鉄砲と茶の湯と南蛮人、「堺」という町でこの三つが繋がった。戦国時代の堺は財力を蓄えた商人たちが活躍する自治都市で日本最大の物流の拠点で情報センターだった。そこに種子島から火縄銃が伝わり鉄砲鍛冶たちが登場する。既に鋳物や刀を作っていた堺でヒット商品となった鉄砲と火薬の原料の貿易で豪商が登場する。裕福な商人達は茶の湯を楽しみ茶室で秘密のトップ会合を行った。その茶室に宣教師が招待されミサが行われたという。自治都市「堺」と鉄砲と茶の湯と南蛮人について調べてみた。
Contents
鉄砲と茶の湯と南蛮人
倭寇と王直と種子島
倭寇という海賊集団がいた(後期倭寇)。彼らは東アジアで中国沿岸部から朝鮮半島を荒らしていた。今の私たちよりももっとインターナショナルで九州から瀬戸内海を拠点として中国人と朝鮮人に日本人やポルトガル人も含むグローバルな海賊集団だった。その中に王直(おうちょく)という海賊 の親分がいた。
「王直」は海禁政策の明で密貿易をやっては逃げて大いに儲けていたちょっとしたワルだった。日本人の信頼を得て五島から平戸に移り住んでいた「王直」がチャーターしたジャンク船が1543年種子島に漂着した。
専門家は漂着かわざわざやって来たかで意見が分かれている。その船に乗っていたのがポルトガル商人達。インド航路発見後のポルトガルはアジアへ進出して商人達が活躍していた。種子島の領主と南蛮人は王直の筆談で砂浜に字を書いて通訳とし交渉が行われた。当時の種子島の領主は種子島時堯(ときたか)という16歳、交渉が成立して手に入れたのが鉄砲、火縄銃だった。
この時購入した火縄銃の値段は2丁で2千両、今のお金に換算して2億円という説がある。購入した鉄砲を種子島の鍛冶屋に「同じものが作れるように」と命令が下った。矢板金兵衛清定という鍛冶屋は試行錯誤の末何とか同じような物を作れるようになったが自分で解決できなかったのが「ネジ」だと言われる。苦悩した鍛冶屋は一年待って翌年やって来た別の南蛮人に娘を嫁に出して「ネジ」の作り方を手に入れたという説がある。日本人は自分たちで鉄砲を作った最初のアジア人となる。
*2丁のうちのもうひとつは紀州の根来寺(ねごろじ)の津田監持(つだけんもつ)という僧侶に献上され紀州でも生産されていく。当時の寺は今の大学の様なところで根来寺の僧侶は僧兵で知識人で寺には経済力も有った。根来寺と島津家は主従関係に有り鉄砲は島津家経由で和歌山に至った。根来寺と僧兵の事もイエズス会司祭ルイス・フロイスの書簡によって詳しく本部に書き送られている。
堺の港と産業
応仁の乱で兵庫の港が衰退し日明貿易の中継地点となったのが堺だった。堺は瀬戸内海航路の起点で山口、九州、土佐へ向かう船が物を運び日本最大の物流の拠点となっていた。金属産業が古くから栄え鋳物産業の国内の中心だった堺では刀や武具を伝統的に製造をしていた。そこに火縄銃が伝わり堺で大量に生産されるようになったのにはこれらの基礎が有った。
堺と技術
既に古墳時代に堺には鉄を鋳造する技術が大陸から入って来ていた。堺の仁徳天皇陵を造営する工事用にスキやクワなどの土木工事用の道具が必要になり大量に作られた。その技術が平安時代には刀となり継承されていた。
河内鋳物師(かわちいもじ)とは鋳造物を作るプロの職人集団。飛鳥時代に大陸からやって来たと考えられているが12世紀から15世紀にかけ堺に多くの工房を構えた。鋳造物は金属を溶かして鋳型に流し込み鍋や鎌やお寺の鐘などを創る。鎌倉大仏や奈良の大仏、お寺の梵鐘を作るのに活躍した専門家が境にいた。
堺の商人は薩摩から種子島そして琉球と船を操り商売をし広い範囲で活躍する。時は戦国時代、堺の商人達は都市を堀で固め自分たちで守り運営していた。選ばれたエリート商人たちが会合衆(エゴウシュウ又はカイゴウシュウ)となり独自の町の運営をした自治都市だった。
写真下はオルテリウス作成の日本地図にSAKAYと堺が描かれている。オルテリウスはフランドル人の世界地図製作者で1595年版に日本地図が追加された。ヨーロッパにおける最初の日本地図であるとされている。
下写真は堺の開口神社(アグチ・ジンジャ)。会合衆の会合の場となった神社。1535年には境内の念仏寺の修復に堺の有力者が寄付をしているがその中に千利休の名が残る
堺と鉄砲
橘屋又三郎は堺の商人。火縄銃が伝わった頃の種子島に1年か2年滞在し鉄砲の作り方を学んだ。彼は「鉄砲又」(てっぽうまた)と呼ばれ堺に鉄砲の作り方を伝えた。頭が良いのはこれを独り占めせず分業にして大量生産できるようにした。日本の産業の「分業して大量生産」はここから始まっている。鉄砲の製造と使用は瞬く間に広まり石山本願寺の戦い(1570年)には8000邸の銃が使われ長篠の合戦で信長は武田軍を破る。その後日本人は独自の方法で銃の性能を高めていった。日本の工業技術の基礎が既に堺にあった。
<和歌山市立博物館にある石山の戦いの配陣図>
江戸時代は戦争が無くなったので鉄砲は進化しなかったと言われているがその後も鉄砲に象嵌を入れたり豪華になる。武器としては進化しなかったが装飾品としては作られていった。
<堺市博物館に並ぶ江戸時代の鉄砲>
堺の鉄砲鍛冶は江戸時代にも続いて多くの鉄砲を生産している。戦いは無くなったが参勤交代の時に武士は銃を持ったので用途は様々でも江戸時代に作り続けられていた。
フランシスコ・ザビエル
ヨーロッパでは宗教改革の反動でイエズス会が結成された。世界宣教を目指すイエズス会がアジアへキリスト教を布教するために宣教師を派遣。
フランシスコ・ザビエルはポルトガル船に乗りインド航路を通りインドに滞在後東南アジアに向かいマラッカで日本人と出会っている。アンジロウかヤジロウという名の鹿児島出身の日本人で日本で犯罪を犯して悔悛しておりザビエルを探して逢いにやって来た。頭が良いアンジロウを気に入ったザビエルは彼と日本を目指す事にし船で日本へ向かった。鹿児島から長崎、山口、と移動し1550年(天文9年)海路「堺」に到着した。堺の有力商人が日比屋了珪(ヒビヤリョウケイ)に紹介状を書いて渡してくれた。
日比屋了珪(ヒビヤリョウケイ)
日比屋了珪についてはあまり良くわかっていないらしい。今の堺のザビエル公園(戎公園)に屋敷を構えており当時はそこが堺の貿易港だったという。当時にしては珍しい3階建ての屋敷、あるいは蔵を持っていたという。
<堺のザビエル公園>
日比屋了珪はザビエルの保護者となり自ら1564年に受洗し洗礼名をディエゴとした。堺の豪商で有力者なので茶人だったしすぐ近くに千利休の屋敷も有った。京都にいる小西隆佐という堺の豪商に手紙を書きザビエルを紹介している。小西隆佐は後にルイス・フロイス(日本史を書いたイエズス会司祭)に逢い京都で最初にキリシタンになった人物。
*ルイス・フロイスはイエズス会ポルトガル人司祭。文筆と語学の才能がありイエズス会の通信の仕事をする。日本で布教をしながら日本語を学び信長や秀吉に謁見している。彼は日本でのイエズス会の記録を残す命を受け「日本史」や「信長公記」等がある。この時代の通算してまとまった日本の歴史はフロイスの記録や耶蘇会通信ではじめて知ることが出来る。
日比屋了珪とルイス・デ・アルメイダ
イエズス会士ルイス・フロイスとルイス・デ・アルメイダは1565年に豊後から堺の日比屋了珪の元を訪れている。この時アルメイダは健康を害しており堺に留まり日比屋了珪の屋敷で世話になった。健康を回復したアルメイダは別れの時に日比屋了珪から宝を見せられた。「彼らはある粉末にした草を飲むためその茶碗を使い・・・それは茶と呼ばれ・・・」と報告書に茶の事が出てくる。何よりも彼を驚かせたのはヨーロッパ人は金銀宝石を喜ぶが日本人は「古いひびが入った椀」にイエズス会日本支部の年間予算程を払い、それを使った神聖な儀式を大切にしている事だった。
*ルイス・デ・アルメイダはもともとリスボンで医学を学んでいた。その後貿易に従事し莫大な財産を手にした。日本でイエズス会宣教師の慈善活動に感銘して宣教師になる。後に大分でライ病患者や間引きされる子供達の為に病院を作り外科技術を伝えた人物。大分に彼の名前が付けられたアルメイダ病院がある。
茶の湯と宣教師
日本でのキリスト教の布教を成功させるためにイエズス会の宣教師たちは日本の事を事細かくリサーチし本部へ手紙を書き送っている。茶室や茶の湯の事も報告書に詳しく記載されている。堺の豪商は茶人で宣教師たちは彼らと交流を持ち神聖な茶室にて親睦を行ったと考えても不自然ではない。カトリックのミサで使う布地の扱いと茶の帛紗(ふくさ)の使い方の共通性は以前から指摘されている。
耶蘇会日本通信(やそかいにほんつうしん)
日本で活躍したイエズス会宣教師たちが事細かく日本の事を本部に報告している。それらをまとめた書簡をその後日本に行くイエズス会士の為に出版したのが耶蘇会日本通信。日本の布教のためのノウハウ集。その中に堺の事をガスパール・ビレラという司祭が「堺の街は豊かで東洋のベニスのようだ」と書いている。
*ガスパール・ビレラはポルトガル人のイエズス会司祭。インドのゴアから大分の豊後で布教。平戸から京都に向かい教会を作っている。その後京都を追い出され堺へ向かい畿内を中心に活躍したポルトガル人司祭。
火薬と鉛
鉄砲が作れても火薬と玉が無いと武器としては意味が無い。球を作るための鉛は日本国内にもあったが東南アジアや中国から輸入した。イエズス会やその後やって来るオランダ商人達もこの貿易に参入する。
火薬の原料は硫黄、木炭、硝石、で日本国内では硝石が取れないのでインドからの輸入になる。先に出て来た「倭寇の王直」は硝石の取引をはじめて大儲けをしている。
信長と堺
豊かな堺を信長が手に入れたいと思っても不思議ではない。天下を取りたい信長にとって堺の財力と鉄砲を利用したかった。信長は軍資金を堺に要求し包囲された堺は最初は抵抗するが条件をのむ。表面上は信長に屈服した堺だったが堺の茶人今井宗久は信長に茶の湯を教え信長の絶大な信頼を手にいれ天下統一を支えた。その後千利休が秀吉の元で政治に関係していった。
堺へ行った時の旅の記録です。
最後に
千利休、今井宗久、津田宋及ら天下の茶人が顔をそろえた堺に人が集まり物が集まり文化が栄えた。日本一の情報センターにイエズス会の宣教師が滞在していた時代の何かが見たくて堺に行ったが大坂夏の陣で堺は焼き払われ残っているのは江戸時代以降の街並みだった。江戸時代1610年には平戸からオランダ船で最初の日本の茶がヨーロッパに向けて輸出された。