スペイン建築史

 

 

スペイン程複雑に民族が入れ替わり立ち代わりやって来た国はそうはない。その過ぎ去って行った民族が色んなエッセンスをスペインに残していき生活や言葉、人々の風貌等に彩を添えている。北はピレネー山脈でヨーロッパと接し南はジブラルタル海峡からアフリカと、東は地中海が広がる。地理的にはまさに十字路として様々な民族が通り過ぎていった。今日はその中で形として一番残る建築について。スペインの建築史をまとめてみました。

未知の時代の不明な巨大な構造物

スペイン南部マラガ近郊のアンテケーラにドルメンという巨大な建造物が残る。紀元前3000年から2500年頃の物で31個の巨大な石で構成されたドルメンは無料で入ることが出来る。総重量1600トンというとんでもない大きな物で一番重いものは320トン。これを運んでくるだけでも私たちの想像を超えた人数やテクノロジーがあったに違いない。おそらく死者を埋葬するための物で家よりお墓に時間を労力を注いだのは死への恐怖や畏敬や不安が人類にとっての最も大きな関心事だった時代だったから。今も変わらないかもしれませんが。

<アンテケーラ・ドルメン内部>

アンテケーラのドルメン

バレアレス諸島のマジョルカ島、メノルカ島では紀元前1500年頃の巨石文化の遺跡が現存します。新石器時代の物で住居や神殿等。マルタ島にある巨石文明やイギリスのストーンヘンジとの関連は不明です。

フェニキア人

紀元前8世紀頃ガレー船に乗ってやってきた商業民族フェニキア人。南スペイン・アンダルシアの西端カディスにやって来て植民地化し寺院や巨大な建造物を建てたと言われるが残念ながら失われてしまい今残るのはお墓のみ。

<カディス フェニキア人墓地>

カディス フェニキア

このフェニキア人が使っていたのが表音文字でフェニキアン・アルファベット。今のABCアルファベットの元になります。建築は残りませんでしたがアルファベットは世界で今も使われているのが素晴らしい。どんな建築を作っていたのか知りたいなあ。

ギリシャ人

現在のスペイン東部カタルーニャにあるアンプリアス(エンポリオン)。紀元前6世紀頃今のフランスのマルセイユにいたギリシャ人がイベリア半島にパライアポリスという商港を開いた。ここが数年後に発展していく。現在の遺跡は1000年間にわたる色々なものが積み重なって解読は困難な遺跡が残っています。スペインに残る数少ないギリシャ建築。

<エンポリオン遺跡>

エンポリオン遺跡

イベロ族とケルト族

一応イベリア半島先住民族と言われるイベロ族ですが正確には族と言われるほどの整った文化形体は示しておらずもともといた原住民が後からやって来たカルタゴ人ギリシャ人ローマ人との接触のうち独特のイベロ族という文化を作って行ったのではと考えられています。建築らしいものは残っていないが塁壁に囲まれ堀をめぐらして中央に大通りを作り道路は舗装されていた。家の間口は狭く重層だったと考えられている。必ず寺院と墓地を持ち墓地は大きく巨石文化の影響がみられる。

又別系統でやって来たケルト人はピレネーを越えて紀元前8世紀頃にイベリア半島に入って来る。イベロ族と混血していきケルトイベロ文化を形成。「ヌマンシアの戦い」で有名なローマに対して籠城戦で抵抗したヌマンシアはケルトイベロの街。ただその遺跡は後のローマによってほとんど原形をとどめない(大抵の他の遺跡もローマ人の入植の後はローマ風に変えられている、ローマの罪なところ・・・)

ケルトの遺跡

スペインガリシアサンタ・テクラ、ポルトガル北部のブリテイロスサブローソイベロ、ケルト・イベロよりは建築や都市計画的には劣っていて初歩的。防御に都合が良い地形と水源を求めて集落を作った。家屋は平面で回るく石を積み上げて屋根は藁や枝。墓地としてのネクロポリスは持たなかった。2500年経ったいまもガリシア地方にパジャサと呼ばれる民家として受け継がれている。

<ガリシアのサンタテクラ遺跡>

サンタテクラの遺跡

ローマ

半島のローマ化は紀元前218年第2次ポエニ戦争から409年のゲルマンの侵入まで。精力的に道路を作りシーザー、アウグストゥスの時代に銀の道等1000キロ以上の道路の建設、橋や寺院そして円形劇場や浴場が作られた。驚くのが19世紀に使われていた橋のすべてがローマ時代の建設。今も使われているアルカンタラ橋は紀元後105年ころ完成の深い谷にかかる橋で今も大きなトラックが行きかう。メリダの街やセゴビアの水道橋、タラゴナの水道橋等。コンクリートやスクリューなど目を見張る技術が駆使された。ローマ人の土木に対する情熱には本当に驚かされる。この数行ではとても無理なので又の機会に詳しく書きたいテーマです。

<エストレマドゥーラ州カセレスのアルカンタラ橋>

アルカンタラ橋

 

ゲルマン民族の建築

ローマ帝国の崩壊後 ゲルマン民族はイベリア半島を支配するが文化的には支配したローマの模倣で終わる。あまり特徴のある建築は残っていないが金銀細工と独特の素朴な模様、イスラム以前の馬蹄形アーチは興味深い。現存するのは小規模な教会建築で幾何学模様と東方的な装飾や模様などが独特。

550年ころの建築と考えられるカベサ・デ・グリエゴ教会(ほとんど原形をとどめていない)661年サン・ホアン・デ・ロス・バニョスなどイスラム以前にすでに馬蹄形アーチは使われていておそらくシリアからの影響。(どういう経路でシリアの影響がイベリア半島までやって来たかの説明はついていないが昔の建築家や学者は長い旅をしていたようです。)

<カスティーリアレオン州パレンシアのサン・ホアン・デ・ロス・バニョス内部>

ゲルマン建築

アストゥリアス建築(プレロマネスク)

アストゥリアス建築というのは西ゴートの最後の王ロドリーゴが殺されて半島はイスラム教徒の手に落ちた頃わずかに残っていたキリスト教勢力によって作られた建築。アストゥリアス地方にのみ見られる建築で8世紀後半から10世紀にかけての物。まだ謎多き建築で後のロマネスク時代に使われる石造りの架構をすでに使っている

オビエド近郊のナランコの丘に848年に離宮として建てられたサンタ・マリア・デ・ナランコ。建物は2層で石造りのトンネルボールトの天井や柱の彫刻、控え柱も西欧でほとんど最初の登用。ロンバルディア様式が生まれるより以前に使われている。シリアからの影響と言われているがいまだに経路も明確にされていない。すぐ近くのサンミゲール・デ・リージョ教会等アストゥリアスに多数現存している。

<オビエド郊外のサンタ・マリア・ナランコ>

プレロマネスク建築

モサラベ

半島の回教徒は寛大な政策をとり住民には宗教の自由もあった。そしてイベリア半島のローマの道路や館、橋を見て感嘆しギリシャ思想に惹かれた。キリスト教徒たちは安全や経済的な理由からアラビア語を話し娘をイスラム教徒に嫁がせ息子をコルドバに留学させただろう、と思う。この時代のキリスト教徒をモサラベと呼ぶ。そしてイスラム教徒支配下のキリスト教美術もモサラベと呼ぶ。

<レオンのサンミゲールデエスカラーダ修道院>

モサラベ サンミゲールデエスカラーダ

レオンのサンミゲール・デ・エスカラーダ913年はコルドバ出身のキリスト教徒の建築家によるモサラベ建築。他にバジャドリッドマソーテにあるサン・セブリアン教会などが現存する。

イスラム建築

後期ウマイヤ朝コルドバのメスキータ

ダマスカスでの革命から逃れたウマイヤ家の王子は785年もともとそこにあったサン・ビセンテ教会を買い取って(略奪ではなく)回教寺院を作らせた。当時まだ回教寺院の様式が確立していなかったのもあって北アフリカにあったモスクをモデルにしたであろう。(現在の回教5様式に属さないそれ以前のモスク)

ローマの遺跡から持って来た円柱をメリダのローマの遺跡にある水道橋から学んだアーチで木造の天井を支えた。

<コルドバメスキータ内部>

コルドバ、メスキータ

コルドバ郊外にはメディナ・アサーラという夏の離宮。後の火災と略奪で見る影もないが10世紀の宮殿は金銀で噴かれた屋根、中央に大きな真珠、床には水銀のため池、8本のアーチには黒檀、象牙、宝石が埋め込まれていて日差しが入るとキラキラと輝いたという。

セビージャのアルモラビッドとアルモハッド

コルドバのウマイヤ朝の没落の頃北アフリカから2族が呼ばれアルモラビッド(サハラ砂漠の遊牧民)とアルモハッド(アトラスの山岳族)がセビージャで回教文化を開花させる。

セビージャのカテドラルの鐘塔ヒラルダの塔オレンジのパティオの一部、アルカサールのパティオ・デ・ジェソ、黄金の塔、アルメリアのカテドラルの石膏装飾、サラゴサのアルハフェリア宮殿等建築物が残る。

<セビージャのヒラルダの塔>

ヒラルダ

グラナダの回教王国 アルハンブラ宮殿

グラナダはコルドバ、セビージャ陥落の後スペインの唯一残ったイスラム王国。現在のマラガ、グラナダ、アルメリア県を合わせた約3万平方キロメートルの王国。もともとはキリスト教徒から守るために作られた見張りの城塞だった。赤い丘と呼ばれたグラナダを見下ろす丘陵地に9世紀にたてられた城塞を初代グラナダ回教王国王モハメッド1世が24の塔を城壁で結びそれ以降城塞から宮殿的なものに変わって行った。スペインに残るイスラム建築の最高峰。

外観の無装飾と比べ内部の繊細な装飾、増築していくことにより内部の平面構造は複雑になる。ユスフ1世のアラヤネスの中庭やモハメッド5世のライオンの中庭等が最も重要。レコンキスタが激しくなりキリスト教国から逃れてきたコルドバの建築家や芸術家たちの手腕による。

<ライオンの中庭>

ライオンの中庭

ふんだんな水と植物や花の色と香り、光を取入れアラベスク模様によるコーランの一説等等筆舌を越えたという言葉がこれほどふさわしい建造物は見たことが無い。水と香と色と光とそこに残る儚い美しさ、ゆらゆらと揺れる陰に平家物語の様な哀しさを感じる。

ムデハール建築

キリスト教社会に存続したイスラム教徒をムデハールと呼ぶ。半島のレコンキスタが進みキリスト教社会の中で安価な労働力としてまたスペインの王の東洋趣味などもあって頻繁にイスラム様式が使われる。レンガや石膏を使い馬蹄形アーチやモザイク、アラベスク模様を使った建築が教会にも使われ興味深い。キリスト教の教会がアラビア様式で創られ今現在もミサが行われている。多く使われた理由の一つは中世のスペインの道路事情が悪く良い石材を運ぶのは大変な労働。(ローマの街道は分断されていた)そして身近にいるイスラム教徒(安く使えた)に彼らの得意なレンガの細工を任せた。かかわっていた人達は美しいものであれば良く何様式なんて気にしていなかったと思う。後世の人達が様式に名前を付けたのだから。

<サアグンのサンティルソ教会>

サグアン、サンティルソ

サン・ファン・デ・ドゥエロの回廊、サアグンのサンロレンツォやサンティルソ。トレドのサントトメ教会やサンロマン等数えきれないくらいのムデハール建築がある。現代の私たちからは不思議な感じですがきっと気にしていなかったのだと思います。「神の家を美しく作ることが出来ればアラビア様式でも問題なし。」だったと。

ロマネスク建築

ヨーロッパ中世の建築様式で1000年ころから1200年ころまで流行した構造・丸いアーチの建築。ローマ人が好んで水道橋などに使った丸いアーチ(ローマンアーチ)を使っているのでローマ風>>ロマネスク様式、またはロマネスク建築。壁がふんだんにあるので壁画がふんだんに描かれた。

カタルーニャ

早くにイスラムを追い出してフランク王国から独立していたカタルーニャには現存する最も古い957年の教会堂がある。サン・エステバン・デ・バニョーラス(ジローナ)とサンタ・セシリアデ・モンセラ。又ピレネーの山中のタウルには12世紀回教徒の手から逃れた僧たちの一団が作った教会群がありすばらし壁画が残る。(壁画はバルセロナのカタルーニャ美術館に移築)

<タウルのサンクレメント教会>

ボイタウル サンクレメンテ

サンティアゴの道

サンティアゴの巡礼が盛んだったころとロマネスク建築が重なるのは偶然ではなく道と巡礼と一緒に伝わって行った。サンティアゴデコンポステーラに現在の大聖堂が創られ始めたのは1071年。当時の建築家や画家、彫刻家はインターナショナルに移動しながら注文を受けていた。サンティアゴの大聖堂を作るのにフランス人のロベールという腕利きの建築家が弟子を50人も連れてやってきた。当時フランスですでに始まっていたロマネスク様式をスペインに伝えながら旅をした。良く写真で紹介される現在のサンティアゴの教会堂の正面はバロック期の大きな物ですが内部や後陣部分はロマネスク建築。

<サンティアゴの大聖堂・栄光の門ロマネスク彫刻>

栄光の門

 

ゴシック建築

フランスで始まった建築様式。それまでのロマネスクでは天井の高さに限界があるのでもっと高くするためにリブボールトを入れて高い天井を手に入れる。それまでの壁構造から柱構造にすることで背を高く。先のとんがったアーチや大きな窓そこにステンドグラスを入れて外からの太陽の光を取り入れた。

<ブルゴス大聖堂>

ブルゴス大聖堂

 

フランスゴシック

ブルゴスのマウリシオ大司教がフランスからドイツを旅した時にゴシック様式に魅せられブルゴスに戻った後そこにあったロマネスク様式の教会をすごい情熱でゴシックに変えていった。レオンの大聖堂もおそらく同じ建築家による。

<レオンの大聖堂のステンドグラス>

カタルーニャゴシック

カタルーニャでは別系統で13世紀後半から14世紀にカタルーニャゴシック建築が発達。フランスゴシックのフライングバットレス(壁を外から支える為の石で作った部分)を内部に収めた独特の形。内部空間が広い。

<バルセロナ・海の聖母教会内部>

海の聖母教会

ルネッサンス

スペインにルネッサンスは無いという説も強くありますが時代的な要素や特徴はあるので一応ルネッサンスにいれました。大航海時代によりアメリカ大陸を手に入れた頃のスペインでイサベル女王の新大陸への興味とフェルナンド王のイタリア地中海地域への影響力が混じった形。

プラテレスコ様式

金銀細工に施す細かい細工を建築に石で掘って行く。サラマンカ大学の正面やアルカラ・デ・エナレスの建築家ロドリーゴヒルデオンタニョンによるスペインのルネッサンス代表作。

<サラマンカ大学>

サラマンカ大学

アルハンブラ宮殿のカルロス5世宮殿

1492年のグラナダの陥落のあとカトリック両王でさえも美しさに感嘆し壊されないように勅令を出したそうだがその孫カルロス5世はアルハンブラ宮殿の中に自分用の宮殿を創ることに。建築家はペドロ・マチューカ。ミケランジェロの弟子としてローマで学んだらしいがあまりよく分かっていない建築家。円形のパティオ均衡と調和はまさにイタリアルネッサンスの特徴。

<アルハンブラ宮殿カルロス5世宮内部>

アルハンブラ宮殿カルロス5宮

エルエスコリアル修道院とエレーラ様式

カルロス5世の息子フェリペ2世の時代スペインは日の沈む事無き大帝国になる。その大帝国の国王フェリペ2世は華美を嫌う地味で真面目で慎重な国王。

当時の王室建築家コバルビアスの建築に不満なフェリペ2世はナポリからファン・バウティスタ・デ・トレドを呼び寄せる。サンピエトロ寺院の建築にミケランジェロの傍らで働いていたらしいファン・バウティスタに巨大な建築物を依頼する。これがエル・エスコリアル修道院。ところがファンバウティスタが建設開始4年後に没してしまいその弟子ファン・デ・エレーラがその後を引き継ぐ。彼は建築家ではなく哲学者(すごい抜擢)だったがフェリペ2世の希望通りの装飾性を排除し単純な形態、質素なイメージの中に統一性のある非常にエレガントな修道院が作られた。

<エルエスコリアル修道院>

エルエスコリアル

バロック建築

スペインのバロックはチュリゲラ一族によって始まるのでチュリゲラ様式ともいう。装飾過剰なバロックは大航海時代の金銀と重なり絢爛豪華な悪趣味のやりすぎ装飾になって行く。でもなぜかスペイン人の得意とする様式でもある。サラマンカの大聖堂、マヨール広場やトレド大聖堂のナルシソトメのトランスパレンテ等。

<サラマンカ・マヨール広場>

サラマンカ マヨール広場

 

ネオクラシック建築

ローマ時代のクラッシックな建築をネオ新しく作った時代で神殿調の柱等を使ったすっきりした建築。マドリードのプラド美術館や現農業省等。

<マドリード・プラド美術館>

プラド美術館」

モデルニズム建築

ヨーロッパ世紀末芸術、フランスのアールヌーボー、イギリスのモーダンスタイル、ドイツのユーゲントシュティル、オーストリアのセセッションの時代。それまでの既成の芸術から自由奔放に作品を作り始めた頃カタルーニャは産業が産業が発展し建築が創られる。当時のカタルーニャのお金持ちが自由に別荘やマンションを建築家に頼んだので主に建築が盛ん。ガウディ―が有名だが当時はドメニクムンタネールの方が評価されていた。

<カサ・バトリョ、ガウディ作>

バトリョ邸

近代建築

現在国内外の建築家により近代建築が多く作られている。スペイン人ではサンティアゴ・カラトラーバやラファエル・モネオ、カナダ人フランクオーゲイリー(グッゲンハイム美術館)、フランス人のジャンヌーベル(ソフィア王妃芸術センター増築部分)等これはこれで又一つの記事として扱いたいくらい厚い層のあるテーマです。

<ビルバオ・グッゲンハイム美術館>

ビルバオグッゲンハイム

 

*スペインの歴史を5分で読めます

 スペインの歴史ダイジェスト版

まとめ

長い歴史の中で人間が残してきた建築を見るのが好きなので移り変わりをまとめてみました。石の文化で乾燥した空気等の好条件のもと(地震や台風が無いのも)ヨーロッパには本物の古い建築が残っていて肌感覚でこれらを楽しめるのはうらやましい限りです。素敵な建築の中にいるだけでブルッと嬉しい鳥肌になります。