スルバランはスペイン17世紀バロック期に登場した画家。同時に多くの天才画家達が登場したこの時代を17世紀スペイン黄金世紀と呼ぶ。国王フェリペ4世の時代、世界を手に入れていたスペインは宗教改革や戦争で緩やかに下り坂を迎えた。対抗宗教改革に国中が燃え上がりトリエント公会議の後の厳しい宗教裁判が行われた時代、書物だけでなく絵画に関しても検閲が行われていた。歴史的にカトリックの擁護者の国スペインでは厳しい異端審問が行われていた為画家達への注文は宗教画に限られた。唯一例外的に宮廷で肖像画と神話画が注文されている。純粋なカトリック信仰が残ったスペインの民衆も敬虔な信仰心と祈りの中で生きていた時代だった。忘れてはいけないのは当時のスペインの画家達は芸術家というより職人。身分も高くは無くただひたすら神を信じ自分に与えられた才能を真摯に作品に投影していった。
Contents
スルバラン(フランシスコ・デ・スルバラン)
1598年11月7日―1664年8月27日
エストレマドゥーラの小さな村フエンテ・デ・カントス(ポルトガル国境近く)に生まれる。スルバランが生まれた時エル・グレコ(1564-1616)はトレドで晩年を過ごしていたしベラスケス(1599-1660)は1年後に生まれ、ムリーリョ(1618-1682)は19歳後輩になる。スルバランとベラスケスは共にセビージャで徒弟時代を過ごしている。スルバランの父親はバスク人の商人だったが息子の絵の才能を見抜き生まれた街で絵の勉強をさせていた。15歳で今は無名のセビージャの画家ペドロ・ディアスに弟子入りした。ここでアロンソ・カノやプランシスコ・パチェコと出会ったようだ。
セビージャでの成功
セビージャの街は新世界への船が入港する華やかで豊かな時代だったが同時に一攫千金を狙う野心家も集まる荒れた街でもあった。
<16世紀のセビージャ、グアダルキビール川に入って来る船>
1617年19歳で結婚しレジェーナで3人の子供が生まれ地元のエストレマドゥーラの修道院や教会から注文を受けて仕事をしている。
スルバランは次第に生まれた街では名の知れた画家になっていた。1625年に裕福な10歳年上の未亡人と再婚し彼の仕事と経済状態は良くなった。1626年にセビージャのドミニコ会の修道会からの注文で8か月で21作品を書き上げた。そのひとつが磔刑のキリスト、画家29歳の作品。この時からセビージャに移住している。
<1627年磔刑のキリスト、シカゴ・インスティテュート>
この時代に磔刑図は非常に多くさまざまな画家によって描かれていてほぼ同時期にベラスケスが描いたものがプラド美術館にある。どちらの作品もベラスケスの師匠のプランシスコ・パチェコによるキリスト教図像学に忠実にキリストに穿たれた釘は4本、頭は少し右に倒れている。
<キリストの磔刑、1633ベラスケス、プラド美術館>
新しい修道院が次々と建立されスルバランは大がかりな作品の注文を受けるようになり成功を収めた。1628年セビージャの履足メルセス会修道院から同時に22点の注文を受けた。
<セビージャのメルセス会修道院>
履足メルセル会修道院は13世紀セビージャがイスラム支配から解放されてすぐに作られた修道院でその建物が現在セビージャ美術館になっている。
その中の遺体安置所に置かれた「聖セラピオ」は傑作と言われる作品だが大変残念な事に現在アメリカのワーズワースの美術館にある。衣装の量感や質感、白い色が何度も丁寧に塗られている。一滴の赤い血も描くことなく聖人の拷問の痛ましさと殉教を表している
<聖セラピオ1629年、ウォッズワース・アーシニアム>
聖セラピオは13世紀のメルセル会修道士。ムーア人の捕虜となったキリスト教徒の身代わりに敵地へ行き殉教した聖人。暗闇の中で白い修道衣が光に照らされている明暗法はカラバッジオの影響。両手の指の描写や衣服のひだの量感が素晴らしい。
また同じ修道院の回廊の為に修道院創立者ペドロ・ノラスコの生涯というテーマで大作を描いた。静謐で禁欲的な作品は注文主の希望で当時の画家は注文主からの希望通りに忠実に描く職人だった。
<聖ペドロ・ノラスコに現れた聖ペテロ1629年、プラド美術館>
メルセス会修道院の創立者聖ペドロ・ノラスコの生涯。右側の聖ペドロ・ノラスコにその名前の由来になった聖ペテロが現れた。聖ペテロは逆さ十字で殉教したイエスキリストの弟子。痛ましい殉教の聖ペテロの苦しそうな目の表情のリアル、暗がりの中の聖ペドロ・ノラスコの衣装の美しい白い布地の量感が美しい。
<聖ペドロノラスコの幻視1628~29 プラド美術館>
聖ペドロ・ノラスコの幻視。上の作品と同じ聖ペドロ・ノラスコの生涯のシリーズ。左上にエルサレムの街、右側に天使が天から降りて来てエルサレムを指さしている。天使のピンクとブルーの衣装の素材感、聖人の腰から下がるロザリオが美しい。これらはプラド美術館で鑑賞できる。
1630代年はスルバランの頂点をなす時期。セビージャ大聖堂のサンペドロ礼拝堂の祭壇の制作やへレス・デ・ラ・フロンテーラのカルトゥジオ会の祭壇、グアダルーペの王立修道院に修道士たちを描いた大作を残している。
<グアダルーペ修道院の回廊にあるスルバランの作品>
マドリードへ
セビージャで成功をおさめたスルバランは1634年マドリードの宮廷に呼ばれる。このチャンスをくれたのは友人ベラスケスだった。既にペラスケスは宮廷画家としてマドリードで活躍しており同郷の2人の画家は同じ時期にセビージャで徒弟時代を過ごしていた。マドリードでブエンレティーロ宮殿の諸王の間を飾る作品が描かれる。ベラスケスのブレダの開城を筆頭に12点の戦争画が用意されることになった。
<ベラスケス作ブレダの開城、プラド美術館>
スルバランは1625年のカディスの街が英国軍の攻撃にさらされた時にスペイン側が追いやった歴史的勝利の場面を描いた。
<カディス防衛1634年、プラド美術館>
実はこの作品の評価は低く英雄の活躍の大胆さや勝利の場面の緊迫感に欠けると言われている。スルバランは修道院で光を放つ画家だったのだ。
同じくブエンレティーロ宮の為にギリシャ神話のヘラクレスの偉業のテーマの作品群を10点制作している。スルバランの神話画も戦争画もこの時の宮廷からの注文のみで生涯にわたって宗教画を描いた画家だった。これらはプラド美術館で鑑賞することが出来る。
<ヘラクレスの牛の退治1634年、プラド美術館>
ギリシャ神話の中に出てくる長いお話でヘラクレスはゼウスが人間との浮気で生まれた子供。嫉妬をしたゼウスの正妻ヘラによって人間では不可能なとんでもない挑戦をさせられることになった。そのひとつがクレタ島の巨大な牛の退治だった。それらヘラクレスの偉業をスルバランは作品にしている。ヘラクレスの体の筋肉等人体研究がされている。
マドリードで「宮廷画家」の名を手に入れたがスルバランは翌年にはセビージャへ戻っている。
アッシジの聖フランシスコ
その後セビージャの修道士の共同体からの注文と思われるシリーズで描いたアッシジの聖フランシスコ。
<アッシジの聖フランシスコ1630-35年頃、ロンドン・ナショナルギャラリー>
上の作品とほぼ同じ物がメキシコシティーのソウマヤ美術館にある。2度目の結婚の妻が亡くなり画家になった息子も同じころペストで死亡している。画家の作品に更に深い静謐さが現れるのはこの時代。カラバッジオの明暗法の影響がみられ禁欲的な修道士の内面が感じられる。
<自分の墓にいるアッシジの聖フランシスコ、1630-34アメリカ・ミルウォーキー美術館>
(下)同じアッシジの聖フランシスコのスルバラン晩年記の作品。カラバッジオのテネブリズム(明暗法)は使わず背景に空が描かれている。衣装の擦り切れた素材感の技術が素晴らしい。
<聖フランシスコ、1659年プラド美術館>
神の子羊
生贄として神にささげられる子羊はイエス・キリストの象徴。犠牲や従順、信仰を現す。
<神の子羊1640年、プラド美術館>
足を縛られた子羊の無力さの正確な表現、神に対する従順を的確に表す。他に何も宗教的な物は描かれていないが、力なく横たわる子羊に強い信仰心を感じさせる。1640年妻と息子をペストで亡くした頃の作品。
スルバランの描く聖女たち
スルバランは単身で聖女たちを何点も描いている。それぞれ美しい豪華な衣装に身を包んでいて繊細な描写が素晴らしい作品。手にの宗教的象徴物(アトリビュート)を持ち聖人画と分かるがまるで近代の肖像画のように描かれている。当時の豪華な衣装、宗教画だと思わずファッションの特集の様に衣装の美しさも楽しめる。
<聖カシルダ又はポルトガルの聖イサベル1640年頃、プラド美術館>
長い間薔薇を象徴物とする聖カシルダと呼ばれていたが最近ではポルトガルの聖女イサベルとの解釈もある。
*聖カシルダ=9世紀に生まれたムーア人の王女。父の意に反してキリスト教となり殉教した。手に持つバラの花は聖カシルダの象徴物。捕らえられた時にパンをキリスト教徒の為に持って行こうとしていたが捕まった一瞬パンがバラの花に変わった奇跡があった。
*ポルトガルの聖イサベル=ポルトガルの王に嫁いだアラゴンのイサベルは貧しい人々にいつも奉仕していたが王はあまり快く思っていなかった。貧者にパンを届けに出かけるイサベルを見つけ咎めようとした王がイサベルが衣装に隠している篭を見るとパンが薔薇に変わった奇跡があった。
<聖カシルダ1630-35、ティッセンボルネミッサ美術館マドリード>
スペインの没落
30年戦争での戦費やペストの流行等スペインの現状は次第に画家達にも影響を与え大規模な注文が亡くなった。又新しい画家ムリーリョの登場で時代は変わって行った。スルバランの厳格な宗教感よりムリーリョの甘美なマリアの方が大衆受けしたと私は思っている。
<無原罪の御宿り、ムリーリョ、プラド美術館>
セビージャの街はアメリカ大陸へ向かうガレー船が停泊する港だった事もあり新大陸向けに画家達は作品を描き始め収入源にした時代。次第に注文が減ったスルバランも1640年頃から新大陸向けの物を描き始めたその頃の物は大量生産で工房の手が入り玉石混合。
聖ウーゴの食卓と奇跡
セビージャ、グアダルキビール川の対岸にあるカルトゥジオ会修道院からの注文で描かれた「慈愛の聖母」と「聖ウルバヌス2世と聖ブルーノ」と共に描かれた一枚が「聖ウーゴと食卓の奇跡」。
<聖ウーゴと食卓の奇跡1645年、セビージャ美術館>
*奇跡の物語=復活祭前のある日カルトゥジオ会を創設した聖ブルーノと仲間の修道士たちは聖ウーゴから与えられた肉を食べるか食べまいか迷っていると突然意識を失い四旬節の間眠ってしまう。聖ウーゴが45日後の復活祭に彼らを訪ねると目を覚ました修道士たちの目の前でその肉が灰に変わったという奇跡。
圧倒されるほど大きな作品で修道士たちはほぼ投身大。「今、目覚めた!」奇跡の一瞬の臨場感がある。テーブルクロスや衣装の白色の美しいトーンがスルバランらしい。食器に光が当たり素材感がスルバランの静物画の丁寧な静謐さを感じる。
スルバラン静物画
<静物画1650年頃、プラド美術館>
静物画というジャンルは1600年頃にフランドルとスペイン、イタリアで同時に描かれ始めた。スルバランはそこにある自然物を正確に描写しているだけでなく質素な修道院の生活を想像させ精神性をの高さ、暗い背景に浮かび上がる一直線に並んだ焼き物がまるで聖画のようなムードを讃え他の画家の静物画と一線を引く。
スルバラン最後の時代
1658年既に60歳の画家はセビージャでの仕事を失いマドリードに活路を見出そうとする。アルカラ・デ・エナレスのフランシス会修道院のレ・マルケの聖ヤコブ等が知られている。スルバランの最後の作品は「聖母と赤子キリストと洗礼者ヨハネ」。現在スペイン北部バスク地方のビルバオ美術館にて展示されている。
<聖母と赤子キリストと洗礼者ヨハネ1662年、ビルバオ美術館>
。
画家はその2年後1664年マドリードで病死。質素な家具や衣類等の財産目録が残るそうだがかなり貧しかった。マドリードのレコレトス通りにあったコパカバーナ修道院に埋葬されたが修道院は19世紀に破壊され埋葬されていた画家の墓も行方不明。
まとめ
スルバランの作品は世界中に散らばっていてプラド美術館でさえも多くは無い。1835年にスペインで修道院永大財産廃止令が出て多くの宗教画が世界中に分散するという残念な事が有った。しかしそれによって次第に世界各地でスルバランの作品が知られ評価されるようになり後年ピカソ、クールベ、マネなどによって賛辞されている。フランシスコ・デ・スルバランは深い宗教性のある心の届く作品を残した素晴らしい画家だった。