ベラスケスは17世紀にスペインで活躍した画家。本名は「ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス」。スペイン国王フェリペ4世に仕え生涯王の為に絵を描いた。時代は斜陽のスペイン帝国。プラド美術館の巨匠達の中でも格別の扱いの画家である。17世紀に同時にスペインで多くの天才画家たちが登場している。
この時代をスペイン黄金世紀と呼ぶ。スルバラン、リベラ、ムリーリョ等天才的な画家たちが同時期に活躍した時代で多くの作品をプラド美術館で鑑賞できる。その中でもベラスケスはスペイン国王フェリペ4世に寵愛され24歳で国王付の画家になり並外れた成功を手にした画家。ベラスケスの生涯と作品を見ながら斜陽のスペインの歴史をハプスブルグの終焉迄見ていきます。
ディエゴ・デ・ベラスケス
ベラスケスはスペイン国王フェリペ4世に24歳で気に入られ生涯宮廷画家として活躍した。ベラスケスが生まれた1599年トレドでエル・グレコは晩年を過ごしていた。ベラスケスは絵画だけでなく宮廷の様々の仕事を受け持ちその人格も高貴で国王に信頼された。王家の結婚式の準備なども取り仕切り時間を割かれた為絵画作品数は非常に少なく長い間海外では知られていなかった。
セビージャで誕生
生まれは南スペインのセビージャ、当時のセビージャは大航海時代の船が入り人が集まる大都会だった。スルバランやムリーリョも同じ時代にコスモポリタンの街セビージャで活躍した。1599年6月6日にセビージャでベラスケスが洗礼を受けていることが分かっている。ベラスケスというのは母方の姓でアンダルシアでは母方の姓を名乗ることが多かったようだ。7人兄弟の長男として生まれ貴族の血を引く家系だったが格別裕福というわけでは無かったようだ。
<ベラスケスが生まれた頃のセビージャ>
新大陸からの富を積んだ船が入港するセビージャは当時のスペインで最も豊かな街で芸術も栄えていた。人が集まりインフレも激しく野望を持ったいかさま師や一攫千金を狙った詐欺師達が集まる混乱した大都会だった。
師匠フランシスコ・パチェーコ
1611年9月(12歳)にセビージャの画家フランシスコ・パチェーコに弟子入りしている契約書が残る。様々な事に才能を見せた息子に絵の才能を見抜いた両親が選んだ師匠だ。
パチェーコは画家で教養人で詩人で彼の家には芸術家や学者が集まるサロンのような場所になっており知的な雰囲気に溢れていた。そのためベラスケスも若いころから様々な事に興味を持つ人物に育つ。ベラスケスが幸運だったのは師であるパチェーコが弟子の優秀さを公然と認める心の広さを持った人物だったことだ。
<フランシスコ・パチェコ、ベラスケス1620、プラド美術館>
師匠の資格と結婚
1617年3月14日(18歳)ベラスケスは資格審査を受け当時の画家の最高位「宗教画の師匠」と認められ独立する。(絵画の師匠も資格制だった)
(下)ベラスケス初期(1618年19歳)の作品で無原罪の御宿り。ベラスケスが画家組合の親方に登録されておそらく初めての公的な仕事。無原罪の御宿りは「聖母マリアが母の胎内に宿ったときに既に原罪を免れていた」と言うカトリックの教義。対抗宗教改革の時代にスペインで好まれて多くの画家達が描いた。マリアのモデルはベラスケスが後に結婚するファナ。師匠パチェーコの娘。
<無原罪の御宿り1618年ベラスケス、ロンドン・ナショナルギャラリー>
ベラスケスの師匠パチェーコは「絵画芸術論」を記した人物で宗教画の様々な規定をまとめた。「絵画芸術論」が出版されるのはパチェーコ没後だが師匠から様々な絵画論を聞いていたであろうベラスケスは師の規定に忠実にこの作品を描いている。”無原罪の御宿りのマリアは12-3歳の少女の姿で両手は胸の前で祈りの形をして、マリアの乗る純潔をあらわす三日月は下を向くべきである”とされた。
(下)又同じころに描いた風俗画。そこに描かれる手前のボデゴン(静物画)は見事な素材感。手前のお皿やナイフ、陶器の入れ物等が素晴らしい。
<卵を料理する老婆と少年、ベラスケス1618年、スコットランド国立美術館>
約1年後に師匠パチェーコの娘ファナと結婚。花嫁16歳ベラスケス19歳。2人の間に1619年に長女フランシスカ、1621年に次女イグナシアが生まれているが次女は夭折している。おそらくベラスケスの次に紹介する作品「東方三賢者の礼拝」の聖母が妻ファナで赤子キリストが長女フランシスカ、手前のひざまつく男性がベラスケス本人。画家20歳頃の作品でプラド美術館にある。
<ベラスケス、東方三賢者の礼拝、1619年、プラド美術館>
(上)イエス・キリストの誕生を祝って東方の三賢者がベツレヘムの馬小屋で礼拝をするという聖書の場面。ベラスケスはこの頃既にセビージャでは有名な画家になっていた。
ボデゴンの画家
ベラスケスは初めボデゴン(静物画)で名を成している。下の作品は21歳のベラスケスが描いた当時のセビージャの日常の様子で「セビージャの水売り」。手前の大きな壺の透明な水滴が落ちていく様子が素晴らしい。交易の船が出入りしたセビージャは国際都市で北方で好まれた民衆の生活の絵を若いベラスケスは描いていた。
<セビージャの水売り、1620年ロンドン・ウェリントン美術館>
マドリード
1622年にベラスケスはマドリードを訪れエル・エスコリアル修道院で王家のコレクションに触れている。国王の肖像画を描ける機会を狙っての上京だったがその目的は果たせずセビージャへ帰った。ところがマドリード滞在時に描いたルイス・デ・ゴンゴラという詩人の肖像画が素晴らしい出来で後に「オリバーレス公・伯爵」によって再びマドリードに呼び戻されることになった。
<ルイス・デ・ゴンゴラ、模写、プラド美術館>
上記作品「詩人ルイス・デ・ゴンゴラ」のベラスケスの本物は現在ボストン美術館にある。プラド美術館で現在見れる作品は模写。ベラスケスはマドリードに移動後の作品は肖像画が主流になりボデゴン(静物画)は描いていない。画風もティチアーノの影響がみられる軽いタッチに変わって行く。
オリバーレス伯爵
オリーバーレス公・伯爵(ドン・ガスパール・デ・グスマン)はセビージャ出身で当時の王の宰相を務め事実上の権力者だった。同郷の人物を引き立てることは当時からよくあったことでベラスケスはオリバーレス伯爵によって1623年にマドリードに呼び戻された。国王フェリペ4世の肖像画(消失)を描き王に気に入られ宮廷画家となる。オリ―バレス伯爵は約30年間フェリペ4世の後ろで権力をふるい斜陽のスペインにかつての栄光を取り戻そうとした。
<オリバーレス伯爵、ベラスケス1634年頃、プラド美術館>
(上)この作品は35歳のベラスケスがオリバーレス伯爵を描いたもの。見上げる程の巨大な作品で前足を上げた馬に乗り振り返るオリーバーレス伯爵の大胆な構図。後ろ目に振り返る目にオリーバーレスの尊大な雰囲気がうかがえる。遠景の雲や空気のの層の描き方のタッチは後に「ベラスケーニョ」「ベラスケス風」と呼ばれる。
宮廷画家の名誉と王宮営繕監督という仕事
ベラスケスは24歳で国王の寵愛を受けそれ以来宮廷画家として絵を描くことになる。国王フェリペ4世はベラスケスの6つ年下だったが時間があると画家のアトリエを訪れ制作を眺めていた。ほかの画家の嫉妬を買い中傷を受けるベラスケスの為国王は他の3人の画家とベラスケスに「モリスコの追放」という作品を同時に描かせて競争させた。結果はベラスケスの勝利だったがこの作品は残念ながら1734年のマドリードのアルカサールの火災で焼失している。国王は気に入ったベラスケスに様々な肩書を与え色々な仕事をさせた為忙殺な日々の中ベラスケスが絵に費やせる時間は限られていった。
<フェリペ4世、ベラスケス1626-28年、プラド美術館>
ルーベンスの来西
1628年にフランドルのピーター・ポール・ルーベンスが外交官の仕事でマドリードを訪れた。約9か月間の滞在でスペイン王家の肖像画を描きベラスケスとも親交を結んでいる。
(下)ルーベンスがマドリード滞在中にティチアーノの作品を模写した物が今もプラド美術館に残る。
<アダムとイブ、ルーベンス1628-29年、プラド美術館>
ベラスケスとルーベンスはエル・エスコリアル修道院に2人で何度も通い王立コレクションに触れている。特にティチアーノを鑑賞していたベラスケスは是非ともイタリアへ行きたいと考えるようになりルーベンスと共にイタリアへ旅行する計画を立てた。しかしルーベンスはアント―ワープへ帰還することになり翌年ベラスケスは1人でイタリアへ旅行する。
1度目のイタリア旅行
ベラスケスの希望が叶えられ1629年8月にイタリアへ旅立つ。バルセロナからジェノバ、ベネチア経由でフェラーラを通りローマへ到着。ローマで1年程滞在した後当時はスペイン領だったナポリへ渡る。その頃ナポリではスペイン人の画家「ホセ・デ・リベラ」が活躍していた。リベラはベラスケスより8歳年上で既にナポリで成功して数々の聖人や哲学者などを描いている。下の絵はベラスケスがナポリへ行った頃のリベラの作品。ベラスケスとリベラは逢って話をしたのだろうか。仲間や同郷人が大好きなスペイン人同士肩を抱き合って話をしたに違いないと思っている。
<リベラ、デモクリトス1629-31年、プラド美術館>
ベラスケスは1631年1月にはマドリードに戻っている。イタリア旅行中に多くの模写などをしている作品は散逸しているが「ヨセフの長衣を受けるヤコブ」(エル・エスコリアル修道院蔵)と「ウルカヌスの鍛冶場」(プラド美術館蔵)は今もスペインで鑑賞することが出来る2枚。
<ウルカヌスの鍛冶場、ベラスケス1630年、プラド美術館>
(上)ベラスケスの神話画「ウルカヌスの鍛冶屋」、妻のビーナスの浮気の話を伝えにアポロンが降りて来た、「えっ」と驚いた顔のウルカヌスの表情が面白い。鍛冶屋で働く男たちの筋肉の描写、道具の素材感等が美しい。
<メディチ家別荘、1630?ベラスケス、プラド美術館>
(上)ローマのメディチ家別荘を描いたもので2点並んで展示されている両手で持てそうな位の小さな作品。描いた時期についてはまだ議論されていて2度目のイタリア旅行時(1650年頃)という説も捨てがたい。絵の完成度やタッチ等が印象派の絵のよう。移り行く時、太陽の光の動きを意識して描かれている。
フェリペ4世と斜陽のスペイン
国王フェリペ4世
国王フェリペ4世はベラスケスが不在の間は他の画家に肖像画を描かせなかったらしくイタリア旅行から戻ったベラスケスに早速注文した作品。
<銀と茶の衣装のフェリペ4世、ベラスケス1631-32年、ロンドン・ナショナルギャラリー>
「銀と茶の衣装のフェリペ4世」はフェリペ4世国王27歳頃、しかし描かれた年代に関しては1635年説もある。絵のタッチにイタリア旅行で鑑賞して来たベネチアの巨匠の影響がみられる。
<狩猟の姿のフェリペ4世、ベラスケス1632-34年、プラド美術館>
狩猟姿のフェリペ4世は国王と示すものを何も描かずこちらを向く王の内面や威厳を描きだしている。
芸術愛好家のフェリペ4世の治世
16歳でスペイン国王に即位したフェリペ4世は並外れて芸術を愛好した。絵画だけでなく演劇をこよなく愛した王だった。この時代にスペインの劇作家が多く登場したのはフェリペ4世が新しい芝居を求めたからでカルデロンやローペ・デ・ベガ等が登場している。芝居に夢中になり快楽の中で生きた王だが当時のスペインは30年戦争(1618-48)で壊滅的な状態だった。広大な領土は維持しながらもウエストファリア条約でオランダの支配権を失いポルトガルは独立しカタルーニャは反乱を起こした。経済はズタズタで救いようがない状態で税金を上げれば民衆は苦しみ農業生産は低下し国民は農民も貴族も翻弄されていた。政治はオリバーレス伯爵の私利私欲の道具にされ国王にとって政治は退屈だった。芸術以外に興味があったのは狩りでフェリペ4世はすぐれた馬術家で12時間馬上にいる事もいとわなかった。
ブエン・レティーロ宮の建設
国の斜陽を横目にマドリードでは眩いばかりの催しが行われ新しい宮殿の建設が始まった。建築内部を飾る為12点の戦勝を記念する作品が描かれることになった。今もプラド美術館の近くにこの建物の一部と広大な公園が残る。
<ブエンレティーロ宮殿、1637年>
(下)ブエンレティーロ宮殿を飾る為に描かれた作品
<ブレダの開城、1634-35ベラスケス、プラド美術館>
オランダの街ブレダは30年戦争で10か月の包囲の後スペイン側に落ちた。中央部右側がスペイン側の指揮官スピノラ。寛大な降伏条件だった戦争でスペインの指揮官の表情や態度に温情感が読み取れる。実はこの絵が描かれた2年後にオランダはブレダを奪回している。
この時に同郷の画家スルバランをベラスケスは王に紹介しマドリードへ呼び寄せている。スルバランはベラスケスより一歳年上で同じセビージャ出身だった。スペイン人は同郷人が好きなのだ。スルバランがこの時にブエン・レティーロ宮殿の為に描いた作品が今もプラド美術館に残る。
<スルバラン1634年カディス防衛、プラド美術館>
これらの勝利の場面ばかりを大きなサロンに飾ったさまは荘厳だったに違いないが現実のスペインは敗北と斜陽の時代だった。スルバランは他にも神話画「ヘラクレスの偉業」を描いていてプラド美術館で見ることが出来る。スルバランの作品は実は評価は高くなくこの後失意の中セビージャへ戻っている。
フェリペ4世の2回の結婚
フェリペ4世は2度結婚している。王家の結婚は全て政略結婚、王の重要な仕事は世継ぎを残す事だ。最初の妻はフランスの王女イサベル・デ・ブルボン、フランス王アンリ4世とメディチ家のマリード・メ・ディシスの長女。伝統的に戦争ばかりしていたスペインとフランスの間で行われた政治同盟の一環でブルボンからの妻を迎えた。
<イサベル・デ・ブルボン、ベラスケス1635年、プラド美術館>
これらはブエン・レティーロ宮殿の諸王の間を飾る為の作品。衣装の金糸の素材感が素晴らしい。王と王妃の大きな騎馬像画の間に大事なバルタサール・カルロス皇太子の肖像画が置かれた。
<バルタサール・カルロス皇太子、ベラスケス1635年、プラド美術館>
(上)この絵はベラスケスが描いたバルタサール・カルロス皇太子6歳の時の騎馬像。大切な世継ぎの絵を大きな部屋の中央上の方に飾り訪れた人々が見上げる様に描いた。描かれた約10年後にカルロス皇太子は突然17歳で早世。子供の時に決められた婚約者はオーストリア・ハプスブルグ家のマリアナ・デ・アウストリアだった。マリアナの母はフェリペ4世の妹マリア・アナなのでいとこ同士の結婚の予定だった。
<マリアーナ・デ・アウストリア、ベラスケス1652年、プラド美術館>
大切な世継ぎである息子が亡くなってしまったフェリペ4世は息子の婚約者と結婚する事となる。大事な世継ぎがいないのである。妹の子供なので叔父と姪の結婚。ハプスブルグは「ベッドで帝国を築いた」と言われるがスペイン・ハプスブルグは親類同士の結婚で崩壊していく。フェリペ4世とマリアーナの間に生まれた長女が下の絵のマルガリータ王女。ベラスケスはマルガリータ王女を子供のころから何点も描いている。
<マルガリータ王女、ベラスケスと工房1655年、ルーブル美術館>
これらのベラスケスが描いたマルガリータ王女の作品はせっせとウィーンに見合用に送られていく。マルガリータの嫁ぎ先は生まれた時からオーストリアと決まっておりオールトリア皇帝レオポルド1世に嫁ぐ。嫁入り道具に少しでも故郷の物をと母が持たせたものにスペインの馬術が有った。馬が躍るスペイン馬術学校がウイーンに今も有るのはマルガリータ王女の嫁入り道具のひとつだった。
<青い服のマルガリータ、ベラスケス1659年、ウィーン美術史美術館>
王の愛人
国王フェリペ4世には数えきれない程の愛人がおり庶子も30人を超えた。にも拘らずまともな世継ぎを残せなかったのは悲劇だ。その中でお気に入りは女優のマリア・カルデロ―ナだった。ふたりの間に息子も生まれており後にスペインの宰相になる。
<フェリペ4世の愛人、ラ・カルデローナ>
ベラスケス1648年再びイタリアへ
ベラスケスの今度の旅はローマ法王イノケンティウス10世への特命大使として派遣された。絵画と彫刻作品の購入の仕事を賜り20年後2度目のイタリアへ旅立つ。その時にイタリアから持ち帰ったものが今もマドリード王宮に置かれている
国王フェリペ4世からの帰国の催促が度々あったが約2年半ベラスケスはイタリアに長居した。理由のひとつはマルタという名の未亡人がベラスケスの庶子を宿していた。その子はアントニオと名付けられた事以外はあまりわかっていない。実はベラスケスはその後1657年にもう一度イタリア旅行を国王に願い出ているが王に拒否されている。
<イノケンティウス10世、1650年ベラスケス、ローマ・ドーリア・パンフィーリ美術館>
(上)キリスト教世界のトップローマ法王は権謀術数の中生き抜く大変な職業だった。こちらを見つめ返す目に人を見透かすようなイノケンティウス10世の内面が良く表れている。ティチアーノを称賛していたベラスケスはおそらくティチアーノのパウルス3世を意識してこの絵を描いた。
<ティチアーノ、パウルス3世、ナポリ・カーポ・ディ・モンティ国立美術館>
<鏡を見るビーナス、1648年頃ベラスケス、ロンドン・ナショナル・ギャラリー>
(上)ベラスケスの珍しい裸体画。当時のスペインは厳しいカトリックの体制の中ほとんどの画家が裸体画を描いていない、と公式では言われているが実は上流階級の個人の邸宅などには裸体画は飾られていた。フェリペ4世も王宮の中の食後の休憩部屋に祖父であるフェリペ2世が集めたティチアーノの裸体画やルーベンスの裸体画を飾っていた。それらは今もプラド美術館にある。フェリペ4世の特別扱いを受けていたベラスケスが裸体画を描くことにあまり問題は無かったに違いない。ベラスケスが描いた裸体画は他に3点あったと言われているがすべて現存していない。この絵はおそらくベラスケスの2度目のイタリア旅行中に描かれている。モデルはベラスケスの子供を産んだ愛人マルタではないかと推測されている。
ベラスケス晩年
1652年にベラスケスは王宮配室長に任命されている。この仕事は晩餐会の手配や準備などで画家に随分ストレスを与えたようだ。大変な仕事量の中も素晴らしい作品を残している。
<織女達、ベラスケス1655-60年、プラド美術館>
(上)晩年のベラスケスの作品「織女達」は手前に現実の織物を織る女性達。奥には神話の物語でアラクネが神を冒涜したため蜘蛛に変えられる変身物語を同時に扱っている。変身と時間、現実と神話の織りなす作品。奥のアラクネが織ったタペストリーはティチアーノのエウロパの略奪を使っている。
そのティチアーノの作品は現存しないがスペインに来ていたルーベンスが模写をしたものがプラド美術館に残る(下)。ベラスケスの織女達の奥にこの作品をアラクネが織ったタペストリーとして使っている。
<エウロパの略奪、ルーベンスがティチアーノを模写、プラド美術館>
(下)プラド美術館の作品で最も重要で有名な作品がベラスケスのラス・メニーナス。若い頃のピカソも絶賛している。ラス・メニーナスは一度もプラド美術館から外へ出ていない作品でおそらく将来も出ない。
<ラス・メニーナス、ベラスケス1656年、プラド美術館>
「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」という題名は19世紀につけられたもの。今も絵の解釈は様々でベラスケスが描いているのは王女なのか国王夫妻なのか。いずれにしても鏡を使う事で絵を見ているのか見られているのか私たちに混乱を与える。後ろにかかる2枚の絵はルーベンスの神話画で「無謀に芸術の神に挑戦をして失敗する人間たちの姿」なのは私たちに様々な事を示唆している。
当時のフェリペ4世の王女マリア・テレサとフランス王ルイ14世の結婚の準備でベラスケスはフランス国境のフエンテ・ラビアへ行った。マリア・テレサはスペイン王フェリペ4世と最初の結婚のイサベル・デ・ブルボンの娘。
<マリア・テレサ、ベラスケス1652-53年、ウィーン美術史美術館>
マリア・テレサはフランスに嫁ぐがいつまでもフランス語がうまくなかった。義理母(ルイ14世の母)はスペインの王女(フェリペ3世の娘)なので義理母とスペイン語の会話を楽しんだという。
ベラスケスはこの結婚の準備の債務と旅に疲れ果て1660年6月26日にマドリードに戻り王宮内の自室で床に伏し8月6日に天に召された。国王フェリペ4世の哀しみと嘆きは大きかった。国王フェリペ4世はその6年後に亡くなりあまり悲しむ者も周りにいなかったという。混乱を残して亡くなりそれを受け継いだ皇太子はスペイン・ハプスブルグ最後の王となる。
画家の家族
<ベラスケスの家族、マルティネス・デル・マーソ1665年、ウイーン美術史美術館>
マーソはベラスケスの弟子で後に宮廷画家となる。ベラスケスの娘フランシスカと結婚しその間の子供達が左側に再婚の妻とその子供達が右側にいる。背景にベラスケスが描いたフェリペ4世と奥の部屋で仕事をするベラスケス、又はマーソ自身がマルガリータ王女の絵を描いている。
補足・その後のスペイン
フェリペ4世の唯一育った息子はカルロスと名付けられた。先ほど登場したマルガリータ王女の弟にあたる。体が弱く3歳まで歩けず8歳まで話せなかった。そして結婚はするが世継ぎのないまま1700年に崩御した
<カルロス2世、1673年カレーニョ、プラド美術館>
その結果スペイン王位継承戦争が始まりヨーロッパ全体を巻き込んだ戦争となる。最終的にフランスのルイ14世の孫がスペイン王フェリペ5世として即位する。この時にイギリスにジブラルタルを奪われ今も返還交渉中だ。ここにカルロス5世から始まったスペイン・ハプスブルグ家が終焉した。