印象派の絵は人気がある、モネやゴッホやルノワールやゴーギャン、どれもうっとり幸せな気分にしてくれる優しい絵画たちだ。印象派の絵は日本だけでなくアメリカやヨーロッパでも大変人気があるジャンルなのです。このページでは「印象派とは何?」を簡単にわかりやすく解説してみる事にした。
Contents
印象派
まずは印象派って?
印象派は19世紀後半にフランスで画家達が集まって始めた新しい芸術運動。光の変化や空気の色などを画家各自の「印象」を通して描いた。それまでの伝統的な美術界に革新をもたらした。と言うあたりが一番簡単な説明。
印象派の特徴は?
時間による光の変化を描こうとした。
写真に出来ない風景を描こうとした。
戸外での作成を始めた。
風景や農民や普通の人や街並みを描いた。
短い筆のストロークや重ね合わせた色を使った。
日本の浮世絵に影響を受けた。
では印象派についてもう少し
実は風景画はヨーロッパでは高尚なジャンルでは無かった
美術の世界は保守的で権威的だ。長い間ヨーロッパで画家達は聖書や神話や王様を描いていた。
ヨーロッパ各地にアカデミーが作られ、フランスではフランス王立アカデミーが権威を持っていた。古典や宗教画又は国王の肖像画などの分野のみが「アカデミーな世界」で「高尚な絵画」として認められていた。
風景画は「高尚な絵画」のジャンルには無かったのだ。長い西洋絵画の歴史の中で「綺麗な風景画を見てうっとり」して「素敵ね~」「この絵好きだわ~」というのはつい最近になってからの絵の楽しみ方なのです。
本来画家は「サロン」に絵を出展した
伝統的で権威的な美術の世界で絵画はサロンに出展するものだった。サロンは部屋と言う意味のフランス語。
サロンの歴史は古くルイ14世の時代に始まった。フランスの王族が芸術家たちを保護して宮殿等を装飾させるために創った組織。更にそのメンバーが若いアーティストを育てる組織がアカデミー=国立美術学校になった。
アカデミーの学生達が自分の作品をパリのベルサイユ宮殿のサロン・カレという部屋で展示した。サロンは部屋と言う意味で、サロン・カレはカレの部屋。その部屋=サロンに定冠詞をつけル・サロンと呼ばれるようになる。
フランス革命の後はサロンに誰でも参加できるようになったが、参加するには厳しい審査が行われ実力だけでなくコネやチャンスが必要だった。
サロンに出展出来ない画家が展覧会を開いたのが印象派展の始まり
最初の印象派展は無名の画家達が自分たちで開いた展示販売会。厳しい審査やコネやチャンスが無い若い画家達が自分たちの作品を自由に展示でき販売したり有名になれる展覧会を自費で始めた。みんなでお金を出し合って展示会を開き作品が売れたら売り上げの中から出したお金に応じて利益を分け合った。
この展覧会が後に印象派展と呼ばれるもので第1回目が1874年の第1回印象派展でその後も続き合計8回開催されている。
モネもマネも有名になりたかったし稼ぎたかったのだ。
印象派と言う名前の由来
実は印象派と言う名前は印象派の画家達が名乗ったのではなく批評家に悪口として言われた言葉だった。
前述したパリで1874年アーティスト達が自分たちの展覧会を行った。後にこの展覧会は第1回印象派展と呼ばれるが上述したように最初は画家彫刻家たちの共同出資の展覧会だった。
この展覧会でモネの「印象・日の出」という作品が出展された。
その後当時の新聞「シャリバリ」の記事に「印象主義者の展覧会」という題で「なんとひどい展覧会なんだ」という辛口の記事がルイ・ルロワという人物によって書かれた。この言葉が後に印象派展と言う呼び名になる。
印象派の筆触分割
色は混ぜると濁り暗くなる。透明感を出すために混ぜるのをやめてみた、これが筆触分割。混ぜないで上から早いタッチで色を重ねていく描きかただ。これはスペインの巨匠ベラスケス(17世紀)が既に使っていた描き方だがフランスのエドワール・マネがプラド美術館を見学した時にベラスケスの絵画を見て学んだ。(全ての印象派の画家が筆触分割を使ったわけでは無い)
チューブ絵の具の発明と蒸気機関車
さらにそれまで絵の具は外に持ち出せないものだった。チューブの絵の具が発明され(1840年)画家達が画材道具を持って外で絵を描くようになった。朝の光のやわらかさや雨上がりの一瞬の光を自分の印象を通して描くようになった。
又蒸気機関車の発達で画家達が遠くへ行けるようになったのも風景画を描くようになったことに拍車をかけた。
ジャポニズムと印象派
19世紀ジャポニズムと言ってヨーロッパで日本が爆発的に流行った事が有った。パリの女性達が扇子やうちわを持ち日本の着物をガウン変わり着ているのがかっこよかった。
ジャポニズムと浮世絵
日本の鎖国が解けたのが1854年、印象派展の20年前だ。この頃に日本の美術工芸品が大量に欧米に渡っている。輸出された物の中に陶器があり陶器を割れない為に包む紙に浮世絵が使われていた。今も引っ越しの時に陶器を新聞紙で包んだりする、その包み紙が浮世絵だったのだ。これを見たヨーロッパの画家達が遠近法のない絵画を見て驚愕した。
更に1867年にパリで万国博覧会が行われた。写真上はパリ万博にての日本の代表団。日本はこの万博に初めて参加しているがこの時日本は未だ幕末、ちょんまげに羽織袴の幕府の要人たちが刀を差してパリの街を闊歩した。
浮世絵の印象派への影響
ヨーロッパ絵画は描くときに決まり事がある。遠近法や明暗法や構図の取り方などだ。大事な物は真ん中にあってそこには必ずストーリーや意味があった。西洋絵画が長い間に蓄積して来た規則や哲学が存在した。
ところが浮世絵は取るに足りないものを描き中心が無い。身近なモチーフを独特の描き方で表現し、紙や顔料も随分と違っていて非常に斬新で驚かれた。
これらを積極的に取り入れたのがゴッホやモネやドガやピサロだった。
北斎漫画
前述した日本の陶器がヨーロッパに運ばれるときの緩衝材に浮世絵が使われたと書いた。その中に北斎漫画があった。北斎漫画というのは北斎のスケッチ画集。絵手本と言って画学生の為の絵の教本で全15編に4000図が収められているらしい。
これらを見たヨーロッパ人たち特にフランス人の印象派の画家達に非常に影響を与えた。
伝統的な遠近法を使わずに、大事な物を大きく書いたり、大事な物が端の方にあったり、非常に平面的だったり、そしてテーマは自由なのだ。こんな絵を描いても良いのかと驚愕した。
ゴッホと浮世絵
ゴッホが何百枚かの浮世絵の版画を購入していた事が判っている。弟のテオへの手紙に浮世絵のすばらしさを語っている。写真下は広重の作品をゴッホが自分なりに描いたもの。ヨーロッパには無い絵の描きかたでゴッホは夢中になり他にも沢山の浮世絵風の物を描いている。
ゴッホがその後アルルに引っ越したのも日本的な明るい素材を求めての移動だった。その他の作品にも日本的な物や浮世絵の影響がみられるのがゴッホの作品だ。
印象派まとめ
印象派を簡単に説明してみようとしましたがバックグラウンドを解説していくと深みにはまりました。
印象派とは19世紀、伝統的な西欧絵画の中のアウトロー的な存在だった。彼らは当時は全く評価されていなかった画家集団だった。
カメラの発明により写実的な絵画の世界を写真が行うようになり絵画に出来ない世界を絵に描こうとした画家達だ。
日本の浮世絵に影響を受け遠近法も明暗法も使わない新しい絵画の世界が始まった。
印象派の始まりから絵画の世界はもっと自由になって変化を遂げていく事になる。