マドリード旧市街のサン・ミゲール・バシリカ教会は国の歴史的建造物

マドリードの旧市街を歩くと賑やかなバル街に中世の教会や修道院が同居している。マヨール広場あたりは特に古い地区で散策しながら教会に入ってみるのも良いものだ。マイナーな場所ですがマドリード旧市街にある「サン・ミゲール・バシリカ教会」について調べました。

サン・ミゲール・バシリカ教会


サン・ミゲール・バシリカの歴史

12世紀、まだマドリードが寒村だったころアルフォンソ8世の命により殉教聖人フストとパストール聖人達を祀る教会が作られた。今もここの通りの名前はサン・フスト通りと呼ぶ。

サンフスト通り
筆者撮影サンフスト通り

*サン・フストとパストールはローマ時代の迫害で304年に殉教した子供達。スペインのアルカラ・デ・エナレスで7歳と9歳で殉教した。(子供達のはずなのにこのパネルが何故おじさんなんだろうと疑問に思って色々探したけど答えはまだ見つかりません。)

12世紀のマドリードはイスラム教徒から街を奪い返したばかりの頃。レコンキスタの真っ最中だった町にはせっせと教会が作られていった。サン・フスト・イ・パストール教会は古いマドリードに4番目に建てられた教会となる。(サンタ・マリア教会、サン・アンドレス教会、サン・ペドロ教会の次)

時代は移り変わり1738年時代はスペイン国王フェリペ5世の晩年の頃、スペイン王家がブルボン朝に変わったばかりの王様だ。マヨール広場で大きな火災があり被害は教会にまで及んだ。

マヨール広場の火災
museo historia de Madrid

 

火災で教会は廃墟になったその場所にフェリペ5世の妃イサベル・デ・ファルネシアの命により建てられたのが現在のサン・ミゲール教会。この時はまだ普通の教会だった。トレド大司教だったドン・ルイス・デ・ブルボンはフェリペ5世とイサベル王妃の末の息子で彼の為に1739年教会の再建が始まる。日本は江戸期徳川吉宗公の時代。ドン・ルイス・デ・ブルボンは8歳で既にトレド大司教と枢機卿の位を持っていた。当時の王家や貴族の世界で長男以外の息子達が生涯働かずに食べていける為聖職者の位を与えることは普通にあった。しかし8歳で枢機卿というのはギネスブックに載っているらしい。

*ドン・ルイス・デ・ブルボンはチンチョン伯爵とも呼ばれるフェリペ5世の2度目の結婚で生まれた3男。子供の時から聖職者になるよう教育されるが異母兄のフェルナンド6世が亡くなると次の王位を狙い兄王カルロス3世に疎まれマドリードから離れた僻地に飛ばされている。芸術愛好家で音楽家ボッケリーニや画家ゴヤの庇護者だった。

<ゴヤ作ドン・ルイス・デ・ブルボン>

ゴヤによるドンルイス肖像画
wikipedia public domain

 

教会が完成したのは1745年、イタリア人建築家ジャコモ・ボナビアと複数の芸術家たちによって建てられたイタリア・バロック様式の建築。その時もサン・フスト・イ・パストール教会と呼ばれていた。

サンミゲールバシリカ正面
筆者撮影、サンミゲールバシリカ

1790年に再びこの辺りを大きな火災が襲いその後のナポレオンの時代の略奪により近くにあったサンミゲール教会(今のサン・ミゲール市場に有った教会)と統合し両方の教区の人々がお祈りできる場所をここに確保した。

バシリカに昇格

1885年に現在の国会議事堂の場所に有ったイタリア人用の慈善病院と礼拝堂を壊した時、バチカンとスペインで話し合いが行われ大司教館の横にあるサンフスト教会をローマ直轄とした。その時のローマ法王レオ13世が自らの守護聖人大天使サン・ミゲールに捧げた教会とし1930年に小バシリカになったという。

バシリカとは

実はここは普通の教会(スペイン語でイグレシア)ではなくバシリカと呼ばれる。バシリカとはもともとは建築様式の事を言い古代ギリシャ・ローマ時代に集会に使われた建物の事を言う。ギリシャ語で「王の列柱廊」を意味するバシリケーという言葉から来ている説があるがいまだ諸説あるようだ。

カトリック教会でバシリカと呼ぶには実はきちんとした決まりがある。ローマ法王からの公式文書により特権を交付された教会の事で一般の教会より特別な4つの権利を与えられている。

①一般の教会より上位の教会として扱われる権利

②オンブレリーノを備える権利(ローマ法王専用の傘でオンブレリーノOmbrellinoはイタリア語。ラテン語でUmbraculum又はConopeoとも呼ぶ)

オンブレリーノ
Description
Français : Ombrellino de la basilique saint Sauveur de Rennes.
Date 4 November 2011
Source Own work
Author EdouardHue

③ティンタンタナパリウムというローマ法王を象徴する鐘を持つ権利。

ティンタンタナパリウム
De Pymouss – Trabajo propio, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=21444050

 

④ミサの時に特別のカッパ(Capa magna)を着用する権利。

 

バシリカには大バシリカと小バシリカとバシリカがあり大バシリカは世界に4つしかなく全てローマに有る。(サン・ピエトロ、サンタ・マリア・マッジョーレ、サン・パオロ、サン・ジョバンニ・ラテラノ)小バシリカとバシリカは世界に約1500あり大半がヨーロッパ、スペイン国内に100以上ある。小バシリカとバシリカの違いは不明。

建築

建物の構造はラテン十字形でイタリア人建築家のジャコモ・ボナビアによって始まり関係者何人かが関わり完成している。マドリッドに有る教会で唯一のイタリアバロックの正面を持つ。壁の一部は今も12世紀のサンフスト教会の物が使われている。

サンミゲールバシリカの正面
筆者撮影、サンミゲールバシリカ

(写真下)正面の木の扉の上にサン・フストとパストールの殉教シーンが浮き彫りになっている。

バシリカサンミゲールの浮彫
筆者撮影、バシリカ・サン・ミゲール

すぐ右となりの建物は同じ時代に出来た大司教館で今も使われている。ローマ法王がマドリードに滞在する時の宿泊場所になるそうだ。

 

教会と司教館の間に「パンの小道=Pasadizo de pannecillo」がある。ドン・ルイス枢機卿が貧しい人にここの通りの窓からパンを上げたところだそう。

パンネシート通りのパネル
筆者撮影、バシリカ・サン・ミゲール

内部

内部はラテン十字形で両側に8個の礼拝堂。一番奥にはサン・ミゲール(日本では聖ミカエルと呼ぶ)の主祭壇。

教会内部
筆者撮影、サンミゲールバシリカ

写真下のキリスト磔刑像は18世紀、聖母像は20世紀の物で毎年復活祭の日曜日の山車で外へ出される。

教会内部の礼拝堂
筆者撮影

天井画はフレスコ画。暗くて見えにくいがサンフストとパストールの栄光という題名でゴンザレス・ベラスケス兄弟によって描かれた。

サンミゲールバシリカの天井
筆者撮影、バシリカ・サン・ミゲル

オプスデイの創始者のホセ・マリア・エスクリバ・バランゲールに捧げた礼拝堂。ホセ・マリアがマドリードに来たとき最初のミサをここであげている。

音楽家ルイージ・ボッケリーニが埋葬されていた

音楽家ボッケリーニはイタリアのルッカで生まれた作曲家でチェロ演奏者。パリで成功していたがスペイン王家に招かれドン・ルイス王子専属演奏者兼作曲家として活躍する。ドン・ルイスのお気に入りだったが1785年にドンルイスが亡くなったあとは失職し寂しい後世を送り1805年にマドリードで亡くなっている。ドン・ルイスにちなんでこの教会に埋葬されていたがムッソリーニの要請で1927年に生誕地イタリアのルッカに戻された。

このバシリカは現在スペイン国の歴史的建造物に指定されている。

サン・ミゲール・バシリカの詳細

場所*calle de San Justo 4  旧市街マヨール広場近く

 


時間:

冬の平日9時45分から13時15分/17時30分から21時15分

冬の祝日9時45分から14時15分/18時から21時15分

夏の平日9時45分から13時15分/18時から21時15分

夏の祝日 9時45分から13時30分/18時30分から21時15分

入場無料

ミサの時間は写真は遠慮しましょう