イサベル女王<スペイン建国の母>とその時代

 

イサベル女王の時代、まだスペインという国はなくイベリア半島の中央にカスティーリア王国という国があった。騎士たちがイスラム教徒と戦いながら城郭を作り、そこを基礎に更に戦って城を築き国を強くしていった戦いの時代だった。スペイン語で城の事をカスティージョと呼ぶ。カスティージョが沢山あるカスティーリア王国に一人の王女が生まれた。スペインの歴史で重要なイサベルの生涯についてまとめました。

イサベル、カスティーリアの田舎の村で誕生


イサベル誕生

後のイサベル女王の生まれはマドリガル・デ・ラス・アルタ・ストレスというカスティーリアの小さな村。マドリガルは恋歌とか牧歌という意味でラス・アルタス・トレスは高い塔の複数形。「高い塔の恋歌」というロマンチックな名前の田舎の村でカスティーリア国王フアン2世の2番目の妃の長女として誕生。

宮殿というのもはばかれる質素なお城で1451年4月22日に誕生。奇しくも同じ年にコロンブスが生まれている。日本は室町時代足利義政将軍の時代。

<イサベル女王生誕の城は現在は修道院になっている>

マドリガル修道院
マドリガル・デ・ラス・アルタス・トレスの修道院

 

イサベルの父王ファン2世

父王フアン2世は49年の長い治世を行うが「カスティーリアの不運」と言われるほどの王で芸術を好む温和な人物だが政治は無能。母親がイギリスのランカスター家から嫁いできたキャサリン(スペイン語だとカタリーナ)。

この父王ファン2世の最初の結婚はアラゴン王家の王女マリア・デ・アラゴン。2人の間に娘3人息子1人に恵まれこの息子が次の王になるエンリケ。国王就任後はカスティーリア王エンリケ4世不能王と呼ばれる。

<イサベル女王の父、ファン2世>

ファン2世

 

ファン2世の2度目の結婚が後のイサベル女王の母

<イサベル・デ・ポルトガル>

ポルトガルのイサベル

ファン2世の2度目の結婚がポルトガル王女イサベル。同じ名前が多くて複雑だがこの2人の間に生まれたのが後のイサベル女王。

母イサベルは若く奔放で美しく、気弱なファン2世は次第に翻弄されるようになる。奔放なだけではなく常識を逸した行動が度々目立ち始める。そして夫である国王フアン2世をそそのかし言いなりに動かし長年の宰相をバジャドリードの広場で公開処刑する。気弱な国王ファン2世は後悔と自責の念で弱りきり人々の同情と軽侮の中亡くなる。

この時イサベル王女3歳、弟のアルフォンソ王子8か月。

義理兄エンリケ4世の即位

父王の突然の死去で兄のエンリケ4世即位。ここから王女イサベルの悲運な日々が始まる。時々狂気の行動をする母イサベルと王女イサベル、弟のアルフォンソは近くの荒野のアレバロの城に追放され、少ない共の者達と身を寄せ合うように貧しく暮らすことになる。

<エンリケ4世>

エンリケ4世
De Desconocido – web, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2261931

 

兄王エンリケ4世は父王にも負けず劣らずのグウタラ王で無能で女たらし。父王フアン2世が亡くなる少し前に妻であった王妃と離婚した。

カトリックでは離婚は認められていないが「その結婚に問題があることを証明」できればローマ法王の許可のもと「結婚の解消」が出来る。その理由がなんと「不能」。”何か不吉な力”によってこの王妃と関係が持てない。

この王様それ以来「エンリケ不能王」と不名誉な名前で呼ばれる。

そして再婚、王の仕事の大切なひとつは世継ぎを残す事。その為に新しい妻を迎えた。

エンリケ不能王が2度目の妻に迎えるのがポルトガル王の妹ファナ王女。若く美しく陽気な新しい王妃との盛大な婚礼が執り行われ側近たちは今度こそはと期待するが「その夜には何も起こらなかった・・・・」と王室記録官。

<ファナ王妃>

ホアナ、エンリケ4世妃

”高貴な女性とは特に無理”な「国王エンリケ不能王」は妻の女官のもとに通い始め王妃のもとには若くハンサムで野心家の「ベルトラン卿」が通い始める。

もちろん王と王妃の間には冷たい風が吹き始める。

王妃のご懐妊

突然のニュースは結婚6年目。エンリケ不能王の妃が懐妊したという。噂好きのスペイン人たちは昔もそうは違わなかったはず。国中でみんなの話題になった事だと想像できる。「王妃のお腹の子はベルトランの子供じゃないの?」

1462年に生まれた女の子は母と同じ名前ファナと名付けられ生まれた時から人々の好奇の目にさらされる。そしてついたニックネームは「ファナ・ラ・ベルトラネーハ=ベルトランの娘ファナ」

<フォナ・ラ・ベルトラネーハ>

ベルトラネーハ

不思議なのは国王エンリケ4世はベルトラン卿を随分厚遇し出世させていること。公爵の娘と結婚させ出世街道まっしぐら。これには嫉妬深い周りの貴族たちも面白くない。ついにイサベルの弟アルフォンソに与えられていた「サンチアゴ騎士団長」の名誉迄も与える有り様。嫉妬と屈辱の周りの不満分子たちは次第に王の知らないところで結束を始めていた。

国内の分断

この頃イサベル王女達はセゴビア城で質素に暮らしていた。

<セゴビア城>

アルカサール

カスティーリアの貴族の不満分子たちはエンリケ4世を見限りイサベルの弟アルフォンソを王に祭り上げようと画策し国内は分裂。優柔不断なエンリケ不能王は右往左往する中アルフォンソにアストゥリアス皇太子の称号を認め不満貴族達への懐柔策を始める。

しかし時すでに遅くアビラの高原に王座が置かれアルフォンソを新国王アルフォンソ12世として擁立。オルメドでの戦闘はアルフォンソ側有利に進み反乱を起こすトレドへ進軍するもその時突然、アルフォンソは倒れた。

前日夜に鱒を食べた後苦しみ始めたとあるが毒殺か疫病か不明。享年15歳。

イサベル女王の心の支えだった弟アルフォンソはブルゴスのカルトゥーハ・ミラフローレス修道院に眠る。

<ミラフローレス修道院にあるアルフォンソのお墓>

アルフォンソのお墓
Wikimedia Commons Author Ecelan

イサベルの聡明さ

アルフォンソの死後国内はまだ内戦状態でイサベルを女王と担ぎ上げようとする勢力がいる中17歳のイサベルは「兄エンリケ4世こそが正当の国王。がその嫡子の正当性に問題があるならばその次の王位継承権は自分にある」と主張した。

当時の人々が早熟であったとしてもカスティーリアの有力者の権力闘争の中で17歳の女性が堂々と大人相手に張り合い自分の意志を通した。

一躍未来のカスティーリア女王となる。

イサベル女王

イサベルの婿選びと結婚

当時の王族の結婚はすべて政略結婚。恋愛は別物で自国の利益の為に子供達はその道具としてあらゆる方法で使われた。王女達は15歳位で嫁に行くのが普通だったがイサベルは17歳。すでに周りの国々から色々な縁談話が来ている。

ポルトガル、イギリス、フランス。その中に隣のアラゴン・カタルーニャ連合王国の皇太子フェルナンドからの話があった。「おじいちゃん同士が兄弟」という関係で同じトラスタマラ王家。先方に送った密偵の話ではなかなかの美男で切れ者らしい。

イサベルの心がどこにあったか知る由もないが17歳の王女の心に恋心が芽生えても不思議ではないと思う。そしておそらくこの婚姻によるカスティーリアの利益も。

<アラゴンのフェルナンド>

フェルナンド王
De Michel Sittow – [1], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4714691
ところがそこには色々な周りの大人の思惑があり「ポルトガル王の後妻」の話が兄王から言い渡される。言いなりになるつもりはないイサベルは逃げた。

イサベルに味方したのはトレド大司教、そしてアラゴン王国だった。

度々フランスから圧力を受けているアラゴン側もこの結婚での利益に興味を持った。当事者フェルナンドはイサベルのひとつ年下だがマッキャベリの君主論に出てくる程の人物。

イサベルは時の権力者たちに捕らわれそうになるもバジャドリードに逃げそこへ一足早くフェルナンドが駆けつけ1469年バジャドリードのフアン・デ・ビベーロの屋敷で結婚式は執り行われた。(この建物は現存)

イサベル18歳フェルナンド17歳。この年ポルトガルでバスコダガマが生まれ、日本では応仁の乱の混乱の時代。

<イサベルとフェルナンドの結婚>

カトリック両王の結婚

イサベルの戴冠

<セゴビア城にあるイサベル女王戴冠の絵>

イサベル女王戴冠

優柔不断な兄王はまたしても有力者にそそのかされフランス王の弟と出生不明の娘フアナの結婚話を進めイサベルに対抗しようとするも当事者のフランス王弟の死去とエンリケ王側についていたローマ法王の死去。

新しいローマ法王シクストゥス4世は政治的混乱と飢饉で弱り切ったカスティーリアにルネッサンス時代の大人物を送り込む。

後のローマ法王アレッサンドロ6世ロドリーゴ・デ・ボルジア。

この野心家が祖国の混乱に心を痛めたかどうかは疑わしいがイサベルとエンリケの仲を取り持ちセゴビア城で和解。

その翌年あっけなくエンリケ4世死去、いつも針の筵にいた妃も何故かその半年後に35歳で亡くなっている。

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セゴビア城にいたイサベルはサン・ミゲル教会で戴冠(この教会も現存)

1474年23歳のイサベルはカスティーリアの女王になる。イサベル女王の誕生、歴史家はこの日をスペイン近代史の始まりとする。

<セゴビア・サンミゲール教会>

セゴビアのサンミゲール教会

<教会入口に1474年12月13日イサベル女王戴冠>

1474年12月13日

 

そう簡単ではなかったイサベル女王就任

ところがそれでは納まらない勢力がこれまでファナ・ラ・ベルトラネーハを押してきた陣営。ポルトガル王アフォンソ(以前イサベルとも縁談があった王)とファナ・ラ・ベルトラネーハを結婚させる話が持ち上がる。

ポルトガル王とは叔父と姪の関係。姪のファナがカスティーリアの正当な継承者なら結婚すれば自分はポルトガルとカスティーリアに君臨出来るという目論見でイサベルに対抗し戦争。4年間の戦争の間に国は荒廃しついに和睦の条約でファナ・ラ・ベルトラネーハは諦め修道院へ隠居。

周りの都合で翻弄され続けたファナは自分の王位継承を信じて疑わずリスボンの修道院で69歳で亡くなるまで”我女王”のサインをしたという。厚い修道院の壁の中からこの後のイサベル女王の死やその子供たちの不幸な人生を知ったかどうかは不明。

この頃のスペイン

その時代のスペインは南にイスラム王朝のグラナダ王国が細々と存続していたレコンキスタの末期。キリスト教徒側ではイサベルとフェルナンドの結婚により今のスペインという国の概念がやっと出来る。

そして最後のイスラム国への戦争が始まる。

発端は南スペインでの小さな小競り合い。グラナダの美しいアルハンブラ宮殿の内部は陰謀と裏切りで権力闘争が続く中キリスト教徒軍が押し寄せてくる。それでも10年間耐え続けたのは奇跡だった。

フェルナンドとイサベル率いるキリスト教徒軍が迫りアルハンブラは無血開城。

1492年1月2日。ヨーロッパに残る最後のイスラム王朝グラナダ王国が滅びた。

<グラナダの陥落>

グラナダ陥落

 

コロンブスの登場

<サンタマリア号模型・スペイン海軍博物館>

サンタマリア号

いつもそうだ、時代はすでに準備ができている。

ルネッサンスの数々の発明によって航海術は進歩していた、そこで登場するのがコロンブスという謎の男。西回りでアジアに行けると信じたコロンブスがポルトガル王に断られスペインにやって来たのは1484年。何度か断られたり説得したりが続きグラナダ陥落後アルハンブラ宮殿でイサベル女王からの援助を手に入れ大航海時代が始まる。

第1回航海は1492年8月3日出発。

コロンブスは生涯に4回大西洋を渡っているが死ぬまでそこはアジアの一部と信じていた。コロンブスはイサベル女王死後は殆どの約束を反故にされ惨めな最後を遂げる。

<コロンブスの新大陸到着>

コロンブスのアメリカ到着

1492年

15世紀末のこの年、当時の人々はヨハネの黙示録に出てくるこの世の終わりがやって来ると世紀末感に怯えていた。ペストの流行がさらに世紀末感に拍車をかけていた頃グラナダの陥落、コロンブスの出港、と世界史的な事件が続く。

そしてスペイン人ローマ法王の即位。兄王とイサベルの和解に出てきた超野心家聖職者ロドリーゴ・デ・ボルジア、アレッサンドロ6世の即位。

有名なボルジア家出身で聖職者なのに愛人との間に子供がいた。息子が有名なチェーザレ・ボルジア、娘が絶世の美女のルクレチア・ボルジア、野心、好色、大物、自己中心、権力とお金の為なら何でもやるタイプの人物。聖職者にはもったいない。

<アレキサンダー6世>

アレキサンダー6世

トルデシージャス条約

コロンブスはアジアに着いた、そしてスペイン人ローマ法王の登場だ。そこで、ポルトガルが慌てた。

このままスペインに上手くやりこめられてはたまらない。地球を半分に割って将来揉めないように条約を結んだ。大西洋の上に縦に線を引いてここから西に将来発見されたらスペイン領土東だったらポルトガル領土。

これでスペインは西へ、ポルトガルは東へと行先がきまり航海者達は船を出す。

イサベル女王の子供達の運命


イサベル女王5人の子供達

混乱と戦争と権力闘争の中イサベル女王は1男4女をもうけている。愛情を注いで育てるこの5人の子供たちは可愛いだけではなく大切な戦略の道具。

当時のヨーロッパの勢力図を考え巡らせ将棋の駒のように誰との結婚が自国に有利かを冷静に見つめ結婚相手を決めていく。

カトリック両王とその子供達

長女イサベルはポルトガル王と結婚

長女イサベルはポルトガル王ジョアン2世の息子アフォンソ皇太子と結婚。夫婦仲は睦まじく娘イサベルはポルトガル宮廷で大切にされて幸せの絶頂のある日、夫のアフォンソが落馬して死亡。

子のまだ無いイサベル王妃は喪に服しスペインへ帰国。その後さらに亡き夫の父ポルトガル王ジョアン2世が死去し(王妻と折り合いが悪く突然の死には毒殺説)その妻の弟がマニュエル1世として即位(この辺りは陰謀の香りがする)。

イサベルはマニュエル1世から激しく求婚され再びポルトガル王妃になる。

このマニュエル1世の時代にポルトガルはインド航路発見、ブラジル到着。後に出てくるスペインの期待を担った弟ファンの死後王位継承権がイサベルにやって来るが息子を産んだ後すぐに死去。

残されたミゲールと名付けられた大切な皇太子はスペインを背負う運命の中1500年7月20日2歳の誕生日を迎えずにグラナダで死去。

今もグラナダの王立礼拝堂に埋葬されている。

長男ホアン

セビージャのアルカサールで誕生した皇太子ホアンはイサベル女王にとって特別な存在で大切に育てる、が体が弱かった。

ホアンの結婚はフランスを恨む者同士の連合で当時の先進国ブルゴーニュ公国の王女との結婚。神聖ローマ帝国皇帝の娘。

美しく華やかな17歳マルガレーテ王女との結婚で当時のスペイン宮廷は湧くが体の弱いホアンは結婚の行事のあと姉の結婚式に参加する途中サラマンカで突然死亡。(あまりにも美しいマルガレーテに恋し過ぎて、ベッドでの時間が多かったのが致命傷という説がある)すでに懐妊していたマルガリータは死産。

国中が喪に服した。今はアビラの修道院に埋葬されている。

<アビラのサント・トーマス王立修道院にあるホアンの霊廟>

ホアンのお墓
wikipedia
public domain.

次女ファナは後に狂女ファナ(ファナ・ラ・ロカ)と呼ばれる

ファナは兄ファンとの2重結婚で一足早くベルギーのフィリップ美公に嫁ぐ。

フィリップ美公は神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世とブルゴーニュ公国マリアの長男。洗練された都会人フィリップのとの蜜月は短く夫に翻弄されながら精神を病んで行き6年後祖国に帰るころは別人に変り果てイサベル女王を悲しませた。

兄ホアン、姉イサベルが続いて亡くなった後はスペインの王位継承権が手に入り再び夫妻でスペインに戻るがフィリップは突然死亡。父フェルナンドによる毒殺がささやかれるが謎のまま。彷徨いながらフィリップの遺体をグラナダに運ぶ一行、ファナは棺を時折開け死んだ夫に話しかけたとも遺体を隅々まで触って確認したとも言われる。

そのころファナはフィリップの子供を妊娠しており合計6人の子供を産んでいる。事実上スペイン女王となるが狂気が理由で父親と息子(のちのカルロス5世)によってトルデシージャスの城に幽閉されながら75歳まで生きる。

実際ファナが狂っていたかは謎で今の歴史家達は否定している。

<夫の棺と荒野をさまようファーナ>

ファーナラロカ

 

三女マリアはポルトガルへ

マリアは長女イサベルの亡くなった後妻としてポルトガル王マヌエルの所へ嫁ぐ。マリアのみが唯一の幸せな結婚生活を過ごし5男2女を王に与え惜しまれて35歳で亡くなる。

マリアの長女がのちのカルロス5世の妻、フェリペ2世の母イサベル王妃。

<マリアの長女イサベル、後のカルロス5世王妃>

ポルトガルのイサベル

四女カタリーナはイギリスへ

最も不憫な末娘カタリーナは15歳で同い年のイギリス皇太子アーサーと結婚する。病弱で気弱なアーサーは結婚後すぐ死亡。なんとその父親ヘンリー7世との縁談が起こるがヘンリー7世も死亡しアーサーの弟のヘンリー8世と再婚。

ヘンリー8世は5回の妻のうち2人は斬首刑というシェイクスピアに出てくる残酷で冷血な王。カタリーナとヘンリー8世との間の娘が有名なブラッディメアリー。プロテスタントを残酷に殺した為「血のメアリー」と呼ばれる。赤いお酒の名前はそこから取られている。

カタリーナはその後何度か妊娠、死産を繰り返す中ヘンリー8世は宮廷の若い女官アンブリンとの結婚の為カタリーナを離婚、いや結婚の無効を主張。アンブリンとヘンリー8世の間の娘が後のエリザベス1世女王。ヘンリー8世はローマ法王が離婚を許可しないので英国国教会を作りカトリックから分離する。

カタリーナは3年間城に幽閉され隔離された中で49歳で寂しく死んでいく。

<カタリーナ・デ・アラゴン>

カタリーナ

<ヘンリー8世>

ヘンリー8世

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イサベル女王の最後


スペイン統一とグラナダの陥落やコロンブスの援助と華々しい歴史を生きたイサベル女王は期待の長男ファンの死と長女イサベルの死、その息子ミゲールの死と三女ファーナの狂気、母親としては悲しみの連続だった。晩年メディーナ・デル・カンポの質素なお城で最後まで国の為仕事をしたという。

少なくとも四女カタリーナの不幸を知らずに亡くなったのは幸いだった。1504年11月26日53歳の生涯を閉じる。

イサベル女王最後の日

遺言通り遺体はグラナダに運ばれサンフランシスコ修道院に埋葬されフェルナンド死後は共にグラナダ大聖堂横の王室礼拝堂にある。

<カトリック両王の霊廟、グラナダ王室礼拝堂>

カトリック両王の霊廟
wikipedia
public domain.

イサベル女王の娘、ファナの生涯の記事です。

狂女ファナ(ファナ・ラ・ロカ)の一生、スペインの歴史、ファナ1世女王の哀しい物語

質素で誠実で敬虔なカトリック教徒。国の為に自分を捨て戦ったイサベル女王は今もスペインで人気の女王様です。

 

ウマイヤ朝とアッバース朝、アル・アンダルス

アル・アンダルスは南スペイン全体のイスラム時代の呼び名。「スペインは違う」と言われるのは長いスペインの歴史の中で700年以上にわたるイスラム支配が有った。スペインに711年に入って来たイスラム教徒たちはイベリア半島を短期間に制圧。ローマ時代の橋や幹線道路が半島中に巡らせれていたのでそれらの道路を使いイベリア半島ほぼ掌握する。それらの橋には今も使っている物がある。そして西ゴートの貴族階級は抵抗せずイスラム軍と和解する方を選んだようだ。スペインのイスラム支配時代が始まった。

アル・アンダルースのイスラム支配

当時のシリアは先進地域でイスラム教を広めながら北アフリカを制圧し西ゴートの混乱に乗じてスペインに入って来た。北部の山岳地帯をのぞいてはアル・アンダルスと呼ばれ首都をコルドバに定めた。シリアのダマスカスからの「ウマイヤ朝カリフ」の支配下にはいり総督を派遣しイベリア半島を統治した。カリフはアミールと呼ばれる総督を派遣してイベリア半島を統治させた。

実際は差別のある混合部隊

イスラム教徒と書いているのは実際は民族的にはいろんな種族がやって来ていて共通点は宗教、すなわちイスラム教徒という事だけだった。アル・アンダルスはアラブ人シリア人ベルベル人などの混合部隊によって統治される。その彼らの間も軋轢や紛争があったようで特にシリアのウマイヤ朝アラブ人優遇政策を取ったので貴族や指導者階級はアラブ人でモロッコのベルベル人は山岳地帯や貧しい土地で生活を余儀なくされ格差がその後の確執の種になる。

他宗教にも寛容な政治

キリスト教徒やユダヤ教徒も税金さえ余分に払えば信仰の自由があったので財産を没収されたり戦って命を落とすより和平を選び懐柔されていく。又イスラム教徒に改宗し自由の身になる奴隷もいた。貴族階級にもイスラム教徒と婚姻関係を持ち支配階級に入るものもいたので宗教的にも寛容な時代だった。

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イスラム教徒にとってユダヤ教もキリスト教も同じ聖典の民なので宗教的な対立はなかった。これが半島の征服を容易にしたと言われる。

トゥール・ポワチエの戦い

この勢力がさらに北へ進軍しピレネー山脈を越えてフランスまで行く。フランスはフランク王国の時代だった。勢い増したイスラム軍は732年トゥール・ポアチエの戦いでカール・マルテルに敗れる。以降イスラム教徒たちはアル・アンダルスに留まった。(カール・マルテルの息子がピピン。ローマ法王によって戴冠しそのお礼に土地をプレゼントしたのが今の法王領の始まり。さらにその息子がカール大帝)

キリスト教徒側では大勝利と歴史に名を残す大戦争になっているがイスラム側に記述では数多く戦った中の珍しく負けた戦争位の感覚だった。私たちが学校で習う世界史は全部ヨーロッパ側から見たもの。歴史は両側から見てみないと本当の理解は難しい。

ダマスカスで革命が起こりウマイヤ朝は倒れる

ウマイヤ朝の首都ダマスカスアッバース家が革命を起こしウマイヤ王朝は倒れた。もともとウマイヤ朝の成立にも不明な点があり不満分子が多かった。(4代目カリフ・アリーの暗殺はウマイヤ家によると言われている。その後ウマイヤ家はダマスカスを首都にウマイヤ朝を作った)アラブ人優遇政策など非アラブのイスラム教徒に対してもキリスト教徒と同じく税金が課せられていた。ムアーウィヤが今までの慣例に反して世襲制を導入。歴代のカリフたちの享楽的な生活などが厳格なイスラム教徒たちの非難の的だった。

アッバース家はイスラム教の始祖モハメッドの叔父の子孫。ウマイヤ朝を倒し新しい王朝が始まる。非アラブ人特にペルシャ人との融合し革命が起こった。アラブ人優遇政策をやめイスラム教徒はみな平等に非課税。ペルシアの進んだ文化と融合。

製紙法が唐から伝わる

話は少しそれますがこのアッバース朝時代中国は唐の玄宗皇帝の時代。領土拡大政策をとっていた唐に侵略されると思った弱小国家タシュケントから支援を頼まれたアッバース朝は唐と戦って大勝しています。この時の中国の捕虜の中に紙漉き職人がいて製紙法が伝わったと言われています。紙が使わることによって後に多くの古代の文献を訳したものを書き移し保存することが出来るようになる。

首都はバグダッドへ

次の時代に首都はダマスカスから今のイラクのバグダッドに移動し人が集まり大いに栄える。100万人とか150万人とかいろんな説があるがとにかく当時にしたら他に無いほどの巨大都市だった。

知恵の館

アッバース朝第2代カリフのアル・マンスール(754-775年)はビザンチンの皇帝に施設を派遣し古代ギリシャの数学の教科書、特にユークリッドの著書を求めている。そのために同じ重さの金を支払ったと伝えられている。

第7代カリフ、アル・マアムーンの時(830年)に知識吸収欲は最高潮となりバグダッドに知恵の館という政府機関を作っている。知恵の家には多数の学者を雇ってビザンチン帝国から求めてきたギリシャ語の文献をまずシリア語に訳しそれをアラビア語に訳した。ギリシャ語からシリア語に訳すのにキリスト教徒が雇われた。

国家権力を使って大規模な翻訳事業が約200年間行われ当時存在したギリシャ語の文献はほとんどアラビア語に訳されたという。訳したものを残すために紙に書くということが必要になる。その紙の製紙法は上記で触れた唐の時代の中国との戦いで手に入れた。

後期ウマイヤ朝(後ウマイヤ朝)

この革命から命からがら逃げたウマイヤ家の人々がいた。親戚筋を頼って隠れたり助けられたりしながらはるばるアル・アンダルス迄やって来てコルドバを首都にカリフ王国を創る。バグダッドも遠いところだったのであまり気にせずほっておいてくれたようで、ここからスペインで正当のウマイヤのカリフによるアルアンダルス支配、後期ウマイヤ朝(後ウマイヤ朝)が始まる。

スペインの歴史はドラマチックで次から次へと民族や宗教が変わって混血していくのです。

後期ウマイヤ朝の記事はこちらから <後期ウマイヤ朝の記事はこちら>

スペインの歴史ダイジェスト版はこちらから  <スペインの歴史ダイジェスト版>

西ゴート(ビシゴート)王国の崩壊、トレド陥落とイスラム教徒の侵入

スペインの歴史は複雑で様々な民族が足跡を残していった。ローマ帝国を崩壊させたゲルマン民族の大移動でスペインにやって来た西ゴート王国(ビシゴート王国)はトレドを首都に繁栄するが実は裏切りと陰謀の世界だった。人間の本能はいつの時代も同じで嫉妬と欲望の末大抵の王国は陰謀が渦巻き滅びていく。西ゴート王国も例外ではなく王室で日々血なまぐさい事件が続く。末期の西ゴート王国の歴史についての記事です。

西ゴート(ビシゴート)王国末期

国王と国王を選出する権利を持った大貴族と高位聖職者の間での利害関係の衝突で常に不安定な状態が続いていた。

 

 

506年にイベリア半島で西ゴート王国が始まって711年までに26人の国王が誕生した。204年間で26人もの国王の交代。陰謀に次ぐ陰謀。

<西ゴート王国首都トレド>

トレド展望台

711年スペインにイスラム教徒がやってくる

7世紀にアラビア半島で始まったイスラム教は急速に北アフリカを征服。シリアを首都にウマイヤ朝が始まっていた。

あまりにも早い伝搬に何故と思うのですが一説にはビザンチン帝国の弱体化と一部のコプト教徒(キリスト教の一派)はビザンチン支配を嫌いイスラムを受け入れたと言われている。それにしても一気に伝搬している。

8世紀初めには南スペインジブラルタル海峡をはさんでアフリカ側(現モロッコ)にすでにイスラム教徒が来ていた。混乱する西ゴート王国、民衆の中にも不満が高まっている中、北アフリカ原住民ベルベル族を中心とする総勢12000人のイスラム教徒が711年にイベリア半島に上陸。イスラム帝国北アフリカ総督ムーサの命令のもと凄腕指揮官ターリク・ブン・ジアードが率いる軍がジブラルタル海峡を渡って来る。彼はそこにあった岩山を自分の名前を付けジャバル・アル・ターリク(ターリクの岩)と名付けた。ここを今私たちはジブラルタルと呼ぶ。「スペインの歴史は違う」と言わるイスラム支配がここから始まる。

そこは14キロの海峡でヨーロッパとアフリカが一番近いところ。大西洋と地中海の入り口で今も戦略的に重要なところです。海峡のヨーロッパ側は現在イギリス領。

<ヨーロッパとアフリカの間の海峡>

ジブラルタル海峡

*イギリス領になった経緯:1700年スペインのカルロス2世が子供が無いまま他界。スペイン王位を狙ってハプスブルグとブルボンが戦争になりヨーロッパ各国は利害が絡みブルボンの勝利となる。この戦争でイギリスがスペインから奪ったのがジブラルタルで今もイギリス領土。

<スペイン側から、向こうに見える山はジブラルタル>

ジブラルタル

 

ある美女の伝説

話は戻り西ゴート王国。北アフリカのセウタ総督フリアン伯爵の令嬢フロリンダはトレドの宮殿に行儀見習いとして来ていた。とっても美しいフロリンダに国王ロドリーゴは思いを寄せていた。でも全く相手にしてもらえない。ある日彼女がタホ川で水浴びをしていたのを見つけたロドリーゴ王は無理やり思いを遂げる(今なら合意なのか強姦なのか裁判で争点になる部分)泣きながら顔を晴らした娘から話を聞いたフロリンダの父親は国王に復讐をすると娘に誓う。そしてセウタの城門を開けイスラム教徒たちイベリア半島に入れる手引きをし、娘の復讐を果たした。真偽のほうは不明だそうで歴史ではなくあくまでも伝説。

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トレド陥落

イスラム教徒の軍がジブラルタル海峡を渡ったころ西ゴートの国王ロドリーゴは北スペインのバスク人の紛争の鎮圧のためにパンプローナに駐屯していた。慌てて10万人(一説には3万3千人)の西ゴート軍は南下するが大敗。おそらく味方同士の裏切りや兵士の士気の低下が原因と言われる。また西ゴート軍の大部分は貧しい農民や奴隷からなる歩兵部隊で斧やこん棒などで武装していても訓練は行き届いていなかった。

グアダレーテの戦い

<グアダレーテの戦いを指揮するロドリーゴ王>

グアダレーテの戦い
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南スペインのへレス・デ・ラ・フロンテーラ近くのグアダレーテ川の戦い。実はロドリーゴ王に不満を持つ西ゴートの貴族たちはターリクと密約をかわし国王を裏切っていた。国王を殺させてうまく立ち回ろうとしていたようだ。士気の下がった西ゴート軍の隙間にイスラム兵たちが切り込み西ゴート軍は敗走を始めるが川の流れが急で川幅も広く多くの西ゴート軍は溺れ死んだ。国王を裏切った貴族たちも殆ど助からなかったと伝えられる。

<現在のグアダレーテ川>

グアダレーテ川
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Source Own work
Author
Emilio J. Rodríguez Posada (1986– ) Link back to Creator infobox template wikidata:Q30564104

ロドリーゴ王の行方は分からず戦場には王の白い愛馬の遺体が横たわっていた。馬具にはきらびやかな宝石をつけたまま。そしてその近くには王のブーツが片方あったそう。これであっけなく西ゴート王国は崩壊した。

トレドはその後も文化都市だった。

トレドはイスラム圏に入るがイスラム教徒寛容な政策をとりキリスト教徒やユダヤ教徒も人頭税だけ払えば信仰の自由があった。長い間キリスト教徒の学者が訪れイスラム文化への窓口になり多くの学者が学ぶ3つの文化の融合する都市となる。アラビア語の哲学書や数学書などがラテン語に訳される翻訳集団ができる。

<トレド大聖堂13世紀から15世紀の建築>

トレド大聖堂

 

個人的に気になっている部分があって亡くなったロドリーゴ王の妃なんですが・・・「その後ウマイヤ朝北アフリカ総督ムーサ―の息子と結婚した。」とあって。国王を裏切ったのは西ゴートの貴族じゃなくって奥さんだったんじゃないのかしら・・・・・とほぼ想像ですが確信しています。総督の息子と結婚って若かったのか息子が年上好みだったかは謎。歴史の後ろに女の恨み。今も昔もよく似た事件があるものです。

イスラム勢力は716年ころにはイベリア半島のほとんどを征服。一部の西ゴート王国貴族や聖職者たちが持てるだけの財宝や聖遺物を持って北スペインの山岳地帯(アストゥリアス地方やバスク地方)に逃れた。その中に西ゴートの王の血を引くペラーヨがいた。

この後レコンキスタが始まり再びキリスト教徒がイベリア半島を奪い返していく。