インカ帝国、アンデスに栄えた高度な文明インカ文明とマチュピチュ

インカ帝国は今のペルーを中心とするアンデスに栄えた帝国だった。マチュピチュが有名だがいまだ発見されていない遺跡がアンデス山中に無数に存在しその首都だったのが標高3400メートルのクスコ。スペイン人の征服者フランシスコ・ピサロ達によって破壊されなければクスコの街には素晴らしい神殿などが残っていた。今はそこに本国にあるような大聖堂や教会、修道院が建つ。アンデス山中には古代から様々な文明が生まれており全体をアンデス文明と呼ぶがここでは15世紀から16世紀の「インカ帝国」についてまとめました。

アンデスの人々はどこからやって来た?

モンゴロイ系の移動
By ABCEditer – 投稿者自身による作品 by reference to 崎谷満(2009)『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史 日本人集団・日本語の成立史』勉誠出版, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=61586300

氷河期の頃(たぶん3万年前とか)、まだベーリング海峡が陸続きだった頃ににモンゴロイド系の人々がアメリカ大陸に渡り定住した。彼らは各地にゆっくり移動し南下していき南米に到着、環境に適応していった。遅くとも1万年前には南アメリカ大陸最南端のマゼラン海峡まで達していたようだ。アンデス地方に人がたどり着いたのは紀元前2万年から1万5千年頃と推定されている。定住生活が始まると豆やジャガイモ、トウモロコシの栽培をしている。

 

マヤ、アステカ、インカって?

アメリカ大陸に多くの文明が存在し。私の中で適当に扱っていたが時代や区分が全く違い混乱しがち。代表的なマヤ文明、アステカ文明、インカ文明の3つを簡単にまとめておく。この中でマヤとアステカはまとめて「メソアメリカ文明」と呼ばれメキシコ中央から南東部とグアテマラ等中央アメリカに栄えた高度な文明。

1.マヤ文明:紀元前1500年頃から(諸説あり)西暦1600年頃までの長期間にメキシコ、グアテマラ、ベリーズ等の広い地域に様々な時代に栄えた文化。マヤは統一国家の名前ではなく長期にわたりいくつもの都市国家を築いた文明の総称。

マヤ、チャックモール
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2.アステカは西暦1350年から1521年に現在のメキシコで起こった国の名前。大規模な土木工事を行い神殿や水利工事等の高い技術、ピラミッドや象形文字、太陽暦を使った高度な文明。スペインの征服者コルテスにより滅ぼされた。首都はティティトラン、現在のメキシコシティー。

アステカのカレンダー
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3.インカ文明は1200年頃から1533年現在のペルー、ボリビア、エクアドル、チリ北部等で栄えた帝国。首都は現在のクスコ。スペインの征服者ピサロにより滅ぼされた統一された巨大な帝国だった。ここではこのインカ帝国についてまとめた。

クスコの石組
筆者撮影、クスコの石組

アンデス文明

アンデスの地図
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インカ帝国の前に少しだけアンデス文明について調べてみた。実はインカ帝国は15世紀末から16世紀にスペイン人に征服されるまでの短命な100年程の文明。インカ帝国に先立ち古代アンデス文明があり現在発見された最古の遺跡は紀元前2000年のコトシュ遺跡(東京大学の発掘調査)その後チャビン様式、ワリ帝国、チムー帝国、クスコ王国と続き大きな神殿や土器を残している。アンデス文明は現在の南米大陸のペルーを中心として太平洋沿岸地帯からボリビアに繋がるアンデス中央高原に存在した文明全体を指す。

アンデス文明黄金の甲冑
筆者撮影

その後ナスカの地上絵で有名なナスカ文化等様々な時代を得てインカ帝国となる。様々の時代の土器や壺や黄金の甲冑などが発見されており高い文化を持っていた事がわかる。

アンデス文明の壺
筆者撮影 ラルコ博物館

アンデス文明の特徴

文字を持たない

鉄を製造しなかった

金や銀の鋳造が発達していた

家畜飼育が行われていた

車輪を持たなかった

根菜類、塊茎類を主食料とした。

インカ帝国

クスコの石組
筆者撮影、クスコの石組

アンデス文明を継承してクスコに1200年頃成立した部族の集合体から始まるのがインカ帝国。アンデス世界には文字が無かったので記録が無くその起源は不明。ケチュア族のインカ部族がクスコに小さな国家を作ったのが始まりと思われる。最初の200年間位は部族の集まりだったが15世紀の中頃に仇敵を倒して第9代の皇帝パチャクテは在位の33年間に版図を一千倍に拡張、第11代の皇帝ワイナ・カパックは更に領土を拡大して大帝国に広げた。ワイナ・カパックの死後正妻の皇子ワスカルと側室の子アタワルパが戦いになり1532年にアタワルパが勝利を収めるが翌年1533年スペインの征服者ピサロにより滅ぼされた。

インカの皇帝の死の絵
By Luis Montero (1828-1869) – Museo de Arte de LimaKanon6917, パブリック・ドメイン, Link

1533年インカ帝国の滅亡は種子島にポルトガル人が到着する10年前。スペインとポルトガルが海外領土獲得にしのぎを削り競い合っていた頃。日本が植民地にされなかったのは当時の日本に強い軍事力と統制があったからに違いない。

4万キロのインカ道

帝国の交通と通信の為インカ帝国内に約4万キロメートルの道路網を整備していた。まさに帝国の血管として機能し要所要所には宿場(タンボ)が置かれ俊足の飛脚(チャスキ)が宿場の小屋に駐留していた。チャスキは1日200キロも走れたと記録に残る。凄いスピードだ。インカの道は各地点に最短で行ける様に工夫されており清掃と整備が行き届いていた。これらの情報は後にやって来たスペイン人たちによって詳細に記録に残されている。現在このインカ道を3日間で歩くインカ・トレッキング・コースが存在する。

インカ道
筆者撮影、インカ道

インカは文字を持たなかった

インカはマヤやアステカと違って文字を持たなかった。では4万キロのインカ道を整備して飛脚は何を運んだのか?広大な領土を文字を持たずにどうやって支配できたのか?謎は深まるばかりだ。

<インカ帝国内の4万キロにわたるインカ道の地図>

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Description
English: This map shows the Inca Road System through South America
Date 15 July 2015, 17:04:06
Source Personal Communication
Author Koen Adams

 

ローマ帝国もしかりで道路網は国のインフラの基本。有事に軍を派遣したり法令を伝えたり人が動き物が流れる。しかしインカは文字を持たなかったので彼らが残した記録が存在しない。文字を使わずどうやって指令や伝達を行ったのか、マチュピチュに代表される立派な都市や巨大遺跡が残るが実はインカ帝国について私たちが知る事が出来るのは征服したスペイン人たちが残した記録。スペイン人たちは事細かくリサーチし記録を残している。すなわちマチュピチュ等スペイン人が入らなかったところは破壊されなかったが記録が全くない為いまだに謎の部分がほとんどである。

文字が無く広大な帝国を統治できるか?

では文字無くしてこの巨大な帝国を支配できたかと疑問が残る。大きな帝国を維持するためには伝達や命令や連絡が必要だったはず。飛脚が4万キロメートルのインカ道を走り「伝言ゲーム」の様に国王の言葉を運ぶには余りにも制限がある。実はインカ帝国に色の違う縄を結んで何かを記録したキープ quipuという縄が存在した。

インカの縄、キープ
筆者撮影、キープ

ひもの結び目が1~9までの数や位取りを現し色や組み方で記録を残していた。当時インカにはキープの専門家が養成され「ひもの組み方」等で人口や農産物の生産量などを把握したようだ。おそらく色、結び目の形、結び目と結び目の距離、縄の長さ等の組み合わせで様々な事を現したはずだがいまだに謎が多く暗号の様なものだったかもしれない。

インカのキープ
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キープを創ったり解読できたのは専門の教育を受けた「キープカマヨック」と呼ばれる専門家だけだった。飛脚が運ぶのが石や粘土板ではなく紐だったら軽くて合理的だ。紙は軽いが水に弱く書いた文字も消える事が有る。現在ではコンピューター解析により少しずつ謎は解明されておりキープは会計報告、人口や財政や軍隊等の重要な情報を記録していたと考えられている。コンピューターの世界も0と1の組み合わせだけで複雑な世界を作り上げる。キープはもしかしたら数だけではないもっと複雑な事象を現しているかもしれないと個人的に想像している。研究が進み驚愕の新事実が明らかになる日が楽しみだ。

縄を結ぶ記録は実は他にも存在し日本語では結縄=ケツジョウという。中国、エジプト、ハワイにもあり日本では沖縄の藁算=ワラサンというのもそのひとつ。

マチュピチュは何故滅ぼされなかった?

マチュピチュの景色
筆者撮影、マチュピチュ

インカ帝国の都市マチュピチュは標高2400メートルの山の中にある都市。20世紀(1911年)にハイラム・ビンガムによって発見された。今だ謎が多くその仮説の中にマチュピチュは通常の都市ではなくインカの人々も知らない秘密都市だったというのが有る。山の中にありインカ道も危険な険しいものでスペイン人に見つからなかったのが幸いした。クスコが征服された後スペイン人に見つからないようマチュピチュに繋がる道をインカが破壊したという説もある。実際今でも鉄道とバスを乗り継いでやっと到着ができ、下の街からはマチュピチュは全く見えないように創られている。

マチュピチュから発掘された石像
筆者撮影、マチュピチュから発掘された石像

以前はマチュピチュの墓から発見された遺体のほとんどは女性だったと言われていた。発見された当時の骨学者により身長が小さいことから「インカの太陽の乙女を育てる特別な秘密都市だったかもしれない」と言われていた。これは現在では否定されており最近の研究では男女比は同等、骨に傷などがない事から平和に暮らしていた、人口は500人から750人ほどだったとされている。

マチュピチュからアンデス山脈
筆者撮影、マチュピチュ

アンデスから見る星空は天の川がくっきり見え美しかった。天の川から雨が降り大地を潤し川になり海に流れて又天の川になると考えても不思議ではない。インカの学者は宇宙の法則を手に入れ雨季や乾季を知り太陽や月や星の観測をしていたのは間違いない。

マチュピチュの景色
筆者撮影、マチュピチュ

広大なアンデス山脈にマチュピチュだけしか都市が無かったはずは絶対に無く、未だに誰も知らない遺跡が沢山眠っているはず、と考えるだけでゾクゾクしてくる。

インカの建築構造

サクサイワマン遺跡
筆者撮影、サクサイワマン遺跡

マチュピチュの遺跡だけでなくインカ帝国の石組は大変精巧に組まれており石と石の隙間にはカミソリ一枚入らないそうだ。ペルーは実は地震国でマチュピチュも2つの断層の上に作られている。地震が起きた時にマチュピチュの街ごと揺れて次第に戻る耐震構造になっているらしい。遺跡の見える部分は全体の60%ほどで土台部分に砕かれた細かい石が敷き詰められており水はけをよくする。

マチュピチュの耐震構造
筆者撮影マチュピチュの耐震構造

クスコに1650年に地震があったときインカの建造物の上にスペイン人が創った教会は壊れたがその下にあったインカの建物は無事残った。ペルーはナスカプレートと南米プレートの上に有るため地震が多くアンデスの人々は耐震構造で街や建造物を創っていた。

クスコの街の石組
筆者撮影、クスコの石組

インカの神様

インカ帝国を作ったケチュア族は太陽の神インティを最高神とし太陽信仰が国家の基本だった。太陽だけでなく月もコンドルもジャガーも蛇も山も水もカエルも神様だった。皇帝は最高神「太陽の子」又は「太陽の化身」だった。

インカの太陽の観測

下の写真はマチュピチュのインティワタナ。インティワタナは「太陽を繋ぐ」という意味のケチュア語。石柱の角度は東西南北にすべて対応しており対角線上を冬至の太陽が通過するらしい。垂直な突起部分は年に2度だけ太陽が頂点に来た時に影が無くなる。

マチュピチュのインティワタナ
筆者撮影、マチュピチュのインティワタナ

インカの人々は太陽を神とあがめ皇帝は太陽の子だった。太陽の動きを観測し季節を予測出来たものこそが権力を持つことが出来た。雨季と乾季、冬至と夏至を知る力は農業や安全の為大切だったので天文学を研究し太陽の運行を正確に手に入れた。インカ帝国の様々な街に天文観測所があり星の運行を記録し太陽の動きを研究した。

マチュピチュの太陽の神殿
筆者撮影、マチュピチュの太陽の神殿

写真上はマチュピチュの太陽の神殿。2つの窓が有り夏至と冬至にそれぞれの窓から太陽が神殿の中に入る。

インカの農業研究所

下の写真はモライの農業試験場。標高3500メートルの地点に有り山の斜面を利用して約100メートルの標高差で高度差による作物の研究をした。

モライの農業試験所
筆者撮影、モライの農業試験場

写真ではわかりにくいがひとつの段は約1メートルほど、温度差は最下部と最上部で約5度。ここで標高差による温度変化や湿度変化で異種交配や気候への対応を研究した。これらの研究により標高の高いアンデスの山岳地帯でジャガイモやトウモロコシが今も育つ。

とうもろこし
筆者撮影、とうもろこし

インカ帝国の滅亡

ピサロの率いる武装したスペイン軍が到着したのはインカの内乱が終わり新しい皇帝アタワルパが即位してすぐだった。まるで南スペイン、グラナダ王国の終焉と同じで帝国の崩壊は内部から蝕まれるのだ。

ピサロだけでなくスペインからやって来たコンキスタドーレス達(征服者たち)はひとり残らず自国で食いつぶしたならず者たちで一攫千金を求めてやって来た荒くれ者達だったのはインカにとってあまりにも不運だ。最後のインカ王アタワルパはスペイン人たちの到着に驚いて神に占ったところ「監視し様子を見る」だったので抵抗せず謁見した。

クスコ街並み
筆者撮影、クスコ

インカ帝国の首都クスコでピサロと皇帝アタワルパは謁見するがドメニコ会修道士が聖書を渡しキリスト教に改宗する事を求めるとアタワルパは聖書を破り捨てた。同時に周囲のスペイン兵が射撃を開始、周りにいた武器を持たないインカ兵たちは次々と射殺され皇帝アタワルパは捕虜にされた。

何故少ないスペイン人に多数のインカ兵は倒されたか

髭を生やした白い神ビラコチャはアメリカ大陸の古代文化において創造神として信じられていた。馬に乗ったスペイン人たちはビラコチャ、すなわち神に見えた。アメリカ大陸に馬は無く馬に乗ったスペイン人は巨大な頭が二つある神にみえて怯えた。

インカの神様ビラコチャ
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最初に到着したスペイン人たちは170人ほどで8万人のインカが征服されている。インカ帝国の敵の民族が存在しスペイン人と組んだ。「敵の敵は味方」、インカの周りの反対勢力をスペイン人がうまく利用した。スペイン人たちは協力して一緒に戦った民族もその後征服していく。

 

さらに平和に暮らしていたインカは強い武器を持っておらずスペイン人達が持ってきた火器にひとたまりもなかった。インカと違いアマゾンの民族は野生の敵が多かったので鋭い武器や弓をもっており反撃されたスペイン人たちはアマゾンは征服できなかった。アマゾンには今もそのままの生活を続ける村がありペルー政府もその実態は把握できていない。

 

インカ帝国の最後

幽閉されたアタワルパはスペイン人たちが黄金に異様に反応する事に気が付きピサロに「部屋いっぱいの黄金を与えるから釈放してほしい」と頼む。次々と帝国中からもたらされる金をスペイン人は金の延べ棒にして本国へ送って行った。どれだけの金を集めてもスペイン人たちの欲望は満たされる事無く、ピサロは冷血にも皇帝アタワルパを処刑する。

アタワルパ王
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その後反乱も度々有ったが最後のインカの皇帝は1572年スペイン人に捕らえられ処刑され誇り高いインカ帝国は滅亡した。

その頃日本は戦国時代、織田信長の比叡山焼き討ちが1571年、既にイエズス会宣教師達が活躍しており日本の事を詳しくリサーチしている。本国スペインの神聖ローマ皇帝カルロス5世は既にこの世になくその息子フェリペ2世の治世下、レパントの海戦の勝利やプロテスタント諸国と戦争をしていた時代、戦争にかかる費用はペルーやメキシコからもたらされる金銀で賄った。

ペルーに行った旅の記録です。これから旅行に行く方は参考にしてください。

ペルーの旅、聖なる谷とマチュピチュ、クスコの旅の記録2018年8月8~17日

最後に

アンデス文明やインカ帝国は未だ未知の部分が多い。調べれば調べる程謎が出て来て興味もそそられた。医療技術や薬草の知識も豊富で現在にまで使われている物が有る。マチュピチュやクスコだけでそれぞれひとつの記事になるほど奥が深くそのうちに記事にしたいと思う。ここはざっくりインカ帝国についてまとめてみました。