ゲルニカ
ピカソの「ゲルニカ」という作品がある。
現在マドリッドにある近代美術館「ソフィア・王妃芸術センター」の珠玉の逸品。
「Centro de arte Reyna Sofia」
「ゲルニカ」は人類にとって非常に大切な作品。
もうこの美術館から出ることは無い。
以前撮影が許可されていた時期があって。
もっと色々撮ればよかった。
その許可は直ぐに無くなってしまったから。
ピカソ
「ピカソ」と聞くと何をイメージしますか?
「変な絵を描く人?」
「歪んだ顔を描く奇人?」
丁度写真機が小型化して画家たちが失業した時代があった。
それまでの既存の写実画をカメラがやってくれる時代がやってきた。
神様は全てを準備して天才をこの世に送り込む。
ゲルニカは町の名前
「ゲルニカ」は町の名前
パイス・バスク (バスク州)にある工場も無ければ武器も作っていない今も存在する小さな町の名前。
スペイン内戦
スペイン内戦、または市民戦争と呼ばれる悲惨な戦争があった。
内戦なのでスペイン人同士が戦った戦争です。
第一次大戦後国内で民衆の不満が高まり共和派と保守派の対立が大きくなり
国王アルフォンソ13世の亡命、内政の混乱、フランコの登場。
内戦が始まると列強各国が集まって会議を開くが結局は自国の利益が大事。イギリス・フランスはスペインが共産国になるのは困るので不干渉政策。当時ドイツでヒットラー、イタリアでムッソリーニが登場していた。彼らは反乱軍フランコに援助をはじめる。最後にロシアがスペイン共和国軍に援助を決めスペイン内戦は後ろに大国が先端技術を実験する場。今のシリアの内戦と同じで後ろに大国や魔の商人達の思惑が絡んだ代理戦争になる。
ドイツのヒットラーとスペインのフランコの利害関係が一致。バスク地方は鉄鉱石や石炭などが取れ造船などもやっている重工業地帯。そこを手に入れようと思ったドイツのヒットラーがコンドル部隊を送って来る。一般市民に対し飛行機から無差別に爆弾を落とし街を陥落させる威力の練習場とする。
ゲルニカ
ゲルニカは小さな町です。
町のお祭りの日を選んで着飾って出てきた民衆に向かいフランコに要請されたドイツのコンドル部隊が無差別に民衆に向けて爆弾を落とした。
町は焼け野原になり人々は希望を失い家族を殺された。
家は焼かれ子供達は死んでいった。
若者は夢を奪われ未来を失った。残ったのは絶望と憎しみ。
パリ万博
丁度その頃スペイン人のアーティスト達はパリに亡命していた。
ピカソやミロ達。
そのパリで7度目の国際万国博覧会が行われることに。万国博覧会のテーマは「科学技術と日常生活の芸術」科学がメインのテーマ。
亡命スペイン人アーティスト達が助け合って祖国のパビリオンに飾るものを
準備し始めていた。
ゲルニカの爆撃
1937年4月26日ゲルニカの爆撃。
小さな小さな町をドイツのコンドル部隊が2時間半にわたって爆撃。当時飛行機が発明されたころ人々は大きな爆音を立ててやって来る飛行機さえも驚いてみたに違いない。そこから爆弾が投下された。お祭りを楽しみにやって来た民衆に向けて。
暫くして飛行機がいなくなった後防空壕に避難した人たちが戻ったようだ。死体の中から家族を探し怪我人を助けたりしているところにもう一度飛行機が戻って来て低空飛行をはじめ機関銃を持った兵士が民衆を狙い撃ちした。
爆撃後の廃墟の写真が新聞に発表されピカソはしばらく沈黙した。
そして構想を全て変更し6月4日にこの作品を完成させた。
ピカソからのメッセージ
縦3,5メートル横7,8メートルの巨大な作品には今もピカソからのメッセージ
ある時ナチスドイツがピカソに「あなたが描いたんですか」
と聞きに来た。
ピカソの返事は
「違いますよ、あなた達がやったんです」
1937年パリ万博のテーマ
「科学技術と日常生活の芸術」
科学技術を絶賛する万博にこの作品がスペイン館に置かれた意味は大きい。
ソフィア王妃芸術センターアクセス
メトロ一号線アトーチャ駅から徒歩3分
プラド美術館から徒歩10分(paseo del Prado)
ガラスのエレベータの間を入っていくと切符売り場です。
開館時間、休館日、無料の時間等
月曜~土曜 10時―21時(火曜日休館日)
日曜 10時~19時
休館日 火曜日(1月1日、6日、5月15日、12月24,25日31日変更有)
平日の19時からと日曜13時30分から無料
写真撮影ーゲルニカとその周りの部屋は全部禁止。 それ以外はフラッシュなしで。 ビデオは禁止。
入場するのにセキュリティーチェック
空港とほぼ同じ要領だと思ってください。(液体のものは持って入れます。)
大きなカバン、大きめのリュックサック、刃物、棒状の長いものはダメ。
杖の先が金属のものはダメ(先がゴムのものは大丈夫)
荷物を預けるところがあります。
念のため貴重品は出しましょう。