カタルーニャ独立問題、激動のその後。国際逮捕状が出てからドイツで逮捕されたカルラス・プッチダモン元カタルーニャ州知事、ところが4月7日に7500ユーロの保釈金で釈放されマドリードに激震が走った。一方カタルーニャ議会は今だ州知事を選任できずこのままだと再選挙の可能性も見えて来た。スペイン中央政府は独立派のカタルーニャ政府を何としても握りつぶしたい用だがここに来てカタルーニャ独立問題は国際問題化し始めた。自分の忘備録としてまとめました。
選挙からプッチダモン氏の逮捕までを振り返ってみた
過去記事と重複するが10月1日の違法の独立投票の結果は43パーセントの投票率と90パーセントの独立賛成、しかも投票箱は公式の物ではなく同じ人物が2度3度投票したケースもあったという信用度の低い投票結果。これで「民主主義だ」と声を高らかに主張する独立派。その後の本格的な大企業のカタルーニャからの本社移転が続きこれが本当にカタラン人たちが望んでいた事なのかと思う。欧州の民族問題は複雑で、お金に支配されない信条を持つ人々が住んでいるこの国ではそれも良しなのかもしれない。1975年まで独裁者により弾圧されていたカタルーニャの人々は何を手に入れ何を失ったのか。
カタルーニャの独立の歴史はこちらの記事をどうぞ
<カタルーニャの独立問題、なぜこんなに揉めているのかまとめてみた>
独立宣言から時系列で
2017年10月10日
世界中のジャーナリストが注目をした違法のカタルーニャの独立投票が終わり力で押さえつけた「悪のスペイン政府xかわいそうなカタルーニャ」の構図は間違いなく世界に発信された。これだけでもカタルーニャの独立運動は成功だったかもしれない。その後の最初の州議会の日が10月10日だった。この期間にプッチダモン州知事はヨーロッパ各国に政治的介入を求めていたがおそらくこの日は朝から議会内部は喧々諤々だったに違いない。プッチダモン州知事は腰が引けているようにも見えたがCUPとANCは本気で独立へ向かってまっしぐらだ。
独立宣言と撤回
この日私もテレビの前で実況中継を見ていた。10月10日は朝から州議会場のあるシウダデーラ公園の州議会場はジャーナリストたちと議員や職員以外の立ち入りは禁止されていた。夕刻には地元の独立派の人々用にスクリーンが準備され独立宣言を祝う準備は完璧に見えた。ところがプッチダモン氏は独立を宣言した後すぐにその効力の停止を発表した。しばらく凍り付いたその場は落胆する独立派のカタラン人たちの脱力する姿で埋め尽くされた。
憲法155条
10月11日
スペイン首相マリアーノ・ラホイ氏は独立宣言をしてすぐに撤回したカルラス・プッチダモン州首相に「あれは独立宣言だったのか、その解答を待つ」と5日間待ちましょうとポールを投げた。独立宣言だった場合は憲法155条が発動しカタルーニャの自治は一旦中央政府の元にわたる。
*スペイン憲法155条一部抜粋=自治州が憲法もしくは他の法律により課せられた義務を履行せず、又はスペインの全体利益を深く損なう行為をなすときは内閣は上院の承認を得て必要な措置及び自治州に対し支持を与えることが出来る。
10月16日
憲法155条の適応についてはマドリードの与党だけでなく条件付きで野党の社会党との合意を結ぶ。
カタルーニャ州知事プッチダモン氏は明確な返答を避けスペイン首相マリアーノ・ラホイ氏に対話を求めたが拒否される。カタルーニャ警察署長トラペロ氏とカタルーニャ民族会議代表(ANC)ジョルディ―サンチェス氏、とオムニウム代表のジョルディー・クシャール氏はマドリードのAUDIENCIA NACIONAL(中央管区裁判所)に出頭命令。9月20日のカタルーニャ州政府関係者の逮捕を受けての住民デモの扇動が理由らしいが警察署長トラペロ氏は保釈金とパスポートの没収で釈放され、サンチェス氏とクシャール氏はそのまま刑務所(マドリード郊外ソトレアル)で拘束され今も刑務所にいる。
10月19日
スペイン中央政府からカタルーニャ政府への「あれは独立宣言だったのか?」の問いの最終期限日プッチダモン州首相は再び「対話」を求め「もし中央政府が憲法155条でカタルーニャ政府の機能を剥奪するならカタルーニャは分離独立峰を議会で正式に採択する」との返答にスペイン中央政府は憲法155条の適応を決定。
スペイン上院で155条の適応が決定した。
10月26日
カタルーニャの独立派の内部は一枚岩ではなく「強靭独立派=CUP」「スペイン政府の中で強い自治権のままうまくやって行きたい派=PDeCAT」の連合政権で着地点が見つからない。CUPとCTRの独立支持政党は中央政府が憲法155条の手続きを終える前に一方的独立宣言=DUI(DeclaracionUnilateral de Independencia)を採択しようとしていたが経済界と結びつきが強いPDeCATは憲法155条が採択される前に上手く立ち回れたらと後ろで動き始めた。
中央政府はカタルーニャに「議会を解散し州議会選挙を実施した場合憲法155条の適応はしない」と語りかけたがその条件はカタルーニャには不利な条件でどちらも全く歩み寄りを見せず平行線が続く。「すり合わせ」や「折り合いをつける」という考えは全く無い。
10月27日
政府上院はは憲法155条をカタルーニャ政府に適応すると承認しカタルーニャ州議会は「DUI=一方的独立宣言」を採択した。検察はプッチダモンら州政府幹部を「反逆罪」等の容疑で告訴し、中央政府は同時に12月21日にカタルーニャ州議会選挙をすると発表。憲法155条による自治権停止は選挙までの期間となる。
ブルッセルに登場したプッチダモン氏
カタルーニャ政府の解体
中央政府はカタルーニャの自治政府の様々な機関を解体した。全国管区裁判所はプッチダモンら(元)カタルーニャ政府幹部を11月2日にマドリードへの出頭を命令。出頭しない場合は逮捕状が発行されることになる。10月30日にはカタルーニャ側も選挙に向けて動き出した。
ブリュッセル
そんな中プッチダモン元州知事と5人の州政府元幹部がベルギーのブリュッセル突如現れた。ベルギーは北部と南部のデリケートな民族問題を抱える国で欧州議会がある。そこにやって来たカタルーニャの独立派幹部たちはベルギー政府にとっては招かれざる客だっただろう。その数日前にベルギーの移民相が「もしプッチダモンがベルギーに亡命を求めるならば可能性がある」と発言していた。始めは政治亡命かと報道されたがその後の記者会見でプッチダモン氏は「安全を確保し正当な裁判」を求める為と語った。
プッチダモン氏らは辣腕弁護士ポール・ベカルシト氏を雇い入れた。ベカルト氏は以前にバスクのテロのメンバーを亡命させた人物。そして11月2日の裁判所の出頭には応じずモニターによっての審問を希望した。スペイン検察庁はこれにより「亡命の危険」があるとの理由で召喚に応じた元州政府幹部を刑務所に送り身柄を拘束した。
2017年12月21日カタルーニャ選挙とその後
12月21日カタルーニャ選挙
カタルーニャ各政党は選挙に向けて動き出した。カタルーニャ議会の定数は135、投票率82パーセント、比例代表制で過半数は68議席。結果、独立派(3党合計議席)70、得票率47,49%、反独立派(3党合計議席)57、得票率43,49パーセント、中間派10。合計を見れば独立派が過半数だったが独立派の中は一枚岩でなく「独立」のみが共通の連合政権。この選挙で一番議席数を増やしたのは反独立派のシウダダーノスだった。シウダダーノスには都市部に生活するスペイン人労働者階級の支持者が多い。経済活動活発なカタルーニャには1950-60年頃からスペイン南部から多くの国内移民が働いておりこの層の代弁者だ。
<カタルーニャ議会場>
動けないカタルーニャ
選挙で勝利した独立派の内部が共有するのは「独立」だけの連合政権で州首相選びが難航する中ベルギーにいる前カタルーニャ州首相カルラス・プッチデモン氏で何とか合意を得た。議会総会は1月30日と決まったが彼は昨年10月1日の違法選挙と独立宣言により国家反逆罪の疑いでスペイン政府から告訴されておりスペインに戻れば即刻逮捕、有罪となれば最大30年の禁固刑が待っている。そこでプッチダモン氏が出した案はベルギーから遠隔でインターネットを使って議会に出席して州知事に任命されるという案だったがこれは政府与党の圧力の元却下された。プッチダモン氏はスペイン最高裁判所に対して逮捕されずに首相指名投票に出席できる方法を模索したが万策尽きた。
この日はプッチダモン氏が何らかの方法で州議会に登場して州首相に任命されるのではないかとスペイン政府は神経をとがらせていた。空からパラシュート、いや車のトランクに隠れてでもスペインに入国するのではないかという事でカタルーニャ州議会場周辺は厳しい警備が行われた。独立派の人々はプッチダモンの顔がコピーされた紙のお面をかぶり街に出て警察を混乱させた。しかし1月30日に予定されていた州議会は州知事候補者の出席が無いまま流れた。
混乱の中での州首相選び
プッチダモン氏を合法的に州首相とする方法は全て不可能となり拘留されているジョルディー・サンチェス氏を州首相に決めようとするが最高裁が仮釈放をするわけも無くこの話も立ち消える。3月20日、そこで保釈金で釈放中のジョルディ・トゥルイユ氏を新たな州首相候補と決めた。
<ジョルディ―トゥルイユ氏>
ところがその翌日3月21日にスペイン最高裁はそのジョルディ・トゥルイユ氏を含む独立派幹部に召喚状を出した。緊急にカタルーニャ議会は総会を前日3月22日に開きトゥルイユ氏がマドリードに行く前に州首相に決めようとしたが、ここで一枚岩でない独立派の弱点が浮き彫りになった。CUPがトゥルイユ氏に賛成に票を投じず過半数に届く事が出来ない。(ジョルディ―・トゥルイユ氏は資本主義派でアルトゥール・マスの流れの人物、CUPは反資本主義を掲げるグループ)そしてこの日も新首相を決められ無いままとなる。
翌3月23日前州政府閣僚たち6人がマドリードの最高裁判所に呼び出されたがその中にマルタ・ルビラ氏の姿が無かった。置手紙「スイスへ行く」を残して消えた。(スイスにはCUPのアナ・ガブリエルが既に亡命しているので何らかの形で合流するであろう)マドリードに出頭した5人はそのまま刑務所に監修された。
衝撃のニュース
ドイツでプッチダモン氏逮捕
同日3月23日スペイン最高裁判所よりプッチダモン元カタルーニャ州首相達6人に一旦取り下げられていた国際逮捕状が出された。その時ジュネーブの国際人権フォーラムに参加していたプッチダモン氏はその後フィンランドのヘルシンキへ向かい24日にヘルシンキ大学での討論会に出席する予定だった。危険を感じたプッチダモン氏はヘルシンキから姿を消した。ベルギーに帰る飛行機の予約をしていたが空港にはあらわれず再び「プッチダモンを探せ」が始まった。後から分かったのは彼らはフィンランドからフェリーでスウェーデン、デンマークそしてドイツに入りベルギーに向かおうとしていたらしい。スペインのCNI(CIAのような組織)はフィンランドで既にプッチダモン氏の車に発信装置を取り付けて動きを掴んでいた。動きを掴んだCNIはドイツ国境を越えたところでドイツの警察に連絡を入れ逮捕に至ったニュースはスペイン中を激震させた。さらにこの車に同乗して運転していたのはなんとカタルーニャの警察官だった。
さらに激震は続く
プッチダモン氏はドイツのNeumunsterの刑務所に収監されスペイン当局は身柄引き渡しを要請した。ここで問題はスペインの法律では反逆罪で逮捕状が出ているプッチダモン氏だがドイツの司法の反逆罪と解釈の違いである。ドイツの反逆罪は「暴力を伴う場合」となるのでプッチダモン氏の場合は当てはまらないとのドイツ司法の判断となり4月5日に7万5000ユーロ(訳1000万円)の保釈金で仮釈放された(ANCが資金を準備)。ドイツ検察庁もその決定に異議なしと発表しスペイン側には再び激震が走った。
刑務所から出て来たプッチダモン氏は待ち受けた世界各国のジャーナリストに対し英語で「スペイン政府による人権抑圧と政治犯にの囚人がいることは欧州の恥だ」と語った。
スペイン与党の面目丸つぶれ
国家反逆罪が適用されればスペインへの強制送還となるが暴力が伴わない為適応されないとすれば罪状は「公金横領=公金による不正な選挙」のみとなる。同時にベルギー検察も3人の元カタルーニャ州政府幹部たちを保釈金無しで開放した。こちらも国家反逆罪が認められなくスペインへの引き渡しはおそらく無くなった。
すでに3月10日クララ・ポンサティ―氏(元教育委員長)はベルギーからスコットランドに移動していた。彼女はもともとスコットランドの大学教授だったがカタルーニャ州政府に関わっていた為プッチダモン氏達とベルギーに亡命していた。今回スコットランドの大学に復職することになったがスコットランドの大学側は国際逮捕状が出ることは承知の上での復職の承認である。国際逮捕状に対し英国警察は自主的に出頭を求め、ポンサティー氏は3月28日警察に向かうが身柄は解放された。保釈金4万ポンド(約600万円)に対しては彼女の支持者たちがスコットランドでカンパを呼びかけるとたちまち5倍の20万ポンド(約3000万円)が集まった。そう、スコットランドはイギリスからの独立運動が盛んでカタルーニャの独立運動に対しては寄り添っている立場なのだ。
国際問題化
逮捕状が出る前にプッチダモン氏はスイスに亡命中のCUPのアナ・ガブリエル氏とジュネーブでスペイン政府のカタルーニャに対する弾圧について活動している。カタルーニャの独立問題はここに来て国際問題化し始めた。これをカタルーニャ側が計算して動いていたとは到底思えないがスペイン政府にとっては想定外の展開となってきた。プッチダモン氏らの動きを見ているとヨーロッパにかなりのカタルーニャ支援組織やカタルーニャの地下組織があり援助をしているに違いない。そしてANCに代表される民間組織の潤沢な資金はおそらく海外からも調達されているのだろう。これらはフランコの独裁政権時代からコネクションに違いなく私たち日本人には想像の出来ない団結力とシステムを持っていると思う。今後のカタルーニャについても目が離せない状態です。
最後に
フランコ後のスペインの中でカタルーニャは自治権を取り戻し経済的にも発展し多くのカタラン人たちはそれ程独立を強くは望んでいなかったのではないか。現カタルーニャ議会も独立派と反独立派は約半分ずつ。何度選挙を繰り返してもまずこれに変化はないだろう。浮動票が少なく多くが考えを変えない支持層。経済発展を遂げたカタルーニャには国内移民の2世3世も多く住んでいて純粋カタラン人たちとの間には大きな溝がある。この溝が深くなった功罪はカタルーニャの政治家たちにあり私利私欲に走り焦点を独立に見せかけ扇動していった背景がある。民衆は振り回されカタラン人のそしてスペインの中で大きく人々が分断されて不信感のみが増大した。多くの企業がカタルーニャから逃げて行き行先が見えない中カタルーニャは21世紀に再びズタズタにされた。