エル・グレコ「プラド美術館を見学する人の為のエル・グレコ」解説書

プラド美術館を訪れる人の為のエル・グレコを楽しむ解説書を作ってみました。エル・グレコはスペイン三大巨匠のひとり、プラド美術館で絶対に外せない画家の一人です。

エル・グレコをプラド美術館で堪能


<エル・グレコの生涯>

エル・グレコ、ギリシャで生まれてベネチアへ

エル・グレコ は生まれが今のギリシャのクレタ島。若い時にベネチアで修行をし、ティチアーノの工房かその周辺で絵を描いていた。

ベネチア絵画の影響ベネチアは人工的な石の街で色彩がない、自然の鮮やかな色に憧れ綺麗な原色を使った。

*大事なポイント*

エル・グレコの四原色はベネチア絵画の影響。

<エル・グレコの旅>

クレタ、ベネチア、ローマの地図
グーグルマップから作成

エル・グレコ、ローマへ

ベネチア共和国の繁栄に陰りが見え始めエル・グレコは知人の紹介でローマに移動。

当時サン・ピエトロ寺院の改築が進みミケランジェロ やラファエルは既に天国の住人だったが素晴らしい作品を見て感銘を受けた。

エル・グレコ、スペインへ、そして挫折

エル・グレコは知人を頼ってスペインに移動。

*大事なポイント*

当時のスペインは日の沈まぬ大帝国だった。

スペイン国王フェリペ2世がエル・エスコリアル修道院の建設を始めており多くのアーティスト達がスペインにやって来ていた。

エル・グレコも仕事と名声を求めスペインにやってきた一人だった。

<フェリペ2世スペイン国王>

フェリペ2世
wikipedia public domain

エル・グレコの挫折↓↓↓

が、フェリペ2世からの注文を受けて描いた作品は王の気に召されず、その後二度と注文はなかった。

*エル・エスコリアル修道院とは

マドリードから約40キロ北西にある巨大な修道院兼宮殿であり歴代の王墓でもある建物。マドリードから路線バスか鉄道で日帰りも可能。

フェリペ2世から注文を受けたが気に入られずに「ボツ」になった「聖マウリシオの殉教」も見学可能。

<エル・エスコリアル修道院>

エル・エスコリアル修道院
Author SalomonSegundo

挫折のエル・グレコ、35歳でトレドへ

*大事なポイント*

当時、絵を購入してくれるのは国王か教会しかいなかった。

トレドは重要な都市でスペイン・カトリックの中心だった。

スペイン国王が絵を買ってくれない、当時は残るは教会しかない→トレドへ移住。

トレドは1561年までスペインの首都だった街、スペインのカトリックの中心は今もトレドだ。

<エル・グレコが移住したトレドの街>

トレド
筆者撮影

エル・グレコの人生の繁栄期↓↓↓

エル・グレコは次第にトレドで有名になりスペイン貴族や教会、修道院からの注文が絶えなかった。エル・グレコのプラド美術館にある作品のほとんどがこの頃の物。

*トレド

マドリードから70キロ南にある古都で世界遺産。マドリードから路線バスや鉄道で日帰りも可能

エル・グレコ最晩年は没落

エル・グレコの晩年は病弱で貧しかった↓↓↓

*豪華な生活に憧れ屋敷を手に入れ音楽師を雇い贅沢な暮らしを続けた。

*次第にエル・グレコの作品は時代遅れなものとなり、トレドの経済も衰退期し経済的余裕がなくなっていた。

そして貧しい中エル・グレコは1614年に天に召された。

エル・グレコの葬儀はトレドのサント・ドミンゴ・エル・アンティグオ教会で行われた。

忘れ去られていたエル・グレコ↓↓↓

エル・グレコの再発見

エル・グレコが再び評価されるのは亡くなって200年以上後。

1838年にルーブル美術館に開設されたスペイン絵画館に8点のエル・グレコがあった。それらがフランスの画家たち、特に印象派の画家たちに賛美された。

さらに1902年プラド美術館にて初のエル・グレコ展が行われエル・グレコは再発見された。

<エル・グレコのプラド美術館にある作品>

ではプラド美術館所蔵のエル・グレコの作品の一部を見ていきます。(作品はプラド美術館から貸し出されることがあります)

エル・グレコを見るポイント

ほとんどが宗教画→本当はスペイン国王に仕えたかったが気に入られず、当時は他に注文主というと教会関係だった。

四原色→ベネチアで修行したエル・グレコは生涯ベネチア絵画の四原色(赤、青、黄、緑)を使った

縦に長い伸びた絵→神秘的な絵を求めたエル・グレコは晩年になる程、上昇感がある伸びきったスタイルの絵を描いた

 

では絵画を見ていきましょう↓↓↓

「聖三位一体」エル・グレコ

<聖三位一体、エル・グレコ、プラド美術館蔵>

エル・グレコ 聖三位一体
wikipedia public domain聖

 

聖三位一体は父と子と聖霊は同じ物というカトリックの教義

初期の絵です

この作品はエル・グレコがトレドに到着して一番最初に注文を受けた祭壇画。

<見るポイント>

*初期の作品なので登場する人々の体がガッチリとしている。

*ミケランジェロの影響が見られる

 

縦に長くない→→→晩年の絵は体が引き伸ばされ長なっていくので比較してみると良い。

<聖三位一体部分、エル・グレコ、プラド美術館蔵>

エル・グレコ 聖三位一体
wikipedia public domain

ミケランジェロの影響↓↓↓


ミケランジェロの「ピエタ」と言う彫刻と形が非常に似ている。

「マニエリスム」は「マンネリ化」の語源

マニエリスム=イタリア語で様式や方法をマニエラという。ミケランジェロ 風に極端に彫刻的に歪めて描く事が流行し、ミケランジェロ の様式=マニエラで描いた。

エル・グレコがローマにいた頃ミケランジェロ は既に天国の住人だがこの彫刻がローマにあり、エル・グレコがこの彫刻から影響を受けていると思われる。

<ピエタ、ミケランジェロ >

ミケランジェロ フィレンツェのピエタ
CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=132271

ミケランジェロ のこの作品は現在はフィレンツェのドゥウオモ所蔵。

石が硬くて目が既に悪くなっていたミケランジェロ は頭に来て作品を壊そうとハンマーを振り下ろしたのでイエスキリストの足が破壊されている。


エル・グレコのこ聖三位一体はトレドの教会サント・ドミンゴ・エル・アンティグオ教会のために描いた。この教会はエル・グレコに最後の作品も注文してくれた小さな教会で現在もトレドにあります。


二枚の「受胎告知」エル・グレコ

受胎告知は聖書に出てくる場面。神の子を宿した聖母マリアに天使が現れた。

人気のテーマで様々な画家たちが作品に残しているがエル・グレコの受胎告知がプラド美術館に二枚展示されている。

エル・グレコの受胎告知二枚を比較してみましょう

*二枚の同じ画家の同じテーマの絵の比較することで時代によって描き方が変わっているのがよくわかる

 

こちらは小さな作品↓↓↓

<受胎告知、エル・グレコ1570年、プラド美術館蔵>

受胎告知、エル・グレコ
Museo del Prado

<26cm x20cm>の小さな作品で見逃してしまいそうだ。作品が小さいのは工房の雛形か習作と思われる。

左が聖母、祈祷台で聖書を読んでいたところに天使がやってきた場面。

<見るポイント>

*聖母も天使も「ぽっちゃり」していて初期の作品とわかる。

*床のタイルによる遠近法はベネチアのティントレットの影響か。

1570年はまだエル・グレコはベネチアで修行中かローマに移住したばかりの頃、作品にベネチア絵画の影響が見られる。


もう一枚の受胎告知↓↓↓

<受胎告知、エル・グレコ1596〜1600、プラド美術館蔵>

エル/グレコ受胎告知、プラド美術館蔵
wikimedia Public Domain

同じ画家エル・グレコのの受胎告知ですが随分と違うのがわかりますか?

<見るポイント>

*絵は上半分と下半分に分かれ、上は神の世界、下は人間が住む地上界。

*左側の聖母マリアが振り返った一瞬の動き、聖書のページもパラパラと動いている。

*上半分には天使たちが楽器を奏でていて絵の中に音楽が聴こえてくるようだ。

*聖母のモデルはエル・グレコの内縁の妻ヘロニマ(エル・グレコの聖母はいつもこの女性)

 

こちらの受胎告知はマドリードにあったドーニャ・マリア・アラゴン学院内の礼拝堂の為に描かれてた6枚の中の1枚。

写真下は徳島県の大塚国際美術館に再現されているドーニャ・マリア・アラゴン学院の礼拝堂の複製の写真を拝借しました。

6枚の作品が並んだ衝立祭壇で中央に受胎告知が見える。

<ドーニャ・マリア・アラゴン学院の祭壇の複製>

エル・グレコ、受胎告知があった礼拝堂の祭壇の再現
大塚国際美術館、徳島県鳴門市

 

現在は受胎告知と呼ばれているが実は「聖母に神の子が宿った瞬間」と言われている。天使がそれを告げにやってきた場面。

*宗教画の決まり事を楽しもう*

宗教画には沢山の決まり事がある。持っているものや着ている服などが決まっている「聖母マリア」は通常「赤い服にブルーのベール」


これも同じ教会の為の祭壇画です↓↓↓

「キリストの洗礼」エル・グレコ

<キリストの洗礼、エル・グレコプラド美術館蔵>

エル・グレコ、キリストの洗礼
Public Domain wikipedia

 

これも聖書の場面、イエス・キリストに洗礼者ヨハネが洗礼を施す場面。

<見るポイント>

*登場人物の体が縦に極端に細長いのに注目。

*絵は上半分と下半分に分かれ天上界の神の世界と地上界を表している。

同じくドーニャ・マリア・アラゴン学院のために描かれた。前述した受胎告知の右側にあったと思われる。

上昇感や神秘性を強調するためエル・グレコの作品は次第に極端に引き延ばされた体になっていった。

*宗教画の決まり事を楽しもう*

洗礼者ヨハネは多くの場合「裸で腰に毛皮」を巻いて描かれる。

<エル・グレコ、キリストの洗礼部分>

エル・グレコ、キリストの洗礼
pubic domain wikipediaより

洗礼者ヨハネは「悔い改めよ、天国は近づいた」といって人々に水を使って洗礼を行なっていた。

手に注目『エル・グレコの描く手』↓↓↓

*洗礼者ヨハネの手の形が中指と薬指を付けた独特の形で描かれている。

*エル・グレコは手を丁寧に描いた画家で多くの作品に細くて美しい手を描いた。

<エル・グレコ、キリストの洗礼部分の手>

エル・グレコ、キリストの洗礼部分
public domain wikipedia

エル・グレコの他の作品にもこの形の「手」が登場します。

 

署名・サインに注目『エル・グレコの署名』↓↓↓

*エル・グレコはいくつかの作品の中に署名を残している。

*作品の左下、イエス・キリストの足元の石のところに紙が落ちている、そこにエル・グレコの署名がある。↓↓↓

<エル・グレコ、キリストの洗礼部分の署名>

エル・グレコ、キリストの洗礼部分
public domain, wikipedia

 

ここに描かれているのはエル・グレコのギリシャ語の本名ドメニコス・テオトコプロス」

何故?

*長年外国に住んだエル・グレコだがギリシャ人である事に誇りを持ち作品には本名を署名していた。

*エル・グレコというのは彼のニックネームで「あのギリシャ人」という意味。

スペイン人にあのギリシャ人と呼ばれていた「エル=El」はスペイン語の定冠詞、グレコはギリシャ人。


エル・グレコの絵は何故こんなに長い?宗教改革って何だっけ?


エル・グレコの時代は宗教改革の真っ只中。

サン・ピエトロ寺院宗教改革の発端はローマのサン・ピエトロ寺院の建築だ。イベント好きなローマ法王レオ10世、サン・ピエトロ寺院を有名なアーティスト達を使いお金を散財。次第にローマを飾り立てる資金が足りなくなったので贖宥状(免罪符)を売り出した。

贖宥状これは天国に行くための切符だ。特にドイツの農民にどんどん贖宥状を売りお金がローマに流れていった。それに対してマルティン・ルターが疑問を投げかけたのが宗教改革の始まり。

スペインは伝統的にカトリックの国、宗教改革に対抗してカトリックを内部から改革して行こうしていた時代。

神秘性民衆に神を感じてもらう為上昇感を与え神秘性を持たせようとした。


エル・グレコの肖像画はタッチが違う↓↓↓

「胸に手を置く騎士の肖像」エル・グレコ

<見るポイント>

*肖像画は宗教画と違って丁寧で写実的。

*正面から捉えた肖像画はギリシャのイコンを思わせる。

<エル・グレコ、胸に手を置く騎士の肖像、プラド美術館>

胸に手を置く騎士の肖像
museo Del Prado

モデルが誰かは今も不明だがエル・グレコの良き理解者のトレドの貴族であろう。袖や襟のレースの繊細さ、正面から見据える眼差しに高貴な感じが見て取れる。

胸に手を置くことで本人の誠意を表現。

手の形がエル・グレコやよく使った形になっている。

↓↓↓エル・グレコがよく使った手の形

胸に手を置く騎士の肖像
museo Del Prado

 

エル・グレコ最後の作品↓↓↓

「羊飼い達の礼拝」エル・グレコ

<見るポイント>

*四原色の鮮やかさ。

*光の扱い、最初に視線が赤子キリストに向かう

これはエル・グレコ最晩年の作品でトレドの教会からの注文。

生前のエル・グレコの希望でエル・グレコの葬儀はこの絵の前で行われた。

<羊飼たちの礼拝、エル・グレコ>

エルグレコ 羊飼たちの礼拝
wikipedia public domain

聖母マリアは赤い服にブルーのベール、モデルはエル・グレコの妻ヘロニマ。エル・グレコの聖母マリアのモデルはいつもこの女性。

エルグレコ 羊飼たちの礼拝
wikipedia public domain

今日はプラド美術館を訪れる方のためのエル・グレコの解説書を書いてみました。これらはプラド美術館に展示されているエル・グレコの作品の一部ですが重要なものをピックアップしました。

時間があればトレドにも足を伸ばしてオルガス伯爵の埋葬などを楽しんでください。

ホアキン・ソローリャ美術館は光の画家ソローヤがマドリードで暮らした家、小さな素敵な美術館です。

スペイン、バレンシア出身の画家ホアキン・ソローリャ(ホアキン・ソロージャ、ソローヤ)は「光の画家」と呼ばれスペイン印象派を代表する画家だ。ソローリャの人生で一番幸せな時期に家族で住んでいたマドリードの住居が「国立ソローリャの家美術館」として公開されている。個人の家と言うこともあり小さなセンスの良い美術館で入場料も3€で楽しめます。

ホアキン・ソローリャ美術館マドリード


ホアキン・ソローリャ美術館 Musoe Joaquin Sorolla

ソローリャ美術館はマドリードの上品な地区にある小さな美術館。ホアキン・ソローリャ(ソロージャ、ソローヤ)が家族と住んでいた家がそのまま美術館になっている。

ホアキン・ソローリャの家美術館は43歳でソローリャがマドリードに購入し家族で生活していた家で画家の一番幸せな時期に暮らした家。ホアキン・ソローリャ亡きあと婦人が家ごと提供して美術館になった。

ソローリャ美術館場所と行き方

マドリード北部チャンベリ地区

最寄メトロ:10号線Gregorio Marañónから徒歩5分

ホアキンソローリャ美術館
筆者作成

画家の名前はソローヤ?ソロージャ?ソローリャ?

画家の名前はホアキン・ソローリャなのかソロージャなのかソローヤなのか?混乱している方もあるかもしれない。

スペイン語には英語に無いアルファベットがいくつかあり「LL」でひとつのアルファベットだ。ここで使われるSOROLLAのLLAはヤとジャとリャの間の発音で、ソローヤ、ソロージャ、ソローリャとネットで検索しても様々だ。

Paellaパエ―ジャやSevillaセビージャの時と同じLLA。日本語のウィキペディアではソローリャで出てくるのでこの記事ではここからソローリャで統一する。

ソローリャの家美術館

43歳でホアキン・ソローリャが購入した家に現在はソローリャの作品が展示されている小さな美術館。入口の庭や噴水はアンダルシア風でソローリャがアンダルシアに行った時に見たアルハンブラ宮殿の中庭やセビージャの庭園のイメージを丁寧にここに再現した。

<ホアキン・ソローリャの家美術館 Museo Sorolla>

ソロージャ美術館
筆者撮影

中庭の神秘性(そう、中庭には神秘性があるんです)や噴水、花、静寂、ひだまりの中で水の音が楽しめる。庭だけなら無料で入れるのでお天気が良い日は家族やカップルで来ている人々がいる。

ホアキン・ソローリャはこの家を建てるのに建築家と細部に至るまで話し合いながら一緒に意見を出して造ったという。この庭も庭師と一緒に植木を植えた事もあった。自分の中にこんな家にしたいという具体的なイメージを持って丹精込めて作った家。私もそれくらいこだわった家に住んでみたい、と心から感じた。

画家はこの庭でも絵を描いたので様々な場所で絵が描けるスペースがあり良く考えて造られている。

<ホアキン・ソローリャの家美術館 Museo Sorolla>

ソロージャ美術館museo corola
筆写撮影

ホアキン・ソローリャが亡くなったあと未亡人になったクロティルデの希望で美術館になり初代館長が息子のホアキン。1951年には息子のホアキン・ソローリャがすべての財産を寄贈し国立美術館になった後所蔵作品が増えた。

ソローリャの家セラミックとパティオ

ホアキン・ソローリャ美術館に入ると切符売り場の横にセラミックが置かれた部屋がある。内側はアンダルシア風パティオになっていて後で見る画家のアトリエに光が入る設計。

パティオはスペイン語で中庭の事、南スペインのアンダルシアに行くと素敵なパティオが日常に使われている。ここはアンダルシア風のパティオになっていて、内部の部屋にも光が当たり、風が流れ、閉ざされた空間に安心感がある。

<ホアキン・ソローリャの家美術館Museo Sorolla>

ソロージャ美術館
筆者撮影

壁の下の方のセラミックはタラベラ焼き又はバレンシアのマニセス焼き。展示されているのはすべてソローリャのコレクション。物を集める趣味の人が結構いるが良くこんなに集めたものだと思う。

<ホアキン・ソローリャの家美術館 Museo Sorolla>

ソロージャ美術館
筆者撮影

 

ホアキン・ソローリャの家美術館の所蔵絵画と内部を説明


ソローリャ美術館は画家の仕事場と生活していた部分に分かれる。順に解説していく事にします。

最初の部屋は絵の保管場所だった  SALA 1

ホアキン・ソローリャの家美術館の最初の部屋は絵を保管したところだった。壁の赤い色は当時そのままという。この色は置いてある絵画が引き立つ色だそうだが実際インパクトがあって確かに絵画が浮き上がって見える。この感性がすごいなと思った。

<ホアキン・ソローリャ美術館Museo Sorolla>

ソロージャ美術館
筆者撮影

今はソローリャの様々な時代の作品が展示されている。いくつかの作品を見ていく事にしましょう。

<クロティルデ、ソローリャ美術館 Museo Sorolla>

ソロージャ美術館
筆者撮影

ソローリャの生涯にわたってモデルになったのは妻クロティルデ。黒い夜会に行くような衣装に自信たっぷりの優雅さ。

***ソローリャの妻クロティルデ***

ソローリャの妻クロティルデは画家の絵の販売や細かい会計の仕事、子供の世話や重要な顧客や上流階級のお客さんたちとの交流等なんでもこなした。ソローリャにとって女神でモデルで頼れる相談役で仕事の相棒ですべてだった。さらに英語とフランス語が出来たというので当時の女性ではかなりのインテリ。

ソローリャが仕事で一人で旅をしたときは手紙を毎日の様に書いて約3000通が保存されているという。仲の良い夫婦だったんだなあ。

<ソローリャの自画像、ソローリャ美術館 Museo Sorolla>

ソロージャ美術館
筆者撮影

(写真上)ソローリャの8枚ある自画像のひとつで妻クロティルデに贈るために描いた。1909年に、アメリカのイスパニックソサイアティで高い評価を得て成功した頃の作品で自信にあふれている。

<画家の子供達、ソローリャ美術館 Museo Sorolla>

ソロージャ美術館
筆者撮影

写真上はソローリャとクロティルデの間に生まれた3人の子供たち。愛情に溢れた作品。

<裸婦1892年、ソローリャ美術館 Museo Sorolla>

ソロージャ美術館
筆者撮影

写真上の「裸婦」はまだホアキン・ソローリャ29歳の頃の初期の作品。モデルはもちろん妻クロティルデ。先に見た妻の肖像画や自画像より17年程前の作品で伝統的でアカデミックな技術を駆使しているのが他の作品と比べても良くわかる。まだ若いソローヤが絵の基本的な描き方を駆使して完成させた。美術館では絵の肌の色、うなじのタッチ、白いシーツ、床の色、床の水の感じを見てください。

 

<馬と少年、ソローリャ美術館 Museo Sorolla>

ソロージャ美術館
筆者撮影

(写真上)当時のバレンシアの貧しい少年達は裸で海で馬の掃除を手伝ってお小遣い稼ぎをしていた。馬の耳が切れている構図が面白い。絵画というより写真的な画面の取り方。

***ソローリャの絵の特徴***

*絵画と言うより写真的な切り取り方。上の絵の馬の耳が切れている、表現したかったのは馬の全身より海の光や少年の肌の色。

*光の扱い、逆光や順光、カメラの光のアングルを絵画に持ち込んだ。

*水の透明度や光が当たった時の水の一瞬の輝きを表現した

ニューヨーク・ヒスパニック・ソサイアティ

画家ホアキン・ソローリャの成功はヒスパニック・ソサイアティーからの注文と評価によるところが大きい。

ニューヨークにあるヒスパニック・ソサイアティーは1904年アメリカ人の超富裕者のアーチャー・ミルトン・ハンティントン氏によって設立された協会。ハミルトン氏によって設立されたスペイン文化芸術を研究し展示する総合博物館兼図書館からソローリャは大きな作品を多数注文を受けた。

創設者のハミルトン氏の両親は鉄道・造船の財閥だが本人はビジネスに興味がなく子供の時に両親との欧州旅行でイギリスへ立ち寄った時にスペインについての本に出会いスペイン愛に目覚めた。まずはスペインに行く前にスペインの歴史や文化を猛研究し2000冊もの本を読みアラビア語までも勉強してからスペインへ旅をしたという変わり者。そのハミルトン氏のコレクションは膨大でスペイン、ポルトガルやアラブ文化、中南米諸国からフィリピンに至る書画骨董宝石や絵画をコレクションしたものを展示している。

2番目の部屋は顧客を案内した販売展示室 SALA2

この2番目の部屋は絵を買いに来た顧客を案内する部屋だった。当時はホアキン・ソローリャが描いた最新の絵画を壁全体に隙間なくかけていたという。

現在はホアキン・ソローリャの家族の絵が中心にかけられている。

壁のタピスや置物なども当時のまま保存されている。

愛情いっぱいの家族の絵が置かれていて写真下はクロティルデと3人の子供たち。思わず微笑んでしまう作品だ。実はこの絵は未完成なので所々色が塗られていない。

<画家の家族、ソローリャ美術館>

ソロージャ美術館
筆者撮影

<クロティルデ、ソローリャ美術館>

ソロージャ美術館
筆者撮影

家族の記録にもなっているソローリャが描く彼の家族の作品は愛情溢れていて見ていて微笑ましい。家族大好き奥さん大好きなのが伝わってくる。

3番目の部屋 SALA3

この部屋はパティオ(下の切符売り場の横の中庭)に面しふんだんに光を取り入れられたソローリャの仕事場。天井からも光が入る構造で光にこだわった画家らしい設計だ。

イーゼルや筆や絵の具もすべてソローヤが使っていたものが置いてある。当時は今よりもっと沢山の絵がかかっていたというからびっくりだ。

<画家の道具、ソローリャ美術館 Museo Sorolla>

ソロージャ美術館
筆者撮影

写真下:中央の大きな作品はソローリャの作品が沢山ある中でも有名な妻クロティルデとマリア。海岸線の眩しい光と海の風を感じる。

<クロティルデとマリア、ホアキン・ソローヤ美術館 Museo Sorolla>

ホアキン・ソローヤ美術館
筆者撮影

写真下は作品を拡大して。バレンシアのマルバロッサ海岸、光と影、海の風を感じる。やはり水平線を描いていない写真の切り取りのような構図。

<クロティルデとマリア、ホアキンソローリャ美術館Museo  Sorolla>

ホアキンソローリャ美術館
Wikipediaより

<グレーの衣装のクロティルデ、ソローリャ美術館 Museo Sorolla>

ソロージャ美術館
筆者撮影

35歳のクロティルデ、全体に暗いグレーの色が使われている。衣装はソロージャがパリに行った時に流行っていた衣装を手紙で知らせてそれを創らせたという。(ウエスト細い・・・)

<クロティルデ、ソローリャ美術館 Museo Sorolla>

ソロージャ美術館
筆者撮影

顔だけアップにしてみた。この絵は私個人的にとっても好きで、絵画全体は暗い色調でグレーが使われているがクロティルデの顔、次の瞬間笑顔に満たされる表情が画面全体を明るくしている。微笑みながら今にも何か話し出しそうでこちらに歩いてきている感じ。

<ソローリャ最後の作品、ホアキン・ソローリャ美術巻Museo Sorolla>

ホアキン・ソローヤ美術館

(写真上)これだけが家族ではない人物がモデルになっている作品。ソローリャの友人の奥さん、画家はこれを書いている時に人が訪ねてきて、外に出る時に倒れた。脳溢血だったらしい。

その後マドリードの西にあるセルセディージャという小さな村へ引っ越し療養する。家族はソローリャに絵を描かせようとするが2度と筆を持たなかった。

その3年後に60歳で永眠。

2階は寝室だった、現在は特別展の展示室

2階へ登る階段の壁にも作品が展示されている。

<ホアキン・ソローリャ美術館Musoe Sorolla>

ホアキンソローリャ美術館
筆者撮影

2階の部屋は家族の寝室だった。

現在はホアキン・ソローリャの様々な作品の特別展。普段展示されていない習作やデッサンなど時期によって様々な展示会が行われている。

下へ降りて生活の部屋

リビングルームに家具や絵画や彫刻、奥にある黒い衣装のクロティルデはベラスケスの様な筆遣い。(下写真右奥)

ホアキン。ソローヤ美術館
筆者撮影

半円形の窓は東向きで当時は周りにビルは無く朝日がたっぷり部屋に入った。

ホアキンソローヤ美術館
筆者撮影

食堂

壁の上の方の絵はソロージャが描いた。生地に油絵を描いて壁に縫い合わせた。

食堂の上からのランプはティファニー製。宝石商ティファニーはソロージャの顧客だった。ティファニーの創業者の息子ルイス・カムフラート・ティファニーはアメリカのアールヌーボーの第一人者でその人物が作ったランプ。

 

光の画家ホアキン・ソローリャの人生

(1863〜1923)


ソローリャの生まれはバレンシア

ホアキン・ソローリャは1863年にバレンシアで生まれる。バレンシアの貧しい家庭の生まれだった。2歳の時に両親がコレラで亡くなり母方の叔母の家に一歳違いの弟と世話になった。

ソローリャの叔父は鍵を造る職人で12歳の時に叔父さんの仕事を手伝いながら夜に芸術学校に通う。

1879年15歳でバレンシアの名門美術学校サン・カルロスで友達になったのが写真家アントニオ・ガルシア・ペレスの息子、その手伝いのアルバイトを始めた。被写体に光を当てる仕事でこれが後のソローリャの絵に写真的な逆光や光が使われ、画家の光の描き方の原点はここにある。

その写真家の娘が後にソローリャの妻になるクロティルデ。

1881年〜82年にマドリードを訪れプラド美術館のベラスケスやリベラ、エルグレコなどの模写をしている。初期のソローリャの作品にベラスケス風のものが散見される。

ソローリャはいつも完璧を目指す人だったという。

ホアキン・ソローリャ美術館まとめ


マドリードには数多くの美術館博物館があるがホアキン・ソローリャ美術館はとっても小さな美術館で画家の家だったのでお呼ばれした気分で楽しむと良い。絵が好きなら是非ともおすすめです。

印象派って何?を簡単に説明してみた

印象派の絵は人気がある、モネやゴッホやルノワールやゴーギャン、どれもうっとり幸せな気分にしてくれる優しい絵画たちだ。印象派の絵は日本だけでなくアメリカやヨーロッパでも大変人気があるジャンルなのです。このページでは「印象派とは何?」を簡単にわかりやすく解説してみる事にした。

印象派


まずは印象派って?

印象派は19世紀後半にフランスで画家達が集まって始めた新しい芸術運動。光の変化や空気の色などを画家各自の「印象」を通して描いた。それまでの伝統的な美術界に革新をもたらした。と言うあたりが一番簡単な説明。

印象派の特徴は?

時間による光の変化を描こうとした。

写真に出来ない風景を描こうとした。

戸外での作成を始めた。

風景や農民や普通の人や街並みを描いた。

短い筆のストロークや重ね合わせた色を使った。

日本の浮世絵に影響を受けた。

では印象派についてもう少し


実は風景画はヨーロッパでは高尚なジャンルでは無かった

美術の世界は保守的で権威的だ。長い間ヨーロッパで画家達は聖書や神話や王様を描いていた。

ヨーロッパ各地にアカデミーが作られ、フランスではフランス王立アカデミーが権威を持っていた。古典や宗教画又は国王の肖像画などの分野のみが「アカデミーな世界」で「高尚な絵画」として認められていた。

風景画は「高尚な絵画」のジャンルには無かったのだ。長い西洋絵画の歴史の中で「綺麗な風景画を見てうっとり」して「素敵ね~」「この絵好きだわ~」というのはつい最近になってからの絵の楽しみ方なのです。

本来画家は「サロン」に絵を出展した

伝統的で権威的な美術の世界で絵画はサロンに出展するものだった。サロンは部屋と言う意味のフランス語。

サロンの歴史は古くルイ14世の時代に始まった。フランスの王族が芸術家たちを保護して宮殿等を装飾させるために創った組織。更にそのメンバーが若いアーティストを育てる組織がアカデミー=国立美術学校になった。

アカデミーの学生達が自分の作品をパリのベルサイユ宮殿のサロン・カレという部屋で展示した。サロンは部屋と言う意味で、サロン・カレはカレの部屋。その部屋=サロンに定冠詞をつけル・サロンと呼ばれるようになる。

フランス革命の後はサロンに誰でも参加できるようになったが、参加するには厳しい審査が行われ実力だけでなくコネやチャンスが必要だった。

サロンに出展出来ない画家が展覧会を開いたのが印象派展の始まり

最初の印象派展は無名の画家達が自分たちで開いた展示販売会。厳しい審査やコネやチャンスが無い若い画家達が自分たちの作品を自由に展示でき販売したり有名になれる展覧会を自費で始めた。みんなでお金を出し合って展示会を開き作品が売れたら売り上げの中から出したお金に応じて利益を分け合った。

この展覧会が後に印象派展と呼ばれるもので第1回目が1874年の第1回印象派展でその後も続き合計8回開催されている。

モネもマネも有名になりたかったし稼ぎたかったのだ。

印象派と言う名前の由来

実は印象派と言う名前は印象派の画家達が名乗ったのではなく批評家に悪口として言われた言葉だった。

前述したパリで1874年アーティスト達が自分たちの展覧会を行った。後にこの展覧会は第1回印象派展と呼ばれるが上述したように最初は画家彫刻家たちの共同出資の展覧会だった。

この展覧会でモネの「印象・日の出」という作品が出展された。

モネ。印象、日の出
By クロード・モネ – art database, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=23750619

その後当時の新聞「シャリバリ」の記事に「印象主義者の展覧会」という題で「なんとひどい展覧会なんだ」という辛口の記事がルイ・ルロワという人物によって書かれた。この言葉が後に印象派展と言う呼び名になる。

印象派の筆触分割

色は混ぜると濁り暗くなる。透明感を出すために混ぜるのをやめてみた、これが筆触分割。混ぜないで上から早いタッチで色を重ねていく描きかただ。これはスペインの巨匠ベラスケス(17世紀)が既に使っていた描き方だがフランスのエドワール・マネがプラド美術館を見学した時にベラスケスの絵画を見て学んだ。(全ての印象派の画家が筆触分割を使ったわけでは無い)

チューブ絵の具の発明と蒸気機関車

さらにそれまで絵の具は外に持ち出せないものだった。チューブの絵の具が発明され(1840年)画家達が画材道具を持って外で絵を描くようになった。朝の光のやわらかさや雨上がりの一瞬の光を自分の印象を通して描くようになった。

又蒸気機関車の発達で画家達が遠くへ行けるようになったのも風景画を描くようになったことに拍車をかけた。

ジャポニズムと印象派

ゴッホ花魁
wikipedia public domain
Van Gogh Museum

19世紀ジャポニズムと言ってヨーロッパで日本が爆発的に流行った事が有った。パリの女性達が扇子やうちわを持ち日本の着物をガウン変わり着ているのがかっこよかった。

ジャポニズムと浮世絵

日本の鎖国が解けたのが1854年、印象派展の20年前だ。この頃に日本の美術工芸品が大量に欧米に渡っている。輸出された物の中に陶器があり陶器を割れない為に包む紙に浮世絵が使われていた。今も引っ越しの時に陶器を新聞紙で包んだりする、その包み紙が浮世絵だったのだ。これを見たヨーロッパの画家達が遠近法のない絵画を見て驚愕した。

パリ万博1867年
wikipedia public domain

更に1867年にパリで万国博覧会が行われた。写真上はパリ万博にての日本の代表団。日本はこの万博に初めて参加しているがこの時日本は未だ幕末、ちょんまげに羽織袴の幕府の要人たちが刀を差してパリの街を闊歩した。

浮世絵の印象派への影響

ヨーロッパ絵画は描くときに決まり事がある。遠近法や明暗法や構図の取り方などだ。大事な物は真ん中にあってそこには必ずストーリーや意味があった。西洋絵画が長い間に蓄積して来た規則や哲学が存在した。

広重、大はしあけたの夕立ち
wikipedia Pubulic Domain
Brooklyn Museum

ところが浮世絵は取るに足りないものを描き中心が無い。身近なモチーフを独特の描き方で表現し、紙や顔料も随分と違っていて非常に斬新で驚かれた。

これらを積極的に取り入れたのがゴッホやモネやドガやピサロだった。

北斎漫画

前述した日本の陶器がヨーロッパに運ばれるときの緩衝材に浮世絵が使われたと書いた。その中に北斎漫画があった。北斎漫画というのは北斎のスケッチ画集。絵手本と言って画学生の為の絵の教本で全15編に4000図が収められているらしい。

北斎漫画
By Katsushika Hokusai – Michener, James A. (1958) Hokusai Sketchbooks: Selections from the Manga, Rutland, Vermont & Tokyo: Charles E. Tuttle Company, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2311356

これらを見たヨーロッパ人たち特にフランス人の印象派の画家達に非常に影響を与えた。

伝統的な遠近法を使わずに、大事な物を大きく書いたり、大事な物が端の方にあったり、非常に平面的だったり、そしてテーマは自由なのだ。こんな絵を描いても良いのかと驚愕した。

ゴッホと浮世絵

ゴッホが何百枚かの浮世絵の版画を購入していた事が判っている。弟のテオへの手紙に浮世絵のすばらしさを語っている。写真下は広重の作品をゴッホが自分なりに描いたもの。ヨーロッパには無い絵の描きかたでゴッホは夢中になり他にも沢山の浮世絵風の物を描いている。

ゴッホ、梅の開花、広重の模写
wikipedia Public Domain

ゴッホがその後アルルに引っ越したのも日本的な明るい素材を求めての移動だった。その他の作品にも日本的な物や浮世絵の影響がみられるのがゴッホの作品だ。

印象派まと


印象派を簡単に説明してみようとしましたがバックグラウンドを解説していくと深みにはまりました。

印象派とは19世紀、伝統的な西欧絵画の中のアウトロー的な存在だった。彼らは当時は全く評価されていなかった画家集団だった。

カメラの発明により写実的な絵画の世界を写真が行うようになり絵画に出来ない世界を絵に描こうとした画家達だ。

日本の浮世絵に影響を受け遠近法も明暗法も使わない新しい絵画の世界が始まった。

印象派の始まりから絵画の世界はもっと自由になって変化を遂げていく事になる。

 

 

シュルレアリスムを簡単にわかりやすく説明してみた

シュルレアリスムというと最初にダリやミロの絵を思い浮かべる人が多いと思う。スペインの近代画家のピカソ、ミロ、ダリを理解しようとすると必ず出てくる言葉がシュルレアリズムだ。

シュルレアリスムは20世紀の芸術運動で無意識の世界を扱った、もともとは自動書記=オートマティスムと言って文章を自動的に描いていきそのスピードを速めるという実験から始まった。この記事ではちょっと難しいシュルレアリスムを簡単にわかりやすく解説してみる。

シュルレアリスムとは


シュルレアリスムの前にシュルレアルとは?

シュルレアルはフランス語、Surシュルは接頭語の「~の上」にと言う意味でここでは「~の上」=「超」という意味で使われている。レアルは現実なのでシュルレアルは超現実。

日本で時々広告等のキャッチコピー等に使われる「シュールな~」というとあまりにも現実から離れた非現実的な現象と言う意味だ。本来のシュルレアルというのはその逆で滅茶苦茶現実的という意味の「超現実」。「超早い」「超安い」とか「超かわいい」と言う時に使う「超」なので滅茶苦茶に現実という超現実の事をシュルレアルという。

シュルレアリスムはシュールではないのです。

という事で「シュールな世界」「シュールな絵画」など日本では奇抜で想定を超えたという意味で使われる「シュール」はシュルレアリスムの本来の意味から離れて独り歩きをしてしまった。

そしてシュール・レアリスムという言い方は間違いで正しくはシュルレアリスム。シュルレアルでひとつの単語でそれがイスム=主義という言葉が付いてシュルレアル主義。シュールで切り離さないしシュール・レアリスムではなくシュルレアリスムなのです。

シュルレアリスムは最初は文章だった

アンドレ・ブルトン

シュルレアリスト、アンドレ ブルトン
De Henri Manuelhttp://obviousmag.org/dos_vestigios_da_medusa/174breton.jpg, Dominio público, Enlace

シュルレアリスムはアンドレ・ブルトンというフランス人が始めた芸術運動。アンドレ・ブルトンは詩人で文学者で大学では医学と心理学を学んだ。

アンドレ・ブルトンは第一次世界大戦の時に精神病院で務めているが、この時の体験がシュルレアリスムの登場に大きく影響を与えているだろう。精神病院で戦争のストレスで苦しむ兵士にフロイトの精神分析の自動書記に触れ後の自動記述=オートマティスムに展開していく。

オートマティスム=自動書記とは

アンドレ・ブルトンが実験した自動書記=オートマティスムはとにかく何も考えずに文章を書く。そしてそのスピードをどんどん速くしていくと超越的な文章になって行く。余分な物が無くなって次第に物事の本質や心の深い深い部分=無意識の世界に到着する。又は超越な存在と繋がって行く、という感じだ。

理性や社会や立場や常識を取り払って人間の思考を表に出していく。私たちの考えや行動は理性や立場によっていつも拘束されているのだ。そこからの開放を目指した。

文章を書くのはシュルレアリスムだ

そういえば書くという行為自体が自動的だ。手紙にせよレポートにせよ文章を書いているときに最初から構成をすべてきちんと作って書いているケースの方が少ないのではないか。自然に自動的に頭の中にある物を組み立てて書いていくうちに文章が出来ていく、又は手が勝手に文章を書いていく感じは誰にでもあるだろう。

これは無意識の部分から泉の様に溢れてくるワードを手が書いていく作業。

そう、書くという行為は無意識とつながっているのだ。

アンドレ・ブルトンは自動書記の実験をしながらどんどん書くスピードを速くする実験をしてその文章を発表した。そしてシュルレアリスムが始まった。

フロイトの影響

アンドレブルトンが第一次世界大戦で精神的に壊れた兵士の治療にあたりフロイトの精神分析に出会っている。当時フランスではフロイトは未だあまり知られていなかった。

個人の意識より無意識や夢、偶然性などを重視したフロイトの無意識の世界がシュルレアリスムに大きく影響を与えている。

アンドレ・ブルトンが自動記述で書いた溶ける魚

1924年にブルトンがシュルレアリスム宣言と共に刊行した作品。自動記述で書いていったものが刊行された。内容はブルトンの記憶の泉から湧きだした物語。

シュルレアリスムの絵は大きく分けると2種、ミロ型とダリ型⇚私が勝手に分けました

*ミロ型*

自動記述を利用し自意識が介在出来ない状況下で絵を描き無意識の世界を表現。具象的な物が無く記号的なイメージで抽象画に近づいていく。

ミロの壁画
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*ダリ型*

不条理な世界やあり得ない組み合わせを写実的に絵に描いた。夢や無意識の世界でしか起こらない奇妙な世界を様々な作品にした。

サルバドール ダリ 
wikipedia Public Domain

シュルレアリスムは絵画だけではなく本や映画や彫刻や写真等幅広い芸術作品になっている。

シュルレアリスムまとめ


ダリやミロ等の絵画からシュルレアリスムを理解しようとする場合が多いと思うが絵から入るとなぜこんな不思議な作品を画家が描いたのか悩む。本来は文章から始まり自動記述を理解すると何故シュルレアリスムの絵画があの様な不思議な作品になって行ったかが理解できる。

シュルレアリスムを理解するのに無意識や自動記述は避けて通れない事柄なのです。芸術家たちがもっと深い深い所へ、遠い世界へ到達しようとした作品がシュルレアリスムの絵や彫刻や映画になった。

ギリシャ神話は面白い。絵画で楽しむギリシャ神話。(プラド美術館を中心に)

 

ギリシャ神話は面白い。絵画で楽しむギリシャ神話をプラド美術館の作品を中心に紹介します。ヨーロッパの美術館を楽しむため知っていた方が絶対良いのはキリスト教とギリシャ神話。ほんの少し物語を知っているだけで美術館での時間もヨーロッパの旅も随分違ったものになります。プラド美術館を訪れた時その時間が数倍楽しくなるようにプラド美術館にある作品を中心にギリシャ神話をご紹介。

ギリシャ神話の神様達は奔放で情熱的で欲望のまま浮気をしたり女を誘拐したり、怒りに任せて報復をしたりとても人間くさく面白い。禁欲的なキリスト教の神と比べて作品にするのも見るのも楽しいものばかりです。ギリシャ神話の壮大な物語は冒険心をくすぐられ映画やゲームに今も使われています。

ダナエ

ダナエは今のギリシャのペロポンソス半島にあるアルゴス王国の美しい王女。あるとき父親の国王アクリシオスは神託を受けた。「お前はお前の孫によって滅ぼされるであろう」。驚いたアクリシオスはまだ結婚もしていない美しい娘のダナエが子供を産まないように城の塔に幽閉した。

ところが女好きの全能の神ゼウスが美しい女性ダナエを見つけた。青銅の扉の中にいるダナエに近づくために自分の姿を黄金の雨に変えてダナエと交わった。

この絵はベネチア巨匠ティチアーノがスペイン国王フェリペ2世の為に描いた一連の神話画「ポエジア」の連作のひとつ。「ポエジア」はギリシャ神話の変身物語を断続的に約10年間に渡って描いた連作。

ダナエを誘惑するために黄金の雨になったゼウスが幽閉されたダナエの塔に降り注ぐ。

<黄金の雨とダナエ・ティチアーノ・プラド美術館>
プラド美術館 ダナエ

Dánae recibiendo la lluvia de oro
TIZIANO, VECELLIO DI GREGORIO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

同じ題材の作品がナポリのカポディモンティ国立美術館、ザンクぺテルスブルグのエルミタージュ美術館、ウィーンの美術史美術館にある。構図はほとんど同じだが右側のおお皿で黄金を受けている老婆がの所にューピッドがいたり、犬が描いてあったりする。

<ダナエ・ティチアーノ・カンポディモンテ国立美術館>
ナポリにあるティチアーノのダナエ
wikipedia
Pubblico dominiovedi

ダナエはその後身ごもり男の子ペルセウス産んだ。神託は「貴方は孫によって滅ぼされる」父王アクレシウスは「この孫によって私が・・・?」と慌てたが可愛い孫に手を下すことはできず箱船に乗せダナエと共に海に流した。「きっとこれで大丈夫。」

この箱船がクレタ島の北にあるセリポス島に流れ着き漁師ディクテュスに助けられた。漁師の兄、島の王ポリュクデクテスは美しいダナエに一目ぼれ。青年になっていたペルセウスは母を守ろうと王に対抗する、が王は邪魔になったペルセウスを怪物メドゥーサ退治に出す。

<メドゥーサ、カラバッジオ、ウフィツイ美術館>
カラバッジョ メドゥーサ
wikipedia
public domain

 

メドゥーサはゴルゴン3姉妹の末っ子。顔は大変醜く「口には鋭い牙」、背中には「黄金の翼」、手には「かぎ爪」を持っていて「髪は生きた蛇」、最も恐ろしいのは「メドゥーサの目を見たものは石に変えられる」。

メドゥーサは実はもともと輝く金髪を持った絶世の美女だった。海の神ポセイドンに寵愛され白馬に姿を変えたポセイドンに連れられアテナ神殿で契りをかわす。神殿を汚されたアテナとポセイドンの正妻アンピトリテは仕返しにメドゥーサとその姉妹たちを怪物に変えてしまった。

<メドゥーサの頭・作者不明17世紀・プラド美術館>
メドゥサの頭
Medusa
ANÓNIMO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

ペルセウスは女神アテナから「輝く盾」、ゼウスの使いの青年神ヘルメスからは「空飛ぶサンダルと金の新月の刀」を借りて旅に出た。この刀だけがメドゥーサの首を切ることが出来る。

後足りないものが二つ、それは西の国のニンフたちが持っている。ニンフ達の住み家を知っているのはグライアイの三人の老女。彼女たちは三人なのにひとつの目とひとつの歯を交代で使っていた。

ペルセウスは無事グライアイの老女からニンフの住み家を教えてもらい足りない二つの物、「被ると姿が見えなくなる帽子」、「ゴルゴンの首を入れるための魔法の袋」をもらった。

<メドゥサ退治のペルセウス・ルカ・ジョルダノ・プラド美術館>
ルーカジョルダノのペルセウスのメドゥサ退治

Perseo vencedor de Medusa
GIORDANO, LUCA
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

ゴルゴン谷に着いたペルセウスはヘルメスの羽の付いたサンダルで空を飛びアテナにもらったピカピカの盾にメドゥーサを写し、金の新月の刀でその首を切り落とした。ペルセウスは帽子をかぶって姿を消しサンダルで空を飛んで逃げていく。

メドゥーサを倒したペルセウスは母の待つセリポリ島へ飛んで帰る途中、美女が鎖で岩場に繋がれているのを見つけた。この美女はエチオピアの王女アンドロメダ。海から牙の生えた怪獣が美女を狙って泳いでいるのが見える。

実はエチオピアの王妃カシオペアは「海の神ポセイドンの娘たちより私の方が美しい」と豪語していた。それがポセイドンの耳に入り怒りにふれエチオピアは毎年大洪水に苦しめられていた。国王ケフェウスが神に聞いたら「娘アンドロメダを海の怪獣の生贄にすれば神の怒りは鎮まるだろう」。それでかわいそうな娘アンドロメダは鎖に繋がれ今まさに生贄になっていた。

<アンドロメダの救出・ルーベンス・プラド美術館>
アンドロメダとペルセウス

Perseo liberando a Andrómeda
JORDAENS, JACOB,RUBENS, PEDRO PABLO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

ペルセウスはヘルメスのサンダルで空を飛び、持っていたメドゥーサの首を怪獣に掲げて石に変えアンドロメダを救出した。

<アンドロメダとペルセウス・ティチアーノの模写・プラド美術館>
アンドロメダとペルセウス

Andrómeda y el dragón
ANÓNIMO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

ペルセウスとアンドロメダは結婚し母のいるセリポス島に戻り母に言い寄る(まだ言い寄っていた)ポリュデクテス王にメドゥーサの首を見せて石に変え故郷のアルゴスへ帰って行く。

「お前は孫によって滅ぼされる」と予言を受けていた祖父の国王アクリシオスは孫の帰還に驚いてアルゴスからラリッサという町に逃げていた。

ペルセウスはアルゴスの王となりある時ラリッサの町の競技大会に呼ばれる。その時に参加した円盤投げ競技で投げた円盤がある老人にあたってその老人は命を落とす。その老人こそ元国王のアクレシオス。ついに神の神託は現実となった。

人間は不幸な神託を受けると何とか免れようとするが結局どう逃れても予言の通り運命は人間を導いていくというのがギリシャ神話に共通する教訓です。

壮大な冒険物語に登場する人物たちは大空に星座として今も輝いています。

エウロパの略奪

エウロパは月のような顔をした美しいフェニキアの王女だった。エウロパに一目ぼれしたゼウスは自らの姿を白い牡牛に変身させ油断したエウロパを略奪して旅に出る。

この時に牡牛ゼウスがエウロパと旅をしたところをエウロパ=ヨーロッパと呼ぶようになった。彼らが旅の後に着いたのがクレタ島。ゼウスとエウロパの間に生まれたのがミノスでクレタ島にクノッソス宮殿を作って住んでいた王様です。

*神話の長い物語は荒唐無稽な作り話と信じられていたが19世紀に発掘が行われイギリス人のアーサーエバンズによって遺跡が発見されている。

<クレタ島、クノッソス宮殿遺跡>

クレタ島、クノッソス宮
wikipedia CC
Source Own work
Author 遠藤 昂志
<エウロパの略奪、ティチアーノ、ガードナー美術館蔵>

最初の作品ダナエと同じくティチアーノがフェリペ2世の為に描いた一連の神話画の「ポエジア」の7作中の最後の物。

19世紀にアメリカに渡って今もアメリカの美術館蔵。スペイン王位継承戦争のさなかフェリペ5世がフランス大使に与えパリへ移された後これが19世紀にアメリカの富豪ガードナー夫人により購入され大西洋を渡ってアメリカに渡ったスペインとしては大変残念な結果の名画。

ティチアーノ、エウロパの略奪
wikipedia
public domain

下の絵はスペインに来ていたピーター・ポール・ルーベンスが当時はまだマドリードの王宮にあったティチアーノの上記作品を模写したエウロパの略奪。今もプラド美術館で鑑賞できます。ルーベンスの方がエウロパの太ももの肉付きがぽっちゃりで官能的。

<エウロパの略奪、ルーベンス、プラド美術館>
エウロパの略奪 ルーベンス

El rapto de Europa
RUBENS, PEDRO PABLO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

ルーベンスがスペインに来た頃に宮廷画家として活躍していたのがベラスケス。どちらも国王フェリペ4世のお気に入りの画家で2人は一緒にスケッチ旅行へ行ったりしている。ベラスケスが自分の作品の中にエウロパの略奪を入れて描いた作品がアラクネの寓話。

手前で織物を織る女性達の向こうでは変身物語が展開している。奥のタペストリーがエウロパの略奪。

<アラクネの寓話、ベラスケス、プラド美術館>
アラクネの寓話 ベラスケス

Las hilanderas o la fábula de Aracne
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

アラクネは織物が上手な女性であまりにも自慢をするので怒ったアテナが天から降りて来て織物競争をすることになった。この時にアラクネが織った題材がギリシャの神々の失敗や誘惑。全能の神ゼウスがエウロパを略奪するところを織物にした。

絵の一番奥に描かれているタペストリーに上記作品をモデルにしたゼウスによるエウロパの略奪が織られている。生意気なアラクネにアテナはお仕置きをする。「そんなに織りたいなら、いつまでも織れるようにしてあげましょ!」と蜘蛛に変身させた。というお話。

アラクネは今も蜘蛛になって織物を織っています。蜘蛛はラテン語でアラネア、スペイン語でアラ―ニャ、フランス語でアレニェ、イタリア語でラーニョ、全てアラクネから来ています。

イカロスの墜落

話は少し戻ってクレタ島へ。エウロパの息子ミノスは海神ポセイドンに立派な牛を生贄として所望する。ポセイドンは願いを叶え「とんでもなく美しい牛」を与えるがあまりにも美しくミノスはポセイドンに内緒で別の牛を生贄にした。それを知ったポセイドンは怒り、仕返しに妻のパシパエが牛に恋をするように仕組む。

<ヘラクレスとクレタの牛、スルバラン、プラド美術館>

スルバラン、ヘラクレス牛退治
Hércules y el toro de Creta
ZURBARÁN, FRANCISCO DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

*上記の絵はスペイン画家スルバランの珍しい神話画。パシパエが恋をした「とんでもなく美しい牛」は乱暴で手が付けられなかったのでヘラクレスが12の難行の中で素手で退治する場面。

牛に恋したパシパエは思いを遂げ子を産んだ。牛と関係を持つための機械は名人大工ダイダロスが考えた。牛との間に生まれた子供は半牛半人の怪獣ミノタウロス。ミノス王は名人大工のダイダロスに迷宮を作らせてそこにミノタウロスを閉じ込めた。その迷宮はラビュリンスというが今も迷路の事を英語でラビュリントス、スペイン語でラベリントスというのはこの迷宮ラビュリントスから来ている言葉

<ミノタウロス、アテネ国立考古学博物館>

ミノタウロス
Source Own work
Author Marsyas
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当時のアテネは毎年7人の青年と7人の乙女をミノタウロスの餌食に捧げる事になっていたがアテネの王子テセウスが生贄に紛れてクレタに到着。ミノス王の娘アリアドネはテセウスに恋をし無事に出てくるよう糸玉と剣を渡しテセウスは剣でミノタウロスを倒し糸玉で迷宮から出てくる。今も「アリアドネの糸」は難題解決という意味で使われる。

この知恵をアリアドネに与えたのは名大工ダイダロスだった。ミノス王の怒りを買ったダイダロスは息子イカロスと共に塔に幽閉される。

<イカロスの墜落、ゴーウェイ、プラド美術館>
イカロスの墜落

La caída de Ícaro
GOWY, JACOB PEETER
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幽閉された塔に落ちて来た鳥の羽を蝋で固めて翼を作り大空へ二人で羽ばたいていった。ダイダロスはイカロスに「あまり低く飛んでも高く飛んでもいけない」と注意していたが自由自在に空を飛んでいるうち父親の忠告を忘れ太陽に近づきすぎて蝋が解けイカロスは墜落して海に落ちて死んでしまう。

自分の力を過信しないように、若者の暴走を止めるときに今も使われる教訓になっている。

トロイア戦争

トロイの王子として生まれたパリスの父王は「この子が生まれたらトロイが滅びる」と神託を受けていたが可愛い子供を殺せず神に内緒で羊飼いとして育てていた。

有る時神々の結婚式が行われることに。その会場に金のリンゴがひとつ落とされた。リンゴには「最も美しい女神へのプレゼント」と書かれていたので女神たちは大喧嘩を始める。

下の絵の左端がパリス、横に金のリンゴを持つヘルメスと右側に三人の女神たち

<パリスの審判、ルーベンス、プラド美術館>
パリスの審判 ルーベンス

El juicio de Paris
RUBENS, PEDRO PABLO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

どの女神がこのリンゴを受け取るのにふさわしいかを羊飼いのパリスが決めることになった。この三人というのは美の女神ビーナス、ゼウスの正妻ヘラ、知恵の神アテナ。

三人は自分が選ばれるために条件をパリスに出し始める。ビーナスは「私を選んでくれたら人間で一番美しい女性を奥さんにしてあげましょう」、ヘラは「貴方をアジアの王にしてあげましょう」、アテナは「貴方にいつでも戦争に勝てる力をあげましょう。」

<パリスの審判、ルーベンス、プラド美術館>
パリスの審判 ルーベンス
El juicio de Paris
RUBENS, PEDRO PABLO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

パリスが選んだのはビーナスだった。そして人間で最も美しい女性はギリシャの王妃ヘレーナという絶世の美女。ヘレーナをギリシャからトロイに連れて逃げて来たのが原因で戦争がはじまった。これがトロイア戦争の始まりで最後にトロイは滅びる。

19世紀にドイツ人のシュリーマンによって発掘されたトロイの遺跡も神話の後ろに史実があった事を証明した。現在のトルコのダータネルス海峡。

<トロイの遺跡>

トロイの遺跡
wikipedia CC
Troy
Photo taken by Adam Carr’s mother.

この時にギリシャ側で戦ったのがアキレウス。ギリシャ側の総大将がアガメムノンです。

*アキレウス・生まれるときに息子を不死にする為母親が冥界の河ステュクスに浸した。その手が息子の踵を掴んでいたため踵だけは彼の弱点になった。トロイア戦争ではこの踵を弓に射られ戦死。

30年間落ちないトロイにギリシャ兵が考えたのが木の木馬。トロイの城壁外に大きな木馬が置かれ、知らずに戦利品としてトロイの街に引き入れられた木馬からギリシャ兵が出て来てトロイの町は陥落する。

神託の通りパリスを殺しておけばトロイは滅びなかったというお話。運命からは逃げられなし、逃げたら逃げた結果言われた通りになる。

最後に

ギリシャ神話は登場人物のギリシャ語の名前が難しく本で読むと延々続く長いお話が面倒ですが紀元前15世紀頃から口承で伝えられていたものが次第にまとめられていったものです。ホメーロスのイリーアスやオデュッテイアは紀元前9世紀頃だそうで3000年も前のお話が現代の私たちが読んでも面白い冒険物語。その中に教訓や戒めが散りばめられています。

本当はもっともっと長いお話のさわりだけをご紹介しました。

キリスト教のミニ知識、復活祭(セマナ・サンタ)と移動祝祭日そして旧約聖書の関係

ボス<ヒエロニムス・ボス>謎の画家が描いた愚かな人間と不思議な生き物たち

ヒエロニムス・ボス(ボッス)は現オランダの「ス・ヘルトーヘン・ボス」で生まれた画家。実は生年や画家の詳しい生涯についてあまりわかっていない。イタリアのレオナルド・ダビンチとほぼ同時代の画家だ。後にサルバドールダリ達のシュルレアリストたちに絶賛され見直された画家である。現存するボスの真筆とみなされているのは25点ほどの油彩画と20点余りの素描のみ。ヒエロニムス・ボスの作品と謎に迫ってみた。

ヒエロニムス・ボス(1450?~1516)


ヒエロニムス・ボスの生誕地

ボスは現在のオランダにあるス・ヘルトーヘン・ボスという小さな街で生まれている。グーグルマップで調べてみるとアムステルダムから88キロほど南に下った車で1時間の街だ。

ヒエロニムス・ボスの生きた街は現在人口14万人程でオランダの北ブラバント地方に属する。当時は毛織物産業で豊かに繁栄しておりブルゴーニュ公国に含まれた。祖父も父も画家の家系で父親の兄弟も画家だった事が解っている。

スヘルトーヘンボスの街
Source Transferred from nl.wikipedia to Commons.
Author Karrow at Dutch Wikipedia

イタリアではルネッサンス時代に入り絵画では遠近法が確立しレオナルド・ダ・ビンチ(1452~1519)がヘリコプターを飛ばそうとしていた時代にヒエロニムス・ボスは想像を超える魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界を描いている。

ヒエロニムスボス
バレンシア美術館、筆者撮影

今から500年も前のヨーロッパ、神が世界のすべてを支配していた。闇の中には悪魔たちが今よりも身近にいたに違いない。町のゴシック教会には多くの魔物が彫刻されておりこれらは人々に地獄の恐ろしさを感じさせていたはずだ。イタリアでルネッサンスの画家達がこの世の春を謳歌している頃、アルプスの北ネーデルランドでは神秘的なゴシック主義の作品が好まれグロテスクな悪魔が人々の生活を支配していた。

<ブルゴーニュの教会のガーゴイル達>

 

ゴシック教会
筆者撮影

ヒエロニムス・ボスの時代に既にボスは人気画家で工房を抱え弟子達を使って制作していたようだが多くの作品が後の宗教改革や戦争で壊されているのは残念だ。ボスの時代に工房作だけではなく追従者や偽物が既に出回っていたらしい。ボスは当時それくらいの人気画家だったという事だ。

同時代のネーデルランドの画家に「ヤン・ファンアイク」「バンデル・ウェイデン」「ピーター・ブリューゲル」がいる。

ヒエロニムス・ボスの生涯

ボスの生涯は不明な部分が多く生年も正確にはわかっていない。断片的な事実を組み合わせ、想像の中である程度の事が判っているのみなのだ。

ヒエロニムス・ボスの肖像
wikipedia public domain

ヒエルニムス・ボスは画家の家系に生まれている。正式名はヒエロニムス・ファン・アーケン(Jheronimus van Aken)。通称私たちが読んでいる「ボス」「ボッス」という名前は出生地から来る。ボスは署名をしていない作品も多く、又署名があっても偽物もあり画家の署名がある中で真筆は8点程らしい。

ヒエロニムス・ボスの祖父も父も3人の兄弟たちも全員画家だったが家族達の明確にわかっている作品は残っていない。唯一ボスの生誕地ス・ヘルトーヘン・ボス(s-Hertohenboch)の現大聖堂のフレスコ画の壁画がボスの祖父の物といわれている。

ヒエロニムス・ボスは子供のころから家族の元で修業時代を過ごしておりス・ヘルトーヘン・ボスは当時毛織物産業で賑わった豊かな街だった。資産家の娘と結婚し画家としての名声も手に入れ工房に弟子を持って作成をしていた。

ヒエロニムス・ボスは聖母マリア兄弟会という宗教団体に入っておりそこからの注文の仕事も有った。聖母マリア兄弟会は富裕層や社会的地位の高い人達の集まりだったようでボス本人も教養があり社会的地位が高かったと想像できる。作風からボスはキリスト教異端説や異色の画家説を唱える専門家もいるが敬虔なカトリック信者だったに違いないと私個人的に考えている。

<ヒエロニムス・ボスの葬儀が行われた大聖堂>

ヒエロニムス・ボスの葬儀が行われた教会
By Karrow, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3190262

1516年に画家ボスはス・ヘルトーヘン・ボスで亡くなりシント・ヤンス大聖堂の聖母マリア兄弟会の礼拝堂で葬儀が行われた。ボス夫妻に子供はいなかった。

ヒエロニムス・ボスの注文主とコレクター


スペイン国王フェリペ2世

ヒエロニムス・ボスの最も熱心なコレクターはスペイン国王フェリペ2世(1527年~1598年)で現在のプラド美術館やエル・エスコリアル修道院、パルド―宮殿に多くのボスの作品が展示されている。

<フェリペ2世ティチアーノ作>

フェリペ2世

フェリペ2世の手元に来るまで

だがフェリペ2世の時代既にボスは天国の住人だ。フェリペ2世の手元にヒエロニムス・ボスの絵が来るのを知るには少し歴史の知識が必要だ。

フェリペ2世のコレクションの一部はスペイン貴族ディエゴ・デ・ゲバラの持ち物だった。

ディオゴ・デ・ゲバラ
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ディエゴ・デ・ゲバラはスペインの貴族でネーデルランドで生涯の多くの時間を過ごし歴代の君主に仕えた人物。この時代ネーデルランドはスペインの領土だった。ディエゴ・デ・ゲバラはボスの作品を所蔵しており所蔵品の多くはディエゴ・デ・ゲバラの庶子フェリペ・デ・ゲバラに受け継がれた。フェリペ・デ・ゲバラは人文主義者で美術に造詣が有った人物らしい。その死後フェリペ2世が買い取った。

ヒエロニムス・ボスが活躍したネーデルランドはブルゴーニュ公国に含まれる。フランス東部のブルゴーニュ公国は羊毛産業で栄えフィリップ善良公の時代大変な先進地域だった。ネーデルランドを手に入れシャルル突進公の娘マリード・ブルゴーニュが後継者となる。

マリ―ドブルゴーニュ

マリー・ド・ブルゴーニュの結婚相手がハプスブルグ家のマクシミリアン1世。仲睦まじい2人の長男のフィリップ美公(1478~1506)はネーデルランドを統治する。

<マクシミリアン1世とマリ―ドブルゴーニュと家族>

カルロス5世の家族

フィリップ美公は後スペインの王女ファナ(別名狂女ファナ)と結婚する人物でスペインにやって来るなり傍若無人の振舞いの末何故か突然死している。麻疹にかかったとも暗殺されたとも言われている。

フィリップ美公

1504年フィリップ美公がヒエロニムス・ボスに「最後の審判」を注文して前金をボスが受け取っている事が判っているがこの祭壇画が完成したかどうかは不明だ。フィリップ美公の長男カルロス(1500~1558)は後に神聖ローマ帝国皇帝になるが幼い頃のカルロスの摂政マルガレーテ(1480~1530)はボスの「聖アントニウスの誘惑」を所蔵していたようだ。

マルガリータ大公妃
ce Musée municipal de Bourg-en-Bresse
Author Hugo Maertens

マルガレーテはフィリップ美公の妹でスペインの皇太子ホワン(イサベル女王とフェルナンド王の長男)と結婚するが半年で未亡人になり祖国へ戻り再婚。再び未亡人となり甥のカルロス(後のカルロス5世)の摂生をした人物。マルガレーテは義理母のイサベル女王と親交があり生涯にわたりお互い尊敬しあっていた。

これらのボスの作品の所持者たちはみんな敬虔なカトリック信者で禁欲的な人々だった。

 

ヒエロニムス・ボスの生きた時代背景

15世紀末のヨーロッパは戦争が多く病気が流行り世紀末感が漂っていた。オスマントルコがコンスタンティノープルを陥落させ人々は日々震撼とした中で生きていた。魔女や悪魔が信じられており魔女狩りや魔女裁判が行われていた頃だった。

終末観の中で人々はこの世の終わりや最後の審判を恐れていた、又はそれでも地獄を恐れず快楽的な生きかたをする人々を戒める必要があったのかもしれない。

<ヒエロニムス・ボス、最後の審判部分>

ボス、トゥヌクダルスの幻視部分
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スペイン王女ファナがブルゴーニュに嫁いだ時に「ブルゴーニュの民衆の享楽的な生活に驚いた」と記録がある。あまりにもひどいのでファナ王女とお連れたちは修道院に引っ越して暮らしている。

<スペイン女王ファナ1世、狂女ファナ>

スペインファナ王女
Johanna I van Castilië
ca. 1500; 34,7 x22,4 cm
Spaans Nationaal Beeldenmuseum, Valladolid

意外に思われるかもしれないが当時のスペインは宗教的で禁欲的な国民性でフランドルは快楽的だった。

<ヒエロニムス・ボス、聖アントニウスの誘惑部分>

ボス、聖アントニウスの誘惑
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終末観が漂う時代に人々の正しい生き方を問う書物が既に書かれていた、人々にそれを視覚的に訴える絵を描いたと考えても不自然ではないと思う。

ヒエロニムス・ボスが描く人間像


ボスが描く醜い人間

それにしてもヒエロニムス・ボスの作品は独特だ。特に人間の醜悪の表情の表現が極めている。神の威厳や崇高性より人間の醜さを多く表現している。同時代の全ての画家が神の栄光を描いていた時代だった。

<ヒエロニムス・ボス、受難>

ボスの絵
バレンシア美術館、筆者撮影

人間が持つ恐ろしさ、人の心の奥に潜む醜さが漂う。

<ヒエロニムス・ボス、受難>

ヒエロニムス・ボス
筆者撮影

まるで世の中で一番恐ろしいのは人間だと言わんばかりのグロテスクな表情。

<ヒエロニムス・ボス、受難>

ヒエロニムス・ボス
バレンシア美術館、筆者撮影

実はこれらの醜い人間たちは全て宗教画の中に出てくる。この作品は「受難」、イエス・キリストが十字架を背負ってゴルゴダの丘を登って行く周りにいる人間たちだ。左から右に移動しながら人々がひどい言葉を浴びせかけているのが聞こえてくるようだ。(このバレンシア美術館の受難は工房作と言われている)

<ヒエロニムス・ボス、受難>

ボス、キリストの磔刑
筆者撮影

ボスの描く愚かな人間と教訓的作品

手品師又はいかさま師

ヒエロニムス・ボスの描く人間には醜い人間と共に愚かな人々が多く登場する。

<ヒエロニムス・ボス、手品師1494年?1502年?工房説もあり>

ボス、手品師
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右側の赤い服の手品師はカップと真珠の手品を披露しようとしているところだ。すぐ下にいる犬は道化師の恰好をしていて男の腰にぶら下げた篭からフクロウが覗いている。フクロウは邪悪のシンボルだ。

<ヒエロニムス・ボス、手品師部分>

ボス、手品師
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向かえにいる間抜け顔の人物。よく見ると口の中から蛙が覗いており手品のテーブルにも蛙がいる。蛙は汚れや悪を象徴する又は騙される男の愚かさを象徴しているのだろう。

その周りの様々な階級の人間たちの視線はばらばらだ。

<ヒエロニムス・ボス、手品師部分>

ボス、手品師
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騙される男の後ろではメガネの男が腰にぶら下げた財布を盗もうとしている。

愚者の石の除去

<ヒエロニムス・ボス、愚者の石の除去1486年以降>

ボス、愚者の治療
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ヒエロニムス・ボスのこの作品はプラド美術館所蔵の小作品。愚者が頭が悪いのは石が詰まっているからでその石を取り除いてもらっている様子。これは実は当時の馴染のテーマで当時の娯楽に寸劇が上演されていたらしい。左側の男はニセ医者で頭に逆さに被った漏斗(ジョウゴ)は他のボスの作品にも出てくる。逆さの漏斗(ジョウゴ)は偽や倒錯を意味する。

<ヒエロニムス・ボス、愚者の石の除去部分>

ボス、愚者の石の除去
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ネーデルランドでは「頭の石を取り除く」は詐欺を働くという意味があるという。

これらの作品を見て思うのは今も昔も人間はあまり変わっていない。騙すワルや騙される間抜け、それに対する感じ方や考え方も500年前のヨーロッパも今の日本もそれほど違わない気がしている。

阿呆船又は愚者の船

「阿呆船」又は「愚者の船」と訳された下の作品は現在ルーブル美術館所蔵でトゥリプティクス=三連祭壇画の一部だった。

<ヒエロニムス・ボス、愚者の船 1510-15年頃>

ボス、愚者の船
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<ヒエロニムス・ボス阿呆船拡大図>

ボス、愚者の船
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10人の様々種類の人々が小舟に乗って彷徨っているが中央の修道士と音楽を奏でる修道女が上からぶら下がったパンを食べながら歌っている。

<ヒエロニムス・ボス、阿呆船部分>

ボス、愚者の船
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左下の方では船の外側の飲み物を取ろうとする男を女が壺で殴ろうとしているようだ。

<ヒエロニムス・ボス、阿呆船部分>

ヒエロニムス・ボス阿呆船部分
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上の帆では旗にイスラム教徒の三日月が見えその下に七面鳥が括りつけられているが男がそれをナイフで奪おうとしている。その下の怪しい男は1人で酒を飲んでいるようだ。(写真下)

<ヒエロニムス・ボス、阿呆船部分>

ボス、阿呆船
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文学に見る阿呆船

実はこのようなモチーフは15~16世紀の北方ヨーロッパの文学や絵画に散見されるようだ。人文主義者セバスティアン・ブラントの寓意詩「愚者の船(阿呆船)」を描いたのではないかという説がある。セバスティアン・ブラントの「愚者の船(阿呆船)」は1494年に発表された風刺小説。

<セバスティアン・ブラントの愚者の船>

愚者の楽園ナラゴニアに向かう愚か者たちの物語。ありとあらゆる階層の狂った人々が一隻の船に乗り合わせ阿呆国ナラゴニアを目指す。欲張りや無作法者や権力に固執する者など当時の教会の腐敗や権力者を風刺した物語。さらにその続編「阿呆女たちの船」がジョス・ド・バードによって書かれこれらの著作が作品の源であると考えられている。

<エラスムスの痴愚神礼賛>

1509年に執筆され1511年に初版が刊行された痴愚神礼賛はネーデルランド出身のデジデリウス・エラスムスがトーマスモアの客人としてロンドンにいた時に書いている。痴愚の女神が当時の人々の生活や聖職者の偽善を風刺した書物。

実は祭壇画だった

最近の研究でこの絵はトリプティクス=三連祭壇画で写真下の「快楽と大食いの寓意」「守銭奴の死」「放蕩息子」は同じ祭壇画を構成していたと考えられている。カトリックの<7つの大罪>と<4つの終わり>を現す祭壇画だった。

<ヒエロニムス・ボス、快楽と大食いの寓意>

ボス、大食の寓意
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中央にあった「カナの婚宴」は現存しておらず「快楽と大食の寓意」と「阿呆船」が左側、右側に「守銭奴の死」そして中央後ろに放蕩息子があったという説があるがいまだ研究者の間では決定的ではないようだ。

<ヒエロニムス・ボス、守銭奴の死>

ボス、守銭奴の死
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守銭奴の死はカトリックの7つの大罪のひとつ欲深さを描いたもの。異常な執着を持つ欲深い守銭奴が強欲に富を貯める様と死神がやって来た場面を描く。

 

<ヒエロニムス・ボス、放蕩息子>

ボス、放蕩息子
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ロッテルダムの美術館蔵の本作品は四角い中に円形の絵だった物が後年に4隅が切り取られ8角形になったと考えられている。ルカ福音書の「放蕩息子」と考える説と「放浪者」と呼ぶ研究者もいる。この絵はトリプティクス=三連祭壇画の後ろ側にあったと考えられている。

ヒエロニムス・ボスの卵と楽器と楽譜


ヒエロニムス・ボスの絵によく出てくるテーマに卵と楽器と楽譜がある。ボスの卵は何を象徴しているのだろう。生命の誕生や原点なんだろうか。またはもっと深い深い醜いドロッとした生々しい何かなのかもしれない。

ヒエロニムス・ボス・卵のコンサート

下の絵は卵のコンサート。1480年頃のボスの初期の作品で現在はフランスのリールの美術館所蔵。卵の中から修道士に導かれた異様な人々が楽譜を見ながら歌っている。

<ヒエロニムス・ボス、卵のコンサート>

ボス、卵のコンサート

左下には楽器を持った動物と修道士からお金が入った袋を盗もうとしている男。その右下には猿が笛を吹いている。左下は卵の下から手が出ていて焼き魚に手をかけているが魚を焼いていたのはなんと猫だ。

<ヒエロニムス・ボス、卵のコンサート部分>

ボス、卵のコンサート
wikiarte public domain

楽譜から生えている木には蛇が巻き付いている。歌っている人物の頭の上に建物とフクロウ。頭にジョウゴを被る男(他のボスの作品にも出てくる)、手前の人物はハープを弾いているようだが顔がゆがんでいるのは聞くも堪えない音なのか。いったいどんな歌を歌っているのだろう。

<ヒエロニムス・ボス、卵のコンサート部分>

ボス卵のコンサート
wikiatre public domain

実はこの楽譜の音楽は研究されていて15世紀の不敬な愛の歌、人々は神に祈らずに愛の歌を歌っている。卵の右下には紳士が裸の女性とテーブルを共にしている。

<ヒエロニムス・ボス、卵のコンサート部分>

ボス、卵のコンサート
wikiparte public domain

ヒエロニムス・ボス、最後の審判の卵

写真下のヒエロニムス・ボスの作品はウィーンの美術アカデミー付属美術館所蔵で1506年頃(諸説あり)の作品。左から右に物語が展開していく三連祭壇画。

<ヒエロニムス・ボス、最後の審判>

ボス、最後の審判
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最期の審判はカトリックの人生観で人生を終わる時に裁判が行われ天国か地獄に落とされる。卵は矢に刺されておりそこから生き物の頭と足が出ている。

<ヒエロニムス・ボス、最後の審判部分>

ボス、最後の審判の部分
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ヒエロニムス・ボス、聖アントニウスの誘惑の卵

<ヒエロニムス・ボス、聖アントニウスの誘惑>

ボス、聖アントニウスの誘惑
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このテーマはボスが描き続けた主題のひとつで3世紀のエジプトで裕福な家庭に生まれた聖アントニウスが財産を捨て荒野で修業を続けた。神に祈る聖アントニウスを悪魔たちがありとあらゆる方法で誘惑しようとする場面だ。11世紀に疫病が流行った時に聖アントニウスに祈ると救われるという奇跡が起こったそうでそれ以来病を治す聖人として崇められた。

この作品は三連祭壇画で左側に修行する聖アントニウスを空高く担ぎ上げ墜落させた。聖アントニウスを助けている赤い服の男性が画家ボス本人という説がある。

<ヒエロニムス・ボス、聖アントニウスの誘惑部分>

ボス、聖アントニウスの誘惑
public domain

その下に卵と鳥の様な生き物が描かれている。

<ヒエロニムス・ボス、聖アントニウスの誘惑部分>

ボス、聖アントニウスの誘惑
pubulic do

 

ヒエロニムス・ボス、トゥヌクダルスの幻視の卵

<ボス、トゥヌクダルスの幻視・ラザロ・ガルディアーノ美術館蔵>

ボス トンダロの幻視
museo lazaro gardiano

上の絵はトゥヌクダルスの幻視(マドリードのラザロ・ガルディアーノ美術館蔵)スペイン語ではトンダロの幻視=vision de Tondaloと呼ぶ。工房作と言われているが左上にやはり卵が描かれている。

<ボス、トゥヌクダルスの幻視部分>

ボス・トゥヌクダルスの幻視
public domain

卵から黒い煙が上っていて割れた卵の中に人がいる。

*トゥヌクダルス(トンダロ)の幻視は12世紀にアイルランドの修道士が1148~49年頃に執筆した物語。放蕩三昧の若き騎士トゥヌクダルスがある日友人の家に呼ばれ食事をしているときに意識不明になりあの世の淵を体験してとんでもない拷問を受けて改心した。今度は天使が彼を最高の天国がのぞける所に案内し肉体に戻って来た後その体験を口述したという内容。後にダンテの神曲に影響を与えたという物語。

<ボス、トゥルヌダルスの幻視部分>

ボス・トゥヌクダルスの幻視
public domain

<トゥヌスダルスの幻視ウィキペディアより一部抜粋>

トゥヌクダルスと天使が先へ進むと氷の張った湖の上に2本の脚、2つの翼、長い首、鉄のくちばし、鉄の蹄の火を噴く獣を見た。獣は魂を食べて胃袋で拷問したのち氷上に魂を産み落とした。・・・・

この物語に出てくる地獄の魔物たちはまさにボスの作品に出てくる生き物達だ。

ヒエロニムス・ボス、快楽の園の卵と楽器と楽譜

写真下はマドリードのプラド美術館にある快楽の園。ボス最晩年(1503~4年頃)の作品だ。スペイン国王フェリペ2世が晩年生活をしたエルエスコリアル修道院の寝室に置いて自分を戒めていた作品だ。この作品だけでも長い記事になりそうな興味深い生き物が沢山出てくる。

<ヒエロニムス・ボス、快楽の園>

ヒエロニムスボスの快楽の園
wikipedia public domain

左がエデンの園、中央が現生、右側が地獄と理解されているその地獄中にいる卵人間。

割れた卵の中が居酒屋になっている。振り返る男の顔がボス本人ではないかという説がある。

<ヒエロニムス・ボス、快楽の園部分>

ボス快楽の園一部
museo del prado

卵の下には音楽家たちと楽譜が出てくる。音楽は快楽への入り口、当時の音楽は教会の祈り以外は堕落した快楽への入り口。

<ヒエロニムス・ボス、快楽の園>

ボス、快楽の園の楽器
museo del prado

リュートの下の楽譜に描かれている音楽は悪魔の音程「トライトーン」だと言う。トライトーンは不協和音で気持ちが不安になる音程、当時教会はトライトーンを禁止していた。楽譜の隣の人物のお尻にまで楽譜があって鼻で笛を吹く生き物が演奏している、何とも不気味な光景だ。

ボスの卵とダリの卵

後のシュルレアリストたちに影響を与えたのがボスの作品だ。サルバドール・ダリの卵はおそらくボスの作品からの影響でダリの様々な作品に卵が出てくる。写真下はフィゲーラスのダリ劇場美術館の卵。

フィゲーラスのダリ劇場
筆者撮影

写真下はカダケスにあるダリの家美術館にある卵。

ダリの家の卵
筆者撮影

彼らを魅了した卵の魅力はその生命力なのか神秘なのか、又はもっとドロッとした隠微なイメージなのか。スーパーに並ぶ卵の無機質さとはかけ離れている。

ヒエロニムス・ボスが描く生き物たち


今まで見て来たようにボスの時代は地獄や悪魔や恐ろしい生き物が身近にいて伝説や物語が身近にあったに違いない。トゥヌクダルスの幻視の様な恐ろしい煉獄や地獄や拷問、阿呆船や痴愚神礼賛の様な面白い話が他にもあったに違いない。

<ヒエロニムス・ボス、快楽の園部分>

ボス・快楽の園部分
public domain

それにしても不思議な生き物たちを無数に描いたボスの果てしない想像力に驚愕する。

<ヒエロニムス・ボス、聖アントニウスの誘惑部分>

ボス、聖アントニウスの誘惑部分
public domain

今、目の前に真っ白い画用紙を渡されて一体何を描くことが出来るか、私たちの想像力は本来乏しいのだ。

ボス
pubulic domain

ヒエロニムス・ボスまとめ


500年も前の絵とは思えない興味深い作品を数々描いたボスだが画家のプライベートな事はあまりわかっていない。もっと多くの作品を残しているはずだが消失したのは残念だ。ひとつの作品だけでも読み解いていくと長い長い記事になるのでここでは画家の全体像を考察してみた。

マドリードのプラド美術館で快楽の園を中心とする10点の作品を見ることが出来る。快楽の園や聖アントニウスの誘惑などはそれぞれでひとつのテーマとして記事にしたいと思案中。

 

マドリード、ティッセン・ボルネミッサ美術館、主要作品と廻り方。マドリードで美術館三昧。

マドリードのティッセン・ボルネミッサ美術館は個人のコレクションだったとは思えない豊富な量と素晴らしい質を備えた美術館。マドリードのこの地区はプラド美術館とソフィア王妃芸術センターとティッセン・ボルネミッサ美術館で黄金の三角地帯を形成している。マドリードには大小合わせて90個の美術館・博物館がある中この3つの美術館は絶対外せないマドリードのアート・スポット。是非とも訪れてアートに浸ってみてください。今日はティッセン・ボルネミッサ美術館についてご紹介します。

 

ティッセン・ボルネミッサ美術館マドリード


ドイツの鉄鋼財閥ハインリッヒ・ティッセン・ボルネミッサ男爵とその息子のハンス・ハインリッヒ・ティッセン・ボルネミッサ男爵(どちらも故人)の2代にわたる個人のコレクションでプライベート・コレクションとしてはイギリスのエリザベス女王の物に次ぐ世界第2位のボリューム。古典絵画から近代絵画にいたる幅広いコレクションが特徴で13世紀から21世紀の8世紀にわたる西洋美術史をここで堪能することが出来る世界でも数少ない美術館です。

*毎週月曜日は12時から16時まで無料。12時に開館になり随分並んでいますが13時30くらいなら並ばずに入ることが可能です。本来の休館日にマスターカードの協力で無料で開放しています。

ビジャ・エルモサ宮殿

ティッセン・ボルネミッサ美術館の建物は元は19世紀の貴族のお屋敷ビジャ・エルモサ宮殿。その後一旦銀行家に購入されたが後にスペイン政府に売却されプラド美術館の管轄になり特別展などに使われていた。

<マドリード、ティッセン・ボルネミッサ美術館入り口>

ティッセン美術館
筆者撮影

その後ティッセン・ボルネミッサ・コレクションのスペイン政府へ誘致の話の折にこの建物を提供することでティッセン男爵と交渉がまとまる。ティッセン側は同時にヨーロッパの他の都市とも交渉しており特にロンドンは有力候補地だったが展示場のロケーションではマドリードが断然有利、中心部でプラド美術館の至近距離でありエレガントな建築物を提供で決定に至った。

建物の改装はスペイン人建築家ラファエル・モネオ氏によって1990年3月に行われ1992年700点のティッセン男爵のコレクションが運ばれた。その後1993年にスペイン文科省にティッセン・コレクションは売却された。ハンスハインリッヒ氏は5度の結婚をしておりこれらの絵画や財産の遺産相続で揉めていた。彼と父親のコレクションがバラバラにならないようにというティッセン男爵の願いで売却にいたる。

<マドリード、ティッセン・ボルネミッサ美術館入り口>

ティッセン美術館
筆者撮影

敷地内に入りカフェテリアとブックショップ、入ってすぐのサロンまでは入場券なしで入れます。ブック・ショップは楽しいものがいっぱいありムージアム・ショップとしてはレベルが高い。スカーフやネクタイ、文房具品や食器、アクセサリー等素敵なお土産が見つかる。(写真下)

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ショップ>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

ティッセン・ボルネミッサ美術館内部

*写真撮影可能(フラッシュ無し)で手荷物検査も無しです

*日本語のオーディオガイドが出来ました。5ユーロで簡単な説明ですが50点の作品を説明を聞きながら回ると事が出来ます。

 

切符を買うとこの大きなホールを進んでいく(写真下)。ここまでは切符が無くても入れます。広々したホールはスペイン人建築家ラファエル・モネオ氏の改築。

<マドリード、ティッセン・ボルネミッサ美術館内ホール>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

少し先の右側に切符の検査が有るのでそこで購入した切符を見せるとエレベーターで2階へ上がりましょう。建物は3階建てで0階1階2階となります。時代順に上から下へ展示されていますので古いものから順にみていくとヨーロッパの美術史全体を把握できます。20世紀美術にいきなり行く場合は切符の検査ある地上階フロア―に展示されています。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館エレベーター>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

 

2階から=イタリア、プリミティブ絵画

ティッセン・ボルネミッサ美術館は時代ごとに展示されているので2階から1階そして0階と順番に見ていくと13世紀から現代にいたるヨーロッパの美術史を時代を追って鑑賞できる。最初の部屋はイタリアのプリミティブ絵画、13世紀の聖母像や未だ遠近法を知らなかった時代の素朴な作品が展示されている。

下の作品は板絵。1290年頃のフィレンツェの教会の物。教会建築がロマネスクからゴシックに移行した頃にこういう板絵が描かれるようになった。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館イタリア13世紀>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

中世の世界は全て神様によって支配されていた頃の教会の祭壇画。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館イタリア13世紀>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

 

ドイツの中世絵画

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ドイツ中世>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)ドイツの中世の画家の作品でイエスキリストの弟子達が当時の普通の家の中で書き物をしていたり奇跡が起こったり、家の中の道具やテーブルなどが丁寧に描かれている。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ドイツ中世>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)ドイツ中世絵画の聖人シリーズの一枚。聖マルコが福音書を書いているところ。無心に書いている感じが伝わる。部屋にある家具や置物が当時のドイツで家庭にあったのかと思わせる。

フランドル絵画

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ヤン・ファン・アイク>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

ヤン・ファン・アイクの受胎告知。小さな作品ですがティッセンボルネミッサ美術館のコレクションの最高の物のひとつ(私個人的に一番好きな作品です)。グリザイユで丁寧に描かれた彫刻の影と布地の量感等が素晴らしい。絵のサイズが解るように部屋の全体像も入れてみました。ヤン・ファン・アイクは顔料に少し油を混ぜた最初の画家で色に透明感を手に入れた初めての画家。柵も無く絵に近づけるので近くで鑑賞できる。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館フランドル>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

こんなに小さな作品でこっそり隠して持って帰れそうなくらいです。この辺りは同時代のフランドル絵画が展示されています。

ルネッサンス

ドメニコ・ギルランダイオの「ジョバンナ・トルナブオーニの肖像」はティッセン美術館で一番有名な作品。ここからルネッサンスに入り人間が描かれるようになった。ギルランダイオは15世紀後半にフィレンツェで活躍した画家でミケランジェロの師匠にあたる。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ネッサンス>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)板にテンペラ画、横顔の肖像画としては最高に美しい宝石といえる作品で衣装の豪華さや宝石等輝いている絵画。ジョバンナトルナブオーニはフィレンツェのメディチ家のロレンツォ・デ・トルナブオーニと結婚。この絵はジョバンナトルナブオーニが亡くなった後注文されたもの。後ろの背景に聖書とサンゴのロザリオが描かれ信仰をほのめかしている。

 

(下)ホルバインのヘンリー8世イギリス王。次々と妻を取り替え処刑したりロンドン塔へ送ったイギリス王。最初の結婚はイサベル女王の娘カタリーナ。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館>

ティッセンボルネミッサ
筆者撮影

皮肉にもヘンリー8世の隣にカタリーナの肖像画が置いてある。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

カタリーナ・デ・アラゴンはスペインのイサベル女王の娘で切望されイギリス王に嫁ぐが侍女のアン・ブリンが気に入ったヘンリー8世により離婚される。離婚が許されないカトリックでローマ法王からヘンリー8世は破門され英国国教会が作られた。カタリーナは最後までプライドを保ち凛々しく過ごした。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ラファエル>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

ラファエルの描いた少年。沢山の作品の中でも目を引く綺麗な絵でティッセン男爵個人の審美眼がうかがえる。こちらを振り返ったばかりの視線、髪の巻き毛も美しい。小さな作品なのですぐ近くで画家の筆のタッチまで見ることが出来ます。

ベネチア絵画

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ベネチア>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

ここはエル・グレコとベネチア絵画。エルグレコはベネチアで絵を修行した。初期の受胎告知と晩年の物が並べておいてあるので作風の変化が良くわかる。

スペイン17世紀絵画

ジュゼップ・デ・リベラのキリストの埋葬。晩年の作品でタッチが柔らかくぼかした技法。聖母の悲しむ表情、明暗法とドラマチックな場面がカラバッジオを思わせる。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館リベラ>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

 

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館スルバラン>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)フランシスコ・デ・スルバランの聖女シリーズの一枚で聖カシルダ。スペインの17世紀の巨匠のひとりスルバランは美しい聖女を等身大で何枚も描いている。

 

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館カラバッジオ>

ティッセンボルネミッサ美術館
By ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ – The Yorck Project: 10.000 Meisterwerke der Malerei. DVD-ROM, 2002. ISBN 3936122202. Distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=148804

カラバッジョのサンタ・カタリーナ2019年修復が終わったばかりの作品。聖女がふっと振り向いたばかりのドキッとする様な視線、豪華な衣装と膝のクッションに位の高い人物である事がわかる。車輪は聖女の殉教に使われた道具。

オランダのバロック期レンブラント

オランダの画家レンブラントの自画像。オランダ絵画の黄金期に活躍したレンブラントの1642年頃の作品なので有名な「夜警」が描かれた同時代の作品。レンブラントは他に例を見ない程の自画像を描いている。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館レンブラント>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

この頃は裕福だったレンブラントだが彼は晩年財政難この絵の約15年後には自宅を売却することになる。

 

1階はオランダ絵画から印象派等

<マドリード、ティッセン・ボルネミッサ美術館オランダ風俗画>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

16世紀頃のオランダ絵画は楽しいものが多い。当時の民衆の生活や居酒屋、楽器も持った人々や子供達等が生き生きと描かれている。この時代スペインではキリスト教の厳格な絵画しか描かれていなかった宗教改革の真っただ中、対抗宗教改革が行われ魔女裁判や異端審問所が活躍していた。オランダでは裕福な商人たちによって民衆の生活の様子の作品の注文が有った。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館オランダ風俗画>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

ダビッドテニエルの風俗画の部分を拡大。居酒屋で集まる庶民の話声が聞こえてくる。オランダの作品は楽しい。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館オランダ風俗画>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)ヤン・スティーン、田舎の結婚式の部分を拡大。楽器を持った人が演奏していて楽しそう。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館オランダ風俗画>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)ダビッド・テニエールの田舎のお祭りの部分。酔っ払いが倒れていて介抱している人やヤレヤレと話している人や騒々しいお祭りの雰囲気が伝わって来る楽しい作品。

フランス絵画から印象派へ

印象派は人気がありこの美術館でも鑑賞する人が多いコーナー。エドゥアルド・マネ、ビンセント・バン・ゴッホ、トゥールーズ・ロートレック、クロード・モネ、エドガー・ドガ等豊富に楽しめる。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館マネ>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮

(上)エドゥアルド・マネの亡くなる前年の作品で「正面からのアマソナ」

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ロートレック>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)ロートレックの男性

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ドガ踊り子>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)ドガの踊り子、くるくる回っている美しいバレリーナ。いつも人でいっぱいです。

 

地上階0階

地上階に降りると20世紀のコレクションが納められています。ピカソやブラックのキュービズムからアンディーウォーホールやロスコ―等の現代絵画が展示されています。

キュービズムを同時にブラックとピカソが始めた。ほぼ同時期に楽器を持つ人物をブラックとピカソが描いている2枚が隣同士に並んでいる。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館キュービズム>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ブラック>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)キュービズムで描かれたブラックのマンドリンを弾く女性。マンドリンを弾く手が動いているのが見える。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ピカソ>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)同じころにピカソがキュービズムで描いたクラリネットを弾く男。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ミロ>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)ミロの構造という名の作品、ブルーが綺麗でした。説明不可能。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館ピカソ>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)ピカソの鏡を見る道化師。1923年の作品。

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

(上)マルク・シャガールの鶏。シャガールはユダヤ系ロシア人の画家で後にフランス国籍を取得。一旦故郷へ戻った後にパリで描いた作品。随分毒舌家で知られた人物だが作品はメルヘンで可愛い。

アメリカ現代絵画

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

<マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館>

ティッセンボルネミッサ美術館
筆者撮影

マーク・ロスコ―の無題。ロスコーはユダヤ系ロシア人でアメリカで活躍した。ロスコーはアメリカ現代絵画の画家、フロイトやユングに没頭し無意識の世界に興味を持っていた画家。大きな作品の前で深いロスコーの色を見つめていると瞑想の世界へ連れていかれる様な錯覚を覚える。66歳で私生活の問題や病気で悩み自殺している。

近代絵画は殆どが息子のティッセン男爵のコレクション。拡張部分に妻のカルメンティッセンのコレクションも展示されている。

マドリード、ティッセンボルネミッサ美術館を動画でご案内します。

行き方

地下鉄:5号線バンコデエスパーニャから徒歩10分又は2号線セビージャから徒歩10分

バス:マドリードの街を縦に走るカステジャーナ通りからの場合14番27番のバスが直ぐ近くに止まります。

プラド美術館斜め前:ネプチューンの噴水をはさんで斜迎え側。

 

ティッセンボルネミッサ美術館・開館時間や値段

住所:Paseo del Prado 8

常設展:火曜日から日曜日  10時から19時

値段:12ユーロ オーディオガイド:5ユーロ

美術館共通チケット「パセオデルアルテカード」29ユーロ60セント。プラド美術館、ソフィア王妃芸術センター、ティッセンボルネミッサ美術館の共通切符

毎週月曜日 12時から16時まで無料

毎週土曜日:特別展時間延長10時から21時

休館日:1月1日、5月1日、12月25日

 

*ティッセンボルネミッサ美術館公式ページです。特別展などはこちらから調べてください。

https://www.museothyssen.org/

プラド美術館の廻り方。エルグレコ、ベラスケス、ゴヤ、ベネチア絵画等 無駄なく回る地図付き解説。  

最後に


ティッセン・ボルネミッサ美術館は個人のコレクションとは思えない程の作品の質と量で約800年にわたるヨーロッパの美術史を楽しめる美術館です。この記事では筆者の個人的な好みで作品を紹介しましたが素晴らしい作品がまだまだ沢山有ります。月曜日は無料なので私はなるべくその時のお邪魔しています。絵画好きにはたまらない素晴らしい作品をすぐそこまで近づいて鑑賞できる美術館で写真も撮れるのが有りがたいです。マドリードで時間があればプラド美術館からすぐ近くなので是非とも楽しんでください。

個人のコレクションとは思えない質と量、もちろん財力は当然ですがティッセン男爵の絵画に対する愛情が感じられるコレクションです。

 

ベラスケスの作品と生涯。斜陽のスペイン・ハプスブルグの歴史をベラスケスの絵画で説明

 

ベラスケスは17世紀にスペインで活躍した画家。本名は「ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス」。スペイン国王フェリペ4世に仕え生涯王の為に絵を描いた。時代は斜陽のスペイン帝国。プラド美術館の巨匠達の中でも格別の扱いの画家である。17世紀に同時にスペインで多くの天才画家たちが登場している。

この時代をスペイン黄金世紀と呼ぶ。スルバラン、リベラ、ムリーリョ等天才的な画家たちが同時期に活躍した時代で多くの作品をプラド美術館で鑑賞できる。その中でもベラスケスはスペイン国王フェリペ4世に寵愛され24歳で国王付の画家になり並外れた成功を手にした画家。ベラスケスの生涯と作品を見ながら斜陽のスペインの歴史をハプスブルグの終焉迄見ていきます。

 

ディエゴ・デ・ベラスケス


ベラスケスはスペイン国王フェリペ4世に24歳で気に入られ生涯宮廷画家として活躍した。ベラスケスが生まれた1599年トレドでエル・グレコは晩年を過ごしていた。ベラスケスは絵画だけでなく宮廷の様々の仕事を受け持ちその人格も高貴で国王に信頼された。王家の結婚式の準備なども取り仕切り時間を割かれた為絵画作品数は非常に少なく長い間海外では知られていなかった。

 

セビージャで誕生

生まれは南スペインのセビージャ、当時のセビージャは大航海時代の船が入り人が集まる大都会だった。スルバランやムリーリョも同じ時代にコスモポリタンの街セビージャで活躍した。1599年6月6日にセビージャでベラスケスが洗礼を受けていることが分かっている。ベラスケスというのは母方の姓でアンダルシアでは母方の姓を名乗ることが多かったようだ。7人兄弟の長男として生まれ貴族の血を引く家系だったが格別裕福というわけでは無かったようだ。

<ベラスケスが生まれた頃のセビージャ>

16世紀のセビージャ
De atribuido a Alonso Sánchez Coello – [2], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1713560
新大陸からの富を積んだ船が入港するセビージャは当時のスペインで最も豊かな街で芸術も栄えていた。人が集まりインフレも激しく野望を持ったいかさま師や一攫千金を狙った詐欺師達が集まる混乱した大都会だった。

師匠フランシスコ・パチェーコ

1611年9月(12歳)にセビージャの画家フランシスコ・パチェーコに弟子入りしている契約書が残る。様々な事に才能を見せた息子に絵の才能を見抜いた両親が選んだ師匠だ。

パチェーコは画家で教養人で詩人で彼の家には芸術家や学者が集まるサロンのような場所になっており知的な雰囲気に溢れていた。そのためベラスケスも若いころから様々な事に興味を持つ人物に育つ。ベラスケスが幸運だったのは師であるパチェーコが弟子の優秀さを公然と認める心の広さを持った人物だったことだ。

<フランシスコ・パチェコ、ベラスケス1620、プラド美術館>

ベラスケスの描いたパチェコ
De Diego Velázquez – [2], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15587626
師匠の資格と結婚

1617年3月14日(18歳)ベラスケスは資格審査を受け当時の画家の最高位「宗教画の師匠」と認められ独立する。(絵画の師匠も資格制だった)

(下)ベラスケス初期(1618年19歳)の作品で無原罪の御宿り。ベラスケスが画家組合の親方に登録されておそらく初めての公的な仕事。無原罪の御宿りは「聖母マリアが母の胎内に宿ったときに既に原罪を免れていた」と言うカトリックの教義。対抗宗教改革の時代にスペインで好まれて多くの画家達が描いた。マリアのモデルはベラスケスが後に結婚するファナ。師匠パチェーコの娘。

<無原罪の御宿り1618年ベラスケス、ロンドン・ナショナルギャラリー>

ベラスケス無原罪の御宿り
Full title: The Immaculate Conception
Artist: Diego Velazquez
Date made: 1618-19
Source: http://www.nationalgalleryimages.co.uk/
Contact: picture.library@nationalgallery.co.uk
Copyright © The National Gallery, London

ベラスケスの師匠パチェーコは「絵画芸術論」を記した人物で宗教画の様々な規定をまとめた。「絵画芸術論」が出版されるのはパチェーコ没後だが師匠から様々な絵画論を聞いていたであろうベラスケスは師の規定に忠実にこの作品を描いている。”無原罪の御宿りのマリアは12-3歳の少女の姿で両手は胸の前で祈りの形をして、マリアの乗る純潔をあらわす三日月は下を向くべきである”とされた。

(下)又同じころに描いた風俗画。そこに描かれる手前のボデゴン(静物画)は見事な素材感。手前のお皿やナイフ、陶器の入れ物等が素晴らしい。

<卵を料理する老婆と少年、ベラスケス1618年、スコットランド国立美術館>

ベラスケス
De Diego Velázquez – Google Art Project: Home – pic Maximum resolution., Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=19980800

約1年後に師匠パチェーコの娘ファナと結婚。花嫁16歳ベラスケス19歳。2人の間に1619年に長女フランシスカ、1621年に次女イグナシアが生まれているが次女は夭折している。おそらくベラスケスの次に紹介する作品「東方三賢者の礼拝」の聖母が妻ファナで赤子キリストが長女フランシスカ、手前のひざまつく男性がベラスケス本人。画家20歳頃の作品でプラド美術館にある。

<ベラスケス、東方三賢者の礼拝、1619年、プラド美術館>

ベラスケス東方3賢者の礼拝

Adoración de los Reyes Magos
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)イエス・キリストの誕生を祝って東方の三賢者がベツレヘムの馬小屋で礼拝をするという聖書の場面。ベラスケスはこの頃既にセビージャでは有名な画家になっていた。

ボデゴンの画家

ベラスケスは初めボデゴン(静物画)で名を成している。下の作品は21歳のベラスケスが描いた当時のセビージャの日常の様子で「セビージャの水売り」。手前の大きな壺の透明な水滴が落ちていく様子が素晴らしい。交易の船が出入りしたセビージャは国際都市で北方で好まれた民衆の生活の絵を若いベラスケスは描いていた。

<セビージャの水売り、1620年ロンドン・ウェリントン美術館>

ベラスケス、セビージャの水売り
De Diego Velázquez – Apsley House Collection., Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=45378708
マドリード

1622年にベラスケスはマドリードを訪れエル・エスコリアル修道院で王家のコレクションに触れている。国王の肖像画を描ける機会を狙っての上京だったがその目的は果たせずセビージャへ帰った。ところがマドリード滞在時に描いたルイス・デ・ゴンゴラという詩人の肖像画が素晴らしい出来で後に「オリバーレス公・伯爵」によって再びマドリードに呼び戻されることになった。

<ルイス・デ・ゴンゴラ、模写、プラド美術館>

ベラスケス、ルイスデゴンゴラ
Luis de Góngora
ANÓNIMO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

上記作品「詩人ルイス・デ・ゴンゴラ」のベラスケスの本物は現在ボストン美術館にある。プラド美術館で現在見れる作品は模写。ベラスケスはマドリードに移動後の作品は肖像画が主流になりボデゴン(静物画)は描いていない。画風もティチアーノの影響がみられる軽いタッチに変わって行く。

オリバーレス伯爵

オリーバーレス公・伯爵(ドン・ガスパール・デ・グスマン)はセビージャ出身で当時の王の宰相を務め事実上の権力者だった。同郷の人物を引き立てることは当時からよくあったことでベラスケスはオリバーレス伯爵によって1623年にマドリードに呼び戻された。国王フェリペ4世の肖像画(消失)を描き王に気に入られ宮廷画家となる。オリ―バレス伯爵は約30年間フェリペ4世の後ろで権力をふるい斜陽のスペインにかつての栄光を取り戻そうとした。

<オリバーレス伯爵、ベラスケス1634年頃、プラド美術館>

ヴェラスケス、オリバーレス伯爵

Gaspar de Guzmán, conde-duque de Olivares, a caballo
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)この作品は35歳のベラスケスがオリバーレス伯爵を描いたもの。見上げる程の巨大な作品で前足を上げた馬に乗り振り返るオリーバーレス伯爵の大胆な構図。後ろ目に振り返る目にオリーバーレスの尊大な雰囲気がうかがえる。遠景の雲や空気のの層の描き方のタッチは後に「ベラスケーニョ」「ベラスケス風」と呼ばれる。

宮廷画家の名誉と王宮営繕監督という仕事

ベラスケスは24歳で国王の寵愛を受けそれ以来宮廷画家として絵を描くことになる。国王フェリペ4世はベラスケスの6つ年下だったが時間があると画家のアトリエを訪れ制作を眺めていた。ほかの画家の嫉妬を買い中傷を受けるベラスケスの為国王は他の3人の画家とベラスケスに「モリスコの追放」という作品を同時に描かせて競争させた。結果はベラスケスの勝利だったがこの作品は残念ながら1734年のマドリードのアルカサールの火災で焼失している。国王は気に入ったベラスケスに様々な肩書を与え色々な仕事をさせた為忙殺な日々の中ベラスケスが絵に費やせる時間は限られていった。

<フェリペ4世、ベラスケス1626-28年、プラド美術館>

ベラスケス、フェリペ4世

Felipe IV
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado
ルーベンスの来西

1628年にフランドルのピーター・ポール・ルーベンスが外交官の仕事でマドリードを訪れた。約9か月間の滞在でスペイン王家の肖像画を描きベラスケスとも親交を結んでいる。

(下)ルーベンスがマドリード滞在中にティチアーノの作品を模写した物が今もプラド美術館に残る。

<アダムとイブ、ルーベンス1628-29年、プラド美術館>

ルーベンス、プラド美術館
By ピーテル・パウル・ルーベンス – 1. The Yorck Project: 10.000 Meisterwerke der Malerei. DVD-ROM, 2002. ISBN 3936122202. Distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH., [1]2. Museo del Prado, Madrid, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=158489
ベラスケスとルーベンスはエル・エスコリアル修道院に2人で何度も通い王立コレクションに触れている。特にティチアーノを鑑賞していたベラスケスは是非ともイタリアへ行きたいと考えるようになりルーベンスと共にイタリアへ旅行する計画を立てた。しかしルーベンスはアント―ワープへ帰還することになり翌年ベラスケスは1人でイタリアへ旅行する。

1度目のイタリア旅行

ベラスケスの希望が叶えられ1629年8月にイタリアへ旅立つ。バルセロナからジェノバ、ベネチア経由でフェラーラを通りローマへ到着。ローマで1年程滞在した後当時はスペイン領だったナポリへ渡る。その頃ナポリではスペイン人の画家「ホセ・デ・リベラ」が活躍していた。リベラはベラスケスより8歳年上で既にナポリで成功して数々の聖人や哲学者などを描いている。下の絵はベラスケスがナポリへ行った頃のリベラの作品。ベラスケスとリベラは逢って話をしたのだろうか。仲間や同郷人が大好きなスペイン人同士肩を抱き合って話をしたに違いないと思っている。

<リベラ、デモクリトス1629-31年、プラド美術館>

リベラ、デモクリト

Demócrito
RIBERA, JOSÉ DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

ベラスケスは1631年1月にはマドリードに戻っている。イタリア旅行中に多くの模写などをしている作品は散逸しているが「ヨセフの長衣を受けるヤコブ」(エル・エスコリアル修道院蔵)と「ウルカヌスの鍛冶場」(プラド美術館蔵)は今もスペインで鑑賞することが出来る2枚。

<ウルカヌスの鍛冶場、ベラスケス1630年、プラド美術館>

ベラスケス、プラド美術館

La fragua de Vulcano
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)ベラスケスの神話画「ウルカヌスの鍛冶屋」、妻のビーナスの浮気の話を伝えにアポロンが降りて来た、「えっ」と驚いた顔のウルカヌスの表情が面白い。鍛冶屋で働く男たちの筋肉の描写、道具の素材感等が美しい。

<メディチ家別荘、1630?ベラスケス、プラド美術館>

ベラスケス、プラド美術館
Vista del jardín de la Villa Medici en Roma
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)ローマのメディチ家別荘を描いたもので2点並んで展示されている両手で持てそうな位の小さな作品。描いた時期についてはまだ議論されていて2度目のイタリア旅行時(1650年頃)という説も捨てがたい。絵の完成度やタッチ等が印象派の絵のよう。移り行く時、太陽の光の動きを意識して描かれている。

 

 

フェリペ4世と斜陽のスペイン


国王フェリペ4世

国王フェリペ4世はベラスケスが不在の間は他の画家に肖像画を描かせなかったらしくイタリア旅行から戻ったベラスケスに早速注文した作品。

<銀と茶の衣装のフェリペ4世、ベラスケス1631-32年、ロンドン・ナショナルギャラリー>

ベラスケス、フェリペ4世
De Diego Velázquez – [1], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9555111

「銀と茶の衣装のフェリペ4世」はフェリペ4世国王27歳頃、しかし描かれた年代に関しては1635年説もある。絵のタッチにイタリア旅行で鑑賞して来たベネチアの巨匠の影響がみられる。

<狩猟の姿のフェリペ4世、ベラスケス1632-34年、プラド美術館>

ベラスケス、フェリペ4世
Dominio públicoocultar términos
File:Diego Rodríguez Velázquez – Felipe IV, cazador (Prado, Madrid).jpg

狩猟姿のフェリペ4世は国王と示すものを何も描かずこちらを向く王の内面や威厳を描きだしている。

芸術愛好家のフェリペ4世の治世

16歳でスペイン国王に即位したフェリペ4世は並外れて芸術を愛好した。絵画だけでなく演劇をこよなく愛した王だった。この時代にスペインの劇作家が多く登場したのはフェリペ4世が新しい芝居を求めたからでカルデロンやローペ・デ・ベガ等が登場している。芝居に夢中になり快楽の中で生きた王だが当時のスペインは30年戦争(1618-48)で壊滅的な状態だった。広大な領土は維持しながらもウエストファリア条約でオランダの支配権を失いポルトガルは独立しカタルーニャは反乱を起こした。経済はズタズタで救いようがない状態で税金を上げれば民衆は苦しみ農業生産は低下し国民は農民も貴族も翻弄されていた。政治はオリバーレス伯爵の私利私欲の道具にされ国王にとって政治は退屈だった。芸術以外に興味があったのは狩りでフェリペ4世はすぐれた馬術家で12時間馬上にいる事もいとわなかった。

 

ブエン・レティーロ宮の建設

国の斜陽を横目にマドリードでは眩いばかりの催しが行われ新しい宮殿の建設が始まった。建築内部を飾る為12点の戦勝を記念する作品が描かれることになった。今もプラド美術館の近くにこの建物の一部と広大な公園が残る。

<ブエンレティーロ宮殿、1637年>

ブエンレティーロ宮殿
De atribuido a Jusepe Leonardo – investigart.wordpress.com, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3014571

(下)ブエンレティーロ宮殿を飾る為に描かれた作品

<ブレダの開城、1634-35ベラスケス、プラド美術館>

ベラスケス、槍

Las lanzas o La rendición de Breda
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

オランダの街ブレダは30年戦争で10か月の包囲の後スペイン側に落ちた。中央部右側がスペイン側の指揮官スピノラ。寛大な降伏条件だった戦争でスペインの指揮官の表情や態度に温情感が読み取れる。実はこの絵が描かれた2年後にオランダはブレダを奪回している。

この時に同郷の画家スルバランをベラスケスは王に紹介しマドリードへ呼び寄せている。スルバランはベラスケスより一歳年上で同じセビージャ出身だった。スペイン人は同郷人が好きなのだ。スルバランがこの時にブエン・レティーロ宮殿の為に描いた作品が今もプラド美術館に残る。

<スルバラン1634年カディス防衛、プラド美術館>

スルバラン
museo del Prado

これらの勝利の場面ばかりを大きなサロンに飾ったさまは荘厳だったに違いないが現実のスペインは敗北と斜陽の時代だった。スルバランは他にも神話画「ヘラクレスの偉業」を描いていてプラド美術館で見ることが出来る。スルバランの作品は実は評価は高くなくこの後失意の中セビージャへ戻っている。

フェリペ4世の2回の結婚

フェリペ4世は2度結婚している。王家の結婚は全て政略結婚、王の重要な仕事は世継ぎを残す事だ。最初の妻はフランスの王女イサベル・デ・ブルボン、フランス王アンリ4世とメディチ家のマリード・メ・ディシスの長女。伝統的に戦争ばかりしていたスペインとフランスの間で行われた政治同盟の一環でブルボンからの妻を迎えた。

<イサベル・デ・ブルボン、ベラスケス1635年、プラド美術館>

ベラスケス、イサベル・デ・ブルボン
De Diego Velázquez – See below., Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15587965

これらはブエン・レティーロ宮殿の諸王の間を飾る為の作品。衣装の金糸の素材感が素晴らしい。王と王妃の大きな騎馬像画の間に大事なバルタサール・カルロス皇太子の肖像画が置かれた。

<バルタサール・カルロス皇太子、ベラスケス1635年、プラド美術館>

ベラスケス、バルタサールカルロス皇太子
museo del prado
wikipedia public domain

(上)この絵はベラスケスが描いたバルタサール・カルロス皇太子6歳の時の騎馬像。大切な世継ぎの絵を大きな部屋の中央上の方に飾り訪れた人々が見上げる様に描いた。描かれた約10年後にカルロス皇太子は突然17歳で早世。子供の時に決められた婚約者はオーストリア・ハプスブルグ家のマリアナ・デ・アウストリアだった。マリアナの母はフェリペ4世の妹マリア・アナなのでいとこ同士の結婚の予定だった。

<マリアーナ・デ・アウストリア、ベラスケス1652年、プラド美術館>

ベラスケス、マリアーナ・デ・アウストリア
By ディエゴ・ベラスケス – The Yorck Project: 10.000 Meisterwerke der Malerei. DVD-ROM, 2002. ISBN 3936122202. Distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=159947

大切な世継ぎである息子が亡くなってしまったフェリペ4世は息子の婚約者と結婚する事となる。大事な世継ぎがいないのである。妹の子供なので叔父と姪の結婚。ハプスブルグは「ベッドで帝国を築いた」と言われるがスペイン・ハプスブルグは親類同士の結婚で崩壊していく。フェリペ4世とマリアーナの間に生まれた長女が下の絵のマルガリータ王女。ベラスケスはマルガリータ王女を子供のころから何点も描いている。

<マルガリータ王女、ベラスケスと工房1655年、ルーブル美術館>

ベラスケス、マルガリータ王女
Web Gallery of Art: Inkscape.svg Image Information icon.svg Info about artwork
wikipedia public domain

これらのベラスケスが描いたマルガリータ王女の作品はせっせとウィーンに見合用に送られていく。マルガリータの嫁ぎ先は生まれた時からオーストリアと決まっておりオールトリア皇帝レオポルド1世に嫁ぐ。嫁入り道具に少しでも故郷の物をと母が持たせたものにスペインの馬術が有った。馬が躍るスペイン馬術学校がウイーンに今も有るのはマルガリータ王女の嫁入り道具のひとつだった。

<青い服のマルガリータ、ベラスケス1659年、ウィーン美術史美術館>

ベラスケス、青い服のマルガリータ
De Diego Velázquez – pAHSoRgE1VSx2w en el Instituto Cultural de Google resolución máxima, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=22003519
王の愛人

国王フェリペ4世には数えきれない程の愛人がおり庶子も30人を超えた。にも拘らずまともな世継ぎを残せなかったのは悲劇だ。その中でお気に入りは女優のマリア・カルデロ―ナだった。ふたりの間に息子も生まれており後にスペインの宰相になる。

<フェリペ4世の愛人、ラ・カルデローナ>

カルデローナ
De Sparganum – Trabajo propio, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7150433

 

ベラスケス1648年再びイタリアへ

ベラスケスの今度の旅はローマ法王イノケンティウス10世への特命大使として派遣された。絵画と彫刻作品の購入の仕事を賜り20年後2度目のイタリアへ旅立つ。その時にイタリアから持ち帰ったものが今もマドリード王宮に置かれている

国王フェリペ4世からの帰国の催促が度々あったが約2年半ベラスケスはイタリアに長居した。理由のひとつはマルタという名の未亡人がベラスケスの庶子を宿していた。その子はアントニオと名付けられた事以外はあまりわかっていない。実はベラスケスはその後1657年にもう一度イタリア旅行を国王に願い出ているが王に拒否されている。

<イノケンティウス10世、1650年ベラスケス、ローマ・ドーリア・パンフィーリ美術館>

 

ベラスケス、イノケンティウス10世
By 不明 – 不明, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=38007

(上)キリスト教世界のトップローマ法王は権謀術数の中生き抜く大変な職業だった。こちらを見つめ返す目に人を見透かすようなイノケンティウス10世の内面が良く表れている。ティチアーノを称賛していたベラスケスはおそらくティチアーノのパウルス3世を意識してこの絵を描いた。

<ティチアーノ、パウルス3世、ナポリ・カーポ・ディ・モンティ国立美術館>

パウルス3世
wikipedia public domain

 

<鏡を見るビーナス、1648年頃ベラスケス、ロンドン・ナショナル・ギャラリー>

ベラスケス
By ディエゴ・ベラスケス – Key facts. The National Gallery, London. Retrieved on 25 June 2013., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=984326

(上)ベラスケスの珍しい裸体画。当時のスペインは厳しいカトリックの体制の中ほとんどの画家が裸体画を描いていない、と公式では言われているが実は上流階級の個人の邸宅などには裸体画は飾られていた。フェリペ4世も王宮の中の食後の休憩部屋に祖父であるフェリペ2世が集めたティチアーノの裸体画やルーベンスの裸体画を飾っていた。それらは今もプラド美術館にある。フェリペ4世の特別扱いを受けていたベラスケスが裸体画を描くことにあまり問題は無かったに違いない。ベラスケスが描いた裸体画は他に3点あったと言われているがすべて現存していない。この絵はおそらくベラスケスの2度目のイタリア旅行中に描かれている。モデルはベラスケスの子供を産んだ愛人マルタではないかと推測されている。

ベラスケス晩年

1652年にベラスケスは王宮配室長に任命されている。この仕事は晩餐会の手配や準備などで画家に随分ストレスを与えたようだ。大変な仕事量の中も素晴らしい作品を残している。

 

<織女達、ベラスケス1655-60年、プラド美術館>

ベラスケス
Las hilanderas o la fábula de Aracne
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
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(上)晩年のベラスケスの作品「織女達」は手前に現実の織物を織る女性達。奥には神話の物語でアラクネが神を冒涜したため蜘蛛に変えられる変身物語を同時に扱っている。変身と時間、現実と神話の織りなす作品。奥のアラクネが織ったタペストリーはティチアーノのエウロパの略奪を使っている。

そのティチアーノの作品は現存しないがスペインに来ていたルーベンスが模写をしたものがプラド美術館に残る(下)。ベラスケスの織女達の奥にこの作品をアラクネが織ったタペストリーとして使っている。

<エウロパの略奪、ルーベンスがティチアーノを模写、プラド美術館>

エウロパの略奪 ルーベンス

El rapto de Europa
RUBENS, PEDRO PABLO
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(下)プラド美術館の作品で最も重要で有名な作品がベラスケスのラス・メニーナス。若い頃のピカソも絶賛している。ラス・メニーナスは一度もプラド美術館から外へ出ていない作品でおそらく将来も出ない。

 

<ラス・メニーナス、ベラスケス1656年、プラド美術館>

ベラスケス
Las meninas
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」という題名は19世紀につけられたもの。今も絵の解釈は様々でベラスケスが描いているのは王女なのか国王夫妻なのか。いずれにしても鏡を使う事で絵を見ているのか見られているのか私たちに混乱を与える。後ろにかかる2枚の絵はルーベンスの神話画で「無謀に芸術の神に挑戦をして失敗する人間たちの姿」なのは私たちに様々な事を示唆している。

 

当時のフェリペ4世の王女マリア・テレサとフランス王ルイ14世の結婚の準備でベラスケスはフランス国境のフエンテ・ラビアへ行った。マリア・テレサはスペイン王フェリペ4世と最初の結婚のイサベル・デ・ブルボンの娘。

<マリア・テレサ、ベラスケス1652-53年、ウィーン美術史美術館>

ベラスケス、マリアテレサ
De Diego Velázquez – Kunsthistorisches Museum, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=159945

マリア・テレサはフランスに嫁ぐがいつまでもフランス語がうまくなかった。義理母(ルイ14世の母)はスペインの王女(フェリペ3世の娘)なので義理母とスペイン語の会話を楽しんだという。

ベラスケスはこの結婚の準備の債務と旅に疲れ果て1660年6月26日にマドリードに戻り王宮内の自室で床に伏し8月6日に天に召された。国王フェリペ4世の哀しみと嘆きは大きかった。国王フェリペ4世はその6年後に亡くなりあまり悲しむ者も周りにいなかったという。混乱を残して亡くなりそれを受け継いだ皇太子はスペイン・ハプスブルグ最後の王となる。

画家の家族

<ベラスケスの家族、マルティネス・デル・マーソ1665年、ウイーン美術史美術館>

ベラスケスの家族
De Juan Bautista Martínez del Mazo – Kunsthistorisches Museum Wien, Bilddatenbank., Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4662029

マーソはベラスケスの弟子で後に宮廷画家となる。ベラスケスの娘フランシスカと結婚しその間の子供達が左側に再婚の妻とその子供達が右側にいる。背景にベラスケスが描いたフェリペ4世と奥の部屋で仕事をするベラスケス、又はマーソ自身がマルガリータ王女の絵を描いている。

 

補足・その後のスペイン

フェリペ4世の唯一育った息子はカルロスと名付けられた。先ほど登場したマルガリータ王女の弟にあたる。体が弱く3歳まで歩けず8歳まで話せなかった。そして結婚はするが世継ぎのないまま1700年に崩御した

<カルロス2世、1673年カレーニョ、プラド美術館>

カルロス2世
museo de prado

その結果スペイン王位継承戦争が始まりヨーロッパ全体を巻き込んだ戦争となる。最終的にフランスのルイ14世の孫がスペイン王フェリペ5世として即位する。この時にイギリスにジブラルタルを奪われ今も返還交渉中だ。ここにカルロス5世から始まったスペイン・ハプスブルグ家が終焉した。

 

ムリーリョ(バルトロメオ・エステバン・ムリーリョ)プラド美術館17世紀黄金世紀の巨匠たち

 

ムリーリョ(バルトロメ・エステバン・ムリーリョ)は17世紀・黄金世紀に南スペインのセビージャで活躍した画家。当時のセビージャは新大陸からの大きな船が出入りし人があふれる賑やかな街だった。半面そこには貧富の差や一攫千金を狙った野望が入り混じる荒れた時代でもあった。ムリーリョが愛情を持って描いた貧しい少年達にその時代の片鱗が感じ取れる。スペイン全体で対抗宗教改革が始まり教会が内部から浄化を始めた頃多くの修道院が作られ壁面を飾るための聖人や聖母マリアの絵画を大量に必要とした時代に活躍した画家がムリーリョだった。ペストの流行や緩やかに没落していくスペインでムリーリョの甘美な聖母マリアは人々のすさんだ心に響いたに違いない。

ムリーリョ生誕400年祭で2018年から2019年にかけてセビージャで様々なイベントが行われています。

バルトロメオ・エステバン・ムリーリョ

1618年(1617年)ー1682年

*誕生は1617年末。公式の記録として残るのは1618年の1月1日の洗礼


セビージャで誕生

ムリーリョはセビージャの街で生まれた生粋のセビージャーノ(セビリアっ子)。父親は理髪師兼外科医(当時理髪師が外科医というのは普通にあった)、母親は金銀細工師および画家の家系で芸術に関わっていた血筋なのが判っている。ムリーリョという苗字は母方の名前でアンダルシアでは母方の苗字を名乗る習慣があった。解っている最初の公式資料はセビージャのマグダレナ教会で1618年1月1日に洗礼を受けているので実際に生まれたのは1617年の終わり。14人兄弟の末っ子で生まれ、子供の頃の家庭は裕福だった。ところが9歳の時に父と母を続けて亡くし結婚していた姉に引き取られるが13歳で母方の親戚の画家ファン・デ・カスティージョの工房に入っている。1633年(15歳)に中米への移民を考えたようで書類に署名していたことが判っている。ムリーリョについて初期の作品や若い頃の事はわかっていないが新大陸への作品を描いていたようだ。

ムリーリョ初期

<聖母とラウテリオ修道士とアッシジの聖フランシスコとアキーノの聖トマス、1638-40年、英ケンブリッジ、フィッツ美術館>

ムリーリョ
De Bartolomé Esteban Murillo – www.fitzmuseum.cam.ac.uk, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9649001

(上)解っている中でおそらく最も初期の作品のひとつ。聖母マリアが修道士フランシスコ・ラウテリオの為神学の教えを伝えに降りて来た奇跡の場面。ムリーリョがまだ20歳から22歳頃の作品。同時に描いた聖母の奇跡「聖母が聖ドミンゴにロザリオをもたらす奇跡」がセビージャの大司教館に現存する。

 

1645年27歳の時に5歳年下のベアトリス・カブレラと結婚した頃から本格的な創作活動に入るが作品は数点しか現存していない。ムリーリョの絵に登場するマリアは殆どが妻になったベアトリスだった。

<蚤を取る少年、1645-50年、ルーブル美術館>

ムリーリョ、ノミを取る少年
From Wikimedia Commons, the free media repository publci domain

(上)ムリーリョは聖母マリア等の美しい宗教画が有名だが現実の人々も描いている。当時の北方で好まれた庶民の日常を外国人からの注文で描いたものだと思われる。光の扱いがカラバッジオの影響のテネブリズムが使われている。手前の壺や篭とリンゴなどに丁寧なボデゴン(スペインの静物画)が描かれている。画家本人も子供のころに孤児になりセビージャの街には日常にこういう風景があふれていたに違いない。無心に蚤を取る少年の足の裏の泥や今食べていたエビの殻までが現実的で愛着を感じる。

1649年からペストの蔓延で多くの犠牲者を出したセビージャは新大陸の航海も不振になり多くの人口を抱えるが仕事も無く貧しい子供達であふれていた。ムリーリョの優しい作品は人々の心を癒したに違いない。

 

<小鳥のいる聖家族、1650年以前、プラド美術館>

ムリーリョ

Sagrada Familia del pajarito
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
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(上)聖家族(聖母マリアと聖ヨセフと幼子キリスト)という宗教的なテーマの中に暖かい日常を感じる作品。キリスト教宗教画で聖ヨセフは端の方や後ろなど遠慮がちに描かれることが多いがこの作品では中央にどっしりと大きく暖かい父親として描かれている。16世紀の終わりから聖ヨセフの扱いは少し良くなってきた(それ以前は後ろから遠慮がちに手を差し伸べるような軽い扱い)。今もセビージャにはホセという名の男性が多い。温かみと包容力のある身近な人の様な親近感を覚える人物に描かれている。室内の光の扱いや布地の描写、篭の素材感が美しい。マリアが動かす糸車がくるくると廻っている。

サンフランシスコ修道院からの大きな注文

<サン・フランシスコ修道院>

1645年から翌年にかけてセビージャのサンフランシスコ修道院(消失)の回廊を飾る13点を手掛けている。その中に「修道士フランシスコと天使の台所」がある。

<修道士フランシスコと天使の台所、1645年、パリ・ルーブル美術館>

ムリーリョ 天使の台所
Musée du Louvre / Erich Lessing

今はルーブル美術館にある巨大な作品で180メートルx450メートル。セビージャの修道院で賄いをしていたフランシスコ・ペレスは神に仕える求道者だった。有る時高官の訪問を受けもてなしに困って祈っていると体は宙に浮き天使たちが現れてもてなしの料理を整えたという奇跡。ムリーリョらしい可愛らしい天使たちが現れ動き回ってが働いている様子が伝わって来る。道具や皿、銅の鍋などの静物の表現も正確で素晴らしい。

受胎告知

受胎告知は様々な画家たちに描かれた人気の題財。聖母は妻のベアトリスがモデル。1650年と1660年の10年の間で画家の作風が変わって行ったのが良くわかる。

<受胎告知、1650年頃、プラド美術館>

ムリーリョ

La Anunciación
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

<受胎告知、1660年、プラド美術館>

ムリーリョ

La Anunciación
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

 

サンタ・マリア・ラ・ブランカ教会

ムリーリョの仕事は順調な中大きな注文を受ける。セビージャのサンタ・マリア・ラ・ブランカ教会はシナゴーグ(ユダヤ教会)を改装して創った教会。1662年からの再建工事が行われ絵画や彫刻が一新された。1665年8月5日にクーポラや壁も真っ白に漆喰で覆われた。ブランカは白いという意味。

<ヨハネの夢、1662-65年、プラド美術館>

ムリーリョ
Fundación de Santa María Maggiore de Roma. El sueño del patricio Juan
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
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(上)注文主はセビージャの修道士フスティーノ・ネベ、ムリーリョの個人的な友人でもあった。フスティーノ・ネベはセビージャの慈善病院ロス・べネラブレスの創設者でもある。テーマはローマのサンタ・マリア・マッジョーレ教会の奇跡「4世紀の貴族ヨハネの夢に聖母が幼児キリストと共に現れ教会の建立を願う場面」。ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ教会の守護聖母は雪の聖母(サンタ・マリア・ラ・ブランカ)、この教会の守護聖母でもある。

同じ時期にカプチン会修道院の為に連作21点を制作している。これらはセビージャ県立美術館にある。

 

ムリーリョはセビージャで度々引っ越している。妻との間に11人の子供が生まれ(実際に育つのは4人)人数が増えるたびに広い所を求めたのかもしれない。1663年に妻が11人目の子を産み直ぐに亡くなり、生まれた子も間もなく天に召された。後は再婚はせずにサンタ・マリア・ラ・ブランカ教会の近くへ引っ越した。

成熟期

1660年頃から40歳を超えたムリーリョは成熟期に入り注文は順調で後進の芸術家の育成にも力を注ぐ。その頃に描いたのがセビージャ大聖堂からの注文で聖母の誕生。

<聖母の誕生、1660年頃、パリ・ルーブル美術館>

ムリーリョ、聖母の誕生
Accession number MI 202retrieved from Wikidata
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(上)この少し前におそらくマドリードを訪れており王室コレクションを見ている。先人の先輩たちの作品に触れたムリーリョの円熟期の作品となる。残念な事に現在ルーブル美術館にある。

無原罪の御宿り

無原罪の御宿りはカトリックの教義で聖母マリアはその母アナの胎内に宿ったときに既に無原罪だった。宗教改革に対抗してカトリック世界ではパウルス5世ローマ法王のもと対抗宗教改革で異端審問教令が広まった時代に無原罪の御宿りの教義を通じ聖母の神格化が始まった。この教義を絵画を通してスペインに普及させようと多くの画家によって描かれている。ムリーリョは1560年頃から無原罪の御宿りを描いていて没年まで多くの傑作を描いた。

<エル・エスコリアルの無原罪の御宿り、1660-65、プラド美術館>

ムリーリョ

La Inmaculada del Escorial
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prad

<アランフェスの無原罪の御宿り、1675年、プラド美術館>

ムリーリョ

La Inmaculada Concepción ”de Aranjuez”
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
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ムリーリョの描く民衆や子供達

ムリーリョは美しい宗教画で有名な画家だが当時のセビージャの子供達を描いている作品が何点かある。対抗宗教改革のスペインでは宗教画以外は売れない時代だったが外国の商人達がお土産として購入していった。

<サイコロで遊ぶ少年達、1675年、ミュンヘン・アルテピナコテーク>

ムリーリョ
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<窓辺の少女達、1655-60年、ワシントン・ナショナルギャラリー>

ムリーリョ
Bartolomé Esteban Murillo (Spanish, 1617 – 1682), Two Women at a Window, c. 1655/1660, oil on canvas, Widener Collection 1942.9.46

 

<3人の子供達、1660-65年、ロンドン・ダルウィッツ・ギャラリー>

Source/Photographer http://www.dulwichpicturegallery.org.uk/collection/search_the_collection/artwork_detail.aspx?cid=146 
wikipedia
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<微笑む窓辺の少年、1675年、ロンドン・ナショナルギャラリー>

ムリーリョ
De Bartolomé Esteban Murillo – 1./4. National Gallery, London – online collection2./3. young.rzd.ru, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=16079389

当時のセビージャの道端にいたような普通の子供達や貧しい少年達が無邪気で可愛い。この種類のムリーリョの絵が一枚もスペインには現存していないのは残念。ムリーリョは画風が優しいだけでなく人間的にも慈愛の溢れた温厚で善良で謙虚な人物だった。子供達を描く画家の視線にムリーリョの人間的な温もりを感じる。

 

晩年のムリーリョ

名声に包まれ成功を手にした晩年だったが妻に先立たれ子供の多くを夭折させており育った一人の娘は聾者で修道院に、ひとりは新大陸へ旅立ち末弟は宗門に入ろうとしていた。セビージャの街も一時の華やかさとは裏腹にペストの流行や貿易の不振で街には孤児や娼婦があふれていた。そんな時代にカリダード病院からの注文を受けた。

<病者を担うサン・ファン・デ・ディオス、1672年、セビージャ・カリダード病院>

ムリーリョ
De Bartolomé Esteban Murillo – [4], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2372108
(上)サン・ファン・デ・ディオスが貧しい病人を助けているのを天使が手伝いにやって来た場面。カリダード病院の創設者は新大陸の貿易商だったが妻を亡くし残りの人生を貧しい人の為に施す事に決めカリダード信徒会に入会した。ムリーリョは彼の友人だったので仕事で神に奉仕をしようと同じく信徒会に入会し病院内の聖堂に大作を数点残した。

薄霧の様式=バポロッソ

ムリーリョの晩年の作品はバポロッソ=霧がかかった様な独特の様式になり柔らかなタッチ。

<貝殻の子供達、1670年、プラド美術館>

ムリーリョ

Los niños de la concha
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)まだ子供の洗礼者ヨハネにイエス・キリストが貝殻で水を与えるところ。実際聖書にはこの2人の子供の頃の事は書かれていないので画家の想像の世界だがある程度の画家による脚色は許されていたようだ。十字架と羊で後の殉教をほのめかす。

<聖アンドレスの殉教、1675-82、プラド美術館>

ムリーリョ

El martirio de san Andrés
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)125センチx209センチの大きな作品。同じくプラド美術館蔵にある聖パウロの回心と対をなす。ルーベンスの作品を模した版画が残りマドリードへ旅をした折に見たであろう王室のコレクションからの影響があると言われている。

最後の仕事

スペイン南西部の港町カディスのカプチン会修道院のサンタ・カタリーナの聖堂祭壇の装飾「聖カタリーナの神秘の結婚」制作中に足場を踏み外して梯子から墜落。この事故が元で1682年4月3日に64歳の生涯を閉じた。

<聖カタリーナ神秘の結婚、1682年、カディス美術館>

ムリーリョ
Source/Photographer juntadeandalucia.es
wikipedia public domain

作品はムリーリョの弟子フランシスコ・メネセス・オソリオによって完成され今はカディス美術館に展示されている。

 

まとめ

現存するムリーリョの作品が450点あるそうだが半数近くは外国に出てしまった。18世紀頃までムリーリョの人気は外国で高まり分散してしまっている。スペイン王フェリペ5世の妻イサベル・デ・ファルネーゼがセビージャでムリーリョを収集したものが現在のプラド美術館のコレクションの基礎となっている。同じ時代に外国人の貴族やコレクターに買われていったので一部ながらもスペインに大作が残ったのは偶然とは言え奇跡かもしれない。ムリーリョの子供達は殆ど早くに亡くなり唯一残ったのが新大陸へ行った息子だった。ムリーリョの残した財産も大西洋を渡ったようだ。外国に行ってしまったのはムリーリョの大量の絵だけではなかった。穏やかで包容力があって慈愛にあふれた可愛げのある男がスペインには今も存在する。絵を描くことで忠実に神に仕えようとした典型的なセビージャーノ(セビリア人)、素朴で優しい夫で父親で、そして敬虔なカトリック信者だった。

ギリシャ神話は面白い。絵画で楽しむギリシャ神話。(プラド美術館を中心に)

リベラ(ホセ・デ・リベラ){プラド美術館スペイン17世紀黄金世紀の巨匠達}

 

 

ホセ・デ・リベラ(スペイン語名)又はジュゼップ・ディ・リベラ(イタリア語読み)は17世紀のスペインの画家。プラド美術館で鑑賞できる巨匠のひとりだ。スペイン国王フェリペ4世の頃、同時に個性のある天才画家たちが多く登場した時代をスペイン17世紀黄金世紀と呼ぶ。エルグレコ、ベラスケス、スルバラン、ムリーリョ等プラド美術館でおなじみの画家たちが同時期に登場している。リベラはスペインでは認められずスペイン領だったイタリアのナポリで活躍した画家。異彩を放つホセ・デ・リベラについて紹介します。

ホセ・デ・リベラ(ジュゼップ・ディ・リベラ)


<1591-1652>

リベラはスペインの地中海側にある商業都市バレンシア近郊のハティバで靴職人の子として生まれる。17世紀のバレンシアは豊かな商業都市として栄えていた。対抗宗教改革の時代に登場したバレンシア大司教(ファン・デ・リベラ)の元多くの教会や修道院が作られ、その壁を飾る宗教画が作成され画家たちが集まった。フランシスコ・デ・リバルタはバレンシアを代表する画家として大司教の寵愛を得多くの作品を描いている。ホセ・デ・リベラは若いときフランシスコ・デ・リバルタに師事したという。

リベラは若い頃に弟とイタリアに移住しているが移住時期などについてはわかっていない。1611年(20歳頃)にパルマ公の絵を描いており、1615年(24歳頃)にはイタリアのローマに滞在していた事は確実。その頃にはリベラは既にカラバッジオの影響を受けた作品を描いていた。1616年にナポリへ移住し活躍している。「ホセ」はスペイン名で「ジュゼップ」はそれのイタリア語なのでホセ・デ・リベラ又はジュゼップ・ディ・リベラ又はイタリア語のニックネーム「ロ・エスパニョレット」で知られた。絵に署名を残すときは「スペイン人」または「バレンシア人」と書きリベラは終生スペイン人であることを誇りにしていたが祖国では評価されず異国で活躍し客死した。

作品

現存するリベラの初期の作品は「味覚」1615年頃にローマで描いた人間の五感のシリーズ。良く太った大食漢の庶民的な男が赤ら顔で食卓についている。衣装や食卓の様々な静物の質感が素晴らしく再現されている。

 

<味覚、1615年、ハートフォード、ウォッズワース・アシーニアム>

リベラ、味覚
wikiart public domain
Location: Wadsworth Atheneum, Hartford, CT, US

ローマでリベラは北方出身の画家たちと寝食を共にしていたことが判っておりその影響がみられる。

 

<執筆の聖ヘロニモ、1615年、プラド美術館>

リベラ

San Jerónimo escribiendo
RIBERA, JOSÉ DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)聖ヘロニモは聖書をラテン語に訳した聖人。テネブリズモの技法、カラバッジョの明暗法が既にみられる。

1616年夏にリベラはローマからナポリに移住。当時スペイン副王領として貿易で栄えていたナポリはインターナショナルな活気ある街だった。カラバッジオの影響を大いに受け明暗法を駆使した作品を描いている。代々のナポリ副王にもスペイン人であるという事で重用され活躍する。

リベラの描く聖人たちは地元の漁師や貧しい浮浪がモデルになり人間臭いのが特徴。聖人達さえも理想化せずに皺や皮膚のたるみまでも現実的に赤裸々に描き出した。特に1620-30年代の作品に顕著にその特徴がみられる。

<聖アンドレス、1630年頃、プラド美術館>

リベラ聖アンドレス

San Andrés
RIBERA, JOSÉ DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)聖アンドレは兄のペテロと共にガリラヤの漁師だった。イエス・キリストに最初についていった弟子でギリシャのパトラスで捕らえられ拷問に会いⅩ型の十字架に掛けられたが絶命するまで周りの人に説教を続けた。節くれだった手の皺やお腹の肉のたるみ等、聖人を描くにもかかわらず理想とはかけ離れたナポリの漁師がそこにいる。

<デモクリトス、1629-31年頃、プラド美術館>

リベラ、デモクリト

Demócrito
RIBERA, JOSÉ DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)「笑う哲学者」と通称される作品。ナポリ副王だったアルカラ公爵の為に制作。古代の哲学者のデモクリトスを、ぼろをまとった現実の世界の庶民として描いた。今にも話し始めそうなこちらを見つめる眼差しや親しみやすい笑顔が親近感を与える。左手に紙を持ち右手にコンパスを持つのでアルキメデスとも呼ばれていた。顔や節くれだった手の皺の描写がやはりナポリの漁師を思わせる。

<アッシジの聖フランシスコの幻視、1636-38年、プラド美術館>

リベラ

Visión de san Francisco de Asís
RIBERA, JOSÉ DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)対抗宗教改革の頃に好まれたテーマ、頭蓋骨は改悛や謙虚を象徴する。天使が持つ透明なガラスの水は純粋さを現す。透明感に画家の技量がみられる。明暗法が使われているが次第に絵のタッチが柔らかく変化している。リベラは若い頃にローマでラファエロの作品に感銘を受けている。またローマ=ボローニャ派の画家たちがナポリに到着しており次第に彼らの影響をを受け激しいリアリズムから脱却する。

<天使による聖ペテロの開放、1639年、プラド美術館>

リベラ
San Pedro libertado por un ángel
RIBERA, JOSÉ DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)激しいテネブリズムから脱却した1630年代後半の作品。捕らわれた聖ペテロに天使が合わられた場面。ヤコブの夢と連作で描かれた。

悔悛のマグダラのマリア、1641年、プラド美術館>

リベラ

Magdalena penitente
RIBERA, JOSÉ DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)リベラの作品に聖母マリアや聖女たちの作品は少ないのはスルバランやムリーリョとの大きな違いとなる。数少ない聖女画の代表作。明るい背景の曇り空で美しい聖女を甘美に描いている。

 

まとめ


対抗宗教改革のヨーロッパで厳しい検閲などが行われていた時代背景もありリベラの描く作品は厳格な宗教感が漂う。自国で成功できずにナポリへ渡りスペイン人であることを最後まで誇りに活躍をした画家。祖国に帰らずナポリで最後を迎えた。生前から多くの作品がスペインへ送られた事もありプラド美術館でリベラ様々な時代の作品を鑑賞することが出来る。