旧約聖書に挑戦⑧、アブラハムの物語その三、イサクの犠牲とアブラハムの最後

長い長い旧約聖書を読んでいくシリーズです。その中でもアブラハムの話は長いので三つの章に分けた最後の物語。この最終章はアブラハムが100歳で授かった息子イサクを神に差し出すイサクの犠牲のお話。

 

旧約聖書・イサクの犠牲とアブラハムの最後


アブラハムの物語前回まであらすじ

アブラハムは神の声を聞いて故郷を捨ててカナンの地へ。旅で豊かになったアブラハムと甥のロトは別れて暮らすことに。ロトが選んだのは豊かなソドム、ところがソドムは悪徳の街で神に滅ぼされる。神はアブラハムに現れ子孫が星の数程増えると契約を結び、神の予言通り息子が生まれた。アブラハム100歳の時に生まれた息子はイサクと名付けられた。

イサクが産まれて数年が経った

「アブラハムよ」神は言われた。「あなたの子あなたの愛するひとり子を連れてモリヤの地にいき、私が示すところで彼を犠牲として捧げなさい」

神が命じたモリヤの山へ登っていく。

アブラハムは朝早く起きてロバに鞍を置き二人の若者とイサクを連れて燔祭用の薪を割り神が示されたところに行った。

三日目にアブラハムは目を上げて若者たちに言った「あなた方はロバと一緒にここにいなさい。私とイサクは向こうで礼拝し戻ってきます」

アブラハムは焚き木をイサクに担がせ、手に火と刃物を持ち歩き始めた。

イサクは父に聞いた。「火と焚き木はありますが燔祭の子羊はどこにいるんですか?」

「子よ、神自ら燔祭の子羊を備えてくださるであろう」

 

イサクを連れて行ったモリヤの山はどこ?

モリヤの山はどこにあるのかは今も議論されているようだがかつてのエルサレム神殿があった場所ではないかといわれている。

旧約に納められたユダヤの歴史書=歴代誌という書物に「ソロモンはエルサレムのモリヤ山で主の神殿の建築を始めた。そこは主が父ダビデに現れた場所でかつてエブス人オルナンの麦打ち場であった」とあるが否定している学者もいるらしい。

現在はそこに岩のドームが築かれていてイスラム教の第三の聖地になっている。

*預言者モハメッドが大天使ガブリエルに連れられ一夜の内にカーバ神殿からエルサレムの神殿まで旅をして天馬ブラークに乗って昇天し神の御前に至った場所。

アブラハム、イサクを祭壇へ

イサクの燔祭
wikipedia public domain

聖書に戻ろう

彼らが神が示された所へ行くとアブラハムはそこに祭壇を築き焚き木を並べイサクを縛って焚き木の上に乗せた。

そしてアブラハムが刃物を取ってイサクへ向かうと天使が天から彼を呼んだ。

「アブラハムよ、アブラハムよ」

「はい、ここにおります」

「その子に手をかけてはならない。あなたは大切な子供を私に捧げようとしたのであなたが神に従う者であることがわかった」

アブラハムが目をあげると後ろに角を藪に引っ掛けている雄羊がいた。アブラハムは雄羊を生贄として捧げそこの名をアドナイ・エレと呼んだ。

こうしてアブラハムは神に受け入れられた

神は再び天からアブラハムを呼んで「私は誓う、あなたが大事な一人息子も惜しまず神に差し出したので私はあなたを祝福しあなたの子孫を増やし天の星のように、浜辺の砂のようにする。」

こうしてアブラハムは神を信じた信仰、唯一の息子までも神の希望とあれば犠牲にする神に対する信仰によって神に受け入れられた。

サラの埋葬

その後サラはカナンの地ヘブロンで127歳でこの世を去った。アブラハムはサラの為に胸を打ち嘆き悲しんだ。

ヘブロンの場所
Google マップで筆写作成

サラを葬るためにアブラハムはヘブロンのマクペラの洞窟を買い取った。

アブラハムは地元のヘトの人々に「私はここに一時的にいる者ですがあなた方が所有する土地を譲ってください。亡くなった妻を葬ってやりたいのです。」

その土地の所有者エフロンから銀400シェケルを計り渡した。

マクぺラの洞窟

マクベラの現在
wikipedia public domain Israel Hebron Cave of the Patriarchs.jpg

このマクベラの洞窟は以前にマレムの樫の木として登場する場所で神がアブラハムとサラに現れてイサクの誕生の話をした所。マクペラはヘブライ語で「2倍・2重」と言った意味があるという。更にこの400年後にカナンの地に戻ってきたアブラハムの子孫、ダビデはここヘブロンでイスラエル王国を建国したという重要な場所。

マクぺラの洞窟事件

マクぺラ洞窟は2つの区画に分けられていてユダヤ教徒とイスラム教徒の礼拝の場。1994年2月25日、アメリカ出身のユダヤ人医師でユダヤ極右思想の活動家が祈りに来たパレスチナ人ムスリムに向かって銃撃。

イサクの嫁探し

アブラハムは140歳になっていた。息子のイサクは40歳。アブラハムはイサクに故郷ナホルの親戚から結婚相手を探すことにした。その条件はカナン人では無い事、故郷のナホルの親戚である事、カナンに連れてくる事。

アブラハムの使いエリエゼルはラクダ10頭と高価な贈り物を持って旅立った。

使いのエリエゼルは井戸のそばで神に祈った。するとそこへリベカが水を汲みにやってきて彼が祈った通りの言動、水瓶から水をエリエゼルに飲ませてラクダにも水を飲ませた。

エリエゼルは持ってきた装飾品をリベカに贈りリベカの家族に会って一部始終を説明した。

リベカもこれは神の決めた事と納得してエリエゼルと共にイサクの元へ行った。

実はアブラハムはもう一度結婚し子供を得る

実はアブラハムはもう一度結婚して子供を得ているのだ。本当はこの章はここで終了しようと思っていたのだが気になったので聖書を読み進めてみた。

創世記25章1:アブラハムは再び妻をめとった。名をケトラという。彼女は六人の子供を産んだ・・・とある。まあいいけど。

アブラハムの最後

アブラハムが生きたのは175年である。アブラハムは高齢になり歳が満ちて息絶えた。息子のイサクとイシュマエルによってマクベラの洞窟に葬られた。

 

旧約聖書に挑戦⑦ アブラハムの物語その二「三人の天使とソドムとゴモラそしてイサクの誕生」

長い長い旧約聖書を読んでいくシリーズですアブラハムの物語。旧約聖書のアブラハムの物語は長いのでここでは神の声を聞いたアブラハムが故郷を捨てたあとの物語。

アブラハムについては考古学上の発見や聖書に出てくる地理的位置が正確なので実在した人物となっている。

旧約聖書・アブラハムの息子イサクの誕生


アブラハムの物語、前回まであらすじ

アブラハムは神の声を聞いて故郷を捨ててカナンの地へ。さらに飢饉でエジプトへ行きファラオから貰ったもので豊かになった。アブラハムと甥ロトの従者たちに揉め事が起こり始めたので二人は分かれて別の道を行く。ロトは豊かなソドムとゴモラを選んで住んだ。子供がいないアブラハムは妻サラが差し出した奴隷女ハガルとの間に子供を得た。神はアブラハムに現れ、妻のサラに子供が生まれる、そしてあなたの子孫は星の数ほどに増えて栄えると予言した。

アブラムに3人の天使現る

ギュスターヴ・ドレ
wikipedia public domain

旧約聖書のこの部分は長くて複雑なので物語のあらすじを紹介します。

ある夏の暑い日に(ここは砂漠で昼間はとっても暑い)マレムの樫の木のかたわらでアブラハムの前に三人の旅人が現れた。彼らの習慣では旅人には親切にすることが善行だったのでアブラハムは彼らに「どうぞ中に入って足を洗って休んでいってください。食べ物を準備しますので」と言って旅人をもてなした。

どうやらこのうちの一人は神で二人は天使だったのだ。教えないのに妻の名を知っているではないか。

しかも彼らはアブラハムにあなたの妻サラは「来年の春に男の子を産むでしょう」と言ったので年老いたサラは「二人とも老人なのにそんなわけないでしょ」と心で笑った。

すると旅人の一人はアブラハムに

「なぜサラは自分が老人であるのに子を生むことができようかと笑ったのか。主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春私はあなたのところに帰ってきます。その時サラには男の子が生まれているでしょう」

やっぱり神だったのだ、なんでも知っている。

その人々はそこを立ってソドムのほうに向かった。

ソドムとゴモラは悪徳の街だった

三人の使いはアブラハムにソドムとゴモラを滅ぼす話をする。

*ソドムとゴモラの場所を調べてみた。一応この辺りで考古学的にも検証されているようだ。

ソドムとゴモラの地図
Google マップで筆者撮影

アブラハムはそこには甥のロトがいるので滅ぼさないように天使たちに頼む。天使たちはそこに正しいものが十人いれば滅ぼさないとアブラハムに約束した。

悪徳の町ソドムとゴモラ

二人の天使たちはソドムに着いた。天使たちがロトの家を訪ねたときロトたちは彼らを守るため家に招き入れた。だがそれを見ていたソドムの人たちはロトの家に押しかけ二人の天使を引き渡せと家を取り囲んだのだ。ロトは二人を守るため外に出て民衆を抑えようとしたが民衆が暴れたので天使が出てきて民衆の目を眩ませたので彼らは入り口が見えなくなった。

 

二人の天使たちはロトに「他にあなたの身内がこの街にいますか?もしいたら皆ここから連れ出しなさい。私たちはこの街を滅ぼします。」とロトの身内の者を助けてくれようとしたが誰もロトの話を聞き入れないのだ。

夜が明けて二人の天使たちは呆れてロトに「ここにいるあなたの妻と二人の娘を連れ出しなさい。そうしなければあなたもこの街の不義のため滅ぼされるでしょう。」

「自分の命を救いなさい。後ろを振り返ってはいけない。低地にはどこも立ち止まってはいけない。山に逃れなさい」

ソドムとゴモラの破壊
wikipedia Public Domain

神は硫黄と火を天からソドムとゴモラの上にふらせこれらの街をことごとく滅ぼされた。

しかしロトの妻は後ろを振り返ったので塩の柱になった。

*ソドムとゴモラは考古学者によってほぼ確定されていて文明の進んだ大きな街だった。地殻変動などの大きな自然災害で滅亡したかもしれない。

*ロトの妻の塩の柱と言われるものが現存するらしいがもちろん真偽の程は不明。

ふと読みながら「振り返ってはいけない」が教訓なのかもしれない、と思った。

アブラハム100歳で妻のサラ90歳に子供が産まれる

神の約束は本当となりサラは身籠りアブラハムに息子を与えた。

子供はイサクと名付けられた。イサクは「彼は笑う」と言う意味だ。

イサクが生まれたときアブラハムは100歳だった。

アブラハムの物語はまだ続きます

この後が有名なお話でやっと産まれた大事な息子イサクを犠牲にする場面がでてきます。長い長い物語なので次の章に分けて続けます。

 

旧約聖書に挑戦⑥アブラハムの物語その一、神との契約

長い長い旧約聖書を読んでいくシリーズです。旧約聖書の天地創造からアダムとイブの物語、洪水の物語までを前回までにまとめたが物語は時間の霧の中にあり歴史としての定義はまだまだ不明だ。ここでは続いてアブラハムと神の契約の物語。

アブラハムについては考古学上の発見や聖書に出てくる地理的位置が正確なので実在した人物となっている。アブラハムの物語は滅茶苦茶に長いので三部に分けることにしました。その一はアブラハムの神との契約です。

旧約聖書・アブラハムと聖なる契約の物語


アブラハムはキリスト教ユダヤ教イスラム教を信仰する啓典の民の始祖

ノアの洪水のあと神から祝福を受けた最初の人間が「アブラハム」という人物で今回の主人公。アブラハムはユダヤ教だけでなくキリスト教イスラム教を信仰する「経典の民」の始祖として今も崇められている。

*「経典」とは神の啓示すなわち神の言葉。神の言葉が書かれた書物=旧約聖書、新約聖書とコーラン。

実はアブラハムはノアの子孫。あの「ノアの方舟」のノアには3人の息子たちセム、ハム、ヤペテがいた。3人のうちのセムから数えて10代目がアブラハム。ノアはアブラハム2歳の時没したとなっているのでノアはすごい長寿でびっくりだ。そしてノアはアダムとエバの子孫なのでアブラハムもアダムとエバの子孫となりその後ダビデ、ソロモン、イエス・キリストまでこの血筋は繋がっていて、これまた凄い。

旧約聖書アブラハムの物語

では旧約聖書を読んでいきます。

メソポタミアの地カルデラのウルにアブラム(まだ彼の名はアブラハムではなくアブラム)という男が住んでいた。

*ウルがどこなんだろうと調べてみたら南部説と北部説があるらしい。

ウルの場所は今もメソポタミアの南部説と北部説がある(下地図参照)地図は大体の位置です。

アブラハムの生まれたウルの場所の地図
Google マップで筆者作成

裕福な遊牧民の家に生まれた彼は美しいサライ(まだ彼女の名サラではなくサライ)という名の女と結婚した。彼女はとても美しかったが子供が出来なかった。夫も妻も子孫を残せない事を残念に思っていた。

*アブラハムの時代のメソポタミアはシュメール文化の時代。シュメール人はメソポタミアで最初に文明を築いた謎の民族。美術、数学、天文学、建築、が発達しており文字や文学に学校まだあった高度文明だった。

アブラムの父はテラという。テラはアブラムとその妻サライとロトを連れてウルを出てハランに移動しそこに住んだ。アブラムの父テラはそこで205歳の一生を終える。えっ205歳?旧約に出てくる人たちは長寿だ。

神の声「この土地を捨てて私が示す地へ行きなさい」

神はアブラムに言われた。

「故郷と親戚とおまえの父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。私はお前に沢山の子孫を与えよう。彼らは偉大な民族となる。私はお前を祝福し、お前の名を高めよう。祝福の源となるように。私はお前を通してこの民族を祝福しよう」

アブラムは神の言葉に従った。

ということでアブラムは快適な暮らしを捨てて神の声に従い放浪の旅に出たのだ。しかも75歳。妻サライと弟の子供ロトと集めた全ての財産と人々を従えてカナンまで移動した。妻もよくついて行った、感心。

*カナンの地とはどこなんだろうと調べてみたら、現在のパレスティナとイスラエル。地中海とヨルダン川、死海に囲まれた一帯で、乳と密の流れる場所と聖書に描写される。カナンに住むカナン人はフェニキア人との説がある。まさに紛争の地でここにイスラエルを建国したというわけだ。

旧約聖書カナンの地
世界聖書地図より筆写作成

***歴史のお話・パレスチナ問題***

神がアブラハムに「あなたの子孫に与えるといったカナンの地」はユダヤ人にとって「約束の地」。その後カナンは様々な民族に支配されるが「出エジプト紀」にあるようにモーゼはエジプトからユダヤ人を連れて出て「約束の地、カナン」に戻った。

紀元前1095年には国を作り栄えるがソロモン王の死後、内紛が起こりイスラエル王国とユダ王国に分裂。

後イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ(紀元前722年)ユダ王国はバビロニアに奴隷にされる(紀元前588年)。

もう一度国を再建するがローマ人により(紀元前70年頃)国を破壊されカナンから追い出され、その約1900年後1948年約束の地パレスチナにイスラエルを建国した。後ろに英米独仏の複雑で利己的な(特にイギリス)の醜い取引があったのは周知の事実。

神あらわる

神は又してもアブラムに現れて言われた。(神はこの後も何度も現れる。)

「私はあなたの子孫にこの土地を与えます」

アブラムは彼に現れた神の為にそこに祭壇を築いて神の名を呼んだ。

が、その土地が飢饉になったのでエジプトへ移動した。

アブラム、エジプトへ

カナンからエジプト
Google マップより筆写作成

エジプトへ入ろうとしたときアブラムは妻サライに言った。

「あなたは大変美しいのでエジプト人には私の妹と言ってください。妻だと言うと私はエジプト人に危険な目にあわされるでしょう」

エジプトに入るとやはり人々はサライを美しい人であると褒めた。エジプトの王の高官たちもサライを褒めたので王の家に招かれた。そしてエジプトの王はサライの兄であるというアブラムに多くの羊、牛、ロバや奴隷やラクダを与えた。

 

 

アブラハムはあっさり妻をエジプトの王に差し出すつもりだったという事?そしてその見返りにエジプト王から沢山の見返りをもらっている。これは美談なのか、旧約聖書は難解だ。

神はエジプトに疫病を下す

ところが神はアブラムの妻サライがエジプトの王の家に入った事に怒り、エジプトの王ファラオの家と王家に激しい疫病と災難で痛めつけた。

エジプトの王は全てを悟り(神はアブラムの側にいる事を知る)アブラム一行を全ての持ち物とともにカナンの地へ送り出した。

聖書の記述

「あなたは私になんという事をしたのですか。なぜ彼女があなたの妹と言ったのですか。私は彼女を妻にしようとしていました。さあ、あなたの妻はここにいます。連れて行ってください」

「先に言っといてくれたらこんなひどい目に遭わないのになんで嘘つくの?」ってことでファラオが正しい。

アブラム、エジプトを去る

アブラムは妻と全ての持ち物を持ってエジプトを出てネゲブに戻った。甥のロトも従った。

アブラムは家畜や金銀にと大変豊かになっていた。彼はネゲブから旅をすすめぺテルへ向かい、ペテルとアイの間の最初に祭壇を造った所へ戻り祈った。

ところがここは土地が狭くてアブラハムもロトもたくさんの家畜や奴隷や財宝があって牧者の間で争いが起こるようになった。

アブラムはロトに提案「別々の道を行こう」

アブラムはロトに言った。これ以上揉め事が起こらないよう別の道を行こう。目の前に大きな土地が有るではないですか。

「どうかわたしと別れてください、あなたが右に行けば私は左に、あなたか左に行けば私は右に行きます」

ロトがヨルダンの低地を見渡すとそこは豊かで良く潤っていた。そしてその地を選び取ってヨルダン川東側へ移った。そこは神がソドムとゴモラを滅ぼす前だったので豊かで潤っていた。ロトはソドムへ移動したがソドムの人々は悪く罪深かった。

ソドムとゴモラは実在した?

有名な悪徳の街ソドムとゴモラは近年の考古学的な調査で実在したことは確からしい。ソドムもゴモラも大きな都市遺跡らしきものが残り大変繁栄していたようだ。

遺跡の成分を調査すると遺跡が硫酸カルシウムで出来ているらしく、硫酸カルシウムは石灰岩が硫黄で燃やされたときに出る副産物だという。そしてその遺跡の中から純度が高い硫黄の玉が沢山発見されているという。

聖書と史実については今も研究が続けられているがこの辺りに非常に高度な技術の大きな街があったことは確かで災害か何かで滅びたことはどうやら間違いないらしい。

ソドムとゴモラの地図
Google マップで筆者撮影

 

アブラムに神の言葉「あなたの子孫は未来永劫栄えます」

聖書に戻ろう。

神はアブラムに現れて言われた。

「さあ、目を上げてあなたのいるところからすべての方角を見なさい。

あなたが見渡す地は全てあなたとあなたの子孫に与えよう。

私はあなたの子孫を地のちりのように増やす。

もし人が地のチリを数えることが出来ればあなたの子孫も数える事ができるだろう。

立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。

私があなたにその地を与えるのだから」

こうやって神はアブラムにとにかく見渡す限りはあなたの土地で子々孫々にわたる未来永劫の繁栄を約束したのである。

アブラハムは天幕を移してヘブロンにあるマレムの樫の木のかたわらに住み主の祭壇を築いた。

*ベブロンは何処だろう?と調べてみた。ヘブロンはパレスティナ自治区、アブラハムのお墓があるユダヤ人の聖地なので現在対立の過激なところらしい。マレムの樫の木は現存するらしく現在はロシア正教会の敷地内にあるという。

ヘブロンの場所
Google マップで筆写作成

しかしアブラムは75歳になっても子供に恵まれなかった

神はアブラムとその子孫が繁栄するというがこんなに高齢で子供もいないのにいったい・・・という対話が続く。旧約聖書はくどい、同じ話が繰り返し繰り返し続く。

アブラムは神に言った。

「主なる神よ、私には子がないのにあなたは私に何をくださろうとするのですか」

すると神はアブラムを外へ連れ出して言われた、

神の言葉

「天を仰いで星を数える事ができるなら数えてみるがよい。

あなたの子孫はこのようになる」

神は75歳の子供がいないアブラムの子孫が星の数ほど増えるというのだ。

アブラムはいくら神の言葉でもそんな事はありえない、と思ったに違いない。

アブラムは妻の奴隷のハガルとの間に子供

アブラムの妻サライは高齢で子供を持てないので奴隷の女ハガルをアブラムに与えた。

これは当時の風習では珍しいことでは無かったという。

一説によるとエジプトから出た時に連れきた女性がハガル。エジプトの女奴隷ハガルはアブラムの子を宿すとサライを見下すようになった。思いあがって態度が大きくなったのだ。どこにでもありそうな話だ。

サライはアブラムを責める。「あなたが彼女を必要以上に重んじたからこうなった」「アブラハムあなたが悪い〜キーーッ」となったのでアブラムはサライに「お前のいいようにしなさい」と突き放した。

するとサライはハガルを思いっきり苛めたのでハガルは逃げ出した。

これもどこにでもありそうな話だ。

下の絵はルーベンスが描いた家を出ていくハガルの場面。サライは怒っていて手を振り上げている、アブラハムは天を見上げて困っている。

ハガルとサライ
wikipedia public domain

荒野の泉で途方に暮れているハガルのところに神の使いがやってきて話しかけた。

「あなたは女主人の元に戻りなさい。あなたは男の子を産むでしょう.その子にイシュマエルと名付けなさい」

その時アブラムは86歳。

アブラハム99歳、神と契約をかわし「アブラハム」と改名

アブラハム99歳、再び神が現れた。このときにアブラムの名はアブラハム、サライの名がサラとなる。

「私は全知全能の神である。私はあなたと契約を結び大いにあなたの子孫をふやすであろう」

「私はあなたと契約をむすぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう。あなたの名はもはやアブラムとは言われずアブラハム。あなたの妻の名はサライとは言われずサラ。私は彼女を祝福しあなたに一人の男の子を授けよう。その子をイサクと名づけなさい」

アブラハムは心の中で「もう100歳なのに子供ができるわけがない。妻のサラも90歳になってどうして子供を産むことができようか」

アブラハムは神は勘違いしていて息子のイシュマエルの話をしている?と思った。

が、神は言われた。

「いや、あなたの妻サラはあなたに男の子を産むでしょう。名をイサクと名付けなさい。私は彼と契約を立てての地の子孫のために永遠の契約としよう」

アブラハムの物語その後

アブラハムの物語は長くこの後三人の天使が現れたりソドムとゴモラが滅亡したり、ついに息子が産まれたり。そしてその大事な息子イサクを犠牲にしなさいと神に言われる。とっても長いお話の第一話はここで終了です

 

ホアキン・ソローリャ美術館は光の画家ソローヤがマドリードで暮らした家、小さな素敵な美術館です。

スペイン、バレンシア出身の画家ホアキン・ソローリャ(ホアキン・ソロージャ、ソローヤ)は「光の画家」と呼ばれスペイン印象派を代表する画家だ。ソローリャの人生で一番幸せな時期に家族で住んでいたマドリードの住居が「国立ソローリャの家美術館」として公開されている。個人の家と言うこともあり小さなセンスの良い美術館で入場料も3€で楽しめます。

ホアキン・ソローリャ美術館マドリード


ホアキン・ソローリャ美術館 Musoe Joaquin Sorolla

ソローリャ美術館はマドリードの上品な地区にある小さな美術館。ホアキン・ソローリャ(ソロージャ、ソローヤ)が家族と住んでいた家がそのまま美術館になっている。

ホアキン・ソローリャの家美術館は43歳でソローリャがマドリードに購入し家族で生活していた家で画家の一番幸せな時期に暮らした家。ホアキン・ソローリャ亡きあと婦人が家ごと提供して美術館になった。

ソローリャ美術館場所と行き方

マドリード北部チャンベリ地区

最寄メトロ:10号線Gregorio Marañónから徒歩5分

ホアキンソローリャ美術館
筆者作成

画家の名前はソローヤ?ソロージャ?ソローリャ?

画家の名前はホアキン・ソローリャなのかソロージャなのかソローヤなのか?混乱している方もあるかもしれない。

スペイン語には英語に無いアルファベットがいくつかあり「LL」でひとつのアルファベットだ。ここで使われるSOROLLAのLLAはヤとジャとリャの間の発音で、ソローヤ、ソロージャ、ソローリャとネットで検索しても様々だ。

Paellaパエ―ジャやSevillaセビージャの時と同じLLA。日本語のウィキペディアではソローリャで出てくるのでこの記事ではここからソローリャで統一する。

ソローリャの家美術館

43歳でホアキン・ソローリャが購入した家に現在はソローリャの作品が展示されている小さな美術館。入口の庭や噴水はアンダルシア風でソローリャがアンダルシアに行った時に見たアルハンブラ宮殿の中庭やセビージャの庭園のイメージを丁寧にここに再現した。

<ホアキン・ソローリャの家美術館 Museo Sorolla>

ソロージャ美術館
筆者撮影

中庭の神秘性(そう、中庭には神秘性があるんです)や噴水、花、静寂、ひだまりの中で水の音が楽しめる。庭だけなら無料で入れるのでお天気が良い日は家族やカップルで来ている人々がいる。

ホアキン・ソローリャはこの家を建てるのに建築家と細部に至るまで話し合いながら一緒に意見を出して造ったという。この庭も庭師と一緒に植木を植えた事もあった。自分の中にこんな家にしたいという具体的なイメージを持って丹精込めて作った家。私もそれくらいこだわった家に住んでみたい、と心から感じた。

画家はこの庭でも絵を描いたので様々な場所で絵が描けるスペースがあり良く考えて造られている。

<ホアキン・ソローリャの家美術館 Museo Sorolla>

ソロージャ美術館museo corola
筆写撮影

ホアキン・ソローリャが亡くなったあと未亡人になったクロティルデの希望で美術館になり初代館長が息子のホアキン。1951年には息子のホアキン・ソローリャがすべての財産を寄贈し国立美術館になった後所蔵作品が増えた。

ソローリャの家セラミックとパティオ

ホアキン・ソローリャ美術館に入ると切符売り場の横にセラミックが置かれた部屋がある。内側はアンダルシア風パティオになっていて後で見る画家のアトリエに光が入る設計。

パティオはスペイン語で中庭の事、南スペインのアンダルシアに行くと素敵なパティオが日常に使われている。ここはアンダルシア風のパティオになっていて、内部の部屋にも光が当たり、風が流れ、閉ざされた空間に安心感がある。

<ホアキン・ソローリャの家美術館Museo Sorolla>

ソロージャ美術館
筆者撮影

壁の下の方のセラミックはタラベラ焼き又はバレンシアのマニセス焼き。展示されているのはすべてソローリャのコレクション。物を集める趣味の人が結構いるが良くこんなに集めたものだと思う。

<ホアキン・ソローリャの家美術館 Museo Sorolla>

ソロージャ美術館
筆者撮影

 

ホアキン・ソローリャの家美術館の所蔵絵画と内部を説明


ソローリャ美術館は画家の仕事場と生活していた部分に分かれる。順に解説していく事にします。

最初の部屋は絵の保管場所だった  SALA 1

ホアキン・ソローリャの家美術館の最初の部屋は絵を保管したところだった。壁の赤い色は当時そのままという。この色は置いてある絵画が引き立つ色だそうだが実際インパクトがあって確かに絵画が浮き上がって見える。この感性がすごいなと思った。

<ホアキン・ソローリャ美術館Museo Sorolla>

ソロージャ美術館
筆者撮影

今はソローリャの様々な時代の作品が展示されている。いくつかの作品を見ていく事にしましょう。

<クロティルデ、ソローリャ美術館 Museo Sorolla>

ソロージャ美術館
筆者撮影

ソローリャの生涯にわたってモデルになったのは妻クロティルデ。黒い夜会に行くような衣装に自信たっぷりの優雅さ。

***ソローリャの妻クロティルデ***

ソローリャの妻クロティルデは画家の絵の販売や細かい会計の仕事、子供の世話や重要な顧客や上流階級のお客さんたちとの交流等なんでもこなした。ソローリャにとって女神でモデルで頼れる相談役で仕事の相棒ですべてだった。さらに英語とフランス語が出来たというので当時の女性ではかなりのインテリ。

ソローリャが仕事で一人で旅をしたときは手紙を毎日の様に書いて約3000通が保存されているという。仲の良い夫婦だったんだなあ。

<ソローリャの自画像、ソローリャ美術館 Museo Sorolla>

ソロージャ美術館
筆者撮影

(写真上)ソローリャの8枚ある自画像のひとつで妻クロティルデに贈るために描いた。1909年に、アメリカのイスパニックソサイアティで高い評価を得て成功した頃の作品で自信にあふれている。

<画家の子供達、ソローリャ美術館 Museo Sorolla>

ソロージャ美術館
筆者撮影

写真上はソローリャとクロティルデの間に生まれた3人の子供たち。愛情に溢れた作品。

<裸婦1892年、ソローリャ美術館 Museo Sorolla>

ソロージャ美術館
筆者撮影

写真上の「裸婦」はまだホアキン・ソローリャ29歳の頃の初期の作品。モデルはもちろん妻クロティルデ。先に見た妻の肖像画や自画像より17年程前の作品で伝統的でアカデミックな技術を駆使しているのが他の作品と比べても良くわかる。まだ若いソローヤが絵の基本的な描き方を駆使して完成させた。美術館では絵の肌の色、うなじのタッチ、白いシーツ、床の色、床の水の感じを見てください。

 

<馬と少年、ソローリャ美術館 Museo Sorolla>

ソロージャ美術館
筆者撮影

(写真上)当時のバレンシアの貧しい少年達は裸で海で馬の掃除を手伝ってお小遣い稼ぎをしていた。馬の耳が切れている構図が面白い。絵画というより写真的な画面の取り方。

***ソローリャの絵の特徴***

*絵画と言うより写真的な切り取り方。上の絵の馬の耳が切れている、表現したかったのは馬の全身より海の光や少年の肌の色。

*光の扱い、逆光や順光、カメラの光のアングルを絵画に持ち込んだ。

*水の透明度や光が当たった時の水の一瞬の輝きを表現した

ニューヨーク・ヒスパニック・ソサイアティ

画家ホアキン・ソローリャの成功はヒスパニック・ソサイアティーからの注文と評価によるところが大きい。

ニューヨークにあるヒスパニック・ソサイアティーは1904年アメリカ人の超富裕者のアーチャー・ミルトン・ハンティントン氏によって設立された協会。ハミルトン氏によって設立されたスペイン文化芸術を研究し展示する総合博物館兼図書館からソローリャは大きな作品を多数注文を受けた。

創設者のハミルトン氏の両親は鉄道・造船の財閥だが本人はビジネスに興味がなく子供の時に両親との欧州旅行でイギリスへ立ち寄った時にスペインについての本に出会いスペイン愛に目覚めた。まずはスペインに行く前にスペインの歴史や文化を猛研究し2000冊もの本を読みアラビア語までも勉強してからスペインへ旅をしたという変わり者。そのハミルトン氏のコレクションは膨大でスペイン、ポルトガルやアラブ文化、中南米諸国からフィリピンに至る書画骨董宝石や絵画をコレクションしたものを展示している。

2番目の部屋は顧客を案内した販売展示室 SALA2

この2番目の部屋は絵を買いに来た顧客を案内する部屋だった。当時はホアキン・ソローリャが描いた最新の絵画を壁全体に隙間なくかけていたという。

現在はホアキン・ソローリャの家族の絵が中心にかけられている。

壁のタピスや置物なども当時のまま保存されている。

愛情いっぱいの家族の絵が置かれていて写真下はクロティルデと3人の子供たち。思わず微笑んでしまう作品だ。実はこの絵は未完成なので所々色が塗られていない。

<画家の家族、ソローリャ美術館>

ソロージャ美術館
筆者撮影

<クロティルデ、ソローリャ美術館>

ソロージャ美術館
筆者撮影

家族の記録にもなっているソローリャが描く彼の家族の作品は愛情溢れていて見ていて微笑ましい。家族大好き奥さん大好きなのが伝わってくる。

3番目の部屋 SALA3

この部屋はパティオ(下の切符売り場の横の中庭)に面しふんだんに光を取り入れられたソローリャの仕事場。天井からも光が入る構造で光にこだわった画家らしい設計だ。

イーゼルや筆や絵の具もすべてソローヤが使っていたものが置いてある。当時は今よりもっと沢山の絵がかかっていたというからびっくりだ。

<画家の道具、ソローリャ美術館 Museo Sorolla>

ソロージャ美術館
筆者撮影

写真下:中央の大きな作品はソローリャの作品が沢山ある中でも有名な妻クロティルデとマリア。海岸線の眩しい光と海の風を感じる。

<クロティルデとマリア、ホアキン・ソローヤ美術館 Museo Sorolla>

ホアキン・ソローヤ美術館
筆者撮影

写真下は作品を拡大して。バレンシアのマルバロッサ海岸、光と影、海の風を感じる。やはり水平線を描いていない写真の切り取りのような構図。

<クロティルデとマリア、ホアキンソローリャ美術館Museo  Sorolla>

ホアキンソローリャ美術館
Wikipediaより

<グレーの衣装のクロティルデ、ソローリャ美術館 Museo Sorolla>

ソロージャ美術館
筆者撮影

35歳のクロティルデ、全体に暗いグレーの色が使われている。衣装はソロージャがパリに行った時に流行っていた衣装を手紙で知らせてそれを創らせたという。(ウエスト細い・・・)

<クロティルデ、ソローリャ美術館 Museo Sorolla>

ソロージャ美術館
筆者撮影

顔だけアップにしてみた。この絵は私個人的にとっても好きで、絵画全体は暗い色調でグレーが使われているがクロティルデの顔、次の瞬間笑顔に満たされる表情が画面全体を明るくしている。微笑みながら今にも何か話し出しそうでこちらに歩いてきている感じ。

<ソローリャ最後の作品、ホアキン・ソローリャ美術巻Museo Sorolla>

ホアキン・ソローヤ美術館

(写真上)これだけが家族ではない人物がモデルになっている作品。ソローリャの友人の奥さん、画家はこれを書いている時に人が訪ねてきて、外に出る時に倒れた。脳溢血だったらしい。

その後マドリードの西にあるセルセディージャという小さな村へ引っ越し療養する。家族はソローリャに絵を描かせようとするが2度と筆を持たなかった。

その3年後に60歳で永眠。

2階は寝室だった、現在は特別展の展示室

2階へ登る階段の壁にも作品が展示されている。

<ホアキン・ソローリャ美術館Musoe Sorolla>

ホアキンソローリャ美術館
筆者撮影

2階の部屋は家族の寝室だった。

現在はホアキン・ソローリャの様々な作品の特別展。普段展示されていない習作やデッサンなど時期によって様々な展示会が行われている。

下へ降りて生活の部屋

リビングルームに家具や絵画や彫刻、奥にある黒い衣装のクロティルデはベラスケスの様な筆遣い。(下写真右奥)

ホアキン。ソローヤ美術館
筆者撮影

半円形の窓は東向きで当時は周りにビルは無く朝日がたっぷり部屋に入った。

ホアキンソローヤ美術館
筆者撮影

食堂

壁の上の方の絵はソロージャが描いた。生地に油絵を描いて壁に縫い合わせた。

食堂の上からのランプはティファニー製。宝石商ティファニーはソロージャの顧客だった。ティファニーの創業者の息子ルイス・カムフラート・ティファニーはアメリカのアールヌーボーの第一人者でその人物が作ったランプ。

 

光の画家ホアキン・ソローリャの人生

(1863〜1923)


ソローリャの生まれはバレンシア

ホアキン・ソローリャは1863年にバレンシアで生まれる。バレンシアの貧しい家庭の生まれだった。2歳の時に両親がコレラで亡くなり母方の叔母の家に一歳違いの弟と世話になった。

ソローリャの叔父は鍵を造る職人で12歳の時に叔父さんの仕事を手伝いながら夜に芸術学校に通う。

1879年15歳でバレンシアの名門美術学校サン・カルロスで友達になったのが写真家アントニオ・ガルシア・ペレスの息子、その手伝いのアルバイトを始めた。被写体に光を当てる仕事でこれが後のソローリャの絵に写真的な逆光や光が使われ、画家の光の描き方の原点はここにある。

その写真家の娘が後にソローリャの妻になるクロティルデ。

1881年〜82年にマドリードを訪れプラド美術館のベラスケスやリベラ、エルグレコなどの模写をしている。初期のソローリャの作品にベラスケス風のものが散見される。

ソローリャはいつも完璧を目指す人だったという。

ホアキン・ソローリャ美術館まとめ


マドリードには数多くの美術館博物館があるがホアキン・ソローリャ美術館はとっても小さな美術館で画家の家だったのでお呼ばれした気分で楽しむと良い。絵が好きなら是非ともおすすめです。

カルタヘナ(スペイン、ムルシア)は遺跡と海がある素敵な街、ハンニバル将軍はここからローマ遠征に出発した

スペイン南東部のカルタヘナへ行ってきた。マイナー観光地だが小さな街で治安も良く遺跡がいっぱい。アルチェナの温泉の帰りについでに寄ったのだがとっても素敵だったので記事にしてみた。車があればアルチェナの温泉やムルシアと繋いで楽しめる。スペイン2回目3回目のスペインファンの方々やヨーロパやスペイン在住者の方に、もちろんスペイン初めてでも歴史好き小さな街好きならカルタヘナは超おすすめです。

カルタヘナ(スペイン)


スペインのカルタヘナはスペイン南東部、バレンシアやアリカンテの少し南に位置するレバンテ地方ムルシア州にある。今もスペイン海軍=アルマダの基地が置かれている軍港でも有名だ。大きなクルーズ船も訪れる地中海に面した綺麗な街カルタヘナを紹介します。

<カルタヘナの位置>

スペイン、カルタヘナの場所
筆者作成

カルタヘナへの行き方

<マドリードから>

*車で約5時間 520キロ

*スペイン国鉄Renfeでアトーチャ駅から4時間20分

*長距離バス、南バスターミナルから5時間45分

<バレンシアから>

*スペイン国鉄 Renfe で約4時間

*長距離バスで4時間30分

<グラナダから>

*グラナダから長距離バス で4時間30分

など、他都市からも乗り換えなどでアクセス可能です。

カルタヘナはカルタゴの将軍が造った街

フェニキアの植民地だったカルタゴ(現チュニジア)が次第にシチリア島を巡りローマと対立しポエニ戦争が始まった。第一次ポエニ戦争で負けたカルタゴの将軍ハミルカル・バルカ(ハンニバル将軍の父親)は傭兵の反乱を治め名声を得て新天地の開拓を目指す。

ハミルカル・バルカは本国カルタゴからの干渉を受けないイスパニア(現スペイン)に出征するが道半ば戦死。娘婿のハスドルバルがカルト・ハダシュト(新しい都市)として建設したのが今のカルタヘナ。紀元前227年頃のことだ。

ハスドルバル亡き後ハミルカルの息子ハンニバルが第二次ポエニ戦争においてカルタヘナからイタリア侵攻に出発している。

象を使った第二次ポエニ戦争で最初は有利だったカルタゴだったがスキピオ・アフリカヌスによってカルタヘナは征服され街は略奪されローマ化しカルタゴ・ノバ(新しいカルタゴ)と呼ばれる。

カルタヘナは魅力的な街だ、街はとっても小さく徒歩で回れる

カルタヘナの街は小さくこじんまりしてて大体のものが中心部にギュッと集まっている。私たちは1日でカルタヘナの観光をした。

4〜5時間で徒歩だけで充分楽しめる。私たちが最初に入ったローマ劇場のお兄さんが親切でいっぱい教えてくれたので言われた通りにまわったので参考にしてください。

カルタヘナ(スペイン)の観光


カルタヘナの見どころは大体徒歩圏内にあるので綺麗な街を歩きながら楽しめる。

<スペイン・カルタヘナの地図>

カルタヘナの地図
筆者作成

カルタヘナ・ローマ劇場

何と街の中心部に2000年前のローマ劇場がある。ポエニ戦争でカルタゴを破ったローマはカルタゴの街を徹底的に破壊し全てローマ化した。

<スペイン・カルタヘナのローマ劇場の入り口>

カルタヘナのローマ遺跡
筆者撮影

(写真上)いったいここがローマの遺跡の入り口なのかという住宅の入り口から入っていく。

建物の中にはいってしばらく展示場を見ながらエスカレーターを登っていくと外に出て視界が開けると古代ローマの劇場が綺麗に残っている。

<カルタヘナのローマ劇場>

カルタヘナのローマ遺跡
筆者撮影

 

カルタゴの城壁

ローマによってカルタゴは徹底的に破壊されたのでどこにいってもカルタゴの遺跡は見ることができないがここに城壁跡を見ることができる。

<カルタヘナのカルタゴの城壁>

カルタヘナのカルタゴの城壁
筆者撮影

スペイン語ではムラヤ・プニカ=Muralla Punica、内部にはポエニ戦争の資料と映像で歴史の説明があった。

<カルタヘナ、カルタゴの城壁>

カルタヘナのカルタゴの城壁
筆者撮影

地下に降りると城壁が綺麗に残る。

<スペイン・カルタヘナのカルタゴの城壁>

カルタヘナ、カルタゴの城壁
筆者撮影

フォロ・ロマーノ

ポエニ戦争でローマに負けたカルタゴの街はローマによって徹底的にローマ化されていった。フォロ・ロマーノはローマの政治経済の中心だった。

<スペイン・カルタヘナのフォロ・ロマーノ>

カルタヘナのフォロ・ロマーノ
筆者撮影

パノラマ・エスカレーター

城壁跡を歩いていくと立派なエレベーター(有料)。上に登るとカルタヘナの街が一望。

<スペイン・カルタヘナのパノラマ・エレベーター>

スペイン、カルタヘナのエレベーター
筆者撮影

エレベーターを降りて少し登っていくとこの景色。入江になっていて当時はもっと小さな小島のような半島だった。

<スペイン・カルタヘナの展望台から>

カルタヘナ、展望台
筆者撮影

現在のカルタヘナの街は埋め立てられて広がっているがカルタゴの頃は小さな小島のような半島で入江に佇んでいた絶好の要塞都市だった。

<カルタゴの頃のカルタヘナ>

カルタゴの街をカルタヘナの地図で
筆写作成

エレベーターを登ると上はお城になっていて歴史展示室になっていた。

 

海底考古学博物館

ヨットハーバー近くにある近代的な建物は海底考古学博物館。図書館や研究所を併設している。

<カルタヘナ海底考古学博物館>

スペイン、カルタヘナ
筆者撮影

ここの目玉はフェニキア人が使っていた木造船。

<カルタヘナ海底考古学博物館>

カルタゴ、海底考古学博物館
筆者撮影

古代船の説明で船の形が変化していった様子がわかる。

<カルタヘナ海底考古学博物館>

スペイン、カルタヘナ
筆者撮影

遊覧船

ヨットハーバーから観光用の遊覧船が出ている。私たちは時間がなくて乗らなかったが海側からカルタヘナを見るのはきっと楽しいに違いない。

<カルタヘナの遊覧船>

カルタヘナの遊覧船
筆者撮影

カルタヘナ市立博物館

市立博物館は街の商店街の方にあるので少し離れていてローマ劇場から徒歩で25分ほどかかる。

カルタヘナ市立考古学博物館
筆者撮影

小さな博物館で小学校の子供たちが見学に来ていた。入場無料。

<カルタヘナ市立博物館>

カルタヘナ、市立博物館
筆者撮影

有史以前からのものが展示されていてこじんまりしているので見学しやすい。ここの係りの人もとっても親切で色々カルタヘナのことや行くべきところなど教えてもらった。

<カルタヘナ市立考古学博物館>

カルタヘナ、市立博物館
筆者撮影

カルタゴの出土品で宗教行事などに使った香炉。

<カルタヘナ市立考古学博物館>

カルタヘナ、市立博物館
筆者撮影

ヘレニズムのイヤリングはとても繊細で今でも使えそう。

<カルタヘナ市立考古学博物館>

カルタヘナ、市立博物館
筆者撮影

その他ローマのモザイクや彫刻などが展示されていた。

カルタヘナのバル街

バル街はフォロ・ロマーノ近く。バルの合間に何気なく遺跡があったりするのがカルタヘナっぽいのか。値段も安くて人も感じがいいのが嬉しい。

<カルタヘナのバル街>

スペイン、カルタヘナ
筆者撮影

 

コルティーナ海岸 CALA CORTINA

ここは徒歩では無理なので車、タクシーなどを利用になる。夏は地元の人たちで賑やかだというが私たちが行ったのは1月で静かだった。

<カルタヘナ、コルティナ海岸>

カルタヘナのコルティーな海岸
筆者撮影

近くにスペイン内戦の時の防空壕が残っていた。海軍基地があるカルタヘナは内戦で随分破壊されたらしい。

<カルタヘナ、コルティナ海岸>

スペイン、カルタヘナ
筆者撮影

ビーチの前にバルレストラン、1月でしたがみなさん海の前でお茶したりお食事したりのんびりでした。

<カルタヘナ、コルティナ海岸>

カルタヘナの海岸
筆者撮影

私たちは軽くお食事をすることに。写真はチャンケテ(chanquete)というシラスのフライ。

<カルタヘナ、コルティナ海岸>

写真下「カフェ・アシアティコ=cafe asiatico」はアジア風コーヒーという意味。ローマ劇場の人に勧められたので頼んでみた。リキュールとかクリームは入ったコーヒーでお店の人曰くこれは「ムルシアでは飲まなくて、カルタヘナだけの特別」だそう。

<カルタヘナのコルティナ海岸>

カルタヘナの海岸
筆者撮影

カルタヘナを短い動画で紹介しています


 

カルタヘナまとめ


たまたまムルシアの近くの温泉(アルチェナ)に行ったので帰りにどこへ行こうかとカルタヘナに寄ってみたが意外といい街で気に入った。街の規模はとっても小さくて治安も良く海があって遺跡があって最高の街でした。スペインのルートにカルタヘナを入れてみてはいがかでしょう。

 

メキシコ周遊、メキシコシティーとユカタン半島のマヤ遺跡の旅の記録

メキシコ旅行へ行ってきた。5年ほど前に仕事で周遊して以来、今回もユカタン半島を中心に遺跡巡りの旅。自分の忘備録とコース作りの参考になるかもなので公開しておきます。

メキシコ旅行、メキシコシティー とユカタン半島のマヤ遺跡、旅の記録と一般インフォメーション

メキシコシティー出入国


 

*メキシコビザ:30日以内の観光は不要。

*メキシコ入国時パスポート:入国時点で残存有効期間が滞在日数以上必要。

*メキシコ入国は簡単で機内で配られる書類をパスポートに挟んで入国管理官のところへ。

*質問されたのは「観光できたのか?」だけだった。

*書類の半片を返してくれるので無くさないように。

*出国時にその半片の書類が必要。

*出国時のパスポートコントロールはなく手荷物検査の手前でその半片の書類とパスポート搭乗券のチェックのみ。

 

メキシコ両替事情


*日本からはUSドルを持参がベスト。(一部の両替所以外は日本円の取り扱いはない)

*メキシコシティーの空港で現地通過にある程度両替しておくことをお勧めする。

*↑メキシコシティーの空港の両替が一番レートが良かった。後で足りなくてトゥルムやメリダでも両替したがメキシコシティー の空港のレートが一番良かった。

メキシコシティー空港の到著ロビーに両替屋が並んでいる(写真下)。私は早朝に到着したが既に両替所は沢山開いていた。レートが表示されているので一番いいところで並んで両替を。

100ドル紙幣ならこのレートだが20ドルや10ドル紙幣なら少し悪いというのがあるらしいがとにかく空港のレートが一番いい。

<メキシコシティー空港の両替所>

メキシコシティー空港
筆者撮影

写真下は両替所のレート。1ドルがいくらになるかが書いてあるので数字が多い方がレートがいい。2種類あるのは売りと買いの値段。

<メキシコシティー空港の両替所>

メキシコシティー空港両替所
筆者撮影

 

*地方都市はホテルでも両替え出来なかったしメキシコシティー空港のヒルトンホテルでさえも両替できなかった。

*ドルで受けてくれるところはレートが非常に悪かった。

ということで現金があった方が便利で通過価値も高いのである程度両替えして置きましょう。

*もちろんクレジットカードも使えますが小さなお店や露店は不可。

*クレジットカードでキャッシングする方法もいいと思う。

*クレジットカードを利用するのは大手ホテルなど信頼のあるところのみにした。

↑スキミングや値段の間違いやごまかしを防ぐため(それほど人は悪くなさそうだったが念のため)

メキシコチップ事情


メキシコのはチップの習慣がしっかり根付いている。目安の料金を書いておく。ホテルのメイドさんやレストランなどの人たちの収入が大変低くチップは彼らの生活の大きな一部なので払ってあげましょう。

*レストランは支払った料金の10%〜15%

*ホテルでポーターに荷物を運んでもらったら一個20ペソくらい。

*枕チップ20ペソ

*トイレに人がいたら5ペソ(遺跡や博物館はかなりの確率で必要)

メキシコ旅行その他色々注意事項など


*なるべく乾季に旅行することを進める

*メキシコシティーでは流しのタクシーには乗らない事

*水道水は飲まない事

*屋台の食事は食べない事

メキシコ旅行トイレ事情


*トイレの清潔さはそのお店やホテルのカテゴリーにそのまま直結。

*トイレットペーパーは流さない(ある程度のホテルの客室などは大丈夫だが横に大きなゴミ箱などがある場合はそちらへ。管が細くつまってしまう。

*トイレットペーターを少し手元に持っておくといい=ユカタン半島のトイレ事情は悪くまず綺麗では無く便座がない、トイレットペーパーがない、手を洗う水が出ないもあった。

メキシコ旅行持ち物あったらいい物


*日除け帽子

*日焼け止め

*虫除けスプレー

*貴重品袋(腹巻型や首からかけるタイプ)

*手の除菌アルコールの携帯用。

*リュックやポシェット型のバッグ(遺跡観光は両手が空く方が写真を撮ったりが便利)

*バックパッカーならトイレットペーパーをロールごと少し持ってきてもいいかも。

 

旅の記録ーメキシコ・テオティワカンとユカタン半島の旅の記録


1日目メキシコシティーへ

私はマドリード発イベリア航空メキシコシティー 行き23:55分発.

12月24日の23時55分発のイベリア航空、キャンセルされないか本気で心配したけれど予定通り出発。夜中は南米行きのフライトが中心だった。

マドリード空港たーみなる4
筆写撮影

ラウンジで少し休憩眠ってしまわないようワインも少し控えめにした。メキシコシティー 行きイベリア航空6409便は予定通り出発

機材はエアバス340、ビジネスクラスは窓側1列、中央2列で快適だった。イベリア航空ビジネスクラスの機内ギブアウェイにスリッパなしでした。

イベリア航空メキシコ行き
筆写撮影

大西洋の上を飛び約12時間でメキシコシティー、ニューヨークの上空をかすめて南へ降っていった。

メキシコ旅行
筆写撮影

メキシコシティー入国も出国も簡単だった

メキシコシティーの入国も出国も非常に簡単だ。メキシコシティーに到着して飛行機を降りたら人の流れに従い移動していく。通路の上の警察のマークや荷物のマークに従って進んでいく。(出発はパスポートコントロールさえ無かった)

<メキシコシティー空港>

メキシコシティー
筆写撮影

メキシコシティーのパスポートコントロール=入国審査は外国人とメキシコ人に分かれていて外国人(日本人)はこれ=Extran jeros エクストランヘロの方に並ぶ。

<メキシコシティー空港ターミナル2到着>

メキシコ旅行
筆写撮影

必要なのはパスポートと入国カードのみ。半片を返してくれるので出国時に必要らしく大事に保管。

<メキシコシティー空港ターミナル2到着>

メキシコ旅行
筆写撮影

荷物のところに行ったらもうすでにスーツケースは並んでいた。

<メキシコシティー空港ターミナル2到着>

メキシコ旅行
筆写撮影

メキシコシティー到着してパスポート検査を受けて荷物のところへ人の流れのまま移動。電車もバスもなく迷いようがない。

<メキシコシティー空港ターミナル2到着>

メキシコ旅行
筆写撮影

税関は素通りで税関員と目も合わなかった。そのまま到着ロビーの外へ出ていく。

*時によっては荷物をスキャンしたりスーツケースを開けることもあるようです。

<メキシコシティー空港ターミナル2到着>

メキシコ旅行
筆写撮影

メキシコシティー空港「ヒルトンホテル」ヒルトン・エアーポート・メキシコシティー

合流するお客様が到着するまで私はホテルで休憩。メキシコシティー空港ターミナル1にあるヒルトンホテル。

メキシコシティー空港のヒルトンホテルは空港ターミナル1の8番のゲート(写真下)横からエスカレーターで上に登る。

<メキシコシティー空港ターミナル2ヒルトンホテル>

メキシコシティー空港ヒルトンホテル
筆者撮影

ホテルのHのマークの矢印(写真下)があるので目印にこのエスカレーターを上へ登る。これさえ見逃さなければ簡単です。

<メキシコシティー空港ターミナル2ヒルトンホテル>

メキシコシティー空港ヒルトンホテル
筆者撮影

エスカレーターを登るとヒルトンホテルのロゴが見えてきた。

<メキシコシティー空港ターミナル2ヒルトンホテル>

メキシコシティー空港ヒルトンホテル
筆者撮影

エレベーターで3階で降りたらホテルロビー。チェックインを済ませてお部屋へ。両替はやっていません。

<メキシコシティー空港ターミナル2ヒルトンホテル>

メキシコシティー空港ホテルヒルトン
筆者撮影

メキシコシティー空港ヒルトンホテル、ホテルはこのフロアーのみで写真下はホテル廊下。

<メキシコシティー空港ターミナル2ヒルトンホテル>

メキシコシティ空港ホテルヒルトン
筆者撮影

部屋は質素だが充分快適で清潔。コーヒーメーカーとアイロン、バスルームはバスタブはあるがお湯は貯められないようになっていた。エコロジーか?

<メキシコシティー空港ヒルトンホテルの部屋>

メキシコシティー空港ヒルトンホテル
筆者撮影

コーヒーメーカーで早速いただきました。

<メキシコシティー空港ターミナル2ヒルトンホテル>

メキシコシティー空港ヒルトンホテル
筆者撮影

洗面所は必要最小限のもののみ。スリッパと歯ブラシは必要なら持ってきてくれる、と思う。なんでもエコロジーで無駄なものはない。日本の色々置いてあって全て使い捨てはやり過ぎなんだなと感じる。

メキシコシティー、空港ヒルトンホテル
筆者撮影

私は日本からのANAが着くまで休憩です。


2日目メキシコシティー市内観光

お客様と合流しメキシコシティーの観光へ出発。空港から市内は約30分。

メキシコシティーの中心部はアステカ帝国の神殿があった重要な場所だった。16世期にコルテスが征服後スペイン人たちが建てた建物が残る。

下写真は広場前で清めの儀式をする先住民。20ペソだったので日本円で140円ほどでした。モグサの様な香りの香でパタパタと身体中を清めて最後に螺貝で頭の後ろで音を出して終了でした。

<メキシコシティー、ソカロ広場>

メキシコシティー
筆写撮影

メトロポリタン大聖堂は1563年に着工し1681年完成。スペイン人はどこにでも同じ物を建てるな、と思ったがそれは古代ローマ人も同じだった。

<メキシコシティー、メトロポリタン・カテドラル>

メキシコシティー大聖堂
筆写撮影

内部はバロック装飾で飾られている

テンプロマヨールはアステカ時代の都、ティノチティトランの中央神殿だった。

1913年カテドラルの裏側で地下へ続く階段が発見された。さらに1979年に8トンある石像が発見される。これをきっかけに発掘が始まりここがアステカ帝国のティノチティトランの中央神殿であることがわかった。

<メキシコシティー、テンプロマヨール>

メキシコシティー、テンプロマヨール
筆写撮影

地下の遺跡は祝日で見学できず、残念。

メキシコシティー、シェラトンホテル・マリア・イサベル

メキシコシティーの宿泊はシェラトン・マリアイサベル。レフォルマ通り独立記念塔のすぐそばにあるアメリカンスタイルのホテル。

<メキシコシティー、シェラトン・マリアイサベルのロビー>

メキシコシティーシェラトンホテル
筆者撮影

部屋はツインのシングルユース。

<メキシコシティー、シェラトン・マリアイサベル部屋>

メキシコシティーシエラトンホテル
筆者撮影

メキシコはどうやらコーヒーメーカーやアイロン台などが標準でお部屋にあるみたいです。部屋でゆっくりお茶を飲んだりできるのは嬉しい。

<メキシコシティー、シェラトン・マリアイサベル>

メキシコシティーシェラトンホテル
筆者撮影

ベッドサイドにはusb充電器が付いていた。これはありがたい。バスルームのバスタブはやはりお湯が溜められなくなっていた。

<メキシコシティー、シェラトン・マリアイサベル>

メキシコシティーシェラトンホテル
筆者撮影

今日はクリスマスでホテルのレストランは1カ所のみ営業、21時には閉まりますということでホテルの1階レストランで夕食。働いている人がみんな陽気で親切で快適な滞在だった。

*今回一番心配したのがクリスマスや大晦日の食事事情だった。旅行会社に問い合わせたがあまり明確な回答がなかった。今日は12月25日だったのでレストランは1つだけ空いていて21時頃には閉まるとのこと。これなら充分でした。

<メキシコシティー、シェラトン・マリアイサベル内レストラン>

メキシコシティーシェラトンホテルレストラン
筆者撮影

ワインはメキシコのワインを頼んだ。なんと1597年創設されたワイナリーというカサ・マデロのワイン3V。1597年ということはスペイン人が入植した頃に創設されたということ。調べてみると南北アメリカで最古のワイナリーだそう。

<メキシコのワイン、カサ・マデロの3V>

メキシコシティーシェラトンホテル、レストラン
筆写撮影

食後はホテルのバーでテキーラをいただくことに。テキーラも色々種類があるらしくバーマンのお兄さんに勧められながら試した。

<メキシコシティー、シェラトン・マリアイサベルのバー>

メキシコシティー
筆者撮影

3日目テオティワカン遺跡と国立人類学博物館

メキシコシティーのシェラトンホテルの朝食。朝7時からで朝食会場2カ所。今日は2階のイタリアンレストランでいただきました。

<メキシコシティー、シェラトン・マリアイサベルの朝食レストラン>

メキシコシティー、シェラトンホテル
筆写撮影

果物や野菜、メキシコ料理も揃ったビュッフェ

<メキシコシティー、シェラトン・マリアイサベル朝食レストラン>

メキシコシティー、シェラトンホテル朝食
筆写撮影

果物が豊富なのは嬉しい、パパイヤは最高に美味しかった。

<メキシコシティー、シェラトン・マリアイサベル朝食レストラン>

メキシコシティー 、シェラトンホテル
筆写撮影

テオティワカン

メキシコシティー から車で30分の距離にある遺跡。テオティワカンは紀元前2世紀に建造されたメキシコ最大の宗教都市。テオティワカンは謎の民族が作っていて8世紀に謎の滅亡をしている、アステカでもマヤでもない民族。進んだ数学や天文学の知識を持っていた。

<メキシコ、テオティワカン>

テオティワカン遺跡
筆写撮影

後にやってきたアステカ人たちは巨大なピラミッドを見て驚き「これは神が創ったに違い」ないと信じ彼らの神話の舞台にした。

アステカの言葉でテオティワカン=太陽の都市と呼ばれた、と言われていたが実は最近アステカの文字の解読が進みテオワカンと読むことがわかった。テオワカンなら意味は神々の都市となるらしい。

<メキシコ・テオティワカン>

テオティワカン遺跡
筆写撮影

写真下は月の神殿から太陽の神殿を眺める。月の神殿の方が少し小高くなっていて雨が降ると水は向こうに流れ川に流れ込むようになっている。

真っ直ぐ南北に伸びる道路は東の方角に15度30分傾いている。

2017年に月のピラミッド前の広場から地下にトンネルがあることがわかっているがまだ内部には調査は入っていないという

<メキシコ・テオティワカン>

テオティワカン遺跡
筆写撮影

写真下は神官の住居跡でほぼ完璧に修復されている。月の神殿で祭儀に携わった人物の家であろうといわれている。

<メキシコ・テオティワカン・ ケツァルパパトル宮殿>

テオティワカン遺跡
筆者撮影

<メキシコ・テオティワカン・ケツァルパパトル宮殿>

テオティワカン・ケツァルパパトル宮殿
筆者撮影

こちらはケッツアルコアトル神殿。ケツァルコアトルは羽の生えた蛇を意味し。

*2003年の大雨でケツァルコアトル神殿の前の広場に穴が見つかりそこからつながるトンネルが発見された。レーダーで調査をすると約20メートルの深さに100メートルほどの長さのトンネルがありケツァルコアトル神殿の真下まで繋がっていることがわかった。そこから石像が見つかりさらに調査は進められ3つの部屋にヒスイや黒曜石トルコ石の奉納物がそして後ろ手に縛られた137体の人骨が見つかっている。

<メキシコ・テオティワカン・ケツァルコアトル神殿>

隠れたようにつくられたケツアルコアトル神殿は羽のある蛇の彫刻が周りに沢山あり神秘的な姿を間近に見えて独特なムード。

<メキシコ・テオティワカン・ケツァルコアトル神殿>

 

*テオティワカン遺跡は広大でかなり歩きます。日陰が少ないので帽子は必須

ランチはメキシコシティー市内のEl Fogoncito

エルフォゴンシートは軽くメキシコ料理が食べられるチェーン店のようでこぢんまりとした店舗でタコスやスープがいただける。タコスも色々な種類があった。

<メキシコシティーレストラン、エルフォゴンシート>

メキシコシティーのレストラン
筆者撮影

前菜にソパデトルティージャをハーフポーションで

<メキシコシティーエルフォゴンシート>

タコスを2種類いただきました」。

<メキシコシティーエルフォゴンシート>

 

ソルというビールは日本のビールに似た味だった。

<メキシコシティ、エルフォゴンシート>

メキシコシティー国立民族学博物館

午後は国立民族学博物館へ。メキシコシティーを訪れたら見逃せないポイントのひとつのモニュメント。1964年に建設されたというから驚きだ。メキシコ全土から集められた考古学的・民族史的な物で埋め尽くされた博物館はとても1日では堪能できない。

<メキシコシティー国立民族学博物館>

 

写真下はかつてのメキシコシティー 、アステカ帝国の首都の姿。湖上に浮かぶティノチティトランから道が伸び街には市があり繁栄していた。この上に今のメキシコシティー中心部、大聖堂などが造られている。

<メキシコシティー国立民族学博物館のティノチティトランの想像図>

 

アステカカレンダーと呼ばれる巨大な円盤。メキシコシティーの中心部の大聖堂の修復工事中に発見された。

<メキシコシティー、国立民族学博物館>

 

マヤ室にはパレンケのパカル王の墓の複製。墓自体は今もパレンケのピラミッドの地下に眠るがヒスイのマスクと副葬品はこちらが本物。

<メキシコシティー、国立民族学博物館>

発見された時はバラバラになっていた物を調査研究の末付け合わせた。王の口の中にもヒスイ。マヤではヒスイは最も高貴なマテリアルだった。

<メキシコシティー、国立民族学博物館。

 

この博物館にはトルテカ室やオアハカ室などに分かれていてそれぞれの文明の神殿や彫刻が展示されていて1週間くらいかけて回りたいと思った。

国立宮殿でディエゴ・リベラの壁画を見る

メキシコシティーの歴史地区にある国立宮殿はアステカを滅ぼしたエルナンコルテスが自身の宮殿として作った建物。コルテスはここにあったアステカの皇帝の居城を壊して建築した。

入場にパスポートなどの身分証明書が必要

<メキシコシティー、国立宮殿ディエゴリベラの壁画>

宮殿の正面階段壁面にディエゴリベラが10年をかけて描いたメキシコの歴史が描かれている。

<メキシコシティー、国立宮殿ディエゴリベラ壁画>

 

夜はホテル近くのショーがあるレストランへ。マリアッチや踊りなどを楽しみながら食事をした。ショーの料金は少額で食事代で楽しめ、見に来ていたのは地元のメキシコ人ばかりだった。

<メキシコシティーのショーレストラン>

 

4日目メキシコシティーからビジャエルモサ〜ラ・ベンタ野外博物館〜パレンケ


今日はユカタン半島へ移動。メキシコシティー・ベニートファレス国際空港へ。市内から空港は約30分ほどで到着。アエロメヒコは空港ターミナル1から出発、チェックインを済ませ待合室へ。

<メキシコシティー空港ターミナル1>

AM507、10:05発約1時間30分でビジャエルモサ空港到着。機内サービスは無料の飲み物。

<ビジャエルモサ行きアエロメヒコの機材>

ラ・ベンタ野外博物館

ここはタバスコ州、ビジャエルモッサ空港から20分ほどでラベンタ野外博物館に到着。元々はメキシコ湾岸地帯で発見されたオルメカ文明の遺跡でそのあたりに油田が発見され破壊されていく遺跡を守るためにここに移動した。

<メキシコ、ユカタン半島ラ・ベンタ野外博物館>

オルメカ文明は紀元前1200年頃から紀元前後に栄えた文明。アメリカ大陸でも初期の文明。への字の口が特徴だが人間とジャガーの融合だという。ジャガー信仰や球技など後のマヤ文明に影響を与えているという。

<メキシコ、ユイカタン半島ラ・ベンタ野外博物館>

オルメカというのはナワトル語で「ゴムの人」という意味。巨石文明が有名だが沼地に巨大な石をどうやっては運んだんだろう。

写真下は猿、上空を見ているように見えるが実際は建物の上に水平に置かれていた。

<メキシコ、ユカタン半島ラ・ベンタ野外博物館>

軽く食事の後ビジャエルモサからパレンケは車で144キロ約1時間30分の距離。到着後パレンケのホテルへ。

メキシコの地図、ビジャエルモサからパレンケ
筆写作成

パレンケのホテル

パレンケはブティックホテル・ピエドラ・デ・アグア、直訳すると「水の石」と言う名前。小さなブティク・ホテルで森の中というかジャングルの中にある素敵なホテルだった。

<メキシコ・パレンケのホテル・ピエドラデアグア>

メキシコ、パレンケのホテル
筆者撮影

 

まわりはジャングルで朝はどこからか動物の声が聞こえてくる。ジャガーがいるのかもしれない雰囲気だった。

<メキシコ・パレンケのホテル・ピエドラデアグア>

ホテルにレストランがないので夕食は歩いて2分の隣のレストランでピザで終了。

5日目パレンケの遺跡〜チカンナ

ホテルの朝食は7時から。果物とパンの簡単な朝食だったけどとっても美味しかった。お手製のチョコのペーストやジャムどれもとても美味でした。

<メキシコ・パレンケのホテル・ピエドラデアグアの朝食>

メキシコ、パレンケホテル
筆者撮影

パレンケの遺跡へ

ホテルからパレンケの遺跡は車で10分ほど。ジャングルの中、チャパス州に位置するパレンケは7世紀に最盛期を迎えた都市の遺跡。メキシコシティー国立人類学博物館で見たパカル王の墓はここから見つかった。

<メキシコ・パレンケの遺跡>

紀元前からあった都市らしいが最も栄えたのは7世紀頃のパカル王とその息子の時代。写真下は碑文の神殿。この中からマヤ文字が刻まれた石板が600個以上発見されたので碑文の神殿と呼ばれる。

<パレンケ碑文の神殿>

パレンケの遺跡碑文の神殿
筆者撮影

碑文の神殿の床のくぼみから穴を発見したメキシコ人考古学者が約3年間かけて瓦礫を取り除きトンネルを下へ下へ掘っていきパカル王の墓を発見した。

<メキシコ・パレンケの遺跡>

隣にあるのが赤の女王の神殿で中から赤く塗られた女性のミイラが発見されている。発見当初はパカル王の母ではないかと言われていたが近年のDNA調査の結果パカル王との血縁関係はないことがわかっている。ならパカル王の妻か?パカル王の息子の墓が見つかればさらにDNA調査ができるが期待が膨らむのみだ。

<パレンケの赤の女王の墓>

パレンケの赤の女王の墓
筆者撮影

宮殿と呼ばれる建物にはお風呂や天文台があったようだ。

<メキシコ・パレンケの遺跡、宮殿>

パレンケの遺跡
筆者撮影

遺跡から降っていく道に住居跡や滝があって20分ほどの下の散策は探検隊になった気分で楽しかった。

<メキシコ・パレンケの遺跡>

 

パレンケからチカンナは356キロ5時間ほどの距離。

<メキシコの地図、パレンケからチカンナ>

メキシコの地図パレンケからチカンナ
筆写作成

途中のドライブインで休憩。ハマイカという飲み物を試した。ハイビスカスのお茶に色々混ぜた飲み物で健康にいいという。

<メキシコ、ユカタン半島の旅、ハマイカという飲み物>

メキシコ
筆者撮影

 

チカンナ・エコ・ロッジ

ここもジャングルの中に作られていて2階建てのバンガロータイプで自然の中にいる爽快さがうれしい。

<メキシコ、ユカタン半島チカンナエコロッジ>

メキシコ、ユカタン半島、チカンナ・エコエコロッジ
筆者撮影

<メキシコ、ユカタン半島・チカンナ・エコロッジ>

メキシコユカタン半島、チカンナ・エコロッジ
筆者撮影

お部屋はシンプルだが快適でした。バスルームはシャワーのみ、置いてある物はエコロジーな感じ。

<メキシコユカタン半島・チカンナ・エコロッジ>

メキシコ、ユカタン半島、エコロッジ
筆者撮影

<メキシコユカタン半島・チカンナ・エコロッジ>

メキシコユカタン半島、チカンナ・エコ・ロッジ
筆者撮影

ジャングルの中で周りに何もないのでロッジの中に一軒だけあるレストランで夕食。お食事は期待していなかったけど美味しかった。

<メキシコユカタン半島・チカンナエコロッジ>

メキシコユカタン半島、チカンナ・エコ・ロッジ
筆者撮影

サラダと海老の煮込み、ジャングルの中でこんなに美味しい物を頂けるとは思っていなかった。

<メキシコユカタン半島・チカンナ・エコロッジ>

メキシコユカタン半島、チカンナ・エコ・ロッジ
筆者撮影

6日目チカンナ連泊ーバランク遺跡、チカンナ遺跡、べカン遺跡


朝食は7時から、いつも朝食は一番に行くので誰もいないのだが今日は既に待っている人たちがいた。早い出発の人たちはどこまでいくんだろう。

<チカンナ・エコロッジ朝食>

メキシコユカタン半島、チカンナ・エコ・ロッジ
筆者撮影

ヨーロッパ人のツアーなのか家族旅行なのか15人くらいのグループがいた。朝食は毎日パパイヤなど果物が豊富で美味しい。

<チカンナ・エコロッジ・朝食>

メキシコユカタン半島、チカンナ・エコ・ロッジ
筆者撮影

今日は小さな3つの遺跡バラムク遺跡、チカンナ遺跡、ベカン遺跡を回る。

バラムク遺跡

バラムクはマヤ後でジャガーの家を表すという。

<メキシコ、ユカタン半島バランク遺跡>

メキシコユカタン半島、バランク遺跡
筆者撮影

この遺跡が有名になったのは1990年に発見された漆喰彫刻。マヤの中でも最も綺麗に保存されている物という。

<メキシコユカタン半島、バランク遺跡>

メキシコユカタン半島、
筆者撮影

<メキシコユカタン半島、バランク遺跡>

メキシコユカタン半島、べカン遺跡
筆者撮影

<メキシコユカタン半島、バランク遺跡>

メキシコユカタン半島、べカン遺跡
筆者撮影

 

チカンナ遺跡

蛇の口の家という意味だそう。小さな遺跡だった。

<メキシコユカタン半島、チカンナ遺跡>

メキシコユカタン半島、チカンナ遺跡
筆写撮影

入り口からジャングルの中をしばらく歩いていく。

<メキシコユカタン半島、チカンナ遺跡>

メキシコユカタン半島、チカンナ遺跡
筆者撮影

写真下はリオ・ベック様式の壁面装飾。雨の神チャックがいる。

<メキシコユカタン半島、チカンナ遺跡>

メキシコユカタン半島、チカンナ遺跡
筆者撮影

写真下は蛇が大きく口を開けているようなデザインの宮殿。

<メキシコユカタン半島、チカンナ遺跡>

メキシコユカタン半島、チカンナ遺跡
筆者撮影

 

ベカン遺跡

<メキシコユカタン半島、べカン遺跡>

メキシコユカタン半島、べカン遺跡
筆者撮影

べカンはカラクムルの衛星都市だった。規模の大きいピラミッドがいくつかあるが小さな遺跡だ。

ここは周りに掘りがあり他に例がない。最初の頃は防衛の為と思われていたが現在では雨季の水の氾濫をコントロールする治水の為と考えられている。

 

<メキシコユカタン半島、べカン遺跡>

メキシコユカタン半島、べカン遺跡
筆者撮影

しばらくジャングルを歩いていくと建造物が見えてくる。ここの建造物の特徴はリオベック様式。

<メキシコユカタン半島、べカン遺跡>

メキシコユカタン半島、べカン遺跡
筆者撮影

7日目チカンナ〜カラクムル遺跡〜バカラルへ


昨日いたヨーロッパ人のグループは出発してしまったのか今日は静かな中の朝食。やっぱりパパイヤをいただきます。

<メキシコユカタン半島・チカンナエコロッジ>

メキシコユカタン半島、チカンナ・エコ・ロッジ
筆者撮影

 

カラクムル遺跡があるジャングルの保護地区まで車で15分、そこからまだ30分ほど車で移動して遺跡の入り口。

<メキシコ・ユカタン半島・からクムル遺跡>

メキシコユカタン半島、カラクムル遺跡
筆者撮影

まだそこから30分ほど歩いてやっと遺跡が見えてきた。

チューインガムの会社がガムの木を探していてたまたま見つけたらしいがジャングルの中に巨大都市空間。いまだに発掘されているのはほんの一部だけだ。

<メキシコ・ユカタン半島・カラクムル遺跡>

メキシコユカタン半島、カラクムル遺跡
筆者撮影

ピラミッドに登ると遠くまでジャングルが見渡せて向こうにピラミッドが見える。この中にジャガーが4000頭くらい生息するらしい。

<メキシコユカタン半島・カラクムル遺跡>

メキシコユカタン半島、カラクムル遺跡
筆者撮影

ジャングルに飲み込まれている遺跡や埋もれたピラミッドがあちらこちらにある。遺跡のマヤ文字や彫刻が削り取られていて痛々しい。

<メキシコユカタン半島・カラクムル遺跡>

メキシコユカタン半島、カラクムル遺跡
筆者撮影

遺跡のすぐ外のホテルでランチ。建物がマヤの民家風で素敵だった。

<メキシコユカタン半島・カラクムル遺跡>

メキシコユカタン半島、カラクムル遺跡
筆者撮影

カラクムルからバカラルは241キロ、車で3時間50分。

 

バカラル到着。このキンタナロー州は時差が1時間、途中で時計を進めた。

バカラルのホテルMBH MAYA

バカラルの街から数キロ離れたところにある新しいホテル。湖の前にあって建物は3カ所に分かれていた。レセプシオンは掘立小屋で館内電話はなく用事があったら携帯からかけてきてくださいといわれちょっとびっくりした。

<メキシコユカタン半島、バカラルのホテルMBH MAYA>

メキシコユカタン半島、バカラル
筆者撮影

綺麗な湖の前、湖の色が変わっていくのがお部屋から見えた。

<メキシコユカタン半島・バカラルのホテルMBH MAYA>

メキシコユカタン半島、バカラル
筆者撮影

<メキシコユカタン半島・バカラルのホテル MBH マヤ>

メキシコユカタン半島
筆者撮影

お部屋は湖の前に面していて建物が3つに分かれていた。ここものんびり長期滞在すると良さがもっとわかるだろうなあ〜。建物の最上階にジャグージの設備とバーがあった。

<メキシコユカタン半島・バカラルホテル MBH MAYA>

バカラルのホテル
筆者撮影

 

ホテル近くには何もないというか歩いてはとてもどこにも行けないのでホテルのレストランで。別棟の小さな小屋のテラス席のレストラン。英国人風の家族が食事をしていた。

<メキシコユカタン半島、バカラルのホテルMBH MAYA>

メキシコユカタン半島、バカラル
筆者撮影

 

7日目バカラル〜トゥルム遺跡〜コバ遺跡〜バジャドリ


朝食は昨日の同じ敷地内の小屋レストラン。

<メキシコユカタン半島、バカラルのホテル>

丁寧に果物をカットして出してくれました。ホテルの人たちみんなとっても感じよかった。

 

今日はトゥルム遺跡とコバ遺跡の見学。トゥルム遺跡はバカラルから200キロほど北へ、車で2時間20分ほど。

メキシコユカタン半島地図
筆写作成

珍しく海の近くにある遺跡だ。海を久しぶりに見た、カリブ海。カンクンに近いこともあってビーチ客で賑わっていた。マヤ文明末期に栄えた都市。

<メキシコユカタン半島、トゥルム遺跡>

後に行くコバ遺跡の主要な港として用いられた。遺跡の横で海に入れるようでビーチに沢山人がいた。

<メキシコユカタン半島・トゥルム遺跡>

トゥルム遺跡からコバ遺跡は47キロ約40分。

メキシコユカタン半島地図
筆写作成

 

<メキシコユカタン半島・コバ遺跡>

コバは600年から900年頃栄えた都市。写真下h42メートルあるピラミッド

<メキシコユカタン半島、コバ遺跡>

コバ遺跡
筆写撮影

遺跡の面積は非常に大きいようだが開放されているのはほんの一部。内部はレンタサイクルや自転車の人力車で観光できる。

 

<メキシコユカタン半島・コバ遺跡>

 

コバから今日の宿泊地バジャドリへは60キロ、車で50分。

メキシコユカタン半島地図
筆写作成

バジャドリのホテルColonteコロンテ


バジャドリで宿泊したホテル・コロンテは外から見たら民家のような建物。今もユカタン半島の村にある藁葺きの家のような外観で建築家を含む仲間で始めたホテルだという。

<メキシコユカタン半島・バジャドリのホテルコロンテ>

お部屋は質素ですがとてもセンスが良く小さなお庭がついていた。虫がいそうで外には出なかったが。

<メキシコユカタン半島・バジャドリのホテルコロンテ>

内装も木が沢山使われていて日本の古い家屋にいるような安心感。

<メキシコユカタン半島・バジャドリのホテルコロンテ>

部屋の中にハンモックがかけてあったので広げてみた。ゆかたんの人は家でもハンモックで寝るという。

<メキシコユカタン半島・バジャドリのホテルコロンテ>

今日は12月31日、意外と街のレストランも普通に営業しているところがあったが私たちはホテルのレストランで夕食にした。

 

9日目バジャドリ〜チチェンイツァ〜メリダ


朝、バジャドリの街を少しお散歩。中心部はコロニアル調=スペイン人が入植してきた時に故郷のような街を作った感じでヨーロッパ的。

<メキシコユカタン半島・バジャドリの街並>

教会は閉まっていて入れなかった、1月1日なので初詣でもできたらなあと思ったが叶わず。

<メキシコユカタン半島・バジャドリの街並>

ホテルの朝食は果物と卵や野菜、質素だったが丁寧で美味しかった。

<メキシコユカタン半島、バジャドリのホテル・コロンテ>

バジャドリのホテルコロンテ
筆者撮影

バジャドリからチチェンイツァへ

バジャドリからチチェンイツァは42キロ車で45分の距離。

メキシコユカタン半島地図
筆写作成

途中セノーテへ、洞窟の中の透明な水が綺麗だった。泳げるらしくすでにカップルが泳いでいた。冷たいのかな?

この辺りはセノーテが沢山ありセノーテ同士も繋がっていたりするみたいだ。

マヤ文明は大河のないところにできた珍しい古代文明と言われるがセノーテが大河の代わりをしていたのかもしれない。

<セノーテ>

チチェンイツァもカンクンから来れるので人気のある遺跡だ。詳しくは様々なところに書かれているので省略。そのうちマヤの遺跡や文明の詳しいページを作りたいと思う日々。

<メキシコユカタン半島・チチェンイツァ遺跡>

メリダ、ホテル・ハイアットリージェンシー

メリダの北部、アメリカンスタイルのホテルやショッピングセンターが近くにあり便利で環境がいいところだった。

<メキシコユカタン半島・メリダ、ホテル・ハイアットリージェンシー>

ロビーも広々していて快適なホテルでした。

<メキシコユカタン半島、ホテル・ハイアットリージェンシー>

<メキシコユカタン半島、メリダ、ホテル・ハイアットリージェンシー>

メリダ、ホテル・ハイアットリージェンシー
筆者撮影

充電関係も枕元にUSBがあって申し分なし。

10日目メリダ連泊 ウシュマル遺跡


久しぶりに大きな街に宿泊、ホテルもアメリカンで大きなハイアットリージェンシーなので朝食もしっかりビュッフェです。これだけ大きなホテルでも両替はやっていませんと言われた。ホテルの迎えに両替屋があったので明日行ってみよう。

<メリダ、ハイアットリージェンシーホテル朝食>

メリダ、ハイアットリージェンシー朝食
筆者撮影

インターナショナルな物以外にメキシコ料理も日替わりで数種類あった。

<メリダ、ハイアットリージェンシーホテル朝食>

メリダ、ハイアットリージェンシー朝食
筆者撮影

果物も豊富だったけれど今までに比べると固かったり熟してなかったりで残念。

<メリダ、ハイアットリージェンシーホテル朝食>

メリダ、ハイアットリージェンシー朝食
筆者撮影

今日は日帰りでカバー遺跡とウシュマル遺跡へ。

カバー遺跡は小さな遺跡であまり人がいなくて空気が荒れていないというかとても良かった。カバーは後に行くウシュマルと主従関係にあったという。

水が少ないところなので水の神チャックの彫刻が壁中に施されていた。

<メキシコユカタン半島、カバー遺跡>

メキシコユカタン半島、カバー遺跡
筆者撮影

 

 

チャックの後ろに人物像。おそらくここの王や支配者かも。独特の手の形でまるで宇宙船を操縦しているようだとも言われているらしい。カバーはマヤ語で強い手の男。

<メキシコユカタン半島、カバー遺跡>

メキシコユカタン半島、カバー遺跡
筆者撮影

ウシュマル遺跡へ

ウシュマルは700年頃から1100年頃に栄えた。文字が残されていない為あまりよくわかっていない。

写真下は魔法使いのピラミッド。遺跡に入るとまず目に入る巨大なピラミッドだ。今まで見てきたピラミッドと形が全く違って曲線がエレガントだ。実はこれは後ろ姿。

<メキシコユカタン半島、ウシュマル遺跡>

正面の方に回るとチャック、雨の神が沢山彫刻されている。雨の少ないところなので大切にされたのかもしれない。

<メキシコユカタン半島、ウシュマル遺跡>

鳥の彫刻が珍しい。後で亀も出てきた。

<メキシコユカタン半島、ウシュマル遺跡>

メキシコユカタン半島、ウシュマル遺跡
筆写撮影

11日目メリダ〜メキシコシティー


メリダの市内から空港は車で15分ほどの距離。空港は思ったよりは立派でお店やカフェなどが沢山。

<メキシコ・ユカタン半島・メリダの空港>

<メキシコシティー・

 

フリーダカロ美術館

食事の後はコヨアカン地区でフリーダカロ美術館へ。フリーダが生まれて生活をしてここで生涯を終えた家がフリーダカロ美術館になっている。

<メキシコシティー・フリーダカロ美術館>

筆者撮影

初期の作品やフリーダの子供の頃の写真、部屋や道具、衣装や寝室などが展示されていた。ここでフリーダは病気になったり夫に裏切られたり立ち直ったりした。

<メキシコシティー、フリーダカロ美術館>

フリーダカロの実際に使っていた道具が並ぶアトリエ。

<メキシコシティー、フリーダカロ美術館>

メキシコシティー、フリーダカロ美術館
筆者撮影

ディエゴリベラの壁画館

ディエゴリベラのアラメダ公演の日曜の午後の夢という作品。もともとこの作品はホテルのロビーに描かれていたものだが1985年の地震でホテルが壊れ壁画だけを守るためにここへ展示場を作り移動させた。

<メキシコシティー、リベラの壁画>

巨大な作品のなかにメキシコの著名人たちが登場しリベラやフリーダカロ、シケイロスなどが登場する。

<メキシコシティー、リベラの壁画>

 

リベラの壁画博物館近くでは地元のセニョールたちがチェスをうっていた。この辺の名物らしい。穏やかな雰囲気の中でセニョールたちも話しかけてきたり写真を撮らせてくれたりしてしばらく交流したいムードだった。

あっちでもこっちでもチェスを打っている、人だかりができているところは接戦なのか友達なのか。

ホテルへ移動

夕刻、初日に宿泊したシェラトンホテルに移動して夜まで休憩。ほんの数時間だけれどもシャワーを浴びてベッドで休みます。

初日に食事をしたレストランに戻ったら同じスタッフがいて何だか嬉しかった。帰ってきたっていうか居場所があるって嬉しいものだ。

<メキシコシティーシェラトンホテル、レストラン>

夜中のANAのフライトに合わせて空港へ行きチェックイン。ANAはフライトは夜中の01時出発で空港に22時頃に移動。空港まで行けばANAの日本人スタッフがアテンドしてくれここからもう日本です。

その後私は再び空港のヒルトンホテルへ移動して休みます。

朝はホテルで朝食後空港へ、徒歩で移動できるのはありがたい。イベリア航空のチェックインをしてマドリードへ。

 

チェックインの時に初日に返却された書類が搭乗券に付けられて保安検査でチェックを受けるのみ。出国は至って簡単でびっくり。

飛行機が出発してから高い山が見えてきた。メキシコシティー近くに5000メートル級の山があると聞いていた。雪が積もっているみたい。

大西洋を再び超えてスペインへ帰っていきます。

 

メキシコとユカタン半島のマヤ遺跡の旅のまとめ


実はこの記事を書け上げるのにほぼ1ヶ月かかった。マヤの遺跡は不明なところが多く調べようと思うと深みに入ってしまい最後にもうやめようかと思ったが自分の忘備録になるので書き上げることにした。一度に沢山見たので記憶があやふやな部分もかなりあり是非もう一度ゆっくりいきたいなと思うこの頃。

スペインのクリスマス時期のお店やレストラン情報と過ごし方。意外と注意は12月24日の夜。

 

 

年末年始のお休みを利用してクリスマス時期にスペインを訪れる方も多いと思う。スペインのクリスマスは12月24日から1月6日まで続きお店や商店やレストランが閉まってしまう日がある。旅行に来る方は観光やお食事にショッピング注意が必要。

スペイン・クリスマス時期の祝日扱いの日や注意事項とイベント


クリスマスシーズン注意事項箇条書き

*12月24日はカレンダー上は平日ですが店は早く閉まり飲食店も夕食は開け無い所がある。マドリードは20時頃からタクシーも少なくなりメトロは22時までで終了。地方都市はタクシーは無いと思った方がいい。

*12月25日と1月1日はモニュメントと商店は休み。飲食店はマドリードは少しは開く。

*12月25日と1月1日にマドリードにいるならトレドやセゴビアへ行くのはひとつの方法。バスは動いているので時刻や行き方を調べておく。又は日本のオペレーターの会社のバスツアーに問い合わせる。

*12月31日カウントダウンには赤い下着を付けてブドウを食べる事!(作法は記事に書いてあります)

*1月6日も祝日でお店やモニュメントは休み。

*クリスマスのイルミネーションはスペイン全土で11月最後の週末から1月6日まで楽しめる。


12月6日祝日

この日はクリスマスとは関係なくスペインの憲法記念日にあたる日。12月8日も祝日なので7日を休みにして連休にする人が多く前日の午後から町から外へ出る主要幹線道路が混む。マドリードの中心部=セントロとサラマンカ地区の商店は営業する。

12月8日聖母の無原罪の御宿りの祝日

聖母マリアの無原罪の御宿りを祝う日で全国祝日。6日の憲法記念日と合わせて連休にする人が多い。各教会でミサが行われる。マドリードの中心部=セントロとサラマンカ地区の商店は営業する。

12月初旬の日曜日毎年恒例サンタのマラソン

マドリードでは毎年12月初旬の日曜日にクスマス恒例のサンタクロースのマラソンがある。朝9時にプラド美術館の前のムリーリョの広場から出発ネプチューンの広場シベーレスからコロン広場を北上してプラド美術館まで(コースは毎年多少変わります)全員サンタクロースの恰好をして走るので時間が上手く会えば見るのは楽しいと思います。

 

12月22日は宝くじの発表

スペインのクリスマスの宝くじは毎年12月22日に発表される。朝9時から全国テレビ放映される。沢山の当選者数で世界一の当選金額を誇る宝くじ発表の日。抽選会はテレビでも放映される。⇚嬉しくて泣きながらシャンパンを仲間と飲んでいる無邪気なスペイン人たちを見て楽しめます。

**注意は12月24日の夜**

カレンダー上は平日だが夜から閉める店が多い。スペイン人にとって12月24日の夕食は家族と過ごす一番大切な日で殆どの店舗が早めに閉め(20時頃)レストランも夕食は開けない所が多い。

*2019年マドリードのサンミゲール市場は10時から19時までと公式発表。19時までという意味は19時には従業員は帰るという意味です。めちゃ混むこと間違いなし。

*マヨール広場近くのマッシュルーム屋なども昼間は開いているが夜は早めに終了。

*マドリードの各広場でやっているクリスマスの露店も15時位で終了する。

*プラド美術館は10時から14時まで。

*ソフィア王妃芸術センターは休み。

*他の地方都市はまず全部閉まると思っておいた方がいい。ホテルにバルやレストランが付いていたら何時まで開いているかをあらかじめチェックしましょう。

*中国人はクリスマスは関係ないので営業する。どこも無ければ夕食は中華を探すべし!

*新幹線や飛行機も30分位は早めに到着します。⇚パイロットも早く帰りたい。

*路線バスやメトロも早く終了します。⇚従業員は家族が大事。

予定している様々なモニュメントの開閉情報を調べておくといいでしょう。

クリスマス・イブとクリスマスの当日は教会でミサがある

クリスマスの時期は教会で様々なミサが行われる。泊まっているところの近くに教会があったら是非のぞいてみましょう。

スペイン人は正装して教会に行くので少しはきれいにして行く方が好ましいでしょう。クリスマスのミサは約1時間くらい。

*後ろの方にいて邪魔にならないように途中で出ても大丈夫。

*ミサの間はみんなが立ったら立ってみんなが座ったら座る。最後に周りの人と握手して献金が回って来るので小銭を入れます。

*聖体拝領(白い丸いパンを口に入れる)は洗礼を受けた人だけなので興味本位で行くのは遠慮しましょう。

 

12月25日は祝日

クリスマスの当日はカレンダー上祝日です。商店もモニュメントも休みになるので注意です。レストランは意外と開いているところがありマドリード・サンミゲール市場は2019年は12時から24時と公式発表。お昼頃から多少開ける飲食店が有るが地方都市は閉まっているところが多い。

*マドリードの中心部もこの日は休みで全ての商店と美術館や博物館は閉まります。

*タクシーは少なくなるが走っている。鉄道や飛行機、バスなども早く終了する。

*レストランによってはクリスマス特別ディナーをやっているところある。

*サンミゲール市場は2019年12時から24時営業、すぐ横のマヨール広場界隈も開けている飲食店やお土産物屋がある。

12月26日(注意・州によって違う)

マドリード、アンダルシアなど殆どの州でこの日は平日になりますがカタルーニャ州(バルセロナが有る州)等は祝日です。カタルーニャ州で飲食店は営業するところがかなりありますが一般商店は閉まります。

12月30日

マドリードでは31日のカウントダウンの練習がある。

この10年位本番に失敗が無いようにPreuvas=プレウバスといって本番の練習をする。

2019年は12月30日の昼の12時と夜の0時にプエルタデルソルで鐘を鳴らして練習があると発表がありました。

12月31日

プラド美術館は10時から14時

ソフィア王妃芸術センターは休み

マドリード、サンミゲール市場は2019年10時から19時営業と公式発表。

マドリードのカウントダウンは夜中の12時に12個の鐘をききながら12個のブドウを食べる。

カウントダウンが行われるのはマドリードはソル広場=Puerta del Sol

メトロのソルの駅は21時から安全上閉鎖されるので近くの駅から歩くことになる。マドリードのメトロは夜中まで運行。ホテルをソル近くに取ると混み過ぎて帰れなかったりうるさくて眠れなかったりすると思います。

*このところのヨーロッパで起こったテロの警戒で警察が沢山出ています。大きなリュックやガラス瓶やナイフなどは持って行けません。一旦21時にソルから外へ出されて改めて入場になります。

ソル広場の時計台の鐘が12個なるのを聞きながらぶどうを12個食べるのが習慣で12月なるとスーパーマーケットでぶどうを売っている。レストランで食事をしたら12個のぶどうをプレゼントしてくれる。各テレビ局でソル広場が映され各家庭でもテレビを見ながらぶどうを食べる。

タブラオや有名レストラン、ホテルはガラディナー

フラメンコのタブラオやレストラン、ホテルなどは大みそかの特別ガラディナーを準備している。特別料金になるのは間違いないがそれなりに楽しめるので宿泊するホテルや行きたいタブラオの公式ページから調べて予約をしておくのも良い。

*高級ホテルなどはドレスコードが有るので注意。

*フラメンコのタブラオもヨーロッパ人はかなりグレードの高い服装で来る。

12個のブドウを食べるときの注意と作法

*皮をむいて種を取って準備しておいて大丈夫。

*最近は12個入りの缶詰とかも売っている。

*ソル広場にいたら鐘は絶対聞こえない。

*最初に3個のゴ~ンゴ~ンゴ~ンは準備の音なのでここで食べ始めない。

*シャンパングラスにいつも使っている指輪などを入れておく。

*ブドウを食べる間右足を前に出すが足を交差はさせてはいけない。

*赤い下着を身に着けておく。この時期下着売り場などで売られている。

*一番大事なのは願い事をするのを忘れない事。

1月1日

祝日で商店、デパート、美術館等のモニュメントは全てお休みです。

マドリードは飲食店は午後から少しは開く。

見つからなければやはり中華を探す。

サンミゲール市場は2020年1月1日12時から24時営業と公式発表。それ以外のお店は不明ですがマドリードは多少開くが地方都市はほぼ開いていないと思います。

1月1日のみ祝日で2日からは平日になります。

トレドやセゴビアに行くのもいいでしょう。路線バスは動くのでモニュメントはしまっていても街全体が素敵なのでそれなりに楽しめる。

1月5日の夜は大きなパレード

平日で通常通りですが夜に大きなパレードがある。

 

スペインのクリスマスは年明けの1月6日まで続きます。東方の三賢者がイエスキリストの誕生をお祝いしにベツレヘムの馬小屋にプレゼントを持って着いた日が1月6日。スペイン語ではEl dia de Reyes Magosと言ってスペイン人にクリスマスプレゼントを持ってくるのは東方の三賢者たち。1月5日の夜には大きなイベントが各地で行われ東方の三賢者のパレードが有る。必ずテレビでも放送されます。

マドリードのパレードのコースは毎年ヌエボス・ミニステリオからシベーレス広場まで。18時半に出発して20時頃にシベーレス広場へ次々到着し歌や踊りなどのある大きなイベントで子供連れでスペイン人たちは楽しみに行く。これもテレビでも放映される。多分日本の皆さんが想像している「パレード」よりずっと盛大で豪華です。無料でこれを市民に提供できるのが凄い事だと毎年感心します。

マドリード以外の各都市でもパレードが行われるので宿泊地で確認すると良い。

最後にプレゼントを買う人の為に中心部のデパートは23時までオープン。

1月6日は祝日

この日の夜中でクリスマスは終了しイルミネーションもこの日までとなります。祝日でデパートや商店や美術館博物館は休み。飲食店は営業します。家族で食事に来るスペイン人たちでどこもレストランはいっぱいになります。

「年末年始、クリスマス時期にマドリードにいる人へ」イルミネーションを徒歩と路線バスで楽しむルートを考えた

マドリードのイルミネーションを動画で紹介しています。参考にどうぞ〜

まとめ

日本と違ってかなり宗教色の強いクリスマスです。というか本来のクリスマスですね。12月24日の夜と12月25日、1月1日は全てお休みなのであらかじ考慮して楽しく過ごしてください。

スペイン語でメリークリスマスはFeliz Navidad 「フェリース・ナビダー」と出会った人には声をかけてみてください。お店でもホテルのチェックインの時でもレストランでもみんなに使えます!1月6日まで使える挨拶です。

年末年始はスリが増えるので注意しましょう。

では Feliz Navidad~

「年末年始、クリスマス時期にマドリードにいる人へ」イルミネーションを徒歩と路線バスで楽しむルートを考えた

スペインはカトリックの国なので一年の一番大切な行事はクリスマスになる。イルミネーションは11月最後の週末から翌年の1月6日の夜中までスペイン中の街で飾られ華やかになる。折角この時期にマドリードにいるあなたの為にイルミネーションを徒歩と路線バスを使って楽しむコースを考えてみた。

マドリードのイルミネーションツアー


実はナビルッスというイルミネーションバスがある

実はマドリード市がやっているイルミネーション専用のオープンバスが街を走る。11月29日から1月6日まで市内の綺麗なところを走るイルミネーションバスNAVILUZナビルッス。EMTというマドリードの市バスがやっていて値段も大人4€、65歳以上と7歳から11歳は2€

切符はネット販売のみ

下はナビルッスの公式ページ。参考にしてください。スペイン語と英語があります。

https://naviluz.emtmadrid.es/es/

ナビルッスバス
筆者撮影

2019年12月今のところまだ日によっては残席があるが今日はこの時期スペイン・マドリードにいるあなたの為に徒歩と路線バスで綺麗なところを廻るコースを紹介します。

イルミネーションの主な場所

商店街が多い所にマドリードのクリスマス・イルミネーションは集中していて主に以下の2か所。

*中心部のプエルタ・デル・ソルからグランビアに抜ける道、マヨール通り、グランビア通りとその界隈

*サラマンカ地区のセラーノ通りとベラスケス通り、ゴヤ通り

2018年クリスマス・イルミネーションの期間と時間

11月23日から1月6日

*日曜日から水曜日:18時から23時

*木曜日から土曜日と祝日の前日:18時から00時

*12月25日、1月1日、1月6日:18時から0時

*12月24日、1月5日:18時から03時

*12月31日:18時から06時

 

マドリード路線バスの乗り方

綺麗なところで何回か乗ったり降りたりするなら一日のツーリストパスを購入して昼間から乗り倒す。このコースで行けば2回のバス代だけで充分楽しめるので毎回ひとり1.5€払うかICカード既に持っていれば10回券回数券か1人なら2回券を入れておきドライバーの横の機械にタッチする。10回券回数券で複数人でも使えるのでお得です。

*ICカードはマドリード地下鉄の駅で購入。何度か乗るつもりなら10回券がお得です。

*バスが来たら手を挙げて乗りたい意思表示。

*バス停に列はないがスペイン人達は何となく自分は誰の後ろにいて誰の前にいると把握している。高齢者や弱い人には先に行かせる等の暗黙の了解で何となく流れる。

*前から乗って後ろから降りる。乗る時にドライバーに支払いをするが紙幣は5€以下のみなのであらかじめ準備しておく。2人ならドス3人ならトレスと言ってまとめ払いも大丈夫。(まず挨拶オラ~を忘れず)

*マドリード地下鉄のICカードを持っている場合はドライバーのすぐ横に有るこの機械にカードをタッチ。2人なら2度ピッピッとやるけどユックリね、ここはスペイン。ブルーの明るい画面の下の楕円の部分にタッチです。

マドリードバスの機械
筆者撮影

*現金で払うと紙の切符をくれる。降りるまで失くさない事。時々抜き打ち検査があり持っていないと無賃乗車とみなされ罰金。

*降りる前にボタンを押してここで降りたい意思表示をする。慣れない街で分からなくて降りそびれても一駅位歩いて戻ればなんとかなるので恐れず乗りましょう。

*乗っている住民に声をかけて教えてもらえば大抵周りの人みんなで「ここだ~」とか「未だだ~」とか「次だ~」とか言って助けてくれる。

 

ではソルから暫くは徒歩コース

ここはプエルタ・デル・ソル、通称ソル広場と呼ぶ。スペイン語では「SOL」日本語では「太陽の門広場」と言いスペインのゼロキロ地点になっている。メトロの1号線2号線3号線と鉄道の近郊線が通っているのでソル広場から始める事にする。

凄い人なのでスリに注意

ソル広場
筆者撮影

ここからマヨール広場までは歩いて5分。右側赤いのが時計台(皆さん行くときは赤くないと思う)時計台を背にして左に歩いていくとマックが有る。(最後にマヨール広場に戻りバルへ行く予定なら次の項目<ソルからカジャオ広場へ>のに進んでください)

目印のマック
筆者撮影

マックから斜めに伸びている道を歩いていく。通りの名前はポスタス通り。昔郵便を積んだ郵便馬車が通った道だ。真っ直ぐマヨール通りを歩いても良いので行きと帰り違う道を通るといいですね~

ポスタス通り
筆者撮影

少し歩くとこんなイルミネーションで左右にお店が続く。

マヨール広場へ
筆者撮影


まずはマヨール広場へ。毎年イルミネーションは違ったものになり2018年はなんだか地味でいつもより少し寂しいです。

マヨール広場イルミネーション
筆者撮影

 

クリスマスのマヨール広場はクリスマス・マーケットが出ている。ドイツやベルギーに比べるとちょっとショボいですがそれなりに楽しい。スペインのクリスマスはベレン人形というイエス・キリストの誕生の場面の人形を飾るので殆どの店舗でベレン人形が置かれている。この辺りはスリが結構いるので気をつけて~。

マヨール広場のクリスマスマーケット
筆者撮影

ソルからカジャオ広場へ徒歩

再びソル広場に戻りグランビアに向かう道に向かいます。建物の上にTIO PEPEの看板がある左側の道プレシアードス通りをカジャオ広場に向けて歩きます。

*この道はクリスマス期大変混むので18時から22時までは一方通行です。プレシアードスはソルからカジャオ広場向き、隣のカルメン通りはカジャオ広場からソルへ向けての一方通行。

ソル広場
筆者撮影


カジャオ広場迄プレシアードス通りを歩いてグランビアに出たら右へ少し歩く。グランビアの今年のイルミネーションは星空を掴む猫。

グランビアイルミネーション
筆者撮影

グランビアのバス停から1番か74番のバス

グランビアを少し右に向かって歩くとバス停。

今日は1番が74番のバスを使います。この2つのバスはグランビア通りを端から端まで走るのでグランビアの他の所からでも乗ることが出来る。バス停に乗りたいバスの番号が有るのを確認して待ちましょう。

グランビア・カジャオのバス停

グランビア、クリスマス、イルミネーション
筆者撮影

目印は向かい側にTOUSの路面店

グランビアのバス停
筆者撮影

バスはグランビアを走りシベーレス広場を通過します。

 

シベーレスCiberes広場はレアルマドリードが優勝したらお祝いする広場でマドリードの象徴になっている。広場の真ん中に豊穣の女神像。

シベーレス広場イルミネーション
筆者撮影

シベーレス広場からアルカラ門を通り

アルカラ門、イルミネーション
筆者撮影

バスはベラスケス通りを北上します。

ベラスケス通り、イルミネーション
筆者撮影

バスの中のテレビ画面にバス停と天気予報が交互に表示される。次はベラスケスとオルテガ・イ・ガセットと表示される。「降ります」の意思表示でボタンを押すと次止まりますマークがつく。

バスの表示
筆者撮影

 

オルテガ・イ・ガセットとベラスケスの交差点で降りるとベラスケス通りを向こう側へ渡って行く。写真はベラスケス通りのイルミネーション。道を渡ってオルテガ・イ・ガセット通りをセラーノ通りまで歩きます。

ベラスケス通り、イルミネーションん
筆者撮影

オルテガ・イ・ガセット通りは高級ブランド店が並ぶ。今年は何故かイルミネーション地味でした。ゴヤ通りで降りてもいいかも・・・ですが

オルテガ通りイルミネーション
筆者撮影

5分くらい歩くと大きな通りと交差するのがセラーノ通り。地元のデパートのイルミネーションが見えたらデパート側へ渡る。

デパートは22時まで他のお店も20時30とか21時まで開いていますのでお買い物を楽しんでも良いですね~

セラーノ通りイルミネーション
筆者撮影

道を渡って左にデパートの前を少し歩くとバス停がある。

セラーノ通りのバス停
筆者撮影

1番か74番に乗り再びグランビア通りに戻ります。

セラーノ通りバス停
筆者撮影

セラーノ通りのイルミネーションはこんな感じです。

セラーノ通りイルミネーション
筆者撮影

このバスはセラーノを下りアルカラ門を通過してシベーレス広場からグランビア・カジャオ更にスペイン広場を通過します。またカジャオ広場で降りてマヨール方面のバル街へ戻ってもいいし気に入ったところでイルミネーションを楽しんでも良い。まだお店が開いていればショッピングも良いですね~素敵な夜を~

イルミネーションは毎年11月の最後の週末に始まり1月6日の夜中までです。

*1月5日は夜18時頃から大きなパレードがヌエボス・ミニステリオからシベーレスに向かってあるのでバスのルートが変わります。

*年末はスリなどが特に増えるので特に注意して楽しんで下さい。

年末年始は意外な日にレストランが閉まったり美術館が休みだったりしますのでその情報をまとめてみました。

スペインのクリスマス時期のお店やレストラン情報と過ごし方。意外と注意は12月24日の夜。

 

バスとメトロは同じICカードで乗れます。購入の仕方の記事です。マドリードのメトロと路線バスは同じICカードが使えます。

マドリードの地下鉄(メトロ)乗り方や切符の買い方。(注意)2018年ICカード導入で紙の切符は無くなりました

印象派って何?を簡単に説明してみた

印象派の絵は人気がある、モネやゴッホやルノワールやゴーギャン、どれもうっとり幸せな気分にしてくれる優しい絵画たちだ。印象派の絵は日本だけでなくアメリカやヨーロッパでも大変人気があるジャンルなのです。このページでは「印象派とは何?」を簡単にわかりやすく解説してみる事にした。

印象派


まずは印象派って?

印象派は19世紀後半にフランスで画家達が集まって始めた新しい芸術運動。光の変化や空気の色などを画家各自の「印象」を通して描いた。それまでの伝統的な美術界に革新をもたらした。と言うあたりが一番簡単な説明。

印象派の特徴は?

時間による光の変化を描こうとした。

写真に出来ない風景を描こうとした。

戸外での作成を始めた。

風景や農民や普通の人や街並みを描いた。

短い筆のストロークや重ね合わせた色を使った。

日本の浮世絵に影響を受けた。

では印象派についてもう少し


実は風景画はヨーロッパでは高尚なジャンルでは無かった

美術の世界は保守的で権威的だ。長い間ヨーロッパで画家達は聖書や神話や王様を描いていた。

ヨーロッパ各地にアカデミーが作られ、フランスではフランス王立アカデミーが権威を持っていた。古典や宗教画又は国王の肖像画などの分野のみが「アカデミーな世界」で「高尚な絵画」として認められていた。

風景画は「高尚な絵画」のジャンルには無かったのだ。長い西洋絵画の歴史の中で「綺麗な風景画を見てうっとり」して「素敵ね~」「この絵好きだわ~」というのはつい最近になってからの絵の楽しみ方なのです。

本来画家は「サロン」に絵を出展した

伝統的で権威的な美術の世界で絵画はサロンに出展するものだった。サロンは部屋と言う意味のフランス語。

サロンの歴史は古くルイ14世の時代に始まった。フランスの王族が芸術家たちを保護して宮殿等を装飾させるために創った組織。更にそのメンバーが若いアーティストを育てる組織がアカデミー=国立美術学校になった。

アカデミーの学生達が自分の作品をパリのベルサイユ宮殿のサロン・カレという部屋で展示した。サロンは部屋と言う意味で、サロン・カレはカレの部屋。その部屋=サロンに定冠詞をつけル・サロンと呼ばれるようになる。

フランス革命の後はサロンに誰でも参加できるようになったが、参加するには厳しい審査が行われ実力だけでなくコネやチャンスが必要だった。

サロンに出展出来ない画家が展覧会を開いたのが印象派展の始まり

最初の印象派展は無名の画家達が自分たちで開いた展示販売会。厳しい審査やコネやチャンスが無い若い画家達が自分たちの作品を自由に展示でき販売したり有名になれる展覧会を自費で始めた。みんなでお金を出し合って展示会を開き作品が売れたら売り上げの中から出したお金に応じて利益を分け合った。

この展覧会が後に印象派展と呼ばれるもので第1回目が1874年の第1回印象派展でその後も続き合計8回開催されている。

モネもマネも有名になりたかったし稼ぎたかったのだ。

印象派と言う名前の由来

実は印象派と言う名前は印象派の画家達が名乗ったのではなく批評家に悪口として言われた言葉だった。

前述したパリで1874年アーティスト達が自分たちの展覧会を行った。後にこの展覧会は第1回印象派展と呼ばれるが上述したように最初は画家彫刻家たちの共同出資の展覧会だった。

この展覧会でモネの「印象・日の出」という作品が出展された。

モネ。印象、日の出
By クロード・モネ – art database, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=23750619

その後当時の新聞「シャリバリ」の記事に「印象主義者の展覧会」という題で「なんとひどい展覧会なんだ」という辛口の記事がルイ・ルロワという人物によって書かれた。この言葉が後に印象派展と言う呼び名になる。

印象派の筆触分割

色は混ぜると濁り暗くなる。透明感を出すために混ぜるのをやめてみた、これが筆触分割。混ぜないで上から早いタッチで色を重ねていく描きかただ。これはスペインの巨匠ベラスケス(17世紀)が既に使っていた描き方だがフランスのエドワール・マネがプラド美術館を見学した時にベラスケスの絵画を見て学んだ。(全ての印象派の画家が筆触分割を使ったわけでは無い)

チューブ絵の具の発明と蒸気機関車

さらにそれまで絵の具は外に持ち出せないものだった。チューブの絵の具が発明され(1840年)画家達が画材道具を持って外で絵を描くようになった。朝の光のやわらかさや雨上がりの一瞬の光を自分の印象を通して描くようになった。

又蒸気機関車の発達で画家達が遠くへ行けるようになったのも風景画を描くようになったことに拍車をかけた。

ジャポニズムと印象派

ゴッホ花魁
wikipedia public domain
Van Gogh Museum

19世紀ジャポニズムと言ってヨーロッパで日本が爆発的に流行った事が有った。パリの女性達が扇子やうちわを持ち日本の着物をガウン変わり着ているのがかっこよかった。

ジャポニズムと浮世絵

日本の鎖国が解けたのが1854年、印象派展の20年前だ。この頃に日本の美術工芸品が大量に欧米に渡っている。輸出された物の中に陶器があり陶器を割れない為に包む紙に浮世絵が使われていた。今も引っ越しの時に陶器を新聞紙で包んだりする、その包み紙が浮世絵だったのだ。これを見たヨーロッパの画家達が遠近法のない絵画を見て驚愕した。

パリ万博1867年
wikipedia public domain

更に1867年にパリで万国博覧会が行われた。写真上はパリ万博にての日本の代表団。日本はこの万博に初めて参加しているがこの時日本は未だ幕末、ちょんまげに羽織袴の幕府の要人たちが刀を差してパリの街を闊歩した。

浮世絵の印象派への影響

ヨーロッパ絵画は描くときに決まり事がある。遠近法や明暗法や構図の取り方などだ。大事な物は真ん中にあってそこには必ずストーリーや意味があった。西洋絵画が長い間に蓄積して来た規則や哲学が存在した。

広重、大はしあけたの夕立ち
wikipedia Pubulic Domain
Brooklyn Museum

ところが浮世絵は取るに足りないものを描き中心が無い。身近なモチーフを独特の描き方で表現し、紙や顔料も随分と違っていて非常に斬新で驚かれた。

これらを積極的に取り入れたのがゴッホやモネやドガやピサロだった。

北斎漫画

前述した日本の陶器がヨーロッパに運ばれるときの緩衝材に浮世絵が使われたと書いた。その中に北斎漫画があった。北斎漫画というのは北斎のスケッチ画集。絵手本と言って画学生の為の絵の教本で全15編に4000図が収められているらしい。

北斎漫画
By Katsushika Hokusai – Michener, James A. (1958) Hokusai Sketchbooks: Selections from the Manga, Rutland, Vermont & Tokyo: Charles E. Tuttle Company, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2311356

これらを見たヨーロッパ人たち特にフランス人の印象派の画家達に非常に影響を与えた。

伝統的な遠近法を使わずに、大事な物を大きく書いたり、大事な物が端の方にあったり、非常に平面的だったり、そしてテーマは自由なのだ。こんな絵を描いても良いのかと驚愕した。

ゴッホと浮世絵

ゴッホが何百枚かの浮世絵の版画を購入していた事が判っている。弟のテオへの手紙に浮世絵のすばらしさを語っている。写真下は広重の作品をゴッホが自分なりに描いたもの。ヨーロッパには無い絵の描きかたでゴッホは夢中になり他にも沢山の浮世絵風の物を描いている。

ゴッホ、梅の開花、広重の模写
wikipedia Public Domain

ゴッホがその後アルルに引っ越したのも日本的な明るい素材を求めての移動だった。その他の作品にも日本的な物や浮世絵の影響がみられるのがゴッホの作品だ。

印象派まと


印象派を簡単に説明してみようとしましたがバックグラウンドを解説していくと深みにはまりました。

印象派とは19世紀、伝統的な西欧絵画の中のアウトロー的な存在だった。彼らは当時は全く評価されていなかった画家集団だった。

カメラの発明により写実的な絵画の世界を写真が行うようになり絵画に出来ない世界を絵に描こうとした画家達だ。

日本の浮世絵に影響を受け遠近法も明暗法も使わない新しい絵画の世界が始まった。

印象派の始まりから絵画の世界はもっと自由になって変化を遂げていく事になる。

 

 

シュルレアリスムを簡単にわかりやすく説明してみた

シュルレアリスムというと最初にダリやミロの絵を思い浮かべる人が多いと思う。スペインの近代画家のピカソ、ミロ、ダリを理解しようとすると必ず出てくる言葉がシュルレアリズムだ。

シュルレアリスムは20世紀の芸術運動で無意識の世界を扱った、もともとは自動書記=オートマティスムと言って文章を自動的に描いていきそのスピードを速めるという実験から始まった。この記事ではちょっと難しいシュルレアリスムを簡単にわかりやすく解説してみる。

シュルレアリスムとは


シュルレアリスムの前にシュルレアルとは?

シュルレアルはフランス語、Surシュルは接頭語の「~の上」にと言う意味でここでは「~の上」=「超」という意味で使われている。レアルは現実なのでシュルレアルは超現実。

日本で時々広告等のキャッチコピー等に使われる「シュールな~」というとあまりにも現実から離れた非現実的な現象と言う意味だ。本来のシュルレアルというのはその逆で滅茶苦茶現実的という意味の「超現実」。「超早い」「超安い」とか「超かわいい」と言う時に使う「超」なので滅茶苦茶に現実という超現実の事をシュルレアルという。

シュルレアリスムはシュールではないのです。

という事で「シュールな世界」「シュールな絵画」など日本では奇抜で想定を超えたという意味で使われる「シュール」はシュルレアリスムの本来の意味から離れて独り歩きをしてしまった。

そしてシュール・レアリスムという言い方は間違いで正しくはシュルレアリスム。シュルレアルでひとつの単語でそれがイスム=主義という言葉が付いてシュルレアル主義。シュールで切り離さないしシュール・レアリスムではなくシュルレアリスムなのです。

シュルレアリスムは最初は文章だった

アンドレ・ブルトン

シュルレアリスト、アンドレ ブルトン
De Henri Manuelhttp://obviousmag.org/dos_vestigios_da_medusa/174breton.jpg, Dominio público, Enlace

シュルレアリスムはアンドレ・ブルトンというフランス人が始めた芸術運動。アンドレ・ブルトンは詩人で文学者で大学では医学と心理学を学んだ。

アンドレ・ブルトンは第一次世界大戦の時に精神病院で務めているが、この時の体験がシュルレアリスムの登場に大きく影響を与えているだろう。精神病院で戦争のストレスで苦しむ兵士にフロイトの精神分析の自動書記に触れ後の自動記述=オートマティスムに展開していく。

オートマティスム=自動書記とは

アンドレ・ブルトンが実験した自動書記=オートマティスムはとにかく何も考えずに文章を書く。そしてそのスピードをどんどん速くしていくと超越的な文章になって行く。余分な物が無くなって次第に物事の本質や心の深い深い部分=無意識の世界に到着する。又は超越な存在と繋がって行く、という感じだ。

理性や社会や立場や常識を取り払って人間の思考を表に出していく。私たちの考えや行動は理性や立場によっていつも拘束されているのだ。そこからの開放を目指した。

文章を書くのはシュルレアリスムだ

そういえば書くという行為自体が自動的だ。手紙にせよレポートにせよ文章を書いているときに最初から構成をすべてきちんと作って書いているケースの方が少ないのではないか。自然に自動的に頭の中にある物を組み立てて書いていくうちに文章が出来ていく、又は手が勝手に文章を書いていく感じは誰にでもあるだろう。

これは無意識の部分から泉の様に溢れてくるワードを手が書いていく作業。

そう、書くという行為は無意識とつながっているのだ。

アンドレ・ブルトンは自動書記の実験をしながらどんどん書くスピードを速くする実験をしてその文章を発表した。そしてシュルレアリスムが始まった。

フロイトの影響

アンドレブルトンが第一次世界大戦で精神的に壊れた兵士の治療にあたりフロイトの精神分析に出会っている。当時フランスではフロイトは未だあまり知られていなかった。

個人の意識より無意識や夢、偶然性などを重視したフロイトの無意識の世界がシュルレアリスムに大きく影響を与えている。

アンドレ・ブルトンが自動記述で書いた溶ける魚

1924年にブルトンがシュルレアリスム宣言と共に刊行した作品。自動記述で書いていったものが刊行された。内容はブルトンの記憶の泉から湧きだした物語。

シュルレアリスムの絵は大きく分けると2種、ミロ型とダリ型⇚私が勝手に分けました

*ミロ型*

自動記述を利用し自意識が介在出来ない状況下で絵を描き無意識の世界を表現。具象的な物が無く記号的なイメージで抽象画に近づいていく。

ミロの壁画
wikipedia Public Domain

*ダリ型*

不条理な世界やあり得ない組み合わせを写実的に絵に描いた。夢や無意識の世界でしか起こらない奇妙な世界を様々な作品にした。

サルバドール ダリ 
wikipedia Public Domain

シュルレアリスムは絵画だけではなく本や映画や彫刻や写真等幅広い芸術作品になっている。

シュルレアリスムまとめ


ダリやミロ等の絵画からシュルレアリスムを理解しようとする場合が多いと思うが絵から入るとなぜこんな不思議な作品を画家が描いたのか悩む。本来は文章から始まり自動記述を理解すると何故シュルレアリスムの絵画があの様な不思議な作品になって行ったかが理解できる。

シュルレアリスムを理解するのに無意識や自動記述は避けて通れない事柄なのです。芸術家たちがもっと深い深い所へ、遠い世界へ到達しようとした作品がシュルレアリスムの絵や彫刻や映画になった。