世界の歴史をグローバルに鳥瞰図的にまとめました。このブログは「スペイン」がテーマですがここでは少し広げて世界の歴史を「遊牧民が移動し歴史を動かし日本へ南蛮人がやって来た所まで」をまとめてあります。人が歩き道が出来て西域から遊牧民族が移動し物と文化と歴史を動かした。世界の歴史は面々と繋がっていて影響しあって今日まで続いている。(中央アジアにはもっと複雑に多くの民族が勃興していますが筆者の独断と好みで省略しています。)
シルクロードの遊牧民の時代からイスラム商人の活躍まで
時代は今から2千年ほど前。西域すなわちシルクロードは唐の長安(今の中国、西安)から地中海までの陸と海の道で古代から人と物と文化の交流のルートだった。その西の端をローマ、東の端を日本のとする説もある。奈良の正倉院には今も中国を経由してやって来たインドやペルシャの宝物が保存されている。草原の道、オアシスの道、海の道と繋がり多くの人と物を運んでいた。ローマ帝国と漢の中国が既に海と陸で繋がっていた。
ササーン朝ペルシャ
現在のイランにササーン朝ペルシャが成立(226年)。ここは古代からの先進地域で洗練された文明のペルシャ人はアーリア系。今もイランはアラブではなくペルシア人、アーリア系の人々が住む。ペルシャは国境を接したローマ帝国と、その後分裂したビザンチン帝国(東ローマ帝国)と約600年間揉め続け戦争しお互いに疲労していく。
ローマの分裂
繁栄をつづけたローマが衰退を始め4世紀コンスタンティヌス帝が首都をローマから東へ移動させ新しい都市を作った。そして「コンスタンチ・ノープル」と自分の名前を街につけた。その後ローマ帝国は西ローマと東ローマに分裂する。東ローマ帝国はビザンチン帝国とも呼ばれ1453年のオスマントルコの侵入迄続く。
<ローマ帝国の分裂>
ゲルマン民族の大移動
道を通って遊牧民が移動する。4世紀、シルクロードを渡ってモンゴル系の匈奴の末裔といわれるフン族が襲ってきて来てゲルマン民族の大移動がはじまり西ローマ帝国は滅亡する。これにより移動したゲルマン民族が西ヨーロッパに移動して国を作り今のヨーロッパの国々の元が出来る。
<ゲルマン民族大移動図>
イスラム教が始まる
アラビア半島では7世紀初頭予言者モハメッドが登場しイスラム教が始まる。日本では聖徳太子が活躍するのがこの時代で予言者モハメッドと生きた時代が重なる。
*イスラム教徒とウマイヤ家、スンニー派シーア派についての記事です
ビザンチン帝国とペルシャの長きにわたる抗争でシルクロードが安全に通れなくなり交易路はアラビア半島に迂回しメッカやメディナは貿易で繁栄しイスラム商人たちが活躍する。(イスラム教の創始者モハメッドはもともとは商人だった。)これがイスラム教が広がるのに有利に働いた。
<イスラム商人の新しいルート。シルクロートを迂回してアラビア海から紅海へ入った>
ササーン朝ペルシャが滅亡(651年)して住人たちはイスラム化し、改宗したくない多くのペルシャ人が長安に逃れ華麗なペルシャの文物を運んだ。奈良の正倉院にはササン朝ペルシャとこの時代に長安に逃れたペルシャ人が運んだガラス器が残る。
<白瑠璃の椀 正倉院>
イスラム商人たちはウマイヤ朝の時代(7世紀)からアラビア海に進出してインドや東南アジア、中国にまで交易で移動していた。このウマイヤ朝の勢力が711年にスペインに入って来て西ゴート(ビシゴート)王国を滅ぼした。
*西ゴート崩壊の歴史の記事です。
<西ゴート王国の首都トレド、スペイン>
フランク王国とカール大帝
イスラム勢力はピレネー山脈を越えてフランス迄行っているがフランク王国のカール・マルテルにツール・ポワティエの戦い(732年)で負けてスペイン側に戻って行く。
<ポワティエの戦い、ベルサイユ宮殿蔵>
勝ったカール・マルテルの人気は大変なものでその息子がピピン3世として即位。カロリング朝を開きローマ法王に土地をプレゼントした。これが今のローマ法王庁の始まりとなる。ピピン3世の息子がカール大帝。800年にローマ法王レオ3世により戴冠し西ローマ帝国の復活となる。
<800年カール大帝の戴冠>
レコンキスタの始まり
カール大帝の戴冠の頃スペインの北西の端で聖ヤコブの遺体が発見された(813年)。その地は今も聖地、サンティアゴ・デ・コンポステーラという名のカトリック3大巡礼地となっている。有る時イスラム教徒と戦うキリスト教徒達を白い馬に乗った聖ヤコブが助けてくれる奇跡が起こる。聖戦、レコンキスタの始まりだ。
<サンティアゴ・デ・コンポステーラの聖ヤコブ>
*スペインのレコンキスタの記事です
アッバース革命
イスラム世界では革命が起こり8世紀中頃新しいアッバース朝が始まる。アッバース朝の時代になって現エジプトのアレキサンドリアやインド洋、南シナ海の回路のルートを開拓していた。実はポルトガルのバスコ・ダ・ガマのインド航路発見頃にはイスラム商人によってルートは出来上がっておりガマの船の水先案内をしたのはイスラム商人だった。
<インドからイタリアへの商人のルート>
イスラム商人が東南アジアに進出し東南アジアのイスラム化をもたらす。今でもインドネシアはイスラム教が最大の宗教となっているしマレーシアやフィリピンにも多くのイスラム教徒が存在する。
イスラム世界の分裂とセルジューク朝と十字軍
イスラム世界の分裂
アッバース革命が起こりウマイヤ朝が倒されウマイヤ家の血を引く人は皆殺されたが奇跡的に生き残った王子がスペインまで逃げてコルドバを首都に後期ウマイヤ朝を作った。
*後期ウマイヤ朝についての歴史記事です。
この影響でそれまでひとつだったイスラム世界の分裂が始まる。
<セルジューク朝以前のイスラム世界の地図>
分裂した勢力の中のブワイフ朝はイラン人の軍事政権シーア派のイスラム王朝。946年バグダードを占領しアッバース朝を制圧した。そこに草原の遊牧民がやって来る。もともとカスピ海にいた部族でトルコ系騎馬民族セルジューク族。彼らがブワイフ朝を滅ぼしアッバース朝のカリフを助けスルタン(王)の称号を与えられた。
ヨーロッパの分裂とレコンキスタ
この頃ヨーロッパ中央ではカール大帝によって統一していたフランク王国が分裂を始めフランス、ドイツ、イタリアと別れていく。スペインではビシゴートの貴族がイスラムの侵略からスペイン北部に逃れイスラム教徒と戦うレコンキスタを進めてキリスト教君主国を建国。
<キリスト教君主国の宮廷があったカンガス・デ・オニス>
セルジューク朝は次第に力を持ち領土を拡大し聖地エルサレムまでも占領しコンスタンティノープルのすぐそばまでやって来た。
<11世紀のセルジューク・トルコ>
十字軍遠征
これに驚いたのがビザンチン帝国で当時のローマ法王ウルバン2世に援助を頼んだ。「エルサレムをキリスト教徒の手に取り戻せ」とローマ法王の野心も手伝い「神はそれを望んでおられる」の号令のもと十字軍遠征が行われた。
<第一回十字軍アンティオキア包囲戦>
200年間に約7回の遠征、キリスト教徒側の身勝手な理由で残酷な殺戮が行われた。その中には本来の目的とは違うアルビジュア十字軍による同じキリスト教徒の大虐殺やコンスタンティノープルを陥落させ破壊の限りを尽くした第4回十字軍がある。大抵いつも残酷で非道で身勝手なのは西欧側なのです。
聖地巡礼
巡礼は様々な宗教で行われる人間の普遍的な行為のようだ。ヨーロッパからエルサレムへ向かう巡礼ルートに宿場町が出来交易が行われ人と物が移動した。人間の本質に移動という欲求があるのかもしれない。
エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地で今も紛争の元になっている。1000年頃のキリスト教徒達の生涯の重要事項はエルサレムへの巡礼だった。
<エルサレム地図>
ヨハネの黙示録の世紀末感が漂っていた時代、人々はエルサレムに巡礼に行ってキリストが架けられた十字架の破片や来ていた衣、汗をぬぐった布などを有り難く持ち帰った。これを「聖遺物」といい今も各教会に収められている。偽物も多く取引されたようでキリストのかけられた十字架の破片はすべて合わせると大きなビルになるそうだ。
十字軍の結果ベネチアなど北部イタリア諸都市はエルサレムへ行くルートから様々なものを売り買いする商人たちが登場しベネチアの街は大変栄える。道が出来て人が動き物が動いてお金が動く。東方からやって来る高価な商品の中に香辛料があった。
<ベネチア、ドゥーカレ宮殿>
そして歴史は次の主役を準備していた。弱体化したセルジューク・トルコはモンゴル人侵攻によって13世紀に滅亡する。ウマイヤ朝、アッバース朝と続いたカリフの系統は殺されて途絶えた。
モンゴル帝国
チンギス・ハーン
いつの時代も安全なルートは商売には不可欠。それを成し遂げたのは西域の遊牧民だった。モンゴル高原で分散していた遊牧民を一つにまとめ国家にしたのがチンギス・ハーン(1162~1227)だ。巨大統一国家モンゴル帝国(1206)を作ったチンギス・ハーンは騎馬軍団を引き連れ瞬く間にユーラシア大陸を制圧し中国、中央アジア、中東からヨーロッパの一部にまでもやって来た。
<チンギス・ハンの即位>
彼らの圧倒的な強さは馬の使い方。少し小ぶりの持久力のあるモンゴル馬を一人5~6頭所持し乗り換えながら移動した。重い鎧を着ないで弓を走りながら射掛ける戦法で戦った。
<モンゴル帝国最大時の領土、なんと地球上の陸地の25パーセント>
活躍したのはイスラム商人
モンゴル帝国は武力で占領した地域に対しては税金さえ払えば干渉せず宗教に寛容で土地に執着することも無く政策もおおらかだった。ただ抵抗する都市に対しては徹底的に虐殺をして周辺諸国に恐れられ戦う前に降伏させた当時の世界最強最大の帝国だった。イスラム系の官僚を登用しイスラム商人達を利用して大規模な交易をおこなった。
イスラム商人が中国で活躍したのは元が初めてではなくイスラム教が始まって初期の頃既に海路中国の唐の都長安にて最初のモスクが創られていた。「大食」と呼ばれたイスラム教徒たちは「ペルシャ語でアラブ人を意味するTAZI」が起源でアラブ人より先にペルシャ人商人がシルクロードを経由して中国へ来ていたようだ。驚くのは既に信用取引の紙幣にあたるものを使っていた。
フビライ・ハーン
<フビライ・ハーン>
フビライ・ハーン(1215~1294)の時代に安全な陸路と海路が保証され関税を一元化(一度だけ払えばいい税金)してヨーロッパから中東、中国にまでわたる流通が自由になった。
マルコ・ポーロ
そのころベネチアからやって来た商人がマルコポーロだった。17歳の時に父と叔父と共になんと24年間に渡りアジアを旅した。その距離は15000キロという。フビライ・ハーンに気に入られ17年間仕えたという説がある。「フビライ・ハーンの宮殿は途方もなく大きく豪華絢爛だった。壁は金銀で覆われ彫刻で飾られていた」とマルコは述べている。ベネチアに戻ったときはイタリア語を忘れかけていたという。
<タタールの衣装を着るマルコポーロ>
蒙古襲来
マルコ・ポーロが中国についたのが1271年から1275年頃、その少し後に日本への2度の元寇が行われている。フビライ・ハーンがマルコ・ポーロから日本の豊かさを聞いたのが原因という説もあったが現在は否定されている。蒙古襲来に鎌倉時代の日本は大慌てだったようだが幸運にも神風が吹いて助かった。
<蒙古襲来図>
しかしモンゴル帝国の繁栄にも終わりがやって来る。中国には明が建国されモンゴル帝国の領土と経済の中心を失っていくころ中東ではオスマン・トルコが力を伸ばす。
モンゴル帝国が衰退すると陸のシルクロードの安全性は失われたがマラッカ海峡経由の海のシルクロードは中国に住むイスラム商人たちによって継続して使われていた。マラッカは重要な商業中継地点だった。
<イスラム商人のルートと取扱い商品>
オスマン・トルコ
オスマン族はもともと遊牧騎馬民族だった。ルーツはセルジューク朝の傭兵部隊のオスマン一族。騎馬戦術に長けた勇敢な遊牧民が次第に強大になり西アジアから東ヨーロッパにかけてオスマン帝国を作る。そして東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに向かってやって来た。
<1453年コンスタンティノープルの包囲>
1453年コンスタンティノープルの陥落によって東ローマ帝国は滅亡した。古代ローマ時代から続いたひとつの時代が終焉し当時ジェノバやベネチアが独占していた地中海の交易をオスマン・トルコが奪いはじめる。地中海での貿易に高い税金がかけられるようになりヨーロッパでの経済秩序が乱れ始めた。
<16世紀イスタンブールの天文学者達>
遅れたヨーロッパで大航海時代の序曲
貴重品だった香辛料
病原体が発見されるまでペストの蔓延は匂いによると信じられていた。臭いを消す香辛料はアジアからシルクロードを渡りベネチアの商人の手を通ると大変な高級品で銀と胡椒が同じ値段で取引されていた。マルコポーロを代表とするベネチアの商人達の最大の利益となったのが香辛料だった。
コロンブスの登場
もしも地球が本当に丸いのならば関税の高いオスマン帝国を通過せず西回りでも直接持ってくることが出来ると思ったの人物がコロンブスだった。コロンブスについては謎の部分が多いがポルトガル船に乗ってポルトガル王に仕えていたことは間違いない。
丁度この頃世界地図が作られ航海術が発達してポルトガルは既に大航海時代に入っていた。1488年バーソロミュー・ディアスが喜望峰を発見した為コロンブスはポルトガル王に西回り航海の援助は断られてしまう。喜望峰からインド洋が近い事をポルトガルは手に入れた為、西回りでインドに行く意味が無くなった。更にセネガルの奴隷貿易で既にポルトガルは利益を得ていた。
<アフリカ最南端、喜望峰>
ポルトガル王からの援助をあきらめたコロンブスは隣のスペインへ移動しイサベル女王に謁見する。
*イサベル女王についての記事です。
スペインはその時まだ南スペインのイスラム教徒の国グラナダ王国の陥落戦の最中だった。「援助は無理」と断られコロンブスはスペインをあきらめようとしたが、1492年1月2日にグラナダのアルハンブラ宮殿が陥落する。
<グラナダの陥落、右側がイサベル女王とフェルナンド王>
再度会議が行われコロンブスに援助することが決まりコロンブスは西回り航海に出港することになった。
*大航海時代についての歴史記事です
1492年8月3日スペインを出港したコロンブスは10月12日に今のバハマ諸島に到着し、翌年西回り航海から戻ると問題が起こった。既にスペインとポルトガルで結ばれていたアルカソバス条約(1479)ではコロンブスが到着したところがポルトガル領土になっていしまう。
<アルカソバス条約>
1492年は同じ年にグラナダの陥落、コロンブスの出港とスペイン人ローマ法王の即位があった不思議な年だった。枢機卿に袖の下をばら撒きローマ法王になったアレッサンドロ6世は地球を縦に割るトルデシージャス条約を結びスペインは西へポルトガルは東へと行先が決まった。
<トルデシージャス条約>
点線はアレキサンドル6世が引いたもので後の交渉で少し左の実線に決まる。
ポルトガルは東へ、そして種子島へ
この条約でスペインとポルトガルの旅立つ方向が決まった。スペインは西へポルトガルは東へ。1497年、ポルトガルはインド洋へ入ってカリカットへ到着した。これが世界史で習うバスコ・ダ・ガマのインド航路発見だが実際はインド洋の海域はイスラム商人達には既に良く知られた航路だった。古代からシルクロードを商人たちが行きかっていたので既に安全なルートは出来上がっていた。ポルトガルからの王への贈り物は帽子や外套、サンゴ等だったがイスラム商人に馬鹿にされた。
<ポルトガル船のルート>
その後ポルトガルは1510年にインドのゴアを武力占領しさらにマラッカ王国を征服してイスラム商人を殺害して追い出す。ゴアはアジアにおける最初のヨーロッパ諸国による植民地となり1961年に返還されるまでポルトガル領土だった。その後南シナ海に進出して中国の明との接触を開始したがマラッカの占拠など悪評が既に伝わっており公式の貿易の道は立たれ密貿易を始めた。ポルトガル商人は中国船に同乗する者もいた。
スペインは西へ
トルデシージャス条約でスペインは西へと行先が決まり多くのコンキスタドーレス達が金銀を求めアメリカ大陸へ冒険に行った。スペイン国王の許可を必要としたが財政の援助は無くコンキスタドーレスが自分で資金を集め組織した私利私欲と暴利を求める山師の集まりだった。1521年にアステカ王国をコルテスが、1533年にピサロがインカ帝国を侵略したスペイン史の最も恥ずべき黒い歴史。ポルトガルがアジアで傍若無人にふるまいスペインはアメリカで残酷の限りを尽くした。
<コルテスのマヤの破壊>
救いはそれを見逃さない良心を人間が持っていたことだ。ラス・カサスという宣教師を中心にひどい扱いを受けているインディオ達を救うために立ち上がっている。
鉄砲伝来
倭寇、王直
東アジアで中国沿岸部から朝鮮半島を荒らした海賊集団を倭寇(わこう)という。当時は今のような日本人とか中国人、朝鮮人と言う区別は明確に無かったようで九州から瀬戸内海を拠点として日本人やポルトガル人も含んでいたグローバル海賊集団だった。
<倭寇のルート>
その中に王直がいた。王直は中国生まれで塩商人をしていたが失敗し密貿易の世界に入る。当時の明の中国では貿易は禁止されていたのでシャムやマラッカに渡り活躍していた海賊の頭目だった。1540年には五島列島に住み着き1541年には松浦隆信に召喚され平戸に移り住んだ。
1543年の台風の季節、この王直がチャーターしたジャンク船が種子島に漂着。漂着したのか王直が選んで到着したかは今も専門家の意見が分かれている。
「天文12年8月25日種子島の西の村に大船がやって来た。どこの船かもわからず見たこともない服装をしていて言葉も通じない。船にのる明国人と砂浜に杖で文字を書いて筆談をした」その筆談の通訳が王直だった。
<中国のジャンク船>
火縄銃の製造
当時の種子島の領主は16歳の種子島時堯(ときたか)。南蛮人が持っていた火縄銃に興味を示しそして購入した。値段は2丁で2千両、今のお金に換算して2億円という説がある。
真偽はともかく大変な高額を支払って2つ購入し1つは種子島の刀鍛冶に渡し「同じものが作れるように」という命令が下った。家臣に火薬の調合を習わせ鍛冶屋は銃筒を作った。種子島はもともと砂鉄が取れる製鉄の島。八板金兵衛清定という鍛冶屋は似たようなものを作れるようになったが自分でどうしても解決できなかったのがネジだと言われている。日本にネジが無いのでネジ山の作り方がわからず鍛冶屋は苦悩した。
種子島には苦悩する父の為に娘の若狭は南蛮人に嫁いでネジの作り方を教えてもらったという伝説が残る。口承のみで史実は不明だが若狭の墓が残る。
<種子島の若狭の墓>
もうひとつの火縄銃は紀州根来(きしゅうねごろ)の僧兵津田堅持に上納し後大量生産している。根来寺(ねごろでら)は僧兵1万を持つ軍事僧集団だった。
日本人は自分達で銃を作るようになった初めてのアジア人となる。この時種子島に来ていた堺の商人「橘屋又三郎」が火縄銃の作り方を学んで堺に持って帰り当時のヒット商品となった。鉄砲の製造と使用は瞬く間に広まり1570年石山本願寺の戦いでは8000邸の銃が使われ長篠の合戦で武田軍を破った。鉄砲伝来から27年間で日本は軍事大国となった。その後ろには現代にもつながる日本の工業技術の基礎が既にあった事がわかる。その後日本人は独自の方法で銃の性能を高めていったのも今の日本人と通じるものがある。
<長篠の戦いの屏風絵一部>
火薬と鉛
鉄砲が作れても火薬と玉が無いと武器は役に立たない。玉を作る鉛は国産もあったようだが東南アジアや中国から輸入した。後にやって来るイエズス会やオランダ商人達もこの貿易に一役かっている。
一方火薬の原料は硫黄、木炭、硝石で当時の日本では硝石が取れないのでインドから輸入されることになった。通訳をした倭寇の王直が種子島への硝石の取引を開始しそれを信長が大量に買い硝石貿易を境で独占する。これらの貿易は戦国大名の大きな収入源となって行く。
東洋のベニス<堺>
堺は財力を蓄えた商人たちが活躍する自治都市だった。戦国時代に山口、九州、土佐へ向かう瀬戸内海航路の起点で海上交通の要、日本最大の物流の拠点だった。又金属産業が古くから栄え鋳物産業の国内の中心だったので刀や武具が多く製造されていた。鉄砲が商人によって伝わり大量に堺で作られたのはこれらの基礎があった。
<16世紀の屏風、右上に堺の街>
信長は堺を抑えることで武器と経済を手に入れ天下を取った。
茶の湯
茶の湯は戦国武将だけでなく堺の豪商たちの間でも広まり「わびさび」の文化が産まれる。元々は町衆と言われる有力商人の親睦の場で次第に客人をもてなす美学や茶器などを選ぶ目利き、心構えや態度なども求められるようになる。
信長が茶の湯に興じたのは精神面だけでなく豪商たちとの親睦と経済力を政治の手段として用いたと思われる。
イエズス会の結成とアジアへの布教
ヨーロッパでは宗教改革の嵐のなかカトリックの対抗宗教改革の流れで新しい修道会が作られた。エリート集団イエズス会の結成。イグナチオ・デ・ロヨラが中心となりアジアにキリスト教を広めに行きましょうと決まりフランシスコ・ザビエルがポルトガル王ジョアン3世の依頼を受け1541年リスボンを出発した。
インド航路を通ってインドのゴアから東南アジアに渡ってマラッカ(当時ポルトガル領土)で布教をしていた時に日本人と出会った(1547年)。鹿児島出身のアンジロウかヤジロウという名前の男性で日本で犯罪を犯して逃げて来ていたらしい。1549年アンジロウと共にフランシスコ・ザビエルは鹿児島に到着した。鹿児島では伊集院城で大名島津貴久に謁見し宣教の許可をもらう。都を目指す途中の山口では大内義隆に謁見、堺で豪商の日比谷了珪の知遇を得る。スペインはカルロス5世の晩年、息子フェリペに遺書をしたためた頃だ。
*カルロス5世(スペイン史カルロス1世)についての記事です
茶道とミサ
日本での布教を成功させるためにイエズス会の宣教師たちは日本の事を細かくリサーチしている。茶室や茶の湯の事も報告書に記載されていてヨーロッパでは金銀ルビー等に価値があるのに日本人は茶室や茶器に莫大なお金を使う事に驚いている。千利休がイエズス会の宣教師と同席することもあったし千利休がミサに出席することもあったと想像する。茶道の帛紗(ふくさ)の使い方にミサの所作と似ている動きがあるのは古くから指摘されている。
<南蛮人と話す日本の大名>
最後に
ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは信長や秀吉と謁見し日本の習慣や日本史を書いた。これにより約10年にわたって書かれた戦国時代の客観的な通年史を私たちは知ることが出来る。フロイスは長崎で26聖人の殉教を見届け執筆し亡くなっている。またポルトガル人宣教師ルイス・デ・アルメイダによって外科医術が日本に伝わる。私財を日本のライ病患者や貧しい子供達の為に使い奉仕した。
この後スペインはフェリペ2世の時代ポルトガル領土も手に入れこの国に日が沈む事が無い大帝国となる。
*フェリペ2世についての記事です
日本とスペインの間を宣教師や使節が移動する。天正遣欧少年使節団が日本を出発するのが1582年、秀吉による伴天連追放は1587年。26聖人の殉教は1597年。奇しくもフェリペ2世と秀吉はどちらも同年1598年に没している。
歴史は動き時代は移り変わって行く。イエズス会と日本のキリシタン大名や2回の遣欧使節については別の章を作って書いてみたいと思います。
読んでいただいてありがとうございました。