中央政府は住民投票は違憲「10月1日に住民投票は無い」と平行線のまま当日を迎える。EUはスペイン国内問題と主張し無干渉。

<10月1日>

国民投票当日。中央政府から違法を言い渡された中の投票。あらかじめ中央政府は投票箱の没収や投票用紙の印刷会社差し止め、国家警察と治安警察が召喚される。早朝や2日前から学校などの投票所を強制閉鎖から守るため住民が寝泊まりしていた。あれだけ中央政府が投票所閉鎖や投票箱没収をしたにもかかわらず小さな村々で人々はこっそり連絡を取り合い秘密裡に数百万枚の投票用紙を準備した。いくつかの投票所に警察が押しかけ市民に対して暴力で投票所を閉鎖する場面がテレビやSNSで投稿され世界中を駆け巡った。投票用紙も身分確認も無いままの投票で同じ人物が2度3度投票したケースもあったにもかかわらずカタルーニャ政府は90パーセントの独立賛成と発表、週明けにも「独立宣言」と公表。有権者530万人中、投票した人220万。乱暴にも過半数の賛成を得たので「独立宣言」をすると公表。

<10月1日の投票所と投票箱>

Source 01.10.2017 Referendum ilegal 1-OCT
Author HazteOir.org from España
wikipedia C.C

<10月3日>

カタルーニャでゼネスト。中央政府の締め付けに抗議して公共交通はぼ全機能停止。幹線道路の閉鎖、交通機関や大学各美術館等も休館となった。

<10月4日>

国王フェリペ6世のテレビ演説。カタルーニャ自治州指導者らを非難し同州に憲法の秩序を守るよう要請。カタルーニャの人々を落胆させたのは間違いない。カタルーニャにはもともと反王政の人達が少なからずいるのでさらに独立派感情をあおった。

<スペイン国王フェリペ6世>

フェリペ6世
Source Los reyes de España dieron la bienvenida oficial al presidente Macri
Author Casa Rosada – Argentina
wikipedia C.C

<10月5日>

スペイン憲法裁判所はカタルーニャ自治州議会が週明け9日に予定する本会議の招集を差し止める命令を出す。

サバデル銀行、カイシャ銀行が本社機能をカタルーニャ外に移すと発表。 スペインの憲法裁判所が9日に予定されていたカタルーニャ州議会総会の中止を命令。

スペイン中央政府、企業が本社所在地変更手続きの簡略化の法案を検討。

<10月6日>

アルトゥーロ・マス前カタルーニャ首相「カタルーニャはまだ独立の準備はできていない。」とコメント。

フェレシェネとコドルニウ(カタルーニャの地場産業発泡酒メーカー)が本社をマドリードへ、ガスナチュラル・フェノサ(大手エネルギー会社)もマドリード移転を決定。カイシャバンクが本社をバレンシアに移転。

<フレッシェネ・カタルーニャ発泡酒メーカー>

フレッシェネ社
Picture taken by Onar Vikingstad Outside the Freixenet headquarters in Catalunya. Building from architect Josep Ros i Ros

 

<10月7日>

白い旗を持つ人達が「話しましょう」とマドリッドでデモ。良識のあるサイレントな人達が集まり中央政府とカタルーニャ政府の対話を求めた。

大手出版会社プラネタが移転を検討。グルッポ・プラネタは出版会社だがマスコミと言論界に強い影響力を持つ。

首都マドリードで「カタルーニャ独立運動に反対」するデモと集会。

<10月8日>

バルセロナで「カタルーニャ独立反対派」のデモが警察発表で35万人、主催者発表で95万人。

<10月10日>

「独立宣言」予定で世界中のジャーナリストがバルセロナに集まる。独立派の人々は独立を祝うため用意された大きなスクリーン前で独立宣言を待つ。が、18時の予定が1時間遅れと発表が有りどよめく、17時より少し遅れ、州首相は「独立の宣言とその延期」を同時に発表。全員唖然。連合政権のCUPには突然の発表だったようで梯子を外された形になり憮然とした態度。が独立宣言の紙にサインは行われる。

<10月11日>

中央政府では臨時閣僚会議が開かれ首相会見。憲法155条発動かどうか未定。カタルーニャ政府に質問「あれは独立宣言だったのですか?」月曜日までに回答をとボールを投げた。 食品会社ビンボウとコラカウがカタルーニャから移動を表明。

<10月12日>

スペインの祝日。コロンブスが新大陸に到着した日ですべてのイスパニックの日。カタルーニャ代表欠席。

バルセロナではこの祝日を祝うため「反独立派」6万5千人がスペイン国旗とカタルーニャ国旗あるいはEUの旗などを持ち「我々はスペインでありカタルーニャだ」とデモ。

 

経済問題

カタルーニャはスペインの中でも産業の際立って発達している地域。地中海に開けたバルセロナ港があり多くの外国の企業やカタルーニャの企業が活躍しスペイン経済の牽引力。スペインのGDPの約20パーセントを稼ぎ出すがいったん中央政府に収めると政府は貧しい地域に優先に使っていくためカタラン人たちの中に不公平感がある。(歳出不均衡なのは他にもマドリード、バレンシア、バレアレス諸島等もなのでカタラン人だけが損をしているわけではない)

<18世紀のバルセロナ港>

e Barry Lawrence Ruderman Antique Maps Inc.
Author Joseph Friderich Leopold
wikipedia Public Domain
スペイン経済破綻

2008年のリーマンショックはギリシャやイタリアだけでなくスペイン、そしてカタルーニャに大きな打撃だった。多くの企業が倒産し失業者があふれローンを組んだが返せず家を奪われ借金だけ残った人があふれた。(現バルセロナ女性市長アダ・コラウはこの時代に活躍した市民活動家)。各自治州の抱える赤字の中でカタルーニャの抱えるものが2014年に全体の27パーセントを占めていた。

後ろに見え隠れする政治

当時のカタルーニャ政府CIUはジョルディ・プジョールの時代からカタルーニャ政府を長年にわたって支配して来たが資金不正疑惑が発覚し市民の失望の中、不満の矛先を中央政府の緊縮政策にフォーカスしてきた経緯がある。中央政府が右寄り政権「国民党」(PP)なのでカタラン人の憎悪を押し付けるには都合がよかったかもしれない。(国民党(PP)=フランコ後にフランコ体制の政治家を中心に創られた国民同盟を前身とする政党)カタルーニャはフランコの独裁政権時代に迫害を受けている記憶がまだ生々しく人々に残っている。独裁が終わってまだたったの42年。

不満のひとつ

またバスク州とナバーラ州はスペイン17自治州の中で特別にほぼすべての徴税権限を持っている。Soberania fiscalと言って州が徴税権を持っていてその一部を中央政府に収める形になっている。1876年にこの経済協定は締結されていて一旦フランコの時代に停止されたが1978年の憲法により復活している。今もナバーラとバスクは医療制度等が充実しているので有名。カタルーニャはこれを望んで交渉しているが中央政府は拒否。

もし独立したら?

もしカタルーニャが独立した場合EUとシェンゲン協定から出ることになる。カタルーニャ製品には関税がかけられ人の移動も今の様に簡単ではなくなり観光客の数は大幅に減る。カタルーニャ経済はスペインそしてEU内にあるので潤っている。外国企業は「EU外のカタルーニャ」には興味は無く拠点を移すのは間違いない。既にそれはとっくに始まっているが”理想を掲げる独立推進派”は市民に説明どころか本人たちもこのデメリットを想定していなかった。

この記事を書いている間に状況はどんどん変化しすでにスペインIBEXを構成する大手企業各社がカタルーニャからの本社機能移動を発表。2017年10月12日現在、今月の12日間だけで540企業がカタルーニャから移動した。

カタルーニャ自治憲章 estatuto de autonomía

自治憲章=憲法に盛り込まれている各自治州の憲法

Constitución Española de 1978
Author Own work
wikipedia Public Domein

1978年に制定されたスペイン憲法ではカタルーニャやバスク地方は「民族態」とされそれらの地方言語は「豊かな言語様態」の表れとして「特別の尊重および保護の対象」となると謳われている。2006年の「カタルーニャ州新自治憲章」がカタルーニャを「ネーション=国家」と位置づけ様々な他地域から反発を招いた。

新カタルーニャ憲章の経緯

2003年のカタルーニャ州議会選挙と2004年スペイン議会総選挙の選挙戦当時の左派スペイン社会党の首相候補だったサパテロは新たなカタルーニャ自治憲章の規定を約束。(何故約束したかは私の想像ですが:スペインでは当時の過去の総選挙で第一政党だけでは過半数にならなかったケースが2度あった。地方政党の支持が不可欠となり協力と引き換えに地方政党の要求を受け入れる必要があった。)

<ホセ・ルイス・サパテロ>

www.la-moncloa.es
wikipedia PublicDomain

2005年9月のカタルーニャ州議会で可決され2006年6月当時の社会党政権スペイン下院でも可決された。カタルーニャ州で住民投票に掛けられ賛成多数で2006年”カタルーニャ自治憲章が承認された”

 

この直後、当時野党の国民党(PP)は新自治憲章がスペイン1978年憲章に照らし合わせて違憲であるとスペイン憲法裁判所に提訴。審議は4年かかり2010年6月「カタラン語の使用、財政、司法、域内行政の独自性の強化を目指した14条」を違憲と判決を受ける。

絡み合う経済と政治問題

2010年

世界金融不安の後の緊縮財政の中、上記”2010年カタルーニャ自治憲章が憲法裁判所により違憲とする判決が下された”。これが間違いなくカタルーニャ人の独立意識に火をつけた。2010年以前の独立主義の支持率は20パーセント未満だったがこの頃から際立って上昇。7月には「我々は国家だ、我々が決める」のスローガンのもとバルセロナ中心部で大きなデモ。警察発表110万人主催者発表150万人。

<2010年「我々は国家である」のデモ>

Lohen11 – Josep Renalias
wikipedia C.C

この独立機運を利用し2010年11月28日のカタルーニャ州議会選挙で大躍進したのが連合政党CIU(集中連合)。アルトゥール・マスが州首相に就任し一気に独立主義へ舵取りをしていく(今頃になってカタルーニャはまだ独立の準備はできていないと言った人物)。その後ろには汚職と不正資金問題などの多くのスキャンダルから目をそらせる意図があった。

Generalitat de Catalunya
wikipedia C.C

*CIU(集中連合)は老練な政治家ジョルディ・プジョールの指導のもとカタルーニャ経済界と結びつきが強くカタルーニャの完全独立を求めるよりは現在のスペイン国家の中で地域の利益を最大限に引き出す政策を取って来た政党。アルトゥール・マスはジョルディ・プジョルの弟子。「カタルーニャから企業は逃げない」と言いきれたのはこの時代の経済界との結びつきがあったから。だが時代は変わっていた。

<ジョルディ・プジョール>

Convergència Democràtica de Catalunya
wikipedia C.C
2011年

翌年2011年スペイン議会総選挙ではPP(国民党)マリアーノ・ラホイがスペイン首相に就任。今、カタルーニャ政府とやりあっているのがこのマリアーノ・ラホイ首相。重複するがPP(国民党)はフランコ後にフランコ体制の政治家を中心に創られた国民同盟を前身とする政党。カタラン人たちの反発は大きくなる一方でPPは反カタランで結束する。

<現スペイン首相マリアーノラホイ>

EPP Congress Rome 2006
Author European People’s Party
wikipedia C.C
2012年

2012年11月25日カタルーニャ州議会選挙でマス州首相は「この選挙で過半数を取れば独立か否かの国民投票をする」と州民に発表する。独立機運の高まった州民の票を取ろうとしたが過半数を取れず議席を減らす。そこで躍進し議席を増やしたのが筋金入りの独立推進左派政党ERC。18議席を失ったマスは心ならずもERCと協定しその見返りにカタルーニャ独立への道を約束。ERCの党首が現在のカタルーニャ副首相ジュンケーラス。

ここで初めて州選挙に出て3議席を獲得したのが急伸左翼で反資本主義の独立派CUP(人民連合の候補者)。マスの思惑はここで崩れ去り独立問題をうやむやにできなくなる。

2013年

2013年のディア―ダの日(9月11日)には人々は独立旗を掲げ手を握り合い480キロの人間の鎖を作りカタルーニャの独立をアピール。これは旧ソビエト連邦からの独立を支持するバルト三国が1989年に組織したバルトの道をモデルにしている。その後バルト三国は1991年に独立を達成している。

カタルーニャ独立
11 September 2013, 16:26:56
Source Own work
Author Clara Polo Sabat

もうだれにも止められなくなった状態で2013年12月カタルーニャ政府は中央政府に対し翌年にカタルーニャの独立の賛否を問う拘束力のない住民投票を行うと発表。中央政府からの反対が有ったがこの住民投票は2014年11月9日に行われ独立反対派が棄権したことから投票率は40パーセント、投票者の80パーセントが独立賛成。

2014年

ディア―ダはカタルーニャにとって特別な日だ。1714年9月11日カタルーニャは自治権を奪われた。その300年祭2014年9月11日のディア―ダにかつてない程の大規模なデモが行われた。約300万人のカタラン人が集まった。

<2014年ディア―ダのデモ>

カタルーニャ・ディア―ダ2014
Source Own work
Author Konfrare
wikipedia C.C

運命の2015年カタルーニャ議会選挙を迎える

CIUの分裂とジュンツペルシー

CIUはもともと2つの党の連合体だったが独立関連で意見が分かれ分裂し解散。マスのいるCDCとジュンケラスのERCが中心になり選挙の為の連合体を作ったのが「JxSiジュンツペルシー」。訳すと「共にイエス」。2015年カタルーニャ州議会選挙に向けて独立派選挙連合JxSiとCUPは過半数議席を獲得すれば18か月以内に独立を宣言と発表。

選挙の結果はジュンツペルシーの独立派が獲得議席は過半数確保だが得票率は48パーセントと実際独立支持者は半分以下という事が浮き彫りになった。

共有するのは「独立」のみで他の政策で様々な違いの有る選挙に勝つための寄せ集め集団で首相選びは難航。前カタルーニャ首相マスでひとまず決まりかけるがCUPはこれに猛然反対し出直し選挙の噂も流れる。翌年独立推進派の議員でジローナ市長のカルラス・プッチダモンで落ち着く。このプッチダモンが現カタルーニャ州首相。独立に向けてまっしぐらにダッシュし、独立宣言のすぐ後独立宣言を延期した人物。

<カルラス・プッチダモン現カタルーニャ州首相>

プッチダモン
Source http://www.president.cat/pres_gov/president/ca/presidencia/galeria-presidents/index.html
Author Generalitat de Catalunya
wikipedia C.C

癒えない傷

スペイン内戦の後のフランコ独裁政権下はカタルーニャは厳しい弾圧を受けジェネラリターは閉鎖されカタラン語は禁止された。カタルーニャ首相は処刑されカタルーニャのアイデンティティーは全て否定された。まだその記憶が生々しい中今回の警察による投票所の閉鎖や包囲戦はフランコ時代を思い出させた。

分断と混乱、カタルーニャ民衆が失ったものは大きすぎる。「企業が出ていくはずはない」と人々を暗示にかけ扇動し、「ヨーロッパが助けてくれる」と信じていたカタルーニャの政治家たちの無能さに驚く。「プランB」は準備していなかったのか?それならその甘さにあきれる。プッチダモンの飄々とした態度に・・・・もしかしたらもう一枚後ろに何かカードを準備しているのか?まだまだこの後どうなるのか未知数のカタルーニャです。

唯一得たものは世界に「カタルーニャ」という強く独立を希望している地域がスペインに有ることをアピールできた事かもしれない。

10月12日以降のニュースはこちらで更新しています。https://tabspain.com/noticia-catalunya-indep/

補足メモ(2001年からの国内の出来事リスト)

<2001年>民衆党アスナール首相 自由経済導入

<2002年>実質的なユーロ導入により物価の高騰と住宅バブル。不動産の値段が瞬く間に上がり人々は浮かれて踊り銀行は無理なローンを組ませ許可のない地区に住宅が作られていった。

<2003年> カタルーニャ与党CIU(結束と統一)によりカタルーニャ新自治憲章が提起される

<2004年>マドリード列車爆破テロと選挙により政権が社会党サパテロ政権に移る。サパテロ首相新たなカタルーニャ自治憲章の制定を約束。

<2006年> カタルーニャ自治憲章の改正が行われるがはこれを国民党議員100名が違憲と憲法裁判所に提訴。(この段階でのカタルーニャ独立希望者は20パーセント)

<2008年>世界金融不安によりバブル崩壊。税金が上がり社会保障は切られ中小企業が閉鎖し小売店は姿を消していった。

<2009年>カタルーニャ州内の自治体で独立に関して法的拘束力のない住民投票がおこなわれた特率賛成派多数と発表。投票率27パーセント。

国民党のギュルテル事件捜査に関連し国民党の会計バルセナが起訴される。が判事バルタサル・ガルソンが司法界から追放され事件はいったんお蔵入り。

<2010年6月28日>憲法裁判所によりカタルーニャ自治憲章の改正のいくつかが違憲であると判定が下される。

<2010年7月10日>カタルーニャ大規模デモ。110万人参加。

<2010年12月>アルトゥーロマス州首相就任。(マスは州内の問題を独立の陰に隠しカタルーニャ民衆の独立心を利用)

<2011年>5月15日M15運動=大衆運動=始まる。11月20日総選挙で国民党ラホイ首相就任。

<2014年>1月ポデモス結党。9月11日カタルーニャの自治権が奪われた記念日ディア―ダ=スペイン王位継承戦争でカタルーニャの自治権が奪われた300周年に300万人のデモ。

<2015年>カタルーニャ州議会選挙でJxSi(独立諸派連合)は過半数を取れず反資本主義極左独立派CUPと連合政権。CUPはマスとは同調できないという事で「バリバリ独立派プッチデモン」がカタルーニャ州首相に。

<2017年>10月10日独立宣言とその延期

カルロス5世(スペイン史カルロス1世)神聖ローマ帝国皇帝。スペインの黄金時代

15世紀が終わり新しい時代がやって来た。ここに一人の王子が誕生する。1500年今のベルギーのゲント(ガン)で生まれたのが後のカルロス5世。父親はブルゴーニュ公国のフィリップ美公。フィリップはハプスブルグ家の世継ぎで神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の息子。母親ファナはスペインのフェルナンド王とイサベル女王の次女。レコンキスタが完成しアメリカ大陸発見の頃のスペイン王国。という絵空事の様なものすごい血筋の王子が誕生した。

<中央がカルロス、左端が祖父のマクシミリアン1世>

カルロス五世と父方の家族
Bernhard Strigel – Kunsthistorisches Museum Bilddatenbank

ブルゴーニュでの幸福な幼少時代

ブルゴーニュ公国というのは現在のフランス東部とドイツ西部、ネーデルランドを含む地域。羊毛産業で経済的に大変栄えたヨーロッパ随一の先進地域だった。

<15世紀のブルゴーニュ公国>

ブルゴーニュ公国
Marco Zanoli (sidonius 12:09, 2 May 2008 (UTC))

<父フィリップ美公>

フィリップ美公

<母ファナ>

ファナ王女
Johanna I van Castilië
ca. 1500; 34,7 x22,4 cm
Spaans Nationaal Beeldenmuseum, Valladolid

 

舞台としては申し分ない時代と登場人物が用意された。ローマ法王レオ10世、フランスのフランソワ1世、ドイツのマルチンルター、イギリスのヘンリー8世、オスマントルコのシュレイマン大帝・・・・

<毛織物産業で繁栄するフランドルのゲントの街>

ゲントの街

 

スペインの王位継承者に不幸が続きカルロスの母ファナの所に次期王位継承権がやって来た。両親はそろってカトリック両王(イサベル女王とフェルナンド王)に会いにスペインへ。そこでまさかの父親フィリップの突然死(フェルナンド王による毒殺もささやかれる)。母親ファナの発狂(これについては諸説)。カルロス6歳の頃。それでも両親不在のベルギーのメッヘルンで幸せな子供時代を送る。叔母のマルガレーテ大公妃は教養のあるルネサンスの才媛で、その周りに集まる教養人と共に豊かな教育を受けられたのは幸運だった。

<ベルギーメッヘルン>

ベルギーメッヘルン
Ad Meskens – Trabajo propio

*叔母マルガレーテはスペインのイサベル女王の1人息子ファンと結婚するが結婚式の最中ファンが突然死。懐妊していたがその子も生まれて間もなく死亡。イサベル女王とは仲良く信頼関係がありその後故郷に戻った後誠実な政策を取り国民にも生涯愛された。

<カルロスの叔母、マルガレーテ大公妃>

マルガリータ大公妃
ce Musée municipal de Bourg-en-Bresse
Author Hugo Maertens

カルロス・ブルゴーニュ公に

<カルロス5世15歳頃>

カルロス5世

 

1515年1月。15歳のカルロスは既に充分な威厳を持ち備えており歴史の表舞台に登場。ブルッセルで儀式が行われブルゴーニュ公国の君主となる。同じ年フランスでルイ12世が死亡しフランソワ1世が即位。フランソワ1世は生涯にわたってのカルロスのライバルである。そしてハプスブルグ対ブルボンの因縁の対決の始まりのゴングが鳴った。

<フランソワ1世 1515年頃>

フランソワ1世1515年

フランソワ1世はこの少しあとにレオナルド・ダビンチをフランスに呼び寄せた。この時レオナルドが持参した数少ない物の中に「ジョコンダ」があった。現在ルーブル美術館にある「モナリザ」である。

母方祖父であるスペイン王フェルナンドの崩御

<スペイン王フェルナンド>

フェルナンド王

母ファナ・カスティージャ女王は精神に異常をきたしたという理由で城に幽閉されその父親であるフェルナンド王が摂生としてカスティージャの政治をしていた。フェルナンドはアラゴン・カタルーニャの王でスペイン東部と南イタリアと地中海の島々を持っていた。そのフェルナンド王が1516年に亡くなった。フェルナンドはスペインの王冠がハプスブルグに継承されない為晩年フランスの貴族の娘と再婚し男子をもうけるがその子は夭折。世継ぎを残すため怪しい媚薬にも手を出していた。せめてカルロスの弟、スペイ育ちのフェルナンドにスペイン王位を継承させたいと努力するがそれも適わず。病床に付いたフェルナンドはどれ程悔しい思いをしたことか。執念深く阻止しようとした悪夢は現実になった。

カルロス・スペイン王になる

17歳のカルロスが40隻の船でスペインへ向かい予定のサンタンデール港から少し外れたアストゥリアスのタソネスの漁港に到着、というより漂着。住民たちは見たこともない数十隻の船団に驚き手に手に棍棒を持ち戦いの準備をしたそうだ。髭をそり香水をつけて降りたカルロスはあまりの田舎にがっかりしここでは滞在せずに直ぐに移動した。

<タソネスの漁港>

タソネスの漁港

カルロスがスペインへ着いてまず最初に逢いに行ったのは物心つかない頃分かれた母。カルロスはこの後幾度となく城に幽閉された母に逢いに行く。その後バジャドリードにいた弟フェルナンドとも再会する。弟のフェルナンドはスペイン育ち。スペイン国内では彼ににスペイン王冠をという動きがあった。マクシミリアン皇帝はこれらの事情をすべて理解しこれ以上フェルナンド派が行動を起こす前に彼を叔母マルガレーテ大公妃の待つネーデルランドへ送る。2人の兄弟と4人の姉妹は生涯にわたり力を合わせてハプスブルグの為に協力し合った。フェルナンドは後フェルディナンド1世としてドイツ皇帝、オーストリア大公、ボヘミア王、ハンガリー王となり幸せな結婚をし生涯スペインには帰らなかった。

<カルロスの弟フェルディナンド1世1521年>

フェルナンド1世
Hans Maler zu Schwaz – Kunsthistorisches Museum: Bilddatenbank
Abgebildete Person:Kaiser Ferdinand I. Sohn des Philipp von Habsburg Österreich

父方祖父神聖ローマ皇帝マクシミリアンの逝去

1519年マクシミリアン1世が亡くなる。神聖ローマ帝国の皇帝は7人の選帝侯によって選ばれる選挙制。7人の票のうちの4票をどれだけの資金で手に入れるかという選挙。最大のライバルはフランソワ1世。既に買収は始まっていた。当時のローマ法王はフランスびいきのメディチ家出身レオ10世。カルロスが皇帝になるのを阻むためフランソワ1世を支援する。派手好きイベント好きのルネッサンスローマ法王はロレンツォ・ディ・メディチの息子。浪費好きでローマの街に当時の最高の芸術家を集め飾り立てた。前ローマ法王が着手していたサンピエトロ寺院の建設を引き継ぎミケランジェロやラファエルを起用した。

<ラファエルによるレオ10世>

ローマ法王レオ10世

1519年19歳でカルロス5世神聖ローマ皇帝

選挙の資金は叔母のマルガレーテが大富豪フッガー家から援助を受ける。またドイツの諸侯たちがメディチ家のローマ法王の後ろ盾を嫌ったこともあり選挙は満票でカルロスが勝利。フランスはハプスブルグ家に囲まれた形になりこの後戦争が続く。

<カルロス5世時代のハプスブルグの領土>

紫―カスティージャ 赤―アラゴン 黄-オーストリア 黄土―ブルゴーニュ

カルロス5世支配地域
Original by Lucio silla, modification by Paul2 – Modification of Europa02.jpg

スペインでは王が外国の為にお金を使いブルゴーニュから沢山の人がやって来て要職をほしいままに。人々の反感が高まりコムネロスの乱がおこり国内は混乱。腕利きの総裁に後は任せ王は「3年で戻る」と約束しスペインを後にする。この反乱は自然崩壊となりカルロス5世が3年後に戻るころには国内はほぼ平和が回復されていた。

1520年カール大帝ゆかり地アーヘンで戴冠式が行われた。

<ドイツ西部アーヘンの大聖堂>

アーヘン大聖堂

同じ年マゼランが5隻の船を率いてセヴィージャの港を出港している。この時代に多くのコンキスタドーレス達がアメリカへ渡り欲望のままマヤ、アステカを破壊し財宝を吸い尽くす。

マルティン・ルターの登場

宗教改革である。カルロス五世を生涯苦しめるひとつの難題の登場。ルター本人はそんな大それた事をするつもりは無かったと、思う。たまたま投じた一石の波紋が広がった。ルターはドイツの修道士であり神学教授だった。前述のローマ法王レオ10世の時代「ローマのサンピエトロ寺院」の建設費を集めるためにドイツで免罪符が販売される。「これを買ったら天国へ行ける!」というのが免罪符。そのお金はローマへ集まり豪華絢爛のサンピエトロ寺院の建設に使われた。これに異を唱えたのが始まり。

<1517年ヴィッテンベルグ城に95か条の論題を張り出すルター>

マルティンルター95か条
Ferdinand Pauwels

ヴォルムスの帝国議会

1521年1月21日に開かれた国会が歴史に名を残したのはルター問題。免罪符の販売で一番搾取の大きかったドイツではローマに対する恨みが募っていた。ルターはローマ法王レオ10世に破門される。ひとりの修道士の小さな反抗が波紋を広げた、そんな頃に開かれた国会。ルターは自説を曲げず堕落したカトリックに対抗。いかなる権威も認めずひたすら聖書と自分の関係に信仰を求めるルターの態度は変わらず。カルロスは帝国とカトリックの崩壊を恐れ、しかしルターを禁固するでもなく処刑するわけでもなくルターに自由通行証を与えた。これはひとえにもカルロス5世とハプスブルグ家の正義感や騎士道精神による。この誠実な態度はハプスブルグの代々の王達に継承されていく。

<ヴォルムス会議で弁明するルター>

ヴォルムス会議
1556
Source Unknown
Author Unknownwikidata:Q4233718

カルロス皇帝スペインへ

約束通り3年ぶりにスペインへ戻ったカルロスはこの後7年間スペインに滞在しスペイン語を話しスペインを愛するスペイン人になる。そしてスペイン人たちにも愛される国王になる。臣下の者達の間でも結婚などで融合が行われていく。ローマ法王レオ10世の死去によりハドリアヌス6世即位。ハドリアヌスはカルロス5世の家庭教師だったオランダ人。学者肌でローマ法王より修道僧が向いているタイプの人。教会改革を進めるが残念ながら在位期間が短かすぎ。約一年半で疲労がたまり死去。学僧として本に囲まれて暮らしていればもっと別の人生があった惜しい人物が、この世で最も生臭い地位「ローマ法王」に選ばれたのは不幸としか言えない。その次はレオ10世のいとこ又してもメディチ家のクレメンス7世。

<ローマ法王ハドリアヌス6世>

ハドリアヌス6世
Jan van Scorel – Unknown for original uploader, but it can be found at the Centraal Museum of Utrecht.

パビアの戦い

事あるごとに関わってくるのがフランスである。ギリシャ沖のロドス島にオスマントルコの手が伸び聖ヨハネ騎士団が死守しようとしている東地中海の島が陥落しようとしていた。後ろから手を貸しているがフランスのフランソワ1世。さらにイタリアのミラノとナポリの継承戦争で再びフランスが手を出してきた。ヨーロッパ諸国の利害関係が絡みイタリア戦争が再び始まる。その後イタリアの北部パビアで皇帝軍とフランス軍の戦い。ミラノを攻撃して来たフランス軍を4時間半でカルロス5世軍が破りフランソワ1世が捕まる。

<パヴィアの戦い>

パヴィアの戦い
Bernard Van Orley, The Battle of Pavia, RIHA Journal.

あっけなく捕虜になったフランソワ1世。戦争終了後「マドリード条約」が結ばれる(1526年)。イタリアとブルゴーニュのスペイン領有。フランソワ1世の母はオスマントルコと密約を交わし、さらにイギリスヘンリー8世に袖の下をたんまり与えその後の準備に余念がない。実際このパヴィアの戦いでヨーロッパの勢力図は一気にスペイン・ハプスブルグの拡大になる。パワーバランスが崩れるとこっそり寝返り後ろから手をまわすのがヨローッパの外交政策。今もそうは変わっていない。フランソワ1世は聖書に手を置いて誓約をかわし国境エンダーヤで2人の息子に変わって釈放された。この後フランソワ1世は幾度となくカルロス5世を裏切る。

カルロス5世の結婚

フランス王を釈放した後カルロスはセビージャへ向かう。大航海時代のセビージャは大型船が出入りし華やかな時代。巨大な大聖堂は完成間近。1526年セビージャのアルカサール(王宮)で祝宴が行われた。ポルトガル王女イサベルとカルロスは母親同士が姉妹。スペイン建国の母イサベル女王の娘達の中で唯一幸福な結婚をした三女マリアの娘。

<イサベル・デ・ポルトガル、カルロス5世妃>この絵はイサベル妃が亡くなった後にカルロス5世がティチアーノに若き日の王妃を描いてもらったものでカルロス5世が生涯近くに置いていた。現在プラド美術館所蔵。

イサベル皇后

 

新婚旅行に出かけたアルハンブラ宮殿で暫くの蜜月を過ごした。この結婚は仲睦まじく幸せな結婚だった。王族同士の政略結婚で幸福だったケースはそうは多くない。2人の間に5人の子供が生まれ長男が後のフェリペ2世。

サッコ・ディ・ローマ(ローマ劫掠)

カルロス5世の知らないうちにフランソワ1世はイギリスやローマ法王クレメンス7世と手を組み反ハプスブルグ同盟を結んでいた(コニャック同盟)。そして対抗するカルロス5世軍はドイツからの傭兵を中心とした部隊でイタリアに集結。このドイツの傭兵達のローマに対する恨みは積もり積もっており憤懣やるかたない中、カルロス5世の資金も底をつき支払いが滞っていた。怒り狂った群衆が飾り立てたローマの街へなだれ込み略奪・強盗・放火・強姦のしたい放題でローマの街を9か月間にわたって破壊した。これが有名なサッコ・ディ・ローマそしてこれが盛期ルネッサンスの終焉になる。

サッコディローマ
Johannes Lingelbach – L’Histoire April-June 2009, p.74
『Sack of Rome of 1527』

カルロス5世はこれほどまでの略奪を黙認したのか手が付けられなかったのか謎のままだが事態は有利に終わる。1529年ローマ法王クレメンス7世と条約を結びイタリアはカルロス5世の支配下にはいる。ボローニャでローマ法王によって神聖ローマ皇帝の戴冠式が行われた。

<カルロス5世ローマ法王により戴冠>

カルロス世ボローニャで戴冠

この間にイギリスではヘンリー8世がカタリーナ・デ・アラゴン(カルロス5世の叔母・カトリック女王イサベルの娘)との離婚を希望するがカトリックでは離婚が認められない為イギリス国教会を作る。カタリーナ(キャサリン)は監禁生活を強いられる。修道士の衣服を着て暮らし苦境の中も精神は高潔であった。ヘンリー8世とカタリーナ(キャサリン)の間の娘がイングランド女王メアリー1世、通称「ブラッディ―マリー」。メアリー1世は後にカルロス5世の世継ぎフェリペ2世と結婚する。

<イギリス王ヘンリー8世とアラゴンのカタリーナ>

ヘンリー8世カタリーナ

<メアリー1世、新教徒を激しく迫害したため血のメアリーと呼ばれた>

メアリー1世

チュニス遠征

1492年のグラナダの陥落によってイベリア半島を追われたイスラム教徒たちが北アフリカで海賊になり報復をしていた。地上ではオスマントルコのシュレイマン大帝がウィーンまで迫ってヨーロッパの脅威になっていた。その後ろにはやはりフランソワ1世が反ハプスブルグで見え隠れする。カルロス5世はチュニジアまで遠征し軍はチュニジアの街を3日間略奪しつくす。

<オスマントルコの勢力図>

オスマントルコ勢力図
OttomanEmpireIn1683.png から日本語化。(The Japanese meaning from OttomanEmpireIn1683.png .)
投稿者:斎東小世(Saito chise)

大体オスマントルコがこんなに勢力を拡大できたのはフランスが後ろから援助をしていたからに他ならない。もちろんフランスはカトリックの国である。

 アウグスブルグの会議

1530年に開かれた帝国会議は宗教問題。10年前のヴォルムスと同じテーマ「マルティンルター」だ。しかし状況はすっかり変わっており多くの都市が新教側を支持していた。カルロス5世は何とか状況の打開と両派の和解を図ろうとするがカトリック側の既得権を得た枢機卿達の反対もあり平行線。ドイツ人の人文主義者のメランヒトンによる「アウグスブルグの信仰告白」提出されるが調停に失敗。

<1530年アウグスブルグの会議>

アウグスブルグ1530年

<カルロス5世1530年ティチアーノ作>

カルロス5世1530年
museo de Prado

その後もイタリア戦争

第三次イタリア戦争でフランソワ1世はミラノの侵攻に失敗し、オスマン帝国のシュレイマン大帝と政治同盟を結ぶ。1542年オスマントルコと連合したフランス軍は再び大敗。これでやっとフランスはイタリアをあきらめた。その後フランスはルター派を支持しシュマルカンデン同盟でカルロスと対戦。そうフランスは今もカトリックの国。宗教なんて関係なしだ。

第四次イタリア戦争でローマ法王の取り持ちでなんとかカルロス5世とフランソワ1世は和約にいたる。(1538年)

<フランソワ1世とカルロス5世の和約>

ニースの和約

この後しばらくはカルロス5世とフランソワ1世は蜜月を過ごすが再び第5次イタリア戦争勃発。フランスは懲りずもまたイタリアに侵攻してくる。

さらに新教徒連合軍との戦争「シュマルカンデン戦争」が始まり1547年カルロス5世はシュマルカンデン同盟を破りこの戦争にひとつの終止符を打つ。この最後の戦いの勝利がミュールベルグの戦い。勝利の後の「カルロス5世騎馬像」というティチアーノの作品がプラド美術館に展示されている。

<ミュールベルグの戦いの後のカルロス5世、ティチアーノ>

カルロス5世ミュールベルグの戦い

 

<勝利者カルロス5世と負けた人々>中央がカルロス5世 左からシュレイマン大帝、ローマ法王クレメンス7世、フランソワ1世

カルロス5世と負けた人達
ジュリオ・クロヴィオ – Panorama de la Renaissance, by Margaret Aston |Dat

この後病気で体調を崩したフランソワ1世死去。しかし戦争はその息子アンリ2世に引き継がれる。フランスはスペインに対抗して大陸航海も始めカナダのケベックに到着。今もカナダのこの地域はフランス語圏。スペイン人にとっては災難でしかないフランソワ1世はフランスではフランス国土を広げイタリアから芸術家を集めフランスの文芸を高めた王として人気がある。

カルロス5世息子に遺書

持病の通風で足が痛く気も弱くなっていたカルロス5世。息子フェリペに「ハプスブルグ家をカトリックを擁護する立派な家とし結婚政策で大きくするよう」に遺言をしたためている。波乱多く人生疲れ切った様子のカルロス5世の内面が書き出されているティチアーノの一作。48歳は今なら未だ精悍な年齢だがこの絵のカルロスは万感尽きた老人のよう。

<カルロス5世1548年>

カルロス5世1548年

 

その後片腕の公爵に裏切られプロテスタントの勢力は無視できない状態になりオスマントルコの侵攻も激しく、フランスは次のアンリ2世は今だ後ろから手をまわしてくる。

アウグスブルグの和議(1555)

「ルターを暗殺しておけばと良かった」と思ったかもしれない。もう手が付けられない程にプロテスタントの力は大きくなっていた。ローマの横暴や拝金主義等どう見ても言っていることはプロテスタントの方がまともだった。カルロス5世の弟フェルディナンド1世の主催で南ドイツのアウグスブルグで会議が行われ宗教対立の収束を図った。

<アウグスブルグの和議・左端がカルロス5世>

アウグスブルグの和議

ユステの修道院へ

1555年、旅と戦争と裏切りと痛風に苦しみ退位を決意。ブルッセルでの退位式の言葉は「私は多くの過ちを犯してきた。しかし誰かを傷つけようという意図は持っていなかった。もし万一そんな事があればここに許しを請いたい」と涙で演説が途切れたという。

<カルロス5世退位式、ブルッセル>

カルロス5世ブルッセルでの退位
atelier Leyniers et Reydams – http://bruxellesanecdotique.skynetblogs.be/post/7116434/palais-du-coudenberg
Tápiz del siglo XVIII, de Leyniers y Reydams , representa la abdicacion de Carlos I de España en el Palacio de Coudenberg

両親から受け継いだスペインとネーデルランド、新大陸は息子のフェリペ2世に譲り、父方の祖父からのオーストリア、神聖ローマ帝国の地位と領土は弟のフェルディナンド1世に継承させた。ここにスペインハプスブルグとオーストリアハプスブルグに分かれることになる。

<弟フェルディナンド1世>

フェルナンド1世

同じ年1555年4月12日母親ファナ女王がトルデシージャスの城で亡くなっている。事実上はファナがスペイン女王。最後まで「Yo Reyna 」「我女王」のサインをしたと言われている。

<ユステのカルロス5世、亡き妻の絵が壁にかかっている>

カルロス5世ユステ

スペインの西の僻地にあるユステ。エストレマドゥーラ地方は今もそういう位置づけ。北部は意外と降雨量があり樫林や果樹園が多い。そこの樫林の中の静かな修道院で隠居生活に入り、1558年58歳で亡くなった。

<カルロス5世ユステの修道院>

カルロス5世の最後

広大な帝国と地位を手にした皇帝の最後の場所には地味すぎる所。ひとつの時代が終わった。

 

<カタルーニャ>スペインから独立を希望する州カタルーニャについて(民族や歴史)。

スペインにある17州のひとつ。大きさは関東平野位のところに人口750万人。地中海に開けた港があり古くから交易で栄えた「国家」だった。国としての歴史は「スペイン国」より古い。首都はバルセロナ。1977年カタルーニャはスペイン政府から強い自治を手に入れているがスペインからの独立を希望している。今年2017年10月1日に独立に関してのカタルーニャの国民投票をすると言っているがスペイン政府は強く反対を唱えている。いったいカタルーニャとはどういうところなのかをまとめてみました。

地理

イベリア半島の北東部の一部。北はピレネー山脈、南東には地中海西側にエブロ川が流れアラゴンと接している地域。

カタルーニャ地図
Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported

 

言語カタラン語(カタルーニャ語)

ラテン語から生まれたロマンス語はその後いくつもの言語にわかれてラテン語の諸語となる。南フランスで今も使われているプロバンス語のひとつオック語の仲間がカタラン語。10世紀には自立した言語となり12世紀には公用文書として使われている。なのでカタラン語はスペイン語の方言というよりプロバンス語の仲間と言った方が正しい。文法的構造も耳で聞いた印象もプロバンス語に近くカタラン語は語のリエゾンを持っている。

彼らはカステジャーノ(スペイン語)とのバイリンガル。バルセロナでは国内移民のスペイン人が多く共通語としてのカステジャーノ(スペイン語)を普通に耳にするがカタラン人同士ではカタラン語を話している。道路標示や案内、美術館の説明などもすべてカタラン語又はカタラン語とカステジャーノ(スペイン語)2カ国語併記。

カタラン語は中央政府から禁止され弾圧を受けた歴史があります。現在のカタラン人の頑なな態度に辟易とすることは私個人的にもありますが守って行かなければ歴史は繰り返される。言語は民族のアイデンティディーだからです。

カタラン語圏

カタラン語は以前のカタルーニャ君主国圏で今も話されているので広範囲にわたる。地中海のバレアレス諸島(マヨルカ島、メノルカ島、イビサ島)サルデーニャ島(現イタリア)の一部、バレンシア州全体、アラゴン州の一部、国境を越えたフランス側のピレネーアリアンタル県、アンドラ公国で話されている。

カタラン語圏
English: Map of the Catalan Countries, including the Catalan language domain.
Date 09/08/2007
Source Own work
Author Marc Belzunces

 

歴史

最初の方の歴史はスペイン史と同じ

謎の先住民族イベロ族が住んでいたところへギリシャ人やカルタゴ人が商売でやって来る。その後ローマ帝国の植民地になり多くの街が創られた。バルセロナの街の地下には今もローマの遺跡が残る。その後ゲルマン民族の大移動で西ゴートの支配下にはいる。南からイスラム教徒が入って来た折フランク王国のカール大帝がイスラム征伐で南に降りて来て801年バルセロナを占領する。ここにひとつの砦を創り辺境領として伯爵を置いた。

<カール大帝>

カール大帝

バルセロナ伯爵領

カール大帝がイスラムに対する砦の領主に伯爵の位を与えたのが<スペイン辺境領バルセロナ伯爵>となる。この後数百年にわたってカタルーニャを支配するバルセロナ伯の始まり。878年にギフレ1世毛むくじゃら王( Wifredo el Velloso)がバルセロナ伯に任じられる。ギフレ1世(カタルーニャ初代君主)は世襲制で伯爵の地位を継承させ1412年まで続いた。

<ギフレ1世>

バルセロナ伯ギフレ1世

9世紀にはフランク王国との主従関係は終わっているのでこれがカタルーニャの起点。コルドバカリフ王国からイスラム教徒の遠征が度重なる。何度もフランク王国に援助を頼むが助けてもらえずバルセロナは壊滅的な打撃を受ける。「援助が無いなら主従関係も終わりましょう」とバルセロナ伯ポレイ二世は987年フランク王国と縁を切る。しかし一度も「カタルーニャ王国」は名乗っていない。この1000年ころがカタルーニャ君主国の誕生と言われる。

アラゴン王国と連合

1137年にバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世(ラモン・ベレンゲール)が隣のアラゴン王国の女王ペトロニーラと結婚。今思えばカタラン人にとってこの結婚がすべての間違いの始まりだったかも。ここからアラゴン・カタルーニャ連合王国が始まる。この頃にバルセロナ伯が領有する土地を指して「カタルーニャ」という言葉が初めて文献に登場する。この時代にアリカンテまでの地中海沿岸地域を手に入れてイベリア半島で最も強力な権力を持つ君主となる。アラゴンとカタルーニャはお互いの自治を尊重していた。

カタルーニャとアラゴン

 

<ペトロニーラとラモン・バランゲ4世>

ラモンバランゲーとペトロニーナ

ジャウマ1世(ハイメ1世)征服王の時イスラム教徒からマヨルカ島を取り戻しバレアレス諸島、バレンシア王国を征服した。

<ジャウマ1世>

ジャウマ1世

海洋帝国

13世紀ジャウマ1世とペドロ3世の時代には地中海に野望を持つ商人たちの海洋帝国となる。マグレブ、チュニジア、エジプト、コンスタンティノープルに商館を立てせっせとお金儲けをやっていた。相手が異教徒であろうとうまく折り合いをつけ解決をして冒険家のように外へ出ていきシチリア島にまで支配を伸ばす。(シチリアの晩鐘)

14世紀にはギリシャのアテネまでも占領しコンスタンティノープルと対抗し東方貿易の基地となる。当時のヨーロッパ世界の中心は地中海だった事を考えるとまさに絶頂期。当時の地中海の貿易商人たちは商人という言葉では表しきれないような探検家や冒険家のようで知らない土地へ行き言葉のわからないところで異教徒たちと交渉して活躍していた。

カタルーニャ

 

カタルーニャのコルツ(コルテス)ヨーロッパ最古の議会

ベネチア共和国が非常に民主的であったように商業民族は民主的で現実的である。カタルーニャはベネチア共和国よりも古い議会を持っていてコルツ(コルテス)と呼ぶ。

最初の起源は不明だがジャウマ一世の時1214年に王権に対抗して貴族と市民たちが自分たちの権利を主張し手に入れた。これはイギリスのマグナカルタよりも1年早い。この時彼らは「カタルーニャ人民の代表」と称して伯に向け「自分たちの相談なく又は協約による定めなしに課税や拘禁を行ってはいけない」と要求した。これは前年に即位したジャウマ1世に対する忠誠との交換条件。コルツ(コルテス)の代表はバルセロナ伯の配下の貴族達と聖職者団。そしてもう一つはバルセロナ市で活躍する商人や手工業者団体。後に百人委員会「コンセホ・デ・シエン」を置き都市有力者たちの手による集団支配。カタラン人たちは上からの命令を嫌う体質であり中央に反発をする傾向がこの頃から既にあった(まさに今の中央政府に対する彼らの反抗)。彼ら商人たちは自分たちの機関として海外に領事館や商館を持ち13世紀にはその富を背景に伯にいくつもの要求を掲げる。国内外における商人の保護政策を求めバルセロナにおける裁判権をも伯から奪い取った。カタルーニャの発展を都市商人たちが支えていたのだから当然の事であった。

<コルツに集まる代表>

カタルーニャのコルテス

没落のきっかけはコロンブスの新大陸発見

カスティーリアの王女イサベルとアラゴン・カタルーニャのフェラン(フェルナンド)の結婚によりスペインという国が出来上がる(1469年)

<イサベルとフェルナンドの結婚>

カトリック両王の結婚

スペイン王国はコルツ(コルテス)に対して冷淡であった。後のハプスブルグ朝からブルボン朝にいたる3世紀間のカタルーニャの反抗はコルツ(コルテス)の権利の主張、抵抗だった。

スペイン王国成立と共にカタルーニャは「バルセロナ伯の国家」ではなくなったがカタルーニャ政府は残されジェネラリターと呼ばれる。いったん1716年に廃止されるが現在のジェネラリター(カタルーニャ政府)の始まり。現在も同じ場所にある。

15世紀になるとオスマントルコの登場やイタリア諸都市が力を伸ばしてい次第にカタルーニャの過日の勢いはなくなって行くが一番の原因はアメリカ大陸の発見。

コロンブスの大陸到着

 

フェルナンド王はカタラン人に恨まれても仕方がない。新大陸発見のコロンブスに援助をしたのは妻のイサベル女王だった。大西洋航海に行ったのはカスティーリアの貴族やごろつきで固められ新大陸からの船はすべてセビージャに入港した。

<セビージャの港16世紀>

セビージャの港16世紀

カタルーニャが没落していったのは当時の人々の関心が地中海から大西洋に変わったその波の乗れなかったのが理由。大体フェルナンドがイサベルと結婚していなければカタルーニャは今も独立国家だったに違いない。フェルナンドはアラゴン人。カタラン人ではないのでカタルーニャに対する愛情は無かったと、私は思っている。

この後のカタルーニャは何度も何度も打ちひしがれ立ち上がっては倒され瀕死の状態でも抵抗していく。

その後のカタルーニャの不幸と抵抗
<30年戦争後の収穫人戦争>

30年戦争の末期。フランス王ルイ13世対スペイン王フェリペ4世。スペインへ幾度となく手を出してくるフランス。敵の敵は味方と後ろから手をまわしポルトガルのスペインからの独立を支援し次はカタルーニャのスペインへの反抗を手助けする。

<有名な絵ラス・メニーナスの鏡の中にいるのがフェリペ4世>

ラスメニーナス

*{フランス王ルイ13世はアンリ4世とメディチ家のマリード・メディシスの息子。結婚相手が対戦相手フェリペ4世の姉である。その2人の息子が太陽王ルイ14世。ルイ14世の妻はスペインのフェリペ4世の娘。ここでスペイン・ハプスブルグ王家はブルボンと婚姻関係が強くなり後に辛酸をなめる}

<ルイ13世フランス王>

ルイ13世
United States public domain tag

<カタルーニャの農民が鎌を持って反乱を起こす>

1640年の農民の反乱

 

スペインとフランスの国境にあるカタルーニャは自然と激戦区になりカスティーリアの軍隊が何年も駐留。乱暴狼藉を繰り返し堪忍袋の緒が切れた農民たちが立ち上がる。聖体祭の日に収穫用の鎌を持った農民たちがスペイン王の代理の公爵を殺してしまう。12年間の反乱の末カタルーニャは降伏。その後西仏戦争は続き両国間で調印されたのが「ピレネー条約」フランスはカタルーニャの一部を割譲する。いまだにカタルーニャの一部ルシオン地方はフランス領。

<スペイン王位継承戦争・またしても叩きのめされる>

<カルロス2世・4歳まで歩けず7歳まで話せなかった王>

カルロス2世

フェリペ4世の2度目の結婚の長男カルロス2世は体も頭も弱く世継ぎなく他界。スペイン・ハプスブルグ家はブルボンとも親戚関係が出来ていて両方が王位継承を主張して戦争になる。12年間の戦争後フランスが勝利をおさめスペイン・ブルボン朝が始まる。前述太陽王ルイ14世の孫がスペイン王フェリペ5世として即位。

<フェリペ5世>

フェリペ5世

歴史の表面上は王家が変わっただけの様に見えるがフランスの中央集権的な絶対王政によりスペインの各地方都市は制圧され、カタルーニャの反感は強かった。1713年から各地で戦闘が始まり14か月の抵抗が続きそして再びカタルーニャは力尽き敗れた。その籠城戦のリーダーが「ラファエル・カサノバ」。今もカタルーニャ独立のシンボル的な存在。

<1714年9月11日、バルセロナの陥落>

バルセロナの陥落1714年9月11日

1714年9月11日バルセロナ陥落。ブルボンのフェリペ5世の制裁は冷酷だった。カタルーニャにこれまで特権的に認められていた地方政府は解散を命じられ犯行の中心だったバルセロナ大学は閉鎖される。バルセロナを見張る為の軍隊の駐屯地が創られる。このシウダデーラは今は公園になっている。

最後には懲罰としてカタラン語の公文書への使用が禁止されカタラン語を公的な場で使うことを禁止された。そしてジェネラリターは廃止された。

カタルーニャが自由を奪われた9月11日は毎年「ディア―ダ」という国民の祝日になっている。「ラファエル・カサノバ」の像の前に人が集まる。

<1914年9月11日ラファエル・カサノバの銅像に集まるカタラン人>

ラファエル・カサノバ

サッカーの時バルセロナのカンプ・ノウでは試合開始後17分14秒に一斉に独立のコールが上がる。

<ナポレオン戦争>

またしてもフランスである。フランス革命の後ナポレオンがヨーロッパ遠征を始めスペインにもフランス革命の「自由を輸出してあげよう」とやって来た。カタルーニャは最初にナポレオン軍の侵入を受けたところで激しい抵抗戦が行われた。長い籠城戦のあと落城。特にジローナの街は7か月の籠城戦を戦い飢えと疫病で息絶える。

<さらにスペイン内戦でノックアウト>

スペイン内戦は簡単に分けるとファシズムと反ファシズムの戦いなのでカタルーニャの対スペイン反抗ではない。

スペイン内戦

内戦の前のプリモデリベラ将軍の独裁政権ですでにカタラン語の公的な場での使用は禁止、カタラン人の民族舞踊や民族旗の使用は禁止されていた。この間にカタルーニャ・ナショナリズムは水面下で急伸。1931年スペイン第2共和政が成立するとジェネラリターが再び発足、翌年「カタルーニャ自治憲章」が承認された。1934年スペイン国会で右派が政権を獲得し自治憲章は再び停止、36年は左派の人民戦線が勝利しカタルーニャ自治憲章復活。1936年にバルセロナで人民オリンピックが行われる予定だったが内戦が勃発。「幻の祭典」となる。

<1936年人民オリンピックのポスター>

バルセロナ人民オリンピック

 

1938年バルセロナは反乱軍による無差別爆撃を受け39年反乱軍によって陥落。共和国側の犠牲者だけでなくフランコ支持者の聖職者たちもアナーキストによって処刑された。

<バルセロナの無差別攻撃>

バルセロナの空爆
De Italian Airforce – http://www.barcelonabombardejada.cat/?q=ca/imatges, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=25495577

 

フランコ体制下カタラン語とカタルーニャのアイデンティティーは全て厳しく弾圧され自治政府や自治憲章は廃止。首相は銃殺され多くの共和国支持者が投獄又は処刑された。カタルーニャは再び恥辱され瀕死の状態となる。

<フランコ総統のバルセロナ入場>

スペイン内戦

フランコ後にやっと立ち上がる

1975年に独裁者フランコが死去。新内閣アドルフォ・スアレス首相の下スペインの民主化が進められた。スアレス首相はジェネラリターの復活を優先し1979年カタルーニャ自治憲章が制定されカタルーニャ自治州が発足した。スペインは1986年にヨーロッパ共同体に加盟し多くの外国企業がカタルーニャへ進出する。もともと商業民族のカタラン人たちはあっという間に経済復興し1992年にバルセロナオリンピックが行われ世界へカタルーニャが紹介された。競技場は「幻の祭典」となった「人民オリンピック会場」を拡張して使われた。まさに92年はカタルーニャの復活を象徴していた。

バルセロナオリンピック1992年

スペインからの独立気運

カタルーニャはスペインのGDPの約20パーセントを稼ぎ出すなか中央政府に多額の税金を収めるが再分配は貧しい州に回され不公平感を募らせている。実際カタルーニャの財政は危機状態。(これには諸説、マドリードも高額支払っているが援助は少ない)

2006年カタルーニャ自治憲章の改正が行われ民族の独自性、カタラン語をスペイン語に優先して公用語とする事、財政司法行政などの自治権の拡大を大きく謳った。しかしスペイン中央政府はこの自治憲章が違憲であるとスペイン憲法裁判所に提訴。2010年6月28日にいくつかの部分が違憲であると判決が下された。

 

2009年にはカタルーニャ州内の自治体で独立に向けた法的拘束力のない住民投票が行われ独立賛成派が多数だったが投票率は27パーセント。投票に行ったのは独立賛成派だったと言われている。

2010年7月10日の大規模デモ110万人が参加した。カタルーニャ憲章が憲法裁判所から違法と判定を受けた後という事もあり人々の関心に火をつけた形になった。

2013年9月11日17時14分にカタルーニャの独立を支持する人たちが手を繋いで世界にアピール。カタルーニャの北から南までにわたる400キロ人の鎖が出来た。

<カタルーニャの道、Via Catalunya>

カタルーニャ独立
11 September 2013, 16:26:56
Source Own work
Author Clara Polo Sabat

2014年はスペイン王位継承戦争でカタルーニャの自治が奪われた300周年。9月11日のデモの参加者は180万人に膨れ上がった。

<エルパイス新聞の記事。独立旗アスタラーダを振る民衆>

カタルーニャの日2014

2017年9月11日も同じく多くの独立旗アスタラーダ(エステラーダ)が振られデモが行われた。警察の発表では昨年より参加者は少なかったとのこと。今年2017年10月1日カタルーニャの独立の国民投票が行われるが中央政府はそれを違法と反対を唱えている。2005年までのカタルーニャの独立派は約20パーセントだったことを鑑みれば今の中央政府のやり方がカタラン人たちを煽ってしまったと思う。

「独立旗アスタラーダはカタルーニャの旗(サニェーラ)にブルーの三角と白い五芒星を使たもの。キューバの国旗、キューバのスペインからの独立に発想を得ている。1918年に既に分離主義者によって使われている」

カタルーニャ独立旗

独立はカタルーニャにとってはデメリットが多い。ヨーロッパユニオンから出ることになりユーロ圏にも入れない。多くの外国企業が既にカタルーニャから撤退をしている。それでも独立を目指すのか。長い歴史の中で何度も踏みつけられてきた民族のアイデンティティー。

ヨーロッパ全体に民族問題がありヨーロッパ内では黙殺されているカタルーニャ独立問題。この後まだまだどうなるか目が離せません。

 

 

 

 

 

 

アルハンブラ宮殿グラナダ王国<イスラム建築の最高芸術>

南スペイン・アンダルシア地方のグラナダにある世界遺産。「宮殿」という言葉から受けるヨーロッパの王宮とは違い全体が一つの都市を構成していた。スペイン・イスラム芸術の最高峰。見学する季節や時刻で随分印象が変わる。できればゆっくりした時間の中で太陽の位置で変わって行く影の動きや噴水の水の音、ヘネラリーフェから風に乗ってやって来る花の香を感じたい。

アルハンブラ宮殿
wikipedia cc Alejandro Mantecón-Guillén

アルハンブラの歴史背景

西暦711年ジブラルタル海峡を渡ってやって来たイスラム教徒により西ゴート王国が滅ぼされイベリア半島はイスラム化した。南スペインはアル・アンダルスと呼ばれシリアのダマスカスのウマイヤ朝支配下にはいる。ところが本家のシリアで革命が起こりウマイヤ朝が倒された(750年アッバース革命)。シリアからウマイヤ家の王子が1人逃げて来てコルドバを首都に後期ウマイヤ朝を始める(756年)。

<コルドバ・メスキータ内部>

メスキータ

 

コルドバカリフ王国は10世紀アブデラーマン3世の時にシリアから独立。メスキータ(回教寺院)はさらに拡大され街には大学や図書館、病院があった。後期ウマイヤ朝はその後11代250年の間は大きな内紛も無くスペイン・イスラム王朝は栄華を極めヨーロッパのどの国とも比較できないほどの洗練された先進地域となる。

<コルドバの街、当時の面影が残る白い村>

コルドバの旧市街

11世紀初頭の権力闘争によりコルドバ・カリフ王国は分裂。後期ウマイヤ朝は1031年滅亡。北の方からキリスト教徒のレコンキスタ(国土回復戦争)が始まっていた。

<最初のキリスト教徒が勝利を得たコバドンガ>

コバドンガ

トレドは再びキリスト教徒の手に落ち南スペインはタイファと呼ばれる小さなイスラム諸国が出来る。グラナダもその一つだった。北アフリカのアルモラビデ族がイスラム教徒の支援に入りいくつかの地域を支配下におさめる。12世紀にはアルモアデ族が入って来て領土を取り戻すがキリスト教徒軍はナバス・デ・トロサの戦いでイベリア半島北半分を取り戻した。イベリア半島のイスラム教徒の斜陽の時代、この混乱期にグラナダの丘の上に創られたのがアルハンブラ宮殿。

アルハンブラ宮殿ナスル王朝

「モハメッド・イブン・アラマール・イブン・ナスル」のちの「モハメッド1世」はハエンのアルホナの領主。ここはキリスト教徒との前線地帯だ。時代はコルドバが1236年に陥落しセビージャも間もなく陥落という頃。斜陽のイスラム教徒の王朝として1238年前述の「モハメッド1世」が始めたのがナスル王朝(日本は鎌倉時代)。

<グラナダ最初の王モハメッド1世>

最初の王モハメッド

「モハメッド1世」はグラナダの丘の上に既にあった要塞を居城と決める。キリスト教徒に勝利するのは不可能と読んだ彼は協定を結ぶに至る(1246年対カスティーリア王フェルナンド3世)。カスティーリア王国に税金を支払いグラナダを首都とするアルメリアからジブラルタルまでの地域の独立が謳われていた。すでにあった要塞を改築し60年かけて水道を設置しアルカサバ(要塞)を拡張し宮殿を創った。(その宮殿部分は後に壊されて現存していない。)「モハメッド1世」の外交政策というと聞こえがいいがあらゆる周りの敵たちの顔色を窺いながらの外交。その息子「モハメッド2世」と2代70年の間にグラナダ王国は基礎を固めアルカサバを拡張していった。これがアルハンブラ宮殿の誕生。この時代は宮殿という華麗な物ではなく守りの城、要塞だった。

<アルハンブラ・アルカサバ>

アルカサバ
wiki Alcazaba in Alhambra, Granada
Author Michal Osmenda

 

ナスル王朝の全盛期は「ユースフ1世」(1333年~54)とその息子「モハメッド5世」(1354年~91)の時代。「ユースフ1世」の時代にコマレス宮を中心とする部分が創られモハメッド5世の時にライオンの中庭を中心とする建物が創られた。今見るアルハンブラ宮殿の主要の部分。

<水面に映るコマレス宮殿>

コマレス宮殿

<ライオンの中庭は王達のプライベートな空間>

ライオンの中庭

スルタンの力は絶大で王国の重要人物で構成される諮問委員会、裁判所が存在した。グラナダの街にはマドラサ(コーラン解釈の学校)や病院が置かれた。絹・織物市場や穀物取引所があり商業も盛んであった。「モハメッド5世」の後ナスル朝は約100年存続するが新しい建物はほとんど創られていない。

グラナダ王国の資金源

<ジブラルタル海峡>

ジブラルタル海峡

ジブラルタル海峡は地中海と大西洋の入り口。当時そこを持っていたグラナダ王国は地中海の海上貿易に影響力を持っていた。その当時の海洋国家ジェノバは西地中海の制海権を持っておりジブラルタル海峡を越えられるかどうかは死活問題。グラナダ王国と条約を結び資金を援助し優遇措置を得ていた。ジェノバからの資金がグラナダ王国の経済やアルハンブラ宮殿で生活する王達を支えていた。

<1400年頃のジェノバ共和国の支配地域と海路>

1400年ころジェノバの支配権
Kayac1971
Permission
(Reusing this file)
GFDL e Creative Commons CC-BY-SA tutte le versioni (3.0, 2.5, 3.0, e 1.0), sono l’autore

 

斜陽のグラナダ王国

美しいアルハンブラ宮殿内部では次第に快楽的な生活が主流になる。長い繁栄と平和に退廃した無能な王が続き有力軍人達の対立でグラナダ王国内部の混乱。レコンキスタが続く中キリスト教国カスティーリアがジブラルタル海峡を略奪。それまでの資金源が奪われた。さらに敵対していたカスティーリアとアラゴンが王子王女の結婚によって連合国家になる。これがイサベルとフェルナンドの結婚(1469年)

カトリック両王の結婚

グラナダ王国内部

アルハンブラの内部では骨肉の争いが起こっていた。歴史から学ぶことは多い。すべての王国の崩壊は内部から始まる。

<国王は息子に裏切られる>

国王アブルハサン(ムルアセン)の息子ボアブディル(モハメッド12世)とその母アイーシャは協力して反乱を起こし王位を奪う。実はアイーシャはイスラム創始者モハメッドの血を引く高貴なお方。最初はモハメッド11世と結婚していたがその死後アブルハサンと結婚してボアブディルが生まれている。国王アブルハサンはキリスト教徒の美しい娘に恋をする。改宗奴隷だったイサベル・デ・ソリスを寵愛し妻にし王妃アイーシャと息子ボアブディルは苦渋の中で辛酸をなめていた。

母アイーシャと結託しボアブディルは父から王位を奪い取りる。王としていざ戦争へ出かけるが1483年キリスト教徒とのルセーナの戦いで捕虜になり再び父王アブル・ハサンが復帰。キリスト教徒側は相手側の内部の揉め事を知っていたようだ。内乱で自滅するのを計算しボアブディルにカスティーリアへの税金の約束を取り付けグラナダへ戻す。グラナダでは叔父ザガルが実権を握っており再び内戦となる。1485年ボアブディルは戦況不利と悟るとキリスト教徒側に逃げ込んだ。叔父のザガンがモハメッド13世として即位。ボアブディルはキリスト教徒と手を組み叔父ザガルと戦争。ザガルが降伏し再びボアブディルはグラナダ王としてアルハンブラ宮殿へ復帰できると信じていたようだがキリスト教徒はグラナダからの全撤退を求めた。ボアブディルが裏切られたと気づいた時には既に打つ手は無かった。包囲されたアルハンブラ宮殿は1492年1月2日無血開城。

<上院議会場にあるグラナダの陥落の絵19世紀プラディージャ>

グラナダの陥落
De Francisco Pradilla – See below., Dominio público, Enlace

ひとつの歴史の終焉。1237年から1492年255年の間に21人の国王達が千一夜物語を過ごした夢のまた夢は終わった。アルハンブラの陥落。

ボアブディルが一族郎党を引き連れシエラネバダを超えるとき最後に振り返りアルハンブラを見て涙した。母アイーシャは「おまえが男として守り切れなかったアルハンブラを見て女のように泣くがよい」と言ったそう。その峠は今も「ススピロ・デ・モーロ」「モーロ人の溜息」と呼ばれている。

<グラナダ議会場にあるボアブディル家族のアルハンブラからの撤退>           白い服の女性が母アイーシャ

アイーシャ・アルハンブラの出発
Aixa, de blanco en el centro de la obra de Manuel
Gómez-Moreno (1880), pintada en Roma

 

<最後の王ボアブディル>

ボアブディル王

ボアブディルはシエラネバダの山岳地帯に領土を与えられたがモロッコのフェズまで行きそこで暮らして生涯を終える。今もシエラネバダのアルプハラにグラナダの落人たちが住んでいた白い村が残る。

<シエラネバダのアルプハラにある白い村>

アルプハラス

その後のアルハンブラ宮殿

最も輝かしき戦利品アルハンブラ宮殿に入ったキリスト教徒たちはその美しさに驚愕した。カトリック両王の孫カルロス5世はアルハンブラ宮殿を帝国の中心にする予定だった。すでにアメリカ大陸を手に入れハプスブルグ領土も手に入れたカルロス5世皇帝にはアフリカをも含む大帝国の野望があった。時代はコンスタンティノープルが陥落してオスマン・トルコが東地中海で勢力を持っている頃。ウィーン攻略をしたトルコのシュレイマン大帝に攻撃を仕掛けるのに格好の場所だった。

<プラド美術館にあるカルロス5世ティチアーノ作>

カルロス5世

しかしアメリカ大陸の発見後経済的関心が大西洋に移りフェリペ2世は父王カルロス5世の宮殿造営を引き継ぐがそれは終わることはなかった。

19世紀ロマン派の時代

<19世紀の版画に出てくるライオンの中庭>

アルハンブラ19世紀版画
El Patio De Los Leones 1833 David Roberts

時は流れ人々の記憶にさえなくなったアルハンブラ宮殿は廃墟となり忘れ去られた。そこにロマ族が住み浮浪者が滞在しこの城を気に留める者はいなかった。そして更に時は変わりロマン派の時代。古いお城などが見直されていたころアメリカ人作家ワシントンアービングがロシア人の友人とアルハンブラを訪れ旅行記と城にまつわる物語を出版した。「アルハンブラ物語」1832年初版、1851年改定版がベストセラーとなりアルハンブラ宮殿は広く世界に知られることになった。

<アメリカ人作家ワシントンアービング>

ワシントンアービング

アルハンブラ宮殿見学順序

現在入場時間予約制。時間の予約はナスール朝宮殿の入場の事。ヘネラリーフェに関しては午前と午後に分かれている。カルロス5世宮は無料で自由に入れる。写真はフラッシュなしで撮れます。

 

アルハンブラ宮殿は計画性を持って創られた宮殿ではなく何世代にも渡って増改築を重ねた都市複合体。化粧漆喰やタイル、天井や儚い水の音等を楽しみながら進んでいきましょう。順路になっているのでそれに従って進んでいくと以下の順にみることが出来ます。

カルロス5世の宮殿

自由に入れるので時間のあるところで見学。内部の博物館に彫刻や寄木の扉等が展示されている。この丸い中庭は音響が最高に良いので6月にグラナダ音楽祭の会場になる・。

カルロス5世宮殿

入場券のチェック

カルロス5世宮の少し先に個人とグループは別に入場口が作られている。そこでアルハンブラ入場券のバーコードのチェック。指定時間より早くは入れない。30分間の指定時間から遅れると入場できないので注意。切符は合計4回チェックがあるので最後まで失くさないように。

アルハンブラ入場券

メスアール宮

現存する中で一番古い部屋。おそらくアルハンブラの中で一番改造を強いられている場所なので往時の姿は留めていない。この部屋には裁判所があったがキリスト教徒の時代に変更がされ礼拝堂として使われた。奥にはミヒラブというメッカの方角を示す窪み。アラビア文字や漆喰彫刻、天井の寄木細工。

<メスアール宮入口・壁面全体が幾何学模様>

マスアール

 

コマレス宮

大使の間と呼ばれる大広間を含むコマレス宮はアルハンブラの中で最も重要な核をなすもの。アラヤネスの中庭には大きな池がありそこに映るコマレスの塔は水の上にあるように見える。

アルハンブラ、コマレス宮

大使の間

アルハンブラ宮殿にやって来た使節と王が謁見に使った大広間。天井は寄木細工で満天の星空をイメージして創られている。平面すべてに漆喰のアラベスク模様。弱小国になっていたグラナダが最高の見栄を切って外交官たちと謁見をした。明るい外からやって来た使節はうす暗い大広間に入り目がくらむ。後ろと前の光で王が光輝いて見える仕組みだった。この部屋でコロンブスがイサベル女王から宝石箱を受け取ったと言われている。

<大使の間の天井・白は象牙が使われている>

コマレス宮殿

 

アリカタード<石を使った象嵌>

アリカテ(ペンチの様な物)でタイルを切り取り組み合わせていく。模様はすべて幾何学模様。タイル作りのプロセスは粘土の分離から。土を細かく砕き水と混ぜこねて形にしていく。モザイクの為には発色が肝心。緑には銅青、コバルト黄色には鉄とマンガン。赤の混合の秘密は今もわからない。かまどを作り木材を燃やして900度の温度で24時間かけて焼き24時間かけてさました。

アリカタード

神秘学と数学

偶像崇拝の禁止の為イスラム装飾は生き物の形を作らない。基本的には反復するリズム、果てしなく繰り返される模様が空間を埋め尽くし無限を感じさせる。

アルハンブラ、アラベスク模様

二次元空間における回転対称性を分類するとその数は17種類しかない。このアルハンブラ宮殿ではすべての回転対象を使って壁面を飾っている。

<私が一番気に入っているタイル。水の動きの様に見える>

アルハンブラ、モザイク

 

アラベスク模様の基本はユークリッド幾何学。ピタゴラス(BC582頃~496)が体系化しアルジャワリ(800-860)が拡張した三角法の基礎。または我々の手の届かないところに永遠不滅の完璧な存在があるとするプラトン(BC427~347)のイデア論がアラベスクの発展に影響している。

アルハンブラ

 

四角形は四つの等辺を持っていることから自然界の等しく重要な要素と考えられていた。土、空気、火、水の四大元素。どの一つを欠いても物質世界は滅亡する。正四角形を重ねた八角の星はイスラム教徒が好んで使った形。インドで発見されたゼロを運んできたのもイスラム教徒。アラビア数字と呼ぶが進んだ数学はアラビア人がヨーロッパへ運んだ。

アルハンブラ宮殿

 

 ライオンの中庭

ここからはスルタンのプライベートな空間。列柱の森が砂漠のオアシスを感じさせる。

ライオンの中庭

12頭のライオンは12角形の水盤を支えている。ライオンは10世紀から11世紀頃のものだと想定されている。口から水を出すライオンは太陽を現し12頭は黄道帯の12宮であり12か月である。4x3の12も良く使われた数。12頭のライオンはソロモンの神殿にあった12頭の鉄の牡牛であり海を支えている。この海は天空の水がめも表していて海でもあり天空でもある。

ライオンの口からは水が出るためには水圧が必要。アルハンブラ宮殿は丘の頂上に創られておらず中腹にある。丘の頂点に今も貯水池がありシエラネバダから水路によって水が貯められている。それぞれの場所に必要な水が流れるよう標高差と管の太さで水量と水圧の計算がされている。

アルハンブラと光

アルハンブラの建築は完璧に東西南北を向いている。それによって窓から入る光が時間を教えてくれる。もともと不規則な地形を谷や起伏を埋め立てることによって整列させてある。

夏のグラナダの太陽は容赦なく高い所から照らしつける。高い位置で運行する太陽が各部屋には差し込まないので夏は涼しい。冬の低い位置で運行する太陽はより奥の部屋にま光を届けるので冬は暖かくなる。

アルハンブラ

鍾乳石飾り

イスラム建築の天井に良く使われるのが鍾乳石飾り。イスラム教創始者モハメッドは最初は迫害を受けていた。しばらく鍾乳洞の洞窟の中で隠れて暮らしていた時に大天使ガブリエルからコーランのインスピレーションを授かったことに由来する。アルハンブラ・ライオンの中庭に面するに「二姉妹の間」の天井も鍾乳石様式で飾られている。平面図は四角形だが八角形の星の形にし5416の断片を張り合わせてある。当時はさらにその上の窓は色ガラスで時刻と共に光が移り変わっていくように創られている。天井に移される光が動くイメージ。空間の中の際限のない変化は天空をイメージしたもの。

<に姉妹の部屋の天井、窓には色ガラス壁は彩色されていた>

アルハンブラ

ヘネラリーフェ

アラビア語で楽園という意味の庭園。当時とはかなり様子は変えられているとはいえ庭園の本質は失われていない。楽園と同時にアルハンブラに住む王家への食糧を供給する農園や果樹園だった。そして小高いヘネラリーフェに香りの良い果樹や花を植えて宮殿に良い香りが流れる仕組みになっていた。

<アセキアの中庭>

内側に向いて作られた庭が安心感を与え水の音が心地よい。真夏のうだる暑さの中でもここは水と風の流れで涼しいように高度や方角を計算し設計されていいる。最近の発見では雨の音を再現するための管もあったようだ。

<アセキアの中庭・水の音が心地よい>

アセキアのパティオ

<水とイスラム教徒>

飲み水や宗教儀式の清め、入浴等イスラム教徒は当時のキリスト教徒よりも水と密接に繋がっていた。農業や庭園への供給の為に用水路をくまなく創り水を供給した。王宮だけではなく市街地にも街の人々の為の灌漑設備が創られていた。

砂漠で水は宝、色の無い砂漠の民には花々の極彩色は憧れの対象。アルハンブラは水と色をふんだんに使った宝と夢の宮殿都市。

アルハンブラ宮殿入場券

当日券は早朝から並んでも買えないケースが続出ですのでなるべく予定が決まったらネットで予約を入れることをお勧めします。

<予約の仕方>

下がアルハンブラ宮殿公式ページです。スペイン語、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語が選べます。ちょっと複雑なので少し調べてから購入しましょう。種類や予約の仕方、最適な時間等ブログに書いている方もあるようです。

https://www.alhambra.org/en/buy-alhambra-tickets.html

スペインの歴史をまとめた記事です。5分で読めます。 スペインの歴史ダイジェスト版

イスラム王朝のあたりの歴史の記事です 後期ウマイヤ朝・コルドバカリフ王国の繁栄

 

代行サービス等色々あるようですのでご自分の一番いい方法を探して切符を手に入れましょう。光の動きや水の音、流れる風の向き等快適さを計算しつくされています。五感すべてを使って感じてお持ち帰りください。

<トマティーナ>トマト祭りは毎年8月最後の水曜日です

2017年トマティーナ行ってきました。

 

言い切れることはこんなクレイジーなお祭りは他にはないという事。96カ国以上から22000人の老若男女が入り乱れ誰彼構わずトマトを投げ合う。最初のトラックが見えた時の感動は筆舌に尽くせない。ウォーと地響きのような歓声が上がり地面が揺れたかと思った。

トマティーナ

自分は割と冷静な方だと信じていた。感情に負けて突発的な行動はあまりしない方だ。スマホとカメラの2つ持ちで何枚か写真を撮りこの場を立ち去るつもりだった。音を立てて何かが崩れ落ちたのは顔面にパシッとトマトの直撃を受けた時、頭の中でゴングが鳴った。その後の事はあまり覚えていない。大事なカメラとスマホを安全なところに確保して「これは戦いじゃ~」と神の声が聞こえた。

トマティーナ

顔が勝手に笑ってる。とにかく楽しい。トマトに沈んで明日が来なくてもかまわないと思った。来年は行かないと信じて行ったけど来年は激戦区で戦おうと今本気で考えています。

トマティーナ

バレンシア州ブニョル

バレンシア州にあるブニョル。普段は誰も気に止めない田舎の村。ここは毎年8月最終水曜日に世界中からやって来る2万人以上の老若男女でトマティーナの戦場となる。始まりは前日の夜から。仮設遊園地や屋台が立ち並び人口9700人ほどの小さな小さな町はそわそわし始める。バトルの激戦区に住んでいる人々は台風の前のように家の外にビニールを張ったり板をつけたり被害が最小で終わるための工夫をする。

<バトルが始まる直前に準備を始めるセニョールたち>

トマティーナ

トマティーナの歴史

「トマティーナ」の歴史は実はよくわかっていなく諸説ある。はじまりは1945年最後の水曜日だった。村祭りの日に若者たちがケンカをはじめ丁度そこの野菜売りのスタンドにトマトがあったのでそれを投げ合った。過激な先導者たちは逮捕されるも翌年の8月の最後の水曜日、例の若者たちは広場に集まり各自持参して来たトマトで再びりバトルを始めたのだ。当局はその後毎年同じ日に行われる戦いに苛立ちトマトの投げ合いを禁止した。にもかかわらずトマトの戦いは過激化していく。1957年ついに当局は祭りの禁止を宣告。破った場合は「懲役刑」とブニョル市民に言い渡す。対抗する市民たちは棺桶にトマトを入れトマトの埋葬の行進を行い抗議した。これに驚いた当局は祭りを合法化し1959年以来街の公式の祭りとなり「ラ・トマティーナ」と呼ばれるに至る。

<トマトの埋葬・当時の新聞記事>

トマト祭りトマトの葬式

トマティーナの始まりは午前9時

市役所の真ん前の激戦区のど真ん中。パロ・ハボン<Palo Jabon>がまず行われる。棒に石鹸がたっぷり塗られその上に生ハムがぶら下がっている。石鹸で滑る棒によじ登って生ハムを奪い合う。滑るし下から引っ張られるし上に載って来るしまるで<芥川龍之介・蜘蛛の糸の世界>だ。放水されたり上から水かけられたり散々な目に逢いそれでも誰かが生ハムを手にするか・・・又は誰も勝利者がいないか。この狂気に参加したい場合は早めに近くに行く事。もちろん踏みつけられ引っ張られ乗られるのは当然。もし生ハムを手にしたら英雄の名誉だけは待っている。これが終わるとトマテ(トマト)、トマテ(トマト)の大合唱が始まる。もうこの段階で激戦区からの脱出は絶対無理なのであきらめてこの場で沈没です。トマトの中で沈んでいくのもトマティーナの醍醐味かもしれません。たったの1時間あきらめましょう。

トマティーナ会場

入場券<ブレスレット型>の色によって入口は2か所に分かれている。駐車場又は駅から20分ほど。地図の赤い矢印の所は始まった後何度も出入り自由。それ以外の通路は地元の住民用の出入り口。下記の矢印に向かって歩いていく。

トマティーナ

本番トマティーナは11時から1時間だけ

生ハムが早く誰かの手に落ちた場合民衆のトマトを求める合唱が高まると予定よりも早めに始まることがある。10時30分頃には自分の場所を決めておこう。(が、この時間にはすごい人で自分の意志では動けない)

 

<トマティーナの決まり>

①トマトは潰して投げる(しかし飛んでくるのは潰れてない)

②人の服を破らない(だが引っ張られまくる)

③終わりの合図でやめる(でも終わっても地面からトマトを拾って飛んでくる又は地面のトマトジュースを頭からかけられる)

 

トマティーナは2013年から有料になりました。入場制限が出来たので以前よりは人数が減り安全が確保された感じです。それまでは4万人とかだったので今の倍の人で激混み状態。2万2千人に減ったとはいえ朝の山手線か御堂筋線位のギュウギュウの所にトラックがやって来てさらにモミクチャにされ圧死するか足が浮く又は踏みつけられるか。あ、一番気をつけないといけないのはトラックに轢かれて死なない事。死ぬならトマトで。

トマティーナ

トマティーナ終了後

駅に行く道で無料で村人がホースでトマトまみれの体に水をかけてくれて綺麗にしてくれる。有料の所もありますが今年は1ユーロでした。昨年は3ユーロだったので反省したみたい。駅のシャワーは電車の切符を持っている人のみ。

終わると放水車がやって来て町中綺麗に洗い流されます。あっという間に町は平静を取り戻しさっきまでの狂気は夢だったのかと思うほどのスピード。スペインの凄い所のひとつです。やる時はやるッ、本気出せば凄いんだ。

トマトまみれのTシャツやスニーカーなどは駐車場に捨てていくと後からくロマやアフリカの難民の人達が回収していきます。ごみ箱に捨てるとごみになるけどその人たちが持っていくと何がしかのお金になるので究極のリサイクルです。捨てていく行為に日本人的な罪悪感を感じますがそこに置いて行くか回収している人見つけたらあげて下さい。

トマティーナ持ち物

トマティーナ持ち物

①靴はスニーカーの捨てていいもの。サンダルだと脱げてなくなるので絶対ダメ。

②ゴーグル>トマトが目に入って痛くなります。(マンサニージャというお茶のティーバック買っておくといいです。炎症を抑えるアズレンが入っている。水に入れて少し出たらそれで目を洗う)

③水着とかも捨てても良いもの。匂いが取れないんです。

④カメラのハウジング>写真撮っているとカメラにトマトを投げつけられ市民に放水されます。

⑤防水の貴重品入れ>首から下げるか体の中に巻き付けるタイプ。それをさらにTシャツの中へ。ポケットに入れたお金や携帯電話は絶対なくなる。(駅から会場に行く間で売っている)

⑥ウェットティッシュや捨てても良いタオル>終わった後ホテルがある人は良いけど移動する人が多いと思うので。きれいに洗っても体のどこかからトマトが出てくる。耳とか頭とか。

⑦着替え、下着やシャツ。乾いた衣服に着替えられるようにする事。帰りの電車とかバスで凍えます。女性はズドンとしたワンピースがあると場所が無くても着替えやすい。タオル巻くより落ちてこなくていいです。

⑧防寒着や靴下>夏のスペインの朝夜は冷え込みます。夏の服だけだと絶対寒い事がある。

⑨ビニール袋。スーパーのでも何でもいいので濡れた物を入れておける。

⑩ガムテープ。意外と色々使えました。

⑪ペットボトルのお水。水は貴重だ。頭からかぶったり手を洗ったりできる。途中のバルやお店で買える。

⑫最後に一番大事な「楽しむゾッ」という気合も忘れずにお持ちください。

 

 

トマティーナ注意事項

トマティーナ地図

 

①激戦区の真ん中あたりは始まるとそこから抜けられなくなる。特にそのあたりに乱暴なグループが陣取っていてTシャツを破られたり奪われたりする。周りの人の状況を良く見て安全そうな人の地区に自分の居場所を確保。真ん中からは少し離れたところのほうが良いでしょう。あ、もちろん最高な体験したい方は何が何でも真ん中をお勧めします。

②残念なことにトマティーナには時々チカンも泥棒もいるので注意が必要です。ヨーロッパの女子はかなりワイルドなのでやられたらやり返す又は蹴りを入れる位します。ポケットにお金入れていると間違いなく消えています。首からぶら下げたスマホも切られて消えていた人も居ます。

③トラックは上の地図の赤い線の左から右に移動するので右の端の方にいるとトマトは残っていないかも。「いってQ」で宮川大輔にトマトが来なかったのはきっと右の下の方にいたのです。

④始まる前から水が飛んでくる(市民が放水する)のでカメラや携帯にかからないよう注意。バケツで頭からかけられたり建物の上からホースでかけたりが延々と続く。踊り始めている人も居てこれで燃え尽きないように。そして寒い、頭から水浸しです。

⑤貴重品は宿泊ホテルのセーフティーボックスとかTシャツの中に防水状態で工夫。ガムテ―プで貼りつける等。ポケットのお金が消えたケース続発です。スマホの盗難も多いので注意。パスポートのコピー必ず持っておきましょう。

⑥入口で手荷物検査があります。リュック、大型カメラ、自撮り棒、ビン等は有料の荷物預り所に置いていたカバンからお金が消えたケースがあります。

⑦暫くはガスパチョ見たくもなくなるので始まる前に沢山飲んでおく。

ガスパチョとトマト

行き方

スペイン各地からバレンシアに向かいバレンシアからスペイン国鉄でブニョルへ入れます。

①バレンシア・サン・イシドレス駅から近郊線 セルカニアスCercanias (C3)45分から50分でブニョルへ。朝6時35分から22時まで頻繁に走っている。ブニョルの駅から中心部は徒歩で15分。トマティーナ当日はたくさんの人が既に戦場へ向かっているのですぐわかる。

②マドリード、バルセロナ、バレンシアから「現地の日本の旅行会社(みゅう)」がトマティーナ入場券付のツアーを出しています。マドリードから乗って帰りバルセロナ行きにも(又はその逆)乗れるので移動も兼ねると非常にお得。宿泊付きプランもあるのでホテルを自分で探さなくて済む。色んなインフォも貰えるし仲間も出来る。バスに荷物を置いていけるし色々教えてもらえる。みゅうの前夜祭に行くとトマティーナの事を色々教えてもらえる。

{みゅう}のサイト http://www.myushop.net/tomatina

③個人で行く場合ブニョルに宿泊すれば一番快適ですがホテルは少ししかないので予約は早めに。トマティーナ前夜祭や終わった後のトマトの埋葬とか楽しめるはず。

いずれにしても行くと決めたらフライトとホテルは早めに予約しましょう。トマティーナに近づくほど値段は高くなり予約はいっぱいになります。

 【Booking.com】世界のホテル割引予約

飛行機は最低前々日にスペインに入れるように取りましょう。飛行機というのは意外とトラブルが多い。乗り継ぎの失敗、ストライキ、フライトキャンセル、天候、ロストバゲッジ。前日到着だと何かあると間に合いません。

トマティーナ参加チケット

チケットはネットで買うことが出来ます。4月頃から販売開始。毎月ごと現定数販売なので4月に全部売り切れたりはしない。でも行くと決まったら早めに購入。

<トマティーナオフィシャルサイト>

スペイン人のお祭りにかける情熱には驚くばかり。私はお祭りが大好きで色々行くけど究極の<参加型祭り>はトマティーナ。牛追いもあるけど参加するには危険すぎる。

トマティーナ

まだ来年の夏の予定が決まっていないあなた。トマティーナでモミクチャにされませんか?

イサベル女王<スペイン建国の母>とその時代

カスティーリアの田舎の村で誕生

後のイサベル女王の生まれはマドリガル・デ・ラス・アルタ・ストレスというカスティーリアの小さな村。マドリガルは恋歌とか牧歌という意味でラス・アルタス・トレスは高い塔の複数形。「高い塔の恋歌」というロマンチックな名前の田舎の村でカスティーリア国王フアン2世の2番目の妃の長女として誕生。宮殿というのもはばかれる質素なお城で1451年4月22日に誕生。奇しくも同じ年にコロンブスが生まれている。日本は室町時代足利義政将軍の時代。

<イサベル女王生誕の城は現在は修道院になっている>

マドリガル修道院
マドリガル・デ・ラス・アルタス・トレスの修道院

父王ファン2世

父王フアン2世は49年の長い治世を行うが「カスティーリアの不運」と言われるほどの王で芸術を好む温和な人物だが政治は無能。(母親がイギリスのランカスター家から嫁いできたキャサリン、スペイン語だとカタリーナ。カタリーナはペドロ残酷王の孫にあたる人物。)この父王ファン2世の最初の結婚はアラゴン王家の王女マリア・デ・アラゴン。2人の間に娘3人息子1人に恵まれこの息子がエンリケ、後のカスティーリア王エンリケ4世不能王。

<イサベル女王の父、ファン2世>

ファン2世

 

ファン2世の2度目の結婚

<イサベル・デ・ポルトガル>

ポルトガルのイサベル

ファン2世の2度目の結婚がポルトガル王女イサベル。この2人の間に生まれたのが後のイサベル女王。母イサベルは若く奔放で美しく、気弱なファン2世は次第に翻弄されるようになる。奔放なだけではなく常識を逸した行動が度々目立ち始める。そして夫である国王フアン2世をそそのかし言いなりに動かし長年の宰相をバジャドリードの広場で公開処刑する。気弱な国王ファン2世は後悔と自責の念で弱りきり人々の同情と軽侮の中亡くなる。イサベル王女3歳、弟のアルフォンソ王子8か月。

義理兄エンリケ4世の即位

父王の突然の死去で兄のエンリケ4世即位。ここから王女イサベルの悲運な日々が始まる。時々狂気の行動をする母イサベルと王女イサベル、弟のアルフォンソは近くの荒野のアレバロの城に追放され、少ない共の者達と身を寄せ合うように貧しく暮らすことになる。

<エンリケ4世>

エンリケ4世
De Desconocido – web, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2261931

 

兄王エンリケ4世は父王にも負けず劣らずのグウタラ王で無能で女たらし。父王フアン2世が亡くなる少し前に妻であった王妃と離婚した。カトリックでは離婚は認められていないが[その結婚に問題があることを証明]できればローマ法王の許可のもと[結婚の解消]が出来る。その理由がなんと「不能」。”何か不吉な力”によってこの王妃と関係が持てない。この王様それ以来「エンリケ不能王」と不名誉な名前で呼ばれる。そして再婚、王の仕事の大切なひとつは世継ぎを残す事ならば、では「次」となる。

 

エンリケ不能王が2度目の妻に迎えるのがポルトガル王の妹ファーナ王女。若く美しく陽気な新しい王妃との盛大な婚礼が執り行われ側近たちは今度こそはと期待するが「その夜には何も起こらなかった・・・・」と王室記録官。

<ファーナ王妃>

ホアナ、エンリケ4世妃

{高貴な女性とは特に無理}な「国王エンリケ不能王」は妻の女官のもとに通い始め王妃のもとには若くハンサムで野心家の「ベルトラン卿」が通い始める。もちろん王と王妃の間には冷たい風が吹き始める。

王妃のご懐妊

突然のニュースは結婚6年目。エンリケ不能王の妃が懐妊したという。噂好きのスペイン人たちは昔もそうは違わなかったはず。国中でみんなの話題になった事だと想像できる。「王妃のお腹の子はベルトランの子供じゃないの?」

1462年に生まれた女の子は母と同じ名前ファーナと名付けられ生まれた時から人々の好奇の目にさらされる。そしてついたニックネームは「ファーナ・ラ・ベルトラネーハ=ベルトランの娘ファーナ」

<フォーナ・ラ・ベルトラネーハ>

ベルトラネーハ

不思議なのは国王エンリケ4世はベルトラン卿を随分厚遇し出世させていること。公爵の娘と結婚させ出世街道まっしぐら。イサベルの弟アルフォンソに与えられていた「サンチアゴ騎士団長」の名誉迄も与える有り様。嫉妬と屈辱の周りの不満分子たちは次第に王の知らないところで結束を始めていた。

国内の分断

この頃イサベル王女達はセゴビア城に暮らしていた。

<セゴビア城>

アルカサール

カスティーリアの貴族の不満分子たちはエンリケ4世を見限りイサベルの弟アルフォンソを王に祭り上げようと画策し国内は分裂。優柔不断なエンリケ不能王は右往左往する中アルフォンソにアストゥリアス皇太子の称号を認め不満貴族達への懐柔策を始める。しかし時すでに遅くアビラの高原に王座が置かれアルフォンソを新国王アルフォンソ12世として擁立。オルメドでの戦闘はアルフォンソ側有利に進み反乱を起こすトレドへ進軍するもその時突然アルフォンソは倒れた。前日夜に鱒を食べた後苦しみ始めたとあるが毒殺か疫病か不明。享年15歳。イサベル女王の心の支えだった弟アルフォンソはブルゴスのカルトゥーハ・ミラフローレス修道院に眠る。

<ミラフローレス修道院にあるアルフォンソのお墓>

アルフォンソのお墓
Wikimedia Commons Author Ecelan

イサベルの聡明さ

アルフォンソの死後国内はまだ内戦状態でイサベルを女王と担ぎ上げようとする勢力がいる中17歳のイサベルは「兄エンリケ4世こそが正当の国王。がその嫡子の正当性に問題があるならばその次の王位継承権は自分にある」と主張した。当時の人々が早熟であったとしてもカスティーリアの有力者の権力闘争の中で17歳の女性が堂々と大人相手に張り合い自分の意志を通した。一躍未来のカスティーリア女王となる。

イサベル女王

イサベルの婿選びと結婚

当時の王族の結婚はすべて政略結婚。恋愛は別物で自国の利益の為に子供達はその道具としてあらゆる方法で使われた。王女達は15歳位で嫁に行くのが普通だったがイサベルは17歳。すでに周りの国々から色々な縁談話が来ている。ポルトガル、イギリス、フランス。その中に隣のアラゴン・カタルーニャ連合王国の皇太子フェルナンドからの話があった。「おじいちゃん同士が兄弟」という関係で同じトラスタマラ王家。先方に送った密偵の話ではなかなかの美男で切れ者らしい。イサベルの心がどこにあったか知る由もないが17歳の王女の心に恋心が芽生えても不思議ではないと思う。そしておそらくこの婚姻によるカスティーリアの利益も。

<アラゴンのフェルナンド>

フェルナンド王
De Michel Sittow – [1], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4714691
ところがそこには色々な周りの大人の思惑があり「ポルトガル王の後妻」の話が兄王から言い渡される。言いなりになるつもりはないイサベルは逃げた。イサベルに味方したのはトレド大司教、そしてアラゴン王国だった。度々フランスから圧力を受けているアラゴン側もこの結婚での利益に興味を持った。当事者フェルナンド王はイサベルのひとつ年下だがマッキャベリの君主論に出てくる程の人物。イサベルは時の権力者たちに捕らわれそうになるもバジャドリードに逃げそこへ一足早くフェルナンドが駆けつけ1469年バジャドリードのフアン・デ・ビベーロの屋敷で結婚式は執り行われた。イサベル18歳フェルナンド17歳。この年ポルトガルでバスコダガマが生まれ、日本では応仁の乱の混乱の時代。

<イサベルとフェルナンドの結婚>

カトリック両王の結婚

イサベルの戴冠

<セゴビア城にあるイサベル女王戴冠の絵>

イサベル女王戴冠

優柔不断な兄王はまたしても有力者にそそのかされフランス王の弟と出生不明の娘フアーナの結婚話を進めイサベルに対抗しようとするも当事者のフランス王弟の死去とエンリケ王側についていたローマ法王の死去。新しいローマ法王シクストゥス4世は政治的混乱と飢饉で弱り切ったカスティーリアにルネッサンス時代の大人物を送り込む。後のローマ法王アレッサンドロ6世ロドリーゴ・デ・ボルジア。祖国の混乱に心を痛めたかどうかは疑わしいがイサベルとエンリケの仲を取り持ちセゴビア城で和解。その翌年あっけなくエンリケ4世死去、いつも針の筵にいた妃も何故かその半年後に35歳で亡くなっている。

セゴビア城にいたイサベルはサン・ミゲル教会で戴冠。1474年23歳のイサベルはカスティーリアの女王になる。イサベル女王の誕生、歴史家はこの日をスペイン近代史の始まりとする。

<セゴビア・サンミゲール教会>

セゴビアのサンミゲール教会

<教会入口に1474年12月13日イサベル女王戴冠>

1474年12月13日

 

そう簡単ではなかったイサベル女王就任

ところがそれでは納まらない勢力がこれまでファーナ・ラ・ベルトラネーハを押してきた陣営。ポルトガル王アフォンソ(以前イサベルとも縁談があった王)とファーナ・ラ・ベルトラネーハを結婚させる話が持ち上がる。ポルトガル王とは叔父と姪の関係。姪のファーナがカスティーリアの正当な継承者なら結婚すれば自分はポルトガルとカスティーリアに君臨出来るという目論見でイサベルに対抗し戦争。4年間の戦争の間に国は荒廃しついに和睦の条約でファーナ・ラ・ベルトラネーハは修道院へ。周りの都合で翻弄され続けたファーナは自分の王位継承を信じて疑わずリスボンの修道院で69歳で亡くなるまで”我女王”のサインをしたという。厚い修道院の壁の中からイサベル女王の死やその子供たちの不幸な人生を知ったかどうかは不明。

この頃のスペイン

その時代のスペインは南にイスラム王朝のグラナダ王国が細々と存続していたレコンキスタの末期。キリスト教徒側ではイサベルとフェルナンドの結婚により今のスペインという国の概念がやっと出来る。そして最後のイスラム国への戦争が始まる。発端は南スペインでの小さな小競り合い。グラナダの美しいアルハンブラ宮殿の内部は陰謀と裏切りで権力闘争が続く中キリスト教徒軍が押し寄せてくる。それでも10年間耐え続けたのは奇跡だった。フェルナンドとイサベル率いるキリスト教徒軍が迫りアルハンブラは無血開城。1492年1月2日。ヨーロッパに残る最後のイスラム王朝グラナダ王国が滅びた。

<グラナダの陥落>

グラナダ陥落

 

コロンブスの登場

<サンタマリア号模型・スペイン海軍博物館>

サンタマリア号

時代はすでに準備ができていた。ルネッサンスの数々の発明によって航海術は進歩し登場したのがコロンブス。西回りでアジアに行けると信じたコロンブスがポルトガル王に断られスペインにやって来たのは1484年。何度か断られたり説得したりが続きグラナダ陥落後アルハンブラ宮殿でイサベル女王からの援助を手に入れ大航海時代が始まる。第1回航海は1492年8月3日出発。コロンブスは4回大西洋を渡っているが死ぬまでそこはアジアの一部と信じていた。コロンブスはイサベル女王死後は殆どの約束を反故にされ惨めな最後を遂げる。

<コロンブスの新大陸到着>

コロンブスのアメリカ到着

1492年

世紀末のこの年、当時の人々はヨハネの黙示録に出てくるこの世の終わりがやって来ると世紀末感に怯えていた。ペストの流行がさらに世紀末感に拍車をかけていた頃グラナダの陥落、コロンブスの出港、と世界史的な事件が続く。そしてスペイン人ローマ法王の即位。兄王とイサベルの和解に出てきた人物ロドリーゴ・デ・ボルジア。有名なボルジア家出身でローマ法王なのに子供がいた。息子がチェザーレボルジア、娘がルクレチアボルジア。中々の好人物でやり手、好色、大物、自己中心、権力とお金の為なら何でもやるタイプの人物。聖職者にはもったいない。

<アレキサンダー6世>

アレキサンダー6世

トルデシージャス条約

ポルトガルが慌てた。このままスペインに上手くやりこめられてはたまらない。地球を半分に割って将来揉めないように条約を結んだ。大西洋の上に縦に線を引いてここから西に将来発見されたらスペイン領土東だったらポルトガル領土。これでスペインは西ポルトガルは東へ航海者達は船を出す。

イサベル女王の子供達

混乱と戦争と権力闘争の中イサベル女王は1男4女をもうけている。愛情を注いで育てるこの5人の子供たちは可愛いだけではなく大切な戦略の道具。当時のヨーロッパの勢力図を考え巡らせ将棋の駒のように誰との結婚が自国に有利かを冷静に見つめ結婚相手を決めていく。

カトリック両王とその子供達

長女イサベルはポルトガル王と結婚

長女イサベルはポルトガル王ジョアン2世の息子アフォンソ皇太子と結婚。夫婦仲は睦まじく娘イサベルはポルトガル宮廷で大切にされて幸せの絶頂のある日、夫のアフォンソが落馬して死亡。子のまだ無いイサベル王妃は喪に服しスペインへ帰国。その後さらに亡き夫の父ポルトガル王ジョアン2世が死去し(妻と折り合いが悪く突然の死には毒殺説)その妻の弟がマニュエル1世として即位(この辺りは陰謀の香りがする)。イサベルはマニュエル1世から激しく求婚され再びポルトガル王妃になる。このマニュエル1世の時代にポルトガルはインド航路発見、ブラジル到着。後に出てくるスペインの期待を担った弟ファンの死後王位継承権がイサベルにやって来るが息子を産んだ後すぐに死去。残されたミゲールと名付けられた大切な皇太子はスペインを背負う運命の中1500年7月20日2歳の誕生日を迎えずにグラナダで死去。今もグラナダの王立礼拝堂に埋葬されている。

長男ホアン

セビージャのアルカサールで誕生した皇太子ホアンはイサベル女王にとって特別な存在で大切に育てるが体が弱かった。ホアンの結婚はフランスを恨む者同士の連合で当時の先進国ブルゴーニュ公国の王女との結婚。神聖ローマ帝国皇帝の娘。美しく華やかな17歳マルガレーテ王女との結婚で当時のスペイン宮廷は湧くが体の弱いホアンは結婚の行事のあと姉の結婚式に参加する途中サラマンカで突然死亡。すでに懐妊していたマルガリータは死産。国中が喪に服した。

次女ファーナ

兄ファンとの2重結婚で一足早くベルギーのフィリップ美公に嫁ぐ。神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世とブルゴーニュ公国マリアの長男。洗練された都会人フィリップのとの蜜月は短く夫に翻弄されながら精神を病んで行き6年後祖国に帰るころは別人に変り果てイサベル女王を悲しませた。兄ホアン姉イサベルが続いて亡くなった後はスペインの王位継承権が手に入り再び夫妻でスペインに戻るがフィリップは突然死亡。父フェルナンドによる毒殺がささやかれるが謎のまま。彷徨いながらフィリップの遺体をグラナダに運ぶ一行、ファーナは棺を時折開け死んだ夫に話しかけたとも遺体を確認したとも言われる。そのころファーナはフィリップの子供を妊娠しており合計6人の子供を産んでいる。事実上スペイン女王となるが狂気が理由で父親と息子(のちのカルロス5世)によってトルデシージャスの城に幽閉されながら75歳まで生きる。実際ファーナが狂っていたかは謎で今の歴史家達は否定している。

<夫の棺と荒野をさまようファーナ>

ファーナラロカ

 

三女マリア

マリアは長女イサベルの亡くなった後妻としてポルトガル王マヌエルの所へ嫁ぐ。マリアのみが唯一の幸せな結婚生活を過ごし5男2女を王に与え惜しまれて35歳で亡くなる。マリアの長女がのちのカルロス5世の妻、フェリペ2世の母イサベル王妃。

四女カタリーナはイギリスへ

最も不憫な末娘カタリーナは15歳で同い年のイギリス皇太子アーサーと結婚する。病弱で気弱なアーサーは結婚後すぐ死亡。なんとその父親ヘンリー7世との縁談が起こるがヘンリー7世も死亡しアーサーの弟のヘンリー8世と再婚。5回の妻のうち2人は斬首刑というシェイクスピアに出てくる残酷で冷血なヘンリー8世との間の娘がブラッディメアリー。プロテスタントを残酷に殺した為「血のメアリー」と呼ばれる。赤いお酒の名前はそこから取られている。カタリーナはその後何度か妊娠、死産を繰り返す中ヘンリー8世は宮廷の若い女官アンブリンとの結婚の為カタリーナを離婚、いや結婚の無効を主張。アンブリンとヘンリー8世の間の娘が後のエリザベス1世女王。ヘンリー8世はローマ法王が離婚を許可しないので英国国教会を作りカトリックから分離する。カタリーナは3年間城に幽閉され隔離された中で49歳で寂しく死んでいく。

<カタリーナ・デ・アラゴン>

カタリーナ

<ヘンリー8世>

ヘンリー8世

イサベル女王の最後

スペイン統一とグラナダの陥落やコロンブスの援助と華々しい歴史を生きたイサベル女王は期待の長男ファンの死と長女イサベルの死、その息子ミゲールの死と三女ファーナの狂気、母親としては悲しみの連続だった。晩年メディーナ・デル・カンポの質素なお城で最後まで国の為仕事をしたという。少なくとも四女カタリーナの不幸を知らずに亡くなったのは幸いだった。1504年11月26日53歳の生涯を閉じる。

イサベル女王最後の日

遺言通り遺体はグラナダに運ばれサンフランシスコ修道院に埋葬されフェルナンド死後は共にグラナダ大聖堂横の王室礼拝堂にある。

質素で誠実で敬虔なカトリック教徒。国の為に自分を捨て戦ったイサベル女王は今もスペインで人気の女王様です。

 

バルセロナの魅力<ガウディだけじゃない魅力的な街バルセロナ>

バルセロナは歴史の古い街で地中海に面した陽光明るい都市。あまりにもサグラダ・ファミリア教会やアントニ・ガウディが人気ですがバルセロナの街はローマの遺跡中世がそのまま残り海と山に囲まれた経済活動盛んな魅力的な街です。今はスペイン17州の中のひとつ「カタルーニャ州の州都」ですがもともとはカタルーニャは「ひとつの国家」でその首都がバルセロナ。スペインという国が出来るより前からあった国でした。最近は近代建築も創られていて今も変化を続けているダイナミックな街です。今回はアントニ・ガウディ以外バルセロナをご紹介します。

ゴシック地区<バリオ・ゴティコ>

13世紀から15世紀の中世の街が残る地区。バルセロナ旧市街ランブラス通りの東側から大聖堂の後ろ側一帯に中世の建物がそのまま連続して残る。大都会の中に時間を止めた古い町並みが残されていて素敵なバルやブティックなども街並みに溶け込んで共存している地区。これがバルセロナの魅力のひとつ。

通りを歩くと人が住んでいる生活感、路地に入って行くと何百年もの人が生きてきた重みを感じる。私はこの地区が大好きでバルセロナを訪れると目的もなく歩きに行く。この中世の街のすぐ下にローマの遺跡が残り今も一部見学が出来る。紀元前一世紀頃に大聖堂のあたりに住み着き3世紀頃には要塞化していく。

最近は古い集合住宅が短期滞在者用のアパートホテルなどに変えられ住民が追い出されるケースが出てきた。早く行政が対応して住民を守ってもらいたいと心から願う。ロマネスク教会やカタルニャゴシック教会が点在しピカソ美術館もこの地区にある。是非とも足を踏み入れてさまよってこの町の魅力を感じて下さい。ヨーロッパに古い街はたくさんあるけれどこんな大都会の中に連続して13世紀から15世紀の建物が残っているところは他にあるんでしょうか?

 

<ゴシック地区・大聖堂>

バルセロナ、カテドラル

バルセロナの大聖堂は殉教聖人サンタ・エウラリアに捧げて創られたカタルーニャ・ゴシック様式の建造物。内部の地下へ降りると地下聖堂がありサンタエウラリアが埋葬されている。カタルーニャ・ゴシックは通常外側にあるフライングバットレスの部分を内側に入れ込んだ内部が広い様式。4世紀にはここに小さなバシリカが作られ11世紀にロマネスク様式の教会に変わり13世紀末から150年間位で作ったのが現在の大聖堂。サグラダファミリアがあまりにも有名ですが街の大聖堂はここ。地元の人はセウと呼ぶ。日曜日には前の広場に人が集まり「サルダーナ」を踊っている。この踊りはフランコの独裁政権時に禁止されたカタルーニャのアイデンティティそのもの。クリスマス頃は前の広場でクリスマスマーケットが開かれる。

<行き方>

地下鉄4号線Jauma I から徒歩5分

<時間>

8時から12時45分(日曜~13時45分)17時45分~19時30分(土日は17時15分から20時)

注意・極端に短いパンツやスカート、肩の出た服装では入場できません。お祈りの場なので教会に対する礼儀に気をつけましょう。

<ゴシック地区>・サンジャウマ広場(ジェネラリターと市役所)

大聖堂向かって右側の石畳通り(Carrer del Bisbe Irurita)をサンジャウマ広場に向かって歩くとそこは中世のムード。その先にカタルーニャ自治政府庁<パラウデラジェネラレイタ>カタルーニャが国家だったころからあるカタルーニャ政府の建物。現在の物は15世紀から17世紀にかけて建てられた。

向かいにはバルセロナの市役所。正面は19世紀だが横の方は14世紀のゴシックの建築が残る。パラディス通りに入るとローマ時代の神殿の円柱が残る。アウグストゥス神殿の遺跡。

<ゴシック地区>王の広場

バルセロナ王の広場

バルセロナはフランク王国がイスラム教徒の砦として創った伯爵領でそのバルセロナ伯爵の屋敷があった広場。コロンブスが最初の航海から戻ったときにイサベル女王に謁見をした場所。この下にはローマ時代の遺跡。

<ゴシック地区>バルセロナ市立博物館
バルセロナ歴史爆物館
http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0

バルセロナ旧市街ゴシック地区の地下はローマ時代の遺跡。建物自体が14世紀の建物で中に入ると地下に広大なローマ時代の遺跡を見ることが出来圧巻。ローマの遺跡は地中海沿岸諸国色々なところで見れますが現代の街の下に広がる遺跡を見れるところは他に聞いたことが無い。パリやロンドンもローマの街の上に創られていることを考えると地下にこのような広大な遺跡が今もきっとあるんだと思いをめぐらせてしまう。

<時間>

火曜から土曜 10時から19時 日曜10時から20時月曜休み

 

<ゴシック地区>サンタ・マリア・デル・マル教会

海の聖母教会

この地区の教区教会で今も使われているサンタ・マリア・デル・マル教会。カタルーニャゴシック様式ではたぶん最も美しい教会。創られた当時はすぐそこが海で「海で働く男たち」を守るマリア様に捧げて創られた。海の男たちが聖母の教会を作るため持てる僅かな財源を捧げ奉献した。毎日石を運んだ様子が正面入口に彫刻で残っている。内部は荘厳で静謐。私はバルセロナに行くと時間があればここへ行くと心が洗われるようなすがすがしい気分になれる。柱が細くて繊細なイメージで垂直線がどこまでも軽やかで昔はきっと海の音が聞こえたんだと想像しながら。

注意・地元の信仰の対象の大切な教会です。お祈りしている信者さん達やミサの時は適切な敬意が必要です。

<行き方>

地下鉄4号線 JaumaI 徒歩5分。

<時間>

9時から13時(日曜10時から14時)、17時から20時30分

<ゴシック地区>ピカソ美術館
ピカソの母
museo de picasso barcelona

この絵はピカソ15歳の頃の作品。紙にパステルで描いた母親の横顔。下を見ながら編み物でもしている様な目のとらえ方。優しいムードに包まれた作品。

 

ピカソは南スペイン,アンダルシアのマラガで生まれ青年時代をバルセロナで過ごしている。この美術館があるモンカダ通りは裕福なモンカダ一族の名前が取られた中世のお屋敷街で通りも広く中庭の有る門構えのしっかりした建築が続く。そのいくつかを利用して創られた美術館。ピカソ美術館は他の国にも沢山有りますがバルセロナが凄いのはピカソの若いころの物が充実している。ピカソの親友の寄贈とその後ピカソの家族からの寄贈の作品が中心なのでピカソの家族や身近な人々が作品の中に登場して暖かい気持ちになる。中学生くらいのピカソの作品や青の時代バラ色の時代等年代順に置いてあるので若いころのピカソの作品を楽しめる。

<行き方>

地下鉄4号線 Jaume I 徒歩5分

<時間>

火曜から月曜 9時から19時 木曜9時から21時30分

月曜休館(2017年7月24から9月25まで月曜試験的に開館)木曜18時から無料

 

<注意>たいていいつも大変混んでいます。入場券を買うのに何時間も待つことが多いのでネットで予約を入れていくことをお勧めします。

ピカソ美術館の予約のページに飛びます(英語)(https://entrades.eicub.net:8443/muslinkIII/venda/index.jsp?lang=3&nom_cache=PICASSO&property=PICASSO&grupActiv=1

カタルーニャ美術館

Museo  Nacional d`Arte de Catalunya

カタルーニャ美術館
By Sergi Larripa (User:SergiL) –  CC 表示-継承 3.0, Link

 

バルセロナの街の西側、モンジュイックの丘にある国立美術館で中世から20世紀までのカタルーニャ美術を中心としたコレクション。言葉を失うほどの素晴らしいコレクションで「ルネッサンス以前のヨーロッパ美術だけに絞る」とおそらく世界一のコレクション

見どころはロマネスク壁画の収集。雨の多いピレネーの山の中にある小さな村の教会のフレスコ画が湿度で傷みが激しくなっていた。ロマネスク教会は壁構造だったため壁画が多い。19世紀の終わりに国立美術館の技術者を総動員して小さな村の教会からフレスコ画を丁寧に細密にはがして移築した。祭壇画や木製の十字架等この美術館のロマネスク美術は他で見ることはできないレベルと量。

12世紀から13世紀の物なのでまだ緻密な表現、バランスも悪く単純な構図。キリストの頭が歪に長く目がアニメに出てきそうなくらい大きかったりする。どっしりとした存在感ドラマチックな構図はミロの絵のよう。独特の地中海ロマネスクの壁画はいくら見ていても飽きない程のユーモラスとバリエーション。

カタルーニャ美術館タウルのキリスト
https://en.wikipedia.org/wiki/Museu_Nacional_d%27Art_de_Catalunya

<行き方>

地下鉄 1・3号線 Espanya から徒歩10分

<時間>

毎日10時から20時(日曜日は~15時)

第一日曜と土曜の15時から無料。

モンジュイックの丘にはジュアンミロ財団美術館や考古学博物館、スペイン村、1992年のオリンピック競技場もある。

海洋博物館 Museo Maritim

海洋博物館
Fritz Geller-Grimm – Trabajo propioCC BY-SA 2.5

バルセロナ旧市街ランブラス通りの海側に立つコロンブスの塔のすぐそばにある博物館。造船所をそのまま使っているので巨大な実物大のガレー船と船の模型をそのまま展示。(7隻は14世紀3隻は17世紀の物)。バルセロナは古くから重要な港だった。実際にこの造船所は18世紀まで使われていた。カタルーニャが海洋帝国だった事が良くわかる。目玉はギリシャ沖レパントの海戦ホアン・デ・アウストリアが乗ったガレー船「レアル号」の模型。レパントの海戦は1571年足並みのそろわないヨーロッパ連合軍がオスマントルコを倒した海戦。

<行き方> 地下鉄3号線 Drassanesn 徒歩3分

<時間> 10時から20時毎日

まとめ

今もスペイン経済GDPの20パーセントを稼ぐカタルーニャの首都バルセロナは活気のある近代都市です。年間数多くの国際見本市も開かれホテル不足が問題。ホテルは早めに取りましょう。【Booking.com】世界のホテル割引予約

他にもまだまだ有るバルセロナの魅力。今回はゴシック地区中心ですがまた次回ほかのテーマでバルセロナを紹介したいと思います。写真が無くてやめたのはプエルト・オリンピコ(オリンピックの港)市内にある港へ行くとヨットハーバーの前にレストラン街、すぐ横にはビーチがあり海水浴が出来る。海も山も歴史もたっぷりで食も充実、サッカーは世界のトップ。こんな近代都市他にありますか?

 

アストゥリアス地方<グリーンスペイン>スペイン君主制発祥の地

アストゥリアスはスペイン北部の海と山に囲まれた緑の多い地域。私たち日本人のスペインのイメージからはかけ離れた景観が続き「グリーンスペイン」「緑のスペイン」と呼ばれる

スペインの歴史の中で重要なレコンキスタが始まり最初のキリスト教王国が作られたところでコバドンガカンガス・デ・オニス等歴史に出てくる都市やピコス・デ・エウロパという険しい山やコスタベルデと呼ばれる等の自然の景観が楽しめるところです。

アストゥリアス地図

首都オビエド

オビエド大聖堂

 

アストゥリアス州首都のオビエドは人口22万人の小さなこじんまりした街。ゴシック様式の大聖堂を中心に綺麗な旧市街。魚市場やシードラ屋、町中に銅像等があって散策するにもちょうどいい規模の美しい街。初めて行ったときに懐かしいような親近感を感じたのは山と海が近い小さな町に日本の素朴な綺麗な街が記憶の中でリンクしたと感じている。

大聖堂

ゴシック様式のサン・サルバドール大聖堂。中のカマラ・サンタにはビシゴート王国崩壊の時トレドから持って逃げた宝物、コバドンガの戦いペラヨが使った十字架そしてなんと聖骸布。埋葬されたイエスキリストの頭を包んでいた布です。。聖骸布というとイタリアのトリノが有名ですがこちらも同じく聖骸布。1メートルx0.6メートルで重厚な箱にしまわれていて年に3度一般公開されます。

カンポアモール劇場

毎年11月スペイン皇太子賞の授与式が行われる劇場。1981年から行われているスペインのノーベル賞にあたるもの。各界の貢献者に賞金5万ユーロとミロデザインのトロフィーが授与される。2011年には「福島の英雄」<東日本大震災で活躍した消防・警察・自衛隊の現場の指揮者5人に授与された>当時まだ皇太子だった現スペイン国王フェリペ6世は2017年日本に行った折ぜひまたあの「福島の英雄達に会いたい」と希望され再会を果たした。

ナランコ山に世界遺産のアストゥリアス建築

近くのナランコ山には世界遺産のアストゥリアス建築(プレロマネスク建築)がある。ロマネスクが始まるより前に高度な技術で天井を支えた石の建築でサンタ・マリア・ナランコサン・ミゲール・デ・リーリョ、少し離れてサンタ・クリスティーナ・デ・レーナ教会プレロマネスク建築群として世界遺産に指定されています。

サンタ・マリア・ナランコ

ピコス・デ・エウロパ国立公園

ピコスデエウロパ

アストゥリアスにあるピコス・デ・エウロパ山脈は海から30キロメートルの所に突然2500メートル級の険しい山脈。浸食によりギザギザになった石灰岩の峰は遠洋漁業から戻った船乗りたちによってヨーロッパの頂<ピコス・デ・エウロパ>と名付けられた。トレッキングコースや本格的な山登り、かわいい村があり独特の景観が素晴らしい。

1<フエンテ・デ>

 

ピコス・デ・エウロパの山に囲まれた標高1000メートルの地。国営ホテル「パラドール」は近代的な建物で快適な滞在が出来る。アストゥリアスでも最も人気なのは気軽に山が楽しめる。パラドールの横にロープ―ウェイがあり山頂駅迄運んでくれるので360度の景観は迫力。そこから山道を歩いて山小屋迄行くことも可能。地元のエージェントがやっている4輪駆動のジープで回るコースなども各種。山登りが得意でなくても険しい山が楽しめる。

2<カーレス渓谷>

ポンセボとカインの間にいくつかのトレッキングコースがあり山の中の散策又は本格的な山登りも出来ます。その中の代表的なコースを3つ紹介します。

<①ポンセボからブルネス>

ポンセボからブルネスに向かう登り1時間30分くらいでかわいい街ブルネスまで。登山電車フニクラで登ることも可能。ブルネスに着けばバルやルーラルハウスなど宿泊施設もある。

ポンセボからブルネスへの道

ブルネス

ポンセボからブルネス間は川沿いに登り道結構激しい部分もあるけど山の中景色がいいので初心者でも子供連れでも大丈夫。

ブルネスの村

ブルネス村

<②ルタ・デ・カーレス>カーレスルート

プエンテ・デ・ポンセボからポサダ・デ・バルデオンまでの片道12キロのルート。コースは平らで難しくはないが谷底が見える険しい景色を見ながらのドキドキするルート。往復すると24キロ。帰り道同じ道を歩かずルートを離れても帰れるが危険なところもあるので子供連れなどは本道を行くこと。

カーレスのルート

カーレスの谷

 

<③パンデバノからブルネスの山小屋迄2時間45分>

最初は山が見えないが途中からこの変わった形のウリエジュ(Urriellu)山を目指して登る景色のいいコース。最後の方は急な山道が続く。ウリエジュ山はブルネス・デ・ナランホという名前も持っているがなぜかこのウリエジュと言う名前が気に入ってこちらで紹介しています。

最初はこんな感じでなだらか

ナランホデブルネス

<Pico de Urriellu が見えてくると急な山道>

ウリエジュ

肩のところに山小屋がありそこまで2時間45分。途中から急な登りになります。本格的な登山シューズや水や防寒具が必要。

3<コバドンガ>

行き方 オビエドからバスで1時間40分から2時間30分。

<サンタクエバ>

サンタクエバ

アストゥリアスはスペイン発祥の地と言われる。ビシゴート王国崩壊の時トレドから逃れたキリスト教徒たちが隠れ住みペラヨ率いるキリスト教徒軍が722年最初にイスラム教徒から勝利を得たところ。険しい山の景色が続く深い谷の中にある聖域。<サンタクエバ>聖なる洞窟は勝利に導いてくれた聖母マリアを讃えて作られた。アストゥリアスの守護聖人ラ・サンティ―ナやペラヨのお墓ペラヨの娘婿アルフォンソ1世のお墓。礼拝堂は人々がいつも祈りを捧げている。

コバドンガ

<バシリカ聖堂>

コバドンガ

 

バシリカ聖堂はネオロマネスク様式19世紀後半の建造。山の中にいこの教会からの鐘が鳴り響く。コバドンガからさらに山道を車で登って行くとエルノ湖とエルシナ湖。コバドンガからバスが出ている。

 

<カンガスデオニス>

ペラヨがコバドンガの戦いでの勝利の後宮廷を置いた町。アストゥリアス王国の首都があった街です。石のローマ橋(実際は中世の橋)と川の景観は素晴らしいが他には特に何もない。2キロくらい離れた所に元修道院だったパラドールがあります。

<カンガス・デ・オニスのローマ橋>

カンガスデオニス

カンガス・デ・オニスのローマ橋はローマ時代の物ではなく中世に作り直された。この町は他に見るべきものはない。

スペインの歴史はこの記事です <レコンキスタの始まり。トレド陥落からレコンキスタ>

コスタベルデ

アストゥリアスの大西洋海岸線を「緑の海岸」<コスタベルデ>と呼ぶ。入り江の小さな漁師町や透明な水のビーチ等まだあまり観光地化していない素朴な街が沢山。緑の牧草から突然切り立った断崖絶壁、その向こうに透明で青い大西洋の荒波がザブーンと音を立てる。

ヒホン

ヒホンはアストゥリアス随一の大きな町で人口280万人ヨットハーバーや綺麗な広場等。中心部は昔の漁村のムードも残っている。オビエドからバスで40分。頻繁に出ているのでオビエドからの日帰りでも可能。

ヒホン

 

クディジェロ

コスタベルデにはきれいな小さな町が続く。美しい入り江の漁師町がありこれぞアストゥリアス。坂に向かって町が広がりどこに登っても絵になる景色。

 

プラヤ・デ・シレンシオ

アストゥリアス・コスタベルデで一番きれいだと言われている海岸。道路は崖の上なのでかなりの坂道を下りていく。その分静かで人が少なく海が綺麗。

シレンシオ海岸

シレンシオ海岸

ルアルカ

アストゥリアスには絵になる綺麗な漁村がいくつもある。昔は大西洋はクジラが沢山いたのでクジラ漁が盛んだった。嵐の日は船主たちは多数決で漁に出るかどうかを決めたそう。

ルアルカ

ラストレ 

向こうにピコス・デ・エウロパ山脈が見える。冬は山は雪で覆われ真っ白な山脈が街の向こうに見えて綺麗。昔は敵から見つからないように入り江の山肌に人々は住んだ。

ルアルカ

ブエルナ 

コスタベルベルデの水は透明で冷たい大西洋の風が吹いて波の音がドーンと遠くから聞こえる。ブエルナは小さな綺麗な村で入り江のビーチも綺麗でした。

ブエルナ

タソーネス

皇帝カルロス5世が最初に到着した港。船で髭をそり身づくろいをし香水も振りかけて下船したがあまりにも田舎でお気に召さなかったそうです。小さな漁村でシーフードレスランが並びスペイン人の観光客でにぎわっている。

タソーネス

アストゥリアスで何を食べる

アストゥリアスの名物は色々。海のそばなので魚介類はもちろん山には放牧地があるのでお肉も美味しい。有名なのはヤギのチーズ、豆の煮込み<ファバダ>と<コシード・マラガト>。<ファバダ>は白い大きな親指位ある大きな豆の煮込み。<コシード・マラガト>はエジプト豆の煮込み。飲み物はシードラ=リンゴの発泡酒です。素材がいいので何でもおいしい。一皿が無茶苦茶大きいので注意です。

<写真はファバダとアサリの煮込み>

 

行き方

マドリッドやバルセロナから飛行機やバスでオビエドまで。又は長距離バス。村と村の間はALSA のバスが走っている。小さな村もバスが走っているので細かく調べれば移動可能。車がある方が自由に動けますね。

ALSAのアストゥリアスの時刻表のページに飛びます。出発地と目的地を入れる       < https://www.alsa.es/destinos/asturias.htm>

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まとめ

スペインは意外と山岳国で国内に険しい山脈が連なっている。今のような交通機関が発達していなかったころに山の中でそれぞれの文化が熟成していったので一つの国に沢山の国が有るようだと言われる。アストゥリアスは自然の景観の綺麗な素朴な地域。ピコス・デ・エウロパやコスタベルデはスペイン人に人気のデスティネーションです。フラメンコや闘牛以外のスペインも是非とも楽しんでください。buen viaje!

 

 

セゴビアの歩き方。2000年前の水道橋と白雪姫のお城<行き方とモデルコース付き>

ポエニ戦争の後イベリア半島はローマの支配下にはいり国中に街道がめぐらされ街が作られた。19世紀にスペインで使われていた橋はすべてがローマ時代の物だったというのは驚き。2000年も耐えうる石の建築を現代の私たちは創ることが出来るのか。今も多くのローマの水道橋を地中海沿岸諸国で見ることが出来るがセゴビアの水道橋(世界遺産)ほど美しいモニュメントは他にはない。マドリードから簡単にアクセスできるのだから是非とも見て帰ってください。セゴビアの街(世界遺産)はコンパクトで歩けるサイズです。モニュメントが沢山有りますが水道橋だけで帰っても良いくらいです。

セゴビア

1・行き方はバスか新幹線か現地各社のツアー

それぞれメリット・デメリットがあります。マドリードからセゴビア間バスは1時間から1時間20分かかりますが頻繁に出ていて予約もいらない。セゴビアのバスターミナルは水道橋から徒歩5分の所です。新幹線は30分で着き快適ですが本数が少なく予約が必要。到着駅もセゴビアの街から離れているのでタクシーか路線バスに乗る必要があります。現地各社ツアーはアビラ・セゴビア終日で効率よく回ってくれる。日本のエージェントでガイドの説明を聞きながらの半日ツアーをやっていいるので各社に問い合わせてください。

<バスの場合>metro6号線 moncloa モンクロア・バスターミナル

メトロ6号線モンクロアに着くとterminal de autobusと書いているほうに進む。バス会社Sepuvedanaで1時間か1時間15分でセゴビアまで(直行と途中止まるルート)でWi-Fi付きのバスです。

バス会社ホームページ 日本語 https://lasepulvedana.es/rutas-horarios.php

<新幹線の場合>

マドリード、チャマルティン駅から新幹線で30分。2017年現在本数が増えていて頻繁に出ています。

スペイン国鉄のホームページ出発地目的地を入れて検索して下さい。http://www.renfe.com/viajeros/

 

2・セゴビアに着いたら

セゴビア・バスターミナルから

セゴビアバスターミナルを出ると商店街通りを少し歩くと水道橋が見えてきます。どっちかわからない場合は「アクエドゥクト?」と街の人に聞きましょう。水道橋のたもとにインフォメションがありそこで街の地図を無料でもらうことが出来る。(中にお手洗い20セント)

正確にはセゴビアの水道橋がある広場の名前は <プラサデアソゲホ><Plaza de azogejo>

 

セゴビア・レンフェの駅から

タクシー又は路線バス(11番)で水道橋迄15分、(12番)のバスでバスターミナルまで15分。タクシーの場合先にお城の見えるところ<mirador alcazar de fuencisla>まで行ってお城の写真を取り同じタクシーでお城まで(すごい登りなので)行くと無駄が無い。

3・セゴビアの歩き方

<モデルコース>

セゴビアは町がコンパクト。水道橋とアルカサール(セゴビア城)の間に旧市街。歩いて回れるけどセゴビア城が見えるところはタクシーを使うことをお勧め。アルカサール(セゴビア城)は白雪姫のお城のモデル。内部より外からが絵になるので是非ミラドールまで行って写真を撮りましょう。

水道橋の横の階段を登って行くと水道橋の最上部レベルから見ることが出来る。(水道橋の上には登れない。)上まで登るのがつらい場合はインフォメーションの上からでも充分いい写真が撮れる。その後タクシー(タクシー―乗り場は水道橋の向こう側)でアルカサールの見える広場まで行き(Fuensisla mirador de Alcazar-フエンシスラ ミラドールデアルカサール)タクシーは待たせて写真(un momento para foto-ウン モメント パラ フォトー写真撮るから一瞬待って)その後タクシーでアルカサール(セゴビア城)まで行って(お城は崖の上)タクシーは終了にすると激しい登りを歩かなくて済みます。アルカサール入場後水道橋まで旧市街を散策しながら20分ほどで戻れます。

もし時間がいっぱいあってタクシーにそんなに乗りたくなくて「歩きますッ」という場合は水道橋から旧市街をマヨール広場―大聖堂ーアルカサール(セゴビア城)―下り20分でミラドール(お城が見える広場)ーまた登り20分でアルカサール(セゴビア城)ーバスターミナル又は鉄道駅(アルカサールを出て右側の城壁沿いを歩くと同じ道を通らずに20分位でバスターミナルまで行けます)

4・モニュメント

<セゴビア水道橋>

セゴビア水道橋

 

 

2000年も前にローマ人が創った水道橋。両側の丘と丘を結び水道管を渡すための物。石と石の間に接着剤は使われていない。17キロ離れた山から上水道を引くために作ったものでほとんどは地中を水路が通っているが丁度ここは谷になっているのでこの高さの橋が必要だった。

セゴビア水道橋について詳しくははこちらに書いています <セゴビア・ローマの水道橋>

水道橋の横の坂道を(インフォメーションの階段のある反対側)上って行くと10分くらいで導入部まで行くことが出来ます。坂を上ると水道橋が低くなって行きもう少しで上の水路が見えそう。

セゴビア水道橋

<セゴビア旧市街も世界遺産>

セゴビアは街も世界遺産で散策が楽しい。中世の街並みが残っていてそこで暮らしている人々の生活感も楽しめる。文房具屋さんや食材屋さんなども見ながらの散策。15世紀頃の邸宅や貴族の家牢獄や教会等を見ながらセゴビア城(アルカサール)まで1,5キロ20分から30分で歩けます。

<15世紀の貴族の家・とげの家>

とげの家

<サンマルティン広場>

サンマルティン広場

サン・マルティン広場はセゴビアで一番中世のムードが残っている広場。横にある教会はロマネスク様式のサンマルティン教会(12世紀)は今も現役の教区教会。柱頭の彫刻が少し摩耗しているが聖書の場面や魑魅魍魎の生き物たち。

<右側がサンマルティン教会・奥にセゴビア大聖堂の尖塔が見える>

サンマルティン教会

<マヨール広場>

セゴビアのマヨール広場は大聖堂が綺麗に見える。お土産物屋やカフェなどがありお天気がいいとテラスでお茶もいいです。ここにもセゴビアのインフォメーションと公衆トイレがあります。

<セゴビア・マヨール広場から大聖堂>

セゴビア大聖堂

 

<サン・エステバン教会>

サンエステバン教会

 

サン・エステバン教会は13世紀後期ロマネスク。セゴビア大聖堂ができるまではこのあたりで一番高い塔で遠くからくる旅人の目印だった。53メートルで形も美しいのでスペインに数々有る教会の塔でも女王と呼ばれる。

<サンミゲール教会>

セゴビア大聖堂を背にして右手の方にサンミゲール教会。イサベル女王が戴冠式を行った教会。入口の横にスペイン語で1474せ年12月13日イサベル女王戴冠と書いてある。

<セゴビア大聖堂>

スペインで最後に作られたゴシック様式の大聖堂。内部は広々としている

 

<セゴビア大聖堂内部>

セゴビア大聖堂内部

セゴビア大聖堂から5分ほど歩くとアルカサールへ

<アルカサール・セゴビア城>白雪姫のお城

セゴビア城はディズニーの白雪姫のアニメの中に出てくるお城のモデルだと言われている。外側のメルヘンな感じと中は随分ムードが違い堅牢な城郭。中には甲冑やイサベル女王の肖像画、王座の間等楽しめる。内部は写真可(フラッシュ不可)。

<アルカサール・セゴビア城>

アルカサール

切符売り場は向かって左側の別の建物内。一番上の塔まで登る場合は別料金。

 

 

<フエンシスラのミラドールからアルカサール「白雪姫のお城」が展望できる>

白雪姫がここに住んでいたわけではなくウォールとディズニーがアニメを作るときに白雪姫の物語にふさわしいお城を探して旅をした。この「お城がぴったりだ!」とアニメの白雪姫のお城のモデルに使った。

セゴビア城

アルカサール
<エスグラフィアード>

セゴビアの街の家をよく見ると壁に綺麗な装飾が入っている。これらの漆喰に彫刻でほられている装飾をエスグラフィアードをいう。幾何学模様がほとんどでイスラムの影響がみられる。

エスグラフィアード

 

5・食事<子豚の丸焼き>

コチニージョ

名物料理は子豚の丸焼き<コチニージョ>。生後21日までの子豚をオーブンで焼き上げる。雑食していない子豚は母豚のミルクしか飲んでいないので肉が柔らかくミルクの味と言われる。街の中のあらゆるところに専門店。

<有名なのはこの2店>

有名なのはEl Candido 水道橋のすぐ横。Jose Maria は地元の人に人気。それ以外にも街にはたくさん子豚料理の店が並ぶ。どの店もほかのお肉屋、魚料理、野菜もあるので同伴の人が子豚を食べたくなくても大丈夫です。

<バルで簡単にだったら>

レストランでの注文は前菜・メイン・デザートとコースで頼むのが掟。時間もかかり量も多いので少しだけ味見したい場合は水道橋の横の登り坂沿いにバルで単品で子豚を頼める店が2件。2人で「子豚の丸焼き」一皿を頼んで飲み物でも大丈夫です。

トリップアドバイザーでレストランや観光モニュメントの口コミが見れる             TripAdvisor (トリップアドバイザー)

<まとめ>

マドリードから近くにある世界遺産で日帰りも可能だし一泊できればなお楽しめる。ローマの水道橋はヨーロッパ中で見れるがこれほど完璧で美しい水道橋はあまりない。そして街も中世のムードが残っていて白雪姫のモデルになったお城<アルカサール>や騎士の館、教会等街が世界遺産、綺麗でこじんまりしているので散策するのに最適です。