カトリックとプロテスタントや東方教会。世界史で習ったけどなんだっけ?ヨーロッパを旅するとキリスト教の知識は有った方が旅は深まる。いまさら聞けないキリスト教の基礎知識をまとめてみた。
キリスト教の東西分裂
もしもイエス・キリストが現代に復活して今のキリスト教世界を見るときっと誰よりも驚くだろう。こんなにキリスト教は複雑になってしまった。
東西教会って?
東方教会=正教会又ははビザンチン教会とも呼びギリシャ正教、ロシア正教、グルジア正教、ルーマニア正教等東ヨーロッパ各派。
西方教会=カトリック教会、各プロテスタント教会の西ヨーロッパ各派
キリスト教会の東西分裂
古代ローマ帝国が東西に分裂してしまったことがキリスト教にとっての大きな問題の始まりだ。既にイエス・キリストが処刑されてから360年程立っている頃ローマ皇帝コンスタンティヌス帝がローマの首都をローマから移動させ現在のトルコのイスタンブールに自分の名前が付いた町「コンスタンティノープル」を作った。
その少し後にローマ帝国は東西に分裂し(395年)、更に476年にゲルマン民族の大移動により西ローマ帝国が滅亡した。
分裂した状態でそれぞれのキリスト教世界は存続したが交流が無いままで教義や考え方や礼拝の仕方に違いが出てきた。これが東西キリスト教会の決別の始まり。
東ローマ(ビザンツ帝国)の聖像禁止令
この両者の対立が決定的になるのが聖像禁止令。地理的にもイスラム圏に近い東方教会はイスラムの偶像を禁止する影響を受け皇帝レオン3世が聖像禁止令を発布。
*この頃シリアをウマイヤ朝が支配しコンスタンティノープル包囲戦を行っていた。同時期にイベリア半島にイスラム教徒がやって来てイスラム化する。
*皇帝レオン3世はウマイヤ朝の度々の侵攻を食い止めた軍人。
西ローマとゲルマン民族
西ローマ帝国はゲルマン民族の大移動によりゲルマンの国家がいくつも作られた。教会は彼らにキリスト教を布教するにも言葉が違い字が読めない。ゲルマン民族にイエスの生涯やキリスト教の教義を教える為絵画や彫刻を使って布教する必要があった。
*ゲルマン民族は字が読めない人が多かった。
*聖書はギリシャ語やラテン語で書かれていた。
*絵によって聖書を教えて行く必要があった。
御互いの破門
1054年に教義の違いから互いに破門しあうという事件が有った。カトリックと東方正教会が本気で決裂した。
*東方教会と西方教会の教義の違いが大きくなったいた。
*東方教会に教義の違いに異議を唱える為の使節「フンベルと枢機卿」が訪れたが9か月待たされた。
*気分を悪くしたフンベルト枢機卿は東方教会に破門状を叩きつけた。
*東方教会もフンベルト枢機卿とその一行に破門を宣言した。
<破門は最高の恐怖だった>
破門はキリスト教会にとって最大の罰だった。結婚や仕事もキリスト教会のもとにあり死後の埋葬の権利まで無くなった。もちろんその後の永遠の魂は行先を失う最大の恐怖がキリスト教徒の破門だった。
東西教会の違い
*キリスト像やマリア像絵画や彫刻に向かって祈るのがカトリック。
*東方教会はローマ教皇を否定。
*東方教会・正教会において現在名誉上の首位にあるのは全地総主教の称号を持つコンスタンティノーポリ総主教だが東方教会全体のトップではない。
*「精霊は神のみから出る」のが東方教会で「神と子(イエス・キリスト)」から出るのがカトリック
*煉獄を否定するのが東方教会で認めるのがカトリック(煉獄はこの世から天国い行く前に一時的に過ごす場所で自分の為に祈ってくれる人がいれば早く天国へ行ける)
*聖母マリアの無原罪の御宿りを認めるのがカトリック
その他ミサのやり方や洗礼の仕方、聖書の理解や教義に多くの違いがある。
西側教会カトリックの総本山はローマ
今度はカトリックのお話。ローマが総本山になったのはイエス・キリストが処刑されたより随分後の事。イエス・キリストの12弟子のひとりペテロが十字架刑にあった場所が現在のサンピエトロ寺院がある場所で後から総本山に決まった。
*ペテロは英語でピーター、スペイン語でペドロ、イタリア語でピエトロ。
*ペテロの本名はシモン、職業は漁師、12弟子の中のトップ弟子。
*イエスがペテロに向かい「貴方をペテロ(ギリシャ語で岩)と呼びその「岩・ペテロ」の上に私の教会を建てよう➡なのでペテロが殉教した上にコンスタンティヌス帝が聖ペテロ教会を作った。
*あなたに天国の鍵を授けよう・・・」(マタイによる福音書)といったと記述がある➡ペテロの象徴物は鍵
*後にペテロはローマで十字架に掛けられる。イエスキリストと同じ十字架では申し訳ないので逆さ十字にかけられて殉教。(事実は不明)
*初代ローマ教皇は聖ペテロ。
ペテロのお墓
実は2013年にバチカンによりペテロのお墓が公開された。1939年から行われた発掘調査で聖ペテロの墓と思われるものが発見されている。その中に丁寧に紫色の布に包まれた60歳くらいのがっしりした男性の身体があった。1968年に当時のローマ教皇によりペテロの遺骨であると発表された。真偽のほどは今も論点になっている。
ローマ教皇(法王)と枢機卿
カトリック世界のトップの位をローマ教皇またはローマ法王と呼ぶ。ローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者。バチカン市国の国家元首でもある。
*ローマ法王は聖ペテロの後継者。
*ローマ法王は選挙で選ばれ、この選挙をコンクラーベと呼ぶ。
*選挙権を持つのは世界中の枢機卿達(カーディナル)で枢機卿はローマ教皇の顧問。
カトリックとプロテスタント
ヨーロッパ南はカトリック北はプロテスタント
西側ヨーロッパではカトリック中心のローマ法王を頂点とする世界が築かれていた。そこにまた新しい分裂が始まる。
ヨーロッパは大雑把に分けると南の方がカトリックで北の方がプロテスタントだ。
イギリス(英国国教会)はプロテスタントの一派で分かれた理由が離婚。
分かれた理由は免罪符
免罪符の販売をはじめたカトリックに抗議したのがプロテスタント。ルネッサンス期にローマのサンピエトロ寺院の建て替えを始める事になった。当時の一流の芸術家を使って建設を始めるがその資金を得る為に免罪符の販売を始めた。
*サンピエトロ寺院の建設の資金が足りなくなった。
*天国へ行ける免罪符の販売をドイツの農民に行い爆発的に売れた。
*更に足りなくなってきた資金の為再び新免罪符を販売した。
*それに対して抗議=プロテストしたのがプロテスタントの始まり。
もうひとつの理由は離婚
イギリスでは離婚の為にカトリックから分かれていった。
*ヘンリー8世の妻カタリーナデアラゴンはスペインの王女。
*最初は仲が良かったがヘンリー8世に愛人が出来妻の別れる為にカトリックから分離して英国国教会を作った。
宗教改革
免罪符の販売に疑問を持つ人々が多くなりカトリックの腐敗に対して抗議が始まった。マルチンルターがカトリック教会に対して抗議文を教会の前に張り出したのが宗教改革の始まり。
*聖書にローマ教皇の存在は書かれていない。
*免罪符を買って罪が許されることはない。
これが宗教改革の始まりで抗議する人=プロテストという言葉からプロテスタントという言葉になった。
カトリックとプロテスタントの違い
*プロテスタントは聖書と自分の関係。
*プロテスタントはローマ教皇の存在を否定。
*プロテスタントは懺悔を否定。
*プロテスタントは聖母の神格化を否定。
*カトリックでは神父プロテスタントでは牧師と呼ぶ。
*プロテスタント更にたくさんの宗派に分かれ教義も千差万別。
キリスト教色々のまとめ
簡単にカトリックやプロテスタントや東方教会についてまとめてみました。ヨーロッパを旅すると見学するのは教会や修道院等。美術館に有る作品もキリスト教関係の物が多い。少しの知識で旅はもっと楽しくなります。