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イスラム教は比較的新しい宗教で創始者モハメッドが生まれたのが紀元後570年頃日本は奈良時代。イスラム教があっという間に伝搬していったなかでスンニー派とシーア派に分裂する。今もイスラム圏の多くの紛争はスンニー派とシーア派の宗派の違いによるところが多い。このブログのテーマはスペインですがスペインはほかのヨーロッパと違うのがイスラム支配を700年以上受けている。スペインの歴史を知るために少しだけイスラム教の始まりとシーア派とスンニー派に分かれウマイヤ朝が始まる歴史をまとめました。
モハメッドの誕生
イスラム教の創始者モハメッドは今のサウジアラビアのメッカで生まれた商人だった。現在サウジアラビアのメッカはイスラム教徒の最大の巡礼地となっている。日本語で使う「新婚旅行のメッカ」とか「山歩きのメッカ」などはここからきている言葉。
モハメッドは読み書きができなかったと言われているが非常に誠実で真面目な人格者だったようだ。
イスラム教の重要な教えの中に偶像崇拝の禁止があるため絵画などにモハメッドの肖像画が残っていないのは残念。
<巡礼者達であふれるのメッカ・カーバ神殿のまわり>
イスラム教の始まり
モハメッドは40歳超えたころ610年ころに大天使ガブリエルを通して神の声を聴いて唯一神を唱えた。神からの啓示はそれから23年間も続きその時に神から授かった啓示がコーランにまとめられている。
突然40歳を超えた大人が神の声を聴いたと言っても誰も信じてくれない。大変な迫害を受けたので622年420キロ離れたメディナに移住した。(その時のお弟子さんの数が150人イエスキリストは最初12人いや11人。)ジハードという聖戦を続けメッカを征服する頃には1万人もの人が従った。
メディナはイスラム教徒の第2の聖地。予言者のモスクはモハメッドが最初に建てたモスクであり住居でありイスラム共同体の本部にあたるところ。今スペインの企業がメッカからメディナに新幹線の工事をやっている。
<メディナの予言者のモスク>
モハメッドの死後
問題の始まりは632年モハメッドは後継者を決めずに亡くなってしまったことから始まる。(経営者の方は後継者選びちゃんとしましょう)イスラム教の信者の共同体はその代表を決める必要に迫られるが派閥がありうまく調整ができない。内々に決めるには組織が巨大すぎたのだ。
当時ウンマ(信徒共同体)には3つの派閥①モハメッドとメッカからメディナ一緒に移住した最古参。②メディナでモハメッドに援助したもの③最初はモハメッドに反抗したが後改宗したメッカの有力者ウマイヤ家。
混乱に陥った共同体は崩壊を避けようという意見だけは何とかまとまり人選を始める
アブーバクル
最古参でモハメッドの妻アイーシャの父親アブーバクルが選ばれる。「モハメッドが最後の預言者、彼以降は預言者はいない」ことになっているのでアブーバクルはモハメッドの代理人ハリーファとされる。カリフという言葉はこれがなまったもの。(預言者というと予言者と紛らわしいですが予言する人ではなくて神の言葉を聞く人、それを伝えることが出来る人という意味です。)
ウマルその後ウスマーン(ウスマーンはウマイヤ家)
アブーバクルのあとウマルがカリフを継承。ウマルはアブーバクルの親友。ウマルの時代にイスラム勢力はエジプトにまで拡大している。大きくなりまとまりが亡くなって来ていた。ウマルのあとにウマイヤ家のウスマーン。彼はウマイヤ家の一門を重用しすぎたようで嫌われて656年に暗殺される。
アリーの暗殺
4代目にアリーがカリフになる。ここからが大変。アリーはモハメッドの従妹で娘婿。しかしアリーは3代目のカリフ・ウマイヤ家のウスマーンの暗殺に関わっていたとして661年暗殺される。その後大混乱の中教団の総意でカリフは出なかったのでこの4代目カリフアリーまでを正統カリフ時代と呼ぶ。
シーア派の始まり
事実上支配者となったウマイヤ家ムアーイヤがその後シリアのダマスカスを首都にウマイヤ朝カリフとなる。ウマイヤ朝が領土を広げ711年にスペインに入って来たイスラム教徒たち。
<750年のウマイヤ朝の領土>
アリーとその血筋のみが正当と主張する人々はウマイヤ家に反抗する。アラビア語で党派をシーア<シーア・アリー>アリーを支持する党派という意味。これが省略されシーア派と呼ばれる。彼らは今もムアーイヤ以降を認めていない。すなわちウマイヤ家に敗れた人達をシーア派と呼ぶ。今もシーア派は少数派。
アリーの息子もウマイヤ家に殺される
暗殺されたアリーとファティマ(モハメッドの娘)の間に息子がいた。名前がフセイン。父亡き後シーア派の最高指導者「イマーム」として精力的に布教していたが680年イラク中部のカルバラでウマイヤ家に包囲されて戦死している。このカルバラがシーア派の聖地。
現イラクのカルバラのフセインのお墓はシーア派の巡礼地となっていてシーア派の宗教学校やイスラム法学者が集まる学問の中心でもある。
<イラクのカルバラ>
毎年イスラム歴(太陰暦なので毎年太陽暦とずれます)1月10日にアシュラーという際礼が行われシーア派の人々はフセインの死を悼み剣を掲げ自分の背中を鎖の束で打ちながら行進をするらしい。1300年も経っているのに今もこの殺害を悼んで自分を傷つけ血を流して男たちはこぶしで胸を打ちながら行進するという事です。
シーア派の考えでは4代目のアリーは預言者モハメッドから初代イマームに任命されていた。イマームというのは聖なる世界と俗界を結んでくれる特別な存在。873年12代イマームがお隠れになりいまだにお隠れ中らしいです。終末直前に最後のイマームが救世主となって再臨しこの世の悪から救済されると信じられています。
イスラム教徒の85パーセントはスンニー派、シーア派は15パーセントと少数派。
アリーの暗殺が紀元後661年なので日本は飛鳥時代。聖徳太子没が622年で三蔵法師がインドに行ったのが629年なので大体その頃のお話です。
ウマイヤ家は革命で倒される
話は戻りその後ウマイヤ家が革命で倒され(750年)アッバース家の時代になる。アッバース家は後に首都をイラクへ移動させイスラム文化の栄華を極める。
倒されたウマイヤ家の正統の血を引く王子がスペインに逃げて来て作ったのが後期ウマイヤ朝・コルドバカリフ王国。代々の王たちがコルドバの街にモスクや図書館、大学を作って繁栄した。
<コルドバのメスキータの内部>
コルドバを首都に後期ウマイヤ朝は756年から1031年まで栄華を極めます。「スペインは違う」と言わるのはこの長いイスラム支配がある国だからです。イスラム教徒達は古代のギリシャの文献をアラビア語に訳しインドの数学を自分たちの物にして進んだ先進文明を既に既に築いていた。そしてキリスト教徒の時代になってもイスラム教徒の科学者や学者がカスティーリアの王によって重用されていた時代があった。