狂女ファナ(ファナ・ラ・ロカ)と呼ばれるが本当に狂っていたか真相は謎。カトリック両王の娘、神聖ローマ帝国皇帝カルロス5世の母親、そして事実上スペイン女王だった。華やかな大航海時代に冷たいトルデシージャスの城に46年間幽閉され76歳で亡くなる。
ファナの両親<イサベル女王フェルナンド王>
当時のスペイン
15世紀のスペインは未だ統一国家ではなくいくつかのキリスト教国家と南にはグラナダ王国というイスラム教徒の国があった。1469年にカスティーリア王国の王女イサベルとアラゴン・カタルーニャ王国の王子フェルナンドが結婚しスペインは初めてほぼ統一国家となる。2つの国の国王が結婚したがあくまでも別の国家として存続していた。
この2人をカトリック両王と呼ぶ。この呼び名は当時のボルジア家出身ローマ法王アレキサンドル6世による。
<カトリック両王の結婚>
翌年1470年に長女イサベル誕生、1478年に長男ファンが誕生、翌年1479年にトレドで生まれたのが今回のファナ王女。
「卵型の顔に繊細な鼻、明るい色の肌に栗色の髪」との記述が残る。頭が良くラテン語が得意で音楽が好きだった。仲睦まじく尊敬しあう父母の元で厳格に、しかし愛情いっぱいの家庭で育った美しく明るい聡明な少女だった。
<ファン・デ・フランデス作ファナ王女17歳頃>
カトリック両王の結婚政策
堅実なイサベル女王の人生に、もし失敗があったとすればひとつは異教徒追放令、もうひとつが子供達の結婚相手だったのかも・・・と思っている。
殆どの子供達がもし他の結婚をしていればもう少し幸せな人生を送ったかもしれない。当時のスペインは大航海時代に入っていてアメリカを手に入れ大帝国になったばかり。一流国への仲間入りとまわりの列強諸国との利害関係の為、子供達は政治の道具として結婚させられていく。
長女イサベルはポルトガル王と結婚、長男ファンはブルゴーニュ公国の王女と、そしてファナは同じくブルゴーニュ公国の王子と結婚が決まった。妹の三女マリアは姉の後妻としてポルトガル王妃、末っ子のカタリーナはイギリス王妃となる。
<イサベル女王と子供達、真ん中左寄りがファン皇太子>
繁栄していたブルゴーニュ公国
この頃ヨーロッパの経済的先進地帯だったのがブルゴーニュ公国。現フランス東部のブルゴーニュ地方とベルギー・オランダのフランドル一帯。高級毛織物やタペストリーを海外へ輸出してヨーロッパ随一の繁栄で優雅な発展を謳歌していた。
<ブルゴーニュ公国領土、フランドル含む時代>
その経済力を背景に画家のヤン・ファン・アイク(1395~1441)やバン・デル・ウェイデン(1400~1464)、ブルーゲル(1525~1569)などが登場し、文化的成熟を誇る地域だった。フィリップ善良公の時代には領土は大きくなりその孫娘マリー・ド・ブルゴーニュがハプスブルグ家のマクシミリアンと結婚した。ブルゴーニュは当時のヨーロッパ随一の優雅な先進国でハプスブルグは田舎の貴族という不釣り合いな結婚だった。
<ブルゴーニュのマリー>
マリー・ド・ブルゴーニュは可憐で美しく領民たちからも慕われていた。父王シャルル突進公の突然の死により20歳でブルゴーニュ公国を継承。父の死によりフランスから侵攻を受けて周りの大国の思惑の混乱に陥る中、父王か決めたハプスブルグ家のマクシミリアンとの縁談を慌てて決行して結婚した。
<マクシミリアンとマリー>
マクシミリアンとの仲は睦まじく幸せな結婚だった。2人の間に一男一女が生まれる。長男はフィリップと名付けられた。ハンサムだったのでフィリップ美公と呼ばれ後のファナの夫となる人物。その後妹のマルグリットが誕生、マルグリットはスペンの皇太子ファンと結婚する事になる。
運命の神は意地悪だ。
幸せの絶頂に突然の不幸が訪れる。夫と馬で狩猟に行っている時、マリーは落馬して重症。小さな命を授かっていたが流産の上3週間後1482年25歳で亡くなった。ブルゴーニュ全体が深い悲しみで包まれ葬儀には多くの人が訪れた。今はブルージュの聖母教会に埋葬されている。
*フィリップはスペイン語ではフェリペ、マルグリットはスペインではマルガリータ。ここは混乱するのでフィリップとマルガレーテで統一する。
ファナの結婚と王位継承権の行方
この時ファナは王位継承権第3位
スペインでは男子王位継承が優位でその後は年齢の順になるので兄のファンが王位継承権第1位、姉のイサベルが第2位、ファナはその後なのでこの段階では全くファナに王位が行くことは誰も想定していない。カトリック両王も、そしてファナ本人はなおさら。
長女イサベルは母親似のしっかり者の美しい王女だった。幼いころから各国から縁談があったがポルトガル王ジョアン2世の息子アフォンソと1490年に結婚する。ポルトガルで熱狂的に迎え入れられ結婚式が行われた。
*ジョアン2世は喜望峰発見の時のポルトガル王。コロンブスの援助を断った王。
<イサベル王女>
好事魔多し、とはまさにこの事だ。
翌年にカトリック両王がポルトガルを訪れて祝いの祝宴の折、狩りに出かけた新婚の夫アフォンソは帰らぬ人となる(1491年)。落馬して即死だった。失意の中、長女イサベルは祖国へ戻されることになり4年の歳月を過ごす。
その間にスペインではグラナダの陥落とコロンブスの出港、ユダヤ人追放令と時代は目まぐるしく動いていく。
ポルトガルから知らせが届いた。「ジョアン王急死」
スペイン大使によると妻のレオノーラによる毒殺説が囁かれていた。空位となったポルトガル王位にレオノーラの弟マニュエルが即位。新ポルトガル王からイサベルは求婚されたが俗世を捨てて修道院に入るつもりだったイサベルに結婚の意志は無かった。しかし母は娘に「王家の人間としての役目」をわきまえる様に説得しポルトガルへ再び旅立っていく。
ファナの結婚
アラゴンとフランスは度々イタリアを巡ってもめていた。ブルゴーニュは国境を接するフランスとは小競り合いが続いていた。ここに対フランスの利害関係で二つの国が結びつくことになった。
スペイン王国の王子・王女とブルゴーニュ公国の王子・王女の結婚が決まった。
イサベル女王の長男ファンとブルゴーニュ公国のマルグリット、次女ファナとフィリップの結婚なので2重の婚姻で憎きフランスを挟み撃ちに出来るという算段だ。
ファナの兄はイサベル女王の一人息子。アラゴンとカスティーリアの王位継承者*アストゥリアス皇太子だ。少し体が弱い18歳。結婚をもう少し先に延ばしてはという忠言はあったがイサベル女王はアラゴンとカスティーリア両王国の王座を手にする世継ぎの誕生を急いでいた。一方美人そろいの姉妹の中でも抜き出て美しいと言われていたファナは16歳でフェリップ美公との結婚が決まりスペインとブルゴーニュの2重縁組となる。
*アストゥリアス皇太子Principe de Asturias=スペイン王国の次の相続者、すなわち皇太子に与えられる称号で14世期に始まった。現在の王位継承者は王女なのでPrincesa de Asturias,皇太女になっている。
<15世紀のカラベル船>
王女ファナを乗せたカスティーリアの王国艦隊が復路にブルゴーニュのマルガレーテをスペインに連れて来ることで両国の合意に至る。
つつましい生活を好むイサベル女王が珍しく壮大な大艦隊を準備させる。北部ラレード港は船で埋め尽くされまるで都市のようだった。聖職者、神学者、有力者、侍女、教育係、兵士と嫁のマルガレーテを連れ帰る侍女やお付き等従者だけで4000人総勢15000人で出かけていった。1496年大小さまざまの120隻の船が準備され出港していく。
イサベル女王は娘の船に乗り込み一昼夜を共にし別れを惜しんだ。これでもう二度と娘とは会えない、という予定だったのだから。
<ラレード港>
1496年8月21日の夜中から22日にかけて錨を挙げ艦隊は出発していった。
「すべての船が出港するのに次の日の日中までかかり海岸からは日が暮れてもまだ船の帆が見えた」という大変な数の船団だった。
ところが9日目に風の向きが変わり大時化となって艦隊は8月31日イギリスのポーツマス港に緊急入港をした。3日間の時化で船の乗組員までも大変な疲労困憊の中、王女は平静に堂々と歩いて感謝のミサをいただきに教会へ出向いた、そして誰よりも美しかった。スペイン王女の美しさは忽ち評判となりイギリス王の耳にも入り当時スペインの王女カタリーナと息子の結婚の交渉中だったヘンリー7世はこっそりファナを見にやって来た程だった。
<ファナ、1495年頃>
2日後、海が静まり艦隊は出発した。9月9日にフランドル到着。港到着後は華々しく行列を作り民衆へのファナのお披露目が行われた。道中歓迎する人々の熱狂は冷めずアントワープ迄続いた。未来の夫は父王の代理でリンダウに行っており不在。その間フランス語を習いあっという間に使えるようになり周りを驚かせた。
<アントワープ、グローテ・マルクト>
ファナの女官達も美人そろいでフィリップの元には毎日ニュースが届き話題の婚約者に会いたい気持ちを募らせる。フィリップは自筆でファナに手紙を書き送り飛脚がそれを運んだ。ファナも戻る飛脚に手紙を持たせ2人は人知れず愛を育んでいた。
実は当時のスペインはカトリックの元に禁欲的で厳格な社会が築かれておりフランドルは享楽的だった。貿易の豊かさは庶民にも行きわたり酒場で飲んだくれ道徳は地に落ち、男女関係もおおらかだったのが今のオランダ・ベルギー、フランドル地方だった。
<酒場でタバコを吸う紳士たち>
このひどい堕落に驚いたのがスペイン人たちでファナは下界から離れてリールの修道院で婚約者を待つことになる。ファナは冷静で常識的で真面目だった。その間修道院の行事に参加し自分を戒め神学を学びラテン語で教養あふれる会話を楽しんだ。
<ベルギーリールの街>
フィリップ美公の登場
修道院で過ごす事9日目、ずぶ濡れの騎士の一行が早馬で駆けつけ修道院の戸を叩く。会議を終えたフィリップが先鋭のお付きだけを連れてファナに会いに馬を走らせやって来た。気の利いた修道院長はこっそり内部に彼らを招き入れ衣服を乾かし食事を準備した。
<フリップ美公ルーブル美術館>
背は高く瞳は青く甘いまなざしの魅力を自ら知っていた。陽気で話がうまくダンスが得意でスポーツ万能、手足が長く美しい指が自慢。女性にもてないわけがない。
始めて逢った2人は惹かれあい修道院長を説得しフィリップは「誰でもいいから司祭を連れて来い!」とその場で即刻結婚した。1496年フィリップ美公18歳ファナ16歳。この時からファナは一途にフィリップに恋い焦がれる事になる、彼が死んだ後も。
その6日後ブルッセルの大聖堂で壮麗な結婚式が行われファナは正式にブルゴーニュ大公妃となる。この時まだファナのスペイン王位継承権は3番目だった。
<ファナとフィリップの結婚、インスブルック宮廷教会の彫刻>
フィリップは自慢の美しい妻を連れて領土を旅して歩いた。2人の幸福な姿はあらゆるところで見られファナは幸せの絶頂にいた。そしてフランドル風の街や陽気な人々や快楽的な街を気に入っていた。この国で生涯暮らすのだから夫好みになろうとしたのかもしれない。
ブルゴーニュ公妃として一生を終えていれば普通の幸福な人生だった。そんなファナは直ぐに子供を宿した。
兄ファン皇太子と姉イサベル王女
王位継承権第1位のファンの結婚と2位姉イサベルの再婚
スペインではイサベル女王の愛情とスペインの期待を担ったファン皇太子の結婚の準備が整った。
ファナを運んだ船団が今度はブルゴーニュ公女マルガレーテを乗せてフランドルを出発する。途中嵐に見舞われたがサンタンデールに到着したのが1497年3月初旬。17歳のマルガレーテは豊かな金髪に大きな褐色の目、人々を魅了したのは言うまでもない。
<ブルゴス大聖堂>
ブルゴスで華やかに祝宴が行われ19歳のファンと17歳のマルガレーテは祝福され未来のスペイン王と王妃としてふさわしかった。美しいマルガレーテに王子ファンは夢中になった。そして早く世継ぎをと周りからも期待されていたのもあった。
「最近ファン様の顔色が悪いようですが…」
との忠告もあったがイサベル女王も未来の世継ぎを一日も早くとの思いがあった。そして王妃が懐妊した。
同じ年の秋、ファナの姉イサベルの再婚が決まり結婚式が執り行われた。修道院で余生を過ごそうとしていたイサベルだったがポルトガル王マニュエル幸運王から求婚され結婚が決まった。28歳と27歳の結婚で当時ではかなり晩婚になる。ポルトガルでの結婚式にカトリック両王は参列し娘の姿に満足していた。
<マヌエル、ポルトガル王>
運命のいたずら
長女イサベル王女のポルトガル王との結婚式の最中に不吉な知らせが届いた。
「皇太子ファンの様態が良くない」
もともと体が弱く病気がちだったファンは結婚後の式典が続きあまり調子が良くない中サラマンカでの祝賀会に参加しているところだった。父フェルナンド王は急いでサラマンカへ向かうが、ファンはあっけなく死んでしまう。
1497年10月4日結婚の6か月後だった。
イサベル女王の最愛の息子でスペインの希望だった未来が幕を引いた。19歳、これほど悼まれた死は他に無い。スペイン中が喪に服し悲しみ国中の教会の鐘が哀しみの音を鳴らし続けた。その遺体はアビラの修道院に今も眠る。
<ファン皇太子の霊廟、サント・トメ修道院アビラ>
*ファンの死因は結核とも天然痘とも強壮剤として食べた亀の肉が悪かったとも、そしてマルガレーテに夢中になりすぎてベッドの時間が多すぎたとも言われている。
この時ファンの子供を宿していたマルガレーテに注目が集まる。
「もし男の子ならスペインを継がせたい」「いや、女の子でもカスティーリアの王冠は問題ない」
ところが突然の早産の結果この子もあっけなく神に召されてしまう。その後マルガレーテはフランドルへ戻りサボア公と再婚するがまた夫が死別しその後は国をまとめる政治家としての才能を生かし懸命に祖国の為に働く。誠実で聡明なマルガレーテは人々に尊敬されファナの子供達、後のカルロス5世達を大切に育てた。イサベル女王とはその後会うことは無かったが生涯手紙のやり取りをしお互いに尊敬しあった。
<マルガレーテ>
姉イサベルに王位継承権
弟ファン皇太子の死でポルトガルに嫁いだ姉イサベルは深い悲しみの中に沈んでいた。そんな悲しみの中、王位継承権が新婚のイサベルの元にやって来た。
<イサベル、ポルトガル王妃>
ブルゴーニュのフィリップ美公、ファナの夫が突然王位の主張を始めた。その野心に警戒を始めるスペイン側は早く長女イサベルに王位継承の手続きを踏ませたくスペインへ召喚する。
そんな中イサベルが懐妊した。
体調が安定するのを待ちカスティーリア王国の議会で王位継承の誓約は終わった。今度はアラゴン王国での承認へとサラゴサへ向かい長引く議会の途中イサベルは男の子を産む。人々は歓声を挙げて喜び街中に響き渡る声で「イサベル万歳」と叫んで祝砲が鳴る。
ところが運命の神はここでも黒い矢を放つ。
宮殿の中はひっそりと静まり返り凍り付いていた。子供に生を与え力尽きたイサベルはその1時間後この世を去った。
1498年28歳で亡くなったイサベルは「イサベル・ラ・トゥリステサ」、「悲しいイサベル」と呼ばれる。母の命と引き換えに生まれた男の子はミゲールと名付けられた。
一躍この子「ミゲール」に期待と注目が集まった。
*夫のマニュエル王はカスティーリアの王冠をあきらめリスボンへ帰って行った。後にイサベルの妹マリアと再婚しその死後はファナの長女レオノールと結婚する。
フアナの運命
フェリペの浮気
兄ファンが亡くなり姉イサベルが亡くなった頃ファナは最初の娘レオノールを産んでいた。夫の行動が怪しくなり始めたのもこの頃で身重の妻の目を盗んでは他の女性の元へと行き始めるのだ。当時の王家には普通にあった事でイサベル女王も度々フェルナンド王の不貞に心を痛めた。
ただファナは黙って我慢するタイプではなかったようで人前も憚らず夫を罵り声を荒げた。そしてフェリペは度を越していた。
丈夫で健康で嫉妬深いファナはフェリペから目を離さず、乗馬も狩りも何でも行動を夫と共にした。妊娠が気づかれないようお腹を隠して馬に乗っていたほどだ。
<フィリップ美公とファナ>
そして次の年ファナは待望の男の子をベルギーのゲントで産む。(1500年2月24日)
「カルロス」と名付けられたこの子が後の「カルロス5世」。
ブルゴーニュは喜びに沸いた。しかし、その少し後マドリードから悲しい知らせが届く。
姉イサベルの忘れ形見、ミゲールが亡くなった。
2歳にさえなっていなかった。1500年7月20日グラナダで死亡、トレドに埋葬されるがその後グラナダの王室礼拝堂へ移動し今もそこに眠る。
そしてブルゴーニュ公妃として一生を終えるはずのファナの所にスペインと新大陸の王位継承権がやって来る。
動き始める策略
妹マリアとカタリーナの結婚
ミゲールの死で希望の光は消えたが泣いているわけにはいかない。
カトリック両王は動き出す。約一か月後ポルトガルとの絆を消さない為マニュエル王に三女マリアを嫁がせた。マリアはイサベル女王の子供の中で唯一幸福な人生を歩む。35歳で惜しまれて亡くなるまでにポルトガル王に5男2女を与えた。
末娘カタリーナはイギリスへ行くことになる(1501年)。フランスを周りから包囲するためにはイギリスは最適の相手だった。カタリーナはヘンリー7世王の息子アーサー王子と結婚が決まる。
ファナは6年ぶりのスペインへ
ファナに王位継承権がやって来るとにわかに優しくなったのが夫のフェリペだった。
いやフェリペだけではなく周りのほとんどが地位とお金目的でファナを利用しようと動き始めた。ファナはそんな中1501年にブルッセルで3人目の子供を産む。女の子でイサベルと名付けられた。
同年夫妻はカスティーリアとアラゴンの王位継承者の承認を得るために陸路スペインへ向かう。大きな馬車が100台は準備され大行列で華々しく出発した。
フェリペはフランスびいきだったのがスペイン側の見当違いだった。
彼の野望はスペインの王冠を手にした後、息子カルロスをフランス王妃と結婚させ昔のカール大帝の大帝国を再現させることだった。陸路フランスへ入りルイ12世の居城ブロア城でしばらく世話になる。
<ロアールのブロア城ルイ12世の居城>
ある日の日曜日
顔合わせを祝ってミサが行われれ、献金用の袋が回って来るとルイ12世はまるで家臣にするように金貨をフィリップに渡す。フィリップ美公はそれを有り難く受け取って袋に入れた。これは主人が従者に行う儀式だった。
<フランス王ルイ12世>
同じことをフランス王妃アンヌがファナにしようとするとファナは金貨を手に取り裏表何度も見た後突き返し自分の高価なイヤリングを片方袋に入れた。その所作は大変優雅で気品に満ちていた。ファナはスペイン王女で未来の女王なのだから対等なのだという意思表示だ。
そしてミサが終わると教会から出るときルイ12世が出るとフィリップ美公は直ぐに後ろをお付きの様について出たがファナはフランス王妃が出た後も祈り続けしばらくしてから優雅に席を立って外へ出た。お蔭でフランス王妃は寒い教会の外でファナを待つ羽目になった。おまけにファナは教会を出るとフランス王妃の前を堂々と歩いて先に行った。
<フランス王妃アンヌ>
夫はこの妻の行動を称賛するが片方になった高価なイヤリングを取り返す方法を心配していた。
部下を通じ何とか取り返したイヤリングをファナは
「既に神のものとなった物を受け取れません。両方にそろえて神にお返しします」と司祭に渡したというエピソードが残っている。
国境を超えスペインに入ると景色は険しくなり山や谷やバスク地方の武骨な風景になりフランドル人たちが悲鳴を上げ始め不満を言い出す。
<スペイン北部の山岳地帯>
フィリップ美公は持病の痔を患っており悲鳴を挙げながら峠を越え良くなったらまた今度は麻疹にかかり、貧しい村には大した食べ物も無く散々な旅となり武骨なスペインに不満を募らせる。
ファナは抜群の体力でかいがいしく夫の面倒を見るその時間は彼女の最高の幸せだった、に違いない。到着した議会ではファナは立派に役目を果たし堂々とアラゴンの議会の議長を務めている。
フェルナンド王とフィリップの確執
フェルナンド王は大した人物でその心の内は推し量れない。
大物でマッキャベッリの君主論にも登場する策略家だった。もちろん当時のヨーロッパの政情を見るとそれくらいでないと国王は務まらない。ナポリでフランスと揉めているアラゴン王国の王冠を手に入れる娘の婿はフランス寄り政策なのだから面白いはずはない。
戦費はかさみスペインにとっては厳しい時期だった。ことごとくフェルナンドとフェイリップは対立する。
そこで新しい悪い知らせがやって来る。
イギリスへ嫁いでいた末娘カタリーナの夫アーサー皇太子が亡くなった。フェルナンドが心配したのは娘ではなく同盟関係だった。
<フェルナンド王>
カタリーナはイギリスに留め置かれアーサーの弟「ヘンリー8世」と婚約が決まる。
フィリップは1人ブリュッセルへ
何かと堅苦しいスペインが気に入らないフェリップ。
フェルナンド王とも対立が続き1502年12月19日フィリップは身重のファナを置いてフランスへ向かう事が決まる。息子カルロスとフランス王女の縁談話をまとめる予定だ。
ファナの出発を許さなかったのはカトリック両王だった。身重の娘が敵国フランスで子供を産む事などあり得ないというわけだ。
そして翌年の1503年3月ファナはスペインで男の子を産んだ。フェルナンドと名付けられたこの子は未来の神聖ローマ皇帝となる。
ファナの健康は瞬く間に回復し早く夫と子供の所へ帰りたいと激しく訴えた。その訴え方は兎に角尋常ではなかったとされる。ファナを帰さなかったのはイサベル女王だった。この頃のイサベル女王は発熱を繰り返し良い状態ではなかったが未来の女王ファナに君主としての教育をとの気持ちがあったと解釈する歴史家もいる。
ファナをメディーナ・デル・カンポのモタ城に幽閉した。フランドル行きの船が出る方へ行けると喜んで出発したファナだったのが不憫。
<メディーナ・デル・カンポ、モタ城>
城で泣き叫ぶファナはあらゆる手段で脱出しようとするが城門は閉められ跳ね橋は上げられた。
イサベル女王は何故ここまで夫に会いたいと泣き叫ぶ娘をスペインにとどめたのか。フランスと戦争が落ち着いたらとの約束があったが1503年11月停戦協定が決まった後もファナには内密にされた。それを知ったファナは更に暴れ母に対して猜疑心を募らせる。
ある時ファナは「私はブルゴーニュ公妃なので妻として夫と共にいなければなりません。歩いてでも帰ります。」といってフランス側を向いた塁砲の近くの城門に体当たりし叫び座り込み、凍てつく寒さの中で夜を過ごした。
この頃のファナの言動は確かに普通ではない。心配してやって来たイサベル女王にこの上ない暴言を吐いたのがファナと母の最期の会話となった。
イサベル女王はその1年後に神の元へ召される。
ブルゴーニュへ
これらの事件の後ファナは帰国が許され翌年春ラレード港からフランドルへ帰る。ファナ25歳。夫と離れて1年半が過ぎようとしていた。
フィリップは妻の帰還を心から喜ぶが心配した通り愛人がいた。
いつもの通り金髪の色白の女官。まわりは親切にもファナに色々情報を持ってくる。問い詰められた夫は白状し女と縁を切ると約束するが女の方がファナに挑戦状をたたきつけた。フェリペが女に渡した手紙を豊かな胸元に入れファナの前に現れたのだ。ファナは鋏を持って飛びかかりその自慢の金髪を切り刻み頬に切り傷を入れたという。
フィリップは激高し2人の中は冷めきった。今度は報復にフィリップはスペインから連れて来たファナに忠実なモーロ人のお付きたちを宮廷から追い出した。これをきっかけにファナはの精神状態は更に悪くなり時折爆発し手が付けられなくなった。部屋に閉じ込められると夫の浮気を疑い壁を叩き叫び続けた。
イサベル女王の死
遺言状
ファナの現状は逐一スペインに届けられていた。
それがイサベル女王の心を痛め死期を早めたかもしれない。1504年11月26日イサベル女王崩御。遺言によりファナがカスティーリア王国の女王となった。
死期間近の女王は最後に文言を付け加えた。「ファナにカスティーリアを、ただ統治不能な場合はファナの父フェルナンド・アラゴン王が摂生となる。」
*カスティーリアとアラゴンは別の法を持つ別の国家。この時ファナが継承したのはカスティーリア王国の王冠。
<イサベル女王の最後、口述で遺言をしたためる>
フィリップは周りに担がれ動き出し、フェルナンド王は娘の狂気を期待した。
フランスはこの混乱をチャンスと考えローマ法王やイギリス国王までも美味しい果実を手に入れようと動き始めた。
そしてフィリップは妻に優しくなり、再び4人目の子供マリアを懐妊しこの子は1505年に誕生する。
フェルナンド王の再婚と偽の書簡
フェルナンドの心には「このまま自分が死んだらカスティーリアとアラゴンと新大陸の王冠の行方は憎らしい義理の息子フィリップ又はベルギー生まれの孫のカルロスのもとへ」
それを阻止したいフェルナンドは60歳に手が届く頃仇敵フランスのルイ12世の姪と結婚している。努力の甲斐あり子供が生まれるがその子は生まれて間もなく亡くなってしまう。なんとか世継ぎをと怪しい媚薬にまで手を出してまさに必死だった。がこれがカスティーリアの貴族たちの反感を買い彼らは反フェルナンド派となる。
*アラゴンの議会ではフェルナンド王に男子世継ぎが出来なかった場合ファナとフィリップに王位継承権という注釈があった。
フィリップ美公にチャンスがあるとすればファナの精神状態がまともな場合。義理父フェルナンドにとってはファナが狂っている方が都合がいい。又カスティーリアの貴族の多くはアラゴン人のフェルナンドに国を治められたくなかった。
まわりの思惑が錯綜する中、ファナの偽の書簡が用意され「自分は精神状態は普通であり愛する夫にカスティーリアの統治権を譲る」というものだ。フィリップはファナに署名を強要するがファナは5度にわたって断りついに署名しなかった。
*実はファナは殆ど署名をしなかったという説がある。ある時夫に錯綜する陰謀の中簡単に署名はするなと言われた後一度しか署名をしていないという説だ。
王位継承権を手に
再びスペインへ
フィリップ美公はスペインへ行く決心をする。
艦隊を準備し1506年1月7日プリシンゲン港を出発した。とんでもない嵐に会い3日間の最悪の状況の船での中でもファナだけは顔色も変えず冷静だったという。
船を守るために船乗りたちは積荷を海に投げ入れ始めしまいには船底に馬と一緒に押し込められていた娼婦達まで海に捨てようとした。
それを見たファナが「この女たちを海に捨てるなのらまずは彼女たちを食い物にした男たちを先に捨てましょう。神に許しを請うには身分は関係ありません」と嵐の甲板で女たちを救った。
この嵐の後で大打撃を受けた艦隊を休める為一行はイギリスへ寄る。ここでファナは妹カタリーナに逢っている。カタリーナは夫アーサーが亡くなりその弟ヘンリー8世との縁談がまとまったところだった。イギリス王ヘンリー7世はファナを見てその美しさを讃えたという。
<ファナの妹カタリーナ、イギリス王と結婚する>
フィリップ美公は王様気取りで上機嫌。ふたりはしばらくのイギリス滞在中蜜月を過ごし再びファナは末娘カタリーナを懐妊する。
1506年スペインに到着。
到着した一行は歓迎を受けた。フェルナンド王はフィリップ美公との対立と内戦を憂慮し和解したように見せ実権を握ろうとした。陰謀が渦巻く中ファナを狂気のせいで女王の地位から遠ざけようとする輩もいたがフェルナンド王に危険を感じるカスティーリア貴族も多くいた。カスティーリア提督ファドリケ・エンリケスがバジャドリードで面会する。
この時のファナはいつもよりかなり冷静で慎重に受け答えし議会は1506年7月1日ファナを正式な女王陛下として承認した。同時にフィリップ美公も「カスティーリア王フェリペ1世」を名乗り上機嫌となる。
最愛の夫フィリップ美公の謎の死と彷徨う遺体
2人はファドリケ・エンリケスのブルゴスの城に招待されて過ごし、美しい城で国王として扱われ28歳のフィリップ美公は満足だった。
そこでペロータというテニスに似たスポーツをして汗をかいたフィリップは冷たい水を所望した。一気に飲み干したがその後強い吐き気を感じ苦しみだす。フィリップは立っていることも出来なくなり倒れ高熱が出て体中に黒い斑点。当時そのあたりではペストが流行して多くの人々をあの世に送っていたらしい。
ファナは妊娠5か月の身で寝ずの看病をしとにかく世話を焼く。力尽きたフィリップの魂が体を離れた後もファナは体をさすったり話しかけ続け2人を引き離すのに苦労したと記録にある。
最愛の夫フェイリップ美公は死んだのだ。
<フィリップ美公の死>
不思議なのは都合よくフィリップだけがペストにかかり他の誰も罹患していなかった事。フィリップ美公の死は今も謎のまま。この時彼の死を望んでいなかったのはファナのみだったのだから。
フィリップ美公の遺体は防腐処理が施されブルゴスのミラフローレス修道院に安置された。ファナはミサを行い、祈りはフィリップ美公の生前の行いの懺悔と霊魂の救済だった。(決して後世の人々が期待するフィリップの復活ではない)この後夫の遺体を再び掘り起こしカスティーリアの荒野をさまよい時折棺を開け口づけをし復活を祈ったという伝説になっているが事実は不明。
<フランシスコ・プラディージャ、荒野をさまようファナ>
わかっている事実のひとつはこの頃ペストがブルゴス近くまで来ていた。ファナは実はそれほど狂っていなく最愛の夫の棺を持ってペストから逃れたのかもしれない。
イギリス国王ヘンリー7世からの求婚
50歳になるヘンリー7世が未亡人になったファナに食指を伸ばす。持参金やその後のスペインが目当てだがファナに恋い焦がれていたのも本当だ。
ファナにその話が舞い込んだ時フェルナンドは引き延ばした。カスティーリアの王冠を狙っているのは間違いない。もし男子誕生なんてことになれば大変だというわけだ。
<ヘンリー7世イギリス王>
そして、その少し後にヘンリー7世は亡くなった。
ファナの心がどう動いたかはわからないがもしもこの時イギリスに嫁に行っていたらその後は違う人生だったかもしれない。そして妹のカタリーナも姉がいればヘンリー8世の愛人に追いやられる事無く過ごしたかもしれない。
トルデシージャスへ
父フェルナンドの都合
父フェルナンドは賢明だった。
このままではカスティーリアは混乱したであろう。ブルゴス近くの街トルトレスでファナとフェルナンドは謁見し政治の実権は父の元へ。ファナはその後アルコス(ブルゴスから10キロ)に移動し息子フェルナンドと娘カタリーナの2人の子供達と夫の棺と共に幸せに暮らしていた。
<フェルナンド>
フェルナンド王はスペインで生まれた孫フェルナンドをことのほか可愛がった。
出来ればブルゴーニュで生まれたカルロスではなくスペインで生まれたフェルナンドにこの国を継がせたいと思っていた。
ある日6歳になるフェルナンドを父が連れ去出した。
いつもの様にファナの発作は満月の夜、息子がいないと夜中に起きだし馬に蔵をつけよ、息子を探し出せと大騒ぎになった。息子が行った方を眺め続け夜を過ごした。この事件をきっかけに息子フェルナンドはファナの手元に戻るが家族の移動が決まった。
夜中に父王フェルナンドはアルコスに向かいフィリップの棺と共にファナと末娘カタリーナをトルデシージャスへ連れていく。ファナ29歳、この後75歳で亡くなるまでトルデシージャスの城で暮らす事になる。
フェルナンド王にとっては娘は狂った状態で長生きしてくれるのが望ましいのだ。他の不満分子に利用されては困る。結婚も娘もすべては政治と国の安泰の為に利用された時代だった。
フェルナンドの死
殆ど誰もが自分の利益と都合と欲望で動いていた。純粋だったのはファナだけだったのかもしれない。
<トルデシージャス、サンタ・クララ修道院>
フィリップの棺はトルデシージャスの城の横のサンタ・クララ修道院に安置された。毎日夫の棺の元へ通うファナに狂気を見る歴史家もいるが純粋に祈りに通ったと見る説もある。
そんな頃父王フェルナンドが倒れた。
亡くなる前日まで頭は冴え最後の遺言状が口述された。1516年1月22日グアダルーペへ向かう旅の途中だった。不憫な娘に会いに行こうとした旅なのかは不明。
王位継承者にカルロス王子を指名した。現在はグラナダの大聖堂横王室礼拝堂に眠る。
<フェルナンド王とイサベル女王の墓、グラナダ王室礼拝堂>
トルデシージャスでのファナ
ファナの面倒を見るトルデシージャスの城主は何度か変わっている。最初のルイス・フェレール氏は食事を拒むファナの口に無理やり食べ物を押し込み発作が起こると真っ暗な陰気な部屋へ押し込んだ。
これを知ったシスネロス枢機卿が心を痛めファナの信頼していた女官をトルデシージャスへ送り新しい城主を探した。そこに登場したのが修道士になろうとしていたエルナン・ドゥーケ・デ・エストラーダだった。謙虚で質素で誠実にファナに仕える彼の誠意が伝わりファナは街を歩いたり馬で遠出まで出来る程に回復した。ところがまわりの欲深い廷臣たちから疎まれ2年程でエルナン・ドゥーケは女王から遠ざけられてしまった。
カルロス・スペインに
フェルナンドの死はファナには伏せられた。フランドルの動きは早くファナの長男カルロス王子がカスティーリアとアラゴンの国王となると宣言する。
カルロスとポルトガルへ嫁に行く姉のレオノールは1517年40隻の艦隊を準備しスペインに向かった。
向かう先はラレード港だったが何かの間違いで着いたのは田舎の漁村タソネス。多くの艦隊に驚いた村人たちは海賊の襲撃と思い棍棒を持って出迎えたという。
*マクシミリアンの命で弟フェルナンドはフランドルへ向かう。
<タソネスの漁港>
そして母のいるトルデシージャスへ向かい謁見をした。
カルロスと姉レオノールはファナに礼儀正しく女王陛下として接しファナは2人を抱き寄せてさめざめと涙を流した。
欲にまみれたフランドルの重臣たちは様々なお膳立てを準備しファナに「わが名において息子カルロスがカスティーリアの統治を行う。ただ父カトリック王が亡くなった場合において。」と宣言させた。未だファナはまだ父の死を知らされていなかった。同席した重臣達によって都合が良いように書類は作成されカルロスはスペイン王となる。
ファナは署名はしていない。
<カルロス1世王1516年>
そのころのファナの唯一の心の拠り所は末っ子のカタリーナだった。天使のような末娘はこの頃10歳でまともに外に出たことも無く生まれてからずっと母と共にいた。
姉レオノールは妹を不憫に思い城から連れ出す作戦に成功する。「母は狂っているから気が付かない」とでも思ったのだろう。
その後のファナは暴れるどころかぼんやり宙を見つめ抜け殻の様になる。カタリーナの脱出に手を貸した使用人がその後のファナの現状に胸を痛め女王の惨状をカルロスに訴えた。娘も母が嘆き悲しんでいると知るや母の元へ戻してほしいと訴えカタリーナはファナの元に戻された。
<トルデシージャス城のファナとカタリーナ、フランシスコ・プラディージャ>
コムネロスの乱
フランドル人に良いようにされてきたカスティーリア人たちが面白いはずは無かった。
税金はかさみ重職は持って行かれ頭の上を利益は通り過ぎる。カルロスはスペイン語も話さず要職は全てフランドル人に与えスペインからは吸い上げる一方、その金も一切還元されず遠い所で使われた。カルロスの神聖ローマ皇帝の選挙にも随分と金品が使われた。
1520年反乱軍はセゴビアを皮切りにトレド等を巻き込みファナを女王にしてカルロスの王権に対立した。しかし翌年国王軍に適わず大敗し処刑された。
<コムネロスの処刑>
この時コムネロス達の期待に添いファナは「自分が女王である」という宣言をしているが署名はしていないという。同じ頃に父の死を知らされ鬱状態に陥り精神状態は不安定に陥っている。
反逆罪でファナの処刑という筋書きもあったかもしれないというが、カルロスは母ファナにどんな時も「女王にふさわしい待遇を」と命令した。そしてファナが亡くなるまですべての書類に自分の名とファナの名を署名した。
末娘カタリーナの結婚とファナ最後の日々
時は流れ末娘カタリーナは18歳になった。ポルトガルのジョアン3世との結婚が決まりカタリーナは母には何も告げずに出発、ファナはその一行が去って行った橋の方を夜になっても朝になってもいつまでも眺めていたという。
そしてまた歳月は流れた。もうファナの事を覚えている人もいなくなった。
最後のトルデシージャスの城主は愛情なく表面的な世話を焼くだけの人物だった。そこにイエズス会士フランシスコ・デ・ボルハが送られてきた。
<聖フランシスコ・デ・ボルハ>
ボルハは後に聖人に聖別される人物で信心深く慈悲深く優しかった。
*ボルハはボルジアのスペイン語読み、あのローマ法王まで出したボルジア家の人物ファナはボルハとの会話を楽しみ彼の助言はよく聞いた。
ファナが人生の最後の時間をボルハと過ごしたのは幸運だった。ボルハはファナの最後の告解を引き受けたがそれは長い間錯乱状態にあった人物とは思えない思慮深い言葉で全人生を振り返るものだったという。
1555年4月11日復活祭の聖金曜日の早朝「スペイン女王ファナ1世」は静かに息を引き取った。同じ年10月息子のカルロス5世は退位してユステの修道院に隠居する。
トルデシージャスの城はその後誰も住み着かず18世紀に取り壊された。
<フィリップ美公とファナの墓。グラナダ王室礼拝堂>
遺体はグラナダに埋葬され、ファナはやっと最愛の夫と2人になれた。
<グラナダ王室礼拝堂の地下墓所、中央がカトリック両王>
*ファナとフェイリップ美公の遺体はカトリック両王の横、地下墓所に一緒に眠る。舅フェルナンドは可愛くない義理の息子が隣に来て墓の下で舌打ちしていることでしょう。フィリップの方も「毒を盛ったの貴方ですか」と言っているかもです。
幼くして死んだミゲール王子(イサベル・ラ・トゥリステサの息子)もここに眠る。
カルロス5世(スペイン史カルロス1世)神聖ローマ帝国皇帝。スペインの黄金時代