フェリペ2世「スペイン・日の沈む事無き大帝国」の国王

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フェリペ2世、かつて「この国に日が沈む事無き」と呼ばれた頃のスペイン国王。遺産相続で手に入れたものがとてつもない巨大帝国だった。父王カルロス5世(スペイン史ではカルロス1世)からスペインと新世界、ナポリ、シチリア、サルディーニャおよびミラノ、フランドルを継承し、後にポルトガル王位継承権が手元にやって来る。スペインの領土は文句なく史上最大となった。がその治世は困難が多く父王からの負の遺産も多く受け継いでいる。さらにプロテスタント問題、ネーデルランド独立、無敵艦隊の敗北など辛酸な屈辱も多く味わった王でもある。日本との関係では天正遣欧使節団が謁見し随分と厚遇してもらっている。広大な帝国を支配しながら慎重王と呼ばれ華美な事を好まず4人の妻に先立たれ最後は修道僧のような生活をしたスペイン国王フェリペ2世の生涯の物語。

1527年、バジャドリード


バジャドリードはちょっと特別な街。カスティーリア王国の首都だったこともあり12世紀以来重要な位置を占めていた。カスティーリア王ペドロ1世残酷王はここで結婚式を挙げ、またカトリック両王(イサベル女王とフェルナンド王)もこの街で結婚式を挙げている。この特別な街で特別な王子が生まれた。

フェリペ誕生

父王カルロス5世26歳、母イサベル23歳。その日は朝から雨だった。ピメンテル宮殿は窓のカーテンがすべて閉められ誰にもその苦しみにゆがんだ顔を見られないよう頭からシーツでくるまれた王妃イサベル。苦しみに耐え13時間の陣痛の末1人の男の子を産んだ。結婚1年目の待望の男子誕生に国中が沸き上がった。

<カルロス5世とイサベル王妃、ティチアーノ作をルーベンスが模写>

カルロス5世とイサベル
wikipedia public domainマドリード、リリア宮

ピメンテル宮殿は今はバジャドリードの県庁になっている。2週間後の洗礼式はサン・パブロ教会でトレドの大司教により執り行われ街は華やかに飾られ民衆には騎馬試合や闘牛や祭りが提供された。この子の名前は祖父フィリップ美公の名前をとりフェリペと名付けられた。

<フェリペの洗礼式>

Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1863854
 子供時代のフェリペ

小さいころは狩り遊びに興じていたが6歳の頃から家庭教師がつけられ教育が始まる。サラマンカは1215年に既に大学があった学問の街。子供時代のフェリペは家庭教師によりサラマンカで教育を受ける。体は少し弱かったようだが子供のころから無口で感情をあまり外に出さない男の子だった。

母イサベル


母イサベルはポルトガルの王女。カトリック両王の三女マリアの娘、なので父カルロスと母イサベルは母親同士が姉妹の関係。

<フェリペの母イサベル王妃、ティチアーノ作>

ポルトガルのイサベル
De Tiziano – [2], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=20202270
イサベル王妃の母マリアはポルトガルのマニュエル王に切望され嫁いだカトリック両王の娘。不幸が続いたカトリック両王の子供達の中で唯一幸福な結婚をした人物。

まわりの期待通りの美しくしとやかで聡明な王妃だった。結婚式の1時間前に初めて会ったカルロスはすぐに恋に落ちた、美しく清楚で気品のある女性。そんな母親から生まれ大切に育てられたのはフェリペ2世の人生の中で最も幸運な事だったのではと、思う。

実際父王カルロス5世は戦争と会議と旅で不在な事が多い中誠実に国を守り子供たちを育てた。

母イサベルの死

イサベル王妃はもともと体が弱くベッドに伏せることが多かった。当時産褥で亡くなる女性が多かった中フェリペの下に妹2人、さらに男の子を産んだ後体調を崩しその子は生まれて間もなく死亡、さらにもう1人を授かるが死産。これがたたりイサベルはもう起き上がることはほとんどなくなりトレドのフエンサリーダ宮殿で息を引き取る。フェリペ12歳、多感な少年時代に最愛の母を失った。

<イサベル王妃の死、プラド美術館>

フェリペの母イサベルの死
De José Moreno Carbonero – Galería online, Museo del Prado., Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=42463134

父王カルロス5世は棺の傍らで祈り続けその後1か月間トレドの修道院に籠った。現在はエル・エスコリアル修道院にカルロス5世と共に埋葬されている。1人の世継ぎフェリペだけでは心配な声もあったはず、だがカルロス5世はこの後生涯結婚せず亡き妻を慕い続けた。

フェリペの結婚


フェリペ2世は4度結婚する。王家の結婚は全て政略結婚。誰と結婚するのが我が国の為になるか、その次に大切なのは世継ぎを残す事。最初の結婚で男子が生まれるがその子は異様な容姿と極端な性格のドン・カルロス。フェリペは男子誕生に恵まれず妻と子の死を何度も経験し結婚を繰り返す事になる。

<フェリペ2世、20歳頃、ビルバオ美術館>

フェリペ2世
public domain
最初の結婚はポルトガル王女マリア・マヌエラ、1543年

フランス王女との話はあったが母親の面影を探してか父の話を振りきり従妹のマリア・マヌエラと結婚。どちらも狂女フアナの孫にあたる16歳同士の結婚。亡きイサベル王妃を慕う父王カルロスに再婚する意志は無く、したがってひとり息子フェリペの結婚は大切な政治だった。

「美しい王女様です」とポルトガル大使から報告を受けていた。華やかな結婚式はサラマンカで執り行われ闘牛やお祭りが民衆に振舞われた。その後2人の共通の祖母、狂女フアナがいるトルデシージャスへ向かった。城に監禁されていた狂女フアナは若い2人の孫を見て大変喜んだそうだ。。

<マリア・マヌエラ>

マリアマヌエラ、フェリペ2世の最初の妻
wikipedia Dominio público

マリア・マヌエラは陽気で明るい王妃で音楽が得意で宮廷は明るいムードに包まれた。2人の間にやがて子供が出来、大変な難産で男の子を産んだ。マリア・マヌエラはその後熱が下がらず2度と起き上がること無く、18歳の短い生涯を終えた。マリア・マヌエラの遺体はいったんグラナダに運ばれ、後に完成したエルエスコリアル修道院へ移動。今もそこに眠っている。

 

*マヌエラはポルトガル王ジョアン3世と王妃カタリーナの娘。父親のジョアン3世はマヌエル1世とカトリック両王の3女マリアの息子。母カタリーナはフィリップ美公と狂女フアナの末娘。父と母はいとこ同士。フェリペの父親カルロスも狂女フアナの息子なので父方も母方も従妹になる。血の濃い結婚の結果がスペイン・ハプスブルグを蝕み始めた。

母の命と引き換えに生まれた息子は弱く小さくカルロスと名付けられるが生まれながらに異様であった。シラーの戯曲、後ヴェルディ―のオペラになったドン・カルロスの誕生。フェリペを苦しめる事になる王子の誕生だ。

<カルロス10歳頃、プラド美術館>

ドン・カルロス
De Alonso Sánchez Coello – [1], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=630429
フェリペの初めての海外領土視察1548年

父王カルロスは王位継承者フェリペに政治経験と広大な領地を見せる為ネーデルランドへ呼びドイツや北イタリアの領土を見せる。フェリペは生涯常に父の命令に素直に従う。しかし社交性が無く不愛想で無口、オランダ語もフランス語も出来ないフェリペはあまり領民には人気が無かった。フェリペも豪華な宮廷文化は好みではなかった。2年9か月の旅を終えスペインに戻る。

<フェリペ2世1551年ティチアーノ、プラド美術館>

フェリペ2世1551年
De Desconocido – http://www.museodelprado.es/imagen/alta_resolucion/P00411.jpg, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=140998

同じころイエズス会士フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着し日本にキリスト教を伝えている。

イングランド女王メアリーチューダー

次のフェリペの妻になるメアリーは幼少の頃に辛酸を舐め尽し他人を信じる事より疑う事で強い信念を培い生きた王女だった。後にプロテスタント迫害でブラッディ―・メアリー、血のメアリーと呼ばれる。

<即位前のメアリーチューダ->

メアリー1世
wikipedia public domain
National Portrait Gallery

父親はイギリス王ヘンリー8世、母親はカタリーナ・デ・アラゴン、又してもカトリック両王の娘だ。カタリーナが5度の妊娠に失敗し死産を繰り返し6度目の懐妊で生まれたのがメアリー。ヘンリー8世は4歳年上のカタリーナに最初は熱心だったが6度の出産後、容姿にも衰えが目立つカタリーナへの愛情は次第に無くなる。カタリーナの侍女だったアン・ブリーンは国王の愛人となり次第に発言力を持ち王妃の座を所望。男子がいなかったヘンリー8世はカタリーナと離婚してアンを正式な王妃に迎えるためにカトリック教会と決裂した。

<ヘンリー8世2度目の王妃アン・ブリーン>

アンブリーン
By 不明 – http://www.siue.edu/~ejoy/eng208lecturenotessonnets.htm (see also National Portrait Gallery, London: NPG 668), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1283649

やがてアンは娘を産みその子が後のエリザベス女王となる。庶子に落とされたメアリーにアンは娘エリザベスの侍女となるよう強要するがメアリーは断固これを突っぱねた。幽閉状態になりアンにより毒殺されかけるが危険を感じ取り提供される食事はなにも食さず生き延びる。母カタリーナが城に監禁され孤独な死を迎えた時アンはそれを祝ったという。しかし後にアン・ブリンは国王ヘンリー8世によって斬首刑、次の王妃の息子がエドワード6世として即位するが15歳で夭折する、と周りはメアリーを拘束しよう動き出す。命からがら脱出しメアリーを支持する民衆と共に1553年メアリー1世としてイングランド女王に即位した。

<メアリーのロンドン入場、後ろにいるのがエリザベス>

メアリーのロンドン入場
public domain
The Entrance of Queen Mary I with Princess Elizabeth into London, 1553
by John Byam Liston Shaw © Palace of Westminster WOA 2592
イングランド女王メアリーとの結婚、1554年

結婚は政治。父王からの命令である。イギリスの女王となったメアリー1世とフェリペは2度目の結婚をする。叔母と甥の関係になる。メアリー側にとっては国内のプロテスタントに対抗できるメリットがあった。11歳年上のメアリーはすでに37歳、フェリペ26歳。交換し合ったメアリーの肖像画が今もプラド美術館にある。

<メアリー1世、1554年、アントニオモーロ、プラド美術館>

ブラッディ―メアリー
By アントニス・モル – Museo del Prado Catalog no. P02108 [2], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4314226
<フェリペ2世1554年ティチアーノ、ピッティ―宮殿>

フェリペ2世
wikipedia pabulic domain
Source/Photographer Web Gallery of Art: Inkscape.svg Image Information icon.svg Info about artwork

フェリペがイングランドに入りメアリーと過ごし、おそらくメアリー1世の人生で初めての幸福な時間を過ごす。多くのカスティーリアの男の様にフェリペは優しく紳士だった。そんなころメアリーの懐妊が発表される、が実は水腫と想像妊娠だった。

フェリペはイングランドを離れスペインへ戻り2人は遠距離結婚となる。それぞれが国王なので仕方がない。フェリペはこの時の1年2か月のイングランド滞在とその後サンキンティンの戦費の無心で3か月滞在しかしておらず実際1年5か月の夫婦生活だったがメアリーにとっては白馬の王子さまとの蜜月、人生で唯一の幸福な日々だった。

カルロス5世の退位とフェリペ2世の即位


父カルロス5世は1555年アウグスブルグの和議のあと退位。ハプスブルグ帝国を守るため戦争と会議と旅に明け暮れたカルロス5世は涙の引退声明の後、スペインのユステの修道院へ妻の絵を持って隠居する。

<ユステのカルロス5世>

カルロス5世ユステ

父の退位により1556年1月16日フェリペ2世としてスペイン国王に即位。さらにオーストリアを除く領土を受け継ぐ。叔父のフェルディナンドが皇帝位を継承しここからハプスブルグ家はスペイン・ハプスブルグとオーストリア・ハプスブルグに分かれる。

サン・キンティンの戦いとエル・エスコリアル

1557年8月10日聖ロレンソの日、フェリペ2世は即位後初めての戦争でフランスを破る。フランス北部の街サン・キンティン(仏サン・カンタン)の戦い。相手はアンリ2世。戦後カトーカンブレジ条約で長年のフランスとの軋轢のイタリア戦争に終止符が打たれた。この勝利を記念して後に作らせた巨大な修道院兼王宮がエル・エスコリアル修道院となる。

<サンキンティンの戦い、エル・エスコリアル修道院蔵>

サンキンティンの戦い
public domain
Source http://www.unapicaenflandes.es/imagenes/Asedio.jpg
Author Niccoló Granello

この戦費をイングランドに助けてもらうためフェリペは妻のメアリーに会いにイギリスへ。2度目の最後のイギリスの滞在となる。メアリーは5年間の在位の後卵巣腫瘍で1558年に死去。次にイギリス王位に就くのがエリザベス1世、実はフェリペ2世はこの後エリザベス1世女王に求婚しているが断られている。同年父カルロス5世ユステで崩御。慕っていた叔母2人もほぼ同時に亡くなりフェリペ2世はさらに孤独感を強めていく。

 

フランス王アンリ2世の長女イサベル・デ・ヴァロア


又しても世継ぎなく妻に先立たれた。では次、として決まるのがフランスの王女イサベル。

ここでメディチ家登場。メディチ家はイタリアのフィレンツェで丸薬と銀行業で大儲けをした豪商家族。ボッティチェルリやミケランジェロのパトロンで有名。フィレンツェのウフィツイ美術館はメディチ家の事務所だった建物。「オフィス」をイタリア語で「ウフィツィ」という。

ローマ法王まで出しているロレンツォ豪華王の時代はメディチ家の最盛期、そのロレンツォの孫にあたるカトリーヌ・デ・メディチはフランス王家の血も引く。スペイン・ハプスブルグに対抗するため商人の娘とフランス王家の結婚話がまとまった。

 

<フランス王子アンリとカトリーヌの結婚>

アンリ2世とカトリーヌデメディシス
wikipeida public domain

 

カトリーヌはフランソワ1世の次男アンリと14歳で結婚したが長男フランソワが突然死、次男のアンリがフランス王になったのでカトリーヌは自動的にフランス王妃となった。あまり美しいとは言えない女性だったが体が丈夫で頭が良く機転が利く。夫アンリには20歳上の愛人がいたがお構いなく9人の子供を産み夫亡きあとは摂生として大活躍し女帝となる。

そのカトリーヌ・デ・メディチとアンリ2世の娘、イサベル・デ・ヴァロアとフェリペ2世は結婚する。サンキンティンの戦いの後のカトーカンブレージ条約の一環だ。戦争ばかりしていたフランスと仲良くしましょうと結婚が決まった。

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カトリーヌの長女イサベル・デ・ヴァロアは13歳でスペイン王妃となる。

<イサベル・デ・バロア、プラド美術館>

イサベル・デ・バロア
wikepedia public domain

当時の国王の結婚式は最初に代理結婚式が行われる。1559年6月パリで行われた代理結婚式では5日間にわたり祭典や舞踏会、馬上槍試合が行われた。その祭りの最中に不吉な事が起こる。騎馬試合でフランス国王アンリ2世が槍で目を刺され落馬、その後死亡。

15歳のスコットランド王女メアリー・ステュアートはアンリの息子フランソワと結婚式を挙げている。同年イングランドでエリザベス1世が即位しメアリーはその正当性に対して抗議し2人の女王の戦いのゴングが鳴っている。

<フランソワとメアリー>

フランソワとメアリー
http://www.blastmilk.com/decollete/gallery/tudor/maryqosandfrancis-thumb.jpg From Catherine de’ Medici’s Book of Hours, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2962692

フェリペ2世の結婚に戻ろう。実はイサベルと先に婚約していたのはフェリペ2世の長男カルロスだった。カルロスは生まれた時から体は弱く容姿は異様で性格は残酷だった。度々の異常な行動に廻りには黒いうわさが絶えなかった。息子は次第に父に敵対するようになりプロテスタントのネーデルランドへ行って父王に反旗を翻そうとしたところ捕まり幽閉され23歳で謎の死を遂げる。オペラ、ドン・カルロスではフェリペ2世が若い2人の恋を邪魔してイサベルを妻にしという話になっているが事実ではないようだ。

1560年にフェリペ2世とイサベル・デ・バロワの結婚式がスペインのグアダラハラの宮殿で行われた。その翌年首都がマドリードに移動している。フェリペはイサベルより18歳年上。若い王妃は最初は流産をするが1566年にイサベル・クララ・エウヘニアが生まれ1567年に妹カタリーナ・ミカエラを出産。

<イサベル・クララ・エウへニアとカタリーナ・ミカエラ、プラド美術館>

フェリペ2世の2人の娘
SÁNCHEZ COELLO, ALONSO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

2人の可愛い娘と美しい王妃はフェリペに大きな幸福を与えた。1568年に新たに男子を妊娠するが死産の後イサベルは帰らぬ人となる。ドン・カルロスが亡くなって間もなくの事、息子と妻をほぼ同時に失くしたフェリペの悲しみは深かった。今は2人ともエル・エスコリアル修道院に埋葬されている。

 

冷徹で近寄りがたいと言われるフェリペ2世だが娘達への手紙に「お前の善良な父より」と愛情を込めて署名してる。この娘たちによってフェリペ2世の人生は少し明るいものになった。特に長女のイサベラは優秀で機転が利き生涯フェリペのお気に入りだった。

4度目の結婚ハプスブルグのアナ・デ・アウストリア

「もう結婚なんてしたくない」と思ったかもしれない。王様家業は大変だ。4度目の相手探しが始まった。野心家のカトリーヌ・デ・メディチは末の娘を押してきたが最終的に決まったのはオーストリア・ハプスブルグからアナ・デ・アウストリア。フェリペ2世の妹の娘なので叔父と姪の関係になる。フェリペ2世41歳アナ19歳。

<アナ・デ・アウストリア、プラド美術館>

アナデアウストリア
wikipedia publc domain

1570年プラハで代理結婚式が行われた後セゴビアのアルカサールで結婚式が行われた。アナの母(フェリペの妹マリア)は小さい頃から娘にカトリックとスペイン語とカスティーリアの習慣を教えていた。誠実で質素、金髪でブルーの瞳、エレガントで愛らしく直ぐにマドリードの宮廷に馴染み人々に愛される。3歳と4歳の前王妃の娘達にも慕われ幸福な日々の中最初の男子を授かる。フェリペ2世に笑顔が戻った。そんな頃に戦争がはじまった。

弟フアンとレパントの海戦

実はフェリペに母違いの弟がいた。カルロス5世の庶子フアン。「やんごとなきお方のお子様」と田舎で秘密裡に育つがカルロスは生前公にはしていない。

<ユステでカルロス5世に紹介されるフアン、プラド美術館>

フアンデアウストリアのカルロス5世への紹介
Eduardo Rosales – Museo del Prado

金髪の美しい青年に育ちカルロス5世からの遺言に従いフェリペ2世は彼を宮廷に呼ぶ。それ以来ドン・ファン・デ・アウストリアと呼ばれ軍人の道を歩む。

<ドン・ファン・デ・アウストリア、スペイン海軍所蔵>

wikipedia public domain

この時代オスマン・トルコが地中海で暴れだしキプロス島を制覇した。怯えるベネチア共和国はスペインに援軍を求めるがフェリペ2世は消極的だった。危機感を抱いたローマ法王が出て来て十字軍を提唱。カトリック連合軍「神聖同盟」が結成されその総司令官にドン・フアン・デ・アウストリアが選ばれる。1570年10月7日メッシーナ海峡に連合艦隊300隻が集結しギリシャ沖で285隻のオスマントルコと対峙したのがレパントの海戦。結果約1時間半で神聖同盟の勝利となりドン・フアンはヒーローとなる。この戦士の中にまだ23歳のミゲール・セルバンテスがいた。後の「ラマンチャの男」ドン・キホーテの物語の作者。

アナの死と子供達


アナ・デ・アウストリアは5人の子供を産んでいる。待望の長男が生まれたのがレパントの海戦のすぐあと。この子はフェルナンドと名付けられフェリペはたいそう喜んだ。神のご加護、異教徒を倒し世継ぎを授かったと早速ティチアーノに描かせた作品がプラド美術館にある。

<勝利へ捧げるフェルナンド王子とフェリペ2世、プラド美術館>

勝利の神へフェルナンドを捧げるフェリペ2世
wikipeida public domain

アナは最後の女の子の出産の後の旅の途中に病気で31歳で亡くなる。誕生した5人の子供達で育ったのは1人だけだった。レパントの海戦後生まれた期待のフェルナンドは7歳で病気で死亡。次のカルロスは2歳、3男のディエゴは7歳でと次々と夭折し1578年に生まれたフェリペのみが生き残り後のフェリペ3世となる。妻と子供たちは今もエル・エスコリアル修道院に眠る。

ポルトガル王位


ポルトガル王ジョアン3世の唯一の皇太子セバスティアンが24歳で無謀な戦争に出かけ戦死。王はすでに亡くセバスティアンの母はフェリペ2世の妹ファナだった為フェリペ2世に王位継承権がやって来た。1580年フェリペはポルトガル王フェリペ1世として即位。トルデシージャス条約で世界を2分割していたポルトガル領土まで手に入れ申し分なく「日の沈む事無き大帝国」になった。

ジョアン3世妃ファナは夫亡き後マドリードに戻りデス・カルサス・レアレス修道院を創設。今もマドリードの中心部にこの修道院は現存する。息子の肖像画を見たいとファナがリスボンから取り寄せた物が今も残る。

<セバスティアン王11歳、デスカルサス修道院蔵>

セバスティアン王子
wikipedia public domain

 

この少し後に日本からの天正遣欧少年使節団がリスボンに上陸する。4人の少年達が九州からやって来た。長い旅の後マドリードのサン・ヘロニモス教会(プラド美術館横)でフェリペ皇太子の宣誓式に参列している

エリザベス女王とアルマダの海戦


イングランドでエリザベス1世が即位。母アン・ブリーンは処刑され庶子に落とされたが巡り巡って女王に即位。ネーデルランドのプロテスタントを後ろから援助をして北部8州はネーデルランド独立共和国を宣言。更に海賊フランシス・ドレイクを雇ってスペイン艦隊を度々襲わせている。

<エリザベス1世、ナショナル・ポートレート・ギャラリー>

エリザベス1世
wikipedia public domain

エリザベスが最も恐れていたのはスコットランドのメアリー・スティアートの人気だった。夫の死後スコットランドに戻って来ていたメアリーをエリザベスは陰謀の末斬首の刑にする。

<メアリースティアートの処刑>

メアリースティアートの処刑
wikipedia public domain

これでフェリペ2世は黙っているわけにいかなくなり戦争へ突入。1588年アルマダの海戦が始まる。結果は散々でスペインの大型ガレー船は英仏海峡での動きが悪く更に悪天候のなか小型帆船の英国に惨敗。

<英仏海峡アルマダの戦い、グリニッジ病院コレクション>

アルマダの戦い
wikipedia public domain

アルマダの海戦の勝利でエリザベス1世女王の英国での地位は揺らぎないものとなった。

フェリペ2世の晩年


アルマダの海戦の敗北、ネーデルランドの独立と続く戦争、ポルトガルの反乱などの困難な大帝国を息子に託す準備を始める。老いた国王は毎日山ようなの書類に自ら目を通したと言われる。

<フェリペ2世最晩年、パントハ、エル・エスコリアル修道院>

フェリペ2世1590-98頃
wikipedia dominio publico

1598年あまり健康状態がすぐれない中エル・エスコリアル修道院に移動。椅子ごと担がれ通常ならマドリードから50キロ1日の道のりを休みながら約1週間かけて移動した。その椅子は今もエル・エスコリアル修道院に展示されている。1598年9月13日、望んだ通りエル・エスコリアル修道院の自室でフェリペ2世崩御。71歳だった。晩年の肖像画は王というより修道僧のムード。

その前年1597年、長崎で26人のキリスト教徒たちが秀吉によって処刑され、1598年フェリペ2世没5日後に豊臣秀吉崩御。ひとつの時代が終わった。

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絵画で読み説く新約聖書、クリスマスの物語・キリストの誕生と無原罪の御宿り

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プラド美術館だけではなくヨーロッパの美術館の作品は多くが新約聖書や旧約聖書の内容が題材になっている為聖書を知っているだけで随分と作品に対する知識が広がって行く。古くは字が読めない人達にキリスト教を布教するために絵によって聖書を教えていったので多くの美術館の作品は教会の祭壇画だった物が多い。

特にスペインの画家たちはヨーロッパが宗教改革の嵐でカトリックから離れていく中、対抗宗教改革で教会の権威を取り戻そうとしていた時代に多くの宗教画を描いた。さらには悪名高い異端審問の追及や魔女裁判があった国なので注文主は厳格な宗教画を中心に画家に描かせた。

聖書の中身


聖書には旧約聖書と新約聖書が有り旧約には人類の歴史、新約にはイエス・キリストの生涯が描かれている。分厚い聖書の75パーセントは旧約聖書で占められていて天地創造から始まる旧約は興味深いが読み解くのにはかなりの知識と忍耐が必要になる。一方新約聖書の方はイエス・キリストの生涯が中心なので馴染ある題材の物が多く親しみやすい。

<12世紀のギリシャ語の新約聖書>

12世紀のギリシャ語の聖書
wikipedia public domain
Source Codex Harleianus 5557 (minuscule 321 in the Gregory-Aland numbering)
Author Unknown

*新約聖書は大体紀元50年から120年頃に当時の共通語のギリシャ語で書かれている。聖書の中に登場する人々が話していたアラム語やへブル語ではなく、さらにすでにローマ帝国の時代だったにもかかわらずラテン語ではなくギリシャ語で書かれている。弟子たちはこの物語がより広い世界で読まれるためにギリシャ語を選んだ。それほどギリシャ語は当時の広い世界で使われていた言語だった。素晴らしい科学の発見を日本語で発表するより英語で論文を書く方が多くの人に読まれると考えれば理解できる。後にラテン語に訳された。

このページでは新約聖書の物語をプラド美術館の作品を中心にイエスキリストの誕生の所までを辿って行きます。

 

受胎告知 3月25日


「おめでとう、恵まれたお方。主があなたと共におられます。」ナザレの大工ヨセフと婚約していたマリアの所に大天使ガブリエルが現れてこう言ったと新約聖書に記述があります。

宗教画には色々お約束事があって昔の字が読めない人にもいろんなことが解るように少しずつまとまって行ったのが「キリスト教図像学」という学問になっている。。

受胎告知は①聖母マリアが聖書を読んでいたところに天使が降りて来たので聖書が描かれる。②マリアは驚いているか怖がっている、または恥じらっている、または受け入れている。③純粋を現す白いユリが描かれる。④マリアの衣装は赤い服にブルーのマント(時には逆又はほかの色なども有る)

*実は旧約聖書の「イザヤ書」に「見よ乙女が身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエル(神は我々と共におられます。という意味)と呼ばれる」という記述がありマリアはそこを読んでいた。新約聖書にはマリアが聖書を読んでいたとは書かれていなく実は初期の絵画には出てこない。11世紀頃から次第に描かれるようになってきた。

受胎告知の日は3月25日。クリスマス(イエス・キリストの誕生)の9か月前で、中世ヨーロッパで使っていたカエサル歴の一年の始まりの日だった。そのすべての始まりの日に聖母マリアは受胎告知を受けた。

受胎告知は非常に人気がある場面で様々な時代に様々な作品が描かれている。ここでは何人かの画家の作品を見ながら国際ゴシックからバロックまでを並べて時代によって絵画が変換していった様子をご紹介。

 

<シモーネ・マルティーニ、1333年、ウフィツイ美術館>

イタリア絵画です。シモーネ・マルティーニはイタリアのシエナの画家で国際ゴシック期に属す。同じ時代のフィレンツェの画家たちが現実の世界を正確に描いたのと対照的に優雅な動きや現実にはあり得ない神の世界を可視化して宗教画を残している。この作品は板に金箔を使ったもので左側の天使の後ろ側に揺れる布地がシエナらしい優美な動き。マリアは驚いて怖がっている。

public domain
Source/Photographer The Yorck Project: 10.000 Meisterwerke der Malerei. DVD-ROM, 2002. ISBN 3936122202. Distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH.

聖母が恥じらいながら振り返って「え?な、な、なんですか?」とジワリと逃げ腰な動作が感じられる。天使の衣装の後ろ側が揺れて動いているのがたまらなく好きです。

天使がユリではなくオリーブを持っているのはユリの花が政敵フィレンツェの象徴なのであえてユリは向こうに置いたという説がある。

184センチx210センチという巨大な板に描かれたテンペラ画でその前に立つだけで迫力に煽られそうになる祭壇画です。

<受胎告知、フラアンジェリコ、1425年頃、プラド美術館>

フラ・アンジェリコは質素なドメニコ会修道士。その「祈る姿が美しく、キリスト磔刑図絵を描くときはうっすら涙をを流していた。」と伝えられいつも「天使のような微笑みを讃えていた」。本名はグイード・ディ・ピエトロ

フラアンジェリコ受胎告知
public domain
Accession number P00015
Source/Photographer Galería online, Museo del Prado

未だ国際ゴシックの特色を残す作品で彼の10点ほど現存する受胎告知の一枚。一枚目のシモーネ・マルティーニの作品から90年程立つので絵画の発展が随分見られ、例えば遠近法が使われている。現実のフィレンツェの部屋のムードを宗教画に取り入れることでより一層物語を現実的に描いた。左側の美しい曲線の天使が本当に今空から降りて来たように感じられ衣装が揺れている。左側には旧約聖書のアダムとイブの楽園の追放が描かれている。

<受胎告知、レオナルド・ダビンチ、1472年頃、ウフィツイ美術館>

上のフラアンジェリコから50年弱しか経っていないとは思えない程の技術の進歩。私はこの天使のポーズがなんとも言えなく好きなのです。フィレンツェのウフィツイ美術館蔵の有名な作品。レオナル・ド・ダビンチは科学者や発明家としても活躍をした天才で絵画で完成されたものは実は15点程で非常に少ない。完璧主義でその興味は多岐に渡りあらゆる方面で天才的だった。

 

受胎告知、レオナルド
By レオナルド・ダ・ヴィンチ – sAErNLFH1KFYmw at Google Cultural Institute, zoom level maximum, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=13514513

 

この作品は師匠のベロッキオとの共同作だがレオナルド20歳頃のおそらくデビュー作。

お約束通り左に天使、手にユリの花を持って右側の聖書を読むマリアに表れている。聖母の手の動きが美しいがよく見ると右手が少し長い。おそらくおかれる予定だったのが壁面上部だったので見る人の位置を考えての事と言われている。

部屋の中で行われている場面だが遠景が綺麗に遠くまで描かれてるのは受胎告知としては珍しい。

<受胎告知、エルグレコ、1570年、プラド美術館>

マリアと天使の位置に注目していただきたい。他の作品はマリアが右側で天使が左側にいた。エルグレコは全ての受胎告知でこのように描いているが理由の方は諸説で良くはわかっていない。

 

エルグレコ、受胎告知
By エル・グレコ – [2], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=27348

エル・グレコがまだベネチアにいたころの作品でで26センチx20センチのは大変小さな作品で習作。ベネチア絵画の影響がみられ床の大理石の線で遠近法を使い後ろの遠景にベネチアの街が見える。鮮やかな色彩もティチアーノやティントレット等の影響。そして天使もマリアもぽっちゃりしている。エル・グレコの作品は晩年になるほどみんなもっとやせ細って行きます。

<受胎告知、エルグレコ、プラド美術館>

やはりマリアが左側にいる。エル・グレコは受胎告知を生涯にわたって描いている、中の一枚が日本の大原美術館にある。この作品はドーニャ・マリア・アラゴン学院大祭壇画用に描かれたもので6枚の絵画で構成される大きな祭壇になる予定だった。これはおそらく中央に置かれるはずだったと想像されている。

受胎告知、エルグレコ
This is a faithful photographic reproduction of a two-dimensional, public domain work of art.

 

受胎告知と呼ばれているが実際は聖母に神の子が宿ったその瞬間を描いたものでエル・グレコらしい美しい色で神秘の世界が描かれている。天上界の天使たちがまさに綺麗な音楽を奏でていて天使の登場にマリアは驚いて振り返っている。

エルグレコの聖母はいつも同じ女性がモデルで後にエルグレコの子を産むヘロニマというトレドの女性。キリスト教徒同士だがエルグレコはギリシャ正教徒だったため正式の結婚は許されなかった。

<受胎告知、ムリーリョ、1660年、プラド美術館>

最初のシモーネマルティーニから330年も経過した。この時代の画家たちの作品は写実画どころか写真さえ超えているんだと思う。現実の世界に登場しそうな程の写実性の中で行われる聖書の場面。

 

ムリーリョ、受胎告知

La Anunciación
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

スペインのバロック画家バルトロメオ・エステバン・ムリーリョは南スペインのセビージャで生まれた。画面全体が薄もやに包まれたような幻想的な作品で甘美な天使や聖母マリアを多く描いた画家。

中央に精霊を現す白い鳩が飛んでいてマリアの右側に純潔を現す白いユリとさっきまで読んでいたイザヤ書。胸の前で手を合わせる驚きながら受け入れている風の聖母。手前に手仕事用の篭が置いてあるのはムリーリョの作品の共通点でさっきまで手仕事をしていた現実感を出している。ムリーリョの聖母マリアもエルグレコと同じでいつも同一人物がモデル。甘美な聖母マリアや天使たちがとても甘美で美しく当時のヨーロッパで大変人気が有ったのがムリーリョの作品。

*聖母マリアは聖書の中での扱いは少なくプロテスタント諸派は聖人化していない。ユダヤ教やキリスト教の唯一神の神は厳しい父親的な神で人間にすぐに罰を与える。しかし本来私たち弱い人間が求めている神は「許してくれる」母親的な神で次第にマリアが神聖化されていき讃えられるようになる。スペインの各教会には美しいマリア像が人々の信仰の対象に、今もなっている。

<マカレナのマリア、セビリア>

マカレナのマリア像、セビージャ
Author
José Luiz Link back to Creator infobox template
Attribution
(required by the license) © José Luiz Bernardes Ribeiro / CC BY-SA 3.0

 

聖母のエリザベス訪問 5月31日又は7月2日


聖母が天使から受胎告知を受けたころ親戚のエリザベスも懐妊した。受胎告知の折に聖母はこれを天使から告げられる。エリザベスは長年子供が出来ず年老いていたのでマリアは神の力に驚きエリザベスを訪問した。(ここでは日本で使われているエリザベスを使いましたがスペイン語ではイサベルです)

<聖母のエリザベス訪問、ラファエル工房、1517年、プラド美術館>

ラファエロ・サンティは若くして成功し異例なほどの大規模な工房を経営していた。37歳で死去した惜しまれる画家のひとり。マリアの画家と呼ばれたラファエルのマリアは美しい。

聖母のエリザベス訪問 ラファエルの工房
La Visitación
PENNI, GIOVANNI FRANCESCO,ROMANO, GIULIO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

 

工房の弟子の作品だがおそらくラファエルの手も入っているだろう。右側のマリアの美しい表情などにラファエルらしい繊細な魅力がある。背景の風景にヨルダン川で洗礼者ヨハネによって洗礼を受けるイエスキリストが描かれている。

 

<洗礼者ヨハネ>

エリザベスから生まれる子が後の洗礼者ヨハネ。「悔い改めよ」と荒野で人々に洗礼をしていたヨハネは後にサロメの希望でヘロデ王に首を切られて殺される。

<洗礼者ヨハネの首を持つサロメ、ティチアーノ、プラド美術館>

サロメ ティチアーノ

Salomé
TIZIANO, VECELLIO DI GREGORIO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado
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キリストの誕生、羊飼いの礼拝 12月25日


「さあ、ベツレヘムへ行って主がお知らせくださった出来事を見てこようではないか!」

イエス・キリストが誕生したころイスラエルはローマ帝国の支配下にはいっており初代皇帝アウグストゥスの時代。「人口調査をせよ」との命令が出たので人々は自分の故郷へ帰って行った。

ヨセフはダビデの家系でその血統だったのでユダヤのベツレヘムというダビデの街へ帰って行った。すでにマリアは身ごもっており月が満ち男の子を産んだ。

羊飼いたちが群れの番をして野宿をしていると天使が現れた。「今日ダビデの街で救い主がお生まれになった。あなた方は飼い葉おけに寝ている赤ん坊を見つけるであろう」(ルカによる福音書)ベツレヘムにある家畜小屋で羊飼いたちはマリアとヨセフと幼子を見つけ天使が言ったお告げが本当だったと語り合った。

羊飼いたちの礼拝は14世紀中頃から盛んに描かれるようになった場面。

<羊飼いたちの礼拝、エル・グレコ、1612年、プラド美術館>

これはエル・グレコが亡くなる直前に描いた画家最後の作品。トレドにある小さな教会の祭壇画の為に描かれエル・グレコの葬儀がこの祭壇画の前でおこなわれた。

エルグレド、羊飼いたちの礼拝

Adoración de los pastores
EL GRECO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

鮮やかな色彩と光の使い方に晩年のエルグレコの熟練がみられる美しい作品。現実の世界を超えた超越的な物を感じさせる。天上界の天使たちが集まって来ている。大きな工房で弟子を雇っていたエルグレコだがこの作品は隅々にいたるまで画家本人の作と言われている。

<羊飼いの礼拝、ムリーリョ、1650年頃、プラド美術館>

ムリーリョのマリアは甘美で美しく、お祝いに駆け付けた人々は当時の現実の世界にどこにでもいたであろう人々。エル・グレコの現実の世界を超越した作風と対照的。

羊飼いたちの礼拝

Adoración de los pastores
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

あえて天使のいない空間に身近なの出来事のような感じを与える。犠牲を現す羊が右にいて登場人物の視線がすべてキリストに注がれているが、左端の牛だけがこちらを向いている。

東方三賢者の礼拝 1月6日


「ユダヤの王としてお生まれになられた方はどこでしょう。東の方でその星を見たので拝みにやってきました」イエスはユダヤのヘロデ王の時代に生まれた。その時東方から3人の賢者がヘロデ王のもとに来て尋ねた。

ヘロデ王はたまたま王になっていたが本物の王が生まれると聞いて動揺し偉い学者を集めてその子がどこで生まれるかを調べさせた。

「ベツレヘムの馬小屋です」これは実は旧約聖書に書いてある物語。ヘロデ王は三賢者に「その子を見つけたら教えいただきたい。私も言って拝みたい。」と伝えた。

三人の賢者が出発すると東の方から星が出て彼らを導いた。そしてその星の止まった家に入ると赤ん坊のイエスが飼い葉桶の中に眠っていて捧げものとして黄金,乳香、没薬を贈った。三賢者は帰り道にはヘロデに合わずに帰って行った。

三人というのは聖書には記述は無く後からつけられたようですが今もスペインのクリスマス・プレゼントは東方の三賢者が運んできます。大抵の街では1月5日の夜に大きなパレードがあり夜中に枕元にプレゼントが置かれます。

 <東方三賢者の礼拝、ベラスケス、1619年、プラド美術館>

おそらくベラスケス20歳頃の作品でまだセビージャにいたころに描かれた初期のもの。

東方三賢者の礼拝ベラスケス

Adoración de los Reyes Magos
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

登場人物のモデルはマリアが結婚した妻のファナ、幼子イエスキリストはこの年に生まれた娘のフランシスカ、手前にひざまずくのが画家ベラスケス、背後の横顔の老人が師匠のパチェーコ。絵を描くのにモデルが必要なので画家たちの身近な人々が度々モデルになった。

<東方三賢者の礼拝、ルーベンス、1628年、プラド美術館>

ルーベンス壮年期の作品。ベルギーのアントワープ市庁舎を飾るための物だった。オランダの独立戦争の休戦協定を記念して描かれた作品で休戦の平和の喜びが画面全体に出ている。

東方三賢者の礼拝
La Adoración de los Magos
RUBENS, PEDRO PABLO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

衣装の描写も丁寧で三賢者が持つプレゼントも豪華に描かれている。右端の少し上に馬上に乗るのがルーベンス本人。この作品を後にスペイン国王が購入しスペインに渡ったあとルーベンスがスペインに再訪した折に自分を付け加えた。

エジプト逃亡


「立って、幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして貴方に知らせるまでそこに留まりなさい。ヘロデが幼子を探し出して殺そうとしている。」

ヨセフの夢に天使が現れヨセフはエジプトに逃亡、ヘロデはベツレヘムにいる二歳以下の男の子を殺したが予言によってイエス・キリストは助かった「やっぱりヨセフは偉い!」という事になっている。

*幼児虐殺は「旧約聖書のエレミヤ書」の中にも出てくる場面。旧約の出来事が予言の様に繰り返された・・・となる記述は新約聖書に多いがこの幼児虐殺はマタイによる福音書のみに出てくる場面で歴史的事実は不明。ヘロデ大王は実在した人物で紀元前4年に亡くなっている。キリストの誕生を西暦0年とすると整合性に疑問が残る部分なのです。今の歴史学者はイエスキリストが生まれたのは紀元前7世紀から4世紀の説を取っている。300年も開きがある。

 

<エジプト逃亡、エル・グレコ、1570年、プラド美術館>

未だエル・グレコがベネチアにいたころの習作で17センチx21センチの小さな板に描かれたもの。

エジプト逃亡、エルグレコ

La huida a Egipto
EL GRECO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

アニメのひとこまの様で愛らしい作品。風景がこれほど沢山描かれたエル・グレコの作品は珍しい。

<エジプト逃亡、ムリーリョ、1647年、デトロイト美術館>

ムリーリョ30歳頃の作品。登場する人々の衣装は17世紀の庶民が来ていた衣装をまとっている。ヨセフはたいていどの宗教画でも扱いが軽いのですがこのヨセフは随分かっこいい。

ムリーリョ エジプト逃亡
wikipedia
public domain

幼子イエスの顔が写実的でまさに生まれたばかりの赤ちゃん。ベラスケスの東方三賢者に出てくる幼児キリストと非常に似ている。

 

 <番外編>無原罪の御宿り 12月8日


無原罪の御宿りは聖書には出てこない題材でカトリック独特の信仰のひとつ。

キリスト教の考え方では人間はみな生まれながらにして罪を持って生まれてくる。旧約聖書に出てくるアダムとイブが神との約束を破って禁断の実を取って以来私たちは罪深いのです。

<エヴァ、デューラー プラド美術館>

エヴァ、デューラー
https://tabispain.com/nuevo-testamento-prado/

神の怒りは収まらず私たちはエデンの園から追放され、日々労働をしなければ食べ物を得ることが出来なくなり、女性は苦しんで子供を産み、人はみな年老いて死んでいく。

<アダムとイブの追放、ゴヤ、1771年、プラド美術館>

アダムとイブの楽園からの追放
Expulsión de Adán y Eva del Paraíso
GOYA Y LUCIENTES, FRANCISCO DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

 

が、マリアは母親の胎内に宿った時に既に汚れの無い「無原罪」だった。

よく誤解される「マリアがキリストを宿した時に無原罪だった」ではなく、「聖母マリアがその母アナの胎内に宿った時に無原罪だった」その御宿りをお祝いする日が12月8日となりカトリックの祝日です。

聖母マリアのお誕生日は9月25日、なので計算は合うようになっています。。

<無原罪の御宿り、ムリーリョ、1678年、プラド美術館>

無原罪の御宿りのマリアは白い服にブルーのベール。下弦の三日月がお約束ですがムリーリョは上弦の三日月にのせた。

無原罪の御宿り

La Inmaculada Concepción de los Venerables
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

綺麗なマリア像はこの時代大変人気があり厳しい父親的な神から受け入れていくれる女神や母親的な信仰対象を求めていた人々に受け入れられていく。

 

「無原罪の御宿り」の教義に関しては度々公会議で議論され、異端になりかけたこともあった。イエス・キリストは救世主で罪なき神の子だがその母親までも罪なき人にするのはどうか・・・・、というわけです。

正式にカトリックの教義になったのは1854年ローマ法王ピオ9世の時。反宗教的な社会情勢に対抗しての策とも言われているが随分反対もあったようです。

*ちなみにこのピオ9世は史上最長のローマ法王在位の方でいイタリア統一運動やナポレオン3世や大変な時代を乗り切った。日本の「26聖人」を聖別したのはこの方です。

カトリックの国では12月8日は祝日で本来この日からクリスマスの準備が始まり12月25日のキリストの誕生から東方三賢者の日1月6日までがクリスマスとなります。この時期カトリックの国を旅行する方は祝日の注意が必要です。

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大航海時代の始まり、スペインとポルトガル。

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グラナダの陥落の後コロンブスがイサベル女王からの援助を手に入れスペインは大航海時代に入って行く。様々な技術の発達やイスラム教徒との交流で世界観が広がって新しい時代がやって来た。

スペインより一足早く大航海時代に入っていたのは隣のポルトガル。地中海は遠くそこではすでにイタリア諸都市やカタルーニャが活躍している。大西洋に面したポルトガルは早くからエンリケ航海王の登場で大西洋へ出ていた。

<大航海時代のリスボン>

リスボン
By Duarte Galvão (1435-1517) – Crónica de Dom Afonso Henriques de Duarte Galvão, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15332858

*エンリケ航海王子(1385年~1433年):ポルトガル王ジョアン1世の息子。自らは航海せず王位にもついていないが熱心にアフリカ西岸探検に取り組んだ。ザグレスの航海学校は有名だが本当にあったかは疑問視されている。最大の功績はボジャドール岬を超えたことで長い間これを超えると「急流がある」や「グツグツ煮えている」や「恐竜がいる」などと船乗りたちに恐れられていた。

<発見のモニュメント、右端がエンリケ航海王>

発見のモニュメント、リスボン

ペストの流行や十字軍遠征、航海術の発達や世界地図の作製と当時のヨーロッパの世界観が広がって行きスペインとポルトガルが競って大海原へ出ていきいずれは日本へ到着する。種子島に南蛮人がやって来る直前までの歴史のお話。

大航海時代の準備


十字軍遠征

キリスト教の聖地エルサレムはイスラム教徒の聖地でもある。セルジューク・トルコ朝が領土を拡大しアナトリア(現トルコ)に進出すると脅威を感じたビザンチン帝国(東ローマ帝国)のローマ皇帝はローマ法王ウルバヌス世に救援を求めた。

これを受けたローマ法王はクレルモン公会議を開いて十字軍遠征を呼びかけ、諸侯や騎士たちが立ち上がり第1回十字軍が1096年に出発。「神はそれを望んでおられる。あなたがもしも死んでしまっても、魂は救われるだろう!」

<第1回十字軍遠征>

十字軍遠征
wikipedia
public domain

十字軍遠征は約200年間合計8回にわたりキリスト教徒側の勝手な大義名分のもと蛮行と破壊行動が繰り広げられた。結局失敗に終わるが東方貿易が活性化しベネチアやジェノバなどのイタリアの都市国家が東方貿易で利益を得て発展していく。

最大の功績は、東方の進んだ文化がヨーロッパにもたらされたのだ。

プレスター・ジョン伝説

12世紀のヨーロッパ、十字軍遠征盛んな頃に「遠く離れた東方にキリスト教徒が住んでいる。その指導者プレスター・ジョンが十字軍を助けてくれエルサレムの奪回を助けてくれる」という伝説があった。

<東方見聞録にある挿絵、キリスト教国の君主オンカン>

東方見聞録に出てくるオンカン
wikipedia
public domain

15世紀になるとポルトガル人たちはプレスター・ジョンはアフリカにあり豊かな黄金の産地であると思い込む。イベリア半島に残るイスラム教徒を挟み撃ちにし豊かな黄金を手に入れたいを言う思い入れが大航海時代を推進させていく。

世界地図

現存する最も古い世界地図は紀元前600年のバビロニア、その後古代ギリシャの学者達によって既に地球を球体であることを前提として創られたものがあった。(いったん中世のヨーロッパではこれが否定される)この時代にほぼ正確に地球の大きさを測ったりしている事には驚く。

<プトレマイオスの世界地図の再現、150年頃>
プトレマイオスの世界地図
By Credited to Francesco di Antonio del Chierico – Ptolemy’s Geography (Harleian
public domain
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=193697

マルコポーロの東方見聞録や十字軍の遠征でそれまでの世界地図は大きく改良される。

*マルコポーロは1254年頃にベネチアの商人の家で生まれた。17歳頃に父と叔父と24年間15000㎞の貿易の旅をした。帰還した後ベネチアが敵対していたジェノバと戦争になり志願して従軍し捕虜になったときにこの旅の話をほかの捕虜に話した。それをまとめたのが東方見聞録。

<マルコポーロの旅のルート>
マルコポーロの旅
Author
Travels_of_Marco_Polo.svg: *Asie.svg: historicair 20:31, 20 November 2006 (UTC)
derivative work: Classical geographer (talk)
derivative work: Classical geographer (talk)

 

1375年に交易が盛んだったカタルーニャでかなり正確なカタロニア地図が作られていて地中海からアラビア半島や紅海、ペルシャ湾やインドが描かれた地図が作られている。

<カタロニア地図の再現 1375年>
カタラン地図
By Cresques Abraham – pubulic domain
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=670189

その後マルテル図が1490年にドイツの地理学者によってすでに喜望峰が描かれた地図が作られている。

<マルテル図 1490年>
public domain
Artist Heinrich Hammer the German (“Henricus Martellus Germanus”)
Author Ptolemy
<トスカネッリの地球球体説>

イタリア、フィレンツエの地理学者で天文学者で数学者のトスカネッリは当時のフィレンツェの知識人たちの中心にいた。友人にブルネレスキ(建築家)やアルベルティ(建築、芸術、多方面の天才)がいて様々な知識や学問が集積していた。ドイツを旅した折ギリシャ人哲学者に会い古代ギリシャ人「ストラボン」の事を知る。その後友人に書き送った手紙に西回りでモルッカ諸島へ行けるという夢のような計画が述べられていた。この手紙の筆写版をコロンブスが手に入れていたらしい。

<トスカネッリの世界地図>

トスカネッリの世界地図
wikipedia public domain
Source Narrative and critical history of America, Volume 2
Author Justin Winsor

*ストラボン:紀元前63年頃~23年頃。古代ローマ帝国ギリシャ系の地理学者、歴史家、哲学者。彼の旅はイタリアから地中海沿岸都市、エジプトやエチオピアにいたりその見聞を17巻にいたる「地理書」に残した。

航海術の発達

今でも技術の発達は世界を変える。航海術が飛躍的に発展しそれまでのヨーロッパ人の世界が地中海から大西洋へ広がって行った。

様々な発見は偶然から始まる。大航海時代がやって来るにあたり何世紀もかけて準備がなされた。

船の形の変換

{ガレー船}

もともと古代からヨーロッパで使われいた船はガレー船と言ってたくさんの漕ぎ手を必要とする大型船だった。多くの漕ぎ手の食糧や飲料水を必要とし風に弱く遠洋航海には向いていなかった。風向きの良く変わる地中海では大きなマストよりこの方が都合が良かった

ガレー船
wikipedia CC
Source my own photograph, digitally worked by me
Author Myriam Thyes

{ジャンク船}

中国では古くから三本マストの木造船大型ジャンク船を使っており羅針盤を使い商人たちがインド洋まで出ていた。乗組員500人という大型の船や、もう少し小ぶりの船で乗組員200人くらいの中型船があった。明時代にはアラビア半島やアフリカの東海岸に到着している。

鉄砲を日本に伝えたポルトガル人が乗って来た中国のジャンク船はこのタイプ。

中国のジャンク船
wikipedia public domain
Source http://collections.rmg.co.uk/collections/objects/102565.html
Author Rock Bros & Payne

{ダウ船}

アラビア人たちは紅海やペルシャ湾を拠点に中国や東南アジア、アフリカ東海岸で交易をやっており優れた航海技術を持っていた。彼らが使ったのはダウ船という今のヨットのような一本マストと三角帆で季節風を利用して巧みな航海技術で海のシルクロードで交易をやっていた。

ダウ船
wikipedia
public domain

ヨーロッパ人達よりも早くに中国人やアラビア人達はアジアで進んだ技術で航海をやっていてバスコ・ダ・ガマのインド航路発見に水先案内人として活躍したのはアラビア人だった。インド航路はヨーロッパにとっては「発見」でもアラビア人にはすでに知られた航路でしかなかった。

中国やアラビアの進んだ帆船が次第にヨーロッパに伝わって行き船の形が進化していく。

{キャラック船}

15世紀に地中海で開発された形の船。スペインではこの型の船をナオと呼ぶ。遠洋航海を前提に作られた大型船で乗組員と物資貨物を大量に搭載できる。欠点は巨大すぎて小回りが利かず強風に弱い。

<日本に来たポルトガルのキャラック船>

wikipedia public domain
Source Kobe City Museum
Author Kano Naizen

{キャラベル船}

少し小型のキャラベル船は座礁の危険が少なく沿岸地帯や河川には入れたので未知の世界での探検に向いていた。

<ポルトガルのキャラベル船>

ポルトガルのカラヴェル船
By Unknown – Livro das Armadas, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=28565761
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 羅針盤

磁石が南北を示すことを発見したのは中国人が最初。陸の見えるところを航海していた時代なら方向は目視できるが目印の無い海の中、方角と位置を確認する作業は生死にかかわる。11世紀には既に中国で航海に使われそれをアラビア商人がヨーロッパに伝えた。海の上で正確に方向を知るための羅針盤が発展し実用化し使われた。

ペストの流行と胡椒

黒死病と言って恐れられたペストはヨーロッパの人口を一気に減少させたが当時の食糧難を救った側面があった。

病原体が発見されるまで伝染病がうつるのは臭いによると信じられていたため臭いを消す香辛料が高額で取引されていた。また多少臭いの強い肉を食べる場合もあり香辛料は貴重品で胡椒と銀が同じ値段だったと言われている。シルクロードを渡ってベネチアの商人の手を通ると高額になる胡椒を直接西回りで手に入れようと思った男が登場する。

コロンブスの登場


コロンブスには今だ謎の部分が多い。出生地もいまだに正確にはわかっていないがポルトガルのジョアン2世国王に仕えて船に乗っていた事は間違いない。

<コロンブス>

コロンブス
wikipedia public domain

マルコポーロの東方見聞録に興味を持ちトスカネッリの地球球体説を知り西回り航海を考えた。ポルトガルはすでにアフリカ西海岸セネガルの奴隷貿易をやっていて暴利をむさぼり、1488年喜望峰に到着。バルトロメオ・ディアスの喜望峰発見でインド洋が近い事を手に入れたポルトガルにとってコロンブスの提唱する西回りに意味が無くなってしまった。

<喜望峰発見のバルトロメオ・ディアス>

バーソロミューディアス
wikipedia CC
Source
Bartolomeu_Dias,_South_Africa_House.JPG
Author
Bartolomeu_Dias,_South_Africa_House.JPG: RedCoat (en:User:RedCoat10)
derivative work: Biser Todorov (talk)

 

ポルトガル王の援助をあきらめスペインへやって来たコロンブスはウエルバにあるラ・ラビダ修道院で滞在した。修道院長のフワン・ぺレス神父はコロンブスの話に感銘を受け様々な援助を惜しまなかった。その縁で知り合ったメディナ・セリ公から紹介されカトリック両王に謁見が許された。

当時グラナダへの戦争(最後のイスラム王朝陥落戦)をやっていたスペインに費用は無く一旦断られコロンブスはあきらめてフランス王に援助を求めて旅立つところだった。

<グラナダの陥落>

グラナダの陥落
De Francisco Pradilla – See below., Dominio público, Enlace

1492年グラナダの陥落の直後イサベル女王の伝令がコロンブスを追いかけピノス・プエンテの村の橋の上でコロンブスに追いついた。もしも、この時追いつかなければコロンブスはフランス王の援助で出港していたかも、中南米がフランス語圏になっていたかもしれないという歴史のひとこまです。

<イサベル女王とフェルナンド王>

カトリック両王の結婚

陥落したアルハンブラ宮殿でイサベル女王から宝石箱を譲り受けそれを売って船の準備の一部にした。

ピンソン兄弟

実はイサベル女王からの援助だけでは航海の準備には不十分だった。特に船員の数は足りなく「よそ者と未知の航海へ乗り出そう」という船員などいなかった。この国では今でもコネが力を発揮する、当然当時もそうだったに違いない。よそ者など誰も信じていないのだ。

前述のラ・ラビダ修道院フワン・ぺレス神父がマルティン・アロンソ・ピンソンを紹介してくれて状況が一変する。パロス港で海運業をやっていたピンソン家は優秀な船乗りで船員や航海に必要な様々なものを提供してくれた。特に航海技術や操舵技術においてピンソン兄弟の経験と知識はコロンブスの航海に大きく貢献している。

<パロス・デラ・フランテーラのピンソン兄弟>

ピンソン兄弟
Source Own work
Author Miguel Ángel “fotógrafo” 2007

パロス・デラ・フランテーラに行くとコロンブスの銅像も通りの名前も見当たらない。街の英雄はピンソン兄弟なのです。

アレキサンドル6世の即位


1492年は世界史的な事件が続いた不思議な年でグラナダの陥落、コロンブスの出港、フィレンツェではメディチ家のロレンツォの暗殺と続いた。そしてスペインのボルジア家ローマ法王の登場。カトリックの頂点にあたるローマ法王という地位は最も人間のどろどろした部分が渦巻いていた世界だった。そこに好色で強欲な好人物が登場する。

<ローマ法王アレキサンドル6世>

アレキサンダー6世

金と権力と女を手に入れたアレッサンドロ6世は愛人との間に子供までいた。法王選挙で払える限りの袖の下をばら撒いて自分に投票させた超やり手スペイン人ローマ法王の登場となる。

アルカソバス条約とトルデシージャス条約

発見の時代にスペインとポルトガルの海での領有権をはっきりさせる為1479年ポルトガルはアゾレス諸島、マデイラ諸島、ヴェルデ沖岬を領有しスペインはカナリアス諸島を領有すると取り決めたのがアルカソバス条約。地図に左右に線を引き地球を横割りにした条約だった。

コロンブスが1493年に戻って来るとアルカソバス条約では到着した土地の領有はポルトガルの物になる。スペイン側は時のローマ法王アレキサンドル6世に自分たちの領有についての訴えを起こした。スペイン人ローマ法王があまりにもスペイン有利な回勅を発行したのでポルトガルがスペインに乗り込んできてトルデシージャスで会議が行われた。

<トルデシージャスの街>

トルデシージャスの街
wikipedia CC
Source http://www.flickr.com/photos/jlcernadas/6348008109/in/set-72157629525535730
Author Jose Luis Cernadas Iglesias

1494年に地球に新しい境界線を引いたのがトルデシージャス条約。今度は地図に南北に線を引いて地球を縦に割った。

下の地図の点線の方がアレキサンドル6世の引いた線だったが会議で少し西へ引き直したのがトルデシージャス条約の線。この後ポルトガルはブラジルへ到着する。今も南米でブラジルのみはポルトガル語圏なのはこの線より内側にポルトガルはブラジルを発見したから。

change from wikipedia cc
Source Own work
Author JjoMartin

ポルトガルはこの線より東へ、スペインは西へ行くことが決まる。ポルトガルは東へ向かい喜望峰を通過してバスコダガマのインド航路発見に繋がる。

バスコ・ダ・ガマ

トルデシージャス条約でポルトガルは東回りでアジアに向かうことが決まり、すでに喜望峰が発見されているので東回りでインドに派遣されたのがバスコダガマ。1497年にリスボンを出発。

<バスコダガマのリスボン出港>

バスコダガマのリスボン出港
wikipedia public domain
Author John Henry Amshewitz

途中モザンビークではイスラム教徒から砲撃を受けるがマリンディでは歓迎されアラビア人の水先案内人を雇って1498年にムガール帝国のインド、カリカットに到着。

<喜望峰からインドのバスコ・ダ・ガマのルート>

バスコダガマのルート
By User:PhiLiP – self-made, base on Image:Gama_route_1.png, Image:BlankMap-World6.svg, GFDL, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4805180

 

バスコダガマの持って行ったポルトガル交易品はカリカットで取引されている品物に比べるとみすぼらしく馬鹿にされたと記録に残る。

カリカットの王との間に揉め事や監禁事件が起こり胡椒を積み人質を取って逃げるように退散してリスボンに戻って行く。

その後ポルトガル商人はインドから更に中国へ渡って行き活躍し、中国人には南蛮人と呼ばれる。

<中国の南蛮人>

中国の何番人
By Français : Kano Naizen, 1570-1616 – リスボン国立古美術館, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=353039

そしてポルトガル商人が乗った中国のジャンク船が台風の風に流されて種子島に到着するのはあともう少しだ。

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ギリシャ神話は面白い。絵画で楽しむギリシャ神話。

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ギリシャ神話は面白い。絵画で楽しむギリシャ神話。ヨーロッパの美術館を楽しむため知っていた方が絶対良いのはキリスト教とギリシャ神話。ほんの少し物語を知っているだけで美術館での時間もヨーロッパの旅も随分違ったものになります。プラド美術館が数倍楽しくなるようにプラド美術館にある作品を中心にギリシャ神話をご紹介。

ギリシャ神話の神様達は奔放で情熱的で欲望のまま浮気をしたり女を誘拐したり、怒りに任せて報復をしたりとても人間くさく面白い。禁欲的なキリスト教の神と比べて作品にするのも見るのも楽しいものばかりです。ギリシャ神話の壮大な物語は冒険心をくすぐられ映画やゲームに今も使われています。

ダナエ

ダナエは今のギリシャのペロポンソス半島にあるアルゴス王国の美しい王女。あるとき父親の国王アクリシオスは神託を受けた。「お前はお前の孫によって殺されるであろう」。驚いたアクリシオスはまだ結婚もしていない美しい娘のダナエが子供を産まないように城の塔に幽閉した。

ところが女好きの全能の神ゼウスが美しい女性ダナエを見つけた。青銅の扉の中にいるダナエに近づくために自分の姿を黄金の雨に変えてダナエと交わった。

この絵はベネチア巨匠ティチアーノがスペイン国王フェリペ2世の為に描いた一連の神話画「ポエジア」の連作のひとつ。「ポエジア」はギリシャ神話の変身物語を断続的に約10年間に渡って描いた連作。

ダナエを誘惑するために黄金の雨になったゼウスが幽閉されたダナエの塔に降り注ぐ。

<黄金の雨とダナエ・ティチアーノ・プラド美術館>
プラド美術館 ダナエ

Dánae recibiendo la lluvia de oro
TIZIANO, VECELLIO DI GREGORIO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

同じ題材の作品がナポリのカポディモンティ国立美術館、ザンクぺテルスブルグのエルミタージュ美術館、ウィーンの美術史美術館にある。構図はほとんど同じだが右側のおお皿で黄金を受けている老婆がの所にューピッドがいたり、犬が描いてあったりする。

<ダナエ・ティチアーノ・カンポディモンテ国立美術館>
ナポリにあるティチアーノのダナエ
wikipedia
Pubblico dominiovedi

ダナエはその後身ごもり男の子ペルセウス産んだ。神託は「貴方は孫によって殺される」父王アクレシウスは「この孫に殺される・・・?」と慌てたが可愛い孫を殺すことはできず箱船に乗せダナエと共に海に流した。「きっとこれで大丈夫。」

この箱船がクレタ島の北にあるセリポス島に流れ着き漁師ディクテュスに助けられた。漁師の兄、島の王ポリュクデクテスは美しいダナエに一目ぼれ。青年になっていたペルセウスは母を守ろうと王に対抗する、が王は邪魔になったペルセウスを怪物メドゥーサ退治に出す。

<メドゥーサ、カラバッジオ、ウフィツイ美術館>
カラバッジョ メドゥーサ
wikipedia
public domain

 

メドゥーサはゴルゴン3姉妹の末っ子。顔は大変醜く「口には鋭い牙」、背中には「黄金の翼」、手には「かぎ爪」を持っていて「髪は生きた蛇」、最も恐ろしいのは「メドゥーサの目を見たものは石に変えられる」。

メドゥーサは実はもともと輝く金髪を持った絶世の美女だった。海の神ポセイドンに寵愛され白馬に姿を変えたポセイドンに連れられアテナ神殿で契りをかわす。神殿を汚されたアテナとポセイドンの正妻アンピトリテは仕返しにメドゥーサとその姉妹たちを怪物に変えてしまった。

<メドゥーサの頭・作者不明17世紀・プラド美術館>
メドゥサの頭
Medusa
ANÓNIMO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

ペルセウスは女神アテナから「輝く盾」、ゼウスの使いの青年神ヘルメスからは「空飛ぶサンダルと金の新月の刀」を借りて旅に出た。この刀だけがメドゥーサの首を切ることが出来る。

後足りないものが二つ、それは西の国のニンフたちが持っている。ニンフ達の住み家を知っているのはグライアイの三人の老女。彼女たちは三人なのにひとつの目とひとつの歯を交代で使っていた。

ペルセウスは無事グライアイの老女からニンフの住み家を教えてもらい足りない二つの物、「被ると姿が見えなくなる帽子」、「ゴルゴンの首を入れるための魔法の袋」をもらった。

<メドゥサ退治のペルセウス・ルカ・ジョルダノ・プラド美術館>
ルーカジョルダノのペルセウスのメドゥサ退治

Perseo vencedor de Medusa
GIORDANO, LUCA
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

ゴルゴン谷に着いたペルセウスはヘルメスの羽の付いたサンダルで空を飛びアテナにもらったピカピカの盾にメドゥーサを写し、金の新月の刀でその首を切り落とした。ペルセウスは帽子をかぶって姿を消しサンダルで空を飛んで逃げていく。

メドゥーサを倒したペルセウスは母の待つセリポリ島へ飛んで帰る途中、裸の美女が鎖で岩場に繋がれているのを見つけた。この美女はエチオピアの王女アンドロメダ。海から牙の生えた怪獣が美女を狙って泳いでいるのが見える。

実はエチオピアの王妃カシオペアは「海の神ポセイドンの娘たちより私の方が美しい」と豪語していた。それがポセイドンの耳に入り怒りにふれエチオピアは毎年大洪水に苦しめられていた。国王ケフェウスが神に聞いたら「娘アンドロメダを海の怪獣の生贄にすれば神の怒りは鎮まるだろう」。それでかわいそうな娘アンドロメダは鎖に繋がれ今まさに生贄になっていた。

<アンドロメダの救出・ルーベンス・プラド美術館>
アンドロメダとペルセウス

Perseo liberando a Andrómeda
JORDAENS, JACOB,RUBENS, PEDRO PABLO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

ペルセウスはヘルメスのサンダルで空を飛び、持っていたメドゥーサの首を怪獣に掲げて石に変えアンドロメダを救出した。

<アンドロメダとペルセウス・ティチアーノの模写・プラド美術館>
アンドロメダとペルセウス

Andrómeda y el dragón
ANÓNIMO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

ペルセウスとアンドロメダは結婚し母のいるセリポス島に戻り母に言い寄る(まだ言い寄っていた)ポリュデクテス王にメドゥーサの首を見せて石に変え故郷のアルゴスへ帰って行く。

「お前は孫によって殺される」と予言を受けていた祖父の国王アクリシオスは孫の帰還に驚いてアルゴスからラリッサという町に逃げていた。

ペルセウスはアルゴスの王となりある時ラリッサの町の競技大会に呼ばれる。その時に参加した円盤投げ競技で投げた円盤がある老人にあたってその老人は死んでしまった。その老人こそ元国王のアクレシオス。ついに神の神託は現実となった。

人間は不幸な神託を受けると何とか免れようとするが結局どう逃れても予言の通り運命は人間を導いていくというのがギリシャ神話に共通する教訓です。

壮大な冒険物語に登場する人物たちは大空に星座として今も輝いています。

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エウロパの略奪

エウロパは月のような顔をした美しいフェニキアの王女だった。エウロパに一目ぼれしたゼウスは自らの姿を白い牡牛に変身させ油断したエウロパを略奪して旅に出る。

この時に牡牛ゼウスがエウロパと旅をしたところをエウロパ=ヨーロッパと呼ぶようになった。彼らが旅の後に着いたのがクレタ島。ゼウスとエウロパの間に生まれたのがミノスでクレタ島にクノッソス宮殿を作って住んでいた王様です。

*神話の長い物語は荒唐無稽な作り話と信じられていたが19世紀に発掘が行われイギリス人のアーサーエバンズによって遺跡が発見されている。

<クレタ島、クノッソス宮殿遺跡>

クレタ島、クノッソス宮
wikipedia CC
Source Own work
Author 遠藤 昂志
<エウロパの略奪、ティチアーノ、ガードナー美術館蔵>

最初の作品ダナエと同じくティチアーノがフェリペ2世の為に描いた一連の神話画の「ポエジア」の7作中の最後の物。

19世紀にアメリカに渡って今もアメリカの美術館蔵。スペイン王位継承戦争のさなかフェリペ5世がフランス大使に与えパリへ移された後これが19世紀にアメリカの富豪ガードナー夫人により購入され大西洋を渡ってアメリカに渡ったスペインとしては大変残念な結果の名画。

ティチアーノ、エウロパの略奪
wikipedia
public domain

下の絵はスペインに来ていたピーター・ポール・ルーベンスが当時はまだマドリードの王宮にあったティチアーノの上記作品を模写したエウロパの略奪。今もプラド美術館で鑑賞できます。ルーベンスの方がエウロパの太ももの肉付きがぽっちゃりで官能的。

<エウロパの略奪、ルーベンス、プラド美術館>
エウロパの略奪 ルーベンス

El rapto de Europa
RUBENS, PEDRO PABLO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

ルーベンスがスペインに来た頃に宮廷画家として活躍していたのがベラスケス。どちらも国王フェリペ4世のお気に入りの画家で2人は一緒にスケッチ旅行へ行ったりしている。ベラスケスが自分の作品の中にエウロパの略奪を入れて描いた作品がアラクネの寓話。

手前で織物を織る女性達の向こうでは変身物語が展開している。奥のタペストリーがエウロパの略奪。

<アラクネの寓話、ベラスケス、プラド美術館>
アラクネの寓話 ベラスケス

Las hilanderas o la fábula de Aracne
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

アラクネは織物が上手な女性であまりにも自慢をするので怒ったアテナが天から降りて来て織物競争をすることになった。この時にアラクネが織った題材がギリシャの神々の失敗や誘惑。全能の神ゼウスがエウロパを略奪するところを織物にした。

絵の一番奥に描かれているタペストリーに上記作品をモデルにしたゼウスによるエウロパの略奪が織られている。生意気なアラクネにアテナはお仕置きをする。「そんなに織りたいなら、いつまでも織れるようにしてあげましょ!」と蜘蛛に変身させた。というお話。

アラクネは今も蜘蛛になって織物を織っています。蜘蛛はラテン語でアラネア、スペイン語でアラ―ニャ、フランス語でアレニェ、イタリア語でラーニョ、全てアラクネから来ています。

イカロスの墜落

話は少し戻ってクレタ島へ。エウロパの息子ミノスは海神ポセイドンに立派な牛を生贄として所望する。ポセイドンは願いを叶え「とんでもなく美しい牛」を与えるがあまりにも美しくミノスはポセイドンに内緒で別の牛を生贄にした。それを知ったポセイドンは怒り、仕返しに妻のパシパエが牛に恋をするように仕組む。

<ヘラクレスとクレタの牛、スルバラン、プラド美術館>

スルバラン、ヘラクレス牛退治
Hércules y el toro de Creta
ZURBARÁN, FRANCISCO DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

*上記の絵はスペイン画家スルバランの珍しい神話画。パシパエが恋をした「とんでもなく美しい牛」は乱暴で手が付けられなかったのでヘラクレスが12の難行の中で素手で退治する場面。

牛に恋したパシパエは思いを遂げ子を産んだ。牛と関係を持つための機械は名人大工ダイダロスが考えた。牛との間に生まれた子供は半牛半人の怪獣ミノタウロス。ミノス王は名人大工のダイダロスに迷宮を作らせてそこにミノタウロスを閉じ込めた。その迷宮はラビュリンスというが今も迷路の事を英語でラビュリントス、スペイン語でラベリントスというのはこの迷宮ラビュリントスから来ている言葉

<ミノタウロス、アテネ国立考古学博物館>

ミノタウロス
Source Own work
Author Marsyas
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当時のアテネは毎年7人の青年と7人の乙女をミノタウロスの餌食に捧げる事になっていたがアテネの王子テセウスが生贄に紛れてクレタに到着。ミノス王の娘アリアドネはテセウスに恋をし無事に出てくるよう糸玉と剣を渡しテセウスは剣でミノタウロスを倒し糸玉で迷宮から出てくる。今も「アリアドネの糸」は難題解決という意味で使われる。

この知恵をアリアドネに与えたのは名大工ダイダロスだった。ミノス王の怒りを買ったダイダロスは息子イカロスと共に塔に幽閉される。

<イカロスの墜落、ゴーウェイ、プラド美術館>
イカロスの墜落

La caída de Ícaro
GOWY, JACOB PEETER
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

幽閉された塔に落ちて来た鳥の羽を蝋で固めて翼を作り大空へ二人で羽ばたいていった。ダイダロスはイカロスに「あまり低く飛んでも高く飛んでもいけない」と注意していたが自由自在に空を飛んでいるうち父親の忠告を忘れ太陽に近づきすぎて蝋が解けイカロスは墜落して海に落ちて死んでしまう。

自分の力を過信しないように、若者の暴走を止めるときに今も使われる教訓になっている。

トロイア戦争

トロイの王子として生まれたパリスの父王は「この子が生まれたらトロイが滅びる」と神託を受けていたが可愛い子供を殺せず神に内緒で羊飼いとして育てていた。

有る時神々の結婚式が行われることに。その会場に金のリンゴがひとつ落とされた。リンゴには「最も美しい女神へのプレゼント」と書かれていたので女神たちは大喧嘩を始める。

下の絵の左端がパリス、横に金のリンゴを持つヘルメスと右側に三人の女神たち

<パリスの審判、ルーベンス、プラド美術館>
パリスの審判 ルーベンス

El juicio de Paris
RUBENS, PEDRO PABLO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

どの女神がこのリンゴを受け取るのにふさわしいかを羊飼いのパリスが決めることになった。この三人というのは美の女神ビーナス、ゼウスの正妻ヘラ、知恵の神アテナ。

三人は自分が選ばれるために条件をパリスに出し始める。ビーナスは「私を選んでくれたら人間で一番美しい女性を奥さんにしてあげましょう」、ヘラは「貴方をアジアの王にしてあげましょう」、アテナは「貴方にいつでも戦争に勝てる力をあげましょう。」

<パリスの審判、ルーベンス、プラド美術館>
パリスの審判 ルーベンス
El juicio de Paris
RUBENS, PEDRO PABLO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

パリスが選んだのはビーナスだった。そして人間で最も美しい女性はギリシャの王妃ヘレーナという絶世の美女。ヘレーナをギリシャからトロイに連れて逃げて来たのが原因で戦争がはじまった。これがトロイア戦争の始まりで最後にトロイは滅びる。

19世紀にドイツ人のシュリーマンによって発掘されたトロイの遺跡も神話の後ろに史実があった事を証明した。現在のトルコのダータネルス海峡。

<トロイの遺跡>

トロイの遺跡
wikipedia CC
Troy
Photo taken by Adam Carr’s mother.

この時にギリシャ側で戦ったのがアキレウス。ギリシャ側の総大将がアガメムノンです。

*アキレウス・生まれるときに息子を不死にする為母親が冥界の河ステュクスに浸した。その手が息子の踵を掴んでいたため踵だけは彼の弱点になった。トロイア戦争ではこの踵を弓に射られ戦死。

30年間落ちないトロイにギリシャ兵が考えたのが木の木馬。トロイの城壁外に大きな木馬が置かれ、知らずに戦利品としてトロイの街に引き入れられた木馬からギリシャ兵が出て来てトロイの町は陥落する。

神託の通りパリスを殺しておけばトロイは滅びなかったというお話。運命からは逃げられなし、逃げたら逃げた結果言われた通りになる。

最後に

ギリシャ神話は登場人物のギリシャ語の名前が難しく本で読むと延々続く長いお話が面倒ですが紀元前15世紀頃から口承で伝えられていたものが次第にまとめられていったものです。ホメーロスのイリーアスやオデュッテイアは紀元前9世紀頃だそうで3000年も前のお話が現代の私たちが読んでも面白い冒険物語。その中に教訓や戒めが散りばめられています。

本当はもっともっと長いお話のさわりだけをご紹介しました。

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マドリード観光、散策コースとおすすめバル、初めてのマドリードなら外せないスペイン広場からマヨール広場、そしてバル街へ

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マドリードは歩いて観光出来る楽しい街でバルも沢山。簡単な散策のあとにおすすめのバル巡り、絶対行っていただきたいメゾン街までのコースです。

スペイン広場(Plaza de España)

 

スペイン広場
メトロ10番線と3番線「プラサ・デ・エスパーニャ」下車。グランビア通りや王宮のすぐ近くで街の中心です。スペイン広場というとローマが有名ですがマドリッドのスペイン広場が本家本元です。

スペイン中どこにでもスペイン広場がありますがマドリードのスペイン広場はドン・キホーテとサンチョ・パンサで有名です。写真中央。

この2人はラ・マンチャの男という小説の主人公達で左が憂い顔の騎士ドン・キホーテ。当時流行の騎士道精神の本を読みすぎて頭がおかしくなって自分も本の中に出てくる騎士の様な気がして旅に出た。となりでロバに乗っているのが一緒に来た従士のサンチョ・パンサ。約400年前の小説に出てくる主人公たちが出迎えてくれます。後ろの白い石像は作者のミゲール・セルバンテスです。

時期によってはお店が出ていたりイベントをやっていたりしますがマドリードを訪れた世界中の人達が必ず写真を一枚とる場所だそうです。

エジプトの神殿(Templo de Debod)

5分ほど西の方へ(銅像を背中に右へ)歩いて行くとなんとエジプトの神殿があります。マドリードにエジプトです。

「デボ神殿」ナイル川にあった2000年以上前の神殿です。

アスワン・ハイ・ダムを造る時水没する事になった沢山のモニュメントのひとつ。
それらを救うためにスペイン政府が援助したお礼にエジプト政府から贈られた。
その贈り物がマドリードに置いてあり無料で中に入れます。神殿のプレゼントなので桁外れの贈り物です。
マドリードにあるエジプトの神殿マドリードにあるエジプトの神殿
入場無料無料。上記写真に開館時間が出ています。

4月1日~9月30日10時~2時と午後6時~8時、            10月1日~3月31日10時~2時と午後4時~6時。           土曜日曜祝日は9時30分~午後8時。                   休館日:月曜、1月1日、6日5月1日12月25日。

ヒエログリフ(象形文字)が綺麗に残っていて愕然、読めなくても楽しめます。
アメン神に捧げたもので2400年ほど前の神殿です。内部一番奥に石室があり秋分の日と秋分の日は朝日が真っ直ぐここに届く設計。二階に上がるとナイル川沿岸の地形図が展示されています。
神殿から外へ出て広場の奥の方へ行くとマドリードの郊外の森が展望できます。夕方来ると夕陽がとっても綺麗でマドリード夕日絶景のスポットです。(夏は夕日になるのが22時とかですが・・・)

王宮(Palacio Real)

再びスペイン広場方面に戻り東に向かうと歩いて5分ほどで王宮が見えてきます。
王宮
マドリード王宮ともオリエンテ宮殿とも呼ばれています。1738年日本でいうと徳川吉宗の時代に作られた王宮で現在は迎賓館。

特に公式行事が無いときは公開されているので入場することが出来ます。ブルボンの王様達が夏の初め暮らした王宮で内部は殆どそのまま公開されています。家具や絵画、天井画、晩餐会の大広間は今も使われています。入口は上記写真の一番向こう側(アルムデナ大聖堂側)から。

入場時手荷物検査あり。内部の最初暫く写真撮影可能です。王様達の暮らしたお部屋になるところから写真禁止になります。

冬季(10月~3月)10時~午後6時                   夏季(4月~9月)10時~午後8時

休館日 1月1日、1月6日、5月1日、10月12日、12月24日(15時で閉館)12月25、12月31日。さらに各公式行事、又予告なく閉鎖することが有ります。

 

プラサ・デ・オリエンテ(Plaza de Oriente)

王宮に向かっている綺麗な広場がオリエンテ広場(Plaza de Oriente)。お散歩する人達でいつも賑わっています。中央の騎馬像がフェリペ4世。プラド美術館の名作「ラス・メニーナス」の鏡の中にいる王様です。

注意:このあたりにスリが観光客に混じって時々やってきます。上手に隙を狙って知らないうちにお財布をすって行くプロの外国からきているスリ集団に注意。乱暴ではないのでちょっと気をつければ大丈夫です。

オペラ座を左に見ながら進むとカフェ・オリエンテ
カフェオリエンテ

広場に向かって素敵な「カフェオリエンテ。」朝食もやっていますしお食事も出来て夜は王宮を見ながらワインも楽しめます。スペイン国王もお食事に来られます。

お茶だけでもワイン1杯でも1本でも。このあたり王宮が見えるところに素敵なレストランやカフェテリアがあってテラスもあるのでちょっと休憩にいかがですか

夜は王宮の間接照明を楽しめます。(夏は暗くなるのは22事以降です)

王宮からラマレス広場                                                  (palacio Real~Plaza de Ramales)

王宮を背中に右のほうへ、緩やかな登坂を登って行くと
その先に可愛いパン屋さん。お散歩中のわんちゃん駐車出来ます。
かわいいパン屋さん、ワンちゃんパーキング
広場にはベラスケスのパネルが
ここはベラスケスが埋葬されていた教会があったそう
ナポレオン戦争で破壊され画家のお墓は今も行くえ不明。
ベラスケスが埋葬されていた教会あと

サンティアゴ広場からサンミゲール市場

ラマレス広場から右手の方にサンチアゴ通りの方へ歩いて行くとサンチアゴ教会(Iglecia de Santiago)。マドリッドからサンティアゴの道を始める人はここからです。

サンティアゴ教会を背中にサンティアゴ通りを歩きます。小さなレストランや小売店が並ぶ良いムードの通りです。ちょっと路地に入るとルティエール(楽器工房)やゴヤが住んでいた家が残ります。

ルティエール
ゴヤが住んでいた家
大きな通りにでたらそこはマヨール通り(Calle Mayor)。

マヨールはスペイン語で大きなという意味でマドリッドが首都になった頃に造られた大通り。フェリペ2世がトレドからマドリードに首都を移動したころに作られた通りです。

16世紀頃日本は戦国時代に作られた街が残るのがこのあたりです。。

サン・ミゲール市場(Mercado San Miguel)

目指すはサン・ミゲール市場。昔は本当に生鮮食料品を扱う市場だったけど今はマドリッド人気スポットの飲食店が入るフードコートになっています。
中に色んなバルが入っていてここだけで充分楽しめます。随分混んでいるのと少し値段は高めで最近は地元の人は来ないツーリスティック。バルの人もあまり感じ良くないのが残念。

朝の10時から夜0時ころまで毎日開いています。真ん中に座れるように椅子とテーブルがあるのであちらこちらで買ったものをそこで座って召し上がれます。ただいつも満員。

サンミゲール市場サンミゲール市場

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マヨール広場(Plaza Mayor)

通りを挟んでマヨール広場。1617年に造られた広場でお祝いの式典やお祭り、魔女裁判などに使った広場で今もクリスマスマーケットやワインまつり等年中賑やかです。真ん中の騎馬像はフェリペ3世。江戸時代に伊達藩の遣いが謁見した王様です。

マヨール広場
マヨール広場
哀愁あるスパイダーマン。こういう路上アーティストも楽しめます。

 

サン・ミゲール市場の横の下り坂にはメソンと呼ばれる居酒屋は全部
昼12時頃から開き始め夜中まで営業。アルコ・デ・クチジェロスへ

アルコ・デ・クチジェロス(arco de cuchilleros)バル街でおすすめです。

 

マヨール広場とサンミゲール市場の間の通り<アルコ・デ・クチジェロス>は洞窟のような細長い居酒屋風の飲食店が並びます。このあたりのレストランを(mezon)と呼びここは地元の人達も訪れる古くからあるバル街。

マッシュルーム屋さんやスペインオムレツ屋さんイワシヤさん等それぞれのお店が専門店です。

マドリード・アルコ・デ・クチジェロス

マッシュルーム専門店(Mezon del chanmipinion)

マドリードマッシュルーム屋

メゾンデルチャンピニオン

メゾン・デ・チャンピニオンは細長い小さなお店。入ってすぐはカウンターで奥に小さなお部屋があって座れます。少し混んでいてもお店の人に座りたい風のジェスチャーをすれば理解してくれて空いたら案内してくれます。

<マッシュルーム屋奥の座れるところ、壁にマッシュルーム>

マッシュルーム

 

マッシュルームだけなのでみんなそんなに長くはいないので少し待てば大丈夫。スペイン人はギューギューに無茶苦茶混んでいてもカウンターですが。

<入ってすぐのカウンターの所>写真は割と空いていた日です。

マッシュルーム屋

アツアツのマッシュルームを鉄板で焼いて岩塩とハムとオイルだけで調理。絶妙の美味しさなので是非とも試してください。

マッシュルーム

鉄板の熱気でガラスが曇った中ひたすらマッシュルームを焼き続けるおじさん。

マッシュルーム

注文の仕方:先に飲み物、その後食べるものをを頼みましょう。2人でマッシュルーム一皿でも十分です。ほかにチーズやハムとしし唐ピーマンが有ります。これも鉄板焼きでとっても美味しいですよ。指さして頼んでください。

<しし唐ピーマン・pimiento de Padron>

マッシュルーム屋

マッシュルーム以外にもこのあたりに昔から続くお店が並んでいますので何件も梯子しながら楽しめます。

ヘミングウェイが通った有名店Botin

ギネスブックに載っているレストランです。ヘミングウィーが絶賛したので人気が高まりアメリカ人がマドリードで絶対に来るお店。
同じメニューを約300年近くも出し続けていて子豚の丸焼きが名物です。
生後3週間以内の子豚をさっくりお料理。母親のミルクだけしか飲んでいないのでお肉に臭みが無くミルクの味と言われている。

子豚がダメな人が一緒の場合の為に魚や野菜料理なども有ります。

年中絶対予約しないと無理なお店です。行くと決めたら予約をしましょう。

<ボティンでメニューを見る人達>
ヘミングウェーが通った子豚料理屋ボティン

<ギネスブック>ヘミングウィーが通った子豚料理屋のギネスブック

1725年からの営業で約300年同じメニューで勝負しているのでギネスブックに登録されています。

<ボティンBotin> 住所 Calle arco de cuchilleros 17  電話913664217

時間 営業毎日13:00~16:00 20:00~0:00

私のおすすめは、最初に生ハム(ハモンイベリコ)はシェアーで、前菜にニンニクスープ(ソパ・カステジャーナ)メインに子豚(コチニージョ)ワインはハウスワイン(ビノ・デラ・カサ)が安くておいしい。約1人45ユーロ位。

 

マヨール広場界隈

マヨール広場に面してテラスのお店が沢山有ります。

マヨール広場からトレド通り(Calle Toledo)の方へ(奥に教会が見えるアーチです。)上の広場のフレスコ画の有る建物を背中にして下って行く通り。

<むこうにサンイシドロ教会が見えるアーチを下るとトレド通り>

エビのアヒージョ専門店が支店を出しました。100年エビのアヒージョ作り続ける「カサ・デル・アブエロ」

テラス席はいつもいっぱいですが

カサデアブエロ マヨール広場

店内は割と空いていてエビ以外にも色々あります。そろそろ疲れて来て座りたい感じだったらこちらへ。二階にもテーブル席が有るので座れる確率高いです。

 

カサデアブエロ マヨール広場

エビのアヒージョgambas al ajillo

カサデルアブエロ マヨール広場

これは絶対美味しいので試して帰ってくださいね。

この地区の飲食店の大体の営業時間

ほぼ年中無休(12月24日、25日、1月1日は休み)

サンミゲール市場は10時から未明

マッシュルーム屋さん等バルやメゾンは昼12時から未明

レストランは13時から16時、20時から24時

ここからまだ歩ける方はソル広場迄すぐ。ソルからの散策コースはこちらの記事をどうぞ  マドリード散策ルート,ソルからプラド美術館迄

ここからソル広場はすぐそこ。ソル広場(puerta del sol)プエルタ・デル・ソルに行けば地元のデパート(エル・コルテ・イングレス)や地下鉄の駅スペイン国鉄の駅があります。ソルからプラド美術館迄歩いて10分から15分です。

*地元デパートエル・コルテ・イングレス

朝10時から22時営業。                         日曜祝日は11時から21時。12月25日、1月1日休業。

ソル店とグランビア店があります。ソル店の方に靴、洋服、下着、周りの建物に書籍、音楽関係、スポーツ館地下にスーパーマーケット。スペインのお土産にオリーブオイルやお菓子等探せますね。グランビア店は家電やコンピューターが中心ですが地下にスーパー最上階にグルメコーナー。グルメコーナーに飲食店が入っていて楽しめます。

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ビルバオとグッゲンハイム美術館<世界で最も成功した再開発の街と近代アート>

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ビルバオは2018年のヨーロッパの最優良都市賞に選ばれた。リュブリャーナとウイーンとビルバオの3都市が最終選考に残っていた中からの最優秀賞。街の規模がちょうど歩いて廻れるサイズで視線に入るすべてのものがとても綺麗。私はもともと「バスク好き」なのですが「ビルバオ好き」になって帰って来たので色々調べたことをまとめました。

ビルバオ旧市街

ビルバオはバスク自治州ビスカヤ県の県都。都市の人口35万人だが周りの都市圏の人口を入れると100万人。北部スペインでは最大の街。街の名前ビルバオはバスク語では「ビルボBilbo」道路や街の標識はカスティーリア語(標準スペイン語)とバスク語2カ国語表記。

ビルバオは歴史ある街

もとは中世にサンチアゴの巡礼街道として栄えた小さな街。1300年頃にはネルビオン川に沿って発展し海洋交易で栄えた。今も旧市街に行くとサンチアゴ大聖堂や中世の街並み、ネルビオン川沿いには昔の風情が残る。

ビルバオ1575年
wikipedia public domain

鉄鉱石で栄えた街は1857年(日本の明治維新よりも10年も前)には鉄道が走りビルバオ銀行(現BBVA銀行の前身)やビルバオ証券取引所が設立されている。ビスカヤ橋は明治25年に創られた運搬橋。当時の先端技術で作られた世界で最も古い運搬橋で現在も公共の交通機関として使われている。

<ビルバオ郊外にあるビスカヤ橋>

ビスカヤ橋

<ビスカヤ橋の記事>

<1899年のビルバオ 製鉄工場>

1899年のビルバオ
Standard Oil Refinery No. 1 in Cleveland, Ohio, 1899 (Wikimedia Commons)

19世紀の中頃付近の山から取れる鉄鉱石の採掘で発展し船でイギリスへ輸出し帰りに石炭を持って帰って来た。これによって製鉄業が発展した工業の中心地。

世界で最も成功した再開発の街

ビルバオ

鉄鉱石が取れ歴史的に造船が主力だったビルバオは第2次世界大戦後は鉄鋼業で栄えたが次第に重工業の衰退、日本や韓国等との競争で負け、公害とETA(バスクの独立を求める過激派組織)のテロで人口減少が進み失業者があふれてスラム化し煤けたイメージの街になる。

工業都市としての未来が見えない中1983年に大洪水が起こり、これを機に工業の街からサービス業へと産業構造の大転換を図ることになる。

1989年に都市の再生と文化への投資の計画が始まる。「15億USドル」の総合的な再開発プロジェクトが計画され都市インフラの整備、文化施設の建設や港湾の再整備等18件のプロジェクトが準備された。

ビルバオ新空港や街のインフラの整備

ビルバオ空港
wikipedia CC
Source Own work
Author Basotxerri

街から9キロの所にあるビルバオ空港を2000年に新しく完成させた。建築家はスペイン人サンチアゴ・カラトラーバ。イメージは白い鳥が翼を広げて空を見上げる。きれいな流線型のカラトラーバらしいエレガントなデザイン。2002年街へ向かうバイパスが山の中に開通することによって街と空港のアクセスが抜群に良くなった。市内の地下鉄と同じICカードBARIKが使える。路線バスに乗れば中心部まで約15分。

<ノーマン・フォスターによるビルバオメトロの入り口>

ビルバオのメトロ

地下鉄やトラムを走らせ人の流れを即し、河によって分断されていた労働者地区と富裕層の地区を橋を架けて移動できるようにした。街作りのコンセプトは人の流れ。

<サンチアゴ・カラトラーバのスビスリ橋>

スビスリ橋

 

工場の跡地に公園を作り、商業施設や図書館等を整備し、グッゲンハイム美術館の誘致に成功した。自転車道や遊歩道を町中に巡らせ創ることで「人の移動」をコンセプトに入れた街を計画的に時間をかけて完成させた。「ビルバオプラン」は最も成功した街の再開発例と呼ばれている。現在のビルバオは町のいたるところに公園や広場があり人々がくつろぐ姿が街のゆとりとして感じられる。

グッゲンハイム美術館ビルバオ

グッゲンハイム美術館のビルバオ分館。鉄鋼の煤けた街から近代アートの街への変換の起爆剤になったのはこのグッゲンハイム美術館の誘致だった。1997年10月18日に開館。2017年は美術館開館20周年で記念行事が行われ、一か月間ビスカヤの住民は無料で美術館へ招待されました。

<住宅街の向こうに見えるグッゲンハイム美術館>

グッゲンハイム・ビルバオ

何でもないレンガの集合住宅の向こうに斬新な建物が見える、このグッゲンハイムの見えた方が一番かっこいい、と個人的に思う。

グッゲンハイム財団て何?

グッゲンハイム家はスイスに起源を持つユダヤ系ドイツ人の家系。後にアメリカに移民したマイアー・グッゲンハイム一家は鉱山の経営と精錬で財を成した。マイアー・グッゲンハイムの息子ソロモン・ロバート・グッゲンハイムが66歳で引退し現代アートのコレクターとなる。財団が設立されニューヨークのマンハッタンに美術館を開館。5番街の現在地に移ったのは1949年。別途姪のペギーグッゲンハイムがベネチアの館を購入し自身のコレクションを公開。彼女の死後ペギーグッゲンハイムコレクションとして同財団が運営。

<ニューヨーク五番街のグッゲンハイム美術館・フランク・ロイド・ライト建築>

ニューヨークグッゲンハイム美術館
wikipedia
Source Own work
Author Jean-Christophe BENOIST

最初は1939年に自動車ショールームを改装してグッゲンハイム氏のコレクションを公開した。1959年に上記写真の本館が開館。建築はフランク・ロイド・ライト氏。しばらくは本館のみの運営だったが1988年に館長がトーマス・クレンズ氏になり美術館を国際的に広げ行く戦略のひとつがビルバオ。

グッゲンハイム・ビルバオは開館した時は5つ目の美術館だったが現在運営中のグッゲンハイム美術館3館中のひとつとなる。

(グッゲンハイム・ラスベガス、グッゲンハイム・エルミタージュ、ドイツ・グッゲンハイムは閉館。グッゲンハイムヘルシンキは建設中止、グッゲンハイムアブダビは現在建設停中)

グッゲンハイム財団のグローバル戦略

グッゲンハイム財団の理事会が世界的な美術館グループを創造する計画を採択した「グローバル戦略」が決定した、丁度その時バスク州政府からビルバオ市の再開発への参加の要請があった。お互いの利害関係が上手くリンクした相思相愛の結果、数か月の交渉の末基本合意が結ばれた。

グッゲンハイム・ビルバオ

ここはスペイン国鉄のコンテナ置き場や造船所があった一帯でアバンドイラと呼ばれる。1993年にスペイン内外から5人が招待され指名コンペが行われアメリカに住むアルゼンチン人のシーザーペリの案が入選。遊歩道やショッピングセンタ―、ホテルなどのシンプルな案が採用された。写真右端の高層ビルはシーザーペリの設計、イーベル・ドローラ(エネルギー会社)本社ビル。

ビルバオの街
wikipedia CC
Source Own work
Author Andrea Bocchino www.andreabocchino.it
誘致の条件

条件は1億USドルの建設費用をバスク自治州が負担すること、5000万USドルを作品の新規購入費用に充てる事、グッゲンハイム財団に展示会一回あたり2000万USドルを支払う事。美術館年間予算1200万USドルを補助することなど。受け入れ側にとって負担の大きいこれらすべてを承諾しバスク州とビスカヤ県とビルバオ市で賄った。

グッゲンハイム美術館

 

 

建築に8900万USドルか使われ予算も日程も予定通り建設された。開館後すぐに世界中からビルバオに観光客が訪れ最初の3年間に400万人5億ユーロの経済効果を得る。バスク政府は観光客がホテルやレストラン、ショッピングで使う金額は年間1億ユーロになり支払った以上の恩恵があったとしている。2005年のビルバオ年間観光客数が5万人、現在年間約100万人の観光客を受け入れており最も成功した都市再開発の例で「ビルバオ効果」などと呼ばれている。今も都市計画は続いていて、街は活気あふれ未来へ目を向けている。

計画当社は「財力に任せて作品を買いあさるアメリカの美術館」をビルバオに置くことに懐疑的な人が多かったが結果を見て納得の住民が増えたのは間違いない。

建築家フランク・オー・ゲイリー

コンペには日本人の建築家、磯崎新、オーストリアのクープ・ヒメウブロイが参加。バスク州政府とグッゲンハイム財団による審査でフランク・オーゲイリーの案が採択された。

フランク・オー・ゲイリーはユダヤ系カナダ人。現在はアメリカ合衆国のロサンゼルスを本拠とする。1929年生まれ。本人は否定するが脱構造主義の旗手と呼ばれプリツカー賞や日本の高松宮殿下記念世界文化賞などの賞で評価を受ける。

建築家フランクオーゲイリー
¹Source http://www.flickr.com/photos/nationalbuildingmuseum/5489221895/?edited=1
Author National Building Museum; photo by Paul Morigi

ソフトウェア技術に精通し航空力学・機械設計ソフトを建築に使い複雑な形を現実の構造にするのに解決している。技術がゲイリーの建築に追いついた形だ。

フランク・オー・ゲイリーはビルバオの近くの山に登ったり飛行機から見下ろして街の地形に最もふさわしい建築を考えた。

ビルバオの街とグッゲンハイム

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構造は鉄骨、その上に2㎜の亜鉛メッキが貼られ表面にチタンが貼られている。チタンはアメリカ製、イタリアで加工。複雑な構造を解析するため航空機などに使うコンピュータープログラムcatiaが使われた。

グッゲンハイム・ビルバオ

 

表面には平らな面が一切なくチタンの板がうねる。チタンは強く、錆びにくく、軽い、が細工が難しい。そして高額である。丁度ロシアの宇宙開発が下火になりチタンの値段が下がったという条件がそろった。

グッゲンハイム・ビルバオ

石とガラスとチタニウムの不思議な建物の全体像は咲き始める花の様にも、川に浮かぶ船の様にも、そして表面のチタンは魚の鱗のようでもある。フランク・オー・ゲイリーはユダヤ教の宗教的な儀式で家族で魚を食べる事が度々あった。子供の頃の記憶に何か独特の感覚があったようで魚をテーマにしたほかの作品もある。

<神戸にあるフィッシュダンス フランク・オー・ゲイリー>

フィッシュダンス
wikipedia CC
Source Own work
Author 663highland

フィッシュダンスは神戸開港120年を記念して創られた作品。フランク・オー・ゲイリー設計、安藤忠雄監修。海のそばにあるので亜鉛メッキが錆び、神戸市が勝手にピンクに塗り替えて(鯉だから?)作者から「作品に対する侮辱」と大クレームが来て塗りなおしたという経緯がある。今も神戸のメリケンパークにさりげなく元の色で置いてあります。

脱構造主義について少しだけ

もともと脱構造主義は哲学用語。フランス人の哲学者ジャック・デリダの著書「脱構築」という思想に影響を受けている。既存の床と壁で創られたありきたりの建築からの脱皮で長い間アンビルド建築(建てられない建築)と呼ばれてきたが技術の進歩で現実化するようになった。イラク出身のザハアディド氏、日本では磯崎新氏、安藤忠雄氏、等が有名。

 グッゲンハイム美術館には外にも作品(これらは無料で見れます)
パピー <ジェフクーンズ>

<秋の着替えの後のパピー>

グッゲンハイム・パピー

ウエスト・ハイランド・ホワイト・テリア(犬)。年に2回だけ衣装替えします。春の方が花の色が鮮やか。内部から水をあげるシステムと一番上にも水が散布され機械が付いている。身長12.4メートルの巨大な子犬は美術館のシンボルになっている。

<春の着替えの後のパピー>

パピー グッゲンハイム

もともとはドイツの展示会用に創られた。鉄の骨組みはいったん解体されオーストラリアでステンレス・スティールの骨組みに作り直し灌漑設備を付け再建された。1997年にソロモン・グッゲンハイム財団が購入。ジェフクーンズいわく「アートというのは見た人が幸せな気分になればそれでいいのだ」だそうです。

除幕式の日に庭師に変装したテロリストが爆弾を仕掛けようとしたがビルバオ警察が未遂で発見といういわく付で今はまさにビルバオの新しい顔のひとつ。

 

ママン <ルイーズ・ブルジョア>

ママン

足の長い独特のスタイルの母蜘蛛は今にも動き出しそう。作者はフランスのソルボンヌ大学卒業の数学者。絶妙なバランスの巨大な蜘蛛のお腹には卵がいて大理石製。ルイーズブルジョアは子供の時から蜘蛛が好きで良く見ていた。複雑な環境で育った子供時代の母親に対する愛情や切なさがこの蜘蛛になった。

霧の彫刻<中谷芙二子・ナカヤフジコ>

霧

毎時0分に約5分間美術館の後ろ側の橋から霧が噴出する。風の少ない日はグッゲンハイム美術館が神秘的な霧で包まれる。アートとテクノロジー、自然とアートのコラボレーション。北海道出身のアーティストは父親が氷雪の研究者で世界的に有名な中谷宇吉郎。ナカヤフジコは霧の作品で自然と私たちの関わりを作品にしている。1970年の大阪万博ペプシ館ですでに霧の作品を展示。水の粒子や消えていくもの、自然界の変化を美術作品にすることで自然との共生を訴える。

火の噴水<イブ・クライン>

火の作品

若くして亡くなったフランス人イブ・クラインの1961年の作品。毎日18時30分に池から火が噴出する。夏はこの時間まだ明るいのでインパクトが小さいが冬は暗い中水の中から火が噴き出て迫力がある。

チューリップ<ジェフクーンズ>

チュ―リップ

ジェフクーンズについては賛否両論。「チープだ、悪趣味だ、売名行為だ」等さんざん言われているが今一番稼いでいるアメリカ現代アーティストのひとり。まるで「ネットでの炎上を狙ったツイート」の様に話題性に事欠かないアーティスト。スキャンダルも「チープに消費されていくアート」としてその短命ささえも売りにしている?チューリップはセレブレイションという一連の作品のひとつ。ステンレス・スティールを彩色したもの。子供の頃の誕生日や祝い事の楽しい思い出などを作品にしてある巨大なチューリップ。

内部

内部は常設展と巡回展で運営されていて常設展も入れ替えが行われる。巡回展はグッケンハイム財団の持つ近代アートを中心に展示される。以下2作品は常設展の中で恒常的にあるもの。

マターオブタイム(リチャードセラ)
リチャーセラ
© FMGB Guggenheim Bilbao Museoa, 2017

この巨大な部屋はリチャードセラの作品を置くために創られ、これらの巨大な作品はこの部屋に置くために制作された「サイト・スペシフィック・アート」=「場所限定作品」。鉄の街だったビルバオにふさわしい鉄の巨大オブジェ。巨大な何百トンの鉄の板は一部を除いてくぎ打ちされておらず微妙なバランスの中で置かれている。中に入ることが出来る彫刻というのは非常に珍しく60度の傾きは内側に向いたり外側に離れたり中に入ると独特な感覚。歩き回って時間と空間の歪の中で楽しんでいる人達も作品の一部。動かない彫刻が空間を切り取って動いているような不思議な感覚を体験できる。ドイツの工房で作り陸路ビルバオまで運び部屋の奥からクレーンなどを使って設置した。奥の部屋で模型やビデオで作品の事が説明されている。

インスタレーション・フォー・ビルバオ(ジェニーホルツアー)
ビルバオインスタレーション
Jenny Holzer
Installation for Bilbao, 1997
Electronic LED sign, 9 columns
Site-specific dimensions
Guggenheim Bilbao Museoa

ワードアート=言葉を使ったアート作品で、サイトスペシフィック作品=場所限定なのでここに置かれる為にだけ創られた。発光ダイオードの光の文字がまるで証券取引場のような感じを見る人に与えるが一つ一つの簡単な言葉が心を打つ。エイズの基金に使われた言葉が繰り返し大地から湧いてきては天から降って来る。「I love you」「I touch you」「I hate you」等の簡単な言葉が次々地面から湧いては消えていく。作者はグッゲンハイム美術館のこの曲線のある場所が随分気に入ったそう。表面は光が反射する素材を選び色が変わると部屋全体のムードががらりと変わる。建築の曲線と反射する光も作品の一部。

後ろ側は同じ言葉がバスク語でブルーの発光ダイオードで繰り返される。使うことを禁止されたバスク語が後ろ側に使われることが作者からのメッセ―ジになっている。バスク語になると部屋がブルーに暗く輝き哀しい思い出で満ちる。じっと座って言葉を読んでいると湧いては消えていく言葉の繰り返しに不思議な感情がこみ上げてくる。

その他

巡回展が中心で一年間を通して様々な特別展が行われる。

建築があまりにもインパクトがあるので作品が霞んで見えると言われているが他にも抽象芸術や彫刻など近代アートが楽しめる。ロシア人マルク・ロスコ―、アメリカ人アンディーウォーホールやバスキア、カタラン人のタピエスの壁画、バスク人のオテイサ、チジーダの彫刻。

その他のビルバオ見どころ

ビルバオ美術館

ビルバオ美術館
wikipedia CC
Source Own work
Author MuseoBBAABilbao

2001年に改装され12世紀から近代までの作品が展示されている。エルグレコ、ムリーリョ、スルバラン、ゴヤ等スペイン絵画やクラナッハ、ゴーギャン、フランシスベーコン、広重とコレクションの幅は広く静かな中でゆっくり絵画を堪能できます。絵画好きなら足を運んでみては。

<ゴーギャン洗濯女>

ゴーギャン洗濯女
Laveuses à Arles. (Lavanderas en Arlés)
museo de bibao

旧市街

1300年ころにはサンチアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼街道の街として栄えていた。旧市街の中心にサンチアゴ教会がある。元は七つの通りと呼ばれていたようにサンチアゴ教会の周りに七つの通りが今もある。通りの名前も昔のままで風情がある。

<18世紀の絵と今も全く変わっていない>

中世のビルバオ
Public Domain
File:Bilboko irudi historikoa.jpg
Created: 18th century

旧市街は小さく店舗が沢山集まっていてショッピングも楽しめる。大聖堂とヌエバ広場やリベラ市場バスク博物館等を見ながら歩くと楽しい。

<旧市街の一角>

ビルバオ旧市街

リベラ市場は1929年に創られた当時ヨーロッパ最大のマーケット。現在もビルバオの胃袋になっていて2011年に改装が行われ上の階には飲食店が入った。

<リベラ市場は生鮮食料品と上の階にはバル>

リベラ市場

スペインの古い街には石の広場が残り何世紀も人が集まった。ビルバオのヌエバ広場は美味しいバルが集まっている。

<ヌエバ広場>

ヌエバ広場

ヌエバ広場のバル

<ヌエバ広場のバル グレ・トキのピンチョ>

グレトキはピンチョコンクールで優勝経験がある有名バル。

ヌエバ広場のバル グレトキ

スビスリ橋と磯崎アテア

<手前の橋がスビスリ橋で奥のツインタワーが磯崎アテア>

スビスリ橋と磯崎アテア

橋は1997年開通。サンチアゴカラトラーバらしい流線型の美しい橋で、川で分断されていた街の右岸と左岸を繋いだ。「スビスリ」はバスク語で「白い橋」という意味。雨の日に表面がツルツル滑ると住人のクレームが付いたり建築家が向こうに出来た磯崎アテアに向かって自分の橋が架かっているようで不満だなどと街に訴訟を起こしたりと何かと話題になった。

磯崎アテアは2008年に完成した日本人建築家磯崎新氏とバスク人建築家のイニャキ・アウレコエチェアによる複合ビル。アテアはゲートという意味。もともと税関の仮置き場だった行程差のある不規則な土地に創られた。83メートル23階建てでバスクでは一番高い建築となっている。

アルチャンダ展望台へ

<アルチャンダ展望台からグッゲンハイム美術館と街>

ビルバオの街とグッゲンハイム

スビスリ橋から山側の方へ少し歩くとフニクラの駅がある。ビルバオのmetroICカードが使える。登山電車でアルチャンダへ。

フニクラ駅

1915年に開業した登山電車。15分おきに運行していて約3分で山頂駅に。山の上にもレストランがある。ここからビルバオの街が見渡せる。

フニクラ

サン・マメス・サッカー場

アトゥレティック・ビルバオ

1898年設立のチームなので100年以上の歴史。ほかのスペインリーグのチームとの違いはこのチームのユースからの選手かバスク地方のクラブから来た選手しかいない。(バスク人の純潔主義で有名ですがバスク人でなくてもバスクのユース以下のクラブでプレーしていれば入団できるようです。)限られた人数からの選手達なのに常にトップレベル。もちろん一度も2軍に落ちたことが無いのが誇りの名門チーム。

<サンマメス球場>

ビルバオサンマメス球場
wikipedia CC
Source Own work
Author Euskaldunaa

 

 ビルバオ・アクセス

ビルバオ空港から市内を結ぶ3247番のバス。空港と中心部Plaza de Moyua又はtermibus(バスターミナル)へ。

ビルバオ市バス

ビルバオへはマドリードやバルセロナから飛行機で1時間。サン・セバスティアンからバスで1時間30分ー2時間。

ビルバオ空港へはイベリア航空、ブエリング航空、英国航空、エアーフランス、ルフトハンザ、アリタリア、ブリュッセル航空、スイス航空、タップポルトガル航空、トルコ航空、等が乗りいれている。

ビルバオの街

新市街や旧市街に個性的なバルが沢山ありそれだけでも来る価値あり。さらに美術館や様々な建築など街を目で楽しめる。

<新市街の人気バル、ビニャ・デ・エンサンチェのピンチョ>

720分料理したイベリコ豚。小皿で3.5ユーロでした。

タパス

治安がよく街がきれいでアクセスが抜群。ツーリスティック過ぎず生活感のあるところがいい。サン・セバスティアンは最近人気で随分混んでいるがビルバオはまだ静かで日常感たっぷり。そして物価はサンセバスティアンより安い。次回は「サントゥルセ(漁村)までイワシを食べに行こう」と心に決めた。

(バスクが潤沢に資金を使えるのは税収入を自分たちで使える権利を持っていて一部を中央政府に納入。バスク州だけのBDPはヨーロッパ平均より上。不満の多いカタルーニャとの違いがこれです。)

 

 

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<カタルーニャの独立問題>なぜこんなに揉めているのかまとめてみた。

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カタルーニャの歴史や民族については別記事で書いているのでここでは省略。今揉めているのはそれ以上の様々な事柄が絡み合っている。目まぐるしい出来事を自身の忘備録も兼ねて記録しておきます。

originally posted to Flickr as DSC_0024
Author Galceran
wikipedia C.C

2017年10月1日からの出来事を時系列で

カタルーニャ政府は2017年7月4日「分離独立関連法」を成立させ「10月1日の住民投票で賛成多数を得た場合48時間以内に独立を宣言する」と発表。中央政府は住民投票は違憲「10月1日に住民投票は無い」と平行線のまま当日を迎える。EUはスペイン国内問題と主張し無干渉。

<10月1日>

国民投票当日。中央政府から違法を言い渡された中の投票。あらかじめ中央政府は投票箱の没収や投票用紙の印刷会社差し止め、国家警察と治安警察が召喚される。早朝や2日前から学校などの投票所を強制閉鎖から守るため住民が寝泊まりしていた。あれだけ中央政府が投票所閉鎖や投票箱没収をしたにもかかわらず小さな村々で人々はこっそり連絡を取り合い秘密裡に数百万枚の投票用紙を準備した。いくつかの投票所に警察が押しかけ市民に対して暴力で投票所を閉鎖する場面がテレビやSNSで投稿され世界中を駆け巡った。投票用紙も身分確認も無いままの投票で同じ人物が2度3度投票したケースもあったにもかかわらずカタルーニャ政府は90パーセントの独立賛成と発表、週明けにも「独立宣言」と公表。有権者530万人中、投票した人220万。乱暴にも過半数の賛成を得たので「独立宣言」をすると公表。

<10月1日の投票所と投票箱>

Source 01.10.2017 Referendum ilegal 1-OCT
Author HazteOir.org from España
wikipedia C.C

<10月3日>

カタルーニャでゼネスト。中央政府の締め付けに抗議して公共交通はぼ全機能停止。幹線道路の閉鎖、交通機関や大学各美術館等も休館となった。

<10月4日>

国王フェリペ6世のテレビ演説。カタルーニャ自治州指導者らを非難し同州に憲法の秩序を守るよう要請。カタルーニャの人々を落胆させたのは間違いない。カタルーニャにはもともと反王政の人達が少なからずいるのでさらに独立派感情をあおった。

<スペイン国王フェリペ6世>

フェリペ6世
Source Los reyes de España dieron la bienvenida oficial al presidente Macri
Author Casa Rosada – Argentina
wikipedia C.C

<10月5日>

スペイン憲法裁判所はカタルーニャ自治州議会が週明け9日に予定する本会議の招集を差し止める命令を出す。

サバデル銀行、カイシャ銀行が本社機能をカタルーニャ外に移すと発表。 スペインの憲法裁判所が9日に予定されていたカタルーニャ州議会総会の中止を命令。

スペイン中央政府、企業が本社所在地変更手続きの簡略化の法案を検討。

<10月6日>

アルトゥーロ・マス前カタルーニャ首相「カタルーニャはまだ独立の準備はできていない。」とコメント。

フェレシェネとコドルニウ(カタルーニャの地場産業発泡酒メーカー)が本社をマドリードへ、ガスナチュラル・フェノサ(大手エネルギー会社)もマドリード移転を決定。カイシャバンクが本社をバレンシアに移転。

<フレッシェネ・カタルーニャ発泡酒メーカー>

フレッシェネ社
Picture taken by Onar Vikingstad Outside the Freixenet headquarters in Catalunya. Building from architect Josep Ros i Ros

 

<10月7日>

白い旗を持つ人達が「話しましょう」とマドリッドでデモ。良識のあるサイレントな人達が集まり中央政府とカタルーニャ政府の対話を求めた。

大手出版会社プラネタが移転を検討。グルッポ・プラネタは出版会社だがマスコミと言論界に強い影響力を持つ。

首都マドリードで「カタルーニャ独立運動に反対」するデモと集会。

<10月8日>

バルセロナで「カタルーニャ独立反対派」のデモが警察発表で35万人、主催者発表で95万人。

<10月10日>

「独立宣言」予定で世界中のジャーナリストがバルセロナに集まる。独立派の人々は独立を祝うため用意された大きなスクリーン前で独立宣言を待つ。が、18時の予定が1時間遅れと発表が有りどよめく、17時より少し遅れ、州首相は「独立の宣言とその延期」を同時に発表。全員唖然。連合政権のCUPには突然の発表だったようで梯子を外された形になり憮然とした態度。が独立宣言の紙にサインは行われる。

<10月11日>

中央政府では臨時閣僚会議が開かれ首相会見。憲法155条発動かどうか未定。カタルーニャ政府に質問「あれは独立宣言だったのですか?」月曜日までに回答をとボールを投げた。 食品会社ビンボウとコラカウがカタルーニャから移動を表明。

<10月12日>

スペインの祝日。コロンブスが新大陸に到着した日ですべてのイスパニックの日。カタルーニャ代表欠席。

バルセロナではこの祝日を祝うため「反独立派」6万5千人がスペイン国旗とカタルーニャ国旗あるいはEUの旗などを持ち「我々はスペインでありカタルーニャだ」とデモ。

 

経済問題

カタルーニャはスペインの中でも産業の際立って発達している地域。地中海に開けたバルセロナ港があり多くの外国の企業やカタルーニャの企業が活躍しスペイン経済の牽引力。スペインのGDPの約20パーセントを稼ぎ出すがいったん中央政府に収めると政府は貧しい地域に優先に使っていくためカタラン人たちの中に不公平感がある。(歳出不均衡なのは他にもマドリード、バレンシア、バレアレス諸島等もなのでカタラン人だけが損をしているわけではない)

<18世紀のバルセロナ港>

e Barry Lawrence Ruderman Antique Maps Inc.
Author Joseph Friderich Leopold
wikipedia Public Domain
スペイン経済破綻

2008年のリーマンショックはギリシャやイタリアだけでなくスペイン、そしてカタルーニャに大きな打撃だった。多くの企業が倒産し失業者があふれローンを組んだが返せず家を奪われ借金だけ残った人があふれた。(現バルセロナ女性市長アダ・コラウはこの時代に活躍した市民活動家)。各自治州の抱える赤字の中でカタルーニャの抱えるものが2014年に全体の27パーセントを占めていた。

後ろに見え隠れする政治

当時のカタルーニャ政府CIUはジョルディ・プジョールの時代からカタルーニャ政府を長年にわたって支配して来たが資金不正疑惑が発覚し市民の失望の中、不満の矛先を中央政府の緊縮政策にフォーカスしてきた経緯がある。中央政府が右寄り政権「国民党」(PP)なのでカタラン人の憎悪を押し付けるには都合がよかったかもしれない。(国民党(PP)=フランコ後にフランコ体制の政治家を中心に創られた国民同盟を前身とする政党)カタルーニャはフランコの独裁政権時代に迫害を受けている記憶がまだ生々しく人々に残っている。独裁が終わってまだたったの42年。

不満のひとつ

またバスク州とナバーラ州はスペイン17自治州の中で特別にほぼすべての徴税権限を持っている。Soberania fiscalと言って州が徴税権を持っていてその一部を中央政府に収める形になっている。1876年にこの経済協定は締結されていて一旦フランコの時代に停止されたが1978年の憲法により復活している。今もナバーラとバスクは医療制度等が充実しているので有名。カタルーニャはこれを望んで交渉しているが中央政府は拒否。

もし独立したら?

もしカタルーニャが独立した場合EUとシェンゲン協定から出ることになる。カタルーニャ製品には関税がかけられ人の移動も今の様に簡単ではなくなり観光客の数は大幅に減る。カタルーニャ経済はスペインそしてEU内にあるので潤っている。外国企業は「EU外のカタルーニャ」には興味は無く拠点を移すのは間違いない。既にそれはとっくに始まっているが”理想を掲げる独立推進派”は市民に説明どころか本人たちもこのデメリットを想定していなかった。

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この記事を書いている間に状況はどんどん変化しすでにスペインIBEXを構成する大手企業各社がカタルーニャからの本社機能移動を発表。2017年10月12日現在、今月の12日間だけで540企業がカタルーニャから移動した。

カタルーニャ自治憲章 estatuto de autonomía

自治憲章=憲法に盛り込まれている各自治州の憲法

Constitución Española de 1978
Author Own work
wikipedia Public Domein

1978年に制定されたスペイン憲法ではカタルーニャやバスク地方は「民族態」とされそれらの地方言語は「豊かな言語様態」の表れとして「特別の尊重および保護の対象」となると謳われている。2006年の「カタルーニャ州新自治憲章」がカタルーニャを「ネーション=国家」と位置づけ様々な他地域から反発を招いた。

新カタルーニャ憲章の経緯

2003年のカタルーニャ州議会選挙と2004年スペイン議会総選挙の選挙戦当時の左派スペイン社会党の首相候補だったサパテロは新たなカタルーニャ自治憲章の規定を約束。(何故約束したかは私の想像ですが:スペインでは当時の過去の総選挙で第一政党だけでは過半数にならなかったケースが2度あった。地方政党の支持が不可欠となり協力と引き換えに地方政党の要求を受け入れる必要があった。)

<ホセ・ルイス・サパテロ>

www.la-moncloa.es
wikipedia PublicDomain

2005年9月のカタルーニャ州議会で可決され2006年6月当時の社会党政権スペイン下院でも可決された。カタルーニャ州で住民投票に掛けられ賛成多数で2006年”カタルーニャ自治憲章が承認された”

 

この直後、当時野党の国民党(PP)は新自治憲章がスペイン1978年憲章に照らし合わせて違憲であるとスペイン憲法裁判所に提訴。審議は4年かかり2010年6月「カタラン語の使用、財政、司法、域内行政の独自性の強化を目指した14条」を違憲と判決を受ける。

絡み合う経済と政治問題

2010年

世界金融不安の後の緊縮財政の中、上記”2010年カタルーニャ自治憲章が憲法裁判所により違憲とする判決が下された”。これが間違いなくカタルーニャ人の独立意識に火をつけた。2010年以前の独立主義の支持率は20パーセント未満だったがこの頃から際立って上昇。7月には「我々は国家だ、我々が決める」のスローガンのもとバルセロナ中心部で大きなデモ。警察発表110万人主催者発表150万人。

<2010年「我々は国家である」のデモ>

Lohen11 – Josep Renalias
wikipedia C.C

この独立機運を利用し2010年11月28日のカタルーニャ州議会選挙で大躍進したのが連合政党CIU(集中連合)。アルトゥール・マスが州首相に就任し一気に独立主義へ舵取りをしていく(今頃になってカタルーニャはまだ独立の準備はできていないと言った人物)。その後ろには汚職と不正資金問題などの多くのスキャンダルから目をそらせる意図があった。

Generalitat de Catalunya
wikipedia C.C

*CIU(集中連合)は老練な政治家ジョルディ・プジョールの指導のもとカタルーニャ経済界と結びつきが強くカタルーニャの完全独立を求めるよりは現在のスペイン国家の中で地域の利益を最大限に引き出す政策を取って来た政党。アルトゥール・マスはジョルディ・プジョルの弟子。「カタルーニャから企業は逃げない」と言いきれたのはこの時代の経済界との結びつきがあったから。だが時代は変わっていた。

<ジョルディ・プジョール>

Convergència Democràtica de Catalunya
wikipedia C.C
2011年

翌年2011年スペイン議会総選挙ではPP(国民党)マリアーノ・ラホイがスペイン首相に就任。今、カタルーニャ政府とやりあっているのがこのマリアーノ・ラホイ首相。重複するがPP(国民党)はフランコ後にフランコ体制の政治家を中心に創られた国民同盟を前身とする政党。カタラン人たちの反発は大きくなる一方でPPは反カタランで結束する。

<現スペイン首相マリアーノラホイ>

EPP Congress Rome 2006
Author European People’s Party
wikipedia C.C
2012年

2012年11月25日カタルーニャ州議会選挙でマス州首相は「この選挙で過半数を取れば独立か否かの国民投票をする」と州民に発表する。独立機運の高まった州民の票を取ろうとしたが過半数を取れず議席を減らす。そこで躍進し議席を増やしたのが筋金入りの独立推進左派政党ERC。18議席を失ったマスは心ならずもERCと協定しその見返りにカタルーニャ独立への道を約束。ERCの党首が現在のカタルーニャ副首相ジュンケーラス。

ここで初めて州選挙に出て3議席を獲得したのが急伸左翼で反資本主義の独立派CUP(人民連合の候補者)。マスの思惑はここで崩れ去り独立問題をうやむやにできなくなる。

2013年

2013年のディア―ダの日(9月11日)には人々は独立旗を掲げ手を握り合い480キロの人間の鎖を作りカタルーニャの独立をアピール。これは旧ソビエト連邦からの独立を支持するバルト三国が1989年に組織したバルトの道をモデルにしている。その後バルト三国は1991年に独立を達成している。

カタルーニャ独立
11 September 2013, 16:26:56
Source Own work
Author Clara Polo Sabat

もうだれにも止められなくなった状態で2013年12月カタルーニャ政府は中央政府に対し翌年にカタルーニャの独立の賛否を問う拘束力のない住民投票を行うと発表。中央政府からの反対が有ったがこの住民投票は2014年11月9日に行われ独立反対派が棄権したことから投票率は40パーセント、投票者の80パーセントが独立賛成。

2014年

ディア―ダはカタルーニャにとって特別な日だ。1714年9月11日カタルーニャは自治権を奪われた。その300年祭2014年9月11日のディア―ダにかつてない程の大規模なデモが行われた。約300万人のカタラン人が集まった。

<2014年ディア―ダのデモ>

カタルーニャ・ディア―ダ2014
Source Own work
Author Konfrare
wikipedia C.C

運命の2015年カタルーニャ議会選挙を迎える

CIUの分裂とジュンツペルシー

CIUはもともと2つの党の連合体だったが独立関連で意見が分かれ分裂し解散。マスのいるCDCとジュンケラスのERCが中心になり選挙の為の連合体を作ったのが「JxSiジュンツペルシー」。訳すと「共にイエス」。2015年カタルーニャ州議会選挙に向けて独立派選挙連合JxSiとCUPは過半数議席を獲得すれば18か月以内に独立を宣言と発表。

選挙の結果はジュンツペルシーの独立派が獲得議席は過半数確保だが得票率は48パーセントと実際独立支持者は半分以下という事が浮き彫りになった。

共有するのは「独立」のみで他の政策で様々な違いの有る選挙に勝つための寄せ集め集団で首相選びは難航。前カタルーニャ首相マスでひとまず決まりかけるがCUPはこれに猛然反対し出直し選挙の噂も流れる。翌年独立推進派の議員でジローナ市長のカルラス・プッチダモンで落ち着く。このプッチダモンが現カタルーニャ州首相。独立に向けてまっしぐらにダッシュし、独立宣言のすぐ後独立宣言を延期した人物。

<カルラス・プッチダモン現カタルーニャ州首相>

プッチダモン
Source http://www.president.cat/pres_gov/president/ca/presidencia/galeria-presidents/index.html
Author Generalitat de Catalunya
wikipedia C.C

癒えない傷

スペイン内戦の後のフランコ独裁政権下はカタルーニャは厳しい弾圧を受けジェネラリターは閉鎖されカタラン語は禁止された。カタルーニャ首相は処刑されカタルーニャのアイデンティティーは全て否定された。まだその記憶が生々しい中今回の警察による投票所の閉鎖や包囲戦はフランコ時代を思い出させた。

分断と混乱、カタルーニャ民衆が失ったものは大きすぎる。「企業が出ていくはずはない」と人々を暗示にかけ扇動し、「ヨーロッパが助けてくれる」と信じていたカタルーニャの政治家たちの無能さに驚く。「プランB」は準備していなかったのか?それならその甘さにあきれる。プッチダモンの飄々とした態度に・・・・もしかしたらもう一枚後ろに何かカードを準備しているのか?まだまだこの後どうなるのか未知数のカタルーニャです。

唯一得たものは世界に「カタルーニャ」という強く独立を希望している地域がスペインに有ることをアピールできた事かもしれない。

10月12日以降のニュースはこちらで更新しています。https://tabspain.com/noticia-catalunya-indep/

補足メモ(2001年からの国内の出来事リスト)

<2001年>民衆党アスナール首相 自由経済導入

<2002年>実質的なユーロ導入により物価の高騰と住宅バブル。不動産の値段が瞬く間に上がり人々は浮かれて踊り銀行は無理なローンを組ませ許可のない地区に住宅が作られていった。

<2003年> カタルーニャ与党CIU(結束と統一)によりカタルーニャ新自治憲章が提起される

<2004年>マドリード列車爆破テロと選挙により政権が社会党サパテロ政権に移る。サパテロ首相新たなカタルーニャ自治憲章の制定を約束。

<2006年> カタルーニャ自治憲章の改正が行われるがはこれを国民党議員100名が違憲と憲法裁判所に提訴。(この段階でのカタルーニャ独立希望者は20パーセント)

<2008年>世界金融不安によりバブル崩壊。税金が上がり社会保障は切られ中小企業が閉鎖し小売店は姿を消していった。

<2009年>カタルーニャ州内の自治体で独立に関して法的拘束力のない住民投票がおこなわれた特率賛成派多数と発表。投票率27パーセント。

国民党のギュルテル事件捜査に関連し国民党の会計バルセナが起訴される。が判事バルタサル・ガルソンが司法界から追放され事件はいったんお蔵入り。

<2010年6月28日>憲法裁判所によりカタルーニャ自治憲章の改正のいくつかが違憲であると判定が下される。

<2010年7月10日>カタルーニャ大規模デモ。110万人参加。

<2010年12月>アルトゥーロマス州首相就任。(マスは州内の問題を独立の陰に隠しカタルーニャ民衆の独立心を利用)

<2011年>5月15日M15運動=大衆運動=始まる。11月20日総選挙で国民党ラホイ首相就任。

<2014年>1月ポデモス結党。9月11日カタルーニャの自治権が奪われた記念日ディア―ダ=スペイン王位継承戦争でカタルーニャの自治権が奪われた300周年に300万人のデモ。

<2015年>カタルーニャ州議会選挙でJxSi(独立諸派連合)は過半数を取れず反資本主義極左独立派CUPと連合政権。CUPはマスとは同調できないという事で「バリバリ独立派プッチデモン」がカタルーニャ州首相に。

<2017年>10月10日独立宣言とその延期

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カルロス5世(スペイン史カルロス1世)神聖ローマ帝国皇帝。スペインの黄金時代

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15世紀が終わり新しい時代がやって来た。ここに一人の王子が誕生する。1500年今のベルギーのゲント(ガン)で生まれたのが後のカルロス5世。父親はブルゴーニュ公国のフィリップ美公。フィリップはハプスブルグ家の世継ぎで神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の息子。母親ファナはスペインのフェルナンド王とイサベル女王の次女。レコンキスタが完成しアメリカ大陸発見の頃のスペイン王国。という絵空事の様なものすごい血筋の王子が誕生した。

<中央がカルロス、左端が祖父のマクシミリアン1世>

カルロス五世と父方の家族
Bernhard Strigel – Kunsthistorisches Museum Bilddatenbank

ブルゴーニュでの幸福な幼少時代

ブルゴーニュ公国というのは現在のフランス東部とドイツ西部、ネーデルランドを含む地域。羊毛産業で経済的に大変栄えたヨーロッパ随一の先進地域だった。

<15世紀のブルゴーニュ公国>

ブルゴーニュ公国
Marco Zanoli (sidonius 12:09, 2 May 2008 (UTC))

<父フィリップ美公>

フィリップ美公

<母ファナ>

ファナ王女
Johanna I van Castilië
ca. 1500; 34,7 x22,4 cm
Spaans Nationaal Beeldenmuseum, Valladolid

 

舞台としては申し分ない時代と登場人物が用意された。ローマ法王レオ10世、フランスのフランソワ1世、ドイツのマルチンルター、イギリスのヘンリー8世、オスマントルコのシュレイマン大帝・・・・

<毛織物産業で繁栄するフランドルのゲントの街>

ゲントの街

 

スペインの王位継承者に不幸が続きカルロスの母ファナの所に次期王位継承権がやって来た。両親はそろってカトリック両王(イサベル女王とフェルナンド王)に会いにスペインへ。そこでまさかの父親フィリップの突然死(フェルナンド王による毒殺もささやかれる)。母親ファナの発狂(これについては諸説)。カルロス6歳の頃の事。それでも両親不在のベルギーのメッヘルンで幸せな子供時代を送る。叔母のマルガレーテ大公妃は教養のあるルネサンスの才媛で、その周りに集まる教養人と共に豊かな教育を受けられたのは幸運だった。

<ベルギーメッヘルン>

ベルギーメッヘルン
Ad Meskens – Trabajo propio

*叔母マルガレーテはスペインのイサベル女王の1人息子ファンと結婚するが結婚式の最中ファンが突然死。懐妊していたがその子も生まれて間もなく死亡。イサベル女王とは仲良く信頼関係がありその後故郷に戻った後誠実な政策を取り国民にも生涯愛された。

<カルロスの叔母、マルガレーテ大公妃>

マルガリータ大公妃
ce Musée municipal de Bourg-en-Bresse
Author Hugo Maertens

カルロス・ブルゴーニュ公に

<カルロス5世15歳頃>

カルロス5世

 

1515年1月。15歳のカルロスは既に充分な威厳を持ち備えており歴史の表舞台に登場。ブルッセルで儀式が行われブルゴーニュ公国の君主となる。同じ年フランスでルイ12世が死亡しフランソワ1世が即位。フランソワ1世は生涯にわたってのカルロスのライバルである。そしてハプスブルグ対ブルボンの因縁の対決の始まりのゴングが鳴った。

<フランソワ1世 1515年頃>

フランソワ1世1515年

フランソワ1世はこの少しあとにレオナルド・ダビンチをフランスに呼び寄せた。この時レオナルドが持参した数少ない物の中に「ジョコンダ」があった。現在ルーブル美術館にある「モナリザ」である。

母方祖父であるスペイン王フェルナンドの崩御

<スペイン王フェルナンド>

フェルナンド王

母ファナ、カスティージャ女王は精神に異常をきたしたという理由で城に幽閉されその父親であるフェルナンド王が摂生としてカスティージャの政治をしていた。フェルナンドはアラゴン・カタルーニャの王でスペイン東部と南イタリアと地中海の島々を持っていた。そのフェルナンド王が1516年に亡くなった。フェルナンドはスペインの王冠がハプスブルグに継承されない為晩年フランスの貴族の娘と再婚し男子をもうけるがその子は夭折。世継ぎを残すため怪しい媚薬にも手を出していた。せめてカルロスの弟、スペイ育ちのフェルナンドにスペイン王位を継承させたいと努力するがそれも適わず。病床に付いたフェルナンドはどれ程悔しい思いをしたことか。執念深く阻止しようとした悪夢は現実になった。

カルロス・スペイン王になる

17歳のカルロスが40隻の船でスペインへ向かい予定のサンタンデール港から少し外れたアストゥリアスのタソネスの漁港に到着、というより漂着。住民たちは見たこともない数十隻の船団に驚き手に手に棍棒を持ち戦いの準備をしたそうだ。髭をそり香水をつけて降りたカルロスはあまりの田舎にがっかりしここでは滞在せずに直ぐに移動した。

<タソネスの漁港>

タソネスの漁港

カルロスがスペインへ着いてまず最初に逢いに行ったのは物心つかない頃分かれた母。カルロスはこの後幾度となく城に幽閉された母に逢いに行く。その後バジャドリードにいた弟フェルナンドとも再会する。弟のフェルナンドはスペイン育ち。スペイン国内では彼ににスペイン王冠をという動きがあった。マクシミリアン皇帝はこれらの事情をすべて理解しこれ以上フェルナンド派が行動を起こす前に彼を叔母マルガレーテ大公妃の待つネーデルランドへ送る。2人の兄弟と4人の姉妹は生涯にわたり力を合わせてハプスブルグの為に協力し合った。フェルナンドは後フェルディナンド1世としてドイツ皇帝、オーストリア大公、ボヘミア王、ハンガリー王となり幸せな結婚をし生涯スペインには帰らなかった。

<カルロスの弟フェルディナンド1世1521年>

フェルナンド1世
Hans Maler zu Schwaz – Kunsthistorisches Museum: Bilddatenbank
Abgebildete Person:Kaiser Ferdinand I. Sohn des Philipp von Habsburg Österreich

父方祖父神聖ローマ皇帝マクシミリアンの逝去

1519年マクシミリアン1世が亡くなる。神聖ローマ帝国の皇帝は7人の選帝侯によって選ばれる選挙制。7人の票のうちの4票をどれだけの資金で手に入れるかという選挙。最大のライバルはフランソワ1世。既に買収は始まっていた。

当時のローマ法王はフランスびいきのメディチ家出身レオ10世。カルロスが皇帝になるのを阻むためフランソワ1世を支援する。派手好きイベント好きのルネッサンスローマ法王はロレンツォ・ディ・メディチの息子。浪費好きでローマの街に当時の最高の芸術家を集め飾り立てた。前ローマ法王が着手していたサンピエトロ寺院の建設を引き継ぎミケランジェロやラファエルを起用した。

<ラファエルによるレオ10世>

ローマ法王レオ10世

1519年19歳でカルロス5世神聖ローマ皇帝

選挙の資金は叔母のマルガレーテが大富豪フッガー家から援助を受ける。またドイツの諸侯たちがメディチ家のローマ法王の後ろ盾を嫌ったこともあり選挙は満票でカルロスが勝利。フランスはハプスブルグ家に囲まれた形になりこの後戦争が続く。

<カルロス5世時代のハプスブルグの領土>

紫―カスティージャ 赤―アラゴン 黄-オーストリア 黄土―ブルゴーニュ

カルロス5世支配地域
Original by Lucio silla, modification by Paul2 – Modification of Europa02.jpg

スペインでは王が外国の為にお金を使いブルゴーニュから沢山の人がやって来て要職をほしいままに。人々の反感が高まりコムネロスの乱がおこり国内は混乱。腕利きの総裁に後は任せ王は「3年で戻る」と約束しスペインを後にする。この反乱は自然崩壊となりカルロス5世が3年後に戻るころには国内はほぼ平和が回復されていた。

1520年カール大帝ゆかり地アーヘンで戴冠式が行われた。

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<ドイツ西部アーヘンの大聖堂>

アーヘン大聖堂

同じ年マゼランが5隻の船を率いてセヴィージャの港を出港している。この時代に多くのコンキスタドーレス達がアメリカへ渡り欲望のままマヤ、アステカを破壊し財宝を吸い尽くす。

マルティン・ルターの登場

宗教改革である。カルロス五世を生涯苦しめるひとつの難題の登場。ルター本人はそんな大それた事をするつもりは無かったと、思う。たまたま投じた一石の波紋が広がった。ルターはドイツの修道士であり神学教授だった。前述のローマ法王レオ10世の時代「ローマのサンピエトロ寺院」の建設費を集めるためにドイツで免罪符が販売される。「これを買ったら天国へ行ける!」というのが免罪符。そのお金はローマへ集まり豪華絢爛のサンピエトロ寺院の建設に使われた。これに異を唱えたのが始まり。

<1517年ヴィッテンベルグ城に95か条の論題を張り出すルター>

マルティンルター95か条
Ferdinand Pauwels

ヴォルムスの帝国議会

1521年1月21日に開かれた国会が歴史に名を残したのはルター問題。免罪符の販売で一番搾取の大きかったドイツではローマに対する恨みが募っていた。ルターはローマ法王レオ10世に破門される。ひとりの修道士の小さな反抗が波紋を広げた、そんな頃に開かれた国会。ルターは自説を曲げず堕落したカトリックに対抗。いかなる権威も認めずひたすら聖書と自分の関係に信仰を求めるルターの態度は変わらず。カルロスは帝国とカトリックの崩壊を恐れ、しかしルターを禁固するでもなく処刑するわけでもなくルターに自由通行証を与えた。これはひとえにもカルロス5世とハプスブルグ家の正義感や騎士道精神による。この誠実な態度はハプスブルグの代々の王達に継承されていく。

<ヴォルムス会議で弁明するルター>

ヴォルムス会議
1556
Source Unknown
Author Unknownwikidata:Q4233718

カルロス皇帝スペインへ

約束通り3年ぶりにスペインへ戻ったカルロスはこの後7年間スペインに滞在しスペイン語を話しスペインを愛するスペイン人になる。そしてスペイン人たちにも愛される国王になる。臣下の者達の間でも結婚などで融合が行われていく。ローマ法王レオ10世の死去によりハドリアヌス6世即位。ハドリアヌスはカルロス5世の家庭教師だったオランダ人。学者肌でローマ法王より修道僧が向いているタイプの人。教会改革を進めるが残念ながら在位期間が短かすぎ。約一年半で疲労がたまり死去。学僧として本に囲まれて暮らしていればもっと別の人生があった惜しい人物が、この世で最も生臭い地位「ローマ法王」に選ばれたのは不幸としか言えない。その次はレオ10世のいとこ又してもメディチ家のクレメンス7世。

<ローマ法王ハドリアヌス6世>

ハドリアヌス6世
Jan van Scorel – Unknown for original uploader, but it can be found at the Centraal Museum of Utrecht.

パビアの戦い

事あるごとに関わってくるのがフランスである。ギリシャ沖のロドス島にオスマントルコの手が伸び聖ヨハネ騎士団が死守しようとしている東地中海の島が陥落しようとしていた。後ろから手を貸しているがフランスのフランソワ1世。さらにイタリアのミラノとナポリの継承戦争で再びフランスが手を出してきた。ヨーロッパ諸国の利害関係が絡みイタリア戦争が再び始まる。その後イタリアの北部パビアで皇帝軍とフランス軍の戦い。ミラノを攻撃して来たフランス軍を4時間半でカルロス5世軍が破りフランソワ1世が捕まる。

<パヴィアの戦い>

パヴィアの戦い
Bernard Van Orley, The Battle of Pavia, RIHA Journal.

あっけなく捕虜になったフランソワ1世。戦争終了後「マドリード条約」が結ばれる(1526年)。イタリアとブルゴーニュのスペイン領有。フランソワ1世の母はオスマントルコと密約を交わし、さらにイギリスヘンリー8世に袖の下をたんまり与えその後の準備に余念がない。実際このパヴィアの戦いでヨーロッパの勢力図は一気にスペイン・ハプスブルグの拡大になる。パワーバランスが崩れるとこっそり寝返り後ろから手をまわすのがヨローッパの外交政策。今もそうは変わっていない。フランソワ1世は聖書に手を置いて誓約をかわし国境エンダーヤで2人の息子に変わって釈放された。この後フランソワ1世は幾度となくカルロス5世を裏切る。

カルロス5世の結婚

フランス王を釈放した後カルロスはセビージャへ向かう。大航海時代のセビージャは大型船が出入りし華やかな時代。巨大な大聖堂は完成間近。1526年セビージャのアルカサール(王宮)で祝宴が行われた。ポルトガル王女イサベルとカルロスは母親同士が姉妹。スペイン建国の母イサベル女王の娘達の中で唯一幸福な結婚をした三女マリアの娘。

<イサベル・デ・ポルトガル、カルロス5世妃>この絵はイサベル妃が亡くなった後にカルロス5世がティチアーノに若き日の王妃を描いてもらったものでカルロス5世が生涯近くに置いていた。現在プラド美術館所蔵。

イサベル皇后

 

新婚旅行に出かけたアルハンブラ宮殿で暫くの蜜月を過ごした。この結婚は仲睦まじく幸せな結婚だった。王族同士の政略結婚で幸福だったケースはそうは多くない。2人の間に5人の子供が生まれ長男が後のフェリペ2世。

サッコ・ディ・ローマ(ローマ劫掠)

カルロス5世の知らないうちにフランソワ1世はイギリスやローマ法王クレメンス7世と手を組み反ハプスブルグ同盟を結んでいた(コニャック同盟)。そして対抗するカルロス5世軍はドイツからの傭兵を中心とした部隊でイタリアに集結。このドイツの傭兵達のローマに対する恨みは積もり積もっており憤懣やるかたない中、カルロス5世の資金も底をつき支払いが滞っていた。怒り狂った群衆が飾り立てたローマの街へなだれ込み略奪・強盗・放火・強姦のしたい放題でローマの街を9か月間にわたって破壊した。これが有名なサッコ・ディ・ローマそしてこれが盛期ルネッサンスの終焉になる。

サッコディローマ
Johannes Lingelbach – L’Histoire April-June 2009, p.74
『Sack of Rome of 1527』

カルロス5世はこれほどまでの略奪を黙認したのか手が付けられなかったのか謎のままだが事態は有利に終わる。1529年ローマ法王クレメンス7世と条約を結びイタリアはカルロス5世の支配下にはいる。ボローニャでローマ法王によって神聖ローマ皇帝の戴冠式が行われた。

<カルロス5世ローマ法王により戴冠>

カルロス世ボローニャで戴冠

この間にスペインではカルロス5世の長男フェリペが誕生。後のフェリペ2世。イギリスではヘンリー8世がカタリーナ・デ・アラゴン(カルロス5世の叔母・カトリック女王イサベルの娘)との離婚を希望するがカトリックでは離婚が認められない為イギリス国教会を作る。カタリーナ(キャサリン)は監禁生活を強いられる。修道士の衣服を着て暮らし苦境の中も精神は高潔であった。ヘンリー8世とカタリーナ(キャサリン)の間の娘がイングランド女王メアリー1世、通称「ブラッディ―マリー」。メアリー1世は後にカルロス5世の世継ぎフェリペ2世と結婚する。

<イギリス王ヘンリー8世とアラゴンのカタリーナ>

ヘンリー8世カタリーナ

<メアリー1世、新教徒を激しく迫害したため血のメアリーと呼ばれた>

メアリー1世

チュニス遠征

1492年のグラナダの陥落によってイベリア半島を追われたイスラム教徒たちが北アフリカで海賊になり報復をしていた。地上ではオスマントルコのシュレイマン大帝がウィーンまで迫ってヨーロッパの脅威になっていた。その後ろにはやはりフランソワ1世が反ハプスブルグで見え隠れする。カルロス5世はチュニジアまで遠征し軍はチュニジアの街を3日間略奪しつくす。

<オスマントルコの勢力図>

オスマントルコ勢力図
OttomanEmpireIn1683.png から日本語化。(The Japanese meaning from OttomanEmpireIn1683.png .)
投稿者:斎東小世(Saito chise)

大体オスマントルコがこんなに勢力を拡大できたのはフランスが後ろから援助をしていたからに他ならない。もちろんフランスはカトリックの国である。

 アウグスブルグの会議

1530年に開かれた帝国会議は宗教問題。10年前のヴォルムスと同じテーマ「マルティンルター」だ。しかし状況はすっかり変わっており多くの都市が新教側を支持していた。カルロス5世は何とか状況の打開と両派の和解を図ろうとするがカトリック側の既得権を得た枢機卿達の反対もあり平行線。ドイツ人の人文主義者のメランヒトンによる「アウグスブルグの信仰告白」提出されるが調停に失敗。

<1530年アウグスブルグの会議>

アウグスブルグ1530年

<カルロス5世1530年ティチアーノ作>

カルロス5世1530年
museo de Prado

その後もイタリア戦争

第三次イタリア戦争でフランソワ1世はミラノの侵攻に失敗し、オスマン帝国のシュレイマン大帝と政治同盟を結ぶ。1542年オスマントルコと連合したフランス軍は再び大敗。これでやっとフランスはイタリアをあきらめた。その後フランスはルター派を支持しシュマルカンデン同盟でカルロスと対戦。そう、繰り返すがフランスは今もカトリックの国。宗教なんて関係なしだ。

第四次イタリア戦争でローマ法王の取り持ちでなんとかカルロス5世とフランソワ1世は和約にいたる。(1538年)

<フランソワ1世とカルロス5世の和約>

ニースの和約

この後しばらくはカルロス5世とフランソワ1世は蜜月を過ごすが再び第5次イタリア戦争勃発。フランスは懲りずもまたイタリアに侵攻してくる。

さらに新教徒連合軍との戦争「シュマルカンデン戦争」が始まり1547年カルロス5世はシュマルカンデン同盟を破りこの戦争にひとつの終止符を打つ。この最後の戦いの勝利がミュールベルグの戦い。勝利の後の「カルロス5世騎馬像」というティチアーノの作品がプラド美術館に展示されている。

<ミュールベルグの戦いの後のカルロス5世、ティチアーノ>

カルロス5世ミュールベルグの戦い

 

<勝利者カルロス5世と負けた人々>中央がカルロス5世 左からシュレイマン大帝、ローマ法王クレメンス7世、フランソワ1世

カルロス5世と負けた人達
ジュリオ・クロヴィオ – Panorama de la Renaissance, by Margaret Aston |Dat

この後病気で体調を崩したフランソワ1世死去。しかし戦争はその息子アンリ2世に引き継がれる。フランスはスペインに対抗して大陸航海も始めカナダのケベックに到着。今もカナダのこの地域はフランス語圏。スペイン人にとっては災難でしかないフランソワ1世はフランスではフランス国土を広げイタリアから芸術家を集めフランスの文芸を高めた王として人気がある。

カルロス5世息子に遺書

持病の通風で足が痛く気も弱くなっていたカルロス5世。息子フェリペに「ハプスブルグ家をカトリックを擁護する立派な家とし結婚政策で大きくするよう」に遺言をしたためている。波乱多く人生疲れ切った様子のカルロス5世の内面が書き出されているティチアーノの一作。48歳は今なら未だ精悍な年齢だがこの絵のカルロスは万感尽きた老人のよう。

<カルロス5世1548年>

カルロス5世1548年

 

その後片腕の公爵に裏切られプロテスタントの勢力は無視できない状態になりオスマントルコの侵攻も激しく、フランスは次のアンリ2世は今だ後ろから手をまわしてくる。

アウグスブルグの和議(1555)

「ルターを暗殺しておけばと良かった」と思ったかもしれない。もう手が付けられない程にプロテスタントの力は大きくなっていた。ローマの横暴や拝金主義等どう見ても言っていることはプロテスタントの方がまともだった。カルロス5世の弟フェルディナンド1世の主催で南ドイツのアウグスブルグで会議が行われ宗教対立の収束を図った。

<アウグスブルグの和議・左端がカルロス5世>

アウグスブルグの和議

ユステの修道院へ

1555年、旅と戦争と裏切りと痛風に苦しみ退位を決意。ブルッセルでの退位式の言葉は「私は多くの過ちを犯してきた。しかし誰かを傷つけようという意図は持っていなかった。もし万一そんな事があればここに許しを請いたい」と涙で演説が途切れたという。

<カルロス5世退位式、ブルッセル>

カルロス5世ブルッセルでの退位
atelier Leyniers et Reydams – http://bruxellesanecdotique.skynetblogs.be/post/7116434/palais-du-coudenberg
Tápiz del siglo XVIII, de Leyniers y Reydams , representa la abdicacion de Carlos I de España en el Palacio de Coudenberg

両親から受け継いだスペインとネーデルランド、新大陸は息子のフェリペ2世に譲り、父方の祖父からのオーストリア、神聖ローマ帝国の地位と領土は弟のフェルディナンド1世に継承させた。ここにスペインハプスブルグとオーストリアハプスブルグに分かれることになる。

<弟フェルディナンド1世>

フェルナンド1世

同じ年1555年4月12日母親ファナ女王がトルデシージャスの城で亡くなっている。事実上はファナがスペイン女王。最後まで「Yo Reyna 」「我女王」のサインをしたと言われている。

<ユステのカルロス5世、亡き妻の絵が壁にかかっている>

カルロス5世ユステ

スペインの西の僻地にあるユステ。エストレマドゥーラ地方は今もそういう位置づけ。北部は意外と降雨量があり樫林や果樹園が多い。そこの樫林の中の静かな修道院で隠居生活に入り、1558年58歳で亡くなった。

<カルロス5世ユステの修道院>

カルロス5世の最後

広大な帝国と地位を手にした皇帝の最後の場所には地味すぎる所。ひとつの時代が終わった。

 

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<カタルーニャ>スペインから独立を希望する州カタルーニャについて(民族や歴史)。

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スペインにある17州のひとつ。大きさは関東平野位のところに人口750万人。地中海に開けた港があり古くから交易で栄えた「国家」だった。国としての歴史は「スペイン国」より古い。首都はバルセロナ。1977年カタルーニャはスペイン政府から強い自治を手に入れているがスペインからの独立を希望している。今年2017年10月1日に独立に関してのカタルーニャの国民投票をすると言っているがスペイン政府は強く反対を唱えている。いったいカタルーニャとはどういうところなのかをまとめてみました。

地理

イベリア半島の北東部の一部。北はピレネー山脈、南東には地中海西側にエブロ川が流れアラゴンと接している地域。

カタルーニャ地図
Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported

 

言語カタラン語(カタルーニャ語)

ラテン語から生まれたロマンス語はその後いくつもの言語にわかれてラテン語の諸語となる。南フランスで今も使われているプロバンス語のひとつオック語の仲間がカタラン語。10世紀には自立した言語となり12世紀には公用文書として使われている。なのでカタラン語はスペイン語の方言というよりプロバンス語の仲間と言った方が正しい。文法的構造も耳で聞いた印象もプロバンス語に近くカタラン語は語のリエゾンを持っている。

彼らはカステジャーノ(スペイン語)とのバイリンガル。バルセロナでは国内移民のスペイン人が多く共通語としてのカステジャーノ(スペイン語)を普通に耳にするがカタラン人同士ではカタラン語を話している。道路標示や案内、美術館の説明などもすべてカタラン語又はカタラン語とカステジャーノ(スペイン語)2カ国語併記。

カタラン語は中央政府から禁止され弾圧を受けた歴史があります。現在のカタラン人の頑なな態度に辟易とすることは私個人的にもありますが守って行かなければ歴史は繰り返される。言語は民族のアイデンティディーだからです。

カタラン語圏

カタラン語は以前のカタルーニャ君主国圏で今も話されているので広範囲にわたる。地中海のバレアレス諸島(マヨルカ島、メノルカ島、イビサ島)サルデーニャ島(現イタリア)の一部、バレンシア州全体、アラゴン州の一部、国境を越えたフランス側のピレネーアリアンタル県、アンドラ公国で話されている。

カタラン語圏
English: Map of the Catalan Countries, including the Catalan language domain.
Date 09/08/2007
Source Own work
Author Marc Belzunces

 

歴史

最初の方の歴史はスペイン史と同じ

謎の先住民族イベロ族が住んでいたところへギリシャ人やカルタゴ人が商売でやって来る。その後ローマ帝国の植民地になり多くの街が創られた。バルセロナの街の地下には今もローマの遺跡が残る。その後ゲルマン民族の大移動で西ゴートの支配下にはいる。南からイスラム教徒が入って来た折フランク王国のカール大帝がイスラム征伐で南に降りて来て801年バルセロナを占領する。ここにひとつの砦を創り辺境領として伯爵を置いた。

<カール大帝>

カール大帝

バルセロナ伯爵領

カール大帝がイスラムに対する砦の領主に伯爵の位を与えたのが<スペイン辺境領バルセロナ伯爵>となる。この後数百年にわたってカタルーニャを支配するバルセロナ伯の始まり。878年にギフレ1世毛むくじゃら王( Wifredo el Velloso)がバルセロナ伯に任じられる。ギフレ1世(カタルーニャ初代君主)は世襲制で伯爵の地位を継承させ1412年まで続いた。

<ギフレ1世>

バルセロナ伯ギフレ1世

9世紀にはフランク王国との主従関係は終わっているのでこれがカタルーニャの起点。コルドバカリフ王国からイスラム教徒の遠征が度重なる。何度もフランク王国に援助を頼むが助けてもらえずバルセロナは壊滅的な打撃を受ける。「援助が無いなら主従関係も終わりましょう」とバルセロナ伯ポレイ二世は987年フランク王国と縁を切る。しかし一度も「カタルーニャ王国」は名乗っていない。この1000年ころがカタルーニャ君主国の誕生と言われる。

アラゴン王国と連合

1137年にバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世(ラモン・ベレンゲール)が隣のアラゴン王国の女王ペトロニーラと結婚。今思えばカタラン人にとってこの結婚がすべての間違いの始まりだったかも。ここからアラゴン・カタルーニャ連合王国が始まる。この頃にバルセロナ伯が領有する土地を指して「カタルーニャ」という言葉が初めて文献に登場する。この時代にアリカンテまでの地中海沿岸地域を手に入れてイベリア半島で最も強力な権力を持つ君主となる。アラゴンとカタルーニャはお互いの自治を尊重していた。

カタルーニャとアラゴン

 

<ペトロニーラとラモン・バランゲ4世>

ラモンバランゲーとペトロニーナ

ジャウマ1世(ハイメ1世)征服王の時イスラム教徒からマヨルカ島を取り戻しバレアレス諸島、バレンシア王国を征服した。

<ジャウマ1世>

ジャウマ1世

海洋帝国

13世紀ジャウマ1世とペドロ3世の時代には地中海に野望を持つ商人たちの海洋帝国となる。マグレブ、チュニジア、エジプト、コンスタンティノープルに商館を立てせっせとお金儲けをやっていた。相手が異教徒であろうとうまく折り合いをつけ解決をして冒険家のように外へ出ていきシチリア島にまで支配を伸ばす。(シチリアの晩鐘)

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14世紀にはギリシャのアテネまでも占領しコンスタンティノープルと対抗し東方貿易の基地となる。当時のヨーロッパ世界の中心は地中海だった事を考えるとまさに絶頂期。当時の地中海の貿易商人たちは商人という言葉では表しきれないような探検家や冒険家のようで知らない土地へ行き言葉のわからないところで異教徒たちと交渉して活躍していた。

カタルーニャ

 

カタルーニャのコルツ(コルテス)ヨーロッパ最古の議会

ベネチア共和国が非常に民主的であったように商業民族は民主的で現実的である。カタルーニャはベネチア共和国よりも古い議会を持っていてコルツ(コルテス)と呼ぶ。

最初の起源は不明だがジャウマ一世の時1214年に王権に対抗して貴族と市民たちが自分たちの権利を主張し手に入れた。これはイギリスのマグナカルタよりも1年早い。この時彼らは「カタルーニャ人民の代表」と称して伯に向け「自分たちの相談なく又は協約による定めなしに課税や拘禁を行ってはいけない」と要求した。これは前年に即位したジャウマ1世に対する忠誠との交換条件。コルツ(コルテス)の代表はバルセロナ伯の配下の貴族達と聖職者団。そしてもう一つはバルセロナ市で活躍する商人や手工業者団体。後に百人委員会「コンセホ・デ・シエン」を置き都市有力者たちの手による集団支配。カタラン人たちは上からの命令を嫌う体質であり中央に反発をする傾向がこの頃から既にあった(まさに今の中央政府に対する彼らの反抗)。彼ら商人たちは自分たちの機関として海外に領事館や商館を持ち13世紀にはその富を背景に伯にいくつもの要求を掲げる。国内外における商人の保護政策を求めバルセロナにおける裁判権をも伯から奪い取った。カタルーニャの発展を都市商人たちが支えていたのだから当然の事であった。

<コルツに集まる代表>

カタルーニャのコルテス

没落のきっかけはコロンブスの新大陸発見

カスティーリアの王女イサベルとアラゴン・カタルーニャのフェラン(フェルナンド)の結婚によりスペインという国が出来上がる(1469年)

<イサベルとフェルナンドの結婚>

カトリック両王の結婚

スペイン王国はコルツ(コルテス)に対して冷淡であった。後のハプスブルグ朝からブルボン朝にいたる3世紀間のカタルーニャの反抗はコルツ(コルテス)の権利の主張、抵抗だった。

スペイン王国成立と共にカタルーニャは「バルセロナ伯の国家」ではなくなったがカタルーニャ政府は残されジェネラリターと呼ばれる。いったん1716年に廃止されるが現在のジェネラリター(カタルーニャ政府)の始まり。現在も同じ場所にある。

15世紀になるとオスマントルコの登場やイタリア諸都市が力を伸ばしてい次第にカタルーニャの過日の勢いはなくなって行くが一番の原因はアメリカ大陸の発見。

コロンブスの大陸到着

 

フェルナンド王はカタラン人に恨まれても仕方がない。新大陸発見のコロンブスに援助をしたのは妻のイサベル女王だった。大西洋航海に行ったのはカスティーリアの貴族やごろつきで固められ新大陸からの船はすべてセビージャに入港した。

<セビージャの港16世紀>

セビージャの港16世紀

カタルーニャが没落していったのは当時の人々の関心が地中海から大西洋に変わったその波の乗れなかったのが理由。大体フェルナンドがイサベルと結婚していなければカタルーニャは今も独立国家だったに違いない。フェルナンドはアラゴン人。カタラン人ではないのでカタルーニャに対する愛情は無かったと、私は思っている。

この後のカタルーニャは何度も何度も打ちひしがれ立ち上がっては倒され瀕死の状態でも抵抗していく。

その後のカタルーニャの不幸と抵抗
<30年戦争後の収穫人戦争>

30年戦争の末期。フランス王ルイ13世対スペイン王フェリペ4世。スペインへ幾度となく手を出してくるフランス。敵の敵は味方と後ろから手をまわしポルトガルのスペインからの独立を支援し次はカタルーニャのスペインへの反抗を手助けする。

<有名な絵ラス・メニーナスの鏡の中にいるのがフェリペ4世>

ラスメニーナス

*{フランス王ルイ13世はアンリ4世とメディチ家のマリード・メディシスの息子。結婚相手が対戦相手フェリペ4世の姉である。その2人の息子が太陽王ルイ14世。ルイ14世の妻はスペインのフェリペ4世の娘。ここでスペイン・ハプスブルグ王家はブルボンと婚姻関係が強くなり後に辛酸をなめる}

<ルイ13世フランス王>

ルイ13世
United States public domain tag

<カタルーニャの農民が鎌を持って反乱を起こす>

1640年の農民の反乱

 

スペインとフランスの国境にあるカタルーニャは自然と激戦区になりカスティーリアの軍隊が何年も駐留。乱暴狼藉を繰り返し堪忍袋の緒が切れた農民たちが立ち上がる。聖体祭の日に収穫用の鎌を持った農民たちがスペイン王の代理の公爵を殺してしまう。12年間の反乱の末カタルーニャは降伏。その後西仏戦争は続き両国間で調印されたのが「ピレネー条約」フランスはカタルーニャの一部を割譲する。いまだにカタルーニャの一部ルシオン地方はフランス領。

<スペイン王位継承戦争・またしても叩きのめされる>

<カルロス2世・4歳まで歩けず7歳まで話せなかった王>

カルロス2世

フェリペ4世の2度目の結婚の長男カルロス2世は体も頭も弱く世継ぎなく他界。スペイン・ハプスブルグ家はブルボンとも親戚関係が出来ていて両方が王位継承を主張して戦争になる。12年間の戦争後フランスが勝利をおさめスペイン・ブルボン朝が始まる。前述太陽王ルイ14世の孫がスペイン王フェリペ5世として即位。

<フェリペ5世>

フェリペ5世

歴史の表面上は王家が変わっただけの様に見えるがフランスの中央集権的な絶対王政によりスペインの各地方都市は制圧され、カタルーニャの反感は強かった。1713年から各地で戦闘が始まり14か月の抵抗が続きそして再びカタルーニャは力尽き敗れた。その籠城戦のリーダーが「ラファエル・カサノバ」。今もカタルーニャ独立のシンボル的な存在。

<1714年9月11日、バルセロナの陥落>

バルセロナの陥落1714年9月11日

1714年9月11日バルセロナ陥落。ブルボンのフェリペ5世の制裁は冷酷だった。カタルーニャにこれまで特権的に認められていた地方政府は解散を命じられ犯行の中心だったバルセロナ大学は閉鎖される。バルセロナを見張る為の軍隊の駐屯地が創られる。このシウダデーラは今は公園になっている。

最後には懲罰としてカタラン語の公文書への使用が禁止されカタラン語を公的な場で使うことを禁止された。そしてジェネラリターは廃止された。

カタルーニャが自由を奪われた9月11日は毎年「ディア―ダ」という国民の祝日になっている。「ラファエル・カサノバ」の像の前に人が集まる。

<1914年9月11日ラファエル・カサノバの銅像に集まるカタラン人>

ラファエル・カサノバ

サッカーの時バルセロナのカンプ・ノウでは試合開始後17分14秒に一斉に独立のコールが上がる。

<ナポレオン戦争>

またしてもフランスである。フランス革命の後ナポレオンがヨーロッパ遠征を始めスペインにもフランス革命の「自由を輸出してあげよう」とやって来た。カタルーニャは最初にナポレオン軍の侵入を受けたところで激しい抵抗戦が行われた。長い籠城戦のあと落城。特にジローナの街は7か月の籠城戦を戦い飢えと疫病で息絶える。

<さらにスペイン内戦でノックアウト>

スペイン内戦は簡単に分けるとファシズムと反ファシズムの戦いなのでカタルーニャの対スペイン反抗ではない。

スペイン内戦

内戦の前のプリモデリベラ将軍の独裁政権ですでにカタラン語の公的な場での使用は禁止、カタラン人の民族舞踊や民族旗の使用は禁止されていた。この間にカタルーニャ・ナショナリズムは水面下で急伸。1931年スペイン第2共和政が成立するとジェネラリターが再び発足、翌年「カタルーニャ自治憲章」が承認された。1934年スペイン国会で右派が政権を獲得し自治憲章は再び停止、36年は左派の人民戦線が勝利しカタルーニャ自治憲章復活。1936年にバルセロナで人民オリンピックが行われる予定だったが内戦が勃発。「幻の祭典」となる。

<1936年人民オリンピックのポスター>

バルセロナ人民オリンピック

 

1938年バルセロナは反乱軍による無差別爆撃を受け39年反乱軍によって陥落。共和国側の犠牲者だけでなくフランコ支持者の聖職者たちもアナーキストによって処刑された。

<バルセロナの無差別攻撃>

バルセロナの空爆
De Italian Airforce – http://www.barcelonabombardejada.cat/?q=ca/imatges, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=25495577

 

フランコ体制下カタラン語とカタルーニャのアイデンティティーは全て厳しく弾圧され自治政府や自治憲章は廃止。首相は銃殺され多くの共和国支持者が投獄又は処刑された。カタルーニャは再び恥辱され瀕死の状態となる。

<フランコ総統のバルセロナ入場>

スペイン内戦

フランコ後にやっと立ち上がる

1975年に独裁者フランコが死去。新内閣アドルフォ・スアレス首相の下スペインの民主化が進められた。スアレス首相はジェネラリターの復活を優先し1979年カタルーニャ自治憲章が制定されカタルーニャ自治州が発足した。スペインは1986年にヨーロッパ共同体に加盟し多くの外国企業がカタルーニャへ進出する。もともと商業民族のカタラン人たちはあっという間に経済復興し1992年にバルセロナオリンピックが行われ世界へカタルーニャが紹介された。競技場は「幻の祭典」となった「人民オリンピック会場」を拡張して使われた。まさに92年はカタルーニャの復活を象徴していた。

バルセロナオリンピック1992年

スペインからの独立気運

カタルーニャはスペインのGDPの約20パーセントを稼ぎ出すなか中央政府に多額の税金を収めるが再分配は貧しい州に回され不公平感を募らせている。実際カタルーニャの財政は危機状態。(これには諸説、マドリードも高額支払っているが援助は少ない)

2006年カタルーニャ自治憲章の改正が行われ民族の独自性、カタラン語をスペイン語に優先して公用語とする事、財政司法行政などの自治権の拡大を大きく謳った。しかしスペイン中央政府はこの自治憲章が違憲であるとスペイン憲法裁判所に提訴。2010年6月28日にいくつかの部分が違憲であると判決が下された。

 

2009年にはカタルーニャ州内の自治体で独立に向けた法的拘束力のない住民投票が行われ独立賛成派が多数だったが投票率は27パーセント。投票に行ったのは独立賛成派だったと言われている。

2010年7月10日の大規模デモ110万人が参加した。カタルーニャ憲章が憲法裁判所から違法と判定を受けた後という事もあり人々の関心に火をつけた形になった。

2013年9月11日17時14分にカタルーニャの独立を支持する人たちが手を繋いで世界にアピール。カタルーニャの北から南までにわたる400キロ人の鎖が出来た。

<カタルーニャの道、Via Catalunya>

カタルーニャ独立
11 September 2013, 16:26:56
Source Own work
Author Clara Polo Sabat

2014年はスペイン王位継承戦争でカタルーニャの自治が奪われた300周年。9月11日のデモの参加者は180万人に膨れ上がった。

<エルパイス新聞の記事。独立旗アスタラーダを振る民衆>

カタルーニャの日2014

2017年9月11日も同じく多くの独立旗アスタラーダ(エステラーダ)が振られデモが行われた。警察の発表では昨年より参加者は少なかったとのこと。今年2017年10月1日カタルーニャの独立の国民投票が行われるが中央政府はそれを違法と反対を唱えている。2005年までのカタルーニャの独立派は約20パーセントだったことを鑑みれば今の中央政府のやり方がカタラン人たちを煽ってしまったと思う。

「独立旗アスタラーダはカタルーニャの旗(サニェーラ)にブルーの三角と白い五芒星を使たもの。キューバの国旗、キューバのスペインからの独立に発想を得ている。1918年に既に分離主義者によって使われている」

カタルーニャ独立旗

独立はカタルーニャにとってはデメリットが多い。ヨーロッパユニオンから出ることになりユーロ圏にも入れない。多くの外国企業が既にカタルーニャから撤退をしている。それでも独立を目指すのか。長い歴史の中で何度も踏みつけられてきた民族のアイデンティティー。

ヨーロッパ全体に民族問題がありヨーロッパ内では黙殺されているカタルーニャ独立問題。この後まだまだどうなるか目が離せません。

 

 

 

 

 

 

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アルハンブラ宮殿グラナダ王国<イスラム建築の最高芸術>

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南スペイン・アンダルシア地方のグラナダにある世界遺産。「宮殿」という言葉から受けるヨーロッパの王宮とは違い全体が一つの都市を構成していた。スペイン・イスラム芸術の最高峰。見学する季節や時刻で随分印象が変わる。できればゆっくりした時間の中で太陽の位置で変わって行く影の動きや噴水の水の音、ヘネラリーフェから風に乗ってやって来る花の香を感じたい。

アルハンブラ宮殿
wikipedia cc Alejandro Mantecón-Guillén

アルハンブラの歴史背景

西暦711年ジブラルタル海峡を渡ってやって来たイスラム教徒により西ゴート王国が滅ぼされイベリア半島はイスラム化した。南スペインはアル・アンダルスと呼ばれシリアのダマスカスのウマイヤ朝支配下にはいる。ところが本家のシリアで革命が起こりウマイヤ朝が倒された(750年アッバース革命)。シリアからウマイヤ家の王子が1人逃げて来てコルドバを首都に後期ウマイヤ朝を始める(756年)。

<コルドバ・メスキータ内部>

メスキータ
筆者撮影

 

コルドバカリフ王国は10世紀アブデラーマン3世の時にシリアから独立。メスキータ(回教寺院)はさらに拡大され街には大学や図書館、病院があった。後期ウマイヤ朝はその後11代250年の間は大きな内紛も無くスペイン・イスラム王朝は栄華を極めヨーロッパのどの国とも比較できないほどの洗練された先進地域となる。

<コルドバの街、当時の面影が残る白い村>

コルドバの旧市街
筆者撮影

11世紀初頭の権力闘争によりコルドバ・カリフ王国は分裂。後期ウマイヤ朝は1031年滅亡。北の方からキリスト教徒のレコンキスタ(国土回復戦争)が始まっていた。

<最初のキリスト教徒が勝利を得たコバドンガ>

コバドンガ
筆者撮影

トレドは再びキリスト教徒の手に落ち南スペインはタイファと呼ばれる小さなイスラム諸国が出来る。グラナダもその一つだった。北アフリカのアルモラビデ族がイスラム教徒の支援に入りいくつかの地域を支配下におさめる。12世紀にはアルモアデ族が入って来て領土を取り戻すがキリスト教徒軍はナバス・デ・トロサの戦いでイベリア半島北半分を取り戻した。イベリア半島のイスラム教徒の斜陽の時代、この混乱期にグラナダの丘の上に創られたのがアルハンブラ宮殿。

アルハンブラ宮殿ナスル王朝

「モハメッド・イブン・アラマール・イブン・ナスル」のちの「モハメッド1世」はハエンのアルホナの領主。ここはキリスト教徒との前線地帯だ。時代はコルドバが1236年に陥落しセビージャも間もなく陥落という頃。斜陽のイスラム教徒の王朝として1238年前述の「モハメッド1世」が始めたのがナスル王朝(日本は鎌倉時代)。

<グラナダ最初の王モハメッド1世>

最初の王モハメッド

「モハメッド1世」はグラナダの丘の上に既にあった要塞を居城と決める。キリスト教徒に勝利するのは不可能と読んだ彼は協定を結ぶに至る(1246年対カスティーリア王フェルナンド3世)。カスティーリア王国に税金を支払いグラナダを首都とするアルメリアからジブラルタルまでの地域の独立が謳われていた。すでにあった要塞を改築し60年かけて水道を設置しアルカサバ(要塞)を拡張し宮殿を創った。(その宮殿部分は後に壊されて現存していない。)「モハメッド1世」の外交政策というと聞こえがいいがあらゆる周りの敵たちの顔色を窺いながらの外交。その息子「モハメッド2世」と2代70年の間にグラナダ王国は基礎を固めアルカサバを拡張していった。これがアルハンブラ宮殿の誕生。この時代は宮殿という華麗な物ではなく守りの城、要塞だった。

<アルハンブラ・アルカサバ>

アルカサバ
wiki Alcazaba in Alhambra, Granada
Author Michal Osmenda

 

ナスル王朝の全盛期は「ユースフ1世」(1333年~54)とその息子「モハメッド5世」(1354年~91)の時代。「ユースフ1世」の時代にコマレス宮を中心とする部分が創られモハメッド5世の時にライオンの中庭を中心とする建物が創られた。今見るアルハンブラ宮殿の主要の部分。

<水面に映るコマレス宮殿>

コマレス宮殿
筆者撮影

<ライオンの中庭は王達のプライベートな空間>

ライオンの中庭
筆者撮影

スルタンの力は絶大で王国の重要人物で構成される諮問委員会、裁判所が存在した。グラナダの街にはマドラサ(コーラン解釈の学校)や病院が置かれた。絹・織物市場や穀物取引所があり商業も盛んであった。「モハメッド5世」の後ナスル朝は約100年存続するが新しい建物はほとんど創られていない。

グラナダ王国の資金源

<ジブラルタル海峡>

ジブラルタル海峡
筆者撮影

ジブラルタル海峡は地中海と大西洋の入り口。当時そこを持っていたグラナダ王国は地中海の海上貿易に影響力を持っていた。その当時の海洋国家ジェノバは西地中海の制海権を持っておりジブラルタル海峡を越えられるかどうかは死活問題。グラナダ王国と条約を結び資金を援助し優遇措置を得ていた。ジェノバからの資金がグラナダ王国の経済やアルハンブラ宮殿で生活する王達を支えていた。

<1400年頃のジェノバ共和国の支配地域と海路>

1400年ころジェノバの支配権
Kayac1971
Permission
(Reusing this file)
GFDL e Creative Commons CC-BY-SA tutte le versioni (3.0, 2.5, 3.0, e 1.0), sono l’autore

 

斜陽のグラナダ王国

美しいアルハンブラ宮殿内部では次第に快楽的な生活が主流になる。長い繁栄と平和に退廃した無能な王が続き有力軍人達の対立でグラナダ王国内部の混乱。レコンキスタが続く中キリスト教国カスティーリアがジブラルタル海峡を略奪。それまでの資金源が奪われた。さらに敵対していたカスティーリアとアラゴンが王子王女の結婚によって連合国家になる。これがイサベルとフェルナンドの結婚(1469年)

カトリック両王の結婚

グラナダ王国内部

アルハンブラの内部では骨肉の争いが起こっていた。歴史から学ぶことは多い。すべての王国の崩壊は内部から始まる。

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<国王は息子に裏切られる>

国王アブルハサン(ムルアセン)の息子ボアブディル(モハメッド12世)とその母アイーシャは協力して反乱を起こし王位を奪う。実はアイーシャはイスラム創始者モハメッドの血を引く高貴なお方。最初はモハメッド11世と結婚していたがその死後アブルハサンと結婚してボアブディルが生まれている。国王アブルハサンはキリスト教徒の美しい娘に恋をする。改宗奴隷だったイサベル・デ・ソリスを寵愛し妻にし王妃アイーシャと息子ボアブディルは苦渋の中で辛酸をなめていた。

母アイーシャと結託しボアブディルは父から王位を奪い取りる。王としていざ戦争へ出かけるが1483年キリスト教徒とのルセーナの戦いで捕虜になり再び父王アブル・ハサンが復帰。キリスト教徒側は相手側の内部の揉め事を知っていたようだ。内乱で自滅するのを計算しボアブディルにカスティーリアへの税金の約束を取り付けグラナダへ戻す。グラナダでは叔父ザガルが実権を握っており再び内戦となる。1485年ボアブディルは戦況不利と悟るとキリスト教徒側に逃げ込んだ。叔父のザガンがモハメッド13世として即位。ボアブディルはキリスト教徒と手を組み叔父ザガルと戦争。ザガルが降伏し再びボアブディルはグラナダ王としてアルハンブラ宮殿へ復帰できると信じていたようだがキリスト教徒はグラナダからの全撤退を求めた。ボアブディルが裏切られたと気づいた時には既に打つ手は無かった。包囲されたアルハンブラ宮殿は1492年1月2日無血開城。

<上院議会場にあるグラナダの陥落の絵19世紀プラディージャ>

グラナダの陥落
De Francisco Pradilla – See below., Dominio público, Enlace

ひとつの歴史の終焉。1237年から1492年255年の間に21人の国王達が千一夜物語を過ごした夢のまた夢は終わった。アルハンブラの陥落。

ボアブディルが一族郎党を引き連れシエラネバダを超えるとき最後に振り返りアルハンブラを見て涙した。母アイーシャは「おまえが男として守り切れなかったアルハンブラを見て女のように泣くがよい」と言ったそう。その峠は今も「ススピロ・デ・モーロ」「モーロ人の溜息」と呼ばれている。

<グラナダ議会場にあるボアブディル家族のアルハンブラからの撤退>           白い服の女性が母アイーシャ

アイーシャ・アルハンブラの出発
Aixa, de blanco en el centro de la obra de Manuel
Gómez-Moreno (1880), pintada en Roma

 

<最後の王ボアブディル>

ボアブディル王

ボアブディルはシエラネバダの山岳地帯に領土を与えられたがモロッコのフェズまで行きそこで暮らして生涯を終える。今もシエラネバダのアルプハラにグラナダの落人たちが住んでいた白い村が残る。

<シエラネバダのアルプハラにある白い村>

アルプハラス
筆者撮影
その後のアルハンブラ宮殿

最も輝かしき戦利品アルハンブラ宮殿に入ったキリスト教徒たちはその美しさに驚愕した。カトリック両王の孫カルロス5世はアルハンブラ宮殿を帝国の中心にする予定だった。すでにアメリカ大陸を手に入れハプスブルグ領土も手に入れたカルロス5世皇帝にはアフリカをも含む大帝国の野望があった。時代はコンスタンティノープルが陥落してオスマン・トルコが東地中海で勢力を持っている頃。ウィーン攻略をしたトルコのシュレイマン大帝に攻撃を仕掛けるのに格好の場所だった。

<プラド美術館にあるカルロス5世ティチアーノ作>

カルロス5世
museo del prado

しかしアメリカ大陸の発見後経済的関心が大西洋に移りフェリペ2世は父王カルロス5世の宮殿造営を引き継ぐがそれは終わることはなかった。

19世紀ロマン派の時代

<19世紀の版画に出てくるライオンの中庭>

アルハンブラ19世紀版画
El Patio De Los Leones 1833 David Roberts

時は流れ人々の記憶にさえなくなったアルハンブラ宮殿は廃墟となり忘れ去られた。そこにロマ族が住み浮浪者が滞在しこの城を気に留める者はいなかった。そして更に時は変わりロマン派の時代。古いお城などが見直されていたころアメリカ人作家ワシントンアービングがロシア人の友人とアルハンブラを訪れ旅行記と城にまつわる物語を出版した。「アルハンブラ物語」1832年初版、1851年改定版がベストセラーとなりアルハンブラ宮殿は広く世界に知られることになった。

<アメリカ人作家ワシントンアービング>

ワシントンアービング

アルハンブラ宮殿見学順序

現在入場時間予約制。時間の予約はナスール朝宮殿の入場の事。ヘネラリーフェに関しては午前と午後に分かれている。カルロス5世宮は無料で自由に入れる。写真はフラッシュなしで撮れます。

 

アルハンブラ宮殿は計画性を持って創られた宮殿ではなく何世代にも渡って増改築を重ねた都市複合体。化粧漆喰やタイル、天井や儚い水の音等を楽しみながら進んでいきましょう。順路になっているのでそれに従って進んでいくと以下の順にみることが出来ます。

カルロス5世の宮殿

自由に入れるので時間のあるところで見学。内部の博物館に彫刻や寄木の扉等が展示されている。この丸い中庭は音響が最高に良いので6月にグラナダ音楽祭の会場になる・。

カルロス5世宮殿
筆者撮影
入場券のチェック

カルロス5世宮の少し先に個人とグループは別に入場口が作られている。そこでアルハンブラ入場券のバーコードのチェック。指定時間より早くは入れない。30分間の指定時間から遅れると入場できないので注意。切符は合計4回チェックがあるので最後まで失くさないように。

アルハンブラ入場券
筆者撮影
メスアール宮

現存する中で一番古い部屋。おそらくアルハンブラの中で一番改造を強いられている場所なので往時の姿は留めていない。この部屋には裁判所があったがキリスト教徒の時代に変更がされ礼拝堂として使われた。奥にはミヒラブというメッカの方角を示す窪み。アラビア文字や漆喰彫刻、天井の寄木細工。

<メスアール宮入口・壁面全体が幾何学模様>

マスアール
筆者撮影

 

コマレス宮

大使の間と呼ばれる大広間を含むコマレス宮はアルハンブラの中で最も重要な核をなすもの。アラヤネスの中庭には大きな池がありそこに映るコマレスの塔は水の上にあるように見える。

アルハンブラ、コマレス宮
筆者撮影
大使の間

アルハンブラ宮殿にやって来た使節と王が謁見に使った大広間。天井は寄木細工で満天の星空をイメージして創られている。平面すべてに漆喰のアラベスク模様。弱小国になっていたグラナダが最高の見栄を切って外交官たちと謁見をした。明るい外からやって来た使節はうす暗い大広間に入り目がくらむ。後ろと前の光で王が光輝いて見える仕組みだった。この部屋でコロンブスがイサベル女王から宝石箱を受け取ったと言われている。

<大使の間の天井・白は象牙が使われている>

コマレス宮殿
筆者撮影

 

アリカタード<石を使った象嵌>

アリカテ(ペンチの様な物)でタイルを切り取り組み合わせていく。模様はすべて幾何学模様。タイル作りのプロセスは粘土の分離から。土を細かく砕き水と混ぜこねて形にしていく。モザイクの為には発色が肝心。緑には銅青、コバルト黄色には鉄とマンガン。赤の混合の秘密は今もわからない。かまどを作り木材を燃やして900度の温度で24時間かけて焼き24時間かけてさました。

アリカタード
筆者撮影
神秘学と数学

偶像崇拝の禁止の為イスラム装飾は生き物の形を作らない。基本的には反復するリズム、果てしなく繰り返される模様が空間を埋め尽くし無限を感じさせる。

アルハンブラ、アラベスク模様
筆者撮影

二次元空間における回転対称性を分類するとその数は17種類しかない。このアルハンブラ宮殿ではすべての回転対象を使って壁面を飾っている。

<私が一番気に入っているタイル。水の動きの様に見える>

アルハンブラ、モザイク
筆者撮影

 

アラベスク模様の基本はユークリッド幾何学。ピタゴラス(BC582頃~496)が体系化しアルジャワリ(800-860)が拡張した三角法の基礎。または我々の手の届かないところに永遠不滅の完璧な存在があるとするプラトン(BC427~347)のイデア論がアラベスクの発展に影響している。

アルハンブラ
筆者撮影

 

四角形は四つの等辺を持っていることから自然界の等しく重要な要素と考えられていた。土、空気、火、水の四大元素。どの一つを欠いても物質世界は滅亡する。正四角形を重ねた八角の星はイスラム教徒が好んで使った形。インドで発見されたゼロを運んできたのもイスラム教徒。アラビア数字と呼ぶが進んだ数学はアラビア人がヨーロッパへ運んだ。

アルハンブラ宮殿
筆者撮影

 

 ライオンの中庭

ここからはスルタンのプライベートな空間。列柱の森が砂漠のオアシスを感じさせる。

ライオンの中庭
筆者撮影

12頭のライオンは12角形の水盤を支えている。ライオンは10世紀から11世紀頃のものだと想定されている。口から水を出すライオンは太陽を現し12頭は黄道帯の12宮であり12か月である。4x3の12も良く使われた数。12頭のライオンはソロモンの神殿にあった12頭の鉄の牡牛であり海を支えている。この海は天空の水がめも表していて海でもあり天空でもある。

ライオンの口からは水が出るためには水圧が必要。アルハンブラ宮殿は丘の頂上に創られておらず中腹にある。丘の頂点に今も貯水池がありシエラネバダから水路によって水が貯められている。それぞれの場所に必要な水が流れるよう標高差と管の太さで水量と水圧の計算がされている。

アルハンブラと光

アルハンブラの建築は完璧に東西南北を向いている。それによって窓から入る光が時間を教えてくれる。もともと不規則な地形を谷や起伏を埋め立てることによって整列させてある。

夏のグラナダの太陽は容赦なく高い所から照らしつける。高い位置で運行する太陽が各部屋には差し込まないので夏は涼しい。冬の低い位置で運行する太陽はより奥の部屋にま光を届けるので冬は暖かくなる。

アルハンブラ
筆者撮影
鍾乳石飾り

イスラム建築の天井に良く使われるのが鍾乳石飾り。イスラム教創始者モハメッドは最初は迫害を受けていた。しばらく鍾乳洞の洞窟の中で隠れて暮らしていた時に大天使ガブリエルからコーランのインスピレーションを授かったことに由来する。アルハンブラ・ライオンの中庭に面するに「二姉妹の間」の天井も鍾乳石様式で飾られている。平面図は四角形だが八角形の星の形にし5416の断片を張り合わせてある。当時はさらにその上の窓は色ガラスで時刻と共に光が移り変わっていくように創られている。天井に移される光が動くイメージ。空間の中の際限のない変化は天空をイメージしたもの。

<に姉妹の部屋の天井、窓には色ガラス壁は彩色されていた>

アルハンブラ
筆者撮影
ヘネラリーフェ

アラビア語で楽園という意味の庭園。当時とはかなり様子は変えられているとはいえ庭園の本質は失われていない。楽園と同時にアルハンブラに住む王家への食糧を供給する農園や果樹園だった。そして小高いヘネラリーフェに香りの良い果樹や花を植えて宮殿に良い香りが流れる仕組みになっていた。

<アセキアの中庭>

内側に向いて作られた庭が安心感を与え水の音が心地よい。真夏のうだる暑さの中でもここは水と風の流れで涼しいように高度や方角を計算し設計されていいる。最近の発見では雨の音を再現するための管もあったようだ。

<アセキアの中庭・水の音が心地よい>

アセキアのパティオ
筆者撮影
<水とイスラム教徒>

飲み水や宗教儀式の清め、入浴等イスラム教徒は当時のキリスト教徒よりも水と密接に繋がっていた。農業や庭園への供給の為に用水路をくまなく創り水を供給した。王宮だけではなく市街地にも街の人々の為の灌漑設備が創られていた。

砂漠で水は宝、色の無い砂漠の民には花々の極彩色は憧れの対象。アルハンブラは水と色をふんだんに使った宝と夢の宮殿都市。

アルハンブラ宮殿入場券

当日券は早朝から並んでも買えないケースが続出ですのでなるべく予定が決まったらネットで予約を入れることをお勧めします。

<予約の仕方>

下がアルハンブラ宮殿公式ページです。スペイン語、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語が選べます。ちょっと複雑なので少し調べてから購入しましょう。種類や予約の仕方、最適な時間等ブログに書いている方もあるようです。

https://www.alhambra.org/en/buy-alhambra-tickets.html

 

代行サービス等色々あるようですのでご自分の一番いい方法を探して切符を手に入れましょう。光の動きや水の音、流れる風の向き等快適さを計算しつくされています。五感すべてを使って感じてお持ち帰りください。

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