アルハンブラ宮殿の歴史と技術と観光の仕方、グラナダ王国<イスラム建築の最高芸術>

 

アルハンブラ宮殿は南スペインのグラナダにある世界遺産。その技術と観光の仕方と歴史についてまとめました。「宮殿」という言葉から受けるヨーロッパの王宮とは違い全体が一つの「都市」を構成するスペイン・イスラム芸術の最高峰。見学する季節や時刻で随分印象が変わる。できればゆっくりした時間の中で太陽の位置で変わって行く影の動きや噴水の水の音、ヘネラリーフェから風に乗ってやって来る花の香を感じたい。

注意:アルハンブラ宮殿は現在入場予約制。非常に予約が取りにくいので予定が決まり次第ネットで予約を入れましょう。ページ最後に予約先アドレスがあります。

アルハンブラ宮殿
wikipedia cc Alejandro Mantecón-Guillén

アルハンブラ宮殿


アルハンブラ宮殿注意事項

アルハンブラ宮殿は現在入場時間予約制。当日券枠は少なく希望の時間に入れない事も。

*時間の予約はナスール(ナサリエス)宮殿の入場の事。時間に遅れると絶対入れません。

*入場時に身分証明書が必要。

*ヘネラリーフェに関しては午前と午後に分かれている。ナスール宮殿の予約の時間に準じる。

*カルロス5世宮は無料で自由に入れる。

*それ以外の敷地内も入場券なしで自由に歩ける。

*写真はフラッシュなしで撮れる。

アルハンブラ宮殿見取り図
筆者作成

アルハンブラ宮殿見学

アルハンブラ宮殿は計画性を持って創られた宮殿ではなく何世代にも渡って増改築を重ねた都市複合体。化粧漆喰やタイル、天井や儚い水の音等を楽しみながら進んでいきましょう。順路になっているのでそれに従って進んでいくと以下の順にみることが出来ます。

アルハンブラ宮殿カルロス5世の宮殿

自由に入れるので時間のあるところで見学。内部の博物館に彫刻や寄木の扉等が展示されている。この丸い中庭は音響が最高に良いので6月にグラナダ音楽祭の会場になる。

アルハンブラ宮殿見取り図
筆者作成

<アルハンブラ宮殿カルロス5世宮>

アルハンブラ宮殿内カルロス5世宮殿
筆者撮影

アルハンブラ宮殿・入場券のチェック

カルロス5世宮の少し先に個人とグループは別に入場口が作られている。そこでアルハンブラ宮殿の入場券のバーコードのチェック。指定時間より早くは入れない、又指定時間から30分の間に入らないと入場できないので注意。アルハンブラ宮殿見学中切符は合計4回チェックがあるので最後まで失くさないように。

アルハンブラ宮殿入場券
筆者撮影
アルハンブラ宮殿メスアール宮から見学
アルハンブラ宮殿見学用地図
筆者作成

アルハンブラ宮殿に現存する中で一番古い部屋。そしておそらくアルハンブラ宮殿の中で一番改造を強いられている場所なので往時の姿は留めていない。この部屋には裁判所があったがキリスト教徒の時代に変更がされ礼拝堂として使われた。奥にはミヒラブというメッカの方角を示す窪み。アラビア文字や漆喰彫刻、天井の寄木細工。

<メスアール宮入口・壁面全体が幾何学模様>

アルハンブラ宮殿メスアール宮
筆者撮影

 

アルハンブラ宮殿コマレス宮

「大使の間」と呼ばれる大広間を含むコマレス宮はアルハンブラ宮殿の中で最も重要な核をなすもの。アラヤネスの中庭には大きな池がありそこに映るコマレスの塔は水の上にあるように見える。

アルハンブラ、コマレス宮
筆者撮影
アルハンブラ宮殿大使の間

アルハンブラ宮殿にやって来た使節と王が謁見に使った大広間。天井は寄木細工で満天の星空をイメージして創られている。平面すべてに漆喰のアラベスク模様。弱小国になっていたグラナダが最高の見栄を切って外交官たちと謁見をした。明るい外からやって来た使節はうす暗い大広間に入り目がくらむ。後ろと前の光で王が光輝いて見える仕組みだった。この部屋でコロンブスがイサベル女王から宝石箱を受け取ったと言われている。

<アルハンブラ大使の間の天井・白は象牙が使われている>

アルハンブラ宮殿コマレス宮殿
筆者撮影

アルハンブラ宮殿の技術

アリカタード<石を使った象嵌>

アリカテ(ペンチの様な物)でタイルを切り取り組み合わせていく。模様はすべて幾何学模様。タイル作りのプロセスは粘土の分離から。土を細かく砕き水と混ぜこねて形にしていく。モザイクの為には発色が肝心。緑には銅青、コバルト黄色には鉄とマンガン。赤の混合の秘密は今もわからない。かまどを作り木材を燃やして900度の温度で24時間かけて焼き24時間かけてさました。

アリカタード
筆者撮影

神秘学と数学

アルハンブラ宮殿はイスラム教徒達の生活の場、偶像崇拝の禁止の為イスラム装飾は生き物の形を作らない。基本的には反復するリズム、果てしなく繰り返される模様が空間を埋め尽くし無限を感じさせる。

アルハンブラ、アラベスク模様
筆者撮影

二次元空間における回転対称性を分類するとその数は17種類しかない。このアルハンブラ宮殿ではすべての回転対象を使って壁面を飾っている。

<私が一番気に入っているタイル。水の動きの様に見える>

アルハンブラ、モザイク
筆者撮影

 

アラベスク模様の基本はユークリッド幾何学。ピタゴラス(BC582頃~496)が体系化しアルジャワリ(800-860)が拡張した三角法の基礎。または我々の手の届かないところに永遠不滅の完璧な存在があるとするプラトン(BC427~347)のイデア論がアラベスクの発展に影響している。

アルハンブラ
筆者撮影

 

四角形は四つの等辺を持っていることから自然界の等しく重要な要素と考えられていた。土、空気、火、水の四大元素。どの一つを欠いても物質世界は滅亡する。正四角形を重ねた八角の星はイスラム教徒が好んで使った形。インドで発見されたゼロをヨーロッパに運んできたのもイスラム教徒。「アラビア数字」という進んだ数学はアラビア人がヨーロッパへ運んだ。

アルハンブラ宮殿
筆者撮影

 

アルハンブラ宮殿 ライオンの中庭

ここからはアルハンブラ宮殿内のスルタン達(王達)のプライベートな空間。列柱の森が砂漠のオアシスを感じさせる。

ライオンの中庭
筆者撮影

12頭のライオンは12角形の水盤を支えている。ライオンは10世紀から11世紀頃のものだと想定されている。口から水を出すライオンは太陽を現わす円盤を支え12頭は黄道帯の12宮であり12か月である。4x3の12も古代から良く使われた数。12頭のライオンはソロモンの神殿にあった12頭の鉄の牡牛であり海を支えている。この海は天空の水がめも表していて海でもあり天空でもある。

ライオンの口からは水が出るためには水圧が必要。アルハンブラ宮殿は丘の頂上に創られておらず中腹にある。丘の頂点には今も貯水池がありシエラネバダから水路によって水が貯められている。それぞれの場所に必要な水が流れるよう標高差と管の太さで水量と水圧の計算がされている。

アルハンブラと光

アルハンブラ宮殿の建築は完璧に東西南北を向いている。それによって窓から入る光が時間を教えてくれる。もともと不規則な地形を谷や起伏を埋め立てることによって整列させてある。

夏のグラナダの太陽は容赦なく高い所から照らしつける。高い位置で運行する太陽が各部屋には差し込まないので夏は涼しい。冬の低い位置で運行する太陽はより奥の部屋にま光を届けるので冬は暖かくなる。

アルハンブラ
筆者撮影

アルハンブラ宮殿鍾乳石飾り

イスラム建築の天井に良く使われるのが鍾乳石飾り。イスラム教創始者モハメッドは最初は迫害を受けていた。しばらく鍾乳洞の洞窟の中で隠れて暮らしていた時に大天使ガブリエルからコーランのインスピレーションを授かったことに由来する。アルハンブラ宮殿のライオンの中庭に面するに「二姉妹の間」の天井も鍾乳石様式で飾られている。平面図は四角形だが八角形の星の形にし5416の断片を張り合わせてある。当時はさらにその上の窓は色ガラスで時刻と共に光が移り変わっていくように創られている。天井に移される光が動くイメージ。空間の中の際限のない変化は天空をイメージしたもの。

<二姉妹の部屋の天井、窓には色ガラス壁は彩色されていた>

アルハンブラ宮殿2姉妹の間の天井
筆者撮影

アルハンブラ宮殿の庭「ヘネラリーフェ」

アルハンブラ宮殿見取り図
筆者作成

アルハンブラの建物から外へ出て順路を20分程登って行くとヘネラリーフェ(Generalife)に着く。アラビア語で楽園という意味の庭園。当時とはかなり様子は変えられているとはいえ庭園の本質は失われていない。楽園と同時にアルハンブラに住む王家への食糧を供給する農園や果樹園だった。そして小高いヘネラリーフェに香りの良い果樹や花を植えて宮殿に良い香りが流れる仕組みになっていた。

アセキアの中庭

内側に向いて作られた庭が安心感を与え水の音が心地よい。真夏のうだる暑さの中でもここは水と風の流れで涼しいように高度や方角を計算し設計されていいる。最近の発見では雨の音を再現するための管もあったようだ。

<アセキアの中庭・水の音が心地よい>

アセキアのパティオ
筆者撮影

水とイスラム教徒

飲み水や宗教儀式の清め、入浴等イスラム教徒は当時のキリスト教徒よりも水と密接に繋がっていた。農業や庭園への供給の為に用水路をくまなく創り水を供給した。王宮だけではなく市街地にも街の人々の為の灌漑設備が創られていた。

砂漠で水は宝、色の無い砂漠の民には花々の極彩色は憧れの対象。アルハンブラは水と色をふんだんに使った宝と夢の宮殿都市。

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アルハンブラ宮殿入場券<絶対予約要です>

アルハンブラ宮殿当日券は早朝から並んでも買えないケースが続出ですの予定が決まったらネットで予約を入れてください。

<予約の仕方>

2017年から予約の仕方が変更になっています。下の公式ページ(日本語)から予約が出来ます。予約が大変難しくなっているので予定が決まり次第予約をしておくことをお勧めします。

Alhambra De Granada.org
以前は代行サービスで購入できましたが現在本人(最高10枚まで)しか購入できなくなり入場時に本人確認の為のパスポートのチェックが有ります。

アルハンブラ宮殿行き方

まずはグラナダへ

グラナダへはマドリードから飛行機で1時間、バルセロナから約1時間30分

マドリードから路線バスで約5時間

鉄道(新幹線は工事中ですがまだ未開通)。

マラガから路線バスで約2時間15分

セビージャから路線バスで3時間

コルドバから路線バスで2時間15分

*モデルコース:マドリードから新幹線(アベ)でコルドバへ移動(約1時間45分)コルドバから路線バスでグラナダへ(2時間15分)

グラナダ市内からアルハンブラ宮殿

*徒歩:ヌエバ広場(Plaza Nueva)からゴメレス坂を25分くらい登って行くと裁きの門。門から中に入れるが切符売り場は更に城壁沿いに15分くらい登って行く必要がある。

*バス:グラナダ市内を走るC3アルハンブラバスに乗ると切符売り場まで。カテドラル前やヌエバ広場にバス停がある。

*タクシー:ヌエバ広場にタクシー乗り場。

 

アルハンブラ宮殿の歴史

イスラム教徒がやって来た

西暦711年ジブラルタル海峡を渡ってやって来たイスラム教徒により西ゴート王国が滅ぼされイベリア半島はイスラム化した。南スペインはアル・アンダルスと呼ばれシリアのダマスカスのウマイヤ朝支配下にはいる。ところが本家のシリアで革命が起こりウマイヤ朝が倒された(750年アッバース革命)。シリアからウマイヤ家の王子が1人逃げて来てコルドバを首都に後期ウマイヤ朝を始める(756年)。

<コルドバ・メスキータ内部>

メスキータ
筆者撮影

 

コルドバ・カリフ王国は10世紀アブデラーマン3世の時にシリアから独立。コルドバのメスキータ(回教寺院)はさらに拡張され街には大学や図書館、病院があった。後期ウマイヤ朝はその後11代250年の間は大きな内紛も無くコルドバ・イスラム王朝は栄華を極めヨーロッパのどの国とも比較できないほどの洗練された先進地域となった。

<コルドバの街、当時の面影が残る白い村>

コルドバの旧市街
筆者撮影

レコンキスタが始まる

11世紀初頭の権力闘争によりコルドバ・カリフ王国は分裂し後期ウマイヤ朝は1031年滅亡。北の方からキリスト教徒のレコンキスタ(国土回復戦争)が始まっていた。

<最初のキリスト教徒が勝利を得たコバドンガ>

コバドンガ
筆者撮影

トレドは再びキリスト教徒の手に落ち南スペインはタイファと呼ばれる小さなイスラム諸国が出来る。グラナダもその一つだった。北アフリカのアルモラビデ族がイスラム教徒の支援に入りいくつかの地域を支配下におさめる。12世紀にはアルモアデ族が入って来て領土を取り戻すがキリスト教徒軍はナバス・デ・トロサの戦いでイベリア半島北半分を取り戻した。イベリア半島のイスラム教徒の斜陽の時代、この混乱期にグラナダの丘の上に創られたのがアルハンブラ宮殿。

アルハンブラ宮殿ナスル王朝

「モハメッド・イブン・アラマール・イブン・ナスル」のちの「モハメッド1世」はハエンのアルホナの領主。ここはキリスト教徒との戦いの前線地帯だ。時代はコルドバが1236年に陥落しセビージャも間もなく陥落という頃。斜陽のイスラム教徒の王朝として1238年前述の「モハメッド1世」が始めたのがナスル王朝(日本は鎌倉時代)、グラナダ王国の始まり。

アルハンブラ宮殿の建築

<グラナダ最初の王モハメッド1世>

アルハンブラ宮殿、最初の王モハメッド

「モハメッド1世」はグラナダの丘の上に既にあった要塞を居城と決める。キリスト教徒に勝利するのは不可能と読んだ彼は協定を結ぶに至る(1246年対カスティーリア王フェルナンド3世)。カスティーリア王国に税金を支払いグラナダを首都とするアルメリアからジブラルタルまでの地域の独立が謳われていた。すでにあった要塞を改築し60年かけて水道を設置しアルカサバ(要塞)を拡張し宮殿を創った。(その宮殿部分は後に壊されて現存していない。)「モハメッド1世」の外交政策というと聞こえがいいがあらゆる周りの敵たちの顔色を窺いながらの外交。その息子「モハメッド2世」と2代70年の間にグラナダ王国は基礎を固めアルカサバを拡張していった。これがアルハンブラ宮殿の誕生。この時代は宮殿という華麗な物ではなく守りの城、要塞だった。

<アルハンブラ・アルカサバ>

アルカサバ
wiki Alcazaba in Alhambra, Granada
Author Michal Osmenda

アルハンブラ黄金時代

ナスル王朝の全盛期は「ユースフ1世」(1333年~54)とその息子「モハメッド5世」(1354年~91)の時代。「ユースフ1世」の時代にコマレス宮を中心とする部分が創られモハメッド5世の時にライオンの中庭を中心とする建物が創られた。今見るアルハンブラ宮殿の主要の部分。

<水面に映るコマレス宮殿>

コマレス宮殿
筆者撮影

<ライオンの中庭は王達のプライベートな空間>

ライオンの中庭
筆者撮影

スルタンの力は絶大で王国の重要人物で構成される諮問委員会、裁判所が存在した。グラナダの街にはマドラサ(コーラン解釈の学校)や病院が置かれた。絹・織物市場や穀物取引所があり商業も盛んであった。「モハメッド5世」の後ナスル朝は約100年存続するがアルハンブラ宮殿以外の新しい建物はほとんど創られていない。

グラナダ王国の資金源

<ジブラルタル海峡>

ジブラルタル海峡
筆者撮影

ジブラルタル海峡は地中海と大西洋の入り口。当時そこを持っていたグラナダ王国は地中海の海上貿易に影響力を持っていた。その当時の海洋国家ジェノバは西地中海の制海権を持っておりジブラルタル海峡を越えられるかどうかは死活問題。グラナダ王国と条約を結び資金を援助し優遇措置を得ていた。ジェノバからの資金がグラナダ王国の経済やアルハンブラ宮殿で生活する王達を支えていた。

<1400年頃のジェノバ共和国の支配地域と海路>

1400年ころジェノバの支配権
Kayac1971
Permission
(Reusing this file)
GFDL e Creative Commons CC-BY-SA tutte le versioni (3.0, 2.5, 3.0, e 1.0), sono l’autore

 

斜陽のグラナダ王国

美しいアルハンブラ宮殿内部では次第に快楽的な生活が主流になる。長い繁栄と平和に退廃した無能な王が続き有力軍人達の対立でグラナダ王国内部の混乱。レコンキスタが続く中キリスト教国カスティーリアがジブラルタル海峡を略奪。それまでの資金源が奪われた。さらに敵対していたカスティーリアとアラゴンが王子王女の結婚によって連合国家になる。これがイサベルとフェルナンドの結婚(1469年)

カトリック両王の結婚

グラナダ王国内部

アルハンブラの内部では骨肉の争いが起こっていた。歴史から学ぶことは多い。すべての王国の崩壊は内部から始まる。

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国王は息子に裏切られる

国王アブルハサン(ムルアセン)の息子ボアブディル(モハメッド12世)はその母アイーシャと協力して反乱を起こし父王の王位を奪う。実はアイーシャはイスラム創始者モハメッドの血を引く高貴なお方。最初はモハメッド11世と結婚していたがその死後アブルハサンと結婚してボアブディルが生まれている。国王アブルハサンはキリスト教徒の美しい娘に恋をする。改宗奴隷だったイサベル・デ・ソリスを寵愛し妻にし王妃アイーシャと息子ボアブディルは苦渋の中で辛酸をなめていた。

アルハンブラ最後の王ボアブディル

母アイーシャと結託しボアブディルは父から王位を奪い取る。王としていざ戦争へ出かけるが1483年キリスト教徒とのルセーナの戦いで捕虜になり再び父王アブル・ハサンが復帰。キリスト教徒側は相手側の内部の揉め事を知っていたようで、内乱で自滅するのを計算しボアブディルにカスティーリアへの税金の約束を取り付けグラナダへ戻す。グラナダでは叔父ザガルが実権を握っており再び内戦となる。1485年ボアブディルは戦況不利と悟るとキリスト教徒側に逃げ込んだ。叔父のザガンがモハメッド13世として即位。ボアブディルはキリスト教徒と手を組み叔父ザガルと戦争。ザガルが降伏し再びボアブディルはグラナダ王としてアルハンブラ宮殿へ復帰できると信じていたようだがキリスト教徒はグラナダからの全撤退を求めた。ボアブディルが裏切られたと気づいた時には既に打つ手は無かった。包囲されたアルハンブラ宮殿は1492年1月2日無血開城。

<上院議会場にあるアルハンブラ宮殿の陥落の絵19世紀プラディージャ>

グラナダの陥落
De Francisco Pradilla – See below., Dominio público, Enlace

アルハンブラの陥落

ひとつの歴史の終焉。1237年から1492年255年の間に21人の国王達が千一夜物語を過ごした夢のまた夢は終わった。アルハンブラ宮殿の陥落。

ボアブディルが一族郎党を引き連れシエラネバダを超えるとき最後に振り返りアルハンブラを見て涙した。母アイーシャは「おまえが男として守り切れなかったアルハンブラを見て女のように泣くがよい」と言ったそう。その峠は今も「ススピロ・デ・モーロ」「モーロ人の溜息」と呼ばれている。

<グラナダ議会場にあるボアブディル家族のアルハンブラ宮殿からの撤退>           白い服の女性が母アイーシャ

アイーシャ・アルハンブラ宮殿の出発
Aixa, de blanco en el centro de la obra de Manuel
Gómez-Moreno (1880), pintada en Roma

 

<最後の王ボアブディル>

ボアブディル王

ボアブディルはシエラネバダの山岳地帯に領土を与えられたがモロッコのフェズまで行きそこで暮らして生涯を終える。今もシエラネバダのアルプハラにグラナダの落人たちが住んでいた白い村が残る。

<シエラネバダのアルプハラにある白い村>

アルプハラス
筆者撮影

その後のアルハンブラ宮殿

最も輝かしき戦利品アルハンブラ宮殿に入ったキリスト教徒たちはその美しさに驚愕した。カトリック両王の孫カルロス5世はアルハンブラ宮殿を帝国の中心にする予定だった。すでにアメリカ大陸を手に入れハプスブルグ領土も手に入れたカルロス5世皇帝にはアフリカをも含む大帝国の野望があった。時代はコンスタンティノープルが陥落してオスマン・トルコが東地中海で勢力を持っている頃。ウィーン攻略をしたトルコのシュレイマン大帝に攻撃を仕掛けるのに格好の場所だった。

<プラド美術館にあるカルロス5世ティチアーノ作>

カルロス5世
museo del prado

しかしアメリカ大陸の発見後経済的関心が大西洋に移りフェリペ2世は父王カルロス5世の宮殿造営を引き継ぐがそれは終わることはなかった。

19世紀ロマン派の時代

<19世紀の版画に出てくるライオンの中庭>

アルハンブラ19世紀版画
El Patio De Los Leones 1833 David Roberts

時は流れ人々の記憶にさえなくなったアルハンブラ宮殿は廃墟となり忘れ去られた。そこにロマ族が住み浮浪者が滞在しこの城を気に留める者はいなかった。そして更に時は変わりロマン派の時代。古いお城などが見直されていたころアメリカ人作家ワシントンアービングがロシア人の友人とアルハンブラを訪れ旅行記と城にまつわる物語を出版した。「アルハンブラ物語」1832年初版、1851年改定版がベストセラーとなりアルハンブラ宮殿は広く世界に知られることになった。

<アメリカ人作家ワシントンアービング>

ワシントンアービング

 

アルハンブラ宮殿まとめ

アルハンブラ宮殿はスペインで最も入場者が多く切符の入手が難しい世界遺産です。アルハンブラ内部は光の動きや水の音を楽しみながら見学してください。

シエラ・ネバダの綺麗な村

スペインは山岳国

知られていませんがスペインはヨーロッパではスイスについでの山岳国。

多くの地域では冬は雪に閉ざされる。

大きな山脈が国内を分断していて交通機関が発達していなかった頃に

山に分断されたそれぞれの地域で独特の文化が育っていった。

アンダルシア

南スペイン・アンダルシア地方
なんとなく私達外国人の持つスペインのイメージにぴったりな所です。

人々はのんびりしていて陽気で人懐っこい。
人が集まると輪が出来て誰か歌い誰かが踊りだしそうだ。

 

そのアンダルシアに「グラナダ」という町がある。

私にとっては特別な町。
町中にお花の香りとイスラムの残像。

自分の記憶の中に「香り」が克明に残っているのはグラナダだけなんです。

イスラム教徒は香りのいいお花を好んで植えていった。
少し小高い丘の上に。
だから風が香りを運んでくる。

シエラネバダ

スペインは山岳国でいがいと沢山の山がある。                           一番南、アンダルシアにシエラ・ネバダ。
最高峰はムルアセン3478メートル

シエラは山、ネバダは雪が積もったという意味

シエラ・ネバダは冬にはたっぷりと雪を積もらせ地中海の風を堰き止めるので         冬のグラナダは底冷えがするほど寒い。

ヨーロッパで1番緯度の低いところにあるスキー場                         お天気がいいとスキー場から地中海が見える。

アルプハーラス

この山の中に綺麗な村が点在する。
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1492年アルハンブラ宮殿がキリスト教徒により陥落したあとのイスラム教徒達が
隠れ住んだ村。
こんな山の中までは追ってこなかった。
段々畑に作物を作ってひっそり暮らしていた村です。
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Alpujarras アルプハラスの村々
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グラナダから車で2時間ほど。
中央の線もないような曲がりくねった登り坂を延々と。
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Lanjaron ランハロン1085m 〜Pampaneira パンパネイラ1296m〜
Bubion ブビオン1296m〜Capileira カピレイラ1436m
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と真っ白い綺麗な村がつづく
スペインで1番の長寿村でもあります。
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グラナダからアルプハーラス行き方

グラナダバスターミナルEstacion de Autobus からアルサAutobus Alsa
10:00発 12:00発 16:30発 各村を通り
時刻は変更あります。www.alsa.es
Alsaというバス会社の公式ホームページから確認できます。

 

カピレイラまでには約2時間〜2時間30分
タクシーだとランハロン51ユーロ
パンパネイラ76ユーロ
ブビオン80ユーロ
カピレイラ82ユーロ
それぞれ時間や曜日によって多少変わります。
目安だと思って下さい。

 

小さなホテルやレストランが何軒かあります。
山好きなら8キロくらいで山小屋まで。
昨年の5月まだ雪の中でした
標高2500メートル以上はアイゼン・ピッケル要

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カディス

カディス

なんとも旅情をそそる名前の街だ。

南スペイン、アンダルシア州の西側。

周りは大西洋に囲まれた港湾都市。
image.jpeg
太陽の光は垂直に街を照らし
白壁に反射して眩しい。
image.png
ヨーロッパ最古の街
紀元前1100年頃にフェニキア人がやって来て造った。
フェニキアはいまのレバノンからシリアの一角。
イスラエルのすぐ北側にある。
エジプトやバビロニアに挟まれているので
高度な古代文明の影響を受け都市国家を作っていた。
image.png
貿易商人で交易で栄えた民族だ。
直線距離で5000キロは離れている。
物が動くと文化や文明も一緒に移動するのは今も同じだ。
彼らが今に残したのがフェニキアン・アルファベット。

 

それまでの表意文字を音を表す表音文字に変えた。
後のローマ人が取り入れたのがいまのローマ字になる。

 

街の考古学博物館に行くとフェニキア人の見事な石棺が残る。
海に囲まれているので古くからの船乗りの街で
コロンブスもここから2度出航している。
image.jpeg
スペイン黄金時代のインディアス艦隊はセビリアを出航すると
カディスを経由して新大陸へ向かった。
タバコや絹や金銀宝石が本国へ運ばれスペインを豊かにした
200年続いた超進んだ輸送システムだったらしい。
時々イギリスやオランダの海賊にやられたけど。

マグロ漁

海沿いを60キロくらいでバルバテBarbateという漁師町
「アルマドラバ」というマグロ漁をやっている。

 

2000年の歴史のある漁でかなり野性的。
何隻もの船でマグロを囲い込んで行き
ジャックナイフを持った漁師たちが海の中にジャンプしてマグロを仕留める。
格闘技型漁師。
この仕留め方が魚の味を左右するらしい。
image.jpeg
解禁は5月中旬頃
捕獲したマグロはあっという間に最新冷凍技術で東京の築地市場へ移動する。
お寿司食べる時スペインの格闘技型漁師達に思いを馳せて下さいませ。

 

そろそろ対岸にアフリカが見えてくる。
ジブラルタルはあと少しだ。
image.jpeg

行き方

マドリッド・アトーチャ駅から Alivia 特急一部新幹線で4時間

イベリア航空  Jerez dela Frontera 空港から50キロ

 

スペインの南にあるジブラルタルは今もイギリス領、その歴史のお話

スペイン南部にある「ジブラルタル海峡」。ヨーロッパとアフリカが一番近い海峡で約14キロメートルしかない。そこに立てばアフリカに手が届きそうだ。地中海と大西洋の入り口で今も多くの船が行き交う重要な地点。そこにあるジブラルタルト言う町は今もイギリス領だ。何故スペインにイギリス領があるのかという歴史のお話です。

ジブラルタルは今もイギリス領


ジブラルタル海峡

ジブラルタル海峡はたったの14キロメートルでもうそこにアフリカが見える。
地中海と大西洋の入り口になっている重要な海峡で対岸はモロッコ。

アフリカとヨーロッパの地図

古代にはギリシャ人がヘラクレスの柱と呼んでいた。フェニキア人たちはここを通り抜けブリテン島の錫やアフリカ西海岸から金を手に入れ商売をしていた。後にカルタゴ人ローマ人ゲルマン民族と様々な民族たちが通って行った。その後この地に遠征して来たイスラム教徒ウマイヤ朝の司令官のターリク・ブン・ジヤードの名前からターリクの山=ジャバル・アル・ターリク=ジブラルタルになった。

ここは昔からマグロ漁で有名。今も大西洋から地中海に入るマグロと地中海から大西洋に出ていくマグロを捕る。すでに古代ローマ人がここのマグロを捕って塩漬けにしていた遺跡が残っている。写真はジブラルタルすぐ横にあるカルテイアの遺跡。かなり綺麗に残る遺跡だ。

<カルテイアのローマ遺跡>

ローマの遺跡、マグロの塩漬け
carteia san roque  筆者撮影

ローマ人たちは四角い石の入れ物でマグロの塩漬けを作り本国へ船で運んだ。

ジブラルタルは1713年からイギリス領

海峡の岩があるあたりは現在イギリス領でスペイン側から入るには今もパスポート検査がある。毎日スペイン側から労働者が歩いて出勤している面積7平方キロメートルの小さなところに3万3000人のイギリス人が住んでいる。と言っても醸し出すムードはアンダルシア人で人々は英語とスペイン語のバイリンガル。政治的に非常にデリケートなところで今も両国の扁桃腺になっている。

 

ジブラルタルはイギリス領

スペイン・ハプスブルグ家の終焉

ここがイギリス領になったのは約300年前の事。スペインにカルロス2世という王様がいた。写真下はプラド美術館にあるカルロス2世の肖像画。不幸の始まりは王子はどこかの王女としか結婚できなかった。スペイン・ハプスブルグの王達は子供達を親戚王族同士で結婚させ続けその結果が遂にこの王の元へやって来た。カルロス2世は3歳まで歩けず8歳まで話せなかった。癇癪もちで2度結婚するが世継ぎを残さず39歳で他界しヨーロッパ全体を巻き込んだ戦争の原因になった。(スペイン王位継承戦争)

<カルロス2世、カレーニョ作プラド美術館>

カルロス2世

 

プラド美術館に有名なベラスケスのラス・メニーナスという作品がある。ベラスケスの大作で中央に王女と奥の鏡の中に国王夫妻がいる

<ラスメニーナス、ベラスケス作プラド美術館>

ベラスケス
Las meninas
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

奥の鏡の中の国王フェリペ4世は若くして即位した国王だ。ヨーロッパの強国スペインも少し陰りを見せ始めた頃の王で2度結婚している。鏡の中の隣の王妃は2度目の結婚の王妃マリアーナ。マリアーナは王の妹の娘なので叔父と姪の結婚にあたる。

フェリペ4世の最初の結婚はフランスの王女でフランス王アンリ4世とマリード・メディシスの娘イサベル・デ・ブルボン。

<イサベル・デ・ブルボン、ベラスケス作プラド美術館蔵>

ベラスケス、イサベル・デ・ブルボン
De Diego Velázquez – See below., Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15587965

 

フェリペ4世の最初の妃との間の8人の子供が生まれている。大切な皇太子として生まれたのがバルタサール・カルロスだった。(写真下)

<バルタサール・カルロス、ベラスケス作プラド美術館蔵>

museo del prado
wikipedia public domain

ところが大切な皇太子が若くして亡くなってしまいイサベル王妃は1644年に42歳で亡くなっている。

さらに複雑になるのがフェリペ4世とイサベル・デ・ブルボンの末娘マリア・テレサがフランス王ルイ14世に嫁いでいる。

<マリア・テレサ、ベラスケス作ウィーン美術館蔵>

wikipedia public domain

 

この2人の結婚式が行われたのがスペイン・フランスの国境にあるサン・ジャンド・リューズ。今はフランス・バスク側の綺麗な町で観光客に人気がある。マリーはいつまでもフランス語をうまく話す事が出来ず夫のルイ14世には多くの愛人がおり孤独な人生をベルサイユ宮殿で44歳で終える。彼女がスペインからチョコレート(カカオ)をフランスに持って行った。

 

さて父王フェリペ4世に話を戻そう。国王の大切な仕事のひとつは世継ぎを残す事、皇太子が無くなり王妃もこの世にいない。「では次」と王の再婚相手に決まったのが亡くなった息子の婚約者オーストリア・ハプスブルグの王女マリアーナ。

<マリアーナ、ベラスケス作、プラド美術館蔵>

ベラスケス、マリアーナ・デ・アウストリア
By ディエゴ・ベラスケス – The Yorck Project: 10.000 Meisterwerke der Malerei. DVD-ROM, 2002. ISBN 3936122202. Distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=159947

 

親戚のオーストリア・ハプスブルグ家はカルロス5世以来の親戚関係。マリアーナの母親はフェリペ3世の娘、という事は叔父と姪の関係になる。もとは息子の嫁になるはずはバルタサール・カルロス皇太子が無くなったのでその父親と結婚したというわけだ。そして生まれた長女がマルガリータ王女。

<王女マルガリータ、ベラスケス作ウィーン美術史美術館>

ベラスケス、青い服のマルガリータ
De Diego Velázquez – pAHSoRgE1VSx2w en el Instituto Cultural de Google resolución máxima, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=22003519

マルガリータ王女の次に待望の男子が誕生した。カルロスと名付けられるが生まれた時から様子がおかしい。先天性疾患を数々持ち合わせ癇癪を起し知的障害も有ったようだ。父王亡きあとスペイン国王となる。

<カルロス2世、カレーニョ作プラド美術館>

カルロス2世
museo de prado

国内は経済破綻が続き戦争もある中ルイ14世の弟の娘と結婚しているが子供無く妻は先立つ。再婚もするがカルロス2世の行動はますます怪しくなり1700年に後継者を残さず決まらずに没した。結果スペイン・ハプスブルグ家の最後の王となった。

スペイン王位継承戦争

カルロス5世から続いたスペイン・ハプスブルグ家は巨大な帝国を築いてきたがここに終焉。その結果ヨーロッパ大混乱の末戦争になる。親戚のオーストリア・ハプスブルグとこちらも親戚のフランス・ブルボンの戦い「スペイン王位継承戦争」は約13年間も戦った。代々のハプスブルク支配を嫌った各国がフランスに味方をしてこのときイギリスが上手く立ち回り戦略上重要な地中海と大西洋の入り口の片足を持って行った。

地中海の入り口地図

複雑な住民の民意と近辺の人々

未だにイギリス領土です。毎日7千人のスペイン人が国境を越えて働きに行く。
Brexitのときは95,9パーセントがEU残留に票を投じた。イギリスがEUから離脱するとスペイン側からの労働者は仕事を失う。ジブラルタル側のイギリス人も陸の孤島となってしまう。

スペイン側は直ぐ「ジブラルタルのスペイン返還でもわが政府は構わない」
と発表したがジブラルタル首相は「見当違いも甚だしい。絶対スペインの一部にはならない」という声明。

 

ただ国境を封鎖されれば往来は船か飛行機のみの孤島。イギリスのBrexitが再びこの辺りを揺らしている。今後の展開に目が離せない状態だ。この辺りのスペイン側海岸線には多くのイギリス人リタイヤー組が別荘を持っている。今後のBrexitの準備でスペイン在住イギリス人がスペイン国籍を取るケースが増えているという。