スペインの歴史ダイジェスト版

セゴビアの水道橋

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スペインの歴史をざっくり5分で読めるようにまとめてあるダイジェスト版です。いつ頃人類がスペインにたどり着いたかはまだ不明な点が多いが180万年から150万年前と考えられている。180万年前から始めているのでゆっくり読んだら5分は無理かも〜です。

スペインの歴史ダイジェスト版


イベリア半島にやってきた最初の人類

イベリア半島に最初に人類が到着したのがいつなのかは不明な点が多いが180万年前から150万年前という。あまりにも遠いのでこの辺は省略。

イベリア半島で発見された最古の人骨はアタプエルカ(ブルゴス近郊、世界遺産)にある。19世期の鉄道のトンネル工事の時に発見され1984年の発掘調査では150体の人骨が見つかっている。ヨーロッパに最初に到着した人類の遺構で40万年から20万年前のものだという。

スペイン北部アルタミラ洞窟に2万年前の壁画

時計をうんと進めていこう!後期旧石器時代にホモ・サピエンスの仲間クロマニヨン人がイベリア半島に移住してきた。

約2万年前の洞窟壁画アルタミラはこの時代のもの。

1875年アマチュア考古学者が娘と草原を歩いていると娘が洞窟の中へ入って行って壁画を発見。牛や鹿の後期石器時代マドレーヌ文化のもので生き生きとした動物たちが描かれていた。そのあとフランス・スペイン国境あたりでラスコーなど数々の壁画の発見に繋がる。

<カンタブリア アルタミラの洞窟>

2万年も前の人類がとても生き生きと動物を天井に描いていて振り返ったビソンテや馬など、アルタミラ洞窟は現在傷みが激しく見学できるのは横にある複製。併設する博物館は一見の価値ありです。マドリードの考古学博物館にも洞窟の一部の複製があり見学できる。

何故造った?大きな巨石文化

紀元前2000年ころ、イベリア半島にも巨石文化時代があった。いまだにどういう民族が残したか不明でエーゲ海のクレタ島や地中海のマルタ島などの関連があるかもと言われている。主にアルメリアなどの地中海とバレアレス諸島に集中。

巨石文化はイベリア半島からヨーロッパに広がりフランスのカルナックやイギリスのストーンヘンジ等へ伝わって行ったらしい。しかし巨大な石を屋根にかけたり壁に置いたり、運んでくるのさえ大変だったに違いない。

 

アンテケーラのドルメンの中に入った時にちょっと意識が吹っ飛んだ?感じになった、ここには何かがある、かもね。

<アンテケーラのドルメン>

フェニキア人

フェニキアは現在のレバノンにあった海洋国家。地中海を船で渡って交易をしてスペインの南西の端に紀元前1100年頃今のカディスを建設した。フェニキア人が岩塩や錫を求めてやって来た頃カディスはもとは小さな島だったが土砂の堆積でイベリア半島に繋がった。

それにしても木造船で何千キロもよく移動したなあと感心する。

タルテッソス

南スペインのセビージャ近郊で1958年に建築作業員が偶然発見した金の装飾品郡は「カランボロの財宝」と呼ばれる。紀元前1000年ころ南西部グアダルキビール河のほとりに誕生した国でいまだに謎が多い。旧約聖書に出てくるタルシュスだと言われているが彼らは突然姿を消している。伝説のアトランティスではないかという説も。

 

スペインにもバグパイプ、ケルト人の足跡

紀元前900年ころからインドヨーロッパ語族がピレネー山脈を越えて入って来る。先住民族イベロ族と混血を繰り返し今のスペイン人のルーツとみなされるケルト・イベロ族が形成される。

<ケルトの遺跡  ガリシア・サンタ・テクラ>

ガリシアに行くとケルトの特徴の渦巻模様や石の円形の建築物、バグパイプがある。サンチアゴ・デ・コンポステーラに行くと大聖堂の横でバグパイプの演奏をしていることがある。

ギリシャ人

フェニキアから幾分か遅れてスペインにやってきたのがギリシャ人。彫像や芸術をスペインにもたらした。土着のものと融合してグレコ・イベリアと言われる美しい様式が生まれた。アリカンテの近くで出土したエルチェの婦人像がその代表.。

<エルチェの婦人像 マドリッド国立考古学博物館>

カルタゴとローマ

フェニキアの植民地カルタゴがスペインに入って来るとギリシャ人を駆使し今のイビサを建設。イビサ島は今はセレブの島で有名だが本来素朴な島でカルタゴの遺跡も少しだが存在する。カルタゴはその後シチリアにまで支配権を拡大しローマと衝突。そして有名なポエニ戦争が始まる。

第1回ポエニ戦争は新興国ローマが勝利。負けた将軍がイベリア半島に移住する。その息子がハンニバル。

第2回ポエニ戦争は28歳のハンニバルが像を連れてピレネー・アルプスを越えてローマへ進軍するがローマの勝利。

そして第3回ポエニ戦争でローマはカルタゴを完璧に破壊、そしてイベリア半島にローマ人が入ってくる。

カルタゴの遺跡は殆ど後のローマに破壊されているがカルタヘナに行くとカルタゴの城壁が残る。

ローマの支配

ローマ人もそう簡単にここを手に入れたわけでは無い。かなりの抵抗もあり200年の歳月をかけて制圧しイベリア半島はローマ化した。アウグストゥス帝の時代から5賢帝の時代に多くの寺院や水道橋、劇場などが作られる。オリーブやマグロの塩漬け、小麦、ワイン、金や銀がイベリア半島からローマに輸出される。 。

<メリダの劇場>

キリスト教の伝来とビシゴート

やっとこさ紀元後になった。がここからまだ2000年残っている。

紀元後1世紀中頃スペインにキリスト教が伝来。最初は殉教者を多く出すが次第に深く根差していく。ローマ帝国が分裂し末期状態になった頃ゲルマン民族の大移動、スペインにはビシゴート族がやって来てビシゴート王国が始まった。その首都がトレド(世界遺産)だ。

<トレド>

ビシゴートは先住民のイスパノ・ローマと融合しカトリックに改宗。しかし内紛が多く血なまぐさい事件が続き政治は不安定、民衆の不満に乗じて南からイスラム教徒がやって来る。

イスラムの侵入

スペインの歴史がほかのヨーロッパと違うのがここからのイスラム支配。

711年イベリア半島を虎視眈々と狙っていたアラブ系ベルベル人を主力とするイスラム教徒(サラセン帝国・首都シリア)がジブラルタル海峡を渡って半島に侵入。

遂にビシゴート王国の崩壊。イスラム教徒は寛大な政策を取りキリスト教徒と共存したのが半島征服をたやすくした。イスラム教徒は半島南部を支配。その地域はシリアのウマイヤ朝支配下のアル・アンダルスと呼ばれる。キリスト教徒として人頭税などを払う人をモサラベ、イスラム教徒に改宗した人をムラディと呼ぶ。

後期ウマイヤ朝

シリアで続いていたウマイヤ朝、ところが革命が起こりウマイヤ朝が倒されアッバース朝に交替した。カリフの座を追われたウマイヤ家の血を引く王子がはるばるスペインまでやって来る。そしてコルドバを首都に後期ウマイヤ朝が始まった。

「シリアから正当の王子がやって来てスペインでイスラム王朝が始まった」というわけだ。

その時に作られた回教寺院がコルドバのメスキータという世界遺産。後に929年アブ・ドラーマン3世は自らをカリフ(王)としアル・アンダルスをウマイヤ朝カリフ王国とする。コルドバは栄華を極め数学、医学、天文学、化学などの中心となる。

<コルドバのメスキータ内部>

wikipedia cc.3.0
Author Steven J. Dunlop, Nerstrand, MN
Permission
(Reusing this file) released under GFDL; all other rights reserved.

 

レコンキスタと聖ヤコブの遺体の発見

イスラム化しなかった北スペインの山岳地帯でビシゴートの貴族の末裔ペラーヨは722年コバドンガの戦いで初めてイスラム教徒を撃破。

<コバドンガ  サンタ・クエバ>

レコンキスタの始まりだ。

キリスト教徒は北部スペインにアストゥリアス王国を作りイスラム社会からの避難民やフランスからの貴族戦士たちを受け入れ戦って土地を奪い返していく。

フランスではカール大帝が戴冠しレコンキスタを始めていた頃、偶然聖ヤコブの遺骸が発見されている。政治と宗教が絡んで民衆を煽っていったと読むのが妥当だろう。

<聖ヤコブ像>

 

白い馬に跨った聖ヤコブがイスラム教徒と戦ってくれる奇跡が起こる。「神はそれを望んでおられる」というスローガンのもとレコンキスタが進んでいく。1234年コルドバ陥落、1248年セビージャ陥落。この頃ヨーロッパは十字軍思想に燃えていた。

<聖ヤコブ蔵>

スペインの統一とグラナダの陥落

キリスト教徒がレコンキスタを進めながら少しずつ国がまとまって行きカスティーリアの王女イサベルとアラゴン・カタルーニャの王子フェルナンドの結婚。これでほぼ今のスペインのキリスト教世界の統一が完了した。

レコンキスタが進みイスラムの最後の砦はグラナダ王国のみ。実は最後の方のグラナダ王国はカスティーリア王国に高額の税金を払う立場での存続だった。そんな不安定な時代、アルハンブラ宮殿(グラナダ、世界遺産)で千一夜物語が繰り広げられていたわけだ。この王朝は22代254年間続く。

<アルハンブラ宮殿ライオンの中庭>

イサベル女王率いるキリスト教徒軍は1481年グラナダ攻撃をはじめた。約10年間の戦いの間に裏切りや寝返りが続き、1492年にグラナダ陥落。

その同じ年にコロンブスがイサベル女王の援助のもと西回り航海へ。大航海時代の幕開けとなる。さらに、同じ年にスペイン人ローマ法王が即位する。有名な、悪名高いアレッサンドロ6世、ボルジア家のローマ法王だ。

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イサベル女王の後

イサベル女王の5人の子供たちは成長すると政略結婚の駒となるが、次々不運に見舞われていく。

長男ホワンは結婚式の途中で亡くなり、長女イサベルはポルトガル王に嫁ぐが産褥死。その息子も死去。次女ホワナはブルゴーニュ公フィリップ美公と結婚し王位継承者となるがフリップ美公突然の死のあと発狂(狂女ファナ)。唯一幸せな結婚をしたのは三女マリア、姉の死後ポルトガル王に嫁ぎ十人の子女を得、その長女イサベルは後にカルロス5世妃となる。

一番下のカタリーナは一番かわいそうで、結婚相手はイギリスのヘンリー7世の息子アーサー、が結婚数か月後に死別。その弟ヘンリー8世と再婚するが彼に愛人ができ離婚されロンドン塔に幽閉。その娘がメアリー・チューダー、又の名をブラッディ・メアリー(血のメアリー)だ。愛人アン・ブリンは最後ロンドン塔に幽閉されるがその娘がエリザベス1世女王となる。

話をスペインに戻して、前述の夫の死後発狂したホアナは正統のスペイン王位継承者。6人の子供を産み長男に王位継承権が移動。

カルロス5世

狂女ファナの長男がスペイン王カルロス1世として即位した。遺産相続で母親側からスペイン、アメリカ大陸、南イタリア、父親側からハプスブルグ領土を手に入れる。神聖ローマ帝国の皇帝になりカルロス5世と呼ばれる。ここからスペインの歴史の黄金時代がやってくる。

<カルロス5世 ティチアーノ作>

 

フェリペ2世

カルロス5世の息子がフェリペ2世。さらにポルトガル領土を手に入れスペインの国土は最高になる。日の沈まぬ大帝国と呼ばれたのがこの時代。フランスとの戦いに勝ちエル・エスコリアル宮殿の造営、レパントの海戦でオスマン・トルコに勝利し絶好調の時代だ。

日本から九州のキリシタン大名の遠縁の子供たち「天正遣欧少年使節団」がスペインにやってきたのはフェリペ2世に謁見するためだった。

しかし次第にその勢いに陰りが見え始め、イギリスのエリザベス女王との敵対関係の末無敵艦隊が英国海軍に負ける。真面目で質素で寡黙で「慎重王」とあだ名されている。

<フェリペ2世 ティチアーノ作>

フェリペ3世

フェリペ2世は世継ぎが生まれず妻に先立たれ4度結婚を繰り返している。最後の結婚で生まれた王子がフェリペ3世として即位。

フェリペ3世は日本から伊達藩の使いの侍たち「支倉常長一行」が謁見した国王。  フェリペ3世は政治にあまり興味のない王で「怠惰王」とあだ名されている

<フェリぺ3世ベラスケス作>

フェリペ4世

その次、フェリペ3世の息子がフェリペ4世。世襲制が続きやはりあまり政治に興味がない国王だ。芸術に目がない国王で絵画と演劇と馬術が好きだったらしい。

<フェリペ4世 ベラスケス 作>

フェリペ4世
wikipedia public domain

 

フェリペ4世 は2度結婚する。最初の結婚がフランスのブルボンの王女でイサベル・デ・ブルボン。ふたりの間の娘がフランス国王ルイ14世に嫁いでいる。

*ルイ14世は太陽王と呼ばれたベルサイユ宮殿を作ったフランス国王、その母親も妻もスペインの王女です。

フェリペ4世の王妃が亡くなり、大事な王子も17歳で天に召された。世継ぎが必要と国王の2回目の結婚が決まった。相手は実はフェリペ4世の姪でオーストリア・ハプスブルグの王女マリアーナ、ふたりの間に可愛い長女が生まれた。

長女はマルガリータと名づけられ沢山の肖像画が描かれた。プラド美術館にある有名な作品ベラスケスのラス・メニーナスの中央にいる王女様です。

<ラス・メニーナス ベラスケス 作>

スペイン・ハプスブルグの終焉

そして次に待望の男子誕生、カルロスと名づけられ国王になる。カルロス2世として即位するがスペイン・ハプスブルグ家の血の濃いい結婚のつけが回ってきた。体が弱く子供がないまま他界してしまった。

<カルロス2世 コエーリョ>

スペインは代々「ハプスブルグ家」だったがブルボンとも親戚関係を持っていたこともあり王位継承権を巡ってハプスブルグ対ブルボンの大きな戦争になる。ヨーロッパ列強を巻き込んで12年間の戦争の末ブルボンの勝利。ルイ14世の孫がフェリペ5世として即位しスペイン・ブルボン朝が始まる。

この戦争でスペインはジブラルタルをイギリスに割譲。スペインの最南端ジブラルタルはいまだにイギリス領土です。

スペイン側からパチリ、この先がイギリス

カルロス4世とフェルナンド7世

フェリペ5世の息子カルロス3世は立派な王様だったが次のカルロス4世は人がいいが無能な国王。

下の絵、プラド美術館にあるゴヤの「カルロス4世の家族」の真ん中より少し右にいる人物だ。この時代にフランス革命、そしてナポレオン戦争と混乱が続く。王の息子フェルナンド、下の絵の左から2番目はナポレオンに味方して父王の退位を手伝ったという人物で、ナポレオンののちのスペインで「フェルナンド7世」として即位するがスペインに混乱のみを与える。

<カルロス4世と家族 ゴヤ作>

イサベル2世とアルフォンソ12世

フェルナンド7世には娘しかいなかった。本来ブルボンの王位継承の法律では女性は王になれないので次は弟が王のはず、が法律を変え娘を次の女王にする。イサベル2世として即位。なので、王になるはずだった弟側とのちょっとした戦争になっている。

<イサベル2世>

イサベル2世
wikipedia public domain

イサベル2世の息子がアルフォンソ12世。米西戦争の敗北キューバの独立やプエルトリコの割譲、フィリピンの売却という散々な時代、16世紀の日の沈まぬ国は斜陽の下り坂を突き進む。

<アルフォンソ12世>

アルフォンソ12世
wikipedia public domain

アルフォンソ13世とスペイン内戦

その息子アルフォンソ13世は16歳で即位するも国内の民族問題モロッコの反乱、アナーキストの台頭、国内の内乱はスペインの持病に違いない。大変な混乱そして亡命が待っていた。

<アルフォンソ13世>

スペイン内戦

国王亡命、左右両勢力の対立激化政治家の暗殺事件そして軍事クーデター。スペインは長い内戦に突入。

内戦でヘミングウィーやジョージオーウェル等が国際旅団でスペインにやって来る。多くの知識人階層が外国に亡命。

芸術家たちもフランスに亡命する。ピカソやミロなどがパリ万博に作品を展示し戦争の悲劇を人々に訴える。 バスク地方のゲルニカの爆撃 はこの時に起こった。

この戦争は1939年反乱軍の勝利で終わりスペインはフランコの独裁政権が始まる。戦争の後も多くの共和国主義者が処刑されている。独裁政権下はバスクやカタルーニャは自分たちの言葉を話す事も禁止され抑圧をうける。

冷戦時にアメリカが反共反ロシアでスペインに近づいてきて北太平洋条約機構に加盟。フランコは晩年中道政策を取り始める。

フランコ後

1975年独裁者フランコが死去し前国王ホアン・カルロスが即位。議会を開いて首相を任命し議会制民主主義の国になる。

1992年バルセロナ・オリンピックとセビリア万博が行われ世界に近代スペインを表明。同じ年にオリンピックと世界万博が同時に行われたのは史上初めてだったそうです。

現代のスペイン

国民一人当たりのGDPは日本とほぼ同じ。平均寿命日本とほぼ同じ。食物自給率120パーセント。官民連携事業の受注世界一。世界の交通事業の40パーセントを請け負う。

コロナ禍で大きな痛手を受けましたがポストコロナに向けて動き始めました。

 

まとめ

長いスペインの歴史をざっくり読めるようにまとめてみました。5分はちょっと無理でしたか?スペインは複雑、様々な民族が通り過ぎ何かを置いていった。それらの残していったもの全てが今のスペインの魅力です。旅をするのに少しだけ歴史を知っていると見るもの訪れるところの価値もグッと上がって行きます。

 

投稿者: 大森由美

スペインに1989年から住んで日本からのお客様と旅に行ったり美術館を巡ったりしています。お休みの日は夫とキャンピングカーで放浪、スペインに長年住んでもスペインが大好きで日本から来たお客様にもスペイン大好きになってもらうために働いています。趣味はバイオリンとスキーとワイン。

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