キリスト教のミニ知識としてスペインの復活祭(セマナ・サンタ)、そして旧約聖書と復活祭の関係を紹介します。キリスト教の最も重要な行事のひとつ「復活祭」はスペイン語では「セマナ・サンタ」、「聖なる週間」という意味で英語では「イースター」。「セマナ・サンタ=復活祭」は毎年変わる移動祝祭日。十字架に掛けられたイエス・キリストの復活を記念する日でクリスマスと並んで一年間で最も重要な行事となる。カトリックの国スペインでは1年間の祝祭日はキリスト教の宗教行事で埋められている。スペインの復活祭は受難の苦しみを追体験する荘厳で厳粛な宗教行事となる。
この期間は学校もお休みになり(お休みの期間や曜日は各州によって様々)金曜日は全国祝日になる。ヨーロッパの人々が一斉に旅行をするのでホテルなども取りにくくなり値段も上がる。商店等はお休みになるが各町で山車が出たり教会に通う人々を見るものスペインの一面を知る良い体験になると思う。復活祭の歴史や行事についてまとめました。
Contents
復活祭=セマナ・サンタ
移動祝祭日とは
キリスト教の祝日にはクリスマス等固定されたものと移動する祭日がある。復活祭(セマナ・サンタ)やカーニバル、ペンテ・コスタは毎年移動する移動祝祭日。中心になるのは春分の日の後にやって来る最初の満月の日。その後にやって来る最初の日曜日が復活の日曜日(スペイン語でドミンゴ・デ・レスレシオン)となりすべての移動祝祭日はこの復活の日曜日を中心に決定される。これはAD325年ニケーア公会議で決められた。キリスト教がローマ帝国で公認されたのがAD311年なのでその直後。しかし当時使われていた暦はユリウス暦で1年が365.25日、1000年以上もたつと実際の天の運行との誤差が大きくなり教会の大問題になった。ローマ法王グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ1582年10月15日にきめたのがグレゴリウス暦。4年に1度の閏年を取り入れ春分の日を3月21日と制定した。(東方教会はユリウス暦で計算するため西方教会とは日付が違います。)
元になったのはユダヤ教の「過ぎ越し祭」
イエス・キリストはユダヤ人でその弟子たちもユダヤ人。彼らの重要なお祭りに「過ぎ越しの祭り」がある。旧約聖書の中に様々な長い物語が書かれているが「出エジプト記」という長いお話がある。イスラエルの民はエジプトで奴隷になって神殿建築などに使われていたがモーゼが登場し彼らをエジプトから連れて逃げた話だ(BC1500年頃)。その長いお話の中にユダヤ人たちが「災いが過ぎ越され救われたた話」が出てくる。それを祝うのが「過ぎ越しの祭り」でユダヤ人たちは今もこの祭りの初日に食事会をする。イエス・キリストの最後の晩餐も過ぎ越しの食事会だった。
<最後の晩餐、レオナルド・ダ・ビンチ1495-98年>
この祭りの事をヘブル語で「ペサハ」という。初代教会の頃はギリシャ語で「パスカ」と呼んだそう。今でもスペイン語で復活祭をパスクアPascuaという。
旧約聖書
聖書は旧約聖書と新約聖書あわせて全66巻、その39巻は旧約聖書で占められている。ユダヤ教徒にとっては旧約聖書のみが唯一の聖典となる。キリスト教徒は旧約と新約を聖典として使い、実はイスラム教徒も旧約聖書の一部を啓典としている。旧約聖書の内容は天地創造から始まりイエス・キリストが生まれる400年程前までのイスラエルの歴史が書かれている。旧約聖書がまとまったものとして書かれたのは紀元前5世紀から紀元前4隻頃のペルシアの支配下にあったと言われており次第に文書が付け加えらていった。
<グーテンベルグの印刷した旧約聖書>
創世記に出てくるイスラエルの族長アブラハムの息子がイサク、その子がヤコブ、その子がヨセフだった(全部長いお話なのでここでは省略)。ヤコブの子ヨセフは出来が良すぎて兄弟達に妬まれ嫌われ穴に落とされた、ヨセフを見つけたエジプト人商人に連れていかれエジプトで奴隷に売られた。その時のエジプトのファラオ(エジプトの王)は奇妙な夢を毎日見るのに悩まされていた。「よく肥えた7頭の牛が河から上がって来て草を食べていると、別の7頭の痩せた牛が河から上がって来て肥えた牛を襲い食い尽くす・・・」。
ヨセフは夢判断が出来るという噂を聞いたファラオが「この夢を解いてみよ」とヨセフに聞くと「7年の豊作の後に7年の凶作がやって来る」ヨセフはファラオに「豊作の7年間に作物を蓄え次の凶作の7年に蓄えるべきです」助言をした。そしてファラオはヨセフにその対策を依頼し、予言通り7年の豊作の間に蓄えた食料が後の7年の凶作の時に役に立ちエジプトは栄えた。ファラオはヨセフに感謝し取り立てられエジプトの宰相に出世しヨセフの子孫すなわちイスラエル人たちがエジプトに栄えた。
<エジプトのファラオとヨセフ>
モーゼの出エジプト
時代は変わりファラオも変わり人は忘れる、特にやって貰ったことは忘れやすいのはエジプト人も同じだった。エジプトで暮らすイスラエル人たちは人口が増え地元の人とは別の独特の社会を築いていた、そしてその閉鎖性と独自性が嫌われエジプトで神殿建設などの労働者として使われていた。イスラエル人たちの抵抗が大きいのでファラオがイスラエル人の生まれたばかりの男子を殺す命令を出した。モーゼが生まれたのはこんな頃だったが母がこっそりモーゼを飼い葉おけに乗せてナイル川に流しそれを見つけたファラオの娘に育てられた。
<3世紀シナゴグの壁画、モーゼがナイル川から拾われる所>
大人になったモーゼは神の啓示を受けイスラエルの民をエジプトから連れて逃げる予言を受けた。神がモーゼを指導者と決め約束の地へ向かわせようとするがファラオがこれを妨害しようとする、神は怒りエジプトに10の災いを下す事にした。その10番目に神はモーゼに言った「子羊の血を家の鴨居に塗りその肉を焼いて食べよ。酵母を入れないパンを食べよ。私は夜エジプトへ行き人であれ家畜であれすべての長子を殺すが鴨居に子羊の血が塗られた家は過ぎ越す」予言通りに子羊の血を塗ったイスラエル人達の家はこの禍は過ぎ去った。これが過ぎ越しの祭りの由来。
ローマ帝国
時は経ちローマ帝国が次第に支配を広げ今のイスラエルもローマ帝国支配下になった。イエス・キリストが生まれたのはその時代。ローマ帝国の中で迫害を受けながらもキリスト教は広まって行った。ローマ帝国で弾圧を受け禁止されていたキリスト教が公認されるのがコンスタンティヌス帝の時代の紀元後311年ミラノ勅令、その後ローマの国教となるのが紀元後380年。
広大なローマ帝国とその周辺国に大きく広がったため復活祭を祝う日付がバラバラになった。これを是正するためにカトリック教会の代表が集まって開いた会議がニケーア公会議だった。ユリウス暦ではズレが生じるのをグレゴリオ13世ローマ法王の時に是正した話は上に書いた通り。
復活祭の様々な行事
カーニバル
日本語では謝肉祭と呼ばれるカーニバル、リオ・デ・ジャネイロやベネチアが有名ですが実はただのお祭りではなくキリスト教の宗教行事で復活祭の一環。復活祭の前に日々の生活全般を慎み心身を清めお肉を断つ40日間=四旬節(クアレスマ)という期間がある。その前に最後にいっぱい食べて飲んで踊って楽しみましょうというのがカーニバル。
キリスト教がローマ帝国で広がって行く中で色々な事をローマの習慣と同化させていった。ローマ人たちのお祭りや習慣がキリスト教に取り入れられすり合わせた行った中サトゥルナーリアというお祭りと結びついたと言われている。サトゥルヌスは農耕の神様、毎年の豊作をサトゥルヌスに祈り仮装をして宴会をした祭りサトゥルナーリアとカーニバルが結びついた。語源はラテン語のカルネム・レバーレ、肉を取り除くという意味。
基準は復活祭の日曜日。そこから46日(40日間と日曜日6回)戻った水曜日が「灰の水曜日」でカーニバルの最後の日になる。「灰の水曜日」と言う名は前年の棕櫚の枝を燃やした灰を額に十字架のしるしを付け罪の償いをした事からくる。
「灰の水曜日」にスペインでは各町でイワシの埋葬が行われる。質素な食事の象徴イワシを埋葬する事でこれからの日々の貧しい食事を呼び起こす。マドリードでは毎年ゴヤのお墓になっている教会サンアントニオ・デ・ラ・フロリダ教会からイワシの埋葬の行列が行われる。
<ゴヤ、イワシの埋葬、フェルナンド美術アカデミー>
枝の主日(棕櫚の主日)
復活祭の一週間前の日曜日を枝の主日と呼ぶ。スペイン語ではドミンゴ・デ・ラモス。イエス・キリストが受難の前エルサレムに入城した日、群衆がナツメヤシ(棕櫚)の枝を道に敷き、または手に持って迎えたことを記念する。スペインやイタリアではオリーブを使う事も多い。棕櫚は復活のシンボル、オリーブは勝利の象徴。
<イエス・キリストのエルサレム入場、ジオット1304年>
この日に各教会前に棕櫚やオリーブが準備されそれを持ってミサを受ける。祝福された棕櫚を1年間自宅に飾っておくのは神社の御札のようなものだと私は思っている。
<飾りになっている棕櫚の葉>
聖木曜日
復活祭直前の木曜日を聖木曜日と呼ぶ。スペイン語では「フエベス・サントJueves santo」。最後の晩餐の日でイエス・キリストが裏切られ捕まった日に当たる。復活祭前の一週間は特別な時期でその中でも聖木曜日からの三日間は特別な典礼やミサが行われる。プロセシオン(山車の行列)はスペイン中の街の教会から出るが特にこの日はセビージャのいくつかの教会からの夜中から朝まで出る「マドゥルガッMadurgad」は壮観。満月の下2000人以上の信徒会が眼だけ出た三角棒で静かに行列を歩いているのを見ると魂ごと持ち去られそうになる。
聖金曜日
金曜日はイエス・キリストが十字架にあった日でカトリックの信者の人々は軽い断食をする。この日は一年で教会で唯一教会でミサが行われない日である。この日も大きな山車の行列がスペイン中の教会から出る。
<マドリード、メディナセリ教会のキリスト像>
復活の日曜日
前日の土曜日の夜中に教会では復活のミサが行われる。ユダヤ教では日没が一日の終わりで始まりだったので復活も土曜日の夜中に行われたと考えられている。夜中というのに教会には多くの人々がミサに参加している。
まとめ
ミサが行われ山車が出、それを見に行くスペイン人は子供にいたるまで正装に近い服装。重い山車を担ぐスペイン人は長い時間の重労働が大変な名誉で終わった後の感動は言葉では表せない程だという。年によっては雨で催行されない事もあり、大人達がワンワン泣いているのがニュースで放映される。スペイン人の中にあるこの感情は日本語に訳すのは不可能だと思う言葉でDevocion/fe/creyente,等は一応訳語になっている「信仰」とか「奉仕」というのとは次元が違う「絶対かなわない大きな存在に対するひれ伏すほどの巨大な感覚」なのだと思う。スペインに住んでいると、ものすごく大きな愛情に宗教とか信仰とかでは計り知れない深い物を感じることが有り、そのひとつが私にとってはセマナ・サンタ、復活祭です。