コルドバ・カリフ王国の繁栄、アッバース革命と後期ウマイヤ朝。

コルドバ・ローマ橋とメスキータ

 

スペイン最南端にそこに立つとアフリカが手が届きそうに見える海峡が有る。大西洋と地中海の入り口の海峡の名前はジブラルタル。14キロのジブラルタル海峡を渡ってイスラム教徒がスペインへ入ってきて西ゴート王国が崩壊した。スペインにイスラム教徒の時代がやって来た。アラビア半島ではシリアのウマイヤ朝が勢力を広げて巨大な帝国を作っていた時代。トレドから逃げたキリスト教徒たちは北スペインの山岳地帯で戦いながら小さなキリスト教徒の君主国を作っていた。そんな時代にシリアで革命が起こり一人の王子が逃げて来た、後期ウマイヤ朝・コルドバカリフ王国の始まり。

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後期ウマイヤ朝のはじまり

舞台はアラビア半島、今も内戦が続くシリアのダマスカスでアッバース革命が起こり14代続いたウマイヤ朝は倒された。ウマイヤ家はアラビア人優遇政策をとり身内ばかりを贔屓にしてた。不満が爆発し政敵アッバース家が革命を起こした。アッバース朝は後に首都を今のイラク・バグダットに定め東カリフ王国と呼ばれる。

<シリアのウマイヤッドモスク、現存する最古のモスク>

シリア、ウマイヤッドモスク
wikipedia CC
Source Own work
Author Jerzy Strzelecki
*アッバース革命

イスラム教の創始者モハメッドが後継者を決めずに死んでしまう事によって当時のイスラム共同体は大混乱に陥る。そんな中ウマイヤ朝が実権を握りシリアのダマスカスを首都にウマイヤ朝が繁栄していた。711年にジブラルタル海峡を渡ってスペインに来た勢力はこのシリアのウマイヤ家からの勢力。661年に成立したウマイヤ家には最初から正当性に疑問があった。そしてウマイヤ家優遇政策を取り特権意識の強いウマイヤ家には敵が多かった。アッバース家は預言者モハメッドの叔父の血筋だがウマイヤ家によって中央政権から外されていた為、不満分子のシーア派と結んでついに革命が起こったのがアッバース革命。

 

 

*シーア派とスンニー派に分かれたところはこちらの記事をご覧ください。別のウインドウで開きます。<ウマイヤ家の始まり。スンニー派とシーア派はここから揉め始める>

ウマイヤ家の王子が逃げてくる

倒されたウマイヤ家の王子がはるばる北アフリカ経由でイベリア半島までやってきた。隠し持った宝石を売りながら助けられたり騙されたりしながらの逃亡劇。アル・アンダルス(南スペイン)のアミールを破り756年独立したアミールとして即位したのがアブ・ドゥラーマン1世。

*アミールはアラビア語で司令官、総督を意味し次第にイスラム世界で王族や貴族の総称になる。後にスペイン語化しアドミラル=司令官という言葉になる。

アブドラーマン1世は緑の目でカリスマ性のあるイケメン王子だったそう。シリアのウマイヤ家の血を継承することからスペイン後期ウマイヤ朝と呼ぶ。ここからスペインでのウマイヤ家によるアル・アンダルスの支配が始まる。

<コルドバの街とメスキータ>

コルドバ、メスキータ
wikipedia CC
Source Flickr: [1]
Author Toni Castillo Quero
メスキータ(スペイン・後期ウマイヤ朝のモスク)

スペイン・後期ウマイヤ朝は宮廷の内紛や陰謀などの続く中250年間コルドバを首都に栄える。その時に作り始め代々のカリフが拡大した回教寺院がメスキータという世界遺産。モスク(回教寺院)の事をスペイン語でメスキータと呼ぶ。

メスキータ内部

コルドバ、メスキータ

メスキータに入ってすぐの最初の部分の柱はローマの遺跡から持って来た柱が使われているので柱一本一本は2000年前の物。天井はオリジナルではなく後の修復再建。

中央部分はキリスト教徒の時代にほとんど柱が取り払われてしまった部分。大変残念ですが今では回教寺院メスキータの中に現役の大聖堂がある不思議な建築物になっている。

<内部の大聖堂聖歌隊席部分>

コルドバ、メスキータ、カテドラル部分
wikipedia CC
Source Flickr: IMG_5289
Author Jan Seifert

奥の方のミヒラーブ(メッカの方向に向かって作られた窪み)には漆喰に美しい文字でコーランの一説が彫刻されていてその周りは唐草模様で飾られている。壁面を規則正しく文字や模様で埋め尽くすためにはユークリッドの幾何学が使われた。数学が発達していないと不可能なのです。

<一番奥のミヒラーブ、ビザンチンの技術者を連れて来て作った>

メスキータ、ミヒラブ

この時代のキリスト教徒の教会に行くと祭壇に新約聖書の物語や聖母マリア・聖人たちが彫刻されている。識字率が低かったので字が読めなくても絵によって、彫刻によって聖書を教えていった。宗教を広めるために絵画や彫刻が必要だった。イスラム世界はそれが許されなかったので識字率が高くなければいけなかった事がわかります。

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回教寺院は通常異教徒は入れないことがほとんどです。内部がどういう風になっているかを見れる良い機会にもなります。

イスラム教徒は「偶像崇拝の禁止」が重要な教えなので彫刻に人間や動物を創ることが出来ない。コーランの一説(文字)を装飾し、神の言葉なので美しく完璧に。アラビア語で文字が繰り返し彫刻されています。その文字は今と同じアラビア文字なので読むことが出来ます。繰り返し神を称える言葉が視界に入ってくることによって神に近づき祈りは深くなる。

偶像崇拝が禁止なので回教寺院には祭壇はないのがモスク。では何に向かって祈るかというとメッカにあるカーバ神殿に向かって。回教寺院に入るとメッカに向かい祈ることが出来るミヒラーブいう部分がある。そこを美しい装飾で飾った。

*(実際コルドバのメスキータのミヒラーブは少し角度がずれています。もともとあった教会をもとに作った関係上基礎を移動させることが出来なかった様です)今はスマートフォンのアプリでメッカがわかるようになっています。

良く「アニメのメッカ」とか「スポーツのメッカ」とかいう言葉の「メッカ」はここからきています。サウジアラビアにあるイスラム教徒の最大の聖地。巡礼地。

スペイン・後期ウマイヤ朝絶頂期

アブドゥラーマン3世は自らをカリフとして僭称しバグダッドとの主従関係を断ち切り独立したカリフすなわち王となった(929年)。この時代がスペイン・ウマイヤ朝絶頂期。メディーナ・アサーラ宮殿を作りメスキータも増築が進む。次のアルハカム2世の時には貿易も盛んになりイスラム圏とヨーロッパ諸国をつなぐ架け橋となり人と物が移動し繁栄した。

軍事力は強化され北部のキリスト教徒の地域に軍事遠征が行われる。国家収入は商品取引による租税で占められた。都市では絹織物、陶器類、金属製品、武器や紙農産物などが取引された。取引相手は同じイスラム圏だけではなくヨーロッパのキリスト教徒圏も含まれていた。

アルアンダルスからはオリーブ油と織物や手工芸品等が輸出されヨーロッパからは毛皮、金属、武器、奴隷(スラブ人の白人奴隷とスーダンから黒人奴隷)を輸入した。

西方の真珠<コルドバカリフ王国>

人口は50万人モスクや大学、公共浴場、図書館が作られヨーロッパ最高の大学として数学、天文学、医学、化学などの中心だった。メスキータはさらに増築され一度に2万5千人もの人が礼拝できたそう。

<メスキータの塔、現在は大聖堂の鐘楼になっている>

コルドバ、メスキータ、塔
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(required by the license) © José Luiz Bernardes Ribeiro / CC BY-SA 3.0

スペイン・後期ウマイヤ朝はバグダッドに対抗し多くの学者を厚遇を持って受け入れ図書館を作り大学を創り学者を集めた。当時の図書館の蔵書は60万冊と言われている。

キリスト教ヨーロッパにまだこの時代大学はなかった時代ボローニャやパリに大学ができるのが12世紀。。コルドバはヨーロッパ中世の数学、天文学、医学、化学や文学など諸学問の中心地であった。その後約400年間にわたって学問の中心地となる。(レコンキスタのあとキリスト教徒たちによって知識の継承がされていった)西方の真珠と呼ばれた。

次第にキリスト教徒のレコンキスタが進んで1031年コルドバは陥落する。

メスキータは壊されずキリスト教徒の礼拝堂が内部の端の方に創られ日曜日にはキリスト教徒金曜日にはイスラム教徒が礼拝をして仲良く使っていた。

<メスキータ内部の礼拝堂部分>

コルドバ、メスキータ、礼拝堂

陥落後コルドバの学者たちはトレドに呼ばれこの後はキリスト教世界で厚遇され様々な知識がキリスト教世界へ伝わって行った。

 

投稿者: 大森由美

スペインに1989年から住んで日本からのお客様と旅に行ったり美術館を巡ったりしています。お休みの日は夫とキャンピングカーで放浪、スペインに長年住んでもスペインが大好きで日本から来たお客様にもスペイン大好きになってもらうために働いています。趣味はバイオリンとスキーとワイン。

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