カタルーニャの歴史や民族については別記事で書いているのでここでは省略。今揉めているのはそれ以上の様々な事柄が絡み合っている。目まぐるしい出来事を自身の忘備録も兼ねて記録しておきます。
Contents
まず2017年10月1日から独立宣言までの出来事を時系列で
カタルーニャ政府は2017年7月4日「分離独立関連法」を成立させ「10月1日の住民投票で賛成多数を得た場合48時間以内に独立を宣言する」と発表。中央政府は住民投票は違憲「10月1日に住民投票は無い」と平行線のまま当日を迎える。EUはスペイン国内問題と主張し無干渉。
<10月1日>
国民投票当日。中央政府から違法を言い渡された中の投票。あらかじめ中央政府は投票箱の没収や投票用紙の印刷会社差し止め、国家警察と治安警察が召喚される。早朝や2日前から学校などの投票所を強制閉鎖から守るため住民が寝泊まりしていた。あれだけ中央政府が投票所閉鎖や投票箱没収をしたにもかかわらず小さな村々で人々はこっそり連絡を取り合い秘密裡に数百万枚の投票用紙を準備した。いくつかの投票所に警察が押しかけ市民に対して暴力で投票所を閉鎖する場面がテレビやSNSで投稿され世界中を駆け巡った。投票用紙も身分確認も無いままの投票で同じ人物が2度3度投票したケースもあったにもかかわらずカタルーニャ政府は90パーセントの独立賛成と発表、週明けにも「独立宣言」と公表。有権者530万人中、投票した人220万。乱暴にも過半数の賛成を得たので「独立宣言」をすると公表。
<10月1日の投票所と投票箱>
<10月3日>
カタルーニャでゼネスト。中央政府の締め付けに抗議して公共交通はぼ全機能停止。幹線道路の閉鎖、交通機関や大学各美術館等も休館となった。
<10月4日>
国王フェリペ6世のテレビ演説。カタルーニャ自治州指導者らを非難し同州に憲法の秩序を守るよう要請。カタルーニャの人々を落胆させたのは間違いない。カタルーニャにはもともと反王政の人達が少なからずいるのでさらに独立派感情をあおった。
<スペイン国王フェリペ6世>
<10月5日>
スペイン憲法裁判所はカタルーニャ自治州議会が週明け9日に予定する本会議の招集を差し止める命令を出す。
サバデル銀行、カイシャ銀行が本社機能をカタルーニャ外に移すと発表。 スペインの憲法裁判所が9日に予定されていたカタルーニャ州議会総会の中止を命令。
スペイン中央政府、企業が本社所在地変更手続きの簡略化の法案を検討。
<10月6日>
アルトゥーロ・マス前カタルーニャ首相「カタルーニャはまだ独立の準備はできていない。」とコメント。
フェレシェネとコドルニウ(カタルーニャの地場産業発泡酒メーカー)が本社をマドリードへ、ガスナチュラル・フェノサ(大手エネルギー会社)もマドリード移転を決定。カイシャバンクが本社をバレンシアに移転。
<フレッシェネ・カタルーニャ発泡酒メーカー>
<10月7日>
白い旗を持つ人達が「話しましょう」とマドリッドでデモ。良識のあるサイレントな人達が集まり中央政府とカタルーニャ政府の対話を求めた。
大手出版会社プラネタが移転を検討。グルッポ・プラネタは出版会社だがマスコミと言論界に強い影響力を持つ。
首都マドリードで「カタルーニャ独立運動に反対」するデモと集会。
<10月8日>
バルセロナで「カタルーニャ独立反対派」のデモが警察発表で35万人、主催者発表で95万人。
<10月10日>
「独立宣言」予定で世界中のジャーナリストがバルセロナに集まる。独立派の人々は独立を祝うため用意された大きなスクリーン前で独立宣言を待つ。が、18時の予定が1時間遅れと発表が有りどよめく、17時より少し遅れ、州首相は「独立の宣言とその延期」を同時に発表。全員唖然。連合政権のCUPには突然の発表だったようで梯子を外された形になり憮然とした態度。が独立宣言の紙にサインは行われる。
<10月11日>
中央政府では臨時閣僚会議が開かれ首相会見。憲法155条発動かどうか未定。カタルーニャ政府に質問「あれは独立宣言だったのですか?」月曜日までに回答をとボールを投げた。 食品会社ビンボウとコラカウがカタルーニャから移動を表明。
<10月12日>
スペインの祝日。コロンブスが新大陸に到着した日ですべてのイスパニックの日。カタルーニャ代表欠席。
バルセロナではこの祝日を祝うため「反独立派」6万5千人がスペイン国旗とカタルーニャ国旗あるいはEUの旗などを持ち「我々はスペインでありカタルーニャだ」とデモ。
経済問題
カタルーニャはスペインの中でも産業の際立って発達している地域。地中海に開けたバルセロナ港があり多くの外国の企業やカタルーニャの企業が活躍しスペイン経済の牽引力。スペインのGDPの約20パーセントを稼ぎ出すがいったん中央政府に収めると政府は貧しい地域に優先に使っていくためカタラン人たちの中に不公平感がある。(歳出不均衡なのは他にもマドリード、バレンシア、バレアレス諸島等もなのでカタラン人だけが損をしているわけではない)
<18世紀のバルセロナ港>
スペイン経済破綻
2008年のリーマンショックはギリシャやイタリアだけでなくスペイン、そしてカタルーニャに大きな打撃だった。多くの企業が倒産し失業者があふれローンを組んだが返せず家を奪われ借金だけ残った人があふれた。(現バルセロナ女性市長アダ・コラウはこの時代に活躍した市民活動家)。各自治州の抱える赤字の中でカタルーニャの抱えるものが2014年に全体の27パーセントを占めていた。
後ろに見え隠れする政治
当時のカタルーニャ政府CIUはジョルディ・プジョールの時代からカタルーニャ政府を長年にわたって支配して来たが資金不正疑惑が発覚し市民の失望の中、不満の矛先を中央政府の緊縮政策にフォーカスしてきた経緯がある。中央政府が右寄り政権「国民党」(PP)なのでカタラン人の憎悪を押し付けるには都合がよかったかもしれない。(国民党(PP)=フランコ後にフランコ体制の政治家を中心に創られた国民同盟を前身とする政党)カタルーニャはフランコの独裁政権時代に迫害を受けている記憶がまだ生々しく人々に残っている。独裁が終わってまだたったの42年。
不満のひとつ
またバスク州とナバーラ州はスペイン17自治州の中で特別にほぼすべての徴税権限を持っている。Soberania fiscalと言って州が徴税権を持っていてその一部を中央政府に収める形になっている。1876年にこの経済協定は締結されていて一旦フランコの時代に停止されたが1978年の憲法により復活している。今もナバーラとバスクは医療制度等が充実しているので有名。カタルーニャはこれを望んで交渉しているが中央政府は拒否。
もし独立したら?
もしカタルーニャが独立した場合EUとシェンゲン協定から出ることになる。カタルーニャ製品には関税がかけられ人の移動も今の様に簡単ではなくなり観光客の数は大幅に減る。カタルーニャ経済はスペインそしてEU内にあるので潤っている。外国企業は「EU外のカタルーニャ」には興味は無く拠点を移すのは間違いない。既にそれはとっくに始まっているが”理想を掲げる独立推進派”は市民に説明どころか本人たちもこのデメリットを想定していなかった。
この記事を書いている間に状況はどんどん変化しすでにスペインIBEXを構成する大手企業各社がカタルーニャからの本社機能移動を発表。2017年10月12日現在、今月の12日間だけで540企業がカタルーニャから移動した。
カタルーニャ自治憲章 estatuto de autonomía
自治憲章=憲法に盛り込まれている各自治州の憲法
1978年に制定されたスペイン憲法ではカタルーニャやバスク地方は「民族態」とされそれらの地方言語は「豊かな言語様態」の表れとして「特別の尊重および保護の対象」となると謳われている。2006年の「カタルーニャ州新自治憲章」がカタルーニャを「ネーション=国家」と位置づけ様々な他地域から反発を招いた。
新カタルーニャ憲章の経緯
2003年のカタルーニャ州議会選挙と2004年スペイン議会総選挙の選挙戦当時の左派スペイン社会党の首相候補だったサパテロは新たなカタルーニャ自治憲章の規定を約束。(何故約束したかは私の想像ですが:スペインでは当時の過去の総選挙で第一政党だけでは過半数にならなかったケースが2度あった。地方政党の支持が不可欠となり協力と引き換えに地方政党の要求を受け入れる必要があった。)
<ホセ・ルイス・サパテロ>
2005年9月のカタルーニャ州議会で可決され2006年6月当時の社会党政権スペイン下院でも可決された。カタルーニャ州で住民投票に掛けられ賛成多数で2006年”カタルーニャ自治憲章が承認された”。
この直後、当時野党の国民党(PP)は新自治憲章がスペイン1978年憲章に照らし合わせて違憲であるとスペイン憲法裁判所に提訴。審議は4年かかり2010年6月「カタラン語の使用、財政、司法、域内行政の独自性の強化を目指した14条」を違憲と判決を受ける。
絡み合う経済と政治問題
2010年
世界金融不安の後の緊縮財政の中、上記”2010年カタルーニャ自治憲章が憲法裁判所により違憲とする判決が下された”。これが間違いなくカタルーニャ人の独立意識に火をつけた。2010年以前の独立主義の支持率は20パーセント未満だったがこの頃から際立って上昇。7月には「我々は国家だ、我々が決める」のスローガンのもとバルセロナ中心部で大きなデモ。警察発表110万人主催者発表150万人。
<2010年「我々は国家である」のデモ>
この独立機運を利用し2010年11月28日のカタルーニャ州議会選挙で大躍進したのが連合政党CIU(集中連合)。アルトゥール・マスが州首相に就任し一気に独立主義へ舵取りをしていく(今頃になってカタルーニャはまだ独立の準備はできていないと言った人物)。その後ろには汚職と不正資金問題などの多くのスキャンダルから目をそらせる意図があった。
*CIU(集中連合)は老練な政治家ジョルディ・プジョールの指導のもとカタルーニャ経済界と結びつきが強くカタルーニャの完全独立を求めるよりは現在のスペイン国家の中で地域の利益を最大限に引き出す政策を取って来た政党。アルトゥール・マスはジョルディ・プジョルの弟子。「カタルーニャから企業は逃げない」と言いきれたのはこの時代の経済界との結びつきがあったから。だが時代は変わっていた。
<ジョルディ・プジョール>
2011年
翌年2011年スペイン議会総選挙ではPP(国民党)マリアーノ・ラホイがスペイン首相に就任。今、カタルーニャ政府とやりあっているのがこのマリアーノ・ラホイ首相。重複するがPP(国民党)はフランコ後にフランコ体制の政治家を中心に創られた国民同盟を前身とする政党。カタラン人たちの反発は大きくなる一方でPPは反カタランで結束する。
<現スペイン首相マリアーノラホイ>
2012年
2012年11月25日カタルーニャ州議会選挙でマス州首相は「この選挙で過半数を取れば独立か否かの国民投票をする」と州民に発表する。独立機運の高まった州民の票を取ろうとしたが過半数を取れず議席を減らす。そこで躍進し議席を増やしたのが筋金入りの独立推進左派政党ERC。18議席を失ったマスは心ならずもERCと協定しその見返りにカタルーニャ独立への道を約束。ERCの党首が現在のカタルーニャ副首相ジュンケーラス。
ここで初めて州選挙に出て3議席を獲得したのが急伸左翼で反資本主義の独立派CUP(人民連合の候補者)。マスの思惑はここで崩れ去り独立問題をうやむやにできなくなる。
2013年
2013年のディア―ダの日(9月11日)には人々は独立旗を掲げ手を握り合い480キロの人間の鎖を作りカタルーニャの独立をアピール。これは旧ソビエト連邦からの独立を支持するバルト三国が1989年に組織したバルトの道をモデルにしている。その後バルト三国は1991年に独立を達成している。
もうだれにも止められなくなった状態で2013年12月カタルーニャ政府は中央政府に対し翌年にカタルーニャの独立の賛否を問う拘束力のない住民投票を行うと発表。中央政府からの反対が有ったがこの住民投票は2014年11月9日に行われ独立反対派が棄権したことから投票率は40パーセント、投票者の80パーセントが独立賛成。
2014年
ディア―ダはカタルーニャにとって特別な日だ。1714年9月11日カタルーニャは自治権を奪われた。その300年祭2014年9月11日のディア―ダにかつてない程の大規模なデモが行われた。約300万人のカタラン人が集まった。
<2014年ディア―ダのデモ>
運命の2015年カタルーニャ議会選挙を迎える
CIUの分裂とジュンツペルシー
CIUはもともと2つの党の連合体だったが独立関連で意見が分かれ分裂し解散。マスのいるCDCとジュンケラスのERCが中心になり選挙の為の連合体を作ったのが「JxSiジュンツペルシー」。訳すと「共にイエス」。2015年カタルーニャ州議会選挙に向けて独立派選挙連合JxSiとCUPは過半数議席を獲得すれば18か月以内に独立を宣言と発表。
選挙の結果はジュンツペルシーの独立派が獲得議席は過半数確保だが得票率は48パーセントと実際独立支持者は半分以下という事が浮き彫りになった。
共有するのは「独立」のみで他の政策で様々な違いの有る選挙に勝つための寄せ集め集団で首相選びは難航。前カタルーニャ首相マスでひとまず決まりかけるがCUPはこれに猛然反対し出直し選挙の噂も流れる。翌年独立推進派の議員でジローナ市長のカルラス・プッチダモンで落ち着く。このプッチダモンが現カタルーニャ州首相。独立に向けてまっしぐらにダッシュし、独立宣言のすぐ後独立宣言を延期した人物。
<カルラス・プッチダモン現カタルーニャ州首相>
癒えない傷、スペイン内戦
スペイン内戦の後のフランコ独裁政権下はカタルーニャは厳しい弾圧を受けジェネラリターは閉鎖されカタラン語は禁止された。カタルーニャ首相は処刑されカタルーニャのアイデンティティーは全て否定された。まだその記憶が生々しい中今回の警察による投票所の閉鎖や包囲戦はフランコ時代を思い出させた。
分断と混乱、カタルーニャ民衆が失ったものは大きすぎる。「企業が出ていくはずはない」と人々を暗示にかけ扇動し、「ヨーロッパが助けてくれる」と信じていたカタルーニャの政治家たちの無能さに驚く。「プランB」は準備していなかったのか?それならその甘さにあきれる。プッチダモンの飄々とした態度に・・・・もしかしたらもう一枚後ろに何かカードを準備しているのか?まだまだこの後どうなるのか未知数のカタルーニャです。
唯一得たものは世界に「カタルーニャ」という強く独立を希望している地域がスペインに有ることをアピールできた事かもしれない。
補足メモ(2001年からの国内の出来事リスト)
<2001年>民衆党アスナール首相 自由経済導入
<2002年>実質的なユーロ導入により物価の高騰と住宅バブル。不動産の値段が瞬く間に上がり人々は浮かれて踊り銀行は無理なローンを組ませ許可のない地区に住宅が作られていった。
<2003年> カタルーニャ与党CIU(結束と統一)によりカタルーニャ新自治憲章が提起される
<2004年>マドリード列車爆破テロと選挙により政権が社会党サパテロ政権に移る。サパテロ首相新たなカタルーニャ自治憲章の制定を約束。
<2006年> カタルーニャ自治憲章の改正が行われるがはこれを国民党議員100名が違憲と憲法裁判所に提訴。(この段階でのカタルーニャ独立希望者は20パーセント)
<2008年>世界金融不安によりバブル崩壊。税金が上がり社会保障は切られ中小企業が閉鎖し小売店は姿を消していった。
<2009年>カタルーニャ州内の自治体で独立に関して法的拘束力のない住民投票がおこなわれた特率賛成派多数と発表。投票率27パーセント。
国民党のギュルテル事件捜査に関連し国民党の会計バルセナが起訴される。が判事バルタサル・ガルソンが司法界から追放され事件はいったんお蔵入り。
<2010年6月28日>憲法裁判所によりカタルーニャ自治憲章の改正のいくつかが違憲であると判定が下される。
<2010年7月10日>カタルーニャ大規模デモ。110万人参加。
<2010年12月>アルトゥーロマス州首相就任。(マスは州内の問題を独立の陰に隠しカタルーニャ民衆の独立心を利用)
<2011年>5月15日M15運動=大衆運動=始まる。11月20日総選挙で国民党ラホイ首相就任。
<2014年>1月ポデモス結党。9月11日カタルーニャの自治権が奪われた記念日ディア―ダ=スペイン王位継承戦争でカタルーニャの自治権が奪われた300周年に300万人のデモ。
<2015年>カタルーニャ州議会選挙でJxSi(独立諸派連合)は過半数を取れず反資本主義極左独立派CUPと連合政権。CUPはマスとは同調できないという事で「バリバリ独立派プッチデモン」がカタルーニャ州首相に。
<2017年>10月10日独立宣言とその延期