支倉常長率いる慶長使節団とサン・ファン・バウティスタ号出港まで。日本とスペインの交流の歴史

 

慶長遣欧使節団。代表は支倉常長(はせくらつねなが)43歳、仙台藩士。江戸時代に伊達政宗の遣いの侍達がメキシコ経由でスペインとローマに旅をした。キリスト教禁止令が出ている時代おそらく江戸幕府との密約があったのではと想像されている。日本政府からの公式の使節としては最初の使節団で2013年には400年祭を記念して両国間で様々なイベントが行われた。日本が作ったガレオン船サン・ファン・バウティスタ号で月の浦港を出港し太平洋を航海してメキシコまで行きスペインの船に乗り換えて大西洋を渡り本国スペインへ上陸。地中海を渡りローマではローマ法王に謁見して日本に戻った7年に渡る侍の旅の物語。非常に長くなるのでここではサン・ファン・バウティスタ号の出港までを書いています。

時代背景


当時のヨーロッパ

スペインとポルトガルが大航海時代を先行しており世界を2分して争っていた。スペインはフィリピンを植民地にし1年から2年をかけて太平洋を渡りフィリピンのマニラとヌエバ・エスパーニャと呼ばれたメキシコのアカプルコを大型船マニラ・ガレオンで西回りの香辛料貿易を行っていた。西回りの航路はマゼランによって既に1521年に発見されている。ポルトガルは喜望峰を通りインド航路からマカオへ行く東回りの香辛料貿易を行っておりどちらも既に日本にやって来ていた。

下地図は白線がスペインのマニラ・ガレオンの航路、青線がポルトガルの航路。

マニラガレオン航路
By World_Topography.jpg: NASA/JPL/NIMAderivative work: Uxbona (talk) – World_Topography.jpg, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10344087

時代はプロテスタント(新教)諸国が登場しカトリック国スペインを苦しめていた。海上の支配権をめぐりスペインポルトガルが揉めていたが、スペインのフェリペ2世がポルトガル王位を手に入れ制海権を支配する中、今度は新興国が参加し始める。イギリスとオランダは対スペインで結束をはじめスペインのフェリペ2世はイギリス女王エリザベス1世との結婚を画策するが失敗。カトリック国のフランスも対スペインで動く。ネーデルランドがスペインに対し独立戦争を開始すると後ろからイギリスはそれを支援した。そこでフェリペ2世は大艦隊をイギリスに向けドーバー海峡で両国の激突したアルマダの海戦(1588年)はスペインの敗北で終わる。

<アルマダの海戦>

アルマダの戦い
wikipedia public domain

フェリペ2世没後即位したフェリペ3世は政治に関心が薄い王で日の沈む事無き大帝国スペインの斜陽の時代が始まる。フェリペ2世1598年没、同年大阪城では豊臣秀吉が亡くなっている。

リーフデ号とウイリアム・アダムス

対スペインで動くイギリスのエリザベス女王がアジア圏の貿易に目を付けていた頃だった。イギリス人ウイリアム・アダムスは子供の頃船大工に弟子入りするが造船より航海術に興味を持ち海軍に入る。フランシス・ドレークの指揮下アルマダの海戦に参加している。その後も航海の仕事でオランダ人船員たちと交流を深めロッテルダムから極東を目指す航海に弟と参加した。5隻で出港するが嵐やスペイン船の攻撃や赤痢や原住民で散々な目に合い唯一残ったリーフデ号は日本の大分の島に漂着した(1600年4月29日大分県豊後臼杵の黒島)。

<リーフデ号>

リーフデ号
パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=298229

日本は大量に積んでいた武器や弾薬、火縄銃を没収、イエズス会の宣教師たちはオランダ人とイギリス人を海賊と忠言し即刻処刑するように要請したが家康はこれを無視。ウイリアム・アダムスとヤン・ヨーステンは徳川家康に気に入られ後に江戸に招かれる。その約半年後の関ケ原の合戦で家康が勝利を得たのは小早川秀秋の寝返りだけでなくリーフデ号から没収した大量の武器弾薬を使えたことが有利に働いた。ウイリアム・アダムスはその後三浦按針(みうら あんじん)と名乗り家康に仕え幾何学や数学、造船や航海術等の知識を授けた。

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スペイン船の漂着

1609年マニラからアカプルコに向かうマニラ・ガレオンが台風で千葉の海岸に打ち上げられ、乗船していたドン・ロドリーゴ一行は地元住民に助けられた。場所は九十九里浜の中ほどにある御宿(おんじゅく)。ドン・ロドリーゴはスペインの貴族でフィリピンの臨時総督在任中にマニラで日本人暴動が起こった際に徳川家康に書簡を送った周知の人物だった。次期総督との交代の為マニラからアカプルコへ向かう船旅で難破するが地元民に助けられ大名・本田忠元(ほんだ ただもと)の歓待を受け江戸城で家康に会見している。ウイリアム・アダムス(三浦按針)が建造したガレオン船サン・ブエナ・ベントゥーラの提供を受けアカプルコへ帰還して行った。約1年間の日本滞在時の事をドン・ロドリーゴ日本見聞録として執筆している。

 

家康の目的

この時家康は幕府の船を提供しているがその見返りに銀の精錬技術を持った技師の派遣を申し入れている。返答は精錬した銀の大半をスペインが手に入れるというもので話の折り合いがつかなかった。

*メキシコの精錬技術:銀は鉱石のなかで金と一緒になっており日本ではこの分離に苦労していた。メキシコでは化学反応を利用し水銀を混ぜるアルガマム法(パティオ法)を利用していた。

*スペイン国王フェリペ3世がその礼にとビスカイーノに届けさせた一台の置時計は今も静岡市久能山東照宮に保管されている。

セバスティアン・ビスカイーノ
ビスカイーノ肖像
パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=374036

上記ドン・ロドリーゴの救済の礼を述べる為ーという名目で日本にやって来たのがセバスティアン・ビスカイーノだった。セバスティアン・ビスカイーノはスペインの探検家でマニラ・ガレオンの貿易商人だが今回は大使の役割。徳川家康はメキシコの鉱山技術に興味がありその要請に沿ったものだったがスペイン側はキリスト教の布教が前提で最終合意は至らなかった。ビスカイーノは後に支倉と共にサン・ファン・バウティスタ号でヌエバ・エスパーニャに戻る。ビスカイーノが日本に来た本当の目的は日本の近郊にあると信じられていた金銀島の探索だった。1611年にサン・フランシスコ号で神奈川県の浦賀に到着し徳川秀忠と家康に謁見し沿岸部の測量の許可を得て仙台に向かい仙台城で伊達政宗に会う。この時通訳をしたのがスペイン人修道士ルイス・ソテロだった。測量中に三陸大地震に遭遇しているが船の上だったので無事だった強運の持ち主。金銀島は見つからずヌエバ・エスパーニャへ戻る途中暴風雨に逢い船は破損し日本に滞在し帰国のチャンスを狙っていた。

 

ルイス・ソテロ

セビージャ出身のルイス・ソテロはフランシスコ会の修道士。支倉と共に後にスペインとローマ迄旅をするキーパーソン。サラマンカ大学で学びフランシスコ会修道会に入りヌエバ・エスパーニャ(現メキシコ)からマニラに渡りそこで日本人キリスト教徒の指導をしながら日本語を学んだ。1603年にフィリピン総督の書簡を携えて徳川家康に謁見。上記座礁船のドン・ロドリーゴとの通訳も務めた。伊達政宗との出会いは政宗の側室の病気を治療した事による。

伊達政宗


伊達政宗1567年~1636年

生まれは山形県米沢市。戦国大名で伊達家の17代党首、仙台藩の初代藩主。4歳の時に天然痘で右目を失明。秀吉が天下統一に向かうと秀吉の配下に入り朝鮮出兵にも従軍。関ケ原の戦いでは徳川家康側についた。1601年に仙台城を築城し初代仙台藩主として君臨。朝鮮出兵時の伊達藩のいで立ちが奇抜で「伊達な、伊達者」という言葉になったという。政宗は南蛮文化に興味を持っていたようでサテンやビードロ、合羽や象牙を所有していた。デザインが南蛮風の陣羽織が複数現存する。

伊達政宗像
筆者撮影
慶長大地震

1611年12月に大地震が東北地方を襲ったことが分かっている。2011年東北大震災規模の地震で大きな津波がおこり仙台藩の沿岸部は大きく被害を受けた。政宗公は仙台の復興の一環としてマニラからメキシコのルートに仙台を挟み貿易港として栄えるという計画を考えた。

もともと日本と外国の貿易はポルトガルの貿易商人のルートでインドのゴアからマカオを経由し西日本の大名を中心に行われていた。ところがスペイン人修道士アンドレス・デ・ウルダネータがメキシコからフィリピンまで大西洋を横断する航路を発見した(1565年)。

<アンドレス・ウルダネータ>

アンドレス・ウルダネータ
パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1185086

ウルダネータはバスク人探検家。後にアウグスティーノ会の修道士になりフィリピンからアカプルコにいたる航路を開拓。この航路は「ウルダネータ航路」と呼ばれこれによりスペインのマニラ・ガレオン貿易が発達する。伊達政宗はこのメキシコ・マニラ間に仙台を組み込む貿易の計画を立てていた。

造船と銀の精錬方法

伊達政宗の狙いのひとつは海洋先進国のスペインからガレオン船の建造方法や船の操作方法を手に入れたかった。幕府は既にウイリアム・アダムスの協力により外洋船を創っており伊達藩も造船技術を手に入れたかった。又家康も興味を示した銀の精錬方法をメキシコから直接手に入れたかった。ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)で行われている化学変化を用いる銀の精錬法アルガマ法を学んで来るという目的が有った。

討幕説

スペインやメキシコ、ローマのキリスト教徒と組んで伊達政宗は幕府を倒そうとしていたかも、という説があるらしい。もしもここでスペインと政宗が江戸幕府を倒していたら日本の歴史は随分違ったものだったと、想像するのも悪くはない。

江戸幕府のキリスト教対策


伴天連追放令
徳川家康
By 大阪城天守閣, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9558314

遣欧使節が出発する前年1612年に江戸幕府は直轄地でのキリスト教の禁止を命じ、さらに翌年1613年にはそれを全国に広げ伴天連追放令を出している。慶長使節団が出発する半年前の事だ。この時にソテロは信者の元に救援に行き自分も火あぶりの刑に処せられることになった。足元に木がくべられた時に伊達政宗の嘆願の書簡が届き助かっている。この禁教令で高山右近らは国外追放されるが取り締まりが本格的に厳しくなるのは家康亡き後の1619年の禁教令からとなる。

サン・セバスティアン号

江戸幕府はキリスト教は禁止するが海外との交易には興味を持っておりビスカイーノの提案によりメキシコとの通商の交渉の準備を進めていた。家康はリーフデ号をモデルにウイリアム・アダムスに命じ船を建造。サン・セバスティアン号と命名し出発の準備をしていた。約100トンのサン・セバスティアン号はルイス・ソテロを船長に1612年浦賀を出発するが暴風雨と積荷が重すぎて船は沈没している。

この頃から家康はオランダとの関係を優先しはじめスペイン人ビスカイーノの立場は微妙なものになって行った。またビスカイーノの本来の目的「金銀島を探し出す」が家康の耳に入り次第にスペインに腹を立て冷淡になっている。オランダは貿易のみを求めておりスペイン・ポルトガルはキリスト教の布教も強く求めてくる。オランダ、イギリスはスペインの悪口を吹聴し次第に幕府の交易と興味はオランダへ傾いていく。

支倉常長(はせくら・つねなが)1571年~1622年?

支倉常長は600石の知行を持ち伊達政宗に仕えた伊達藩士。秀吉の朝鮮出兵も同行している。航海と外国での経験と共に万が一不成功に終わった場合を考慮しての人選だった。

サン・ファン・バウティスタ号の建造
サン・ファン・バウティスタ号
筆者撮影

立場が悪くなりメキシコへも帰れないビスカイーノに政宗は新しい話を持ち出し手を組んだ。ここにサン・ファン・バウティスタ号の建造とメキシコ行きの準備が整った。当時の日本には太平洋を渡れる船を作る技術は無くビスカイーノの知識と技術を手に入れ海外との貿易を目指したかったのが伊達政宗だった。

船の建造は仙台石巻の牡鹿半島にある月の浦港(つきのうらこう)。一年半の歳月をかけて大工や鍛冶屋や荷役がかかわった震災復興大事業となった。*船の建造地としては雄勝町(おがつちょう)呉壺(くれつぼ)説もある。

ビスカイーノは早く日本を発ちたいが簡単に船の先端技術を教える気は無くわざとマストを少し短くし帆を大きく扱いにくく創らせている。

サンファンバウティスタ号の出港


サンファンバウティスタ号
筆者撮影

船の大きさは約500トン。

全長55.35m

最大幅11.25m

吃水約3.8m

メインマストの高さ32.43m

これだけの船を45日間で完成させている。

180人の乗組員の中には幕府の役人、仙台藩士、商人達等日本人140人とスペイン人航海士など40人がいた。海賊に遭遇した時の為大砲24砲を備えた武装商船だった。

1613年(慶長18年)10月28日満月の日、政宗公からスペイン王やローマ法王に充てた書状を持った支倉常長、ルイス・ソテロ、セバスティアン・ビスカイーノを乗せたサン・ファン・バウティスタ号は満月の夜出港していった。

続く