カトリック両王のスペイン統一、イサベルとフェルナンドの結婚

 

カトリック両王と呼ばれるイサベルとフェルナンドが結婚する事でスペインは統一される。スペインは元はいくつかの小さな国家がレコンキスタと王様達の結婚で合併していった。約500年前にイサベル女王とフェルナンド王の結婚により今の統一国家という概念が出来る。

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統一前のスペインの国々


カスティーリア王国

711年にイスラム教徒がやって来てビシゴート王国が崩壊後、北部アストゥリアス地方の山岳地帯に逃げていたキリスト教徒が初めての勝利を得た。これが「722年コバドンガの戦い」という最初のキリスト教徒の勝利。フランスからも沢山の騎士がやって来て戦った。戦争をしながらキリスト教徒達が国を広げてアストゥリアス王国建国、今のスペイン君主国の始まりだ。

<アストゥリアスにあるコバドンガ>

コバドンガ

イスラム教徒と戦いながらキリスト教徒の中心は少し南に降りてレオン王国ができる。もともとはレオン王国がイスラム教徒との砦としてひとつの伯爵を置いたのがカスティーリア王国の始まり。10世紀レオン王国が弱体化したときに主従関係を断ち切って独立伯領となる。1035年キリスト教徒が沢山入植してきて勢力が拡大しカスティーリア王国になりレオン王国と婚姻関係を持ちカスティーリア・レオン王国となる。

<1210年のイベリア半島>

1210年スペインの地図
wikipedia CC
Source Own work
Author Alexandre Vigo

当時フランスとスペインの国境の両側にナバーラ王国があった。いったんカスティーリアはナバーラに併合されるがサンチョ大王の死後カスティーリア・レオンは独立しアルフォンソ6世の時にトレドを陥落させる。

<トレド>

トレド全景

この頃はまだあまり十字軍的な意味合いはなくアルフォンソ6世はイスラム教徒ユダヤ教徒キリスト教徒三つの宗教の皇帝と呼ばれていた。異教徒も積極的に活躍できる政策で人々は宗教に関係なく寛容に暮らしていた。

<アルフォンソ6世のトレド入場>

アルフォンソ6世のトレド奪回
wikipedia CC
Source Own work
Author CarlosVdeHabsburgo
カタルーニャ

フランク王国のカール大帝はイスラム教徒をバルセロナから追い出し今のカタルーニャ一帯はフランク王国の中に組み入れられる。フランク王国は南仏のナルボンヌからバルセロナに至るあたりを16の伯爵地として統治しイスパニア辺境区と呼ぶ。その一つが今のバルセロのバルセロナ伯爵。

986年この辺境区の中心バルセロナ伯が結束を呼びかけフランク王国から独立。これが今のカタルーニャの歴史的起源。地中海に向けて港があり交易が盛んだったカタラン人たちはまるで冒険者たちの様に自由に勇敢に海を渡って地中海を渡り外国へ行って商売をしていた。伯爵から自分たちの権利を取り付けその代わりに忠誠を誓う立派な独立国家だった。

<カタルーニャの議会>

カタルーニャのコルテス

アラゴン王国

ピレネー山脈ハカでイスラム教徒を退治した住民たちが結束しアラゴン伯領が誕生。その後1035年ラミロ1世がアラゴン王国を築く。さらに勢力は南へ進軍し当時のイスラム教徒の拠点の一つサラゴサを制圧した。アラゴンは後にカタルーニャと併合するが今もアラゴン人とカタラン人は仲が悪い。

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アラゴン・カタルーニャ連合王国

バルセロナ伯爵ラモン・ベレンゲール隣国アラゴンの王女と婚約してアラゴン王位を継承。ちなみにこの時ラモン・ベレンゲールは23歳、王女は3歳。この2人の結婚によりアラゴン・カタルーニャ連合王国が誕生。

<ラモンゲレンゲールとペトロニーナ>

ラモンバランゲーとペトロニーナ

 

地中海への勢力拡大を積極的に進めハイメ1世の時に地中海のマヨルカ島とイビサ島さらにバレンシア王国を手に入れる。13世紀にはシチリア王国の内乱を契機にシチリア王位につきサルディーニャ島や南イタリア・ナポリ王国も征服。カタルーニャ人たちはもともと商人。この地中海征服を利用し貿易をして各地に商務官を置いて経済活動を広げながら地中海一帯を勢力範囲として活躍する。

カスティーリア王女イサベル(1451年~1504年)


「スペイン建国の母」と言われるイサベル女王は父カスティーリア王ホアン2世の2番目の妻(ポルトガル王女)の長女。父が他界すると兄(父王ホアン2世の最初の結婚の息子)が国王エンリケ4世として即位するがイサベルと弟のアルフォンソは母とともに追放され惨めな時代を生きる。

<イサベル女王>

イサベル女王

 

この兄王エンリケ4世は不能王という不名誉なあだ名があってどうやら女性と関係が持てない。特に高貴な女性と・・・。ところが王妃(ポルトガル王女)が突然ご懐妊。父親は国王エンリケ4世では無いという疑惑の中王位継承問題が生じる。

<エンリケ4世>

エンリケ4世
De Desconocido – web, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2261931

イサベル女王の弟アルフォンソに王位継承権をと担ぎ出されるがひとつの国に2人の君主がいる状態で内乱になり、戦争の途中あっけなくアルフォンソが死亡。王位継承権はイサベルにわたるがイサベルは「兄がいる間は兄が国王である。だたその娘の出生に疑問があるなら自身がその次の王位継承者」と明確に宣言。これなんとイサベル17歳の時の言葉です。

アラゴン王子フェルナンド(1452年~1516年)


アラゴンの山の中ソス・デ・レイ・カトリコという町がある。今はお城がパラドール(国営ホテル)になっているがイメージ的には片田舎。アラゴン王子フェルナンドとしてそこで誕生。母は父王の2度目の結婚の王妃でカスティーリア貴族の娘。9歳の時に異母兄が死去しフェルナンドはアラゴン王国の正当な王位継承者になる。父親からシチリア王位を継承。父王を補佐しながらフランスと対抗。マッキャベリの君主論に名前が出てくるほどの冷血で冷静な君主。

<フェルナンド2世>

フェルナンド王

イサベルとフェルナンドの結婚

1469年カスティーリア王国のイサベル王女とアラゴン王国のフェルナンド皇太子が結婚。この結婚は秘密裏に行われた。国内での反対勢力もありイサベルの兄カスティーリア王エンリケ4世にも内密にひっそりとバジャドリッドの貴族の館で執り行われた。

<イサベルとフェルナンドの婚礼>

カトリック両王の結婚

今のように写真があるわけでもなく先に密偵は送られていたようだがこの結婚式で2人は初めて出会う。イサベル18歳フェルナンド17歳。フェルナンドはなかなかのいい男でイサベルは美人だったので若い2人はひかれあった…かも。

1474年カスティーリア王エンリケ4世が亡くなるとイサベルは王位継承権を主張。兄王の娘(出生に謎の有るホアナ)の即位を画策する新ポルトガル勢力を駆使しイサベル女王戴冠(1479年)。セゴビアのマヨール広場近くにあるサンミゲール教会にて戴冠しサベルはカスティーリア王国女王となる。

<イサベルの戴冠>

イサベル女王戴冠

同じ年アラゴンではフェルナンドの父王ホアン2世が死去。これでフェルナンドはアラゴン・カタルーニャの王となる。

これでカスティーリアとアラゴン・カタルーニャの共同統治が始まりかつてない強大な勢力がイベリア半島に誕生した。

カトリック両王の政策


異教徒追放

イサベルとフェルナンドが行ったことはまず国内キリスト教勢力をまとめる為コンベルソと言われる改宗ユダヤ教徒を弾圧する異端審問所が作られた。1480年から1516年までに6000人のユダヤ人が火あぶりの刑にあったと言われる。宗教的な統一という名目のもとユダヤ人の財産狙いだったに違いない。

グラナダ陥落戦

もう一つがグラナダへの軍事攻勢。1481年イベリア半島に残るイスラム王朝グラナダ王国へ攻撃を始めた。ロンダが14885年マラガは1487年に陥落。特にマラガは重要な港だった。のど元を抑えられながらグラナダは1年半の籠城戦のあと降伏した。

<グラナダの陥落>



1492年1月2日グラナダ王国アルハンブラ宮殿にイサベル・フェルナンド両王が入場した。800年近く続いたレコンキスタの終了。

コロンブスへの援助

グラナダ陥落の同じ年コロンブスイサベル女王から援助を手に入れる。陥落したアルハンブラ宮殿で宝石箱をプレゼントされそれをお金に換えて船の準備の一部を賄い西回り航海へ出発していく。

<コロンブスの新大陸到着>

コロンブスのアメリカ到着

フェルナンド王はコロンブスの事を快く思っておらずイサベル女王亡きあとはフェルナンド王はコロンブスとの約束事を反古にし惨めな対応を受け牢獄に繋がれる。

 

スペイン人ローマ法王アレキサンドル6世

1492年法王選挙でスペイン人ローマ法王が選ばれる。有名なボルジア家出身ローマ法王アレキサンドル6世はこの2人の偉業をたたえて1496年にカトリック両王という称号を与えた。

*話はそれますが、このローマ法王の息子がチェーザレ・ボルジアというイケメンの軍人、娘がルクレチア・ボルジアという絶世の美女。(ローマ法王に愛人がいて子供がいたんです!)

ローマ法王はカトリック世界のトップ。今も法王は選挙で選ばれるがこの選挙権を持つ位を枢機卿と呼ぶ。アレキサンドル6世は枢機卿にお金をばら撒いて法王の地位を手に入れた人物。が、それも当時では珍しい事ではなく宗教の世界とはいえ権力を手に入れる為権謀術数が渦巻くドロドロの状態のカトリック世界だった。そこでトップに立つにはそれなりのカリスマ性が有ったに違いない。

<ローマ法王アレキサンダー6世>

アレキサンダー6世

トルデシージャス条約

もともと1481年ローマ法王シクストゥス4世の時にカナリアス諸島以南の新領土はポルトガルに与えると決まっていた。その後スペイン出身のローマ法王アレキサンドル6世はこれを変更させポルトガルと揉めていた。新世界における両国の紛争を解決するために1494年スペインのカスティーリアにあるトルデシージャスで会議を開き地球に線引きをした。(ほかの国に許可も無くです)

<トルデシージャス条約条文>

トルデシージャス条約
By Biblioteca Nacional de Lisboa, photos probably taken by User:Joserebelo, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=472983

西アフリカのセネガル沖に浮かぶカボ・ベルデ諸島の370リーグ(1770キロメートル)の海上に縦に線を引きそれから東側に将来発見されたらポルトガル領土西側だったらスペイン領土と決まる。1506年ローマ法王ユリウス2世によって廃止される。

次の時代へ

ルネッサンスにより技術は既に進歩していた。進んだ科学はイスラム教徒により継承され昇華されている。羅針盤、天球儀、印刷術等ヨーロッパにイスラム圏を通り伝わった。いよいよカトリック両王の婚姻政策と大航海時代でスペインは大帝国になる準備は整った。日の沈む事なき大帝国の時代がやって来た。

 

投稿者: 大森由美

スペインに1989年から住んで日本からのお客様と旅に行ったり美術館を巡ったりしています。お休みの日は夫とキャンピングカーで放浪、スペインに長年住んでもスペインが大好きで日本から来たお客様にもスペイン大好きになってもらうために働いています。趣味はバイオリンとスキーとワイン。

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