フェリペ2世「スペイン・日の沈む事無き大帝国」の国王

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フェリペ2世、かつて「この国に日が沈む事無き」と呼ばれた頃のスペイン国王。遺産相続で手に入れたものがとてつもない巨大帝国だった。父王カルロス5世(スペイン史ではカルロス1世)からスペインと新世界、ナポリ、シチリア、サルディーニャおよびミラノ、フランドルを継承し、後にポルトガル王位継承権が手元にやって来る。スペインの領土は文句なく史上最大となった。がその治世は困難が多く父王からの負の遺産も多く受け継いでいる。さらにプロテスタント問題、ネーデルランド独立、無敵艦隊の敗北など辛酸な屈辱も多く味わった王でもある。日本との関係では天正遣欧使節団が謁見し随分と厚遇してもらっている。広大な帝国を支配しながら慎重王と呼ばれ華美な事を好まず4人の妻に先立たれ最後は修道僧のような生活をしたスペイン国王フェリペ2世の生涯の物語。

1527年、バジャドリード


バジャドリードはちょっと特別な街。カスティーリア王国の首都だったこともあり12世紀以来重要な位置を占めていた。カスティーリア王ペドロ1世残酷王はここで結婚式を挙げ、またカトリック両王(イサベル女王とフェルナンド王)もこの街で結婚式を挙げている。この特別な街で特別な王子が生まれた。

フェリペ誕生

父王カルロス5世26歳、母イサベル23歳。その日は朝から雨だった。ピメンテル宮殿は窓のカーテンがすべて閉められ誰にもその苦しみにゆがんだ顔を見られないよう頭からシーツでくるまれた王妃イサベル。苦しみに耐え13時間の陣痛の末1人の男の子を産んだ。結婚1年目の待望の男子誕生に国中が沸き上がった。

<カルロス5世とイサベル王妃、ティチアーノ作をルーベンスが模写>

カルロス5世とイサベル
wikipedia public domainマドリード、リリア宮

ピメンテル宮殿は今はバジャドリードの県庁になっている。2週間後の洗礼式はサン・パブロ教会でトレドの大司教により執り行われ街は華やかに飾られ民衆には騎馬試合や闘牛や祭りが提供された。この子の名前は祖父フィリップ美公の名前をとりフェリペと名付けられた。

<フェリペの洗礼式>

Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1863854
 子供時代のフェリペ

小さいころは狩り遊びに興じていたが6歳の頃から家庭教師がつけられ教育が始まる。サラマンカは1215年に既に大学があった学問の街。子供時代のフェリペは家庭教師によりサラマンカで教育を受ける。体は少し弱かったようだが子供のころから無口で感情をあまり外に出さない男の子だった。

母イサベル


母イサベルはポルトガルの王女。カトリック両王の三女マリアの娘、なので父カルロスと母イサベルは母親同士が姉妹の関係。

<フェリペの母イサベル王妃、ティチアーノ作>

ポルトガルのイサベル
De Tiziano – [2], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=20202270
イサベル王妃の母マリアはポルトガルのマニュエル王に切望され嫁いだカトリック両王の娘。不幸が続いたカトリック両王の子供達の中で唯一幸福な結婚をした人物。

まわりの期待通りの美しくしとやかで聡明な王妃だった。結婚式の1時間前に初めて会ったカルロスはすぐに恋に落ちた、美しく清楚で気品のある女性。そんな母親から生まれ大切に育てられたのはフェリペ2世の人生の中で最も幸運な事だったのではと、思う。

実際父王カルロス5世は戦争と会議と旅で不在な事が多い中誠実に国を守り子供たちを育てた。

母イサベルの死

イサベル王妃はもともと体が弱くベッドに伏せることが多かった。当時産褥で亡くなる女性が多かった中フェリペの下に妹2人、さらに男の子を産んだ後体調を崩しその子は生まれて間もなく死亡、さらにもう1人を授かるが死産。これがたたりイサベルはもう起き上がることはほとんどなくなりトレドのフエンサリーダ宮殿で息を引き取る。フェリペ12歳、多感な少年時代に最愛の母を失った。

<イサベル王妃の死、プラド美術館>

フェリペの母イサベルの死
De José Moreno Carbonero – Galería online, Museo del Prado., Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=42463134

父王カルロス5世は棺の傍らで祈り続けその後1か月間トレドの修道院に籠った。現在はエル・エスコリアル修道院にカルロス5世と共に埋葬されている。1人の世継ぎフェリペだけでは心配な声もあったはず、だがカルロス5世はこの後生涯結婚せず亡き妻を慕い続けた。

フェリペの結婚


フェリペ2世は4度結婚する。王家の結婚は全て政略結婚。誰と結婚するのが我が国の為になるか、その次に大切なのは世継ぎを残す事。最初の結婚で男子が生まれるがその子は異様な容姿と極端な性格のドン・カルロス。フェリペは男子誕生に恵まれず妻と子の死を何度も経験し結婚を繰り返す事になる。

<フェリペ2世、20歳頃、ビルバオ美術館>

フェリペ2世
public domain
最初の結婚はポルトガル王女マリア・マヌエラ、1543年

フランス王女との話はあったが母親の面影を探してか父の話を振りきり従妹のマリア・マヌエラと結婚。どちらも狂女フアナの孫にあたる16歳同士の結婚。亡きイサベル王妃を慕う父王カルロスに再婚する意志は無く、したがってひとり息子フェリペの結婚は大切な政治だった。

「美しい王女様です」とポルトガル大使から報告を受けていた。華やかな結婚式はサラマンカで執り行われ闘牛やお祭りが民衆に振舞われた。その後2人の共通の祖母、狂女フアナがいるトルデシージャスへ向かった。城に監禁されていた狂女フアナは若い2人の孫を見て大変喜んだそうだ。。

<マリア・マヌエラ>

マリアマヌエラ、フェリペ2世の最初の妻
wikipedia Dominio público

マリア・マヌエラは陽気で明るい王妃で音楽が得意で宮廷は明るいムードに包まれた。2人の間にやがて子供が出来、大変な難産で男の子を産んだ。マリア・マヌエラはその後熱が下がらず2度と起き上がること無く、18歳の短い生涯を終えた。マリア・マヌエラの遺体はいったんグラナダに運ばれ、後に完成したエルエスコリアル修道院へ移動。今もそこに眠っている。

 

*マヌエラはポルトガル王ジョアン3世と王妃カタリーナの娘。父親のジョアン3世はマヌエル1世とカトリック両王の3女マリアの息子。母カタリーナはフィリップ美公と狂女フアナの末娘。父と母はいとこ同士。フェリペの父親カルロスも狂女フアナの息子なので父方も母方も従妹になる。血の濃い結婚の結果がスペイン・ハプスブルグを蝕み始めた。

母の命と引き換えに生まれた息子は弱く小さくカルロスと名付けられるが生まれながらに異様であった。シラーの戯曲、後ヴェルディ―のオペラになったドン・カルロスの誕生。フェリペを苦しめる事になる王子の誕生だ。

<カルロス10歳頃、プラド美術館>

ドン・カルロス
De Alonso Sánchez Coello – [1], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=630429
フェリペの初めての海外領土視察1548年

父王カルロスは王位継承者フェリペに政治経験と広大な領地を見せる為ネーデルランドへ呼びドイツや北イタリアの領土を見せる。フェリペは生涯常に父の命令に素直に従う。しかし社交性が無く不愛想で無口、オランダ語もフランス語も出来ないフェリペはあまり領民には人気が無かった。フェリペも豪華な宮廷文化は好みではなかった。2年9か月の旅を終えスペインに戻る。

<フェリペ2世1551年ティチアーノ、プラド美術館>

フェリペ2世1551年
De Desconocido – http://www.museodelprado.es/imagen/alta_resolucion/P00411.jpg, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=140998

同じころイエズス会士フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着し日本にキリスト教を伝えている。

イングランド女王メアリーチューダー

次のフェリペの妻になるメアリーは幼少の頃に辛酸を舐め尽し他人を信じる事より疑う事で強い信念を培い生きた王女だった。後にプロテスタント迫害でブラッディ―・メアリー、血のメアリーと呼ばれる。

<即位前のメアリーチューダ->

メアリー1世
wikipedia public domain
National Portrait Gallery

父親はイギリス王ヘンリー8世、母親はカタリーナ・デ・アラゴン、又してもカトリック両王の娘だ。カタリーナが5度の妊娠に失敗し死産を繰り返し6度目の懐妊で生まれたのがメアリー。ヘンリー8世は4歳年上のカタリーナに最初は熱心だったが6度の出産後、容姿にも衰えが目立つカタリーナへの愛情は次第に無くなる。カタリーナの侍女だったアン・ブリーンは国王の愛人となり次第に発言力を持ち王妃の座を所望。男子がいなかったヘンリー8世はカタリーナと離婚してアンを正式な王妃に迎えるためにカトリック教会と決裂した。

<ヘンリー8世2度目の王妃アン・ブリーン>

アンブリーン
By 不明 – http://www.siue.edu/~ejoy/eng208lecturenotessonnets.htm (see also National Portrait Gallery, London: NPG 668), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1283649

やがてアンは娘を産みその子が後のエリザベス女王となる。庶子に落とされたメアリーにアンは娘エリザベスの侍女となるよう強要するがメアリーは断固これを突っぱねた。幽閉状態になりアンにより毒殺されかけるが危険を感じ取り提供される食事はなにも食さず生き延びる。母カタリーナが城に監禁され孤独な死を迎えた時アンはそれを祝ったという。しかし後にアン・ブリンは国王ヘンリー8世によって斬首刑、次の王妃の息子がエドワード6世として即位するが15歳で夭折する、と周りはメアリーを拘束しよう動き出す。命からがら脱出しメアリーを支持する民衆と共に1553年メアリー1世としてイングランド女王に即位した。

<メアリーのロンドン入場、後ろにいるのがエリザベス>

メアリーのロンドン入場
public domain
The Entrance of Queen Mary I with Princess Elizabeth into London, 1553
by John Byam Liston Shaw © Palace of Westminster WOA 2592
イングランド女王メアリーとの結婚、1554年

結婚は政治。父王からの命令である。イギリスの女王となったメアリー1世とフェリペは2度目の結婚をする。叔母と甥の関係になる。メアリー側にとっては国内のプロテスタントに対抗できるメリットがあった。11歳年上のメアリーはすでに37歳、フェリペ26歳。交換し合ったメアリーの肖像画が今もプラド美術館にある。

<メアリー1世、1554年、アントニオモーロ、プラド美術館>

ブラッディ―メアリー
By アントニス・モル – Museo del Prado Catalog no. P02108 [2], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4314226
<フェリペ2世1554年ティチアーノ、ピッティ―宮殿>

フェリペ2世
wikipedia pabulic domain
Source/Photographer Web Gallery of Art: Inkscape.svg Image Information icon.svg Info about artwork

フェリペがイングランドに入りメアリーと過ごし、おそらくメアリー1世の人生で初めての幸福な時間を過ごす。多くのカスティーリアの男の様にフェリペは優しく紳士だった。そんなころメアリーの懐妊が発表される、が実は水腫と想像妊娠だった。

フェリペはイングランドを離れスペインへ戻り2人は遠距離結婚となる。それぞれが国王なので仕方がない。フェリペはこの時の1年2か月のイングランド滞在とその後サンキンティンの戦費の無心で3か月滞在しかしておらず実際1年5か月の夫婦生活だったがメアリーにとっては白馬の王子さまとの蜜月、人生で唯一の幸福な日々だった。

カルロス5世の退位とフェリペ2世の即位


父カルロス5世は1555年アウグスブルグの和議のあと退位。ハプスブルグ帝国を守るため戦争と会議と旅に明け暮れたカルロス5世は涙の引退声明の後、スペインのユステの修道院へ妻の絵を持って隠居する。

<ユステのカルロス5世>

カルロス5世ユステ

父の退位により1556年1月16日フェリペ2世としてスペイン国王に即位。さらにオーストリアを除く領土を受け継ぐ。叔父のフェルディナンドが皇帝位を継承しここからハプスブルグ家はスペイン・ハプスブルグとオーストリア・ハプスブルグに分かれる。

サン・キンティンの戦いとエル・エスコリアル

1557年8月10日聖ロレンソの日、フェリペ2世は即位後初めての戦争でフランスを破る。フランス北部の街サン・キンティン(仏サン・カンタン)の戦い。相手はアンリ2世。戦後カトーカンブレジ条約で長年のフランスとの軋轢のイタリア戦争に終止符が打たれた。この勝利を記念して後に作らせた巨大な修道院兼王宮がエル・エスコリアル修道院となる。

<サンキンティンの戦い、エル・エスコリアル修道院蔵>

サンキンティンの戦い
public domain
Source http://www.unapicaenflandes.es/imagenes/Asedio.jpg
Author Niccoló Granello

この戦費をイングランドに助けてもらうためフェリペは妻のメアリーに会いにイギリスへ。2度目の最後のイギリスの滞在となる。メアリーは5年間の在位の後卵巣腫瘍で1558年に死去。次にイギリス王位に就くのがエリザベス1世、実はフェリペ2世はこの後エリザベス1世女王に求婚しているが断られている。同年父カルロス5世ユステで崩御。慕っていた叔母2人もほぼ同時に亡くなりフェリペ2世はさらに孤独感を強めていく。

 

フランス王アンリ2世の長女イサベル・デ・ヴァロア


又しても世継ぎなく妻に先立たれた。では次、として決まるのがフランスの王女イサベル。

ここでメディチ家登場。メディチ家はイタリアのフィレンツェで丸薬と銀行業で大儲けをした豪商家族。ボッティチェルリやミケランジェロのパトロンで有名。フィレンツェのウフィツイ美術館はメディチ家の事務所だった建物。「オフィス」をイタリア語で「ウフィツィ」という。

ローマ法王まで出しているロレンツォ豪華王の時代はメディチ家の最盛期、そのロレンツォの孫にあたるカトリーヌ・デ・メディチはフランス王家の血も引く。スペイン・ハプスブルグに対抗するため商人の娘とフランス王家の結婚話がまとまった。

 

<フランス王子アンリとカトリーヌの結婚>

アンリ2世とカトリーヌデメディシス
wikipeida public domain

 

カトリーヌはフランソワ1世の次男アンリと14歳で結婚したが長男フランソワが突然死、次男のアンリがフランス王になったのでカトリーヌは自動的にフランス王妃となった。あまり美しいとは言えない女性だったが体が丈夫で頭が良く機転が利く。夫アンリには20歳上の愛人がいたがお構いなく9人の子供を産み夫亡きあとは摂生として大活躍し女帝となる。

そのカトリーヌ・デ・メディチとアンリ2世の娘、イサベル・デ・ヴァロアとフェリペ2世は結婚する。サンキンティンの戦いの後のカトーカンブレージ条約の一環だ。戦争ばかりしていたフランスと仲良くしましょうと結婚が決まった。

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カトリーヌの長女イサベル・デ・ヴァロアは13歳でスペイン王妃となる。

<イサベル・デ・バロア、プラド美術館>

イサベル・デ・バロア
wikepedia public domain

当時の国王の結婚式は最初に代理結婚式が行われる。1559年6月パリで行われた代理結婚式では5日間にわたり祭典や舞踏会、馬上槍試合が行われた。その祭りの最中に不吉な事が起こる。騎馬試合でフランス国王アンリ2世が槍で目を刺され落馬、その後死亡。

15歳のスコットランド王女メアリー・ステュアートはアンリの息子フランソワと結婚式を挙げている。同年イングランドでエリザベス1世が即位しメアリーはその正当性に対して抗議し2人の女王の戦いのゴングが鳴っている。

<フランソワとメアリー>

フランソワとメアリー
http://www.blastmilk.com/decollete/gallery/tudor/maryqosandfrancis-thumb.jpg From Catherine de’ Medici’s Book of Hours, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2962692

フェリペ2世の結婚に戻ろう。実はイサベルと先に婚約していたのはフェリペ2世の長男カルロスだった。カルロスは生まれた時から体は弱く容姿は異様で性格は残酷だった。度々の異常な行動に廻りには黒いうわさが絶えなかった。息子は次第に父に敵対するようになりプロテスタントのネーデルランドへ行って父王に反旗を翻そうとしたところ捕まり幽閉され23歳で謎の死を遂げる。オペラ、ドン・カルロスではフェリペ2世が若い2人の恋を邪魔してイサベルを妻にしという話になっているが事実ではないようだ。

1560年にフェリペ2世とイサベル・デ・バロワの結婚式がスペインのグアダラハラの宮殿で行われた。その翌年首都がマドリードに移動している。フェリペはイサベルより18歳年上。若い王妃は最初は流産をするが1566年にイサベル・クララ・エウヘニアが生まれ1567年に妹カタリーナ・ミカエラを出産。

<イサベル・クララ・エウへニアとカタリーナ・ミカエラ、プラド美術館>

フェリペ2世の2人の娘
SÁNCHEZ COELLO, ALONSO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

2人の可愛い娘と美しい王妃はフェリペに大きな幸福を与えた。1568年に新たに男子を妊娠するが死産の後イサベルは帰らぬ人となる。ドン・カルロスが亡くなって間もなくの事、息子と妻をほぼ同時に失くしたフェリペの悲しみは深かった。今は2人ともエル・エスコリアル修道院に埋葬されている。

 

冷徹で近寄りがたいと言われるフェリペ2世だが娘達への手紙に「お前の善良な父より」と愛情を込めて署名してる。この娘たちによってフェリペ2世の人生は少し明るいものになった。特に長女のイサベラは優秀で機転が利き生涯フェリペのお気に入りだった。

4度目の結婚ハプスブルグのアナ・デ・アウストリア

「もう結婚なんてしたくない」と思ったかもしれない。王様家業は大変だ。4度目の相手探しが始まった。野心家のカトリーヌ・デ・メディチは末の娘を押してきたが最終的に決まったのはオーストリア・ハプスブルグからアナ・デ・アウストリア。フェリペ2世の妹の娘なので叔父と姪の関係になる。フェリペ2世41歳アナ19歳。

<アナ・デ・アウストリア、プラド美術館>

アナデアウストリア
wikipedia publc domain

1570年プラハで代理結婚式が行われた後セゴビアのアルカサールで結婚式が行われた。アナの母(フェリペの妹マリア)は小さい頃から娘にカトリックとスペイン語とカスティーリアの習慣を教えていた。誠実で質素、金髪でブルーの瞳、エレガントで愛らしく直ぐにマドリードの宮廷に馴染み人々に愛される。3歳と4歳の前王妃の娘達にも慕われ幸福な日々の中最初の男子を授かる。フェリペ2世に笑顔が戻った。そんな頃に戦争がはじまった。

弟フアンとレパントの海戦

実はフェリペに母違いの弟がいた。カルロス5世の庶子フアン。「やんごとなきお方のお子様」と田舎で秘密裡に育つがカルロスは生前公にはしていない。

<ユステでカルロス5世に紹介されるフアン、プラド美術館>

フアンデアウストリアのカルロス5世への紹介
Eduardo Rosales – Museo del Prado

金髪の美しい青年に育ちカルロス5世からの遺言に従いフェリペ2世は彼を宮廷に呼ぶ。それ以来ドン・ファン・デ・アウストリアと呼ばれ軍人の道を歩む。

<ドン・ファン・デ・アウストリア、スペイン海軍所蔵>

wikipedia public domain

この時代オスマン・トルコが地中海で暴れだしキプロス島を制覇した。怯えるベネチア共和国はスペインに援軍を求めるがフェリペ2世は消極的だった。危機感を抱いたローマ法王が出て来て十字軍を提唱。カトリック連合軍「神聖同盟」が結成されその総司令官にドン・フアン・デ・アウストリアが選ばれる。1570年10月7日メッシーナ海峡に連合艦隊300隻が集結しギリシャ沖で285隻のオスマントルコと対峙したのがレパントの海戦。結果約1時間半で神聖同盟の勝利となりドン・フアンはヒーローとなる。この戦士の中にまだ23歳のミゲール・セルバンテスがいた。後の「ラマンチャの男」ドン・キホーテの物語の作者。

アナの死と子供達


アナ・デ・アウストリアは5人の子供を産んでいる。待望の長男が生まれたのがレパントの海戦のすぐあと。この子はフェルナンドと名付けられフェリペはたいそう喜んだ。神のご加護、異教徒を倒し世継ぎを授かったと早速ティチアーノに描かせた作品がプラド美術館にある。

<勝利へ捧げるフェルナンド王子とフェリペ2世、プラド美術館>

勝利の神へフェルナンドを捧げるフェリペ2世
wikipeida public domain

アナは最後の女の子の出産の後の旅の途中に病気で31歳で亡くなる。誕生した5人の子供達で育ったのは1人だけだった。レパントの海戦後生まれた期待のフェルナンドは7歳で病気で死亡。次のカルロスは2歳、3男のディエゴは7歳でと次々と夭折し1578年に生まれたフェリペのみが生き残り後のフェリペ3世となる。妻と子供たちは今もエル・エスコリアル修道院に眠る。

ポルトガル王位


ポルトガル王ジョアン3世の唯一の皇太子セバスティアンが24歳で無謀な戦争に出かけ戦死。王はすでに亡くセバスティアンの母はフェリペ2世の妹ファナだった為フェリペ2世に王位継承権がやって来た。1580年フェリペはポルトガル王フェリペ1世として即位。トルデシージャス条約で世界を2分割していたポルトガル領土まで手に入れ申し分なく「日の沈む事無き大帝国」になった。

ジョアン3世妃ファナは夫亡き後マドリードに戻りデス・カルサス・レアレス修道院を創設。今もマドリードの中心部にこの修道院は現存する。息子の肖像画を見たいとファナがリスボンから取り寄せた物が今も残る。

<セバスティアン王11歳、デスカルサス修道院蔵>

セバスティアン王子
wikipedia public domain

 

この少し後に日本からの天正遣欧少年使節団がリスボンに上陸する。4人の少年達が九州からやって来た。長い旅の後マドリードのサン・ヘロニモス教会(プラド美術館横)でフェリペ皇太子の宣誓式に参列している

エリザベス女王とアルマダの海戦


イングランドでエリザベス1世が即位。母アン・ブリーンは処刑され庶子に落とされたが巡り巡って女王に即位。ネーデルランドのプロテスタントを後ろから援助をして北部8州はネーデルランド独立共和国を宣言。更に海賊フランシス・ドレイクを雇ってスペイン艦隊を度々襲わせている。

<エリザベス1世、ナショナル・ポートレート・ギャラリー>

エリザベス1世
wikipedia public domain

エリザベスが最も恐れていたのはスコットランドのメアリー・スティアートの人気だった。夫の死後スコットランドに戻って来ていたメアリーをエリザベスは陰謀の末斬首の刑にする。

<メアリースティアートの処刑>

メアリースティアートの処刑
wikipedia public domain

これでフェリペ2世は黙っているわけにいかなくなり戦争へ突入。1588年アルマダの海戦が始まる。結果は散々でスペインの大型ガレー船は英仏海峡での動きが悪く更に悪天候のなか小型帆船の英国に惨敗。

<英仏海峡アルマダの戦い、グリニッジ病院コレクション>

アルマダの戦い
wikipedia public domain

アルマダの海戦の勝利でエリザベス1世女王の英国での地位は揺らぎないものとなった。

フェリペ2世の晩年


アルマダの海戦の敗北、ネーデルランドの独立と続く戦争、ポルトガルの反乱などの困難な大帝国を息子に託す準備を始める。老いた国王は毎日山ようなの書類に自ら目を通したと言われる。

<フェリペ2世最晩年、パントハ、エル・エスコリアル修道院>

フェリペ2世1590-98頃
wikipedia dominio publico

1598年あまり健康状態がすぐれない中エル・エスコリアル修道院に移動。椅子ごと担がれ通常ならマドリードから50キロ1日の道のりを休みながら約1週間かけて移動した。その椅子は今もエル・エスコリアル修道院に展示されている。1598年9月13日、望んだ通りエル・エスコリアル修道院の自室でフェリペ2世崩御。71歳だった。晩年の肖像画は王というより修道僧のムード。

その前年1597年、長崎で26人のキリスト教徒たちが秀吉によって処刑され、1598年フェリペ2世没5日後に豊臣秀吉崩御。ひとつの時代が終わった。

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大航海時代の始まり、スペインとポルトガル。

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グラナダの陥落の後コロンブスがイサベル女王からの援助を手に入れスペインは大航海時代に入って行く。様々な技術の発達やイスラム教徒との交流で世界観が広がって新しい時代がやって来た。

スペインより一足早く大航海時代に入っていたのは隣のポルトガル。地中海は遠くそこではすでにイタリア諸都市やカタルーニャが活躍している。大西洋に面したポルトガルは早くからエンリケ航海王の登場で大西洋へ出ていた。

<大航海時代のリスボン>

リスボン
By Duarte Galvão (1435-1517) – Crónica de Dom Afonso Henriques de Duarte Galvão, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15332858

*エンリケ航海王子(1385年~1433年):ポルトガル王ジョアン1世の息子。自らは航海せず王位にもついていないが熱心にアフリカ西岸探検に取り組んだ。ザグレスの航海学校は有名だが本当にあったかは疑問視されている。最大の功績はボジャドール岬を超えたことで長い間これを超えると「急流がある」や「グツグツ煮えている」や「恐竜がいる」などと船乗りたちに恐れられていた。

<発見のモニュメント、右端がエンリケ航海王>

発見のモニュメント、リスボン

ペストの流行や十字軍遠征、航海術の発達や世界地図の作製と当時のヨーロッパの世界観が広がって行きスペインとポルトガルが競って大海原へ出ていきいずれは日本へ到着する。種子島に南蛮人がやって来る直前までの歴史のお話。

大航海時代の準備


十字軍遠征

キリスト教の聖地エルサレムはイスラム教徒の聖地でもある。セルジューク・トルコ朝が領土を拡大しアナトリア(現トルコ)に進出すると脅威を感じたビザンチン帝国(東ローマ帝国)のローマ皇帝はローマ法王ウルバヌス世に救援を求めた。

これを受けたローマ法王はクレルモン公会議を開いて十字軍遠征を呼びかけ、諸侯や騎士たちが立ち上がり第1回十字軍が1096年に出発。「神はそれを望んでおられる。あなたがもしも死んでしまっても、魂は救われるだろう!」

<第1回十字軍遠征>

十字軍遠征
wikipedia
public domain

十字軍遠征は約200年間合計8回にわたりキリスト教徒側の勝手な大義名分のもと蛮行と破壊行動が繰り広げられた。結局失敗に終わるが東方貿易が活性化しベネチアやジェノバなどのイタリアの都市国家が東方貿易で利益を得て発展していく。

最大の功績は、東方の進んだ文化がヨーロッパにもたらされたのだ。

プレスター・ジョン伝説

12世紀のヨーロッパ、十字軍遠征盛んな頃に「遠く離れた東方にキリスト教徒が住んでいる。その指導者プレスター・ジョンが十字軍を助けてくれエルサレムの奪回を助けてくれる」という伝説があった。

<東方見聞録にある挿絵、キリスト教国の君主オンカン>

東方見聞録に出てくるオンカン
wikipedia
public domain

15世紀になるとポルトガル人たちはプレスター・ジョンはアフリカにあり豊かな黄金の産地であると思い込む。イベリア半島に残るイスラム教徒を挟み撃ちにし豊かな黄金を手に入れたいを言う思い入れが大航海時代を推進させていく。

世界地図

現存する最も古い世界地図は紀元前600年のバビロニア、その後古代ギリシャの学者達によって既に地球を球体であることを前提として創られたものがあった。(いったん中世のヨーロッパではこれが否定される)この時代にほぼ正確に地球の大きさを測ったりしている事には驚く。

<プトレマイオスの世界地図の再現、150年頃>
プトレマイオスの世界地図
By Credited to Francesco di Antonio del Chierico – Ptolemy’s Geography (Harleian
public domain
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=193697

マルコポーロの東方見聞録や十字軍の遠征でそれまでの世界地図は大きく改良される。

*マルコポーロは1254年頃にベネチアの商人の家で生まれた。17歳頃に父と叔父と24年間15000㎞の貿易の旅をした。帰還した後ベネチアが敵対していたジェノバと戦争になり志願して従軍し捕虜になったときにこの旅の話をほかの捕虜に話した。それをまとめたのが東方見聞録。

<マルコポーロの旅のルート>
マルコポーロの旅
Author
Travels_of_Marco_Polo.svg: *Asie.svg: historicair 20:31, 20 November 2006 (UTC)
derivative work: Classical geographer (talk)
derivative work: Classical geographer (talk)

 

1375年に交易が盛んだったカタルーニャでかなり正確なカタロニア地図が作られていて地中海からアラビア半島や紅海、ペルシャ湾やインドが描かれた地図が作られている。

<カタロニア地図の再現 1375年>
カタラン地図
By Cresques Abraham – pubulic domain
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=670189

その後マルテル図が1490年にドイツの地理学者によってすでに喜望峰が描かれた地図が作られている。

<マルテル図 1490年>
public domain
Artist Heinrich Hammer the German (“Henricus Martellus Germanus”)
Author Ptolemy
<トスカネッリの地球球体説>

イタリア、フィレンツエの地理学者で天文学者で数学者のトスカネッリは当時のフィレンツェの知識人たちの中心にいた。友人にブルネレスキ(建築家)やアルベルティ(建築、芸術、多方面の天才)がいて様々な知識や学問が集積していた。ドイツを旅した折ギリシャ人哲学者に会い古代ギリシャ人「ストラボン」の事を知る。その後友人に書き送った手紙に西回りでモルッカ諸島へ行けるという夢のような計画が述べられていた。この手紙の筆写版をコロンブスが手に入れていたらしい。

<トスカネッリの世界地図>

トスカネッリの世界地図
wikipedia public domain
Source Narrative and critical history of America, Volume 2
Author Justin Winsor

*ストラボン:紀元前63年頃~23年頃。古代ローマ帝国ギリシャ系の地理学者、歴史家、哲学者。彼の旅はイタリアから地中海沿岸都市、エジプトやエチオピアにいたりその見聞を17巻にいたる「地理書」に残した。

航海術の発達

今でも技術の発達は世界を変える。航海術が飛躍的に発展しそれまでのヨーロッパ人の世界が地中海から大西洋へ広がって行った。

様々な発見は偶然から始まる。大航海時代がやって来るにあたり何世紀もかけて準備がなされた。

船の形の変換

{ガレー船}

もともと古代からヨーロッパで使われいた船はガレー船と言ってたくさんの漕ぎ手を必要とする大型船だった。多くの漕ぎ手の食糧や飲料水を必要とし風に弱く遠洋航海には向いていなかった。風向きの良く変わる地中海では大きなマストよりこの方が都合が良かった

ガレー船
wikipedia CC
Source my own photograph, digitally worked by me
Author Myriam Thyes

{ジャンク船}

中国では古くから三本マストの木造船大型ジャンク船を使っており羅針盤を使い商人たちがインド洋まで出ていた。乗組員500人という大型の船や、もう少し小ぶりの船で乗組員200人くらいの中型船があった。明時代にはアラビア半島やアフリカの東海岸に到着している。

鉄砲を日本に伝えたポルトガル人が乗って来た中国のジャンク船はこのタイプ。

中国のジャンク船
wikipedia public domain
Source http://collections.rmg.co.uk/collections/objects/102565.html
Author Rock Bros & Payne

{ダウ船}

アラビア人たちは紅海やペルシャ湾を拠点に中国や東南アジア、アフリカ東海岸で交易をやっており優れた航海技術を持っていた。彼らが使ったのはダウ船という今のヨットのような一本マストと三角帆で季節風を利用して巧みな航海技術で海のシルクロードで交易をやっていた。

ダウ船
wikipedia
public domain

ヨーロッパ人達よりも早くに中国人やアラビア人達はアジアで進んだ技術で航海をやっていてバスコ・ダ・ガマのインド航路発見に水先案内人として活躍したのはアラビア人だった。インド航路はヨーロッパにとっては「発見」でもアラビア人にはすでに知られた航路でしかなかった。

中国やアラビアの進んだ帆船が次第にヨーロッパに伝わって行き船の形が進化していく。

{キャラック船}

15世紀に地中海で開発された形の船。スペインではこの型の船をナオと呼ぶ。遠洋航海を前提に作られた大型船で乗組員と物資貨物を大量に搭載できる。欠点は巨大すぎて小回りが利かず強風に弱い。

<日本に来たポルトガルのキャラック船>

wikipedia public domain
Source Kobe City Museum
Author Kano Naizen

{キャラベル船}

少し小型のキャラベル船は座礁の危険が少なく沿岸地帯や河川には入れたので未知の世界での探検に向いていた。

<ポルトガルのキャラベル船>

ポルトガルのカラヴェル船
By Unknown – Livro das Armadas, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=28565761
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 羅針盤

磁石が南北を示すことを発見したのは中国人が最初。陸の見えるところを航海していた時代なら方向は目視できるが目印の無い海の中、方角と位置を確認する作業は生死にかかわる。11世紀には既に中国で航海に使われそれをアラビア商人がヨーロッパに伝えた。海の上で正確に方向を知るための羅針盤が発展し実用化し使われた。

ペストの流行と胡椒

黒死病と言って恐れられたペストはヨーロッパの人口を一気に減少させたが当時の食糧難を救った側面があった。

病原体が発見されるまで伝染病がうつるのは臭いによると信じられていたため臭いを消す香辛料が高額で取引されていた。また多少臭いの強い肉を食べる場合もあり香辛料は貴重品で胡椒と銀が同じ値段だったと言われている。シルクロードを渡ってベネチアの商人の手を通ると高額になる胡椒を直接西回りで手に入れようと思った男が登場する。

コロンブスの登場


コロンブスには今だ謎の部分が多い。出生地もいまだに正確にはわかっていないがポルトガルのジョアン2世国王に仕えて船に乗っていた事は間違いない。

<コロンブス>

コロンブス
wikipedia public domain

マルコポーロの東方見聞録に興味を持ちトスカネッリの地球球体説を知り西回り航海を考えた。ポルトガルはすでにアフリカ西海岸セネガルの奴隷貿易をやっていて暴利をむさぼり、1488年喜望峰に到着。バルトロメオ・ディアスの喜望峰発見でインド洋が近い事を手に入れたポルトガルにとってコロンブスの提唱する西回りに意味が無くなってしまった。

<喜望峰発見のバルトロメオ・ディアス>

バーソロミューディアス
wikipedia CC
Source
Bartolomeu_Dias,_South_Africa_House.JPG
Author
Bartolomeu_Dias,_South_Africa_House.JPG: RedCoat (en:User:RedCoat10)
derivative work: Biser Todorov (talk)

 

ポルトガル王の援助をあきらめスペインへやって来たコロンブスはウエルバにあるラ・ラビダ修道院で滞在した。修道院長のフワン・ぺレス神父はコロンブスの話に感銘を受け様々な援助を惜しまなかった。その縁で知り合ったメディナ・セリ公から紹介されカトリック両王に謁見が許された。

当時グラナダへの戦争(最後のイスラム王朝陥落戦)をやっていたスペインに費用は無く一旦断られコロンブスはあきらめてフランス王に援助を求めて旅立つところだった。

<グラナダの陥落>

グラナダの陥落
De Francisco Pradilla – See below., Dominio público, Enlace

1492年グラナダの陥落の直後イサベル女王の伝令がコロンブスを追いかけピノス・プエンテの村の橋の上でコロンブスに追いついた。もしも、この時追いつかなければコロンブスはフランス王の援助で出港していたかも、中南米がフランス語圏になっていたかもしれないという歴史のひとこまです。

<イサベル女王とフェルナンド王>

カトリック両王の結婚

陥落したアルハンブラ宮殿でイサベル女王から宝石箱を譲り受けそれを売って船の準備の一部にした。

ピンソン兄弟

実はイサベル女王からの援助だけでは航海の準備には不十分だった。特に船員の数は足りなく「よそ者と未知の航海へ乗り出そう」という船員などいなかった。この国では今でもコネが力を発揮する、当然当時もそうだったに違いない。よそ者など誰も信じていないのだ。

前述のラ・ラビダ修道院フワン・ぺレス神父がマルティン・アロンソ・ピンソンを紹介してくれて状況が一変する。パロス港で海運業をやっていたピンソン家は優秀な船乗りで船員や航海に必要な様々なものを提供してくれた。特に航海技術や操舵技術においてピンソン兄弟の経験と知識はコロンブスの航海に大きく貢献している。

<パロス・デラ・フランテーラのピンソン兄弟>

ピンソン兄弟
Source Own work
Author Miguel Ángel “fotógrafo” 2007

パロス・デラ・フランテーラに行くとコロンブスの銅像も通りの名前も見当たらない。街の英雄はピンソン兄弟なのです。

アレキサンドル6世の即位


1492年は世界史的な事件が続いた不思議な年でグラナダの陥落、コロンブスの出港、フィレンツェではメディチ家のロレンツォの暗殺と続いた。そしてスペインのボルジア家ローマ法王の登場。カトリックの頂点にあたるローマ法王という地位は最も人間のどろどろした部分が渦巻いていた世界だった。そこに好色で強欲な好人物が登場する。

<ローマ法王アレキサンドル6世>

アレキサンダー6世

金と権力と女を手に入れたアレッサンドロ6世は愛人との間に子供までいた。法王選挙で払える限りの袖の下をばら撒いて自分に投票させた超やり手スペイン人ローマ法王の登場となる。

アルカソバス条約とトルデシージャス条約

発見の時代にスペインとポルトガルの海での領有権をはっきりさせる為1479年ポルトガルはアゾレス諸島、マデイラ諸島、ヴェルデ沖岬を領有しスペインはカナリアス諸島を領有すると取り決めたのがアルカソバス条約。地図に左右に線を引き地球を横割りにした条約だった。

コロンブスが1493年に戻って来るとアルカソバス条約では到着した土地の領有はポルトガルの物になる。スペイン側は時のローマ法王アレキサンドル6世に自分たちの領有についての訴えを起こした。スペイン人ローマ法王があまりにもスペイン有利な回勅を発行したのでポルトガルがスペインに乗り込んできてトルデシージャスで会議が行われた。

<トルデシージャスの街>

トルデシージャスの街
wikipedia CC
Source http://www.flickr.com/photos/jlcernadas/6348008109/in/set-72157629525535730
Author Jose Luis Cernadas Iglesias

1494年に地球に新しい境界線を引いたのがトルデシージャス条約。今度は地図に南北に線を引いて地球を縦に割った。

下の地図の点線の方がアレキサンドル6世の引いた線だったが会議で少し西へ引き直したのがトルデシージャス条約の線。この後ポルトガルはブラジルへ到着する。今も南米でブラジルのみはポルトガル語圏なのはこの線より内側にポルトガルはブラジルを発見したから。

change from wikipedia cc
Source Own work
Author JjoMartin

ポルトガルはこの線より東へ、スペインは西へ行くことが決まる。ポルトガルは東へ向かい喜望峰を通過してバスコダガマのインド航路発見に繋がる。

バスコ・ダ・ガマ

トルデシージャス条約でポルトガルは東回りでアジアに向かうことが決まり、すでに喜望峰が発見されているので東回りでインドに派遣されたのがバスコダガマ。1497年にリスボンを出発。

<バスコダガマのリスボン出港>

バスコダガマのリスボン出港
wikipedia public domain
Author John Henry Amshewitz

途中モザンビークではイスラム教徒から砲撃を受けるがマリンディでは歓迎されアラビア人の水先案内人を雇って1498年にムガール帝国のインド、カリカットに到着。

<喜望峰からインドのバスコ・ダ・ガマのルート>

バスコダガマのルート
By User:PhiLiP – self-made, base on Image:Gama_route_1.png, Image:BlankMap-World6.svg, GFDL, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4805180

 

バスコダガマの持って行ったポルトガル交易品はカリカットで取引されている品物に比べるとみすぼらしく馬鹿にされたと記録に残る。

カリカットの王との間に揉め事や監禁事件が起こり胡椒を積み人質を取って逃げるように退散してリスボンに戻って行く。

その後ポルトガル商人はインドから更に中国へ渡って行き活躍し、中国人には南蛮人と呼ばれる。

<中国の南蛮人>

中国の何番人
By Français : Kano Naizen, 1570-1616 – リスボン国立古美術館, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=353039

そしてポルトガル商人が乗った中国のジャンク船が台風の風に流されて種子島に到着するのはあともう少しだ。

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カルロス5世(スペイン史カルロス1世)神聖ローマ帝国皇帝。スペインの黄金時代

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15世紀が終わり新しい時代がやって来た。ここに一人の王子が誕生する。1500年今のベルギーのゲント(ガン)で生まれたのが後のカルロス5世。父親はブルゴーニュ公国のフィリップ美公。フィリップはハプスブルグ家の世継ぎで神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の息子。母親ファナはスペインのフェルナンド王とイサベル女王の次女。レコンキスタが完成しアメリカ大陸発見の頃のスペイン王国。という絵空事の様なものすごい血筋の王子が誕生した。

<中央がカルロス、左端が祖父のマクシミリアン1世>

カルロス五世と父方の家族
Bernhard Strigel – Kunsthistorisches Museum Bilddatenbank

ブルゴーニュでの幸福な幼少時代

ブルゴーニュ公国というのは現在のフランス東部とドイツ西部、ネーデルランドを含む地域。羊毛産業で経済的に大変栄えたヨーロッパ随一の先進地域だった。

<15世紀のブルゴーニュ公国>

ブルゴーニュ公国
Marco Zanoli (sidonius 12:09, 2 May 2008 (UTC))

<父フィリップ美公>

フィリップ美公

<母ファナ>

ファナ王女
Johanna I van Castilië
ca. 1500; 34,7 x22,4 cm
Spaans Nationaal Beeldenmuseum, Valladolid

 

舞台としては申し分ない時代と登場人物が用意された。ローマ法王レオ10世、フランスのフランソワ1世、ドイツのマルチンルター、イギリスのヘンリー8世、オスマントルコのシュレイマン大帝・・・・

<毛織物産業で繁栄するフランドルのゲントの街>

ゲントの街

 

スペインの王位継承者に不幸が続きカルロスの母ファナの所に次期王位継承権がやって来た。両親はそろってカトリック両王(イサベル女王とフェルナンド王)に会いにスペインへ。そこでまさかの父親フィリップの突然死(フェルナンド王による毒殺もささやかれる)。母親ファナの発狂(これについては諸説)。カルロス6歳の頃の事。それでも両親不在のベルギーのメッヘルンで幸せな子供時代を送る。叔母のマルガレーテ大公妃は教養のあるルネサンスの才媛で、その周りに集まる教養人と共に豊かな教育を受けられたのは幸運だった。

<ベルギーメッヘルン>

ベルギーメッヘルン
Ad Meskens – Trabajo propio

*叔母マルガレーテはスペインのイサベル女王の1人息子ファンと結婚するが結婚式の最中ファンが突然死。懐妊していたがその子も生まれて間もなく死亡。イサベル女王とは仲良く信頼関係がありその後故郷に戻った後誠実な政策を取り国民にも生涯愛された。

<カルロスの叔母、マルガレーテ大公妃>

マルガリータ大公妃
ce Musée municipal de Bourg-en-Bresse
Author Hugo Maertens

カルロス・ブルゴーニュ公に

<カルロス5世15歳頃>

カルロス5世

 

1515年1月。15歳のカルロスは既に充分な威厳を持ち備えており歴史の表舞台に登場。ブルッセルで儀式が行われブルゴーニュ公国の君主となる。同じ年フランスでルイ12世が死亡しフランソワ1世が即位。フランソワ1世は生涯にわたってのカルロスのライバルである。そしてハプスブルグ対ブルボンの因縁の対決の始まりのゴングが鳴った。

<フランソワ1世 1515年頃>

フランソワ1世1515年

フランソワ1世はこの少しあとにレオナルド・ダビンチをフランスに呼び寄せた。この時レオナルドが持参した数少ない物の中に「ジョコンダ」があった。現在ルーブル美術館にある「モナリザ」である。

母方祖父であるスペイン王フェルナンドの崩御

<スペイン王フェルナンド>

フェルナンド王

母ファナ、カスティージャ女王は精神に異常をきたしたという理由で城に幽閉されその父親であるフェルナンド王が摂生としてカスティージャの政治をしていた。フェルナンドはアラゴン・カタルーニャの王でスペイン東部と南イタリアと地中海の島々を持っていた。そのフェルナンド王が1516年に亡くなった。フェルナンドはスペインの王冠がハプスブルグに継承されない為晩年フランスの貴族の娘と再婚し男子をもうけるがその子は夭折。世継ぎを残すため怪しい媚薬にも手を出していた。せめてカルロスの弟、スペイ育ちのフェルナンドにスペイン王位を継承させたいと努力するがそれも適わず。病床に付いたフェルナンドはどれ程悔しい思いをしたことか。執念深く阻止しようとした悪夢は現実になった。

カルロス・スペイン王になる

17歳のカルロスが40隻の船でスペインへ向かい予定のサンタンデール港から少し外れたアストゥリアスのタソネスの漁港に到着、というより漂着。住民たちは見たこともない数十隻の船団に驚き手に手に棍棒を持ち戦いの準備をしたそうだ。髭をそり香水をつけて降りたカルロスはあまりの田舎にがっかりしここでは滞在せずに直ぐに移動した。

<タソネスの漁港>

タソネスの漁港

カルロスがスペインへ着いてまず最初に逢いに行ったのは物心つかない頃分かれた母。カルロスはこの後幾度となく城に幽閉された母に逢いに行く。その後バジャドリードにいた弟フェルナンドとも再会する。弟のフェルナンドはスペイン育ち。スペイン国内では彼ににスペイン王冠をという動きがあった。マクシミリアン皇帝はこれらの事情をすべて理解しこれ以上フェルナンド派が行動を起こす前に彼を叔母マルガレーテ大公妃の待つネーデルランドへ送る。2人の兄弟と4人の姉妹は生涯にわたり力を合わせてハプスブルグの為に協力し合った。フェルナンドは後フェルディナンド1世としてドイツ皇帝、オーストリア大公、ボヘミア王、ハンガリー王となり幸せな結婚をし生涯スペインには帰らなかった。

<カルロスの弟フェルディナンド1世1521年>

フェルナンド1世
Hans Maler zu Schwaz – Kunsthistorisches Museum: Bilddatenbank
Abgebildete Person:Kaiser Ferdinand I. Sohn des Philipp von Habsburg Österreich

父方祖父神聖ローマ皇帝マクシミリアンの逝去

1519年マクシミリアン1世が亡くなる。神聖ローマ帝国の皇帝は7人の選帝侯によって選ばれる選挙制。7人の票のうちの4票をどれだけの資金で手に入れるかという選挙。最大のライバルはフランソワ1世。既に買収は始まっていた。

当時のローマ法王はフランスびいきのメディチ家出身レオ10世。カルロスが皇帝になるのを阻むためフランソワ1世を支援する。派手好きイベント好きのルネッサンスローマ法王はロレンツォ・ディ・メディチの息子。浪費好きでローマの街に当時の最高の芸術家を集め飾り立てた。前ローマ法王が着手していたサンピエトロ寺院の建設を引き継ぎミケランジェロやラファエルを起用した。

<ラファエルによるレオ10世>

ローマ法王レオ10世

1519年19歳でカルロス5世神聖ローマ皇帝

選挙の資金は叔母のマルガレーテが大富豪フッガー家から援助を受ける。またドイツの諸侯たちがメディチ家のローマ法王の後ろ盾を嫌ったこともあり選挙は満票でカルロスが勝利。フランスはハプスブルグ家に囲まれた形になりこの後戦争が続く。

<カルロス5世時代のハプスブルグの領土>

紫―カスティージャ 赤―アラゴン 黄-オーストリア 黄土―ブルゴーニュ

カルロス5世支配地域
Original by Lucio silla, modification by Paul2 – Modification of Europa02.jpg

スペインでは王が外国の為にお金を使いブルゴーニュから沢山の人がやって来て要職をほしいままに。人々の反感が高まりコムネロスの乱がおこり国内は混乱。腕利きの総裁に後は任せ王は「3年で戻る」と約束しスペインを後にする。この反乱は自然崩壊となりカルロス5世が3年後に戻るころには国内はほぼ平和が回復されていた。

1520年カール大帝ゆかり地アーヘンで戴冠式が行われた。

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<ドイツ西部アーヘンの大聖堂>

アーヘン大聖堂

同じ年マゼランが5隻の船を率いてセヴィージャの港を出港している。この時代に多くのコンキスタドーレス達がアメリカへ渡り欲望のままマヤ、アステカを破壊し財宝を吸い尽くす。

マルティン・ルターの登場

宗教改革である。カルロス五世を生涯苦しめるひとつの難題の登場。ルター本人はそんな大それた事をするつもりは無かったと、思う。たまたま投じた一石の波紋が広がった。ルターはドイツの修道士であり神学教授だった。前述のローマ法王レオ10世の時代「ローマのサンピエトロ寺院」の建設費を集めるためにドイツで免罪符が販売される。「これを買ったら天国へ行ける!」というのが免罪符。そのお金はローマへ集まり豪華絢爛のサンピエトロ寺院の建設に使われた。これに異を唱えたのが始まり。

<1517年ヴィッテンベルグ城に95か条の論題を張り出すルター>

マルティンルター95か条
Ferdinand Pauwels

ヴォルムスの帝国議会

1521年1月21日に開かれた国会が歴史に名を残したのはルター問題。免罪符の販売で一番搾取の大きかったドイツではローマに対する恨みが募っていた。ルターはローマ法王レオ10世に破門される。ひとりの修道士の小さな反抗が波紋を広げた、そんな頃に開かれた国会。ルターは自説を曲げず堕落したカトリックに対抗。いかなる権威も認めずひたすら聖書と自分の関係に信仰を求めるルターの態度は変わらず。カルロスは帝国とカトリックの崩壊を恐れ、しかしルターを禁固するでもなく処刑するわけでもなくルターに自由通行証を与えた。これはひとえにもカルロス5世とハプスブルグ家の正義感や騎士道精神による。この誠実な態度はハプスブルグの代々の王達に継承されていく。

<ヴォルムス会議で弁明するルター>

ヴォルムス会議
1556
Source Unknown
Author Unknownwikidata:Q4233718

カルロス皇帝スペインへ

約束通り3年ぶりにスペインへ戻ったカルロスはこの後7年間スペインに滞在しスペイン語を話しスペインを愛するスペイン人になる。そしてスペイン人たちにも愛される国王になる。臣下の者達の間でも結婚などで融合が行われていく。ローマ法王レオ10世の死去によりハドリアヌス6世即位。ハドリアヌスはカルロス5世の家庭教師だったオランダ人。学者肌でローマ法王より修道僧が向いているタイプの人。教会改革を進めるが残念ながら在位期間が短かすぎ。約一年半で疲労がたまり死去。学僧として本に囲まれて暮らしていればもっと別の人生があった惜しい人物が、この世で最も生臭い地位「ローマ法王」に選ばれたのは不幸としか言えない。その次はレオ10世のいとこ又してもメディチ家のクレメンス7世。

<ローマ法王ハドリアヌス6世>

ハドリアヌス6世
Jan van Scorel – Unknown for original uploader, but it can be found at the Centraal Museum of Utrecht.

パビアの戦い

事あるごとに関わってくるのがフランスである。ギリシャ沖のロドス島にオスマントルコの手が伸び聖ヨハネ騎士団が死守しようとしている東地中海の島が陥落しようとしていた。後ろから手を貸しているがフランスのフランソワ1世。さらにイタリアのミラノとナポリの継承戦争で再びフランスが手を出してきた。ヨーロッパ諸国の利害関係が絡みイタリア戦争が再び始まる。その後イタリアの北部パビアで皇帝軍とフランス軍の戦い。ミラノを攻撃して来たフランス軍を4時間半でカルロス5世軍が破りフランソワ1世が捕まる。

<パヴィアの戦い>

パヴィアの戦い
Bernard Van Orley, The Battle of Pavia, RIHA Journal.

あっけなく捕虜になったフランソワ1世。戦争終了後「マドリード条約」が結ばれる(1526年)。イタリアとブルゴーニュのスペイン領有。フランソワ1世の母はオスマントルコと密約を交わし、さらにイギリスヘンリー8世に袖の下をたんまり与えその後の準備に余念がない。実際このパヴィアの戦いでヨーロッパの勢力図は一気にスペイン・ハプスブルグの拡大になる。パワーバランスが崩れるとこっそり寝返り後ろから手をまわすのがヨローッパの外交政策。今もそうは変わっていない。フランソワ1世は聖書に手を置いて誓約をかわし国境エンダーヤで2人の息子に変わって釈放された。この後フランソワ1世は幾度となくカルロス5世を裏切る。

カルロス5世の結婚

フランス王を釈放した後カルロスはセビージャへ向かう。大航海時代のセビージャは大型船が出入りし華やかな時代。巨大な大聖堂は完成間近。1526年セビージャのアルカサール(王宮)で祝宴が行われた。ポルトガル王女イサベルとカルロスは母親同士が姉妹。スペイン建国の母イサベル女王の娘達の中で唯一幸福な結婚をした三女マリアの娘。

<イサベル・デ・ポルトガル、カルロス5世妃>この絵はイサベル妃が亡くなった後にカルロス5世がティチアーノに若き日の王妃を描いてもらったものでカルロス5世が生涯近くに置いていた。現在プラド美術館所蔵。

イサベル皇后

 

新婚旅行に出かけたアルハンブラ宮殿で暫くの蜜月を過ごした。この結婚は仲睦まじく幸せな結婚だった。王族同士の政略結婚で幸福だったケースはそうは多くない。2人の間に5人の子供が生まれ長男が後のフェリペ2世。

サッコ・ディ・ローマ(ローマ劫掠)

カルロス5世の知らないうちにフランソワ1世はイギリスやローマ法王クレメンス7世と手を組み反ハプスブルグ同盟を結んでいた(コニャック同盟)。そして対抗するカルロス5世軍はドイツからの傭兵を中心とした部隊でイタリアに集結。このドイツの傭兵達のローマに対する恨みは積もり積もっており憤懣やるかたない中、カルロス5世の資金も底をつき支払いが滞っていた。怒り狂った群衆が飾り立てたローマの街へなだれ込み略奪・強盗・放火・強姦のしたい放題でローマの街を9か月間にわたって破壊した。これが有名なサッコ・ディ・ローマそしてこれが盛期ルネッサンスの終焉になる。

サッコディローマ
Johannes Lingelbach – L’Histoire April-June 2009, p.74
『Sack of Rome of 1527』

カルロス5世はこれほどまでの略奪を黙認したのか手が付けられなかったのか謎のままだが事態は有利に終わる。1529年ローマ法王クレメンス7世と条約を結びイタリアはカルロス5世の支配下にはいる。ボローニャでローマ法王によって神聖ローマ皇帝の戴冠式が行われた。

<カルロス5世ローマ法王により戴冠>

カルロス世ボローニャで戴冠

この間にスペインではカルロス5世の長男フェリペが誕生。後のフェリペ2世。イギリスではヘンリー8世がカタリーナ・デ・アラゴン(カルロス5世の叔母・カトリック女王イサベルの娘)との離婚を希望するがカトリックでは離婚が認められない為イギリス国教会を作る。カタリーナ(キャサリン)は監禁生活を強いられる。修道士の衣服を着て暮らし苦境の中も精神は高潔であった。ヘンリー8世とカタリーナ(キャサリン)の間の娘がイングランド女王メアリー1世、通称「ブラッディ―マリー」。メアリー1世は後にカルロス5世の世継ぎフェリペ2世と結婚する。

<イギリス王ヘンリー8世とアラゴンのカタリーナ>

ヘンリー8世カタリーナ

<メアリー1世、新教徒を激しく迫害したため血のメアリーと呼ばれた>

メアリー1世

チュニス遠征

1492年のグラナダの陥落によってイベリア半島を追われたイスラム教徒たちが北アフリカで海賊になり報復をしていた。地上ではオスマントルコのシュレイマン大帝がウィーンまで迫ってヨーロッパの脅威になっていた。その後ろにはやはりフランソワ1世が反ハプスブルグで見え隠れする。カルロス5世はチュニジアまで遠征し軍はチュニジアの街を3日間略奪しつくす。

<オスマントルコの勢力図>

オスマントルコ勢力図
OttomanEmpireIn1683.png から日本語化。(The Japanese meaning from OttomanEmpireIn1683.png .)
投稿者:斎東小世(Saito chise)

大体オスマントルコがこんなに勢力を拡大できたのはフランスが後ろから援助をしていたからに他ならない。もちろんフランスはカトリックの国である。

 アウグスブルグの会議

1530年に開かれた帝国会議は宗教問題。10年前のヴォルムスと同じテーマ「マルティンルター」だ。しかし状況はすっかり変わっており多くの都市が新教側を支持していた。カルロス5世は何とか状況の打開と両派の和解を図ろうとするがカトリック側の既得権を得た枢機卿達の反対もあり平行線。ドイツ人の人文主義者のメランヒトンによる「アウグスブルグの信仰告白」提出されるが調停に失敗。

<1530年アウグスブルグの会議>

アウグスブルグ1530年

<カルロス5世1530年ティチアーノ作>

カルロス5世1530年
museo de Prado

その後もイタリア戦争

第三次イタリア戦争でフランソワ1世はミラノの侵攻に失敗し、オスマン帝国のシュレイマン大帝と政治同盟を結ぶ。1542年オスマントルコと連合したフランス軍は再び大敗。これでやっとフランスはイタリアをあきらめた。その後フランスはルター派を支持しシュマルカンデン同盟でカルロスと対戦。そう、繰り返すがフランスは今もカトリックの国。宗教なんて関係なしだ。

第四次イタリア戦争でローマ法王の取り持ちでなんとかカルロス5世とフランソワ1世は和約にいたる。(1538年)

<フランソワ1世とカルロス5世の和約>

ニースの和約

この後しばらくはカルロス5世とフランソワ1世は蜜月を過ごすが再び第5次イタリア戦争勃発。フランスは懲りずもまたイタリアに侵攻してくる。

さらに新教徒連合軍との戦争「シュマルカンデン戦争」が始まり1547年カルロス5世はシュマルカンデン同盟を破りこの戦争にひとつの終止符を打つ。この最後の戦いの勝利がミュールベルグの戦い。勝利の後の「カルロス5世騎馬像」というティチアーノの作品がプラド美術館に展示されている。

<ミュールベルグの戦いの後のカルロス5世、ティチアーノ>

カルロス5世ミュールベルグの戦い

 

<勝利者カルロス5世と負けた人々>中央がカルロス5世 左からシュレイマン大帝、ローマ法王クレメンス7世、フランソワ1世

カルロス5世と負けた人達
ジュリオ・クロヴィオ – Panorama de la Renaissance, by Margaret Aston |Dat

この後病気で体調を崩したフランソワ1世死去。しかし戦争はその息子アンリ2世に引き継がれる。フランスはスペインに対抗して大陸航海も始めカナダのケベックに到着。今もカナダのこの地域はフランス語圏。スペイン人にとっては災難でしかないフランソワ1世はフランスではフランス国土を広げイタリアから芸術家を集めフランスの文芸を高めた王として人気がある。

カルロス5世息子に遺書

持病の通風で足が痛く気も弱くなっていたカルロス5世。息子フェリペに「ハプスブルグ家をカトリックを擁護する立派な家とし結婚政策で大きくするよう」に遺言をしたためている。波乱多く人生疲れ切った様子のカルロス5世の内面が書き出されているティチアーノの一作。48歳は今なら未だ精悍な年齢だがこの絵のカルロスは万感尽きた老人のよう。

<カルロス5世1548年>

カルロス5世1548年

 

その後片腕の公爵に裏切られプロテスタントの勢力は無視できない状態になりオスマントルコの侵攻も激しく、フランスは次のアンリ2世は今だ後ろから手をまわしてくる。

アウグスブルグの和議(1555)

「ルターを暗殺しておけばと良かった」と思ったかもしれない。もう手が付けられない程にプロテスタントの力は大きくなっていた。ローマの横暴や拝金主義等どう見ても言っていることはプロテスタントの方がまともだった。カルロス5世の弟フェルディナンド1世の主催で南ドイツのアウグスブルグで会議が行われ宗教対立の収束を図った。

<アウグスブルグの和議・左端がカルロス5世>

アウグスブルグの和議

ユステの修道院へ

1555年、旅と戦争と裏切りと痛風に苦しみ退位を決意。ブルッセルでの退位式の言葉は「私は多くの過ちを犯してきた。しかし誰かを傷つけようという意図は持っていなかった。もし万一そんな事があればここに許しを請いたい」と涙で演説が途切れたという。

<カルロス5世退位式、ブルッセル>

カルロス5世ブルッセルでの退位
atelier Leyniers et Reydams – http://bruxellesanecdotique.skynetblogs.be/post/7116434/palais-du-coudenberg
Tápiz del siglo XVIII, de Leyniers y Reydams , representa la abdicacion de Carlos I de España en el Palacio de Coudenberg

両親から受け継いだスペインとネーデルランド、新大陸は息子のフェリペ2世に譲り、父方の祖父からのオーストリア、神聖ローマ帝国の地位と領土は弟のフェルディナンド1世に継承させた。ここにスペインハプスブルグとオーストリアハプスブルグに分かれることになる。

<弟フェルディナンド1世>

フェルナンド1世

同じ年1555年4月12日母親ファナ女王がトルデシージャスの城で亡くなっている。事実上はファナがスペイン女王。最後まで「Yo Reyna 」「我女王」のサインをしたと言われている。

<ユステのカルロス5世、亡き妻の絵が壁にかかっている>

カルロス5世ユステ

スペインの西の僻地にあるユステ。エストレマドゥーラ地方は今もそういう位置づけ。北部は意外と降雨量があり樫林や果樹園が多い。そこの樫林の中の静かな修道院で隠居生活に入り、1558年58歳で亡くなった。

<カルロス5世ユステの修道院>

カルロス5世の最後

広大な帝国と地位を手にした皇帝の最後の場所には地味すぎる所。ひとつの時代が終わった。

 

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イサベル女王<スペイン建国の母>とその時代

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イサベル女王の時代、まだスペインという国はなくイベリア半島の中央にカスティーリア王国という国があった。騎士たちがイスラム教徒と戦いながら城郭を作り、そこを基礎に又戦って城を築き国を強くしていった。スペイン語で城の事をカスティージョと呼ぶ。カスティージョが沢山あるカスティーリア王国に一人の王女が生まれた。

カスティーリアの田舎の村で誕生

後のイサベル女王の生まれはマドリガル・デ・ラス・アルタ・ストレスというカスティーリアの小さな村。マドリガルは恋歌とか牧歌という意味でラス・アルタス・トレスは高い塔の複数形。「高い塔の恋歌」というロマンチックな名前の田舎の村でカスティーリア国王フアン2世の2番目の妃の長女として誕生。宮殿というのもはばかれる質素なお城で1451年4月22日に誕生。奇しくも同じ年にコロンブスが生まれている。日本は室町時代足利義政将軍の時代。

<イサベル女王生誕の城は現在は修道院になっている>

マドリガル修道院
マドリガル・デ・ラス・アルタス・トレスの修道院

父王ファン2世

父王フアン2世は49年の長い治世を行うが「カスティーリアの不運」と言われるほどの王で芸術を好む温和な人物だが政治は無能。(母親がイギリスのランカスター家から嫁いできたキャサリン、スペイン語だとカタリーナ。カタリーナはペドロ残酷王の孫にあたる人物。)この父王ファン2世の最初の結婚はアラゴン王家の王女マリア・デ・アラゴン。2人の間に娘3人息子1人に恵まれこの息子がエンリケ、後のカスティーリア王エンリケ4世不能王。

<イサベル女王の父、ファン2世>

ファン2世

 

ファン2世の2度目の結婚

<イサベル・デ・ポルトガル>

ポルトガルのイサベル

ファン2世の2度目の結婚がポルトガル王女イサベル。この2人の間に生まれたのが後のイサベル女王。母イサベルは若く奔放で美しく、気弱なファン2世は次第に翻弄されるようになる。奔放なだけではなく常識を逸した行動が度々目立ち始める。そして夫である国王フアン2世をそそのかし言いなりに動かし長年の宰相をバジャドリードの広場で公開処刑する。気弱な国王ファン2世は後悔と自責の念で弱りきり人々の同情と軽侮の中亡くなる。イサベル王女3歳、弟のアルフォンソ王子8か月。

義理兄エンリケ4世の即位

父王の突然の死去で兄のエンリケ4世即位。ここから王女イサベルの悲運な日々が始まる。時々狂気の行動をする母イサベルと王女イサベル、弟のアルフォンソは近くの荒野のアレバロの城に追放され、少ない共の者達と身を寄せ合うように貧しく暮らすことになる。

<エンリケ4世>

エンリケ4世
De Desconocido – web, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2261931

 

兄王エンリケ4世は父王にも負けず劣らずのグウタラ王で無能で女たらし。父王フアン2世が亡くなる少し前に妻であった王妃と離婚した。カトリックでは離婚は認められていないが[その結婚に問題があることを証明]できればローマ法王の許可のもと[結婚の解消]が出来る。その理由がなんと「不能」。”何か不吉な力”によってこの王妃と関係が持てない。この王様それ以来「エンリケ不能王」と不名誉な名前で呼ばれる。

そして再婚、王の仕事の大切なひとつは世継ぎを残す事ならば、では「次」となる。

 

エンリケ不能王が2度目の妻に迎えるのがポルトガル王の妹ファーナ王女。若く美しく陽気な新しい王妃との盛大な婚礼が執り行われ側近たちは今度こそはと期待するが「その夜には何も起こらなかった・・・・」と王室記録官。

<ファーナ王妃>

ホアナ、エンリケ4世妃

{高貴な女性とは特に無理}な「国王エンリケ不能王」は妻の女官のもとに通い始め王妃のもとには若くハンサムで野心家の「ベルトラン卿」が通い始める。もちろん王と王妃の間には冷たい風が吹き始める。

王妃のご懐妊

突然のニュースは結婚6年目。エンリケ不能王の妃が懐妊したという。噂好きのスペイン人たちは昔もそうは違わなかったはず。国中でみんなの話題になった事だと想像できる。「王妃のお腹の子はベルトランの子供じゃないの?」

1462年に生まれた女の子は母と同じ名前ファーナと名付けられ生まれた時から人々の好奇の目にさらされる。そしてついたニックネームは「ファーナ・ラ・ベルトラネーハ=ベルトランの娘ファーナ」

<フォーナ・ラ・ベルトラネーハ>

ベルトラネーハ

不思議なのは国王エンリケ4世はベルトラン卿を随分厚遇し出世させていること。公爵の娘と結婚させ出世街道まっしぐら。これには嫉妬深い周りの貴族たちも面白くない。ついにイサベルの弟アルフォンソに与えられていた「サンチアゴ騎士団長」の名誉迄も与える有り様。嫉妬と屈辱の周りの不満分子たちは次第に王の知らないところで結束を始めていた。

国内の分断

この頃イサベル王女達はセゴビア城に暮らしていた。

<セゴビア城>

アルカサール

カスティーリアの貴族の不満分子たちはエンリケ4世を見限りイサベルの弟アルフォンソを王に祭り上げようと画策し国内は分裂。優柔不断なエンリケ不能王は右往左往する中アルフォンソにアストゥリアス皇太子の称号を認め不満貴族達への懐柔策を始める。

しかし時すでに遅くアビラの高原に王座が置かれアルフォンソを新国王アルフォンソ12世として擁立。オルメドでの戦闘はアルフォンソ側有利に進み反乱を起こすトレドへ進軍するもその時突然アルフォンソは倒れた。前日夜に鱒を食べた後苦しみ始めたとあるが毒殺か疫病か不明。享年15歳。イサベル女王の心の支えだった弟アルフォンソはブルゴスのカルトゥーハ・ミラフローレス修道院に眠る。

<ミラフローレス修道院にあるアルフォンソのお墓>

アルフォンソのお墓
Wikimedia Commons Author Ecelan

イサベルの聡明さ

アルフォンソの死後国内はまだ内戦状態でイサベルを女王と担ぎ上げようとする勢力がいる中17歳のイサベルは「兄エンリケ4世こそが正当の国王。がその嫡子の正当性に問題があるならばその次の王位継承権は自分にある」と主張した。当時の人々が早熟であったとしてもカスティーリアの有力者の権力闘争の中で17歳の女性が堂々と大人相手に張り合い自分の意志を通した。一躍未来のカスティーリア女王となる。

イサベル女王

イサベルの婿選びと結婚

当時の王族の結婚はすべて政略結婚。恋愛は別物で自国の利益の為に子供達はその道具としてあらゆる方法で使われた。王女達は15歳位で嫁に行くのが普通だったがイサベルは17歳。すでに周りの国々から色々な縁談話が来ている。

ポルトガル、イギリス、フランス。その中に隣のアラゴン・カタルーニャ連合王国の皇太子フェルナンドからの話があった。「おじいちゃん同士が兄弟」という関係で同じトラスタマラ王家。先方に送った密偵の話ではなかなかの美男で切れ者らしい。イサベルの心がどこにあったか知る由もないが17歳の王女の心に恋心が芽生えても不思議ではないと思う。そしておそらくこの婚姻によるカスティーリアの利益も。

<アラゴンのフェルナンド>

フェルナンド王
De Michel Sittow – [1], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4714691
ところがそこには色々な周りの大人の思惑があり「ポルトガル王の後妻」の話が兄王から言い渡される。言いなりになるつもりはないイサベルは逃げた。イサベルに味方したのはトレド大司教、そしてアラゴン王国だった。

度々フランスから圧力を受けているアラゴン側もこの結婚での利益に興味を持った。当事者フェルナンドはイサベルのひとつ年下だがマッキャベリの君主論に出てくる程の人物。イサベルは時の権力者たちに捕らわれそうになるもバジャドリードに逃げそこへ一足早くフェルナンドが駆けつけ1469年バジャドリードのフアン・デ・ビベーロの屋敷で結婚式は執り行われた。

イサベル18歳フェルナンド17歳。この年ポルトガルでバスコダガマが生まれ、日本では応仁の乱の混乱の時代。

<イサベルとフェルナンドの結婚>

カトリック両王の結婚

イサベルの戴冠

<セゴビア城にあるイサベル女王戴冠の絵>

イサベル女王戴冠

優柔不断な兄王はまたしても有力者にそそのかされフランス王の弟と出生不明の娘フアーナの結婚話を進めイサベルに対抗しようとするも当事者のフランス王弟の死去とエンリケ王側についていたローマ法王の死去。

新しいローマ法王シクストゥス4世は政治的混乱と飢饉で弱り切ったカスティーリアにルネッサンス時代の大人物を送り込む。後のローマ法王アレッサンドロ6世ロドリーゴ・デ・ボルジア。祖国の混乱に心を痛めたかどうかは疑わしいがイサベルとエンリケの仲を取り持ちセゴビア城で和解。

その翌年あっけなくエンリケ4世死去、いつも針の筵にいた妃も何故かその半年後に35歳で亡くなっている。

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セゴビア城にいたイサベルはサン・ミゲル教会で戴冠。1474年23歳のイサベルはカスティーリアの女王になる。イサベル女王の誕生、歴史家はこの日をスペイン近代史の始まりとする。

<セゴビア・サンミゲール教会>

セゴビアのサンミゲール教会

<教会入口に1474年12月13日イサベル女王戴冠>

1474年12月13日

 

そう簡単ではなかったイサベル女王就任

ところがそれでは納まらない勢力がこれまでファーナ・ラ・ベルトラネーハを押してきた陣営。ポルトガル王アフォンソ(以前イサベルとも縁談があった王)とファーナ・ラ・ベルトラネーハを結婚させる話が持ち上がる。

ポルトガル王とは叔父と姪の関係。姪のファーナがカスティーリアの正当な継承者なら結婚すれば自分はポルトガルとカスティーリアに君臨出来るという目論見でイサベルに対抗し戦争。4年間の戦争の間に国は荒廃しついに和睦の条約でファーナ・ラ・ベルトラネーハは修道院へ。

周りの都合で翻弄され続けたファーナは自分の王位継承を信じて疑わずリスボンの修道院で69歳で亡くなるまで”我女王”のサインをしたという。厚い修道院の壁の中からイサベル女王の死やその子供たちの不幸な人生を知ったかどうかは不明。

この頃のスペイン

その時代のスペインは南にイスラム王朝のグラナダ王国が細々と存続していたレコンキスタの末期。キリスト教徒側ではイサベルとフェルナンドの結婚により今のスペインという国の概念がやっと出来る。

そして最後のイスラム国への戦争が始まる。発端は南スペインでの小さな小競り合い。グラナダの美しいアルハンブラ宮殿の内部は陰謀と裏切りで権力闘争が続く中キリスト教徒軍が押し寄せてくる。それでも10年間耐え続けたのは奇跡だった。フェルナンドとイサベル率いるキリスト教徒軍が迫りアルハンブラは無血開城。

1492年1月2日。ヨーロッパに残る最後のイスラム王朝グラナダ王国が滅びた。

<グラナダの陥落>

グラナダ陥落

 

コロンブスの登場

<サンタマリア号模型・スペイン海軍博物館>

サンタマリア号

時代はすでに準備ができていた。ルネッサンスの数々の発明によって航海術は進歩し登場したのがコロンブス。西回りでアジアに行けると信じたコロンブスがポルトガル王に断られスペインにやって来たのは1484年。何度か断られたり説得したりが続きグラナダ陥落後アルハンブラ宮殿でイサベル女王からの援助を手に入れ大航海時代が始まる。第1回航海は1492年8月3日出発。

コロンブスは4回大西洋を渡っているが死ぬまでそこはアジアの一部と信じていた。コロンブスはイサベル女王死後は殆どの約束を反故にされ惨めな最後を遂げる。

<コロンブスの新大陸到着>

コロンブスのアメリカ到着

1492年

世紀末のこの年、当時の人々はヨハネの黙示録に出てくるこの世の終わりがやって来ると世紀末感に怯えていた。ペストの流行がさらに世紀末感に拍車をかけていた頃グラナダの陥落、コロンブスの出港、と世界史的な事件が続く。

そしてスペイン人ローマ法王の即位。兄王とイサベルの和解に出てきた人物ロドリーゴ・デ・ボルジア。有名なボルジア家出身でローマ法王なのに子供がいた。息子がチェザーレボルジア、娘がルクレチアボルジア。中々の好人物でやり手、好色、大物、自己中心、権力とお金の為なら何でもやるタイプの人物。聖職者にはもったいない。

<アレキサンダー6世>

アレキサンダー6世

トルデシージャス条約

ポルトガルが慌てた。このままスペインに上手くやりこめられてはたまらない。地球を半分に割って将来揉めないように条約を結んだ。大西洋の上に縦に線を引いてここから西に将来発見されたらスペイン領土東だったらポルトガル領土。これでスペインは西へ、ポルトガルは東へと行先がきまり航海者達は船を出す。

イサベル女王の子供達

混乱と戦争と権力闘争の中イサベル女王は1男4女をもうけている。愛情を注いで育てるこの5人の子供たちは可愛いだけではなく大切な戦略の道具。当時のヨーロッパの勢力図を考え巡らせ将棋の駒のように誰との結婚が自国に有利かを冷静に見つめ結婚相手を決めていく。

カトリック両王とその子供達

長女イサベルはポルトガル王と結婚

長女イサベルはポルトガル王ジョアン2世の息子アフォンソ皇太子と結婚。夫婦仲は睦まじく娘イサベルはポルトガル宮廷で大切にされて幸せの絶頂のある日、夫のアフォンソが落馬して死亡。子のまだ無いイサベル王妃は喪に服しスペインへ帰国。その後さらに亡き夫の父ポルトガル王ジョアン2世が死去し(王妻と折り合いが悪く突然の死には毒殺説)その妻の弟がマニュエル1世として即位(この辺りは陰謀の香りがする)。

イサベルはマニュエル1世から激しく求婚され再びポルトガル王妃になる。このマニュエル1世の時代にポルトガルはインド航路発見、ブラジル到着。後に出てくるスペインの期待を担った弟ファンの死後王位継承権がイサベルにやって来るが息子を産んだ後すぐに死去。残されたミゲールと名付けられた大切な皇太子はスペインを背負う運命の中1500年7月20日2歳の誕生日を迎えずにグラナダで死去。今もグラナダの王立礼拝堂に埋葬されている。

長男ホアン

セビージャのアルカサールで誕生した皇太子ホアンはイサベル女王にとって特別な存在で大切に育てるが体が弱かった。ホアンの結婚はフランスを恨む者同士の連合で当時の先進国ブルゴーニュ公国の王女との結婚。神聖ローマ帝国皇帝の娘。

美しく華やかな17歳マルガレーテ王女との結婚で当時のスペイン宮廷は湧くが体の弱いホアンは結婚の行事のあと姉の結婚式に参加する途中サラマンカで突然死亡。(あまりにも美しいマルガレーテに恋し過ぎて、ベッドでの時間が多かったのが致命傷という説がある)すでに懐妊していたマルガリータは死産。国中が喪に服した。今はアビラの修道院に埋葬されている。

<アビラのサント・トーマス王立修道院にあるホアンの霊廟>

ホアンのお墓
wikipedia
public domain.
次女ファーナ

兄ファンとの2重結婚で一足早くベルギーのフィリップ美公に嫁ぐ。神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世とブルゴーニュ公国マリアの長男。洗練された都会人フィリップのとの蜜月は短く夫に翻弄されながら精神を病んで行き6年後祖国に帰るころは別人に変り果てイサベル女王を悲しませた。

兄ホアン、姉イサベルが続いて亡くなった後はスペインの王位継承権が手に入り再び夫妻でスペインに戻るがフィリップは突然死亡。父フェルナンドによる毒殺がささやかれるが謎のまま。彷徨いながらフィリップの遺体をグラナダに運ぶ一行、ファーナは棺を時折開け死んだ夫に話しかけたとも遺体を隅々まで触って確認したとも言われる。

そのころファーナはフィリップの子供を妊娠しており合計6人の子供を産んでいる。事実上スペイン女王となるが狂気が理由で父親と息子(のちのカルロス5世)によってトルデシージャスの城に幽閉されながら75歳まで生きる。

実際ファーナが狂っていたかは謎で今の歴史家達は否定している。

<夫の棺と荒野をさまようファーナ>

ファーナラロカ

 

三女マリア

マリアは長女イサベルの亡くなった後妻としてポルトガル王マヌエルの所へ嫁ぐ。マリアのみが唯一の幸せな結婚生活を過ごし5男2女を王に与え惜しまれて35歳で亡くなる。マリアの長女がのちのカルロス5世の妻、フェリペ2世の母イサベル王妃。

<マリアの長女イサベル、後のカルロス5世王妃>

ポルトガルのイサベル

四女カタリーナはイギリスへ

最も不憫な末娘カタリーナは15歳で同い年のイギリス皇太子アーサーと結婚する。病弱で気弱なアーサーは結婚後すぐ死亡。なんとその父親ヘンリー7世との縁談が起こるがヘンリー7世も死亡しアーサーの弟のヘンリー8世と再婚。

5回の妻のうち2人は斬首刑というシェイクスピアに出てくる残酷で冷血なヘンリー8世との結婚。カタリーナとヘンリー8世との間の娘が有名なブラッディメアリー。プロテスタントを残酷に殺した為「血のメアリー」と呼ばれる。赤いお酒の名前はそこから取られている。

カタリーナはその後何度か妊娠、死産を繰り返す中ヘンリー8世は宮廷の若い女官アンブリンとの結婚の為カタリーナを離婚、いや結婚の無効を主張。アンブリンとヘンリー8世の間の娘が後のエリザベス1世女王。ヘンリー8世はローマ法王が離婚を許可しないので英国国教会を作りカトリックから分離する。

カタリーナは3年間城に幽閉され隔離された中で49歳で寂しく死んでいく。

<カタリーナ・デ・アラゴン>

カタリーナ

<ヘンリー8世>

ヘンリー8世

イサベル女王の最後

スペイン統一とグラナダの陥落やコロンブスの援助と華々しい歴史を生きたイサベル女王は期待の長男ファンの死と長女イサベルの死、その息子ミゲールの死と三女ファーナの狂気、母親としては悲しみの連続だった。晩年メディーナ・デル・カンポの質素なお城で最後まで国の為仕事をしたという。

少なくとも四女カタリーナの不幸を知らずに亡くなったのは幸いだった。1504年11月26日53歳の生涯を閉じる。

イサベル女王最後の日

遺言通り遺体はグラナダに運ばれサンフランシスコ修道院に埋葬されフェルナンド死後は共にグラナダ大聖堂横の王室礼拝堂にある。

<カトリック両王の霊廟、グラナダ王室礼拝堂>

カトリック両王の霊廟
wikipedia
public domain.

 

質素で誠実で敬虔なカトリック教徒。国の為に自分を捨て戦ったイサベル女王は今もスペインで人気の女王様です。

 

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スペイン建築史

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スペイン程複雑に民族が入れ替わり立ち代わりやって来た国はそうはない。その過ぎ去って行った民族が色んなエッセンスをスペインに残していき生活や言葉、人々の風貌等に彩を添えている。今日はその中で形として一番残る建築について。スペインの建築史をまとめてみました。

未知の時代の不明な巨大な構造物

スペイン南部マラガ近郊のアンテケーラにドルメンという巨大な建造物が残る。紀元前3000年から2500年頃の物で31個の巨大な石で構成されたドルメンは無料で入ることが出来る。総重量1600トンというとんでもない大きな物で一番重いものは320トン。これを運んでくるだけでも私たちの想像を超えた人数やテクノロジーがあったに違いない。おそらく死者を埋葬するための物で家よりお墓に時間を労力を注いだのは死への恐怖や畏敬や不安が人類にとっての最も大きな関心事だった時代だったから。今も変わらないかもしれませんが。

<アンテケーラ・ドルメン内部>

アンテケーラのドルメン

バレアレス諸島のマジョルカ島、メノルカ島では紀元前1500年頃の巨石文化の遺跡が現存します。新石器時代の物で住居や神殿等。マルタ島にある巨石文明やイギリスのストーンヘンジとの関連は不明です。

フェニキア人

紀元前8世紀頃ガレー船に乗ってやってきた商業民族フェニキア人。南スペイン・アンダルシアの西端カディスにやって来て植民地化し寺院や巨大な建造物を建てたと言われるが残念ながら失われてしまい今残るのはお墓のみ。

<カディス フェニキア人墓地>

カディス フェニキア

このフェニキア人が使っていたのが表音文字でフェニキアン・アルファベット。今のABCアルファベットの元になります。建築は残りませんでしたがアルファベットは世界で今も使われているのが素晴らしい。どんな建築を作っていたのか知りたいなあ。

ギリシャ人

現在のスペイン東部カタルーニャにあるアンプリアス(エンポリオン)。紀元前6世紀頃今のフランスのマルセイユにいたギリシャ人がイベリア半島にパライアポリスという商港を開いた。ここが数年後に発展していく。現在の遺跡は1000年間にわたる色々なものが積み重なって解読は困難な遺跡が残っています。スペインに残る数少ないギリシャ建築。

<エンポリオン遺跡>

エンポリオン遺跡

イベロ族とケルト族

一応イベリア半島先住民族と言われるイベロ族ですが正確には族と言われるほどの整った文化形体は示しておらずもともといた原住民が後からやって来たカルタゴ人ギリシャ人ローマ人との接触のうち独特のイベロ族という文化を作って行ったのではと考えられています。建築らしいものは残っていないが塁壁に囲まれ堀をめぐらして中央に大通りを作り道路は舗装されていた。家の間口は狭く重層だったと考えられている。必ず寺院と墓地を持ち墓地は大きく巨石文化の影響がみられる。

又別系統でやって来たケルト人はピレネーを越えて紀元前8世紀頃にイベリア半島に入って来る。イベロ族と混血していきケルトイベロ文化を形成。「ヌマンシアの戦い」で有名なローマに対して籠城戦で抵抗したヌマンシアはケルトイベロの街。ただその遺跡は後のローマによってほとんど原形をとどめない(大抵の他の遺跡もローマ人の入植の後はローマ風に変えられている、ローマの罪なところ・・・)

ケルトの遺跡

スペインガリシアサンタ・テクラ、ポルトガル北部のブリテイロスサブローソイベロ、ケルト・イベロよりは建築や都市計画的には劣っていて初歩的。防御に都合が良い地形と水源を求めて集落を作った。家屋は平面で回るく石を積み上げて屋根は藁や枝。墓地としてのネクロポリスは持たなかった。2500年経ったいまもガリシア地方にパジャサと呼ばれる民家として受け継がれている。

<ガリシアのサンタテクラ遺跡>

サンタテクラの遺跡

ローマ

半島のローマ化は紀元前218年第2次ポエニ戦争から409年のゲルマンの侵入まで。精力的に道路を作りシーザー、アウグストゥスの時代に銀の道等1000キロ以上の道路の建設、橋や寺院そして円形劇場や浴場が作られた。驚くのが19世紀に使われていた橋のすべてがローマ時代の建設。今も使われているアルカンタラ橋は紀元後105年ころ完成の深い谷にかかる橋で今も大きなトラックが行きかう。メリダの街やセゴビアの水道橋、タラゴナの水道橋等。コンクリートやスクリューなど目を見張る技術が駆使された。ローマ人の土木に対する情熱には本当に驚かされる。この数行ではとても無理なので又の機会に詳しく書きたいテーマです。

<エストレマドゥーラ州カセレスのアルカンタラ橋>

アルカンタラ橋

 

ゲルマン民族の建築

ローマ帝国の崩壊後 ゲルマン民族はイベリア半島を支配するが文化的には支配したローマの模倣で終わる。あまり特徴のある建築は残っていないが金銀細工と独特の素朴な模様、イスラム以前の馬蹄形アーチは興味深い。現存するのは小規模な教会建築で幾何学模様と東方的な装飾や模様などが独特。

550年ころの建築と考えられるカベサ・デ・グリエゴ教会(ほとんど原形をとどめていない)661年サン・ホアン・デ・ロス・バニョスなどイスラム以前にすでに馬蹄形アーチは使われていておそらくシリアからの影響。(どういう経路でシリアの影響がイベリア半島までやって来たかの説明はついていないが昔の建築家や学者は長い旅をしていたようです。)

<カスティーリアレオン州パレンシアのサン・ホアン・デ・ロス・バニョス内部>

ゲルマン建築

アストゥリアス建築(プレロマネスク)

アストゥリアス建築というのは西ゴートの最後の王ロドリーゴが殺されて半島はイスラム教徒の手に落ちた頃わずかに残っていたキリスト教勢力によって作られた建築。アストゥリアス地方にのみ見られる建築で8世紀後半から10世紀にかけての物。まだ謎多き建築で後のロマネスク時代に使われる石造りの架構をすでに使っている

オビエド近郊のナランコの丘に848年に離宮として建てられたサンタ・マリア・デ・ナランコ。建物は2層で石造りのトンネルボールトの天井や柱の彫刻、控え柱も西欧でほとんど最初の登用。ロンバルディア様式が生まれるより以前に使われている。シリアからの影響と言われているがいまだに経路も明確にされていない。すぐ近くのサンミゲール・デ・リージョ教会等アストゥリアスに多数現存している。

<オビエド郊外のサンタ・マリア・ナランコ>

プレロマネスク建築

モサラベ

半島の回教徒は寛大な政策をとり住民には宗教の自由もあった。そしてイベリア半島のローマの道路や館、橋を見て感嘆しギリシャ思想に惹かれた。キリスト教徒たちは安全や経済的な理由からアラビア語を話し娘をイスラム教徒に嫁がせ息子をコルドバに留学させただろう、と思う。この時代のキリスト教徒をモサラベと呼ぶ。そしてイスラム教徒支配下のキリスト教美術もモサラベと呼ぶ。

<レオンのサンミゲールデエスカラーダ修道院>

モサラベ サンミゲールデエスカラーダ

レオンのサンミゲール・デ・エスカラーダ913年はコルドバ出身のキリスト教徒の建築家によるモサラベ建築。他にバジャドリッドマソーテにあるサン・セブリアン教会などが現存する。

イスラム建築

後期ウマイヤ朝コルドバのメスキータ

ダマスカスでの革命から逃れたウマイヤ家の王子は785年もともとそこにあったサン・ビセンテ教会を買い取って(略奪ではなく)回教寺院を作らせた。当時まだ回教寺院の様式が確立していなかったのもあって北アフリカにあったモスクをモデルにしたであろう。(現在の回教5様式に属さないそれ以前のモスク)

ローマの遺跡から持って来た円柱をメリダのローマの遺跡にある水道橋から学んだアーチで木造の天井を支えた。

<コルドバメスキータ内部>

コルドバ、メスキータ

コルドバ郊外にはメディナ・アサーラという夏の離宮。後の火災と略奪で見る影もないが10世紀の宮殿は金銀で噴かれた屋根、中央に大きな真珠、床には水銀のため池、8本のアーチには黒檀、象牙、宝石が埋め込まれていて日差しが入るとキラキラと輝いたという。

セビージャのアルモラビッドとアルモハッド

コルドバのウマイヤ朝の没落の頃北アフリカから2族が呼ばれアルモラビッド(サハラ砂漠の遊牧民)とアルモハッド(アトラスの山岳族)がセビージャで回教文化を開花させる。

セビージャのカテドラルの鐘塔ヒラルダの塔オレンジのパティオの一部、アルカサールのパティオ・デ・ジェソ、黄金の塔、アルメリアのカテドラルの石膏装飾、サラゴサのアルハフェリア宮殿等建築物が残る。

<セビージャのヒラルダの塔>

ヒラルダ

グラナダの回教王国 アルハンブラ宮殿

グラナダはコルドバ、セビージャ陥落の後スペインの唯一残ったイスラム王国。現在のマラガ、グラナダ、アルメリア県を合わせた約3万平方キロメートルの王国。もともとはキリスト教徒から守るために作られた見張りの城塞だった。赤い丘と呼ばれたグラナダを見下ろす丘陵地に9世紀にたてられた城塞を初代グラナダ回教王国王モハメッド1世が24の塔を城壁で結びそれ以降城塞から宮殿的なものに変わって行った。スペインに残るイスラム建築の最高峰。

外観の無装飾と比べ内部の繊細な装飾、増築していくことにより内部の平面構造は複雑になる。ユスフ1世のアラヤネスの中庭やモハメッド5世のライオンの中庭等が最も重要。レコンキスタが激しくなりキリスト教国から逃れてきたコルドバの建築家や芸術家たちの手腕による。

<ライオンの中庭>

ライオンの中庭

ふんだんな水と植物や花の色と香り、光を取入れアラベスク模様によるコーランの一説等等筆舌を越えたという言葉がこれほどふさわしい建造物は見たことが無い。水と香と色と光とそこに残る儚い美しさ、ゆらゆらと揺れる陰に平家物語の様な哀しさを感じる。

ムデハール建築

キリスト教社会に存続したイスラム教徒をムデハールと呼ぶ。半島のレコンキスタが進みキリスト教社会の中で安価な労働力としてまたスペインの王の東洋趣味などもあって頻繁にイスラム様式が使われる。レンガや石膏を使い馬蹄形アーチやモザイク、アラベスク模様を使った建築が教会にも使われ興味深い。キリスト教の教会がアラビア様式で創られ今現在もミサが行われている。多く使われた理由の一つは中世のスペインの道路事情が悪く良い石材を運ぶのは大変な労働。(ローマの街道は分断されていた)そして身近にいるイスラム教徒(安く使えた)に彼らの得意なレンガの細工を任せた。かかわっていた人達は美しいものであれば良く何様式なんて気にしていなかったと思う。後世の人達が様式に名前を付けたのだから。

<サアグンのサンティルソ教会>

サグアン、サンティルソ

サン・ファン・デ・ドゥエロの回廊、サアグンのサンロレンツォやサンティルソ。トレドのサントトメ教会やサンロマン等数えきれないくらいのムデハール建築がある。現代の私たちからは不思議な感じですがきっと気にしていなかったのだと思います。「神の家を美しく作ることが出来ればアラビア様式でも問題なし。」だったと。

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ロマネスク建築

ヨーロッパ中世の建築様式で1000年ころから1200年ころまで流行した構造・丸いアーチの建築。ローマ人が好んで水道橋などに使った丸いアーチ(ローマンアーチ)を使っているのでローマ風>>ロマネスク様式、またはロマネスク建築。壁がふんだんにあるので壁画がふんだんに描かれた。

カタルーニャ

早くにイスラムを追い出してフランク王国から独立していたカタルーニャには現存する最も古い957年の教会堂がある。サン・エステバン・デ・バニョーラス(ジローナ)とサンタ・セシリアデ・モンセラ。又ピレネーの山中のタウルには12世紀回教徒の手から逃れた僧たちの一団が作った教会群がありすばらし壁画が残る。(壁画はバルセロナのカタルーニャ美術館に移築)

<タウルのサンクレメント教会>

ボイタウル サンクレメンテ

サンティアゴの道

サンティアゴの巡礼が盛んだったころとロマネスク建築が重なるのは偶然ではなく道と巡礼と一緒に伝わって行った。サンティアゴデコンポステーラに現在の大聖堂が創られ始めたのは1071年。当時の建築家や画家、彫刻家はインターナショナルに移動しながら注文を受けていた。サンティアゴの大聖堂を作るのにフランス人のロベールという腕利きの建築家が弟子を50人も連れてやってきた。当時フランスですでに始まっていたロマネスク様式をスペインに伝えながら旅をした。良く写真で紹介される現在のサンティアゴの教会堂の正面はバロック期の大きな物ですが内部や後陣部分はロマネスク建築。

<サンティアゴの大聖堂・栄光の門ロマネスク彫刻>

栄光の門

 

ゴシック建築

フランスで始まった建築様式。それまでのロマネスクでは天井の高さに限界があるのでもっと高くするためにリブボールトを入れて高い天井を手に入れる。それまでの壁構造から柱構造にすることで背を高く。先のとんがったアーチや大きな窓そこにステンドグラスを入れて外からの太陽の光を取り入れた。

<ブルゴス大聖堂>

ブルゴス大聖堂

 

フランスゴシック

ブルゴスのマウリシオ大司教がフランスからドイツを旅した時にゴシック様式に魅せられブルゴスに戻った後そこにあったロマネスク様式の教会をすごい情熱でゴシックに変えていった。レオンの大聖堂もおそらく同じ建築家による。

<レオンの大聖堂のステンドグラス>

カタルーニャゴシック

カタルーニャでは別系統で13世紀後半から14世紀にカタルーニャゴシック建築が発達。フランスゴシックのフライングバットレス(壁を外から支える為の石で作った部分)を内部に収めた独特の形。内部空間が広い。

<バルセロナ・海の聖母教会内部>

海の聖母教会

ルネッサンス

スペインにルネッサンスは無いという説も強くありますが時代的な要素や特徴はあるので一応ルネッサンスにいれました。大航海時代によりアメリカ大陸を手に入れた頃のスペインでイサベル女王の新大陸への興味とフェルナンド王のイタリア地中海地域への影響力が混じった形。

プラテレスコ様式

金銀細工に施す細かい細工を建築に石で掘って行く。サラマンカ大学の正面やアルカラ・デ・エナレスの建築家ロドリーゴヒルデオンタニョンによるスペインのルネッサンス代表作。

<サラマンカ大学>

サラマンカ大学

アルハンブラ宮殿のカルロス5世宮殿

1492年のグラナダの陥落のあとカトリック両王でさえも美しさに感嘆し壊されないように勅令を出したそうだがその孫カルロス5世はアルハンブラ宮殿の中に自分用の宮殿を創ることに。建築家はペドロ・マチューカ。ミケランジェロの弟子としてローマで学んだらしいがあまりよく分かっていない建築家。円形のパティオ均衡と調和はまさにイタリアルネッサンスの特徴。

<アルハンブラ宮殿カルロス5世宮内部>

アルハンブラ宮殿カルロス5宮

エルエスコリアル修道院とエレーラ様式

カルロス5世の息子フェリペ2世の時代スペインは日の沈む事無き大帝国になる。その大帝国の国王フェリペ2世は華美を嫌う地味で真面目で慎重な国王。

当時の王室建築家コバルビアスの建築に不満なフェリペ2世はナポリからファン・バウティスタ・デ・トレドを呼び寄せる。サンピエトロ寺院の建築にミケランジェロの傍らで働いていたらしいファン・バウティスタに巨大な建築物を依頼する。これがエル・エスコリアル修道院。ところがファンバウティスタが建設開始4年後に没してしまいその弟子ファン・デ・エレーラがその後を引き継ぐ。彼は建築家ではなく哲学者(すごい抜擢)だったがフェリペ2世の希望通りの装飾性を排除し単純な形態、質素なイメージの中に統一性のある非常にエレガントな修道院が作られた。

<エルエスコリアル修道院>

エルエスコリアル

バロック建築

スペインのバロックはチュリゲラ一族によって始まるのでチュリゲラ様式ともいう。装飾過剰なバロックは大航海時代の金銀と重なり絢爛豪華な悪趣味のやりすぎ装飾になって行く。でもなぜかスペイン人の得意とする様式でもある。サラマンカの大聖堂、マヨール広場やトレド大聖堂のナルシソトメのトランスパレンテ等。

<サラマンカ・マヨール広場>

サラマンカ マヨール広場

 

ネオクラシック建築

ローマ時代のクラッシックな建築をネオ新しく作った時代で神殿調の柱等を使ったすっきりした建築。マドリードのプラド美術館や現農業省等。

<マドリード・プラド美術館>

プラド美術館」

モデルニズム建築

ヨーロッパ世紀末芸術、フランスのアールヌーボー、イギリスのモーダンスタイル、ドイツのユーゲントシュティル、オーストリアのセセッションの時代。それまでの既成の芸術から自由奔放に作品を作り始めた頃カタルーニャは産業が産業が発展し建築が創られる。当時のカタルーニャのお金持ちが自由に別荘やマンションを建築家に頼んだので主に建築が盛ん。ガウディ―が有名だが当時はドメニクムンタネールの方が評価されていた。

<カサ・バトリョ、ガウディ作>

バトリョ邸

近代建築

現在国内外の建築家により近代建築が多く作られている。スペイン人ではサンティアゴ・カラトラーバやラファエル・モネオ、カナダ人フランクオーゲイリー(グッゲンハイム美術館)、フランス人のジャンヌーベル(ソフィア王妃芸術センター増築部分)等これはこれで又一つの記事として扱いたいくらい厚い層のあるテーマです。

<ビルバオ・グッゲンハイム美術館>

ビルバオグッゲンハイム

スペインの歴史に興味がわいたらこちらもどうぞ スペインの歴史ダイジェスト版


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まとめ

長い歴史の中で人間が残してきた建築を見るのが好きなので移り変わりをまとめてみました。石の文化で乾燥した空気等の好条件のもと(地震や台風が無いのも)ヨーロッパには本物の古い建築が残っていて肌感覚でこれらを楽しめるのはうらやましい限りです。素敵な建築の中にいるだけでブルッと嬉しい鳥肌になります。

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カトリック両王のスペイン統一、イサベルとフェルナンドの結婚

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スペイン国内を北へ南へ旅をすると沢山の国を見たような気がするとよく表現される。もとはいくつかの小さな国家がレコンキスタと王様達の結婚で合併していった。約500年前にイサベル女王とフェルナンド王の結婚により今の統一国家という概念が出来る。

統一前のスペインの国々

カスティーリア王国

711年にイスラム教徒がやって来てビシゴート王国が崩壊後、北部アストゥリアス地方の山岳地帯に逃げていたキリスト教徒が初めての勝利を得た。これが「722年コバドンガの戦い」という最初のキリスト教徒の勝利。フランスからも沢山の騎士がやって来て戦った。戦争をしながらキリスト教徒達が国を広げてアストゥリアス王国建国、今のスペイン君主国の始まりだ。

<アストゥリアスにあるコバドンガ>

コバドンガ

イスラム教徒と戦いながらキリスト教徒の中心は少し南に降りてレオン王国ができる。もともとはレオン王国がイスラム教徒との砦としてひとつの伯爵を置いたのがカスティーリア王国の始まり。10世紀レオン王国が弱体化したときに主従関係を断ち切って独立伯領となる。1035年キリスト教徒が沢山入植してきて勢力が拡大しカスティーリア王国になりレオン王国と婚姻関係を持ちカスティーリア・レオン王国となる。

<1210年のイベリア半島>

1210年スペインの地図
wikipedia CC
Source Own work
Author Alexandre Vigo

当時フランスとスペインの国境の両側にナバーラ王国があった。いったんカスティーリアはナバーラに併合されるがサンチョ大王の死後カスティーリア・レオンは独立しアルフォンソ6世の時にトレドを陥落させる。

<トレド>

トレド全景

この頃はまだあまり十字軍的な意味合いはなくアルフォンソ6世はイスラム教徒ユダヤ教徒キリスト教徒三つの宗教の皇帝と呼ばれていた。異教徒も積極的に活躍できる政策で人々は宗教に関係なく寛容に暮らしていた。

<アルフォンソ6世のトレド入場>

アルフォンソ6世のトレド奪回
wikipedia CC
Source Own work
Author CarlosVdeHabsburgo
カタルーニャ

フランク王国のカール大帝はイスラム教徒をバルセロナから追い出し今のカタルーニャ一帯はフランク王国の中に組み入れられる。フランク王国は南仏のナルボンヌからバルセロナに至るあたりを16の伯爵地として統治しイスパニア辺境区と呼ぶ。その一つが今のバルセロのバルセロナ伯爵。

986年この辺境区の中心バルセロナ伯が結束を呼びかけフランク王国から独立。これが今のカタルーニャの歴史的起源。地中海に向けて港があり交易が盛んだったカタラン人たちはまるで冒険者たちの様に自由に勇敢に海を渡って地中海を渡り外国へ行って商売をしていた。伯爵から自分たちの権利を取り付けその代わりに忠誠を誓う立派な独立国家だった。

<カタルーニャの議会>

カタルーニャのコルテス

アラゴン王国

ピレネー山脈ハカでイスラム教徒を退治した住民たちが結束しアラゴン伯領が誕生。その後1035年ラミロ1世がアラゴン王国を築く。さらに勢力は南へ進軍し当時のイスラム教徒の拠点の一つサラゴサを制圧した。アラゴンは後にカタルーニャと併合するが今もアラゴン人とカタラン人は仲が悪い。

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アラゴン・カタルーニャ連合王国

バルセロナ伯爵ラモン・ベレンゲール隣国アラゴンの王女と婚約してアラゴン王位を継承。ちなみにこの時ラモン・ベレンゲールは23歳、王女は3歳。この2人の結婚によりアラゴン・カタルーニャ連合王国が誕生。

<ラモンゲレンゲールとペトロニーナ>

ラモンバランゲーとペトロニーナ

 

地中海への勢力拡大を積極的に進めハイメ1世の時に地中海のマヨルカ島とイビサ島さらにバレンシア王国を手に入れる。13世紀にはシチリア王国の内乱を契機にシチリア王位につきサルディーニャ島や南イタリア・ナポリ王国も征服。カタルーニャ人たちはもともと商人。この地中海征服を利用し貿易をして各地に商務官を置いて経済活動を広げながら地中海一帯を勢力範囲として活躍する。

カスティーリア王女イサベル(1451年~1504年)

「スペイン建国の母」と言われるイサベル女王は父カスティーリア王ホアン2世の2番目の妻(ポルトガル王女)の長女。父が他界すると兄(父王ホアン2世の最初の結婚の息子)が国王エンリケ4世として即位するがイサベルと弟のアルフォンソは母とともに追放され惨めな時代を生きる。

<イサベル女王>

イサベル女王

 

この兄王エンリケ4世は不能王という不名誉なあだ名があってどうやら女性と関係が持てない。特に高貴な女性と・・・。ところが王妃(ポルトガル王女)が突然ご懐妊。父親は国王エンリケ4世では無いという疑惑の中王位継承問題が生じる。

<エンリケ4世>

エンリケ4世
De Desconocido – web, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2261931

イサベル女王の弟アルフォンソに王位継承権をと担ぎ出されるがひとつの国に2人の君主がいる状態で内乱になり、戦争の途中あっけなくアルフォンソが死亡。王位継承権はイサベルにわたるがイサベルは「兄がいる間は兄が国王である。だたその娘の出生に疑問があるなら自身がその次の王位継承者」と明確に宣言。これなんとイサベル17歳の時の言葉です。

アラゴン王子フェルナンド(1452年~1516年)

アラゴンの山の中ソス・デ・レイ・カトリコという町がある。今はお城がパラドールになっているがイメージ的には片田舎。アラゴン王子フェルナンドとしてそこで誕生。母は父王の2度目の結婚の王妃でカスティーリア貴族の娘。9歳の時に異母兄が死去しフェルナンドはアラゴン王国の正当な王位継承者になる。父親からシチリア王位を継承。父王を補佐しながらフランスと対抗。マッキャベリの君主論に名前が出てくるほどの冷血で冷静な君主。

<フェルナンド2世>

フェルナンド王

イサベルとフェルナンドの結婚

1469年カスティーリア王国のイサベル王女とアラゴン王国のフェルナンド皇太子が結婚。この結婚は秘密裏に行われた。国内での反対勢力もありイサベルの兄カスティーリア王エンリケ4世にも内密にひっそりとバジャドリッドの貴族の館で執り行われた。

<イサベルとフェルナンドの婚礼>

カトリック両王の結婚

今のように写真があるわけでもなく先に密偵は送られていたようだがこの結婚式で2人は初めて出会う。イサベル18歳フェルナンド17歳。フェルナンドはなかなかのいい男でイサベルは美人だったので若い2人はひかれあった…かも。

1474年カスティーリア王エンリケ4世が亡くなるとイサベルは王位継承権を主張。兄王の娘(出生に謎の有るホアナ)の即位を画策する新ポルトガル勢力を駆使しイサベル女王戴冠(1479年)。セゴビアのマヨール広場近くにあるサンミゲール教会にて戴冠しサベルはカスティーリア王国女王となる。

<イサベルの戴冠>

イサベル女王戴冠

同じ年アラゴンではフェルナンドの父王ホアン2世が死去。これでフェルナンドはアラゴン・カタルーニャの王となる。

これでカスティーリアとアラゴン・カタルーニャの共同統治が始まりかつてない強大な勢力がイベリア半島に誕生した。

カトリック両王の政策

異教徒追放

イサベルとフェルナンドが行ったことはまず国内キリスト教勢力をまとめる為コンベルソと言われる改宗ユダヤ教徒を弾圧する異端審問所が作られた。1480年から1516年までに6000人のユダヤ人が火あぶりの刑にあったと言われる。宗教的な統一という名目のもとユダヤ人の財産狙いだったに違いない。

グラナダ陥落戦

もう一つがグラナダへの軍事攻勢。1481年イベリア半島に残るイスラム王朝グラナダ王国へ攻撃を始めた。ロンダが14885年マラガは1487年に陥落。特にマラガは重要な港だった。のど元を抑えられながらグラナダは1年半の籠城戦のあと降伏した。

<グラナダの陥落>



1492年1月2日グラナダ王国アルハンブラ宮殿にイサベル・フェルナンド両王が入場した。800年近く続いたレコンキスタの終了。

コロンブスへの援助

グラナダ陥落の同じ年コロンブスイサベル女王から援助を手に入れる。陥落したアルハンブラ宮殿で宝石箱をプレゼントされそれをお金に換えて船の準備の一部を賄い西回り航海へ出発していく。

<コロンブスの新大陸到着>

コロンブスのアメリカ到着

フェルナンド王はコロンブスの事を快く思っておらずイサベル女王亡きあとはフェルナンド王はコロンブスとの約束事を反古にし惨めな対応を受け牢獄に繋がれる。

 

スペイン人ローマ法王アレキサンドル6世

1492年法王選挙でスペイン人ローマ法王が選ばれる。有名なボルジア家出身ローマ法王アレキサンドル6世はこの2人の偉業をたたえて1496年にカトリック両王という称号を与えた。話はそれますが・・・このローマ法王の息子がチェーザレ・ボルジア、娘がルクレチア・ボルジア。(ローマ法王に愛人がいて子供がいたんです!)

<ローマ法王アレキサンダー6世>

アレキサンダー6世

トルデシージャス条約

もともと1481年ローマ法王シクストゥス4世の時にカナリアス諸島以南の新領土はポルトガルに与えると決まっていた。その後スペイン出身のローマ法王アレキサンドル6世はこれを変更させポルトガルと揉めていた。新世界における両国の紛争を解決するために1494年スペインのカスティーリアにあるトルデシージャスで会議を開き地球に線引きをした。(ほかの国に許可も無くです)

<トルデシージャス条約条文>

トルデシージャス条約
By Biblioteca Nacional de Lisboa, photos probably taken by User:Joserebelo, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=472983

西アフリカのセネガル沖に浮かぶカボ・ベルデ諸島の370リーグ(1770キロメートル)の海上に縦に線を引きそれから東側に将来発見されたらポルトガル領土西側だったらスペイン領土と決まる。1506年ローマ法王ユリウス2世によって廃止される。

この後カトリック両王の婚姻政策と大航海時代でスペインは大帝国になって行く。

 

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スペインの歴史・レコンキスタの開始<トレドの陥落からアルハンブラの開城>

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711年にジブラルタル海峡からイスラム教徒を招いたのは西ゴートの貴族だった。晩年の西ゴート王国は腐敗と混乱の中、周りの貴族たちに国王は見捨てられ裏切った貴族たちも無事では済まなかった。そしてついにトレドは陥落し西ゴート王国は崩壊した。

ここまでの歴史記事はこちら。別ウインドウで開きます。           <西ゴート王国の崩壊

レコンキスタの開始

トレドがイスラム教徒によって陥落したとき王族貴族達の一部は馬に乗って持てるだけの宝物や聖遺物を持って北へ逃げていった。スペインの北西部のアストゥリアス地方からフランスとの国境にあるバスク地方にかけての山岳地帯。

<アストゥリアスの山岳部>

カーレスのルート

 

不毛な地帯で険しい山岳部なのでイスラム教徒たちもあまり興味もなかったに違いない。(この時トレドから持って逃げた聖遺物や宝石が今もアストゥリアス首都オビエドの大聖堂のカマラ・サンタに保存されています。)

<アストゥリアス・オビエド大聖堂の中カマラサンタ>

オビエド・カマラサンタ

コバドンガの戦い・ペラヨ

スペインの歴史上重要な戦争、722年この山の中「コバドンガ」でキリスト教徒が初めて勝利を手に入れた戦いがコバドンガの戦い。レコンキスタの始まりです。

コバドンガにあるペラヨ像

この時のリーダーがペラヨペラヨはトレド陥落の時に逃れた王族の血をひくと言われるが詳細は分かっていない。勝利したキリスト教徒たちはペラヨを王に選びアストゥリアス王国を建国。これが最初のキリスト教国家で今のスペインの基礎。今もスペインの皇太子はアストゥリアス皇太子と呼ばれる。(イギリスの皇太子をウェールズ皇太子と呼ぶように)ここからスペインの歴史で需要なレコンキスタが始まる。

<コバドンガ>

コバドンガ

 

722年のコバドンガの戦いは西ゴート王国崩壊後たったの11年後にキリスト教徒が初めてイスラム教徒に勝った戦争。コバドンガに行くと険しい山の中に洞窟<サンタクエバ>がありそこにペラヨは今も埋葬されている。

<サンタクエバ、向こうにバシリカが見える>

サンタクエバ

アストゥリアスはキリスト教君主国スペイン発祥の地

722年アストゥリアス王国が建国される。今のスペイン君主国のもとになった国が出来た。アストゥリアスの人たちは長身で金髪に碧眼が多い。ビシゴートの末裔ゲルマンの血を引くからなのです。今のスペイン王妃(超美人)レティシアさんもアストゥリアスの出身。

 

フランク王国とサンティアゴの遺体の発見

丁度このころ今のフランスではフランク王国のメロビング朝宮宰カールマルテルがツールポワチエでイスラム教徒を撃退しその名声を高めた。

 

その息子がピピン3世として即位。フランク王国の国王になれたのはローマ法王(ステファヌ3世)の協力のお蔭なので見返りにラベンナを奪いのその土地をローマ法王に献上した(ピピンの寄進)これがローマ法王領の始まり。

その息子カール大帝が800年西ローマ皇帝に戴冠。その3年後スペインの北西の端で聖ヤコブの遺体が発見される。

聖ヤコブはスペイン語でサンチアゴ

聖ヤコブはキリストの12弟子のひとり。イベリア半島に布教にやって来ていたという伝説は古くからあった。エルサレムに戻った折にヘロデオ・アグリッパ王によって首を切られて処刑された。聖ヤコブの弟子たちが遺体を石の船に乗せて行先は風の向くまま旅に出た。その船がスペインのガリシアに着いたらしい。そしてその遺体が発見されたのが813年。大切に遺体を埋葬して教会を創ったら奇跡が起こった。山の中でイスラム教徒と戦っているキリスト教徒を助けに白い馬に乗った聖ヤコブが応戦してくれたのだ。

これは偶然ではなく政治と宗教が後ろにあったに違いない。

<白い馬に乗って戦う聖ヤコブ>

聖ヤコブ

スペインの歴史上重要なレコンキスタの始まり

「コンキスタール」は征服するという意味のスペイン語。これに「レ」再びという言葉をつけて「レコンキスタ」。国土再征服運動の始まり。聖ヤコブの力を借りながら「あなたが戦争で異教徒と戦って死んでしまうかもしれません。でも魂は間違いなく天国に行けますから」と聖戦が行われた。

周りの小さなキリスト教徒勢力を少しづつ併合し首都は山の中から次第に南へ移動。カンガスデオニスに宮廷が置かれさらにオビエドへ移動。

アストゥリアス地図

 

次第にレコンキスタが進み首都はレオンに。王様の結婚などでアストゥリアス王国はレオン王国となる。さらにカスティーリア王国との結婚や遺産分割によりレオンはカスティーリアに併合されカスティーリア・レオン王国となる。

この頃南スペインはコルドバカリフ王国

シリアで革命が有りウマイヤ家の王子がはるばるスペインのコルドバまで逃げて来た。そして後期ウマイヤ朝が始まりコルドバの街にはモスクや大学、図書館が作られ人口が増え学者が集まり繁栄を極めていた。世界遺産メスキータはこの時代に創られた。

<コルドバ・メスキータ内部>

コルドバ、メスキータ

コルドバカリフ王国の記事はこちらです。別のウインドウで開きます。     <後期ウマイヤ朝。コルドバカリフ王国の繁栄>

再びトレドはキリスト教徒の手に

歴史を振り返って永遠に続いた帝国はひとつもない。そして内部からの亀裂が崩壊に向かっていく。豊かなコルドバ王国は繁栄し紀元1000年にこれほどの栄華を極めた街は他に無かった。しかし世の常、権力者の欲望と裏切り、内部紛争もあり11031年に後期ウマイヤ朝が崩壊する。

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これがキリスト教徒たちに追い風となった。レコンキスタは進んでいきアルフォンソ6世率いるキリスト教徒軍が1085年にトレドを奪い返す。

<アルフォンソ6世のトレド奪回>

アルフォンソ6世のトレド奪回
wikipedia CC
Source Own work
Author CarlosVdeHabsburgo

<トレドの街>

トレド

トレドを奪い返したカスティーリア国王アルフォンソ6世に2人の娘がいた。それぞれをレコンキスタで戦った勇敢な騎士と結婚させ土地を封土する。1人にカスティーリア王国を与え、もう1人は少し離れたイベリア半島西の端の方の土地を与えた。名前がポルト、そして川の対岸の街がカーレ。このふたつの名前がひっついてポルトカーレと呼ばれるようになる。これがポルトガルの始まりとなる。 

アルフォンソ6世

アルフォンソ6世の時代はイスラム教徒たちも税金さえ払えばイスラム教徒として生活することが許されていた、または現実路線を取る人達はキリスト教徒に改宗し優遇されていた。コルドバから沢山の知識階級のイスラム教徒たちがトレドに集まり次第にトレドは当時のヨーロッパ随一の学問の都になって行く。ユダヤ教徒やイスラム教徒などの豊かな技術と知識、金融とネットワークをうまく利用した政策が取られていた。

最後の砦グラナダ王国アルハンブラ宮殿

キリスト教徒たちがさらにレコンキスタを進め南下していき1212年のハエンのナバス・デ・トロサの戦いで圧勝。これが天下分け目の合戦となりキリスト教徒が力をつけ勢い付く。イスラム勢力は内紛と裏切りの中セビージャは1248年に陥落。

最後に残ったイスラム王朝がグラナダ王国。ハエンの領主がやってきてグラナダに王国を作り何世代もの王たちが不規則な地形を整備して宮殿を作った。

<アルハンブラ宮殿>

アルハンブラ、コマレス宮

スペインに残った最後のアラブ王朝の宮殿がアルハンブラ宮殿。1492年にカスティーリア王国イサベル女王率いるキリスト教徒軍により陥落するまでヨーロッパに残った最後のイスラム王朝です。奇跡ともいわれる存続で周りはキリスト教徒に囲まれ税金を払い裏切りや嫉妬が渦巻く宮殿の中では千一夜物語が続いていた。

アルハンブラ宮殿についての記事です。別のウィンドウで開きます。      <アルハンブラ宮殿グラナダ王国<イスラム建築の最高芸術>

1492年1月2日最後のアラブの王は無血開城を選び一族郎党を引き連れシエラネバダの与えられた土地を好まずモロッコへ逃げていった。グラナダの陥落でレコンキスタは終了しスペインはこの後大帝国へとなって行く。

 

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<スペインの歴史>後期ウマイヤ朝 。コルドバ・カリフ王国の繁栄

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ジブラルタル海峡を渡ってイスラム教徒が襲ってきて西ゴート王国が崩壊。スペインにイスラム教徒の時代がやって来た。シリアのウマイヤ朝が勢力を広げて巨大な帝国を作っていた時代。キリスト教徒たちは北スペインの山岳地帯で戦いながら小さなキリスト教徒の君主国を作っていた。そんな時代にシリアで革命が起こった。

スペインの歴史・後期ウマイヤ朝の繁栄

ダマスカスでアッバース革命が起こり14代続いたウマイヤ朝は倒された。アッバース朝は後に首都を今のイラク・バグダットに定め東カリフ王国と呼ばれる。

<シリアのウマイヤッドモスク、現存する最古のモスク>

シリア、ウマイヤッドモスク
wikipedia CC
Source Own work
Author Jerzy Strzelecki
*アッバース革命

イスラム教の創始者モハメッドが後継者を決めずに死んでしまう事によって当時のイスラム共同体は大混乱に陥る。そんな中ウマイヤ朝が実権を握りシリアのダマスカスを首都にウマイヤ朝が繁栄していた。711年にジブラルタル海峡を渡ってスペインに来た勢力はこのシリアのウマイヤ家からの勢力。661年に成立したウマイヤ家には最初から正当性に疑問があった。そしてウマイヤ家優遇政策を取り特権意識の強いウマイヤ家には敵が多かった。アッバース家は預言者モハメッドの叔父の血筋だがウマイヤ家によって中央政権から外されていた為、不満分子のシーア派と結んでついに革命が起こったのがアッバース革命。

*シーア派とスンニー派に分かれたところはこちらの記事をご覧ください。別のウインドウで開きます。<ウマイヤ家の始まり。スンニー派とシーア派はここから揉め始める>

ウマイヤ家の王子が逃げてくる

倒されたウマイヤ家の王子がはるばる北アフリカ経由でイベリア半島までやってきた。隠し持った宝石を売りながら助けられたり騙されたりしながらの逃亡劇。アル・アンダルス(南スペイン)のアミールを破り756年独立したアミールとして即位したのがアブ・ドゥラーマン1世。

*アミールはアラビア語で司令官、総督を意味し次第にイスラム世界で王族や貴族の総称になる。後にスペイン語化しアドミラル=司令官という言葉になる。

アブドラーマン1世は緑の目でカリスマ性のあるイケメン王子だったそう。シリアのウマイヤ家の血を継承することからスペイン後期ウマイヤ朝と呼ぶ。ここからスペインでのウマイヤ家によるアル・アンダルスの支配が始まる。

<コルドバの街とメスキータ>

コルドバ、メスキータ
wikipedia CC
Source Flickr: [1]
Author Toni Castillo Quero
メスキータ(スペイン・後期ウマイヤ朝のモスク)

スペイン・後期ウマイヤ朝は宮廷の内紛や陰謀などの続く中250年間コルドバを首都に栄える。その時に作り始め代々のカリフが拡大した回教寺院がメスキータという世界遺産。モスク(回教寺院)の事をスペイン語でメスキータと呼ぶ。

メスキータ内部

コルドバ、メスキータ

メスキータに入ってすぐの最初の部分の柱はローマの遺跡から持って来た柱が使われているので柱一本一本は2000年前の物。天井はオリジナルではなく後の修復再建。

中央部分はキリスト教徒の時代にほとんど柱が取り払われてしまった部分。大変残念ですが今では回教寺院メスキータの中に現役の大聖堂がある不思議な建築物になっている。

<内部の大聖堂聖歌隊席部分>

コルドバ、メスキータ、カテドラル部分
wikipedia CC
Source Flickr: IMG_5289
Author Jan Seifert

奥の方のミヒラーブ(メッカの方向に向かって作られた窪み)には漆喰に美しい文字でコーランの一説が彫刻されていてその周りは唐草模様で飾られている。壁面を規則正しく文字や模様で埋め尽くすためにはユークリッドの幾何学が使われた。数学が発達していないと不可能なのです。

<一番奥のミヒラーブ、ビザンチンの技術者を連れて来て作った>

メスキータ、ミヒラブ

この時代のキリスト教徒の教会に行くと祭壇に新約聖書の物語や聖母マリア・聖人たちが彫刻されている。識字率が低かったので字が読めなくても絵によって、彫刻によって聖書を教えていった。宗教を広めるために絵画や彫刻が必要だった。イスラム世界はそれが許されなかったので識字率が高くなければいけなかった事がわかります。

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回教寺院は通常異教徒は入れないことがほとんどです。内部がどういう風になっているかを見れる良い機会にもなります。

イスラム教徒は「偶像崇拝の禁止」が重要な教えなので彫刻に人間や動物を創ることが出来ない。コーランの一説(文字)を装飾し、神の言葉なので美しく完璧に。アラビア語で文字が繰り返し彫刻されています。その文字は今と同じアラビア文字なので読むことが出来ます。繰り返し神を称える言葉が視界に入ってくることによって神に近づき祈りは深くなる。

偶像崇拝が禁止なので回教寺院には祭壇はないのがモスク。では何に向かって祈るかというとメッカにあるカーバ神殿に向かって。回教寺院に入るとメッカに向かい祈ることが出来るミヒラーブいう部分がある。そこを美しい装飾で飾った。

*(実際コルドバのメスキータのミヒラーブは少し角度がずれています。もともとあった教会をもとに作った関係上基礎を移動させることが出来なかった様です)今はスマートフォンのアプリでメッカがわかるようになっています。

良く「アニメのメッカ」とか「スポーツのメッカ」とかいう言葉の「メッカ」はここからきています。サウジアラビアにあるイスラム教徒の最大の聖地。巡礼地。

スペイン・後期ウマイヤ朝絶頂期

アブドゥラーマン3世は自らをカリフとして僭称しバグダッドとの主従関係を断ち切り独立したカリフすなわち王となった(929年)。この時代がスペイン・ウマイヤ朝絶頂期。メディーナ・アサーラ宮殿を作りメスキータも増築が進む。次のアルハカム2世の時には貿易も盛んになりイスラム圏とヨーロッパ諸国をつなぐ架け橋となり人と物が移動し繁栄した。

軍事力は強化され北部のキリスト教徒の地域に軍事遠征が行われる。国家収入は商品取引による租税で占められた。都市では絹織物、陶器類、金属製品、武器や紙農産物などが取引された。取引相手は同じイスラム圏だけではなくヨーロッパのキリスト教徒圏も含まれていた。

アルアンダルスからはオリーブ油と織物や手工芸品等が輸出されヨーロッパからは毛皮、金属、武器、奴隷(スラブ人の白人奴隷とスーダンから黒人奴隷)を輸入した。

西方の真珠<コルドバカリフ王国>

人口は50万人モスクや大学、公共浴場、図書館が作られヨーロッパ最高の大学として数学、天文学、医学、化学などの中心だった。メスキータはさらに増築され一度に2万5千人もの人が礼拝できたそう。

<メスキータの塔、現在は大聖堂の鐘楼になっている>

コルドバ、メスキータ、塔
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José Luiz Link back to Creator infobox template
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(required by the license) © José Luiz Bernardes Ribeiro / CC BY-SA 3.0

スペイン・後期ウマイヤ朝はバグダッドに対抗し多くの学者を厚遇を持って受け入れ図書館を作り大学を創り学者を集めた。当時の図書館の蔵書は60万冊と言われている。

キリスト教ヨーロッパにまだこの時代大学はなかった時代ボローニャやパリに大学ができるのが12世紀。。コルドバはヨーロッパ中世の数学、天文学、医学、化学や文学など諸学問の中心地であった。その後約400年間にわたって学問の中心地となる。(レコンキスタのあとキリスト教徒たちによって知識の継承がされていった)西方の真珠と呼ばれた。

次第にキリスト教徒のレコンキスタが進んで1031年コルドバは陥落する。

メスキータは壊されずキリスト教徒の礼拝堂が内部の端の方に創られ日曜日にはキリスト教徒金曜日にはイスラム教徒が礼拝をして仲良く使っていた。

<メスキータ内部の礼拝堂部分>

コルドバ、メスキータ、礼拝堂

陥落後コルドバの学者たちはトレドに呼ばれこの後はキリスト教世界で厚遇され様々な知識がキリスト教世界へ伝わって行った。

 

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アル・アンダルスにウマイヤ家の王子がやって来た

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スペインの歴史がほかのヨーロッパと大きく違うのはこの700年以上にわたるイスラム支配。スペインに711年に入って来たイスラム教徒たちはイベリア半島をほぼ制圧。ローマ時代の橋や幹線道路が半島中に巡らせれていたので(今も使えるものがある)それらの道路を使いイベリア半島ほぼ掌握する。西ゴートの貴族階級は抵抗せずイスラム軍と和解する方を選んだようだ。

イスラム支配

北部の山岳地帯をのぞいてはアル・アンダルスと呼ばれ首都をコルドバに定めた。シリアのダマスカスからの<ウマイヤ朝のカリフ>の支配下にはいり総督を派遣しイベリア半島を統治した。カリフはアミールを呼ばれる総督を派遣してイベリア半島を統治させた。

実際は差別のある混合部隊

イスラム教徒と書いているのは実際は民族的にはいろんな種族がやって来ていて共通点は宗教すなわちイスラム教徒という事だけだった。アルアンダルスはアラブ人シリア人ベルベル人などの混合部隊によって統治される。その彼らの間も軋轢や紛争があったようで特にシリアのウマイヤ朝アラブ人優遇政策を取ったので貴族や指導者階級はアラブ人でモロッコのベルベル人は山岳地帯や貧しい土地で生活を余儀なくされ格差がその後の確執の種になる。

他宗教にも寛容な政治

キリスト教徒やユダヤ教徒も税金さえ余分に払えば信仰の自由があったので財産を没収されたり戦って命を落とすより和平を選び懐柔されていく。又イスラム教徒に改宗し自由の身になる奴隷もいた。貴族階級にもイスラム教徒と婚姻関係を持ち支配階級に入るものもいたので宗教的にも寛容な時代だった。

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イスラム教徒にとってユダヤ教もキリスト教も同じ聖典の民なので宗教的な対立はなかった。これが半島の征服を容易にしたと言われる。

トゥール・ポワチエの戦い

この勢力がさらに北へ進軍しピレネー山脈を越えてフランスまで行く。フランスはフランク王国の時代。732年トゥール・ポアチエの戦いでカール・マルテルに敗れる。以降イスラム教徒たちはアル・アンダルスに留まった。(カールマルテルの息子がピピン。ローマ法王によって戴冠しそのお礼に土地をプレゼントしたのが今の法王領の始まり。さらにその息子がカール大帝)

キリスト教徒側では大勝利と歴史に名を残す大戦争になっているがイスラム側に記述では数多く戦った中の珍しく負けた戦争位の感覚だった。私たちが学校で習う世界史は全部ヨーロッパ側から見たもの。歴史は両側から見てみないと本当の理解は難しい。

ダマスカスで革命が起こりウマイヤ朝は倒れる

ウマイヤ朝の首都ダマスカスアッバース家が革命を起こしウマイヤ王朝は倒れた。もともとウマイヤ朝の成立にも不明な点があり不満分子が多かった。(4代目カリフ・アリーの暗殺はウマイヤ家によると言われている。その後ウマイヤ家はダマスカスを首都にウマイヤ朝を作った)アラブ人優遇政策など非アラブのイスラム教徒に対してもキリスト教徒と同じく税金が課せられていた。ムアーウィヤが今までの慣例に反して世襲制を導入。歴代のカリフたちの享楽的な生活などが厳格なイスラム教徒たちの非難の的だった。

アッバース家はイスラム教の始祖モハメッドの叔父の子孫。ウマイヤ朝を倒し新しい王朝が始まる。非アラブ人特にペルシャ人との融合し革命が起こった。アラブ人優遇政策をやめイスラム教徒はみな平等に非課税。ペルシアの進んだ文化と融合。

製紙法が唐から伝わる

話は少しそれますがこのアッバース朝時代中国は唐の玄宗皇帝の時代。領土拡大政策をとっていた唐に侵略されると思った弱小国家タシュケントから支援を頼まれたアッバース朝は唐と戦って大勝しています。この時の中国の捕虜の中に紙漉き職人がいて製紙法が伝わったと言われています。紙が使わることによって後に多くの古代の文献を訳したものを書き移し保存することが出来るようになる。

首都はバグダッドへ

次の時代に首都はダマスカスから今のイラクのバグダッドに移動し人が集まり大いに栄える。100万人とか150万人とかいろんな説があるがとにかく当時にしたら他に無いほどの巨大都市だった。

知恵の館

アッバース朝第2代カリフのアル・マンスール(754-775年)はビザンチンの皇帝に施設を派遣し古代ギリシャの数学の教科書、特にユークリッドの著書を求めている。そのために同じ重さの金を支払ったと伝えられている。

第7代カリフ、アル・マアムーンの時(830年)に知識吸収欲は最高潮となりバグダッドに知恵の館という政府機関を作っている。知恵の家には多数の学者を雇ってビザンチン帝国から求めてきたギリシャ語の文献をまずシリア語に訳しそれをアラビア語に訳した。ギリシャ語からシリア語に訳すのにキリスト教徒が雇われた。

国家権力を使って大規模な翻訳事業が約200年間行われ当時存在したギリシャ語の文献はほとんどアラビア語に訳されたという。訳したものを残すために紙に書くということが必要になる。その紙の製紙法は上記で触れた唐の時代の中国との戦いで手に入れた。

後期ウマイヤ朝(後ウマイヤ朝)

この革命から命からがら逃げたウマイヤ家の人々がいた。親戚筋を頼って隠れたり助けられたりしながらはるばるアル・アンダルス迄やって来てコルドバを首都にカリフ王国を創る。バグダッドも遠いところだったのであまり気にせずほっておいてくれたようで、ここからスペインで正当のウマイヤのカリフによるアルアンダルス支配、後期ウマイヤ朝(後ウマイヤ朝)が始まる。

スペインの歴史はドラマチックで次から次へと民族や宗教が変わって混血していくのです。

後期ウマイヤ朝の記事はこちらから <後期ウマイヤ朝の記事はこちら>

スペインの歴史ダイジェスト版はこちらから  <スペインの歴史ダイジェスト版>

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西ゴート(ビシゴート)王国の崩壊

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スペインの歴史は複雑で様々な民族が足跡を残していった。ローマ帝国を崩壊させたゲルマン民族の大移動。西ゴート王国はトレドを首都にした繁栄するが実は裏切りと陰謀の世界。人間の本能は古代から同じで嫉妬と欲望の末大抵の王国は陰謀が渦巻き滅びていく。西ゴート王国も例外ではなく王室で日々血なまぐさい事件が続く。

西ゴート(ビシゴート)王国末期

国王と国王を選出する権利を持った大貴族と高位聖職者の間での利害関係の衝突で常に不安定な状態が続いていた。

506年にイベリア半島で西ゴート王国が始まって711年までに26人の国王が誕生した。204年間で26人もの国王の交代。陰謀に次ぐ陰謀。

<西ゴート王国首都トレド>

トレド展望台

711年スペインにイスラム教徒がやってくる

7世紀にアラビア半島で始まったイスラム教は急速に北アフリカを征服。シリアを首都にウマイヤ朝が始まっていた。

あまりにも早い伝搬に何故と思うのですが一説にはビザンチン帝国の弱体化と一部のコプト教徒(キリスト教の一派)はビザンチン支配を嫌いイスラムを受け入れたと言われている。それにしても一気に伝搬している。

8世紀初めには南スペインジブラルタル海峡をはさんでアフリカ側(現モロッコ)にすでにイスラム教徒が来ていた。混乱する西ゴート王国、民衆の中にも不満が高まっている中、北アフリカ原住民ベルベル族を中心とする総勢12000人のイスラム教徒が711年にイベリア半島に上陸。イスラム帝国北アフリカ総督ムーサの命令のもと凄腕指揮官ターリク・ブン・ジアードが率いる軍がジブラルタル海峡を渡って来る。彼はそこにあった岩山を自分の名前を付けジャバル・アル・ターリク(ターリクの岩)と名付けた。ここを今私たちはジブラルタルと呼ぶ。「スペインの歴史は違う」と言わるイスラム支配がここから始まる。

そこは14キロの海峡でヨーロッパとアフリカが一番近いところ。大西洋と地中海の入り口で今も戦略的に重要なところです。海峡のヨーロッパ側は現在イギリス領。

<ヨーロッパとアフリカの間の海峡>

ジブラルタル海峡

*イギリス領になった経緯:1700年スペインのカルロス2世が子供が無いまま他界。スペイン王位を狙ってハプスブルグとブルボンが戦争になりヨーロッパ各国は利害が絡みブルボンの勝利となる。この戦争でイギリスがスペインから奪ったのがジブラルタルで今もイギリス領土。

<スペイン側から、向こうに見える山はジブラルタル>

ジブラルタル

 

ある美女の伝説

話は戻り西ゴート王国。北アフリカのセウタ総督フリアン伯爵の令嬢フロリンダはトレドの宮殿に行儀見習いとして来ていた。とっても美しいフロリンダに国王ロドリーゴは思いを寄せていた。でも全く相手にしてもらえない。ある日彼女がタホ川で水浴びをしていたのを見つけたロドリーゴ王は無理やり思いを遂げる(今なら合意なのか強姦なのか裁判で争点になる部分)泣きながら顔を晴らした娘から話を聞いたフロリンダの父親は国王に復讐をすると娘に誓う。そしてセウタの城門を開けイスラム教徒たちイベリア半島に入れる手引きをし、娘の復讐を果たした。真偽のほうは不明だそうで歴史ではなくあくまでも伝説。

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トレド陥落

イスラム教徒の軍がジブラルタル海峡を渡ったころ西ゴートの国王ロドリーゴは北スペインのバスク人の紛争の鎮圧のためにパンプローナに駐屯していた。慌てて10万人(一説には3万3千人)の西ゴート軍は南下するが大敗。おそらく味方同士の裏切りや兵士の士気の低下が原因と言われる。また西ゴート軍の大部分は貧しい農民や奴隷からなる歩兵部隊で斧やこん棒などで武装していても訓練は行き届いていなかった。

グアダレーテの戦い

<グアダレーテの戦いを指揮するロドリーゴ王>

グアダレーテの戦い
wikipedia CC

南スペインのへレス・デ・ラ・フロンテーラ近くのグアダレーテ川の戦い。実はロドリーゴ王に不満を持つ西ゴートの貴族たちはターリクと密約をかわし国王を裏切っていた。国王を殺させてうまく立ち回ろうとしていたようだ。士気の下がった西ゴート軍の隙間にイスラム兵たちが切り込み西ゴート軍は敗走を始めるが川の流れが急で川幅も広く多くの西ゴート軍は溺れ死んだ。国王を裏切った貴族たちも殆ど助からなかったと伝えられる。

<現在のグアダレーテ川>

グアダレーテ川
wikipedia CC
Source Own work
Author
Emilio J. Rodríguez Posada (1986– ) Link back to Creator infobox template wikidata:Q30564104

ロドリーゴ王の行方は分からず戦場には王の白い愛馬の遺体が横たわっていた。馬具にはきらびやかな宝石をつけたまま。そしてその近くには王のブーツが片方あったそう。これであっけなく西ゴート王国は崩壊した。

トレドはその後も文化都市だった。

トレドはイスラム圏に入るがイスラム教徒寛容な政策をとりキリスト教徒やユダヤ教徒も人頭税だけ払えば信仰の自由があった。長い間キリスト教徒の学者が訪れイスラム文化への窓口になり多くの学者が学ぶ3つの文化の融合する都市となる。アラビア語の哲学書や数学書などがラテン語に訳される翻訳集団ができる。

<トレド大聖堂13世紀から15世紀の建築>

トレド大聖堂

 

個人的に気になっている部分があって亡くなったロドリーゴ王の妃なんですが・・・「その後ウマイヤ朝北アフリカ総督ムーサ―の息子と結婚した。」とあって。国王を裏切ったのは西ゴートの貴族じゃなくって奥さんだったんじゃないのかしら・・・・・とほぼ想像ですが確信しています。総督の息子と結婚って若かったのか息子が年上好みだったかは謎。歴史の後ろに女の恨み。今も昔もよく似た事件があるものです。

イスラム勢力は716年ころにはイベリア半島のほとんどを征服。一部の西ゴート王国貴族や聖職者たちが持てるだけの財宝や聖遺物を持って北スペインの山岳地帯(アストゥリアス地方やバスク地方)に逃れた。その中に西ゴートの王の血を引くペラーヨがいた。

この後レコンキスタが始まり再びキリスト教徒がイベリア半島を奪い返していく。

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