15世紀が終わり新しい時代がやって来た。ここに一人の王子が誕生する。西暦1500年今のベルギーのゲント(ガン)で生まれたのが後のカルロス5世。父親はブルゴーニュ公国のフィリップ美公。フィリップはハプスブルグ家の世継ぎで神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の息子。母親ファナはスペインのフェルナンド王とイサベル女王の次女、のちに狂女と呼ばれる。
レコンキスタが完成しアメリカ大陸発見の頃のスペイン王国。という絵空事の様なものすごい血筋の王子が誕生した。
Contents
カルロス5世(スペイン史ではカルロス1世)の生涯とその時代
幸福なカルロス5世幼少時代
<中央がカルロス、左端が祖父のマクシミリアン1世>
カルロスの生まれたブルゴーニュ公国というのは現在のフランス東部とドイツ西部、ネーデルランドを含む地域。羊毛産業で経済的に大変栄えたヨーロッパ随一の先進地域だった。
<15世紀のブルゴーニュ公国>
<カルロス5世の父フィリップ美公>
<カルロス5世の母ファナ>
舞台としては申し分ない時代と登場人物が用意された。
ローマ法王レオ10世、フランスのフランソワ1世、ドイツのマルチンルター、イギリスのヘンリー8世、オスマントルコのシュレイマン大帝、個性的な人々が活躍した激動の時代だった。
<毛織物産業で繁栄するフランドルのゲントの街>
新大陸発見で沸き立つスペインの王位継承者に不幸が続きカルロスの母ファナの所に次期王位継承権がやって来た。カルロスの両親はそろって*カトリック両王に会いにスペインへ旅をする。
*カトリック両王=アラゴン王フェルナンドとカスティーリャ女王イサベルの事。グラナダを陥落させ新大陸にキリスト教を広めたカトリックの保護者である国王二人にローマ法王アレキサンドル6世によって授けられた称号。
その旅でのまさかの父親フィリップの突然死(フェルナンド王による毒殺もささやかれる)と母親ファナの発狂(これについては諸説)。
これらはカルロス6歳の頃の出来事だった。それでも両親不在のベルギーのメッヘルンで幸せな子供時代を送る。
叔母の*マルガレーテ大公妃は教養のあるルネサンスの才媛で、その周りに集まる教養人と共に豊かな教育を受けられたのはカルロスの人生にとって最大の幸運だった。
<ベルギーメッヘルン>
*叔母マルガレーテはスペインのイサベル女王の1人息子ファンと結婚したが結婚式の最中ファンが突然死。懐妊していたがその子も生まれて間もなく死亡。イサベル女王とは仲良く信頼関係がありその後故郷に戻った後誠実な政策を取り国民にも生涯愛された。
<カルロスの叔母、マルガレーテ大公妃>
カルロス・ブルゴーニュ公になる
<カルロス5世15歳頃>
1515年1月。15歳のカルロスは既に充分な威厳を持ち備えており歴史の表舞台に登場。ブルッセルで儀式が行われブルゴーニュ公国の君主となる。
同じ年フランスでルイ12世が死亡しフランソワ1世が即位。*フランソワ1世は生涯にわたってのカルロスのライバルである。
そして、ハプスブルグ対ブルボンの因縁の対決の始まりのゴングが鳴った。
<フランソワ1世 1515年頃>
*フランソワ1世はこの後のイタリア戦争の後、レオナルド・ダビンチをフランスに呼び寄せた。この時レオナルドが持参した数少ない物の中に「ジョコンダ」があった。現在ルーブル美術館にある「モナリザ」である。
母方祖父であるスペイン王フェルナンドの崩御
<スペイン王フェルナンド>
カルロス5世の母ファナ、カスティージャ女王は精神に異常をきたしたという理由で城に幽閉されその父親であるフェルナンド王が摂生としてカスティージャの政治をしていた。フェルナンドはアラゴン・カタルーニャの王でスペイン東部と南イタリアと地中海の島々を持っていた。
そのフェルナンド王が1516年に亡くなった。
フェルナンドはスペインの王冠がハプスブルグに継承されない為、晩年フランスの貴族の娘と再婚し男子をもうけるがその子は夭折。世継ぎを残すため怪しい媚薬にも手を出していたという。
せめてカルロスの弟、スペイン育ちのフェルナンドにスペイン王位を継承させたいと努力するがそれも適わず。病床に付いたフェルナンドはどれ程悔しい思いをしたことか。
フェルナンドが執念深く阻止しようとした悪夢は遂に現実となった。
カルロス・スペイン王になる
17歳のカルロスが40隻の船でスペインへ向かい予定のサンタンデール港から少し外れたアストゥリアスのタソネスの漁港に到着、というより漂着。
住民たちは見たこともない数十隻の船団に驚き手に手に棍棒を持ち戦いの準備をしたそうだ。髭をそり香水をつけて降りたカルロスはあまりの田舎にがっかりしここでは滞在せずに直ぐに移動した。
<タソネスの漁港>
カルロスがスペインへ着いてまず最初に逢いに行ったのは物心つかない頃分かれた母、狂女ファナだった。
カルロスはこの後幾度となく城に幽閉された母ファナに逢いに行っている。
その後バジャドリードにいた弟フェルナンドとも再会を果たす。弟のフェルナンドはスペイン育ちでスペイン国内では彼ににスペイン王冠をという動きがあった。
マクシミリアン皇帝はこれらの事情をすべて理解しこれ以上フェルナンド派が行動を起こす前に彼を叔母マルガレーテ大公妃の待つネーデルランドへ送る。
カルロス達2人の兄弟と4人の姉妹は生涯にわたり力を合わせてハプスブルグの為に協力し合った。フェルナンドは後フェルディナンド1世としてドイツ皇帝、オーストリア大公、ボヘミア王、ハンガリー王となり幸せな結婚をし生涯スペインには帰らなかった。
<カルロスの弟フェルディナンド1世1521年>
父方祖父神聖ローマ皇帝マクシミリアンの逝去
1519年マクシミリアン1世(カルロスの祖父)が亡くなる。
「神聖ローマ皇帝が亡くなった」のでヨーロッパは大揺れに揺れた。
神聖ローマ帝国の皇帝は7人の選帝侯によって選ばれる選挙制。7人の票のうちの4票をどれだけの資金で手に入れるかという選挙だ。カルロスの最大のライバルはフランスのフランソワ1世、そして既に買収は始まっていた。
当時のローマ法王はフランスびいきのメディチ家出身レオ10世。
カルロスが皇帝になるのを阻むためフランソワ1世を後ろから支援する。派手好きイベント好きのルネッサンスローマ法王はロレンツォ・ディ・メディチの息子。浪費好きでローマの街を当時の最高の芸術家を集め飾り立てていた。前ローマ法王が着手していたサンピエトロ寺院の建設を引き継ぎミケランジェロやラファエルを起用した。その資金を捻出する為に*免罪符を売り出した。
<ラファエルによるレオ10世>
*免罪符または贖宥状=カトリックでは罪を犯すと最後の審判で地獄へ落とされる。罪と言うのはカトリックがいう「7つの大罪」で大食や怠慢など普通に誰もがやってしまう事。そして地獄は永遠だと脅された人々は罪が許される切符=免罪符を購入しその資金がローマに行きサン・ピエトロ寺院を飾り立てた。
1519年19歳でカルロス5世神聖ローマ皇帝
選挙の資金は叔母のマルガレーテが大富豪フッガー家から援助を受ける。またドイツの諸侯たちがメディチ家のローマ法王の後ろ盾を嫌ったこともあり選挙は満票でカルロスが勝利。フランスはハプスブルグ家に囲まれた形になりこの後も戦争は続く。
<カルロス5世時代のハプスブルグの領土>
赤紫―カスティージャ 赤―アラゴン 黄-オーストリア 黄土―ブルゴーニュ
スペイン国内では王が外国の為にお金を使いブルゴーニュから沢山の人がやって来て要職をほしいままに。人々の反感が高まりコムネロスの乱がおこりスペインは混乱。腕利きの総裁に後は任せ国王カルロスは「3年で戻る」と約束しスペインを後にする。この反乱は自然崩壊となりカルロス5世が3年後に戻るころには国内はほぼ平和が回復されていた。
1520年カール大帝ゆかり地アーヘンで戴冠式が行われた。
<ドイツ西部アーヘンの大聖堂>
時代背景=この頃スペインではマゼランが5隻の船を率いてセヴィージャの港を出港し大西洋に到着。そして多くのコンキスタドーレス達がアメリカへ渡り欲望のままマヤ、アステカを破壊し財宝を吸い尽くしていた。日本は室町時代の後期、信長が生まれるより15年ほど前。
マルティン・ルターの登場
宗教改革が始まった。
カルロス5世を生涯苦しめるひとつの難題の登場だ。ルター本人はそんな大それた事をするつもりは無かったはずだ。
たまたま投じた一石の波紋が広がった。
ルターはドイツの修道士であり神学教授だった。
前述のローマ法王レオ10世の時代「ローマのサンピエトロ寺院」の建設費を集めるためにドイツで免罪符が販売される。「これを買ったら天国へ行ける!」というのが免罪符。そのお金はローマへ集まり豪華絢爛のサンピエトロ寺院の建設に使われた。これに異を唱えた小さな抵抗が宗教改革の大きな嵐になっていく。
<1517年ヴィッテンベルグ城に95か条の論題を張り出すルター>
ヴォルムスの帝国議会
1521年1月21日に開かれたヴォルムス国会が歴史に名を残したのはルター問題。
免罪符の販売で一番搾取の大きかったドイツではローマに対する恨みが募っていた。この会議でマルチン・ルターはローマ法王レオ10世によって破門される。ひとりの修道士の小さな反抗が波紋を広げた、そんな頃に開かれた国会がヴォルムス帝国会議だ。
ルターは自説を曲げず堕落したカトリックに対抗。いかなる権威も認めずひたすら聖書と自分の関係に信仰を求めるルターの態度は変わることは無かった。カルロスは帝国とカトリックの崩壊を恐れ、しかしルターを禁固するでもなく処刑するわけでもなくルターに自由通行証を与えた。
これはひとえにもカルロス5世とハプスブルグ家の正義感や騎士道精神による。この誠実な態度はハプスブルグの代々の王達に継承されていく。
<ヴォルムス会議で弁明するルター>
カルロス皇帝スペインへ
約束通り3年ぶりにスペインへ戻ったカルロスはこの後7年間スペインに滞在しスペイン語を話しスペインを愛するスペイン人になる。そしてスペイン人たちにも愛される国王になる。臣下の者達の間でも結婚などで融合が行われていく。
ローマ法王レオ10世の死去により次のローマ法王ハドリアヌス6世が即位。
ハドリアヌスはカルロス5世の家庭教師だったオランダ人。学者肌でローマ法王より修道僧が向いているタイプの人物だ。教会改革を進めるが残念ながら在位期間が短かすぎ、約一年半で疲労がたまり死去。学僧として本に囲まれて暮らしていればもっと別の人生があった惜しい人物が、この世で最も生臭い地位「ローマ法王」に選ばれたのは不幸としか言えない。
<ローマ法王ハドリアヌス6世>
その次のローマ法王は又してもメディチ家のクレメンス7世、レオ10世のいとこがローマ法王に即位。またしてもメディチ家のローマ法王の登場。
<ローマ法王クレメンス7世>
パビアの戦い
事あるごとに関わってくるのがフランス、フランソワ1世である。
ギリシャ沖のロドス島にオスマントルコの手が伸び聖ヨハネ騎士団が死守しようとしている東地中海の島が陥落しようとしていた。
そこに後ろから手を貸しているが又してもフランスのフランソワ1世。
さらにイタリアのミラノとナポリの継承戦争で再びフランスが手をまわして来る。そこにヨーロッパ諸国の利害関係が絡みイタリア戦争が再び始まる。イタリアにとったら災難でしかない。
その後イタリアの北部パビアで皇帝軍とフランス軍の戦い。ミラノを攻撃して来たフランス軍を4時間半でカルロス5世軍が破りフランソワ1世はあっけなく捕虜になる。
<パヴィアの戦い>
戦争終了後「マドリード条約」が結ばれる(1526年)。イタリアとブルゴーニュのスペイン領有が決まった。
なんとフランソワ1世の母はオスマン・トルコと密約を交わし、さらにイギリスヘンリー8世に袖の下をたんまり与えその後の準備に余念がない。敵の敵は味方だ、チャンスあらば何にでも手を出した。
実際このパヴィアの戦いでヨーロッパの勢力図は一気にスペイン・ハプスブルグの拡大になる。パワーバランスが崩れるとこっそり寝返り後ろから手をまわすのがヨローッパの外交政策。今もそうは変わっていないだろう。
フランソワ1世は聖書に手を置いて誓約をかわし*国境エンダーヤで2人の息子に変わって釈放された。
*エンダーヤは人気のサン・セバスティアン=バスクのグルメの街からすぐの小さな国境の街です。
この後フランソワ1世は幾度となくカルロス5世を裏切る。
カルロス5世の結婚
フランス王を釈放した後カルロスはセビージャへ向かった。
大航海時代のセビージャは大型船が出入りし華やかな時代。巨大な大聖堂は完成間近。1526年セビージャのアルカサール(王宮)で祝宴が行われた。ポルトガル王女イサベルとカルロスは母親同士が姉妹。
*カルロスの妻になるイサベルの母は「イサベル女王の娘」。イサベル女王の4人の娘たちの中で唯一幸福な結婚をした三女マリア。カルロスの母も「イサベル女王の娘、狂女ファナ」なのでイサベル女王の娘の子供同士の結婚となる。
<イサベル・デ・ポルトガル、カルロス5世妃>
写真上の絵はイサベル妃が亡くなった後にカルロス5世がティチアーノに若き日の王妃を描いてもらったものでカルロス5世が生涯自分の近くに置いていた。現在プラド美術館所蔵。
カルロスとイサベルは新婚旅行に出かけたアルハンブラ宮殿で暫くの蜜月を過ごした。美しくしとやかで聡明なイサベルにカルロスは最初から心を奪われた。この結婚は仲睦まじく幸せな結婚だった。王族同士の政略結婚で少ない幸福だったケースだ。「結婚は幸運に左右されるなあ」と歴史を読むたびに納得。
2人の間に5人の子供が生まれ、その長男が後のフェリペ2世となる。
サッコ・ディ・ローマ(ローマ劫掠)
カルロス5世の知らないうちにフランソワ1世はイギリスやローマ法王クレメンス7世と手を組み反ハプスブルグ同盟を結んでいた(コニャック同盟)。
そして対抗するカルロス5世軍はドイツからの傭兵を中心とした部隊でイタリアに集結。このドイツの傭兵達のローマに対する恨みは積もり積もっており憤懣やるかたない中、カルロス5世の資金も底をつき支払いが滞っていた。怒り狂った群衆が飾り立てたローマの街へなだれ込み略奪・強盗・放火・強姦のしたい放題でローマの街を9か月間にわたって破壊した。これが有名なサッコ・ディ・ローマ(1527)そしてこれが盛期ルネッサンスの終焉になる。
カルロス5世はこれほどまでの略奪を黙認したのか手が付けられなかったのか謎のままだが事態は有利に終わる。1529年ローマ法王クレメンス7世と条約を結びイタリアはカルロス5世の支配下にはいる。ボローニャでローマ法王によって神聖ローマ皇帝の戴冠式が行われた。
<カルロス5世ローマ法王により戴冠>
この間にスペインではカルロス5世の長男フェリペが誕生。
イギリスではヘンリー8世がカタリーナ・デ・アラゴン(カルロス5世の叔母・カトリック女王イサベルの娘)との離婚を希望するがカトリックでは離婚が認められない為イギリス国教会を作る。カタリーナ(キャサリン)は監禁生活を強いられ、修道女の衣服を着て暮らし苦境の中も精神は高潔であったという。
<イギリス王ヘンリー8世とアラゴンのカタリーナ>
ヘンリー8世とカタリーナ(キャサリン)の間の娘がイングランド女王メアリー1世、通称「ブラッディ―マリー」。メアリー1世は後にフェリペ2世と結婚する。
<メアリー1世、新教徒を激しく迫害したため血のメアリーと呼ばれた>
カルロスのチュニス遠征
1492年のグラナダの陥落によってイベリア半島を追われたイスラム教徒たちが北アフリカで海賊になり報復をしていた。地上ではオスマントルコのシュレイマン大帝がウィーンまで迫ってヨーロッパの脅威になっていた。その後ろにはやはりフランソワ1世が反ハプスブルグで見え隠れする。カルロス5世はチュニジアまで遠征し軍はチュニジアの街を3日間略奪しつくす。
<オスマントルコの勢力図>
大体オスマントルコがこんなに勢力を拡大できたのはフランスが後ろから援助をしていたからに他ならない。もちろんフランスはカトリックの国である。
アウグスブルグの会議
1530年に開かれた帝国会議は宗教問題。10年前のヴォルムスと同じテーマ「マルティン・ルター」だ。しかし状況はすっかり変わっており多くの都市が新教側を支持していた。カルロス5世は何とか状況の打開と両派の和解を図ろうとするがカトリック側の既得権を得た枢機卿達の反対もあり平行線。ドイツ人の人文主義者のメランヒトンによる「アウグスブルグの信仰告白」提出されるが調停に失敗。
<1530年アウグスブルグの会議>
<カルロス5世1530年ティチアーノ作>
その後もイタリア戦争
第三次イタリア戦争でフランソワ1世はミラノの侵攻に失敗し、オスマン帝国のシュレイマン大帝と政治同盟を結ぶ。1542年オスマントルコと連合したフランス軍は再び大敗。これでやっとフランスはイタリアをあきらめた。その後フランスはルター派を支持しシュマルカンデン同盟でカルロスと対戦。
そう、繰り返すがフランスは今もカトリックの国。宗教なんて関係なしだ。
第四次イタリア戦争でローマ法王の取り持ちでなんとかカルロス5世とフランソワ1世は和約にいたる。(1538年)
<フランソワ1世とカルロス5世の和約>
この後しばらくはカルロス5世とフランソワ1世は蜜月を過ごすが再び第5次イタリア戦争勃発。フランスは懲りずもまたイタリアに侵攻してくる。
さらに新教徒連合軍との戦争「シュマルカンデン戦争」が始まり1547年カルロス5世はシュマルカンデン同盟を破りこの戦争にひとつの終止符を打つ。この最後の戦いの勝利がミュールベルグの戦い。勝利の後の「カルロス5世騎馬像」というティチアーノの作品がプラド美術館に展示されている。
<ミュールベルグの戦いの後のカルロス5世、ティチアーノ>
<勝利者カルロス5世と負けた人々>中央がカルロス5世 左からシュレイマン大帝、ローマ法王クレメンス7世、フランソワ1世
この後病気で体調を崩したフランソワ1世死去。しかし戦争はその息子アンリ2世に引き継がれる。フランスはスペインに対抗して大陸航海も始めカナダのケベックに到着。今もカナダのこの地域はフランス語圏。スペイン人にとっては災難でしかないフランソワ1世はフランスではフランス国土を広げイタリアから芸術家を集めフランスの文芸を高めた王として人気がある。
カルロス5世息子に遺書
持病の通風で足が痛く気も弱くなっていたカルロス5世、息子フェリペに「ハプスブルグ家をカトリックを擁護する立派な家とし結婚政策で大きくするよう」に遺言をしたためている。波乱多く人生疲れ切った様子のカルロス5世の内面が書き出されているティチアーノの一作。48歳は今なら未だ精悍な年齢だがこの絵のカルロスは万感尽きた老人のよう。
<カルロス5世1548年>
その後片腕の公爵に裏切られ、プロテスタントの勢力は無視できない状態になりオスマントルコの侵攻も激しく、フランスは次のアンリ2世は今だ後ろから手をまわしてくる。
アウグスブルグの和議(1555)
「ルターを暗殺しておけばと良かった」と思ったかもしれない。
もう手が付けられない程にプロテスタントの力は大きくなっていた。ローマの横暴や拝金主義等どう見ても言っていることはプロテスタントの方がまともだった。カルロス5世の弟フェルディナンド1世の主催で南ドイツのアウグスブルグで会議が行われ宗教対立の収束を図った。
<アウグスブルグの和議・左端がカルロス5世>
ユステの修道院へ
1555年、旅と戦争と裏切りと痛風に苦しみ退位を決意。ブルッセルでの退位式の言葉は
「私は多くの過ちを犯してきた。しかし誰かを傷つけようという意図は持っていなかった。もし万一そんな事があればここに許しを請いたい」
と涙で演説が途切れたという。
<カルロス5世退位式、ブルッセル>
両親から受け継いだスペインとネーデルランド、新大陸は息子のフェリペ2世に譲り、父方の祖父からのオーストリア、神聖ローマ帝国の地位と領土は弟のフェルディナンド1世に継承させた。ここにスペインハプスブルグとオーストリアハプスブルグに分かれることになる。
<弟フェルディナンド1世>
同じ年1555年4月12日母親ファナ女王がトルデシージャスの城で亡くなっている。事実上は母ファナがスペイン女王だった。
<ユステのカルロス5世、亡き妻の絵が壁にかかっている>
スペインの西の僻地にあるユステ。北部は意外と降雨量があり樫林や果樹園が多い。そこの樫林の中の静かな修道院で隠居生活に入り、1558年58歳で亡くなった。
<カルロス5世ユステの修道院>
広大な帝国と地位を手にした皇帝の最後の場所には地味すぎる修道院。
ひとつの時代が終わった。
「カルロス5世(スペイン史カルロス1世)神聖ローマ帝国皇帝。スペインの黄金時代」への1件のフィードバック