フェリペ2世、「この国に日が沈む事無き」と呼ばれた時代のスペイン国王。
父王カルロス5世(スペイン史ではカルロス1世)からスペインと新世界、ナポリ、シチリア、サルディーニャおよびミラノ、フランドルを継承し、後にポルトガル王位継承権がやって来る。スペインの領土は文句なく史上最大となった。
がその治世は困難が多く父王からの負の遺産も多く受け継いでいる。さらにプロテスタント問題、ネーデルランド独立、無敵艦隊の敗北など辛酸な屈辱も多く味わった王でもある。日本との関係では天正遣欧使節団が謁見し随分と厚遇してもらっている。広大な帝国を支配しながら慎重王と呼ばれ華美な事を好まず4人の妻に先立たれ最後は修道僧のような生活をしたスペイン国王フェリペ2世の生涯の物語。
フェリペ2世
フェリペ誕生1527年バジャドリード
バジャドリードはちょっと特別な街。
カスティーリア王国の首都だったこともあり12世紀以来重要な位置を占めていた。カスティーリア王ペドロ1世残酷王はここで結婚式を挙げ、カトリック両王(イサベル女王とフェルナンド王)もこの街で結婚式を挙げている。この特別な街で特別な王子が生まれた。
父王カルロス5世26歳、母イサベル23歳。その日は朝から雨だった。
ピメンテル宮殿は窓のカーテンがすべて閉められ誰にもその苦しみにゆがんだ顔を見られないよう頭からシーツでくるまれた王妃イサベル。苦しみに耐え13時間の陣痛の末1人の男の子を産んだ。結婚1年目の待望の男子誕生に国中が沸き上がった。
<カルロス5世とイサベル王妃、ティチアーノ作をルーベンスが模写>
ピメンテル宮殿は今はバジャドリードの県庁になっている。
2週間後の洗礼式はサン・パブロ教会でトレドの大司教により執り行われ街は華やかに飾られ民衆には騎馬試合や闘牛や祭りが提供された。
この子の名前は祖父フィリップ美公の名前をとりフェリペと名付けられた。
<フェリペの洗礼式>
フェリペの小さいころは狩り遊びに興じていたが6歳の頃から家庭教師がつけられ教育が始まる。サラマンカは1215年に既に大学があった学問の街。子供時代のフェリペは家庭教師によりサラマンカで教育を受ける。
体は少し弱かったようだが子供のころから無口で感情をあまり外に出さない男の子だった。
フェリペの母イサベル・デ・ポルトガル
母イサベルはポルトガルの王女。カトリック両王の三女マリアの娘、なので父カルロスと母イサベルは母親同士が姉妹の関係。
<フェリペの母イサベル王妃、ティチアーノ作>
イサベル王妃の母マリアはポルトガルのマニュエル王に切望され嫁いだカトリック両王の娘。不幸が続いたカトリック両王の子供達の中で唯一幸福な結婚をした人物だ。
イサベルはまわりの期待通りの美しくしとやかで聡明な王妃だった。結婚式の1時間前に初めて会ったカルロスはすぐに恋に落ちた、清楚で気品のある女性。そんな母親から生まれ大切に育てられたのはフェリペ2世の人生の中で最も幸運な事だった。
実際父王カルロス5世は戦争と会議と旅で不在な事が多い中イサベル・デ・ポルトガルは国を守り子供たちを育てた。
しかし、幸福な時間はそう長くは続かなかいものだ。
イサベル王妃はもともと体が弱くベッドに伏せることが多かった。当時産褥で亡くなる女性が多かった中フェリペの下に妹2人、さらに男の子を産んだ後体調を崩しその子は生まれて間もなく死亡、さらにもう1人を授かるが死産。これがたたりイサベルはもう起き上がることはほとんどなくなりトレドの*フエンサリーダ宮殿で息を引き取る。
フェリペは12歳だった、多感な少年時代に最愛の母を失った。
*トレドのフエンサリーダ宮殿は貴族の館、アルカサールが工事中だったので国王たちはフエンサリーダ宮殿を宮廷に使っていた。現在カスティーリア・ラ・マンチャ州の議会場となっている。
<イサベル王妃の死、プラド美術館>
父王カルロス5世は棺の傍らで祈り続けその後1か月間トレドの修道院に籠った。
イサベル・デ・ポルトガルは現在エル・エスコリアル修道院にカルロス5世と共に埋葬されている。カルロス5世はこの後生涯結婚せず亡き妻を慕い続けた。一人の世継ぎ、フェリペだけでは心配との周りの声もあったがカルロス5世は独身を通した。
フェリペの結婚
フェリペ2世は生涯に4回結婚する。男子誕生に恵まれず妻と子の死を何度も経験し結婚を繰り返す事になる。
<フェリペ2世、20歳頃、ビルバオ美術館>
最初の結婚はポルトガル王女マリア・マヌエラ、1543年
フランス王女との話はあったが母親の面影を探してか父の話を振りきり従妹の*マリア・マヌエラと結婚。どちらも狂女フアナの孫にあたる16歳同士の結婚。
亡きイサベル王妃を慕う父王カルロスに再婚する意志は無く、したがってひとり息子フェリペの結婚は大切な政治だった。
「美しい王女様です」とポルトガル大使から報告を受けていた。華やかな結婚式はサラマンカで執り行われ闘牛やお祭りが民衆に振舞われた。
その後2人の共通の祖母、狂女フアナがいるトルデシージャスへ向かった。城に監禁されていた狂女フアナは若い2人の孫を見て大変喜んだそうだ。。
<マリア・マヌエラ>
マリア・マヌエラは陽気で明るい王妃で音楽が得意で宮廷は明るいムードに包まれた。2人の間にやがて子供が出来、大変な難産で男の子を産んだ。マリア・マヌエラはその後熱が下がらず2度と起き上がること無く、18歳の短い生涯を終えた。
マリア・マヌエラの遺体はいったんグラナダに運ばれ、後に完成したエルエスコリアル修道院へ移動。今もそこに眠っている。
*マリア・マヌエラはポルトガル王ジョアン3世と王妃カタリーナの娘。ジョアン3世はマヌエル1世とカトリック両王の3女マリアの息子。母カタリーナはフィリップ美公と狂女フアナの末娘。父と母はいとこ同士。フェリペの父親カルロス5世も狂女フアナの息子なので父方も母方も従妹になる。血の濃い結婚の結果がスペイン・ハプスブルグを蝕み始めた。
母の命と引き換えに生まれた息子は弱く小さくカルロスと名付けられるが生まれながらに異様であった。見た目は異様で性格が陰鬱で残酷性があった。シラーの戯曲、後ヴェルディ―のオペラになったドン・カルロスの誕生だ。
この後フェリペを苦しめる事になる王子の誕生だ。
<カルロス10歳頃、プラド美術館>
フェリペの初めての海外領土視察1548年
父王カルロスは王位継承者フェリペに政治経験と広大な領地を見せる為ネーデルランドへ呼びドイツや北イタリアの領土を見せる。フェリペは生涯常に父の命令に従順だ。
しかし社交性が無く不愛想で無口、オランダ語もフランス語も出来ないフェリペはあまり領民には人気が無かった。フェリペも豪華な宮廷文化は好みでは無く、根っからの不器用なカスティーリア人だった。2年9か月の旅を終えスペインに戻る。
<フェリペ2世1551年ティチアーノ、プラド美術館>
時代背景:この頃イエズス会士フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着し日本にキリスト教を伝えている。日本は戦国時代真っ只中。
イングランド女王メアリーチューダー
次のフェリペの妻になるメアリーは幼少の頃に辛酸を舐め尽し他人を信じる事より疑う事で強い信念を培い生きた王女だった。
後にプロテスタント迫害でブラッディ―・メアリー、血のメアリーと呼ばれる。
<即位前のメアリーチューダ->
メアリーの父親はイギリス王ヘンリー8世、母親はカタリーナ・デ・アラゴン、又してもカトリック両王の娘だ。カタリーナが5度の妊娠に失敗し死産を繰り返し6度目の懐妊で生まれたのがメアリー。ヘンリー8世は4歳年上のカタリーナに最初は熱心だったが6度の出産後、容姿にも衰えが目立つカタリーナへの愛情は次第に無くなる。
カタリーナの侍女だったアン・ブリーンは国王の愛人となり次第に発言力を持ち王妃の座を所望。男子がいなかったヘンリー8世はカタリーナと離婚してアンを正式な王妃に迎えるためにカトリック教会と決裂し、ここに英国国教会が誕生する。
<ヘンリー8世2度目の王妃アン・ブリーン>
やがてアン・ブリンは娘を産んだ、この子が後のエリザベス女王となる。
庶子に落とされたメアリーにアンは娘エリザベスの侍女となるよう強要するがメアリーは断固これを突っぱねた。幽閉状態になりアンにより毒殺されかけるが危険を感じ取り提供される食事はなにも食さず生き延びる。メアリーの母カタリーナが城に監禁され孤独な死を迎えた時アン・ブリンはそれを祝ったという、なんとも憎らしい。
しかし後にアン・ブリンは国王ヘンリー8世によって斬首刑、次の王妃の息子がエドワード6世として即位するが15歳で夭折、とこれは大変と周りはメアリーを拘束しよう動き出す。
命からがらメアリーは脱出し彼女を支持する民衆と共に1553年「メアリー1世」としてイングランド女王に即位。
辛酸舐め尽くし女王となったわけだ。
<メアリーのロンドン入場、後ろにいるのがエリザベス>
イングランド女王メアリーとの結婚、1554年
結婚は政治、フェリペはいつも父の命令に従順だ。
イギリスの女王となったメアリー1世とフェリペは2度目の結婚をする。この二人は叔母と甥の関係になる。メアリー側にとっては国内のプロテスタントに対抗できるメリットがあった。
フェリペより11歳年上のメアリーはすでに37歳、フェリペ26歳。交換し合ったメアリーの肖像画が今もプラド美術館にある。
<メアリー1世、1554年、アントニオモーロ、プラド美術館>
<フェリペ2世1554年ティチアーノ、ピッティ―宮殿>
フェリペがイングランドに入りメアリーと過ごし、おそらくメアリー1世の人生で初めての幸福な時間を過ごす。多くのカスティーリアの男の様にフェリペは優しく紳士だった。
そして、メアリーの懐妊が発表される。
が実は水腫と想像妊娠だった。メアリーはフェリペに恋していたに違いない。
フェリペはイングランドを離れスペインへ戻り2人は遠距離結婚となる。それぞれが国王なので仕方がない。フェリペはこの時の1年2か月のイングランド滞在とその後サンキンティンの戦費の無心で3か月滞在しかしておらず実際1年5か月の夫婦生活だったがメアリーにとっては白馬の王子さまとの蜜月、人生で唯一の幸福な日々だった。
カルロス5世の退位とフェリペ2世の即位
父カルロス5世は1555年アウグスブルグの和議のあと退位。ハプスブルグ帝国を守るため戦争と会議と旅に明け暮れたカルロス5世は涙の引退声明の後、スペインのユステの修道院へ妻の絵を持って隠居する。
<ユステのカルロス5世>
フェリペは父の退位により1556年1月16日「フェリペ2世」としてスペイン国王に即位。さらにオーストリアを除く領土を受け継ぐ。叔父のフェルディナンドが皇帝位を継承。
ここに「スペイン国王フェリペ2世」が登場した。
*これ以降ハプスブルグ家はスペイン・ハプスブルグとオーストリア・ハプスブルグに分かれ親戚で結婚を繰り返す。
サン・キンティンの戦いとエル・エスコリアル
1557年8月10日聖ロレンソの日。
フェリペ2世は即位後初めての戦争でフランスを破る。フランス北部の街サン・キンティン(仏サン・カンタン)の戦いで相手はアンリ2世。戦後カトー・カンブレジ条約で長年のフランスとの軋轢のイタリア戦争に終止符が打たれた。
この勝利を記念して建造されたのが巨大なエル・エスコリアル修道院。マドリードから40キロ、バスや鉄道で簡単にアクセスできる。
<サンキンティンの戦い、エル・エスコリアル修道院蔵>
この戦費をイングランドに助けてもらうためフェリペは妻のメアリーに会いにイギリスへ2度目の旅に出た。これが最後のイギリスの滞在となる。
メアリーはこの少し後に死去。卵巣腫瘍だった。(1558年、5年間の在位)
次にイギリス王位に就くのがメアリー腹違いの妹、エリザベス1世。実はフェリペ2世はこの後エリザベス1世女王に求婚しているが断られている。
同年父カルロス5世ユステで崩御。慕っていた叔母2人もほぼ同時に亡くなりフェリペ2世は孤独感を強めていく。
フランス王アンリ2世の長女イサベル・デ・ヴァロアとの結婚
又しても世継ぎなく妻に先立たれた。
では次、として決まるのがフランスの王女イサベル・デ・ヴァロア、この王女はカトリーヌ・ド・メディシスの娘。
ここでメディチ家登場、少しだけカトリーヌ・ド・メディシスについて触れておく。
メディチ家はイタリアのフィレンツェで丸薬と銀行業で大成功をした豪商家族。ボッティチェルリやミケランジェロのパトロンで有名だ。メディチ家の最盛期はロレンツォ豪華王の時代、ロレンツォの曽孫にあたるカトリーヌ・デ・メディシスはフランス王家の血も引く。
<フランス王子アンリとカトリーヌの結婚>
フィレンツェ生まれのカトリーヌはフランソワ1世の次男アンリと14歳で結婚。アンリの兄フランソワが突然死したので夫がアンリ2世としてフランス王となりカトリーヌはフランス王妃となった。あまり美しいとは言えない女性だったが体が丈夫で頭が良く機転が利く。夫アンリには20歳上の愛人がいたがお構いなく9人の子供を産み夫亡きあとは摂生として大活躍し女帝となる。
そのカトリーヌとアンリ2世の娘、イサベル・デ・ヴァロアとフェリペ2世は結婚する。
サンキンティンの戦いの後のカトー・カンブレージ条約の一環、戦争ばかりしていたフランスと仲良くしましょうと結婚が決まった。カトリーヌの長女イサベル・デ・ヴァロアは13歳でスペイン王妃となる。
<イサベル・デ・バロア、プラド美術館>
当時の国王の結婚式は最初に代理結婚式が行われる。
1559年6月パリで行われた代理結婚式では5日間にわたり祭典や舞踏会、馬上槍試合が行われた。
その祭りの最中に不吉な事が起こる。
騎馬試合でフランス国王アンリ2世が槍で目を刺され落馬し帰らぬ人となる。後を継いだフランソワ2世も一年後に亡くなり、次男シャルルが10歳で即位。
カトリーヌは摂生となり以後30年にわたりフランスを統治する女帝となった。
フェリペの長男、ドン・カルロス
実はイサベル・デ・ヴァロアと婚約していたのはフェリペ2世の長男カルロスだった。
カルロスはフェリペの最初の結婚で生まれた王子、生まれた時から体は弱く容姿は異様で性格は残酷だった。度々の異常な行動に廻りには黒いうわさが絶えなかった。
息子は次第に父フェリペに敵対するようになりプロテスタントのネーデルランドへ行って父王に反旗を翻そうとしたところ捕まり幽閉され23歳で謎の死を遂げる。オペラ、ドン・カルロスではフェリペ2世が若い2人の恋を邪魔してイサベルを妻にしという話になっているが、それはどうやら事実ではないようだ。
イサベル・デ・ヴァロアとの幸福な時間
スペインのグアダラハラの宮殿で1560年にフェリペ2世とイサベル・デ・バロワの結婚式がわれた。
フェリペはイサベルより18歳年上。若い王妃は最初は流産をするが1566年にイサベル・クララ・エウヘニアが生まれ1567年に妹カタリーナ・ミカエラを出産。
<イサベル・クララ・エウへニアとカタリーナ・ミカエラ、プラド美術館>
2人の可愛い娘と美しい王妃はフェリペに大きな幸福を与えた。実際この二人の娘たちはフェリペ2世のお気に入りで生涯にわたって国王の心の支えだった。
しかし妻イサベルは帰らぬ人となる。
1568年に新たに男子を妊娠するが死産の後、イサベル崩御。息子ドン・カルロスが亡くなって間もなくの事。息子と妻をほぼ同時に失くしたフェリペの悲しみは深くさらに心を閉ざし口数も減っていく。
今は2人ともエル・エスコリアル修道院に埋葬されている。
*冷徹で近寄りがたいと言われるフェリペ2世だが娘達への手紙に「お前の善良な父より」と愛情を込めて署名してる。この娘たちによってフェリペ2世の人生は少しだけ明るいものになった。特に長女のイサベラは優秀で機転が利き生涯フェリペのお気に入りだった。
4度目の結婚ハプスブルグのアナ・デ・アウストリア
「もう結婚なんてしたくない」と思ったかもしれない。
王様家業は大変だ。4度目の相手探しが始まった。野心家のカトリーヌ・ド・メディシスは末の娘を押してきたが最終的に決まったのはオーストリア・ハプスブルグからアナ・デ・アウストリア。
フェリペ2世の妹の娘なので叔父と姪の関係になる。フェリペ2世41歳アナ19歳。
<アナ・デ・アウストリア、プラド美術館>
1570年プラハで代理結婚式が行われた後セゴビアのアルカサールで結婚式が行われた。
アナの母(フェリペの妹マリア)は小さい頃から娘にカトリックとスペイン語とカスティーリアの習慣を教えていた。誠実で質素、金髪でブルーの瞳、エレガントで愛らしく直ぐにマドリードの宮廷に馴染み人々に愛される。3歳と4歳の前王妃の娘達にも慕われ幸福な日々の中最初の男子を授かる。
フェリペ2世に笑顔が戻った。そんな頃に戦争がはじまった。
弟フアンとレパントの海戦
実はフェリペに母違いの弟がいた。
カルロス5世の庶子フアン。「やんごとなきお方のお子様」と田舎で秘密裡に育つがカルロスは生前公にはしていない。
<ユステでカルロス5世に紹介されるフアン、プラド美術館>
金髪の美しい青年に育ちカルロス5世からの遺言に従いフェリペ2世は彼を宮廷に呼ぶ。それ以来ドン・ファン・デ・アウストリアと呼ばれ軍人の道を歩む。
<ドン・ファン・デ・アウストリア、スペイン海軍所蔵>
この時代オスマン・トルコが地中海で暴れだしキプロス島を制覇した。怯えるベネチア共和国はスペインに援軍を求めるがフェリペ2世は消極的だった。危機感を抱いたローマ法王が出て来て十字軍を提唱。カトリック連合軍「神聖同盟」が結成されその総司令官にドン・フアン・デ・アウストリアが選ばれる。
1570年10月7日メッシーナ海峡に連合艦隊300隻が集結しギリシャ沖で285隻のオスマントルコと対峙したのがレパントの海戦。結果約1時間半で神聖同盟の勝利となりドン・フアンはヒーローとなる。この戦士の中にまだ23歳のミゲール・セルバンテスがいた、後の「ラマンチャの男」ドン・キホーテの物語の作者だ。
アナの死と子供達
待望の男子誕生で湧き上がった。
アナ・デ・アウストリアは5人の子供を産んでいる。長男が生まれたのがレパントの海戦のすぐあと。この子はフェルナンドと名付けられフェリペはたいそう喜んだ。神のご加護、異教徒を倒し世継ぎを授かったと早速ティチアーノに描かせた作品がプラド美術館にある。
<勝利へ捧げるフェルナンド王子とフェリペ2世、プラド美術館>
アナは最後の女の子の出産の後の旅の途中に病気で31歳で亡くなる。誕生した5人の子供達で育ったのは1人だけだった。
レパントの海戦後生まれた期待のフェルナンドは7歳で病気で死亡。次のカルロスは2歳、3男のディエゴは7歳でと次々と夭折し1578年に生まれたフェリペのみが生き残り後のフェリペ3世となる。
妻と子供たちは今もエル・エスコリアル修道院に眠る。
ポルトガル王位
ポルトガル王ジョアン3世の唯一の皇太子セバスティアンが24歳で無謀な戦争に出かけ戦死。王はすでに亡くセバスティアンの母はフェリペ2世の妹ファナだった為フェリペ2世に王位継承権がやって来た。
1580年フェリペはポルトガル王フェリペ1世として即位。トルデシージャス条約で世界を2分割していたポルトガル領土まで手に入れ申し分なく「日の沈む事無き大帝国」になった。
フェリペがポルトガル王即位の後、日本からの天正遣欧少年使節団がリスボンに上陸している。4人の少年達がイエズス会の宣教師に連れられ九州からやって来た。リスボンからは陸路、長い旅の後マドリードのサン・ヘロニモス教会(プラド美術館横)でフェリペ皇太子の宣誓式に参列している
*ジョアン3世妃ファナは夫亡き後マドリードに戻りデスカルサス・レアレス修道院を創設。今もマドリードの中心部に修道院は現存する。息子の肖像画を見たいとファナがリスボンから取り寄せた物が下の写真。
*デスカルサス修道院で1614年仙台藩士支倉常長が洗礼を受けている。慶長使節団は伊達政宗の使いでメキシコ経由で通商貿易が目的だった。
<セバスティアン王11歳、デスカルサス修道院蔵>
エリザベス女王とアルマダの海戦
エリザベス1世との間にゴングが鳴った。
母アン・ブリーンは処刑されエリザベスは庶子に落とされたが巡り巡って女王に即位、まさに起死回生の復活だ。エリザベスはフェリペの求婚を断り敵対してきた、ネーデルランドのプロテスタントを後ろから援助をして北部8州はネーデルランド独立共和国を宣言。更に海賊フランシス・ドレイクを雇ってスペイン艦隊を度々襲わせている。
<エリザベス1世、ナショナル・ポートレート・ギャラリー>
エリザベスが最も恐れていたのはスコットランドのメアリー・スティアートの人気だった。夫の死後スコットランドに戻って来ていたメアリーをエリザベスは陰謀の末幽閉、後に斬首の刑にする。
<メアリー・スティアートの処刑>
数々の陰謀とカトリックのメアリーの処刑にフェリペ2世は黙っているわけにいかなくなり戦争へ突入。
1588年アルマダの海戦が始まる。
結果は散々でスペインの大型ガレー船は英仏海峡での動きが悪く更に悪天候のなか小型帆船の英国に惨敗。
<英仏海峡アルマダの戦い、グリニッジ病院コレクション>
アルマダの海戦の勝利でエリザベス1世女王の英国での地位は揺らぎないものとなった。そしてスペインの没落は止まらなくなっていく。
フェリペ2世の晩年
アルマダの海戦の敗北、ネーデルランドの独立と続く戦争、ポルトガルの反乱などの困難な大帝国を息子に託す準備を始める。老いた国王は毎日膨大な書類に自ら目を通したと言われる。
<フェリペ2世最晩年、パントハ、エル・エスコリアル修道院>
1598年、あまり健康状態がすぐれない中エル・エスコリアル修道院に移動。
椅子ごと担がれ通常ならマドリードから1日の道のり、休みながら約1週間かけて移動した。その椅子は今もエル・エスコリアル修道院に展示されている。
痛風だった。
ベッドに横たわり息子を呼びよせ「この世にどれほどの巨大帝国を持っていても人は弱っていく、朽ちていくんだ」という事を唯一の皇子フェリペに語ったといわれる。
1598年9月13日、フェリペ2世崩御、71歳だった。
望んだ通りエル・エスコリアル修道院の自室に横たわり、質素なベッドからは礼拝堂が見えるようになっていた。
日本ではその前年長崎で26人のキリスト教徒たちが秀吉によって処刑されている。
ひとつの時代が終わった。