カルロス5世(スペイン史カルロス1世)神聖ローマ帝国皇帝。スペインの黄金時代

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15世紀が終わり新しい時代がやって来た。ここに一人の王子が誕生する。1500年今のベルギーのゲント(ガン)で生まれたのが後のカルロス5世。父親はブルゴーニュ公国のフィリップ美公。フィリップはハプスブルグ家の世継ぎで神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の息子。母親ファナはスペインのフェルナンド王とイサベル女王の次女。レコンキスタが完成しアメリカ大陸発見の頃のスペイン王国。という絵空事の様なものすごい血筋の王子が誕生した。

<中央がカルロス、左端が祖父のマクシミリアン1世>

カルロス五世と父方の家族
Bernhard Strigel – Kunsthistorisches Museum Bilddatenbank

ブルゴーニュでの幸福な幼少時代

ブルゴーニュ公国というのは現在のフランス東部とドイツ西部、ネーデルランドを含む地域。羊毛産業で経済的に大変栄えたヨーロッパ随一の先進地域だった。

<15世紀のブルゴーニュ公国>

ブルゴーニュ公国
Marco Zanoli (sidonius 12:09, 2 May 2008 (UTC))

<父フィリップ美公>

フィリップ美公

<母ファナ>

ファナ王女
Johanna I van Castilië
ca. 1500; 34,7 x22,4 cm
Spaans Nationaal Beeldenmuseum, Valladolid

 

舞台としては申し分ない時代と登場人物が用意された。ローマ法王レオ10世、フランスのフランソワ1世、ドイツのマルチンルター、イギリスのヘンリー8世、オスマントルコのシュレイマン大帝・・・・

<毛織物産業で繁栄するフランドルのゲントの街>

ゲントの街

 

スペインの王位継承者に不幸が続きカルロスの母ファナの所に次期王位継承権がやって来た。両親はそろってカトリック両王(イサベル女王とフェルナンド王)に会いにスペインへ。そこでまさかの父親フィリップの突然死(フェルナンド王による毒殺もささやかれる)。母親ファナの発狂(これについては諸説)。カルロス6歳の頃の事。それでも両親不在のベルギーのメッヘルンで幸せな子供時代を送る。叔母のマルガレーテ大公妃は教養のあるルネサンスの才媛で、その周りに集まる教養人と共に豊かな教育を受けられたのは幸運だった。

<ベルギーメッヘルン>

ベルギーメッヘルン
Ad Meskens – Trabajo propio

*叔母マルガレーテはスペインのイサベル女王の1人息子ファンと結婚するが結婚式の最中ファンが突然死。懐妊していたがその子も生まれて間もなく死亡。イサベル女王とは仲良く信頼関係がありその後故郷に戻った後誠実な政策を取り国民にも生涯愛された。

<カルロスの叔母、マルガレーテ大公妃>

マルガリータ大公妃
ce Musée municipal de Bourg-en-Bresse
Author Hugo Maertens

カルロス・ブルゴーニュ公に

<カルロス5世15歳頃>

カルロス5世

 

1515年1月。15歳のカルロスは既に充分な威厳を持ち備えており歴史の表舞台に登場。ブルッセルで儀式が行われブルゴーニュ公国の君主となる。同じ年フランスでルイ12世が死亡しフランソワ1世が即位。フランソワ1世は生涯にわたってのカルロスのライバルである。そしてハプスブルグ対ブルボンの因縁の対決の始まりのゴングが鳴った。

<フランソワ1世 1515年頃>

フランソワ1世1515年

フランソワ1世はこの少しあとにレオナルド・ダビンチをフランスに呼び寄せた。この時レオナルドが持参した数少ない物の中に「ジョコンダ」があった。現在ルーブル美術館にある「モナリザ」である。

母方祖父であるスペイン王フェルナンドの崩御

<スペイン王フェルナンド>

フェルナンド王

母ファナ、カスティージャ女王は精神に異常をきたしたという理由で城に幽閉されその父親であるフェルナンド王が摂生としてカスティージャの政治をしていた。フェルナンドはアラゴン・カタルーニャの王でスペイン東部と南イタリアと地中海の島々を持っていた。そのフェルナンド王が1516年に亡くなった。フェルナンドはスペインの王冠がハプスブルグに継承されない為晩年フランスの貴族の娘と再婚し男子をもうけるがその子は夭折。世継ぎを残すため怪しい媚薬にも手を出していた。せめてカルロスの弟、スペイ育ちのフェルナンドにスペイン王位を継承させたいと努力するがそれも適わず。病床に付いたフェルナンドはどれ程悔しい思いをしたことか。執念深く阻止しようとした悪夢は現実になった。

カルロス・スペイン王になる

17歳のカルロスが40隻の船でスペインへ向かい予定のサンタンデール港から少し外れたアストゥリアスのタソネスの漁港に到着、というより漂着。住民たちは見たこともない数十隻の船団に驚き手に手に棍棒を持ち戦いの準備をしたそうだ。髭をそり香水をつけて降りたカルロスはあまりの田舎にがっかりしここでは滞在せずに直ぐに移動した。

<タソネスの漁港>

タソネスの漁港

カルロスがスペインへ着いてまず最初に逢いに行ったのは物心つかない頃分かれた母。カルロスはこの後幾度となく城に幽閉された母に逢いに行く。その後バジャドリードにいた弟フェルナンドとも再会する。弟のフェルナンドはスペイン育ち。スペイン国内では彼ににスペイン王冠をという動きがあった。マクシミリアン皇帝はこれらの事情をすべて理解しこれ以上フェルナンド派が行動を起こす前に彼を叔母マルガレーテ大公妃の待つネーデルランドへ送る。2人の兄弟と4人の姉妹は生涯にわたり力を合わせてハプスブルグの為に協力し合った。フェルナンドは後フェルディナンド1世としてドイツ皇帝、オーストリア大公、ボヘミア王、ハンガリー王となり幸せな結婚をし生涯スペインには帰らなかった。

<カルロスの弟フェルディナンド1世1521年>

フェルナンド1世
Hans Maler zu Schwaz – Kunsthistorisches Museum: Bilddatenbank
Abgebildete Person:Kaiser Ferdinand I. Sohn des Philipp von Habsburg Österreich

父方祖父神聖ローマ皇帝マクシミリアンの逝去

1519年マクシミリアン1世が亡くなる。神聖ローマ帝国の皇帝は7人の選帝侯によって選ばれる選挙制。7人の票のうちの4票をどれだけの資金で手に入れるかという選挙。最大のライバルはフランソワ1世。既に買収は始まっていた。

当時のローマ法王はフランスびいきのメディチ家出身レオ10世。カルロスが皇帝になるのを阻むためフランソワ1世を支援する。派手好きイベント好きのルネッサンスローマ法王はロレンツォ・ディ・メディチの息子。浪費好きでローマの街に当時の最高の芸術家を集め飾り立てた。前ローマ法王が着手していたサンピエトロ寺院の建設を引き継ぎミケランジェロやラファエルを起用した。

<ラファエルによるレオ10世>

ローマ法王レオ10世

1519年19歳でカルロス5世神聖ローマ皇帝

選挙の資金は叔母のマルガレーテが大富豪フッガー家から援助を受ける。またドイツの諸侯たちがメディチ家のローマ法王の後ろ盾を嫌ったこともあり選挙は満票でカルロスが勝利。フランスはハプスブルグ家に囲まれた形になりこの後戦争が続く。

<カルロス5世時代のハプスブルグの領土>

紫―カスティージャ 赤―アラゴン 黄-オーストリア 黄土―ブルゴーニュ

カルロス5世支配地域
Original by Lucio silla, modification by Paul2 – Modification of Europa02.jpg

スペインでは王が外国の為にお金を使いブルゴーニュから沢山の人がやって来て要職をほしいままに。人々の反感が高まりコムネロスの乱がおこり国内は混乱。腕利きの総裁に後は任せ王は「3年で戻る」と約束しスペインを後にする。この反乱は自然崩壊となりカルロス5世が3年後に戻るころには国内はほぼ平和が回復されていた。

1520年カール大帝ゆかり地アーヘンで戴冠式が行われた。

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<ドイツ西部アーヘンの大聖堂>

アーヘン大聖堂

同じ年マゼランが5隻の船を率いてセヴィージャの港を出港している。この時代に多くのコンキスタドーレス達がアメリカへ渡り欲望のままマヤ、アステカを破壊し財宝を吸い尽くす。

マルティン・ルターの登場

宗教改革である。カルロス五世を生涯苦しめるひとつの難題の登場。ルター本人はそんな大それた事をするつもりは無かったと、思う。たまたま投じた一石の波紋が広がった。ルターはドイツの修道士であり神学教授だった。前述のローマ法王レオ10世の時代「ローマのサンピエトロ寺院」の建設費を集めるためにドイツで免罪符が販売される。「これを買ったら天国へ行ける!」というのが免罪符。そのお金はローマへ集まり豪華絢爛のサンピエトロ寺院の建設に使われた。これに異を唱えたのが始まり。

<1517年ヴィッテンベルグ城に95か条の論題を張り出すルター>

マルティンルター95か条
Ferdinand Pauwels

ヴォルムスの帝国議会

1521年1月21日に開かれた国会が歴史に名を残したのはルター問題。免罪符の販売で一番搾取の大きかったドイツではローマに対する恨みが募っていた。ルターはローマ法王レオ10世に破門される。ひとりの修道士の小さな反抗が波紋を広げた、そんな頃に開かれた国会。ルターは自説を曲げず堕落したカトリックに対抗。いかなる権威も認めずひたすら聖書と自分の関係に信仰を求めるルターの態度は変わらず。カルロスは帝国とカトリックの崩壊を恐れ、しかしルターを禁固するでもなく処刑するわけでもなくルターに自由通行証を与えた。これはひとえにもカルロス5世とハプスブルグ家の正義感や騎士道精神による。この誠実な態度はハプスブルグの代々の王達に継承されていく。

<ヴォルムス会議で弁明するルター>

ヴォルムス会議
1556
Source Unknown
Author Unknownwikidata:Q4233718

カルロス皇帝スペインへ

約束通り3年ぶりにスペインへ戻ったカルロスはこの後7年間スペインに滞在しスペイン語を話しスペインを愛するスペイン人になる。そしてスペイン人たちにも愛される国王になる。臣下の者達の間でも結婚などで融合が行われていく。ローマ法王レオ10世の死去によりハドリアヌス6世即位。ハドリアヌスはカルロス5世の家庭教師だったオランダ人。学者肌でローマ法王より修道僧が向いているタイプの人。教会改革を進めるが残念ながら在位期間が短かすぎ。約一年半で疲労がたまり死去。学僧として本に囲まれて暮らしていればもっと別の人生があった惜しい人物が、この世で最も生臭い地位「ローマ法王」に選ばれたのは不幸としか言えない。その次はレオ10世のいとこ又してもメディチ家のクレメンス7世。

<ローマ法王ハドリアヌス6世>

ハドリアヌス6世
Jan van Scorel – Unknown for original uploader, but it can be found at the Centraal Museum of Utrecht.

パビアの戦い

事あるごとに関わってくるのがフランスである。ギリシャ沖のロドス島にオスマントルコの手が伸び聖ヨハネ騎士団が死守しようとしている東地中海の島が陥落しようとしていた。後ろから手を貸しているがフランスのフランソワ1世。さらにイタリアのミラノとナポリの継承戦争で再びフランスが手を出してきた。ヨーロッパ諸国の利害関係が絡みイタリア戦争が再び始まる。その後イタリアの北部パビアで皇帝軍とフランス軍の戦い。ミラノを攻撃して来たフランス軍を4時間半でカルロス5世軍が破りフランソワ1世が捕まる。

<パヴィアの戦い>

パヴィアの戦い
Bernard Van Orley, The Battle of Pavia, RIHA Journal.

あっけなく捕虜になったフランソワ1世。戦争終了後「マドリード条約」が結ばれる(1526年)。イタリアとブルゴーニュのスペイン領有。フランソワ1世の母はオスマントルコと密約を交わし、さらにイギリスヘンリー8世に袖の下をたんまり与えその後の準備に余念がない。実際このパヴィアの戦いでヨーロッパの勢力図は一気にスペイン・ハプスブルグの拡大になる。パワーバランスが崩れるとこっそり寝返り後ろから手をまわすのがヨローッパの外交政策。今もそうは変わっていない。フランソワ1世は聖書に手を置いて誓約をかわし国境エンダーヤで2人の息子に変わって釈放された。この後フランソワ1世は幾度となくカルロス5世を裏切る。

カルロス5世の結婚

フランス王を釈放した後カルロスはセビージャへ向かう。大航海時代のセビージャは大型船が出入りし華やかな時代。巨大な大聖堂は完成間近。1526年セビージャのアルカサール(王宮)で祝宴が行われた。ポルトガル王女イサベルとカルロスは母親同士が姉妹。スペイン建国の母イサベル女王の娘達の中で唯一幸福な結婚をした三女マリアの娘。

<イサベル・デ・ポルトガル、カルロス5世妃>この絵はイサベル妃が亡くなった後にカルロス5世がティチアーノに若き日の王妃を描いてもらったものでカルロス5世が生涯近くに置いていた。現在プラド美術館所蔵。

イサベル皇后

 

新婚旅行に出かけたアルハンブラ宮殿で暫くの蜜月を過ごした。この結婚は仲睦まじく幸せな結婚だった。王族同士の政略結婚で幸福だったケースはそうは多くない。2人の間に5人の子供が生まれ長男が後のフェリペ2世。

サッコ・ディ・ローマ(ローマ劫掠)

カルロス5世の知らないうちにフランソワ1世はイギリスやローマ法王クレメンス7世と手を組み反ハプスブルグ同盟を結んでいた(コニャック同盟)。そして対抗するカルロス5世軍はドイツからの傭兵を中心とした部隊でイタリアに集結。このドイツの傭兵達のローマに対する恨みは積もり積もっており憤懣やるかたない中、カルロス5世の資金も底をつき支払いが滞っていた。怒り狂った群衆が飾り立てたローマの街へなだれ込み略奪・強盗・放火・強姦のしたい放題でローマの街を9か月間にわたって破壊した。これが有名なサッコ・ディ・ローマそしてこれが盛期ルネッサンスの終焉になる。

サッコディローマ
Johannes Lingelbach – L’Histoire April-June 2009, p.74
『Sack of Rome of 1527』

カルロス5世はこれほどまでの略奪を黙認したのか手が付けられなかったのか謎のままだが事態は有利に終わる。1529年ローマ法王クレメンス7世と条約を結びイタリアはカルロス5世の支配下にはいる。ボローニャでローマ法王によって神聖ローマ皇帝の戴冠式が行われた。

<カルロス5世ローマ法王により戴冠>

カルロス世ボローニャで戴冠

この間にイギリスではヘンリー8世がカタリーナ・デ・アラゴン(カルロス5世の叔母・カトリック女王イサベルの娘)との離婚を希望するがカトリックでは離婚が認められない為イギリス国教会を作る。カタリーナ(キャサリン)は監禁生活を強いられる。修道士の衣服を着て暮らし苦境の中も精神は高潔であった。ヘンリー8世とカタリーナ(キャサリン)の間の娘がイングランド女王メアリー1世、通称「ブラッディ―マリー」。メアリー1世は後にカルロス5世の世継ぎフェリペ2世と結婚する。

<イギリス王ヘンリー8世とアラゴンのカタリーナ>

ヘンリー8世カタリーナ

<メアリー1世、新教徒を激しく迫害したため血のメアリーと呼ばれた>

メアリー1世

チュニス遠征

1492年のグラナダの陥落によってイベリア半島を追われたイスラム教徒たちが北アフリカで海賊になり報復をしていた。地上ではオスマントルコのシュレイマン大帝がウィーンまで迫ってヨーロッパの脅威になっていた。その後ろにはやはりフランソワ1世が反ハプスブルグで見え隠れする。カルロス5世はチュニジアまで遠征し軍はチュニジアの街を3日間略奪しつくす。

<オスマントルコの勢力図>

オスマントルコ勢力図
OttomanEmpireIn1683.png から日本語化。(The Japanese meaning from OttomanEmpireIn1683.png .)
投稿者:斎東小世(Saito chise)

大体オスマントルコがこんなに勢力を拡大できたのはフランスが後ろから援助をしていたからに他ならない。もちろんフランスはカトリックの国である。

 アウグスブルグの会議

1530年に開かれた帝国会議は宗教問題。10年前のヴォルムスと同じテーマ「マルティンルター」だ。しかし状況はすっかり変わっており多くの都市が新教側を支持していた。カルロス5世は何とか状況の打開と両派の和解を図ろうとするがカトリック側の既得権を得た枢機卿達の反対もあり平行線。ドイツ人の人文主義者のメランヒトンによる「アウグスブルグの信仰告白」提出されるが調停に失敗。

<1530年アウグスブルグの会議>

アウグスブルグ1530年

<カルロス5世1530年ティチアーノ作>

カルロス5世1530年
museo de Prado

その後もイタリア戦争

第三次イタリア戦争でフランソワ1世はミラノの侵攻に失敗し、オスマン帝国のシュレイマン大帝と政治同盟を結ぶ。1542年オスマントルコと連合したフランス軍は再び大敗。これでやっとフランスはイタリアをあきらめた。その後フランスはルター派を支持しシュマルカンデン同盟でカルロスと対戦。そう、繰り返すがフランスは今もカトリックの国。宗教なんて関係なしだ。

第四次イタリア戦争でローマ法王の取り持ちでなんとかカルロス5世とフランソワ1世は和約にいたる。(1538年)

<フランソワ1世とカルロス5世の和約>

ニースの和約

この後しばらくはカルロス5世とフランソワ1世は蜜月を過ごすが再び第5次イタリア戦争勃発。フランスは懲りずもまたイタリアに侵攻してくる。

さらに新教徒連合軍との戦争「シュマルカンデン戦争」が始まり1547年カルロス5世はシュマルカンデン同盟を破りこの戦争にひとつの終止符を打つ。この最後の戦いの勝利がミュールベルグの戦い。勝利の後の「カルロス5世騎馬像」というティチアーノの作品がプラド美術館に展示されている。

<ミュールベルグの戦いの後のカルロス5世、ティチアーノ>

カルロス5世ミュールベルグの戦い

 

<勝利者カルロス5世と負けた人々>中央がカルロス5世 左からシュレイマン大帝、ローマ法王クレメンス7世、フランソワ1世

カルロス5世と負けた人達
ジュリオ・クロヴィオ – Panorama de la Renaissance, by Margaret Aston |Dat

この後病気で体調を崩したフランソワ1世死去。しかし戦争はその息子アンリ2世に引き継がれる。フランスはスペインに対抗して大陸航海も始めカナダのケベックに到着。今もカナダのこの地域はフランス語圏。スペイン人にとっては災難でしかないフランソワ1世はフランスではフランス国土を広げイタリアから芸術家を集めフランスの文芸を高めた王として人気がある。

カルロス5世息子に遺書

持病の通風で足が痛く気も弱くなっていたカルロス5世。息子フェリペに「ハプスブルグ家をカトリックを擁護する立派な家とし結婚政策で大きくするよう」に遺言をしたためている。波乱多く人生疲れ切った様子のカルロス5世の内面が書き出されているティチアーノの一作。48歳は今なら未だ精悍な年齢だがこの絵のカルロスは万感尽きた老人のよう。

<カルロス5世1548年>

カルロス5世1548年

 

その後片腕の公爵に裏切られプロテスタントの勢力は無視できない状態になりオスマントルコの侵攻も激しく、フランスは次のアンリ2世は今だ後ろから手をまわしてくる。

アウグスブルグの和議(1555)

「ルターを暗殺しておけばと良かった」と思ったかもしれない。もう手が付けられない程にプロテスタントの力は大きくなっていた。ローマの横暴や拝金主義等どう見ても言っていることはプロテスタントの方がまともだった。カルロス5世の弟フェルディナンド1世の主催で南ドイツのアウグスブルグで会議が行われ宗教対立の収束を図った。

<アウグスブルグの和議・左端がカルロス5世>

アウグスブルグの和議

ユステの修道院へ

1555年、旅と戦争と裏切りと痛風に苦しみ退位を決意。ブルッセルでの退位式の言葉は「私は多くの過ちを犯してきた。しかし誰かを傷つけようという意図は持っていなかった。もし万一そんな事があればここに許しを請いたい」と涙で演説が途切れたという。

<カルロス5世退位式、ブルッセル>

カルロス5世ブルッセルでの退位
atelier Leyniers et Reydams – http://bruxellesanecdotique.skynetblogs.be/post/7116434/palais-du-coudenberg
Tápiz del siglo XVIII, de Leyniers y Reydams , representa la abdicacion de Carlos I de España en el Palacio de Coudenberg

両親から受け継いだスペインとネーデルランド、新大陸は息子のフェリペ2世に譲り、父方の祖父からのオーストリア、神聖ローマ帝国の地位と領土は弟のフェルディナンド1世に継承させた。ここにスペインハプスブルグとオーストリアハプスブルグに分かれることになる。

<弟フェルディナンド1世>

フェルナンド1世

同じ年1555年4月12日母親ファナ女王がトルデシージャスの城で亡くなっている。事実上はファナがスペイン女王。最後まで「Yo Reyna 」「我女王」のサインをしたと言われている。

<ユステのカルロス5世、亡き妻の絵が壁にかかっている>

カルロス5世ユステ

スペインの西の僻地にあるユステ。エストレマドゥーラ地方は今もそういう位置づけ。北部は意外と降雨量があり樫林や果樹園が多い。そこの樫林の中の静かな修道院で隠居生活に入り、1558年58歳で亡くなった。

<カルロス5世ユステの修道院>

カルロス5世の最後

広大な帝国と地位を手にした皇帝の最後の場所には地味すぎる所。ひとつの時代が終わった。

 

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<カタルーニャ>スペインから独立を希望する州カタルーニャについて(民族や歴史)。

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スペインにある17州のひとつ。大きさは関東平野位のところに人口750万人。地中海に開けた港があり古くから交易で栄えた「国家」だった。国としての歴史は「スペイン国」より古い。首都はバルセロナ。1977年カタルーニャはスペイン政府から強い自治を手に入れているがスペインからの独立を希望している。今年2017年10月1日に独立に関してのカタルーニャの国民投票をすると言っているがスペイン政府は強く反対を唱えている。いったいカタルーニャとはどういうところなのかをまとめてみました。

地理

イベリア半島の北東部の一部。北はピレネー山脈、南東には地中海西側にエブロ川が流れアラゴンと接している地域。

カタルーニャ地図
Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported

 

言語カタラン語(カタルーニャ語)

ラテン語から生まれたロマンス語はその後いくつもの言語にわかれてラテン語の諸語となる。南フランスで今も使われているプロバンス語のひとつオック語の仲間がカタラン語。10世紀には自立した言語となり12世紀には公用文書として使われている。なのでカタラン語はスペイン語の方言というよりプロバンス語の仲間と言った方が正しい。文法的構造も耳で聞いた印象もプロバンス語に近くカタラン語は語のリエゾンを持っている。

彼らはカステジャーノ(スペイン語)とのバイリンガル。バルセロナでは国内移民のスペイン人が多く共通語としてのカステジャーノ(スペイン語)を普通に耳にするがカタラン人同士ではカタラン語を話している。道路標示や案内、美術館の説明などもすべてカタラン語又はカタラン語とカステジャーノ(スペイン語)2カ国語併記。

カタラン語は中央政府から禁止され弾圧を受けた歴史があります。現在のカタラン人の頑なな態度に辟易とすることは私個人的にもありますが守って行かなければ歴史は繰り返される。言語は民族のアイデンティディーだからです。

カタラン語圏

カタラン語は以前のカタルーニャ君主国圏で今も話されているので広範囲にわたる。地中海のバレアレス諸島(マヨルカ島、メノルカ島、イビサ島)サルデーニャ島(現イタリア)の一部、バレンシア州全体、アラゴン州の一部、国境を越えたフランス側のピレネーアリアンタル県、アンドラ公国で話されている。

カタラン語圏
English: Map of the Catalan Countries, including the Catalan language domain.
Date 09/08/2007
Source Own work
Author Marc Belzunces

 

歴史

最初の方の歴史はスペイン史と同じ

謎の先住民族イベロ族が住んでいたところへギリシャ人やカルタゴ人が商売でやって来る。その後ローマ帝国の植民地になり多くの街が創られた。バルセロナの街の地下には今もローマの遺跡が残る。その後ゲルマン民族の大移動で西ゴートの支配下にはいる。南からイスラム教徒が入って来た折フランク王国のカール大帝がイスラム征伐で南に降りて来て801年バルセロナを占領する。ここにひとつの砦を創り辺境領として伯爵を置いた。

<カール大帝>

カール大帝

バルセロナ伯爵領

カール大帝がイスラムに対する砦の領主に伯爵の位を与えたのが<スペイン辺境領バルセロナ伯爵>となる。この後数百年にわたってカタルーニャを支配するバルセロナ伯の始まり。878年にギフレ1世毛むくじゃら王( Wifredo el Velloso)がバルセロナ伯に任じられる。ギフレ1世(カタルーニャ初代君主)は世襲制で伯爵の地位を継承させ1412年まで続いた。

<ギフレ1世>

バルセロナ伯ギフレ1世

9世紀にはフランク王国との主従関係は終わっているのでこれがカタルーニャの起点。コルドバカリフ王国からイスラム教徒の遠征が度重なる。何度もフランク王国に援助を頼むが助けてもらえずバルセロナは壊滅的な打撃を受ける。「援助が無いなら主従関係も終わりましょう」とバルセロナ伯ポレイ二世は987年フランク王国と縁を切る。しかし一度も「カタルーニャ王国」は名乗っていない。この1000年ころがカタルーニャ君主国の誕生と言われる。

アラゴン王国と連合

1137年にバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世(ラモン・ベレンゲール)が隣のアラゴン王国の女王ペトロニーラと結婚。今思えばカタラン人にとってこの結婚がすべての間違いの始まりだったかも。ここからアラゴン・カタルーニャ連合王国が始まる。この頃にバルセロナ伯が領有する土地を指して「カタルーニャ」という言葉が初めて文献に登場する。この時代にアリカンテまでの地中海沿岸地域を手に入れてイベリア半島で最も強力な権力を持つ君主となる。アラゴンとカタルーニャはお互いの自治を尊重していた。

カタルーニャとアラゴン

 

<ペトロニーラとラモン・バランゲ4世>

ラモンバランゲーとペトロニーナ

ジャウマ1世(ハイメ1世)征服王の時イスラム教徒からマヨルカ島を取り戻しバレアレス諸島、バレンシア王国を征服した。

<ジャウマ1世>

ジャウマ1世

海洋帝国

13世紀ジャウマ1世とペドロ3世の時代には地中海に野望を持つ商人たちの海洋帝国となる。マグレブ、チュニジア、エジプト、コンスタンティノープルに商館を立てせっせとお金儲けをやっていた。相手が異教徒であろうとうまく折り合いをつけ解決をして冒険家のように外へ出ていきシチリア島にまで支配を伸ばす。(シチリアの晩鐘)

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14世紀にはギリシャのアテネまでも占領しコンスタンティノープルと対抗し東方貿易の基地となる。当時のヨーロッパ世界の中心は地中海だった事を考えるとまさに絶頂期。当時の地中海の貿易商人たちは商人という言葉では表しきれないような探検家や冒険家のようで知らない土地へ行き言葉のわからないところで異教徒たちと交渉して活躍していた。

カタルーニャ

 

カタルーニャのコルツ(コルテス)ヨーロッパ最古の議会

ベネチア共和国が非常に民主的であったように商業民族は民主的で現実的である。カタルーニャはベネチア共和国よりも古い議会を持っていてコルツ(コルテス)と呼ぶ。

最初の起源は不明だがジャウマ一世の時1214年に王権に対抗して貴族と市民たちが自分たちの権利を主張し手に入れた。これはイギリスのマグナカルタよりも1年早い。この時彼らは「カタルーニャ人民の代表」と称して伯に向け「自分たちの相談なく又は協約による定めなしに課税や拘禁を行ってはいけない」と要求した。これは前年に即位したジャウマ1世に対する忠誠との交換条件。コルツ(コルテス)の代表はバルセロナ伯の配下の貴族達と聖職者団。そしてもう一つはバルセロナ市で活躍する商人や手工業者団体。後に百人委員会「コンセホ・デ・シエン」を置き都市有力者たちの手による集団支配。カタラン人たちは上からの命令を嫌う体質であり中央に反発をする傾向がこの頃から既にあった(まさに今の中央政府に対する彼らの反抗)。彼ら商人たちは自分たちの機関として海外に領事館や商館を持ち13世紀にはその富を背景に伯にいくつもの要求を掲げる。国内外における商人の保護政策を求めバルセロナにおける裁判権をも伯から奪い取った。カタルーニャの発展を都市商人たちが支えていたのだから当然の事であった。

<コルツに集まる代表>

カタルーニャのコルテス

没落のきっかけはコロンブスの新大陸発見

カスティーリアの王女イサベルとアラゴン・カタルーニャのフェラン(フェルナンド)の結婚によりスペインという国が出来上がる(1469年)

<イサベルとフェルナンドの結婚>

カトリック両王の結婚

スペイン王国はコルツ(コルテス)に対して冷淡であった。後のハプスブルグ朝からブルボン朝にいたる3世紀間のカタルーニャの反抗はコルツ(コルテス)の権利の主張、抵抗だった。

スペイン王国成立と共にカタルーニャは「バルセロナ伯の国家」ではなくなったがカタルーニャ政府は残されジェネラリターと呼ばれる。いったん1716年に廃止されるが現在のジェネラリター(カタルーニャ政府)の始まり。現在も同じ場所にある。

15世紀になるとオスマントルコの登場やイタリア諸都市が力を伸ばしてい次第にカタルーニャの過日の勢いはなくなって行くが一番の原因はアメリカ大陸の発見。

コロンブスの大陸到着

 

フェルナンド王はカタラン人に恨まれても仕方がない。新大陸発見のコロンブスに援助をしたのは妻のイサベル女王だった。大西洋航海に行ったのはカスティーリアの貴族やごろつきで固められ新大陸からの船はすべてセビージャに入港した。

<セビージャの港16世紀>

セビージャの港16世紀

カタルーニャが没落していったのは当時の人々の関心が地中海から大西洋に変わったその波の乗れなかったのが理由。大体フェルナンドがイサベルと結婚していなければカタルーニャは今も独立国家だったに違いない。フェルナンドはアラゴン人。カタラン人ではないのでカタルーニャに対する愛情は無かったと、私は思っている。

この後のカタルーニャは何度も何度も打ちひしがれ立ち上がっては倒され瀕死の状態でも抵抗していく。

その後のカタルーニャの不幸と抵抗
<30年戦争後の収穫人戦争>

30年戦争の末期。フランス王ルイ13世対スペイン王フェリペ4世。スペインへ幾度となく手を出してくるフランス。敵の敵は味方と後ろから手をまわしポルトガルのスペインからの独立を支援し次はカタルーニャのスペインへの反抗を手助けする。

<有名な絵ラス・メニーナスの鏡の中にいるのがフェリペ4世>

ラスメニーナス

*{フランス王ルイ13世はアンリ4世とメディチ家のマリード・メディシスの息子。結婚相手が対戦相手フェリペ4世の姉である。その2人の息子が太陽王ルイ14世。ルイ14世の妻はスペインのフェリペ4世の娘。ここでスペイン・ハプスブルグ王家はブルボンと婚姻関係が強くなり後に辛酸をなめる}

<ルイ13世フランス王>

ルイ13世
United States public domain tag

<カタルーニャの農民が鎌を持って反乱を起こす>

1640年の農民の反乱

 

スペインとフランスの国境にあるカタルーニャは自然と激戦区になりカスティーリアの軍隊が何年も駐留。乱暴狼藉を繰り返し堪忍袋の緒が切れた農民たちが立ち上がる。聖体祭の日に収穫用の鎌を持った農民たちがスペイン王の代理の公爵を殺してしまう。12年間の反乱の末カタルーニャは降伏。その後西仏戦争は続き両国間で調印されたのが「ピレネー条約」フランスはカタルーニャの一部を割譲する。いまだにカタルーニャの一部ルシオン地方はフランス領。

<スペイン王位継承戦争・またしても叩きのめされる>

<カルロス2世・4歳まで歩けず7歳まで話せなかった王>

カルロス2世

フェリペ4世の2度目の結婚の長男カルロス2世は体も頭も弱く世継ぎなく他界。スペイン・ハプスブルグ家はブルボンとも親戚関係が出来ていて両方が王位継承を主張して戦争になる。12年間の戦争後フランスが勝利をおさめスペイン・ブルボン朝が始まる。前述太陽王ルイ14世の孫がスペイン王フェリペ5世として即位。

<フェリペ5世>

フェリペ5世

歴史の表面上は王家が変わっただけの様に見えるがフランスの中央集権的な絶対王政によりスペインの各地方都市は制圧され、カタルーニャの反感は強かった。1713年から各地で戦闘が始まり14か月の抵抗が続きそして再びカタルーニャは力尽き敗れた。その籠城戦のリーダーが「ラファエル・カサノバ」。今もカタルーニャ独立のシンボル的な存在。

<1714年9月11日、バルセロナの陥落>

バルセロナの陥落1714年9月11日

1714年9月11日バルセロナ陥落。ブルボンのフェリペ5世の制裁は冷酷だった。カタルーニャにこれまで特権的に認められていた地方政府は解散を命じられ犯行の中心だったバルセロナ大学は閉鎖される。バルセロナを見張る為の軍隊の駐屯地が創られる。このシウダデーラは今は公園になっている。

最後には懲罰としてカタラン語の公文書への使用が禁止されカタラン語を公的な場で使うことを禁止された。そしてジェネラリターは廃止された。

カタルーニャが自由を奪われた9月11日は毎年「ディア―ダ」という国民の祝日になっている。「ラファエル・カサノバ」の像の前に人が集まる。

<1914年9月11日ラファエル・カサノバの銅像に集まるカタラン人>

ラファエル・カサノバ

サッカーの時バルセロナのカンプ・ノウでは試合開始後17分14秒に一斉に独立のコールが上がる。

<ナポレオン戦争>

またしてもフランスである。フランス革命の後ナポレオンがヨーロッパ遠征を始めスペインにもフランス革命の「自由を輸出してあげよう」とやって来た。カタルーニャは最初にナポレオン軍の侵入を受けたところで激しい抵抗戦が行われた。長い籠城戦のあと落城。特にジローナの街は7か月の籠城戦を戦い飢えと疫病で息絶える。

<さらにスペイン内戦でノックアウト>

スペイン内戦は簡単に分けるとファシズムと反ファシズムの戦いなのでカタルーニャの対スペイン反抗ではない。

スペイン内戦

内戦の前のプリモデリベラ将軍の独裁政権ですでにカタラン語の公的な場での使用は禁止、カタラン人の民族舞踊や民族旗の使用は禁止されていた。この間にカタルーニャ・ナショナリズムは水面下で急伸。1931年スペイン第2共和政が成立するとジェネラリターが再び発足、翌年「カタルーニャ自治憲章」が承認された。1934年スペイン国会で右派が政権を獲得し自治憲章は再び停止、36年は左派の人民戦線が勝利しカタルーニャ自治憲章復活。1936年にバルセロナで人民オリンピックが行われる予定だったが内戦が勃発。「幻の祭典」となる。

<1936年人民オリンピックのポスター>

バルセロナ人民オリンピック

 

1938年バルセロナは反乱軍による無差別爆撃を受け39年反乱軍によって陥落。共和国側の犠牲者だけでなくフランコ支持者の聖職者たちもアナーキストによって処刑された。

<バルセロナの無差別攻撃>

バルセロナの空爆
De Italian Airforce – http://www.barcelonabombardejada.cat/?q=ca/imatges, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=25495577

 

フランコ体制下カタラン語とカタルーニャのアイデンティティーは全て厳しく弾圧され自治政府や自治憲章は廃止。首相は銃殺され多くの共和国支持者が投獄又は処刑された。カタルーニャは再び恥辱され瀕死の状態となる。

<フランコ総統のバルセロナ入場>

スペイン内戦

フランコ後にやっと立ち上がる

1975年に独裁者フランコが死去。新内閣アドルフォ・スアレス首相の下スペインの民主化が進められた。スアレス首相はジェネラリターの復活を優先し1979年カタルーニャ自治憲章が制定されカタルーニャ自治州が発足した。スペインは1986年にヨーロッパ共同体に加盟し多くの外国企業がカタルーニャへ進出する。もともと商業民族のカタラン人たちはあっという間に経済復興し1992年にバルセロナオリンピックが行われ世界へカタルーニャが紹介された。競技場は「幻の祭典」となった「人民オリンピック会場」を拡張して使われた。まさに92年はカタルーニャの復活を象徴していた。

バルセロナオリンピック1992年

スペインからの独立気運

カタルーニャはスペインのGDPの約20パーセントを稼ぎ出すなか中央政府に多額の税金を収めるが再分配は貧しい州に回され不公平感を募らせている。実際カタルーニャの財政は危機状態。(これには諸説、マドリードも高額支払っているが援助は少ない)

2006年カタルーニャ自治憲章の改正が行われ民族の独自性、カタラン語をスペイン語に優先して公用語とする事、財政司法行政などの自治権の拡大を大きく謳った。しかしスペイン中央政府はこの自治憲章が違憲であるとスペイン憲法裁判所に提訴。2010年6月28日にいくつかの部分が違憲であると判決が下された。

 

2009年にはカタルーニャ州内の自治体で独立に向けた法的拘束力のない住民投票が行われ独立賛成派が多数だったが投票率は27パーセント。投票に行ったのは独立賛成派だったと言われている。

2010年7月10日の大規模デモ110万人が参加した。カタルーニャ憲章が憲法裁判所から違法と判定を受けた後という事もあり人々の関心に火をつけた形になった。

2013年9月11日17時14分にカタルーニャの独立を支持する人たちが手を繋いで世界にアピール。カタルーニャの北から南までにわたる400キロ人の鎖が出来た。

<カタルーニャの道、Via Catalunya>

カタルーニャ独立
11 September 2013, 16:26:56
Source Own work
Author Clara Polo Sabat

2014年はスペイン王位継承戦争でカタルーニャの自治が奪われた300周年。9月11日のデモの参加者は180万人に膨れ上がった。

<エルパイス新聞の記事。独立旗アスタラーダを振る民衆>

カタルーニャの日2014

2017年9月11日も同じく多くの独立旗アスタラーダ(エステラーダ)が振られデモが行われた。警察の発表では昨年より参加者は少なかったとのこと。今年2017年10月1日カタルーニャの独立の国民投票が行われるが中央政府はそれを違法と反対を唱えている。2005年までのカタルーニャの独立派は約20パーセントだったことを鑑みれば今の中央政府のやり方がカタラン人たちを煽ってしまったと思う。

「独立旗アスタラーダはカタルーニャの旗(サニェーラ)にブルーの三角と白い五芒星を使たもの。キューバの国旗、キューバのスペインからの独立に発想を得ている。1918年に既に分離主義者によって使われている」

カタルーニャ独立旗

独立はカタルーニャにとってはデメリットが多い。ヨーロッパユニオンから出ることになりユーロ圏にも入れない。多くの外国企業が既にカタルーニャから撤退をしている。それでも独立を目指すのか。長い歴史の中で何度も踏みつけられてきた民族のアイデンティティー。

ヨーロッパ全体に民族問題がありヨーロッパ内では黙殺されているカタルーニャ独立問題。この後まだまだどうなるか目が離せません。

 

 

 

 

 

 

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アルハンブラ宮殿グラナダ王国<イスラム建築の最高芸術>

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南スペイン・アンダルシア地方のグラナダにある世界遺産。「宮殿」という言葉から受けるヨーロッパの王宮とは違い全体が一つの都市を構成していた。スペイン・イスラム芸術の最高峰。見学する季節や時刻で随分印象が変わる。できればゆっくりした時間の中で太陽の位置で変わって行く影の動きや噴水の水の音、ヘネラリーフェから風に乗ってやって来る花の香を感じたい。

アルハンブラ宮殿
wikipedia cc Alejandro Mantecón-Guillén

アルハンブラの歴史背景

西暦711年ジブラルタル海峡を渡ってやって来たイスラム教徒により西ゴート王国が滅ぼされイベリア半島はイスラム化した。南スペインはアル・アンダルスと呼ばれシリアのダマスカスのウマイヤ朝支配下にはいる。ところが本家のシリアで革命が起こりウマイヤ朝が倒された(750年アッバース革命)。シリアからウマイヤ家の王子が1人逃げて来てコルドバを首都に後期ウマイヤ朝を始める(756年)。

<コルドバ・メスキータ内部>

メスキータ

 

コルドバカリフ王国は10世紀アブデラーマン3世の時にシリアから独立。メスキータ(回教寺院)はさらに拡大され街には大学や図書館、病院があった。後期ウマイヤ朝はその後11代250年の間は大きな内紛も無くスペイン・イスラム王朝は栄華を極めヨーロッパのどの国とも比較できないほどの洗練された先進地域となる。

<コルドバの街、当時の面影が残る白い村>

コルドバの旧市街

11世紀初頭の権力闘争によりコルドバ・カリフ王国は分裂。後期ウマイヤ朝は1031年滅亡。北の方からキリスト教徒のレコンキスタ(国土回復戦争)が始まっていた。

<最初のキリスト教徒が勝利を得たコバドンガ>

コバドンガ

トレドは再びキリスト教徒の手に落ち南スペインはタイファと呼ばれる小さなイスラム諸国が出来る。グラナダもその一つだった。北アフリカのアルモラビデ族がイスラム教徒の支援に入りいくつかの地域を支配下におさめる。12世紀にはアルモアデ族が入って来て領土を取り戻すがキリスト教徒軍はナバス・デ・トロサの戦いでイベリア半島北半分を取り戻した。イベリア半島のイスラム教徒の斜陽の時代、この混乱期にグラナダの丘の上に創られたのがアルハンブラ宮殿。

アルハンブラ宮殿ナスル王朝

「モハメッド・イブン・アラマール・イブン・ナスル」のちの「モハメッド1世」はハエンのアルホナの領主。ここはキリスト教徒との前線地帯だ。時代はコルドバが1236年に陥落しセビージャも間もなく陥落という頃。斜陽のイスラム教徒の王朝として1238年前述の「モハメッド1世」が始めたのがナスル王朝(日本は鎌倉時代)。

<グラナダ最初の王モハメッド1世>

最初の王モハメッド

「モハメッド1世」はグラナダの丘の上に既にあった要塞を居城と決める。キリスト教徒に勝利するのは不可能と読んだ彼は協定を結ぶに至る(1246年対カスティーリア王フェルナンド3世)。カスティーリア王国に税金を支払いグラナダを首都とするアルメリアからジブラルタルまでの地域の独立が謳われていた。すでにあった要塞を改築し60年かけて水道を設置しアルカサバ(要塞)を拡張し宮殿を創った。(その宮殿部分は後に壊されて現存していない。)「モハメッド1世」の外交政策というと聞こえがいいがあらゆる周りの敵たちの顔色を窺いながらの外交。その息子「モハメッド2世」と2代70年の間にグラナダ王国は基礎を固めアルカサバを拡張していった。これがアルハンブラ宮殿の誕生。この時代は宮殿という華麗な物ではなく守りの城、要塞だった。

<アルハンブラ・アルカサバ>

アルカサバ
wiki Alcazaba in Alhambra, Granada
Author Michal Osmenda

 

ナスル王朝の全盛期は「ユースフ1世」(1333年~54)とその息子「モハメッド5世」(1354年~91)の時代。「ユースフ1世」の時代にコマレス宮を中心とする部分が創られモハメッド5世の時にライオンの中庭を中心とする建物が創られた。今見るアルハンブラ宮殿の主要の部分。

<水面に映るコマレス宮殿>

コマレス宮殿

<ライオンの中庭は王達のプライベートな空間>

ライオンの中庭

スルタンの力は絶大で王国の重要人物で構成される諮問委員会、裁判所が存在した。グラナダの街にはマドラサ(コーラン解釈の学校)や病院が置かれた。絹・織物市場や穀物取引所があり商業も盛んであった。「モハメッド5世」の後ナスル朝は約100年存続するが新しい建物はほとんど創られていない。

グラナダ王国の資金源

<ジブラルタル海峡>

ジブラルタル海峡

ジブラルタル海峡は地中海と大西洋の入り口。当時そこを持っていたグラナダ王国は地中海の海上貿易に影響力を持っていた。その当時の海洋国家ジェノバは西地中海の制海権を持っておりジブラルタル海峡を越えられるかどうかは死活問題。グラナダ王国と条約を結び資金を援助し優遇措置を得ていた。ジェノバからの資金がグラナダ王国の経済やアルハンブラ宮殿で生活する王達を支えていた。

<1400年頃のジェノバ共和国の支配地域と海路>

1400年ころジェノバの支配権
Kayac1971
Permission
(Reusing this file)
GFDL e Creative Commons CC-BY-SA tutte le versioni (3.0, 2.5, 3.0, e 1.0), sono l’autore

 

斜陽のグラナダ王国

美しいアルハンブラ宮殿内部では次第に快楽的な生活が主流になる。長い繁栄と平和に退廃した無能な王が続き有力軍人達の対立でグラナダ王国内部の混乱。レコンキスタが続く中キリスト教国カスティーリアがジブラルタル海峡を略奪。それまでの資金源が奪われた。さらに敵対していたカスティーリアとアラゴンが王子王女の結婚によって連合国家になる。これがイサベルとフェルナンドの結婚(1469年)

カトリック両王の結婚

グラナダ王国内部

アルハンブラの内部では骨肉の争いが起こっていた。歴史から学ぶことは多い。すべての王国の崩壊は内部から始まる。

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<国王は息子に裏切られる>

国王アブルハサン(ムルアセン)の息子ボアブディル(モハメッド12世)とその母アイーシャは協力して反乱を起こし王位を奪う。実はアイーシャはイスラム創始者モハメッドの血を引く高貴なお方。最初はモハメッド11世と結婚していたがその死後アブルハサンと結婚してボアブディルが生まれている。国王アブルハサンはキリスト教徒の美しい娘に恋をする。改宗奴隷だったイサベル・デ・ソリスを寵愛し妻にし王妃アイーシャと息子ボアブディルは苦渋の中で辛酸をなめていた。

母アイーシャと結託しボアブディルは父から王位を奪い取りる。王としていざ戦争へ出かけるが1483年キリスト教徒とのルセーナの戦いで捕虜になり再び父王アブル・ハサンが復帰。キリスト教徒側は相手側の内部の揉め事を知っていたようだ。内乱で自滅するのを計算しボアブディルにカスティーリアへの税金の約束を取り付けグラナダへ戻す。グラナダでは叔父ザガルが実権を握っており再び内戦となる。1485年ボアブディルは戦況不利と悟るとキリスト教徒側に逃げ込んだ。叔父のザガンがモハメッド13世として即位。ボアブディルはキリスト教徒と手を組み叔父ザガルと戦争。ザガルが降伏し再びボアブディルはグラナダ王としてアルハンブラ宮殿へ復帰できると信じていたようだがキリスト教徒はグラナダからの全撤退を求めた。ボアブディルが裏切られたと気づいた時には既に打つ手は無かった。包囲されたアルハンブラ宮殿は1492年1月2日無血開城。

<上院議会場にあるグラナダの陥落の絵19世紀プラディージャ>

グラナダの陥落
De Francisco Pradilla – See below., Dominio público, Enlace

ひとつの歴史の終焉。1237年から1492年255年の間に21人の国王達が千一夜物語を過ごした夢のまた夢は終わった。アルハンブラの陥落。

ボアブディルが一族郎党を引き連れシエラネバダを超えるとき最後に振り返りアルハンブラを見て涙した。母アイーシャは「おまえが男として守り切れなかったアルハンブラを見て女のように泣くがよい」と言ったそう。その峠は今も「ススピロ・デ・モーロ」「モーロ人の溜息」と呼ばれている。

<グラナダ議会場にあるボアブディル家族のアルハンブラからの撤退>           白い服の女性が母アイーシャ

アイーシャ・アルハンブラの出発
Aixa, de blanco en el centro de la obra de Manuel
Gómez-Moreno (1880), pintada en Roma

 

<最後の王ボアブディル>

ボアブディル王

ボアブディルはシエラネバダの山岳地帯に領土を与えられたがモロッコのフェズまで行きそこで暮らして生涯を終える。今もシエラネバダのアルプハラにグラナダの落人たちが住んでいた白い村が残る。

<シエラネバダのアルプハラにある白い村>

アルプハラス

その後のアルハンブラ宮殿

最も輝かしき戦利品アルハンブラ宮殿に入ったキリスト教徒たちはその美しさに驚愕した。カトリック両王の孫カルロス5世はアルハンブラ宮殿を帝国の中心にする予定だった。すでにアメリカ大陸を手に入れハプスブルグ領土も手に入れたカルロス5世皇帝にはアフリカをも含む大帝国の野望があった。時代はコンスタンティノープルが陥落してオスマン・トルコが東地中海で勢力を持っている頃。ウィーン攻略をしたトルコのシュレイマン大帝に攻撃を仕掛けるのに格好の場所だった。

<プラド美術館にあるカルロス5世ティチアーノ作>

カルロス5世

しかしアメリカ大陸の発見後経済的関心が大西洋に移りフェリペ2世は父王カルロス5世の宮殿造営を引き継ぐがそれは終わることはなかった。

19世紀ロマン派の時代

<19世紀の版画に出てくるライオンの中庭>

アルハンブラ19世紀版画
El Patio De Los Leones 1833 David Roberts

時は流れ人々の記憶にさえなくなったアルハンブラ宮殿は廃墟となり忘れ去られた。そこにロマ族が住み浮浪者が滞在しこの城を気に留める者はいなかった。そして更に時は変わりロマン派の時代。古いお城などが見直されていたころアメリカ人作家ワシントンアービングがロシア人の友人とアルハンブラを訪れ旅行記と城にまつわる物語を出版した。「アルハンブラ物語」1832年初版、1851年改定版がベストセラーとなりアルハンブラ宮殿は広く世界に知られることになった。

<アメリカ人作家ワシントンアービング>

ワシントンアービング

アルハンブラ宮殿見学順序

現在入場時間予約制。時間の予約はナスール朝宮殿の入場の事。ヘネラリーフェに関しては午前と午後に分かれている。カルロス5世宮は無料で自由に入れる。写真はフラッシュなしで撮れます。

 

アルハンブラ宮殿は計画性を持って創られた宮殿ではなく何世代にも渡って増改築を重ねた都市複合体。化粧漆喰やタイル、天井や儚い水の音等を楽しみながら進んでいきましょう。順路になっているのでそれに従って進んでいくと以下の順にみることが出来ます。

カルロス5世の宮殿

自由に入れるので時間のあるところで見学。内部の博物館に彫刻や寄木の扉等が展示されている。この丸い中庭は音響が最高に良いので6月にグラナダ音楽祭の会場になる・。

カルロス5世宮殿

入場券のチェック

カルロス5世宮の少し先に個人とグループは別に入場口が作られている。そこでアルハンブラ入場券のバーコードのチェック。指定時間より早くは入れない。30分間の指定時間から遅れると入場できないので注意。切符は合計4回チェックがあるので最後まで失くさないように。

アルハンブラ入場券

メスアール宮

現存する中で一番古い部屋。おそらくアルハンブラの中で一番改造を強いられている場所なので往時の姿は留めていない。この部屋には裁判所があったがキリスト教徒の時代に変更がされ礼拝堂として使われた。奥にはミヒラブというメッカの方角を示す窪み。アラビア文字や漆喰彫刻、天井の寄木細工。

<メスアール宮入口・壁面全体が幾何学模様>

マスアール

 

コマレス宮

大使の間と呼ばれる大広間を含むコマレス宮はアルハンブラの中で最も重要な核をなすもの。アラヤネスの中庭には大きな池がありそこに映るコマレスの塔は水の上にあるように見える。

アルハンブラ、コマレス宮

大使の間

アルハンブラ宮殿にやって来た使節と王が謁見に使った大広間。天井は寄木細工で満天の星空をイメージして創られている。平面すべてに漆喰のアラベスク模様。弱小国になっていたグラナダが最高の見栄を切って外交官たちと謁見をした。明るい外からやって来た使節はうす暗い大広間に入り目がくらむ。後ろと前の光で王が光輝いて見える仕組みだった。この部屋でコロンブスがイサベル女王から宝石箱を受け取ったと言われている。

<大使の間の天井・白は象牙が使われている>

コマレス宮殿

 

アリカタード<石を使った象嵌>

アリカテ(ペンチの様な物)でタイルを切り取り組み合わせていく。模様はすべて幾何学模様。タイル作りのプロセスは粘土の分離から。土を細かく砕き水と混ぜこねて形にしていく。モザイクの為には発色が肝心。緑には銅青、コバルト黄色には鉄とマンガン。赤の混合の秘密は今もわからない。かまどを作り木材を燃やして900度の温度で24時間かけて焼き24時間かけてさました。

アリカタード

神秘学と数学

偶像崇拝の禁止の為イスラム装飾は生き物の形を作らない。基本的には反復するリズム、果てしなく繰り返される模様が空間を埋め尽くし無限を感じさせる。

アルハンブラ、アラベスク模様

二次元空間における回転対称性を分類するとその数は17種類しかない。このアルハンブラ宮殿ではすべての回転対象を使って壁面を飾っている。

<私が一番気に入っているタイル。水の動きの様に見える>

アルハンブラ、モザイク

 

アラベスク模様の基本はユークリッド幾何学。ピタゴラス(BC582頃~496)が体系化しアルジャワリ(800-860)が拡張した三角法の基礎。または我々の手の届かないところに永遠不滅の完璧な存在があるとするプラトン(BC427~347)のイデア論がアラベスクの発展に影響している。

アルハンブラ

 

四角形は四つの等辺を持っていることから自然界の等しく重要な要素と考えられていた。土、空気、火、水の四大元素。どの一つを欠いても物質世界は滅亡する。正四角形を重ねた八角の星はイスラム教徒が好んで使った形。インドで発見されたゼロを運んできたのもイスラム教徒。アラビア数字と呼ぶが進んだ数学はアラビア人がヨーロッパへ運んだ。

アルハンブラ宮殿

 

 ライオンの中庭

ここからはスルタンのプライベートな空間。列柱の森が砂漠のオアシスを感じさせる。

ライオンの中庭

12頭のライオンは12角形の水盤を支えている。ライオンは10世紀から11世紀頃のものだと想定されている。口から水を出すライオンは太陽を現し12頭は黄道帯の12宮であり12か月である。4x3の12も良く使われた数。12頭のライオンはソロモンの神殿にあった12頭の鉄の牡牛であり海を支えている。この海は天空の水がめも表していて海でもあり天空でもある。

ライオンの口からは水が出るためには水圧が必要。アルハンブラ宮殿は丘の頂上に創られておらず中腹にある。丘の頂点に今も貯水池がありシエラネバダから水路によって水が貯められている。それぞれの場所に必要な水が流れるよう標高差と管の太さで水量と水圧の計算がされている。

アルハンブラと光

アルハンブラの建築は完璧に東西南北を向いている。それによって窓から入る光が時間を教えてくれる。もともと不規則な地形を谷や起伏を埋め立てることによって整列させてある。

夏のグラナダの太陽は容赦なく高い所から照らしつける。高い位置で運行する太陽が各部屋には差し込まないので夏は涼しい。冬の低い位置で運行する太陽はより奥の部屋にま光を届けるので冬は暖かくなる。

アルハンブラ

鍾乳石飾り

イスラム建築の天井に良く使われるのが鍾乳石飾り。イスラム教創始者モハメッドは最初は迫害を受けていた。しばらく鍾乳洞の洞窟の中で隠れて暮らしていた時に大天使ガブリエルからコーランのインスピレーションを授かったことに由来する。アルハンブラ・ライオンの中庭に面するに「二姉妹の間」の天井も鍾乳石様式で飾られている。平面図は四角形だが八角形の星の形にし5416の断片を張り合わせてある。当時はさらにその上の窓は色ガラスで時刻と共に光が移り変わっていくように創られている。天井に移される光が動くイメージ。空間の中の際限のない変化は天空をイメージしたもの。

<に姉妹の部屋の天井、窓には色ガラス壁は彩色されていた>

アルハンブラ

ヘネラリーフェ

アラビア語で楽園という意味の庭園。当時とはかなり様子は変えられているとはいえ庭園の本質は失われていない。楽園と同時にアルハンブラに住む王家への食糧を供給する農園や果樹園だった。そして小高いヘネラリーフェに香りの良い果樹や花を植えて宮殿に良い香りが流れる仕組みになっていた。

<アセキアの中庭>

内側に向いて作られた庭が安心感を与え水の音が心地よい。真夏のうだる暑さの中でもここは水と風の流れで涼しいように高度や方角を計算し設計されていいる。最近の発見では雨の音を再現するための管もあったようだ。

<アセキアの中庭・水の音が心地よい>

アセキアのパティオ

<水とイスラム教徒>

飲み水や宗教儀式の清め、入浴等イスラム教徒は当時のキリスト教徒よりも水と密接に繋がっていた。農業や庭園への供給の為に用水路をくまなく創り水を供給した。王宮だけではなく市街地にも街の人々の為の灌漑設備が創られていた。

砂漠で水は宝、色の無い砂漠の民には花々の極彩色は憧れの対象。アルハンブラは水と色をふんだんに使った宝と夢の宮殿都市。

アルハンブラ宮殿入場券

当日券は早朝から並んでも買えないケースが続出ですのでなるべく予定が決まったらネットで予約を入れることをお勧めします。

<予約の仕方>

下がアルハンブラ宮殿公式ページです。スペイン語、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語が選べます。ちょっと複雑なので少し調べてから購入しましょう。種類や予約の仕方、最適な時間等ブログに書いている方もあるようです。

https://www.alhambra.org/en/buy-alhambra-tickets.html

スペインの歴史をまとめた記事です。5分で読めます。 スペインの歴史ダイジェスト版

イスラム王朝のあたりの歴史の記事です 後期ウマイヤ朝・コルドバカリフ王国の繁栄

 

代行サービス等色々あるようですのでご自分の一番いい方法を探して切符を手に入れましょう。光の動きや水の音、流れる風の向き等快適さを計算しつくされています。五感すべてを使って感じてお持ち帰りください。

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