「大聖堂と教会は何が違うんだろう」というカトリックのお話

大聖堂と教会の違いはなんだろうと思ったことは無いですか?ヨーロッパの旅をすると見るのは大聖堂や教会等キリスト教の建築物が多くなる。世界に12億人以上いるカトリック信者のトップはローマ教皇でその下に司教司祭と続くピラミッド組織がある。今日はカトリックの大聖堂と教会は違うんですと言うお話。

 

大聖堂と教会


ヨーロッパ旅行で必ず観光する大聖堂

セゴビア大聖堂
セゴビア大聖堂、筆者撮影、旅スペインコム

ヨーロッパを旅行するとどこの街でも大聖堂やドームや教会を見学する。こっちは大聖堂なのにあちらは教会でこっちはバシリカ。「一体何が違うんだろう」と思ったことは無いですか?

大聖堂とは

アルムデナ大聖堂

大聖堂とはカテドラルとも呼ばれ「カテドラ」が有る教会と言う意味。カテドラと言うのはギリシャ語で「椅子」の事で「司教が座る椅子」が有る=司教座があるという事。普通の教会にいる聖職者は司祭とか助祭と言って位が違う。

司祭:司教の協力者として働くのが司祭。司教によって司祭に任じられ司教から与えられる任務に就く。

助祭:助祭も司教の協力者として働く司祭になる前の位、または生涯を助祭で終える終身助祭もいる。

イタリアでは大聖堂をドゥーオモ

ラテン語で家の事をdomusドムスと呼んだ。古代ローマ時代には上流階級の家をドムスと呼ぶようになった。ドメスティック(家庭内)という言葉はここからきている。次第に神の家をドムスからイタリア語でドゥーオモと呼ぶようになった。

カトリックの頂点はローマ教皇

カトリックの総本山はローマのバチカン市国にあるサン・ピエトロ寺院。キリストの12弟子聖ペテロが殉教したところに4世紀に建てられた教会が次第に立派に建て替えられていった。

MINOLTA DIGITAL CAMERA

聖ペテロは逆さ十字にかけられて殉教したイエスキリストの一番弟子。聖ペテロの名前を取って聖ペテロ教会=イタリア語でサン・ピエトロ教会と呼ばれるようになった。サン・ピエトロ寺院の司教の事をローマ教皇(ローマ法王)と言い全カトリックの頂点、世界のカトリック信者の精神的指導者となる。

カラバッジオ聖ペテロの逆さ十字
By ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ – The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM)、distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3341494

ローマ教皇はペテロの後継者だったが次第にイエスキリストの後継者となって行った。

バシリカ

もともとバシリカは建築様式の事で古代ローマ時代の集会に使われた建物の事を言う。しかしカトリック教会でバシリカと呼ばれるには決まりがあり特別な権利を与えられた教会の事をバシリカと呼ぶ。

*一般の教会より上位の教会である。

*ローマ教皇専用の傘を備える権利。バシリカにはこの傘=オンブレリーノがある。

オンブレリーノ

*ローマ教皇を象徴する鐘を持つ権利。バシリカはティンタンタナパリウムという鐘を持っている。

ティンタンタナパリウム

*ミサに特別のカパ=カパマグナを着用する権利を持っている。

ローマには4つの大バシリカがありサンピエトロ寺院も大バシリカにあたる。それ以外に世界に1500の小バシリカがある。

街の教会

街の教会は信者の集会所。ギリシャ語のエクレシア=人々の集いの場所という言葉から来ている。各地域は教区に分かれていてカトリックの人々が子供の時からかかわって行くのが各地の教区の教会。

旧サンタマリア教会
筆者撮影

殆どの街の教会は全ての人に扉を開けているので信者でなくても入場できるところが多い。お祈りしている人がいたら静かに見学しましょう。

大聖堂と教会まとめ


カトリックはローマ教皇を頂点とするピラミッド組織を作っている。トップにローマ教皇、その下に司教がいる大聖堂とその管轄にある司祭がいる教会があるヒエラルキーが作られている。カトリックの大聖堂や教会の名前の違いにはに意味が有るんですね~というお話でした。

 

 

「カトリックやプロテスタントに東方教会」いまさら聞けないキリスト教のお話

カトリックとプロテスタントや東方教会等ヨーロッパを旅するとキリスト教の知識は有った方が旅は深まる。いまさら聞けないキリスト教の基礎知識をまとめてみた。

キリスト教の東西分裂


もしもイエス・キリストが現代に復活して今のキリスト教世界を見るときっと誰よりも驚くだろう。こんなにキリスト教は複雑になってしまった。

象牙のキリスト像
筆者撮影、マドリード国立考古学博物館

東西教会って?


東方教会=正教会又ははビザンチン教会とも呼びギリシャ正教、ロシア正教、グルジア正教、ルーマニア正教等東ヨーロッパ各派。

西方教会=カトリック教会、各プロテスタント教会の西ヨーロッパ各派

 

キリスト教会の東西分裂


古代ローマ帝国が東西に分裂してしまったことがキリスト教にとっての大きな問題の始まりだ。既にイエス・キリストが処刑されてから360年程立っている頃ローマ皇帝コンスタンティヌス帝がローマの首都をローマから移動させ現在のトルコのイスタンブールに自分の名前が付いた町「コンスタンティノープル」を作った。

その少し後にローマ帝国は東西に分裂し(395年)、更に476年にゲルマン民族の大移動により西ローマ帝国が滅亡した。

ローマの分裂
C.C 3.0世界の歴史マップ

分裂した状態でそれぞれのキリスト教世界は存続したが交流が無いままで教義や考え方や礼拝の仕方に違いが出てきた。これが東西キリスト教会の決別の始まり。

東ローマ(ビザンツ帝国)の聖像禁止令

この両者の対立が決定的になるのが聖像禁止令。地理的にもイスラム圏に近い東方教会はイスラムの偶像を禁止する影響を受け皇帝レオン3世が聖像禁止令を発布。

*この頃シリアをウマイヤ朝が支配しコンスタンティノープル包囲戦を行っていた。同時期にイベリア半島にイスラム教徒がやって来てイスラム化する。

*皇帝レオン3世はウマイヤ朝の度々の侵攻を食い止めた軍人。

西ローマとゲルマン民族

西ローマ帝国はゲルマン民族の大移動によりゲルマンの国家がいくつも作られた。教会は彼らにキリスト教を布教するにも言葉が違い字が読めない。ゲルマン民族にイエスの生涯やキリスト教の教義を教える為絵画や彫刻を使って布教する必要があった。

バレンシア、サンニコラス教会
筆者撮影

*ゲルマン民族は字が読めない人が多かった。

*聖書はギリシャ語やラテン語で書かれていた。

*絵によって聖書を教えて行く必要があった。

御互いの破門

1054年に教義の違いから互いに破門しあうという事件が有った。カトリックと東方正教会が本気で決裂した。

*東方教会と西方教会の教義の違いが大きくなったいた。

*東方教会に教義の違いに異議を唱える為の使節「フンベルと枢機卿」が訪れたが9か月待たされた。

*気分を悪くしたフンベルト枢機卿は東方教会に破門状を叩きつけた。

*東方教会もフンベルト枢機卿とその一行に破門を宣言した。

<破門は最高の恐怖だった>

破門はキリスト教会にとって最大の罰だった。結婚や仕事もキリスト教会のもとにあり死後の埋葬の権利まで無くなった。もちろんその後の永遠の魂は行先を失う最大の恐怖がキリスト教徒の破門だった。

東西教会の違い

*キリスト像やマリア像絵画や彫刻に向かって祈るのがカトリック。

*東方教会はローマ教皇を否定。

*東方教会・正教会において現在名誉上の首位にあるのは全地総主教の称号を持つコンスタンティノーポリ総主教だが東方教会全体のトップではない。

*「精霊は神のみから出る」のが東方教会で「神と子(イエス・キリスト)」から出るのがカトリック

*煉獄を否定するのが東方教会で認めるのがカトリック(煉獄はこの世から天国い行く前に一時的に過ごす場所で自分の為に祈ってくれる人がいれば早く天国へ行ける)

*聖母マリアの無原罪の御宿りを認めるのがカトリック

その他ミサのやり方や洗礼の仕方、聖書の理解や教義に多くの違いがある。

 

西側教会カトリックの総本山はローマ


今度はカトリックのお話。ローマが総本山になったのはイエス・キリストが処刑されたより随分後の事。イエス・キリストの12弟子のひとりペテロが十字架刑にあった場所が現在のサンピエトロ寺院がある場所で後から総本山に決まった。

MINOLTA DIGITAL CAMERA

*ペテロは英語でピーター、スペイン語でペドロ、イタリア語でピエトロ。

*ペテロの本名はシモン、職業は漁師、12弟子の中のトップ弟子。

*イエスがペテロに向かい「貴方をペテロ(ギリシャ語で岩)と呼びその「岩・ペテロ」の上に私の教会を建てよう➡なのでペテロが殉教した上にコンスタンティヌス帝が聖ペテロ教会を作った。

*あなたに天国の鍵を授けよう・・・」(マタイによる福音書)といったと記述がある➡ペテロの象徴物は鍵

聖ペテロの鍵
wipipedia public domain

 

*後にペテロはローマで十字架に掛けられる。イエスキリストと同じ十字架では申し訳ないので逆さ十字にかけられて殉教。(事実は不明)

カラバッジオ聖ペテロの逆さ十字
By ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ – wikipedhia public domain

*初代ローマ教皇は聖ペテロ。

 

ペテロのお墓

実は2013年にバチカンによりペテロのお墓が公開された。1939年から行われた発掘調査で聖ペテロの墓と思われるものが発見されている。その中に丁寧に紫色の布に包まれた60歳くらいのがっしりした男性の身体があった。1968年に当時のローマ教皇によりペテロの遺骨であると発表された。真偽のほどは今も論点になっている。

ローマ教皇(法王)と枢機卿

カトリック世界のトップの位をローマ教皇またはローマ法王と呼ぶ。ローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者。バチカン市国の国家元首でもある。

*ローマ法王は聖ペテロの後継者。

*ローマ法王は選挙で選ばれ、この選挙をコンクラーベと呼ぶ。

*選挙権を持つのは世界中の枢機卿達(カーディナル)で枢機卿はローマ教皇の顧問。

カトリックとプロテスタント


ヨーロッパ南はカトリック北はプロテスタント

西側ヨーロッパではカトリック中心のローマ法王を頂点とする世界が築かれていた。そこにまた新しい分裂が始まる。

ヨーロッパは大雑把に分けると南の方がカトリックで北の方がプロテスタントだ。

キリスト教世界のカトリックとプロテスタント地図
旅スペインコム作成

イギリス(英国国教会)はプロテスタントの一派で分かれた理由が離婚。

分かれた理由は免罪符

免罪符の販売をはじめたカトリックに抗議したのがプロテスタント。ルネッサンス期にローマのサンピエトロ寺院の建て替えを始める事になった。当時の一流の芸術家を使って建設を始めるがその資金を得る為に免罪符の販売を始めた。

*サンピエトロ寺院の建設の資金が足りなくなった。

*天国へ行ける免罪符の販売をドイツの農民に行い爆発的に売れた。

*更に足りなくなってきた資金の為再び新免罪符を販売した。

*それに対して抗議=プロテストしたのがプロテスタントの始まり。

もうひとつの理由は離婚

イギリスでは離婚の為にカトリックから分かれていった。

*ヘンリー8世の妻カタリーナデアラゴンはスペインの王女。

*最初は仲が良かったがヘンリー8世に愛人が出来妻の別れる為にカトリックから分離して英国国教会を作った。

宗教改革

免罪符の販売に疑問を持つ人々が多くなりカトリックの腐敗に対して抗議が始まった。マルチンルターがカトリック教会に対して抗議文を教会の前に張り出したのが宗教改革の始まり。

*聖書にローマ教皇の存在は書かれていない。

*免罪符を買って罪が許されることはない。

これが宗教改革の始まりで抗議する人=プロテストという言葉からプロテスタントという言葉になった。

カトリックとプロテスタントの違い

*プロテスタントは聖書と自分の関係。

*プロテスタントはローマ教皇の存在を否定。

*プロテスタントは懺悔を否定。

*プロテスタントは聖母の神格化を否定。

*カトリックでは神父プロテスタントでは牧師と呼ぶ。

*プロテスタント更にたくさんの宗派に分かれ教義も千差万別。

 

キリスト教色々のまとめ


簡単にカトリックやプロテスタントや東方教会についてまとめてみました。ヨーロッパを旅すると見学するのは教会や修道院等。美術館に有る作品もキリスト教関係の物が多い。少しの知識で旅はもっと楽しくなります。

旧約聖書に挑戦⑤バベルの塔の物語、こうして人の言葉はバラバラになったのです

キリスト教のミニ知識、復活祭(セマナ・サンタ)と移動祝祭日そして旧約聖書の関係

 

キリスト教のミニ知識としてスペインの復活祭(セマナ・サンタ)、そして旧約聖書と復活祭の関係を紹介します。キリスト教の最も重要な行事のひとつ「復活祭」はスペイン語では「セマナ・サンタ」、「聖なる週間」という意味で英語では「イースター」。「セマナ・サンタ=復活祭」は毎年変わる移動祝祭日。十字架に掛けられたイエス・キリストの復活を記念する日でクリスマスと並んで一年間で最も重要な行事となる。カトリックの国スペインでは1年間の祝祭日はキリスト教の宗教行事で埋められている。スペインの復活祭は受難の苦しみを追体験する荘厳で厳粛な宗教行事となる。

この期間は学校もお休みになり(お休みの期間や曜日は各州によって様々)金曜日は全国祝日になる。ヨーロッパの人々が一斉に旅行をするのでホテルなども取りにくくなり値段も上がる。商店等はお休みになるが各町で山車が出たり教会に通う人々を見るものスペインの一面を知る良い体験になると思う。復活祭の歴史や行事についてまとめました。

復活祭=セマナ・サンタ


移動祝祭日とは

キリスト教の祝日にはクリスマス等固定されたものと移動する祭日がある。復活祭(セマナ・サンタ)やカーニバル、ペンテ・コスタは毎年移動する移動祝祭日。中心になるのは春分の日の後にやって来る最初の満月の日その後にやって来る最初の日曜日が復活の日曜日(スペイン語でドミンゴ・デ・レスレシオン)となりすべての移動祝祭日はこの復活の日曜日を中心に決定される。これはAD325年ニケーア公会議で決められた。キリスト教がローマ帝国で公認されたのがAD311年なのでその直後。しかし当時使われていた暦はユリウス暦で1年が365.25日、1000年以上もたつと実際の天の運行との誤差が大きくなり教会の大問題になった。ローマ法王グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ1582年10月15日にきめたのがグレゴリウス暦。4年に1度の閏年を取り入れ春分の日を3月21日と制定した。(東方教会はユリウス暦で計算するため西方教会とは日付が違います。)

元になったのはユダヤ教の「過ぎ越し祭」

イエス・キリストはユダヤ人でその弟子たちもユダヤ人。彼らの重要なお祭りに「過ぎ越しの祭り」がある。旧約聖書の中に様々な長い物語が書かれているが「出エジプト記」という長いお話がある。イスラエルの民はエジプトで奴隷になって神殿建築などに使われていたがモーゼが登場し彼らをエジプトから連れて逃げた話だ(BC1500年頃)。その長いお話の中にユダヤ人たちが「災いが過ぎ越され救われたた話」が出てくる。それを祝うのが「過ぎ越しの祭り」でユダヤ人たちは今もこの祭りの初日に食事会をする。イエス・キリストの最後の晩餐も過ぎ越しの食事会だった。

<最後の晩餐、レオナルド・ダ・ビンチ1495-98年>

レオナルドダビンチ、最後の晩餐
By レオナルド・ダ・ヴィンチ – 不明, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=24759

この祭りの事をヘブル語で「ペサハ」という。初代教会の頃はギリシャ語で「パスカ」と呼んだそう。今でもスペイン語で復活祭をパスクアPascuaという。

旧約聖書

聖書は旧約聖書と新約聖書あわせて全66巻、その39巻は旧約聖書で占められている。ユダヤ教徒にとっては旧約聖書のみが唯一の聖典となる。キリスト教徒は旧約と新約を聖典として使い、実はイスラム教徒も旧約聖書の一部を啓典としている。旧約聖書の内容は天地創造から始まりイエス・キリストが生まれる400年程前までのイスラエルの歴史が書かれている。旧約聖書がまとまったものとして書かれたのは紀元前5世紀から紀元前4隻頃のペルシアの支配下にあったと言われており次第に文書が付け加えらていった。

<グーテンベルグの印刷した旧約聖書>

グーテンベルグの旧約聖書
public domain wikipedia

創世記に出てくるイスラエルの族長アブラハムの息子がイサク、その子がヤコブ、その子がヨセフだった(全部長いお話なのでここでは省略)。ヤコブの子ヨセフは出来が良すぎて兄弟達に妬まれ嫌われ穴に落とされた、ヨセフを見つけたエジプト人商人に連れていかれエジプトで奴隷に売られた。その時のエジプトのファラオ(エジプトの王)は奇妙な夢を毎日見るのに悩まされていた。「よく肥えた7頭の牛が河から上がって来て草を食べていると、別の7頭の痩せた牛が河から上がって来て肥えた牛を襲い食い尽くす・・・」。

ヨセフは夢判断が出来るという噂を聞いたファラオが「この夢を解いてみよ」とヨセフに聞くと「7年の豊作の後に7年の凶作がやって来る」ヨセフはファラオに「豊作の7年間に作物を蓄え次の凶作の7年に蓄えるべきです」助言をした。そしてファラオはヨセフにその対策を依頼し、予言通り7年の豊作の間に蓄えた食料が後の7年の凶作の時に役に立ちエジプトは栄えた。ファラオはヨセフに感謝し取り立てられエジプトの宰相に出世しヨセフの子孫すなわちイスラエル人たちがエジプトに栄えた。

<エジプトのファラオとヨセフ>

ヨセフ、エジプトのファラオに迎えられる
De James Tissothttp://thejewishmuseum.org/collection/26324-joseph-and-his-brethren-welcomed-by-pharaoh, Dominio público, Enlace
モーゼの出エジプト

時代は変わりファラオも変わり人は忘れる、特にやって貰ったことは忘れやすいのはエジプト人も同じだった。エジプトで暮らすイスラエル人たちは人口が増え地元の人とは別の独特の社会を築いていた、そしてその閉鎖性と独自性が嫌われエジプトで神殿建設などの労働者として使われていた。イスラエル人たちの抵抗が大きいのでファラオがイスラエル人の生まれたばかりの男子を殺す命令を出した。モーゼが生まれたのはこんな頃だったが母がこっそりモーゼを飼い葉おけに乗せてナイル川に流しそれを見つけたファラオの娘に育てられた。

<3世紀シナゴグの壁画、モーゼがナイル川から拾われる所>

モーゼがナイル川から拾われる壁画
By 不明 – https://classconnection.s3.amazonaws.com/718/flashcards/968718/png/untitled251354209928127.png, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1352339

大人になったモーゼは神の啓示を受けイスラエルの民をエジプトから連れて逃げる予言を受けた。神がモーゼを指導者と決め約束の地へ向かわせようとするがファラオがこれを妨害しようとする、神は怒りエジプトに10の災いを下す事にした。その10番目に神はモーゼに言った「子羊の血を家の鴨居に塗りその肉を焼いて食べよ。酵母を入れないパンを食べよ。私は夜エジプトへ行き人であれ家畜であれすべての長子を殺すが鴨居に子羊の血が塗られた家は過ぎ越す」予言通りに子羊の血を塗ったイスラエル人達の家はこの禍は過ぎ去った。これが過ぎ越しの祭りの由来。

ローマ帝国

時は経ちローマ帝国が次第に支配を広げ今のイスラエルもローマ帝国支配下になった。イエス・キリストが生まれたのはその時代。ローマ帝国の中で迫害を受けながらもキリスト教は広まって行った。ローマ帝国で弾圧を受け禁止されていたキリスト教が公認されるのがコンスタンティヌス帝の時代の紀元後311年ミラノ勅令、その後ローマの国教となるのが紀元後380年。

広大なローマ帝国とその周辺国に大きく広がったため復活祭を祝う日付がバラバラになった。これを是正するためにカトリック教会の代表が集まって開いた会議がニケーア公会議だった。ユリウス暦ではズレが生じるのをグレゴリオ13世ローマ法王の時に是正した話は上に書いた通り。

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復活祭の様々な行事

カーニバル

日本語では謝肉祭と呼ばれるカーニバル、リオ・デ・ジャネイロやベネチアが有名ですが実はただのお祭りではなくキリスト教の宗教行事で復活祭の一環。復活祭の前に日々の生活全般を慎み心身を清めお肉を断つ40日間=四旬節(クアレスマ)という期間がある。その前に最後にいっぱい食べて飲んで踊って楽しみましょうというのがカーニバル。

キリスト教がローマ帝国で広がって行く中で色々な事をローマの習慣と同化させていった。ローマ人たちのお祭りや習慣がキリスト教に取り入れられすり合わせた行った中サトゥルナーリアというお祭りと結びついたと言われている。サトゥルヌスは農耕の神様、毎年の豊作をサトゥルヌスに祈り仮装をして宴会をした祭りサトゥルナーリアとカーニバルが結びついた。語源はラテン語のカルネム・レバーレ、肉を取り除くという意味。

基準は復活祭の日曜日。そこから46日(40日間と日曜日6回)戻った水曜日が「灰の水曜日」でカーニバルの最後の日になる。「灰の水曜日」と言う名は前年の棕櫚の枝を燃やした灰を額に十字架のしるしを付け罪の償いをした事からくる。

「灰の水曜日」にスペインでは各町でイワシの埋葬が行われる。質素な食事の象徴イワシを埋葬する事でこれからの日々の貧しい食事を呼び起こす。マドリードでは毎年ゴヤのお墓になっている教会サンアントニオ・デ・ラ・フロリダ教会からイワシの埋葬の行列が行われる。

<ゴヤ、イワシの埋葬、フェルナンド美術アカデミー>

ゴヤ、イワシの埋葬
De Francisco de Goya – Mirar abajo., Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=18394275

 

 

枝の主日(棕櫚の主日)

復活祭の一週間前の日曜日を枝の主日と呼ぶ。スペイン語ではドミンゴ・デ・ラモス。イエス・キリストが受難の前エルサレムに入城した日、群衆がナツメヤシ(棕櫚)の枝を道に敷き、または手に持って迎えたことを記念する。スペインやイタリアではオリーブを使う事も多い。棕櫚は復活のシンボル、オリーブは勝利の象徴。

<イエス・キリストのエルサレム入場、ジオット1304年>

キリストのエルサレム入場
De Giotto – Web Gallery of Art:   Image  Info about artwork, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15884092

この日に各教会前に棕櫚やオリーブが準備されそれを持ってミサを受ける。祝福された棕櫚を1年間自宅に飾っておくのは神社の御札のようなものだと私は思っている。

<飾りになっている棕櫚の葉>

棕櫚の日曜
筆者撮影
聖木曜日

復活祭直前の木曜日を聖木曜日と呼ぶ。スペイン語では「フエベス・サントJueves santo」。最後の晩餐の日でイエス・キリストが裏切られ捕まった日に当たる。復活祭前の一週間は特別な時期でその中でも聖木曜日からの三日間は特別な典礼やミサが行われる。プロセシオン(山車の行列)はスペイン中の街の教会から出るが特にこの日はセビージャのいくつかの教会からの夜中から朝まで出る「マドゥルガッMadurgad」は壮観。満月の下2000人以上の信徒会が眼だけ出た三角棒で静かに行列を歩いているのを見ると魂ごと持ち去られそうになる。

スペイン復活祭
筆者撮影

 

聖金曜日

金曜日はイエス・キリストが十字架にあった日でカトリックの信者の人々は軽い断食をする。この日は一年で教会で唯一教会でミサが行われない日である。この日も大きな山車の行列がスペイン中の教会から出る。

<マドリード、メディナセリ教会のキリスト像>

マドリード、メディナセリ
筆者撮影
復活の日曜日

前日の土曜日の夜中に教会では復活のミサが行われる。ユダヤ教では日没が一日の終わりで始まりだったので復活も土曜日の夜中に行われたと考えられている。夜中というのに教会には多くの人々がミサに参加している。

まとめ

ミサが行われ山車が出、それを見に行くスペイン人は子供にいたるまで正装に近い服装。重い山車を担ぐスペイン人は長い時間の重労働が大変な名誉で終わった後の感動は言葉では表せない程だという。年によっては雨で催行されない事もあり、大人達がワンワン泣いているのがニュースで放映される。スペイン人の中にあるこの感情は日本語に訳すのは不可能だと思う言葉でDevocion/fe/creyente,等は一応訳語になっている「信仰」とか「奉仕」というのとは次元が違う「絶対かなわない大きな存在に対するひれ伏すほどの巨大な感覚」なのだと思う。スペインに住んでいると、ものすごく大きな愛情に宗教とか信仰とかでは計り知れない深い物を感じることが有り、そのひとつが私にとってはセマナ・サンタ、復活祭です。

宗教画を楽しむ。絵画で読み説く新約聖書、クリスマスの物語・キリストの誕生と無原罪の御宿り