その後のカタルーニャ独立問題、プッチダモン元カタルーニャ知事ドイツで逮捕から釈放

 

カタルーニャ独立問題、激動のその後。国際逮捕状が出てからドイツで逮捕されたカルラス・プッチダモン元カタルーニャ州知事、ところが4月7日に7500ユーロの保釈金で釈放されマドリードに激震が走った。一方カタルーニャ議会は今だ州知事を選任できずこのままだと再選挙の可能性も見えて来た。スペイン中央政府は独立派のカタルーニャ政府を何としても握りつぶしたい用だがここに来てカタルーニャ独立問題は国際問題化し始めた。自分の忘備録としてまとめました。

選挙からプッチダモン氏の逮捕までを振り返ってみた

過去記事と重複するが10月1日の違法の独立投票の結果は43パーセントの投票率と90パーセントの独立賛成、しかも投票箱は公式の物ではなく同じ人物が2度3度投票したケースもあったという信用度の低い投票結果。これで「民主主義だ」と声を高らかに主張する独立派。その後の本格的な大企業のカタルーニャからの本社移転が続きこれが本当にカタラン人たちが望んでいた事なのかと思う。欧州の民族問題は複雑で、お金に支配されない信条を持つ人々が住んでいるこの国ではそれも良しなのかもしれない。1975年まで独裁者により弾圧されていたカタルーニャの人々は何を手に入れ何を失ったのか。

カタルーニャの独立の歴史はこちらの記事をどうぞ

<カタルーニャの独立問題、なぜこんなに揉めているのかまとめてみた>

独立宣言から時系列で


2017年10月10日

世界中のジャーナリストが注目をした違法のカタルーニャの独立投票が終わり力で押さえつけた「悪のスペイン政府xかわいそうなカタルーニャ」の構図は間違いなく世界に発信された。これだけでもカタルーニャの独立運動は成功だったかもしれない。その後の最初の州議会の日が10月10日だった。この期間にプッチダモン州知事はヨーロッパ各国に政治的介入を求めていたがおそらくこの日は朝から議会内部は喧々諤々だったに違いない。プッチダモン州知事は腰が引けているようにも見えたがCUPとANCは本気で独立へ向かってまっしぐらだ。

独立宣言と撤回

この日私もテレビの前で実況中継を見ていた。10月10日は朝から州議会場のあるシウダデーラ公園の州議会場はジャーナリストたちと議員や職員以外の立ち入りは禁止されていた。夕刻には地元の独立派の人々用にスクリーンが準備され独立宣言を祝う準備は完璧に見えた。ところがプッチダモン氏は独立を宣言した後すぐにその効力の停止を発表した。しばらく凍り付いたその場は落胆する独立派のカタラン人たちの脱力する姿で埋め尽くされた。

憲法155条

10月11日

スペイン首相マリアーノ・ラホイ氏は独立宣言をしてすぐに撤回したカルラス・プッチダモン州首相に「あれは独立宣言だったのか、その解答を待つ」と5日間待ちましょうとポールを投げた。独立宣言だった場合は憲法155条が発動しカタルーニャの自治は一旦中央政府の元にわたる。

*スペイン憲法155条一部抜粋=自治州が憲法もしくは他の法律により課せられた義務を履行せず、又はスペインの全体利益を深く損なう行為をなすときは内閣は上院の承認を得て必要な措置及び自治州に対し支持を与えることが出来る。

10月16日

憲法155条の適応についてはマドリードの与党だけでなく条件付きで野党の社会党との合意を結ぶ。

カタルーニャ州知事プッチダモン氏は明確な返答を避けスペイン首相マリアーノ・ラホイ氏に対話を求めたが拒否される。カタルーニャ警察署長トラペロ氏とカタルーニャ民族会議代表(ANC)ジョルディ―サンチェス氏、とオムニウム代表のジョルディー・クシャール氏はマドリードのAUDIENCIA NACIONAL(中央管区裁判所)に出頭命令。9月20日のカタルーニャ州政府関係者の逮捕を受けての住民デモの扇動が理由らしいが警察署長トラペロ氏は保釈金とパスポートの没収で釈放され、サンチェス氏とクシャール氏はそのまま刑務所(マドリード郊外ソトレアル)で拘束され今も刑務所にいる。

10月19日

スペイン中央政府からカタルーニャ政府への「あれは独立宣言だったのか?」の問いの最終期限日プッチダモン州首相は再び「対話」を求め「もし中央政府が憲法155条でカタルーニャ政府の機能を剥奪するならカタルーニャは分離独立峰を議会で正式に採択する」との返答にスペイン中央政府は憲法155条の適応を決定。

スペイン上院で155条の適応が決定した。

10月26日

カタルーニャの独立派の内部は一枚岩ではなく「強靭独立派=CUP」「スペイン政府の中で強い自治権のままうまくやって行きたい派=PDeCAT」の連合政権で着地点が見つからない。CUPとCTRの独立支持政党は中央政府が憲法155条の手続きを終える前に一方的独立宣言=DUI(DeclaracionUnilateral de Independencia)を採択しようとしていたが経済界と結びつきが強いPDeCATは憲法155条が採択される前に上手く立ち回れたらと後ろで動き始めた。

中央政府はカタルーニャに「議会を解散し州議会選挙を実施した場合憲法155条の適応はしない」と語りかけたがその条件はカタルーニャには不利な条件でどちらも全く歩み寄りを見せず平行線が続く。「すり合わせ」や「折り合いをつける」という考えは全く無い。

10月27日

政府上院はは憲法155条をカタルーニャ政府に適応すると承認しカタルーニャ州議会は「DUI=一方的独立宣言」を採択した。検察はプッチダモンら州政府幹部を「反逆罪」等の容疑で告訴し、中央政府は同時に12月21日にカタルーニャ州議会選挙をすると発表。憲法155条による自治権停止は選挙までの期間となる。

ブルッセルに登場したプッチダモン氏


カタルーニャ政府の解体

中央政府はカタルーニャの自治政府の様々な機関を解体した。全国管区裁判所はプッチダモンら(元)カタルーニャ政府幹部を11月2日にマドリードへの出頭を命令。出頭しない場合は逮捕状が発行されることになる。10月30日にはカタルーニャ側も選挙に向けて動き出した。

ブリュッセル

そんな中プッチダモン元州知事と5人の州政府元幹部がベルギーのブリュッセル突如現れた。ベルギーは北部と南部のデリケートな民族問題を抱える国で欧州議会がある。そこにやって来たカタルーニャの独立派幹部たちはベルギー政府にとっては招かれざる客だっただろう。その数日前にベルギーの移民相が「もしプッチダモンがベルギーに亡命を求めるならば可能性がある」と発言していた。始めは政治亡命かと報道されたがその後の記者会見でプッチダモン氏は「安全を確保し正当な裁判」を求める為と語った。

プッチダモン氏らは辣腕弁護士ポール・ベカルシト氏を雇い入れた。ベカルト氏は以前にバスクのテロのメンバーを亡命させた人物。そして11月2日の裁判所の出頭には応じずモニターによっての審問を希望した。スペイン検察庁はこれにより「亡命の危険」があるとの理由で召喚に応じた元州政府幹部を刑務所に送り身柄を拘束した。

2017年12月21日カタルーニャ選挙とその後


12月21日カタルーニャ選挙

カタルーニャ各政党は選挙に向けて動き出した。カタルーニャ議会の定数は135、投票率82パーセント、比例代表制で過半数は68議席。結果、独立派(3党合計議席)70、得票率47,49%、反独立派(3党合計議席)57、得票率43,49パーセント、中間派10。合計を見れば独立派が過半数だったが独立派の中は一枚岩でなく「独立」のみが共通の連合政権。この選挙で一番議席数を増やしたのは反独立派のシウダダーノスだった。シウダダーノスには都市部に生活するスペイン人労働者階級の支持者が多い。経済活動活発なカタルーニャには1950-60年頃からスペイン南部から多くの国内移民が働いておりこの層の代弁者だ。

<カタルーニャ議会場>

カタルーニャ議会場
Description
Català: Parlament de Catalunya, al parc de la Ciutadella (Barcelona)
Date 16 April 2011
Source Own work
Author Enfo
動けないカタルーニャ

選挙で勝利した独立派の内部が共有するのは「独立」だけの連合政権で州首相選びが難航する中ベルギーにいる前カタルーニャ州首相カルラス・プッチデモン氏で何とか合意を得た。議会総会は1月30日と決まったが彼は昨年10月1日の違法選挙と独立宣言により国家反逆罪の疑いでスペイン政府から告訴されておりスペインに戻れば即刻逮捕、有罪となれば最大30年の禁固刑が待っている。そこでプッチダモン氏が出した案はベルギーから遠隔でインターネットを使って議会に出席して州知事に任命されるという案だったがこれは政府与党の圧力の元却下された。プッチダモン氏はスペイン最高裁判所に対して逮捕されずに首相指名投票に出席できる方法を模索したが万策尽きた。

この日はプッチダモン氏が何らかの方法で州議会に登場して州首相に任命されるのではないかとスペイン政府は神経をとがらせていた。空からパラシュート、いや車のトランクに隠れてでもスペインに入国するのではないかという事でカタルーニャ州議会場周辺は厳しい警備が行われた。独立派の人々はプッチダモンの顔がコピーされた紙のお面をかぶり街に出て警察を混乱させた。しかし1月30日に予定されていた州議会は州知事候補者の出席が無いまま流れた。

混乱の中での州首相選び

プッチダモン氏を合法的に州首相とする方法は全て不可能となり拘留されているジョルディー・サンチェス氏を州首相に決めようとするが最高裁が仮釈放をするわけも無くこの話も立ち消える。3月20日、そこで保釈金で釈放中のジョルディ・トゥルイユ氏を新たな州首相候補と決めた。

<ジョルディ―トゥルイユ氏>

ジョルディ―トゥルイユ
wikipedia
CC BY 2.0Description
Jordi Turull a la sessió de control del Ple del Parlament
Date 15 October 2014, 12:04
Source Jordi Turull a la sessió de control del Ple del Parlament
Author Convergència i Unió

 

ところがその翌日3月21日にスペイン最高裁はそのジョルディ・トゥルイユ氏を含む独立派幹部に召喚状を出した。緊急にカタルーニャ議会は総会を前日3月22日に開きトゥルイユ氏がマドリードに行く前に州首相に決めようとしたが、ここで一枚岩でない独立派の弱点が浮き彫りになった。CUPがトゥルイユ氏に賛成に票を投じず過半数に届く事が出来ない。(ジョルディ―・トゥルイユ氏は資本主義派でアルトゥール・マスの流れの人物、CUPは反資本主義を掲げるグループ)そしてこの日も新首相を決められ無いままとなる。

翌3月23日前州政府閣僚たち6人がマドリードの最高裁判所に呼び出されたがその中にマルタ・ルビラ氏の姿が無かった。置手紙「スイスへ行く」を残して消えた。(スイスにはCUPのアナ・ガブリエルが既に亡命しているので何らかの形で合流するであろう)マドリードに出頭した5人はそのまま刑務所に監修された。

衝撃のニュース


ドイツでプッチダモン氏逮捕

同日3月23日スペイン最高裁判所よりプッチダモン元カタルーニャ州首相達6人に一旦取り下げられていた国際逮捕状が出された。その時ジュネーブの国際人権フォーラムに参加していたプッチダモン氏はその後フィンランドのヘルシンキへ向かい24日にヘルシンキ大学での討論会に出席する予定だった。危険を感じたプッチダモン氏はヘルシンキから姿を消した。ベルギーに帰る飛行機の予約をしていたが空港にはあらわれず再び「プッチダモンを探せ」が始まった。後から分かったのは彼らはフィンランドからフェリーでスウェーデン、デンマークそしてドイツに入りベルギーに向かおうとしていたらしい。スペインのCNI(CIAのような組織)はフィンランドで既にプッチダモン氏の車に発信装置を取り付けて動きを掴んでいた。動きを掴んだCNIはドイツ国境を越えたところでドイツの警察に連絡を入れ逮捕に至ったニュースはスペイン中を激震させた。さらにこの車に同乗して運転していたのはなんとカタルーニャの警察官だった。

さらに激震は続く

プッチダモン氏はドイツのNeumunsterの刑務所に収監されスペイン当局は身柄引き渡しを要請した。ここで問題はスペインの法律では反逆罪で逮捕状が出ているプッチダモン氏だがドイツの司法の反逆罪と解釈の違いである。ドイツの反逆罪は「暴力を伴う場合」となるのでプッチダモン氏の場合は当てはまらないとのドイツ司法の判断となり4月5日に7万5000ユーロ(訳1000万円)の保釈金で仮釈放された(ANCが資金を準備)。ドイツ検察庁もその決定に異議なしと発表しスペイン側には再び激震が走った。

刑務所から出て来たプッチダモン氏は待ち受けた世界各国のジャーナリストに対し英語で「スペイン政府による人権抑圧と政治犯にの囚人がいることは欧州の恥だ」と語った。

スペイン与党の面目丸つぶれ

国家反逆罪が適用されればスペインへの強制送還となるが暴力が伴わない為適応されないとすれば罪状は「公金横領=公金による不正な選挙」のみとなる。同時にベルギー検察も3人の元カタルーニャ州政府幹部たちを保釈金無しで開放した。こちらも国家反逆罪が認められなくスペインへの引き渡しはおそらく無くなった。

すでに3月10日クララ・ポンサティ―氏(元教育委員長)はベルギーからスコットランドに移動していた。彼女はもともとスコットランドの大学教授だったがカタルーニャ州政府に関わっていた為プッチダモン氏達とベルギーに亡命していた。今回スコットランドの大学に復職することになったがスコットランドの大学側は国際逮捕状が出ることは承知の上での復職の承認である。国際逮捕状に対し英国警察は自主的に出頭を求め、ポンサティー氏は3月28日警察に向かうが身柄は解放された。保釈金4万ポンド(約600万円)に対しては彼女の支持者たちがスコットランドでカンパを呼びかけるとたちまち5倍の20万ポンド(約3000万円)が集まった。そう、スコットランドはイギリスからの独立運動が盛んでカタルーニャの独立運動に対しては寄り添っている立場なのだ。

国際問題化

逮捕状が出る前にプッチダモン氏はスイスに亡命中のCUPのアナ・ガブリエル氏とジュネーブでスペイン政府のカタルーニャに対する弾圧について活動している。カタルーニャの独立問題はここに来て国際問題化し始めた。これをカタルーニャ側が計算して動いていたとは到底思えないがスペイン政府にとっては想定外の展開となってきた。プッチダモン氏らの動きを見ているとヨーロッパにかなりのカタルーニャ支援組織やカタルーニャの地下組織があり援助をしているに違いない。そしてANCに代表される民間組織の潤沢な資金はおそらく海外からも調達されているのだろう。これらはフランコの独裁政権時代からコネクションに違いなく私たち日本人には想像の出来ない団結力とシステムを持っていると思う。今後のカタルーニャについても目が離せない状態です。

最後に


フランコ後のスペインの中でカタルーニャは自治権を取り戻し経済的にも発展し多くのカタラン人たちはそれ程独立を強くは望んでいなかったのではないか。現カタルーニャ議会も独立派と反独立派は約半分ずつ。何度選挙を繰り返してもまずこれに変化はないだろう。浮動票が少なく多くが考えを変えない支持層。経済発展を遂げたカタルーニャには国内移民の2世3世も多く住んでいて純粋カタラン人たちとの間には大きな溝がある。この溝が深くなった功罪はカタルーニャの政治家たちにあり私利私欲に走り焦点を独立に見せかけ扇動していった背景がある。民衆は振り回されカタラン人のそしてスペインの中で大きく人々が分断されて不信感のみが増大した。多くの企業がカタルーニャから逃げて行き行先が見えない中カタルーニャは21世紀に再びズタズタにされた。

 

<カタルーニャの独立問題>なぜこんなに揉めているのかまとめてみた。

 

カタルーニャの歴史や民族については別記事で書いているのでここでは省略。今揉めているのはそれ以上の様々な事柄が絡み合っている。目まぐるしい出来事を自身の忘備録も兼ねて記録しておきます。

originally posted to Flickr as DSC_0024
Author Galceran
wikipedia C.C

まず2017年10月1日から独立宣言までの出来事を時系列で


カタルーニャ政府は2017年7月4日「分離独立関連法」を成立させ「10月1日の住民投票で賛成多数を得た場合48時間以内に独立を宣言する」と発表。中央政府は住民投票は違憲「10月1日に住民投票は無い」と平行線のまま当日を迎える。EUはスペイン国内問題と主張し無干渉。

<10月1日>

国民投票当日。中央政府から違法を言い渡された中の投票。あらかじめ中央政府は投票箱の没収や投票用紙の印刷会社差し止め、国家警察と治安警察が召喚される。早朝や2日前から学校などの投票所を強制閉鎖から守るため住民が寝泊まりしていた。あれだけ中央政府が投票所閉鎖や投票箱没収をしたにもかかわらず小さな村々で人々はこっそり連絡を取り合い秘密裡に数百万枚の投票用紙を準備した。いくつかの投票所に警察が押しかけ市民に対して暴力で投票所を閉鎖する場面がテレビやSNSで投稿され世界中を駆け巡った。投票用紙も身分確認も無いままの投票で同じ人物が2度3度投票したケースもあったにもかかわらずカタルーニャ政府は90パーセントの独立賛成と発表、週明けにも「独立宣言」と公表。有権者530万人中、投票した人220万。乱暴にも過半数の賛成を得たので「独立宣言」をすると公表。

<10月1日の投票所と投票箱>

Source 01.10.2017 Referendum ilegal 1-OCT
Author HazteOir.org from España
wikipedia C.C


<10月3日>

カタルーニャでゼネスト。中央政府の締め付けに抗議して公共交通はぼ全機能停止。幹線道路の閉鎖、交通機関や大学各美術館等も休館となった。

<10月4日>

国王フェリペ6世のテレビ演説。カタルーニャ自治州指導者らを非難し同州に憲法の秩序を守るよう要請。カタルーニャの人々を落胆させたのは間違いない。カタルーニャにはもともと反王政の人達が少なからずいるのでさらに独立派感情をあおった。

<スペイン国王フェリペ6世>

フェリペ6世
Source Los reyes de España dieron la bienvenida oficial al presidente Macri
Author Casa Rosada – Argentina
wikipedia C.C

<10月5日>

スペイン憲法裁判所はカタルーニャ自治州議会が週明け9日に予定する本会議の招集を差し止める命令を出す。

サバデル銀行、カイシャ銀行が本社機能をカタルーニャ外に移すと発表。 スペインの憲法裁判所が9日に予定されていたカタルーニャ州議会総会の中止を命令。

スペイン中央政府、企業が本社所在地変更手続きの簡略化の法案を検討。

<10月6日>

アルトゥーロ・マス前カタルーニャ首相「カタルーニャはまだ独立の準備はできていない。」とコメント。

フェレシェネとコドルニウ(カタルーニャの地場産業発泡酒メーカー)が本社をマドリードへ、ガスナチュラル・フェノサ(大手エネルギー会社)もマドリード移転を決定。カイシャバンクが本社をバレンシアに移転。

<フレッシェネ・カタルーニャ発泡酒メーカー>

フレッシェネ社
Picture taken by Onar Vikingstad Outside the Freixenet headquarters in Catalunya. Building from architect Josep Ros i Ros

 

<10月7日>

白い旗を持つ人達が「話しましょう」とマドリッドでデモ。良識のあるサイレントな人達が集まり中央政府とカタルーニャ政府の対話を求めた。

大手出版会社プラネタが移転を検討。グルッポ・プラネタは出版会社だがマスコミと言論界に強い影響力を持つ。

首都マドリードで「カタルーニャ独立運動に反対」するデモと集会。

<10月8日>

バルセロナで「カタルーニャ独立反対派」のデモが警察発表で35万人、主催者発表で95万人。

<10月10日>

「独立宣言」予定で世界中のジャーナリストがバルセロナに集まる。独立派の人々は独立を祝うため用意された大きなスクリーン前で独立宣言を待つ。が、18時の予定が1時間遅れと発表が有りどよめく、17時より少し遅れ、州首相は「独立の宣言とその延期」を同時に発表。全員唖然。連合政権のCUPには突然の発表だったようで梯子を外された形になり憮然とした態度。が独立宣言の紙にサインは行われる。

<10月11日>

中央政府では臨時閣僚会議が開かれ首相会見。憲法155条発動かどうか未定。カタルーニャ政府に質問「あれは独立宣言だったのですか?」月曜日までに回答をとボールを投げた。 食品会社ビンボウとコラカウがカタルーニャから移動を表明。

<10月12日>

スペインの祝日。コロンブスが新大陸に到着した日ですべてのイスパニックの日。カタルーニャ代表欠席。

バルセロナではこの祝日を祝うため「反独立派」6万5千人がスペイン国旗とカタルーニャ国旗あるいはEUの旗などを持ち「我々はスペインでありカタルーニャだ」とデモ。

 

経済問題


カタルーニャはスペインの中でも産業の際立って発達している地域。地中海に開けたバルセロナ港があり多くの外国の企業やカタルーニャの企業が活躍しスペイン経済の牽引力。スペインのGDPの約20パーセントを稼ぎ出すがいったん中央政府に収めると政府は貧しい地域に優先に使っていくためカタラン人たちの中に不公平感がある。(歳出不均衡なのは他にもマドリード、バレンシア、バレアレス諸島等もなのでカタラン人だけが損をしているわけではない)

<18世紀のバルセロナ港>

e Barry Lawrence Ruderman Antique Maps Inc.
Author Joseph Friderich Leopold
wikipedia Public Domain
スペイン経済破綻

2008年のリーマンショックはギリシャやイタリアだけでなくスペイン、そしてカタルーニャに大きな打撃だった。多くの企業が倒産し失業者があふれローンを組んだが返せず家を奪われ借金だけ残った人があふれた。(現バルセロナ女性市長アダ・コラウはこの時代に活躍した市民活動家)。各自治州の抱える赤字の中でカタルーニャの抱えるものが2014年に全体の27パーセントを占めていた。

後ろに見え隠れする政治

当時のカタルーニャ政府CIUはジョルディ・プジョールの時代からカタルーニャ政府を長年にわたって支配して来たが資金不正疑惑が発覚し市民の失望の中、不満の矛先を中央政府の緊縮政策にフォーカスしてきた経緯がある。中央政府が右寄り政権「国民党」(PP)なのでカタラン人の憎悪を押し付けるには都合がよかったかもしれない。(国民党(PP)=フランコ後にフランコ体制の政治家を中心に創られた国民同盟を前身とする政党)カタルーニャはフランコの独裁政権時代に迫害を受けている記憶がまだ生々しく人々に残っている。独裁が終わってまだたったの42年。

不満のひとつ

またバスク州とナバーラ州はスペイン17自治州の中で特別にほぼすべての徴税権限を持っている。Soberania fiscalと言って州が徴税権を持っていてその一部を中央政府に収める形になっている。1876年にこの経済協定は締結されていて一旦フランコの時代に停止されたが1978年の憲法により復活している。今もナバーラとバスクは医療制度等が充実しているので有名。カタルーニャはこれを望んで交渉しているが中央政府は拒否。

もし独立したら?

もしカタルーニャが独立した場合EUとシェンゲン協定から出ることになる。カタルーニャ製品には関税がかけられ人の移動も今の様に簡単ではなくなり観光客の数は大幅に減る。カタルーニャ経済はスペインそしてEU内にあるので潤っている。外国企業は「EU外のカタルーニャ」には興味は無く拠点を移すのは間違いない。既にそれはとっくに始まっているが”理想を掲げる独立推進派”は市民に説明どころか本人たちもこのデメリットを想定していなかった。

 

この記事を書いている間に状況はどんどん変化しすでにスペインIBEXを構成する大手企業各社がカタルーニャからの本社機能移動を発表。2017年10月12日現在、今月の12日間だけで540企業がカタルーニャから移動した。

カタルーニャ自治憲章 estatuto de autonomía


 

自治憲章=憲法に盛り込まれている各自治州の憲法

Constitución Española de 1978
Author Own work
wikipedia Public Domein

1978年に制定されたスペイン憲法ではカタルーニャやバスク地方は「民族態」とされそれらの地方言語は「豊かな言語様態」の表れとして「特別の尊重および保護の対象」となると謳われている。2006年の「カタルーニャ州新自治憲章」がカタルーニャを「ネーション=国家」と位置づけ様々な他地域から反発を招いた。

新カタルーニャ憲章の経緯

2003年のカタルーニャ州議会選挙と2004年スペイン議会総選挙の選挙戦当時の左派スペイン社会党の首相候補だったサパテロは新たなカタルーニャ自治憲章の規定を約束。(何故約束したかは私の想像ですが:スペインでは当時の過去の総選挙で第一政党だけでは過半数にならなかったケースが2度あった。地方政党の支持が不可欠となり協力と引き換えに地方政党の要求を受け入れる必要があった。)

<ホセ・ルイス・サパテロ>

www.la-moncloa.es
wikipedia PublicDomain

2005年9月のカタルーニャ州議会で可決され2006年6月当時の社会党政権スペイン下院でも可決された。カタルーニャ州で住民投票に掛けられ賛成多数で2006年”カタルーニャ自治憲章が承認された”

 

この直後、当時野党の国民党(PP)は新自治憲章がスペイン1978年憲章に照らし合わせて違憲であるとスペイン憲法裁判所に提訴。審議は4年かかり2010年6月「カタラン語の使用、財政、司法、域内行政の独自性の強化を目指した14条」を違憲と判決を受ける。

絡み合う経済と政治問題


2010年

世界金融不安の後の緊縮財政の中、上記”2010年カタルーニャ自治憲章が憲法裁判所により違憲とする判決が下された”。これが間違いなくカタルーニャ人の独立意識に火をつけた。2010年以前の独立主義の支持率は20パーセント未満だったがこの頃から際立って上昇。7月には「我々は国家だ、我々が決める」のスローガンのもとバルセロナ中心部で大きなデモ。警察発表110万人主催者発表150万人。

<2010年「我々は国家である」のデモ>

Lohen11 – Josep Renalias
wikipedia C.C

この独立機運を利用し2010年11月28日のカタルーニャ州議会選挙で大躍進したのが連合政党CIU(集中連合)。アルトゥール・マスが州首相に就任し一気に独立主義へ舵取りをしていく(今頃になってカタルーニャはまだ独立の準備はできていないと言った人物)。その後ろには汚職と不正資金問題などの多くのスキャンダルから目をそらせる意図があった。

Generalitat de Catalunya
wikipedia C.C

*CIU(集中連合)は老練な政治家ジョルディ・プジョールの指導のもとカタルーニャ経済界と結びつきが強くカタルーニャの完全独立を求めるよりは現在のスペイン国家の中で地域の利益を最大限に引き出す政策を取って来た政党。アルトゥール・マスはジョルディ・プジョルの弟子。「カタルーニャから企業は逃げない」と言いきれたのはこの時代の経済界との結びつきがあったから。だが時代は変わっていた。

<ジョルディ・プジョール>

Convergència Democràtica de Catalunya
wikipedia C.C
2011年

翌年2011年スペイン議会総選挙ではPP(国民党)マリアーノ・ラホイがスペイン首相に就任。今、カタルーニャ政府とやりあっているのがこのマリアーノ・ラホイ首相。重複するがPP(国民党)はフランコ後にフランコ体制の政治家を中心に創られた国民同盟を前身とする政党。カタラン人たちの反発は大きくなる一方でPPは反カタランで結束する。

<現スペイン首相マリアーノラホイ>

EPP Congress Rome 2006
Author European People’s Party
wikipedia C.C
2012年

2012年11月25日カタルーニャ州議会選挙でマス州首相は「この選挙で過半数を取れば独立か否かの国民投票をする」と州民に発表する。独立機運の高まった州民の票を取ろうとしたが過半数を取れず議席を減らす。そこで躍進し議席を増やしたのが筋金入りの独立推進左派政党ERC。18議席を失ったマスは心ならずもERCと協定しその見返りにカタルーニャ独立への道を約束。ERCの党首が現在のカタルーニャ副首相ジュンケーラス。

ここで初めて州選挙に出て3議席を獲得したのが急伸左翼で反資本主義の独立派CUP(人民連合の候補者)。マスの思惑はここで崩れ去り独立問題をうやむやにできなくなる。

2013年

2013年のディア―ダの日(9月11日)には人々は独立旗を掲げ手を握り合い480キロの人間の鎖を作りカタルーニャの独立をアピール。これは旧ソビエト連邦からの独立を支持するバルト三国が1989年に組織したバルトの道をモデルにしている。その後バルト三国は1991年に独立を達成している。

カタルーニャ独立
11 September 2013, 16:26:56
Source Own work
Author Clara Polo Sabat

もうだれにも止められなくなった状態で2013年12月カタルーニャ政府は中央政府に対し翌年にカタルーニャの独立の賛否を問う拘束力のない住民投票を行うと発表。中央政府からの反対が有ったがこの住民投票は2014年11月9日に行われ独立反対派が棄権したことから投票率は40パーセント、投票者の80パーセントが独立賛成。

2014年

ディア―ダはカタルーニャにとって特別な日だ。1714年9月11日カタルーニャは自治権を奪われた。その300年祭2014年9月11日のディア―ダにかつてない程の大規模なデモが行われた。約300万人のカタラン人が集まった。

<2014年ディア―ダのデモ>

カタルーニャ・ディア―ダ2014
Source Own work
Author Konfrare
wikipedia C.C

運命の2015年カタルーニャ議会選挙を迎える


CIUの分裂とジュンツペルシー

CIUはもともと2つの党の連合体だったが独立関連で意見が分かれ分裂し解散。マスのいるCDCとジュンケラスのERCが中心になり選挙の為の連合体を作ったのが「JxSiジュンツペルシー」。訳すと「共にイエス」。2015年カタルーニャ州議会選挙に向けて独立派選挙連合JxSiとCUPは過半数議席を獲得すれば18か月以内に独立を宣言と発表。

選挙の結果はジュンツペルシーの独立派が獲得議席は過半数確保だが得票率は48パーセントと実際独立支持者は半分以下という事が浮き彫りになった。

共有するのは「独立」のみで他の政策で様々な違いの有る選挙に勝つための寄せ集め集団で首相選びは難航。前カタルーニャ首相マスでひとまず決まりかけるがCUPはこれに猛然反対し出直し選挙の噂も流れる。翌年独立推進派の議員でジローナ市長のカルラス・プッチダモンで落ち着く。このプッチダモンが現カタルーニャ州首相。独立に向けてまっしぐらにダッシュし、独立宣言のすぐ後独立宣言を延期した人物。

<カルラス・プッチダモン現カタルーニャ州首相>

プッチダモン
Source http://www.president.cat/pres_gov/president/ca/presidencia/galeria-presidents/index.html
Author Generalitat de Catalunya
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癒えない傷、スペイン内戦


スペイン内戦の後のフランコ独裁政権下はカタルーニャは厳しい弾圧を受けジェネラリターは閉鎖されカタラン語は禁止された。カタルーニャ首相は処刑されカタルーニャのアイデンティティーは全て否定された。まだその記憶が生々しい中今回の警察による投票所の閉鎖や包囲戦はフランコ時代を思い出させた。

分断と混乱、カタルーニャ民衆が失ったものは大きすぎる。「企業が出ていくはずはない」と人々を暗示にかけ扇動し、「ヨーロッパが助けてくれる」と信じていたカタルーニャの政治家たちの無能さに驚く。「プランB」は準備していなかったのか?それならその甘さにあきれる。プッチダモンの飄々とした態度に・・・・もしかしたらもう一枚後ろに何かカードを準備しているのか?まだまだこの後どうなるのか未知数のカタルーニャです。

唯一得たものは世界に「カタルーニャ」という強く独立を希望している地域がスペインに有ることをアピールできた事かもしれない。

<カタルーニャ>スペインから独立を希望する州カタルーニャについて(民族や歴史)。

補足メモ(2001年からの国内の出来事リスト)


<2001年>民衆党アスナール首相 自由経済導入

<2002年>実質的なユーロ導入により物価の高騰と住宅バブル。不動産の値段が瞬く間に上がり人々は浮かれて踊り銀行は無理なローンを組ませ許可のない地区に住宅が作られていった。

<2003年> カタルーニャ与党CIU(結束と統一)によりカタルーニャ新自治憲章が提起される

<2004年>マドリード列車爆破テロと選挙により政権が社会党サパテロ政権に移る。サパテロ首相新たなカタルーニャ自治憲章の制定を約束。

<2006年> カタルーニャ自治憲章の改正が行われるがはこれを国民党議員100名が違憲と憲法裁判所に提訴。(この段階でのカタルーニャ独立希望者は20パーセント)

<2008年>世界金融不安によりバブル崩壊。税金が上がり社会保障は切られ中小企業が閉鎖し小売店は姿を消していった。

<2009年>カタルーニャ州内の自治体で独立に関して法的拘束力のない住民投票がおこなわれた特率賛成派多数と発表。投票率27パーセント。

国民党のギュルテル事件捜査に関連し国民党の会計バルセナが起訴される。が判事バルタサル・ガルソンが司法界から追放され事件はいったんお蔵入り。

<2010年6月28日>憲法裁判所によりカタルーニャ自治憲章の改正のいくつかが違憲であると判定が下される。

<2010年7月10日>カタルーニャ大規模デモ。110万人参加。

<2010年12月>アルトゥーロマス州首相就任。(マスは州内の問題を独立の陰に隠しカタルーニャ民衆の独立心を利用)

<2011年>5月15日M15運動=大衆運動=始まる。11月20日総選挙で国民党ラホイ首相就任。

<2014年>1月ポデモス結党。9月11日カタルーニャの自治権が奪われた記念日ディア―ダ=スペイン王位継承戦争でカタルーニャの自治権が奪われた300周年に300万人のデモ。

<2015年>カタルーニャ州議会選挙でJxSi(独立諸派連合)は過半数を取れず反資本主義極左独立派CUPと連合政権。CUPはマスとは同調できないという事で「バリバリ独立派プッチデモン」がカタルーニャ州首相に。

<2017年>10月10日独立宣言とその延期

<カタルーニャ>スペインから独立を希望する州カタルーニャについて(民族や歴史)。

 

スペインにある17州のひとつ。大きさは関東平野位のところに人口750万人。地中海に開けた港があり古くから交易で栄えた「国家」だった。国としての歴史は「スペイン国」より古い。首都はバルセロナ。1977年カタルーニャはスペイン政府から強い自治を手に入れているがスペインからの独立を希望している。今年2017年10月1日に独立に関してのカタルーニャの国民投票をすると言っているがスペイン政府は強く反対を唱えている。いったいカタルーニャとはどういうところなのかをまとめてみました。

地理

イベリア半島の北東部の一部。北はピレネー山脈、南東には地中海西側にエブロ川が流れアラゴンと接している地域。

カタルーニャ地図
Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported

 

言語カタラン語(カタルーニャ語)

ラテン語から生まれたロマンス語はその後いくつもの言語にわかれてラテン語の諸語となる。南フランスで今も使われているプロバンス語のひとつオック語の仲間がカタラン語。10世紀には自立した言語となり12世紀には公用文書として使われている。なのでカタラン語はスペイン語の方言というよりプロバンス語の仲間と言った方が正しい。文法的構造も耳で聞いた印象もプロバンス語に近くカタラン語は語のリエゾンを持っている。

彼らはカステジャーノ(スペイン語)とのバイリンガル。バルセロナでは国内移民のスペイン人が多く共通語としてのカステジャーノ(スペイン語)を普通に耳にするがカタラン人同士ではカタラン語を話している。道路標示や案内、美術館の説明などもすべてカタラン語又はカタラン語とカステジャーノ(スペイン語)2カ国語併記。

カタラン語は中央政府から禁止され弾圧を受けた歴史があります。現在のカタラン人の頑なな態度に辟易とすることは私個人的にもありますが守って行かなければ歴史は繰り返される。言語は民族のアイデンティディーだからです。

カタラン語圏

カタラン語は以前のカタルーニャ君主国圏で今も話されているので広範囲にわたる。地中海のバレアレス諸島(マヨルカ島、メノルカ島、イビサ島)サルデーニャ島(現イタリア)の一部、バレンシア州全体、アラゴン州の一部、国境を越えたフランス側のピレネーアリアンタル県、アンドラ公国で話されている。

カタラン語圏
English: Map of the Catalan Countries, including the Catalan language domain.
Date 09/08/2007
Source Own work
Author Marc Belzunces

 

歴史

最初の方の歴史はスペイン史と同じ

謎の先住民族イベロ族が住んでいたところへギリシャ人やカルタゴ人が商売でやって来る。その後ローマ帝国の植民地になり多くの街が創られた。バルセロナの街の地下には今もローマの遺跡が残る。その後ゲルマン民族の大移動で西ゴートの支配下にはいる。南からイスラム教徒が入って来た折フランク王国のカール大帝がイスラム征伐で南に降りて来て801年バルセロナを占領する。ここにひとつの砦を創り辺境領として伯爵を置いた。

<カール大帝>

カール大帝

バルセロナ伯爵領

カール大帝がイスラムに対する砦の領主に伯爵の位を与えたのが<スペイン辺境領バルセロナ伯爵>となる。この後数百年にわたってカタルーニャを支配するバルセロナ伯の始まり。878年にギフレ1世毛むくじゃら王( Wifredo el Velloso)がバルセロナ伯に任じられる。ギフレ1世(カタルーニャ初代君主)は世襲制で伯爵の地位を継承させ1412年まで続いた。

<ギフレ1世>

バルセロナ伯ギフレ1世

9世紀にはフランク王国との主従関係は終わっているのでこれがカタルーニャの起点。コルドバカリフ王国からイスラム教徒の遠征が度重なる。何度もフランク王国に援助を頼むが助けてもらえずバルセロナは壊滅的な打撃を受ける。「援助が無いなら主従関係も終わりましょう」とバルセロナ伯ポレイ二世は987年フランク王国と縁を切る。しかし一度も「カタルーニャ王国」は名乗っていない。この1000年ころがカタルーニャ君主国の誕生と言われる。

アラゴン王国と連合

1137年にバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世(ラモン・ベレンゲール)が隣のアラゴン王国の女王ペトロニーラと結婚。今思えばカタラン人にとってこの結婚がすべての間違いの始まりだったかも。ここからアラゴン・カタルーニャ連合王国が始まる。この頃にバルセロナ伯が領有する土地を指して「カタルーニャ」という言葉が初めて文献に登場する。この時代にアリカンテまでの地中海沿岸地域を手に入れてイベリア半島で最も強力な権力を持つ君主となる。アラゴンとカタルーニャはお互いの自治を尊重していた。

カタルーニャとアラゴン

 

<ペトロニーラとラモン・バランゲ4世>

ラモンバランゲーとペトロニーナ

ジャウマ1世(ハイメ1世)征服王の時イスラム教徒からマヨルカ島を取り戻しバレアレス諸島、バレンシア王国を征服した。

<ジャウマ1世>

ジャウマ1世

海洋帝国

13世紀ジャウマ1世とペドロ3世の時代には地中海に野望を持つ商人たちの海洋帝国となる。マグレブ、チュニジア、エジプト、コンスタンティノープルに商館を立てせっせとお金儲けをやっていた。相手が異教徒であろうとうまく折り合いをつけ解決をして冒険家のように外へ出ていきシチリア島にまで支配を伸ばす。(シチリアの晩鐘)

 

 

14世紀にはギリシャのアテネまでも占領しコンスタンティノープルと対抗し東方貿易の基地となる。当時のヨーロッパ世界の中心は地中海だった事を考えるとまさに絶頂期。当時の地中海の貿易商人たちは商人という言葉では表しきれないような探検家や冒険家のようで知らない土地へ行き言葉のわからないところで異教徒たちと交渉して活躍していた。

カタルーニャ

 

カタルーニャのコルツ(コルテス)ヨーロッパ最古の議会

ベネチア共和国が非常に民主的であったように商業民族は民主的で現実的である。カタルーニャはベネチア共和国よりも古い議会を持っていてコルツ(コルテス)と呼ぶ。

最初の起源は不明だがジャウマ一世の時1214年に王権に対抗して貴族と市民たちが自分たちの権利を主張し手に入れた。これはイギリスのマグナカルタよりも1年早い。この時彼らは「カタルーニャ人民の代表」と称して伯に向け「自分たちの相談なく又は協約による定めなしに課税や拘禁を行ってはいけない」と要求した。これは前年に即位したジャウマ1世に対する忠誠との交換条件。コルツ(コルテス)の代表はバルセロナ伯の配下の貴族達と聖職者団。そしてもう一つはバルセロナ市で活躍する商人や手工業者団体。後に百人委員会「コンセホ・デ・シエン」を置き都市有力者たちの手による集団支配。カタラン人たちは上からの命令を嫌う体質であり中央に反発をする傾向がこの頃から既にあった(まさに今の中央政府に対する彼らの反抗)。彼ら商人たちは自分たちの機関として海外に領事館や商館を持ち13世紀にはその富を背景に伯にいくつもの要求を掲げる。国内外における商人の保護政策を求めバルセロナにおける裁判権をも伯から奪い取った。カタルーニャの発展を都市商人たちが支えていたのだから当然の事であった。

<コルツに集まる代表>

カタルーニャのコルテス

没落のきっかけはコロンブスの新大陸発見

カスティーリアの王女イサベルとアラゴン・カタルーニャのフェラン(フェルナンド)の結婚によりスペインという国が出来上がる(1469年)

<イサベルとフェルナンドの結婚>

カトリック両王の結婚

スペイン王国はコルツ(コルテス)に対して冷淡であった。後のハプスブルグ朝からブルボン朝にいたる3世紀間のカタルーニャの反抗はコルツ(コルテス)の権利の主張、抵抗だった。

スペイン王国成立と共にカタルーニャは「バルセロナ伯の国家」ではなくなったがカタルーニャ政府は残されジェネラリターと呼ばれる。いったん1716年に廃止されるが現在のジェネラリター(カタルーニャ政府)の始まり。現在も同じ場所にある。

15世紀になるとオスマントルコの登場やイタリア諸都市が力を伸ばしてい次第にカタルーニャの過日の勢いはなくなって行くが一番の原因はアメリカ大陸の発見。

コロンブスの大陸到着

 

フェルナンド王はカタラン人に恨まれても仕方がない。新大陸発見のコロンブスに援助をしたのは妻のイサベル女王だった。大西洋航海に行ったのはカスティーリアの貴族やごろつきで固められ新大陸からの船はすべてセビージャに入港した。

<セビージャの港16世紀>

セビージャの港16世紀

カタルーニャが没落していったのは当時の人々の関心が地中海から大西洋に変わったその波の乗れなかったのが理由。大体フェルナンドがイサベルと結婚していなければカタルーニャは今も独立国家だったに違いない。フェルナンドはアラゴン人。カタラン人ではないのでカタルーニャに対する愛情は無かったと、私は思っている。

この後のカタルーニャは何度も何度も打ちひしがれ立ち上がっては倒され瀕死の状態でも抵抗していく。

その後のカタルーニャの不幸と抵抗
<30年戦争後の収穫人戦争>

30年戦争の末期。フランス王ルイ13世対スペイン王フェリペ4世。スペインへ幾度となく手を出してくるフランス。敵の敵は味方と後ろから手をまわしポルトガルのスペインからの独立を支援し次はカタルーニャのスペインへの反抗を手助けする。

<有名な絵ラス・メニーナスの鏡の中にいるのがフェリペ4世>

ラスメニーナス

*{フランス王ルイ13世はアンリ4世とメディチ家のマリード・メディシスの息子。結婚相手が対戦相手フェリペ4世の姉である。その2人の息子が太陽王ルイ14世。ルイ14世の妻はスペインのフェリペ4世の娘。ここでスペイン・ハプスブルグ王家はブルボンと婚姻関係が強くなり後に辛酸をなめる}

<ルイ13世フランス王>

ルイ13世
United States public domain tag

<カタルーニャの農民が鎌を持って反乱を起こす>

1640年の農民の反乱

 

スペインとフランスの国境にあるカタルーニャは自然と激戦区になりカスティーリアの軍隊が何年も駐留。乱暴狼藉を繰り返し堪忍袋の緒が切れた農民たちが立ち上がる。聖体祭の日に収穫用の鎌を持った農民たちがスペイン王の代理の公爵を殺してしまう。12年間の反乱の末カタルーニャは降伏。その後西仏戦争は続き両国間で調印されたのが「ピレネー条約」フランスはカタルーニャの一部を割譲する。いまだにカタルーニャの一部ルシオン地方はフランス領。

<スペイン王位継承戦争・またしても叩きのめされる>

<カルロス2世・4歳まで歩けず7歳まで話せなかった王>

カルロス2世

フェリペ4世の2度目の結婚の長男カルロス2世は体も頭も弱く世継ぎなく他界。スペイン・ハプスブルグ家はブルボンとも親戚関係が出来ていて両方が王位継承を主張して戦争になる。12年間の戦争後フランスが勝利をおさめスペイン・ブルボン朝が始まる。前述太陽王ルイ14世の孫がスペイン王フェリペ5世として即位。

<フェリペ5世>

フェリペ5世

歴史の表面上は王家が変わっただけの様に見えるがフランスの中央集権的な絶対王政によりスペインの各地方都市は制圧され、カタルーニャの反感は強かった。1713年から各地で戦闘が始まり14か月の抵抗が続きそして再びカタルーニャは力尽き敗れた。その籠城戦のリーダーが「ラファエル・カサノバ」。今もカタルーニャ独立のシンボル的な存在。

<1714年9月11日、バルセロナの陥落>

バルセロナの陥落1714年9月11日

1714年9月11日バルセロナ陥落。ブルボンのフェリペ5世の制裁は冷酷だった。カタルーニャにこれまで特権的に認められていた地方政府は解散を命じられ犯行の中心だったバルセロナ大学は閉鎖される。バルセロナを見張る為の軍隊の駐屯地が創られる。このシウダデーラは今は公園になっている。

最後には懲罰としてカタラン語の公文書への使用が禁止されカタラン語を公的な場で使うことを禁止された。そしてジェネラリターは廃止された。

カタルーニャが自由を奪われた9月11日は毎年「ディア―ダ」という国民の祝日になっている。「ラファエル・カサノバ」の像の前に人が集まる。

<1914年9月11日ラファエル・カサノバの銅像に集まるカタラン人>

ラファエル・カサノバ

サッカーの時バルセロナのカンプ・ノウでは試合開始後17分14秒に一斉に独立のコールが上がる。

<ナポレオン戦争>

またしてもフランスである。フランス革命の後ナポレオンがヨーロッパ遠征を始めスペインにもフランス革命の「自由を輸出してあげよう」とやって来た。カタルーニャは最初にナポレオン軍の侵入を受けたところで激しい抵抗戦が行われた。長い籠城戦のあと落城。特にジローナの街は7か月の籠城戦を戦い飢えと疫病で息絶える。

<さらにスペイン内戦でノックアウト>

スペイン内戦は簡単に分けるとファシズムと反ファシズムの戦いなのでカタルーニャの対スペイン反抗ではない。

スペイン内戦

内戦の前のプリモデリベラ将軍の独裁政権ですでにカタラン語の公的な場での使用は禁止、カタラン人の民族舞踊や民族旗の使用は禁止されていた。この間にカタルーニャ・ナショナリズムは水面下で急伸。1931年スペイン第2共和政が成立するとジェネラリターが再び発足、翌年「カタルーニャ自治憲章」が承認された。1934年スペイン国会で右派が政権を獲得し自治憲章は再び停止、36年は左派の人民戦線が勝利しカタルーニャ自治憲章復活。1936年にバルセロナで人民オリンピックが行われる予定だったが内戦が勃発。「幻の祭典」となる。

<1936年人民オリンピックのポスター>

バルセロナ人民オリンピック

 

1938年バルセロナは反乱軍による無差別爆撃を受け39年反乱軍によって陥落。共和国側の犠牲者だけでなくフランコ支持者の聖職者たちもアナーキストによって処刑された。

<バルセロナの無差別攻撃>

バルセロナの空爆
De Italian Airforce – http://www.barcelonabombardejada.cat/?q=ca/imatges, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=25495577

 

フランコ体制下カタラン語とカタルーニャのアイデンティティーは全て厳しく弾圧され自治政府や自治憲章は廃止。首相は銃殺され多くの共和国支持者が投獄又は処刑された。カタルーニャは再び恥辱され瀕死の状態となる。

<フランコ総統のバルセロナ入場>

スペイン内戦

フランコ後にやっと立ち上がる

1975年に独裁者フランコが死去。新内閣アドルフォ・スアレス首相の下スペインの民主化が進められた。スアレス首相はジェネラリターの復活を優先し1979年カタルーニャ自治憲章が制定されカタルーニャ自治州が発足した。スペインは1986年にヨーロッパ共同体に加盟し多くの外国企業がカタルーニャへ進出する。もともと商業民族のカタラン人たちはあっという間に経済復興し1992年にバルセロナオリンピックが行われ世界へカタルーニャが紹介された。競技場は「幻の祭典」となった「人民オリンピック会場」を拡張して使われた。まさに92年はカタルーニャの復活を象徴していた。

バルセロナオリンピック1992年

<カタルーニャの独立問題>なぜこんなに揉めているのかまとめてみた。

スペインからの独立気運

カタルーニャはスペインのGDPの約20パーセントを稼ぎ出すなか中央政府に多額の税金を収めるが再分配は貧しい州に回され不公平感を募らせている。実際カタルーニャの財政は危機状態。(これには諸説、マドリードも高額支払っているが援助は少ない)

2006年カタルーニャ自治憲章の改正が行われ民族の独自性、カタラン語をスペイン語に優先して公用語とする事、財政司法行政などの自治権の拡大を大きく謳った。しかしスペイン中央政府はこの自治憲章が違憲であるとスペイン憲法裁判所に提訴。2010年6月28日にいくつかの部分が違憲であると判決が下された。

 

2009年にはカタルーニャ州内の自治体で独立に向けた法的拘束力のない住民投票が行われ独立賛成派が多数だったが投票率は27パーセント。投票に行ったのは独立賛成派だったと言われている。

2010年7月10日の大規模デモ110万人が参加した。カタルーニャ憲章が憲法裁判所から違法と判定を受けた後という事もあり人々の関心に火をつけた形になった。

2013年9月11日17時14分にカタルーニャの独立を支持する人たちが手を繋いで世界にアピール。カタルーニャの北から南までにわたる400キロ人の鎖が出来た。

<カタルーニャの道、Via Catalunya>

カタルーニャ独立
11 September 2013, 16:26:56
Source Own work
Author Clara Polo Sabat

2014年はスペイン王位継承戦争でカタルーニャの自治が奪われた300周年。9月11日のデモの参加者は180万人に膨れ上がった。

<エルパイス新聞の記事。独立旗アスタラーダを振る民衆>

カタルーニャの日2014

2017年9月11日も同じく多くの独立旗アスタラーダ(エステラーダ)が振られデモが行われた。警察の発表では昨年より参加者は少なかったとのこと。今年2017年10月1日カタルーニャの独立の国民投票が行われるが中央政府はそれを違法と反対を唱えている。2005年までのカタルーニャの独立派は約20パーセントだったことを鑑みれば今の中央政府のやり方がカタラン人たちを煽ってしまったと思う。

「独立旗アスタラーダはカタルーニャの旗(サニェーラ)にブルーの三角と白い五芒星を使たもの。キューバの国旗、キューバのスペインからの独立に発想を得ている。1918年に既に分離主義者によって使われている」

カタルーニャ独立旗

独立はカタルーニャにとってはデメリットが多い。ヨーロッパユニオンから出ることになりユーロ圏にも入れない。多くの外国企業が既にカタルーニャから撤退をしている。それでも独立を目指すのか。長い歴史の中で何度も踏みつけられてきた民族のアイデンティティー。

ヨーロッパ全体に民族問題がありヨーロッパ内では黙殺されているカタルーニャ独立問題。この後まだまだどうなるか目が離せません。