マドリードの中心部バスク料理人気レストラン<ピミエント・ベルデ>

マドリードのバスク料理レストラン<ピミエント・ベルデ>を紹介します。バスク料理店は有名店や超高級店が多い中ここは割とリーズナブルなお値段でお食事が出来る。そしてなんといってもマドリード中心部にあるのが便利で魅力。マドリードの中心部のレストランはツーリスティックなところが増えていて値段ばかり高くなって安心して楽しめるところが減って来たのが事実。ここで紹介するピミエント・ベルデはマヨール広場すぐ横に有りながら地元民マドリレーニョがやって来るバスク料理レストランです。

レストランの場所はサン・ミゲール市場すぐ横

レストランの場所はマドリードを旅行中なら誰もが訪れるマヨール広場すぐ近く、サン・ミゲール市場のすぐ横にある。この辺りは観光客が非常に多い地区でレストランもツーリスティックなところが多く味もサービスもちょっとおざなりになりがちな中、頑張っているレストランも実は結構ある中のひとつ。

レストラン外観
筆者撮影、マドリード中心部レストラン

セントロ(中心部)のピミエント・ベルデは店舗が小さいのでできれば予約を入れていきましょう。今回私たちは予約せずにやって来て13時30分頃に訪れたら最後の一席が残っていました。土曜日というものあって賑わっていて遅い時間、15時とか15時30分になるとスペイン人が大勢やって来る。ピミエントベルデはプリンセサ地区やサラマンカ地区にも店舗がありマドリードに合計4店舗。以前プリンセサ地区のピミエント・ベルデに行った時もほぼ満席でした。

レストラン店内
ピミエント・ベルデ

座席に着くと早速ピンチョが出て来た。クロワッサン地のパンにチーズとハムが挟まって焼いてあるガッツリ系。これでかなりお腹がいっぱいになる。

前菜
筆者撮影、前菜

カルタ(メニュー)はスペイン語の下に英語が書いてある。

ピミエントベルデのメニュー
筆者撮影、マドリードレストラン

お店の名前ピミエント・ベルデのピミエントはピーマンの事でベルデは緑。緑のピーマン。グリーンペッパーです。

お皿の模様
筆者撮影、ピミエントベルデのお皿

ワインはリベラ・デ・ドゥエロのクリアンサをボトルで頂くことに。19,50€

ワイン
筆者撮影、マドリード・レストラン

人気メニューはアーティチョーク、チュレトン・デ・ブエイ、アンコウ、お米料理などなど

メニュー
筆者撮影、アーティチョーク

今日は人気メニューのフローレス・デ・アルカチョファFLORES DE ARCACHOFA(アーティチョークのお花)を前菜にいただきました。とっても綺麗にお花の形になっていてこれどうやって調理したんだろう。お店の人が全員忙しそうでとても聞けるムードではなかった。

前菜アーティチョーク
筆者撮影、アーティチョークのお花

アーティチョークはスペイン語ではアルカチョファ。デトックス効果が高くポリフェノールの一種シナリンやカリウム、マグネシウムを多く含むが生を自宅で調理するのはとっても面倒な野菜、というか私は買ったこともない。

アーティチョーク
筆者撮影、アーティチョーク

もう1つ前菜をシェアー。随分悩んで野菜とエビのボック味噌風味。中華料理みたいでしたが美味しかった。ボック(WOK)は大きな中華鍋の事で強火で炒めた料理をいう。

野菜とエビのボック
筆者撮影、野菜とエビのボック

メインはチュレトン・デ・ブエイが食べたかったけど最低2人分からで今日の私たちにはとても無理な感じなのでフォアグラが乗ったソロミージョのペドロ・ヒメネスソース添えをシェアー。ペドロ・ヒメネスは甘口のシェリー酒。ソロミージョはサーロインの事。焼き加減を聞いてくれたのでメディオ(ミディアム)で。

ソロミージョとフォアグラ
筆者撮影、マドリードレストラン

お米料理や魚料理もあってどれも美味しそう。どんどん出ていくお皿がどれも魅力的で又来ますと心に決めた。でもデザートは食べて行こう。別腹。

大好きなチーズケーキで迷ったがバスクのデザート、パンチネータを頼みました。ミルフィーユのバスク版です。

パンチネータ
筆者撮影、マドリードレストラン

では精算お願いしま~す。ラ・クエンタ・ポルファボール。合計84.10€でした。ワイン飲んだしね~。ワインをボトルで飲まないともう少し安く上がります。

請求書
筆者撮影、

 

ピミエント・ベルデのデータ

ここで紹介したのは中心部のサンミゲール市場のすぐとなり。サラマンカ地区に2店舗とプリンセサ地区に1店舗あるので都合が良い所でどうぞ。

住所:Call Conde de Miranda 4

電話:915764135

時間:13時~00:00

中心部の店名は英語でザ・グリーン・ペッパーで登録されていました。

下はレストランのホームページ

<http://www.elpimientoverde.com/>

 

少しだけ残念だったのは働いているホールの人達が外国人ばかりで忙しすぎててんてこ舞いな感じが伝わって来た事。スペインのちょっとだけ良いレストランに行くとプロのメートレ(ヘッドウェイター)と話しながらメニューを決めたり質問したり、指令系統がちゃんとしたお店だと絶妙のタイミングで次のお皿が出て来て感心する事度々なのですが、中心部なので仕方が無いのかもでした。土曜日のお昼だったので特別忙しいというのも有ったと思います。それらも鑑みてもとってもおすすめレストランです。

 

 

キャンピングカーの週末小旅行、サント・ドミンゴ・デ・シロスのグレゴリオ聖歌とログローニョのお祭り。

リオハのログローニョがお祭りらしい出かけよう、ついでにサント・ドミンゴ・デ・シロス修道院のグレゴリオ聖歌を聞きに行くのだ~と急に決めて出発した。9月の週末2泊3日私たちのキャンピングカーの旅の記録。

9月15日マドリードからサント・ドミンゴ・デ・シロス228キロ

15時出発。午前中夫の仕事が終わるのを待ちお弁当を作って今回は久しぶりに北に向かうブルゴス街道。あ、今日は土曜日だった。まだ9月の夏休みの人達が出かける時期、お天気は快晴。

ブルゴス街道
筆者撮影、サント・ドミンゴ・デ・シロスへキャンピングカーの旅

実はもう少し早く出発する予定が充電器探しに時間がかかって遅くなる。探し物をしている時間が私の人生のほとんどだ。

ブルゴス街道をしばらく走ると山、スペインはどちらに走っても山だ、グアダラマ山脈を超えてカスティーリア・レオン州へ。

街道
筆者撮影、キャンピングカーでサントドミンゴデシロスの旅

ソモス・シエラの1400メートルの峠を超えカスティーリア・レオン州に入る、と、突然大雨、それもびっくりする程の豪雨。2分くらいの雨の中を走ったおかげで車が綺麗になった。

街道
筆者撮影、サント・ドミンゴ・デ・シロスへ

ブルゴス街道から州道に入って途中カレルエガの村へ寄ってみる。スペインの最も美しい村のひとつに選ばれた事があるらしい。サント・ドミンゴ・デ・グスマンが12世紀に創設した修道院がある街。紛らわしいが今日行くサント・ドミンゴ・デ・シロスの聖ドミンゴとは別の聖人。

カレルエガ
筆者撮影、カレルエガ

小さな街に大きな修道院、スペインでは良くある事だけれど村より修道院がうんと大きい。カスティーリア・レオン州はレコンキスタの中心、激戦地域でイスラム教徒から奪い返した土地に教会や修道院が作られキリスト教徒が入植して街を作って行った。丁度エル・シドが活躍した時代の修道院です、が入場はしないで前に進みます。

カレルエガの街
筆者撮影、カレルエガ

 

カスティーリア・レオンはどこまでも平らで大きい。畑が続きぶどうからヒマワリに変わった。

街道
筆者撮影

平らな景色から次第に山に入りまず目指すのはジェクラ渓谷。

街道
筆者撮影

カーブが続いてそろそろかな~と思っていたら突然着いたみたいで標識も案内板も無い。トンネルを越えて行き過ぎてもう一度戻って車を止める。

ジェクラ渓谷入り口
筆者撮影、ジェクラ渓谷

 

戻って行ってトンネルの手前に結構大きな駐車場、もちろん無料。スペインはどこも無料の駐車場が多くて、人を雇うより安いからなのかと思うが、めんどくさいのが本音かも。

ジェクラ渓谷
筆者撮影ジェクラ渓谷

(写真下)BAJADA A LA YECLAバハーダ・ア・ラ・ジェクラ、ジェクラへの降り口の文字が壁に書いてある。ここを右下に降りていく。

ジェクラ渓谷
筆者撮影、ジェクラ渓谷

1キロ位に渡ってジェクラ河に浸食された渓谷に遊歩道が作られている。

ジェクラ渓谷
筆者撮影、ジェクラ渓谷

大人ひとりがやっと歩けるほどの幅の切り立った崖になっているが遊歩道なので歩くのは普通の靴で問題ない。向こうから人が来たら少し広い所ですれ違う。

ジェクラ渓谷
筆者撮影、ジェクラ渓谷
ジェクラ渓谷
筆者撮影、ジェクラ渓谷

最期まで歩いて約15分くらい、帰り道は上に登ってトンネルの中を歩くものありだけど同じ道を戻る事にしよう。近くを歩いていた人達もどうやら同じ考えみたいで戻って来た。もうここから目指すサント・ドミンゴ・デ・シロスは3キロほど。

サント・ドミンゴ・デ・シロスへの街道
筆者撮影、サント・ドミンゴ・デ・シロスへ
<サント・ドミンゴ・デ・シロス>

ブルゴスから60キロ程南にある小さな街。元々修道院が有ったようだが10世紀にコルドバのアルマンスールにより破壊され街は荒れ果てていた。11世紀にリオハのサン・ミジャン・デ・コゴージョの修道士ドミンゴによりこの荒廃した修道院は修復された。19世紀の永代財産解放令により再び荒廃したがフランスからのベネディクト会の修道士たちがやって来て再び修道院は復活し今に至る。

 

サント・ドミンゴ・デ・シロスの街の手前に無料の駐車場、ここに車を止めて城壁沿いを3分程歩いていく。

サント・ドミンゴ・デ・シロス
筆者撮影、サント・ドミンゴ・デ・シロスへ

ここで有名なのは修道院のロマネスク回廊とグレゴリオ聖歌のミサ。ロマネスクの回廊は今日はもう閉まっているのでサン・セバスティアン教会へ。19時30分のミサが始まるので早速入りましょう。中は残念ながら写真は禁止。ミサは参列者が随分がいたが私たちの様な観光客っぽい人が多く途中で出ていく人も。20人程の修道士たちはそんな事全く気にしていない、というかまるで誰も参列していない様な独特の世界を作り上げていてグレゴリオ聖歌のミサは執り行われた。私が知っている教会のミサとは違って司祭がワインを飲んだり参列者に聖体拝領も無いミサだった。

 

シロスのサンセバスティアン教会
筆者撮影、サント・ドミンゴ・デ・シロス

夕食はお弁当の残りで済ませ夜のミサは21時。昼間と違って地元の人が多く静かなミサ、夕刻のミサとは別のグレゴリオ聖歌が歌われやはり修道士は20人ほど。同じく参列者の事などは気にしていなくワインも聖体拝領も無い、ミサのやり方は少し違って香炉の煙を最初に修道士たちに向けて、その後参列者の方にも。なんだか有り難い感じでした。

夜の教会
筆者撮影、シロスのサンセバスティアン教会

9月16日 サント・ドミンゴ・デ・シロスからログローニョへ199キロ

早朝のミサは6時から。夫は昨日から行かない宣言していたのでひとりで行って来た。私を入れて6人の参列者で祭壇の方に手招きされた。私以外の来ていた人達は慣れた様子で前の祭壇の聖歌隊席へ進んでいく。私は遠慮しようとしたら再び手で招かれたので仕方なく祭壇の方へ進んで修道士の方々と同じ聖歌隊席へ上がった。「日曜日の早朝だから?「」何が始まるの?」と心臓の音が教会中響くんではと思うほどドキドキした。誰にも質問も出来ず誰も何も話さない、聖歌が書かれた紙を渡されて約1時間程のミサは進行して分からないまま歌を歌った。音が頭の中をぐるぐる回り独特の感覚、一生忘れない体験になった。教会を出た後も頭の中でグレゴリオ聖歌が鳴っていた。

次のミサも参加しよう次は9時から、と思っていたら8時だったみたいで行ったら終わっていた、これは残念。仕方ないのですぐそこの丘に登って行く。(修道院のホームページと実際の時間が違ったので行く方は再度現地で最確認してください。教会の入り口内部に書いてあります)

サント・ドミンゴ・デ・シロスの丘へ
筆者撮影、サント・ドミンゴ・デ・シロス

登り坂に十字架が置いてあってゴルゴダの丘の再現なのかもしれない。丘の上には小さな礼拝堂と聖母像が有った。

筆者撮影、サント・ドミンゴ・デ・シロス
筆者撮影、サント・ドミンゴ・デ・シロス

10分くらい登ると丘の上から街が見渡せる。街より修道院の方がうんと大きい。

丘の上から修道院
筆者撮影、サント・ドミンゴ・デ・シロス

次のミサは11時、ネット上は12時になっていて危うく見逃すところ。日曜日の11時のミサの参列者は地元の人が多く静謐なムードで行われた。ワインも聖体拝領も寄付金の袋も回って来る長いミサだった。毎日ことごとく決まりに従って行われていて1年間位通ったら色々な事がわかるかも、と思った。4回ミサに通って毎回歌われるグレゴリオ聖歌は違ってミサのやり方も違い決まりに従って荘厳に執り行われた。マドリードに戻ってこれを書いているが頭の中でまだグレゴリオ聖歌が鳴り続けている。

 

ミサが終わり次はロマネスクの回廊を見に行く。修道院の回廊は日曜日は12時から13時半までしか見れない。ミサが終わって直ぐに回廊の方へ移動したらもう既に沢山の人が入った後のようだった。

サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院
筆者撮影、サント・ドミンゴ・デ・シロス

スペイン語で説明を聞きながらここの修道院のガイドさんと回る。この回廊は以前2度来ているが大抵の修道院やお城のガイドさんの説明は人によってかなり違って当たりはずれがある。日本の様なマニュアルなんてないと思う。そしてここはあまり面白かった記憶が無い。というかよく意味が解らなかったナ~と思いながら順番が来るのを待った。ミサに出ていた若い修道士のひとりが私たちの担当の様で案内されクラウストロ(回廊)に20人くらいで移動。外国人(英国人?)に丁寧に「説明はスペイン語なので自由に回って貰っても大丈夫」と英語で言っていた。最近の修道士は英語もうまいんだと感心、語学留学とか行ったんだろうか。そして説明は面白かった。修道士目線で、でも堅苦しくは無くて興味深く言葉に心が通っていた。

サント・ドミンゴ・デ・シロス
筆者撮影、サント・ドミンゴ・デ・シロス

ここの回廊の彫刻家の名前はわかっていない。2人の別の人物=マエストロによって創られ最初のマエストロの方が技術的に素晴らしい。

サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院回廊
筆者撮影、サント・ドミンゴ・デ・シロス

写真下は有名な「エマオの道」12世紀とは思えない技法で衣装の透明感やイエス・キリストの振り返った感じや話しかける弟子の動きなどが素晴らしい。瞳には石が入っていたそう。

サント・ドミンゴ・デ・シロス回廊
筆者撮影、サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院

イエスキリストの埋葬と聖トーマスがキリストの傷に指を入れる場面

サント・ドミンゴ・デ・シロスの回廊
筆者撮影、サント・ドミンゴ・デ・シロス

午後のミサに行くか少し悩んだ、がもういい事にしてお昼はラーメンです。グレゴリオ聖歌とラーメン、えらいギャップです。

キャンピングカーでラーメン
筆者撮影、キャンピングカーでラーメン

さてログローニョのお祭りへ行きましょう。ここから175キロ、ぶどう畑が続く中をドライブ。

 

ぶどう畑
筆者撮影、シロスからログローニョ

リオハ州はログローニョ県しかない小さな州でもちろんリオハのワインの産地。

ログローニョへの街道
筆者撮影、シロスからログローニョ

秋のぶどうの収穫祭サン・マテオ祭り、サンマテオの日は9月21日で一番盛り上がるらしいが仕事が有るので仕方がない明日は帰る。泊まるところはあらかじめ夫のキャンピングカーの旅のバイブル=FURGOで調べた川の横の大きな無料駐車場。キャンピングカーも沢山来ていてここに止めた。しばらくしたら満杯になったので早めに来ておいてよかった。

ログローニョ駐車場
筆者撮影、ログローニョ

中心部へ移動したらもうすでに盛り上がっていて太鼓の音で頭の中のグレゴリオ聖歌は消えて心は一気にヒートアップ。

ログローニョのお祭り
筆者撮影、ログローニョお祭り

 

太鼓の音は自分の中の原始的な何を奮い立たせる気がする。復活祭に太鼓を夜通し叩く村が有るけど、そこのグループなのか?リオハは太鼓が有名なのかまた調べてみる事にします。

ログローニョお祭り
筆者撮影、ログローニョお祭り

 

ムリエタ広場で「煮込み料理が無料」書いてあったので行ったら既に鍋は空っぽ。スペイン人に絶対かなわない事「無料の時の根性」。からっぽの鍋を見てがっくりして次へ移動。

ログローニョお祭り
筆者撮影、ログローニョお祭り

ではバル街へ行こう。「ラウレル通り」にバルが沢山あるらしいのでグーグルマップを頼りに行くとすごい人。楽団も来ていてどこのバルも賑やかだ。

ログローニョお祭り
筆者撮影、ログローニョお祭り

「カーニャ」(小さいコップのビール)と頼んだら大きなビールが来た。お店の人に聞いたらマドリードのカーニャはここではコルトと呼ぶらしい。

ログローニョ、バル街
筆者撮影、ログローニョお祭り

ピンチョをいくつか頼んで移動。

ログローニョ、バル
筆者撮影、ログローニョお祭り

3軒目のバルはみんなこれソロミージョを頼んでいた(写真下)。手前は岩塩で焼きピーマンとサラダ付きで3ユーロ60セント。どこもピンチョのレベルが高いのはバスクが近いからに違いない。サン・セバスティアンまで行かなくてもログローニョで充分ピンチョ巡りが楽しめることが分かった。値段も安くてお店の人がみんなとても感じが良くてログローニョ目茶気に入りました。

ログローニョのバル
筆者撮影、ログローニョのバル

明日は平日らしいがお祭りはまだまだ続く。私たちはもう沈没です。歩いて駐車場へ。おやすみなさい。

9月17日、ログローニョからソリア経由でマドリードへ

朝起きたら車が殆ど無くなっていて街はもう動き出していた。お祭り楽しくてまだ今日もいたいけど明日は仕事だ、帰らなければ。

キャンピングカーで泊まった駐車場
筆者撮影、ログローニョ

「エッ?」とビックリしたのはここでハンモックで寝ている人がいた。スペイン人はやらないと思うのでどこかよその国の人?。駐車場でテーブル出したり椅子出したりはスペインでは禁止で警察が来たら罰金です。

ログローニョの泊まった駐車場
筆者撮影、ログローニョ

車はドイツナンバーだけど「ドイツ人ではありません」と書いてあった。ある意味深い。

ログローニョの泊まった駐車場
筆者撮影、ログローニョ

ではマドリードに向かいましょう。ここからはソリアに向かって走って行く。この街道は初めて通る凄い景色だ。

ソリアへ向かう街道
筆者撮影、ソリアへ

山を切り開いて道路が出来ていて山の上に時々村が見え隠れする。

ソリアへの街道
筆者撮影、ソリアへ

そして暫く走るとどこまでも平らになるカスティーリア・レオン。

ソリアへの街道
筆者撮影、ソリアへ

途中ソリアの手前、ヌマンシアに寄って帰ろうと遺跡に登って行ったら今日は月曜日でお休みでした。ヌマンシアはローマ人が来た時に最後まで抵抗して8か月間の籠城戦の後、自ら街に火を付け力尽きた街。以前来たときは入り口は無く勝手に入れた記憶が有るけど有料になったみたい。見るのはその後のローマが作った遺跡だし・・・と負け惜しみ。月曜日はみんなお休みなんです。

ヌマンシアの遺跡
筆者撮影、ヌマンシア

ソリアで少し散策して帰る事にした。いつも通過してしまう街だ。ロマネスクの教会が残っていてここはサントド・ミンゴ教会。

ソリア、サントドミンゴ教会
筆者撮影、ソリア

入り口のタンパンに見事にロマネスク彫刻が残る。しばらくふたりで口を開けて見とれた。

ソリア、サントドミンゴ教会
筆者撮影、ソリア
サントドミンゴ教会のタンパン
筆者撮影、ソリア

ソリアの街の中心部へ歩いてバルで朝食。スペインでは良く食べ物にフォークが刺さって来る。トルティージャ・エスパニョーラとコーヒーで2ユーロ40セント。

バルで朝食
筆者撮影、ソリア

その近くのサン・ファンデ・ラバネラ教会も一部ロマネスク。

ソリア、サンファンデラバネラ教会
筆者撮影、ソリア

丘の上に登って行くと教会が有った。

丘の上の礼拝堂
筆者撮影、エルミータ

ドゥエロ河が見える展望台になっているところから町が綺麗に見えてアントニオ・マチャードに捧げた碑。

丘の上から
筆者撮影、ソリア

アントニオ・マチャードは19世紀の終わりから20世紀の初めのスペインの詩人で生まれはセビージャだがカスティーリア地方の雄大な美しさを詩に書いている。この丘によく登って来たらしい。

ソリアの丘からドゥエロ河
筆者撮影、ソリア

サン・ファン・デ・ドゥエロにはイスラムの影響を受けた回廊が有るらしいがここも月曜日はお休み。サン・サトゥリオの僧院も閉まっているけど1キロ程川のほとりを歩いてみた。

ソリアの景色
筆者撮影、ソリア

修道士サンサトゥリオが瞑想した岩の上に僧院があって中は18世紀のフレスコ画が有名らしい。また機会があれば戻って来ましょう。

ソリア
筆者撮影、ソリア

さあ帰りましょう。ここからマドリードは230キロ程。マドリードで家の近くのテラスで無事帰着のお祝いをして終了。

 

使ったお金ガソリン代70€、その他65€

合計135€

走行距離 554キロ

という私たちのキャンピングカーの旅の記録でした。

 

マドリード国立考古学博物館でスペインの歴史を堪能。私のお勧め度100%の博物館です。

 

マドリードに美術館や博物館が沢山あるが私が個人的に一番好きなのがここで紹介するマドリード国立考古学博物館。名前が堅苦しいので敬遠されがちだが素晴らしい王家のコレクションで先史時代からフェニキアやカルタゴや古代ローマ、中世キリスト教美術、イスラム芸術、等が一同に展示されていてここでスペインの歴史を一気に楽しめる博物館です。入場料はたったの3ユーロ、いつも比較的すいていて場所もセラーノ通りのコロンブス広場のすぐそばなのでショッピングのついでに軽く立ち寄ってスペインの歴史や古代や中世美術を堪能しませんか。

マドリード国立考古学博物館


 

国立考古学博物館
筆者撮影

<マドリード国立考古学博物館の歴史>

マドリードの国立考古学博物館は王家所有の考古学コレクションを保管する目的でイサベル2世の命で1867年に設立された。スペインの歴代の王達の膨大なコレクションを整理分類展示するため1892年コロンブスのアメリカ航海400年祭に合わせて完成。近くのコロンブス広場やコロンブスの塔もその時の物。2008年から閉館していたが2014年に改装工事が終了し再オープンした。改装工事の設計はマドリードの建築設計事務所FRADE ARQUITECTOによる。広々した斬新な設計です。

国立考古学博物館場所:Calle Serrano,13 コロン広場すぐ横

時間:9時半から20時、日曜日9時半から15時

休館日:月曜日

アルタミラ洞窟模型

アルタミラの洞窟の模型は国立考古学博物館建物の手前の入り口から降りていくが入場券が必要なので一旦博物館内へ入り入場券を手に入れてから入る。

<アルタミラ洞窟の模型の降り口はこの牛のマーク>

マドリード国立考古学博物館
筆者撮影
アルタミラについて少しだけ

北部スペイン、カンタブリア地方にある洞窟壁画。約2万年前(一説にはもっと前)の旧石器時代の人間が洞窟の天井に牛や鹿を生き生きと描いている。旧石器時代の人間は本能的で「生きる」事のみをを主体に生活していたと考えられていたがアルタミラの発見で当時の人間のエステティカ=美学が見直された。

マドリード国立考古学博物館
筆者撮影

自然の岩の凹凸を利用して生き生きと沢山のビソンテが動いているように描かれている。マドリードの国立考古学博物館のレプリカは非常に良く創られているので是非入ってみてください。(カンタブリアのアルタミラの洞窟も本物は現在入場はほぼ不可能で現地で入場するのは完璧に再現されたレプリカを見学する)

マドリード国立考古学博物館館内


建物の中に入ると広々としたホール。インフォメーションで無料の内部地図をもらえる。真っ直ぐ進むと切符売り場。

国立考古学博物館
筆者撮影

入って右側にインフォメーションデスクがある。

国立考古学博物館
筆者撮影

 

<国立考古学博物館内部>

歴史の時代ごとに展示されており0階1階2階と全部見るか、又は目標を決めて見たい時代へ直行。(0階が日本の1階・地上階になる)

0階=先史時代

1階=原始時代、イベリア半島古代フェニキア、タルテッソス、ローマ等

2階=中世キリスト教、ギリシャ、エジプト

 

0階(地上階)は先史時代の歴史

絵画や映像を使って人類の発展の様子が展示されている。先史時代から旧石器時代、石器時代、青銅器という風に時代ごとに展示されている。PREHISTORIA=先史時代というのは大雑把に言ってしまうと文字を持つ前の人類。

国立考古学博物館
筆者撮影

写真下はアウストラピテクス・アファレンシス。猿人で約390万年前から290万年前に存在した化石人類の人骨の模型。

国立考古学博物館
筆者撮影

通称はルーシーで1974年にエチオピアで発見された化石人骨。ルーシーと言う名前は当時流行していたビートルズの「Lucy in the sky with daiamons」から取られた。全身の約40%にあたる骨がまとまって見つかったケースで有名。2足歩行を始めた私たちの祖先だ。

私たちの祖先が2足歩行をはじめ道具を使い脳が大きくなって次第に食べるだけじゃなくて祈る事をはじめ、死んだ人を敬い死んだ後困らないように副葬品を墓に入れ、畑を耕して家畜を飼い衣服をこだわりお椀に模様を書いて武器を強くして行った過程を見ていくと、人間の心はそんなに変わっていなくて技術が進歩しただけ、と感じる博物館です。

猿人
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館

 

<マンモス象の牙や巨大な鹿の角等>

国立考古学博物館
筆者撮影

 

人間がどのように道具を発展させて進化してきたか、生きていくために工夫して発展して来た様子が時代を追って楽しめる。最初は単純な石を丸くしたり尖らせたりしていたものから焼き物の壺を作り食物を保存するようになった。

石器時代
筆者撮影、マドリードの国立考古学博物館

生きる為の食べるものから精神世界に必要な小さなお守りの様なものを創ったり、文字や絵を掘って記録を残すようになる

道具
筆者撮影、マドリードの国立考古学博物館

石器時代から青銅器時代と時代順に展示されていて次第に道具だけではなく綺麗な物や付加価値が付いたもの、副葬品や宗教的な物が出てくる。いつの時代も「死」は大きな問題だったなあと思う。

 

<目の付いた偶像・紀元前3000年>

目の付いた偶像
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館

手のひらに乗る小さなものでアップにするとこんな感じで愛嬌があって可愛い。

国立考古学博物館
筆者撮影

マドリード国立考古学博物館で私が一番好きなのが上の写真のアラバスタ―(雪花石膏)で作られた目が付いた偶像。紀元前3000年頃のエストレマドゥーラ地方グアダルキビール川の谷で出土。可愛い顔がジョアン・ミロの作品みたいで同じ時代に多くの目が着いた偶像が作られている。今から5000年も前の物とは思えない親近感がわくひとつ。

 

これらはおそらくテリトリーの境目に使われたようだ。下の写真も石にメッセージが掘られていて近代アートの様で楽しい。

石の偶像
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館
1階は古代からフェニキアやタルテッソス、ローマ等

上の階、1階に登るとスペインにやって来た古代の様々な民族の足跡が展示されている。フェニキア人たちは有能な商人で実力のある船乗りだった。地中海は波が穏やかで物を運ぶには内陸よりは海運の方が便利だったからフェニキア人は東地中海からエジプト、ギリシャからスペインへと物を交換して文化を伝える役割を果たす。彼らはセビージャからウエルバのあたりに銀を求めてやって来ている。下の写真はフェニキアの聖職者だがエジプトの影響がみられる。

<フェニキアの聖職者>

フェニキアの聖職者
筆者撮影、マドリードの国立考古学博物館

小さいのでアップで取ったのが下。紀元前7世紀頃の物で青銅と金でできている。カディスの聖職者と呼ばれているがエジプトの神官のようにも見えることから商人の守り神だったという説もある。

<フェニキアの聖職者の拡大>

フェニキアの聖職者
筆者撮影、マドリードの国立考古学博物館

 

<ティマテイロ・デ・カラセイテ>

写真上、ティマテイロは伝統的に香油を燃やすための入れ物と考えられていたがこの下の絵の様に宗教的な儀式で大きな入れ物を置く為の台ではないかと考えられている。紀元前675年から526年までの物で発見されたのは高貴な人物の大きなお墓から。

紀元前の燭台の絵
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館

古代のブローチ。大きな展示物が沢山ある中展示ケースの中には様々な小さな素敵な物があって古代の人達が衣服につけたブローチやベルトのバックル等も今私たちが使っている物と変わらない。

ブローチ
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館

 

写真下は「アリセダの財宝」と呼ばれるタルテッソスの金の装飾品。タルテッソスは今のセビージャあたりに存在した古王国。紀元前9世紀から紀元前6世紀頃まで栄えた王国だった。長い間伝説上の王国と言われていたが現在では実在したことが分かっている。このタルテッソスが旧約聖書に出てくるタルシュスという説もあるがなぜか突然滅びている。謎の大陸アトランティスだという説まであるが今だ謎。

<タルテッソスの金の指輪>

タルテッソスの金の指輪
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館

こちらは「カランボロの財宝」で同じくタルテッソス。1958年に土木工事をしていたら金のブレスレットが発見されその周りから沢山の金の装飾品が発見された。昔からこの辺りに宝が眠っていると村人の間では言われていたそうだ。左下の首飾りにぶら下がる丸いものはハンコになっている。

<カランボロの財宝>

タルテッソスの金の装飾品
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館

 

 

<バサの婦人像=Dama de Baza・紀元前4世紀>

国立考古学博物館
筆者撮影

写真上:バサの婦人像は紀元前4世紀の女神でセロ・デ・ロス・サントス(グラナダ県)で出土されたお墓の奉納品。石像の前に写真の様に武器とフェニキアの壺が副葬されており高貴な人物の墓だと思われる。

<ガレーラの貴婦人・紀元前5世紀>

国立考古学博物館
筆者撮影

写真上:ガレーラの貴婦人=Dama de Galeraは紀元前5世紀頃のアラバスター(雪花石膏)製のお墓の副葬品。アラバスターはエジプトで取れる石で光を通す最高級の石材。おそらくフェニキアで紀元前8世紀に作られた物。女神を現し頭の所から液体=香りの付いた神聖な油、を入れると胸から乳の様に出てくる仕組みになっていて宗教的な事に使われた。掌に乗るサイズで繊細な彫刻が当時のフェニキア人の美学を感じる。

 

<エルチェの婦人像・紀元前5世紀>

マドリード国立考古学博物館
筆者撮影

写真上:「エルチェの婦人像」はここ国立考古学博物館で最も有名な展示品のひとつ。アリカンテ県にあるエルチェで発見された為「エルチェの婦人像」と呼ばれ、紀元前5世紀頃の物。端正な顔立ち、薄い唇、綺麗な鼻筋や細かい彫刻はギリシャの影響とおそらくフェニキア的な物が含まれる。目には宝石が入っていたと想像されている。エルチェの婦人が女神なのか女王なのか司祭等神に仕える身なのかまだ議論中。端正な顔が品格があり美しい。

<オスーナの彫刻>

オス―ナの彫刻
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館

オス―ナの彫刻はセビージャ県のオス―ナで発掘された紀元前3世紀頃の物。埋葬用の物か記念碑なのかよくわかっていない。

<オス―ナの彫刻、フルートを吹く少女>

オス―ナの彫刻
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館

<オス―ナの彫刻、戦士>

オス―ナの彫刻
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館

副葬品の数々。古くから人間は亡くなった人があの世で困らない為に副葬品をお墓に入れた。足が悪い人の為に杖のミニチュアやあの世で怖い目に合ったら助けてくれる牡牛等。人間の心は昔も今もそんなに変わっていない。これらはローマ以前のイベリア半島のお墓から出土された副葬品。牛はいつの時代も良く使われる神聖な生き物。そういえば「牡牛が美しい」という感覚を持った思のはスペインに来てからだ。

紀元前のお墓の副葬品
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館

 

マドリード国立考古学博物館
筆者撮影

写真下・捧げものを持つ女性は紀元前3世紀頃アルバセテで発掘されている。宗教的な場所に置かれていたもので大抵は女性、手に何か捧げものを持っている。巫女など神とつながるのは女性の方が多いのは様々な時代共通で万国共通。

<捧げものを持つ女性、アルバセテ>

捧げものを持つ女性
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館
捧げものを持つ女性
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館

紀元前5世紀頃の牛。オス―ナの大きなお墓の側から発見されている。見張りや守りの意味が有った。

オス―ナの牛
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館

 

 

フェニキアの植民地カルタゴが次第に強力になり地中海を支配しイベリア半島にもやって来た。今はセレブの避暑地のイビサ島の丘の上にカルタゴは集落を作っている。

<イビサの婦人像>

カルタゴの女神
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館

イビサの婦人像はおそらく女神像。紀元前4世紀頃の物で鋳物。頭や服に植物が使われている。豊穣を現す。

<カルタゴのペンダント>

国立考古学博物館
筆者撮影
カルタゴのペンダント
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館

 

写真下はマジョルカ島のCosttitxの出土品で紀元前5世紀から3世紀頃の青銅製の牛の頭。地中海世界では牛は古代から神聖視されてきた動物。青銅を型にはめて創るが角の部分は別に作って接着したであろう。角の曲線と牛の顔のバランスが絶妙で美しい。これ、ほしい物のひとつ。

<コスティッの牡牛・紀元前5世紀から3世紀>

マドリード国立考古学博物館
筆者撮影

 

ローマ帝国の支配下

イベリア半島は次第にローマ帝国の支配下に入りスペイン中に道路が建設され街が作られていった。最初は沿岸地帯に街を作り内陸部に道路網を広げて橋を架け街を作り人と物が移動した。

<イベリア半島のローマ帝国時代の道路網>

マドリード国立考古学博物館
筆者撮影

<タコのモザイク・紀元後2~3世紀>

マドリード国立考古学博物館
筆者撮影

写真上:可愛いタコのモザイクはレオンの近くの村=Villaquegjidaで出土。レオンはローマ時代に作られた重要な街なので多くのローマの遺跡が今も残る。タコに何か重要な意味があったかは不明だがユーモラスなタコの表情に思わず見とれる。レオンは内陸だけど何故タコなんだろう・・・。

<漁師の道具・紀元後1世紀~2世紀>

マドリード国立考古学博物館
筆者撮影

写真上:タコのモザイクの周りにはローマ時代の道具が展示されていて青銅の漁師たちの釣りの道具、針等が展示されている。

写真下はローマ時代のポンプ。炭鉱などで水をくみ上げるための物。ローマ人が土木建築の為に使った技術は今使われているものとあまり変わらない。

ローマ時代のポンプ
筆者撮影、マドリードの国立考古学博物館

 

綺麗なガラスの入れ物。割れずに良く残ったと感心する。香水瓶や食器やコップ等はローマの貴族たちの生活がいかに洗練されていたかを感じさせる。

 

マドリード国立考古学博物館
筆者撮影

様々な大理石の彫刻。この辺りで疲れて来てざっくり見渡して次へ移動。実はスペインに古代ローマの出土品は珍しくなくてどこにでも大量に残っているので私の中で扱いが軽いのです。スミマセン偉大なローマ帝国様。

マドリード国立考古学博物館
筆者撮影

写真下はローマのモザイク。上流階級の住んだ家をヴィッラと呼び家の床をモザイクで飾った。これをどうやってここまで持って来たのか?、バラバラにしたら修復不可能なのでいくつかのパーツに分けたのかもしれないが巨大なモザイクが沢山展示されている。

マドリード国立考古学博物館
筆者撮影

ローマ人に好まれた題材でヘラクレスの12の難行。英雄ヘラクレスが様々な難行をこなしていくところが大きなモザイクになっている。

ローマのモザイク
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館

 

西ゴート(ビシゴート)王国時代

次第にローマは終焉を迎えゲルマン民族の大移動が始まる。スペインには西ゴート(ビシゴート)がやって来てトレドを首都に西ゴート(ビシゴート)王国が始まった。西ゴート(ビシゴート)王レケスビントの王冠。

国立考古学博物館
筆者撮影

西ゴート(ビシゴート)は最初はキリスト教のアリウス派だったが異端となったためカトリックに改宗する。初期キリスト教時代の十字架等が展示されている。

国立考古学博物館
筆者撮影

金銀細工に長けていた西ゴートのベルト。

西ゴートの金の装飾
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館
イスラム時代、アル・アンダルース

西ゴート王国は内紛が多く混乱していた。スペインは違うと言われるイスラム支配時代が始まった。「サモラの容器」は象牙に繊細な彫刻がされた入れ物はこの博物館の宝のひとつ。作者の名前は不明だがサモラの名人として知られていた、964年より以前の物。アラビア語でコルドバのカリフ、アルハカム2世のプレゼントと彫られている。これどうやって作った?正確に細かい唐草模様を円周に同じ比率で手で掘っている。

<象牙のサモラの容器>

象牙の入れ物
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館

繊細なイスラム芸術の数々が展示されている。イスラムの教えに偶像崇拝の禁止が有るので本来イスラム圏の芸術作品に生き物の形の物は無いがアルアンダルースのイスラム教徒は鹿とか鳥とかを作品にしている。

イスラム時代の展示物
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館

コルドバカリフ王国の時代の噴水の一部。10世紀頃の物で青銅製に金の象嵌で植物模様。おそらく対で他の動物の物があったはず。口から水が出る様になっていた。

コルドバの鹿の噴水の一部
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館

 

14世紀のアルハンブラ宮殿の巨大な壺。ハエンで作られたもので幾何学模様の彩色。今もグラナダ焼きのお皿やコップはこの色が使われる。細部に至るまで模様が描かれている。

グラナダの壺
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館

ムデハル様式:レコンキスタが進みキリスト教徒の時代になってもイスラム的な物が好んで使われた時代が有った。これは寄木細工の天井でキリスト教徒時代の物。特にトレドではレコンキスタの後もイスラムの科学者たちが重宝されていた。

 

<ムデハル様式の天井>

アラビア語風に漆喰で作った装飾。空間を植物模様や文字で埋め尽くすアラビア文化に憧れてレコンキスタの後のキリスト教徒達がアラビア風に装飾をしたものをムデハル様式という。

ムデハル
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館
中世キリスト教美術

 

8世紀から15世紀のキリスト教徒の時代の物が展示されている。

ドン・フェルナンドとドーニャ・サンチャの象牙のキリスト像。

象牙のキリスト像
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館

1063年にレオン王フェルナンド1世とその妻サンチャに捧げられた。おそらくスペイン中世最初のキリストの磔刑像つきの十字架像。それまでは十字架のみでキリスト像がある物は無かった。イエスキリストの大きな黒目がぱっちりでうつむき加減なのがすてき。アップで。

象牙のキリスト像
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館

 

足の指の細部まで丁寧に彫刻されていて足の下に逃げているような人間はおそらくアダム。後ろ側も細かい装飾が有るので見逃さないよう。

象牙のキリスト像
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館

 

それ以外にも中世のロマネスク教会の柱頭彫刻や石棺等が展示されている。

 

中世キリスト教美術
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館

十字架のキリストと聖母と聖ヨハネ。手前12世紀ロマネスク時代の物でおそらくサラマンカの教会。ロマネスク・ラブな私はくぎ付けです。

カルバリオ
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館

近代になり技術が発達し大航海時代を迎えていった。この後の展示は銃や家具やガラス器等になる。後は他でも見れるようなものなのでとっとと出口へ向かいます。

羅針盤
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館

もうひとつだけ見ておくとしたら南米からの展示品。コロンビアやペルーからもたらされたもの。征服者たちがインカやアステカから奪ってきたもので形をとどめている物は珍しいのではないか、と思ったのでパチリ。

南米からのもの
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館

最後に

マドリードの国立考古学博物館は私のおすすめモニュメント。もしマドリードが旅行の最初か最後ならここを一周廻るだけでスペインの歴史全体に触れることが出来、旅の予習か復習になる事間違いなし。素敵な彫刻や古代のブローチ等目の保養になります。時間がない場合は先史時代は飛ばして1階の古代から西ゴート、イスラム、中世と駆け足で1時間ほど見ても価値があるのでマドリードにお越しの際は是非とも時間を作って訪れてくださいませ。

 

 

 

ペルーの旅、聖なる谷とマチュピチュ、クスコの旅の記録2018年8月8~17日

今回は日本からのお客様とパリで合流してペルーを周遊。4年前にもペルーを仕事で周遊したがペルーは非常に奥が深く興味は尽きない。自分の忘備録として今回のペルーの旅の記録を残しておくことにした。

行程について

クスコの標高が高く高山病になるケースが多いので高度調整にウルバンバ2泊とマチュピチュ2泊をクスコの前にいれた。(いきなりクスコ滞在は変更してもらった)旅程に余裕がないと難しいができればクスコ観光は後回し、又クスコからマチュピチュ日帰り等は避けた方が良いと思う。

ペルー注意事項

*リマの治安は良くないので注意。リマでは流しのタクシーは絶対に乗らない事。クスコやマチュピチュ、ウルバン等は治安問題なし。

*全国どこでも水道水は飲まない事、ミネラルウォーターを購入。ある程度のレベルのホテルにはサービスで部屋に置いてある。

*両替は空港より市内の両替屋の方が良い。ドルが通じるところが多いが現地通貨が有る方が便利なのである程度両替すると便利。

持って行くと良いもの

日焼け止め、帽子、虫よけスプレー、薄手のダウンジャケット(夏でも冬でも)、リュック、小さめのボストンバックか小ぶりのスーツケース(マチュピチュ行きの列車に大きなカバンは持って入れない)。

服装

今回はペルーは真冬にあたる8月中旬の旅行でしたが赤道に近いためほぼ平均20度~25度位。クスコの朝は7度、昼間は24度、マチュピチュは17度から25度で朝以外は暑かった。日差しは強く日陰になると寒いので脱いだり着たりできる様にTシャツの上にフリース、その上にゴアテックス、念のため薄手のダウンで温度調整。

前回は6月の旅行でペルーは秋にあたるが殆ど同じような気温でした。

高山病

クスコとその近郊に3400メートル~3900メートル地点があり人によっては高山病の症状が出る。ゆっくり歩く、酸素を沢山体に取り入れるが大切。ヨガ呼吸の様にゆっくり体内に酸素を取り入れる準備をリマ出発時からやっておく。薬は現地でも買えるが作用が強く手が痺れるなど副作用。日本から手に入れるならダイアモクス(緑内障の薬)が高山病に効くと言われているが高山病予防薬としては処方されない。私は銀杏の葉のエキス(スペインで購入)をパリの空港から毎日水に溶かして飲んでいた。効くかどうかは賛否両論だが日本の山岳登山会のホームページでも紹介されているので興味がある方は参考にするとよい。日本でも購入できる。高山病の症状は同じ人が同じ高度で出るときや出ない時が有るそう。一番大事なのはあまり心配しない事、体調管理のような気がする。クスコへ出発が決まったら日常から深い呼吸と適度な運動を意識するといいと思う。

 

前泊:パリ8月7日


マドリードからパリ行きの飛行機が2時間遅れでパリ到着が00:30分。空港内シャトルの最終が01:00なので正直ヒヤッとしたが何とかホテル到着。シャワーを浴びて2時間位眠れるか・・・いや一睡もできず出発。

パリ空港ホテル
筆者撮影、パリ空港ホテル

ノボテル・エアーポートはシャルル・ドゴール・ターミナル3、空港内シャトル降りてすぐにあるのでアクセスが良くホテルは清潔で広々していた。

1日目8月8日


パリの空港で早朝に合流しリマ行きの便が出るラウンジで朝食。パリから12時間なのでパリ東京と同じくらいの距離を大西洋上を飛びカリブ海上空からリマへ入る。

航路の写真
筆者撮影

機材はボーイング777/300。

ペルー入国は簡単でパスポートのみ、税関も書類無しで検査なしで通過。リマは治安が悪く車の渋滞もひどい。渋滞中に車の窓を割られて貴重品を取られるケースが有ると聞き緊張感が走った。

ホテルは治安の良い住宅街ミラフローレス地区。今日はチェックイン後すぐお部屋に。

ホテル・ベルモント・ミラフローレス・パーク

ミラフローレスのホテル
筆者撮影

バスルームはバスタブとシャワーブースが分かれたタイプ。

ミラフローレスのホテル
筆者撮影、ホテル

 

夜にお腹が減りルームサービスでMakisushi巻き寿司、を取ったら仰々しく銀のお盆にお花が着いて凄いのが来た。一番驚いたのはチーズとアボガドが入った巻き寿司がフライになっていてびっくりした。巻き寿司と思って食べなければ美味しい。

リマホテルのルームサービス
筆者撮影

ビールはリマでは珍しくクスケーニャ

クスケーニャビール
筆者撮影

おやすみ~(食べてすぐ寝る、相撲取りへの道だ~)

2日目:8月9日

朝食は見晴らしのいい11階でビュッフェ。ペルーは国土の60%がジャングルで様々な果物が豊富な国でどれも美味しそう。

リマホテル朝食会場
筆者撮影

ホテルの前はきれいな広場でその向こうは太平洋が広がる。リマの天気はいつも薄曇りらしくスカッと晴れることは少ないという。

リマホテル前の広場
筆者撮影

ホテルを出発して空港へ。朝8時から既に渋滞。空港まで25キロが1時間、ミラフローレス地区から空港に行くとまるで別の国の間を走っている様に街のムードが変わって行く。

リマの渋滞
筆者撮影

空路リマからクスコへ。前日LATAM航空ウェブ・チェックインしていたので手続きはスムーズ。ペルーの国内線手荷物検査でペットボトルの水は持って行ける。リマ・クスコ間は約1時間30分、ほぼ1時間ごと頻繁に出ている。

ペルー国内線飛行機
筆者撮影

機内食は有料、離陸と共にメニューが配られてきた。

ラタム機内食メニュー
筆者撮影

 

クスコ空港到着ロビー。標高が高いのでゆっくり歩きましょう。

クスコ空港到着
筆者撮影

リマと違ってクスコの空はすっきり青かった。

クスコの空港
筆者撮影

クスコの空港を出発のち、標高3500メートルから3900メートルの地帯を移動、周りには雪をかぶったアンデス山脈が続く。

アンデスの景色
筆者撮影

山の間に時々村があり素朴な人々の生活が垣間見える。

アンデスの景色
筆者撮影

ウルバンバに到着。先に両替とランチ。中央アジアの街見たいな懐かしい感じ。

アンデスの景色
筆者撮影

地元の人ばかりの小さな店での最初の食事はペルー定番のロモサルタード、子牛の肉と野菜の煮込み料理に白いご飯。中華料理みたい。

ウルバンバのランチ、ロモサルタード
筆者撮影

チチャモラーダはペルーの国民的飲み物。紫トウモロコシとパイナップルの皮を煮込んでシナモンで味付け。

チチャモラーダ
筆者撮影

 

聖なる谷に有るウルバンバは小さな村。クスコとマチュピチュの間に有り標高2800メートル。前述したが標高0メートルのリマから標高3400メートルのクスコに飛行機で飛ぶと体に負担がかかる。日程に余裕があれば高度調整に丁度いい。私たちはタンボ・デル・インカというリゾートホテルに2泊して時差と高度に順応しながら付近の遺跡や村の観光をする。

宿泊はスターウッド・ホテルリゾートのタンボ・デル・インカ。斬新な木造の建築が村の景色によく溶け込んでいる居心地のいいホテル。

ホテル、タンボ・デル・インカ
筆者撮影

天井が高くどこにカメラを向けても絵になるホテルだ

ホテル、タンボ・デル・インカ
筆者撮影

午後はウルバンバの街散策

ウルバンバの街
筆者撮影

街の規模が小さくぶらっとお散歩するには丁度いい。

ウルバンバの街
筆者撮影

オート三輪が主流でそれぞれ色とりどり。

ウルバンバ
筆者撮影

ホテル入り口は警備の人がいつもいて出入りする人のコントロールをしているから安心だ。

ホテル入り口
筆者撮影

 

タンボ・デル・インカ・ホテルの敷地内を散策すると駅が有った。早朝ここからマチュピチュ行きの列車が出るのでここに宿泊して日帰りでマチュピチュの人もいるのかも。

ウルバンバの駅
筆者撮影

夕食は近くのレストラン、トレス・ケロスへ。入口は素朴な民家のような感じ。素朴過ぎて階段が揺れて怖かった。

トレスケロス
筆者撮影

 

内装は斬新で来ていたのはヨーロッパの人達ばかり。食前酒はピスコ・サワー。ピスコというぶどうの蒸留酒と卵の白身のカクテル。

ピスコサワー
筆者撮影

主菜のみの注文でキノコのリゾットと

トレスケロス
筆者撮影

マスの焼いたの

トレスケロス食事
筆者撮影

タンボ・デル・インカのお部屋

タンボデルインカ室内
筆者撮影
タンボデルインカの室内
筆者撮影

バスルームは大きなバスタブの横に排水溝の有るシャワーブース。

タンボデルインカの室内
筆者撮影

3日目:8月10日


ホテル朝食はローカルメニューや豊富な果物。

ホテル朝食
筆者撮影

地元のお料理コーナー

ホテル朝食
筆者撮影

ハチの巣ごとのはちみつ

ホテル朝食
筆者撮影

 

 

今日は聖なる谷の観光。聖なる谷はアンデスの谷間の肥沃な大地。作物が豊富で神々が住むのにふさわしい所だ。聖なる谷が夜空に映ったのが天の川なのか、天の川が降臨したのが聖なる谷なのかな・・・と思った。

マラス塩田はインカの古い時代から塩を供給していた。アンデスがもともと海の中に有ったので山の中から暖かい塩水が流れて来ていて今も豊富に塩が取れる。何万年か前の海水と思うと地球の神秘を感じる。お土産にマラスのお塩を買った。他の物もここが一番安かった。

マラス塩田
筆者撮影

モライ遺跡はインカの農業試験場だった。標高3500メートルの所から地形を利用して段々畑が作られており標高差100メートルの所で異種交配や高度の違いでの作物の研究をしていた。

モライ遺跡
筆者撮影

写真ではわかりにくいが一番下までの標高差は100メートル、ひとつの段が約1メートル温度差は5度。ここでトウモロコシやジャガイモなどの品種改良を行った。

チンチェーロ村はクスコから30キロほどに有る標高3700メートルの村。

チンチェーロ村
筆者撮影

階段を上るとさすがに息が切れる。今は観光収入がかなり町を潤しているようでお土産物屋が沢山。同じものでも随分値段が違うので行きと帰りにリサーチした方が良いかも。村人や子供の写真を撮ると1ソル程のチップが必要だ。

チンチェーロ村
筆者撮影

インカの街の石畳はどこも日本の城下町を思い出す。

チンチェーロの村
筆者撮影

インカ時代の神殿が有ったところはスペイン人によって教会が作られており今も使っているようだった。ヨーロパ人はいつも傲慢だ。

チンチェーロ村
筆者撮影

ケチュア族の村で織物の説明を受けた。自然の食物や虫で色を付けて手で織って行く方法はおそらく2000年位前から変わっていないのではないか。

ケチュア族の村
筆者撮影

ケチュア族の人々の髪の毛はみんな真っ黒で年配の方々も白髪の人がまずいない。アンデスの山で採れる芋で髪を洗うらしいがそれは市場では売られていないので山に探しに行くしかないみたいだ。タケノコ掘りの名人みたいな人がいるのだろうか。

ケチュア族の村
筆者撮影

昼はウルバンバに戻ってランチは地元のローストチキンの店

ウルバンバ
筆者撮影

ペルー人はローストチキンが大好きらしい。あらゆるところにローストチキンの店が有る。

ローストチキン
筆者撮影

午後はホテルに戻って休憩、夕食はホテルのメイン・ダイニング。ケーナとサンポ―ニャの演奏は本当に素敵だった。ここでやっぱり「コンドルは飛んでいく」聞きたいですね。

ホテルレストラン
筆者撮影

マスとワインで軽く夕食。あ、写真撮るの忘れて一口お先にいただきました。失礼。

ホテルレストラン
筆者撮影

4日目:8月11日


大きなスーツケースはホテルに預けて出発。マチュピチュ行きの列車は5キロ以上の荷物はだめらしい。それでも持って来ているヨーロッパ人もいたけど。朝はピサックの村のマーケットへ。元々は物々交換の場だった広場で今はお土産物ばかり。

ピサックの村
筆者撮影

途中村のチチャ屋で休憩。チチャはトウモロコシの発泡酒で古代アンデスの時代から儀式に使っていたお酒。今もペルーでは良く飲まれている。

チチャ屋
筆者撮影

エコケ人形が壁に飾ってあった。ペルーのラッキーアイテムで週に2度タバコを吸わせると願いをかなえてくれるらしい。

エコケ人形
筆者撮影

オリャンタイタンボの遺跡の見学。インカ時代に戦略的に重要な地点だった。

オリャンタイタンボ
筆者撮影

巨大な石の神殿が頂上に残る。向こうの山からこの巨大な石を運んで創ったという神殿。石の表面にピューマの浮彫があったらしい。

オリャンタイタンボ
筆者撮影
オリャンタイタンボ
筆者撮影

下の街には石組の綺麗な街が残る

オリャンタイタンボ
筆者撮影

お昼は広場に面したレストランにて

オリャンタイタンボ
筆者撮影

今日もペルー定番料理、アヒ・デ・ガジーナ。チキンに黄色いピーマンソースにお米添え

ランチ
筆者撮影

ペルーレイル15:37発ビスタドーム1時間30分でアグアス・カリエンテスへ。社内では飲み物とスナックのサービスが有った。

ペルーレイル
筆者撮影

アグアスカリエンテスはスペイン語で熱い水。古くから温泉が出る。

アグアス・カリエンテス村
筆者撮影

ホテルは駅のすぐ近くのエル・マピ。日本の山にあるホテルみたいな感じでシャワーのみの簡素なホテル。結構激しい雨が降り出し寒いので今日はホテルで夕食。夕食はホテル側のサービスで付けてくれたと旅行会社から聞いたがグラスワインが一杯1000円近くでビックリ仰天、しかもレシート無しでちょっとムッとした。けどこんな遠くまで運んできたから仕方ない、日本でも山の上は値段が高いのだ。「明日は外で食べるぞッ」と心に決めた。でも食事はちゃんとしていて美味しかった。

ホテル・マチュピチュ
筆者撮影

ホテル・エル・マピ

ホテル・エル・マピ
筆者撮影

壁が薄いお部屋で廊下の音や隣の音が良く聞こえて眠れないか、と心配したけど3時間ほどぐっすり眠って目が覚めた。毎日2時30分頃に目が覚める。スペインの9時30分、時差ボケは続く。人間3時間も熟睡すれば何とかなると、自分を慰める。

5日目:8月12日


昨日の大雨は夢だったのか、と思うほどの快晴だ。日曜日で地元の観光客も多いので少し早めにホテルを出発してバス停で並ぶ。朝7時半に列の最後尾についた。

マチュピチュバス停
筆者撮影

この日の注意はバスに乗るのも遺跡に入るにもパスポートが必要。長い列だったがバスは頻繁にやって来て30分程で乗れた。バス会社は1社で独占企業、官民合弁らしい。くねくねの登り坂を約30分登って行くともうすでに沢山の人がやって来ている。

マチュピチュ
筆者撮影

遺跡の中にお手洗いは無いので外の有料トイレへ。2018年現在2ソル、4年前は1ソルだった。これも独占、ほかにチョイスは無い。

マチュピチュ
筆者撮影

遺跡の入り口でパスポートの名前と入場券の名前のチェック。今は午前と午後は別の切符購入が必要になった。

マチュピチュ
筆者撮影

最初に階段をかなり登るが登り切るとあとはそうでもない。普通のスニーカーで充分だ。ヨーロピアンはゴム草履の人もいた。2400メートルの地点なので空気もそんなに薄いわけではない。

マチュピチュ
筆者撮影

太陽の神殿

マチュピチュ
筆者撮影

マチュピチュの観光は大体3時間から3時間半で現在見れる遺跡の重要な部分は見学できる。マチュピチュについては別途記事にする予定・・・多分

ランチは遺跡入り口に唯一あるサンクチュアリー・ロッジにてビュッフェ。

マチュピチュ
筆者撮影

午後の入場券もエージェントが用意してくれていたので再入場し今度はインカ橋まで歩く。

マチュピチュ
筆者撮影

インカ道を飛脚は1日200キロ走れたそうだがこの狭い危険な道をフルマラソンの5倍の距離。そういえばインカの人々は肺が大きくヘモグロビンの量が多いと何かで読んだ。人間は標高が高い地域で暮らしたほうが健康になるのではと思った。

マチュピチュ
筆者撮影

堪能してさあ帰ろうとバス停の方に行くと長蛇の列。今朝の3倍はある。鉄道に乗って帰る人はハイシーズンは帰りのバスの待ち時間要注意ですね。私たちはもう一泊アグアス・カリエンテスなのであきらめてのんびり並んで帰りました。バスは頻繁に来るので長い列でも思ったより早く進んで1時間弱程でバスに乗れた。たまたま後ろに並んだカップルが日本の方でウルグアイにお仕事で駐在中で夏休み中だそう。

マチュピチュ
筆者撮影
マチュピチュ
筆者撮影

ホテルに戻り一息ついて夕食は今日は外へ。昨日の轍は踏まないぞ。ホテルすぐ前にあるインカ・ワシはトゥリップアドバイザーでも評価が高い。

マチュピチュ夕食
筆者撮影

疲れ切っていたのか食事内容写真撮り忘れたああああ~なので美味しかった頭の記憶のみ

おやすみなさい~

今日も食べてすぐ寝るパターンですが夜中の3時頃から眠れない。

6日目:8月13日

マチュピチュ初8時15分のペルー・レイル展望列車

マチュピチュ・ペルーレイル
筆者撮影

帰りは最高の天気でベロニカ山等雪をかぶったアンデスの山が見えた。同じ席に日本から個人旅行している女性と一緒になった。日本からメキシコ経由で来たそう。

マチュピチュ
筆者撮影

オリャンタイタンボの駅ではコレクティーボ(乗り合いバス)とタクシーが凄いエネルギッシュに営業していた。前を行く大きな荷物を持った人達はインカ道トレッキングの人の荷物やテントを運ぶポーターさん達。途中4000メートルくらいの所があるらしく標高の高い所を大きな荷物を持ってさっさと歩けるんでしょうね。

 

マチュピチュ
筆者撮影

 

オリャンタイタンポから車で再びウルバンバへ移動し荷物を取って聖なる谷をドライブ。途中の高台の聖なる谷が良く見えるレストランでランチ。

聖なる谷が見えるレストラン
筆者撮影

チキンのフライとサラダとジャガイモ

レストランの食事
筆者撮影

クスコ近くで遺跡の観光。タンボマチャイ遺跡は標高が富士山と同じくらいでさすがに急ぐと心臓がどきどきした。

タンボマチャイ遺跡
筆者撮影

この水はインカ時代から流れ続けている聖なる泉。その水源は今も謎だそう。石の組み方がとても丁寧。

タンボマチャイ遺跡
筆者撮影
タンボマチャイ遺跡
筆者撮影

標高3765メートル・・・これを見た後頭がクラクラした。

タンボマチャイ遺跡
筆者撮影

 

直ぐ近くのケンコー遺跡へ。インカ時代の宗教儀式が行われた場所。

ケンコー遺跡
筆者撮影

巨大な石灰岩が重なって置かれている。今まで見て来た他の遺跡とは違う何かを感じる。

ケンコー遺跡
筆者撮影

内部に石を削った王座。これはガイドブックの写真。

ケンコー遺跡
筆者撮影

天上の神コンドルや地下の神である蛇に捧げる神殿や大地の神ピューマを現す石など特別な儀式を行ったところに違いない。

ケンコー遺跡
筆者撮影、ケンコー遺跡

 

クリスト・ブランコ(白いキリスト像)からはクスコの街が綺麗に見えた。

白いキリスト像
筆者撮影

クスコの街並み。街が広がって山の方まで家が作られている。

白いキリスト像からクスコの街
筆者撮影

サクサイワマン遺跡へ。ケチュア語で満腹のハヤブサだそう。インカ帝国の第9代皇帝パチャクティの命令で1438年頃から建設が始まり約50年後に完成したと言われる。

サクサイワマカン遺跡
筆者撮影

巨大な石をどうやって持ってきたのか未だに謎が多い遺跡だ。インカの天上・地上・地下の世界を現す3段に積まれており遺跡を構成する石はリャマや蛇等の形をしたものが有る。

サクサイマワカン遺跡
筆者撮影

クスコの街と周りの遺跡で伏せたピューマの形をしていたという説がありサクサイワマン遺跡はピューマの頭にあたる。下の写真の左の方の①にあたるのがサクサイワマン遺跡、真ん中あたりのⒷが現在の大聖堂があるアルマス広場。空から見たところを意識して創られた街という事なのか・・・謎は深まるばかり。

その後市場に行った。ペルーの人達は良く働く。女性達、特に高齢の女性達も市場で沢山働いていた。

クスコの市場
筆者撮影
クスコ市場
筆者撮影

ホテルはクスコ中心部にあるマリオット・エル・コンベント。教会と修道院の建物を利用して創られているエレガントなホテル。お部屋の中は酸素が送られていて2400メートル位の酸素量だそう。

クスコホテル
筆者撮影

夕食は日本人経営のペルー料理レストラン、プカラへ徒歩10分。今日のペルーレイルで同席だった日本人の女性と偶然会ってなんだかうれしかった。

クスコのプカラレストラン
筆者撮影

マリオット・エル・コンベントの部屋

クスコのマリオットホテル
筆者撮影
クスコ、マリオットホテル
筆者撮影

置いてある家具は16世紀頃のスペインの物でスペイン人たちはこんな立派な家具まで本国から船で持って来ていたのかと驚く。

クスコ、マリオットホテル
筆者撮影

7日目:8月14日


クスコの観光はマチュピチュ博物館から。コップを持つ手は何か宗教行事に使ったのか。

 

クスコ、マチュピチュ博物館
筆者撮影

高貴な人々は幼少の頃から頭を機械で挟んで細長くしたらしい。宇宙人かと思った。メキシコでもこれと同じものを見たので何らかの形で影響しあったに違いない。

クスコ、マチュピチュ博物館
筆者撮影

サント・ドミンゴ教会はインカ時代の太陽の神殿の上にスペイン人が創った教会。地震で教会部分は壊れ内部からインカ時代の神殿が姿を現した。

サントドミンゴ教会入り口
筆者撮影、サントドミンゴ教会

内部は石が丁寧に綺麗に組まれていて精密さに驚く

サントドミンゴ教会
筆者撮影

遺跡の一部が置いてあり石切り口や水路を作った後が良くわかった。

サントドミンゴ教会
筆者撮影

神殿の内部は金で覆われていたらしくそれらはピサロ達によってすべて奪われ金の延べ棒になり本国へ運ばれていった。スペイン各地でよく見る金がたっぷり使われた教会の祭壇はこれらの金が使われている。

対応の神殿の石組
筆者撮影、クスコ太陽の神殿

サント・ドミンゴ教会のすぐ前に有るレストランでランチとなった。

クスコレストラン
筆者撮影

ペルー料理のちょっとづつ色々盛り合わせ

クスコランチ
筆者撮影

毎日欠かさず飲んでるチチャモラーダ。

クスコのランチ
筆者撮影

レストランの内部もインカの石組だった。

クスコ
筆者撮影

破壊されなければ街中に神殿や黄金の宮殿が有った荘厳な首都だったに違いなくスペイン人が憎らしくなった。有名な12角の石。

クスコ
筆者撮影

日本の城下町みたいな景色。インカ帝国のすべてがクスコに集まるように創られた道だった。

クスコ
筆者撮影

この石どうやって作ったんだろう。

クスコ
筆者撮影

精巧に組まれた石は技術もすごいがどれもとても美しかった。

クスコの石組
筆者撮影、クスコ
クスコの石組
筆者撮影、クスコ

歴史博物館にはクスコから発見された様々な物が展示されていた。これ持って帰りたいなあ~というのがいっぱいあった。

クスコ歴史博物館
筆者撮影、クスコ

石臼にピューマの彫刻

クスコ歴史博物館
筆者撮影、クスコ

 

夕食はホテルで頂きました。

クスコ夕食
筆者撮影

サーモンの照り焼き

クスコ夕食
筆者撮影

牛肉400グラム、ヒィエー大きくてびっくりだ。

クスコ夕食
筆者撮影

標高が高い街は慣れれば快適だ、クスコは素敵な街でもうリマに行かなくても良い位の気分になっていた。

おやすみなさ~い、今日も食べてすぐ寝る関取りへの道です。

8日目:8月15日


クスコの空港へ。ウェブチェックインは必須だ。普通のカウンターは長蛇の列になっていた。待合室はほとんどヨーロッパの観光客だった。

クスコの空港
筆者撮影、クスコの空港

リマに到着してまずランチは地元の人気店「メルカード」

リマレストラン
筆者撮影
リマのレストラン
筆者撮影

ウニの前菜

リマのレストラン
筆者撮影

白身魚とアジアンヌードル

リマレストラン
筆者撮影

いくらのスパゲッティ

リマのレストラン
筆者撮影

お食事の後は天野博物館へ行った。天野芳太郎は1898年(明治31年)秋田県生まれの日本の実業家。第2次世界大戦より前にパナマに渡り戦時中は強制送還されたが再びペルーに渡り事業を始めた。アンデスの文明に興味を持ち様々な研究もした天野氏のコレクションが納められている。内部なJAICAの方が説明してくださった。当時の日本人は私たちより国際的で行動力のある魅力的な人が結構いたんだなあ~かっこいい。

天野博物館
筆者撮影

織物が中心だが土器や壺なども沢山あった。ぽっちゃりが可愛い入れ物。どれも持って帰りたい。

天野博物館
筆者撮影

これなんだったか忘れたけどとっても気に入ったのでパチリ。

天野博物館
筆者撮影

アルマス広場の大聖堂。「どこにでも作れるようなものを作ってどこにもないものを壊した」と嘆いたのはコルドバのメスキータ内部に作った大聖堂を見たスペイン王カルロス5世だが、これを見ても同じことを言ったに違いない。

リマ、大聖堂
筆者撮影

現在の大統領官邸は元はピサロのお屋敷だった。

リマ大統領官邸
筆者撮影

ラファエル・ラルコ・エレーラ博物館はイタリア系移民の家族でもともと広大な農園を持つ事業家だった。付近で取れる土器を集めるうちに考古学に興味を持った。コレクションが多すぎて整理されずにまるで倉庫の様に保管されている場所。

ラルコ博物館
筆者撮影

黄金の装飾品は圧巻。儀式に使った物。

ラルコ博物館
筆者撮影

ホテルは初日に泊まったミラフローレス地区のベルモント・ホテルにチェックイン。

リマ、ベルモンテ・ミラフローレス
筆者撮影

夕食はホテルのメイン・ダイニングへ。バスキアみたいな斬新な絵が壁中に描かれていた。

リマ夕食
筆者撮影

海老のグラタン

ホテル夕食
筆者撮影

キノコのラビオリ

ホテル夕食
筆者撮影

 

9日目:8月16日


今日は最終日。夜のパリ行きの飛行機までの時間を利用してリマ郊外のパチャカマック遺跡観光。インカ人が定住するより400年前に大きな宗教都市があったらしい。

パチャカマック遺跡
筆者撮影

まだまだ発掘中でどこでも掘ればいくらでも出てくる感じ。

パチャカマック遺跡
筆者撮影

ランチはバランコ地区のレストラン。昭和のムードというかキューバのレストランみたいだ。

リマランチ
筆者撮影

これはウエベーラというこの辺りのビーチで食べる朝ごはんだそうで魚の卵をフライにしたのと玉ねぎがパンにはさんであるだけのシンプルなものだけど滅茶苦茶美味しかった。

リマ、ランチ
筆者撮影

ロモ・サルタードの麺版。アジアっぽいテイスト。

リマ、ランチ
筆者撮影

アサード・デ・ティラはペルーの伝統料理。向こう側がお肉で手前は豆。隣のセニョールたちもこれを頼んでいた。

リマ、ランチ
筆者撮影

バランコ地区はアーティストが多く住むリマでも人気の住宅街。ちょっとスノッブなお店も沢山ある。

 

バランコ地区
筆者撮影

予定終了、空港へ向かいます。

エアーフランス483でパリへ。機材はボーイング・トリプルセブン777/200。帰りの飛行機で一番眠れてペルー時間に体がピタッとあいました。マドリードに帰ってからしばらく時差ボケで苦しむ事になりそうです。

エアーフランス
筆者撮影
帰りの機内
筆者撮影

 

ペルー忘備録

*ケチュア語話者は多分500万人。たぶんというのは政府も正確に把握していない。その中にケチュア語しか話せない人達も相当数いる。

*アンデスには人類未踏の地が沢山あって探せばマチュピチュの様な遺跡は沢山出てくる。

*アマゾン川と聞くとブラジルのイメージだが源流はペルーから流れる。

*アマゾンには近代人と接触していない人々が住んでいる地区もある。スペイン人たちさえ危険で寄り付かなかった。というのもアマゾンには危険な動物が沢山いるので弓や槍等の武器を持っていて闘争的で近づけなかった。

*もし彼らと接触したら我々が持っている菌などですぐに汚染されてしまう。

*ペルー人はスペインの映画を見るとき字幕スーパーをつける。同じスペイン語でもわからない言い回し等が多すぎるらしい。

*ペルーは海抜0メートルから海抜5000メートルのアンデス、アマゾンのジャングル等がある多様な国でした。

サンルーカル・デ・バラメダのビーチ競馬は毎年8月の干潮の頃、3日間ずつ2回あります。

南スペイン、カディス県のサンルーカル・デ・バラメダは毎年8月のビーチ競馬が有名。歴史は1845年に始まり漁師が採った魚を競って街の市場に運んだのが始まりとか。今も毎年8月に3日間ずつ2度の浜辺の競馬行われている。日程は海の水が引く干潮になる日の夕陽になる時間に終わるように設定されている。

サンルーカル・デ・バラメダ


サンルーカルのビーチ競馬
筆者撮影、サンルーカルのビーチ競馬

グアダルキビール河の河口に位置するサンルーカル・デ・バラメダはコロンブスやピサロや支倉一行等が滞在した街でグアダルキビール河が大西洋にそそぐ河口にある。マンサニージャというお酒はここの潮風にあたったブドウで作られる独特の味わいでシェリー酒の仲間。対岸は世界遺産のドニャーナ国立公園で河口は船の出発地になっている。

 

ビーチ競馬


サンルーカル・デ・バラメダの海岸で毎年8月に行われるビーチ競馬は1845年から行われているスペインで最も歴史がある競馬のひとつ。毎年8月に3日間ずつ2回行われ無料で見ることが出来る。ゴール地点に有料席もありここは本格的に競馬を楽しむ人達の社交場のような感じ。夏のビーチなので水着で海で遊びながら競馬が始まる少し前に合図があり海から上がって見学。約2キロの砂浜に赤いビニール製の柵がされていて空いている場所を見つけてそこで見学することが出来る。

サンルーカルのビーチ競馬
筆者撮影、サンルーカルビーチ競馬

 

地元の人はパラソルや椅子やお弁当に大きなックーラーボックス等を持って来て遠足気分で楽しんでいます。街でパラソルを購入しても良いし日傘でもいい。日陰のないビーチで18時というとまだまだ太陽は頭の上なので日よけ対策を考えましょう。競馬の合間は場所だけ確保して海に入ったりバルに行ったりして大丈夫。

サンルーカルのビーチ競馬
筆者撮影、サンルーカルのビーチ競馬

 

競馬の合間にアイスクリームやお水やお菓子を売りに来る。

サンルーカルデバラメダのビーチ競馬
筆者撮影、サンルーカルデバラメダのビーチ競馬

「警察官の給料あげてくれ~」のカードを持って観客の皆さんに訴える非番の警察官達

サンルーカルのビーチ競馬
筆者撮影、サンルーカルのビーチ競馬

カディスの人達は陽気で気さく。カメラを向けるとすぐにポーズを取ってくれる。

サンルーカルデバラメダのビーチ競馬
筆者撮影、サンルーカルデバラメダのビーチ競馬

競馬が始まる少し前に合図がありみんな海から上がって赤い柵の内側へ移動。時々子供が忘れ物を取りに戻ったり、警察も大変だ。

サンルーカルのビーチ競馬、忘れ物を取りに行く子供
筆者撮影、サンルーカルのビーチ競馬

 

海から全員出たのを確認するとパトロールの車が移動

サンルーカルデバラメダのビーチ競馬
筆者撮影、サンルーカルデバラメダのビーチ競馬

パドックから次のレースで走る馬が出発地点に移動。この時に馬とジョッキーを見定めプログラムの内容と吟味して馬券売り場に馬券を買いに行く。

サンルーカルデバラメダのビーチ競馬
筆者撮影、サンルーカルデバラメダのビーチ競馬
サンルーカルデバラメダのビーチ競馬
筆者撮影、サンルーカルデバラメダのビーチ競馬

プログラムは無料で色んな所で配布しているので手に入れよう。私はビーチに有るチリンギート(海に有る簡易バル)でもらった。馬の名前や産地ジョッキーの体重等が書いてある。

サンルーカルデバラメダのビーチ競馬
筆者撮影、サンルーカルデバラメダのビーチ競馬

馬券売り場


子供達が手造りの馬券売り場で営業していて馬券売り場のコンクールも有るみたい。

サンルーカルビーチ競馬
筆者撮影

一口50セントから誰でも馬券を買うことが出来る。私も買ってみた

サンルーカル、馬券
筆者撮影

ゼッケンの番号で3番と5番に1ユーロずつという風に。ついで手作りのおまけも選ばせてくれた。

サンルーカルのビーチ競馬
筆者撮影

 

もし勝ったら同じ馬券売り場に持って行くと3倍にして返してくれる、はず。私は外れたので・・・隣のセニョールに聞いた話。

出発したらあっという間に馬は通り過ぎてしまう。全部本物のサラブレッドだ。

サンルーカルのビーチ競馬
筆者撮影、サンルーカルのビーチ競馬
ビーチ競馬
筆者撮影、サンルーカルビーチ競馬

コースの真ん中あたりからだと後ろ姿も取れて逆光も綺麗に撮れた

サンルーカル、ビーチ競馬
筆者撮影、サンルーカルビーチ競馬

私が見た日は合計8レース、18時から約30分毎に行われ最後のレースが21時で日没の頃。8月の海の干潮の頃の日没に最後のレースが終わるように設定されていた。始まる時間は何レースあるかによって変わるので日程が発表されたら確認してください。

サンルーカルビーチ競馬
筆者撮影

どこで見る?


約2キロの海岸線で行われるので見る場所は充分にある。私たちは2キロのコースの真ん中あたりにカーブがあってテレビカメラの人がいたので「きっと撮影場所として良いに違いない」とその横で見た。この辺りは丁度ビーチも狭くすぐ近くで見ることが出来、遠くから来た来た~ってところから

サンルーカルのビーチ競馬
筆者撮影、サンルーカルのビーチ競馬

自分の目の前を通り過ぎて

サンルーカルのビーチ競馬
筆者撮影、サンルーカルのビーチ競馬

走り去って行く後姿まで。

サンルーカルのビーチ競馬
筆者撮影、サンルーカルのビーチ競馬

 

連写にしてとにかくシャッターを切り続けたら結構綺麗に撮れた。最後のレースだけゴール地点が見てみたくて移動。正面から写真が撮れるかと思ったが一番いいところは関係者に占められていてゴールと船とビールの宣伝と障害物が多すぎて写真の見栄えはあまり良くなかった。下の写真。

サンルーカルビーチ競馬
筆者撮影

唯一走った後の馬がパドックに戻って行くのが見れて夕陽をバックに馬がすぐ近くで見れたのは良かった。

サンルーカルのビーチ競馬
筆者撮影、サンルーカルのビーチ競馬

食事


プラサ・デ・カビルドとその周辺に沢山の飲食店。有名なのはエビとトルティータ・デ・カマロン。した写真の手前がトルティータデカマロン。小さなエビが入ったかき揚げ

トルティータ
筆者撮影

白ワインのバルバディージョやマンサニージャというシェリー酒の一種。

マンサニージャ
筆者撮影

有ったらいいもの


日焼け防止:日に焼けるので日焼け止めやパラソル、帽子等は絶対必須。私は大きなパレオを帽子の上、頭からかぶったり肩にかけたりしていました。

パラソルと砂場に敷く物とイス:長時間見るならパラソルと地面に敷ける布地とクーラーボックスがあれば場所取り出来て快適。

虫よけ、かゆみ止め:湿地帯が近いので虫に刺されます。虫よけスプレーやかゆみ止めパッチは役に立ちました。

連写が出来るカメラ

行き方


私たちはマドリードから640キロ、エストレマドゥーラ街道を途中寄り道をしながら8時間ほど車で移動。

飛行機

へレス・デラ・フロンテーラが一番近い空港。シェリー酒の産地とアンダルシアン種の馬のショーで有名。空港からへレスの中心部にバスで移動した後LINESURの路線バスでサンルーカルへ。

バス

へレス、セビージャ、カディスから路線バスが出ている。

鉄道

へレス・デラ・フロンテーラが一番近い鉄道駅。へレスからはバスかタクシーを利用。距離26キロ車で30分なのでタクシー料金も30ユーロ程だと思う。2~3人いれば時間の節約にへレスからタクシーも良いと思う。

最後に


馬が大好きで綺麗なサラブレッドがビーチを走るなんて素敵な競馬でした。ただ一つ後悔は写真を撮るのに夢中で自分の目でしっかり競馬を楽しまなかったことかなあ。もう一日残ってみればよかったかもと、ちょっと後悔。でもとっても楽しい経験でした。また行きたいお祭りです。

キャンピングカーでサンルーカルのビーチ競馬とポルトガルとグアダルーペの夏祭り、2018年8月

サンルーカルのビーチ競馬と休みの日程がはまるなんてまさかの奇跡だ!何年も前から行ってみたいけど行ってなかったお祭り。これは「行くしかない」と何も調べず飛び出した。カディス県のサンルーカル・デ・バラメダとついでにポルトガルのサンビセンテ岬、帰り道にエストレマドゥーラ県のグアダルーペへキャンピングカーで旅した記録。

 

1日目:8月21日マドリード~サンルーカル661キロ

朝10時、夫が朝の仕事に行っている間にお弁当を作って出発。マドリードからカディス方面は南へ向かうアンダルシア街道と南西へ向かうエストレマドゥーラ街道があるが今回はエストレマドゥーラ街道で移動。

マドリードから出発の道路
筆者撮影、エストレマドゥーラ街道

 

途中トルヒージョを通る、インカ帝国を破壊したピサロはトルヒージョ出身。コンキスタドーレス達はこのエストレマドゥーラ出身者が多いのだけれど何故なんだろう。「ここはとっても貧しかったから」というだけでは納得できない。他にも貧しい地域は有ったのにここだけ突出している。少しだけ街の中心部へ行ってピサロの写真をパチリ。

ピサロ像
筆者撮影、トゥルヒージョのピサロ像

ピサロは出生もあまり定かな事はわかっていなくて父親は軍人だったようだが母親は召使い?、生まれた家も定かではない。ペルーで仲間割れした末相手を殺害し、その親族に暗殺された。その遺体はペルーに残る。

トゥルヒージョ
筆者撮影、トゥルヒージョ

トゥルヒージョがあるこの街道はメリダからセビージャに続く銀の道に繋がっている。アステカを滅ぼしたコルテスはメリダ近くメデジンの出身。コロンブスの新大陸発見後のスペインの船はセビージャに入港していてセビージャには多くの一攫千金を求めた人々が集まっていた。そこからの様々な人や情報がエストレマドゥーラには銀の道を通り入って来ていたはずだ、と何となく腑に落ちた。さあ前に進もう、今日は650キロの移動だ。

エストレマドゥーラ街道
筆者撮影

トゥルヒージョから約152キロのサフラに少し寄ってみる、と夫。サフラは支倉常長の同行者の侍がキリスト教に改宗しディエゴ・ハラミーニョ何某かの家臣になったが給金の支払いを断られ奴隷のように焼き印を押された云々の話がある。侍の日本名は定かでないが髷を切ってキリスト教徒になっていた。スペイン国王に提訴し日本に帰る許可を得てメキシコまで向かったらしいがその後の消息は不明らしい。何のあてもなく街が見たくて立ち寄った。

サフラのパラドール
筆者撮影、サフラのパラドール

サフラの街に入るとすぐ大きなお城が見えて来た。15世紀の建築を後に改装、現在は国営ホテルになっている。サフラはエストレマドゥーラ州だけどアンダルシアの様な街並みだ。

サフラの街並み
筆者撮影、サフラの街

途中お弁当を食べてカディス県サンルーカルのビーチ近くのキャンプ場到着18時20分、まだ夏の太陽は頭の上。サンルーカルから4キロの隣町のキャンプ場、というか駐車場にキャンピングカーの為の設備があるACという施設。

キャンプ場
筆者撮影、チクラナキャンプ場

想像したよりちゃんとキャンプ場で天幕を張ったりテーブルを出したり皆さん長期滞在者みたいだ。車一台12€なので家族全員で来れば家にいるより安いかもしれない。私たちは残りのお弁当を食べて少しお昼寝。ここはスペイン人家族のが多いから話声が大きいなあ、夏休み満喫風。

すぐそこが大西洋、海に沈む夕日を見に行った。夏の夕陽は21時過ぎ。

大西洋に沈む夕日
筆者撮影、チピオナ

近くでビールを買ってきて無事の到着をお祝いした。一本70セント。

夜のキャンプ場
筆者撮影

隣のキャンピングカーのセニョーラの声がとても大きくて内緒話できないタイプの人だね、他人の話が全部聞こえるのもあまり居心地がいいものではない、ちょっと出かけよう。キャンプ場の横に有るバルでマンサニージャ小瓶一本6€。この辺はシェリー酒のなかでも更に独特のコクがあるマンサニージャが主流。

マンサニージャ
筆者撮影

明日はゆっくりだから夜更かしの一日目終了。おやすみ~

移動距離 661キロ

有料道路7.3€

ガソリン35€

ビール2.1€

マンサニージャ6€

2日目:8月22日 サンルーカルのビーチ競馬、連泊日

朝はのんびり8時頃まで寝ていた。競馬が18時からなのでお昼頃に出発してサンルーカルに向かう。4キロ離れているのでこの日差しの中歩くのはやめてバスに乗る。時刻表を信じたのが間違いで13時40分のバスが来たのは14時10分だった。地元っぽい人は14時頃に来ていたのは遅れるのを読んでいたのかは不明。

バス内部
筆者撮影

バスに約30分揺られてサンルーカルへ。途中はかなり大きな別荘ばかりだった。空き地が時々あるけど10年後にはすべて別荘になっているだろう。

バス停から目指すカビルド広場は近くだった。バルやレストランが沢山ある広場で大変な賑わいだ。

サンルーカルのカビルド広場
筆者撮影、サンルーカルのカビルド広場

バルビノというバルに入った。日本の朝の満員電車位の混み方のバル。カウンターまでたどり着けるか・・・

サンルーカルのバル
筆者撮影

トルティータ・デ・カマロン(小エビが入った天ぷら)とエビの茹でたのを注文。水を頼んだら隣のセニョールが「アグア?何という冒涜」と言ってワインをおごってくれた。

トルティータ
筆者撮影

早く出かけ過ぎた、この暑い中どこで時間を過ごしましょう・・・・街をあても無く散策する。

サンルーカルのカビルド広場
筆者撮影

広場やパティオ、白い町並み。

サンルーカルの街並み
筆者撮影

14世紀のムデハル様式の教会サンタ・マリア・デ・ラ・オ教会。最後のオはどういう意味なのかな?もちろんお昼休みで入れません。

その先にメディナシドニア宮殿、内部見学はもうできないけどお茶が飲めるみたいです。ここで休憩しましょ。

メディナシドニア宮殿内部
筆者撮影、サンルーカル、メディナシドニア宮殿

細部にわたり手が行き届いたお屋敷で中が喫茶店。

錬鉄細工
筆者撮影、メディナシドニア宮殿

錬鉄細工が素敵でした。

メディナシドニア宮殿
筆者撮影、メディナシドニア宮殿

17時頃そろそろ浜辺に向かって出発。知らない街を歩くのは楽しい。この辺りはアンダルシアン種の馬が有名でこの建物は馬の飼育場みたいだった。馬に走る速さだけでなく美しさを求めて品種改良を繰り返し創られたのがアンダルシアン種の馬。

サンルーカルの街並み
筆者撮影

ここはプラタ通りという名前。プラタ(銀)通りは南米からもたらされた銀を扱った商人が住んだに違いない。サンルーカルは大航海時代に多くの船が出港している。ここからグアダルキビール川をさかのぼってセビージャへ戻って行った。セビージャにはピミエンタ(胡椒)通りがある。胡椒は当時貴重品で胡椒富豪が登場した。

サンルーカルの街
筆者撮影

銀通りの横にはたばこ屋。タバコも南米からコロンブスが持って帰って来た。

サンルーカルの街並み
筆者撮影

さあビーチへ行こう。まだ太陽はてっぺんだし、パラソルは無いし日陰なんてありそうにない。

サンルーカルのビーチ
筆者撮影

いつもの事だけれど、ちゃんと調べて来ていないので大体の想像だけで動く私たち。17時30頃にビーチに来たらまだみんな楽しそうに泳いでた。

サンルーカルのビーチ
筆者撮影

多分ここを馬が走るところにビニールの柵、ここから見るんだね。準備のいい人はパラソルとか椅子とか冷蔵庫とか持ってとっくに場所取りしているけど隙間は有るのでどこでも見れそう。歩いていたらテレビカメラを持った人が立っている所が丁度カーブになっている。絶対ここが写真撮るのにいいに違いない、ここに決めた。

サンルーカルのビーチ競馬
筆者撮影、サンルーカルビーチ競馬

周りの人に聞いてだんだんわかって来たのは今日は8回のレース。まずは次のレースで走る馬が左から右へ移動を始めた。これで馬の調子やジョッキーの感じを見て子供達がやっている小屋で馬券を買う。

サンルーカルのビーチ競馬
筆者撮影

レースは約30分毎。馬は本物のサラブレッド。

サンルーカルのビーチ競馬
筆者撮影、サンルーカルのビーチ競馬
サンルーカル、ビーチ競馬
筆者撮影、サンルーカルビーチ競馬

私も馬券を買ってみる事に。一口50セント。当たったら3倍の配当のようだ。馬券売り場は手作り風の小屋で子供たちが営業。

サンルーカルのビーチ競馬
筆者撮影

馬券を買うとおまけが着いてきた。子供たちの手作りの可愛いものがいっぱいおいてあって「好きなの選んでね~」

サンルーカル、馬券
筆者撮影

隣のセニョールは地元の人みたいで小さな息子と一緒に馬の事をあーだこーだ言いながら見ている。こうやって育って行くんだね。

ビーチ競馬
筆者撮影、サンルーカルビーチ競馬

 

馬券売り場は何か所もあってそれぞれ手作り感たっぷり。

サンルーカルビーチ競馬
筆者撮影

最後のレースだけゴール地点で見る事に。21時になったのでもうほとんど太陽は水平線。8月の干潮になるこの時期のこの時間に終わるように設定されているようだ。

サンルーカルビーチ競馬
筆者撮影

ゴールの所は正面から馬の写真が撮れるかと思ったがそうでもなく障害物が多すぎ。写真撮りたい人はやはり真ん中あたりのカーブがおすすめです。

サンルーカルビーチ競馬
筆者撮影

ひとつだけゴール地点にいて良かったのは終わった馬が夕日を背にパドックに戻って行くのが見れた。どれもとっても美しい馬で間近に見れたのは興奮した。

サンルーカルビーチ競馬
筆者撮影

「さあ道が混む前に帰ろう」と歩いていたら幸運にもタクシーが通った。キャンプ場横のバルに直行して夕食。21時45分頃まだ誰も来ていない。この辺りはマドリードより更に夕食が遅い。

ビーチのバル
筆者撮影

懲りずにトルティータ・デ・カマロン。ここは一個1ユーロ。

サンルーカルビーチ
筆者撮影

アボガドのサラダとマグロの煮物を頼んだ

サンルーカル、夕食
筆者撮影

ランチ20€

お水2€

タクシー11€

夕食15€

3日目:8月23日サンルーカル~サンビセンテ岬427キロ

おはようサンルーカル。朝食はキャンピングカーで済ませ、隣の声が大きいセニョーラが起きる前に出発しよう。支払いに行った夫がイチジクを貰ってきたというか許可を取って自分で木からもぎ取って来たらしい。甘くておいしい~

サンルーカルのイチジク
筆者撮影

今からどこに行くかまだ決まっていないけど「サンルーカルの河口が見たい」と私。グアダルキビール河が大西洋に流れるところで大航海時代の船が行き交った場所だ。

サンルーカルの河口
筆者撮影

馬で朝のお散歩中の人とすれ違った。セニョリート風の優雅なオーラのある人達だった。この辺の馬主さんたちかも・・・。ここからドニャーナに行く船が出るみたいだ。ドニャーナは国立公園で世界遺産にも指定されている自然保護区。

サンルーカルの塩通り
筆者撮影

サンルーカルのサル(塩)通り。昔はここで塩を取ったのか塩問屋が住んでいたのか。海岸沿いにバルがたくさん並んでいて夜は賑やかに違いない。海にたたずむセニョールはこの辺の親分みたいな風格だった。

サンルーカルの河口
筆者撮影、サンルーカルの河口

小さな教会は入れなかったけど中をのぞくと船を守る綺麗な聖母像。船乗りたちがここで旅の安全をお祈りして出港していったのかも、と思った。

支倉常長一行は帰り道に随分ここで滞在したようだ。その頃にこの教会があったかは不明。

サンルーカル河口の教会
筆者撮影、サンルーカルの教会

「暑いのがもう嫌だ」と夫がいうのでポルトガルのサンビセンテ岬は涼しいに違いない、と突然予定外の隣の国へ行くことにした。私たちには計画というものが無い、よく言えば自由だ。

サンルーカルからポルトガルへ道路
筆者撮影、サンルーカルからポルトガルへ

その前にパロス・デラ・フロンテーラでコロンブスが滞在したラ・ラビダ修道院に寄って行こう。前回来たときに入れなかったのを後悔していた。

サンルーカルからポルトガルの街道
筆者撮影

だめだ~サンルーカルでのんびりしすぎた。このまま行っても修道院はお昼休みなのでポルトガルに直行することに又しても予定変更。ガソリンはスペイン側の方が安いので入れていく。

国境はもちろん無い、注意はポルトガル以外の車は国境を越えたところでクレジットカードの登録が必要。有料道路を通ると自動的に引き落とされる仕組み。この手続きをしておかないと警察に捕まると罰金らしい。前回は要領が解らず時間がかかったけど今日は係りの人がやってくれて簡単だった。夏のピークだからなのかも・・・ポルトガル到着~

ポルトガルへ
筆者撮影ポルトガルへ

サグレス岬はエンリケ航海王子が航海学校を作ったと言われているところ。写真の白い建物だけれど実際航海学校を風と海流の強いここに作ったわけは無く、学者を集めて地理や海流やコンパスの使い方や風の向きなどを研究したところだった。

サグレス岬
筆者撮影、サグレス岬

凄い景色だけどカメラには収まりきれません。

ビセンテ岬
筆者撮影

直ぐ近くのサンビセンテ岬へ移動。今日はここでランチにします。サラダを作って買って来たホットドッグとで簡単に。

サグレス岬でランチ
筆者撮影、サグレス岬

イギリス人がやっているドイツの白ソーセージのホットドッグ。サグレス岬の証明書付で一個3.5€

ランチにホットドッグ
筆者撮影

サンルーカルがあんなに暑かったのは夢だったか、ここは風が強くて寒い。下北半島みたいな強い風が吹く。

サンビセンテ岬
筆者撮影、サンビセンテ岬

キャンピングカーがどんどんやって来てあっという間に駐車場はいっぱいになった。ポーランドから来ているキャンピングカーが有った。遠いなあ。

ビセンテ岬
筆者撮影、ビセンテ岬、ポルトガル

サンビセンテ岬からの夕陽は綺麗だった。海に沈んでいく太陽に何かを感じない人はいないだろう。

サンビセンテ岬からの夕日
筆者撮影、サンビセンテの夕日

夕食はキャンピングカーでカップ焼きそば。ロマンチックな夕陽とのギャップが凄い。

 

移動距離427キロ

キャンプ場2日 24€

ガソリン 60€

ホットドッグ 7€

4日目:8月24日サンビセンテからマサゴン460キロ

アルガルベ地方は以前に既にゆっくり回っていてファロやアルブフェイラはもう行ったので何処に行こう?調べていたらビーチ沿いに岩礁の凄い景色があるみたい。ここに行きたい~

アルガルベの景色
筆者撮影、アルガルベ、ポンタデピエダデ

何か所か見れる場所が有るがポンタ・デ・ピエダードという灯台に行ってみる事にした。どこでも無料で駐車できるのは有り難い。人を使ったり管理する方がお金がかかるという事か?

凄いッ不思議なな寄峰奇岩の景色が続く。

ポンタデピエダード景色
筆者撮影、ポンタデピエダード

安全の為に遊歩道が作られているけれどここからだと絶景は見えない。

ポンタデピエダード
筆者撮影

どこにでも同じような事を考える人がいる様で誰かが壊していった隙間から崖っぷちに行ってみよう。

ポンタデピエダード
筆者撮影、ポンタデピエダド

岩の上を歩けるようになっていて時々危険なところもあるけれどこれは凄い景色。

奇峰奇岩
筆者撮影

海岸から船で廻れるみたいで沢山小さな船が出ていた。私たちは一時間くらい上から歩いて景色を堪能。

ポンタデピエダード景色
筆者撮影、ポンタデピエダデ

ほぼ帰り道に夫が「サングラスがない~」ちょっと戻って来ると言って探しに行ってちゃんと見つけて来たのには感心した。いつも私が落としたものを必ず見つけて帰って来る。これは才能、能力。

ポンタデピエダード景色
筆者撮影

随分景色を堪能した。「船はもう乗らなくていいねえ~」どこかでランチしましょ。ポルティマオという町が近いのでそこに移動。南ポルトガルらしい綺麗な街だった。

ポルティマオの街
筆者撮影、ポルティマオ

昔は漁村だったと思うけど今はヨットハーバーがあるリゾート地

ポルティマオの街
筆者撮影、ポルティマオ

中心部のレストランで私はイカの炭火焼き、夫はスズキのグリル

ポルティマオ、イカ焼き
筆者撮影、ポルティマオ

この後結局スペインに戻ることに。ポルトガルは小さいのだ、少し走ればすぐ国境。あ、ラ・ラビダ修道院に閉まる前に着けそうだからパロス・デラ・フロンテーラへ行こう。「間に合った~」ここはコロンブスが国境を越えてスペインに入ったときに滞在している。ポルトガル王から西回り航海の援助を断られ失意の中息子のディエゴとここで滞在した。今日私たちが通った街道あたりを通ったに違いない。

ラ・ラビダ修道院
筆者撮影、ラ・ラビダ修道院

ここの修道院長がコロンブスの夢のような話に耳を傾けイサベル女王に紹介してくれた。バジャドリのシマンカスにあるコロンブス関連の書類のコピーなどが展示されている。コロンブスのイサベル女王あての手紙や日記、新大陸航海の様々な文物が展示されている。

コロンブス関係書類
筆者撮影、シマンカス文書館のコロンブス関係の書類のコピー

イサベル女王が発行したコロンブスのパスポートのコピー。

コロンブスのパスポート
筆者撮影、イサベル女王発行のコロンブスのパスポートコピー

ピンソン兄弟もここでコロンブスと話したはずだ。ピンソン兄弟はパロス・デラ・フロンテーラの船主一家でピンソン兄弟の協力なしにはコロンブスの最初の航海の出発はあり得なかった。この町ではコロンブスよりピンソンの方が人気だ。

ララビダ修道院内部
筆者撮影、ラ・ラビダ修道院

近くの港にコロンブスが第一回目に使った3隻の船の実物大の模型がある。外からパチリ。

サンタマリア号模型
筆者撮影、サンタマリア号

今日も海の近くに泊まりたい、今日はこの近くで泊まるところを探そう。

マサゴンの標識
筆者撮影

 

「そうそう、マサゴンという面白い名前の町があって~」そのへんで泊まるところ探してみましょう。と行ってみたら以前に泊まったところだった。記憶から完全に抜けていた。ここも無料の駐車場があった事を思い出す。

ビーチで宿泊
筆者撮影、

既に沢山キャンピングカーで家族連れが来ていた。夏のシーズンだからねえ。

夕食は横に有るチリンギート(屋台のバル)で海を眺めながら。

マサゴンの夕陽
筆者撮影

ワインとイワシとトルティータ・デ・カマロンで夕食

夕食のイワシ
筆者撮影

野菜不足なのでトマトサラダを追加。滅茶苦茶美味しいトマトでした。

夕食のトマト
筆者撮影

ワインは今日はボトルでたのんだのでほろ酔い気分でおやすみなさ~い。

マサゴンの夜
筆者撮影

移動距離:460キロ

ポルティマオ駐車2.6€

ポルティマオランチ23.5€

ララビダ修道院7€

駐車場チップ1€

マサゴン夕食 22€

5日目:8月25日マサゴンからグアダルーペ440キロ

おはよう大西洋、今日は海とお別れして内陸に向かいます。

マサゴンの朝日
筆者撮影

アンダルシアは隅々まで広大な畑で水田や果物畑が続く

マサゴンの畑
筆者撮影

この辺りでガソリンを入れていこう値段が安い。

マサゴンのガソリンスタンド
筆者撮影

 

セビージャ方面の高速道路へ乗りエストレマドゥーラを北上する。メリダは古代ローマの遺跡が綺麗に残る世界遺産。イタリア半島以外では一番多く完璧に遺跡が残る。今日はここは通過して先に進みます。

 

カディスからの高速道路
筆者撮影

メデジンは征服者コルテスの出身地。コルテスは今のメキシコ、アステカを滅ぼした。ここのローマの遺跡を見ていこう。

メデジン
筆者撮影

丘の上に大きな要塞が有り街には様々な時代の教会や遺跡が残る。要塞はアラブ風だ。

メデジンの遺跡
筆者撮影

中世の教会の中がオフィスになっていてローマの遺跡が展示されていた。ここに入らなければ無料で要塞に登っていける。

メデジンのローマ遺跡
筆者撮影

ローマの悲劇や喜劇に使った面

メデジンの遺跡の面
筆者撮影

ローマの劇場は2003年頃に綺麗に修復したと内部のビデオで説明が有った。

メデジンのローマ遺跡
筆者撮影、メデジンの遺跡

小さな遺跡なので観光は直ぐに終了、上の要塞は暑いので省略。

スペインは多様だ、景色はどんどん移り変わり畑が樫の木林になった。この辺りはイベリコ豚の放牧地で有名なハブーゴ村も近い。黒豚いないかな?

この道路は銀の道と並行して走っているので銀の道高速道路。ローマ時代に北スペインから銀や鉱物等をセビージャまで運び船に積んでローマ迄運ぶために作ったた銀の道ビア・デラ・プラータ。

銀の道高速道路
筆者撮影

最後は山道をグアダルーペに向かって登って行く。グアダルーペは標高640メートルにある聖地。16世紀に日本からの少年使節も宿泊している。

グアダルーペへ
筆者撮影
グアダルーペの標識
筆者撮影

グアダルーペについたら大変な人だかりでどうやらお祭りらしい。石の広場に砂が敷かれていてところどころに鉄の柵が有るのは闘牛か牛追いが有るに違いない。

グアダルーペ
筆者撮影

今日はパラドールに泊まろうと決めていたので何とか街に入ったけどパラドールの駐車場は天井が低くて無理、パラドールの人に教えてもらったところへ行こうとすると前にも後ろにも進めなくなり周りの人が集まって来た。10秒ほどでグアルディア・シビル(スペイン国家治安警察隊)がやって来たのは誰かが電話してくれたのかも。

救出され安全に車を止められるところに誘導してくれてた。グアルディア・シビルさんいつも悪口言っていてごめんなさい。とっても親切で笑顔で感じ良かったです。

パラドールにチェックインを済ませてお昼ご飯は街で食べよう。

グアダルーペのパラドール
筆者撮影

街はとっても小さい。

グアダルーペの街
筆者撮影

適当に街を歩きまわってあとは夫の野生の勘で決めるのが我が家風。

グアダルーペのレストラン
筆者撮影

入り口にフランシスコ・カノというバイオリニストが住んでいたとセラミックが貼ってある。ここが良い、ここにしよう、知らない音楽家だけどね。

グアダルーペのレストラン
筆者撮影

 

グアダルーペのレストラン
筆者撮影

入り口のバルは小さいけれども中は奥まで広く家族連れが沢山食事中だった。レストランは地元の人が多い店が間違いない。

アミューズにモルシージャ(豚の血入りソーセージ)とパテ。どちらも美味しい。

グアダルーペのレストラン
筆者撮影

前菜は焼きピーマンのサラダをシェアーで

グアダルーペのレストラン
筆者撮影

私はイベリコのセクレトの炭焼き。セクレトは秘密という意味で豚の脇腹のあたりを言うらしい。イベリコ豚の中で一番おいしいと言われている部分。

グアダルーペのレストラン
筆者撮影

夫はアスパラとエビの卵あえ。

グアダルーペのレストラン
筆者撮影

デザートはチーズケーキをひとつだけ。

グアダルーペのレストラン
筆者撮影

食後酒はレストランのおごり。リンゴが入ったリキュール。

グアダルーペのレストラン
筆者撮影

合計34.80€

グアダルーペのレストラン
筆者撮影

食後は少しお部屋で休憩します。私のラッキーナンバー13号室。

グアダルーペ、パラドール
筆者撮影

部屋の入り口の横にはスルバランの絵の模写。グアダルーペに来たひとつの理由は修道院にあるスルバランが見たかった。部屋に帰るたびにこの絵が見れたのは嬉しかった。

グアダルーペ、パラドール
筆者撮影

夜の闘牛祭りは18時30分と言われた。いろんな人に念のため確認したらみんな18時30分と言ったが始まったのは19時頃だった。

ゴヤの版画集に出てくるみたいな村の闘牛祭り。

グアダルーペの村の闘牛
筆者撮影

子供連れも一緒にやんややんやと騒いで牛をはやし立て襲ってきたら必死に逃げる。

グアダルーペの闘牛祭り
筆者撮影

牛のさばきがうまい人が何人かいてびっくりした。

グアダルーペの村祭り
筆者撮影

暑い中何頭か見て疲れたので途中でホテルに戻った。テラスでビールとおつまみで簡単な夕食。

グアダルーペのパラドールの部屋
筆者撮影

部屋のテラスからお庭とメイン・ダイニングが見える。優雅にお食事をする人達のナイフが食器にあたる音と噴水の音が響いていて優雅。

グアダルーペのパラドール
筆者撮影

21時頃ギターのコンサートが始まった。ルイス・マヌエル・モレーノというエストレマドゥーラでは有名なギタリスタだそう。さっきの喧騒とは別世界、月がほぼ満月でとっても素敵な夜でした。あ、夫は先に寝てしまいましたが・・・トホホ

グアダルーペのパラドール
筆者撮影

ガソリン代108€

メデジン入場料7€

ランチ35€

夜のビール3€

8月26日:グアダルーペからマドリード258キロ

朝食は街のバルでコーヒーを飲もうと出かけたが日曜日の朝、どこも開いていない。無理か「帰ろう・・・」と思ったら一軒だけ人でごった返しているバルが有った。

グアダルーペ
筆者撮影

ここに入ろう。チュロスが人気らしくみんな大量に買って持って帰るみたい。私たちもチュロスを。これってポラスのサイズだけど?って聞くと「チュロスはぐるぐる巻いていいるのを言うのよ」と返事が「ごもっとも」コーヒーも美味しかった。コーヒー2つとチュロス3つで3€

グアダルーペの朝食バル
筆者撮影

帰り道に修道院に付随するオスペデリアを見に行った。今も修道士が生活している修道院の一部がホテルになっていて今回パラドールとどちらにしようか悩んだ。2つ星でショボいと哀しいからやめたけど遜色なしで次回はこちらに泊まってみよう。値段もうんと安い。

 

グアダルーペ、オスペデリア
筆者撮影

オスペデリアの中庭、今も10人ほどのフランシスコ会の修道士が生活しているという。

グアダルーペのオスペデリア
筆者撮影

建物の回廊も修道院らしい。レセプシオンのセニョールが親切に色々見せてくれた。また泊まりに来ます、有難う。

グアダルーペのオスペデリア
筆者撮影

いよいよグアダルーペの修道院へ。10時からと聞いたので少し早めに切符売り場へ。「入場は人数がある程度集まってからになりますので10時30分に入口へ。」と言われた、結局10時30分からなのね。その間に教会へ。

グアダルーペ教会
筆者撮影

グアダルーペの黒いマリア像。すべてのイスパニックの守護聖母。修道院の観光の最後にカマリンに入ると、このマリア像がくるりと回るようになっていてすぐ近くで拝むことが出来る。

グアダルーペ黒いマリア様
筆者撮影

一人の牛飼いが迷子になった牛を探していると聖母が現れここを掘るように街の司祭に告げる様に、そして司祭がやって来てここを掘ると聖母像が発見された。その場所に小さな聖堂を作り時代と共に発展したのがグアダルーペの始まり。アルフォンソ11世はグアダルーペのマリアに加護を求めた後にサラードの戦いでイスラム教徒との戦いに勝った。それ以来スペインのレコンキスタの中心になった聖母像。

グアダルーペの教会
筆者撮影

コロンブスが最初の航海から戻った後神のご加護に感謝するためにグアダルーペに巡礼に来ている。南米の先住民たちが教会前で洗礼を受けていたところでもある。教会の中に洗礼を受けるインディオの絵、心がチクリと痛んだ。

グアダルーペ修道院
筆者撮影

内部はこの中庭以外写真撮影禁止。大体40人くらいのグループでスペイン語の説明を聞きながら観光。お目当てのスルバランの絵は最後の方の礼拝堂だったがそれ以外にも素晴らしい絵画や彫刻作品が有った。

グアダルーペ
筆者撮影

毎年9月8日がグアダルーペの聖母の日でプロセシオン(山車)が出るという。修道院の観光は1時間少し、ホテルのチェックアウト12時ぎりぎりになった。急いでパラドールに戻り荷物をまとめてチェックアウト。

グアダルーペのパラドール
筆者撮影

レセプシオンの人が「昨日は本当にごめんなさい」「ってなにがあったかしら?」どうやら昨日到着時に車を止められずにグアルディアシビルに救助された件らしい。「大丈夫、そんなこともありますよね~ッもう忘れてたし」。というか謝られたことにびっくりした。

さあ車に戻ろう。狭い坂道の段差があるところに止めたので大丈夫かな。

グアダルーペ
筆者撮影

こんな状態で車は無事でした。

さあ帰りましょう。帰り道の街道の途中に展望台があった。巡礼者がここからグアダルーペを見て歓喜したところらしい。

グアダルーペ
筆者撮影

小さな街に大きな修道院。街より修道院の方がうんと大きい。

グアダルーペ
筆者撮影

横に小さな礼拝堂。グアダルーペへの巡礼者たちがここまで来た感謝の祈りをささげたところ。

グアダルーペ
筆者撮影

この辺りはコルク樫の林。ドングリが出来る樫の木だが皮がコルクになるので剥がされた後が木の下の部分で赤茶色になっている。約9年位でまた皮が厚くなる。ワインのふたや住宅の暖房材などに使う。

グアダルーペ近郊のクルミ樫
筆者撮影

マドリードに向かう道に出た。今回は予定より一日早く家に帰る。旅は無事に帰れば成功です。

マドリードに向かう高速
筆者撮影

走行距離:258キロ

コーヒー3€

ホテル130€

修道院10€

 

合計走行距離2065キロメートル

使ったお金合計542€

最後に

サンルーカルのビーチ競馬は長年の夢だったので本当に行けて良かった。ただ一つ残念なのは写真を撮ることに夢中になって競馬を楽しめなかったし馬をゆっくり見ていない。競馬をずっとカメラのレンズ越しで見ていた事かな。また行きたいと言ったら夫は卒倒するかもです。18時から21時まで炎天下で全部のレースを見ましたが20時頃少し太陽が傾いてから見に行っても良いかもしれない。ピサロやコルテスやコロンブスは予定外だったけど丁度ペルーに行った後だったので頭の中で色々繋がった旅でした。

 

 

インカ帝国、アンデスに栄えた高度な文明インカ文明とマチュピチュ

インカ帝国は今のペルーを中心とするアンデスに栄えた帝国だった。マチュピチュが有名だがいまだ発見されていない遺跡がアンデス山中に無数に存在しその首都だったのが標高3400メートルのクスコ。スペイン人の征服者フランシスコ・ピサロ達によって破壊されなければクスコの街には素晴らしい神殿などが残っていた。今はそこに本国にあるような大聖堂や教会、修道院が建つ。アンデス山中には古代から様々な文明が生まれており全体をアンデス文明と呼ぶがここでは15世紀から16世紀の「インカ帝国」についてまとめました。

アンデスの人々はどこからやって来た?

モンゴロイ系の移動
By ABCEditer – 投稿者自身による作品 by reference to 崎谷満(2009)『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史 日本人集団・日本語の成立史』勉誠出版, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=61586300

氷河期の頃(たぶん3万年前とか)、まだベーリング海峡が陸続きだった頃ににモンゴロイド系の人々がアメリカ大陸に渡り定住した。彼らは各地にゆっくり移動し南下していき南米に到着、環境に適応していった。遅くとも1万年前には南アメリカ大陸最南端のマゼラン海峡まで達していたようだ。アンデス地方に人がたどり着いたのは紀元前2万年から1万5千年頃と推定されている。定住生活が始まると豆やジャガイモ、トウモロコシの栽培をしている。

 

マヤ、アステカ、インカって?

アメリカ大陸に多くの文明が存在し。私の中で適当に扱っていたが時代や区分が全く違い混乱しがち。代表的なマヤ文明、アステカ文明、インカ文明の3つを簡単にまとめておく。この中でマヤとアステカはまとめて「メソアメリカ文明」と呼ばれメキシコ中央から南東部とグアテマラ等中央アメリカに栄えた高度な文明。

1.マヤ文明:紀元前1500年頃から(諸説あり)西暦1600年頃までの長期間にメキシコ、グアテマラ、ベリーズ等の広い地域に様々な時代に栄えた文化。マヤは統一国家の名前ではなく長期にわたりいくつもの都市国家を築いた文明の総称。

マヤ、チャックモール
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2.アステカは西暦1350年から1521年に現在のメキシコで起こった国の名前。大規模な土木工事を行い神殿や水利工事等の高い技術、ピラミッドや象形文字、太陽暦を使った高度な文明。スペインの征服者コルテスにより滅ぼされた。首都はティティトラン、現在のメキシコシティー。

アステカのカレンダー
wikipedia public domain

 

3.インカ文明は1200年頃から1533年現在のペルー、ボリビア、エクアドル、チリ北部等で栄えた帝国。首都は現在のクスコ。スペインの征服者ピサロにより滅ぼされた統一された巨大な帝国だった。ここではこのインカ帝国についてまとめた。

クスコの石組
筆者撮影、クスコの石組

アンデス文明

アンデスの地図
wikipedia public domain

インカ帝国の前に少しだけアンデス文明について調べてみた。実はインカ帝国は15世紀末から16世紀にスペイン人に征服されるまでの短命な100年程の文明。インカ帝国に先立ち古代アンデス文明があり現在発見された最古の遺跡は紀元前2000年のコトシュ遺跡(東京大学の発掘調査)その後チャビン様式、ワリ帝国、チムー帝国、クスコ王国と続き大きな神殿や土器を残している。アンデス文明は現在の南米大陸のペルーを中心として太平洋沿岸地帯からボリビアに繋がるアンデス中央高原に存在した文明全体を指す。

アンデス文明黄金の甲冑
筆者撮影

その後ナスカの地上絵で有名なナスカ文化等様々な時代を得てインカ帝国となる。様々の時代の土器や壺や黄金の甲冑などが発見されており高い文化を持っていた事がわかる。

アンデス文明の壺
筆者撮影 ラルコ博物館

アンデス文明の特徴

文字を持たない

鉄を製造しなかった

金や銀の鋳造が発達していた

家畜飼育が行われていた

車輪を持たなかった

根菜類、塊茎類を主食料とした。

インカ帝国

クスコの石組
筆者撮影、クスコの石組

アンデス文明を継承してクスコに1200年頃成立した部族の集合体から始まるのがインカ帝国。アンデス世界には文字が無かったので記録が無くその起源は不明。ケチュア族のインカ部族がクスコに小さな国家を作ったのが始まりと思われる。最初の200年間位は部族の集まりだったが15世紀の中頃に仇敵を倒して第9代の皇帝パチャクテは在位の33年間に版図を一千倍に拡張、第11代の皇帝ワイナ・カパックは更に領土を拡大して大帝国に広げた。ワイナ・カパックの死後正妻の皇子ワスカルと側室の子アタワルパが戦いになり1532年にアタワルパが勝利を収めるが翌年1533年スペインの征服者ピサロにより滅ぼされた。

インカの皇帝の死の絵
By Luis Montero (1828-1869) – Museo de Arte de LimaKanon6917, パブリック・ドメイン, Link

1533年インカ帝国の滅亡は種子島にポルトガル人が到着する10年前。スペインとポルトガルが海外領土獲得にしのぎを削り競い合っていた頃。日本が植民地にされなかったのは当時の日本に強い軍事力と統制があったからに違いない。

4万キロのインカ道

帝国の交通と通信の為インカ帝国内に約4万キロメートルの道路網を整備していた。まさに帝国の血管として機能し要所要所には宿場(タンボ)が置かれ俊足の飛脚(チャスキ)が宿場の小屋に駐留していた。チャスキは1日200キロも走れたと記録に残る。凄いスピードだ。道は各地点に最短で行ける様に工夫されており清掃と整備が行き届いていた。これらの情報は後にやって来たスペイン人たちによって詳細に記録に残されている。現在このインカ道を3日間で歩くインカ・トレッキング・コースが存在する。

インカ道
筆者撮影、インカ道

文字を持たなかった

インカはマヤやアステカと違って文字を持たなかった。では4万キロのインカ道を整備して飛脚は何を運んだのか?広大な領土を文字を持たずにどうやって支配できたのか?謎は深まるばかりだ。

<インカ帝国内の4万キロにわたるインカ道の地図>

wikipedia Attribution-Share Alike 4.0 International license.
You are free:
Description
English: This map shows the Inca Road System through South America
Date 15 July 2015, 17:04:06
Source Personal Communication
Author Koen Adams

 

ローマ帝国もしかりで道路網は国のインフラの基本。有事に軍を派遣したり法令を伝えたり人が動き物が流れる。文字を持たなかったので彼らが残した記録が存在しない。文字を使わずどうやって指令や伝達を行ったのか、マチュピチュに代表される立派な都市や巨大遺跡が残るが実はインカ帝国について私たちが知る事が出来るのは征服したスペイン人たちが残した記録。スペイン人たちは事細かくリサーチし記録を残している。すなわちマチュピチュ等スペイン人が入らなかったところは破壊されなかったが記録が全くない為いまだに謎の部分がほとんどである。

文字が無く広大な帝国を統治できるか?

では文字無くしてこの巨大な帝国を支配できたかと疑問が残る。大きな帝国を維持するためには伝達や命令や連絡が必要だったはず。飛脚が4万キロメートルのインカ道を走り「伝言ゲーム」の様に国王の言葉を運ぶには余りにも制限がある。実はインカ帝国に色の違う縄を結んで何かを記録したキープ quipuという縄が存在した。

インカの縄、キープ
筆者撮影、キープ

ひもの結び目が1~9までの数や位取りを現し色や組み方で記録を残していた。当時インカにはキープの専門家が養成され「ひもの組み方」等で人口や農産物の生産量などを把握したようだ。おそらく色、結び目の形、結び目と結び目の距離、縄の長さ等の組み合わせで様々な事を現したはずだがいまだに謎が多く暗号の様なものだったかもしれない。

インカのキープ
wikipedia public domain

キープを創ったり解読できたのは専門の教育を受けた「キープカマヨック」と呼ばれる専門家だけだった。飛脚が運ぶのが石や粘土板ではなく紐だったら軽くて合理的だ。紙は軽いが水に弱く書いた文字も消える事が有る。現在ではコンピューター解析により少しずつ謎は解明されておりキープは会計報告、人口や財政や軍隊等の重要な情報を記録していたと考えられている。コンピューターの世界も0と1の組み合わせだけで複雑な世界を作り上げる。キープはもしかしたら数だけではないもっと複雑な事象を現しているかもしれないと個人的に想像している。研究が進み驚愕の新事実が明らかになる日が楽しみだ。

縄を結ぶ記録は実は他にも存在し日本語では結縄=ケツジョウという。中国、エジプト、ハワイにもあり日本では沖縄の藁算=ワラサンというのもそのひとつ。

マチュピチュは何故滅ぼされなかった?

マチュピチュの景色
筆者撮影、マチュピチュ

インカ帝国の都市マチュピチュは標高2400メートルの山の中にある都市。20世紀(1911年)にハイラム・ビンガムによって発見された。今だ謎が多くその仮説の中にマチュピチュは通常の都市ではなくインカの人々も知らない秘密都市だったというのが有る。山の中にありインカ道も危険な険しいものでスペイン人に見つからなかったのが幸いした。クスコが征服された後スペイン人に見つからないようマチュピチュに繋がる道をインカが破壊したという説もある。実際今でも鉄道とバスを乗り継いでやっと到着ができ、下の街からはマチュピチュは全く見えないように創られている。

マチュピチュから発掘された石像
筆者撮影、マチュピチュから発掘された石像

以前はマチュピチュの墓から発見された遺体のほとんどは女性だったと言われていた。発見された当時の骨学者により身長が小さいことから「インカの太陽の乙女を育てる特別な秘密都市だったかもしれない」と言われていた。これは現在では否定されており最近の研究では男女比は同等、骨に傷などがない事から平和に暮らしていた、人口は500人から750人ほどだったとされている。

マチュピチュからアンデス山脈
筆者撮影、マチュピチュ

アンデスから見る星空は天の川がくっきり見え美しかった。天の川から雨が降り大地を潤し川になり海に流れて又天の川になると考えても不思議ではない。宇宙の法則を手に入れ雨季や乾季を知り太陽や月や星の観測をしていたのは間違いない。

マチュピチュの景色
筆者撮影、マチュピチュ

広大なアンデス山脈にマチュピチュだけしか都市が無かったはずは絶対に無く、未だに誰も知らない遺跡が沢山眠っているはず、と考えるだけでゾクゾクしてくる。

インカの建築構造

サクサイワマン遺跡
筆者撮影、サクサイワマン遺跡

マチュピチュの遺跡だけでなくインカ帝国の石組は大変精巧に組まれており石と石の隙間にはカミソリ一枚入らないそうだ。ペルーは実は地震国でマチュピチュも2つの断層の上に作られている。地震が起きた時にマチュピチュの街ごと揺れて次第に戻る耐震構造になっているらしい。遺跡の見える部分は全体の60%ほどで土台部分に砕かれた細かい石が敷き詰められており水はけをよくする。

マチュピチュの耐震構造
筆者撮影マチュピチュの耐震構造

クスコに1650年に地震があったときインカの建造物の上にスペイン人が創った教会は壊れたがその下にあったインカの建物は無事残った。ペルーはナスカプレートと南米プレートの上に有るため地震が多くアンデスの人々は耐震構造で街や建造物を創っていた。

クスコの街の石組
筆者撮影、クスコの石組

インカの神様

インカ帝国を作ったケチュア族は太陽の神インティを最高神とし太陽信仰が国家の基本だった。太陽だけでなく月もコンドルもジャガーも蛇も山も水もカエルも神様だった。皇帝は最高神「太陽の子」又は「太陽の化身」だった。

太陽の観測

下の写真はマチュピチュのインティワタナ。インティワタナは「太陽を繋ぐ」という意味のケチュア語。石柱の角度は東西南北にすべて対応しており対角線上を冬至の太陽が通過するらしい。垂直な突起部分は年に2度だけ太陽が頂点に来た時に影が無くなる。

マチュピチュのインティワタナ
筆者撮影、マチュピチュのインティワタナ

彼らは太陽を神とあがめ皇帝は太陽の子だった。太陽の動きを観測し季節を予測出来たものこそが権力を持つことが出来た。雨季と乾季、冬至と夏至を知る力は農業や安全の為大切だったので天文学を研究し太陽の運行を正確に手に入れた。様々な街に天文観測所があり星の運行を記録し太陽の動きを研究した。

マチュピチュの太陽の神殿
筆者撮影、マチュピチュの太陽の神殿

写真上はマチュピチュの太陽の神殿。2つの窓が有り夏至と冬至にそれぞれの窓から太陽が神殿の中に入る。

インカの農業研究所

下の写真はモライの農業試験場。標高3500メートルの地点に有り山の斜面を利用して約100メートルの標高差で高度差による作物の研究をした。

モライの農業試験所
筆者撮影、モライの農業試験場

写真ではわかりにくいがひとつの段は約1メートルほど、温度差は最下部と最上部で約5度。ここで標高差による温度変化や湿度変化で異種交配や気候への対応を研究した。これらの研究により標高の高いアンデスの山岳地帯でジャガイモやトウモロコシが今も育つ。

とうもろこし
筆者撮影、とうもろこし

インカ帝国の滅亡

ピサロの率いる武装したスペイン軍が到着したのはインカの内乱が終わり新しい皇帝アタワルパが即位してすぐだった。まるで南スペイン、グラナダ王国の終焉と同じで帝国の崩壊は内部から蝕まれるのだ。

ピサロだけでなくスペインからやって来たコンキスタドーレス達(征服者たち)はひとり残らず自国で食いつぶしたならず者たちで一攫千金を求めてやって来た非道な荒くれ者達だったのはインカにとってあまりにも不運だ。アタワルパ王はスペイン人たちの到着に驚いて神に占ったところ「監視し様子を見る」だったので抵抗せず謁見した。

クスコ街並み
筆者撮影、クスコ

帝国首都クスコでピサロと皇帝アタワルパは謁見するがドメニコ会修道士が聖書を渡しキリスト教に改宗する事を求めるとアタワルパは聖書を破り捨てた。同時に周囲のスペイン兵が射撃を開始、周りにいた武器を持たないインカ兵たちは次々と射殺され皇帝アタワルパは捕虜にされた。

何故少ないスペイン人に多数のインカ兵は倒されたか

髭を生やした白い神ビラコチャはアメリカ大陸の古代文化において創造神として信じられていた。馬に乗ったスペイン人たちはビラコチャ、すなわち神に見えた。アメリカ大陸に馬は無く馬に乗ったスペイン人は巨大な頭が二つある神にみえて怯えた。

インカの神様ビラコチャ
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最初に到着したスペイン人たちは170人ほどで8万人のインカが征服されている。インカ帝国の敵の民族が存在しスペイン人と組んだ。「敵の敵は味方」、インカの周りの反対勢力をスペイン人がうまく利用した。スペイン人たちは協力して一緒に戦った民族もその後征服していく。

 

さらに平和に暮らしていたインカは強い武器を持っておらずスペイン人達が持ってきた火器にひとたまりもなかった。インカと違いアマゾンの民族は野生の敵が多かったので鋭い武器や弓をもっており反撃されたスペイン人たちはアマゾンは征服できなかった。アマゾンには今もそのままの生活を続ける村がありペルー政府もその実態は把握できていない。

 

インカ帝国の最後

幽閉されたアタワルパはスペイン人たちが黄金に異様に反応する事に気が付きピサロに「部屋いっぱいの黄金を与えるから釈放してほしい」と頼む。次々と帝国中からもたらされる金をスペイン人は金の延べ棒にして本国へ送って行った。どれだけの金を集めてもスペイン人たちの欲望は満たされる事無く、ピサロは冷血にも皇帝アタワルパを処刑する。

アタワルパ王
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その後反乱も度々有ったが最後の皇帝は1572年スペイン人に捕らえられ処刑され誇り高いインカ帝国は滅亡した。

その頃日本は戦国時代、織田信長の比叡山焼き討ちが1571年、既にイエズス会宣教師達が活躍しており日本の事を詳しくリサーチしている。本国スペインの神聖ローマ皇帝カルロス5世は既にこの世になくその息子フェリペ2世の治世下、レパントの海戦の勝利やプロテスタント諸国と戦争をしていた時代、戦争にかかる費用はペルーやメキシコからもたらされる金銀で賄った。

最後に

アンデス文明やインカ帝国は未だ未知の部分が多い。調べれば調べる程謎が出て来て興味もそそられた。医療技術や薬草の知識も豊富で現在にまで使われている物が有る。マチュピチュやクスコだけでそれぞれひとつの記事になるほど奥が深くそのうちに記事にしたいと思う。ここはざっくりインカ帝国についてまとめてみました。

 

 

 

 

マドリードに出来たタベルナ・ソルサルの定食15€は超お得。創作料理のシェフがマドリードにタベルナを開業。

マドリードの中心部オペラ座の近くに130年の歴史のあるローカルを改装して開店したばかりのタベルナ・ソルサルTaberna Zorzal。スペインの全国紙エル・ムンドEL MUNDOやアーベーセーABCなどに記事になっていて気になっていた。お昼の定食が15€というので行くしかないと試してきた。(タベルナはレストランより少し気さくなムードの飲食店を言います)創作料理のシェフがスペイン伝統料理に挑戦です。

タベルナ・ソルサル

タベルナ・ソルサル外観
タベルナ・ソルサル・筆者撮影

シェフはイバン・サエス氏Iván Sáez。既にマリード市北部のデスエンカハというレストランで成功しているらしい。調理学校卒業後に修業したレストランがマドリードのエル・アンパロやサラカイン、バスク州ギプスコアのムガリッツ、同じくバスク州サン・セバスチャンのクールサールやベラサテギというから一流所のレストランを渡り歩いたようだ。その後マドリードではサーランダZalandaで影響を受け、分子料理や真空調理等を学んだ。サーランダはスペイン広場の近くにあった小さなレストランで突然ミシュランの星付きになり当時レストラン界で話題をさらったのが2003年頃と思う。サーランダが引っ越したローカルにソルサルを営業していたのが記憶にあるが私は一度も中には入らなかった。スペインの経済破綻やらでいつの間にか無くなっていたがいろんなところで活躍し成功してマドリードに伝統料理のタベルナをオープンするに至ったようだ。

メニュー・デル・ディア(お昼の定食)

入り口の看板に手書きの今日メニュー・デル・ディア(定食)の内容。

黒板にメニュー
タベルナ・ソルサル・筆者撮影

メニュー・デル・ディア(定食)は平日のお昼のみで15€。前菜、メイン、デザートそれぞれ2つから選べるようになっている。定食を試しに来た人が入りきれずに並んでいる日が有ると聞いたので念のため予約をして行った。13時30分に開店でいつもの様に一番に入店。ソルサルは渡り鳥の名前で店内に入ると黄金のソルサルがいた。私たちはこの黄金の鳥の下の席に案内された。

タベルナ・ソルサル内部
タベルナ・ソルサル・筆者撮影

ローカルは随分歴史あるが内部は綺麗に改装されていた。昔のタベルナのムードを残しつつ壁の絵が斬新。天井には大きなお皿の装飾にソルサルの渡り鳥の絵。

タベルナ・ソルサル内部
タベルナ・ソルサル・筆者撮影

席に案内されたらカルタ(お品書き)が出て来たので一通り目を通すけど今日は家を出る時から「15€の定食」を食すと心に決めて来た。ラボ・デ・トロ(オックス・テイル)とかコロッケが美味しいとエル・ムンド紙(スペイン全国紙)には書いてあったなあと微妙に心が動く。

タベルナ・ソルサル、メニュー
タベルナ・ソルサル

カルタ、お品書きはスペイン語のみ。一皿の値段は10€~20€、デグスタシオンが32€なので悪くはない。

お品書き
タベルナ・ソルサル・筆者撮影

飲み物は聞かれずボトルのお水を置いて行ってくれた。ボトルもソルサルの名前入り。今日はアルコール無し、お水で行きます。

お水
タベルナ・ソルサル・筆者撮影

 

アミューズ
アミューズ
タベルナ・ソルサル・筆者撮影

定食なのにアミューズが出て来た。ポテトのクリームに豚肉の乾燥させたものが入っている。

前菜2種から選ぶ

カモの燻製のフレッシュパスタ。幅の広いパスタに少し和風の味付。

前菜、パスタ
タベルナ・ソルサル・筆者撮影

マグロの燻製入りビチソワ。

前菜
タベルナ・ソルサル・筆者撮影
メイン料理2種から選ぶ

メイン料理は今日の魚とミンチボール。魚はサーモンかメルルーサだったのでメルルーサを頼んだ。メルルーサは温度調理と真空調理で内部までふんわりジューシーになる魚のひとつ。

メイン
タベルナ・ソルサル・筆者撮影

アルボンディガ(ミンチボール)はチキンのミンチボールと小さなポテトで和食みたいだった。甘味はもしかしたら味醂を使っているのかもしれない。

メイン
タベルナ・ソルサル・筆者撮影
デザート2種から選ぶ

チーズケーキとフルーツサラダが選べたけどお店の人から「チーズケーキ好きなら絶対気に入るッ」と強く押され2人ともチーズケーキになりました。”激うま”でした。

デザート
タベルナ・ソルサル・筆者撮影
精算、ラ・クエンタ

定食15€x2で30€の請求。お水は無料でした。

精算
タベルナ・ソルサル・筆者撮影
場所

住所Calle Sta.Clara10 Madrid 電話912017391

レストランのホームページ

http://www.tabernaelzorzal.com/

メトロ・オペラから徒歩2分。ソル広場やスペイン広場からも徒歩圏内。

 

まとめ

このレベルで15€は安い。伝統料理とのうたい文句ですがかなり斬新な伝統料理。ア・ラ・カルタを試していないので何とも言えませんが。オペラのすぐ近く、中心部で場所が便利、何かのついでに訪問できるのが良い。次回はラボ・デ・トロ(オックステール)やコロッケを試しに是非とも夜にア・ラ・カルタで再訪します。人気が出て値段が上がったり予約が取れなくなったりする前にどうそ~。

夏のピレネー登山とウエスカの村々,2018年7月16日~24日

5月に続いて今年2回目のウエスカのピレネー・アラゴネス(アラゴン側ピレネー)へ行って来た。目的はオルデッサのゴーリツ小屋の横でキャンプとモンテ・ペルディード(フランス語でモンペルデュー)の登山、ウエスカのピレネー界隈の村を見る事、その旅の記録。ピレネー山脈の魅力はあまり人の手が入っていない野性味。登山電車やケーブルカーが無く素朴で野性的な自然が残り世界中から山を愛する登山家たちがやってくる聖地です。

7月16日:1日目マドリードから登山起点のトルラ・オルデッサまで486キロ

朝からお弁当作って10時15分出発。そろそろ渋滞もない時間、マドリードからサラゴサ街道へ。

マドリード出発
筆者撮影

お天気予報を一週間前から見ていたけどピレネーは毎日雨、気温は5度から17度。雨だったら他に行く?山はやめる?とか言いながらの出発だった。そしてやっぱり曇って来た。

サラゴサ街道182キロメートル地点、ここでガソリン満タンにします。何故か他よりリッター5セントは安い。

高速道路のガソリンスタンド
筆者撮影

知られていないけどスペインは山岳国。マドリードからどっちに走っても山を越えていくことになる。ウエスカ近くの工事が終わればもうピレネーも少し近くなるね。

途中の街道
筆者撮影

15時15分ブロト(Broto)に到着。486キロを5時間、全部国道、有料道路無しだから有り難い。ブロトの川沿いの広場でお弁当を食べて休憩。雨の予報はどこいったか晴天だ。

<ブロトBrotoにある川の横の広場>

ブロト
筆者撮影

少し休憩したら明日のバスの切符を買いにトルラ(Torla)に行こう。夏のハイシーズンだから明日並ぶかもしれないしね。とトルラ(Torla)へ移動して明日の登山の起点になるプラデラまでの切符を買う。

<トルラ・オルデッサTorla Ordesaの山と教会>

トルラ
筆者撮影

切符は往復で4.5€

*トルラ・オルデッサから登山口のプラデラまで。このバスは7月と8月のみ。

<トルラからプラデラ行きのバスの切符>

切符
筆者撮影

 

今日はトルラ・オルデッサの駐車場に止めて寝る事に。夜はトルラの街で夕食。可愛いパティオが有るバルに入る。

トルラのバル
筆者撮影

 

キノコ入りのロンガニーサはひとつ1ユーロ。手作りらしく美味しかった。

トルラのバルでロンガニーサ
筆者撮影

山の中の村だけどイカ・フライが有ったので一皿

トルラのバルでイカのフライ
筆者撮影

ビールとワイン2杯づつで合計17€。安ッ。スイスに比べて飲食が安いのもスペイン・ピレネーの魅力。

ガソリン代 69.37€

バス代8€

夕食代17€

宿泊費なし

7月17日:2日目トルラからコラ・デ・カバージョ経由ゴーリツまで登山

朝は早く目が覚めた。世界遺産のオルデッサ国立公園にあるモンテ・ペルディード(3、355m)の山を目指します。途中のゴーリツでモンテ・ペルディードの行きと帰りにテントで寝る予定。5時に起きて荷物の準備、始発のバスに並んでいる人が既にいてみんなの本気度がわかった。慌てて準備して6時半に並んで7時のバスに乗ろう。

切符売り場は5時45分から開いている。暗いうちから登山客は動き始めていた。

<早朝のトルラ・オルデッサのバスの切符売り場>

トルラ
筆者撮影

*バスは7月と8月のみ運行。それ以外の時期は自分の車でプラデラまで移動できる。車が無い場合は村のタクシー利用になる。

<6時30分には7時のバスに乗る人の列>

トルラのバス乗り場
筆者撮影

大きな荷物は持って乗れないので各自でバスの荷物入れに積み込む。

トルラのバス乗り場
筆者撮影

バスから時々動物が見えるので窓から目を凝らす。約20分でプラデラ到着。

最初は林の中を歩いて行く。登りも緩やかで気持ちのいいハイキング。大きなロープを持った人に合うのは岩登りらしい。いくらでも岩登り出来るところがある。

オルデッサ公園
筆者撮影

暫くはブナ林の中、気持ちのいい軽い登りの山道を登って行く

オルデッサハイキング
筆者撮影

<ソアソの滝  Cascada de Soaso>

オルデッサのハイキング
筆者撮影

プラデラ・デ・ソアソ。ここまでくるとコラ・デ・カバジョはもうすぐ。私たちはここでお弁当。昨日の残りのお弁当とカレーとパンとチーズ。

<プラデラ・デ・ソアソPradera de Soaso>

オルデッサのハイキング
筆者撮影

コラ・デ・カバージョは馬のしっぽという意味の滝。ここまで来て戻るコースが一般的。プラデラの登山口から往復16キロで、朝出れば夕方には戻れる危険の少ないハイキングコースだ。今日の私たちはこの滝の上に登って行く。

<コラ・デ・カバージョの滝Cola de caballo>

コラ・デ・カバージョ
筆者撮影

滝に向かって右の方からこの岩を登って行くと鎖場です。

オルデッサのハイキング
筆者撮影

落ちたら命は無いかも・・・というところが続く。

オルデッサのハイキング
筆者撮影

買ったばかりのiPhone「落としたらどうしようッ」と思いながらカメラとiPhoneの2つ持ちで撮影を続けるも、その後夫に取り上げられました。「危ない!」確かに。

オルデッサのハイキング
筆者撮影
オルデッサのハイキング
筆者撮影

次第に空気も薄くなりスピードが落ちて後から来た人に抜かれていった。コラ・デ・カバージョから登る事2時間半でついにゴーリツ小屋が見えて来た。到着13時。朝7時半から歩きはじめ5時間半で登り口のプラデラからゴーリツ小屋。

<ゴーリツ小屋 Refugio Goriz>

オルデッサのハイキング
筆者撮影

テントが張れるのは19時から朝8時までという規則らしい。夕食前にテントを張り今日はゴーリツ小屋で暖かいものを食べよう。座席に限りがあるので予約が必要でした。*山小屋に宿泊する場合は早めに予約しましょう。

ゴーリツ小屋の横にテント
筆者撮影

明日のお弁当の準備、アルファ米のおにぎりの賞味期限切れまくっていました。

オルデッサのハイキング
筆者撮影

19時からゴーリツ小屋の夕食は前菜ガルバンソ。

ゴーリツ小屋の夕食
筆者撮影

チキンのロースト

ゴーリツ小屋の夕食
筆者撮影

とチョコレートムースでした。

夕食代17.5Ⅹ2=35€

ロッカー代 3€(明日テントは置いて行く為)

夜中に見た星空はとっても綺麗で天の川がはっきり見えた一生忘れない星空だった。

7月18日:3日目ゴーリツ小屋からモンテ・ペルディードを目指すが雪で断念してブロトに戻る。

朝冷たいコーヒー(水で溶いたインスタント)を飲んで8時出発。そしてひたすら山を登って行く。

<ゴーリツ小屋から更に登って行くと岩場>

モンテペルディードへ
筆者撮影

振り返ると氷河に削られた谷が綺麗に見える。標高が高くなると高山植物が小さくなってきた。

<ピレネー登山は高山植物も楽しみのひとつ>

ピレネーの高山植物
筆者撮影

そしてまた岩登りが続く。これってハイキングとは絶対呼ばない、ゼーゼー言いながら登って行きます。

<モンテ・ペルディードはもっと右の方、霧で見えない>

モンテペルディードへ
筆者撮影

だんだん雪が増えて来た。ゴーリツ小屋で既に聞いていたので想像はしていたけどピッケルもアイゼンも無くストックさえ2人で1個な私たち。

モンテペルディードへ
筆者撮影

無理、11時頃にモンテペルディードが見えるけど霧も沢山出て来たのでここで帰ります宣言。夫はまだ行きたそうだったけどね。

雪渓を降りてきた人に上の様子を聞いた。彼らも途中であきらめて降りて来たらしい。今年は雪が多い。マドリードの近くのセルセディージャの人達だった。

モンテペルディードへ
筆者撮影

 

お弁当を食べてあとはひたすら降りていくが、下りがつらいのだ。石がゴロゴロで弱り切った足に気を抜くとズルッと滑るので気が抜けない。辛い中時々遠くを見ると氷河が削った谷が綺麗に見える。

<オルデッサ渓谷とソアソ谷>

モンテペルディードへ
筆者撮影

帰りは鎖場じゃない方から降りると遠くにコラ・デ・カバージョの滝が見えた。その上にはモンテペルディード。あの雪のあたりから降りて来たんだ~。

<コラ・デ・カバージョの滝とピレネーの山々>

オルデッサのハイキング
筆者撮影

その横に岩場の鎖の所をさっきの人達が降りていくのが見える。昨日あんなところ登ったんだとびっくり。

<コラ・デ・カバージョの滝の上の岩場、鎖場の所>

ピレネーオルデッサの岩場
筆者撮影

高山植物が沢山咲いているが疲れ切っていて余裕なし。悔しいのは野生のエーデルワイスが群生していて力を振り絞って近づいて写真を取ったけど、ピンボケでした。

<エーデルワイスの群生、力尽きていてピンボケ>

野生のエーデルワイス
筆者撮影

 

17時30分にプラデロに到着。20キロ以上8時間半登って下った。あ、バスが見えた~生きて帰れてよかった。

 

モンテペルディードへ
筆者撮影

トルラからブロトに戻って今日はホテルに泊まろう。友達アントニオ氏のホテルに行って部屋が空いていたら泊まることに。夜は近くのピザ屋で夕食。疲れ果てホテルも夕食も写真撮るのを忘れるが登山からの生還のお祝い。

夕食 ブロト 22.70€

宿泊費なし(アントニオが払ってくれた)

7月19日:ブロトからネリン、テージャのドルメン、レビージャの山の中で宿泊

朝の気温13度。9時に出発して今日はどこへ向かう。夫の大好きな登りのカーブの山道を進んでいく。

アラゴンの山の中
筆者撮影

ウエスカの山の中には小さな村が沢山あって夏は登山客や避暑の人達でにぎわっているが冬は雪に閉ざされる。山に囲まれた景色はペルーの聖なる谷のようだ。

ピレネーの村
筆者撮影

ネリンのロマネスク教会。パロキア(教区教会)と書いてあったので使っているみたい。向こうにピレネー山脈が見える。

ネリンのロマネスク教会
筆者撮影

 

ウエスカはどこの村も煙突が可愛い。思わずパチリ。

ピレネーの村
筆者撮影

ネリンからバスが出ていて1時間程バス移動しそこからゴーリツ小屋まで歩く登山コースも有るらしい。こんな大きなバスが行くんだとびっくり。

ピレネーの村
筆者撮影

片側一車線、横は崖の中央線のない山道をどんどん進んでいく。ヒエッ~

ピレネーの村
筆者撮影

向こうに昨日登っていたピレネーの山が見える。

<モンテ・ペルディードが向こうに見える>

ピレネーの村
筆者撮影

ビオ(VIO)の村、途中羊の大群を連れたおじさんとピレネー犬。

ピレネーの村
筆者撮影

「何頭ですか~?」と聞くと「500頭かなあ。」と返事が返って来た。ピレネー犬はまだ3歳。もっと大きくなって100キロくらいになるそう。「ビオにはどのくらいの家族が住んでるの?」「年中いるのは2家族かな」

ビオで羊飼いとピレネー犬
筆者撮影

「ピレネー犬はおとなしくて頭が良い。」「この子は未だ3歳だけどね。まだもっと大きくなって100キロ位になるかな。」という事でした。

ビオで羊飼いとピレネー犬
筆者撮影

おじさんと別れて山の中に入って行く。こんな道ばっかり。

アラゴン、ウエスカの道路
筆者撮影

山の中に紀元前2500年のドルメンが残る。これはおそらく埋葬に使ったもので内部から副葬品が出て来ているらしい。

<テージャのドルメン Dolmen de Tella>

テージャのドルメン
筆者撮影

 

今日の宿泊はこの近くのレビージャ(REVILLA)の村の横。

ピレネーの村
筆者撮影

ランチはサラダとカップ焼きそば

夕食
筆者撮影

この谷には猛禽類で有名らしい。ケブランタ・ウエソ(髭鷲)は動物の骨を空から落として割って骨髄を食べる翼を広げると3メートル近くにもなる大きな鳥。谷を大きな鳥が旋回しているのを見るのは独特の感覚を呼びさます。

レビージャの山の中
筆者撮影

 

夜は缶詰とパンとサラダとこの景色。

ピレネーの聖なる谷の景色は時間と共に色が変化していき私の持つボキャブラリーでは表現できないくらい美しい夜は更けていった。お休みピレネー

ピレネーの村
筆者撮影

移動距離 71キロ

使ったお金、なし

 

7月20日:ミラベルの谷からアインサ、湖の横で宿泊

今日も快晴。いつぞやの天気予報はすべてはずれ。

ピレネーの村
筆者撮影

下って行くと分かれ道があってガタガタ道だけどすれ違う車が入って行ったので付いて行った。

レビージャから分かれ道
筆者撮影

広場に沢山車が止まっていて沢下りや岩登りの人達がいた。私は今日はもう歩かない日と決めたので川のそばでのんびり、夫は山に登って行って綺麗な滝が有ったと言っていた。

ピレネーのふもと
筆者撮影

 

さあ前に進もう。アインサAinsaは随分昔に行ったけど記憶の彼方なので再訪することに。2つの河の合流地点の高台にあるアインサは元は小さな王国の首都だった。今も城壁に囲まれる小さな街。

<アインサAinsaの街並み>

アインサ
筆者撮影

街を散策して良い時間になったので食事場所を探す。知らないツーリスティックな街ではなるべく地元の人が入っている店を探すが鉄則。

<アインサAinsa>

アインサ
筆者撮影

私はロンガニーサとポテトと卵の一皿のプラトス・コンビナードス(ひとさら料理)

アインサ
筆者撮影

夫はメニュー・デル・ディア(今日の定食)でアスパラガスと子牛の頬肉

アインサの食事
筆者撮影

メニューにはワインと水がついて2人で25ユーロ

帰り道にこの地域のワイン、ソモンターノSomontanoの賞を取ったワインがオファーで3.9€、これは買いでしょ。

ソモンターノのワイン
筆者撮影

 

今日はどこで泊まるか放浪しているうちに湖の横で道が無くなった。こんなところでユーターン出来るのかドキドキしたが何とかぐるりと方向を替えここに今日は泊まろう。

湖
筆者撮影

ダム湖だけどエメラルドグリーン。

湖の横にキャンピングカーを止めた
筆者撮影

 

誰も絶対来ない湖の横

湖の横
筆者撮影

パンとトマトと缶詰の夕食。湖はエメラルドグリーン、真っ青な空はオレンジ色に変わって来た。カリブ海みたいな色の湖でした。

使ったお金

アインサ・ランチ25ユーロ

アインサ駐車料金1ユーロ

宿泊費 なし

7月21日:バルバストロとアルケサル、トーレシウダからブロト

今日も快晴。この近くに「オプス・デイ」の聖地が有るらしいから行ってみたいなあ。オプスの創始者、聖ホセ・マリア・エスクリバはバルバストロ出身らしい、じゃあまずはトマトで有名なバルバストロへ行ってみよう。

ウエスカの道路
筆者撮影

市が立つ日だったみたいで街の真ん中の広場で野菜くだもの市が開催中。

バルバストロの朝市
筆者撮影

バルバストロのトマテ・ロサ(ピンク・トマト)は巨大な甘いトマト。

バルバストロ朝市
筆者撮影

その市の行われていた広場に聖ホセ・マリア・エスクリバの生家が有った。

バルバストロの聖ホセマリア・エスクリバの生誕地
筆者撮影

バルバストロのインフォメーションで勧められたアルケサルへ向かう。計画なんて全然ないから行き当たりばったりだ。

アルバストロからアルケサル
筆者撮影

スペインで最も美しい街に選ばれた事が有るらしい。岩に張り付いた小さな街で川沿いの沢下りも有名らしい。

<アルケサルArquesal>

アルケサル
筆者撮影

川沿いに降りていくのは無料だけど安全の為に3€のヘルメットと保険に入ることを奨励していた。途中まで歩いてみたが誰もヘルメットなんてしていない。この国の人達はいつもこう。私たちは途中まで降りて戻って来た。

アルケサル
筆者撮影

アルケサル(Arquesal)の丘の上の教会にはロマネスクの回廊と彫刻が少し残っていた。

アルケサル
筆者撮影

ではオプス・デイの聖地へ向かおう。オプス・デイはダビンチ・コードでは怪しいセクタ扱いだがカトリックの組織のひとつ。スペイン人のホセ・マリア・エスクリバが創始者で彼は現在カトリック教会からサント(聖人)に聖別されている。そのオプスデイの聖地がトーレシウダにある。

<トーレシウダのサンクチュアリ>

トーレシウダ
筆者撮影

子供の頃のホセ・マリア・エスクリバが病気になったときこの黒いマリア様にお祈りして救われたという。今日もたくさんの巡礼グループが来ていた。ルルドやサラゴサ等を交えた聖母マリアの巡礼ルートが有るようだ。

トーレシウダの黒いマリア
筆者撮影

トーレシウダを後にしブロトへ戻ろう。途中で広場が有ったのでお昼にする。どこにでも無料で車を止めて休めるところがあるのはありがたい。

途中でランチ
筆者撮影

ちょっと暑いですがカップラーメンでランチにします。

休憩にカップラーメン
筆者撮影

そして切り開かれた山の中をドライブ。

ブロトへ移動の道路
筆者撮影

ブロトに着いた。ここで休憩、川が流れる広いスペースで普段は村のサッカーやイベントに使われているらしい。夏はキャンピングカーが何台も止まっている。

ブロトの広場
筆者撮影

夕食はレトルトのカレーと缶詰のイワシ、パンとチーズとワインです。

今日はここの広場で泊まります。キャンピングカーが沢山やって来たので登山家に有名な場所らしい。みんな明日モンテ・ペルディードに登るのかも。後でアントニオに聞いたら「キャンプは禁止になっているけど誰も気にしていない」らしい。「禁止するほど人が来るのはスペインでは普通」だって。そのとおり!

アインサで買った3.9€のワインは結構美味しかった。

ブロトの夜
筆者撮影

そして静かな夜は更けていった。

ブロトの広場
筆者撮影

使ったお金

果物代 13ユーロ

ワイン 3.9ユーロ

宿泊費 0ユーロ

7月22日:ブエサからブロト、アジェルベの廃村

今日も快晴。午後までのんびりまったりする予定がうちの夫はじっとしていられない性格でやっぱり移動する事に。近くのブエサ(Buesa)の村へ。

ブロト
筆者撮影

ここも小さな石の村で何家族も住んでいないと思う。

ブエラの村
筆者撮影
ブエラ
筆者撮影

村の中にサンチアゴの道の標識。

ブエラにあるサンチャゴの道の標識
筆者撮影

ブエサから山道が峠まで続いているらしく又してもジープしか行かないような道に入って行った。どのくらい走ったか道はどんどん狭く荒々しく、携帯の電波も圏外になり私が無口になったのを悟った夫は途中で引き返してくれたが、私がいなければ峠まできっと行っただろう・・・

山道
筆者撮影

ブロトに降りてピッツェリアでランチ。

ブロトのピッツェリア
筆者撮影

アントニオが迎えに来てくれるところまで車で行ってここに車を置いて行く。3日間放置して大丈夫かなあ・・・

ブロト
筆者撮影

17時30分、時間通りジープの音がした。アントニオは時間に正確だ。これはスペインでは凄い事。この可愛いジープに乗って20分でアジェルベに到着。アジェルベはアントニオが廃村を丸々購入して村を改装中の静寂な彼のサンクチュアリ。そこで2泊するらしい。

アントニオのジープ
筆者撮影

 

5月に来た時にはまだ無かったテラスが出来ていた。ワインと景色を楽しみながらのひと時。

アジェルベのテラス
筆者撮影

夏でも夜の山は急に寒くなって来た。暖炉に火を入れてしばらくここで話をして夜の暗い中アントニオは山道をジープで帰って行った。タフです。

アジェルベの廃村
筆者撮影

 

7月23日:アジェルベの廃村でのんびり過ごす

山の朝はさわやかだ。聞こえてくるのは鳥の声と遠くからの川の流れと風の音。

アジェルベの廃村
筆者撮影

アルフォンソとワンちゃん達はいつも一緒だ。アルフォンソはここで働く若者、都会が嫌いでここに流れ着いた。ワンちゃんがいっぴき増えていた。

アルフォンソと犬たち
筆者撮影

 

平日は毎日3人の工事の人達がやって来て村の改修工事。道路も瓦礫に埋もれていたのをアントニオが私費で開通させた。お昼は工事の人達と一緒に地元の野菜ボラハ(Borraja)とポテトの煮込み。ボラハ(Borraja)はスペイン北部で良く使う野菜、うちの夫が料理してくれた。

アジェルベの廃村で昼食
筆者撮影

夜はアントニオがバーベキュー用にチュレタ・デ・コルデロ(子羊のあばら肉)を持って来た。「チュレタ(あばら)ばっかりを注文すると高いんだよ」と言っていたが見事に全部あばら肉。

アジェルベの廃村でバーベキュー
筆者撮影

慣れた手つきで火を起こしてバーベキュー。

アジェルベの廃村
筆者撮影

夏の夜はなかなか更けず21時30分頃に少し暗くなってきた。

アジェルベの廃村でバーベキュー
筆者撮影

 

真っ暗になるのは23時過ぎ。向こうの明かりがついた村はアシン・デ・ブロト。少しは大きな村のようで50人くらいは住んでいるのかも。月が輝いた素敵な夜でした。

アジェルベの廃村
筆者撮影

お休みアジェルベ。

7月24日:アジェルベからマドリードへ

おはようアジェルベ。今日は歩いて車まで降りて行く。1時間ほどの山道を下って行く。車は大丈夫かなあ。

アジェルベの廃村
筆者撮影

ちょっとだけ心配したけど車は3日間ここで無事に待っていてくれた。

アジェルベの廃村
筆者撮影

帰り道の正面にモンダルエゴの山が見える。暫くこの景色もお別れです。向こうから乗馬の子供達が来るのはアントニオの従妹がやっている乗馬スクール。車を止めて挨拶。

アジェルベからブロト
筆者撮影

今日も快晴だ、さあマドリードへ向かいましょう。ガソリン1回もいれていないけどマドリードまで大丈夫かなあ。いつもの安いガソリンスタンドまでこのまま行けるでしょうか。

 

マドリードへ向かう道路
筆者撮影

マドリードまで183キロの所で車がチーンと鳴った。ガソリンあと少しの合図。ドキドキしたけど何とか間に合って満タンにしてマドリードへ。ガソリン112€

ガソリンスタンド
筆者撮影

15時55分到着。490キロを5時間45分で家に到着。

近所のバルでお祝いにビールとトルティータ・デカマロン。旅は無事に帰れば成功なのです。夏の短いピレネーの旅は終了。

マドリードのバルでお祝い
筆者撮影

全走行距離1353キロメートル

使ったお金合計348€

最後に

夏のピレネーは爽やかで気持ちよくおすすめです。モンテ・ペルディードまでは余程の登山好き山好きのコースですがコラ・デ・カバージョの滝までなら軽いハイキングコースなので万人向けですね。

支倉常長率いる慶長使節団とサン・ファン・バウティスタ号出港まで。日本とスペインの交流の歴史

 

慶長遣欧使節団。代表は支倉常長(はせくらつねなが)43歳、仙台藩士。江戸時代に伊達政宗の遣いの侍達がメキシコ経由でスペインとローマに旅をした。キリスト教禁止令が出ている時代おそらく江戸幕府との密約があったのではと想像されている。日本政府からの公式の使節としては最初の使節団で2013年には400年祭を記念して両国間で様々なイベントが行われた。日本が作ったガレオン船サン・ファン・バウティスタ号で月の浦港を出港し太平洋を航海してメキシコまで行きスペインの船に乗り換えて大西洋を渡り本国スペインへ上陸。地中海を渡りローマではローマ法王に謁見して日本に戻った7年に渡る侍の旅の物語。非常に長くなるのでここではサン・ファン・バウティスタ号の出港までを書いています。

時代背景


当時のヨーロッパ

スペインとポルトガルが大航海時代を先行しており世界を2分して争っていた。スペインはフィリピンを植民地にし1年から2年をかけて太平洋を渡りフィリピンのマニラとヌエバ・エスパーニャと呼ばれたメキシコのアカプルコを大型船マニラ・ガレオンで西回りの香辛料貿易を行っていた。西回りの航路はマゼランによって既に1521年に発見されている。ポルトガルは喜望峰を通りインド航路からマカオへ行く東回りの香辛料貿易を行っておりどちらも既に日本にやって来ていた。

下地図は白線がスペインのマニラ・ガレオンの航路、青線がポルトガルの航路。

マニラガレオン航路
By World_Topography.jpg: NASA/JPL/NIMAderivative work: Uxbona (talk) – World_Topography.jpg, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10344087

時代はプロテスタント(新教)諸国が登場しカトリック国スペインを苦しめていた。海上の支配権をめぐりスペインポルトガルが揉めていたが、スペインのフェリペ2世がポルトガル王位を手に入れ制海権を支配する中、今度は新興国が参加し始める。イギリスとオランダは対スペインで結束をはじめスペインのフェリペ2世はイギリス女王エリザベス1世との結婚を画策するが失敗。カトリック国のフランスも対スペインで動く。ネーデルランドがスペインに対し独立戦争を開始すると後ろからイギリスはそれを支援した。そこでフェリペ2世は大艦隊をイギリスに向けドーバー海峡で両国の激突したアルマダの海戦(1588年)はスペインの敗北で終わる。

<アルマダの海戦>

アルマダの戦い
wikipedia public domain

フェリペ2世没後即位したフェリペ3世は政治に関心が薄い王で日の沈む事無き大帝国スペインの斜陽の時代が始まる。フェリペ2世1598年没、同年大阪城では豊臣秀吉が亡くなっている。

リーフデ号とウイリアム・アダムス

対スペインで動くイギリスのエリザベス女王がアジア圏の貿易に目を付けていた頃だった。イギリス人ウイリアム・アダムスは子供の頃船大工に弟子入りするが造船より航海術に興味を持ち海軍に入る。フランシス・ドレークの指揮下アルマダの海戦に参加している。その後も航海の仕事でオランダ人船員たちと交流を深めロッテルダムから極東を目指す航海に弟と参加した。5隻で出港するが嵐やスペイン船の攻撃や赤痢や原住民で散々な目に合い唯一残ったリーフデ号は日本の大分の島に漂着した(1600年4月29日大分県豊後臼杵の黒島)。

<リーフデ号>

リーフデ号
パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=298229

日本は大量に積んでいた武器や弾薬、火縄銃を没収、イエズス会の宣教師たちはオランダ人とイギリス人を海賊と忠言し即刻処刑するように要請したが家康はこれを無視。ウイリアム・アダムスとヤン・ヨーステンは徳川家康に気に入られ後に江戸に招かれる。その約半年後の関ケ原の合戦で家康が勝利を得たのは小早川秀秋の寝返りだけでなくリーフデ号から没収した大量の武器弾薬を使えたことが有利に働いた。ウイリアム・アダムスはその後三浦按針(みうら あんじん)と名乗り家康に仕え幾何学や数学、造船や航海術等の知識を授けた。

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スペイン船の漂着

1609年マニラからアカプルコに向かうマニラ・ガレオンが台風で千葉の海岸に打ち上げられ、乗船していたドン・ロドリーゴ一行は地元住民に助けられた。場所は九十九里浜の中ほどにある御宿(おんじゅく)。ドン・ロドリーゴはスペインの貴族でフィリピンの臨時総督在任中にマニラで日本人暴動が起こった際に徳川家康に書簡を送った周知の人物だった。次期総督との交代の為マニラからアカプルコへ向かう船旅で難破するが地元民に助けられ大名・本田忠元(ほんだ ただもと)の歓待を受け江戸城で家康に会見している。ウイリアム・アダムス(三浦按針)が建造したガレオン船サン・ブエナ・ベントゥーラの提供を受けアカプルコへ帰還して行った。約1年間の日本滞在時の事をドン・ロドリーゴ日本見聞録として執筆している。

 

家康の目的

この時家康は幕府の船を提供しているがその見返りに銀の精錬技術を持った技師の派遣を申し入れている。返答は精錬した銀の大半をスペインが手に入れるというもので話の折り合いがつかなかった。

*メキシコの精錬技術:銀は鉱石のなかで金と一緒になっており日本ではこの分離に苦労していた。メキシコでは化学反応を利用し水銀を混ぜるアルガマム法(パティオ法)を利用していた。

*スペイン国王フェリペ3世がその礼にとビスカイーノに届けさせた一台の置時計は今も静岡市久能山東照宮に保管されている。

セバスティアン・ビスカイーノ
ビスカイーノ肖像
パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=374036

上記ドン・ロドリーゴの救済の礼を述べる為ーという名目で日本にやって来たのがセバスティアン・ビスカイーノだった。セバスティアン・ビスカイーノはスペインの探検家でマニラ・ガレオンの貿易商人だが今回は大使の役割。徳川家康はメキシコの鉱山技術に興味がありその要請に沿ったものだったがスペイン側はキリスト教の布教が前提で最終合意は至らなかった。ビスカイーノは後に支倉と共にサン・ファン・バウティスタ号でヌエバ・エスパーニャに戻る。ビスカイーノが日本に来た本当の目的は日本の近郊にあると信じられていた金銀島の探索だった。1611年にサン・フランシスコ号で神奈川県の浦賀に到着し徳川秀忠と家康に謁見し沿岸部の測量の許可を得て仙台に向かい仙台城で伊達政宗に会う。この時通訳をしたのがスペイン人修道士ルイス・ソテロだった。測量中に三陸大地震に遭遇しているが船の上だったので無事だった強運の持ち主。金銀島は見つからずヌエバ・エスパーニャへ戻る途中暴風雨に逢い船は破損し日本に滞在し帰国のチャンスを狙っていた。

 

ルイス・ソテロ

セビージャ出身のルイス・ソテロはフランシスコ会の修道士。支倉と共に後にスペインとローマ迄旅をするキーパーソン。サラマンカ大学で学びフランシスコ会修道会に入りヌエバ・エスパーニャ(現メキシコ)からマニラに渡りそこで日本人キリスト教徒の指導をしながら日本語を学んだ。1603年にフィリピン総督の書簡を携えて徳川家康に謁見。上記座礁船のドン・ロドリーゴとの通訳も務めた。伊達政宗との出会いは政宗の側室の病気を治療した事による。

伊達政宗


伊達政宗1567年~1636年

生まれは山形県米沢市。戦国大名で伊達家の17代党首、仙台藩の初代藩主。4歳の時に天然痘で右目を失明。秀吉が天下統一に向かうと秀吉の配下に入り朝鮮出兵にも従軍。関ケ原の戦いでは徳川家康側についた。1601年に仙台城を築城し初代仙台藩主として君臨。朝鮮出兵時の伊達藩のいで立ちが奇抜で「伊達な、伊達者」という言葉になったという。政宗は南蛮文化に興味を持っていたようでサテンやビードロ、合羽や象牙を所有していた。デザインが南蛮風の陣羽織が複数現存する。

伊達政宗像
筆者撮影
慶長大地震

1611年12月に大地震が東北地方を襲ったことが分かっている。2011年東北大震災規模の地震で大きな津波がおこり仙台藩の沿岸部は大きく被害を受けた。政宗公は仙台の復興の一環としてマニラからメキシコのルートに仙台を挟み貿易港として栄えるという計画を考えた。

もともと日本と外国の貿易はポルトガルの貿易商人のルートでインドのゴアからマカオを経由し西日本の大名を中心に行われていた。ところがスペイン人修道士アンドレス・デ・ウルダネータがメキシコからフィリピンまで大西洋を横断する航路を発見した(1565年)。

<アンドレス・ウルダネータ>

アンドレス・ウルダネータ
パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1185086

ウルダネータはバスク人探検家。後にアウグスティーノ会の修道士になりフィリピンからアカプルコにいたる航路を開拓。この航路は「ウルダネータ航路」と呼ばれこれによりスペインのマニラ・ガレオン貿易が発達する。伊達政宗はこのメキシコ・マニラ間に仙台を組み込む貿易の計画を立てていた。

造船と銀の精錬方法

伊達政宗の狙いのひとつは海洋先進国のスペインからガレオン船の建造方法や船の操作方法を手に入れたかった。幕府は既にウイリアム・アダムスの協力により外洋船を創っており伊達藩も造船技術を手に入れたかった。又家康も興味を示した銀の精錬方法をメキシコから直接手に入れたかった。ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)で行われている化学変化を用いる銀の精錬法アルガマ法を学んで来るという目的が有った。

討幕説

スペインやメキシコ、ローマのキリスト教徒と組んで伊達政宗は幕府を倒そうとしていたかも、という説があるらしい。もしもここでスペインと政宗が江戸幕府を倒していたら日本の歴史は随分違ったものだったと、想像するのも悪くはない。

江戸幕府のキリスト教対策


伴天連追放令
徳川家康
By 大阪城天守閣, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9558314

遣欧使節が出発する前年1612年に江戸幕府は直轄地でのキリスト教の禁止を命じ、さらに翌年1613年にはそれを全国に広げ伴天連追放令を出している。慶長使節団が出発する半年前の事だ。この時にソテロは信者の元に救援に行き自分も火あぶりの刑に処せられることになった。足元に木がくべられた時に伊達政宗の嘆願の書簡が届き助かっている。この禁教令で高山右近らは国外追放されるが取り締まりが本格的に厳しくなるのは家康亡き後の1619年の禁教令からとなる。

サン・セバスティアン号

江戸幕府はキリスト教は禁止するが海外との交易には興味を持っておりビスカイーノの提案によりメキシコとの通商の交渉の準備を進めていた。家康はリーフデ号をモデルにウイリアム・アダムスに命じ船を建造。サン・セバスティアン号と命名し出発の準備をしていた。約100トンのサン・セバスティアン号はルイス・ソテロを船長に1612年浦賀を出発するが暴風雨と積荷が重すぎて船は沈没している。

この頃から家康はオランダとの関係を優先しはじめスペイン人ビスカイーノの立場は微妙なものになって行った。またビスカイーノの本来の目的「金銀島を探し出す」が家康の耳に入り次第にスペインに腹を立て冷淡になっている。オランダは貿易のみを求めておりスペイン・ポルトガルはキリスト教の布教も強く求めてくる。オランダ、イギリスはスペインの悪口を吹聴し次第に幕府の交易と興味はオランダへ傾いていく。

支倉常長(はせくら・つねなが)1571年~1622年?

支倉常長は600石の知行を持ち伊達政宗に仕えた伊達藩士。秀吉の朝鮮出兵も同行している。航海と外国での経験と共に万が一不成功に終わった場合を考慮しての人選だった。

サン・ファン・バウティスタ号の建造
サン・ファン・バウティスタ号
筆者撮影

立場が悪くなりメキシコへも帰れないビスカイーノに政宗は新しい話を持ち出し手を組んだ。ここにサン・ファン・バウティスタ号の建造とメキシコ行きの準備が整った。当時の日本には太平洋を渡れる船を作る技術は無くビスカイーノの知識と技術を手に入れ海外との貿易を目指したかったのが伊達政宗だった。

船の建造は仙台石巻の牡鹿半島にある月の浦港(つきのうらこう)。一年半の歳月をかけて大工や鍛冶屋や荷役がかかわった震災復興大事業となった。*船の建造地としては雄勝町(おがつちょう)呉壺(くれつぼ)説もある。

ビスカイーノは早く日本を発ちたいが簡単に船の先端技術を教える気は無くわざとマストを少し短くし帆を大きく扱いにくく創らせている。

サンファンバウティスタ号の出港


サンファンバウティスタ号
筆者撮影

船の大きさは約500トン。

全長55.35m

最大幅11.25m

吃水約3.8m

メインマストの高さ32.43m

これだけの船を45日間で完成させている。

180人の乗組員の中には幕府の役人、仙台藩士、商人達等日本人140人とスペイン人航海士など40人がいた。海賊に遭遇した時の為大砲24砲を備えた武装商船だった。

1613年(慶長18年)10月28日満月の日、政宗公からスペイン王やローマ法王に充てた書状を持った支倉常長、ルイス・ソテロ、セバスティアン・ビスカイーノを乗せたサン・ファン・バウティスタ号は満月の夜出港していった。

続く