プラド美術館を訪れる人の為のエル・グレコを楽しむ解説書を作ってみました。エル・グレコはスペイン三大巨匠のひとり、プラド美術館で絶対に外せない画家の一人です。
エル・グレコをプラド美術館で堪能
<エル・グレコの生涯>
エル・グレコ、ギリシャで生まれてベネチアへ
エル・グレコ は生まれが今のギリシャのクレタ島。若い時にベネチアで修行をし、ティチアーノの工房かその周辺で絵を描いていた。
ベネチア絵画の影響→ベネチアは人工的な石の街で色彩がない、自然の鮮やかな色に憧れ綺麗な原色を使った。
*大事なポイント*
エル・グレコの四原色はベネチア絵画の影響。
<エル・グレコの旅>
エル・グレコ、ローマへ
ベネチア共和国の繁栄に陰りが見え始めエル・グレコは知人の紹介でローマに移動。
当時サン・ピエトロ寺院の改築が進みミケランジェロ やラファエルは既に天国の住人だったが素晴らしい作品を見て感銘を受けた。
エル・グレコ、スペインへ、そして挫折
エル・グレコは知人を頼ってスペインに移動。
*大事なポイント*
当時のスペインは日の沈まぬ大帝国だった。
スペイン国王フェリペ2世がエル・エスコリアル修道院の建設を始めており多くのアーティスト達がスペインにやって来ていた。
エル・グレコも仕事と名声を求めスペインにやってきた一人だった。
<フェリペ2世スペイン国王>
エル・グレコの挫折↓↓↓
が、フェリペ2世からの注文を受けて描いた作品は王の気に召されず、その後二度と注文はなかった。
*エル・エスコリアル修道院とは
マドリードから約40キロ北西にある巨大な修道院兼宮殿であり歴代の王墓でもある建物。マドリードから路線バスか鉄道で日帰りも可能。
フェリペ2世から注文を受けたが気に入られずに「ボツ」になった「聖マウリシオの殉教」も見学可能。
<エル・エスコリアル修道院>
挫折のエル・グレコ、35歳でトレドへ
*大事なポイント*
当時、絵を購入してくれるのは国王か教会しかいなかった。
トレドは重要な都市でスペイン・カトリックの中心だった。
スペイン国王が絵を買ってくれない、当時は残るは教会しかない→トレドへ移住。
トレドは1561年までスペインの首都だった街、スペインのカトリックの中心は今もトレドだ。
<エル・グレコが移住したトレドの街>
エル・グレコの人生の繁栄期↓↓↓
エル・グレコは次第にトレドで有名になりスペイン貴族や教会、修道院からの注文が絶えなかった。エル・グレコのプラド美術館にある作品のほとんどがこの頃の物。
*トレド
マドリードから70キロ南にある古都で世界遺産。マドリードから路線バスや鉄道で日帰りも可能。
エル・グレコ最晩年は没落
エル・グレコの晩年は病弱で貧しかった↓↓↓
*豪華な生活に憧れ屋敷を手に入れ音楽師を雇い贅沢な暮らしを続けた。
*次第にエル・グレコの作品は時代遅れなものとなり、トレドの経済も衰退期し経済的余裕がなくなっていた。
そして貧しい中エル・グレコは1614年に天に召された。
エル・グレコの葬儀はトレドのサント・ドミンゴ・エル・アンティグオ教会で行われた。
忘れ去られていたエル・グレコ↓↓↓
エル・グレコの再発見
エル・グレコが再び評価されるのは亡くなって200年以上後。
1838年にルーブル美術館に開設されたスペイン絵画館に8点のエル・グレコがあった。それらがフランスの画家たち、特に印象派の画家たちに賛美された。
さらに1902年プラド美術館にて初のエル・グレコ展が行われエル・グレコは再発見された。
<エル・グレコのプラド美術館にある作品>
ではプラド美術館所蔵のエル・グレコの作品の一部を見ていきます。(作品はプラド美術館から貸し出されることがあります)
エル・グレコを見るポイント
①ほとんどが宗教画→本当はスペイン国王に仕えたかったが気に入られず、当時は他に注文主というと教会関係だった。
②四原色→ベネチアで修行したエル・グレコは生涯ベネチア絵画の四原色(赤、青、黄、緑)を使った
③縦に長い伸びた絵→神秘的な絵を求めたエル・グレコは晩年になる程、上昇感がある伸びきったスタイルの絵を描いた
では絵画を見ていきましょう↓↓↓
「聖三位一体」エル・グレコ
<聖三位一体、エル・グレコ、プラド美術館蔵>
聖三位一体は父と子と聖霊は同じ物というカトリックの教義
初期の絵です
この作品はエル・グレコがトレドに到着して一番最初に注文を受けた祭壇画。
<見るポイント>
*初期の作品なので登場する人々の体がガッチリとしている。
*ミケランジェロの影響が見られる
縦に長くない→→→晩年の絵は体が引き伸ばされ長なっていくので比較してみると良い。
<聖三位一体部分、エル・グレコ、プラド美術館蔵>
ミケランジェロの影響↓↓↓
ミケランジェロの「ピエタ」と言う彫刻と形が非常に似ている。
「マニエリスム」は「マンネリ化」の語源
マニエリスム=イタリア語で様式や方法をマニエラという。ミケランジェロ 風に極端に彫刻的に歪めて描く事が流行し、ミケランジェロ の様式=マニエラで描いた。
エル・グレコがローマにいた頃ミケランジェロ は既に天国の住人だがこの彫刻がローマにあり、エル・グレコがこの彫刻から影響を受けていると思われる。
<ピエタ、ミケランジェロ >
ミケランジェロ のこの作品は現在はフィレンツェのドゥウオモ所蔵。
石が硬くて目が既に悪くなっていたミケランジェロ は頭に来て作品を壊そうとハンマーを振り下ろしたのでイエスキリストの足が破壊されている。
エル・グレコのこ聖三位一体はトレドの教会サント・ドミンゴ・エル・アンティグオ教会のために描いた。この教会はエル・グレコに最後の作品も注文してくれた小さな教会で現在もトレドにあります。
二枚の「受胎告知」エル・グレコ
受胎告知は聖書に出てくる場面。神の子を宿した聖母マリアに天使が現れた。
人気のテーマで様々な画家たちが作品に残しているがエル・グレコの受胎告知がプラド美術館に二枚展示されている。
エル・グレコの受胎告知二枚を比較してみましょう
*二枚の同じ画家の同じテーマの絵の比較することで時代によって描き方が変わっているのがよくわかる
こちらは小さな作品↓↓↓
<受胎告知、エル・グレコ1570年、プラド美術館蔵>
<26cm x20cm>の小さな作品で見逃してしまいそうだ。作品が小さいのは工房の雛形か習作と思われる。
左が聖母、祈祷台で聖書を読んでいたところに天使がやってきた場面。
<見るポイント>
*聖母も天使も「ぽっちゃり」していて初期の作品とわかる。
*床のタイルによる遠近法はベネチアのティントレットの影響か。
1570年はまだエル・グレコはベネチアで修行中かローマに移住したばかりの頃、作品にベネチア絵画の影響が見られる。
もう一枚の受胎告知↓↓↓
<受胎告知、エル・グレコ1596〜1600、プラド美術館蔵>
同じ画家エル・グレコのの受胎告知ですが随分と違うのがわかりますか?
<見るポイント>
*絵は上半分と下半分に分かれ、上は神の世界、下は人間が住む地上界。
*左側の聖母マリアが振り返った一瞬の動き、聖書のページもパラパラと動いている。
*上半分には天使たちが楽器を奏でていて絵の中に音楽が聴こえてくるようだ。
*聖母のモデルはエル・グレコの内縁の妻ヘロニマ(エル・グレコの聖母はいつもこの女性)
こちらの受胎告知はマドリードにあったドーニャ・マリア・アラゴン学院内の礼拝堂の為に描かれてた6枚の中の1枚。
写真下は徳島県の大塚国際美術館に再現されているドーニャ・マリア・アラゴン学院の礼拝堂の複製の写真を拝借しました。
6枚の作品が並んだ衝立祭壇で中央に受胎告知が見える。
<ドーニャ・マリア・アラゴン学院の祭壇の複製>
現在は受胎告知と呼ばれているが実は「聖母に神の子が宿った瞬間」と言われている。天使がそれを告げにやってきた場面。
*宗教画の決まり事を楽しもう*
宗教画には沢山の決まり事がある。持っているものや着ている服などが決まっている「聖母マリア」は通常「赤い服にブルーのベール」
これも同じ教会の為の祭壇画です↓↓↓
「キリストの洗礼」エル・グレコ
<キリストの洗礼、エル・グレコプラド美術館蔵>
これも聖書の場面、イエス・キリストに洗礼者ヨハネが洗礼を施す場面。
<見るポイント>
*登場人物の体が縦に極端に細長いのに注目。
*絵は上半分と下半分に分かれ天上界の神の世界と地上界を表している。
同じくドーニャ・マリア・アラゴン学院のために描かれた。前述した受胎告知の右側にあったと思われる。
上昇感や神秘性を強調するためエル・グレコの作品は次第に極端に引き延ばされた体になっていった。
*宗教画の決まり事を楽しもう*
洗礼者ヨハネは多くの場合「裸で腰に毛皮」を巻いて描かれる。
<エル・グレコ、キリストの洗礼部分>
洗礼者ヨハネは「悔い改めよ、天国は近づいた」といって人々に水を使って洗礼を行なっていた。
手に注目『エル・グレコの描く手』↓↓↓
*洗礼者ヨハネの手の形が中指と薬指を付けた独特の形で描かれている。
*エル・グレコは手を丁寧に描いた画家で多くの作品に細くて美しい手を描いた。
<エル・グレコ、キリストの洗礼部分の手>
エル・グレコの他の作品にもこの形の「手」が登場します。
署名・サインに注目『エル・グレコの署名』↓↓↓
*エル・グレコはいくつかの作品の中に署名を残している。
*作品の左下、イエス・キリストの足元の石のところに紙が落ちている、そこにエル・グレコの署名がある。↓↓↓
<エル・グレコ、キリストの洗礼部分の署名>
ここに描かれているのはエル・グレコのギリシャ語の本名ドメニコス・テオトコプロス」
何故?
*長年外国に住んだエル・グレコだがギリシャ人である事に誇りを持ち作品には本名を署名していた。
*エル・グレコというのは彼のニックネームで「あのギリシャ人」という意味。
スペイン人にあのギリシャ人と呼ばれていた「エル=El」はスペイン語の定冠詞、グレコはギリシャ人。
エル・グレコの絵は何故こんなに長い?宗教改革って何だっけ?
エル・グレコの時代は宗教改革の真っ只中。
サン・ピエトロ寺院→宗教改革の発端はローマのサン・ピエトロ寺院の建築だ。イベント好きなローマ法王レオ10世、サン・ピエトロ寺院を有名なアーティスト達を使いお金を散財。次第にローマを飾り立てる資金が足りなくなったので贖宥状(免罪符)を売り出した。
贖宥状→これは天国に行くための切符だ。特にドイツの農民にどんどん贖宥状を売りお金がローマに流れていった。それに対してマルティン・ルターが疑問を投げかけたのが宗教改革の始まり。
スペインは→伝統的にカトリックの国、宗教改革に対抗してカトリックを内部から改革して行こうしていた時代。
神秘性→民衆に神を感じてもらう為上昇感を与え神秘性を持たせようとした。
エル・グレコの肖像画はタッチが違う↓↓↓
「胸に手を置く騎士の肖像」エル・グレコ
<見るポイント>
*肖像画は宗教画と違って丁寧で写実的。
*正面から捉えた肖像画はギリシャのイコンを思わせる。
<エル・グレコ、胸に手を置く騎士の肖像、プラド美術館>
モデルが誰かは今も不明だがエル・グレコの良き理解者のトレドの貴族であろう。袖や襟のレースの繊細さ、正面から見据える眼差しに高貴な感じが見て取れる。
胸に手を置くことで本人の誠意を表現。
手の形がエル・グレコやよく使った形になっている。
↓↓↓エル・グレコがよく使った手の形
エル・グレコ最後の作品↓↓↓
「羊飼い達の礼拝」エル・グレコ
<見るポイント>
*四原色の鮮やかさ。
*光の扱い、最初に視線が赤子キリストに向かう
これはエル・グレコ最晩年の作品でトレドの教会からの注文。
生前のエル・グレコの希望でエル・グレコの葬儀はこの絵の前で行われた。
<羊飼たちの礼拝、エル・グレコ>
聖母マリアは赤い服にブルーのベール、モデルはエル・グレコの妻ヘロニマ。エル・グレコの聖母マリアのモデルはいつもこの女性。
今日はプラド美術館を訪れる方のためのエル・グレコの解説書を書いてみました。これらはプラド美術館に展示されているエル・グレコの作品の一部ですが重要なものをピックアップしました。
時間があればトレドにも足を伸ばしてオルガス伯爵の埋葬などを楽しんでください。