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711年にジブラルタル海峡からイスラム教徒がスペインに入って来る。招いたのは西ゴート貴族、実は王の腹心。晩年の西ゴート王国は腐敗と混乱の中、周りの貴族たちは国王を見捨て裏切った、そして裏切った貴族たちも無事では済まなかった。ついに西ゴート王国の首都トレドは陥落し王国は崩壊した。その日の夜中、トレドから持てるだけの財宝を持って馬で逃げた集団がいた。彼らは西ゴートの王の血を引く貴族達。スペイン北部の山岳地帯まで行きイスラム教徒と戦って小さな領土を手に入れ国を建国、そこからイスラム教徒への反撃を開始した。これがレコンキスタ=国土再征服の戦争。1492年にグラナダ王国が滅びるまでのレコンキスタの歴史記事です。
レコンキスタの開始
トレドがイスラム教徒によって陥落したとき王族貴族達の一部は馬に乗って持てるだけの宝物や聖遺物を持って北へ北へと逃げていった。スペインの北西部のアストゥリアス地方からフランスとの国境にあるバスク地方にかけての山岳地帯は今も険しい切り立った山が続く。冬は雪に閉ざされ作物もあまり取れない地域だ。
<アストゥリアスの山岳部>
不毛な地帯で険しい山岳部なのでイスラム教徒たちもあまり興味もなかったに違いない。(この時トレドから持って逃げた聖遺物や宝石が今もアストゥリアス首都オビエドの大聖堂のカマラ・サンタに保存されています。)
<アストゥリアス・オビエド大聖堂の中カマラサンタ>
コバドンガの戦い・ペラヨ
スペインの歴史上重要な戦争、722年この山の中「コバドンガ」でキリスト教徒が初めて勝利を手に入れた戦いがコバドンガの戦い。レコンキスタの始まりです。
この時のリーダーがペラヨ。ペラヨはトレド陥落の時に逃れた王族の血をひくと言われるが詳細は分かっていない。勝利したキリスト教徒たちはペラヨを王に選びアストゥリアス王国を建国。これが最初のキリスト教国家で今のスペインの基礎。今もスペインの皇太子はアストゥリアス皇太子と呼ばれる。(イギリスの皇太子をウェールズ皇太子と呼ぶように)ここからスペインの歴史で需要なレコンキスタが始まる。
<コバドンガ>
722年のコバドンガの戦いは西ゴート王国崩壊後たったの11年後にキリスト教徒が初めてイスラム教徒に勝った戦争。コバドンガに行くと険しい山の中に洞窟<サンタクエバ>がありそこにペラヨは今も埋葬されている。
<サンタクエバ、向こうにバシリカが見える>
アストゥリアスはキリスト教君主国スペイン発祥の地
722年アストゥリアス王国が建国される。今のスペイン君主国のもとになった国が出来た。アストゥリアスの人たちは長身で金髪に碧眼が多い。ビシゴートの末裔ゲルマンの血を引くからなのです。今のスペイン王妃(超美人)レティシアさんもアストゥリアスの出身。
フランク王国とサンティアゴの遺体の発見
丁度このころ今のフランスではフランク王国のメロビング朝宮宰カールマルテルがツールポワチエでイスラム教徒を撃退しその名声を高めた。
その息子がピピン3世として即位。フランク王国の国王になれたのはローマ法王(ステファヌ3世)の協力のお蔭なので見返りにラベンナを奪いのその土地をローマ法王に献上した(ピピンの寄進)これがローマ法王領の始まり。
その息子カール大帝が800年西ローマ皇帝に戴冠。その3年後スペインの北西の端で聖ヤコブの遺体が発見される。
聖ヤコブはスペイン語でサンチアゴ
聖ヤコブはキリストの12弟子のひとり。イベリア半島に布教にやって来ていたという伝説は古くからあった。エルサレムに戻った折にヘロデオ・アグリッパ王によって首を切られて処刑された。聖ヤコブの弟子たちが遺体を石の船に乗せて行先は風の向くまま旅に出た。その船がスペインのガリシアに着いたらしい。そしてその遺体が発見されたのが813年。大切に遺体を埋葬して教会を創ったら奇跡が起こった。山の中でイスラム教徒と戦っているキリスト教徒を助けに白い馬に乗った聖ヤコブが応戦してくれたのだ。
これは偶然ではなく政治と宗教が後ろにあったに違いない。
<白い馬に乗って戦う聖ヤコブ>
スペインの歴史上重要なレコンキスタの始まり
「コンキスタール」は征服するという意味のスペイン語。これに「レ」再びという言葉をつけて「レコンキスタ」。国土再征服運動の始まり。聖ヤコブの力を借りながら「あなたが戦争で異教徒と戦って死んでしまうかもしれません。でも魂は間違いなく天国に行けますから」と聖戦が行われた。
周りの小さなキリスト教徒勢力を少しづつ併合し首都は山の中から次第に南へ移動。カンガスデオニスに宮廷が置かれさらにオビエドへ移動。
次第にレコンキスタが進み首都はレオンに。王様の結婚などでアストゥリアス王国はレオン王国となる。さらにカスティーリア王国との結婚や遺産分割によりレオンはカスティーリアに併合されカスティーリア・レオン王国となる。
この頃南スペインはコルドバカリフ王国
シリアで革命が有りウマイヤ家の王子がはるばるスペインのコルドバまで逃げて来た。そして後期ウマイヤ朝が始まりコルドバの街にはモスクや大学、図書館が作られ人口が増え学者が集まり繁栄を極めていた。世界遺産メスキータはこの時代に創られた。
<コルドバ・メスキータ内部>
コルドバカリフ王国の記事はこちらです。別のウインドウで開きます。 <後期ウマイヤ朝。コルドバカリフ王国の繁栄>
再びトレドはキリスト教徒の手に
歴史を振り返って永遠に続いた帝国はひとつもない。そして内部からの亀裂が崩壊に向かっていく。豊かなコルドバ王国は繁栄し紀元1000年にこれほどの栄華を極めた街は他に無かった。しかし世の常、権力者の欲望と裏切り、内部紛争もあり11031年に後期ウマイヤ朝が崩壊する。
これがキリスト教徒たちに追い風となった。レコンキスタは進んでいきアルフォンソ6世率いるキリスト教徒軍が1085年にトレドを奪い返す。
<アルフォンソ6世のトレド奪回>
<トレドの街>
トレドを奪い返したカスティーリア国王アルフォンソ6世に2人の娘がいた。それぞれをレコンキスタで戦った勇敢な騎士と結婚させ土地を封土する。1人にカスティーリア王国を与え、もう1人は少し離れたイベリア半島西の端の方の土地を与えた。名前がポルト、そして川の対岸の街がカーレ。このふたつの名前がひっついてポルトカーレと呼ばれるようになる。これがポルトガルの始まりとなる。
アルフォンソ6世の時代はイスラム教徒たちも税金さえ払えばイスラム教徒として生活することが許されていた、または現実路線を取る人達はキリスト教徒に改宗し優遇されていた。コルドバから沢山の知識階級のイスラム教徒たちがトレドに集まり次第にトレドは当時のヨーロッパ随一の学問の都になって行く。ユダヤ教徒やイスラム教徒などの豊かな技術と知識、金融とネットワークをうまく利用した政策が取られていた。
最後の砦グラナダ王国アルハンブラ宮殿
キリスト教徒たちがさらにレコンキスタを進め南下していき1212年のハエンのナバス・デ・トロサの戦いで圧勝。これが天下分け目の合戦となりキリスト教徒が力をつけ勢い付く。イスラム勢力は内紛と裏切りの中セビージャは1248年に陥落。
最後に残ったイスラム王朝がグラナダ王国。ハエンの領主がやってきてグラナダに王国を作り何世代もの王たちが不規則な地形を整備して宮殿を作った。
<アルハンブラ宮殿>
スペインに残った最後のアラブ王朝の宮殿がアルハンブラ宮殿。1492年にカスティーリア王国イサベル女王率いるキリスト教徒軍により陥落するまでヨーロッパに残った最後のイスラム王朝です。奇跡ともいわれる存続で周りはキリスト教徒に囲まれ税金を払い裏切りや嫉妬が渦巻く宮殿の中では千一夜物語が続いていた。
アルハンブラ宮殿についての記事です。別のウィンドウで開きます。 <アルハンブラ宮殿グラナダ王国<イスラム建築の最高芸術>
1492年1月2日最後のアラブの王は無血開城を選び一族郎党を引き連れシエラネバダの与えられた土地を好まずモロッコへ逃げていった。グラナダの陥落でレコンキスタは終了しスペインはこの後大帝国へとなって行く。