聖フランシスコ・ザビエル、日本にキリスト教を伝えたスペイン人ザビエルとイエズス会の宣教師たち。

フランシスコ・ザビエル

 

 

フランシスコ・ザビエルはスペイン人(バスク人)のイエズス会宣教師。ポルトガル王に派遣されアジアへ向かった。この頃スペインは女王フアナ1世(狂女ファナ)の時代。女王は既に城に幽閉され深い精神の闇の中で生き、ファナの息子カルロス5世(カルロス1世)がスペイン王と神聖ローマ帝国皇帝として君臨していた。カルロス5世の息子、フェリペはすでに最初の妻を亡くし22歳になっていた。イギリスではカトリックから破門されたヘンリー8世は既にこの世になくメアリー・チューダーの即位少し前、ドイツでは宗教改革のマルティン・ルターは3年前にこの世を去っていたがヨーロッパはカトリックとプロテスタントで分断されていた。鹿児島にザビエルが到着した1549年、信長15歳、秀吉12歳、家康6歳、ヨーロッパでも日本でも歴史の大物が同時に登場した。片道切符でリスボンを出発しアジアでキリスト教の布教に努め中国で亡くなったフランシス・コザビエルの人生を追ってみました。

時代背景


ザビエルは何故ポルトガル王からの派遣だったか

 

大航海時代に入っていたスペインとポルトガルが海外領土で揉めないように条約が結ばれた。1494年スペインのトルデシージャスで結ばれた条約で大西洋に縦に線が引かれスペインは西へポルトガルは東へと行先が決まった。東へ向かったポルトガルはインド航路発見の後インドのゴアを武力で手に入れマラッカ迄も手中に収めていた。香辛料貿易を独占したポルトガルは貿易網を拡大し世界的な交易システムを築き上げた。マラッカはインド洋から南シナ海へのルートで古代からの需要な海の十字路だった。ポルトガルはそのマラッカを手に入れ多くの貿易商人達が居住していた。

ポルトガルの交易路
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更に明王朝の中国にまで進出したポルトガルは1517年には広州で貿易を開始しマカオに居住しはじめた。

<マカオの聖ポール教会>

マカオの聖ポール教会
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ポルトガル商人達は火器を香辛料に替えインドのゴアに集め喜望峰を回ってリスボンに持ち帰った。それらはアントワープやロンドンに運ばれリスボンにはお金と人が集まった。ポルトガルのアジアの香辛料貿易は国家事業となりドイツのフッガー家も出資した。種子島にポルトガル人が到着したのはこの時代(1543年)で日本に火縄銃が伝わった。

<種子島銃>

種子島銃
Arquebus.(Tanegashima Hinawajyu・Japanese:種子島火縄銃)
this The Arquebus is in the Portugal Pavilion in Expo 2005 Aichi Japan.
Photo by Gnsin

1550年には平戸に商館を置いて中国産の生糸や火縄銃に使う火薬の原料を中国で安く買い日本で高く売りつけて大儲けをした。九州では大名たちがこの利益にあやかった。種子島にポルトガル人がやって来たときの船をチャーターしたのはマラッカから東アジアを中心に活躍していた倭寇の王直で海賊の頭だった。

<倭寇のルート>

倭寇のルート
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鉄砲が作れるようになっても火薬と玉が無いと武器として役には立たない。玉を作る鉛は国内にもあったようだが火薬の原料は硫黄、木炭、硝石で日本では硝石が取れずインドから輸入した。王直が硝石の取引をはじめ信長が大量に買い硝石貿易で随分とお金が動いた。

ポルトガル王ジョアン3世(1502-1557)

フランシスコ・ザビエルの時代、この大事業をやっていたのがポルトガル王ジョアン3世。ジョアン3世はスペインのカトリック両王の孫にあたる人物で父親はマニュエル1世、母親はイサベル女王の3女マリア。

<ポルトガル王ジョアン3世>

ポルトガル王ジュアン3世
By クリストヴァォン・ロペス – From en:Image:John III of Portugal.jpg, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=481187

ジョアン3世の結婚相手は同じくカトリック両王の孫のカタリーナ王女。カタリーナ王女は狂女ファナの末娘でトルデシージャスの城に幽閉されながらも最後まで手元に置いていた王女だ。

<トルデシージャス城で末娘カタリーナと暮らす狂女ファナ>

ファナ トルデシージャス
Francisco Pradilla, La Reina Juana la Loca, recluida en Tordesillas con su hija, la Infanta Catalina, 1906 – Museo del Prado

イグナチオ・デ・ロヨラが新しい修道会を創設したと聞いたジョアン3世はアジアのポルトガル植民地の異教徒へキリスト教徒を布教する宣教師を派遣してほしいと頼んだ。

*ジョアン3世とカタリーナ王妃の間に9人の子供が生まれるが育ったのは2人だけだった。一人娘はスペインのフェリペ2世と結婚したマリア・マヌエラ、皇太子ジョアン・マヌエルは病弱で16歳で父王より先に早世する。16歳で既に結婚はしており亡くなる少し前に息子が生まれセバスティアンと名付けられた。世継ぎセバスティアンが無謀な戦争に出かけて早世した結果スペインのフェリペ2世にポルトガルは併合されてしまう。

イエズス会の結成


この時代のヨーロッパではカトリックの総本山サンピエトロ寺院の建設にお金がかかり過ぎ、困ったローマが考えついた錬金術が免罪符の販売だった。搾取が多かったドイツを中心にローマ・カトリック教会に対しての反発から宗教改革が始まっていた。スペインを中心にカトリック側では倒れかけた教会を守るために様々な改革が行われるようになりその一環で対抗宗教改革が始まった。この背景の中で結成されたのがイエズス会だった。

イグナチオ・デ・ロヨラ

イエズス会はスペイン北部出身のバスク人イグナチオ・デ・ロヨラによって結成された当時の新しい修道会。ロヨラは若いころは戦争での功名を狙った戦士で現世の出世を願う人物だった。パンプローナでの戦いで負傷し治療中にキリスト教の聖人伝を読んでいるうちに熱中し元気になるころには神の戦士になっていた。ロヨラには申し訳ないがマニアックで狂信的なタイプの人だったと想像している。心を入れ替え瞑想と巡礼をし新しい境地を開き自分の信じた道へ突き進んでいった。

<イグナチウス・デ・ロヨラ>

イグナチウス・デ・ロヨラ
By 匿名 – http://www.spiritual-exercises.com/images/ignatius2.jpg, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=86025

その時にロヨラが作った瞑想法、心霊修業がイエズス会の修行法に今も使われている。パリ大学で仲間を見つけ異教徒と戦う戦士の為にとエルサレムに行こうとしたが不可能だったのでアジアへ行先を変えた。最初の予定ではポルトガル人のシモン・ロドリゲスとスペイン人のニコラス・ボバディージャの2人だったがニコラス・ボバディージャが重病にかかりピンチヒッターで決まったのがフランシスコ・ザビエルだった。

フランシスコ・ザビエル(フランシスコ・ハビエル)


1506年4月7日にナバーラ王国の貴族の子としてパンプローナ近くザビエル城で誕生。父方の祖父は農業を営んでいたがフランシスコ・ザビエルの2代前の人物が有能でパンプローナに出て来てナバーラ王室に仕え功績を立てた。父親も仁徳も学識もある人物で首相のような地位にいた。フランシスコ・ザビエルの母は貴族の出でザビエル城は母の持参金の一部だった。

<スペイン北部パンプローナ近くのザビエル城>

ハビエル城
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Source Own work
Author Rayle026

ナバーラ王国は交通の要所で重要な位置にあった。フランシスコ・ザビエル6歳の時にフランスとスペイン間で戦争が起こりザビエル9歳の時にスペインに併合された。今はスペインの17州のひとつナバーラ州となっている。父親はその心労で亡くなり王国が滅び家族の苦労を見て育ったフランシスコ・ザビエルは当時の若者が抱く出世や一攫千金等の夢は無く大学へ進み故郷の為に家の復興を助けたいと願う若者だった。

フランシスコ・ザビエルとイグナチオ・デ・ロヨラとの出会い

1525年18歳でパリ大学へ留学し抜群の成績で卒業する。そこで知り合ったのがイグナチオ・デ・ロヨラだった。ロヨラは15歳年上の37歳で大学へやって来た変わり者、フランシスコ・ザビエルはパリのソルボンヌ大学の聖バルバラ学院で既に哲学教授の講義をしていた大学教授だった。

大学の寮で同室になったロヨラをフランシスコ・ザビエルは初め遠目に見て避けていたようだ。パリ大学の教授の職を得ていたが次第にロヨラの言葉に感銘を受け1533年28歳の時に神の使徒として働く決意を固めた。1534年28歳の時パリのモンマルトル聖堂で6人の同士と共に清貧と貞潔を誓いキリストに従い聖地へ巡礼を誓う。8月15日聖母マリア聖天の日だった、この日がイエズス会創立の日となる。

<イエズス会16世紀の紋章>

イエズス会紋章
By Collegium Societatis Jesu – Annuae litterae Societatis Jesu: anni MDLXXXIV, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=50510456

フランシスコ・ザビエル達「イエズス会同志たち」は聖地エルサレムへ向かう船に乗る為イタリアのベニスに歩いて向かったが戦乱で出港が出来ずベニスの病院で人々に奉仕する。ローマに向かいローマ法王パウルス3世に謁見しイエズス会が法王によって正式に認可された。(1540年)

<ローマ法王パウルス3世>

パウルス3世
wikipedia public domain

 

フランシスコ・ザビエル、リスボンを出発

ロヨラに選ばれたボバディージャは病気にかかりロドリゲスは宮廷に引き留められピンチヒッターのフランシスコ・ザビエルのみがインドに向かう船に乗ることになった。1541年4月7日ザビエルの35歳の誕生日だった。

<リスボン、発見のモニュメント>

発見のモニュメント、リスボン
筆者撮影

インド航路を通り13か月の船旅で1542年にインドのゴアに到着。ゴアを中心にインド沿岸からマラッカ、モルッカ諸島をめぐり5年間の布教。布教の妨げになったのはポルトガル人商人たちの生活態度だった。拝金主義が横行し目の前の快楽におぼれる人々を見てフランシスコ・ザビエルを悲しませた。

インドの南は読み書きの出来ない人達も多く祈りの言葉を現地の言語に訳したりメロディーをつけたり苦労した。鐘を鳴らし子供達を集め歌で祈りを教え、家に帰った子供達が歌い家族に広まるようにした。

フランシスコ・ザビエルとアンジロウ

フランシスコ・ザビエルは始めはインドのゴアを中心に布教していたがマラッカ、モルッカ諸島まで巡っていた時にマラッカでアンジロウ又はヤジロウという名の鹿児島出身の日本人に会った。フランシスコ・ザビエルがロヨラへ送った手紙が残る。「私はこのアンジロウを通じてすべての日本人を想像しますと今迄発見された民族の中で最も研究心の発達したものだと考えます。」

アンジロウ又はヤジロウはおそらく日本で犯罪を犯して亡命し、悔悛しており救いを求めてザビエルを探し当ててマラッカ迄来ていた。罪を悔いておりザビエルを訪ねたがその時不在の為あきらめて船に乗って鹿児島へ戻ろうとしたら船が大時化に会いザブ~ンとマラッカに戻され運よくフランシスコ・ザビエルに謁見ができた。彼の出自や本名などは不明、ザビエルが日本を去った後布教活動から離れ海賊になった、又は仏僧の迫害を受け日本出国を余儀なくされ中国付近で海賊に捕まった等諸説ある。(*以下アンジロウで統一)

フランシスコ・ザビエルはアンジロウと2人のお付きの日本人にゴアの学院でポルトガル語と教理を勉強させ洗礼を授けた。1549年4月15日ゴアを出発し中国船に乗り換えアンジロウの故郷鹿児島を目指す事となった。

ポルトガルのカラヴェル船
By Unknown – Livro das Armadas, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=28565761

 

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フランシスコ・ザビエル鹿児島へ

ポルトガル船が種子島についてから6年が経っていた。フランシスコ・ザビエルが鹿児島へ入港したのは1549年、奇遇にも聖母マリア聖天の日8月15日。同行したのはコスメ・デ・トルレス神父、フェルナンデス修道士、アンジロウと2人の日本人、中国人とインド人。

<南蛮寺が描かれた屏風>

南蛮屏風
By attributed to Kano Domi – 不明, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=353058

9月29日薩摩の領主島津貴久に一宇治城(イチウジジョウ)にて謁見が許されポルトガル船の貿易に魅力を感じていた島津は領内での布教の自由を与えた。フランシスコ・ザビエルはアンジロウの助けを借り日本語を学び布教を始めた。

島津家の菩提寺である福昌寺の住職、忍室(ニンジツ)と親しくなり2人は寺の縁側で語り合ったようで誠実なフランシスコ・ザビエルの人柄が重職に伝わったようだ。1年間の鹿児島滞在中に100人の人々に洗礼を授けた。しかし期待したポルトガル船がやってこないので島津は布教を禁止する。

ザビエル都へ、京都へ

鹿児島を出発して平戸へ向かう。大名松浦の家来木村という侍とその家族に洗礼を授けフランシスコ・ザビエルは京へ向かう。木村の孫のセバスティアン木村は日本人最初の司祭となるが1622年に長崎で殉教している。

フランシスコ・ザビエルはその後博多へ渡り大内義隆の領内山口へ渡り一か月滞在。岩国から船で堺へ。貧しい身なりの外国人の旅人をかわいそうに思った堺の商人が豪商「日比谷了慶ヒビヤ・リョウケイ」を紹介してくれた。当時にしては珍しい瓦屋根3階建ての建物に住む富豪で了慶は後にコスメ・デ・トルレス神父やルイス・フロイスの面倒を見、自宅を教会に開放している。その屋敷のすぐ近くに千利休が住んでおり了慶は他の商人達と同じく茶人でもあり千利休とも親しくしていた。了慶は後に自身も洗礼を受けており、利休も洗礼したという説がある。茶室は神聖な場所でミサにふさわしく利用したかもしれない。茶道の帛紗(ふくさ)の使い方とミサの所作が似通っているのは以前から指摘されている。

<千利休>

千利休
By painted by 長谷川等伯, calligraphy by 春屋宗園 – http://www.omotesenke.com/image/04_p_01.jpg , Omotesenke Fushin’an Foundation, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=735711

堺の港は遣明船の発着港で日明貿易で栄えてた。種子島に鉄砲が伝わるとすぐその製造法が堺の商人によってもたらされ堺の経済を発展させていた。ポルトガル商人の窓口は平戸や長崎だったが堺の商人は九州に出向いて絹や生糸と銀を交換した。商人達が自治権を持ち街の周りに堀をめぐらせ武士の侵入を防いだ。有力商人達が会合衆(えごうしゅう)と呼ばれ力を持ち街を治めていた。彼らは茶の湯に集まり情報交換をしたり親交を深めており茶室は重要な場だった。イエズス会は日本の事を良くリサーチして茶の湯や茶室の事も報告されている。

 

フランシスコ・ザビエルは日本の大学として聞いていた比叡山へ行こうと目指す。坂本という比叡山ふもとにある僧侶の街まで行くが比叡山に上る許可はもらえぬまま京都は応仁の乱で荒廃し足利将軍の政権は地に落ちていた。がっかりし鳥羽から堺へ向かう。比叡山をフランシスコ・ザビエルはヨーロッパの大学にあたる場所と考えておりで訪れたいと切望していた。

山口へ

フランシスコ・ザビエルは日本では地方の有力大名にこそ実権があると山口へ向かう。日本人の心理の一面を理解したフランシスコ・ザビエルは「日本人は体裁を重んじ、身なりによって人の品位を定める。身分の高い人物に会うためにはそれなりの身支度と贈呈品を持つのが礼儀」と知り平戸へ戻り衣服を整え時計、鉄砲、楽器、メガネ、洋画を馬の背に積み1550年に山口の城下町へ向かった。

<大内義隆>

大内義隆
By 日本語: 不明(異雪慶珠賛) – The Japanese book “Bōchō no Bijutsu to Bunka (防長の美術と文化)”, Gakushu Kenkyu-sha, 1983, パブリック・ドメイン, Link

大内公は機嫌を良くしフランシスコ・ザビエル達に「大道寺」という寺を提供し領民への布教を許した。(大内家はその後謀反を起こされ1551年に滅びる。)

 

昼夜を問わず訪問客が押し寄せ神の本質、霊魂の事、地獄や煉獄、地球の形状や太陽の運行について質問の質問にフランシスコザビエルは誠実に明快に回答をして行き人々の好奇心を満足させるが改宗者は現れなかった。

 

ある日同行のフェルナンデス修道士が通りすがりの日本人から顔に唾を吐きかけられても怒るでもなく落ち着いて静かに説教を続ける姿を見ていた民衆の中から洗礼を受けようという人物が現れ次第に改宗者が出て来た。

この頃フランシスコ・ザビエルは「神」の事をアンジロウの訳に従って「大日」と呼び真言宗の僧侶から好感を持たれていたが良く調べると「大日」はキリスト教の「神」全知全能の創造主ではない事に気がき「大日」から「デウス」に呼び変え人々は混乱し僧侶たちと争いが起こる。

フランシスコ・ザビエル大分へ

大分港にポルトガル船が着き豊後の大友義鎮(後の大友宗麟)から招待を受けた。1551年当時22歳の大友義鎮はフランシスコ・ザビエルの人格に心を打たれ布教の許可を出したと言われるが戦後時代ポルトガル商人からの鉄砲の火薬の原料が本来の目的ではあるまいか。その30年後に自らも洗礼を受けドン・フランシスコと名乗り理想郷ムジカ(無鹿)を作ろうとする。ムジカはスペイン語で音楽の事。

<大友宗麟>

大友宗麟
By 不明 – 大徳寺塔頭瑞峯院蔵, パブリック・ドメイン, Link

そのポルトガル船にインドからの郵便物が無く宣教師たちを残しフランシスコ・ザビエルはゴアへ戻る。再び日本へ戻って来る予定だったが中国の情報を入手し「日本で布教の成功を手に入れるには中国へ」行こうと渡った上川島(広州)で熱病にかかり1552年に倒れた。ザビエル46歳だった。

遺体はインドへ

上川島で亡くなったフランシスコ・ザビエルの遺体をすぐには運べないので一旦そこに埋葬された。2か月半後に墓を開けてみたら顔も体も腐敗していなく衣服も美しいままだった。マラッカの丘の上の聖母教会へ埋葬。イエズス会の神父がやって来て墓を開けるが遺体はきれいなままだった。フランシスコ・ザビエルの東洋の布教の拠点だったインドのゴアへ移動させ聖パウロ学院に安置、その後1624年にボムジェス教会に移管された。今もザビエルは銀の棺に入れられ10年に一度公開されている。

イエズス会は遺体をローマに移動させたかったが長い船旅に絶えられないだろうと右腕だけをローマへ送った。1622年3月12日カトリック教会によって聖人に列せられ「聖フランシスコ・ザビエル」となる。

フランシスコ・ザビエル後のイエズス会宣教師たち


コスメ・デ・トルレス神父

フランシスコ・ザビエルが去った後はコスメ・デ・トルレス神父が18年間日本に滞在し日本文化を尊重し質素な着物を着て日本人と同じものを食し地道に活躍した。ザビエルの遺志を継いで夢を実現させたのはコスメ・デ・トルレス神父だった。

ルイス・デ・アルメイダ神父

コスメ・デ・トルレス神父に感化されイエズス会に入信したルイス・デ・アルメイダはポルトガル人貿易商人で日本の貿易で巨万の富を手に入れていた。もともと南蛮外科医だったルイス・デ・アルメイダは山口でコスメ・デ・トルレス神父の誠実さに心を動かされ富と名声を捨てイエズス会に入信した。貧しい日本の田舎で子供達が間引きされ河に沈められているのを見て私財を投じ孤児院を建て命を救った。またハンセン病患者の為のホスピタルを作りマカオやゴアから自費で薬を取り寄せ多くの人々の命と心が救われた。これが日本初の病院となる。

ルイス・フロイス司祭

ルイス・フロイスはポルトガル人司祭で戦国時代に日本で信長や秀吉に謁見している。イエズス会からの命令で日本におけるイエズス会の活動を記録する事になる。この記録が「日本史」として今も読むことが出来る統一して第三者から語られた戦国時代の重要な全体像の歴史書となっている。

<ルイス・フロイスの日本史>

ルイスフロイス日本史
wikipedia public domain

 

最後に


フランシスコ・ザビエルは志半ばでこの世を去った。異国の旅で故郷を思い出す事は有ったのだろうか。インドへ出発した後日本に戻る予定だったと言われているが日本を去った後にイエズス会へ送った書簡には日本について書かれたものが無いという。南蛮商人達が日本を良いように搾取していたのは間違いなく、その後スペイン王フェリペ2世がポルトガルを併合し日本も侵略しようとしていたという説が有力だ。フランシスコ・ザビエルは日本の人々に愛着を持ち侵略されないように筆を控えたとも考えられる。ポルトガル人によって日本人が奴隷に売られているのをイエズス会は禁止するように呼びかけていた。

フランシスコ・ザビエルが洗礼した日本人のベルナルド神父がリスボンへ渡りローマでイエズス会へ入信している。おそらく最初にローマを訪れた日本人となる。長旅で病気にかかりポルトガルのコインブラで永眠した。故郷に帰らず遠い異国で屈辱もあっただろう人々の人生に思いを馳せる。

 

 

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