ベラスケスの作品と生涯。斜陽のスペイン・ハプスブルグの歴史をベラスケスの絵画で説明

 

ベラスケスは17世紀にスペインで活躍した画家。本名は「ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス」。スペイン国王フェリペ4世に仕え生涯王の為に絵を描いた。時代は斜陽のスペイン帝国。プラド美術館の巨匠達の中でも格別の扱いの画家である。17世紀に同時にスペインで多くの天才画家たちが登場している。

この時代をスペイン黄金世紀と呼ぶ。スルバラン、リベラ、ムリーリョ等天才的な画家たちが同時期に活躍した時代で多くの作品をプラド美術館で鑑賞できる。その中でもベラスケスはスペイン国王フェリペ4世に寵愛され24歳で国王付の画家になり並外れた成功を手にした画家。ベラスケスの生涯と作品を見ながら斜陽のスペインの歴史をハプスブルグの終焉迄見ていきます。

 

ディエゴ・デ・ベラスケス


ベラスケスはスペイン国王フェリペ4世に24歳で気に入られ生涯宮廷画家として活躍した。ベラスケスが生まれた1599年トレドでエル・グレコは晩年を過ごしていた。ベラスケスは絵画だけでなく宮廷の様々の仕事を受け持ちその人格も高貴で国王に信頼された。王家の結婚式の準備なども取り仕切り時間を割かれた為絵画作品数は非常に少なく長い間海外では知られていなかった。

 

セビージャで誕生

生まれは南スペインのセビージャ、当時のセビージャは大航海時代の船が入り人が集まる大都会だった。スルバランやムリーリョも同じ時代にコスモポリタンの街セビージャで活躍した。1599年6月6日にセビージャでベラスケスが洗礼を受けていることが分かっている。ベラスケスというのは母方の姓でアンダルシアでは母方の姓を名乗ることが多かったようだ。7人兄弟の長男として生まれ貴族の血を引く家系だったが格別裕福というわけでは無かったようだ。

<ベラスケスが生まれた頃のセビージャ>

16世紀のセビージャ
De atribuido a Alonso Sánchez Coello – [2], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1713560
新大陸からの富を積んだ船が入港するセビージャは当時のスペインで最も豊かな街で芸術も栄えていた。人が集まりインフレも激しく野望を持ったいかさま師や一攫千金を狙った詐欺師達が集まる混乱した大都会だった。

師匠フランシスコ・パチェーコ

1611年9月(12歳)にセビージャの画家フランシスコ・パチェーコに弟子入りしている契約書が残る。様々な事に才能を見せた息子に絵の才能を見抜いた両親が選んだ師匠だ。

パチェーコは画家で教養人で詩人で彼の家には芸術家や学者が集まるサロンのような場所になっており知的な雰囲気に溢れていた。そのためベラスケスも若いころから様々な事に興味を持つ人物に育つ。ベラスケスが幸運だったのは師であるパチェーコが弟子の優秀さを公然と認める心の広さを持った人物だったことだ。

<フランシスコ・パチェコ、ベラスケス1620、プラド美術館>

ベラスケスの描いたパチェコ
De Diego Velázquez – [2], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15587626
師匠の資格と結婚

1617年3月14日(18歳)ベラスケスは資格審査を受け当時の画家の最高位「宗教画の師匠」と認められ独立する。(絵画の師匠も資格制だった)

(下)ベラスケス初期(1618年19歳)の作品で無原罪の御宿り。ベラスケスが画家組合の親方に登録されておそらく初めての公的な仕事。無原罪の御宿りは「聖母マリアが母の胎内に宿ったときに既に原罪を免れていた」と言うカトリックの教義。対抗宗教改革の時代にスペインで好まれて多くの画家達が描いた。マリアのモデルはベラスケスが後に結婚するファナ。師匠パチェーコの娘。

<無原罪の御宿り1618年ベラスケス、ロンドン・ナショナルギャラリー>

ベラスケス無原罪の御宿り
Full title: The Immaculate Conception
Artist: Diego Velazquez
Date made: 1618-19
Source: http://www.nationalgalleryimages.co.uk/
Contact: picture.library@nationalgallery.co.uk
Copyright © The National Gallery, London

ベラスケスの師匠パチェーコは「絵画芸術論」を記した人物で宗教画の様々な規定をまとめた。「絵画芸術論」が出版されるのはパチェーコ没後だが師匠から様々な絵画論を聞いていたであろうベラスケスは師の規定に忠実にこの作品を描いている。”無原罪の御宿りのマリアは12-3歳の少女の姿で両手は胸の前で祈りの形をして、マリアの乗る純潔をあらわす三日月は下を向くべきである”とされた。

(下)又同じころに描いた風俗画。そこに描かれる手前のボデゴン(静物画)は見事な素材感。手前のお皿やナイフ、陶器の入れ物等が素晴らしい。

<卵を料理する老婆と少年、ベラスケス1618年、スコットランド国立美術館>

ベラスケス
De Diego Velázquez – Google Art Project: Home – pic Maximum resolution., Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=19980800

約1年後に師匠パチェーコの娘ファナと結婚。花嫁16歳ベラスケス19歳。2人の間に1619年に長女フランシスカ、1621年に次女イグナシアが生まれているが次女は夭折している。おそらくベラスケスの次に紹介する作品「東方三賢者の礼拝」の聖母が妻ファナで赤子キリストが長女フランシスカ、手前のひざまつく男性がベラスケス本人。画家20歳頃の作品でプラド美術館にある。

<ベラスケス、東方三賢者の礼拝、1619年、プラド美術館>

ベラスケス東方3賢者の礼拝

Adoración de los Reyes Magos
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)イエス・キリストの誕生を祝って東方の三賢者がベツレヘムの馬小屋で礼拝をするという聖書の場面。ベラスケスはこの頃既にセビージャでは有名な画家になっていた。

ボデゴンの画家

ベラスケスは初めボデゴン(静物画)で名を成している。下の作品は21歳のベラスケスが描いた当時のセビージャの日常の様子で「セビージャの水売り」。手前の大きな壺の透明な水滴が落ちていく様子が素晴らしい。交易の船が出入りしたセビージャは国際都市で北方で好まれた民衆の生活の絵を若いベラスケスは描いていた。

<セビージャの水売り、1620年ロンドン・ウェリントン美術館>

ベラスケス、セビージャの水売り
De Diego Velázquez – Apsley House Collection., Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=45378708
マドリード

1622年にベラスケスはマドリードを訪れエル・エスコリアル修道院で王家のコレクションに触れている。国王の肖像画を描ける機会を狙っての上京だったがその目的は果たせずセビージャへ帰った。ところがマドリード滞在時に描いたルイス・デ・ゴンゴラという詩人の肖像画が素晴らしい出来で後に「オリバーレス公・伯爵」によって再びマドリードに呼び戻されることになった。

<ルイス・デ・ゴンゴラ、模写、プラド美術館>

ベラスケス、ルイスデゴンゴラ
Luis de Góngora
ANÓNIMO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

上記作品「詩人ルイス・デ・ゴンゴラ」のベラスケスの本物は現在ボストン美術館にある。プラド美術館で現在見れる作品は模写。ベラスケスはマドリードに移動後の作品は肖像画が主流になりボデゴン(静物画)は描いていない。画風もティチアーノの影響がみられる軽いタッチに変わって行く。

オリバーレス伯爵

オリーバーレス公・伯爵(ドン・ガスパール・デ・グスマン)はセビージャ出身で当時の王の宰相を務め事実上の権力者だった。同郷の人物を引き立てることは当時からよくあったことでベラスケスはオリバーレス伯爵によって1623年にマドリードに呼び戻された。国王フェリペ4世の肖像画(消失)を描き王に気に入られ宮廷画家となる。オリ―バレス伯爵は約30年間フェリペ4世の後ろで権力をふるい斜陽のスペインにかつての栄光を取り戻そうとした。

<オリバーレス伯爵、ベラスケス1634年頃、プラド美術館>

ヴェラスケス、オリバーレス伯爵

Gaspar de Guzmán, conde-duque de Olivares, a caballo
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)この作品は35歳のベラスケスがオリバーレス伯爵を描いたもの。見上げる程の巨大な作品で前足を上げた馬に乗り振り返るオリーバーレス伯爵の大胆な構図。後ろ目に振り返る目にオリーバーレスの尊大な雰囲気がうかがえる。遠景の雲や空気のの層の描き方のタッチは後に「ベラスケーニョ」「ベラスケス風」と呼ばれる。

宮廷画家の名誉と王宮営繕監督という仕事

ベラスケスは24歳で国王の寵愛を受けそれ以来宮廷画家として絵を描くことになる。国王フェリペ4世はベラスケスの6つ年下だったが時間があると画家のアトリエを訪れ制作を眺めていた。ほかの画家の嫉妬を買い中傷を受けるベラスケスの為国王は他の3人の画家とベラスケスに「モリスコの追放」という作品を同時に描かせて競争させた。結果はベラスケスの勝利だったがこの作品は残念ながら1734年のマドリードのアルカサールの火災で焼失している。国王は気に入ったベラスケスに様々な肩書を与え色々な仕事をさせた為忙殺な日々の中ベラスケスが絵に費やせる時間は限られていった。

<フェリペ4世、ベラスケス1626-28年、プラド美術館>

ベラスケス、フェリペ4世

Felipe IV
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado
ルーベンスの来西

1628年にフランドルのピーター・ポール・ルーベンスが外交官の仕事でマドリードを訪れた。約9か月間の滞在でスペイン王家の肖像画を描きベラスケスとも親交を結んでいる。

(下)ルーベンスがマドリード滞在中にティチアーノの作品を模写した物が今もプラド美術館に残る。

<アダムとイブ、ルーベンス1628-29年、プラド美術館>

ルーベンス、プラド美術館
By ピーテル・パウル・ルーベンス – 1. The Yorck Project: 10.000 Meisterwerke der Malerei. DVD-ROM, 2002. ISBN 3936122202. Distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH., [1]2. Museo del Prado, Madrid, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=158489
ベラスケスとルーベンスはエル・エスコリアル修道院に2人で何度も通い王立コレクションに触れている。特にティチアーノを鑑賞していたベラスケスは是非ともイタリアへ行きたいと考えるようになりルーベンスと共にイタリアへ旅行する計画を立てた。しかしルーベンスはアント―ワープへ帰還することになり翌年ベラスケスは1人でイタリアへ旅行する。

1度目のイタリア旅行

ベラスケスの希望が叶えられ1629年8月にイタリアへ旅立つ。バルセロナからジェノバ、ベネチア経由でフェラーラを通りローマへ到着。ローマで1年程滞在した後当時はスペイン領だったナポリへ渡る。その頃ナポリではスペイン人の画家「ホセ・デ・リベラ」が活躍していた。リベラはベラスケスより8歳年上で既にナポリで成功して数々の聖人や哲学者などを描いている。下の絵はベラスケスがナポリへ行った頃のリベラの作品。ベラスケスとリベラは逢って話をしたのだろうか。仲間や同郷人が大好きなスペイン人同士肩を抱き合って話をしたに違いないと思っている。

<リベラ、デモクリトス1629-31年、プラド美術館>

リベラ、デモクリト

Demócrito
RIBERA, JOSÉ DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

ベラスケスは1631年1月にはマドリードに戻っている。イタリア旅行中に多くの模写などをしている作品は散逸しているが「ヨセフの長衣を受けるヤコブ」(エル・エスコリアル修道院蔵)と「ウルカヌスの鍛冶場」(プラド美術館蔵)は今もスペインで鑑賞することが出来る2枚。

<ウルカヌスの鍛冶場、ベラスケス1630年、プラド美術館>

ベラスケス、プラド美術館

La fragua de Vulcano
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)ベラスケスの神話画「ウルカヌスの鍛冶屋」、妻のビーナスの浮気の話を伝えにアポロンが降りて来た、「えっ」と驚いた顔のウルカヌスの表情が面白い。鍛冶屋で働く男たちの筋肉の描写、道具の素材感等が美しい。

<メディチ家別荘、1630?ベラスケス、プラド美術館>

ベラスケス、プラド美術館
Vista del jardín de la Villa Medici en Roma
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)ローマのメディチ家別荘を描いたもので2点並んで展示されている両手で持てそうな位の小さな作品。描いた時期についてはまだ議論されていて2度目のイタリア旅行時(1650年頃)という説も捨てがたい。絵の完成度やタッチ等が印象派の絵のよう。移り行く時、太陽の光の動きを意識して描かれている。

 

 

フェリペ4世と斜陽のスペイン


国王フェリペ4世

国王フェリペ4世はベラスケスが不在の間は他の画家に肖像画を描かせなかったらしくイタリア旅行から戻ったベラスケスに早速注文した作品。

<銀と茶の衣装のフェリペ4世、ベラスケス1631-32年、ロンドン・ナショナルギャラリー>

ベラスケス、フェリペ4世
De Diego Velázquez – [1], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9555111

「銀と茶の衣装のフェリペ4世」はフェリペ4世国王27歳頃、しかし描かれた年代に関しては1635年説もある。絵のタッチにイタリア旅行で鑑賞して来たベネチアの巨匠の影響がみられる。

<狩猟の姿のフェリペ4世、ベラスケス1632-34年、プラド美術館>

ベラスケス、フェリペ4世
Dominio públicoocultar términos
File:Diego Rodríguez Velázquez – Felipe IV, cazador (Prado, Madrid).jpg

狩猟姿のフェリペ4世は国王と示すものを何も描かずこちらを向く王の内面や威厳を描きだしている。

芸術愛好家のフェリペ4世の治世

16歳でスペイン国王に即位したフェリペ4世は並外れて芸術を愛好した。絵画だけでなく演劇をこよなく愛した王だった。この時代にスペインの劇作家が多く登場したのはフェリペ4世が新しい芝居を求めたからでカルデロンやローペ・デ・ベガ等が登場している。芝居に夢中になり快楽の中で生きた王だが当時のスペインは30年戦争(1618-48)で壊滅的な状態だった。広大な領土は維持しながらもウエストファリア条約でオランダの支配権を失いポルトガルは独立しカタルーニャは反乱を起こした。経済はズタズタで救いようがない状態で税金を上げれば民衆は苦しみ農業生産は低下し国民は農民も貴族も翻弄されていた。政治はオリバーレス伯爵の私利私欲の道具にされ国王にとって政治は退屈だった。芸術以外に興味があったのは狩りでフェリペ4世はすぐれた馬術家で12時間馬上にいる事もいとわなかった。

 

ブエン・レティーロ宮の建設

国の斜陽を横目にマドリードでは眩いばかりの催しが行われ新しい宮殿の建設が始まった。建築内部を飾る為12点の戦勝を記念する作品が描かれることになった。今もプラド美術館の近くにこの建物の一部と広大な公園が残る。

<ブエンレティーロ宮殿、1637年>

ブエンレティーロ宮殿
De atribuido a Jusepe Leonardo – investigart.wordpress.com, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3014571

(下)ブエンレティーロ宮殿を飾る為に描かれた作品

<ブレダの開城、1634-35ベラスケス、プラド美術館>

ベラスケス、槍

Las lanzas o La rendición de Breda
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

オランダの街ブレダは30年戦争で10か月の包囲の後スペイン側に落ちた。中央部右側がスペイン側の指揮官スピノラ。寛大な降伏条件だった戦争でスペインの指揮官の表情や態度に温情感が読み取れる。実はこの絵が描かれた2年後にオランダはブレダを奪回している。

この時に同郷の画家スルバランをベラスケスは王に紹介しマドリードへ呼び寄せている。スルバランはベラスケスより一歳年上で同じセビージャ出身だった。スペイン人は同郷人が好きなのだ。スルバランがこの時にブエン・レティーロ宮殿の為に描いた作品が今もプラド美術館に残る。

<スルバラン1634年カディス防衛、プラド美術館>

スルバラン
museo del Prado

これらの勝利の場面ばかりを大きなサロンに飾ったさまは荘厳だったに違いないが現実のスペインは敗北と斜陽の時代だった。スルバランは他にも神話画「ヘラクレスの偉業」を描いていてプラド美術館で見ることが出来る。スルバランの作品は実は評価は高くなくこの後失意の中セビージャへ戻っている。

フェリペ4世の2回の結婚

フェリペ4世は2度結婚している。王家の結婚は全て政略結婚、王の重要な仕事は世継ぎを残す事だ。最初の妻はフランスの王女イサベル・デ・ブルボン、フランス王アンリ4世とメディチ家のマリード・メ・ディシスの長女。伝統的に戦争ばかりしていたスペインとフランスの間で行われた政治同盟の一環でブルボンからの妻を迎えた。

<イサベル・デ・ブルボン、ベラスケス1635年、プラド美術館>

ベラスケス、イサベル・デ・ブルボン
De Diego Velázquez – See below., Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15587965

これらはブエン・レティーロ宮殿の諸王の間を飾る為の作品。衣装の金糸の素材感が素晴らしい。王と王妃の大きな騎馬像画の間に大事なバルタサール・カルロス皇太子の肖像画が置かれた。

<バルタサール・カルロス皇太子、ベラスケス1635年、プラド美術館>

ベラスケス、バルタサールカルロス皇太子
museo del prado
wikipedia public domain

(上)この絵はベラスケスが描いたバルタサール・カルロス皇太子6歳の時の騎馬像。大切な世継ぎの絵を大きな部屋の中央上の方に飾り訪れた人々が見上げる様に描いた。描かれた約10年後にカルロス皇太子は突然17歳で早世。子供の時に決められた婚約者はオーストリア・ハプスブルグ家のマリアナ・デ・アウストリアだった。マリアナの母はフェリペ4世の妹マリア・アナなのでいとこ同士の結婚の予定だった。

<マリアーナ・デ・アウストリア、ベラスケス1652年、プラド美術館>

ベラスケス、マリアーナ・デ・アウストリア
By ディエゴ・ベラスケス – The Yorck Project: 10.000 Meisterwerke der Malerei. DVD-ROM, 2002. ISBN 3936122202. Distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=159947

大切な世継ぎである息子が亡くなってしまったフェリペ4世は息子の婚約者と結婚する事となる。大事な世継ぎがいないのである。妹の子供なので叔父と姪の結婚。ハプスブルグは「ベッドで帝国を築いた」と言われるがスペイン・ハプスブルグは親類同士の結婚で崩壊していく。フェリペ4世とマリアーナの間に生まれた長女が下の絵のマルガリータ王女。ベラスケスはマルガリータ王女を子供のころから何点も描いている。

<マルガリータ王女、ベラスケスと工房1655年、ルーブル美術館>

ベラスケス、マルガリータ王女
Web Gallery of Art: Inkscape.svg Image Information icon.svg Info about artwork
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これらのベラスケスが描いたマルガリータ王女の作品はせっせとウィーンに見合用に送られていく。マルガリータの嫁ぎ先は生まれた時からオーストリアと決まっておりオールトリア皇帝レオポルド1世に嫁ぐ。嫁入り道具に少しでも故郷の物をと母が持たせたものにスペインの馬術が有った。馬が躍るスペイン馬術学校がウイーンに今も有るのはマルガリータ王女の嫁入り道具のひとつだった。

<青い服のマルガリータ、ベラスケス1659年、ウィーン美術史美術館>

ベラスケス、青い服のマルガリータ
De Diego Velázquez – pAHSoRgE1VSx2w en el Instituto Cultural de Google resolución máxima, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=22003519
王の愛人

国王フェリペ4世には数えきれない程の愛人がおり庶子も30人を超えた。にも拘らずまともな世継ぎを残せなかったのは悲劇だ。その中でお気に入りは女優のマリア・カルデロ―ナだった。ふたりの間に息子も生まれており後にスペインの宰相になる。

<フェリペ4世の愛人、ラ・カルデローナ>

カルデローナ
De Sparganum – Trabajo propio, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7150433

 

ベラスケス1648年再びイタリアへ

ベラスケスの今度の旅はローマ法王イノケンティウス10世への特命大使として派遣された。絵画と彫刻作品の購入の仕事を賜り20年後2度目のイタリアへ旅立つ。その時にイタリアから持ち帰ったものが今もマドリード王宮に置かれている

国王フェリペ4世からの帰国の催促が度々あったが約2年半ベラスケスはイタリアに長居した。理由のひとつはマルタという名の未亡人がベラスケスの庶子を宿していた。その子はアントニオと名付けられた事以外はあまりわかっていない。実はベラスケスはその後1657年にもう一度イタリア旅行を国王に願い出ているが王に拒否されている。

<イノケンティウス10世、1650年ベラスケス、ローマ・ドーリア・パンフィーリ美術館>

 

ベラスケス、イノケンティウス10世
By 不明 – 不明, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=38007

(上)キリスト教世界のトップローマ法王は権謀術数の中生き抜く大変な職業だった。こちらを見つめ返す目に人を見透かすようなイノケンティウス10世の内面が良く表れている。ティチアーノを称賛していたベラスケスはおそらくティチアーノのパウルス3世を意識してこの絵を描いた。

<ティチアーノ、パウルス3世、ナポリ・カーポ・ディ・モンティ国立美術館>

パウルス3世
wikipedia public domain

 

<鏡を見るビーナス、1648年頃ベラスケス、ロンドン・ナショナル・ギャラリー>

ベラスケス
By ディエゴ・ベラスケス – Key facts. The National Gallery, London. Retrieved on 25 June 2013., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=984326

(上)ベラスケスの珍しい裸体画。当時のスペインは厳しいカトリックの体制の中ほとんどの画家が裸体画を描いていない、と公式では言われているが実は上流階級の個人の邸宅などには裸体画は飾られていた。フェリペ4世も王宮の中の食後の休憩部屋に祖父であるフェリペ2世が集めたティチアーノの裸体画やルーベンスの裸体画を飾っていた。それらは今もプラド美術館にある。フェリペ4世の特別扱いを受けていたベラスケスが裸体画を描くことにあまり問題は無かったに違いない。ベラスケスが描いた裸体画は他に3点あったと言われているがすべて現存していない。この絵はおそらくベラスケスの2度目のイタリア旅行中に描かれている。モデルはベラスケスの子供を産んだ愛人マルタではないかと推測されている。

ベラスケス晩年

1652年にベラスケスは王宮配室長に任命されている。この仕事は晩餐会の手配や準備などで画家に随分ストレスを与えたようだ。大変な仕事量の中も素晴らしい作品を残している。

 

<織女達、ベラスケス1655-60年、プラド美術館>

ベラスケス
Las hilanderas o la fábula de Aracne
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)晩年のベラスケスの作品「織女達」は手前に現実の織物を織る女性達。奥には神話の物語でアラクネが神を冒涜したため蜘蛛に変えられる変身物語を同時に扱っている。変身と時間、現実と神話の織りなす作品。奥のアラクネが織ったタペストリーはティチアーノのエウロパの略奪を使っている。

そのティチアーノの作品は現存しないがスペインに来ていたルーベンスが模写をしたものがプラド美術館に残る(下)。ベラスケスの織女達の奥にこの作品をアラクネが織ったタペストリーとして使っている。

<エウロパの略奪、ルーベンスがティチアーノを模写、プラド美術館>

エウロパの略奪 ルーベンス

El rapto de Europa
RUBENS, PEDRO PABLO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

 

 

(下)プラド美術館の作品で最も重要で有名な作品がベラスケスのラス・メニーナス。若い頃のピカソも絶賛している。ラス・メニーナスは一度もプラド美術館から外へ出ていない作品でおそらく将来も出ない。

 

<ラス・メニーナス、ベラスケス1656年、プラド美術館>

ベラスケス
Las meninas
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」という題名は19世紀につけられたもの。今も絵の解釈は様々でベラスケスが描いているのは王女なのか国王夫妻なのか。いずれにしても鏡を使う事で絵を見ているのか見られているのか私たちに混乱を与える。後ろにかかる2枚の絵はルーベンスの神話画で「無謀に芸術の神に挑戦をして失敗する人間たちの姿」なのは私たちに様々な事を示唆している。

 

当時のフェリペ4世の王女マリア・テレサとフランス王ルイ14世の結婚の準備でベラスケスはフランス国境のフエンテ・ラビアへ行った。マリア・テレサはスペイン王フェリペ4世と最初の結婚のイサベル・デ・ブルボンの娘。

<マリア・テレサ、ベラスケス1652-53年、ウィーン美術史美術館>

ベラスケス、マリアテレサ
De Diego Velázquez – Kunsthistorisches Museum, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=159945

マリア・テレサはフランスに嫁ぐがいつまでもフランス語がうまくなかった。義理母(ルイ14世の母)はスペインの王女(フェリペ3世の娘)なので義理母とスペイン語の会話を楽しんだという。

ベラスケスはこの結婚の準備の債務と旅に疲れ果て1660年6月26日にマドリードに戻り王宮内の自室で床に伏し8月6日に天に召された。国王フェリペ4世の哀しみと嘆きは大きかった。国王フェリペ4世はその6年後に亡くなりあまり悲しむ者も周りにいなかったという。混乱を残して亡くなりそれを受け継いだ皇太子はスペイン・ハプスブルグ最後の王となる。

画家の家族

<ベラスケスの家族、マルティネス・デル・マーソ1665年、ウイーン美術史美術館>

ベラスケスの家族
De Juan Bautista Martínez del Mazo – Kunsthistorisches Museum Wien, Bilddatenbank., Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4662029

マーソはベラスケスの弟子で後に宮廷画家となる。ベラスケスの娘フランシスカと結婚しその間の子供達が左側に再婚の妻とその子供達が右側にいる。背景にベラスケスが描いたフェリペ4世と奥の部屋で仕事をするベラスケス、又はマーソ自身がマルガリータ王女の絵を描いている。

 

補足・その後のスペイン

フェリペ4世の唯一育った息子はカルロスと名付けられた。先ほど登場したマルガリータ王女の弟にあたる。体が弱く3歳まで歩けず8歳まで話せなかった。そして結婚はするが世継ぎのないまま1700年に崩御した

<カルロス2世、1673年カレーニョ、プラド美術館>

カルロス2世
museo de prado

その結果スペイン王位継承戦争が始まりヨーロッパ全体を巻き込んだ戦争となる。最終的にフランスのルイ14世の孫がスペイン王フェリペ5世として即位する。この時にイギリスにジブラルタルを奪われ今も返還交渉中だ。ここにカルロス5世から始まったスペイン・ハプスブルグ家が終焉した。

 

マドリード、ティッセン・ボルネミッサ美術館、主要作品と廻り方。マドリードで美術館三昧。

マドリードのティッセン・ボルネミッサ美術館は個人のコレクションだったとは思えない豊富な量と素晴らしい質を備えた美術館。マドリードのこの地区はプラド美術館とソフィア王妃芸術センターとティッセン・ボルネミッサ美術館で黄金の三角地帯を形成している。マドリードには大小合わせて90個の美術館・博物館がある中この3つの美術館は絶対外せないマドリードのアート・スポット。是非とも訪れてアートに浸ってみてください。今日はティッセン・ボルネミッサ美術館についてご紹介します。

 

ティッセン・ボルネミッサ美術館マドリード


ドイツの鉄鋼財閥ハインリッヒ・ティッセン・ボルネミッサ男爵とその息子のハンス・ハインリッヒ・ティッセン・ボルネミッサ男爵(どちらも故人)の2代にわたる個人のコレクションでプライベート・コレクションとしてはイギリスのエリザベス女王の物に次ぐ世界第2位のボリューム。古典絵画から近代絵画にいたる幅広いコレクションが特徴で13世紀から21世紀の8世紀にわたる西洋美術史をここで堪能することが出来る世界でも数少ない美術館です。

*毎週月日は12時から16時まで無料。12時に開館になり随分並んでいますが13時30くらいなら並ばずに入ることが可能です。本来の休館日にマスターカードの協力で無料で開放しています。

ビジャ・エルモサ宮殿

ティッセン・ボルネミッサ美術館の建物は元は19世紀の貴族のお屋敷ビジャ・エルモサ宮殿。その後一旦銀行家に購入されたが後にスペイン政府に売却されプラド美術館の管轄になり特別展などに使われていた。

<マドリード、ティッセン・ボルネミッサ美術館入り口>

ティッセン美術館
筆者撮影

その後ティッセン・ボルネミッサ・コレクションのスペイン政府へ誘致の話の折にこの建物を提供することでティッセン男爵と交渉がまとまる。ティッセン側は同時にヨーロッパの他の都市とも交渉しており特にロンドンは有力候補地だったが展示場のロケーションではマドリードが断然有利、中心部でプラド美術館の至近距離でありエレガントな建築物を提供で決定に至った。

建物の改装はスペイン人建築家ラファエル・モネオ氏によって1990年3月に行われ1992年700点のティッセン男爵のコレクションが運ばれた。その後1993年にスペイン文科省にティッセン・コレクションは売却された。ハンスハインリッヒ氏は5度の結婚をしておりこれらの絵画や財産の遺産相続で揉めていた。彼と父親のコレクションがバラバラにならないようにというティッセン男爵の願いで売却にいたる。

<マドリード、ティッセン・ボルネミッサ美術館入り口>

ティッセン美術館
筆者撮影

敷地内に入りカフェテリアとブックショップ、入ってすぐのサロンまでは入場券なしで入れます。ブック・ショップは楽しいものがいっぱいありムージアム・ショップとしてはレベルが高い。スカーフやネクタイ、文房具品や食器、アクセサリー等素敵なお土産が見つかる。(写真下)

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ショップ>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

ティッセン・ボルネミッサ美術館内部

*写真撮影可能(フラッシュ無し)で手荷物検査も無しです

*日本語のオーディオガイドが出来ました。5ユーロで簡単な説明ですが50点の作品を説明を聞きながら回ると事が出来ます。

 

切符を買うとこの大きなホールを進んでいく(写真下)。ここまでは切符が無くても入れます。広々したホールはスペイン人建築家ラファエル・モネオ氏の改築。

<マドリード、ティッセン・ボルネミッサ美術館内ホール>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

少し先の右側に切符の検査が有るのでそこで購入した切符を見せるとエレベーターで2階へ上がりましょう。建物は3階建てで0階1階2階となります。時代順に上から下へ展示されていますので古いものから順にみていくとヨーロッパの美術史全体を把握できます。20世紀美術にいきなり行く場合は切符の検査ある地上階フロア―に展示されています。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館エレベーター>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

 

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2階から=イタリア、プリミティブ絵画

ティッセン・ボルネミッサ美術館は時代ごとに展示されているので2階から1階そして0階と順番に見ていくと13世紀から現代にいたるヨーロッパの美術史を時代を追って鑑賞できる。最初の部屋はイタリアのプリミティブ絵画、13世紀の聖母像や未だ遠近法を知らなかった時代の素朴な作品が展示されている。

下の作品は板絵。1290年頃のフィレンツェの教会の物。教会建築がロマネスクからゴシックに移行した頃にこういう板絵が描かれるようになった。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館イタリア13世紀>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

中世の世界は全て神様によって支配されていた頃の教会の祭壇画。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館イタリア13世紀>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

 

ドイツの中世絵画

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ドイツ中世>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)ドイツの中世の画家の作品でイエスキリストの弟子達が当時の普通の家の中で書き物をしていたり奇跡が起こったり、家の中の道具やテーブルなどが丁寧に描かれている。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ドイツ中世>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)ドイツ中世絵画の聖人シリーズの一枚。聖マルコが福音書を書いているところ。無心に書いている感じが伝わる。部屋にある家具や置物が当時のドイツで家庭にあったのかと思わせる。

フランドル絵画

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ヤン・ファン・アイク>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

ヤン・ファン・アイクの受胎告知。小さな作品ですがティッセンボルネミッサ美術館のコレクションの最高の物のひとつ(私個人的に一番好きな作品です)。グリザイユで丁寧に描かれた彫刻の影と布地の量感等が素晴らしい。絵のサイズが解るように部屋の全体像も入れてみました。ヤン・ファン・アイクは顔料に少し油を混ぜた最初の画家で色に透明感を手に入れた初めての画家。柵も無く絵に近づけるので近くで鑑賞できる。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館フランドル>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

こんなに小さな作品でこっそり隠して持って帰れそうなくらいです。この辺りは同時代のフランドル絵画が展示されています。

ルネッサンス

ドメニコ・ギルランダイオの「ジョバンナ・トルナブオーニの肖像」はティッセン美術館で一番有名な作品。ここからルネッサンスに入り人間が描かれるようになった。ギルランダイオは15世紀後半にフィレンツェで活躍した画家でミケランジェロの師匠にあたる。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ネッサンス>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)板にテンペラ画、横顔の肖像画としては最高に美しい宝石といえる作品で衣装の豪華さや宝石等輝いている絵画。ジョバンナトルナブオーニはフィレンツェのメディチ家のロレンツォ・デ・トルナブオーニと結婚。この絵はジョバンナトルナブオーニが亡くなった後注文されたもの。後ろの背景に聖書とサンゴのロザリオが描かれ信仰をほのめかしている。

 

(下)ホルバインのヘンリー8世イギリス王。次々と妻を取り替え処刑したりロンドン塔へ送ったイギリス王。最初の結婚はイサベル女王の娘カタリーナ。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館>

ティッセンボルネミッサ
筆者撮影

皮肉にもヘンリー8世の隣にカタリーナの肖像画が置いてある。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

カタリーナ・デ・アラゴンはスペインのイサベル女王の娘で切望されイギリス王に嫁ぐが侍女のアン・ブリンが気に入ったヘンリー8世により離婚される。離婚が許されないカトリックでローマ法王からヘンリー8世は破門され英国国教会が作られた。カタリーナは最後までプライドを保ち凛々しく過ごした。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ラファエル>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

ラファエルの描いた少年。沢山の作品の中でも目を引く綺麗な絵でティッセン男爵個人の審美眼がうかがえる。こちらを振り返ったばかりの視線、髪の巻き毛も美しい。小さな作品なのですぐ近くで画家の筆のタッチまで見ることが出来ます。

ベネチア絵画

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ベネチア>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

ここはエル・グレコとベネチア絵画。エルグレコはベネチアで絵を修行した。初期の受胎告知と晩年の物が並べておいてあるので作風の変化が良くわかる。

スペイン17世紀絵画

ジュゼップ・デ・リベラのキリストの埋葬。晩年の作品でタッチが柔らかくぼかした技法。聖母の悲しむ表情、明暗法とドラマチックな場面がカラバッジオを思わせる。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館リベラ>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

 

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館スルバラン>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)フランシスコ・デ・スルバランの聖女シリーズの一枚で聖カシルダ。スペインの17世紀の巨匠のひとりスルバランは美しい聖女を等身大で何枚も描いている。

カラバッジオのエジプトのサンタ・カタリーナ。2018年4月現在修復中で展示されていません。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館カラバッジオ>

ティッセンボルネミッサ美術館
By ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ – The Yorck Project: 10.000 Meisterwerke der Malerei. DVD-ROM, 2002. ISBN 3936122202. Distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=148804

 

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オランダのバロック期レンブラント

オランダの画家レンブラントの自画像。オランダ絵画の黄金期に活躍したレンブラントの1642年頃の作品なので有名な「夜警」が描かれた同時代の作品。レンブラントは他に例を見ない程の自画像を描いている。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館レンブラント>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

この頃は裕福だったレンブラントだが彼は晩年財政難この絵の約15年後には自宅を売却することになる。

 

1階はオランダ絵画から印象派等

<マドリード、ティッセン・ボルネミッサ美術館オランダ風俗画>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

16世紀頃のオランダ絵画は楽しいものが多い。当時の民衆の生活や居酒屋、楽器も持った人々や子供達等が生き生きと描かれている。この時代スペインではキリスト教の厳格な絵画しか描かれていなかった宗教改革の真っただ中、対抗宗教改革が行われ魔女裁判や異端審問所が活躍していた。オランダでは裕福な商人たちによって民衆の生活の様子の作品の注文が有った。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館オランダ風俗画>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

ダビッドテニエルの風俗画の部分を拡大。居酒屋で集まる庶民の話声が聞こえてくる。オランダの作品は楽しい。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館オランダ風俗画>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)ヤン・スティーン、田舎の結婚式の部分を拡大。楽器を持った人が演奏していて楽しそう。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館オランダ風俗画>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)ダビッド・テニエールの田舎のお祭りの部分。酔っ払いが倒れていて介抱している人やヤレヤレと話している人や騒々しいお祭りの雰囲気が伝わって来る楽しい作品。

フランス絵画から印象派へ

印象派は人気がありこの美術館でも鑑賞する人が多いコーナー。エドゥアルド・マネ、ビンセント・バン・ゴッホ、トゥールーズ・ロートレック、クロード・モネ、エドガー・ドガ等豊富に楽しめる。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館マネ>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮

(上)エドゥアルド・マネの亡くなる前年の作品で「正面からのアマソナ」

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ロートレック>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)ロートレックの男性

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ドガ踊り子>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)ドガの踊り子、くるくる回っている美しいバレリーナ。いつも人でいっぱいです。

 

地上階0階

地上階に降りると20世紀のコレクションが納められています。ピカソやブラックのキュービズムからアンディーウォーホールやロスコ―等の現代絵画が展示されています。

キュービズムを同時にブラックとピカソが始めた。ほぼ同時期に楽器を持つ人物をブラックとピカソが描いている2枚が隣同士に並んでいる。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館キュービズム>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ブラック>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)キュービズムで描かれたブラックのマンドリンを弾く女性。マンドリンを弾く手が動いているのが見える。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ピカソ>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)同じころにピカソがキュービズムで描いたクラリネットを弾く男。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ミロ>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)ミロの構造という名の作品、ブルーが綺麗でした。説明不可能。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ピカソ>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)ピカソの鏡を見る道化師。1923年の作品。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)マルク・シャガールの鶏。シャガールはユダヤ系ロシア人の画家で後にフランス国籍を取得。一旦故郷へ戻った後にパリで描いた作品。随分毒舌家で知られた人物だが作品はメルヘンで可愛い。

アメリカ現代絵画

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

マーク・ロスコ―の無題。ロスコーはユダヤ系ロシア人でアメリカで活躍した。ロスコーはアメリカ現代絵画の画家、フロイトやユングに没頭し無意識の世界に興味を持っていた画家。大きな作品の前で深いロスコーの色を見つめていると瞑想の世界へ連れていかれる様な錯覚を覚える。66歳で私生活の問題や病気で悩み自殺している。

近代絵画は殆どが息子のティッセン男爵のコレクション。拡張部分に妻のカルメンティッセンのコレクションも展示されている。

行き方

地下鉄:5号線バンコデエスパーニャから徒歩10分又は2号線セビージャから徒歩10分

バス:マドリードの街を縦に走るカステジャーナ通りからの場合14番27番のバスが直ぐ近くに止まります。

プラド美術館斜め前:ネプチューンの噴水をはさんで斜迎え側。

 

ティッセンボルネミッサ美術館・開館時間や値段

住所:Paseo del Prado 8

常設展:火曜日から日曜日  10時から19時

値段:12ユーロ オーディオガイド:5ユーロ

美術館共通チケット「パセオデルアルテカード」29ユーロ60セント。プラド美術館、ソフィア王妃芸術センター、ティッセンボルネミッサ美術館の共通切符

毎週月曜日 12時から16時まで無料

毎週土曜日:特別展時間延長10時から21時

休館日:1月1日、5月1日、12月25日

 

*ティッセンボルネミッサ美術館公式ページです。特別展などはこちらから調べてください。

https://www.museothyssen.org/

最後に


ティッセン・ボルネミッサ美術館は個人のコレクションとは思えない程の作品の質と量で約800年にわたるヨーロッパの美術史を楽しめる美術館です。この記事では筆者の個人的な好みで作品を紹介しましたが素晴らしい作品がまだまだ沢山有ります。月曜日は無料なので私はなるべくその時のお邪魔しています。絵画好きにはたまらない素晴らしい作品をすぐそこまで近づいて鑑賞できる美術館で写真も撮れるのが有りがたいです。マドリードで時間があればプラド美術館からすぐ近くなので是非とも楽しんでください。

個人のコレクションとは思えない質と量、もちろん財力は当然ですがティッセン男爵の絵画に対する愛情が感じられるコレクションです。

 

ムリーリョ(バルトロメオ・エステバン・ムリーリョ)プラド美術館17世紀黄金世紀の巨匠たち

 

ムリーリョ(バルトロメ・エステバン・ムリーリョ)は17世紀・黄金世紀に南スペインのセビージャで活躍した画家。当時のセビージャは新大陸からの大きな船が出入りし人があふれる賑やかな街だった。半面そこには貧富の差や一攫千金を狙った野望が入り混じる荒れた時代でもあった。ムリーリョが愛情を持って描いた貧しい少年達にその時代の片鱗が感じ取れる。スペイン全体で対抗宗教改革が始まり教会が内部から浄化を始めた頃多くの修道院が作られ壁面を飾るための聖人や聖母マリアの絵画を大量に必要とした時代に活躍した画家がムリーリョだった。ペストの流行や緩やかに没落していくスペインでムリーリョの甘美な聖母マリアは人々のすさんだ心に響いたに違いない。

バルトロメオ・エステバン・ムリーリョ

1618年(1617年)ー1682年

*誕生は1617年末。公式の記録として残るのは1618年の1月1日の洗礼


セビージャで誕生

ムリーリョはセビージャの街で生まれた生粋のセビージャーノ(セビリアっ子)。父親は理髪師兼外科医(当時理髪師が外科医というのは普通にあった)、母親は金銀細工師および画家の家系で芸術に関わっていた血筋なのが判っている。ムリーリョという苗字は母方の名前でアンダルシアでは母方の苗字を名乗る習慣があった。解っている最初の公式資料はセビージャのマグダレナ教会で1618年1月1日に洗礼を受けているので実際に生まれたのは1617年の終わり。14人兄弟の末っ子で生まれ、子供の頃の家庭は裕福だった。ところが9歳の時に父と母を続けて亡くし結婚していた姉に引き取られるが13歳で母方の親戚の画家ファン・デ・カスティージョの工房に入っている。1633年(15歳)に中米への移民を考えたようで書類に署名していたことが判っている。ムリーリョについて初期の作品や若い頃の事はわかっていないが新大陸への作品を描いていたようだ。

ムリーリョ初期

<聖母とラウテリオ修道士とアッシジの聖フランシスコとアキーノの聖トマス、1638-40年、英ケンブリッジ、フィッツ美術館>

ムリーリョ
De Bartolomé Esteban Murillo – www.fitzmuseum.cam.ac.uk, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9649001

(上)解っている中でおそらく最も初期の作品のひとつ。聖母マリアが修道士フランシスコ・ラウテリオの為神学の教えを伝えに降りて来た奇跡の場面。ムリーリョがまだ20歳から22歳頃の作品。同時に描いた聖母の奇跡「聖母が聖ドミンゴにロザリオをもたらす奇跡」がセビージャの大司教館に現存する。

 

1645年27歳の時に5歳年下のベアトリス・カブレラと結婚した頃から本格的な創作活動に入るが作品は数点しか現存していない。ムリーリョの絵に登場するマリアは殆どが妻になったベアトリスだった。

<蚤を取る少年、1645-50年、ルーブル美術館>

ムリーリョ、ノミを取る少年
From Wikimedia Commons, the free media repository publci domain

(上)ムリーリョは聖母マリア等の美しい宗教画が有名だが現実の人々も描いている。当時の北方で好まれた庶民の日常を外国人からの注文で描いたものだと思われる。光の扱いがカラバッジオの影響のテネブリズムが使われている。手前の壺や篭とリンゴなどに丁寧なボデゴン(スペインの静物画)が描かれている。画家本人も子供のころに孤児になりセビージャの街には日常にこういう風景があふれていたに違いない。無心に蚤を取る少年の足の裏の泥や今食べていたエビの殻までが現実的で愛着を感じる。

1649年からペストの蔓延で多くの犠牲者を出したセビージャは新大陸の航海も不振になり多くの人口を抱えるが仕事も無く貧しい子供達であふれていた。ムリーリョの優しい作品は人々の心を癒したに違いない。

 

<小鳥のいる聖家族、1650年以前、プラド美術館>

ムリーリョ

Sagrada Familia del pajarito
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)聖家族(聖母マリアと聖ヨセフと幼子キリスト)という宗教的なテーマの中に暖かい日常を感じる作品。キリスト教宗教画で聖ヨセフは端の方や後ろなど遠慮がちに描かれることが多いがこの作品では中央にどっしりと大きく暖かい父親として描かれている。16世紀の終わりから聖ヨセフの扱いは少し良くなってきた(それ以前は後ろから遠慮がちに手を差し伸べるような軽い扱い)。今もセビージャにはホセという名の男性が多い。温かみと包容力のある身近な人の様な親近感を覚える人物に描かれている。室内の光の扱いや布地の描写、篭の素材感が美しい。マリアが動かす糸車がくるくると廻っている。

サンフランシスコ修道院からの大きな注文

<サン・フランシスコ修道院>

1645年から翌年にかけてセビージャのサンフランシスコ修道院(消失)の回廊を飾る13点を手掛けている。その中に「修道士フランシスコと天使の台所」がある。

<修道士フランシスコと天使の台所、1645年、パリ・ルーブル美術館>

ムリーリョ 天使の台所
Musée du Louvre / Erich Lessing

今はルーブル美術館にある巨大な作品で180メートルx450メートル。セビージャの修道院で賄いをしていたフランシスコ・ペレスは神に仕える求道者だった。有る時高官の訪問を受けもてなしに困って祈っていると体は宙に浮き天使たちが現れてもてなしの料理を整えたという奇跡。ムリーリョらしい可愛らしい天使たちが現れ動き回ってが働いている様子が伝わって来る。道具や皿、銅の鍋などの静物の表現も正確で素晴らしい。

受胎告知

受胎告知は様々な画家たちに描かれた人気の題財。聖母は妻のベアトリスがモデル。1650年と1660年の10年の間で画家の作風が変わって行ったのが良くわかる。

<受胎告知、1650年頃、プラド美術館>

ムリーリョ

La Anunciación
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

<受胎告知、1660年、プラド美術館>

ムリーリョ

La Anunciación
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

 

サンタ・マリア・ラ・ブランカ教会

ムリーリョの仕事は順調な中大きな注文を受ける。セビージャのサンタ・マリア・ラ・ブランカ教会はシナゴーグ(ユダヤ教会)を改装して創った教会。1662年からの再建工事が行われ絵画や彫刻が一新された。1665年8月5日にクーポラや壁も真っ白に漆喰で覆われた。ブランカは白いという意味。

<ヨハネの夢、1662-65年、プラド美術館>

ムリーリョ
Fundación de Santa María Maggiore de Roma. El sueño del patricio Juan
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)注文主はセビージャの修道士フスティーノ・ネベ、ムリーリョの個人的な友人でもあった。フスティーノ・ネベはセビージャの慈善病院ロス・べネラブレスの創設者でもある。テーマはローマのサンタ・マリア・マッジョーレ教会の奇跡「4世紀の貴族ヨハネの夢に聖母が幼児キリストと共に現れ教会の建立を願う場面」。ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ教会の守護聖母は雪の聖母(サンタ・マリア・ラ・ブランカ)、この教会の守護聖母でもある。

同じ時期にカプチン会修道院の為に連作21点を制作している。これらはセビージャ県立美術館にある。

 

ムリーリョはセビージャで度々引っ越している。妻との間に11人の子供が生まれ(実際に育つのは4人)人数が増えるたびに広い所を求めたのかもしれない。1663年に妻が11人目の子を産み直ぐに亡くなり、生まれた子も間もなく天に召された。後は再婚はせずにサンタ・マリア・ラ・ブランカ教会の近くへ引っ越した。

成熟期

1660年頃から40歳を超えたムリーリョは成熟期に入り注文は順調で後進の芸術家の育成にも力を注ぐ。その頃に描いたのがセビージャ大聖堂からの注文で聖母の誕生。

<聖母の誕生、1660年頃、パリ・ルーブル美術館>

ムリーリョ、聖母の誕生
Accession number MI 202retrieved from Wikidata
Source/Photographer Web Gallery of Art: Inkscape.svg Image Information icon.svg Info about artwork
public domain

(上)この少し前におそらくマドリードを訪れており王室コレクションを見ている。先人の先輩たちの作品に触れたムリーリョの円熟期の作品となる。残念な事に現在ルーブル美術館にある。

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無原罪の御宿り

無原罪の御宿りはカトリックの教義で聖母マリアはその母アナの胎内に宿ったときに既に無原罪だった。宗教改革に対抗してカトリック世界ではパウルス5世ローマ法王のもと対抗宗教改革で異端審問教令が広まった時代に無原罪の御宿りの教義を通じ聖母の神格化が始まった。この教義を絵画を通してスペインに普及させようと多くの画家によって描かれている。ムリーリョは1560年頃から無原罪の御宿りを描いていて没年まで多くの傑作を描いた。

<エル・エスコリアルの無原罪の御宿り、1660-65、プラド美術館>

ムリーリョ

La Inmaculada del Escorial
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prad

<アランフェスの無原罪の御宿り、1675年、プラド美術館>

ムリーリョ

La Inmaculada Concepción ”de Aranjuez”
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

 

ムリーリョの描く民衆や子供達

ムリーリョは美しい宗教画で有名な画家だが当時のセビージャの子供達を描いている作品が何点かある。対抗宗教改革のスペインでは宗教画以外は売れない時代だったが外国の商人達がお土産として購入していった。

<サイコロで遊ぶ少年達、1675年、ミュンヘン・アルテピナコテーク>

ムリーリョ
Source/Photographer Web Gallery of Art: Inkscape.svg Image Information icon.svg Info about artwork
wikipedia public domain

 

<窓辺の少女達、1655-60年、ワシントン・ナショナルギャラリー>

ムリーリョ
Bartolomé Esteban Murillo (Spanish, 1617 – 1682), Two Women at a Window, c. 1655/1660, oil on canvas, Widener Collection 1942.9.46

 

<3人の子供達、1660-65年、ロンドン・ダルウィッツ・ギャラリー>

Source/Photographer http://www.dulwichpicturegallery.org.uk/collection/search_the_collection/artwork_detail.aspx?cid=146 
wikipedia
public domain

<微笑む窓辺の少年、1675年、ロンドン・ナショナルギャラリー>

ムリーリョ
De Bartolomé Esteban Murillo – 1./4. National Gallery, London – online collection2./3. young.rzd.ru, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=16079389

当時のセビージャの道端にいたような普通の子供達や貧しい少年達が無邪気で可愛い。この種類のムリーリョの絵が一枚もスペインには現存していないのは残念。ムリーリョは画風が優しいだけでなく人間的にも慈愛の溢れた温厚で善良で謙虚な人物だった。子供達を描く画家の視線にムリーリョの人間的な温もりを感じる。

 

晩年のムリーリョ

名声に包まれ成功を手にした晩年だったが妻に先立たれ子供の多くを夭折させており育った一人の娘は聾者で修道院に、ひとりは新大陸へ旅立ち末弟は宗門に入ろうとしていた。セビージャの街も一時の華やかさとは裏腹にペストの流行や貿易の不振で街には孤児や娼婦があふれていた。そんな時代にカリダード病院からの注文を受けた。

<病者を担うサン・ファン・デ・ディオス、1672年、セビージャ・カリダード病院>

ムリーリョ
De Bartolomé Esteban Murillo – [4], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2372108
(上)サン・ファン・デ・ディオスが貧しい病人を助けているのを天使が手伝いにやって来た場面。カリダード病院の創設者は新大陸の貿易商だったが妻を亡くし残りの人生を貧しい人の為に施す事に決めカリダード信徒会に入会した。ムリーリョは彼の友人だったので仕事で神に奉仕をしようと同じく信徒会に入会し病院内の聖堂に大作を数点残した。

薄霧の様式=バポロッソ

ムリーリョの晩年の作品はバポロッソ=霧がかかった様な独特の様式になり柔らかなタッチ。

<貝殻の子供達、1670年、プラド美術館>

ムリーリョ

Los niños de la concha
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)まだ子供の洗礼者ヨハネにイエス・キリストが貝殻で水を与えるところ。実際聖書にはこの2人の子供の頃の事は書かれていないので画家の想像の世界だがある程度の画家による脚色は許されていたようだ。十字架と羊で後の殉教をほのめかす。

<聖アンドレスの殉教、1675-82、プラド美術館>

ムリーリョ

El martirio de san Andrés
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)125センチx209センチの大きな作品。同じくプラド美術館蔵にある聖パウロの回心と対をなす。ルーベンスの作品を模した版画が残りマドリードへ旅をした折に見たであろう王室のコレクションからの影響があると言われている。

最後の仕事

スペイン南西部の港町カディスのカプチン会修道院のサンタ・カタリーナの聖堂祭壇の装飾「聖カタリーナの神秘の結婚」制作中に足場を踏み外して梯子から墜落。この事故が元で1682年4月3日に64歳の生涯を閉じた。

<聖カタリーナ神秘の結婚、1682年、カディス美術館>

ムリーリョ
Source/Photographer juntadeandalucia.es
wikipedia public domain

作品はムリーリョの弟子フランシスコ・メネセス・オソリオによって完成され今はカディス美術館に展示されている。

 

まとめ

現存するムリーリョの作品が450点あるそうだが半数近くは外国に出てしまった。18世紀頃までムリーリョの人気は外国で高まり分散してしまっている。スペイン王フェリペ5世の妻イサベル・デ・ファルネーゼがセビージャでムリーリョを収集したものが現在のプラド美術館のコレクションの基礎となっている。同じ時代に外国人の貴族やコレクターに買われていったので一部ながらもスペインに大作が残ったのは偶然とは言え奇跡かもしれない。ムリーリョの子供達は殆ど早くに亡くなり唯一残ったのが新大陸へ行った息子だった。ムリーリョの残した財産も大西洋を渡ったようだ。外国に行ってしまったのはムリーリョの大量の絵だけではなかった。穏やかで包容力があって慈愛にあふれた可愛げのある男がスペインには今も存在する。絵を描くことで忠実に神に仕えようとした典型的なセビージャーノ(セビリア人)、素朴で優しい夫で父親で、そして敬虔なカトリック信者だった。

リベラ(ホセ・デ・リベラ){プラド美術館スペイン17世紀黄金世紀の巨匠達}

 

 

ホセ・デ・リベラ(スペイン語名)又はジュゼップ・ディ・リベラ(イタリア語読み)は17世紀のスペインの画家。プラド美術館で鑑賞できる巨匠のひとりだ。スペイン国王フェリペ4世の頃、同時に個性のある天才画家たちが多く登場した時代をスペイン17世紀黄金世紀と呼ぶ。エルグレコ、ベラスケス、スルバラン、ムリーリョ等プラド美術館でおなじみの画家たちが同時期に登場している。リベラはスペインでは認められずスペイン領だったイタリアのナポリで活躍した画家。異彩を放つホセ・デ・リベラについて紹介します。

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ホセ・デ・リベラ(ジュゼップ・ディ・リベラ)


<1591-1652>

リベラはスペインの地中海側にある商業都市バレンシア近郊のハティバで靴職人の子として生まれる。17世紀のバレンシアは豊かな商業都市として栄えていた。対抗宗教改革の時代に登場したバレンシア大司教(ファン・デ・リベラ)の元多くの教会や修道院が作られ、その壁を飾る宗教画が作成され画家たちが集まった。フランシスコ・デ・リバルタはバレンシアを代表する画家として大司教の寵愛を得多くの作品を描いている。ホセ・デ・リベラは若いときフランシスコ・デ・リバルタに師事したという。

リベラは若い頃に弟とイタリアに移住しているが移住時期などについてはわかっていない。1611年(20歳頃)にパルマ公の絵を描いており、1615年(24歳頃)にはイタリアのローマに滞在していた事は確実。その頃にはリベラは既にカラバッジオの影響を受けた作品を描いていた。1616年にナポリへ移住し活躍している。「ホセ」はスペイン名で「ジュゼップ」はそれのイタリア語なのでホセ・デ・リベラ又はジュゼップ・ディ・リベラ又はイタリア語のニックネーム「ロ・エスパニョレット」で知られた。絵に署名を残すときは「スペイン人」または「バレンシア人」と書きリベラは終生スペイン人であることを誇りにしていたが祖国では評価されず異国で活躍し客死した。

作品

現存するリベラの初期の作品は「味覚」1615年頃にローマで描いた人間の五感のシリーズ。良く太った大食漢の庶民的な男が赤ら顔で食卓についている。衣装や食卓の様々な静物の質感が素晴らしく再現されている。

 

<味覚、1615年、ハートフォード、ウォッズワース・アシーニアム>

リベラ、味覚
wikiart public domain
Location: Wadsworth Atheneum, Hartford, CT, US

ローマでリベラは北方出身の画家たちと寝食を共にしていたことが判っておりその影響がみられる。

 

<執筆の聖ヘロニモ、1615年、プラド美術館>

リベラ

San Jerónimo escribiendo
RIBERA, JOSÉ DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)聖ヘロニモは聖書をラテン語に訳した聖人。テネブリズモの技法、カラバッジョの明暗法が既にみられる。

1616年夏にリベラはローマからナポリに移住。当時スペイン副王領として貿易で栄えていたナポリはインターナショナルな活気ある街だった。カラバッジオの影響を大いに受け明暗法を駆使した作品を描いている。代々のナポリ副王にもスペイン人であるという事で重用され活躍する。

リベラの描く聖人たちは地元の漁師や貧しい浮浪がモデルになり人間臭いのが特徴。聖人達さえも理想化せずに皺や皮膚のたるみまでも現実的に赤裸々に描き出した。特に1620-30年代の作品に顕著にその特徴がみられる。

<聖アンドレス、1630年頃、プラド美術館>

リベラ聖アンドレス

San Andrés
RIBERA, JOSÉ DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)聖アンドレは兄のペテロと共にガリラヤの漁師だった。イエス・キリストに最初についていった弟子でギリシャのパトラスで捕らえられ拷問に会いⅩ型の十字架に掛けられたが絶命するまで周りの人に説教を続けた。節くれだった手の皺やお腹の肉のたるみ等、聖人を描くにもかかわらず理想とはかけ離れたナポリの漁師がそこにいる。

<デモクリトス、1629-31年頃、プラド美術館>

リベラ、デモクリト

Demócrito
RIBERA, JOSÉ DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)「笑う哲学者」と通称される作品。ナポリ副王だったアルカラ公爵の為に制作。古代の哲学者のデモクリトスを、ぼろをまとった現実の世界の庶民として描いた。今にも話し始めそうなこちらを見つめる眼差しや親しみやすい笑顔が親近感を与える。左手に紙を持ち右手にコンパスを持つのでアルキメデスとも呼ばれていた。顔や節くれだった手の皺の描写がやはりナポリの漁師を思わせる。

<アッシジの聖フランシスコの幻視、1636-38年、プラド美術館>

リベラ

Visión de san Francisco de Asís
RIBERA, JOSÉ DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)対抗宗教改革の頃に好まれたテーマ、頭蓋骨は改悛や謙虚を象徴する。天使が持つ透明なガラスの水は純粋さを現す。透明感に画家の技量がみられる。明暗法が使われているが次第に絵のタッチが柔らかく変化している。リベラは若い頃にローマでラファエロの作品に感銘を受けている。またローマ=ボローニャ派の画家たちがナポリに到着しており次第に彼らの影響をを受け激しいリアリズムから脱却する。

<天使による聖ペテロの開放、1639年、プラド美術館>

リベラ
San Pedro libertado por un ángel
RIBERA, JOSÉ DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)激しいテネブリズムから脱却した1630年代後半の作品。捕らわれた聖ペテロに天使が合わられた場面。ヤコブの夢と連作で描かれた。

悔悛のマグダラのマリア、1641年、プラド美術館>

リベラ

Magdalena penitente
RIBERA, JOSÉ DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)リベラの作品に聖母マリアや聖女たちの作品は少ないのはスルバランやムリーリョとの大きな違いとなる。数少ない聖女画の代表作。明るい背景の曇り空で美しい聖女を甘美に描いている。

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まとめ


対抗宗教改革のヨーロッパで厳しい検閲などが行われていた時代背景もありリベラの描く作品は厳格な宗教感が漂う。自国で成功できずにナポリへ渡りスペイン人であることを最後まで誇りに活躍をした画家。祖国に帰らずナポリで最後を迎えた。生前から多くの作品がスペインへ送られた事もありプラド美術館でリベラ様々な時代の作品を鑑賞することが出来る。

スルバラン(フランシスコ・デ・スルバラン){プラド美術館スペイン17世紀黄金世紀の巨匠達}

 

 

スルバランはスペイン17世紀バロック期に登場した画家。同時に多くの天才画家達が登場したこの時代を17世紀スペイン黄金世紀と呼ぶ。国王フェリペ4世の時代、世界を手に入れていたスペインは宗教改革や戦争で緩やかに下り坂を迎えた。対抗宗教改革に国中が燃え上がりトリエント公会議の後の厳しい宗教裁判が行われた時代、書物だけでなく絵画に関しても検閲が行われていた。歴史的にカトリックの擁護者の国スペインでは厳しい異端審問が行われていた為画家達への注文は宗教画に限られた。唯一例外的に宮廷で肖像画と神話画が注文されている。純粋なカトリック信仰が残ったスペインの民衆も敬虔な信仰心と祈りの中で生きていた時代だった。忘れてはいけないのは当時のスペインの画家達は芸術家というより職人。身分も高くは無くただひたすら神を信じ自分に与えられた才能を真摯に作品に投影していった。

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スルバラン(フランシスコ・デ・スルバラン)

1598年11月7日―1664年8月27日

 

エストレマドゥーラの小さな村フエンテ・デ・カントス(ポルトガル国境近く)に生まれる。スルバランが生まれた時エル・グレコ(1564-1616)はトレドで晩年を過ごしていたしベラスケス(1599-1660)は1年後に生まれ、ムリーリョ(1618-1682)は19歳後輩になる。スルバランとベラスケスは共にセビージャで徒弟時代を過ごしている。スルバランの父親はバスク人の商人だったが息子の絵の才能を見抜き生まれた街で絵の勉強をさせていた。15歳で今は無名のセビージャの画家ペドロ・ディアスに弟子入りした。ここでアロンソ・カノやプランシスコ・パチェコと出会ったようだ。

セビージャでの成功

セビージャの街は新世界への船が入港する華やかで豊かな時代だったが同時に一攫千金を狙う野心家も集まる荒れた街でもあった。

<16世紀のセビージャ、グアダルキビール川に入って来る船>

16世紀のセビージャ
De atribuido a Alonso Sánchez Coello – [2], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1713560
1617年19歳で結婚しレジェーナで3人の子供が生まれ地元のエストレマドゥーラの修道院や教会から注文を受けて仕事をしている。

スルバランは次第に生まれた街では名の知れた画家になっていた。1625年に裕福な10歳年上の未亡人と再婚し彼の仕事と経済状態は良くなった。1626年にセビージャのドミニコ会の修道会からの注文で8か月で21作品を書き上げた。そのひとつが磔刑のキリスト、画家29歳の作品。この時からセビージャに移住している。

<1627年磔刑のキリスト、シカゴ・インスティテュート>

スルバラン、磔刑のキリスト
De Francisco de Zurbarán – 1. Art Institute of Chicago2. Web Gallery of Art:   Image  Info about artwork, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15400705

この時代に磔刑図は非常に多くさまざまな画家によって描かれていてほぼ同時期にベラスケスが描いたものがプラド美術館にある。どちらの作品もベラスケスの師匠のプランシスコ・パチェコによるキリスト教図像学に忠実にキリストに穿たれた釘は4本、頭は少し右に倒れている。

<キリストの磔刑、1633ベラスケス、プラド美術館>

ベラスケス、キリストの磔刑

Cristo crucificado
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

新しい修道院が次々と建立されスルバランは大がかりな作品の注文を受けるようになり成功を収めた。1628年セビージャの履足メルセス会修道院から同時に22点の注文を受けた。

<セビージャのメルセス会修道院>

セビージャ、メルセス会修道院
De © Benoît Prieur / Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=34597349

履足メルセル会修道院は13世紀セビージャがイスラム支配から解放されてすぐに作られた修道院でその建物が現在セビージャ美術館になっている。

その中の遺体安置所に置かれた「聖セラピオ」は傑作と言われる作品だが大変残念な事に現在アメリカのワーズワースの美術館にある。衣装の量感や質感、白い色が何度も丁寧に塗られている。一滴の赤い血も描くことなく聖人の拷問の痛ましさと殉教を表している

<聖セラピオ1629年、ウォッズワース・アーシニアム>

スルバラン・聖セラピオ
wikipedia public domain Object history
Deutsch: Urspr. im Mercenarier Kloster in Sevilla
Source/Photographer Wadsworth Atheneum

聖セラピオは13世紀のメルセル会修道士。ムーア人の捕虜となったキリスト教徒の身代わりに敵地へ行き殉教した聖人。暗闇の中で白い修道衣が光に照らされている明暗法はカラバッジオの影響。両手の指の描写や衣服のひだの量感が素晴らしい。

 

また同じ修道院の回廊の為に修道院創立者ペドロ・ノラスコの生涯というテーマで大作を描いた。静謐で禁欲的な作品は注文主の希望で当時の画家は注文主からの希望通りに忠実に描く職人だった。

<聖ペドロ・ノラスコに現れた聖ペテロ1629年、プラド美術館>

スルバラン、聖ペドロ・ノラスコの生涯
museo del prado

メルセス会修道院の創立者聖ペドロ・ノラスコの生涯。右側の聖ペドロ・ノラスコにその名前の由来になった聖ペテロが現れた。聖ペテロは逆さ十字で殉教したイエスキリストの弟子。痛ましい殉教の聖ペテロの苦しそうな目の表情のリアル、暗がりの中の聖ペドロ・ノラスコの衣装の美しい白い布地の量感が美しい。

<聖ペドロノラスコの幻視1628~29 プラド美術館>

スルバラン、ペドロ・ノラスコの生涯
museo del prado

聖ペドロ・ノラスコの幻視。上の作品と同じ聖ペドロ・ノラスコの生涯のシリーズ。左上にエルサレムの街、右側に天使が天から降りて来てエルサレムを指さしている。天使のピンクとブルーの衣装の素材感、聖人の腰から下がるロザリオが美しい。これらはプラド美術館で鑑賞できる。

1630代年はスルバランの頂点をなす時期。セビージャ大聖堂のサンペドロ礼拝堂の祭壇の制作やへレス・デ・ラ・フロンテーラのカルトゥジオ会の祭壇、グアダルーペの王立修道院に修道士たちを描いた大作を残している。

<グアダルーペ修道院の回廊にあるスルバランの作品>

 

グアダルーペ修道院
monasterio de guadaluupe
マドリードへ

セビージャで成功をおさめたスルバランは1634年マドリードの宮廷に呼ばれる。このチャンスをくれたのは友人ベラスケスだった。既にペラスケスは宮廷画家としてマドリードで活躍しており同郷の2人の画家は同じ時期にセビージャで徒弟時代を過ごしていた。マドリードでブエンレティーロ宮殿の諸王の間を飾る作品が描かれる。ベラスケスのブレダの開城を筆頭に12点の戦争画が用意されることになった。

<ベラスケス作ブレダの開城、プラド美術館>

ベラスケス、槍

Las lanzas o La rendición de Breda
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

 

スルバランは1625年のカディスの街が英国軍の攻撃にさらされた時にスペイン側が追いやった歴史的勝利の場面を描いた。

<カディス防衛1634年、プラド美術館>

スルバラン、カディス防衛
museo del prado

実はこの作品の評価は低く英雄の活躍の大胆さや勝利の場面の緊迫感に欠けると言われている。スルバランは修道院で光を放つ画家だったのだ。

同じくブエンレティーロ宮の為にギリシャ神話のヘラクレスの偉業のテーマの作品群を10点制作している。スルバランの神話画も戦争画もこの時の宮廷からの注文のみで生涯にわたって宗教画を描いた画家だった。これらはプラド美術館で鑑賞することが出来る。

<ヘラクレスの牛の退治1634年、プラド美術館>

スルバラン、ヘラクレス牛退治
Hércules y el toro de Creta
ZURBARÁN, FRANCISCO DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

ギリシャ神話の中に出てくる長いお話でヘラクレスはゼウスが人間との浮気で生まれた子供。嫉妬をしたゼウスの正妻ヘラによって人間では不可能なとんでもない挑戦をさせられることになった。そのひとつがクレタ島の巨大な牛の退治だった。それらヘラクレスの偉業をスルバランは作品にしている。ヘラクレスの体の筋肉等人体研究がされている。

マドリードで「宮廷画家」の名を手に入れたがスルバランは翌年にはセビージャへ戻っている。

アッシジの聖フランシスコ

その後セビージャの修道士の共同体からの注文と思われるシリーズで描いたアッシジの聖フランシスコ。

<アッシジの聖フランシスコ1630-35年頃、ロンドン・ナショナルギャラリー>

スルバラン、フランシスコデアッシジ
De Francisco de Zurbarán – http://www.nationalgallery.org.uk/paintings/francisco-de-zurbaran-saint-francis-in-meditation/27646, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=160387

上の作品とほぼ同じ物がメキシコシティーのソウマヤ美術館にある。2度目の結婚の妻が亡くなり画家になった息子も同じころペストで死亡している。画家の作品に更に深い静謐さが現れるのはこの時代。カラバッジオの明暗法の影響がみられ禁欲的な修道士の内面が感じられる。

<自分の墓にいるアッシジの聖フランシスコ、1630-34アメリカ・ミルウォーキー美術館>

スルバラン、自分の墓のアッシジの聖フランシスコ
Milwaukee Art Museum
Communications Department
700 N. Art Museum Drive, Milwaukee, WI 53202

 

(下)同じアッシジの聖フランシスコのスルバラン晩年記の作品。カラバッジオのテネブリズム(明暗法)は使わず背景に空が描かれている。衣装の擦り切れた素材感の技術が素晴らしい。

<聖フランシスコ、1659年プラド美術館>

スルバラン聖フランシスコ

San Francisco en oración
ZURBARÁN, FRANCISCO DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado
神の子羊

生贄として神にささげられる子羊はイエス・キリストの象徴。犠牲や従順、信仰を現す。

<神の子羊1640年、プラド美術館>

スルバラン、神の子羊
Agnus Dei
ZURBARÁN, FRANCISCO DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

 

足を縛られた子羊の無力さの正確な表現、神に対する従順を的確に表す。他に何も宗教的な物は描かれていないが、力なく横たわる子羊に強い信仰心を感じさせる。1640年妻と息子をペストで亡くした頃の作品。

スルバランの描く聖女たち

スルバランは単身で聖女たちを何点も描いている。それぞれ美しい豪華な衣装に身を包んでいて繊細な描写が素晴らしい作品。手にの宗教的象徴物(アトリビュート)を持ち聖人画と分かるがまるで近代の肖像画のように描かれている。当時の豪華な衣装、宗教画だと思わずファッションの特集の様に衣装の美しさも楽しめる。

 

<聖カシルダ又はポルトガルの聖イサベル1640年頃、プラド美術館>

聖イサベル
Santa Isabel de Portugal
ZURBARÁN, FRANCISCO DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

長い間薔薇を象徴物とする聖カシルダと呼ばれていたが最近ではポルトガルの聖女イサベルとの解釈もある。

*聖カシルダ=9世紀に生まれたムーア人の王女。父の意に反してキリスト教となり殉教した。手に持つバラの花は聖カシルダの象徴物。捕らえられた時にパンをキリスト教徒の為に持って行こうとしていたが捕まった一瞬パンがバラの花に変わった奇跡があった。

*ポルトガルの聖イサベル=ポルトガルの王に嫁いだアラゴンのイサベルは貧しい人々にいつも奉仕していたが王はあまり快く思っていなかった。貧者にパンを届けに出かけるイサベルを見つけ咎めようとした王がイサベルが衣装に隠している篭を見るとパンが薔薇に変わった奇跡があった。

<聖カシルダ1630-35、ティッセンボルネミッサ美術館マドリード>

スルバラン、聖カシルダ
De Francisco de Zurbarán – Museo Thyssen-Bornemisza, Madrid, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=19491619
スペインの没落

30年戦争での戦費やペストの流行等スペインの現状は次第に画家達にも影響を与え大規模な注文が亡くなった。又新しい画家ムリーリョの登場で時代は変わって行った。スルバランの厳格な宗教感よりムリーリョの甘美なマリアの方が大衆受けしたと私は思っている。

 

<無原罪の御宿り、ムリーリョ、プラド美術館>

ムリーリョ、無原罪の御宿り
By バルトロメ・エステバン・ムリーリョ – The Yorck Project: 10.000 Meisterwerke der Malerei. DVD-ROM, 2002. ISBN 3936122202. Distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=155969

 

 

セビージャの街はアメリカ大陸へ向かうガレー船が停泊する港だった事もあり新大陸向けに画家達は作品を描き始め収入源にした時代。次第に注文が減ったスルバランも1640年頃から新大陸向けの物を描き始めたその頃の物は大量生産で工房の手が入り玉石混合。

聖ウーゴの食卓と奇跡

セビージャ、グアダルキビール川の対岸にあるカルトゥジオ会修道院からの注文で描かれた「慈愛の聖母」と「聖ウルバヌス2世と聖ブルーノ」と共に描かれた一枚が「聖ウーゴと食卓の奇跡」。

<聖ウーゴと食卓の奇跡1645年、セビージャ美術館>

スルバラン、サンフーゴの奇跡
De Francisco de Zurbarán – Museo de Bellas Artes de Sevilla, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3118429

*奇跡の物語=復活祭前のある日カルトゥジオ会を創設した聖ブルーノと仲間の修道士たちは聖ウーゴから与えられた肉を食べるか食べまいか迷っていると突然意識を失い四旬節の間眠ってしまう。聖ウーゴが45日後の復活祭に彼らを訪ねると目を覚ました修道士たちの目の前でその肉が灰に変わったという奇跡。

圧倒されるほど大きな作品で修道士たちはほぼ投身大。「今、目覚めた!」奇跡の一瞬の臨場感がある。テーブルクロスや衣装の白色の美しいトーンがスルバランらしい。食器に光が当たり素材感がスルバランの静物画の丁寧な静謐さを感じる。

スルバラン静物画

<静物画1650年頃、プラド美術館>

スルバラン、静物画

Bodegón con cacharros
ZURBARÁN, FRANCISCO DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

静物画というジャンルは1600年頃にフランドルとスペイン、イタリアで同時に描かれ始めた。スルバランはそこにある自然物を正確に描写しているだけでなく質素な修道院の生活を想像させ精神性をの高さ、暗い背景に浮かび上がる一直線に並んだ焼き物がまるで聖画のようなムードを讃え他の画家の静物画と一線を引く。

 

スルバラン最後の時代

1658年既に60歳の画家はセビージャでの仕事を失いマドリードに活路を見出そうとする。アルカラ・デ・エナレスのフランシス会修道院のレ・マルケの聖ヤコブ等が知られている。スルバランの最後の作品は「聖母と赤子キリストと洗礼者ヨハネ」。現在スペイン北部バスク地方のビルバオ美術館にて展示されている。

<聖母と赤子キリストと洗礼者ヨハネ1662年、ビルバオ美術館>

museo bellas artes Bilbao

画家はその2年後1664年マドリードで病死。質素な家具や衣類等の財産目録が残るそうだがかなり貧しかった。マドリードのレコレトス通りにあったコパカバーナ修道院に埋葬されたが修道院は19世紀に破壊され埋葬されていた画家の墓も行方不明。

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まとめ

スルバランの作品は世界中に散らばっていてプラド美術館でさえも多くは無い。1835年にスペインで修道院永大財産廃止令が出て多くの宗教画が世界中に分散するという残念な事が有った。しかしそれによって次第に世界各地でスルバランの作品が知られ評価されるようになり後年ピカソ、クールベ、マネなどによって賛辞されている。フランシスコ・デ・スルバランは深い宗教性のある心の届く作品を残した素晴らしい画家だった。

 

宗教画を楽しむ。絵画で読み説く新約聖書、クリスマスの物語・キリストの誕生と無原罪の御宿り

 

宗教画は面白い。プラド美術館だけではなくヨーロッパの美術館の作品は多くが新約聖書や旧約聖書の内容が題材になっている為聖書を知っているだけで随分と作品に対する知識が広がって行く。古くは字が読めない人達にキリスト教を布教するために絵によって聖書を教えていったので多くの美術館の作品は教会の祭壇画だった物が多い。

特にスペインの画家たちはヨーロッパが宗教改革の嵐でカトリックから離れていく中、対抗宗教改革で教会の権威を取り戻そうとしていた時代に多くの宗教画を描いた。さらには悪名高い異端審問の追及や魔女裁判があった国なので注文主は厳格な宗教画を中心に画家に描かせた。

聖書の中身


聖書には旧約聖書と新約聖書が有り旧約には人類の歴史、新約にはイエス・キリストの生涯が描かれている。分厚い聖書の75パーセントは旧約聖書で占められていて天地創造から始まる旧約は興味深いが読み解くのにはかなりの知識と忍耐が必要になる。一方新約聖書の方はイエス・キリストの生涯が中心なので馴染ある題材の物が多く親しみやすい。

<12世紀のギリシャ語の新約聖書>

12世紀のギリシャ語の聖書
wikipedia public domain
Source Codex Harleianus 5557 (minuscule 321 in the Gregory-Aland numbering)
Author Unknown

*新約聖書は大体紀元50年から120年頃に当時の共通語のギリシャ語で書かれている。聖書の中に登場する人々が話していたアラム語やへブル語ではなく、さらにすでにローマ帝国の時代だったにもかかわらずラテン語ではなくギリシャ語で書かれている。弟子たちはこの物語がより広い世界で読まれるためにギリシャ語を選んだ。それほどギリシャ語は当時の広い世界で使われていた言語だった。素晴らしい科学の発見を日本語で発表するより英語で論文を書く方が多くの人に読まれると考えれば理解できる。後にラテン語に訳された。

このページでは新約聖書の物語をプラド美術館の作品を中心にイエスキリストの誕生の所までを辿って行きます。

 

受胎告知 3月25日


「おめでとう、恵まれたお方。主があなたと共におられます。」ナザレの大工ヨセフと婚約していたマリアの所に大天使ガブリエルが現れてこう言ったと新約聖書に記述があります。

宗教画には色々お約束事があって昔の字が読めない人にもいろんなことが解るように少しずつまとまって行ったのが「キリスト教図像学」という学問になっている。。

受胎告知は①聖母マリアが聖書を読んでいたところに天使が降りて来たので聖書が描かれる。②マリアは驚いているか怖がっている、または恥じらっている、または受け入れている。③純粋を現す白いユリが描かれる。④マリアの衣装は赤い服にブルーのマント(時には逆又はほかの色なども有る)

*実は旧約聖書の「イザヤ書」に「見よ乙女が身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエル(神は我々と共におられます。という意味)と呼ばれる」という記述がありマリアはそこを読んでいた。新約聖書にはマリアが聖書を読んでいたとは書かれていなく実は初期の絵画には出てこない。11世紀頃から次第に描かれるようになってきた。

受胎告知の日は3月25日。クリスマス(イエス・キリストの誕生)の9か月前で、中世ヨーロッパで使っていたカエサル歴の一年の始まりの日だった。そのすべての始まりの日に聖母マリアは受胎告知を受けた。

受胎告知は非常に人気がある場面で様々な時代に様々な作品が描かれている。ここでは何人かの画家の作品を見ながら国際ゴシックからバロックまでを並べて時代によって絵画が変換していった様子をご紹介。

 

<シモーネ・マルティーニ、1333年、ウフィツイ美術館>

イタリア絵画です。シモーネ・マルティーニはイタリアのシエナの画家で国際ゴシック期に属す。同じ時代のフィレンツェの画家たちが現実の世界を正確に描いたのと対照的に優雅な動きや現実にはあり得ない神の世界を可視化して宗教画を残している。この作品は板に金箔を使ったもので左側の天使の後ろ側に揺れる布地がシエナらしい優美な動き。マリアは驚いて怖がっている。

public domain
Source/Photographer The Yorck Project: 10.000 Meisterwerke der Malerei. DVD-ROM, 2002. ISBN 3936122202. Distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH.

聖母が恥じらいながら振り返って「え?な、な、なんですか?」とジワリと逃げ腰な動作が感じられる。天使の衣装の後ろ側が揺れて動いているのがたまらなく好きです。

天使がユリではなくオリーブを持っているのはユリの花が政敵フィレンツェの象徴なのであえてユリは向こうに置いたという説がある。

184センチx210センチという巨大な板に描かれたテンペラ画でその前に立つだけで迫力に煽られそうになる祭壇画です。

<受胎告知、フラアンジェリコ、1425年頃、プラド美術館>

フラ・アンジェリコは質素なドメニコ会修道士。その「祈る姿が美しく、キリスト磔刑図絵を描くときはうっすら涙をを流していた。」と伝えられいつも「天使のような微笑みを讃えていた」。本名はグイード・ディ・ピエトロ

フラアンジェリコ受胎告知
public domain
Accession number P00015
Source/Photographer Galería online, Museo del Prado

未だ国際ゴシックの特色を残す作品で彼の10点ほど現存する受胎告知の一枚。一枚目のシモーネ・マルティーニの作品から90年程立つので絵画の発展が随分見られ、例えば遠近法が使われている。現実のフィレンツェの部屋のムードを宗教画に取り入れることでより一層物語を現実的に描いた。左側の美しい曲線の天使が本当に今空から降りて来たように感じられ衣装が揺れている。左側には旧約聖書のアダムとイブの楽園の追放が描かれている。

<受胎告知、レオナルド・ダビンチ、1472年頃、ウフィツイ美術館>

上のフラアンジェリコから50年弱しか経っていないとは思えない程の技術の進歩。私はこの天使のポーズがなんとも言えなく好きなのです。フィレンツェのウフィツイ美術館蔵の有名な作品。レオナル・ド・ダビンチは科学者や発明家としても活躍をした天才で絵画で完成されたものは実は15点程で非常に少ない。完璧主義でその興味は多岐に渡りあらゆる方面で天才的だった。

 

受胎告知、レオナルド
By レオナルド・ダ・ヴィンチ – sAErNLFH1KFYmw at Google Cultural Institute, zoom level maximum, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=13514513

 

この作品は師匠のベロッキオとの共同作だがレオナルド20歳頃のおそらくデビュー作。

お約束通り左に天使、手にユリの花を持って右側の聖書を読むマリアに表れている。聖母の手の動きが美しいがよく見ると右手が少し長い。おそらくおかれる予定だったのが壁面上部だったので見る人の位置を考えての事と言われている。

部屋の中で行われている場面だが遠景が綺麗に遠くまで描かれてるのは受胎告知としては珍しい。

<受胎告知、エルグレコ、1570年、プラド美術館>

マリアと天使の位置に注目していただきたい。他の作品はマリアが右側で天使が左側にいた。エルグレコは全ての受胎告知でこのように描いているが理由の方は諸説で良くはわかっていない。

 

エルグレコ、受胎告知
By エル・グレコ – [2], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=27348

エル・グレコがまだベネチアにいたころの作品でで26センチx20センチのは大変小さな作品で習作。ベネチア絵画の影響がみられ床の大理石の線で遠近法を使い後ろの遠景にベネチアの街が見える。鮮やかな色彩もティチアーノやティントレット等の影響。そして天使もマリアもぽっちゃりしている。エル・グレコの作品は晩年になるほどみんなもっとやせ細って行きます。

<受胎告知、エルグレコ、プラド美術館>

やはりマリアが左側にいる。エル・グレコは受胎告知を生涯にわたって描いている、中の一枚が日本の大原美術館にある。この作品はドーニャ・マリア・アラゴン学院大祭壇画用に描かれたもので6枚の絵画で構成される大きな祭壇になる予定だった。これはおそらく中央に置かれるはずだったと想像されている。

受胎告知、エルグレコ
This is a faithful photographic reproduction of a two-dimensional, public domain work of art.

 

受胎告知と呼ばれているが実際は聖母に神の子が宿ったその瞬間を描いたものでエル・グレコらしい美しい色で神秘の世界が描かれている。天上界の天使たちがまさに綺麗な音楽を奏でていて天使の登場にマリアは驚いて振り返っている。

エルグレコの聖母はいつも同じ女性がモデルで後にエルグレコの子を産むヘロニマというトレドの女性。キリスト教徒同士だがエルグレコはギリシャ正教徒だったため正式の結婚は許されなかった。

<受胎告知、ムリーリョ、1660年、プラド美術館>

最初のシモーネマルティーニから330年も経過した。この時代の画家たちの作品は写実画どころか写真さえ超えているんだと思う。現実の世界に登場しそうな程の写実性の中で行われる聖書の場面。

 

ムリーリョ、受胎告知

La Anunciación
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

スペインのバロック画家バルトロメオ・エステバン・ムリーリョは南スペインのセビージャで生まれた。画面全体が薄もやに包まれたような幻想的な作品で甘美な天使や聖母マリアを多く描いた画家。

中央に精霊を現す白い鳩が飛んでいてマリアの右側に純潔を現す白いユリとさっきまで読んでいたイザヤ書。胸の前で手を合わせる驚きながら受け入れている風の聖母。手前に手仕事用の篭が置いてあるのはムリーリョの作品の共通点でさっきまで手仕事をしていた現実感を出している。ムリーリョの聖母マリアもエルグレコと同じでいつも同一人物がモデル。甘美な聖母マリアや天使たちがとても甘美で美しく当時のヨーロッパで大変人気が有ったのがムリーリョの作品。

*聖母マリアは聖書の中での扱いは少なくプロテスタント諸派は聖人化していない。ユダヤ教やキリスト教の唯一神の神は厳しい父親的な神で人間にすぐに罰を与える。しかし本来私たち弱い人間が求めている神は「許してくれる」母親的な神で次第にマリアが神聖化されていき讃えられるようになる。スペインの各教会には美しいマリア像が人々の信仰の対象に、今もなっている。

<マカレナのマリア、セビリア>

マカレナのマリア像、セビージャ
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José Luiz Link back to Creator infobox template
Attribution
(required by the license) © José Luiz Bernardes Ribeiro / CC BY-SA 3.0

 

聖母のエリザベス訪問 5月31日又は7月2日


聖母が天使から受胎告知を受けたころ親戚のエリザベスも懐妊した。受胎告知の折に聖母はこれを天使から告げられる。エリザベスは長年子供が出来ず年老いていたのでマリアは神の力に驚きエリザベスを訪問した。(ここでは日本で使われているエリザベスを使いましたがスペイン語ではイサベルです)

<聖母のエリザベス訪問、ラファエル工房、1517年、プラド美術館>

ラファエロ・サンティは若くして成功し異例なほどの大規模な工房を経営していた。37歳で死去した惜しまれる画家のひとり。マリアの画家と呼ばれたラファエルのマリアは美しい。

聖母のエリザベス訪問 ラファエルの工房
La Visitación
PENNI, GIOVANNI FRANCESCO,ROMANO, GIULIO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

 

工房の弟子の作品だがおそらくラファエルの手も入っているだろう。右側のマリアの美しい表情などにラファエルらしい繊細な魅力がある。背景の風景にヨルダン川で洗礼者ヨハネによって洗礼を受けるイエスキリストが描かれている。

 

<洗礼者ヨハネ>

エリザベスから生まれる子が後の洗礼者ヨハネ。「悔い改めよ」と荒野で人々に洗礼をしていたヨハネは後にサロメの希望でヘロデ王に首を切られて殺される。

<洗礼者ヨハネの首を持つサロメ、ティチアーノ、プラド美術館>

サロメ ティチアーノ

Salomé
TIZIANO, VECELLIO DI GREGORIO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado
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キリストの誕生、羊飼いの礼拝 12月25日


「さあ、ベツレヘムへ行って主がお知らせくださった出来事を見てこようではないか!」

イエス・キリストが誕生したころイスラエルはローマ帝国の支配下にはいっており初代皇帝アウグストゥスの時代。「人口調査をせよ」との命令が出たので人々は自分の故郷へ帰って行った。

ヨセフはダビデの家系でその血統だったのでユダヤのベツレヘムというダビデの街へ帰って行った。すでにマリアは身ごもっており月が満ち男の子を産んだ。

羊飼いたちが群れの番をして野宿をしていると天使が現れた。「今日ダビデの街で救い主がお生まれになった。あなた方は飼い葉おけに寝ている赤ん坊を見つけるであろう」(ルカによる福音書)ベツレヘムにある家畜小屋で羊飼いたちはマリアとヨセフと幼子を見つけ天使が言ったお告げが本当だったと語り合った。

羊飼いたちの礼拝は14世紀中頃から盛んに描かれるようになった場面。

<羊飼いたちの礼拝、エル・グレコ、1612年、プラド美術館>

これはエル・グレコが亡くなる直前に描いた画家最後の作品。トレドにある小さな教会の祭壇画の為に描かれエル・グレコの葬儀がこの祭壇画の前でおこなわれた。

エルグレド、羊飼いたちの礼拝

Adoración de los pastores
EL GRECO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

鮮やかな色彩と光の使い方に晩年のエルグレコの熟練がみられる美しい作品。現実の世界を超えた超越的な物を感じさせる。天上界の天使たちが集まって来ている。大きな工房で弟子を雇っていたエルグレコだがこの作品は隅々にいたるまで画家本人の作と言われている。

<羊飼いの礼拝、ムリーリョ、1650年頃、プラド美術館>

ムリーリョのマリアは甘美で美しく、お祝いに駆け付けた人々は当時の現実の世界にどこにでもいたであろう人々。エル・グレコの現実の世界を超越した作風と対照的。

羊飼いたちの礼拝

Adoración de los pastores
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

あえて天使のいない空間に身近なの出来事のような感じを与える。犠牲を現す羊が右にいて登場人物の視線がすべてキリストに注がれているが、左端の牛だけがこちらを向いている。

東方三賢者の礼拝 1月6日


「ユダヤの王としてお生まれになられた方はどこでしょう。東の方でその星を見たので拝みにやってきました」イエスはユダヤのヘロデ王の時代に生まれた。その時東方から3人の賢者がヘロデ王のもとに来て尋ねた。

ヘロデ王はたまたま王になっていたが本物の王が生まれると聞いて動揺し偉い学者を集めてその子がどこで生まれるかを調べさせた。

「ベツレヘムの馬小屋です」これは実は旧約聖書に書いてある物語。ヘロデ王は三賢者に「その子を見つけたら教えいただきたい。私も言って拝みたい。」と伝えた。

三人の賢者が出発すると東の方から星が出て彼らを導いた。そしてその星の止まった家に入ると赤ん坊のイエスが飼い葉桶の中に眠っていて捧げものとして黄金,乳香、没薬を贈った。三賢者は帰り道にはヘロデに合わずに帰って行った。

三人というのは聖書には記述は無く後からつけられたようですが今もスペインのクリスマス・プレゼントは東方の三賢者が運んできます。大抵の街では1月5日の夜に大きなパレードがあり夜中に枕元にプレゼントが置かれます。

 <東方三賢者の礼拝、ベラスケス、1619年、プラド美術館>

おそらくベラスケス20歳頃の作品でまだセビージャにいたころに描かれた初期のもの。

東方三賢者の礼拝ベラスケス

Adoración de los Reyes Magos
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

登場人物のモデルはマリアが結婚した妻のファナ、幼子イエスキリストはこの年に生まれた娘のフランシスカ、手前にひざまずくのが画家ベラスケス、背後の横顔の老人が師匠のパチェーコ。絵を描くのにモデルが必要なので画家たちの身近な人々が度々モデルになった。

<東方三賢者の礼拝、ルーベンス、1628年、プラド美術館>

ルーベンス壮年期の作品。ベルギーのアントワープ市庁舎を飾るための物だった。オランダの独立戦争の休戦協定を記念して描かれた作品で休戦の平和の喜びが画面全体に出ている。

東方三賢者の礼拝
La Adoración de los Magos
RUBENS, PEDRO PABLO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

衣装の描写も丁寧で三賢者が持つプレゼントも豪華に描かれている。右端の少し上に馬上に乗るのがルーベンス本人。この作品を後にスペイン国王が購入しスペインに渡ったあとルーベンスがスペインに再訪した折に自分を付け加えた。

エジプト逃亡


「立って、幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして貴方に知らせるまでそこに留まりなさい。ヘロデが幼子を探し出して殺そうとしている。」

ヨセフの夢に天使が現れヨセフはエジプトに逃亡、ヘロデはベツレヘムにいる二歳以下の男の子を殺したが予言によってイエス・キリストは助かった「やっぱりヨセフは偉い!」という事になっている。

*幼児虐殺は「旧約聖書のエレミヤ書」の中にも出てくる場面。旧約の出来事が予言の様に繰り返された・・・となる記述は新約聖書に多いがこの幼児虐殺はマタイによる福音書のみに出てくる場面で歴史的事実は不明。ヘロデ大王は実在した人物で紀元前4年に亡くなっている。キリストの誕生を西暦0年とすると整合性に疑問が残る部分なのです。今の歴史学者はイエスキリストが生まれたのは紀元前7世紀から4世紀の説を取っている。300年も開きがある。

 

<エジプト逃亡、エル・グレコ、1570年、プラド美術館>

未だエル・グレコがベネチアにいたころの習作で17センチx21センチの小さな板に描かれたもの。

エジプト逃亡、エルグレコ

La huida a Egipto
EL GRECO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

アニメのひとこまの様で愛らしい作品。風景がこれほど沢山描かれたエル・グレコの作品は珍しい。

<エジプト逃亡、ムリーリョ、1647年、デトロイト美術館>

ムリーリョ30歳頃の作品。登場する人々の衣装は17世紀の庶民が来ていた衣装をまとっている。ヨセフはたいていどの宗教画でも扱いが軽いのですがこのヨセフは随分かっこいい。

ムリーリョ エジプト逃亡
wikipedia
public domain

幼子イエスの顔が写実的でまさに生まれたばかりの赤ちゃん。ベラスケスの東方三賢者に出てくる幼児キリストと非常に似ている。

 

 <番外編>無原罪の御宿り 12月8日


無原罪の御宿りは聖書には出てこない題材でカトリック独特の信仰のひとつ。

キリスト教の考え方では人間はみな生まれながらにして罪を持って生まれてくる。旧約聖書に出てくるアダムとイブが神との約束を破って禁断の実を取って以来私たちは罪深いのです。

<エヴァ、デューラー プラド美術館>

エヴァ、デューラー
https://tabispain.com/nuevo-testamento-prado/

神の怒りは収まらず私たちはエデンの園から追放され、日々労働をしなければ食べ物を得ることが出来なくなり、女性は苦しんで子供を産み、人はみな年老いて死んでいく。

<アダムとイブの追放、ゴヤ、1771年、プラド美術館>

アダムとイブの楽園からの追放
Expulsión de Adán y Eva del Paraíso
GOYA Y LUCIENTES, FRANCISCO DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

 

が、マリアは母親の胎内に宿った時に既に汚れの無い「無原罪」だった。

よく誤解される「マリアがキリストを宿した時に無原罪だった」ではなく、「聖母マリアがその母アナの胎内に宿った時に無原罪だった」その御宿りをお祝いする日が12月8日となりカトリックの祝日です。

聖母マリアのお誕生日は9月25日、なので計算は合うようになっています。。

<無原罪の御宿り、ムリーリョ、1678年、プラド美術館>

無原罪の御宿りのマリアは白い服にブルーのベール。下弦の三日月がお約束ですがムリーリョは上弦の三日月にのせた。

無原罪の御宿り

La Inmaculada Concepción de los Venerables
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

綺麗なマリア像はこの時代大変人気があり厳しい父親的な神から受け入れていくれる女神や母親的な信仰対象を求めていた人々に受け入れられていく。

 

「無原罪の御宿り」の教義に関しては度々公会議で議論され、異端になりかけたこともあった。イエス・キリストは救世主で罪なき神の子だがその母親までも罪なき人にするのはどうか・・・・、というわけです。

正式にカトリックの教義になったのは1854年ローマ法王ピオ9世の時。反宗教的な社会情勢に対抗しての策とも言われているが随分反対もあったようです。

*ちなみにこのピオ9世は史上最長のローマ法王在位の方でいイタリア統一運動やナポレオン3世や大変な時代を乗り切った。日本の「26聖人」を聖別したのはこの方です。

カトリックの国では12月8日は祝日で本来この日からクリスマスの準備が始まり12月25日のキリストの誕生から東方三賢者の日1月6日までがクリスマスとなります。この時期カトリックの国を旅行する方は祝日の注意が必要です。

ギリシャ神話は面白い。絵画で楽しむギリシャ神話。(プラド美術館を中心に)

 

ギリシャ神話は面白い。絵画で楽しむギリシャ神話をプラド美術館の作品を中心に紹介します。ヨーロッパの美術館を楽しむため知っていた方が絶対良いのはキリスト教とギリシャ神話。ほんの少し物語を知っているだけで美術館での時間もヨーロッパの旅も随分違ったものになります。プラド美術館を訪れた時その時間が数倍楽しくなるようにプラド美術館にある作品を中心にギリシャ神話をご紹介。

ギリシャ神話の神様達は奔放で情熱的で欲望のまま浮気をしたり女を誘拐したり、怒りに任せて報復をしたりとても人間くさく面白い。禁欲的なキリスト教の神と比べて作品にするのも見るのも楽しいものばかりです。ギリシャ神話の壮大な物語は冒険心をくすぐられ映画やゲームに今も使われています。

ダナエ

ダナエは今のギリシャのペロポンソス半島にあるアルゴス王国の美しい王女。あるとき父親の国王アクリシオスは神託を受けた。「お前はお前の孫によって殺されるであろう」。驚いたアクリシオスはまだ結婚もしていない美しい娘のダナエが子供を産まないように城の塔に幽閉した。

ところが女好きの全能の神ゼウスが美しい女性ダナエを見つけた。青銅の扉の中にいるダナエに近づくために自分の姿を黄金の雨に変えてダナエと交わった。

この絵はベネチア巨匠ティチアーノがスペイン国王フェリペ2世の為に描いた一連の神話画「ポエジア」の連作のひとつ。「ポエジア」はギリシャ神話の変身物語を断続的に約10年間に渡って描いた連作。

ダナエを誘惑するために黄金の雨になったゼウスが幽閉されたダナエの塔に降り注ぐ。

<黄金の雨とダナエ・ティチアーノ・プラド美術館>
プラド美術館 ダナエ

Dánae recibiendo la lluvia de oro
TIZIANO, VECELLIO DI GREGORIO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

同じ題材の作品がナポリのカポディモンティ国立美術館、ザンクぺテルスブルグのエルミタージュ美術館、ウィーンの美術史美術館にある。構図はほとんど同じだが右側のおお皿で黄金を受けている老婆がの所にューピッドがいたり、犬が描いてあったりする。

<ダナエ・ティチアーノ・カンポディモンテ国立美術館>
ナポリにあるティチアーノのダナエ
wikipedia
Pubblico dominiovedi

ダナエはその後身ごもり男の子ペルセウス産んだ。神託は「貴方は孫によって殺される」父王アクレシウスは「この孫に殺される・・・?」と慌てたが可愛い孫を殺すことはできず箱船に乗せダナエと共に海に流した。「きっとこれで大丈夫。」

この箱船がクレタ島の北にあるセリポス島に流れ着き漁師ディクテュスに助けられた。漁師の兄、島の王ポリュクデクテスは美しいダナエに一目ぼれ。青年になっていたペルセウスは母を守ろうと王に対抗する、が王は邪魔になったペルセウスを怪物メドゥーサ退治に出す。

<メドゥーサ、カラバッジオ、ウフィツイ美術館>
カラバッジョ メドゥーサ
wikipedia
public domain

 

メドゥーサはゴルゴン3姉妹の末っ子。顔は大変醜く「口には鋭い牙」、背中には「黄金の翼」、手には「かぎ爪」を持っていて「髪は生きた蛇」、最も恐ろしいのは「メドゥーサの目を見たものは石に変えられる」。

メドゥーサは実はもともと輝く金髪を持った絶世の美女だった。海の神ポセイドンに寵愛され白馬に姿を変えたポセイドンに連れられアテナ神殿で契りをかわす。神殿を汚されたアテナとポセイドンの正妻アンピトリテは仕返しにメドゥーサとその姉妹たちを怪物に変えてしまった。

<メドゥーサの頭・作者不明17世紀・プラド美術館>
メドゥサの頭
Medusa
ANÓNIMO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

ペルセウスは女神アテナから「輝く盾」、ゼウスの使いの青年神ヘルメスからは「空飛ぶサンダルと金の新月の刀」を借りて旅に出た。この刀だけがメドゥーサの首を切ることが出来る。

後足りないものが二つ、それは西の国のニンフたちが持っている。ニンフ達の住み家を知っているのはグライアイの三人の老女。彼女たちは三人なのにひとつの目とひとつの歯を交代で使っていた。

ペルセウスは無事グライアイの老女からニンフの住み家を教えてもらい足りない二つの物、「被ると姿が見えなくなる帽子」、「ゴルゴンの首を入れるための魔法の袋」をもらった。

<メドゥサ退治のペルセウス・ルカ・ジョルダノ・プラド美術館>
ルーカジョルダノのペルセウスのメドゥサ退治

Perseo vencedor de Medusa
GIORDANO, LUCA
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

ゴルゴン谷に着いたペルセウスはヘルメスの羽の付いたサンダルで空を飛びアテナにもらったピカピカの盾にメドゥーサを写し、金の新月の刀でその首を切り落とした。ペルセウスは帽子をかぶって姿を消しサンダルで空を飛んで逃げていく。

メドゥーサを倒したペルセウスは母の待つセリポリ島へ飛んで帰る途中、裸の美女が鎖で岩場に繋がれているのを見つけた。この美女はエチオピアの王女アンドロメダ。海から牙の生えた怪獣が美女を狙って泳いでいるのが見える。

実はエチオピアの王妃カシオペアは「海の神ポセイドンの娘たちより私の方が美しい」と豪語していた。それがポセイドンの耳に入り怒りにふれエチオピアは毎年大洪水に苦しめられていた。国王ケフェウスが神に聞いたら「娘アンドロメダを海の怪獣の生贄にすれば神の怒りは鎮まるだろう」。それでかわいそうな娘アンドロメダは鎖に繋がれ今まさに生贄になっていた。

<アンドロメダの救出・ルーベンス・プラド美術館>
アンドロメダとペルセウス

Perseo liberando a Andrómeda
JORDAENS, JACOB,RUBENS, PEDRO PABLO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

ペルセウスはヘルメスのサンダルで空を飛び、持っていたメドゥーサの首を怪獣に掲げて石に変えアンドロメダを救出した。

<アンドロメダとペルセウス・ティチアーノの模写・プラド美術館>
アンドロメダとペルセウス

Andrómeda y el dragón
ANÓNIMO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

ペルセウスとアンドロメダは結婚し母のいるセリポス島に戻り母に言い寄る(まだ言い寄っていた)ポリュデクテス王にメドゥーサの首を見せて石に変え故郷のアルゴスへ帰って行く。

「お前は孫によって殺される」と予言を受けていた祖父の国王アクリシオスは孫の帰還に驚いてアルゴスからラリッサという町に逃げていた。

ペルセウスはアルゴスの王となりある時ラリッサの町の競技大会に呼ばれる。その時に参加した円盤投げ競技で投げた円盤がある老人にあたってその老人は死んでしまった。その老人こそ元国王のアクレシオス。ついに神の神託は現実となった。

人間は不幸な神託を受けると何とか免れようとするが結局どう逃れても予言の通り運命は人間を導いていくというのがギリシャ神話に共通する教訓です。

壮大な冒険物語に登場する人物たちは大空に星座として今も輝いています。

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エウロパの略奪

エウロパは月のような顔をした美しいフェニキアの王女だった。エウロパに一目ぼれしたゼウスは自らの姿を白い牡牛に変身させ油断したエウロパを略奪して旅に出る。

この時に牡牛ゼウスがエウロパと旅をしたところをエウロパ=ヨーロッパと呼ぶようになった。彼らが旅の後に着いたのがクレタ島。ゼウスとエウロパの間に生まれたのがミノスでクレタ島にクノッソス宮殿を作って住んでいた王様です。

*神話の長い物語は荒唐無稽な作り話と信じられていたが19世紀に発掘が行われイギリス人のアーサーエバンズによって遺跡が発見されている。

<クレタ島、クノッソス宮殿遺跡>

クレタ島、クノッソス宮
wikipedia CC
Source Own work
Author 遠藤 昂志
<エウロパの略奪、ティチアーノ、ガードナー美術館蔵>

最初の作品ダナエと同じくティチアーノがフェリペ2世の為に描いた一連の神話画の「ポエジア」の7作中の最後の物。

19世紀にアメリカに渡って今もアメリカの美術館蔵。スペイン王位継承戦争のさなかフェリペ5世がフランス大使に与えパリへ移された後これが19世紀にアメリカの富豪ガードナー夫人により購入され大西洋を渡ってアメリカに渡ったスペインとしては大変残念な結果の名画。

ティチアーノ、エウロパの略奪
wikipedia
public domain

下の絵はスペインに来ていたピーター・ポール・ルーベンスが当時はまだマドリードの王宮にあったティチアーノの上記作品を模写したエウロパの略奪。今もプラド美術館で鑑賞できます。ルーベンスの方がエウロパの太ももの肉付きがぽっちゃりで官能的。

<エウロパの略奪、ルーベンス、プラド美術館>
エウロパの略奪 ルーベンス

El rapto de Europa
RUBENS, PEDRO PABLO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

ルーベンスがスペインに来た頃に宮廷画家として活躍していたのがベラスケス。どちらも国王フェリペ4世のお気に入りの画家で2人は一緒にスケッチ旅行へ行ったりしている。ベラスケスが自分の作品の中にエウロパの略奪を入れて描いた作品がアラクネの寓話。

手前で織物を織る女性達の向こうでは変身物語が展開している。奥のタペストリーがエウロパの略奪。

<アラクネの寓話、ベラスケス、プラド美術館>
アラクネの寓話 ベラスケス

Las hilanderas o la fábula de Aracne
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

アラクネは織物が上手な女性であまりにも自慢をするので怒ったアテナが天から降りて来て織物競争をすることになった。この時にアラクネが織った題材がギリシャの神々の失敗や誘惑。全能の神ゼウスがエウロパを略奪するところを織物にした。

絵の一番奥に描かれているタペストリーに上記作品をモデルにしたゼウスによるエウロパの略奪が織られている。生意気なアラクネにアテナはお仕置きをする。「そんなに織りたいなら、いつまでも織れるようにしてあげましょ!」と蜘蛛に変身させた。というお話。

アラクネは今も蜘蛛になって織物を織っています。蜘蛛はラテン語でアラネア、スペイン語でアラ―ニャ、フランス語でアレニェ、イタリア語でラーニョ、全てアラクネから来ています。

イカロスの墜落

話は少し戻ってクレタ島へ。エウロパの息子ミノスは海神ポセイドンに立派な牛を生贄として所望する。ポセイドンは願いを叶え「とんでもなく美しい牛」を与えるがあまりにも美しくミノスはポセイドンに内緒で別の牛を生贄にした。それを知ったポセイドンは怒り、仕返しに妻のパシパエが牛に恋をするように仕組む。

<ヘラクレスとクレタの牛、スルバラン、プラド美術館>

スルバラン、ヘラクレス牛退治
Hércules y el toro de Creta
ZURBARÁN, FRANCISCO DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

*上記の絵はスペイン画家スルバランの珍しい神話画。パシパエが恋をした「とんでもなく美しい牛」は乱暴で手が付けられなかったのでヘラクレスが12の難行の中で素手で退治する場面。

牛に恋したパシパエは思いを遂げ子を産んだ。牛と関係を持つための機械は名人大工ダイダロスが考えた。牛との間に生まれた子供は半牛半人の怪獣ミノタウロス。ミノス王は名人大工のダイダロスに迷宮を作らせてそこにミノタウロスを閉じ込めた。その迷宮はラビュリンスというが今も迷路の事を英語でラビュリントス、スペイン語でラベリントスというのはこの迷宮ラビュリントスから来ている言葉

<ミノタウロス、アテネ国立考古学博物館>

ミノタウロス
Source Own work
Author Marsyas
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当時のアテネは毎年7人の青年と7人の乙女をミノタウロスの餌食に捧げる事になっていたがアテネの王子テセウスが生贄に紛れてクレタに到着。ミノス王の娘アリアドネはテセウスに恋をし無事に出てくるよう糸玉と剣を渡しテセウスは剣でミノタウロスを倒し糸玉で迷宮から出てくる。今も「アリアドネの糸」は難題解決という意味で使われる。

この知恵をアリアドネに与えたのは名大工ダイダロスだった。ミノス王の怒りを買ったダイダロスは息子イカロスと共に塔に幽閉される。

<イカロスの墜落、ゴーウェイ、プラド美術館>
イカロスの墜落

La caída de Ícaro
GOWY, JACOB PEETER
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

幽閉された塔に落ちて来た鳥の羽を蝋で固めて翼を作り大空へ二人で羽ばたいていった。ダイダロスはイカロスに「あまり低く飛んでも高く飛んでもいけない」と注意していたが自由自在に空を飛んでいるうち父親の忠告を忘れ太陽に近づきすぎて蝋が解けイカロスは墜落して海に落ちて死んでしまう。

自分の力を過信しないように、若者の暴走を止めるときに今も使われる教訓になっている。

トロイア戦争

トロイの王子として生まれたパリスの父王は「この子が生まれたらトロイが滅びる」と神託を受けていたが可愛い子供を殺せず神に内緒で羊飼いとして育てていた。

有る時神々の結婚式が行われることに。その会場に金のリンゴがひとつ落とされた。リンゴには「最も美しい女神へのプレゼント」と書かれていたので女神たちは大喧嘩を始める。

下の絵の左端がパリス、横に金のリンゴを持つヘルメスと右側に三人の女神たち

<パリスの審判、ルーベンス、プラド美術館>
パリスの審判 ルーベンス

El juicio de Paris
RUBENS, PEDRO PABLO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

どの女神がこのリンゴを受け取るのにふさわしいかを羊飼いのパリスが決めることになった。この三人というのは美の女神ビーナス、ゼウスの正妻ヘラ、知恵の神アテナ。

三人は自分が選ばれるために条件をパリスに出し始める。ビーナスは「私を選んでくれたら人間で一番美しい女性を奥さんにしてあげましょう」、ヘラは「貴方をアジアの王にしてあげましょう」、アテナは「貴方にいつでも戦争に勝てる力をあげましょう。」

<パリスの審判、ルーベンス、プラド美術館>
パリスの審判 ルーベンス
El juicio de Paris
RUBENS, PEDRO PABLO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

パリスが選んだのはビーナスだった。そして人間で最も美しい女性はギリシャの王妃ヘレーナという絶世の美女。ヘレーナをギリシャからトロイに連れて逃げて来たのが原因で戦争がはじまった。これがトロイア戦争の始まりで最後にトロイは滅びる。

19世紀にドイツ人のシュリーマンによって発掘されたトロイの遺跡も神話の後ろに史実があった事を証明した。現在のトルコのダータネルス海峡。

<トロイの遺跡>

トロイの遺跡
wikipedia CC
Troy
Photo taken by Adam Carr’s mother.

この時にギリシャ側で戦ったのがアキレウス。ギリシャ側の総大将がアガメムノンです。

*アキレウス・生まれるときに息子を不死にする為母親が冥界の河ステュクスに浸した。その手が息子の踵を掴んでいたため踵だけは彼の弱点になった。トロイア戦争ではこの踵を弓に射られ戦死。

30年間落ちないトロイにギリシャ兵が考えたのが木の木馬。トロイの城壁外に大きな木馬が置かれ、知らずに戦利品としてトロイの街に引き入れられた木馬からギリシャ兵が出て来てトロイの町は陥落する。

神託の通りパリスを殺しておけばトロイは滅びなかったというお話。運命からは逃げられなし、逃げたら逃げた結果言われた通りになる。

最後に

ギリシャ神話は登場人物のギリシャ語の名前が難しく本で読むと延々続く長いお話が面倒ですが紀元前15世紀頃から口承で伝えられていたものが次第にまとめられていったものです。ホメーロスのイリーアスやオデュッテイアは紀元前9世紀頃だそうで3000年も前のお話が現代の私たちが読んでも面白い冒険物語。その中に教訓や戒めが散りばめられています。

本当はもっともっと長いお話のさわりだけをご紹介しました。

宗教画は意外と面白い。楽しむポイントを解説。

ヨーロッパの美術館を回るとキリスト教の宗教画とギリシャ神話が中心。楽しむためには基礎的な知識が必要です。ほんの少しの知識で美術館は何倍も楽しくなるものです。

今日はキリスト教の宗教画の楽しみ方をご紹介。プラド美術館の作品を中心にそれ以外の物も交えてキリスト教の聖人達を見ていきます。

アトリビュート(象徴物)もともとはうまく絵が描けなかった頃これが誰それ聖人かがわかるように少しづつ決まっていったもので曖昧なものもずいぶん多い。ヨーロッパの美術館を楽しむ鍵はキリスト教徒ギリシャ神話。キリスト教の宗教画のアトリビュートや決まりを抑えれば楽しく鑑賞できます。

 

鍵  聖ペテロ

イエス・キリストの一番弟子ペテロはもともと漁師。イエスが彼を弟子にするときに「私についてきなさい。貴方を人間を釣る漁師にしてあげよう。」「そして貴方をペテロ(岩)と呼びその岩の上に我々の教会の基礎を作ろう」「貴方にこの鍵を捧げよう。天国の鍵を」ということで彼の象徴物は鍵。たいてい黄色い服を着て天国の鍵を持っています。ペテロが殉教したところが今のサンピエトロ寺院。私は貴方をペテロ(岩・イタリア語でピエトロ)と呼びその岩の上に我々の教会を…の言葉が成就したということでバチカンのサンピエトロ寺院がカトリックの総本山に。ローマ法王はペテロの後継者。

ジュゼップ・リベラ(ホセ・リベラ)

聖ペテロ  黄色い服に鍵 プラド美術館

リベラの時代はスペインの宮廷でのスペイン画家はあまり重宝されずイタリアのナポリで活躍した。カラバッジョの明暗法を継承しレアリズムの画家として人気。聖人を描いているのに理想像ではなく現実の人間臭い感じがリベラらしいところです。額の皺の深さにモデルはおそらくナポリの漁師。

 

 

エル・グレコ

聖ペテロ 黄色い服に鍵 グレコの家博物館

エル・グレコはギリシャ人画家。トレドに移住してほとんど注文主が教会だった。ベネチアで修業したので彼の色はベネチア派からの四原色。シリーズで12弟子を描いている現存する中のひとつ。聖ペテロ。トレドのエル・グレコの家に行くとシリーズ12弟子全員そろってが見れます。

 

 

ルーベンス

聖ペテロ 鍵  プラド美術館

フランドルの画家ルーベンスは画家だけでなく人文学者で外交官もやっていた。イタリアのマントバ公からスペイン王フェリペ3世へのプレゼントを抱え外交官としてスペインにやって来る。通常は黄色い衣装なんですがグレーっぽいですね。

 

 

逆さ十字 聖ペテロ

同じく聖ペテロはローマで逆さ十字の刑に会うので逆さ十字の絵も。聖ペテロが逆さ十字に会ったところにサン・ペテロ教会(イタリア語でサン・ピエトロ教会)創られた。今のカトリックの総本山です。

カラバッジョ

聖ペテロ バジリカ・デ・サンタ・マリア・デル・ポポロ(ローマ)

エウヘニオ・カヘス

聖ペテロ トレド大聖堂

盃 聖ヨハネ

12弟子のヨハネはキリストに最も近く愛された。たいていいちばん年齢も若く作品になる。エフェソスで毒のお酒の飲まされて殺されかけたが盃が蛇になって逃げていって助かったという話から象徴物は盃。

エル・グレコ

聖ヨハネ プラド美術館  お約束通り若く誠実そうに。盃にドラゴン。

 

 

ルーベンス

聖ヨハネ プラド美術館  ルーベンスらしく肉感的。肌の色の透明感や髪の巻き毛が綺麗。盃を持っています。

 

 

洗礼者ヨハネ 毛皮と生首

同じヨハネですがこちらはもっと年上。イエス・キリストのまたいとこで荒野を禁欲生活をおくりながら人々に水を使って洗礼を行っていた。ラクダの毛皮をまとっていたので象徴物の一つは毛皮。イエス・キリストにも洗礼を行ったので良く絵画にキリストの洗礼の場面がある。「悔い改めよ、天国は近づいた」とお説教していた。最後はヘロデ王とサロメの策略で斬首されるのでサロメが生首を持っている絵画もよくあります。

毛皮

エル・グレコ

洗礼者お羽キリストの洗礼     プラド美術館                          右側が洗礼者ヨハネ腰に毛皮  かなり晩年の物なので縦に引き伸ばされている感じ。

エステバン・ムリーリョ

幼子の洗礼者ヨハネ  プラド美術館

毛皮見えにくいですが背中側のあたり。犠牲を現す子羊。

 

 

レオナルド・ダ・ビンチ

洗礼者ヨハネ ルーブル美術館                                    誘ってる感じですがお約束の毛皮を着て十字架を持っているので洗礼者ヨハネです。

生首

洗礼者ヨハネは「悔い改めよ、天国は近づいた」と言って人々にお説教をしていた。エルサレムの王ヘロデ・アンティパスが兄弟の妻を娶ったのを非難していた。妻ヘロデアの娘がサロメ。王の誕生日会でサロメがうまく踊った褒美に欲しいものは「洗礼者ヨハネの首」と言ってっ首を切られて亡くなったのが洗礼者ヨハネ。その特異性と聖書の中の重要性から絵画のテーマに古くから使われている。オスカーワイルドの戯曲やシュトラウスのオペラなど数々の作品になっている。

ティチアーノ

洗礼者ヨハネの首 プラド美術館

カラバッジオ

洗礼者ヨハネの首 マドリッド王宮

カラバッジオらしくドラマチックで光の扱いも舞台みたいにドキッとさせる。

 

 

聖母マリアの服の色

聖母マリはは基本赤い服にブルーのベール。おそらく12世紀頃から真実、慈悲を現すブルーに血や愛を現す赤が使われる。その他純潔をあらわユリ、12の星の冠や三日月などがアトリビュート(象徴物)として一緒に描かれる。例外はフランドル絵画ではブルーのみ又はブルーの服に赤いベールの場合もある。19世紀にローマ法王ぴお9世により無原罪の御宿りの教義において聖母の衣装は白になる。

 

ベラスケス

聖母戴冠  プラド美術館

エル・グレコと工房

聖母マリア プラド美術館

フラ・アンジェリコ

聖母マリア プラド美術館   アルバ家からプラド美術館が最近入手2200万ユーロ位?。15世紀の板にテンペラ。ブルーの色が鮮やか。

 

 

青という色は人間が本質的に好む色かもしれません。生命は海からやってきたなら命の根源を感じるからなのか様々な絵画に綺麗なブルーが使われそれを見た人間が癒されてきた。ブルーはラピスラズリからとるのでたいへん高価なもので希少価値のあるものであったのも聖母に使うのにふさわしいと昔の人は感じたのかもしれません。

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車輪  アレキサンドリアの聖カタリーナ

アレキサンドリアの知事の娘。3世紀頃当時の最高の教育を受けたカタリーナは母親の影響でキリスト教徒に。迫害者ローマ皇帝マクセンティウスのもとに行きキリスト教の迫害を非難する。手足を車輪に括り付けて転がされるという拷問を命じられるがカタリーナが触ると車輪はひとりでに壊れた。その後斬首刑。

カラバッジオ

聖カタリーナ  ティッセン・ボルネミッサ美術館

カラバッジオのドラマチック感が出ていて挑戦的な視線。今振り返ったばかりな感じ。 光の当たり方などドキッとする作品。綺麗な赤い座布団の上には殉教聖人を現す棕櫚の葉っぱ。

 

フェルナンド・ヤネス

聖カタリーナ プラド美術館

足元に壊れた車輪。

 

眼球 聖ルシア(サンタ・ルチア)

びっくりな絵ですがシラクサの聖ルシアはディオクレティアヌスの時代キリスト教を捨てるよう強要される。のどを切っても死なないので目をくりぬかれた。ルシアはラテン語で光という意味luxから。今も光の神様。目の悪い人の守護聖人。冬至の少し前12月13日がサンタ・ルシアの日。一年で最も日照時間が短い時期に光に帰ってきてもらうためサンタルシアを祝った。

作者不詳

聖ルシア(ルチア) プラド美術館  お盆の上に目玉が2個 棕櫚は殉教聖人を現す。ギョッとしますが見ているうちに見慣れます。

スルバラン

聖ルシア(聖ルチア) フランス・シャルトル美術館  お盆に目玉

乳房 聖アガタ

シチリア島カターニアの裕福な貴族の生まれの美しい娘。子供の頃にカトリック教徒として神に身を捧げる決意をしていた。ローマの総督が彼女の美貌と財産に目をつけ求婚するが断られ腹いせに牢屋に入れ乳房を切り落とす。祈り続けると傷が完治するがそのあと火あぶりの刑で殉教。

スルバラン

聖アガタ フランス・モンペリエ・ファーブル美術館  これもギョッとします。もっとむごい感じものあります。スルバランの聖女達はファッション雑誌みたいで綺麗です。

残酷なのが多かったですね。キリスト教の宗教画は色々見ているうちに面白くなってきませんか?美術館はいろんな切り口で楽しめます。プラド美術館に行ったら知っている聖人たちを探してみてください。

 

アスタ・ルエゴ