ムリーリョ(バルトロメ・エステバン・ムリーリョ)は17世紀・黄金世紀に南スペインのセビージャで活躍した画家。当時のセビージャは新大陸からの大きな船が出入りし人があふれる賑やかな街だった。半面そこには貧富の差や一攫千金を狙った野望が入り混じる荒れた時代でもあった。ムリーリョが愛情を持って描いた貧しい少年達にその時代の片鱗が感じ取れる。スペイン全体で対抗宗教改革が始まり教会が内部から浄化を始めた頃多くの修道院が作られ壁面を飾るための聖人や聖母マリアの絵画を大量に必要とした時代に活躍した画家がムリーリョだった。ペストの流行や緩やかに没落していくスペインでムリーリョの甘美な聖母マリアは人々のすさんだ心に響いたに違いない。
ムリーリョ生誕400年祭で2018年から2019年にかけてセビージャで様々なイベントが行われています。
バルトロメオ・エステバン・ムリーリョ
1618年(1617年)ー1682年
*誕生は1617年末。公式の記録として残るのは1618年の1月1日の洗礼
セビージャで誕生
ムリーリョはセビージャの街で生まれた生粋のセビージャーノ(セビリアっ子)。父親は理髪師兼外科医(当時理髪師が外科医というのは普通にあった)、母親は金銀細工師および画家の家系で芸術に関わっていた血筋なのが判っている。ムリーリョという苗字は母方の名前でアンダルシアでは母方の苗字を名乗る習慣があった。解っている最初の公式資料はセビージャのマグダレナ教会で1618年1月1日に洗礼を受けているので実際に生まれたのは1617年の終わり。14人兄弟の末っ子で生まれ、子供の頃の家庭は裕福だった。ところが9歳の時に父と母を続けて亡くし結婚していた姉に引き取られるが13歳で母方の親戚の画家ファン・デ・カスティージョの工房に入っている。1633年(15歳)に中米への移民を考えたようで書類に署名していたことが判っている。ムリーリョについて初期の作品や若い頃の事はわかっていないが新大陸への作品を描いていたようだ。
ムリーリョ初期
<聖母とラウテリオ修道士とアッシジの聖フランシスコとアキーノの聖トマス、1638-40年、英ケンブリッジ、フィッツ美術館>
(上)解っている中でおそらく最も初期の作品のひとつ。聖母マリアが修道士フランシスコ・ラウテリオの為神学の教えを伝えに降りて来た奇跡の場面。ムリーリョがまだ20歳から22歳頃の作品。同時に描いた聖母の奇跡「聖母が聖ドミンゴにロザリオをもたらす奇跡」がセビージャの大司教館に現存する。
1645年27歳の時に5歳年下のベアトリス・カブレラと結婚した頃から本格的な創作活動に入るが作品は数点しか現存していない。ムリーリョの絵に登場するマリアは殆どが妻になったベアトリスだった。
<蚤を取る少年、1645-50年、ルーブル美術館>
(上)ムリーリョは聖母マリア等の美しい宗教画が有名だが現実の人々も描いている。当時の北方で好まれた庶民の日常を外国人からの注文で描いたものだと思われる。光の扱いがカラバッジオの影響のテネブリズムが使われている。手前の壺や篭とリンゴなどに丁寧なボデゴン(スペインの静物画)が描かれている。画家本人も子供のころに孤児になりセビージャの街には日常にこういう風景があふれていたに違いない。無心に蚤を取る少年の足の裏の泥や今食べていたエビの殻までが現実的で愛着を感じる。
1649年からペストの蔓延で多くの犠牲者を出したセビージャは新大陸の航海も不振になり多くの人口を抱えるが仕事も無く貧しい子供達であふれていた。ムリーリョの優しい作品は人々の心を癒したに違いない。
<小鳥のいる聖家族、1650年以前、プラド美術館>
(上)聖家族(聖母マリアと聖ヨセフと幼子キリスト)という宗教的なテーマの中に暖かい日常を感じる作品。キリスト教宗教画で聖ヨセフは端の方や後ろなど遠慮がちに描かれることが多いがこの作品では中央にどっしりと大きく暖かい父親として描かれている。16世紀の終わりから聖ヨセフの扱いは少し良くなってきた(それ以前は後ろから遠慮がちに手を差し伸べるような軽い扱い)。今もセビージャにはホセという名の男性が多い。温かみと包容力のある身近な人の様な親近感を覚える人物に描かれている。室内の光の扱いや布地の描写、篭の素材感が美しい。マリアが動かす糸車がくるくると廻っている。
サンフランシスコ修道院からの大きな注文
<サン・フランシスコ修道院>
1645年から翌年にかけてセビージャのサンフランシスコ修道院(消失)の回廊を飾る13点を手掛けている。その中に「修道士フランシスコと天使の台所」がある。
<修道士フランシスコと天使の台所、1645年、パリ・ルーブル美術館>
今はルーブル美術館にある巨大な作品で180メートルx450メートル。セビージャの修道院で賄いをしていたフランシスコ・ペレスは神に仕える求道者だった。有る時高官の訪問を受けもてなしに困って祈っていると体は宙に浮き天使たちが現れてもてなしの料理を整えたという奇跡。ムリーリョらしい可愛らしい天使たちが現れ動き回ってが働いている様子が伝わって来る。道具や皿、銅の鍋などの静物の表現も正確で素晴らしい。
受胎告知
受胎告知は様々な画家たちに描かれた人気の題財。聖母は妻のベアトリスがモデル。1650年と1660年の10年の間で画家の作風が変わって行ったのが良くわかる。
<受胎告知、1650年頃、プラド美術館>
<受胎告知、1660年、プラド美術館>
サンタ・マリア・ラ・ブランカ教会
ムリーリョの仕事は順調な中大きな注文を受ける。セビージャのサンタ・マリア・ラ・ブランカ教会はシナゴーグ(ユダヤ教会)を改装して創った教会。1662年からの再建工事が行われ絵画や彫刻が一新された。1665年8月5日にクーポラや壁も真っ白に漆喰で覆われた。ブランカは白いという意味。
<ヨハネの夢、1662-65年、プラド美術館>
(上)注文主はセビージャの修道士フスティーノ・ネベ、ムリーリョの個人的な友人でもあった。フスティーノ・ネベはセビージャの慈善病院ロス・べネラブレスの創設者でもある。テーマはローマのサンタ・マリア・マッジョーレ教会の奇跡「4世紀の貴族ヨハネの夢に聖母が幼児キリストと共に現れ教会の建立を願う場面」。ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ教会の守護聖母は雪の聖母(サンタ・マリア・ラ・ブランカ)、この教会の守護聖母でもある。
同じ時期にカプチン会修道院の為に連作21点を制作している。これらはセビージャ県立美術館にある。
ムリーリョはセビージャで度々引っ越している。妻との間に11人の子供が生まれ(実際に育つのは4人)人数が増えるたびに広い所を求めたのかもしれない。1663年に妻が11人目の子を産み直ぐに亡くなり、生まれた子も間もなく天に召された。後は再婚はせずにサンタ・マリア・ラ・ブランカ教会の近くへ引っ越した。
成熟期
1660年頃から40歳を超えたムリーリョは成熟期に入り注文は順調で後進の芸術家の育成にも力を注ぐ。その頃に描いたのがセビージャ大聖堂からの注文で聖母の誕生。
<聖母の誕生、1660年頃、パリ・ルーブル美術館>
(上)この少し前におそらくマドリードを訪れており王室コレクションを見ている。先人の先輩たちの作品に触れたムリーリョの円熟期の作品となる。残念な事に現在ルーブル美術館にある。
無原罪の御宿り
無原罪の御宿りはカトリックの教義で聖母マリアはその母アナの胎内に宿ったときに既に無原罪だった。宗教改革に対抗してカトリック世界ではパウルス5世ローマ法王のもと対抗宗教改革で異端審問教令が広まった時代に無原罪の御宿りの教義を通じ聖母の神格化が始まった。この教義を絵画を通してスペインに普及させようと多くの画家によって描かれている。ムリーリョは1560年頃から無原罪の御宿りを描いていて没年まで多くの傑作を描いた。
<エル・エスコリアルの無原罪の御宿り、1660-65、プラド美術館>
<アランフェスの無原罪の御宿り、1675年、プラド美術館>
ムリーリョの描く民衆や子供達
ムリーリョは美しい宗教画で有名な画家だが当時のセビージャの子供達を描いている作品が何点かある。対抗宗教改革のスペインでは宗教画以外は売れない時代だったが外国の商人達がお土産として購入していった。
<サイコロで遊ぶ少年達、1675年、ミュンヘン・アルテピナコテーク>
<窓辺の少女達、1655-60年、ワシントン・ナショナルギャラリー>
<3人の子供達、1660-65年、ロンドン・ダルウィッツ・ギャラリー>
<微笑む窓辺の少年、1675年、ロンドン・ナショナルギャラリー>
当時のセビージャの道端にいたような普通の子供達や貧しい少年達が無邪気で可愛い。この種類のムリーリョの絵が一枚もスペインには現存していないのは残念。ムリーリョは画風が優しいだけでなく人間的にも慈愛の溢れた温厚で善良で謙虚な人物だった。子供達を描く画家の視線にムリーリョの人間的な温もりを感じる。
晩年のムリーリョ
名声に包まれ成功を手にした晩年だったが妻に先立たれ子供の多くを夭折させており育った一人の娘は聾者で修道院に、ひとりは新大陸へ旅立ち末弟は宗門に入ろうとしていた。セビージャの街も一時の華やかさとは裏腹にペストの流行や貿易の不振で街には孤児や娼婦があふれていた。そんな時代にカリダード病院からの注文を受けた。
<病者を担うサン・ファン・デ・ディオス、1672年、セビージャ・カリダード病院>
(上)サン・ファン・デ・ディオスが貧しい病人を助けているのを天使が手伝いにやって来た場面。カリダード病院の創設者は新大陸の貿易商だったが妻を亡くし残りの人生を貧しい人の為に施す事に決めカリダード信徒会に入会した。ムリーリョは彼の友人だったので仕事で神に奉仕をしようと同じく信徒会に入会し病院内の聖堂に大作を数点残した。
薄霧の様式=バポロッソ
ムリーリョの晩年の作品はバポロッソ=霧がかかった様な独特の様式になり柔らかなタッチ。
<貝殻の子供達、1670年、プラド美術館>
(上)まだ子供の洗礼者ヨハネにイエス・キリストが貝殻で水を与えるところ。実際聖書にはこの2人の子供の頃の事は書かれていないので画家の想像の世界だがある程度の画家による脚色は許されていたようだ。十字架と羊で後の殉教をほのめかす。
<聖アンドレスの殉教、1675-82、プラド美術館>
(上)125センチx209センチの大きな作品。同じくプラド美術館蔵にある聖パウロの回心と対をなす。ルーベンスの作品を模した版画が残りマドリードへ旅をした折に見たであろう王室のコレクションからの影響があると言われている。
最後の仕事
スペイン南西部の港町カディスのカプチン会修道院のサンタ・カタリーナの聖堂祭壇の装飾「聖カタリーナの神秘の結婚」制作中に足場を踏み外して梯子から墜落。この事故が元で1682年4月3日に64歳の生涯を閉じた。
<聖カタリーナ神秘の結婚、1682年、カディス美術館>
作品はムリーリョの弟子フランシスコ・メネセス・オソリオによって完成され今はカディス美術館に展示されている。
まとめ
現存するムリーリョの作品が450点あるそうだが半数近くは外国に出てしまった。18世紀頃までムリーリョの人気は外国で高まり分散してしまっている。スペイン王フェリペ5世の妻イサベル・デ・ファルネーゼがセビージャでムリーリョを収集したものが現在のプラド美術館のコレクションの基礎となっている。同じ時代に外国人の貴族やコレクターに買われていったので一部ながらもスペインに大作が残ったのは偶然とは言え奇跡かもしれない。ムリーリョの子供達は殆ど早くに亡くなり唯一残ったのが新大陸へ行った息子だった。ムリーリョの残した財産も大西洋を渡ったようだ。外国に行ってしまったのはムリーリョの大量の絵だけではなかった。穏やかで包容力があって慈愛にあふれた可愛げのある男がスペインには今も存在する。絵を描くことで忠実に神に仕えようとした典型的なセビージャーノ(セビリア人)、素朴で優しい夫で父親で、そして敬虔なカトリック信者だった。