支倉常長率いる慶長使節団とサン・ファン・バウティスタ号出港まで。日本とスペインの交流の歴史

 

慶長遣欧使節団。代表は支倉常長(はせくらつねなが)43歳、仙台藩士。江戸時代に伊達政宗の遣いの侍達がメキシコ経由でスペインとローマに旅をした。キリスト教禁止令が出ている時代おそらく江戸幕府との密約があったのではと想像されている。日本政府からの公式の使節としては最初の使節団で2013年には400年祭を記念して両国間で様々なイベントが行われた。日本が作ったガレオン船サン・ファン・バウティスタ号で月の浦港を出港し太平洋を航海してメキシコまで行きスペインの船に乗り換えて大西洋を渡り本国スペインへ上陸。地中海を渡りローマではローマ法王に謁見して日本に戻った7年に渡る侍の旅の物語。非常に長くなるのでここではサン・ファン・バウティスタ号の出港までを書いています。

時代背景


当時のヨーロッパ

スペインとポルトガルが大航海時代を先行しており世界を2分して争っていた。スペインはフィリピンを植民地にし1年から2年をかけて太平洋を渡りフィリピンのマニラとヌエバ・エスパーニャと呼ばれたメキシコのアカプルコを大型船マニラ・ガレオンで西回りの香辛料貿易を行っていた。西回りの航路はマゼランによって既に1521年に発見されている。ポルトガルは喜望峰を通りインド航路からマカオへ行く東回りの香辛料貿易を行っておりどちらも既に日本にやって来ていた。

下地図は白線がスペインのマニラ・ガレオンの航路、青線がポルトガルの航路。

マニラガレオン航路
By World_Topography.jpg: NASA/JPL/NIMAderivative work: Uxbona (talk) – World_Topography.jpg, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10344087

時代はプロテスタント(新教)諸国が登場しカトリック国スペインを苦しめていた。海上の支配権をめぐりスペインポルトガルが揉めていたが、スペインのフェリペ2世がポルトガル王位を手に入れ制海権を支配する中、今度は新興国が参加し始める。イギリスとオランダは対スペインで結束をはじめスペインのフェリペ2世はイギリス女王エリザベス1世との結婚を画策するが失敗。カトリック国のフランスも対スペインで動く。ネーデルランドがスペインに対し独立戦争を開始すると後ろからイギリスはそれを支援した。そこでフェリペ2世は大艦隊をイギリスに向けドーバー海峡で両国の激突したアルマダの海戦(1588年)はスペインの敗北で終わる。

<アルマダの海戦>

アルマダの戦い
wikipedia public domain

フェリペ2世没後即位したフェリペ3世は政治に関心が薄い王で日の沈む事無き大帝国スペインの斜陽の時代が始まる。フェリペ2世1598年没、同年大阪城では豊臣秀吉が亡くなっている。

リーフデ号とウイリアム・アダムス

対スペインで動くイギリスのエリザベス女王がアジア圏の貿易に目を付けていた頃だった。イギリス人ウイリアム・アダムスは子供の頃船大工に弟子入りするが造船より航海術に興味を持ち海軍に入る。フランシス・ドレークの指揮下アルマダの海戦に参加している。その後も航海の仕事でオランダ人船員たちと交流を深めロッテルダムから極東を目指す航海に弟と参加した。5隻で出港するが嵐やスペイン船の攻撃や赤痢や原住民で散々な目に合い唯一残ったリーフデ号は日本の大分の島に漂着した(1600年4月29日大分県豊後臼杵の黒島)。

<リーフデ号>

リーフデ号
パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=298229

日本は大量に積んでいた武器や弾薬、火縄銃を没収、イエズス会の宣教師たちはオランダ人とイギリス人を海賊と忠言し即刻処刑するように要請したが家康はこれを無視。ウイリアム・アダムスとヤン・ヨーステンは徳川家康に気に入られ後に江戸に招かれる。その約半年後の関ケ原の合戦で家康が勝利を得たのは小早川秀秋の寝返りだけでなくリーフデ号から没収した大量の武器弾薬を使えたことが有利に働いた。ウイリアム・アダムスはその後三浦按針(みうら あんじん)と名乗り家康に仕え幾何学や数学、造船や航海術等の知識を授けた。

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スペイン船の漂着

1609年マニラからアカプルコに向かうマニラ・ガレオンが台風で千葉の海岸に打ち上げられ、乗船していたドン・ロドリーゴ一行は地元住民に助けられた。場所は九十九里浜の中ほどにある御宿(おんじゅく)。ドン・ロドリーゴはスペインの貴族でフィリピンの臨時総督在任中にマニラで日本人暴動が起こった際に徳川家康に書簡を送った周知の人物だった。次期総督との交代の為マニラからアカプルコへ向かう船旅で難破するが地元民に助けられ大名・本田忠元(ほんだ ただもと)の歓待を受け江戸城で家康に会見している。ウイリアム・アダムス(三浦按針)が建造したガレオン船サン・ブエナ・ベントゥーラの提供を受けアカプルコへ帰還して行った。約1年間の日本滞在時の事をドン・ロドリーゴ日本見聞録として執筆している。

 

家康の目的

この時家康は幕府の船を提供しているがその見返りに銀の精錬技術を持った技師の派遣を申し入れている。返答は精錬した銀の大半をスペインが手に入れるというもので話の折り合いがつかなかった。

*メキシコの精錬技術:銀は鉱石のなかで金と一緒になっており日本ではこの分離に苦労していた。メキシコでは化学反応を利用し水銀を混ぜるアルガマム法(パティオ法)を利用していた。

*スペイン国王フェリペ3世がその礼にとビスカイーノに届けさせた一台の置時計は今も静岡市久能山東照宮に保管されている。

セバスティアン・ビスカイーノ
ビスカイーノ肖像
パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=374036

上記ドン・ロドリーゴの救済の礼を述べる為ーという名目で日本にやって来たのがセバスティアン・ビスカイーノだった。セバスティアン・ビスカイーノはスペインの探検家でマニラ・ガレオンの貿易商人だが今回は大使の役割。徳川家康はメキシコの鉱山技術に興味がありその要請に沿ったものだったがスペイン側はキリスト教の布教が前提で最終合意は至らなかった。ビスカイーノは後に支倉と共にサン・ファン・バウティスタ号でヌエバ・エスパーニャに戻る。ビスカイーノが日本に来た本当の目的は日本の近郊にあると信じられていた金銀島の探索だった。1611年にサン・フランシスコ号で神奈川県の浦賀に到着し徳川秀忠と家康に謁見し沿岸部の測量の許可を得て仙台に向かい仙台城で伊達政宗に会う。この時通訳をしたのがスペイン人修道士ルイス・ソテロだった。測量中に三陸大地震に遭遇しているが船の上だったので無事だった強運の持ち主。金銀島は見つからずヌエバ・エスパーニャへ戻る途中暴風雨に逢い船は破損し日本に滞在し帰国のチャンスを狙っていた。

 

ルイス・ソテロ

セビージャ出身のルイス・ソテロはフランシスコ会の修道士。支倉と共に後にスペインとローマ迄旅をするキーパーソン。サラマンカ大学で学びフランシスコ会修道会に入りヌエバ・エスパーニャ(現メキシコ)からマニラに渡りそこで日本人キリスト教徒の指導をしながら日本語を学んだ。1603年にフィリピン総督の書簡を携えて徳川家康に謁見。上記座礁船のドン・ロドリーゴとの通訳も務めた。伊達政宗との出会いは政宗の側室の病気を治療した事による。

伊達政宗


伊達政宗1567年~1636年

生まれは山形県米沢市。戦国大名で伊達家の17代党首、仙台藩の初代藩主。4歳の時に天然痘で右目を失明。秀吉が天下統一に向かうと秀吉の配下に入り朝鮮出兵にも従軍。関ケ原の戦いでは徳川家康側についた。1601年に仙台城を築城し初代仙台藩主として君臨。朝鮮出兵時の伊達藩のいで立ちが奇抜で「伊達な、伊達者」という言葉になったという。政宗は南蛮文化に興味を持っていたようでサテンやビードロ、合羽や象牙を所有していた。デザインが南蛮風の陣羽織が複数現存する。

伊達政宗像
筆者撮影
慶長大地震

1611年12月に大地震が東北地方を襲ったことが分かっている。2011年東北大震災規模の地震で大きな津波がおこり仙台藩の沿岸部は大きく被害を受けた。政宗公は仙台の復興の一環としてマニラからメキシコのルートに仙台を挟み貿易港として栄えるという計画を考えた。

もともと日本と外国の貿易はポルトガルの貿易商人のルートでインドのゴアからマカオを経由し西日本の大名を中心に行われていた。ところがスペイン人修道士アンドレス・デ・ウルダネータがメキシコからフィリピンまで大西洋を横断する航路を発見した(1565年)。

<アンドレス・ウルダネータ>

アンドレス・ウルダネータ
パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1185086

ウルダネータはバスク人探検家。後にアウグスティーノ会の修道士になりフィリピンからアカプルコにいたる航路を開拓。この航路は「ウルダネータ航路」と呼ばれこれによりスペインのマニラ・ガレオン貿易が発達する。伊達政宗はこのメキシコ・マニラ間に仙台を組み込む貿易の計画を立てていた。

造船と銀の精錬方法

伊達政宗の狙いのひとつは海洋先進国のスペインからガレオン船の建造方法や船の操作方法を手に入れたかった。幕府は既にウイリアム・アダムスの協力により外洋船を創っており伊達藩も造船技術を手に入れたかった。又家康も興味を示した銀の精錬方法をメキシコから直接手に入れたかった。ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)で行われている化学変化を用いる銀の精錬法アルガマ法を学んで来るという目的が有った。

討幕説

スペインやメキシコ、ローマのキリスト教徒と組んで伊達政宗は幕府を倒そうとしていたかも、という説があるらしい。もしもここでスペインと政宗が江戸幕府を倒していたら日本の歴史は随分違ったものだったと、想像するのも悪くはない。

江戸幕府のキリスト教対策


伴天連追放令
徳川家康
By 大阪城天守閣, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9558314

遣欧使節が出発する前年1612年に江戸幕府は直轄地でのキリスト教の禁止を命じ、さらに翌年1613年にはそれを全国に広げ伴天連追放令を出している。慶長使節団が出発する半年前の事だ。この時にソテロは信者の元に救援に行き自分も火あぶりの刑に処せられることになった。足元に木がくべられた時に伊達政宗の嘆願の書簡が届き助かっている。この禁教令で高山右近らは国外追放されるが取り締まりが本格的に厳しくなるのは家康亡き後の1619年の禁教令からとなる。

サン・セバスティアン号

江戸幕府はキリスト教は禁止するが海外との交易には興味を持っておりビスカイーノの提案によりメキシコとの通商の交渉の準備を進めていた。家康はリーフデ号をモデルにウイリアム・アダムスに命じ船を建造。サン・セバスティアン号と命名し出発の準備をしていた。約100トンのサン・セバスティアン号はルイス・ソテロを船長に1612年浦賀を出発するが暴風雨と積荷が重すぎて船は沈没している。

この頃から家康はオランダとの関係を優先しはじめスペイン人ビスカイーノの立場は微妙なものになって行った。またビスカイーノの本来の目的「金銀島を探し出す」が家康の耳に入り次第にスペインに腹を立て冷淡になっている。オランダは貿易のみを求めておりスペイン・ポルトガルはキリスト教の布教も強く求めてくる。オランダ、イギリスはスペインの悪口を吹聴し次第に幕府の交易と興味はオランダへ傾いていく。

支倉常長(はせくら・つねなが)1571年~1622年?

支倉常長は600石の知行を持ち伊達政宗に仕えた伊達藩士。秀吉の朝鮮出兵も同行している。航海と外国での経験と共に万が一不成功に終わった場合を考慮しての人選だった。

サン・ファン・バウティスタ号の建造
サン・ファン・バウティスタ号
筆者撮影

立場が悪くなりメキシコへも帰れないビスカイーノに政宗は新しい話を持ち出し手を組んだ。ここにサン・ファン・バウティスタ号の建造とメキシコ行きの準備が整った。当時の日本には太平洋を渡れる船を作る技術は無くビスカイーノの知識と技術を手に入れ海外との貿易を目指したかったのが伊達政宗だった。

船の建造は仙台石巻の牡鹿半島にある月の浦港(つきのうらこう)。一年半の歳月をかけて大工や鍛冶屋や荷役がかかわった震災復興大事業となった。*船の建造地としては雄勝町(おがつちょう)呉壺(くれつぼ)説もある。

ビスカイーノは早く日本を発ちたいが簡単に船の先端技術を教える気は無くわざとマストを少し短くし帆を大きく扱いにくく創らせている。

サンファンバウティスタ号の出港


サンファンバウティスタ号
筆者撮影

船の大きさは約500トン。

全長55.35m

最大幅11.25m

吃水約3.8m

メインマストの高さ32.43m

これだけの船を45日間で完成させている。

180人の乗組員の中には幕府の役人、仙台藩士、商人達等日本人140人とスペイン人航海士など40人がいた。海賊に遭遇した時の為大砲24砲を備えた武装商船だった。

1613年(慶長18年)10月28日満月の日、政宗公からスペイン王やローマ法王に充てた書状を持った支倉常長、ルイス・ソテロ、セバスティアン・ビスカイーノを乗せたサン・ファン・バウティスタ号は満月の夜出港していった。

続く

聖フランシスコ・ザビエル、日本にキリスト教を伝えたスペイン人ザビエルとイエズス会の宣教師たち。

 

 

フランシスコ・ザビエルはスペイン人(バスク人)のイエズス会宣教師。ポルトガル王に派遣されアジアへ向かった。この頃スペインは女王フアナ1世(狂女ファナ)の時代。女王は既に城に幽閉され深い精神の闇の中で生き、ファナの息子カルロス5世(カルロス1世)がスペイン王と神聖ローマ帝国皇帝として君臨していた。カルロス5世の息子、フェリペはすでに最初の妻を亡くし22歳になっていた。イギリスではカトリックから破門されたヘンリー8世は既にこの世になくメアリー・チューダーの即位少し前、ドイツでは宗教改革のマルティン・ルターは3年前にこの世を去っていたがヨーロッパはカトリックとプロテスタントで分断されていた。鹿児島にザビエルが到着した1549年、信長15歳、秀吉12歳、家康6歳、ヨーロッパでも日本でも歴史の大物が同時に登場した。片道切符でリスボンを出発しアジアでキリスト教の布教に努め中国で亡くなったフランシス・コザビエルの人生を追ってみました。

時代背景


何故ポルトガル王からの派遣だったか
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大航海時代に入っていたスペインとポルトガルが海外領土で揉めないように条約が結ばれた。1494年スペインのトルデシージャスで結ばれた条約で大西洋に縦に線が引かれスペインは西へポルトガルは東へと行先が決まった。東へ向かったポルトガルはインド航路発見の後インドのゴアを武力で手に入れマラッカ迄も手中に収めていた。香辛料貿易を独占したポルトガルは貿易網を拡大し世界的な交易システムを築き上げた。マラッカはインド洋から南シナ海へのルートで古代からの需要な海の十字路だった。ポルトガルはそのマラッカを手に入れ多くの貿易商人達が居住していた。

ポルトガルの交易路
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Attribution: The Red Hat of Pat Ferrick at the English language Wikipedia

更に明王朝の中国にまで進出したポルトガルは1517年には広州で貿易を開始しマカオに居住しはじめた。

<マカオの聖ポール教会>

マカオの聖ポール教会
パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=173567

 

ポルトガル商人達は火器を香辛料に替えインドのゴアに集め喜望峰を回ってリスボンに持ち帰った。それらはアントワープやロンドンに運ばれリスボンにはお金と人が集まった。ポルトガルのアジアの香辛料貿易は国家事業となりドイツのフッガー家も出資した。種子島にポルトガル人が到着したのはこの時代(1543年)で日本に火縄銃が伝わった。

<種子島銃>

種子島銃
Arquebus.(Tanegashima Hinawajyu・Japanese:種子島火縄銃)
this The Arquebus is in the Portugal Pavilion in Expo 2005 Aichi Japan.
Photo by Gnsin

1550年には平戸に商館を置いて中国産の生糸や火縄銃に使う火薬の原料を中国で安く買い日本で高く売りつけて大儲けをした。九州では大名たちがこの利益にあやかった。種子島にポルトガル人がやって来たときの船をチャーターしたのはマラッカから東アジアを中心に活躍していた倭寇の王直で海賊の頭だった。

<倭寇のルート>

倭寇のルート
Source Transferred from en.wikipedia to Commons.
Author The original uploader was Yeu Ninje at English Wikipedia

鉄砲が作れるようになっても火薬と玉が無いと武器として役には立たない。玉を作る鉛は国内にもあったようだが火薬の原料は硫黄、木炭、硝石で日本では硝石が取れずインドから輸入した。王直が硝石の取引をはじめ信長が大量に買い硝石貿易で随分とお金が動いた。

ポルトガル王ジョアン3世(1502-1557)

この大事業をやっていたのがポルトガル王ジョアン3世。ジョアン3世はスペインのカトリック両王の孫にあたる人物で父親はマニュエル1世、母親はイサベル女王の3女マリア。

<ポルトガル王ジョアン3世>

ポルトガル王ジュアン3世
By クリストヴァォン・ロペス – From en:Image:John III of Portugal.jpg, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=481187

ジョアン3世の結婚相手は同じくカトリック両王の孫のカタリーナ王女。カタリーナ王女は狂女ファナの末娘でトルデシージャスの城に幽閉されながらも最後まで手元に置いていた王女だ。

<トルデシージャス城で末娘カタリーナと暮らす狂女ファナ>

ファナ トルデシージャス
Francisco Pradilla, La Reina Juana la Loca, recluida en Tordesillas con su hija, la Infanta Catalina, 1906 – Museo del Prado

イグナチオ・デ・ロヨラが新しい修道会を創設したと聞いたジョアン3世はアジアのポルトガル植民地の異教徒へキリスト教徒を布教する宣教師を派遣してほしいと頼んだ。

*ジョアン3世とカタリーナ王妃の間に9人の子供が生まれるが育ったのは2人だけだった。一人娘はスペインのフェリペ2世と結婚したマリア・マヌエラ、皇太子ジョアン・マヌエルは病弱で16歳で父王より先に早世する。16歳で既に結婚はしており亡くなる少し前に息子が生まれセバスティアンと名付けられた。世継ぎセバスティアンが無謀な戦争に出かけて早世した結果スペインのフェリペ2世にポルトガルは併合されてしまう。

イエズス会の結成


この時代のヨーロッパではカトリックの総本山サンピエトロ寺院の建設にお金がかかり過ぎ、困ったローマが考えついた錬金術が免罪符の販売だった。搾取が多かったドイツを中心にローマ・カトリック教会に対しての反発から宗教改革が始まっていた。スペインを中心にカトリック側では倒れかけた教会を守るために様々な改革が行われるようになりその一環で対抗宗教改革が始まった。この背景の中で結成されたのがイエズス会だった。

イグナチオ・デ・ロヨラ

イエズス会はスペイン北部出身のバスク人イグナチオ・デ・ロヨラによって結成された当時の新しい修道会。ロヨラは若いころは戦争での功名を狙った戦士で現世の出世を願う人物だった。パンプローナでの戦いで負傷し治療中にキリスト教の聖人伝を読んでいるうちに熱中し元気になるころには神の戦士になっていた。ロヨラには申し訳ないがマニアックで狂信的なタイプの人だったと想像している。心を入れ替え瞑想と巡礼をし新しい境地を開き自分の信じた道へ突き進んでいった。

<イグナチウス・デ・ロヨラ>

イグナチウス・デ・ロヨラ
By 匿名 – http://www.spiritual-exercises.com/images/ignatius2.jpg, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=86025

その時にロヨラが作った瞑想法、心霊修業がイエズス会の修行法に今も使われている。パリ大学で仲間を見つけ異教徒と戦う戦士の為にとエルサレムに行こうとしたが不可能だったのでアジアへ行先を変えた。最初の予定ではポルトガル人のシモン・ロドリゲスとスペイン人のニコラス・ボバディージャの2人だったがニコラス・ボバディージャが重病にかかりピンチヒッターで決まったのがフランシスコ・ザビエルだった。

フランシスコ・ザビエル(フランシスコ・ハビエル)


1506年4月7日にナバーラ王国の貴族の子としてパンプローナ近くザビエル城で誕生。父方の祖父は農業を営んでいたがザビエルの2代前の人物が有能でパンプローナに出て来てナバーラ王室に仕え功績を立てた。父親も仁徳も学識もある人物で首相のような地位にいた。母は貴族の出でザビエル城は母の持参金の一部だった。

<スペイン北部パンプローナ近くのザビエル城>

ハビエル城
CC BY-SA 3.0 es
Source Own work
Author Rayle026

ナバーラ王国は交通の要所で重要な位置にあった。フランシスコ・ザビエル6歳の時にフランスとスペイン間で戦争が起こりザビエル9歳の時にスペインに併合された。今はスペインの17州のひとつナバーラ州となっている。父親はその心労で亡くなり王国が滅び家族の苦労を見て育ったザビエルは当時の若者が抱く出世や一攫千金等の夢は無く大学へ進み故郷の為に家の復興を助けたいと願う若者だった。

ロヨラとの出会い

1525年18歳でパリ大学へ留学し抜群の成績で卒業する。そこで知り合ったのがイグナチオ・デ・ロヨラだった。ロヨラは15歳年上の37歳で大学へやって来た変わり者、ザビエルはパリのソルボンヌ大学の聖バルバラ学院で既に哲学教授の講義をしていた大学教授だった。

大学の寮で同室になったロヨラをザビエルは初め遠目に見て避けていたようだ。パリ大学の教授の職を得ていたが次第にロヨラの言葉に感銘を受け1533年28歳の時に神の使徒として働く決意を固めた。1534年28歳の時パリのモンマルトル聖堂で6人の同士と共に清貧と貞潔を誓いキリストに従い聖地へ巡礼を誓う。8月15日聖母マリア聖天の日だった、この日がイエズス会創立の日となる。

<イエズス会16世紀の紋章>

イエズス会紋章
By Collegium Societatis Jesu – Annuae litterae Societatis Jesu: anni MDLXXXIV, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=50510456

ザビエル達「イエズス会同士」は聖地エルサレムへ向かう船に乗る為イタリアのベニスに歩いて向かったが戦乱で出港が出来ずベニスの病院で人々に奉仕する。ローマに向かいローマ法王パウルス3世に謁見しイエズス会が法王によって正式に認可された。(1540年)

<ローマ法王パウルス3世>

パウルス3世
wikipedia public domain

 

リスボンを出発

ロヨラに選ばれたボバディージャは病気にかかりロドリゲスは宮廷に引き留められピンチヒッターのザビエルのみがインドに向かう船に乗ることになった。1541年4月7日ザビエルの35歳の誕生日だった。

<リスボン、発見のモニュメント>

発見のモニュメント、リスボン
筆者撮影

インド航路を通り13か月の船旅で1542年にインドのゴアに到着。ゴアを中心にインド沿岸からマラッカ、モルッカ諸島をめぐり5年間の布教。布教の妨げになったのはポルトガル人商人たちの生活態度だった。拝金主義が横行し目の前の快楽におぼれる人々を見てフランシスコ・ザビエルを悲しませた。

インドの南は読み書きの出来ない人達も多く祈りの言葉を現地の言語に訳したりメロディーをつけたり苦労した。鐘を鳴らし子供達を集め歌で祈りを教え、家に帰った子供達が歌い家族に広まるようにした。

アンジロウ

フランシスコ・ザビエルは始めはインドのゴアを中心に布教していたがマラッカ、モルッカ諸島まで巡っていた時にマラッカでアンジロウ又はヤジロウという名の鹿児島出身の日本人に会った。ザビエルがロヨラへ送った手紙が残る。「私はこのアンジロウを通じてすべての日本人を想像しますと今迄発見された民族の中で最も研究心の発達したものだと考えます。」

アンジロウ又はヤジロウはおそらく日本で犯罪を犯して亡命し、悔悛しており救いを求めてザビエルを探し当ててマラッカ迄来ていた。罪を悔いておりザビエルを訪ねたがその時不在の為あきらめて船に乗って鹿児島へ戻ろうとしたら船が大時化に会いザブ~ンとマラッカに戻され運よくフランシスコ・ザビエルに謁見ができた。彼の出自や本名などは不明、ザビエルが日本を去った後布教活動から離れ海賊になった、又は仏僧の迫害を受け日本出国を余儀なくされ中国付近で海賊に捕まった等諸説ある。(*以降アンジロウで統一)

ザビエルはアンジロウと2人のお付きの日本人にゴアの学院でポルトガル語と教理を勉強させ洗礼を授けた。1549年4月15日ゴアを出発し中国船に乗り換えアンジロウの故郷鹿児島を目指す事となった。

ポルトガルのカラヴェル船
By Unknown – Livro das Armadas, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=28565761

 

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鹿児島へ

ポルトガル船が種子島についてから6年が経っていた。フランシスコ・ザビエルが鹿児島へ入港したのは1549年、奇遇にも聖母マリア聖天の日8月15日。同行したのはコスメ・デ・トルレス神父、フェルナンデス修道士、アンジロウと2人の日本人、中国人とインド人。

<南蛮寺が描かれた屏風>

南蛮屏風
By attributed to Kano Domi – 不明, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=353058

9月29日薩摩の領主島津貴久に一宇治城(イチウジジョウ)にて謁見が許されポルトガル船の貿易に魅力を感じていた島津は領内での布教の自由を与えた。フランシスコ・ザビエルはアンジロウの助けを借り日本語を学び布教を始めた。

島津家の菩提寺である福昌寺の住職、忍室(ニンジツ)と親しくなり2人は寺の縁側で語り合ったようで誠実なザビエルの人柄が重職に伝わったようだ。1年間の鹿児島滞在中に100人の人々に洗礼を授けた。しかし期待したポルトガル船がやってこないので島津は布教を禁止する。

都へ、京都へ

鹿児島を出発して平戸へ向かう。大名松浦の家来木村という侍とその家族に洗礼を授けザビエルは京へ向かう。木村の孫のセバスティアン木村は日本人最初の司祭となるが1622年に長崎で殉教している。

フランシスコ・ザビエルはその後博多へ渡り大内義隆の領内山口へ渡り一か月滞在。岩国から船で堺へ。貧しい身なりの外国人の旅人をかわいそうに思った堺の商人が豪商「日比谷了慶ヒビヤ・リョウケイ」を紹介してくれた。当時にしては珍しい瓦屋根3階建ての建物に住む富豪で了慶は後にコスメ・デ・トルレス神父やルイス・フロイスの面倒を見、自宅を教会に開放している。その屋敷のすぐ近くに千利休が住んでおり了慶は他の商人達と同じく茶人でもあり千利休とも親しくしていた。了慶は後に自身も洗礼を受けており、利休も洗礼したという説がある。茶室は神聖な場所でミサにふさわしく利用したかもしれない。茶道の帛紗(ふくさ)の使い方とミサの所作が似通っているのは以前から指摘されている。

<千利休>

千利休
By painted by 長谷川等伯, calligraphy by 春屋宗園 – http://www.omotesenke.com/image/04_p_01.jpg , Omotesenke Fushin’an Foundation, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=735711

堺の港は遣明船の発着港で日明貿易で栄えてた。種子島に鉄砲が伝わるとすぐその製造法が堺の商人によってもたらされ堺の経済を発展させていた。ポルトガル商人の窓口は平戸や長崎だったが堺の商人は九州に出向いて絹や生糸と銀を交換した。商人達が自治権を持ち街の周りに堀をめぐらせ武士の侵入を防いだ。有力商人達が会合衆(えごうしゅう)と呼ばれ力を持ち街を治めていた。彼らは茶の湯に集まり情報交換をしたり親交を深めており茶室は重要な場だった。イエズス会は日本の事を良くリサーチして茶の湯や茶室の事も報告されている。

 

ザビエルは日本の大学として聞いていた比叡山へ行こうと目指す。坂本という比叡山ふもとにある僧侶の街まで行くが比叡山に上る許可はもらえぬまま京都は応仁の乱で荒廃し足利将軍の政権は地に落ちていた。がっかりし鳥羽から堺へ向かう。比叡山をザビエルはヨーロッパの大学にあたる場所と考えておりで訪れたいと切望していた。

山口へ

フランシスコ・ザビエルは日本では地方の有力大名にこそ実権があると山口へ向かう。日本人の心理の一面を理解したフランシスコ・ザビエルは「日本人は体裁を重んじ、身なりによって人の品位を定める。身分の高い人物に会うためにはそれなりの身支度と贈呈品を持つのが礼儀」と知り平戸へ戻り衣服を整え時計、鉄砲、楽器、メガネ、洋画を馬の背に積み1550年に山口の城下町へ向かった。

<大内義隆>

大内義隆
By 日本語: 不明(異雪慶珠賛) – The Japanese book “Bōchō no Bijutsu to Bunka (防長の美術と文化)”, Gakushu Kenkyu-sha, 1983, パブリック・ドメイン, Link

大内公は機嫌を良くしフランシスコ・ザビエル達に「大道寺」という寺を提供し領民への布教を許した。(大内家はその後謀反を起こされ1551年に滅びる。)

 

昼夜を問わず訪問客が押し寄せ神の本質、霊魂の事、地獄や煉獄、地球の形状や太陽の運行について質問の質問にフランシスコザビエルは誠実に明快に回答をして行き人々の好奇心を満足させるが改宗者は現れなかった。

 

ある日同行のフェルナンデス修道士が通りすがりの日本人から顔に唾を吐きかけられても怒るでもなく落ち着いて静かに説教を続ける姿を見ていた民衆の中から洗礼を受けようという人物が現れ次第に改宗者が出て来た。

この頃ザビエルは「神」の事をアンジロウの訳に従って「大日」と呼び真言宗の僧侶から好感を持たれていたが良く調べると「大日」はキリスト教の「神」全知全能の創造主ではない事に気がき「大日」から「デウス」に呼び変え人々は混乱し僧侶たちと争いが起こる。

大分へ

大分港にポルトガル船が着き豊後の大友義鎮(後の大友宗麟)から招待を受けた。1551年当時22歳の大友義鎮はフランシスコ・ザビエルの人格に心を打たれ布教の許可を出したと言われるが戦後時代ポルトガル商人からの鉄砲の火薬の原料が本来の目的ではあるまいか。その30年後に自らも洗礼を受けドン・フランシスコと名乗り理想郷ムジカ(無鹿)を作ろうとする。ムジカはスペイン語で音楽の事。

<大友宗麟>

大友宗麟
By 不明 – 大徳寺塔頭瑞峯院蔵, パブリック・ドメイン, Link

そのポルトガル船にインドからの郵便物が無く宣教師たちを残しザビエルはゴアへ戻る。再び日本へ戻って来る予定だったが中国の情報を入手し「日本で布教の成功を手に入れるには中国へ」行こうと渡った上川島(広州)で熱病にかかり1552年に倒れた。46歳だった。

遺体はインドへ

上川島で亡くなったザビエルの遺体をすぐには運べないので一旦そこに埋葬された。2か月半後に墓を開けてみたら顔も体も腐敗していなく衣服も美しいままだった。マラッカの丘の上の聖母教会へ埋葬。イエズス会の神父がやって来て墓を開けるが遺体はきれいなままだった。フランシスコ・ザビエルの東洋の布教の拠点だったインドのゴアへ移動させ聖パウロ学院に安置、その後1624年にボムジェス教会に移管された。今もザビエルは銀の棺に入れられ10年に一度公開されている。

イエズス会は遺体をローマに移動させたかったが長い船旅に絶えられないだろうと右腕だけをローマへ送った。1622年3月12日カトリック教会によって聖人に列せられ「聖フランシスコ・ザビエル」となる。

ザビエル後のイエズス会宣教師たち


コスメ・デ・トルレス神父

ザビエルが去った後はコスメ・デ・トルレス神父が18年間日本に滞在し日本文化を尊重し質素な着物を着て日本人と同じものを食し地道に活躍した。ザビエルの遺志を継いで夢を実現させたのはコスメ・デ・トルレス神父だった。

ルイス・デ・アルメイダ神父

コスメ・デ・トルレス神父に感化されイエズス会に入信したルイス・デ・アルメイダはポルトガル人貿易商人で日本の貿易で巨万の富を手に入れていた。もともと南蛮外科医だったルイス・デ・アルメイダは山口でコスメ・デ・トルレス神父の誠実さに心を動かされ富と名声を捨てイエズス会に入信した。貧しい日本の田舎で子供達が間引きされ河に沈められているのを見て私財を投じ孤児院を建て命を救った。またハンセン病患者の為のホスピタルを作りマカオやゴアから自費で薬を取り寄せ多くの人々の命と心が救われた。これが日本初の病院となる。

ルイス・フロイス司祭

ルイス・フロイスはポルトガル人司祭で戦国時代に日本で信長や秀吉に謁見している。イエズス会からの命令で日本におけるイエズス会の活動を記録する事になる。この記録が「日本史」として今も読むことが出来る統一して第三者から語られた戦国時代の重要な全体像の歴史書となっている。

<ルイス・フロイスの日本史>

ルイスフロイス日本史
wikipedia public domain

 

最後に


フランシスコ・ザビエルは志半ばでこの世を去った。異国の旅で故郷を思い出す事は有ったのだろうか。インドへ出発した後日本に戻る予定だったと言われているが日本を去った後にイエズス会へ送った書簡には日本について書かれたものが無いという。南蛮商人達が日本を良いように搾取していたのは間違いなく、その後スペイン王フェリペ2世がポルトガルを併合し日本も侵略しようとしていたという説が有力だ。フランシスコ・ザビエルは日本の人々に愛着を持ち侵略されないように筆を控えたとも考えられる。ポルトガル人によって日本人が奴隷に売られているのをイエズス会は禁止するように呼びかけていた。

フランシスコ・ザビエルが洗礼した日本人のベルナルド神父がリスボンへ渡りローマでイエズス会へ入信している。おそらく最初にローマを訪れた日本人となる。長旅で病気にかかりポルトガルのコインブラで永眠した。故郷に帰らず遠い異国で屈辱もあっただろう人々の人生に思いを馳せる。

 

 

イスラム科学がルネッサンスを生み宗教改革がイエズス会を作ったという歴史のお話

 

 

イスラム科学とルネッサンス、そして宗教改革とイエズス会の登場までの歴史のお話。世界は繋がっていて歴史は絡み合って動いている。「もしもこうだったら・・」とか言っている暇はない。イスラム教が始まっていなければルネッサンスは興らなかったし宗教改革が無ければイエズス会は出来なかったのだ。イエズス会が無ければ日本にキリスト教は伝わらなかったかもしれない。フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着するのは1549年あともう少しの頃、世界布教を目指したイエズス会が結成されるところまでの歴史の物語です。

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イスラム圏は先進地域だった


バグダッドの「知恵の館」

長い間知識の先進地域はイスラム圏だった。アラビア半島でイスラム教が始まりモハメッド登場から僅か15年で巨大な大帝国を作り上げた。草原の民が作った道をアラビア商人たちは商品だけでなく文化や文明や知識を運んだ。

<商人たちのルート>

シルクロード
Whole_world_-_land_and_oceans_12000.jpg: NASA/Goddard Space Flight Center
public domain

交通網が整備され海上交通も盛んになり重要な街が貿易路として繋がった。

<ムーア人のバザール>

ムーア人のバザール
public domain
Title The moorish bazaar wikidata:Q20058474
Source/Photographer Edwin Lord Weeks

ウマイヤ朝の後のアッバース朝は古代のギリシャをはじめとする古典の知の遺産をアラビア語に翻訳して知識を継承していた。830年にバグダードに作られた「知恵の館」は図書館であり学術研究所であり天文台も併設されていた。

<13世紀の書物に描かれた当時の図書館>

13世紀のイスラム圏の図書館
By Zereshk – wikipedia public domain
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2809505

 

製紙法

タラス川の戦い(現カザフスタン751年)で唐と一戦を交えたアッバース朝が捕虜にした中国人に紙漉き職人がいた。これによって製紙法がイスラム世界に伝わる(別の説もあるそうです)。羊皮紙のコーランを作るためには300頭もの羊が必要だったが紙が伝わることで大量に作ることが出来たコーランは飛躍的に人々に伝わって行った。それまで羊皮紙にオイル・ランプから取られる煤で書かれた文字は水で簡単に消すことが出来き書類が改ざんされる恐れがあったが紙の伝搬でこれが出来なくなった事は大きな副産物だった。知識を多くの人が共有できる時代になった「紙の伝搬」は当時の社会に大きな変化を与えた。現在のインターネットの普及に似ている状態だと思う。

<13世紀?頃の紙にアラビア語で手書きの書物>

wikipedia CC BY-SA 3.0
Source/Photographer Transferred from en.wikipedia to Commons using CommonsHelper. on 9 February 2008 (first version); 9 February 2008 (second version). Original uploader was Danieliness at en.wikipedia.

 

「知恵の館」には古代ギリシャのプラトンの国家論、アリストテレスの形而上学、ユークリッド、アルキメデス、プトレマイオスの書物やヒポクラテスの医学書が積極的に集めれ訳された。インドの数学や天文学の著書が訳され最初のアストロラーベ(天文観測器)が作られた。インドとギリシャの数学を総合して代数学=アルゴリズムが確立した。バグダッドはユーラシア一の知識の宝庫だった。2003年米軍主導多国籍軍により陥落したバグダッドはそんな大切な街だった。

*古代ギリシャではすでに地球は丸かったしほぼ正確に地球の大きさを計測していた。平面充填や三角関数等の数学や物理、人はなぜ生まれ生きるか、物の根源は何なのかと哲学者が考えて暮らしていた。今から2000年以上も前の人々の知識。

12世紀ルネッサンス・知識の継承


十字軍遠征

セルジューク・トルコの拡大に驚いたビザンチン帝国がローマ法王ウルバン2世に支援を頼んだのが発端となりエルサレムに向かって聖地回復の軍が向かった。

<第5回十字軍の上陸するキリスト教徒の騎士たち>

第5回十字軍ダミエッテ上陸
wikipedia public domain

熱狂的に約200年の間合計7回略奪と残虐の限りを尽くしたが十字軍のキリスト教徒達だった。災難だったのはイスラム圏の民衆でこれは天災なのかと驚き逃げまどい焼き討ちに逢い殺戮され略奪された。十字軍遠征で人が移動し東方からの進んだ文明が遅れたヨーロッパに入って来た。

スペインのトレド

イスラム圏で大切に受け継がれた知識を今度はラテン語やカスティーリア語に訳す翻訳作業が始まった。スペインで実は戦争ばかりしていたわけではなかった。陥落した後期ウマイヤ朝のコルドバから学者が集まって来てトレドに呼ばれ厚遇された。

<トレドの街>

トレド展望台
筆者撮影

 

12世紀から13世紀にカスティーリア王のもと翻訳学校が作られアラビアの医術や天文学を積極的に取り入れていた時代があった。13世紀のアルフォンソ10世は「アルフォンソ天文表」を編纂させ17世紀(コペルニクス登場まで)ヨーロッパで使われていた。

<アルフォンソ10世賢王>

アルフォンソ10世
wikipedia public domain
Source http://www.asesoriamoran.com/historia_de_la_contabilidad.htm
Author Alfonso X el Sabio (1221 — 1284)
Permission
(Reusing this file)
PD-Old

イスラム圏とキリスト教世界の中継地点としての役割を担うトレドに翻訳集団が集まりイスラム教徒ユダヤ教徒キリスト教徒たちが協力して多くの文献をラテン語やカスティーリア語に訳した。これらによってヨーロッパは当時の先進技術に触れることになる。ヨーロッパの人々が古代のギリシャの知恵を知ったのはイスラム圏を通してだった。

イタリア・ルネッサンス


十字軍遠征をきっかけにイタリア諸都市は繁栄し香辛料の貿易で商人達が豊かな財力を手にした。胡椒などの香辛料は伝染病の予防に使われペストが流行ったヨーロッパで高価な値段で取引される貴重品だった。

<死のダンス、ペストの流行の頃の人々の人生観>

死のダンス
public domain

香辛料や絨毯、宝石等豪華な品物と共に東方からの進んだ文明が伝わって来る。繰り返すがいつの時代も商人たちは物と一緒に文化や知識を運んだ。長い間イスラム教徒達によって研究されていたアラビア語に訳されたギリシャの文献が商品と共に北イタリアに入って来て人々を刺激し科学を推し進めた。またコンスタンティノープルの陥落でビザンチン帝国の学者たちが北イタリアに逃げて来て知識を運んだ。

<コンスタンティノープルの陥落>

コンスタンティのポリスの陥落
wikipedia public domain
Source www.bnf.fr
Author Bertrandon de la Broquière in Voyages d’Outremer
フィレンツェ

お金があるところに洗練された文化が栄える。北イタリアは貿易で栄え富裕な商人たちが登場し潤沢な税金を払い国も栄えた。

<フィレンツェの街>

フィレンツェ
wikipedia CC3.0
Source Own work
Author Amada44

金融業で財をなしたメディチ家が登場しフィレンツェにプラトン・アカデミーを作った。名前はアカデミーだが学校というより仲間が集まるサロンのようなものでコシモ・ディ・メディチがメディチ家の別荘を利用してプラトンの著作をラテン語に訳させたのが始まり。コジモの孫のロレンツォもこれを引き継ぎ発展させ人文主義者だけでなく建築家や彫刻家、画家たちが集まり保護し援助した。

<ロレンツォ・ディ・メディチ、イルマニフィコ>

ロレンツォ・ディ・メディチ
wikipedia public domain

 

まだ子供だったミケランジェロは最初ドメニコ・ギルランダイオに弟子入りするがそのずば抜けた才能に感心した師匠からロレンツォ・ディ・メディチに紹介され引き取られる。ロレンツォが亡くなった後ミケランジェロはフィレンツェを離れしばらくしてからローマへ向かいローマ法王の仕事をすることになる。レオナルド・ダビンチも同じころにロレンツォ・ディ・メディチの仕事をしている。ルネッサンスのマルチ天才たちの登場だ。

 

科学者たちの登場

古典の書物がヨーロッパに伝わり絵画や彫刻、建築が発達したと同時に科学者たちは宇宙の真理を説明しようとした。世界の秩序には私たちには手の届かない神の力が関係あるに違いないと思いそれを知りたいと思った知的欲求が科学の始まりで今もそれは続いている。

遅れていたヨーロッパにコペルニクスやブルーノ、ガリレオが登場した。望遠鏡が作られ惑星の不規則な動きを見た科学者たちが天動説に疑問を持ち始めた

<コペルニクスの「天体の回転について」>

コペルニクスの天体
By Nicolai CoperniciCreated in vector format by Scewing – [1], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=31611378
<ガリレオ・ガリレイによる月の満ち欠けの研究図>

ガリレオの月の満ち欠けの研究
By Galileoyh – 不明, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=238890

*天動説=地球は不動のもので宇宙の中心にあり天体は地球の周りを廻っているという説。2世紀プトレマイオスが宇宙を説明しようと唱えた説だがギリシャの学者たちは既に地動説も説明しようとしていた。聖書の記述と天動説を結び付けたのがキリスト教。20世紀にローマ教会が地動説を正式に認めた。

 カトリック世界


ローマ法王とサンピエトロ寺院

キリスト教の力が絶対だった中世から十字軍遠征の失敗で権威を失墜したローマ教会。またペストの流行で街が壊滅する中、教会は苦しんでいる人々の救いにならなかった。聖職者も私財を肥やし聖職の地位を売買するものまであらわれた時代だった。

<ジョバンニ・パオロ、サンピエトロ寺院>

サンピエトロ寺院、ジョバンニパオロ
wikipedia public domain
 ローマ法王

ローマ法王はカトリック世界のトップ、神の代理人。今でも枢機卿達から法王選挙で選ばれる。ルネッサンス時代は莫大な袖の下を配り当選するローマ法王達が登場する。

アレッサンドロ6世

聖職売買と親族登用で有名なのがボルジア家のスペイン人ローマ法王アレッサンドロ6世。スペインのイサベル女王とフェルナンド王にカトリック両王(Reyes・catolicos)という名前を与え、トルデシージャス条約の線を引いて地球を2つに割ったのもこの法王だった。現代でも時々登場する権力を乱用し私利私欲の為に暴利をむさぼりこの世の春とばかり現生を生き抜く人物だ。神に近づく為に宇宙の秩序を解決しようとする人々の対局にいたのがローマ法王、神の代理人だった。

<アレッサンドロ6世>

アレキサンダー6世
wikipedia public domain http://www.comune.fe.it/diamanti/mostra_lucrezia/quadri/q08.htm

この時代のローマ法王は政治力の有る人物が多く権力を振りかざすいわゆる強欲な悪人だが豪快で決断力があり自己中心だが魅力的な人物が連続して登場した。

ユリウス2世

次のユリウス2世はアレクサンドル6世とは終生ライバルだった人物でアレキサンドル6世亡きあとローマ法王に選ばれると、ここぞとばかりボルジア家の力を一掃する。アレクサンドル6世の息子チェーザレ・ボルジアが力尽き戦死したのもこの時代。

<ユリウス2世、ラファエル画>

ローマ法王ユリウス2世
By ラファエロ・サンティ – National Gallery, London, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=100865

ユリウス2世は芸術愛好家でブラマンテ、ラファエロ、ミケランジェロなどに援助を惜しまなかった。ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の天井画を頼みサンピエトロ寺院の新築を決定する。ミケランジェロは彫刻家で何をおいても彫刻がしたかった。絵画なんてやりたくなかったのでこの注文から何とか逃げようとしていたがユリウス2世の説得と策略で有名なシスティーナ礼拝堂の天井画は完成する。

<ミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂一部、神の手>

システィーナ礼拝堂、ミケランジェロの神の手
wikipedia public domain
Web Gallery of Art[1]
Permission
(Reusing this file) PDArt
レオ10世

その後のレオ10世はフィレンツェのメディチ家出身。フィレンツェの黄金時代を築いたロレンツォ・ディ・メディチの次男。ミケランジェロやラファエルらを使い贅沢三昧に湯水の様にお金を使ってサンピエトロ寺院を飾り立てた。特にラファエルを取りたて多くの作品を注文した。

<レオ10世、ラファエル画>

ローマ法王レオ10世
By ラファエロ・サンティ –  パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=52177989

レオ10世の浪費はとんでもなくその資金が足りなくなると免罪符をドイツで売って資金を稼いだ。優秀な営業マンのような修道士テッツェルが登場しドイツの民衆に売りさばきローマに大金が流れ更にローマの街は飾り立てられていった。(ローマに対するドイツ民衆の憎悪は募り後のサッコ・ディ・ローマに繋がる)

<免罪符を売る修道士テッツェル、19世紀の絵画>

免罪符を売る修道士
wikipedia public domain
免罪符(贖宥状)

人は必ず死ぬ。カトリックでは死後の魂の存在は永遠だがその後、地獄へ落ちるか天国へ行けるかは大きな問題だ。地獄へ落ちたら燃え盛る炎で焼かれてしまう。でも、「これを買えばあなたの罪は許されて魂は間違いなく天国へ行けます!」という素晴らしいものが売り出された。これが免罪符(贖宥状)。

<レオ10世発行の免罪符>

レオ10世発行の免罪符
パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=384403

例えば「一年間位の収入だったのでは?」という説がある。少し高いが天国へ行けるのなら日常は少し貧しい生活をしてでも手に入れたい。買えば死んだあと天国へ行けるのだから。ところが暫くしてローマのお金が使いつくされると又新しい免罪符が販売された。今度の新製品は改良版「あなたの死んだお父さんもお母さんも天国へ連れていけます!」

<地獄で苦しむ人々、教会の彫刻>

教会の地獄の彫刻
筆者撮影

ペストの流行で家族の死を人々が身近に見た時代、教会の力は絶大で今日を我慢してでも天国へ行きたいと思った民衆の心を利用した。しかしそんな横暴がいつまでも続くわけは無く振り子は大きく揺れ戻す。

宗教改革


ここで登場するのがマルティンルター。修道士だったルターは腐敗する大きな権力に対し立ち向かった。1517年10月31日ビッテンベルク教会の門に95か条の論題を張り出してカトリック教会を批判した。この前年スペインではフェルナンド王が亡くなり孫のカルロス(後の神聖ローマ帝国カルロス5世)がスペインへやって来る。

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*カルロス1世スペイン王は(後の神聖ローマ帝国皇帝カルロス5世)生涯プロテスタントに苦しめられる。フランスはカトリックの国なのに対スペインでプロテスタントを煽りイギリスのエリザベス女王の時代は後ろからネーデルランドを動かしスペイン王フェリペ2世は苦しめられた。ずっとずっとスペインの頭痛の元になるプロテスタント問題がここから始まった。

 

<ルターが95か条の論題を張り出す。19世紀の絵画>

ルター95か条の論題
By Ferdinand Pauwels – flickr, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3767049

聖書の中に免罪符は出てこないしローマ法王の存在自体書かれていない。カトリックには山のように聖人がいるがこれも聖書には書かれていない事だ。「信仰は個人と神の間でなされるものではないのか」という神学論争をローマ教会に仕掛けた。

本人はこれほど大きなうねりになるとは思っていなかっただろうと想像するがこれが宗教改革となり、小さな一石が大きな波となった。

 

*当時の聖書はラテン語で書かれていて礼拝や聖歌、ミサで使われる言葉もすべてラテン語だった。庶民には全く解らず神の言葉は普通の人に理解できないものだった。それがわかる神父や聖職者は庶民と神を繋いでくれるありがたい存在だ。ルターはラテン語とギリシャ語の聖書をドイツ語に訳しそれがグーテンベルグの印刷術の発明によって一気に広まった。人々が自分たちが話す言葉で聖書を読めるようになった事は画期的な変化だった。聖職者を介さず人と神の間にあるのは聖書のみというのがプロテスタントでローマ法王、懺悔、聖人等すべて否定した。

 

<1568年の印刷所の様子、1時間に240枚印刷出来た。>

1568年印刷をする職人
By Jost Amman – Meggs, Philip B. A History of Graphic Design. John Wiley & Sons, Inc. 1998. (p 64), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2777036
対抗宗教改革

これは大変とカトリック教会が動き出した。実はもっと前から教会改革は様々な修道会によって行われていたし改革者たちウィクリフやヤン・フス、サボナローラなどが登場して各種修道会が作られ教会を改革し刷新しようとしていた。スペイン国内では積極的に様々な修道会が宗教の純化に向かっていた。ここにカトリック教会の中の宗教改革が始まった。これを対抗宗教改革又は教会改革呼ぶ。

トリエント公会議

混乱を収束させカトリックの立て直しを目指す為にカルロス5世の要望で始まったのがトリエント公会議。ローマ法王パウルス3世の招集により1545年に始まった。この会議はなんと1563年カルロス5世の死後までの間18年間に渡って断続的に行われた。

<トリエント公会議、17世紀の絵>

トリエント公会議
By 不明 – Staatliches Hochbauamt Donauwörth, Museo Diocesano Tridentino, Heiligenlexikon; transfered from de Wikipedia, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1148806

トリエント公会議にてカトリックの改革と異端審問が始まる事になる。異端審問や魔女狩りは既にあったが厳しい宗教裁判が行われるようになり振り子は極端に揺れ戻し特に書物の内容に対しても厳しい検閲が行われる時代がやって来る。

*カトリック公会議=カトリック教会においてローマ法王がすべての枢機卿、司教、神学者等を集めて教義や教会法について決定する最高議決機関。

 

<パウルス3世、ティチアーノ作>

パウルス3世
wikipedia public domain

イエズス会


結成

カトリック教会内部の宗教改革となる対抗宗教改革の中1534年ローマ法王への服従を誓いカトリックの世界布教を目指す修道会が作られた。ローマ法王を頂点とするピラミッド組織の軍隊のような規律を持ち宣教師は全員良家の息子で大学出のエリート集団、これがイエズス会。1540年にパウルス3世から承認をされ神とローマ法王の戦士として世界宣教に努めることを使命として結成された。イグナチウス・ロヨラを中心とし6人の同志と共にパリのモンマルトルの丘で誓約をたてた。

聖イグナチウス・デ・ロヨラ

ロヨラは1491年バスクの山の中のアスペイティアにあるロヨラ城で貴族の子として生まれた。今も出生のロヨラ城は残る。

<バスク地方アスペイティアにあるロヨラ城>

ロヨラ城
wikipedia CCBY SA3.0
Source Fotografía propia
Author Txo

フランスとスペインの戦争のパンプローナの戦いの対フランス戦で負傷し8か月ロヨラ城で療養する。その時そこにたまたまあった宗教書を読み漁るうちに回復する頃には神の戦士になっていた。元々はこの世の富と名誉を求めるタイプの人間だったロヨラは怪我によって精神世界の探究者となった。

<聖イグナチウス・デ・ロヨラ>

イグナチウス・デ・ロヨラ
De Peter Paul Rubens – Trabajo propio, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6675601

カタルーニャのモンセラの修道院で全生涯の告白をしマンレサの洞窟で瞑想と苦行。この頃の瞑想体験をまとめたのが「霊操」で今もイエズス会の重要な修練方法として使われている。聖地巡礼をした後バルセロナのラテン語学校に33歳で入学し子供たちと机を並べて勉強した。サラマンカ大学へ行った後、パリ大学に1528年に37歳で入学。そこで同志となる人物を探し計画を実現するため説得をして1534年8月15日聖母被昇天の日にモンマルトルの丘で神に誓願を立てた。その同士の中に同じバスク人のフランシスコ・ザビエルがいた。

聖フランシスコ・ザビエル

フランシスコ・ザビエルは今のスペイン北東部で生まれたバスク人。その頃スペインはカトリック両王がグラナダを陥落させほぼ統一された時代に北東部にあったナバーラ王国の貴族の子として1506年に産まれる。ロヨラより15歳年下になる。今もフランシスコ・ザビエルが生まれた城「ザビエル城」が残る。

<ザビエル城>

ハビエル城
CC BY-SA 3.0 es
Source Own work
Author Rayle026あ

*ナバーラ王国=ピレネー山脈ふもとにあった国でフランク王国からバスク人を中心に反乱を起こして別れた。スペインとフランスの国境にあるため紛争地となり1515年フェルナンド・カトリック王によってスペインに併合される。

 

<ムリーリョが描いた聖フランシス・コザビエル>

フランシスコ・ザビエル
De Bartolomé Esteban Murillo – Wadsworth Athenaeum, Hartford (CT) [1]Originally from la.wikipedia; description page is (was) here* 20:22, 6 Decembris 2005 [[:la:User:Tbook|Tbook]] 694×958 (108,346 bytes) (Imago Sancti Francisci Xavier)(Uploaded using CommonsHelper or PushForCommons), Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1262446
フランシスコ・ザビエルの父親はナバーラ王国の首相、母親は貴族の出身。5人兄弟の末っ子として生まれた。彼が6歳の時にスペイン(カルロス5世)とフランス(フランソワ1世)で戦争が起こり両国に挟まれ古くからの交通の要所だったナバーラ王国は中立を保とうとするがスペインから攻撃され併合される。(ロヨラが負傷したと同じ戦争だが敵味方だった)ザビエル家は没落していくがフランシスコ・ザビエルは18歳でパリ大学へ入り抜群の成績で卒業する。そこでロヨラに気に入られ説得されイエズス会の結成メンバーとなった。

ポルトガル王の援助

この頃スペインとポルトガルは既に大航海時代に入っていた。トルデシージャス条約(1494年)によりスペインは西へ、ポルトガルは東へと行先が決まっていた。東へ向かうポルトガルはアフリカ西岸からインド航路を発見し1510年にはインドのゴアを武力占領してインド洋の覇権を握っていた。

<ポルトガル船のルート、喜望峰からインド洋に入りインドのゴアへ>

バスコダガマのルート
By User:PhiLiP – self-made, base on Image:Gama_route_1.png, Image:BlankMap-World6.svg, GFDL, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4805180

マレー半島からマラッカ(1511年)を武力で占領し香辛料貿易と交易システムを築いていた。これによってベネチア共和国の経済は大打撃を受けた。更に明王朝の中国に入り1517年には広州で通商を開始している。

 

ジョアン3世はアジアのポルトガル領土にキリスト教を布教する為にイエズス会に協力を頼んだ。明朝の中国での交渉に失敗し武力だけでは無理だと思った為宗教の力を利用しようとした。イエズス会の目的は世界宣教、渡りに船の形でポルトガル船に乗ってインド航路を通ってインドのゴアを目指す事になった。

<ポルトガル王ジョアン3世>

ポルトガル王ジュアン3世
By クリストヴァォン・ロペス – From en:Image:John III of Portugal.jpg, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=481187

*ポルトガル王ジョアン3世=マヌエル1世とカトリック両王の3女マリアの息子。結婚したのが狂女ファナの娘カタリーナ。幽閉されたファナが最後まで近くに置いていた末娘。

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ザビエルはリスボンに呼ばれ1541年4月35歳の誕生日にポルトガル船で出発。途中モザンビーク滞在後インドのゴアに翌年1542年5月に到着している。

<フランシスコ・ザビエルのルート>

ザビエルの旅
File:St. Francis Xavier – Asia Voyages.svg is a vector version of this file. It should be used in place of this raster image when not inferior.
File:Xavier f map of voyages asia.PNG Go-green.svg File:St. Francis Xavier – Asia Voyages.svg

その翌年1543年種子島にポルトガル商人が到着している。ザビエルはその後東南アジアで鹿児島出身の日本人アンジロウかヤジロウという名前の男に逢い日本に行くことを決心し1549年日本にキリスト教が伝わる。ザビエルの苦労の多い旅についてはまた別記事で書きたいと思います。

長い記事読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

狂女ファナ(ファナ・ラ・ロカ)の一生、スペインの歴史、ファナ1世女王の哀しい物語

 

狂女ファナ(ファナ・ラ・ロカ)と呼ばれるが本当に狂っていたか真相は謎。スペインの歴史上の重要なカトリック両王の娘、神聖ローマ帝国皇帝カルロス5世の母親、そして事実上スペイン女王だった。華やかな大航海時代に冷たいトルデシージャスの城に46年間幽閉され76歳で亡くなった。

 

 

ファナの両親<イサベル女王とフェルナンド王>


当時のスペイン

15世紀のスペインは未だ統一国家ではなくいくつかのキリスト教国家と南にはグラナダ王国というイスラム教徒の国があった。1469年にカスティーリア王国の王女イサベルとアラゴン・カタルーニャ王国の王子フェルナンドが結婚しスペインはほぼ統一国家となる。2つの国の国王が結婚したがあくまでも別の国家として存続していた。この2人をカトリック両王と呼ぶ。この呼び名は当時のローマ法王アレキサンドル6世による。

<カトリック両王の結婚>

カトリック両王
wikipedia public domain
Avila Madrigal de las Altas Torres, Convento de las Augustinas

翌年1470年に長女イサベル誕生1478年に長男ファンが誕生、翌年1479年にトレドで生まれたのが今回のファナ王女。「卵型の顔に繊細な鼻、明るい色の肌に栗色の髪」との記述が残る。頭が良くラテン語が得意で音楽が好きだった。仲睦まじく尊敬しあう父母の元で厳格にしかし愛情いっぱいの家庭で育った美しく明るい聡明な少女だった。

<ファン・デ・フランデス作ファナ王女17歳頃>

ファナ1世
Kunsthistorisches Museum
public domain
カトリック両王の結婚政策

堅実なイサベル女王の人生に、もし失敗があったとすればひとつは異教徒追放令、もうひとつが子供達の結婚政策だった。殆どの子供達がもし他の結婚をしていればもう少し幸せな人生を送ったかもしれない。当時のスペインは大航海時代に入っていてアメリカを手に入れ大帝国になったばかり。一流国への仲間入りとまわりの列強諸国との利害関係の為、子供達は政治の道具として結婚させられていく。長女イサベルはポルトガル王と結婚、長男ファンはブルゴーニュ公国の王女と、そしてファナは同じくブルゴーニュ公国の王子と結婚が決まった。妹の三女マリアは姉の後妻としてポルトガル王妃、末っ子のカタリーナはイギリス王妃となる。

<イサベル女王と子供達、真ん中左寄りがファン皇太子>

イサベル女王と子供達

La reina Isabel la Católica, presidiendo la educación de sus hijos
LOZANO SIRGO, ISIDORO SANTOS
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado
繁栄していたブルゴーニュ公国

この頃ヨーロッパの経済的先進地帯だったのがブルゴーニュ公国。現フランス東部のブルゴーニュ地方とベルギー・オランダのフランドル一帯。高級毛織物やタペストリーを海外へ輸出してヨーロッパ随一の繁栄で優雅な発展を謳歌していた。

<ブルゴーニュ公国領土、フランドル含む時代>

ブルゴーニュ公国
Marco Zanoli (sidonius 12:09, 2 May 2008 (UTC))

その経済力を背景に画家のヤン・ファン・アイク(1395~1441)やバン・デル・ウェイデン(1400~1464)、ブルーゲル(1525~1569)などが登場し、文化的成熟を誇る地域だった。フィリップ善良公の時代には領土は大きくなりその孫娘マリー・ド・ブルゴーニュがハプスブルグ家のマクシミリアンと結婚した。ブルゴーニュは当時のヨーロッパ随一の優雅な先進国でハプスブルグは田舎の貴族という不釣り合いな結婚だった。

<ブルゴーニュのマリー>

マリ―・ド・ブルゴーニュ
wikipedia public domein
Musée Condé Link back to Institution infobox template wikidata:Q1236032
Chantilly

マリー・ド・ブルゴーニュは可憐で美しく領民たちからも慕われていた。父王シャルル突進公の突然の死により20歳でブルゴーニュ公国を継承。父の死によりフランスから侵攻を受けて周りの大国の思惑の混乱に陥る中、父王か決めたハプスブルグ家のマクシミリアンとの縁談を慌てて決行して結婚した。

<マクシミリアンとマリー>

マクシミリアンとマリーの出会い
wikipedia public domain

マクシミリアンとの仲は睦まじく幸せな結婚だった。2人の間に一男一女が生まれる。長男はフィリップと名付けられた。ハンサムだったのでフィリップ美公と呼ばれ後のファナの夫となる人物。その後妹のマルグリットが誕生、マルグリットはスペンの皇太子ファンと結婚する事になる。幸せの絶頂に突然の不幸が訪れる。夫と馬で狩猟に行っている時、マリーは落馬して重症。小さな命を授かっていたが流産の上3週間後1482年25歳で亡くなった。ブルゴーニュ全体が深い悲しみで包まれ葬儀には多くの人が訪れた。今はブルージュの聖母教会に埋葬されている。

*フィリップ美公はスペインではフェリペ、マルグリットはスペインではマルガリータ。ここは混乱するのでフィリップとマルガレーテで統一する。

ファナの結婚と王位継承権の行方


この時ファナは王位継承権第3位

スペインでは男子王位継承が優位でその後は年齢の順になるので兄のファンが王位継承権第1位、姉のイサベルが第2位、ファナはその後なのでこの段階では全くファナに王位が行くことは誰も想定していない。カトリック両王も、そしてファナ本人はなおさら。

長女イサベルは母親似のしっかり者の美しい王女だった。幼いころから各国から縁談があったがポルトガル王ジョアン2世の息子アフォンソと1490年に結婚する。ポルトガルで熱狂的に迎え入れられ結婚式が行われた。

*ジョアン2世は喜望峰発見の時のポルトガル王。コロンブスの援助を断った王。

<イサベル王女>

長女イサベル王女
De Fernando Gallego, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=21188497

好事魔多しとはまさにこの事で翌年にカトリック両王がポルトガルを訪れて祝いの祝宴の折、狩りに出かけた新婚の夫アフォンソは帰らぬ人となる(1491年)。落馬して即死だった。失意の中、長女イサベルは祖国へ戻されることになり4年の歳月を過ごす。その間にスペインではグラナダの陥落とコロンブスの出港、ユダヤ人追放令等歴史は目まぐるしく動いていく。ポルトガルから知らせが届いた。「ジョアン王急死」スペイン大使によると妻のレオノーラによる毒殺説が囁かれていた。空位となったポルトガル王位にレオノーラの弟マニュエルが即位。新ポルトガル王からイサベルは求婚されたが俗世を捨てて修道院に入るつもりだったイサベルに結婚の意志は無かった。しかし母は娘に「王家の人間としての役目」をわきまえる様に説得しポルトガルへ再び旅立っていく。

ファナの結婚

アラゴンとフランスは度々イタリアを巡ってもめていた。ブルゴーニュは国境を接するフランスとは小競り合いが続いていた。ここに対フランスの利害関係で二つの国が結びつくことになった。スペイン王国の王子・王女とブルゴーニュ公国の王子・王女の結婚が決まった。イサベル女王の長男ファンとブルゴーニュ公国のマルグリット、次女ファナとフィリップの結婚なので2重の婚姻で憎きフランスを挟み撃ちに出来るという算段だ。ファナの兄はイサベル女王の一人息子。アラゴンとカスティーリアの王位継承者アストゥリアス皇太子だ。少し体が弱い18歳。結婚をもう少し先に延ばしてはという忠言はあったがイサベル女王はアラゴンとカスティーリア両王国の王座を手にする世継ぎの誕生を急いでいた。一方美人そろいの姉妹の中でも抜き出て美しいと言われていたファナは16歳でフェリップ美公との結婚が決まりスペインとブルゴーニュの2重縁組となる。

 

<15世紀のカラベル船>

キャラベル船
マドリッド海軍博物館、筆者撮影

王女ファナを乗せたカスティーリアの王国艦隊が復路にブルゴーニュのマルガレーテをスペインに連れて来ることで両国の合意に至る。

つつましい生活を好むイサベル女王が珍しく壮大な大艦隊を準備させる。北部ラレード港は船で埋め尽くされまるで都市のようだった。聖職者、神学者、有力者、侍女、教育係、兵士と嫁のマルガレーテを連れ帰る侍女やお付き等従者だけで4000人総勢15000人で出かけていった。1496年大小さまざまの120隻の船が準備され出港していく。イサベル女王は娘の船に乗り込み一昼夜を共にし別れを惜しんだ。これでもう二度と娘とは会えない、という予定だったのだから。

<ラレード港>

ラレード港
http://www.laredospain.com/historia/

1496年8月21日の夜中から22日にかけて錨を挙げ艦隊は出発していった。すべての船が出港するのに次の日の日中までかかり海岸からは日が暮れてもまだ船の帆が見えた。

ところが9日目に風の向きが変わり大時化となって艦隊は8月31日イギリスのポーツマス港に緊急入港をした。3日間の時化で船の乗組員までも大変な疲労困憊の中、王女は平静に堂々と歩いて感謝のミサをいただきに教会へ出向いた、そして誰よりも美しかった。スペイン王女の美しさは忽ち評判となりイギリス王の耳にも入り当時スペインの王女カタリーナと息子の結婚の交渉中だったヘンリー7世はこっそりファナを見にやって来た程だった。

<ファナ、1495年頃>

ファナ1495年頃
By Master of the Legend of the Magdalen – Bilddatenbank Kunsthistorisches Museum, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4624955

 

2日後、海が静まり艦隊は出発した。9月9日にフランドル到着。港到着後は華々しく行列を作り民衆へのファナのお披露目が行われた。道中歓迎する人々の熱狂は冷めずアントワープ迄続いた。未来の夫は父王の代理でリンダウに行っており不在。その間フランス語を習いあっという間に使えるようになり周りを驚かせた。

<アントワープ、グローテ・マルクト>

アントワープのグロース広場
wikipedia CC 3.0 ASCII 12 imágenes, Dimensiones: 10181 x 4007, FOV: 155.75 x 61.30, RMS: 2.80, Objetivo: Estándar, Proyección: Esférica, Color: LDR

ファナの女官達も美人そろいでフィリップの元には毎日ニュースが届き話題の婚約者に会いたい気持ちを募らせる。フィリップは自筆でファナに手紙を書き送り飛脚がそれを運んだ。ファナも戻る飛脚に手紙を持たせ2人は人知れず愛を育んでいた。

実は当時のスペインはカトリックの元に禁欲的で厳格な社会が築かれておりフランドルは享楽的だった。貿易の豊かさは庶民にも行きわたり酒場で飲んだくれ道徳は地に落ち、男女関係もおおらかだったのが今のオランダ・ベルギー、フランドル地方だった。

<酒場でタバコを吸う紳士たち>

タバコを吸う紳士たち
Medium painting
Source/Photographer Encyclopedia Britannica Online, entry “smoking”. 2007-07-21

このひどい堕落に驚いたのがスペイン人たちでファナは下界から離れてリールの修道院で婚約者を待つことになる。ファナは冷静で常識的で真面目だった。その間修道院の行事に参加し自分を戒め神学を学びラテン語で教養あふれる会話を楽しんだ。

<ベルギーリールの街>

ベルギーリールの街
wikipedia CC3.0
Source Own work
Author Michielverbeek
フィリップ美公の登場

修道院で過ごす事9日目、ずぶ濡れの騎士の一行が早馬で駆けつけ修道院の戸を叩く。会議を終えたフィリップが先鋭のお付きだけを連れてファナに会いに馬を走らせやって来た。気の利いた修道院長はこっそり内部に彼らを招き入れ衣服を乾かし食事を準備した。

<フリップ美公ルーブル美術館>

フィリップ美公
wikipedia public domain

背は高く瞳は青く甘いまなざしの魅力を自ら知っていた。陽気で話がうまくダンスが得意でスポーツ万能、手足が長く美しい指が自慢。女性にもてないわけがない。始めて逢った2人は惹かれあい修道院長を説得しフィリップは「誰でもいいから司祭を連れて来い!」とその場で即刻結婚した。1496年フィリップ美公18歳ファナ16歳。この時からファナは一途にフィリップに恋い焦がれる事になる、彼が死んだ後も。

その6日後ブルッセルの大聖堂で壮麗な結婚式が行われファナは正式にブルゴーニュ大公妃となる。この時まだファナのスペイン王位継承権は3番目だった。

<ファナとフィリップの結婚、インスブルック宮廷教会の彫刻>

ファナとフィリップの結婚

フィリップは自慢の美しい妻を連れて領土を旅して歩いた。2人の幸福な姿はあらゆるところで見られファナは幸せの絶頂にいた。そしてフランドル風の街や陽気な人々や快楽的な街を気に入っていた。この国で生涯暮らすのだから夫好みになろうとしたのかもしれない。ブルゴーニュ公妃として一生を終えていれば普通の幸福な人生だった。そんなファナは直ぐに子供を宿した。

兄ファン皇太子と姉イサベル王女


王位継承権第1位のファンの結婚と2位姉イサベルの再婚

スペインではイサベル女王の愛情とスペインの期待を担ったファン皇太子の結婚の準備が整った。ファナを運んだ船団が今度はブルゴーニュ公女マルガレーテを乗せてフランドルを出発する。途中嵐に見舞われたがサンタンデールに到着したのが1497年3月初旬。17歳のマルガレーテは豊かな金髪に大きな褐色の目、人々を魅了したのは言うまでもない。

<ブルゴス大聖堂>

ブルゴス大聖堂
筆者撮影

ブルゴスで華やかに祝宴が行われ19歳のファンと17歳のマルガレーテは祝福され未来のスペイン王と王妃としてふさわしかった。美しいマルガレーテに王子ファンは夢中になった。そして早く世継ぎをと周りからも期待されていたのもあった。「最近ファン様の顔色が悪いようですが…」との忠告もあったがイサベル女王も未来の世継ぎを一日も早くとの思いがあった。そして王妃が懐妊した。

 

同じ年の秋、ファナの姉イサベルの再婚が決まり結婚式が執り行われた。修道院で余生を過ごそうとしていたイサベルだったがポルトガル王マニュエル幸運王から求婚され結婚が決まった。28歳と27歳の結婚で当時ではかなり晩婚になる。ポルトガルでの結婚式にカトリック両王は参列し娘の姿に満足していた。

<マヌエル、ポルトガル王>

マヌエル、ポルトガル王
De Desconocido – Arquivo Nacional Torre do Tombo, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=28974731
運命のいたずら

長女イサベル王女のポルトガル王との結婚式の最中に不吉な知らせが届いた。皇太子ファンの様態が良くない。もともと体が弱く病気がちだったファンは結婚後の式典が続きあまり調子が良くない中サラマンカでの祝賀会に参加しているところだった。父フェルナンド王は急いでサラマンカへ向かうがファンはあっけなく死んでしまう。1497年10月4日結婚の6か月後だった。イサベル女王の最愛の息子でスペインの希望だった未来が幕を引いた。19歳、これほど悼まれた死は他に無い。スペイン中が喪に服し悲しみ国中の教会の鐘が哀しみの音を鳴らし続けた。その遺体はアビラの修道院に今も眠る。

<ファン皇太子の霊廟、サント・トメ修道院アビラ>

ファンの墓
wikipedia public domain

*ファンの死因は結核とも天然痘とも強壮剤として食べた亀の肉が悪かったとも、そしてマルガレーテに夢中になりすぎてベッドの時間が多すぎたとも言われている。

この時ファンの子供を宿していたマルガレーテに注目が集まる。もし男の子ならスペインを継がせたい。いや女の子でもカスティーリアの王冠は問題ない。ところが突然の早産の結果この子もあっけなく神に召されてしまう。その後マルガレーテはフランドルへ戻りサボア公と再婚するがまた夫が死別しその後は国をまとめる政治家としての才能を生かし懸命に祖国の為に働く。誠実で聡明なマルガレーテは人々に尊敬されファナの子供達、後のカルロス5世達を大切に育てた。イサベル女王とはその後会うことは無かったが生涯手紙のやり取りをしお互いに尊敬しあった。

<マルガレーテ>

マルガレーテ
De Bernard van Orley – The Yorck Project: 10.000 Meisterwerke der Malerei. DVD-ROM, 2002. ISBN 3936122202. Distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH., Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=156042
姉イサベルに王位継承権

弟ファン皇太子の死でポルトガルに嫁いだ姉イサベルは深い悲しみの中に沈んでいた。そんな悲しみの中、王位継承権が新婚のイサベルの元にやって来た。

<イサベル、ポルトガル王妃>

イサベル ポルトガル王妃
By 不明 – Transferred from German Wikipedia, originally http://genealogia.sapo.pt/pessoas/pes_show.php?id=2278, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2051914

ブルゴーニュのフィリップ美公が突然王位の主張を始めた。その野心に警戒を始めるスペイン側は早く長女イサベルに王位継承の手続きを踏ませたくスペインへ召喚する。そんな中イサベルが懐妊したという。体調が安定するのを待ちカスティーリア王国の議会で王位継承の誓約は終わった。今度はアラゴン王国での承認へとサラゴサへ向かい長引く議会の途中イサベルは男の子を産む。人々は歓声を挙げて喜び街中に響き渡る声で「イサベル万歳」と叫んで祝砲が鳴る。ところが宮殿の中はひっそりと静まり返り凍り付いていた。子供に生を与え力尽きたイサベルはその1時間後この世を去った。1498年28歳で亡くなったイサベルはイサベル・ラ・トゥリステサ、悲しいイサベルと呼ばれる。母の命と引き換えに生まれた男の子はミゲールと名付けられた。一躍この子に期待と注目が集まった。

*夫のマニュエル王はカスティーリアの王冠をあきらめリスボンへ帰って行った。後にイサベルの妹マリアと再婚しその死後はファナの長女レオノールと結婚する。

 

フアナの運命


フェリペの浮気

兄ファンが亡くなり姉イサベルが亡くなった頃ファナは最初の娘レオノールを産んでいた。夫の行動が怪しくなり始めたのもこの頃で身重の妻の目を盗んでは他の女性の元へと行き始めるのだ。当時の王家には普通にあった事でイサベル女王も度々フェルナンド王の不貞に心を痛めた。ただファナは黙って我慢するタイプではなかったようで人前も憚らず夫を罵り声を荒げた。そしてフェリペは度を越していた。

丈夫で健康で嫉妬深いファナはフェリペから目を離さず、乗馬も狩りも何でも行動を夫と共にした。妊娠が気づかれないようお腹を隠して馬に乗っていたほどだ。

<フィリップ美公とファナ>

ファナとフェリペ 1505年頃
By Master of Affligem – Juanna_Filips_Klein.jpg:derivative work: Maximus0970 (talk), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6487377

そして次の年ファナは待望の男の子をベルギーのゲントで産む。(1500年2月24日)カルロスと名付けられたこの子が後のカルロス5世となる。ブルゴーニュは喜びに沸いた。その少し後マドリードから悲しい知らせが届く。姉イサベルの忘れ形見ミゲールが亡くなった。2歳にさえなっていなかった。1500年7月20日グラナダで死亡、トレドに埋葬されるがその後グラナダの王室礼拝堂へ移動し今もそこに眠る。

そしてブルゴーニュ公妃として一生を終えるはずのファナの所にスペインと新大陸の王位継承権がやって来る。

動き始める策略


妹マリアとカタリーナの結婚

ミゲールの死で希望の光は消えたが泣いているわけにはいかない。カトリック両王は動き出す。約一か月後ポルトガルとの絆を消さない為マニュエル王に三女マリアを嫁がせた。マリアはイサベル女王の子供の中で唯一幸福な人生を歩む。35歳で惜しまれて亡くなるまでにポルトガル王に5男2女を与えた。末娘カタリーナはイギリスへ行くことになる(1501年)。フランスを周りから包囲するためにはイギリスは最適の相手だった。カタリーナはヘンリー7世王の息子アーサー王子と結婚が決まる。

ファナは6年ぶりのスペインへ

ファナに王位継承権がやって来るとにわかに優しくなったのが夫のフェリペだった。いやフェリペだけではなく周りのほとんどが地位とお金目的でファナを利用しようと動き始めた。ファナはそんな中1501年にブルッセルで3人目の子供を産む。女の子でイサベルと名付けられた。同年夫妻はカスティーリアとアラゴンの王位継承者の承認を得るために陸路スペインへ向かう。大きな馬車が100台は準備され大行列で華々しく出発した。

フェリペはフランスびいきだったのがスペイン側の見当違いだった。彼の野望はスペインの王冠を手にした後、息子カルロスをフランス王妃と結婚させ昔のカール大帝の大帝国を再現させることだった。陸路フランスへ入りルイ12世の居城ブロア城でしばらく世話になる。

<ロアールのブロア城ルイ12世の居城>

フランス、ブロア城
wikipedia CC3.0
Source No machine-readable source provided. Own work assumed (based on copyright claims).
Author No machine-readable author provided. Calips assumed (based on copyright claims).

ある日の日曜日、顔合わせを祝ってミサが行われた。献金用の袋が回って来るとルイ12世はまるで家臣にするように金貨をフィリップに渡す。フィリップ美公はそれを有り難く受け取って袋に入れた。これは主人が従者に行う儀式だった。

<フランス王ルイ12世>

ルイ12世
By 不明 – 不明, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4064320

同じことをフランス王妃アンヌがファナにしようとするとファナは金貨を手に取り裏表何度も見た後突き返し自分の高価なイヤリングを片方袋に入れた。その所作は大変優雅で気品に満ちていた。ファナはスペイン王女で未来の女王なのだから対等なのだという意思表示だ。そしてミサが終わると教会から出るときルイ12世が出るとフィリップ美公は直ぐに後ろをお付きの様について出たがファナはフランス王妃が出た後も祈り続けしばらくしてから優雅に席を立って外へ出た。お蔭でフランス王妃は寒い教会の外でファナを待つ羽目になった。おまけにファナは教会を出るとフランス王妃の前を堂々と歩いて先に行った。

<フランス王妃アンヌ>

フランス王妃アンヌ
By ジャン・ブルディション – http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b52500984v/f14.item, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=23536213

夫はこの妻の行動を称賛するが片方になった高価なイヤリングを取り返す方法を心配していた。部下を通じ何とか取り返したイヤリングをファナは「既に神のものとなった物を受け取れません。両方にそろえて神にお返しします」と司祭に渡したというエピソードが残っている。

国境を超えスペインに入ると景色は険しくなり山や谷やバスク地方の武骨な風景になりフランドル人たちが悲鳴を上げ始め不満を言い出す。

<スペイン北部の山岳地帯>

カーレスの谷
筆者撮影

フィリップ美公は持病の痔を患っており悲鳴を挙げながら峠を越え良くなったらまた今度は麻疹にかかり、貧しい村には大した食べ物も無く散々な旅となり武骨なスペインに不満を募らせる。ファナは抜群の体力でかいがいしく夫の面倒を見るその時間は彼女の最高の幸せだった。到着した議会ではファナは立派に役目を果たし堂々とアラゴンの議会の議長を務めている。

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フェルナンド王とフィリップの確執

フェルナンド王は大した人物でその心の内は推し量れない。大物でマッキャベッリの君主論にも登場する策略家だった。もちろん当時のヨーロッパの政情を見るとそれくらいでないと国王は務まらない。ナポリでフランスと揉めているアラゴン王国の王冠を手に入れる娘の婿はフランス寄り政策なのだから面白いはずはない。戦費はかさみスペインにとっては厳しい時期だった。ことごとくフェルナンドとフェイリップは対立する。そこで新しい悪い知らせがやって来る。イギリスへ嫁いでいた末娘カタリーナの夫アーサー皇太子が亡くなった。フェルナンドが心配したのは娘ではなく同盟関係だった。

<フェルナンド王>

フェルナンド王
wikipedia public domain

カタリーナはイギリスに留め置かれアーサーの弟ヘンリー8世と婚約が決まる。

フィリップは1人ブリュッセルへ

何かと堅苦しいスペインが気に入らないフェリップ。フェルナンド王とも対立が続き1502年12月19日フィリップは身重のファナを置いてフランスへ向かう事が決まる。息子カルロスとフランス王女の縁談話をまとめる予定だ。ファナの出発を許さなかったのはカトリック両王だった。身重の娘が敵国フランスで子供を産む事などあり得ないというわけだ。

そして翌年の1503年3月ファナはスペインで男の子を産んだ。フェルナンドと名付けられたこの子は未来の神聖ローマ皇帝となる。ファナの健康は瞬く間に回復し早く夫と子供の所へ帰りたいと激しく訴えた。その訴え方は兎に角尋常ではなかったとされる。ファナを帰さなかったのはイサベル女王だった。この頃のイサベル女王は発熱を繰り返し良い状態ではなかったが未来の女王ファナに君主としての教育をとの気持ちがあったと解釈する歴史家もいる。ファナをメディーナ・デル・カンポのモタ城に幽閉した。フランドル行きの船が出る方へ行けると喜んで出発したファナだったのが不憫。

<メディーナ・デル・カンポ、モタ城>

メディーナデルカンポ、モタ城
De Chefocom – Trabajo propio, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=16601825

城で泣き叫ぶファナはあらゆる手段で脱出しようとするが城門は閉められ跳ね橋は上げられた。イサベル女王は何故ここまで夫に会いたいと泣き叫ぶ娘をスペインにとどめたのか。フランスと戦争が落ち着いたらとの約束があったが1503年11月停戦協定が決まった後もファナには内密にされた。それを知ったファナは更に暴れ母に対して猜疑心を募らせる。ある時ファナは「私はブルゴーニュ公妃なので妻として夫と共にいなければなりません。歩いてでも帰ります。」といってフランス側を向いた塁砲の近くの城門に体当たりし叫び座り込み、凍てつく寒さの中で夜を過ごした。この頃のファナの言動は確かに普通ではない。心配してやって来たイサベル女王にこの上ない暴言を吐いたのがファナと母の最期の会話となった。イサベル女王はその1年後に神の元へ召される。

ブルゴーニュへ

これらの事件の後ファナは帰国が許され翌年春ラレード港からフランドルへ帰る。ファナ25歳。夫と離れて1年半が過ぎようとしていた。

フィリップは妻の帰還を心から喜ぶが心配した通り愛人がいた。いつもの通り金髪の色白の女官。まわりは親切にもファナに色々情報を持ってくる。問い詰められた夫は白状し女と縁を切ると約束するが女の方がファナに挑戦状をたたきつけた。フェリペが女に渡した手紙を豊かな胸元に入れファナの前に現れたのだ。ファナは鋏を持って飛びかかりその自慢の金髪を切り刻み頬に切り傷を入れたという。

フィリップは激高し2人の中は冷めきった。今度は報復にフィリップはスペインから連れて来たファナに忠実なモーロ人のお付きたちを宮廷から追い出した。これをきっかけにファナはの精神状態は更に悪くなり時折爆発し手が付けられなくなった。部屋に閉じ込められると夫の浮気を疑い壁を叩き叫び続けた。

イサベル女王の死


遺言状

ファナの現状は逐一スペインに届けられていた。それがイサベル女王の心を痛め死期を早めたかもしれない。1504年11月26日イサベル女王崩御。遺言によりファナがカスティーリア王国の女王となった。死期間近の女王は最後に文言を付け加えた。「ファナにカスティーリアを、ただ統治不能な場合はファナの父フェルナンド・アラゴン王が摂生となる。」

*カスティーリアとアラゴンは別の法を持つ別の国家。この時ファナが継承したのはカスティーリア王国の王冠。

<イサベル女王の最後、口述で遺言をしたためる>

イサベル女王最後の日
Eduardo Rosales, 1864
museo del prado

フィリップは周りに担がれ動き出し、フェルナンド王は娘の狂気を期待した。フランスはこの混乱をチャンスと考えローマ法王やイギリス国王までも美味しい果実を手に入れようと動き始めた。そしてフィリップは妻に優しくなり、再び4人目の子供マリアを懐妊しこの子は1505年に誕生する。

フェルナンド王の再婚と偽の書簡

このまま自分が死んだらカスティーリアとアラゴンと新大陸の王冠の行方は憎らしい義理の息子フィリップ又はベルギー生まれの孫のカルロスのもとへ。それを阻止したいフェルナンドは60歳に手が届く頃仇敵フランスのルイ12世の姪と結婚している。努力の甲斐あり子供が生まれるがその子は生まれて間もなく亡くなってしまう。なんとか世継ぎをと怪しい媚薬にまで手を出してまさに必死だった。がこれがカスティーリアの貴族たちの反感を買い彼らは反フェルナンド派となる。

*アラゴンの議会ではフェルナンド王に男子世継ぎが出来なかった場合ファナとフィリップに王位継承権という注釈があった。

フィリップ美公にチャンスがあるとすればファナの精神状態がまともな場合。義理父フェルナンドにとってはファナが狂っている方が都合がいい。又カスティーリアの貴族の多くはアラゴン人のフェルナンドに国を治められたくなかった。まわりの思惑が錯綜する中、ファナの偽の書簡が用意され「自分は精神状態は普通であり愛する夫にカスティーリアの統治権を譲る」というものだ。フィリップはファナに署名を強要するがファナは5度にわたって断りついに署名しなかった。

*実はファナは殆ど署名をしなかったという説がある。ある時夫に錯綜する陰謀の中簡単に署名はするなと言われた後一度しか署名をしていないという説だ。

王位継承権を手に


再びスペインへ

フィリップはスペインへ行く決心をする。艦隊を準備し1506年1月7日プリシンゲン港を出発した。とんでもない嵐に会い3日間の最悪の状況の船での中でもファナだけは顔色も変えず冷静だったという。船を守るために船乗りたちは積荷を海に投げ入れ始めしまいには船底に馬と一緒に押し込められていた娼婦達まで海に捨てようとした。それを見たファナが「この女たちを海に捨てるなのらまずは彼女たちを食い物にした男たちを先に捨てましょう。神に許しを請うには身分は関係ありません」と嵐の甲板で女たちを救った。

この嵐の後で大打撃を受けた艦隊を休める為一行はイギリスへ寄る。ここでファナは妹カタリーナに逢っている。カタリーナは夫アーサーが亡くなりその弟ヘンリー8世との縁談がまとまったところだった。イギリス王ヘンリー7世はファナを見てその美しさを讃えたという。

<ファナの妹カタリーナ、イギリス王と結婚する>

カタリーナ
wikipedia public domain

フィリップは王様気取りで上機嫌。ふたりはしばらくのイギリス滞在中蜜月を過ごし再びファナは末娘カタリーナを懐妊する。

1506年スペインに到着。到着した一行は歓迎を受けた。フェルナンド王はフィリップとの対立と内戦を憂慮し和解したように見せ実権を握ろうとした。陰謀が渦巻く中ファナを狂気のせいで女王の地位から遠ざけようとする輩もいたがフェルナンド王に危険を感じるカスティーリア貴族も多くいた。カスティーリア提督ファドリケ・エンリケスがバジャドリードで面会する。この時のファナはいつもよりかなり冷静で慎重に受け答えし議会は1506年7月1日ファナを正式な女王陛下として承認した。同時にフィリップも「カスティーリア王フェリペ1世」を名乗り上機嫌となる。

最愛の夫フィリップ美公の謎の死と彷徨う遺体

2人はファドリケ・エンリケスのブルゴスの城に招待されて過ごし、美しい城で国王として扱われ28歳のフィリップは満足だった。そこでペロータというテニスに似たスポーツをして汗をかいたフィリップは冷たい水を所望した。一気に飲み干したがその後強い吐き気を感じ苦しみだす。フィリップは立っていることも出来なくなり倒れ高熱が出て体中に黒い斑点。当時そのあたりではペストが流行して多くの人々をあの世に送っていたらしい。ファナは妊娠5か月の身で寝ずの看病をしとにかく世話を焼く。力尽きたフィリップの魂が体を離れた後もファナは体をさすったり話しかけ続け2人を引き離すのに苦労したと記録にある。最愛の夫フェイリップは死んだのだ。

<フィリップの死>

フィリップの死
By Charles de Steuben – Juana la Loca, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=36246297

不思議なのは都合よくフィリップだけがペストにかかり他の誰も罹患していなかった事。フィリップの死は今も謎のまま。この時彼の死を望んでいなかったのはファナのみだったのだから。

フィリップの遺体は防腐処理が施されブルゴスのミラフローレス修道院に安置された。ファナはミサを行い、祈りはフィリップの生前の行いの懺悔と霊魂の救済だった。(決して後世の人々が期待するフィリップの復活ではない)この後夫の遺体を再び掘り起こしカスティーリアの荒野をさまよい時折棺を開け口づけをし復活を祈ったという伝説になっているが事実は不明。

<フランシスコ・プラディージャ、荒野をさまようファナ>

狂女ファナ荒野をさまよう
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museo del prado
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わかっている事実のひとつはこの頃ペストがブルゴス近くまで来ていた。ファナはそれほど狂っていなく最愛の夫の棺を持ってペストから逃れたのかもしれない。

イギリス国王ヘンリー7世からの求婚

50歳になるヘンリー7世が未亡人になったファナに食指を伸ばす。持参金やその後のスペインが目当てだがファナに恋い焦がれていたのも本当だ。ファナにその話が舞い込んだ時フェルナンドは引き延ばした。カスティーリアの王冠を狙っているのは間違いない。もし男子誕生なんてことになれば大変だというわけだ。

<ヘンリー7世イギリス王>

ヘンリー7世イギリス王
By 匿名 – http://www.marileecody.com/henry7images.html, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=983653

その少し後にヘンリー7世は亡くなった。ファナの心がどう動いたかはわからないがもしもこの時イギリスに嫁に行っていたらその後は違う人生だったかもしれない。そして妹のカタリーナも姉がいればヘンリー8世の愛人に追いやられる事無く過ごしたかもしれない。

トルデシージャスへ


父の都合

フェルナンドは賢明だった。このままではカスティーリアは混乱したであろう。ブルゴス近くの街トルトレスでファナとフェルナンドは謁見し政治の実権は父の元へ。ファナはその後アルコス(ブルゴスから10キロ)に移動し息子フェルナンドと娘カタリーナの2人の子供達と夫の棺と共に幸せに暮らしていた。

<フェルナンド>

フェルナンド
wikipedia public domain

フェルナンド王はスペインで生まれた孫フェルナンドをことのほか可愛がった。出来ればブルゴーニュで生まれたカルロスではなくスペインで生まれたフェルナンドにこの国を継がせたいと思っていた。ある日6歳になるフェルナンドを父が連れ去出した。いつもの様にファナの発作は満月の夜、息子がいないと夜中に起きだし馬に蔵をつけよ、息子を探し出せと大騒ぎになった。息子が行った方を眺め続け夜を過ごした。この事件をきっかけに息子フェルナンドはファナの手元に戻るが家族の移動が決まった。夜中に父王フェルナンドはアルコスに向かいフィリップの棺と共にファナと末娘カタリーナをトルデシージャスへ連れていく。ファナ29歳、この後75歳で亡くなるまでトルデシージャスの城で暮らす事になる。

フェルナンド王にとっては娘は狂った状態で長生きしてくれるのが望ましいのだ。他の不満分子に利用されては困る。結婚も娘もすべては政治と国の安泰の為に利用された時代だった。

フェルナンドの死

殆ど誰もが自分の利益と都合と欲望で動いていた。純粋だったのはファナだけだったのかもしれない。

<トルデシージャス、サンタ・クララ修道院>

サンタ・クララ修道院
De José-Manuel Benito – Trabajo propio, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=519592

フィリップの棺はトルデシージャスの城の横のサンタ・クララ修道院に安置された。毎日夫の棺の元へ通うファナに狂気を見る歴史家もいるが純粋に祈りに通ったと見る説もある。そんな頃父王フェルナンドが倒れた。亡くなる前日まで頭は冴え最後の遺言状が口述された。1516年1月22日グアダルーペへ向かう旅の途中だった。不憫な娘に会いに行こうとした旅なのかは不明。王位継承者にカルロス王子を指名した。現在はグラナダの大聖堂横王室礼拝堂に眠る。

<フェルナンド王とイサベル女王の墓、グラナダ王室礼拝堂>

wikipedia
Javi Guerra Hernando – Trabajo propio
CC BY-SA 4.0
トルデシージャスでのファナ

ファナの面倒を見るトルデシージャスの城主は何度か変わっている。最初のルイス・フェレール氏は食事を拒むファナの口に無理やり食べ物を押し込み発作が起こると真っ暗な陰気な部屋へ押し込んだ。これを知ったシスネロス枢機卿が心を痛めファナの信頼していた女官をトルデシージャスへ送り新しい城主を探した。そこに登場したのが修道士になろうとしていたエルナン・ドゥーケ・デ・エストラーダだった。謙虚で質素で誠実にファナに仕える彼の誠意が伝わりファナは街を歩いたり馬で遠出まで出来る程に回復した。ところがまわりの欲深い廷臣たちから疎まれ2年程でエルナン・ドゥーケは女王から遠ざけられてしまった。

カルロス・スペインに

フェルナンドの死はファナには伏せられた。フランドルの動きは早くファナの長男カルロス王子がカスティーリアとアラゴンの国王となると宣言する。カルロスとポルトガルへ嫁に行く姉のレオノールは1517年40隻の艦隊を準備しスペインに向かった。向かう先はラレード港だったが何かの間違いで着いたのは田舎の漁村タソネス。多くの艦隊に驚いた村人たちは海賊の襲撃と思い棍棒を持って出迎えたという。

*マクシミリアンの命で弟フェルナンドはフランドルへ向かう。

<タソネスの漁港>

タソネスの漁港
筆者撮影

そして母のいるトルデシージャスへ向かい謁見をした。カルロスと姉レオノールはファナに礼儀正しく女王陛下として接しファナは2人を抱き寄せてさめざめと涙を流した。欲にまみれたフランドルの重臣たちは様々なお膳立てを準備しファナに「わが名において息子カルロスがカスティーリアの統治を行う。ただ父カトリック王が亡くなった場合において。」と宣言させた。未だファナはまだ父の死を知らされていなかった。同席した重臣達によって都合が良いように書類は作成されカルロスはスペイン王となる。ファナは署名はしていない。

<カルロス1世王1516年>

カルロス5世
wikipedia public domain File:Charles V. – after Bernaerd van Orley – depot Louvre-Musée de Brou, Bourg-en-Bresse.jpg

そのころのファナの唯一の心の拠り所は末っ子のカタリーナだった。天使のような末娘はこの頃10歳でまともに外に出たことも無く生まれてからずっと母と共にいた。姉レオノールは妹を不憫に思い城から連れ出す作戦に成功する。「母は狂っているから気が付かない」とでも思ったのだろう。その後のファナは暴れるどころかぼんやり宙を見つめ抜け殻の様になる。カタリーナの脱出に手を貸した使用人がその後のファナの現状に胸を痛め女王の惨状をカルロスに訴えた。娘も母が嘆き悲しんでいると知るや母の元へ戻してほしいと訴えカタリーナはファナの元に戻った。

<トルデシージャス城のファナとカタリーナ、フランシスコ・プラディージャ>

ファナ トルデシージャス
Francisco Pradilla, La Reina Juana la Loca, recluida en Tordesillas con su hija, la Infanta Catalina, 1906 – Museo del Prado
コムネロスの乱

フランドル人に良いようにされてきたカスティーリア人たちが面白いはずは無かった。税金はかさみ重職は持って行かれ頭の上を利益は通り過ぎる。カルロスはスペイン語も話さず要職は全てフランドル人に与えスペインからは吸い上げる一方、その金も一切還元されず遠い所で使われた。カルロスの神聖ローマ皇帝の選挙にも随分と金品が使われた。1520年反乱軍はセゴビアを皮切りにトレド等を巻き込みファナを女王にしてカルロスの王権に対立した。しかし翌年国王軍に適わず大敗し処刑された。

<コムネロスの処刑>

コムネロスの処刑
wikipediai
public domain

この時コムネロス達の期待に添いファナは「自分が女王である」という宣言をしているが署名はしていない。同じ頃に父の死を知らされ鬱状態に陥り精神状態は不安定に陥っている。反逆罪でファナの処刑という筋書きもあったかもしれないがカルロスは母ファナにどんな時も「女王にふさわしい待遇を」と命令した。そしてファナが亡くなるまですべての書類に自分の名とファナの名を署名した。

末娘カタリーナの結婚とファナ最後の日々

時は流れ末娘カタリーナは18歳になった。ポルトガルのジョアン3世との結婚が決まりカタリーナは母には何も告げずに出発するが、ファナはその一行が去って行った橋の方を夜になっても朝になってもいつまでも眺めていたという。

そしてまた歳月は流れた。もうファナの事を覚えている人も少なくなった。最後のトルデシージャスの城主は愛情なく表面的な世話を焼くだけの人物だった。そこにイエズス会士フランシスコ・デ・ボルハが送られてきた。

<聖フランシスコ・デ・ボルハ>

聖フランシスコ・デ・ボルハ
De Alonso Cano – Museo de Bellas Artes de Sevilla, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3118742

ボルハは後に聖人に聖別される人物で信心深く慈悲深く優しかった。ファナはボルハとの会話を楽しみ彼の助言はよく聞いた。ファナが人生の最後の時間をボルハと過ごしたのは幸運だった。ボルハはファナの最後の告解を引き受けたがそれは長い間錯乱状態にあった人物とは思えない思慮深い言葉で全人生を振り返るものだったという。

1555年4月11日復活祭の聖金曜日の早朝「スペイン女王ファナ1世」は静かに息を引き取った。同じ年10月息子のカルロス5世は退位してユステの修道院に隠居する。

トルデシージャスの城はその後誰も住み着かず18世紀に取り壊された。

 

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<フィリップ美公とファナの墓。グラナダ王室礼拝堂>

フィリップ美公とファナの墓
Description
wikipedia CC4.0
Date 7 October 2014, 06:08:26
Source Own work
Author Javi Guerra Hernando

 

遺体はグラナダに埋葬され、ファナはやっと最愛の夫と2人になれた。

<グラナダ王室礼拝堂の地下墓所、中央がカトリック両王>

グラナダの王室礼拝堂のカトリック両王の墓
wikipedia public domain

 

*ファナとフェイリップの遺体ははカトリック両王の埋葬されている地下墓所に一緒に眠る。舅フェルナンドは可愛くない義理の息子が隣に来て墓の下で舌打ちしていることでしょう。フィリップの方も「毒を盛ったの貴方ですか」と言っているかもです。幼くして死んだミゲール王子もここに眠る。

最後まで読んでいただいて有難うございました。

世界の歴史をグローバルに。遊牧民の時代から南蛮人が茶の湯を知るまで。

 

世界の歴史をグローバルに鳥瞰図的にまとめました。このブログは「スペイン」がテーマですがここでは少し広げて世界の歴史を「遊牧民が移動し歴史を動かし日本へ南蛮人がやって来た所まで」をまとめてあります。人が歩き道が出来て西域から遊牧民族が移動し物と文化と歴史を動かした。世界の歴史は面々と繋がっていて影響しあって今日まで続いている。(中央アジアにはもっと複雑に多くの民族が勃興していますが筆者の独断と好みで省略しています。)

 

 

シルクロードの遊牧民の時代からイスラム商人の活躍まで


時代は今から2千年ほど前。西域すなわちシルクロードは唐の長安(今の中国、西安)から地中海までの陸と海の道で古代から人と物と文化の交流のルートだった。その西の端をローマ、東の端を日本のとする説もある。奈良の正倉院には今も中国を経由してやって来たインドやペルシャの宝物が保存されている。草原の道、オアシスの道、海の道と繋がり多くの人と物を運んでいた。ローマ帝国と漢の中国が既に海と陸で繋がっていた。

シルクロード
Whole_world_-_land_and_oceans_12000.jpg: NASA/Goddard Space Flight Center
public domain
ササーン朝ペルシャ

現在のイランにササーン朝ペルシャが成立(226年)。ここは古代からの先進地域で洗練された文明のペルシャ人はアーリア系。今もイランはアラブではなくペルシア人、アーリア系の人々が住む。ペルシャは国境を接したローマ帝国と、その後分裂したビザンチン帝国(東ローマ帝国)と約600年間揉め続け戦争しお互いに疲労していく。

ササン朝ペルシャ
map by vivonet.com http://www.vivonet.co.jp/
ローマの分裂

繁栄をつづけたローマが衰退を始め4世紀コンスタンティヌス帝が首都をローマから東へ移動させ新しい都市を作った。そして「コンスタンチ・ノープル」と自分の名前を街につけた。その後ローマ帝国は西ローマと東ローマに分裂する。東ローマ帝国はビザンチン帝国とも呼ばれ1453年のオスマントルコの侵入迄続く。

<ローマ帝国の分裂>

ローマの分裂
C.C 3.0世界の歴史マップ
ゲルマン民族の大移動

道を通って遊牧民が移動する。4世紀、シルクロードを渡ってモンゴル系の匈奴の末裔といわれるフン族が襲ってきて来てゲルマン民族の大移動がはじまり西ローマ帝国は滅亡する。これにより移動したゲルマン民族が西ヨーロッパに移動して国を作り今のヨーロッパの国々の元が出来る。

<ゲルマン民族大移動図>

ゲルマン民族の大移動
Source German Wikipedia
Author Sansculotte
イスラム教が始まる

アラビア半島では7世紀初頭予言者モハメッドが登場しイスラム教が始まる。日本では聖徳太子が活躍するのがこの時代で予言者モハメッドと生きた時代が重なる。

*イスラム教徒とウマイヤ家、スンニー派シーア派についての記事です

       *<イスラムの始まりとウマイヤ家>

ビザンチン帝国とペルシャの長きにわたる抗争でシルクロードが安全に通れなくなり交易路はアラビア半島に迂回しメッカやメディナは貿易で繁栄しイスラム商人たちが活躍する。(イスラム教の創始者モハメッドはもともとは商人だった。)これがイスラム教が広がるのに有利に働いた。

<イスラム商人の新しいルート。シルクロートを迂回してアラビア海から紅海へ入った>

ササン朝ペルシャとビザンツ帝国
map by vivonet.com http://www.vivonet.co.jp/

 

ササーン朝ペルシャが滅亡(651年)して住人たちはイスラム化し、改宗したくない多くのペルシャ人が長安に逃れ華麗なペルシャの文物を運んだ。奈良の正倉院にはササン朝ペルシャとこの時代に長安に逃れたペルシャ人が運んだガラス器が残る。

<白瑠璃の椀 正倉院>

白瑠璃の椀 正倉院
(写真は『白瑠璃碗』正倉院 – 宮内庁より)

イスラム商人たちはウマイヤ朝の時代(7世紀)からアラビア海に進出してインドや東南アジア、中国にまで交易で移動していた。このウマイヤ朝の勢力が711年にスペインに入って来て西ゴート(ビシゴート)王国を滅ぼした。

*西ゴート崩壊の歴史の記事です。

*<西ゴート王国の崩壊>

 

<西ゴート王国の首都トレド、スペイン>

トレド展望台
筆者撮影
フランク王国とカール大帝

イスラム勢力はピレネー山脈を越えてフランス迄行っているがフランク王国のカール・マルテルにツール・ポワティエの戦い(732年)で負けてスペイン側に戻って行く。

<ポワティエの戦い、ベルサイユ宮殿蔵>

ポワティエの戦い
wikipedia public domain

勝ったカール・マルテルの人気は大変なものでその息子がピピン3世として即位。カロリング朝を開きローマ法王に土地をプレゼントした。これが今のローマ法王庁の始まりとなる。ピピン3世の息子がカール大帝。800年にローマ法王レオ3世により戴冠し西ローマ帝国の復活となる。

<800年カール大帝の戴冠>

カール大帝の戴冠
By Jean Fouquet, Tours – http://expositions.bnf.fr/fouquet/grand/f008.htm, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=204704
レコンキスタの始まり

カール大帝の戴冠の頃スペインの北西の端で聖ヤコブの遺体が発見された(813年)。その地は今も聖地、サンティアゴ・デ・コンポステーラという名のカトリック3大巡礼地となっている。有る時イスラム教徒と戦うキリスト教徒達を白い馬に乗った聖ヤコブが助けてくれる奇跡が起こる。聖戦、レコンキスタの始まりだ。

<サンティアゴ・デ・コンポステーラの聖ヤコブ>

聖ヤコブ
筆者撮影

*スペインのレコンキスタの記事です

*<レコンキスタの開始・トレド陥落からアルハンブラの開城>

アッバース革命

イスラム世界では革命が起こり8世紀中頃新しいアッバース朝が始まる。アッバース朝の時代になって現エジプトのアレキサンドリアやインド洋、南シナ海の回路のルートを開拓していた。実はポルトガルのバスコ・ダ・ガマのインド航路発見頃にはイスラム商人によってルートは出来上がっておりガマの船の水先案内をしたのはイスラム商人だった。

<インドからイタリアへの商人のルート>

イタリアからインド洋

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イスラム商人が東南アジアに進出し東南アジアのイスラム化をもたらす。今でもインドネシアはイスラム教が最大の宗教となっているしマレーシアやフィリピンにも多くのイスラム教徒が存在する。

イスラム世界の分裂とセルジューク朝と十字軍


イスラム世界の分裂

アッバース革命が起こりウマイヤ朝が倒されウマイヤ家の血を引く人は皆殺されたが奇跡的に生き残った王子がスペインまで逃げてコルドバを首都に後期ウマイヤ朝を作った。

*後期ウマイヤ朝についての歴史記事です。

*<後期ウマイヤ朝。コルドバカリフ王国の繁栄>

この影響でそれまでひとつだったイスラム世界の分裂が始まる。

<セルジューク朝以前のイスラム世界の地図>

10世紀のイスラム世界

分裂した勢力の中のブワイフ朝はイラン人の軍事政権シーア派のイスラム王朝。946年バグダードを占領しアッバース朝を制圧した。そこに草原の遊牧民がやって来る。もともとカスピ海にいた部族でトルコ系騎馬民族セルジューク族。彼らがブワイフ朝を滅ぼしアッバース朝のカリフを助けスルタン(王)の称号を与えられた。

ヨーロッパの分裂とレコンキスタ

この頃ヨーロッパ中央ではカール大帝によって統一していたフランク王国が分裂を始めフランス、ドイツ、イタリアと別れていく。スペインではビシゴートの貴族がイスラムの侵略からスペイン北部に逃れイスラム教徒と戦うレコンキスタを進めてキリスト教君主国を建国。

<キリスト教君主国の宮廷があったカンガス・デ・オニス>

カンガスデオニス
筆者撮影

 

セルジューク朝は次第に力を持ち領土を拡大し聖地エルサレムまでも占領しコンスタンティノープルのすぐそばまでやって来た。

<11世紀のセルジューク・トルコ>

セルジュークトルコ
Source Own work
Author MapMaster
GNU Free Documentation License,
十字軍遠征

これに驚いたのがビザンチン帝国で当時のローマ法王ウルバン2世に援助を頼んだ。「エルサレムをキリスト教徒の手に取り戻せ」とローマ法王の野心も手伝い「神はそれを望んでおられる」の号令のもと十字軍遠征が行われた。

<第一回十字軍アンティオキア包囲戦>

十字軍遠征
wikipedia
public domain

200年間に約7回の遠征、キリスト教徒側の身勝手な理由で残酷な殺戮が行われた。その中には本来の目的とは違うアルビジュア十字軍による同じキリスト教徒の大虐殺やコンスタンティノープルを陥落させ破壊の限りを尽くした第4回十字軍がある。大抵いつも残酷で非道で身勝手なのは西欧側なのです。

聖地巡礼

巡礼は様々な宗教で行われる人間の普遍的な行為のようだ。ヨーロッパからエルサレムへ向かう巡礼ルートに宿場町が出来交易が行われ人と物が移動した。人間の本質に移動という欲求があるのかもしれない。

エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地で今も紛争の元になっている。1000年頃のキリスト教徒達の生涯の重要事項はエルサレムへの巡礼だった。

<エルサレム地図>

エルサレム地図
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ヨハネの黙示録の世紀末感が漂っていた時代、人々はエルサレムに巡礼に行ってキリストが架けられた十字架の破片や来ていた衣、汗をぬぐった布などを有り難く持ち帰った。これを「聖遺物」といい今も各教会に収められている。偽物も多く取引されたようでキリストのかけられた十字架の破片はすべて合わせると大きなビルになるそうだ。

十字軍の結果ベネチアなど北部イタリア諸都市はエルサレムへ行くルートから様々なものを売り買いする商人たちが登場しベネチアの街は大変栄える。道が出来て人が動き物が動いてお金が動く。東方からやって来る高価な商品の中に香辛料があった。

<ベネチア、ドゥーカレ宮殿>

ベネチア、ドージェ宮殿
wikipedia

 

そして歴史は次の主役を準備していた。弱体化したセルジューク・トルコはモンゴル人侵攻によって13世紀に滅亡する。ウマイヤ朝、アッバース朝と続いたカリフの系統は殺されて途絶えた。

モンゴル帝国


チンギス・ハーン

いつの時代も安全なルートは商売には不可欠。それを成し遂げたのは西域の遊牧民だった。モンゴル高原で分散していた遊牧民を一つにまとめ国家にしたのがチンギス・ハーン(1162~1227)だ。巨大統一国家モンゴル帝国(1206)を作ったチンギス・ハーンは騎馬軍団を引き連れ瞬く間にユーラシア大陸を制圧し中国、中央アジア、中東からヨーロッパの一部にまでもやって来た。

<チンギス・ハンの即位>

チンギスハン
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彼らの圧倒的な強さは馬の使い方。少し小ぶりの持久力のあるモンゴル馬を一人5~6頭所持し乗り換えながら移動した。重い鎧を着ないで弓を走りながら射掛ける戦法で戦った。

<モンゴル帝国最大時の領土、なんと地球上の陸地の25パーセント>

モンゴル帝国最大図
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活躍したのはイスラム商人

モンゴル帝国は武力で占領した地域に対しては税金さえ払えば干渉せず宗教に寛容で土地に執着することも無く政策もおおらかだった。ただ抵抗する都市に対しては徹底的に虐殺をして周辺諸国に恐れられ戦う前に降伏させた当時の世界最強最大の帝国だった。イスラム系の官僚を登用しイスラム商人達を利用して大規模な交易をおこなった。

イスラム商人が中国で活躍したのは元が初めてではなくイスラム教が始まって初期の頃既に海路中国の唐の都長安にて最初のモスクが創られていた。「大食」と呼ばれたイスラム教徒たちは「ペルシャ語でアラブ人を意味するTAZI」が起源でアラブ人より先にペルシャ人商人がシルクロードを経由して中国へ来ていたようだ。驚くのは既に信用取引の紙幣にあたるものを使っていた。

フビライ・ハーン

<フビライ・ハーン>

フビライハン
Kublai Khan as the first Yuan emperor, Shizu. Yuan dynasty (1271–1368). Album leaf, ink and color on silk. National Palace Museum, Taipei, 000324-00003. Photograph © National Palace Museum, Taipei.

フビライ・ハーン(1215~1294)の時代に安全な陸路と海路が保証され関税を一元化(一度だけ払えばいい税金)してヨーロッパから中東、中国にまでわたる流通が自由になった。

マルコ・ポーロ

そのころベネチアからやって来た商人がマルコポーロだった。17歳の時に父と叔父と共になんと24年間に渡りアジアを旅した。その距離は15000キロという。フビライ・ハーンに気に入られ17年間仕えたという説がある。「フビライ・ハーンの宮殿は途方もなく大きく豪華絢爛だった。壁は金銀で覆われ彫刻で飾られていた」とマルコは述べている。ベネチアに戻ったときはイタリア語を忘れかけていたという。

<タタールの衣装を着るマルコポーロ>

マルコポーロ
wikipedia public domain
蒙古襲来

マルコ・ポーロが中国についたのが1271年から1275年頃、その少し後に日本への2度の元寇が行われている。フビライ・ハーンがマルコ・ポーロから日本の豊かさを聞いたのが原因という説もあったが現在は否定されている。蒙古襲来に鎌倉時代の日本は大慌てだったようだが幸運にも神風が吹いて助かった。

<蒙古襲来図>

蒙古襲来
By 竹崎季長 – 『蒙古襲来絵詞』, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8013793

しかしモンゴル帝国の繁栄にも終わりがやって来る。中国には明が建国されモンゴル帝国の領土と経済の中心を失っていくころ中東ではオスマン・トルコが力を伸ばす。

モンゴル帝国が衰退すると陸のシルクロードの安全性は失われたがマラッカ海峡経由の海のシルクロードは中国に住むイスラム商人たちによって継続して使われていた。マラッカは重要な商業中継地点だった。

<イスラム商人のルートと取扱い商品>

イスラム商人の交易路
ムスリム商人のおもな貿易路と主要取引品地図 – 世界の歴史まっぷ

オスマン・トルコ


オスマン族はもともと遊牧騎馬民族だった。ルーツはセルジューク朝の傭兵部隊のオスマン一族。騎馬戦術に長けた勇敢な遊牧民が次第に強大になり西アジアから東ヨーロッパにかけてオスマン帝国を作る。そして東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに向かってやって来た。

<1453年コンスタンティノープルの包囲>

コンスタンティノープル1543年
Author Bertrandon de la Broquière in Voyages d’Outremer

1453年コンスタンティノープルの陥落によって東ローマ帝国は滅亡した。古代ローマ時代から続いたひとつの時代が終焉し当時ジェノバやベネチアが独占していた地中海の交易をオスマン・トルコが奪いはじめる。地中海での貿易に高い税金がかけられるようになりヨーロッパでの経済秩序が乱れ始めた。

<16世紀イスタンブールの天文学者達>

16世紀の天文学者
public domain

遅れたヨーロッパで大航海時代の序曲

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貴重品だった香辛料

病原体が発見されるまでペストの蔓延は匂いによると信じられていた。臭いを消す香辛料はアジアからシルクロードを渡りベネチアの商人の手を通ると大変な高級品で銀と胡椒が同じ値段で取引されていた。マルコポーロを代表とするベネチアの商人達の最大の利益となったのが香辛料だった。

香辛料
Source http://www.flickr.com/photos/judepics/409841087/
Author judepics
コロンブスの登場

もしも地球が本当に丸いのならば関税の高いオスマン帝国を通過せず西回りでも直接持ってくることが出来ると思ったの人物がコロンブスだった。コロンブスについては謎の部分が多いがポルトガル船に乗ってポルトガル王に仕えていたことは間違いない。

コロンブス
wikipedia public domain

丁度この頃世界地図が作られ航海術が発達してポルトガルは既に大航海時代に入っていた。1488年バーソロミュー・ディアスが喜望峰を発見した為コロンブスはポルトガル王に西回り航海の援助は断られてしまう。喜望峰からインド洋が近い事をポルトガルは手に入れた為、西回りでインドに行く意味が無くなった。更にセネガルの奴隷貿易で既にポルトガルは利益を得ていた。

<アフリカ最南端、喜望峰>

喜望峰
wikipedia public domain

ポルトガル王からの援助をあきらめたコロンブスは隣のスペインへ移動しイサベル女王に謁見する。

*イサベル女王についての記事です。

*<イサベル女王とその時代>

スペインはその時まだ南スペインのイスラム教徒の国グラナダ王国の陥落戦の最中だった。「援助は無理」と断られコロンブスはスペインをあきらめようとしたが、1492年1月2日にグラナダのアルハンブラ宮殿が陥落する。

<グラナダの陥落、右側がイサベル女王とフェルナンド王>

グラナダの陥落
De Francisco Pradilla – See below., Dominio público, Enlace

再度会議が行われコロンブスに援助することが決まりコロンブスは西回り航海に出港することになった。

*大航海時代についての歴史記事です

       *<大航海時代の始まり、スペインとポルトガル>

 

1492年8月3日スペインを出港したコロンブスは10月12日に今のバハマ諸島に到着し、翌年西回り航海から戻ると問題が起こった。既にスペインとポルトガルで結ばれていたアルカソバス条約(1479)ではコロンブスが到着したところがポルトガル領土になっていしまう。

<アルカソバス条約>

アルカソバス条約

1492年は同じ年にグラナダの陥落、コロンブスの出港とスペイン人ローマ法王の即位があった不思議な年だった。枢機卿に袖の下をばら撒きローマ法王になったアレッサンドロ6世は地球を縦に割るトルデシージャス条約を結びスペインは西へポルトガルは東へと行先が決まった。

<トルデシージャス条約>

点線はアレキサンドル6世が引いたもので後の交渉で少し左の実線に決まる。

トルデシージャス条約
change from wikipedia cc
Source Own work
Author JjoMartin
ポルトガルは東へ、そして種子島へ

この条約でスペインとポルトガルの旅立つ方向が決まった。スペインは西へポルトガルは東へ。1497年、ポルトガルはインド洋へ入ってカリカットへ到着した。これが世界史で習うバスコ・ダ・ガマのインド航路発見だが実際はインド洋の海域はイスラム商人達には既に良く知られた航路だった。古代からシルクロードを商人たちが行きかっていたので既に安全なルートは出来上がっていた。ポルトガルからの王への贈り物は帽子や外套、サンゴ等だったがイスラム商人に馬鹿にされた。

<ポルトガル船のルート>

バスコダガマのルート
By User:PhiLiP – self-made, base on Image:Gama_route_1.png, Image:BlankMap-World6.svg, GFDL, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4805180

その後ポルトガルは1510年にインドのゴアを武力占領しさらにマラッカ王国を征服してイスラム商人を殺害して追い出す。ゴアはアジアにおける最初のヨーロッパ諸国による植民地となり1961年に返還されるまでポルトガル領土だった。その後南シナ海に進出して中国の明との接触を開始したがマラッカの占拠など悪評が既に伝わっており公式の貿易の道は立たれ密貿易を始めた。ポルトガル商人は中国船に同乗する者もいた。

スペインは西へ

トルデシージャス条約でスペインは西へと行先が決まり多くのコンキスタドーレス達が金銀を求めアメリカ大陸へ冒険に行った。スペイン国王の許可を必要としたが財政の援助は無くコンキスタドーレスが自分で資金を集め組織した私利私欲と暴利を求める山師の集まりだった。1521年にアステカ王国をコルテスが、1533年にピサロがインカ帝国を侵略したスペイン史の最も恥ずべき黒い歴史。ポルトガルがアジアで傍若無人にふるまいスペインはアメリカで残酷の限りを尽くした。

<コルテスのマヤの破壊>

コルテスのマヤ襲撃
De Desconocido – http://www.kislakfoundation.org/collectionscm.html, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6894018

救いはそれを見逃さない良心を人間が持っていたことだ。ラス・カサスという宣教師を中心にひどい扱いを受けているインディオ達を救うために立ち上がっている。

鉄砲伝来


倭寇、王直

東アジアで中国沿岸部から朝鮮半島を荒らした海賊集団を倭寇(わこう)という。当時は今のような日本人とか中国人、朝鮮人と言う区別は明確に無かったようで九州から瀬戸内海を拠点として日本人やポルトガル人も含んでいたグローバル海賊集団だった。

<倭寇のルート>

倭寇のルート
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Author The original uploader was Yeu Ninje at English Wikipedia

その中に王直がいた。王直は中国生まれで塩商人をしていたが失敗し密貿易の世界に入る。当時の明の中国では貿易は禁止されていたのでシャムやマラッカに渡り活躍していた海賊の頭目だった。1540年には五島列島に住み着き1541年には松浦隆信に召喚され平戸に移り住んだ。

王直像

1543年の台風の季節、この王直がチャーターしたジャンク船が種子島に漂着。漂着したのか王直が選んで到着したかは今も専門家の意見が分かれている。

「天文12年8月25日種子島の西の村に大船がやって来た。どこの船かもわからず見たこともない服装をしていて言葉も通じない。船にのる明国人と砂浜に杖で文字を書いて筆談をした」その筆談の通訳が王直だった。

<中国のジャンク船>

中国のジャンク船
wikipedia public domain
Source http://collections.rmg.co.uk/collections/objects/102565.html
Author Rock Bros & Payne
火縄銃の製造

当時の種子島の領主は16歳の種子島時堯(ときたか)。南蛮人が持っていた火縄銃に興味を示しそして購入した。値段は2丁で2千両、今のお金に換算して2億円という説がある。

種子島銃
Arquebus.(Tanegashima Hinawajyu・Japanese:種子島火縄銃)
this The Arquebus is in the Portugal Pavilion in Expo 2005 Aichi Japan.
Photo by Gnsin

真偽はともかく大変な高額を支払って2つ購入し1つは種子島の刀鍛冶に渡し「同じものが作れるように」という命令が下った。家臣に火薬の調合を習わせ鍛冶屋は銃筒を作った。種子島はもともと砂鉄が取れる製鉄の島。八板金兵衛清定という鍛冶屋は似たようなものを作れるようになったが自分でどうしても解決できなかったのがネジだと言われている。日本にネジが無いのでネジ山の作り方がわからず鍛冶屋は苦悩した。

種子島には苦悩する父の為に娘の若狭は南蛮人に嫁いでネジの作り方を教えてもらったという伝説が残る。口承のみで史実は不明だが若狭の墓が残る。

<種子島の若狭の墓>

若狭の墓
wikipedia CC3.0
Source Own work
Author みっち

もうひとつの火縄銃は紀州根来(きしゅうねごろ)の僧兵津田堅持に上納し後大量生産している。根来寺(ねごろでら)は僧兵1万を持つ軍事僧集団だった。

日本人は自分達で銃を作るようになった初めてのアジア人となる。この時種子島に来ていた堺の商人「橘屋又三郎」が火縄銃の作り方を学んで堺に持って帰り当時のヒット商品となった。鉄砲の製造と使用は瞬く間に広まり1570年石山本願寺の戦いでは8000邸の銃が使われ長篠の合戦で武田軍を破った。鉄砲伝来から27年間で日本は軍事大国となった。その後ろには現代にもつながる日本の工業技術の基礎が既にあった事がわかる。その後日本人は独自の方法で銃の性能を高めていったのも今の日本人と通じるものがある。

<長篠の戦いの屏風絵一部>

長篠の合戦屏風絵一部
By 不明 – 徳川美術館蔵, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6386115
火薬と鉛

鉄砲が作れても火薬と玉が無いと武器は役に立たない。玉を作る鉛は国産もあったようだが東南アジアや中国から輸入した。後にやって来るイエズス会やオランダ商人達もこの貿易に一役かっている。

一方火薬の原料は硫黄、木炭、硝石で当時の日本では硝石が取れないのでインドから輸入されることになった。通訳をした倭寇の王直が種子島への硝石の取引を開始しそれを信長が大量に買い硝石貿易を境で独占する。これらの貿易は戦国大名の大きな収入源となって行く。

東洋のベニス<堺>

堺は財力を蓄えた商人たちが活躍する自治都市だった。戦国時代に山口、九州、土佐へ向かう瀬戸内海航路の起点で海上交通の要、日本最大の物流の拠点だった。又金属産業が古くから栄え鋳物産業の国内の中心だったので刀や武具が多く製造されていた。鉄砲が商人によって伝わり大量に堺で作られたのはこれらの基礎があった。

<16世紀の屏風、右上に堺の街>

16世紀の屏風
By 不明 – Universalmuseum Joanneum, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=40008986

信長は堺を抑えることで武器と経済を手に入れ天下を取った。

茶の湯

茶の湯は戦国武将だけでなく堺の豪商たちの間でも広まり「わびさび」の文化が産まれる。元々は町衆と言われる有力商人の親睦の場で次第に客人をもてなす美学や茶器などを選ぶ目利き、心構えや態度なども求められるようになる。

信長が茶の湯に興じたのは精神面だけでなく豪商たちとの親睦と経済力を政治の手段として用いたと思われる。

 

イエズス会の結成とアジアへの布教


ヨーロッパでは宗教改革の嵐のなかカトリックの対抗宗教改革の流れで新しい修道会が作られた。エリート集団イエズス会の結成。イグナチオ・デ・ロヨラが中心となりアジアにキリスト教を広めに行きましょうと決まりフランシスコ・ザビエルがポルトガル王ジョアン3世の依頼を受け1541年リスボンを出発した。

フランシスコ・ザビエル
wikipedia public domain

インド航路を通ってインドのゴアから東南アジアに渡ってマラッカ(当時ポルトガル領土)で布教をしていた時に日本人と出会った(1547年)。鹿児島出身のアンジロウかヤジロウという名前の男性で日本で犯罪を犯して逃げて来ていたらしい。1549年アンジロウと共にフランシスコ・ザビエルは鹿児島に到着した。鹿児島では伊集院城で大名島津貴久に謁見し宣教の許可をもらう。都を目指す途中の山口では大内義隆に謁見、堺で豪商の日比谷了珪の知遇を得る。スペインはカルロス5世の晩年、息子フェリペに遺書をしたためた頃だ。

*カルロス5世(スペイン史カルロス1世)についての記事です

*<カルロス5世神聖ローマ帝国皇帝>

 

茶道とミサ

日本での布教を成功させるためにイエズス会の宣教師たちは日本の事を細かくリサーチしている。茶室や茶の湯の事も報告書に記載されていてヨーロッパでは金銀ルビー等に価値があるのに日本人は茶室や茶器に莫大なお金を使う事に驚いている。千利休がイエズス会の宣教師と同席することもあったし千利休がミサに出席することもあったと想像する。茶道の帛紗(ふくさ)の使い方にミサの所作と似ている動きがあるのは古くから指摘されている。

<南蛮人と話す日本の大名>

宣教師とサムライ
wikipedia public domain
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最後に

ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは信長や秀吉と謁見し日本の習慣や日本史を書いた。これにより約10年にわたって書かれた戦国時代の客観的な通年史を私たちは知ることが出来る。フロイスは長崎で26聖人の殉教を見届け執筆し亡くなっている。またポルトガル人宣教師ルイス・デ・アルメイダによって外科医術が日本に伝わる。私財を日本のライ病患者や貧しい子供達の為に使い奉仕した。

この後スペインはフェリペ2世の時代ポルトガル領土も手に入れこの国に日が沈む事が無い大帝国となる。

*フェリペ2世についての記事です

*<フェリペ2世「日の沈む事無き大帝国」の国王>

 

日本とスペインの間を宣教師や使節が移動する。天正遣欧少年使節団が日本を出発するのが1582年、秀吉による伴天連追放は1587年。26聖人の殉教は1597年。奇しくもフェリペ2世と秀吉はどちらも同年1598年に没している。

歴史は動き時代は移り変わって行く。イエズス会と日本のキリシタン大名や2回の遣欧使節については別の章を作って書いてみたいと思います。

読んでいただいてありがとうございました。

 

フェリペ2世「スペイン・日の沈む事無き大帝国」の国王

 

フェリペ2世、かつて「この国に日が沈む事無き」と呼ばれた頃のスペイン国王。遺産相続で手に入れたものがとてつもない巨大帝国だった。父王カルロス5世(スペイン史ではカルロス1世)からスペインと新世界、ナポリ、シチリア、サルディーニャおよびミラノ、フランドルを継承し、後にポルトガル王位継承権が手元にやって来る。スペインの領土は文句なく史上最大となった。がその治世は困難が多く父王からの負の遺産も多く受け継いでいる。さらにプロテスタント問題、ネーデルランド独立、無敵艦隊の敗北など辛酸な屈辱も多く味わった王でもある。日本との関係では天正遣欧使節団が謁見し随分と厚遇してもらっている。広大な帝国を支配しながら慎重王と呼ばれ華美な事を好まず4人の妻に先立たれ最後は修道僧のような生活をしたスペイン国王フェリペ2世の生涯の物語。

1527年、バジャドリード


バジャドリードはちょっと特別な街。カスティーリア王国の首都だったこともあり12世紀以来重要な位置を占めていた。カスティーリア王ペドロ1世残酷王はここで結婚式を挙げ、またカトリック両王(イサベル女王とフェルナンド王)もこの街で結婚式を挙げている。この特別な街で特別な王子が生まれた。

フェリペ誕生

父王カルロス5世26歳、母イサベル23歳。その日は朝から雨だった。ピメンテル宮殿は窓のカーテンがすべて閉められ誰にもその苦しみにゆがんだ顔を見られないよう頭からシーツでくるまれた王妃イサベル。苦しみに耐え13時間の陣痛の末1人の男の子を産んだ。結婚1年目の待望の男子誕生に国中が沸き上がった。

<カルロス5世とイサベル王妃、ティチアーノ作をルーベンスが模写>

カルロス5世とイサベル
wikipedia public domainマドリード、リリア宮

ピメンテル宮殿は今はバジャドリードの県庁になっている。2週間後の洗礼式はサン・パブロ教会でトレドの大司教により執り行われ街は華やかに飾られ民衆には騎馬試合や闘牛や祭りが提供された。この子の名前は祖父フィリップ美公の名前をとりフェリペと名付けられた。

<フェリペの洗礼式>

Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1863854
 子供時代のフェリペ

小さいころは狩り遊びに興じていたが6歳の頃から家庭教師がつけられ教育が始まる。サラマンカは1215年に既に大学があった学問の街。子供時代のフェリペは家庭教師によりサラマンカで教育を受ける。体は少し弱かったようだが子供のころから無口で感情をあまり外に出さない男の子だった。

母イサベル


母イサベルはポルトガルの王女。カトリック両王の三女マリアの娘、なので父カルロスと母イサベルは母親同士が姉妹の関係。

<フェリペの母イサベル王妃、ティチアーノ作>

ポルトガルのイサベル
De Tiziano – [2], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=20202270
イサベル王妃の母マリアはポルトガルのマニュエル王に切望され嫁いだカトリック両王の娘。不幸が続いたカトリック両王の子供達の中で唯一幸福な結婚をした人物。

まわりの期待通りの美しくしとやかで聡明な王妃だった。結婚式の1時間前に初めて会ったカルロスはすぐに恋に落ちた、美しく清楚で気品のある女性。そんな母親から生まれ大切に育てられたのはフェリペ2世の人生の中で最も幸運な事だったのではと、思う。

実際父王カルロス5世は戦争と会議と旅で不在な事が多い中誠実に国を守り子供たちを育てた。

母イサベルの死

イサベル王妃はもともと体が弱くベッドに伏せることが多かった。当時産褥で亡くなる女性が多かった中フェリペの下に妹2人、さらに男の子を産んだ後体調を崩しその子は生まれて間もなく死亡、さらにもう1人を授かるが死産。これがたたりイサベルはもう起き上がることはほとんどなくなりトレドのフエンサリーダ宮殿で息を引き取る。フェリペ12歳、多感な少年時代に最愛の母を失った。

<イサベル王妃の死、プラド美術館>

フェリペの母イサベルの死
De José Moreno Carbonero – Galería online, Museo del Prado., Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=42463134

父王カルロス5世は棺の傍らで祈り続けその後1か月間トレドの修道院に籠った。現在はエル・エスコリアル修道院にカルロス5世と共に埋葬されている。1人の世継ぎフェリペだけでは心配な声もあったはず、だがカルロス5世はこの後生涯結婚せず亡き妻を慕い続けた。

フェリペの結婚


フェリペ2世は4度結婚する。王家の結婚は全て政略結婚。誰と結婚するのが我が国の為になるか、その次に大切なのは世継ぎを残す事。最初の結婚で男子が生まれるがその子は異様な容姿と極端な性格のドン・カルロス。フェリペは男子誕生に恵まれず妻と子の死を何度も経験し結婚を繰り返す事になる。

<フェリペ2世、20歳頃、ビルバオ美術館>

フェリペ2世
public domain
最初の結婚はポルトガル王女マリア・マヌエラ、1543年

フランス王女との話はあったが母親の面影を探してか父の話を振りきり従妹のマリア・マヌエラと結婚。どちらも狂女フアナの孫にあたる16歳同士の結婚。亡きイサベル王妃を慕う父王カルロスに再婚する意志は無く、したがってひとり息子フェリペの結婚は大切な政治だった。

「美しい王女様です」とポルトガル大使から報告を受けていた。華やかな結婚式はサラマンカで執り行われ闘牛やお祭りが民衆に振舞われた。その後2人の共通の祖母、狂女フアナがいるトルデシージャスへ向かった。城に監禁されていた狂女フアナは若い2人の孫を見て大変喜んだそうだ。。

<マリア・マヌエラ>

マリアマヌエラ、フェリペ2世の最初の妻
wikipedia Dominio público

マリア・マヌエラは陽気で明るい王妃で音楽が得意で宮廷は明るいムードに包まれた。2人の間にやがて子供が出来、大変な難産で男の子を産んだ。マリア・マヌエラはその後熱が下がらず2度と起き上がること無く、18歳の短い生涯を終えた。マリア・マヌエラの遺体はいったんグラナダに運ばれ、後に完成したエルエスコリアル修道院へ移動。今もそこに眠っている。

 

*マヌエラはポルトガル王ジョアン3世と王妃カタリーナの娘。父親のジョアン3世はマヌエル1世とカトリック両王の3女マリアの息子。母カタリーナはフィリップ美公と狂女フアナの末娘。父と母はいとこ同士。フェリペの父親カルロスも狂女フアナの息子なので父方も母方も従妹になる。血の濃い結婚の結果がスペイン・ハプスブルグを蝕み始めた。

母の命と引き換えに生まれた息子は弱く小さくカルロスと名付けられるが生まれながらに異様であった。シラーの戯曲、後ヴェルディ―のオペラになったドン・カルロスの誕生。フェリペを苦しめる事になる王子の誕生だ。

<カルロス10歳頃、プラド美術館>

ドン・カルロス
De Alonso Sánchez Coello – [1], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=630429
フェリペの初めての海外領土視察1548年

父王カルロスは王位継承者フェリペに政治経験と広大な領地を見せる為ネーデルランドへ呼びドイツや北イタリアの領土を見せる。フェリペは生涯常に父の命令に素直に従う。しかし社交性が無く不愛想で無口、オランダ語もフランス語も出来ないフェリペはあまり領民には人気が無かった。フェリペも豪華な宮廷文化は好みではなかった。2年9か月の旅を終えスペインに戻る。

<フェリペ2世1551年ティチアーノ、プラド美術館>

フェリペ2世1551年
De Desconocido – http://www.museodelprado.es/imagen/alta_resolucion/P00411.jpg, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=140998

同じころイエズス会士フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着し日本にキリスト教を伝えている。

イングランド女王メアリーチューダー

次のフェリペの妻になるメアリーは幼少の頃に辛酸を舐め尽し他人を信じる事より疑う事で強い信念を培い生きた王女だった。後にプロテスタント迫害でブラッディ―・メアリー、血のメアリーと呼ばれる。

<即位前のメアリーチューダ->

メアリー1世
wikipedia public domain
National Portrait Gallery

父親はイギリス王ヘンリー8世、母親はカタリーナ・デ・アラゴン、又してもカトリック両王の娘だ。カタリーナが5度の妊娠に失敗し死産を繰り返し6度目の懐妊で生まれたのがメアリー。ヘンリー8世は4歳年上のカタリーナに最初は熱心だったが6度の出産後、容姿にも衰えが目立つカタリーナへの愛情は次第に無くなる。カタリーナの侍女だったアン・ブリーンは国王の愛人となり次第に発言力を持ち王妃の座を所望。男子がいなかったヘンリー8世はカタリーナと離婚してアンを正式な王妃に迎えるためにカトリック教会と決裂した。

<ヘンリー8世2度目の王妃アン・ブリーン>

アンブリーン
By 不明 – http://www.siue.edu/~ejoy/eng208lecturenotessonnets.htm (see also National Portrait Gallery, London: NPG 668), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1283649

やがてアンは娘を産みその子が後のエリザベス女王となる。庶子に落とされたメアリーにアンは娘エリザベスの侍女となるよう強要するがメアリーは断固これを突っぱねた。幽閉状態になりアンにより毒殺されかけるが危険を感じ取り提供される食事はなにも食さず生き延びる。母カタリーナが城に監禁され孤独な死を迎えた時アンはそれを祝ったという。しかし後にアン・ブリンは国王ヘンリー8世によって斬首刑、次の王妃の息子がエドワード6世として即位するが15歳で夭折する、と周りはメアリーを拘束しよう動き出す。命からがら脱出しメアリーを支持する民衆と共に1553年メアリー1世としてイングランド女王に即位した。

<メアリーのロンドン入場、後ろにいるのがエリザベス>

メアリーのロンドン入場
public domain
The Entrance of Queen Mary I with Princess Elizabeth into London, 1553
by John Byam Liston Shaw © Palace of Westminster WOA 2592
イングランド女王メアリーとの結婚、1554年

結婚は政治。父王からの命令である。イギリスの女王となったメアリー1世とフェリペは2度目の結婚をする。叔母と甥の関係になる。メアリー側にとっては国内のプロテスタントに対抗できるメリットがあった。11歳年上のメアリーはすでに37歳、フェリペ26歳。交換し合ったメアリーの肖像画が今もプラド美術館にある。

<メアリー1世、1554年、アントニオモーロ、プラド美術館>

ブラッディ―メアリー
By アントニス・モル – Museo del Prado Catalog no. P02108 [2], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4314226
<フェリペ2世1554年ティチアーノ、ピッティ―宮殿>

フェリペ2世
wikipedia pabulic domain
Source/Photographer Web Gallery of Art: Inkscape.svg Image Information icon.svg Info about artwork

フェリペがイングランドに入りメアリーと過ごし、おそらくメアリー1世の人生で初めての幸福な時間を過ごす。多くのカスティーリアの男の様にフェリペは優しく紳士だった。そんなころメアリーの懐妊が発表される、が実は水腫と想像妊娠だった。

フェリペはイングランドを離れスペインへ戻り2人は遠距離結婚となる。それぞれが国王なので仕方がない。フェリペはこの時の1年2か月のイングランド滞在とその後サンキンティンの戦費の無心で3か月滞在しかしておらず実際1年5か月の夫婦生活だったがメアリーにとっては白馬の王子さまとの蜜月、人生で唯一の幸福な日々だった。

カルロス5世の退位とフェリペ2世の即位


父カルロス5世は1555年アウグスブルグの和議のあと退位。ハプスブルグ帝国を守るため戦争と会議と旅に明け暮れたカルロス5世は涙の引退声明の後、スペインのユステの修道院へ妻の絵を持って隠居する。

<ユステのカルロス5世>

カルロス5世ユステ

父の退位により1556年1月16日フェリペ2世としてスペイン国王に即位。さらにオーストリアを除く領土を受け継ぐ。叔父のフェルディナンドが皇帝位を継承しここからハプスブルグ家はスペイン・ハプスブルグとオーストリア・ハプスブルグに分かれる。

サン・キンティンの戦いとエル・エスコリアル

1557年8月10日聖ロレンソの日、フェリペ2世は即位後初めての戦争でフランスを破る。フランス北部の街サン・キンティン(仏サン・カンタン)の戦い。相手はアンリ2世。戦後カトーカンブレジ条約で長年のフランスとの軋轢のイタリア戦争に終止符が打たれた。この勝利を記念して後に作らせた巨大な修道院兼王宮がエル・エスコリアル修道院となる。

<サンキンティンの戦い、エル・エスコリアル修道院蔵>

サンキンティンの戦い
public domain
Source http://www.unapicaenflandes.es/imagenes/Asedio.jpg
Author Niccoló Granello

この戦費をイングランドに助けてもらうためフェリペは妻のメアリーに会いにイギリスへ。2度目の最後のイギリスの滞在となる。メアリーは5年間の在位の後卵巣腫瘍で1558年に死去。次にイギリス王位に就くのがエリザベス1世、実はフェリペ2世はこの後エリザベス1世女王に求婚しているが断られている。同年父カルロス5世ユステで崩御。慕っていた叔母2人もほぼ同時に亡くなりフェリペ2世はさらに孤独感を強めていく。

 

フランス王アンリ2世の長女イサベル・デ・ヴァロア


又しても世継ぎなく妻に先立たれた。では次、として決まるのがフランスの王女イサベル。

ここでメディチ家登場。メディチ家はイタリアのフィレンツェで丸薬と銀行業で大儲けをした豪商家族。ボッティチェルリやミケランジェロのパトロンで有名。フィレンツェのウフィツイ美術館はメディチ家の事務所だった建物。「オフィス」をイタリア語で「ウフィツィ」という。

ローマ法王まで出しているロレンツォ豪華王の時代はメディチ家の最盛期、そのロレンツォの孫にあたるカトリーヌ・デ・メディチはフランス王家の血も引く。スペイン・ハプスブルグに対抗するため商人の娘とフランス王家の結婚話がまとまった。

 

<フランス王子アンリとカトリーヌの結婚>

アンリ2世とカトリーヌデメディシス
wikipeida public domain

 

カトリーヌはフランソワ1世の次男アンリと14歳で結婚したが長男フランソワが突然死、次男のアンリがフランス王になったのでカトリーヌは自動的にフランス王妃となった。あまり美しいとは言えない女性だったが体が丈夫で頭が良く機転が利く。夫アンリには20歳上の愛人がいたがお構いなく9人の子供を産み夫亡きあとは摂生として大活躍し女帝となる。

そのカトリーヌ・デ・メディチとアンリ2世の娘、イサベル・デ・ヴァロアとフェリペ2世は結婚する。サンキンティンの戦いの後のカトーカンブレージ条約の一環だ。戦争ばかりしていたフランスと仲良くしましょうと結婚が決まった。

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カトリーヌの長女イサベル・デ・ヴァロアは13歳でスペイン王妃となる。

<イサベル・デ・バロア、プラド美術館>

イサベル・デ・バロア
wikepedia public domain

当時の国王の結婚式は最初に代理結婚式が行われる。1559年6月パリで行われた代理結婚式では5日間にわたり祭典や舞踏会、馬上槍試合が行われた。その祭りの最中に不吉な事が起こる。騎馬試合でフランス国王アンリ2世が槍で目を刺され落馬、その後死亡。

15歳のスコットランド王女メアリー・ステュアートはアンリの息子フランソワと結婚式を挙げている。同年イングランドでエリザベス1世が即位しメアリーはその正当性に対して抗議し2人の女王の戦いのゴングが鳴っている。

<フランソワとメアリー>

フランソワとメアリー
http://www.blastmilk.com/decollete/gallery/tudor/maryqosandfrancis-thumb.jpg From Catherine de’ Medici’s Book of Hours, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2962692

フェリペ2世の結婚に戻ろう。実はイサベルと先に婚約していたのはフェリペ2世の長男カルロスだった。カルロスは生まれた時から体は弱く容姿は異様で性格は残酷だった。度々の異常な行動に廻りには黒いうわさが絶えなかった。息子は次第に父に敵対するようになりプロテスタントのネーデルランドへ行って父王に反旗を翻そうとしたところ捕まり幽閉され23歳で謎の死を遂げる。オペラ、ドン・カルロスではフェリペ2世が若い2人の恋を邪魔してイサベルを妻にしという話になっているが事実ではないようだ。

1560年にフェリペ2世とイサベル・デ・バロワの結婚式がスペインのグアダラハラの宮殿で行われた。その翌年首都がマドリードに移動している。フェリペはイサベルより18歳年上。若い王妃は最初は流産をするが1566年にイサベル・クララ・エウヘニアが生まれ1567年に妹カタリーナ・ミカエラを出産。

<イサベル・クララ・エウへニアとカタリーナ・ミカエラ、プラド美術館>

フェリペ2世の2人の娘
SÁNCHEZ COELLO, ALONSO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

2人の可愛い娘と美しい王妃はフェリペに大きな幸福を与えた。1568年に新たに男子を妊娠するが死産の後イサベルは帰らぬ人となる。ドン・カルロスが亡くなって間もなくの事、息子と妻をほぼ同時に失くしたフェリペの悲しみは深かった。今は2人ともエル・エスコリアル修道院に埋葬されている。

 

冷徹で近寄りがたいと言われるフェリペ2世だが娘達への手紙に「お前の善良な父より」と愛情を込めて署名してる。この娘たちによってフェリペ2世の人生は少し明るいものになった。特に長女のイサベラは優秀で機転が利き生涯フェリペのお気に入りだった。

4度目の結婚ハプスブルグのアナ・デ・アウストリア

「もう結婚なんてしたくない」と思ったかもしれない。王様家業は大変だ。4度目の相手探しが始まった。野心家のカトリーヌ・デ・メディチは末の娘を押してきたが最終的に決まったのはオーストリア・ハプスブルグからアナ・デ・アウストリア。フェリペ2世の妹の娘なので叔父と姪の関係になる。フェリペ2世41歳アナ19歳。

<アナ・デ・アウストリア、プラド美術館>

アナデアウストリア
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1570年プラハで代理結婚式が行われた後セゴビアのアルカサールで結婚式が行われた。アナの母(フェリペの妹マリア)は小さい頃から娘にカトリックとスペイン語とカスティーリアの習慣を教えていた。誠実で質素、金髪でブルーの瞳、エレガントで愛らしく直ぐにマドリードの宮廷に馴染み人々に愛される。3歳と4歳の前王妃の娘達にも慕われ幸福な日々の中最初の男子を授かる。フェリペ2世に笑顔が戻った。そんな頃に戦争がはじまった。

弟フアンとレパントの海戦

実はフェリペに母違いの弟がいた。カルロス5世の庶子フアン。「やんごとなきお方のお子様」と田舎で秘密裡に育つがカルロスは生前公にはしていない。

<ユステでカルロス5世に紹介されるフアン、プラド美術館>

フアンデアウストリアのカルロス5世への紹介
Eduardo Rosales – Museo del Prado

金髪の美しい青年に育ちカルロス5世からの遺言に従いフェリペ2世は彼を宮廷に呼ぶ。それ以来ドン・ファン・デ・アウストリアと呼ばれ軍人の道を歩む。

<ドン・ファン・デ・アウストリア、スペイン海軍所蔵>

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この時代オスマン・トルコが地中海で暴れだしキプロス島を制覇した。怯えるベネチア共和国はスペインに援軍を求めるがフェリペ2世は消極的だった。危機感を抱いたローマ法王が出て来て十字軍を提唱。カトリック連合軍「神聖同盟」が結成されその総司令官にドン・フアン・デ・アウストリアが選ばれる。1570年10月7日メッシーナ海峡に連合艦隊300隻が集結しギリシャ沖で285隻のオスマントルコと対峙したのがレパントの海戦。結果約1時間半で神聖同盟の勝利となりドン・フアンはヒーローとなる。この戦士の中にまだ23歳のミゲール・セルバンテスがいた。後の「ラマンチャの男」ドン・キホーテの物語の作者。

アナの死と子供達


アナ・デ・アウストリアは5人の子供を産んでいる。待望の長男が生まれたのがレパントの海戦のすぐあと。この子はフェルナンドと名付けられフェリペはたいそう喜んだ。神のご加護、異教徒を倒し世継ぎを授かったと早速ティチアーノに描かせた作品がプラド美術館にある。

<勝利へ捧げるフェルナンド王子とフェリペ2世、プラド美術館>

勝利の神へフェルナンドを捧げるフェリペ2世
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アナは最後の女の子の出産の後の旅の途中に病気で31歳で亡くなる。誕生した5人の子供達で育ったのは1人だけだった。レパントの海戦後生まれた期待のフェルナンドは7歳で病気で死亡。次のカルロスは2歳、3男のディエゴは7歳でと次々と夭折し1578年に生まれたフェリペのみが生き残り後のフェリペ3世となる。妻と子供たちは今もエル・エスコリアル修道院に眠る。

ポルトガル王位


ポルトガル王ジョアン3世の唯一の皇太子セバスティアンが24歳で無謀な戦争に出かけ戦死。王はすでに亡くセバスティアンの母はフェリペ2世の妹ファナだった為フェリペ2世に王位継承権がやって来た。1580年フェリペはポルトガル王フェリペ1世として即位。トルデシージャス条約で世界を2分割していたポルトガル領土まで手に入れ申し分なく「日の沈む事無き大帝国」になった。

ジョアン3世妃ファナは夫亡き後マドリードに戻りデス・カルサス・レアレス修道院を創設。今もマドリードの中心部にこの修道院は現存する。息子の肖像画を見たいとファナがリスボンから取り寄せた物が今も残る。

<セバスティアン王11歳、デスカルサス修道院蔵>

セバスティアン王子
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この少し後に日本からの天正遣欧少年使節団がリスボンに上陸する。4人の少年達が九州からやって来た。長い旅の後マドリードのサン・ヘロニモス教会(プラド美術館横)でフェリペ皇太子の宣誓式に参列している

エリザベス女王とアルマダの海戦


イングランドでエリザベス1世が即位。母アン・ブリーンは処刑され庶子に落とされたが巡り巡って女王に即位。ネーデルランドのプロテスタントを後ろから援助をして北部8州はネーデルランド独立共和国を宣言。更に海賊フランシス・ドレイクを雇ってスペイン艦隊を度々襲わせている。

<エリザベス1世、ナショナル・ポートレート・ギャラリー>

エリザベス1世
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エリザベスが最も恐れていたのはスコットランドのメアリー・スティアートの人気だった。夫の死後スコットランドに戻って来ていたメアリーをエリザベスは陰謀の末斬首の刑にする。

<メアリースティアートの処刑>

メアリースティアートの処刑
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これでフェリペ2世は黙っているわけにいかなくなり戦争へ突入。1588年アルマダの海戦が始まる。結果は散々でスペインの大型ガレー船は英仏海峡での動きが悪く更に悪天候のなか小型帆船の英国に惨敗。

<英仏海峡アルマダの戦い、グリニッジ病院コレクション>

アルマダの戦い
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アルマダの海戦の勝利でエリザベス1世女王の英国での地位は揺らぎないものとなった。

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フェリペ2世の晩年


アルマダの海戦の敗北、ネーデルランドの独立と続く戦争、ポルトガルの反乱などの困難な大帝国を息子に託す準備を始める。老いた国王は毎日山ようなの書類に自ら目を通したと言われる。

<フェリペ2世最晩年、パントハ、エル・エスコリアル修道院>

フェリペ2世1590-98頃
wikipedia dominio publico

1598年あまり健康状態がすぐれない中エル・エスコリアル修道院に移動。椅子ごと担がれ通常ならマドリードから50キロ1日の道のりを休みながら約1週間かけて移動した。その椅子は今もエル・エスコリアル修道院に展示されている。1598年9月13日、望んだ通りエル・エスコリアル修道院の自室でフェリペ2世崩御。71歳だった。晩年の肖像画は王というより修道僧のムード。

その前年1597年、長崎で26人のキリスト教徒たちが秀吉によって処刑され、1598年フェリペ2世没5日後に豊臣秀吉崩御。ひとつの時代が終わった。

大航海時代の始まり、スペインとポルトガルの世界制覇への道。

 

スペインではレコンキスタが進んでいき遂にグラナダが陥落(1492)した。そしてコロンブスがイサベル女王からの援助を手に入れスペインは大航海時代に入って行く。様々な技術の発達やイスラム教徒との交流で世界観が広がって新しい時代がやって来た。

スペインより一足早く大航海時代に入っていたのは隣のポルトガル。地中海は遠くそこではすでにイタリア諸都市やカタルーニャが活躍している。大西洋に面したポルトガルは早くからエンリケ航海王の登場で大西洋へ出ていた。

<大航海時代のリスボン>

リスボン
By Duarte Galvão (1435-1517) – Crónica de Dom Afonso Henriques de Duarte Galvão, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15332858

*エンリケ航海王子(1385年~1433年):ポルトガル王ジョアン1世の息子。自らは航海せず王位にもついていないが熱心にアフリカ西岸探検に取り組んだ。ザグレスの航海学校は有名だが本当にあったかは疑問視されている。最大の功績はボジャドール岬を超えたことで長い間これを超えると「急流がある」や「グツグツ煮えている」や「恐竜がいる」などと船乗りたちに恐れられていた。

<発見のモニュメント、右端がエンリケ航海王>

発見のモニュメント、リスボン
発見のモニュメント、筆者撮影

ペストの流行や十字軍遠征、航海術の発達や世界地図の作製と当時のヨーロッパの世界観が広がって行きスペインとポルトガルが競って大海原へ出ていきいずれは日本へ到着する。種子島に南蛮人がやって来る直前までの歴史のお話。

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大航海時代の準備


十字軍遠征

キリスト教の聖地エルサレムはイスラム教徒の聖地でもある。セルジューク・トルコ朝が領土を拡大しアナトリア(現トルコ)に進出すると脅威を感じたビザンチン帝国(東ローマ帝国)のローマ皇帝はローマ法王ウルバヌス世に救援を求めた。

これを受けたローマ法王はクレルモン公会議を開いて十字軍遠征を呼びかけ、諸侯や騎士たちが立ち上がり第1回十字軍が1096年に出発。「神はそれを望んでおられる。あなたがもしも死んでしまっても、魂は救われるだろう!」

<第1回十字軍遠征>

十字軍遠征
wikipedia
public domain

十字軍遠征は約200年間合計8回にわたりキリスト教徒側の勝手な大義名分のもと蛮行と破壊行動が繰り広げられた。結局失敗に終わるが東方貿易が活性化しベネチアやジェノバなどのイタリアの都市国家が東方貿易で利益を得て発展していく。

最大の功績は、東方の進んだ文化がヨーロッパにもたらされたのだ。

プレスター・ジョン伝説

12世紀のヨーロッパ、十字軍遠征盛んな頃に「遠く離れた東方にキリスト教徒が住んでいる。その指導者プレスター・ジョンが十字軍を助けてくれエルサレムの奪回を助けてくれる」という伝説があった。

<東方見聞録にある挿絵、キリスト教国の君主オンカン>

東方見聞録に出てくるオンカン
wikipedia
public domain

15世紀になるとポルトガル人たちはプレスター・ジョンはアフリカにあり豊かな黄金の産地であると思い込む。イベリア半島に残るイスラム教徒を挟み撃ちにし豊かな黄金を手に入れたいを言う思い入れが大航海時代を推進させていく。

世界地図

現存する最も古い世界地図は紀元前600年のバビロニア、その後古代ギリシャの学者達によって既に地球を球体であることを前提として創られたものがあった。(いったん中世のヨーロッパではこれが否定される)この時代にほぼ正確に地球の大きさを測ったりしている事には驚く。

<プトレマイオスの世界地図の再現、150年頃>
プトレマイオスの世界地図
By Credited to Francesco di Antonio del Chierico – Ptolemy’s Geography (Harleian
public domain
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=193697

マルコポーロの東方見聞録や十字軍の遠征でそれまでの世界地図は大きく改良される。

*マルコポーロは1254年頃にベネチアの商人の家で生まれた。17歳頃に父と叔父と24年間15000㎞の貿易の旅をした。帰還した後ベネチアが敵対していたジェノバと戦争になり志願して従軍し捕虜になったときにこの旅の話をほかの捕虜に話した。それをまとめたのが東方見聞録。

<マルコポーロの旅のルート>
マルコポーロの旅
Author
Travels_of_Marco_Polo.svg: *Asie.svg: historicair 20:31, 20 November 2006 (UTC)
derivative work: Classical geographer (talk)
derivative work: Classical geographer (talk)

 

1375年に交易が盛んだったカタルーニャでかなり正確なカタロニア地図が作られていて地中海からアラビア半島や紅海、ペルシャ湾やインドが描かれた地図が作られている。

<カタロニア地図の再現 1375年>
カタラン地図
By Cresques Abraham – pubulic domain
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=670189

その後マルテル図が1490年にドイツの地理学者によってすでに喜望峰が描かれた地図が作られている。

<マルテル図 1490年>
public domain
Artist Heinrich Hammer the German (“Henricus Martellus Germanus”)
Author Ptolemy
<トスカネッリの地球球体説>

イタリア、フィレンツエの地理学者で天文学者で数学者のトスカネッリは当時のフィレンツェの知識人たちの中心にいた。友人にブルネレスキ(建築家)やアルベルティ(建築、芸術、多方面の天才)がいて様々な知識や学問が集積していた。ドイツを旅した折ギリシャ人哲学者に会い古代ギリシャ人「ストラボン」の事を知る。その後友人に書き送った手紙に西回りでモルッカ諸島へ行けるという夢のような計画が述べられていた。この手紙の筆写版をコロンブスが手に入れていたらしい。

<トスカネッリの世界地図>

トスカネッリの世界地図
wikipedia public domain
Source Narrative and critical history of America, Volume 2
Author Justin Winsor

*ストラボン:紀元前63年頃~23年頃。古代ローマ帝国ギリシャ系の地理学者、歴史家、哲学者。彼の旅はイタリアから地中海沿岸都市、エジプトやエチオピアにいたりその見聞を17巻にいたる「地理書」に残した。

航海術の発達

今でも技術の発達は世界を変える。航海術が飛躍的に発展しそれまでのヨーロッパ人の世界が地中海から大西洋へ広がって行った。

様々な発見は偶然から始まる。大航海時代がやって来るにあたり何世紀もかけて準備がなされた。

船の形の変換

{ガレー船}

もともと古代からヨーロッパで使われいた船はガレー船と言ってたくさんの漕ぎ手を必要とする大型船だった。多くの漕ぎ手の食糧や飲料水を必要とし風に弱く遠洋航海には向いていなかった。風向きの良く変わる地中海では大きなマストよりこの方が都合が良かった

ガレー船
wikipedia CC
Source my own photograph, digitally worked by me
Author Myriam Thyes

{ジャンク船}

中国では古くから三本マストの木造船大型ジャンク船を使っており羅針盤を使い商人たちがインド洋まで出ていた。乗組員500人という大型の船や、もう少し小ぶりの船で乗組員200人くらいの中型船があった。明時代にはアラビア半島やアフリカの東海岸に到着している。

鉄砲を日本に伝えたポルトガル人が乗って来た中国のジャンク船はこのタイプ。

中国のジャンク船
wikipedia public domain
Source http://collections.rmg.co.uk/collections/objects/102565.html
Author Rock Bros & Payne

{ダウ船}

アラビア人たちは紅海やペルシャ湾を拠点に中国や東南アジア、アフリカ東海岸で交易をやっており優れた航海技術を持っていた。彼らが使ったのはダウ船という今のヨットのような一本マストと三角帆で季節風を利用して巧みな航海技術で海のシルクロードで交易をやっていた。

ダウ船
wikipedia
public domain

ヨーロッパ人達よりも早くに中国人やアラビア人達はアジアで進んだ技術で航海をやっていてバスコ・ダ・ガマのインド航路発見に水先案内人として活躍したのはアラビア人だった。インド航路はヨーロッパにとっては「発見」でもアラビア人にはすでに知られた航路でしかなかった。

中国やアラビアの進んだ帆船が次第にヨーロッパに伝わって行き船の形が進化していく。

{キャラック船}

15世紀に地中海で開発された形の船。スペインではこの型の船をナオと呼ぶ。遠洋航海を前提に作られた大型船で乗組員と物資貨物を大量に搭載できる。欠点は巨大すぎて小回りが利かず強風に弱い。

<日本に来たポルトガルのキャラック船>

wikipedia public domain
Source Kobe City Museum
Author Kano Naizen

{キャラベル船}

少し小型のキャラベル船は座礁の危険が少なく沿岸地帯や河川には入れたので未知の世界での探検に向いていた。

<ポルトガルのキャラベル船>

ポルトガルのカラヴェル船
By Unknown – Livro das Armadas, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=28565761
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 羅針盤

磁石が南北を示すことを発見したのは中国人が最初。陸の見えるところを航海していた時代なら方向は目視できるが目印の無い海の中、方角と位置を確認する作業は生死にかかわる。11世紀には既に中国で航海に使われそれをアラビア商人がヨーロッパに伝えた。海の上で正確に方向を知るための羅針盤が発展し実用化し使われた。

ペストの流行と胡椒

黒死病と言って恐れられたペストはヨーロッパの人口を一気に減少させたが当時の食糧難を救った側面があった。

病原体が発見されるまで伝染病がうつるのは臭いによると信じられていたため臭いを消す香辛料が高額で取引されていた。また多少臭いの強い肉を食べる場合もあり香辛料は貴重品で胡椒と銀が同じ値段だったと言われている。シルクロードを渡ってベネチアの商人の手を通ると高額になる胡椒を直接西回りで手に入れようと思った男が登場する。

コロンブスの登場


コロンブスには今だ謎の部分が多い。出生地もいまだに正確にはわかっていないがポルトガルのジョアン2世国王に仕えて船に乗っていた事は間違いない。

<コロンブス>

コロンブス
wikipedia public domain

マルコポーロの東方見聞録に興味を持ちトスカネッリの地球球体説を知り西回り航海を考えた。ポルトガルはすでにアフリカ西海岸セネガルの奴隷貿易をやっていて暴利をむさぼり、1488年喜望峰に到着。バルトロメオ・ディアスの喜望峰発見でインド洋が近い事を手に入れたポルトガルにとってコロンブスの提唱する西回りに意味が無くなってしまった。

<喜望峰発見のバルトロメオ・ディアス>

バーソロミューディアス
wikipedia CC
Source
Bartolomeu_Dias,_South_Africa_House.JPG
Author
Bartolomeu_Dias,_South_Africa_House.JPG: RedCoat (en:User:RedCoat10)
derivative work: Biser Todorov (talk)

 

ポルトガル王の援助をあきらめスペインへやって来たコロンブスはウエルバにあるラ・ラビダ修道院で滞在した。修道院長のフワン・ぺレス神父はコロンブスの話に感銘を受け様々な援助を惜しまなかった。その縁で知り合ったメディナ・セリ公から紹介されカトリック両王に謁見が許された。

当時グラナダへの戦争(最後のイスラム王朝陥落戦)をやっていたスペインに費用は無く一旦断られコロンブスはあきらめてフランス王に援助を求めて旅立つところだった。

<グラナダの陥落>

グラナダの陥落
De Francisco Pradilla – See below., Dominio público, Enlace

1492年グラナダの陥落の直後イサベル女王の伝令がコロンブスを追いかけピノス・プエンテの村の橋の上でコロンブスに追いついた。もしも、この時追いつかなければコロンブスはフランス王の援助で出港していたかも、中南米がフランス語圏になっていたかもしれないという歴史のひとこまです。

<イサベル女王とフェルナンド王>

カトリック両王の結婚

陥落したアルハンブラ宮殿でイサベル女王から宝石箱を譲り受けそれを売って船の準備の一部にした。

ピンソン兄弟

実はイサベル女王からの援助だけでは航海の準備には不十分だった。特に船員の数は足りなく「よそ者と未知の航海へ乗り出そう」という船員などいなかった。この国では今でもコネが力を発揮する、当然当時もそうだったに違いない。よそ者など誰も信じていないのだ。

前述のラ・ラビダ修道院フワン・ぺレス神父がマルティン・アロンソ・ピンソンを紹介してくれて状況が一変する。パロス港で海運業をやっていたピンソン家は優秀な船乗りで船員や航海に必要な様々なものを提供してくれた。特に航海技術や操舵技術においてピンソン兄弟の経験と知識はコロンブスの航海に大きく貢献している。

<パロス・デラ・フランテーラのピンソン兄弟>

ピンソン兄弟
Source Own work
Author Miguel Ángel “fotógrafo” 2007

パロス・デラ・フランテーラに行くとコロンブスの銅像も通りの名前も見当たらない。街の英雄はピンソン兄弟なのです。

アレキサンドル6世の即位


1492年は世界史的な事件が続いた不思議な年でグラナダの陥落、コロンブスの出港、フィレンツェではメディチ家のロレンツォの暗殺と続いた。そしてスペインのボルジア家ローマ法王の登場。カトリックの頂点にあたるローマ法王という地位は最も人間のどろどろした部分が渦巻いていた世界だった。そこに好色で強欲な好人物が登場する。

<ローマ法王アレキサンドル6世>

アレキサンダー6世

金と権力と女を手に入れたアレッサンドロ6世は愛人との間に子供までいた。法王選挙で払える限りの袖の下をばら撒いて自分に投票させた超やり手スペイン人ローマ法王の登場となる。

アルカソバス条約とトルデシージャス条約

発見の時代にスペインとポルトガルの海での領有権をはっきりさせる為1479年ポルトガルはアゾレス諸島、マデイラ諸島、ヴェルデ沖岬を領有しスペインはカナリアス諸島を領有すると取り決めたのがアルカソバス条約。地図に左右に線を引き地球を横割りにした条約だった。

コロンブスが1493年に戻って来るとアルカソバス条約では到着した土地の領有はポルトガルの物になる。スペイン側は時のローマ法王アレキサンドル6世に自分たちの領有についての訴えを起こした。スペイン人ローマ法王があまりにもスペイン有利な回勅を発行したのでポルトガルがスペインに乗り込んできてトルデシージャスで会議が行われた。

<トルデシージャスの街>

トルデシージャスの街
wikipedia CC
Source http://www.flickr.com/photos/jlcernadas/6348008109/in/set-72157629525535730
Author Jose Luis Cernadas Iglesias

1494年に地球に新しい境界線を引いたのがトルデシージャス条約。今度は地図に南北に線を引いて地球を縦に割った。

下の地図の点線の方がアレキサンドル6世の引いた線だったが会議で少し西へ引き直したのがトルデシージャス条約の線。この後ポルトガルはブラジルへ到着する。今も南米でブラジルのみはポルトガル語圏なのはこの線より内側にポルトガルはブラジルを発見したから。

change from wikipedia cc
Source Own work
Author JjoMartin

ポルトガルはこの線より東へ、スペインは西へ行くことが決まる。ポルトガルは東へ向かい喜望峰を通過してバスコダガマのインド航路発見に繋がる。

バスコ・ダ・ガマ

トルデシージャス条約でポルトガルは東回りでアジアに向かうことが決まり、すでに喜望峰が発見されているので東回りでインドに派遣されたのがバスコダガマ。1497年にリスボンを出発。

<バスコダガマのリスボン出港>

バスコダガマのリスボン出港
wikipedia public domain
Author John Henry Amshewitz

途中モザンビークではイスラム教徒から砲撃を受けるがマリンディでは歓迎されアラビア人の水先案内人を雇って1498年にムガール帝国のインド、カリカットに到着。

<喜望峰からインドのバスコ・ダ・ガマのルート>

バスコダガマのルート
By User:PhiLiP – self-made, base on Image:Gama_route_1.png, Image:BlankMap-World6.svg, GFDL, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4805180

 

バスコダガマの持って行ったポルトガル交易品はカリカットで取引されている品物に比べるとみすぼらしく馬鹿にされたと記録に残る。

カリカットの王との間に揉め事や監禁事件が起こり胡椒を積み人質を取って逃げるように退散してリスボンに戻って行く。

その後ポルトガル商人はインドから更に中国へ渡って行き活躍し、中国人には南蛮人と呼ばれる。

<中国の南蛮人>

中国の何番人
By Français : Kano Naizen, 1570-1616 – リスボン国立古美術館, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=353039

そしてポルトガル商人が乗った中国のジャンク船が台風の風に流されて種子島に到着するのはあともう少しだ。

カルロス5世(スペイン史カルロス1世)神聖ローマ帝国皇帝。スペインの黄金時代

 

15世紀が終わり新しい時代がやって来た。ここに一人の王子が誕生する。1500年今のベルギーのゲント(ガン)で生まれたのが後のカルロス5世。父親はブルゴーニュ公国のフィリップ美公。フィリップはハプスブルグ家の世継ぎで神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の息子。母親ファナはスペインのフェルナンド王とイサベル女王の次女。レコンキスタが完成しアメリカ大陸発見の頃のスペイン王国。という絵空事の様なものすごい血筋の王子が誕生した。

<中央がカルロス、左端が祖父のマクシミリアン1世>

カルロス五世と父方の家族
Bernhard Strigel – Kunsthistorisches Museum Bilddatenbank

ブルゴーニュでの幸福な幼少時代

ブルゴーニュ公国というのは現在のフランス東部とドイツ西部、ネーデルランドを含む地域。羊毛産業で経済的に大変栄えたヨーロッパ随一の先進地域だった。

 

 

<15世紀のブルゴーニュ公国>

ブルゴーニュ公国
Marco Zanoli (sidonius 12:09, 2 May 2008 (UTC))

<父フィリップ美公>

フィリップ美公

<母ファナ>

ファナ王女
Johanna I van Castilië
ca. 1500; 34,7 x22,4 cm
Spaans Nationaal Beeldenmuseum, Valladolid

 

舞台としては申し分ない時代と登場人物が用意された。ローマ法王レオ10世、フランスのフランソワ1世、ドイツのマルチンルター、イギリスのヘンリー8世、オスマントルコのシュレイマン大帝・・・・

<毛織物産業で繁栄するフランドルのゲントの街>

ゲントの街

 

スペインの王位継承者に不幸が続きカルロスの母ファナの所に次期王位継承権がやって来た。両親はそろってカトリック両王(イサベル女王とフェルナンド王)に会いにスペインへ。そこでまさかの父親フィリップの突然死(フェルナンド王による毒殺もささやかれる)。母親ファナの発狂(これについては諸説)。カルロス6歳の頃の事。それでも両親不在のベルギーのメッヘルンで幸せな子供時代を送る。叔母のマルガレーテ大公妃は教養のあるルネサンスの才媛で、その周りに集まる教養人と共に豊かな教育を受けられたのは幸運だった。

<ベルギーメッヘルン>

ベルギーメッヘルン
Ad Meskens – Trabajo propio

*叔母マルガレーテはスペインのイサベル女王の1人息子ファンと結婚するが結婚式の最中ファンが突然死。懐妊していたがその子も生まれて間もなく死亡。イサベル女王とは仲良く信頼関係がありその後故郷に戻った後誠実な政策を取り国民にも生涯愛された。

<カルロスの叔母、マルガレーテ大公妃>

マルガリータ大公妃
ce Musée municipal de Bourg-en-Bresse
Author Hugo Maertens

カルロス・ブルゴーニュ公に

<カルロス5世15歳頃>

カルロス5世

 

1515年1月。15歳のカルロスは既に充分な威厳を持ち備えており歴史の表舞台に登場。ブルッセルで儀式が行われブルゴーニュ公国の君主となる。同じ年フランスでルイ12世が死亡しフランソワ1世が即位。フランソワ1世は生涯にわたってのカルロスのライバルである。そしてハプスブルグ対ブルボンの因縁の対決の始まりのゴングが鳴った。

<フランソワ1世 1515年頃>

フランソワ1世1515年

フランソワ1世はこの少しあとにレオナルド・ダビンチをフランスに呼び寄せた。この時レオナルドが持参した数少ない物の中に「ジョコンダ」があった。現在ルーブル美術館にある「モナリザ」である。

母方祖父であるスペイン王フェルナンドの崩御

<スペイン王フェルナンド>

フェルナンド王

母ファナ、カスティージャ女王は精神に異常をきたしたという理由で城に幽閉されその父親であるフェルナンド王が摂生としてカスティージャの政治をしていた。フェルナンドはアラゴン・カタルーニャの王でスペイン東部と南イタリアと地中海の島々を持っていた。そのフェルナンド王が1516年に亡くなった。フェルナンドはスペインの王冠がハプスブルグに継承されない為晩年フランスの貴族の娘と再婚し男子をもうけるがその子は夭折。世継ぎを残すため怪しい媚薬にも手を出していた。せめてカルロスの弟、スペイ育ちのフェルナンドにスペイン王位を継承させたいと努力するがそれも適わず。病床に付いたフェルナンドはどれ程悔しい思いをしたことか。執念深く阻止しようとした悪夢は現実になった。

カルロス・スペイン王になる

17歳のカルロスが40隻の船でスペインへ向かい予定のサンタンデール港から少し外れたアストゥリアスのタソネスの漁港に到着、というより漂着。住民たちは見たこともない数十隻の船団に驚き手に手に棍棒を持ち戦いの準備をしたそうだ。髭をそり香水をつけて降りたカルロスはあまりの田舎にがっかりしここでは滞在せずに直ぐに移動した。

<タソネスの漁港>

タソネスの漁港

カルロスがスペインへ着いてまず最初に逢いに行ったのは物心つかない頃分かれた母。カルロスはこの後幾度となく城に幽閉された母に逢いに行く。その後バジャドリードにいた弟フェルナンドとも再会する。弟のフェルナンドはスペイン育ち。スペイン国内では彼ににスペイン王冠をという動きがあった。マクシミリアン皇帝はこれらの事情をすべて理解しこれ以上フェルナンド派が行動を起こす前に彼を叔母マルガレーテ大公妃の待つネーデルランドへ送る。2人の兄弟と4人の姉妹は生涯にわたり力を合わせてハプスブルグの為に協力し合った。フェルナンドは後フェルディナンド1世としてドイツ皇帝、オーストリア大公、ボヘミア王、ハンガリー王となり幸せな結婚をし生涯スペインには帰らなかった。

<カルロスの弟フェルディナンド1世1521年>

フェルナンド1世
Hans Maler zu Schwaz – Kunsthistorisches Museum: Bilddatenbank
Abgebildete Person:Kaiser Ferdinand I. Sohn des Philipp von Habsburg Österreich

父方祖父神聖ローマ皇帝マクシミリアンの逝去

1519年マクシミリアン1世が亡くなる。神聖ローマ帝国の皇帝は7人の選帝侯によって選ばれる選挙制。7人の票のうちの4票をどれだけの資金で手に入れるかという選挙。最大のライバルはフランソワ1世。既に買収は始まっていた。

当時のローマ法王はフランスびいきのメディチ家出身レオ10世。カルロスが皇帝になるのを阻むためフランソワ1世を支援する。派手好きイベント好きのルネッサンスローマ法王はロレンツォ・ディ・メディチの息子。浪費好きでローマの街に当時の最高の芸術家を集め飾り立てた。前ローマ法王が着手していたサンピエトロ寺院の建設を引き継ぎミケランジェロやラファエルを起用した。

<ラファエルによるレオ10世>

ローマ法王レオ10世

1519年19歳でカルロス5世神聖ローマ皇帝

選挙の資金は叔母のマルガレーテが大富豪フッガー家から援助を受ける。またドイツの諸侯たちがメディチ家のローマ法王の後ろ盾を嫌ったこともあり選挙は満票でカルロスが勝利。フランスはハプスブルグ家に囲まれた形になりこの後戦争が続く。

<カルロス5世時代のハプスブルグの領土>

紫―カスティージャ 赤―アラゴン 黄-オーストリア 黄土―ブルゴーニュ

カルロス5世支配地域
Original by Lucio silla, modification by Paul2 – Modification of Europa02.jpg

スペインでは王が外国の為にお金を使いブルゴーニュから沢山の人がやって来て要職をほしいままに。人々の反感が高まりコムネロスの乱がおこり国内は混乱。腕利きの総裁に後は任せ王は「3年で戻る」と約束しスペインを後にする。この反乱は自然崩壊となりカルロス5世が3年後に戻るころには国内はほぼ平和が回復されていた。

1520年カール大帝ゆかり地アーヘンで戴冠式が行われた。

<ドイツ西部アーヘンの大聖堂>

アーヘン大聖堂

同じ年マゼランが5隻の船を率いてセヴィージャの港を出港している。この時代に多くのコンキスタドーレス達がアメリカへ渡り欲望のままマヤ、アステカを破壊し財宝を吸い尽くす。

マルティン・ルターの登場

宗教改革である。カルロス五世を生涯苦しめるひとつの難題の登場。ルター本人はそんな大それた事をするつもりは無かったと、思う。たまたま投じた一石の波紋が広がった。ルターはドイツの修道士であり神学教授だった。前述のローマ法王レオ10世の時代「ローマのサンピエトロ寺院」の建設費を集めるためにドイツで免罪符が販売される。「これを買ったら天国へ行ける!」というのが免罪符。そのお金はローマへ集まり豪華絢爛のサンピエトロ寺院の建設に使われた。これに異を唱えたのが始まり。

<1517年ヴィッテンベルグ城に95か条の論題を張り出すルター>

マルティンルター95か条
Ferdinand Pauwels

ヴォルムスの帝国議会

1521年1月21日に開かれた国会が歴史に名を残したのはルター問題。免罪符の販売で一番搾取の大きかったドイツではローマに対する恨みが募っていた。ルターはローマ法王レオ10世に破門される。ひとりの修道士の小さな反抗が波紋を広げた、そんな頃に開かれた国会。ルターは自説を曲げず堕落したカトリックに対抗。いかなる権威も認めずひたすら聖書と自分の関係に信仰を求めるルターの態度は変わらず。カルロスは帝国とカトリックの崩壊を恐れ、しかしルターを禁固するでもなく処刑するわけでもなくルターに自由通行証を与えた。これはひとえにもカルロス5世とハプスブルグ家の正義感や騎士道精神による。この誠実な態度はハプスブルグの代々の王達に継承されていく。

<ヴォルムス会議で弁明するルター>

ヴォルムス会議
1556
Source Unknown
Author Unknownwikidata:Q4233718

カルロス皇帝スペインへ

約束通り3年ぶりにスペインへ戻ったカルロスはこの後7年間スペインに滞在しスペイン語を話しスペインを愛するスペイン人になる。そしてスペイン人たちにも愛される国王になる。臣下の者達の間でも結婚などで融合が行われていく。ローマ法王レオ10世の死去によりハドリアヌス6世即位。ハドリアヌスはカルロス5世の家庭教師だったオランダ人。学者肌でローマ法王より修道僧が向いているタイプの人。教会改革を進めるが残念ながら在位期間が短かすぎ。約一年半で疲労がたまり死去。学僧として本に囲まれて暮らしていればもっと別の人生があった惜しい人物が、この世で最も生臭い地位「ローマ法王」に選ばれたのは不幸としか言えない。その次はレオ10世のいとこ又してもメディチ家のクレメンス7世。

<ローマ法王ハドリアヌス6世>

ハドリアヌス6世
Jan van Scorel – Unknown for original uploader, but it can be found at the Centraal Museum of Utrecht.

パビアの戦い

事あるごとに関わってくるのがフランスである。ギリシャ沖のロドス島にオスマントルコの手が伸び聖ヨハネ騎士団が死守しようとしている東地中海の島が陥落しようとしていた。後ろから手を貸しているがフランスのフランソワ1世。さらにイタリアのミラノとナポリの継承戦争で再びフランスが手を出してきた。ヨーロッパ諸国の利害関係が絡みイタリア戦争が再び始まる。その後イタリアの北部パビアで皇帝軍とフランス軍の戦い。ミラノを攻撃して来たフランス軍を4時間半でカルロス5世軍が破りフランソワ1世が捕まる。

<パヴィアの戦い>

パヴィアの戦い
Bernard Van Orley, The Battle of Pavia, RIHA Journal.

あっけなく捕虜になったフランソワ1世。戦争終了後「マドリード条約」が結ばれる(1526年)。イタリアとブルゴーニュのスペイン領有。フランソワ1世の母はオスマントルコと密約を交わし、さらにイギリスヘンリー8世に袖の下をたんまり与えその後の準備に余念がない。実際このパヴィアの戦いでヨーロッパの勢力図は一気にスペイン・ハプスブルグの拡大になる。パワーバランスが崩れるとこっそり寝返り後ろから手をまわすのがヨローッパの外交政策。今もそうは変わっていない。フランソワ1世は聖書に手を置いて誓約をかわし国境エンダーヤで2人の息子に変わって釈放された。この後フランソワ1世は幾度となくカルロス5世を裏切る。

カルロス5世の結婚

フランス王を釈放した後カルロスはセビージャへ向かう。大航海時代のセビージャは大型船が出入りし華やかな時代。巨大な大聖堂は完成間近。1526年セビージャのアルカサール(王宮)で祝宴が行われた。ポルトガル王女イサベルとカルロスは母親同士が姉妹。スペイン建国の母イサベル女王の娘達の中で唯一幸福な結婚をした三女マリアの娘。

<イサベル・デ・ポルトガル、カルロス5世妃>この絵はイサベル妃が亡くなった後にカルロス5世がティチアーノに若き日の王妃を描いてもらったものでカルロス5世が生涯近くに置いていた。現在プラド美術館所蔵。

イサベル皇后

 

新婚旅行に出かけたアルハンブラ宮殿で暫くの蜜月を過ごした。この結婚は仲睦まじく幸せな結婚だった。王族同士の政略結婚で幸福だったケースはそうは多くない。2人の間に5人の子供が生まれ長男が後のフェリペ2世。

サッコ・ディ・ローマ(ローマ劫掠)

カルロス5世の知らないうちにフランソワ1世はイギリスやローマ法王クレメンス7世と手を組み反ハプスブルグ同盟を結んでいた(コニャック同盟)。そして対抗するカルロス5世軍はドイツからの傭兵を中心とした部隊でイタリアに集結。このドイツの傭兵達のローマに対する恨みは積もり積もっており憤懣やるかたない中、カルロス5世の資金も底をつき支払いが滞っていた。怒り狂った群衆が飾り立てたローマの街へなだれ込み略奪・強盗・放火・強姦のしたい放題でローマの街を9か月間にわたって破壊した。これが有名なサッコ・ディ・ローマそしてこれが盛期ルネッサンスの終焉になる。

サッコディローマ
Johannes Lingelbach – L’Histoire April-June 2009, p.74
『Sack of Rome of 1527』

カルロス5世はこれほどまでの略奪を黙認したのか手が付けられなかったのか謎のままだが事態は有利に終わる。1529年ローマ法王クレメンス7世と条約を結びイタリアはカルロス5世の支配下にはいる。ボローニャでローマ法王によって神聖ローマ皇帝の戴冠式が行われた。

<カルロス5世ローマ法王により戴冠>

カルロス世ボローニャで戴冠

この間にスペインではカルロス5世の長男フェリペが誕生。後のフェリペ2世。イギリスではヘンリー8世がカタリーナ・デ・アラゴン(カルロス5世の叔母・カトリック女王イサベルの娘)との離婚を希望するがカトリックでは離婚が認められない為イギリス国教会を作る。カタリーナ(キャサリン)は監禁生活を強いられる。修道女の衣服を着て暮らし苦境の中も精神は高潔であった。ヘンリー8世とカタリーナ(キャサリン)の間の娘がイングランド女王メアリー1世、通称「ブラッディ―マリー」。メアリー1世は後にカルロス5世の世継ぎフェリペ2世と結婚する。

<イギリス王ヘンリー8世とアラゴンのカタリーナ>

ヘンリー8世カタリーナ

<メアリー1世、新教徒を激しく迫害したため血のメアリーと呼ばれた>

メアリー1世

チュニス遠征

1492年のグラナダの陥落によってイベリア半島を追われたイスラム教徒たちが北アフリカで海賊になり報復をしていた。地上ではオスマントルコのシュレイマン大帝がウィーンまで迫ってヨーロッパの脅威になっていた。その後ろにはやはりフランソワ1世が反ハプスブルグで見え隠れする。カルロス5世はチュニジアまで遠征し軍はチュニジアの街を3日間略奪しつくす。

<オスマントルコの勢力図>

オスマントルコ勢力図
OttomanEmpireIn1683.png から日本語化。(The Japanese meaning from OttomanEmpireIn1683.png .)
投稿者:斎東小世(Saito chise)

大体オスマントルコがこんなに勢力を拡大できたのはフランスが後ろから援助をしていたからに他ならない。もちろんフランスはカトリックの国である。

 アウグスブルグの会議

1530年に開かれた帝国会議は宗教問題。10年前のヴォルムスと同じテーマ「マルティンルター」だ。しかし状況はすっかり変わっており多くの都市が新教側を支持していた。カルロス5世は何とか状況の打開と両派の和解を図ろうとするがカトリック側の既得権を得た枢機卿達の反対もあり平行線。ドイツ人の人文主義者のメランヒトンによる「アウグスブルグの信仰告白」提出されるが調停に失敗。

<1530年アウグスブルグの会議>

アウグスブルグ1530年

<カルロス5世1530年ティチアーノ作>

カルロス5世1530年
museo de Prado

その後もイタリア戦争

第三次イタリア戦争でフランソワ1世はミラノの侵攻に失敗し、オスマン帝国のシュレイマン大帝と政治同盟を結ぶ。1542年オスマントルコと連合したフランス軍は再び大敗。これでやっとフランスはイタリアをあきらめた。その後フランスはルター派を支持しシュマルカンデン同盟でカルロスと対戦。そう、繰り返すがフランスは今もカトリックの国。宗教なんて関係なしだ。

第四次イタリア戦争でローマ法王の取り持ちでなんとかカルロス5世とフランソワ1世は和約にいたる。(1538年)

<フランソワ1世とカルロス5世の和約>

ニースの和約

この後しばらくはカルロス5世とフランソワ1世は蜜月を過ごすが再び第5次イタリア戦争勃発。フランスは懲りずもまたイタリアに侵攻してくる。

さらに新教徒連合軍との戦争「シュマルカンデン戦争」が始まり1547年カルロス5世はシュマルカンデン同盟を破りこの戦争にひとつの終止符を打つ。この最後の戦いの勝利がミュールベルグの戦い。勝利の後の「カルロス5世騎馬像」というティチアーノの作品がプラド美術館に展示されている。

<ミュールベルグの戦いの後のカルロス5世、ティチアーノ>

カルロス5世ミュールベルグの戦い

 

<勝利者カルロス5世と負けた人々>中央がカルロス5世 左からシュレイマン大帝、ローマ法王クレメンス7世、フランソワ1世

カルロス5世と負けた人達
ジュリオ・クロヴィオ – Panorama de la Renaissance, by Margaret Aston |Dat

この後病気で体調を崩したフランソワ1世死去。しかし戦争はその息子アンリ2世に引き継がれる。フランスはスペインに対抗して大陸航海も始めカナダのケベックに到着。今もカナダのこの地域はフランス語圏。スペイン人にとっては災難でしかないフランソワ1世はフランスではフランス国土を広げイタリアから芸術家を集めフランスの文芸を高めた王として人気がある。

カルロス5世息子に遺書

持病の通風で足が痛く気も弱くなっていたカルロス5世。息子フェリペに「ハプスブルグ家をカトリックを擁護する立派な家とし結婚政策で大きくするよう」に遺言をしたためている。波乱多く人生疲れ切った様子のカルロス5世の内面が書き出されているティチアーノの一作。48歳は今なら未だ精悍な年齢だがこの絵のカルロスは万感尽きた老人のよう。

<カルロス5世1548年>

カルロス5世1548年

 

その後片腕の公爵に裏切られプロテスタントの勢力は無視できない状態になりオスマントルコの侵攻も激しく、フランスは次のアンリ2世は今だ後ろから手をまわしてくる。

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アウグスブルグの和議(1555)

「ルターを暗殺しておけばと良かった」と思ったかもしれない。もう手が付けられない程にプロテスタントの力は大きくなっていた。ローマの横暴や拝金主義等どう見ても言っていることはプロテスタントの方がまともだった。カルロス5世の弟フェルディナンド1世の主催で南ドイツのアウグスブルグで会議が行われ宗教対立の収束を図った。

<アウグスブルグの和議・左端がカルロス5世>

アウグスブルグの和議

ユステの修道院へ

1555年、旅と戦争と裏切りと痛風に苦しみ退位を決意。ブルッセルでの退位式の言葉は「私は多くの過ちを犯してきた。しかし誰かを傷つけようという意図は持っていなかった。もし万一そんな事があればここに許しを請いたい」と涙で演説が途切れたという。

<カルロス5世退位式、ブルッセル>

カルロス5世ブルッセルでの退位
atelier Leyniers et Reydams – http://bruxellesanecdotique.skynetblogs.be/post/7116434/palais-du-coudenberg
Tápiz del siglo XVIII, de Leyniers y Reydams , representa la abdicacion de Carlos I de España en el Palacio de Coudenberg

両親から受け継いだスペインとネーデルランド、新大陸は息子のフェリペ2世に譲り、父方の祖父からのオーストリア、神聖ローマ帝国の地位と領土は弟のフェルディナンド1世に継承させた。ここにスペインハプスブルグとオーストリアハプスブルグに分かれることになる。

<弟フェルディナンド1世>

フェルナンド1世

同じ年1555年4月12日母親ファナ女王がトルデシージャスの城で亡くなっている。事実上はファナがスペイン女王。最後まで「Yo Reyna 」「我女王」のサインをしたと言われている。

 

 

<ユステのカルロス5世、亡き妻の絵が壁にかかっている>

カルロス5世ユステ

スペインの西の僻地にあるユステ。エストレマドゥーラ地方は今もそういう位置づけ。北部は意外と降雨量があり樫林や果樹園が多い。そこの樫林の中の静かな修道院で隠居生活に入り、1558年58歳で亡くなった。

<カルロス5世ユステの修道院>

カルロス5世の最後

広大な帝国と地位を手にした皇帝の最後の場所には地味すぎる所。ひとつの時代が終わった。

 

イサベル女王<スペイン建国の母>とその時代

 

イサベル女王の時代、まだスペインという国はなくイベリア半島の中央にカスティーリア王国という国があった。騎士たちがイスラム教徒と戦いながら城郭を作り、そこを基礎に更に戦って城を築き国を強くしていった戦いの時代だった。スペイン語で城の事をカスティージョと呼ぶ。カスティージョが沢山あるカスティーリア王国に一人の王女が生まれた。スペインの歴史で重要なイサベルの生涯についてまとめました。

カスティーリアの田舎の村で誕生

後のイサベル女王の生まれはマドリガル・デ・ラス・アルタ・ストレスというカスティーリアの小さな村。マドリガルは恋歌とか牧歌という意味でラス・アルタス・トレスは高い塔の複数形。「高い塔の恋歌」というロマンチックな名前の田舎の村でカスティーリア国王フアン2世の2番目の妃の長女として誕生。宮殿というのもはばかれる質素なお城で1451年4月22日に誕生。奇しくも同じ年にコロンブスが生まれている。日本は室町時代足利義政将軍の時代。

<イサベル女王生誕の城は現在は修道院になっている>

マドリガル修道院
マドリガル・デ・ラス・アルタス・トレスの修道院

 

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父王ファン2世

父王フアン2世は49年の長い治世を行うが「カスティーリアの不運」と言われるほどの王で芸術を好む温和な人物だが政治は無能。(母親がイギリスのランカスター家から嫁いできたキャサリン、スペイン語だとカタリーナ。カタリーナはペドロ残酷王の孫にあたる人物。)この父王ファン2世の最初の結婚はアラゴン王家の王女マリア・デ・アラゴン。2人の間に娘3人息子1人に恵まれこの息子がエンリケ、後のカスティーリア王エンリケ4世不能王。

<イサベル女王の父、ファン2世>

ファン2世

 

ファン2世の2度目の結婚

<イサベル・デ・ポルトガル>

ポルトガルのイサベル

ファン2世の2度目の結婚がポルトガル王女イサベル。この2人の間に生まれたのが後のイサベル女王。母イサベルは若く奔放で美しく、気弱なファン2世は次第に翻弄されるようになる。奔放なだけではなく常識を逸した行動が度々目立ち始める。そして夫である国王フアン2世をそそのかし言いなりに動かし長年の宰相をバジャドリードの広場で公開処刑する。気弱な国王ファン2世は後悔と自責の念で弱りきり人々の同情と軽侮の中亡くなる。イサベル王女3歳、弟のアルフォンソ王子8か月。

義理兄エンリケ4世の即位

父王の突然の死去で兄のエンリケ4世即位。ここから王女イサベルの悲運な日々が始まる。時々狂気の行動をする母イサベルと王女イサベル、弟のアルフォンソは近くの荒野のアレバロの城に追放され、少ない共の者達と身を寄せ合うように貧しく暮らすことになる。

<エンリケ4世>

エンリケ4世
De Desconocido – web, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2261931

 

兄王エンリケ4世は父王にも負けず劣らずのグウタラ王で無能で女たらし。父王フアン2世が亡くなる少し前に妻であった王妃と離婚した。カトリックでは離婚は認められていないが[その結婚に問題があることを証明]できればローマ法王の許可のもと[結婚の解消]が出来る。その理由がなんと「不能」。”何か不吉な力”によってこの王妃と関係が持てない。この王様それ以来「エンリケ不能王」と不名誉な名前で呼ばれる。

そして再婚、王の仕事の大切なひとつは世継ぎを残す事ならば、では「次」となる。

 

エンリケ不能王が2度目の妻に迎えるのがポルトガル王の妹ファーナ王女。若く美しく陽気な新しい王妃との盛大な婚礼が執り行われ側近たちは今度こそはと期待するが「その夜には何も起こらなかった・・・・」と王室記録官。

<ファーナ王妃>

ホアナ、エンリケ4世妃

{高貴な女性とは特に無理}な「国王エンリケ不能王」は妻の女官のもとに通い始め王妃のもとには若くハンサムで野心家の「ベルトラン卿」が通い始める。もちろん王と王妃の間には冷たい風が吹き始める。

王妃のご懐妊

突然のニュースは結婚6年目。エンリケ不能王の妃が懐妊したという。噂好きのスペイン人たちは昔もそうは違わなかったはず。国中でみんなの話題になった事だと想像できる。「王妃のお腹の子はベルトランの子供じゃないの?」

1462年に生まれた女の子は母と同じ名前ファーナと名付けられ生まれた時から人々の好奇の目にさらされる。そしてついたニックネームは「ファーナ・ラ・ベルトラネーハ=ベルトランの娘ファーナ」

<フォーナ・ラ・ベルトラネーハ>

ベルトラネーハ

不思議なのは国王エンリケ4世はベルトラン卿を随分厚遇し出世させていること。公爵の娘と結婚させ出世街道まっしぐら。これには嫉妬深い周りの貴族たちも面白くない。ついにイサベルの弟アルフォンソに与えられていた「サンチアゴ騎士団長」の名誉迄も与える有り様。嫉妬と屈辱の周りの不満分子たちは次第に王の知らないところで結束を始めていた。

国内の分断

この頃イサベル王女達はセゴビア城に暮らしていた。

<セゴビア城>

アルカサール

カスティーリアの貴族の不満分子たちはエンリケ4世を見限りイサベルの弟アルフォンソを王に祭り上げようと画策し国内は分裂。優柔不断なエンリケ不能王は右往左往する中アルフォンソにアストゥリアス皇太子の称号を認め不満貴族達への懐柔策を始める。

しかし時すでに遅くアビラの高原に王座が置かれアルフォンソを新国王アルフォンソ12世として擁立。オルメドでの戦闘はアルフォンソ側有利に進み反乱を起こすトレドへ進軍するもその時突然アルフォンソは倒れた。前日夜に鱒を食べた後苦しみ始めたとあるが毒殺か疫病か不明。享年15歳。イサベル女王の心の支えだった弟アルフォンソはブルゴスのカルトゥーハ・ミラフローレス修道院に眠る。

<ミラフローレス修道院にあるアルフォンソのお墓>

アルフォンソのお墓
Wikimedia Commons Author Ecelan

イサベルの聡明さ

アルフォンソの死後国内はまだ内戦状態でイサベルを女王と担ぎ上げようとする勢力がいる中17歳のイサベルは「兄エンリケ4世こそが正当の国王。がその嫡子の正当性に問題があるならばその次の王位継承権は自分にある」と主張した。当時の人々が早熟であったとしてもカスティーリアの有力者の権力闘争の中で17歳の女性が堂々と大人相手に張り合い自分の意志を通した。一躍未来のカスティーリア女王となる。

イサベル女王

イサベルの婿選びと結婚

当時の王族の結婚はすべて政略結婚。恋愛は別物で自国の利益の為に子供達はその道具としてあらゆる方法で使われた。王女達は15歳位で嫁に行くのが普通だったがイサベルは17歳。すでに周りの国々から色々な縁談話が来ている。

ポルトガル、イギリス、フランス。その中に隣のアラゴン・カタルーニャ連合王国の皇太子フェルナンドからの話があった。「おじいちゃん同士が兄弟」という関係で同じトラスタマラ王家。先方に送った密偵の話ではなかなかの美男で切れ者らしい。イサベルの心がどこにあったか知る由もないが17歳の王女の心に恋心が芽生えても不思議ではないと思う。そしておそらくこの婚姻によるカスティーリアの利益も。

<アラゴンのフェルナンド>

フェルナンド王
De Michel Sittow – [1], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4714691
ところがそこには色々な周りの大人の思惑があり「ポルトガル王の後妻」の話が兄王から言い渡される。言いなりになるつもりはないイサベルは逃げた。イサベルに味方したのはトレド大司教、そしてアラゴン王国だった。

度々フランスから圧力を受けているアラゴン側もこの結婚での利益に興味を持った。当事者フェルナンドはイサベルのひとつ年下だがマッキャベリの君主論に出てくる程の人物。イサベルは時の権力者たちに捕らわれそうになるもバジャドリードに逃げそこへ一足早くフェルナンドが駆けつけ1469年バジャドリードのフアン・デ・ビベーロの屋敷で結婚式は執り行われた。

イサベル18歳フェルナンド17歳。この年ポルトガルでバスコダガマが生まれ、日本では応仁の乱の混乱の時代。

<イサベルとフェルナンドの結婚>

カトリック両王の結婚

イサベルの戴冠

<セゴビア城にあるイサベル女王戴冠の絵>

イサベル女王戴冠

優柔不断な兄王はまたしても有力者にそそのかされフランス王の弟と出生不明の娘フアーナの結婚話を進めイサベルに対抗しようとするも当事者のフランス王弟の死去とエンリケ王側についていたローマ法王の死去。

新しいローマ法王シクストゥス4世は政治的混乱と飢饉で弱り切ったカスティーリアにルネッサンス時代の大人物を送り込む。後のローマ法王アレッサンドロ6世ロドリーゴ・デ・ボルジア。祖国の混乱に心を痛めたかどうかは疑わしいがイサベルとエンリケの仲を取り持ちセゴビア城で和解。

その翌年あっけなくエンリケ4世死去、いつも針の筵にいた妃も何故かその半年後に35歳で亡くなっている。

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セゴビア城にいたイサベルはサン・ミゲル教会で戴冠。1474年23歳のイサベルはカスティーリアの女王になる。イサベル女王の誕生、歴史家はこの日をスペイン近代史の始まりとする。

<セゴビア・サンミゲール教会>

セゴビアのサンミゲール教会

<教会入口に1474年12月13日イサベル女王戴冠>

1474年12月13日

 

そう簡単ではなかったイサベル女王就任

ところがそれでは納まらない勢力がこれまでファーナ・ラ・ベルトラネーハを押してきた陣営。ポルトガル王アフォンソ(以前イサベルとも縁談があった王)とファーナ・ラ・ベルトラネーハを結婚させる話が持ち上がる。

ポルトガル王とは叔父と姪の関係。姪のファーナがカスティーリアの正当な継承者なら結婚すれば自分はポルトガルとカスティーリアに君臨出来るという目論見でイサベルに対抗し戦争。4年間の戦争の間に国は荒廃しついに和睦の条約でファーナ・ラ・ベルトラネーハは修道院へ。

周りの都合で翻弄され続けたファーナは自分の王位継承を信じて疑わずリスボンの修道院で69歳で亡くなるまで”我女王”のサインをしたという。厚い修道院の壁の中からイサベル女王の死やその子供たちの不幸な人生を知ったかどうかは不明。

この頃のスペイン

その時代のスペインは南にイスラム王朝のグラナダ王国が細々と存続していたレコンキスタの末期。キリスト教徒側ではイサベルとフェルナンドの結婚により今のスペインという国の概念がやっと出来る。

そして最後のイスラム国への戦争が始まる。発端は南スペインでの小さな小競り合い。グラナダの美しいアルハンブラ宮殿の内部は陰謀と裏切りで権力闘争が続く中キリスト教徒軍が押し寄せてくる。それでも10年間耐え続けたのは奇跡だった。フェルナンドとイサベル率いるキリスト教徒軍が迫りアルハンブラは無血開城。

1492年1月2日。ヨーロッパに残る最後のイスラム王朝グラナダ王国が滅びた。

<グラナダの陥落>

グラナダ陥落

 

コロンブスの登場

<サンタマリア号模型・スペイン海軍博物館>

サンタマリア号

時代はすでに準備ができていた。ルネッサンスの数々の発明によって航海術は進歩し登場したのがコロンブス。西回りでアジアに行けると信じたコロンブスがポルトガル王に断られスペインにやって来たのは1484年。何度か断られたり説得したりが続きグラナダ陥落後アルハンブラ宮殿でイサベル女王からの援助を手に入れ大航海時代が始まる。第1回航海は1492年8月3日出発。

コロンブスは4回大西洋を渡っているが死ぬまでそこはアジアの一部と信じていた。コロンブスはイサベル女王死後は殆どの約束を反故にされ惨めな最後を遂げる。

<コロンブスの新大陸到着>

コロンブスのアメリカ到着

1492年

世紀末のこの年、当時の人々はヨハネの黙示録に出てくるこの世の終わりがやって来ると世紀末感に怯えていた。ペストの流行がさらに世紀末感に拍車をかけていた頃グラナダの陥落、コロンブスの出港、と世界史的な事件が続く。

そしてスペイン人ローマ法王の即位。兄王とイサベルの和解に出てきた人物ロドリーゴ・デ・ボルジア。有名なボルジア家出身でローマ法王なのに子供がいた。息子がチェザーレボルジア、娘がルクレチアボルジア。中々の好人物でやり手、好色、大物、自己中心、権力とお金の為なら何でもやるタイプの人物。聖職者にはもったいない。

<アレキサンダー6世>

アレキサンダー6世

トルデシージャス条約

ポルトガルが慌てた。このままスペインに上手くやりこめられてはたまらない。地球を半分に割って将来揉めないように条約を結んだ。大西洋の上に縦に線を引いてここから西に将来発見されたらスペイン領土東だったらポルトガル領土。これでスペインは西へ、ポルトガルは東へと行先がきまり航海者達は船を出す。

イサベル女王の子供達

混乱と戦争と権力闘争の中イサベル女王は1男4女をもうけている。愛情を注いで育てるこの5人の子供たちは可愛いだけではなく大切な戦略の道具。当時のヨーロッパの勢力図を考え巡らせ将棋の駒のように誰との結婚が自国に有利かを冷静に見つめ結婚相手を決めていく。

カトリック両王とその子供達

長女イサベルはポルトガル王と結婚

長女イサベルはポルトガル王ジョアン2世の息子アフォンソ皇太子と結婚。夫婦仲は睦まじく娘イサベルはポルトガル宮廷で大切にされて幸せの絶頂のある日、夫のアフォンソが落馬して死亡。子のまだ無いイサベル王妃は喪に服しスペインへ帰国。その後さらに亡き夫の父ポルトガル王ジョアン2世が死去し(王妻と折り合いが悪く突然の死には毒殺説)その妻の弟がマニュエル1世として即位(この辺りは陰謀の香りがする)。

イサベルはマニュエル1世から激しく求婚され再びポルトガル王妃になる。このマニュエル1世の時代にポルトガルはインド航路発見、ブラジル到着。後に出てくるスペインの期待を担った弟ファンの死後王位継承権がイサベルにやって来るが息子を産んだ後すぐに死去。残されたミゲールと名付けられた大切な皇太子はスペインを背負う運命の中1500年7月20日2歳の誕生日を迎えずにグラナダで死去。今もグラナダの王立礼拝堂に埋葬されている。

長男ホアン

セビージャのアルカサールで誕生した皇太子ホアンはイサベル女王にとって特別な存在で大切に育てるが体が弱かった。ホアンの結婚はフランスを恨む者同士の連合で当時の先進国ブルゴーニュ公国の王女との結婚。神聖ローマ帝国皇帝の娘。

美しく華やかな17歳マルガレーテ王女との結婚で当時のスペイン宮廷は湧くが体の弱いホアンは結婚の行事のあと姉の結婚式に参加する途中サラマンカで突然死亡。(あまりにも美しいマルガレーテに恋し過ぎて、ベッドでの時間が多かったのが致命傷という説がある)すでに懐妊していたマルガリータは死産。国中が喪に服した。今はアビラの修道院に埋葬されている。

<アビラのサント・トーマス王立修道院にあるホアンの霊廟>

ホアンのお墓
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次女ファーナ

兄ファンとの2重結婚で一足早くベルギーのフィリップ美公に嫁ぐ。神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世とブルゴーニュ公国マリアの長男。洗練された都会人フィリップのとの蜜月は短く夫に翻弄されながら精神を病んで行き6年後祖国に帰るころは別人に変り果てイサベル女王を悲しませた。

兄ホアン、姉イサベルが続いて亡くなった後はスペインの王位継承権が手に入り再び夫妻でスペインに戻るがフィリップは突然死亡。父フェルナンドによる毒殺がささやかれるが謎のまま。彷徨いながらフィリップの遺体をグラナダに運ぶ一行、ファーナは棺を時折開け死んだ夫に話しかけたとも遺体を隅々まで触って確認したとも言われる。

そのころファーナはフィリップの子供を妊娠しており合計6人の子供を産んでいる。事実上スペイン女王となるが狂気が理由で父親と息子(のちのカルロス5世)によってトルデシージャスの城に幽閉されながら75歳まで生きる。

実際ファーナが狂っていたかは謎で今の歴史家達は否定している。

<夫の棺と荒野をさまようファーナ>

ファーナラロカ

 

三女マリア

マリアは長女イサベルの亡くなった後妻としてポルトガル王マヌエルの所へ嫁ぐ。マリアのみが唯一の幸せな結婚生活を過ごし5男2女を王に与え惜しまれて35歳で亡くなる。マリアの長女がのちのカルロス5世の妻、フェリペ2世の母イサベル王妃。

<マリアの長女イサベル、後のカルロス5世王妃>

ポルトガルのイサベル

四女カタリーナはイギリスへ

最も不憫な末娘カタリーナは15歳で同い年のイギリス皇太子アーサーと結婚する。病弱で気弱なアーサーは結婚後すぐ死亡。なんとその父親ヘンリー7世との縁談が起こるがヘンリー7世も死亡しアーサーの弟のヘンリー8世と再婚。

5回の妻のうち2人は斬首刑というシェイクスピアに出てくる残酷で冷血なヘンリー8世との結婚。カタリーナとヘンリー8世との間の娘が有名なブラッディメアリー。プロテスタントを残酷に殺した為「血のメアリー」と呼ばれる。赤いお酒の名前はそこから取られている。

カタリーナはその後何度か妊娠、死産を繰り返す中ヘンリー8世は宮廷の若い女官アンブリンとの結婚の為カタリーナを離婚、いや結婚の無効を主張。アンブリンとヘンリー8世の間の娘が後のエリザベス1世女王。ヘンリー8世はローマ法王が離婚を許可しないので英国国教会を作りカトリックから分離する。

カタリーナは3年間城に幽閉され隔離された中で49歳で寂しく死んでいく。

<カタリーナ・デ・アラゴン>

カタリーナ

<ヘンリー8世>

ヘンリー8世

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イサベル女王の最後

スペイン統一とグラナダの陥落やコロンブスの援助と華々しい歴史を生きたイサベル女王は期待の長男ファンの死と長女イサベルの死、その息子ミゲールの死と三女ファーナの狂気、母親としては悲しみの連続だった。晩年メディーナ・デル・カンポの質素なお城で最後まで国の為仕事をしたという。

少なくとも四女カタリーナの不幸を知らずに亡くなったのは幸いだった。1504年11月26日53歳の生涯を閉じる。

イサベル女王最後の日

遺言通り遺体はグラナダに運ばれサンフランシスコ修道院に埋葬されフェルナンド死後は共にグラナダ大聖堂横の王室礼拝堂にある。

<カトリック両王の霊廟、グラナダ王室礼拝堂>

カトリック両王の霊廟
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質素で誠実で敬虔なカトリック教徒。国の為に自分を捨て戦ったイサベル女王は今もスペインで人気の女王様です。

 

スペイン建築史

 

 

スペイン程複雑に民族が入れ替わり立ち代わりやって来た国はそうはない。その過ぎ去って行った民族が色んなエッセンスをスペインに残していき生活や言葉、人々の風貌等に彩を添えている。北はピレネー山脈でヨーロッパと接し南はジブラルタル海峡からアフリカと、東は地中海が広がる。地理的にはまさに十字路として様々な民族が通り過ぎていった。今日はその中で形として一番残る建築について。スペインの建築史をまとめてみました。

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未知の時代の不明な巨大な構造物

スペイン南部マラガ近郊のアンテケーラにドルメンという巨大な建造物が残る。紀元前3000年から2500年頃の物で31個の巨大な石で構成されたドルメンは無料で入ることが出来る。総重量1600トンというとんでもない大きな物で一番重いものは320トン。これを運んでくるだけでも私たちの想像を超えた人数やテクノロジーがあったに違いない。おそらく死者を埋葬するための物で家よりお墓に時間を労力を注いだのは死への恐怖や畏敬や不安が人類にとっての最も大きな関心事だった時代だったから。今も変わらないかもしれませんが。

<アンテケーラ・ドルメン内部>

アンテケーラのドルメン

バレアレス諸島のマジョルカ島、メノルカ島では紀元前1500年頃の巨石文化の遺跡が現存します。新石器時代の物で住居や神殿等。マルタ島にある巨石文明やイギリスのストーンヘンジとの関連は不明です。

フェニキア人

紀元前8世紀頃ガレー船に乗ってやってきた商業民族フェニキア人。南スペイン・アンダルシアの西端カディスにやって来て植民地化し寺院や巨大な建造物を建てたと言われるが残念ながら失われてしまい今残るのはお墓のみ。

<カディス フェニキア人墓地>

カディス フェニキア

このフェニキア人が使っていたのが表音文字でフェニキアン・アルファベット。今のABCアルファベットの元になります。建築は残りませんでしたがアルファベットは世界で今も使われているのが素晴らしい。どんな建築を作っていたのか知りたいなあ。

ギリシャ人

現在のスペイン東部カタルーニャにあるアンプリアス(エンポリオン)。紀元前6世紀頃今のフランスのマルセイユにいたギリシャ人がイベリア半島にパライアポリスという商港を開いた。ここが数年後に発展していく。現在の遺跡は1000年間にわたる色々なものが積み重なって解読は困難な遺跡が残っています。スペインに残る数少ないギリシャ建築。

<エンポリオン遺跡>

エンポリオン遺跡

イベロ族とケルト族

一応イベリア半島先住民族と言われるイベロ族ですが正確には族と言われるほどの整った文化形体は示しておらずもともといた原住民が後からやって来たカルタゴ人ギリシャ人ローマ人との接触のうち独特のイベロ族という文化を作って行ったのではと考えられています。建築らしいものは残っていないが塁壁に囲まれ堀をめぐらして中央に大通りを作り道路は舗装されていた。家の間口は狭く重層だったと考えられている。必ず寺院と墓地を持ち墓地は大きく巨石文化の影響がみられる。

又別系統でやって来たケルト人はピレネーを越えて紀元前8世紀頃にイベリア半島に入って来る。イベロ族と混血していきケルトイベロ文化を形成。「ヌマンシアの戦い」で有名なローマに対して籠城戦で抵抗したヌマンシアはケルトイベロの街。ただその遺跡は後のローマによってほとんど原形をとどめない(大抵の他の遺跡もローマ人の入植の後はローマ風に変えられている、ローマの罪なところ・・・)

ケルトの遺跡

スペインガリシアサンタ・テクラ、ポルトガル北部のブリテイロスサブローソイベロ、ケルト・イベロよりは建築や都市計画的には劣っていて初歩的。防御に都合が良い地形と水源を求めて集落を作った。家屋は平面で回るく石を積み上げて屋根は藁や枝。墓地としてのネクロポリスは持たなかった。2500年経ったいまもガリシア地方にパジャサと呼ばれる民家として受け継がれている。

<ガリシアのサンタテクラ遺跡>

サンタテクラの遺跡

ローマ

半島のローマ化は紀元前218年第2次ポエニ戦争から409年のゲルマンの侵入まで。精力的に道路を作りシーザー、アウグストゥスの時代に銀の道等1000キロ以上の道路の建設、橋や寺院そして円形劇場や浴場が作られた。驚くのが19世紀に使われていた橋のすべてがローマ時代の建設。今も使われているアルカンタラ橋は紀元後105年ころ完成の深い谷にかかる橋で今も大きなトラックが行きかう。メリダの街やセゴビアの水道橋、タラゴナの水道橋等。コンクリートやスクリューなど目を見張る技術が駆使された。ローマ人の土木に対する情熱には本当に驚かされる。この数行ではとても無理なので又の機会に詳しく書きたいテーマです。

<エストレマドゥーラ州カセレスのアルカンタラ橋>

アルカンタラ橋

 

ゲルマン民族の建築

ローマ帝国の崩壊後 ゲルマン民族はイベリア半島を支配するが文化的には支配したローマの模倣で終わる。あまり特徴のある建築は残っていないが金銀細工と独特の素朴な模様、イスラム以前の馬蹄形アーチは興味深い。現存するのは小規模な教会建築で幾何学模様と東方的な装飾や模様などが独特。

550年ころの建築と考えられるカベサ・デ・グリエゴ教会(ほとんど原形をとどめていない)661年サン・ホアン・デ・ロス・バニョスなどイスラム以前にすでに馬蹄形アーチは使われていておそらくシリアからの影響。(どういう経路でシリアの影響がイベリア半島までやって来たかの説明はついていないが昔の建築家や学者は長い旅をしていたようです。)

<カスティーリアレオン州パレンシアのサン・ホアン・デ・ロス・バニョス内部>

ゲルマン建築

アストゥリアス建築(プレロマネスク)

アストゥリアス建築というのは西ゴートの最後の王ロドリーゴが殺されて半島はイスラム教徒の手に落ちた頃わずかに残っていたキリスト教勢力によって作られた建築。アストゥリアス地方にのみ見られる建築で8世紀後半から10世紀にかけての物。まだ謎多き建築で後のロマネスク時代に使われる石造りの架構をすでに使っている

オビエド近郊のナランコの丘に848年に離宮として建てられたサンタ・マリア・デ・ナランコ。建物は2層で石造りのトンネルボールトの天井や柱の彫刻、控え柱も西欧でほとんど最初の登用。ロンバルディア様式が生まれるより以前に使われている。シリアからの影響と言われているがいまだに経路も明確にされていない。すぐ近くのサンミゲール・デ・リージョ教会等アストゥリアスに多数現存している。

<オビエド郊外のサンタ・マリア・ナランコ>

プレロマネスク建築

モサラベ

半島の回教徒は寛大な政策をとり住民には宗教の自由もあった。そしてイベリア半島のローマの道路や館、橋を見て感嘆しギリシャ思想に惹かれた。キリスト教徒たちは安全や経済的な理由からアラビア語を話し娘をイスラム教徒に嫁がせ息子をコルドバに留学させただろう、と思う。この時代のキリスト教徒をモサラベと呼ぶ。そしてイスラム教徒支配下のキリスト教美術もモサラベと呼ぶ。

<レオンのサンミゲールデエスカラーダ修道院>

モサラベ サンミゲールデエスカラーダ

レオンのサンミゲール・デ・エスカラーダ913年はコルドバ出身のキリスト教徒の建築家によるモサラベ建築。他にバジャドリッドマソーテにあるサン・セブリアン教会などが現存する。

イスラム建築

後期ウマイヤ朝コルドバのメスキータ

ダマスカスでの革命から逃れたウマイヤ家の王子は785年もともとそこにあったサン・ビセンテ教会を買い取って(略奪ではなく)回教寺院を作らせた。当時まだ回教寺院の様式が確立していなかったのもあって北アフリカにあったモスクをモデルにしたであろう。(現在の回教5様式に属さないそれ以前のモスク)

ローマの遺跡から持って来た円柱をメリダのローマの遺跡にある水道橋から学んだアーチで木造の天井を支えた。

<コルドバメスキータ内部>

コルドバ、メスキータ

コルドバ郊外にはメディナ・アサーラという夏の離宮。後の火災と略奪で見る影もないが10世紀の宮殿は金銀で噴かれた屋根、中央に大きな真珠、床には水銀のため池、8本のアーチには黒檀、象牙、宝石が埋め込まれていて日差しが入るとキラキラと輝いたという。

セビージャのアルモラビッドとアルモハッド

コルドバのウマイヤ朝の没落の頃北アフリカから2族が呼ばれアルモラビッド(サハラ砂漠の遊牧民)とアルモハッド(アトラスの山岳族)がセビージャで回教文化を開花させる。

セビージャのカテドラルの鐘塔ヒラルダの塔オレンジのパティオの一部、アルカサールのパティオ・デ・ジェソ、黄金の塔、アルメリアのカテドラルの石膏装飾、サラゴサのアルハフェリア宮殿等建築物が残る。

<セビージャのヒラルダの塔>

ヒラルダ

グラナダの回教王国 アルハンブラ宮殿

グラナダはコルドバ、セビージャ陥落の後スペインの唯一残ったイスラム王国。現在のマラガ、グラナダ、アルメリア県を合わせた約3万平方キロメートルの王国。もともとはキリスト教徒から守るために作られた見張りの城塞だった。赤い丘と呼ばれたグラナダを見下ろす丘陵地に9世紀にたてられた城塞を初代グラナダ回教王国王モハメッド1世が24の塔を城壁で結びそれ以降城塞から宮殿的なものに変わって行った。スペインに残るイスラム建築の最高峰。

外観の無装飾と比べ内部の繊細な装飾、増築していくことにより内部の平面構造は複雑になる。ユスフ1世のアラヤネスの中庭やモハメッド5世のライオンの中庭等が最も重要。レコンキスタが激しくなりキリスト教国から逃れてきたコルドバの建築家や芸術家たちの手腕による。

<ライオンの中庭>

ライオンの中庭

ふんだんな水と植物や花の色と香り、光を取入れアラベスク模様によるコーランの一説等等筆舌を越えたという言葉がこれほどふさわしい建造物は見たことが無い。水と香と色と光とそこに残る儚い美しさ、ゆらゆらと揺れる陰に平家物語の様な哀しさを感じる。

ムデハール建築

キリスト教社会に存続したイスラム教徒をムデハールと呼ぶ。半島のレコンキスタが進みキリスト教社会の中で安価な労働力としてまたスペインの王の東洋趣味などもあって頻繁にイスラム様式が使われる。レンガや石膏を使い馬蹄形アーチやモザイク、アラベスク模様を使った建築が教会にも使われ興味深い。キリスト教の教会がアラビア様式で創られ今現在もミサが行われている。多く使われた理由の一つは中世のスペインの道路事情が悪く良い石材を運ぶのは大変な労働。(ローマの街道は分断されていた)そして身近にいるイスラム教徒(安く使えた)に彼らの得意なレンガの細工を任せた。かかわっていた人達は美しいものであれば良く何様式なんて気にしていなかったと思う。後世の人達が様式に名前を付けたのだから。

<サアグンのサンティルソ教会>

サグアン、サンティルソ

サン・ファン・デ・ドゥエロの回廊、サアグンのサンロレンツォやサンティルソ。トレドのサントトメ教会やサンロマン等数えきれないくらいのムデハール建築がある。現代の私たちからは不思議な感じですがきっと気にしていなかったのだと思います。「神の家を美しく作ることが出来ればアラビア様式でも問題なし。」だったと。

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ロマネスク建築

ヨーロッパ中世の建築様式で1000年ころから1200年ころまで流行した構造・丸いアーチの建築。ローマ人が好んで水道橋などに使った丸いアーチ(ローマンアーチ)を使っているのでローマ風>>ロマネスク様式、またはロマネスク建築。壁がふんだんにあるので壁画がふんだんに描かれた。

カタルーニャ

早くにイスラムを追い出してフランク王国から独立していたカタルーニャには現存する最も古い957年の教会堂がある。サン・エステバン・デ・バニョーラス(ジローナ)とサンタ・セシリアデ・モンセラ。又ピレネーの山中のタウルには12世紀回教徒の手から逃れた僧たちの一団が作った教会群がありすばらし壁画が残る。(壁画はバルセロナのカタルーニャ美術館に移築)

<タウルのサンクレメント教会>

ボイタウル サンクレメンテ

サンティアゴの道

サンティアゴの巡礼が盛んだったころとロマネスク建築が重なるのは偶然ではなく道と巡礼と一緒に伝わって行った。サンティアゴデコンポステーラに現在の大聖堂が創られ始めたのは1071年。当時の建築家や画家、彫刻家はインターナショナルに移動しながら注文を受けていた。サンティアゴの大聖堂を作るのにフランス人のロベールという腕利きの建築家が弟子を50人も連れてやってきた。当時フランスですでに始まっていたロマネスク様式をスペインに伝えながら旅をした。良く写真で紹介される現在のサンティアゴの教会堂の正面はバロック期の大きな物ですが内部や後陣部分はロマネスク建築。

<サンティアゴの大聖堂・栄光の門ロマネスク彫刻>

栄光の門

 

ゴシック建築

フランスで始まった建築様式。それまでのロマネスクでは天井の高さに限界があるのでもっと高くするためにリブボールトを入れて高い天井を手に入れる。それまでの壁構造から柱構造にすることで背を高く。先のとんがったアーチや大きな窓そこにステンドグラスを入れて外からの太陽の光を取り入れた。

<ブルゴス大聖堂>

ブルゴス大聖堂

 

フランスゴシック

ブルゴスのマウリシオ大司教がフランスからドイツを旅した時にゴシック様式に魅せられブルゴスに戻った後そこにあったロマネスク様式の教会をすごい情熱でゴシックに変えていった。レオンの大聖堂もおそらく同じ建築家による。

<レオンの大聖堂のステンドグラス>

カタルーニャゴシック

カタルーニャでは別系統で13世紀後半から14世紀にカタルーニャゴシック建築が発達。フランスゴシックのフライングバットレス(壁を外から支える為の石で作った部分)を内部に収めた独特の形。内部空間が広い。

<バルセロナ・海の聖母教会内部>

海の聖母教会

ルネッサンス

スペインにルネッサンスは無いという説も強くありますが時代的な要素や特徴はあるので一応ルネッサンスにいれました。大航海時代によりアメリカ大陸を手に入れた頃のスペインでイサベル女王の新大陸への興味とフェルナンド王のイタリア地中海地域への影響力が混じった形。

プラテレスコ様式

金銀細工に施す細かい細工を建築に石で掘って行く。サラマンカ大学の正面やアルカラ・デ・エナレスの建築家ロドリーゴヒルデオンタニョンによるスペインのルネッサンス代表作。

<サラマンカ大学>

サラマンカ大学

アルハンブラ宮殿のカルロス5世宮殿

1492年のグラナダの陥落のあとカトリック両王でさえも美しさに感嘆し壊されないように勅令を出したそうだがその孫カルロス5世はアルハンブラ宮殿の中に自分用の宮殿を創ることに。建築家はペドロ・マチューカ。ミケランジェロの弟子としてローマで学んだらしいがあまりよく分かっていない建築家。円形のパティオ均衡と調和はまさにイタリアルネッサンスの特徴。

<アルハンブラ宮殿カルロス5世宮内部>

アルハンブラ宮殿カルロス5宮

エルエスコリアル修道院とエレーラ様式

カルロス5世の息子フェリペ2世の時代スペインは日の沈む事無き大帝国になる。その大帝国の国王フェリペ2世は華美を嫌う地味で真面目で慎重な国王。

当時の王室建築家コバルビアスの建築に不満なフェリペ2世はナポリからファン・バウティスタ・デ・トレドを呼び寄せる。サンピエトロ寺院の建築にミケランジェロの傍らで働いていたらしいファン・バウティスタに巨大な建築物を依頼する。これがエル・エスコリアル修道院。ところがファンバウティスタが建設開始4年後に没してしまいその弟子ファン・デ・エレーラがその後を引き継ぐ。彼は建築家ではなく哲学者(すごい抜擢)だったがフェリペ2世の希望通りの装飾性を排除し単純な形態、質素なイメージの中に統一性のある非常にエレガントな修道院が作られた。

<エルエスコリアル修道院>

エルエスコリアル

バロック建築

スペインのバロックはチュリゲラ一族によって始まるのでチュリゲラ様式ともいう。装飾過剰なバロックは大航海時代の金銀と重なり絢爛豪華な悪趣味のやりすぎ装飾になって行く。でもなぜかスペイン人の得意とする様式でもある。サラマンカの大聖堂、マヨール広場やトレド大聖堂のナルシソトメのトランスパレンテ等。

<サラマンカ・マヨール広場>

サラマンカ マヨール広場

 

ネオクラシック建築

ローマ時代のクラッシックな建築をネオ新しく作った時代で神殿調の柱等を使ったすっきりした建築。マドリードのプラド美術館や現農業省等。

<マドリード・プラド美術館>

プラド美術館」

モデルニズム建築

ヨーロッパ世紀末芸術、フランスのアールヌーボー、イギリスのモーダンスタイル、ドイツのユーゲントシュティル、オーストリアのセセッションの時代。それまでの既成の芸術から自由奔放に作品を作り始めた頃カタルーニャは産業が産業が発展し建築が創られる。当時のカタルーニャのお金持ちが自由に別荘やマンションを建築家に頼んだので主に建築が盛ん。ガウディ―が有名だが当時はドメニクムンタネールの方が評価されていた。

<カサ・バトリョ、ガウディ作>

バトリョ邸

近代建築

現在国内外の建築家により近代建築が多く作られている。スペイン人ではサンティアゴ・カラトラーバやラファエル・モネオ、カナダ人フランクオーゲイリー(グッゲンハイム美術館)、フランス人のジャンヌーベル(ソフィア王妃芸術センター増築部分)等これはこれで又一つの記事として扱いたいくらい厚い層のあるテーマです。

<ビルバオ・グッゲンハイム美術館>

ビルバオグッゲンハイム

 

*スペインの歴史を5分で読めます

 スペインの歴史ダイジェスト版

まとめ

長い歴史の中で人間が残してきた建築を見るのが好きなので移り変わりをまとめてみました。石の文化で乾燥した空気等の好条件のもと(地震や台風が無いのも)ヨーロッパには本物の古い建築が残っていて肌感覚でこれらを楽しめるのはうらやましい限りです。素敵な建築の中にいるだけでブルッと嬉しい鳥肌になります。