マドリード旧市街のサン・ミゲール・バシリカ教会は国の歴史的建造物

マドリードの旧市街を歩くと賑やかなバル街に中世の教会や修道院が同居している。マヨール広場あたりは特に古い地区で散策しながら教会に入ってみるのも良いものだ。マイナーな場所ですがマドリード旧市街にある「サン・ミゲール・バシリカ教会」について調べました。

サン・ミゲール・バシリカ教会


サン・ミゲール・バシリカの歴史

12世紀、まだマドリードが寒村だったころアルフォンソ8世の命により殉教聖人フストとパストール聖人達を祀る教会が作られた。今もここの通りの名前はサン・フスト通りと呼ぶ。

サンフスト通り
筆者撮影サンフスト通り

*サン・フストとパストールはローマ時代の迫害で304年に殉教した子供達。スペインのアルカラ・デ・エナレスで7歳と9歳で殉教した。(子供達のはずなのにこのパネルが何故おじさんなんだろうと疑問に思って色々探したけど答えはまだ見つかりません。)

12世紀のマドリードはイスラム教徒から街を奪い返したばかりの頃。レコンキスタの真っ最中だった町にはせっせと教会が作られていった。サン・フスト・イ・パストール教会は古いマドリードに4番目に建てられた教会となる。(サンタ・マリア教会、サン・アンドレス教会、サン・ペドロ教会の次)

時代は移り変わり1738年時代はスペイン国王フェリペ5世の晩年の頃、スペイン王家がブルボン朝に変わったばかりの王様だ。マヨール広場で大きな火災があり被害は教会にまで及んだ。

マヨール広場の火災
museo historia de Madrid

 

火災で教会は廃墟になったその場所にフェリペ5世の妃イサベル・デ・ファルネシアの命により建てられたのが現在のサン・ミゲール教会。この時はまだ普通の教会だった。トレド大司教だったドン・ルイス・デ・ブルボンはフェリペ5世とイサベル王妃の末の息子で彼の為に1739年教会の再建が始まる。日本は江戸期徳川吉宗公の時代。ドン・ルイス・デ・ブルボンは8歳で既にトレド大司教と枢機卿の位を持っていた。当時の王家や貴族の世界で長男以外の息子達が生涯働かずに食べていける為聖職者の位を与えることは普通にあった。しかし8歳で枢機卿というのはギネスブックに載っているらしい。

*ドン・ルイス・デ・ブルボンはチンチョン伯爵とも呼ばれるフェリペ5世の2度目の結婚で生まれた3男。子供の時から聖職者になるよう教育されるが異母兄のフェルナンド6世が亡くなると次の王位を狙い兄王カルロス3世に疎まれマドリードから離れた僻地に飛ばされている。芸術愛好家で音楽家ボッケリーニや画家ゴヤの庇護者だった。

<ゴヤ作ドン・ルイス・デ・ブルボン>

ゴヤによるドンルイス肖像画
wikipedia public domain

 

教会が完成したのは1745年、イタリア人建築家ジャコモ・ボナビアと複数の芸術家たちによって建てられたイタリア・バロック様式の建築。その時もサン・フスト・イ・パストール教会と呼ばれていた。

サンミゲールバシリカ正面
筆者撮影、サンミゲールバシリカ

1790年に再びこの辺りを大きな火災が襲いその後のナポレオンの時代の略奪により近くにあったサンミゲール教会(今のサン・ミゲール市場に有った教会)と統合し両方の教区の人々がお祈りできる場所をここに確保した。

バシリカに昇格

1885年に現在の国会議事堂の場所に有ったイタリア人用の慈善病院と礼拝堂を壊した時、バチカンとスペインで話し合いが行われ大司教館の横にあるサンフスト教会をローマ直轄とした。その時のローマ法王レオ13世が自らの守護聖人大天使サン・ミゲールに捧げた教会とし1930年に小バシリカになったという。

バシリカとは

実はここは普通の教会(スペイン語でイグレシア)ではなくバシリカと呼ばれる。バシリカとはもともとは建築様式の事を言い古代ギリシャ・ローマ時代に集会に使われた建物の事を言う。ギリシャ語で「王の列柱廊」を意味するバシリケーという言葉から来ている説があるがいまだ諸説あるようだ。

カトリック教会でバシリカと呼ぶには実はきちんとした決まりがある。ローマ法王からの公式文書により特権を交付された教会の事で一般の教会より特別な4つの権利を与えられている。

①一般の教会より上位の教会として扱われる権利

②オンブレリーノを備える権利(ローマ法王専用の傘でオンブレリーノOmbrellinoはイタリア語。ラテン語でUmbraculum又はConopeoとも呼ぶ)

オンブレリーノ
Description
Français : Ombrellino de la basilique saint Sauveur de Rennes.
Date 4 November 2011
Source Own work
Author EdouardHue

③ティンタンタナパリウムというローマ法王を象徴する鐘を持つ権利。

ティンタンタナパリウム
De Pymouss – Trabajo propio, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=21444050

 

④ミサの時に特別のカッパ(Capa magna)を着用する権利。

 

バシリカには大バシリカと小バシリカとバシリカがあり大バシリカは世界に4つしかなく全てローマに有る。(サン・ピエトロ、サンタ・マリア・マッジョーレ、サン・パオロ、サン・ジョバンニ・ラテラノ)小バシリカとバシリカは世界に約1500あり大半がヨーロッパ、スペイン国内に100以上ある。小バシリカとバシリカの違いは不明。

建築

建物の構造はラテン十字形でイタリア人建築家のジャコモ・ボナビアによって始まり関係者何人かが関わり完成している。マドリッドに有る教会で唯一のイタリアバロックの正面を持つ。壁の一部は今も12世紀のサンフスト教会の物が使われている。

サンミゲールバシリカの正面
筆者撮影、サンミゲールバシリカ

(写真下)正面の木の扉の上にサン・フストとパストールの殉教シーンが浮き彫りになっている。

バシリカサンミゲールの浮彫
筆者撮影、バシリカ・サン・ミゲール

すぐ右となりの建物は同じ時代に出来た大司教館で今も使われている。ローマ法王がマドリードに滞在する時の宿泊場所になるそうだ。

 

教会と司教館の間に「パンの小道=Pasadizo de pannecillo」がある。ドン・ルイス枢機卿が貧しい人にここの通りの窓からパンを上げたところだそう。

パンネシート通りのパネル
筆者撮影、バシリカ・サン・ミゲール

内部

内部はラテン十字形で両側に8個の礼拝堂。一番奥にはサン・ミゲール(日本では聖ミカエルと呼ぶ)の主祭壇。

教会内部
筆者撮影、サンミゲールバシリカ

写真下のキリスト磔刑像は18世紀、聖母像は20世紀の物で毎年復活祭の日曜日の山車で外へ出される。

教会内部の礼拝堂
筆者撮影

天井画はフレスコ画。暗くて見えにくいがサンフストとパストールの栄光という題名でゴンザレス・ベラスケス兄弟によって描かれた。

サンミゲールバシリカの天井
筆者撮影、バシリカ・サン・ミゲル

オプスデイの創始者のホセ・マリア・エスクリバ・バランゲールに捧げた礼拝堂。ホセ・マリアがマドリードに来たとき最初のミサをここであげている。

音楽家ルイージ・ボッケリーニが埋葬されていた

音楽家ボッケリーニはイタリアのルッカで生まれた作曲家でチェロ演奏者。パリで成功していたがスペイン王家に招かれドン・ルイス王子専属演奏者兼作曲家として活躍する。ドン・ルイスのお気に入りだったが1785年にドンルイスが亡くなったあとは失職し寂しい後世を送り1805年にマドリードで亡くなっている。ドン・ルイスにちなんでこの教会に埋葬されていたがムッソリーニの要請で1927年に生誕地イタリアのルッカに戻された。

このバシリカは現在スペイン国の歴史的建造物に指定されている。

サン・ミゲール・バシリカの詳細

場所*calle de San Justo 4  旧市街マヨール広場近く

 


時間:

冬の平日9時45分から13時15分/17時30分から21時15分

冬の祝日9時45分から14時15分/18時から21時15分

夏の平日9時45分から13時15分/18時から21時15分

夏の祝日 9時45分から13時30分/18時30分から21時15分

入場無料

ミサの時間は写真は遠慮しましょう

マドリード、マヨール広場は旧市街の中心。周りにバルやメゾンやお土産物屋がどっさり。

マドリード首都になったのは割と最近の事、と言っても16世紀、そしてその頃町の整備が行われた。中心部にあるマヨール広場界隈はその頃に造られている。それ以来様々なお祭りや行事に使われマドリードを訪れた人々が必ずやって来るマヨール広場とその界隈についての記事です。

マドリード、マヨール広場


マヨール広場Plaza Mayor

マヨールはスペイン語で大きなという意味。マドリードの旧市街の中心にあり一年間を通して様々なイベントやお祭りが行われるがマヨール広場に面した建物は今も住居として使われている。

 

マドリードマヨール広場
マドリード、マヨール広場、筆者撮影

広場の真ん中の騎馬像はフェリペ3世。日本からの侍達が謁見した王様だ。この騎馬像はマドリードの狩猟場に有ったものをイサベル2世の時にここへ移動させた。

マヨール広場歴史

マドリードが首都になるよりもっともっと前マドリードにキリスト教徒が住みはじめ要塞を作った。次第にここはアラバル広場と呼ばれ「市」が開かれる重要な場所となり様々な地方からやって来る道の交差点になっていた。16世紀マドリードを帝国の首都に決めたフェリペ2世の命でこの広場の刷新が行われることになりファン・デ・エレーラにより設計が行われたが実際に工事が始まったのは次の王フェリペ3世の時だった。かつて魚市場だったところはカサ・デ・パナデリアというパンのコントロール局で今は名前だけがの残る。表面に神話画が描かれ地上階にインフォメーションが入る建物だ。

マヨール広場
マドリード、マヨール広場、筆者撮影

 

大きな火災が3度起こりこの広場は度々改修されている。1790年の火災の後ファン・デ・ビジャヌエバにより広場は再建され9か所のアーチが作られ1854年にほぼ今の形になった。9か所のアーチのひとつクチジェロス門から階段を下りるとクチジェロス通りに出る。クチジェロはナイフという意味でこの辺りはナイフ職人が住んでおり広場内の肉屋に刃物を納めていた。この階段を下りていくとレストラン街へ通じる。

マヨール広場
マドリード、マヨール広場、筆者撮影

 

マヨール広場界隈のバルやレストラン

広場の中

広場のなかにはテラスが有り一年中食事やお茶を楽しむ人で賑わっている。全体的に値段は高めでツーリスト・プライスです!だが夏の夜長や気候のいい時にテラスでビールを飲むのも良いものだ。スリや置き引きに注意しましょう。テーブルの上のスマホや椅子に掛けたカバンは狙われます。クリスマスの時期はテラスは無い。

サンミゲール市場

広場の西側の門から出るとそこはサンミゲール市場。元は生鮮食料品の市場だった。中心部は住民が次第に少なくなり再開発されて今は市場だった建物の中に飲食店が入る。年中朝から深夜まで大変な賑わいだ。

サンミゲール市場
マドリード、マヨール広場横、サンミゲール市場

生ハムやピンチョや魚介類やワインやタコやこの中で完結できる。いつも非常に混んでいるので座れないと思った方が良い。

サンミゲール市場
マドリード、マヨール広場横、サンミゲール市場、筆者撮影

ここならパエリアをタパスで少量だけの注文が可能だ。(パエリアはお米料理専門店で食べる場合最低2人前からになる)

マドリード、マヨール広場、サンミゲール市場、筆者撮影

サン・ミゲール市場の中も値段は高めでツーリスティックです。殆どが観光客で地元のマドリードの人は行かない。でも中は色んなものがあって楽しいので一軒ワインとピンチョを楽しんで次へ行ってはいかがでしょう。

この地区でしっかりレストランでお食事の場合別記事でバスク料理レストラン

マドリードの中心部バスク料理人気レストラン<ピミエント・ベルデ>

クチジェロス通りのメゾン

サンミゲール市場を出てすぐに横(マヨール広場との間の道)の通りを下って行くとメゾンという洞窟の様な飲食店が続く。チャンピニオンというマッシュルーム屋もここにあってそれ以外も居酒屋風の店が続く。マッシュルーム屋は地元の人もやって来る人気店。

クチジェロス通りのメゾン街
マドリード、マヨール広場、クチジェロス通り、筆者撮影

 

更に坂道を下ると有名レストランも

上記のクチジェロス門から下る階段と合流する道には沢山飲食店が続く。ダニエラはコシードで有名。年内入ってすぐはバルもあってつまみやピンチョスがある。

マヨール広場近くのレストラン
マドリード、マヨール広場界隈、筆者撮影

ボティンはギネスブックにも乗っている子豚の丸焼き専門店。ヘミングウェイが通ったという事でアメリカ人観光客が非常に多いレストラン。予約をして行かないとまず入れません。

マドリードマヨール広場
マドリード、マヨール広場界隈レストラン、筆者撮影

アルパルガタという麻布のサンダルやスニーカー屋も何軒もあります。

マドリードマヨール広場アルパルガタ
マドリード、マヨール広場、筆者撮影
トレド通りから下ると

クチジェロス門の左となりの門から出るとトレド通り。この通りも沢山飲食店があり私のおすすめはエビのアヒージョ屋です。

マドリード、マヨール広場
マドリード、マヨール広場筆者撮影

カサ・デ・アブエロは市内に3軒あるエビのアヒージョ100年の老舗。

マドリード、マヨール広場
マドリード、マヨール広場、エビ屋、筆者撮影

日曜日のマヨール広場

日曜日は古切手コイン市が開かれマニアたちが毎週集まる。ここから道を下って行くとラストロ(蚤の市)も近いことから地元民もマヨール広場から蚤の市へと流れていく。

マヨール広場日曜日
マドリード、マヨール広場、筆者撮影

 

クリスマスのマヨール広場

クリスマスの時期はクリスマスマーケットとイルミネーションで賑やかになる。クリスマスマーケットとイルミネーションは11月の最後の週末から1月5日夜まで。クリスマスマーケットはベレン人形というキリストの誕生の場面のお人形や置き物、パーティー用のグッズ等。

マヨール広場のクリスマスマーケット
マドリード、マヨール広場のクリスマス、筆者撮影

 

復活祭のマヨール広場

復活祭は毎年移動する移動祝祭日で3月から4月頃にキリストの受難の1週間山車が出る。旧市街の教会の山車はほとんどがマヨール広場を通過する。スケジュールはネットやインフォメーションで調べることが出来る。

復活祭の山車
マドリード、マヨール広場、復活祭、筆者撮影

マヨール広場行き方

マヨール広場は旧市街の真ん中にある。ソルSOLから徒歩5分、オペラOPERAから徒歩10分、スペイン広場から徒歩15分。界隈には飲食店やお土産品地元の人が集まるバルなどがあり一年中賑やかです。マドリードを訪れたら是非ともマヨール広場を楽しみましょう。

カバ・バハ通りまで下ってみよう。

更に下りの坂道を5分下って行くとカバ・バハ通りへ。ここは更にディープで300メートルの細い通りにバルや人気レストランが並ぶ。日本のガイドブックには紹介されていないですが安全です。別記事で2軒おすすめバルを紹介しています。

マドリード中心部のカバ・バハ通りの美味しいバル2軒、カバ・バハ通りは300メートルに50軒の飲食店。

マヨール広場まとめ


マドリードの旧市街のど真ん中にあるマヨール広場。お祭りの時やお祭りでない時もここに来れば楽しめる。お土産屋さんやバルやレストラン等が沢山あるのでマドリードに滞在するなら是非ともマヨール広場を散策して楽しんでください。

スリは必ずいるので気をつけましょう

旅行で使うスペイン語、機内やホテルで即使える便利で簡単な表現集

スペイン語を使ってみよう。ここではスペインおよびスペイン語圏を旅行する時に使えるスペイン語を集めてみました。スペイン本国のスペイン語なので南米諸国は少し違う事が有ります。

スペイン旅行で使える簡単なスペイン語集


知らない人でもお店でもまずは挨拶

まずは挨拶 オラ~

一番最初に覚えなくてはいけない単語がHOLA=オラです。もっとも簡単で誰もが使っている言葉で知らない人でも最初に挨拶をします。HOLA=オラは英語のハローみたいな気さくな挨拶です。にっこり笑って挨拶しましょう。

 

挨拶はHola オラ

お店に入った時やエレベーターで一緒になった人等知らない人でも挨拶をしましょう。オラ~だけでも大丈夫です。

おはようございます=Buenos dias=ブエノス・ディアス

こんにちは=Buenas tardes=ブエナス・タルデス

こんばんわ、おやすみなさい=Buenas noches=ブエナス・ノーチェス

スペイン人は朝起きてからお昼ご飯を食べ終わるまでがブエノス・ディアス、その後夕食を食べ終わるまではブエナス・タルデス、ベッドで横になるまでがブエナス・ノーチェスです。

ありがとう=Gracias グラシアス

発音は簡単、カタカナで書いた通りそのまま発音しましょう。

この3つの単語を使いこなせばなんとかなる


出来ますか?Pudeo プエド?

本来はプエドの後に動詞を付けて

食べていいですか?Puedo comer プエド・コメール?

取っても良いですか?Puedo coger?プエド・コヘール?

飲んでも良いですか?Puedo beber?プエド・ベベール?

等と動詞のプエドの後に原型をつけて~出来ますかと使う助動詞だがプエド?だけで指さしたりジェスチャーで充分わかって貰える使える単語。

有りますか?Hay? アイ?

部屋は有りますか?Hay habitacion?アイ・アビタシオン?

パンは有りますか?Hay pan?アイ・パン?

お水は有りますか?Hay agua?アイ・アグア?

アイの後ろに欲しい物をつけるだけで簡単に使える。

通路側の席あるかすか?Hay asiento en el pasillo?アイ・アシエント・エン・エル・パシージョ?

という場合にも使えますね~

お願いしますPor fabvor ポルファボール

英語のプリーズにあたる言葉で様々な場面で便利。道を譲ってほしいときや何か尋ねたいとき、お願いしたいときに使える日本語のスミマセンとお願いしますを一緒にした言葉。

これらの3つはこの下の様々なシチュエーションでも紹介します。是非覚えましょう。

機内で使うスペイン語


機内にて呼びかけ

ヨーロッパでは働いている人とお客様は対等です。何かを頼む時も丁寧にお願いをしましょう。あまりぞんざいな態度は教育が無い人と思われ無視されたり嫌な顔されたりしてしまいます。

すみません=Disculpe=ディスクルぺ

ディスクルぺは大変丁寧な呼びかけで相手に「お願いしてもよろしいですか?」というニュアンスです。相手が何かしていたり誰かと話しているのを中断したりする時に使えます。

すみません=Perdon=ぺルドン

これもスミマセ~ンと呼びかけに使えます。ちょっとに簡単に謝る場合にも使えます。日本語のすみませんと同じですね。後ろのドンにアクセントをつけていいます。

お願いします=Por favor=ポル・ファボール

上にも出て来たポル・ファボールは色んなシチュエーションで使える便利な言葉。英語のプリーズにあたります。この3つのうちどれか1つでも使えれば完璧です。

機内で冷たい飲み物をスペイン語で注文

飛行機が水平飛行になると冷たい飲み物が運ばれてきます。

係:何を飲まれますか?=Que desea tomar?=ケ・デセア・トマール?

 

*お水を下さい un vaso de agua, por favor

ウン・バソ・デ・アグア・ポルファボール

*ビールを下さい。una cerveza, por favor

ウナ・セルベッサ・ポルファボール

*赤ワインを下さい un vino tinto por favor

ウン・ビノ・ティント・ポルファボール

*白ワインを下さい un vino blanco por favor

ウン・ビノ・ブランコ・ポルファボール

ワインに関しては機内は小さなボトルなのでボトルで~とかグラスデ~という言葉を省いています。

*オレンジジュ-スを下さい。un  zumo de naranja por favor

ウン・スーモ・デ・ナランハ・ポルファボール

有りますか?の言い方 アイ~?

最初に紹介した便利な言葉がここで活躍

アイ?有りますか?

*カバは有りますか?Hay cava?

アイ・カバ?

*リンゴジュースは有りますか?=Hay zumo de manzana?

アイ・スーモ・デ・マンサーナ?

*毛布はありますか?Hay manta?

アイ・マンタ?

アイ?は簡単でとっても使える表現です。

便利な単語「できますか?プエド?」を使おう

「プエド?」は英語の「can I」にあたる。その後に何もつけなくてもジェスチャーで理解されスペイン人も良く使う。座席の通路側に誰かがいて自分の座席はその奥なので座席を指さして「プエド?」長いフライトの途中ギャレーに行って飲み物を指して「プエド?」で「これ飲めますか?」クレジットカードを出して「プエド?」で「使えますか?」

出来ますか?Puedo?

プエド?

で指さすだけ・・・

機内で食事の時間  キエロ・ア~私は~が欲しい

冷たい飲み物のサービスが終わると次はお食事が運ばれてきます。長距離便なら大抵チョイスメニューが有りますね。

お食事何にされますか?Que desea ? 何にしますか?

(座席の背もたれを戻すのが礼儀です。前の人が倒したままだったらクルーに合図して戻してもらいましょう。)

*日本食をお願いします Quiero a  comida Japonesa por favor

キエロ・ア・コミーダ・ハポネサ・ポルファボール

(全部言わなくてもハポネス・ポルファ・ボールで充分です)

*洋食をお願いします Quiero a comida occidental por favor

キエロ・ア・コミーダ・オクシデンタル・ポルファボール

(省略でオクシデンタル・ポル・ファボール、エウロペオ・ポルファボール)

*チキンをお願いします Quiero a plato de pollo por favor

キエロ・ア・プラト・デ・ポージョ・ポルファボール

(省略してポージョ・ポルファボール)

*魚をお願いします Quiero a plato de pescado por favor

キエロ・ア・プラト・デ・ぺスカード・ポルファボール

(ぺスカード・ポル・ファボール)

*肉をお願いします Quiero a plato de carne por favor

キエロ・ア・プラト・デ・カルネ・ポルファボール

(カルネ・ポル・ファボール)

 

飛行機や空港に関連したスペイン語の単語

飛行機 Avión アビオン

空港Aeropuerto アエロプエルト

航空会社 compañía de aero línea コンパニーアデアエレオ

座席  asiento アシエント

搭乗券Targetabed embarque タルヘタ・デ・エンバルケ

搭乗口 puerta de embarque プエルタ・デ・エンバルケ

搭乗時間 hora de embarque オラデエンバルケ

手荷物検査 contorl dela seguridad コントロールデラセグリダッ

ホテルで使うスペイン語


チェックイン

私:こんにちは田中です Hola soy Tanaka

オラ・ソイ・タナカ

私:2泊予約しています Tengo una reserva de dos noches

テンゴ・ウナ・レゼルバ・デ・ドス・ノーチェス

ホテル:貴方のパスポートを見せてください Su passaporte por favor

ス・パサポルテ・ポル・ファボール

ホテル:あなたのクレジットカードがギャランティーの為必要です

Nesecito una targeta de credito para la garantia

ネセシート・ウナ・タルヘタ・デ・クレジト・パラ・ラ・ガランティア

私:わかりました De acuerdo

デ・アクエルド

私:朝食はついていますか Tengo desayuno incluido?

テンゴ・デサユーノ・インクルイード?

私:荷物を預かって貰えますか? Se puede guardar mi maleta?

セ・プエデ・グアルダール・ミ・マレータ?

ホテルでトラブル

~が出来ませんはNo puedo~

プエド~の否定形なのでノープエドでジェスチャーや物を指せばわかって貰える便利な言い方です

*部屋の扉が開きません No puedo abrir la puerta

ノー・プエド・アブリール・ラ・プエルタ

鍵を見せて「ノープエド」で伝わります。

 

~が使えませんはNo funciona ノー・フンシオナは物が動かない時に使える

*テレビが見れませんNo funciona la television de mi habitacion

ノー・フンシオナ・ラ・テレビシオン・デ・ミ・アビタシオン

*電気が付きません No funciona la luz de mi habitacion

ノー・フンシオナ・ラ・ルース・デ・ミアビタシオン

~が有りませんNo hay ノーアイ

*シャンプーが付いていませんNo hay champu en mi habitacion

ノー・アイ・チャンプー・エン・ミ・アビタシオン

*コップが部屋に有りませんNo hay vaso en mi habitacion.

ノー・アイ・バソ・エン・ミ・アビタシオン

チェックアウト

ホテル:冷蔵庫の使いましたか?Ha cogido algo de minibar?

ア・コヒード・アルゴ・デ・ミニバー?

私:いえ何も使っていません  No 、no he cogido nada

ノー・ノー・エ・コヒード・ナダ

タクシーで


タクシーは手動で扉を開ける。一応いいですか?と聞いてから乗りましょう。ここでもプエド?が活躍。もちろん先に挨拶オラ~。

*乗って良いですか?Puedo?

プエド?

正確にはPuedo subir ですがプエド?で充分通じます。

~へ行きたいは「ア~」で充分通じる

ア+目的地で充分通じる

*プラド美術館にお願いします A  Museo de Prado por favor.

ア・ムセオ・デ・プラド・ポル・ファボール

*この住所にお願いします A este direccion por favor.

ア・エステ・ディレクシオン・ポル・ファボール

*空港にお願いします A aeropuerto por favor

ア・アエロプエルト・ポルファボール

 

*クレジットカード使えますか?Se puede pagar con la targeta de cregit?

セ・プエデ・パガール・コン・ラ・タルヘータ・デ・クレジト?

こんなに長いのはとっさに出て来ないという方ははプエド?と言ってクレジットカードを見せましょう。便利な単語プエド?

*おつりはいりません Se quede con la vuelta

セ・ケデ・コン・ラ・ブエルタ

もっと簡単に

*これでいいです Ya esta!

ジャ・エスタ!

タクシーのチップはほんの少額で大丈夫です。おつりの中から端数を切り上げて支払う程度です。

それ以外で知っていると便利な言い方

~はどこですか?Donde esta~ドンデ・エスタ?

*トイレはどこですか? Donde esta el servicio ?

ドンデ・エスタ・エル・セルビッシオ?

*いくらですか?Cuanto cuesta?

クアント・クエスタ?又はクアント?だけでも充分。

ポイントになる3つの単語プエド?、アイ?、ポルファボール


沢山書きましたがいきなりそんなに覚えられなくても挨拶のオラ、出来ますかのプエド?、有りますかのアイ?お願いしますのポルファボールこの3つを使えればかなり便利ですね。後はありがとうのグラシアス。スペイン語圏はどこに行っても人は親切で感じ良いので積極的にスペイン語を使うと旅がもっと広がります。

バルで使えるスペイン語<旅行中に便利な簡単なスペイン語・バル編>

 

中世の自治都市「堺」の商人、鉄砲と茶の湯と南蛮人のお話

鉄砲と茶の湯と南蛮人、「堺」という町でこの三つが繋がった。戦国時代の堺は財力を蓄えた商人たちが活躍する自治都市で日本最大の物流の拠点で情報センターだった。そこに種子島から火縄銃が伝わり鉄砲鍛冶たちが登場する。既に鋳物や刀を作っていた堺でヒット商品となった鉄砲と火薬の原料の貿易で豪商が登場する。裕福な商人達は茶の湯を楽しみ茶室で秘密のトップ会合を行った。その茶室に宣教師が招待されミサが行われたという。自治都市「堺」と鉄砲と茶の湯と南蛮人について調べてみた。

鉄砲と茶の湯と南蛮人

倭寇と王直と種子島

倭寇という海賊集団がいた(後期倭寇)。彼らは東アジアで中国沿岸部から朝鮮半島を荒らしていた。今の私たちよりももっとインターナショナルで九州から瀬戸内海を拠点として中国人と朝鮮人に日本人やポルトガル人も含むグローバルな海賊集団だった。その中に王直(おうちょく)という海賊 の親分がいた。

「王直」は海禁政策の明で密貿易をやっては逃げて大いに儲けていたちょっとしたワルだった。日本人の信頼を得て五島から平戸に移り住んでいた「王直」がチャーターしたジャンク船が1543年種子島に漂着した。

中国のジャンク船
wikipedia public domain

専門家は漂着かわざわざやって来たかで意見が分かれている。その船に乗っていたのがポルトガル商人達。インド航路発見後のポルトガルはアジアへ進出して商人達が活躍していた。種子島の領主と南蛮人は王直の筆談で砂浜に字を書いて通訳とし交渉が行われた。当時の種子島の領主は種子島時堯(ときたか)という16歳、交渉が成立して手に入れたのが鉄砲、火縄銃だった。

種子島銃
Arquebus.(Tanegashima Hinawajyu・Japanese:種子島火縄銃)
this The Arquebus is in the Portugal Pavilion in Expo 2005 Aichi Japan.
Photo by Gnsin

この時購入した火縄銃の値段は2丁で2千両、今のお金に換算して2億円という説がある。購入した鉄砲を種子島の鍛冶屋に「同じものが作れるように」と命令が下った。矢板金兵衛清定という鍛冶屋は試行錯誤の末何とか同じような物を作れるようになったが自分で解決できなかったのが「ネジ」だと言われる。苦悩した鍛冶屋は一年待って翌年やって来た別の南蛮人に娘を嫁に出して「ネジ」の作り方を手に入れたという説がある。日本人は自分たちで鉄砲を作った最初のアジア人となる。

*2丁のうちのもうひとつは紀州の根来寺(ねごろじ)の津田監持(つだけんもつ)という僧侶に献上され紀州でも生産されていく。当時の寺は今の大学の様なところで根来寺の僧侶は僧兵で知識人で寺には経済力も有った。根来寺と島津家は主従関係に有り鉄砲は島津家経由で和歌山に至った。根来寺と僧兵の事もイエズス会司祭ルイス・フロイスの書簡によって詳しく本部に書き送られている。

根来寺
Description
English: Pagoda of Negoro-ji is Japan’s National Treasure, in Iwade, Wakayama prefecture, Japan
日本語: 根来寺大塔は日本の国宝, 和歌山県岩出市
Camera: Sony DSLR-A100
Date 23 June 2007
Source Own work
Author 663highland

堺の港と産業

応仁の乱で兵庫の港が衰退し日明貿易の中継地点となったのが堺だった。堺は瀬戸内海航路の起点で山口、九州、土佐へ向かう船が物を運び日本最大の物流の拠点となっていた。金属産業が古くから栄え鋳物産業の国内の中心だった堺では刀や武具を伝統的に製造をしていた。そこに火縄銃が伝わり堺で大量に生産されるようになったのにはこれらの基礎が有った。

堺と技術

既に古墳時代に堺には鉄を鋳造する技術が大陸から入って来ていた。堺の仁徳天皇陵を造営する工事用にスキやクワなどの土木工事用の道具が必要になり大量に作られた。その技術が平安時代には刀となり継承されていた。

堺の刃物
堺市立博物館似て筆者撮影

河内鋳物師(かわちいもじ)とは鋳造物を作るプロの職人集団。飛鳥時代に大陸からやって来たと考えられているが12世紀から15世紀にかけ堺に多くの工房を構えた。鋳造物は金属を溶かして鋳型に流し込み鍋や鎌やお寺の鐘などを創る。鎌倉大仏や奈良の大仏、お寺の梵鐘を作るのに活躍した専門家が境にいた。

堺の商人は薩摩から種子島そして琉球と船を操り商売をし広い範囲で活躍する。時は戦国時代、堺の商人達は都市を堀で固め自分たちで守り運営していた。選ばれたエリート商人たちが会合衆(エゴウシュウ又はカイゴウシュウ)となり独自の町の運営をした自治都市だった。

写真下はオルテリウス作成の日本地図にSAKAYと堺が描かれている。オルテリウスはフランドル人の世界地図製作者で1595年版に日本地図が追加された。ヨーロッパにおける最初の日本地図であるとされている。

オルテリウスの日本地図に堺
堺市博物館展示のオルテリウス日本地図、筆者撮影

下写真は堺の開口神社(アグチ・ジンジャ)。会合衆の会合の場となった神社。1535年には境内の念仏寺の修復に堺の有力者が寄付をしているがその中に千利休の名が残る

開口神社
堺開口神社、筆者撮影
堺と鉄砲
鉄砲の作り方
堺の鉄砲、筆者撮影

橘屋又三郎は堺の商人。火縄銃が伝わった頃の種子島に1年か2年滞在し鉄砲の作り方を学んだ。彼は「鉄砲又」(てっぽうまた)と呼ばれ堺に鉄砲の作り方を伝えた。頭が良いのはこれを独り占めせず分業にして大量生産できるようにした。日本の産業の「分業して大量生産」はここから始まっている。鉄砲の製造と使用は瞬く間に広まり石山本願寺の戦い(1570年)には8000邸の銃が使われ長篠の合戦で信長は武田軍を破る。その後日本人は独自の方法で銃の性能を高めていった。日本の工業技術の基礎が既に堺にあった。

<和歌山市立博物館にある石山の戦いの配陣図>

石山本願寺の戦い配陣図
wikipedia public domain

 

江戸時代は戦争が無くなったので鉄砲は進化しなかったと言われているがその後も鉄砲に象嵌を入れたり豪華になる。武器としては進化しなかったが装飾品としては作られていった。

<堺市博物館に並ぶ江戸時代の鉄砲>

堺の鉄砲
江戸時代の堺の鉄砲、筆者撮影

堺の鉄砲鍛冶は江戸時代にも続いて多くの鉄砲を生産している。戦いは無くなったが参勤交代の時に武士は銃を持ったので用途は様々でも江戸時代に作り続けられていた。

堺鉄砲鍛冶屋の屋敷
堺江戸時代の鉄砲鍛冶屋、筆者撮影

フランシスコ・ザビエル

ヨーロッパでは宗教改革の反動でイエズス会が結成された。世界宣教を目指すイエズス会がアジアへキリスト教を布教するために宣教師を派遣。

フランシスコ・ザビエル
wikipedia public domain

フランシスコ・ザビエルはポルトガル船に乗りインド航路を通りインドに滞在後東南アジアに向かいマラッカで日本人と出会っている。アンジロウかヤジロウという名の鹿児島出身の日本人で日本で犯罪を犯して悔悛しておりザビエルを探して逢いにやって来た。頭が良いアンジロウを気に入ったザビエルは彼と日本を目指す事にし船で日本へ向かった。鹿児島から長崎、山口、と移動し1550年(天文9年)海路「堺」に到着した。堺の有力商人が日比屋了珪(ヒビヤリョウケイ)に紹介状を書いて渡してくれた。

日比屋了珪(ヒビヤリョウケイ)

日比屋了珪についてはあまり良くわかっていないらしい。今の堺のザビエル公園(戎公園)に屋敷を構えており当時はそこが堺の貿易港だったという。当時にしては珍しい3階建ての屋敷、あるいは蔵を持っていたという。

<堺のザビエル公園>

堺のザビエル公園
堺のザビエル公園、筆者撮影

 

日比屋了珪はザビエルの保護者となり自ら1564年に受洗し洗礼名をディエゴとした。堺の豪商で有力者なので茶人だったしすぐ近くに千利休の屋敷も有った。京都にいる小西隆佐という堺の豪商に手紙を書きザビエルを紹介している。小西隆佐は後にルイス・フロイス(日本史を書いたイエズス会司祭)に逢い京都で最初にキリシタンになった人物。

*ルイス・フロイスはイエズス会ポルトガル人司祭。文筆と語学の才能がありイエズス会の通信の仕事をする。日本で布教をしながら日本語を学び信長や秀吉に謁見している。彼は日本でのイエズス会の記録を残す命を受け「日本史」や「信長公記」等がある。この時代の通算してまとまった日本の歴史はフロイスの記録や耶蘇会通信ではじめて知ることが出来る。

日比屋了珪とルイス・デ・アルメイダ

イエズス会士ルイス・フロイスとルイス・デ・アルメイダは1565年に豊後から堺の日比屋了珪の元を訪れている。この時アルメイダは健康を害しており堺に留まり日比屋了珪の屋敷で世話になった。健康を回復したアルメイダは別れの時に日比屋了珪から宝を見せられた。「彼らはある粉末にした草を飲むためその茶碗を使い・・・それは茶と呼ばれ・・・」と報告書に茶の事が出てくる。何よりも彼を驚かせたのはヨーロッパ人は金銀宝石を喜ぶが日本人は「古いひびが入った椀」にイエズス会日本支部の年間予算程を払い、それを使った神聖な儀式を大切にしている事だった。

ルイス・デ・アルメイダ
聖母文庫、森本繁著ルイス・デ・アルメイダ表紙から

*ルイス・デ・アルメイダはもともとリスボンで医学を学んでいた。その後貿易に従事し莫大な財産を手にした。日本でイエズス会宣教師の慈善活動に感銘して宣教師になる。後に大分でライ病患者や間引きされる子供達の為に病院を作り外科技術を伝えた人物。大分に彼の名前が付けられたアルメイダ病院がある。

茶の湯と宣教師

日本でのキリスト教の布教を成功させるためにイエズス会の宣教師たちは日本の事を事細かくリサーチし本部へ手紙を書き送っている。茶室や茶の湯の事も報告書に詳しく記載されている。堺の豪商は茶人で宣教師たちは彼らと交流を持ち神聖な茶室にて親睦を行ったと考えても不自然ではない。カトリックのミサで使う布地の扱いと茶の帛紗(ふくさ)の使い方の共通性は以前から指摘されている。

茶室
茶室の再現、筆者撮影
耶蘇会日本通信(やそかいにほんつうしん)

日本で活躍したイエズス会宣教師たちが事細かく日本の事を本部に報告している。それらをまとめた書簡をその後日本に行くイエズス会士の為に出版したのが耶蘇会日本通信。日本の布教のためのノウハウ集。その中に堺の事をガスパール・ビレラという司祭が「堺の街は豊かで東洋のベニスのようだ」と書いている。

*ガスパール・ビレラはポルトガル人のイエズス会司祭。インドのゴアから大分の豊後で布教。平戸から京都に向かい教会を作っている。その後京都を追い出され堺へ向かい畿内を中心に活躍したポルトガル人司祭。

 

火薬と鉛

鉄砲が作れても火薬と玉が無いと武器としては意味が無い。球を作るための鉛は日本国内にもあったが東南アジアや中国から輸入した。イエズス会やその後やって来るオランダ商人達もこの貿易に参入する。

火薬の原料は硫黄、木炭、硝石、で日本国内では硝石が取れないのでインドからの輸入になる。先に出て来た「倭寇の王直」は硝石の取引をはじめて大儲けをしている。

信長と堺

豊かな堺を信長が手に入れたいと思っても不思議ではない。天下を取りたい信長にとって堺の財力と鉄砲を利用したかった。信長は軍資金を堺に要求し包囲された堺は最初は抵抗するが条件をのむ。表面上は信長に屈服した堺だったが堺の茶人今井宗久は信長に茶の湯を教え信長の絶大な信頼を手にいれ天下統一を支えた。その後千利休が秀吉の元で政治に関係していった。

南蛮人が描かれた屏風
堺歴史博物館の屏風に南蛮人、筆者撮影

堺へ行った時の旅の記録です。

「堺」への旅の記録、鉄砲鍛冶と茶の湯と南蛮人

 

最後に

千利休、今井宗久、津田宋及ら天下の茶人が顔をそろえた堺に人が集まり物が集まり文化が栄えた。日本一の情報センターにイエズス会の宣教師が滞在していた時代の何かが見たくて堺に行ったが大坂夏の陣で堺は焼き払われ残っているのは江戸時代以降の街並みだった。江戸時代1610年には平戸からオランダ船で最初の日本の茶がヨーロッパに向けて輸出された。

 

 

 

 

アメリカの土地の名前にスペイン語が沢山あるのをまとめてみた

スペイン語がアメリカ合衆国の町や州の名前に多く使われているのをご存じだろうか。特にアメリカの西海岸の町の名前に多いのは大航海時代にスペイン人達が入植して開拓していったから。ロス・アンジェルスやサン・フランシスコ、ネバダ州やコロラド州等意外と多い。ここではアメリカ合衆国の土地につけられたスペイン語の名前を紹介します。

アメリカの地名にスペイン語が沢山

Los Angeles

ロス・アンジェルスはアメリカ西海岸の大都会。名前は天使たちという意味のスペイン語。Losは男性名詞の定冠詞の複数形。Angeles は天使。スペイン語の発音はロスアンヘレス。正確には天使の女王である聖母マリアの街。正式には El Pueblo de Nuestra Señora la Reina de los Ángeles

San Francisco

サン・フランシスコもアメリカ西海岸の町でロス・アンジェルスと並んでアメリカ合衆国西海岸の大都会。聖フランシスコという聖人にちなんだ名前から取られた。カトリックのフランシスコ会の修道士によって築かれた街。

Las Vegas

ラス・ベガスはカジノで有名なアメリカのネバダ州にある町。Las はスペイン語の女性名刺につける定冠詞、Vegaは豊かな肥沃な大地という意味のスペイン語。19世紀にモルモン教徒が付近のネバダ砂漠のなかで窪んだオアシスを見つけた。肥沃なベガの複数形がラス・ベガス。砂漠の中の肥沃な土地。

Nevada

カジノの町ラス・ベガスが有るネバダ州のネバダはスペイン語で雪が積もったという意味の女性形容詞。州の西側にある山をシエラ・ネバダ=雪が積もったと呼んだことに由来する。

 

Sierra Nevada

シエラネバダはネバダ州にある山の名前でスペイン南部のグラナダにも同じ名前の山が有る。シエラは山脈の事でネバダは雪が積もったという意味。雪が積もった山という意味のスペイン語から来ている。スペイン側では半島最高峰の山。

Colorado

コロラド州はアメリカ西部にあるロッキー山脈がある地域。コロラドは色が付いたという意味のスペイン語。コロールが色という意味のスペイン語の名詞。コロールが形容詞になるとコロラド。ロッキー山脈から流れる川の色が赤く濁っているので先住民が「色が付いた」と呼んでいた川をスペイン語で「リオ・コロラド」と呼んだ事に由来。

Florida

フロリダ州はアメリカの南東部に位置しバハマ諸島やキューバが近い。フロリダは花が咲いたという意味のスペイン語。フロールが花の事でその形容詞になる。大航海時代ポンセ・デ・レオンはコロンブスの第2回目の航海に同行した探検家だった。カリブ海からフロリダ半島に到着した時が4月で花が咲き乱れていたという説と復活祭の花の過ぎ越し祭りの時ラ・パスクア・フロリダだったという説がある。

El Paso

エルパソはテキサス州にある街の名前。パソは通り道や難所、峠などという意味。今もアメリカ合衆国でスペイン語圏の人が多く暮らす町。

Rio Grande

リオ・グランデは上記エルパソに流れる川の名前。大きな川という意味のスペイン語。リオは川でグランデは大きな。

Fresno

フレズノはアメリカのカリフォルニア州にある都市の名前。スペイン語でトネリコという植物の事。スペイン語だと「フレスノ」と発音し「ス」は濁らない。

スペイン語のアメリカの土地名まとめ

私たち日本人に馴染のある有名な町や州ばかり集めましたがアメリカの地名でサンやサンタが付くのはほとんどスペイン語。カリフォルニアを中心として西海岸地帯には他にも沢山のスペイン語起源の土地が沢山あります。サンノゼ、サンタモニカ、サンディエゴ等数えたらきりがない程あります。

日本語になっているスペイン語の記事です

スペイン語がこんなに沢山日本語に!<日本語になっているスペイン語をまとめてみました>

 

「堺」への旅の記録、鉄砲鍛冶と茶の湯と南蛮人

堺は戦国時代の自治都市で商人たちが納めた豊かな街だった。明との貿易で栄え鉄砲が伝来するとあっという間に鍛冶屋たちが大量の鉄砲を作り火薬の原料の貿易にも手を染めた。キリスト教が伝わった頃豊かな商人が茶の湯を楽しみ活躍していた。フランシスコ・ザビエルがしばらくお世話になった豪商「日比谷了慶」がキリスト教徒に改宗しているという。そんな堺の街が見たくて行って来た旅の記録

堺へ

神戸からJRで大阪駅へ、環状線に乗り換え新今宮から南海電車で堺東に到着。大阪駅以外は混雑は無く堺に着くと人はのんびりしていて親切だった。

南海電鉄の堺東駅を降りるとインフォメーションが有ったのでそこで色々教えていただいた。街を動くのにバスに自由に乗れるフリーパス切符は2種類あったが土地勘が無いのどちらがいいか不明なまま500円の安い方を購入。バスと路面電車に乗り放題でモニュメントは割引があって結構便利でした。

まずは徒歩で堺市役所の21階展望台へ。ここに少し展示が有るのとまずは高い所から町を見てみよう。10時からボランティアのガイドさんがいて色々教えていただいた。

堺市役所
堺の旅、筆者撮影

実は私が見たかった時代の堺の街は応仁の乱と大坂夏の陣で焼けてしまい残っていなかった。その後徳川幕府によって堺の街は再建された。大和河も江戸時代に付け替えが行われ当時の港は埋め立てられていた。代二次世界大戦でも戦火を受けておりそんな中も古いお寺や神社が良く残ったと思う。

堺市役所の展望台から仁徳天皇陵が綺麗に見えるが今回の旅の目的は堺の商人と茶の湯なので今回はここから見るだけです。

堺の街
堺、筆者撮影

早速先ほど購入した一日切符を使ってこの黄色いバスで移動。市役所前から大小路(オオショウジ)まで。大小路は当時の国境でここから北は摂津の国、南は和泉の国だった。

堺のバス
堺、筆者撮影

西高野街道は平安時代からの京都や大阪から高野山への街道。元は天皇や貴族を中心に行われた高野山詣でが次第に庶民の参道となったそう。

ここから今度は路面電車に乗り替える。この電車は天王寺まで40分程で行けるらしい。

 

高須神社という駅で降りて鉄砲鍛冶屋敷へ向かう。この地域が戦国時代の鉄砲鍛冶が住んでいたところらしい。

風情のある建物が残る地区で散策していて楽しい。そして知らない街を歩くとウキウキする。

 

種子島に火縄銃が伝わった後堺の商人が種子島で銃の作り方を覚えて帰って来た。元々産業技術が盛んだった堺で火縄銃が大量に作られるようになったのは偶然ではない。この界隈に沢山の鉄砲鍛冶が住んでいたんだと嬉しくなった。

<堺、鉄砲鍛冶屋敷跡>

鉄砲鍛冶屋敷は中には入れず外から見るだけだったが戦国時代の堺の活気ある街を想像しながら散策した。この近くに鉄砲町という町名が残る。

 

 

伝統のある刃物屋が続く。想像だが江戸時代になって平和になると鉄砲が使われなくなり技術者たちは再び刃物を作りはじめ今に至るのではないか、と思ったりした。

 

戦国時代の街は残っていないが江戸時代初期の町屋が残るというので行ってみた。そんなに大きくは違わないだろう。

内部は蔵や茶室や縁側等が保存されていてボランティアガイドの方が歴史の事などを説明してくださった。今も個人の所有という400年前の屋敷は木の梁がしっかり組まれていて中に入ると安ど感がある創りで良く戦争で焼けなかったと感心した。

 

路面電車に2駅ほど乗りザビエル公園へ。

 

堺の商人が活躍した頃はこの近くに港が有りフランシスコ・ザビエルがお世話になった日比谷了慶(ヒビヤリョウケイ)のお屋敷はここに有ったらしい。何かの本で読んだのだが「当時の木造の屋敷としては珍しく3階建てだった」とあったのを記憶している。ガイドの方に聞くと「3階建てなら蔵だったのかも」という返事だった。木造住宅はあり得ないようだ。蔵に茶室があったりそこでミサを挙げたりした話も何かで読んだ記憶が有る。茶室の神聖さとカトリックのミサが結びついても不思議はないと思う。

<ザビエル公園>

 

公園に白い敷石が有りここが堺の港だったと書いてあった。

ザビエル公園の先に堀が有った。もちろんこの堀は宣教師の時代より後だが堺はベニスのようだとイエズス会の宣教師が書き残している。町中に堀が巡らされ荷が運ばれていたに違いない。

更に路面電車に乗って千利休屋敷跡へ。この電車は何回も乗りました。10分おきくらいに来て解り易いので旅行者に便利だった。

路面電車
筆者撮影

宿院という名は室町時代からの呼び名らしく当地に有る住吉大社の御旅所を宿院と呼んだという説がある。

堺、筆者撮影

日比谷了慶と千利休が交流が有ったはずでザビエル公園がある了慶の屋敷から利休の屋敷まで約850メートル徒歩10分の距離。もっと近いと想像していたが歩ける距離ではあると思ったが、千利休の屋敷もここだったかは定かではない。

千利休は堺の豪商の長男として生まれた。利休は秀吉の政権下で力を持ち内政にも影響力を持った。切腹を強いられた理由には諸説あるが秀吉の朝鮮出兵に反対だった事が上げられている。

結局朝鮮出兵の失敗が関ケ原になり堺は大坂夏の陣で焼け野原になる。徳川家康の時代を迎え堺の街は再建された。新しい街が都市計画の元創られ千利休の屋敷がどこだったかは判っていないらしい。

 

「さかい利晶の杜」は千利休や茶の湯の事が詳しく展示されていた。利休の利と堺出身の与謝野晶子の晶で「利晶の杜」のようだ。

 

南宗寺(ナンシュウジ)

大きな境内のお寺で明日はお祭りらしく準備が始まっていた。千利休が修行をしたお寺だそうで今もお茶会で有名。広大な敷地に枯山水の庭等があった。

 

最後に堺市博物館へ。ここだけ場所が離れていて時間を気にしながら大急ぎで歩いて行った。仁徳天皇陵の近くで広大な森の中にあった。展示場はそう大きくは無いので1時間もあれば見れる感じ。映像が2回が行われるようでひとつは見逃してしまった。もう一度ゆっくり見に来たい博物館でしたので又来ます。

 

博物館の中もボランティアのガイドさんがいらして色々教えていただいた。一番説明したかったのは古代みたいでしたが戦国時代あたりの事を沢山質問して丁寧に対応してくださいました。

この屏風は住吉祭の神輿が堺へ渡って来る様子が描かれた見事なもので当時の堺の街の様子が良くわかる。

 

火縄銃の仕組みが図解。日本に火縄銃が伝わったときに種子島の刀鍛冶が自力で解決できなかったのがネジだった。どこにネジが使われていたのがが詳細にわかる。

日本の地図に都と堺が描かれていた。

 

もう暗くなったが最後に開口神社(アグチジンジャ)に行って御参りをした。海に向かって口を開けるという意味らしい。海と交易委とかかわって来た堺らしいネーミングだと思った。この神社の横の会所で堺の有力商人の代表が集まり街の自治を行った。いわゆる「会合衆」の会合だ。与謝野晶子が子供の頃遊んだという。

 

丸一日良く動いた。神戸まで今日中に帰れる時間だけれど余韻に浸りたいので堺に泊まることにした。ネットで見つけたビジネスホテルは堺市役所近くのダイワロイネット堺東。このホテル・グループは一度仙台で泊まった事が有ったので即決。ロビーが広々していて安心感があった。ダブルルーム一泊10400円。場所が良く清潔で安くて満足でした。

 

夜は近くの飲み屋街へ行った。昭和な感じのアーケード街はスペインのバル街みたいで沢山の人がビールを片手につまみを取って語り合っていた。リラックスしたムードで提灯が素敵でレトロ。

 

チリのワインで乾杯して本日は無事終了です。

最後に

東洋のベニスと呼ばれた堺に南蛮人や宣教師が活躍した時代の物を求めて旅をした。応仁の乱と大坂夏の陣で火の海になり私が見たかった時代の物は何も残っていなかった。堺の豪商たちの富や財産も焼かれて悔しい思いをし泣いた人達もいただろう。しかしその後も堺の技術産業は残り今も「日本の物づくりの街」の代表だ。形がある物を丁寧に作っている人を見ると安心する。街は思った以上にしっとりとして綺麗だった。

マドリードのサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂(ゴヤのパンテオン)はゴヤのフレスコ画を無料で鑑賞できる

マドリードにあるゴヤのパンテオン=サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂はゴヤが描いた天井のフレスコ画で有名。ゴヤのパンテオンの愛称で呼ばれているのは現在ゴヤのお墓になっている為。実はそのお墓の遺体には首が無いそうで今も何故首が無いのかは謎のまま。建物が質素で通り過ぎてしまいそうなくらいだが内部はゴヤのフレスコ画で輝いている一見の価値ありです。

サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂(ゴヤのパンテオン)


ゴヤのパンテオン2つの礼拝堂

実はゴヤのパンテオンに2つの同じ形の礼拝堂がある。最初にひとつの教会が1798年にスペイン国王カルロス4世の命により建てられた。現在はマンサナーレス河のほとりに小さな教会が2つ並んでいる。向かって右側(プリンシペピオ駅に近い方)の天井にゴヤのフレスコ画「パドバの聖アントニオの奇跡」が描かれておりゴヤのお墓になっている。地元の人々に古くから大変人気のある礼拝堂でお祈りに来る人達の蝋燭(ろうそく)の煤(すす)でフレスコ画が傷むので1928年に同じ形の礼拝堂を左側に作り礼拝などの宗教的行事はそちらで行われる。ゴヤのパンテオンと呼ばれるのは向かって右側の建物。

<マドリード、サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂・ゴヤのパンテオン>

サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂
マドリード、サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂、筆者撮影

 

聖アントニオの御利益

ゴヤのパンテオンの天井に描かれるフレスコ画のテーマは聖アントニオの奇跡の場面。聖アントニオはポルトガルのリスボンで貴族の家に生まれ(1195年)イタリアのパドバで若くして亡くなった聖人。説教がうまく数々の奇跡を起こした。カトリックの各聖人には色々なパワーが備わっているが聖アントニオの御利益はお祈りをすると恋人が出来て失くしたものが出てくるという聖人。今も聖アントニオの日(6月13日)には若い女性達が沢山訪れる。セニョリータ達がそれぞれの想いを胸に手に「マチ針」を持ってその針を清めの水に納め願いをかける。

聖アントニオ(1195~1231年)の御利益*失くし物、結婚、縁結び、花嫁、愛、老人、動物の守護聖人。

ゴヤの天井画(フレスコ画)聖アントニオの奇跡

聖アントニオの奇跡:殺人罪に問われた父親の無罪を民衆の見守る中奇跡を起こし、死人に無実を語らせたというリスボンでの出来事。1798年まだ若いゴヤの作品。ゴヤは聖人の奇跡の物語を生き生きと当時のマドリードの民衆の様に描いていて笑い声やざわめきが聞こえてきそうだ。残念ながら内部の撮影が禁止なのでwikipedia からの写真を借用=ゴヤのパンテオン天井画

ゴヤの天井画
wikipedia public domain

ゴヤのパンテオンはゴヤのお墓

ゴヤのパンテオン内部に入ると祭壇の下にはゴヤのお墓が有る。ゴヤは82歳でボルドーで客死し遺体はボルドーのシャートルーズ墓地に埋葬された。

ゴヤのお墓
wikipeida CC BY 4.0
Source Own work
Author José Luis Filpo Cabana

ゴヤのパンテオン:首が無い遺体の謎

実はこの中に入っているゴヤの遺体に首が無いというか頭が無いのだ。そして真相は謎のままだ。ゴヤが埋葬された後61年後の1888年11月16日に遺体を発掘した。フランス側からスペイン政府に遺体を搬送することが決まった時の電報でスペイン政府は「ゴヤの遺体を移送せよ。首があっても無くてもだ・・・・」という事はこの時に既に首は無かったのか?

ゴヤの遺体はは死後何度も移動しているそうだ。マドリードに来た時も最初はサンイシドロ教会に埋葬された。その後1919年にサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂に移動されている。

1950年6月13日に当時のABC新聞に載った記事。ゴヤは友人のマルティン・ゴイゴチェアと共にサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダにそれぞれの棺にいれて埋葬された。そこに羊皮紙で「偉大なる画家の頭蓋骨は無い。医者に科学的調査の為渡されたがその後このような状態で発掘された。」と記述があるらしい。

実は当時のヨーロッパの医学界で流行していたFrenologia=骨相学という学問が有った。神経科学のひとつで人の脳は多くの器官から成り立っており人の才能や個性を決定するの脳と骨であるという説で現在では否定されている。最後のゴヤのフランスでの主治医が骨相学の支持者だったという説があるが信頼できるドキュメントは残っていない。

今も「ゴヤの頭はどこや」と研究をしている学者がいるらしいが盗掘説もあり真相は謎のまま。サン・アントニオ様にお願いをしてゴアの頭を見つけて貰うという方法はためしたのだろうか・・・。

 

ゴヤのパンテオン:現在の礼拝堂は隣の建物

向かって左側に同じ形の建物があり現在礼拝堂として使われている。中に聖アントニオのお像がありミサや宗教行事が行われる。

サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂
マドリード、サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂

カーニバル灰の水曜日

カーニバルの最後の日「灰の水曜日」毎年このゴヤのパンテオン前からイワシの埋葬の行列が出る。セニョールたちがぶら下げる(写真下)この小さな箱の中に作り物のイワシが入っていて時々立ち止まりブツブツとお祈りを唱えては進んで行く。私はこの行列の最後までは付いて行ったことは無く、もしかしてイワシのグリルが振舞われるのでは・・・と思っているので是非行ってみたいと思っている。

イワシの埋葬の行列
イワシの埋葬、筆者撮影

写真下はゴヤのイワシの埋葬という作品。マドリードに有るフェルナンド美術アカデミーで鑑賞できる。

<ゴヤのイワシの埋葬>

ゴヤのイワシの埋葬
wikipedia public domein

 

すぐ横に有るシードラヤ屋(シドレリア)は地元人気店

ゴヤのパンテオンのすぐ横にあるメゾン・カサ・ミンゴ Casa Mingoは100年以上続くシードラ(リンゴの発泡酒)屋で地元人気店。チキンの丸焼き(ポージョアサードPollo Asado)が有名。朝11時から23時頃まで開いている。週末の14時頃は地元の家族連れで賑わっている。サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダからメトロのプリンシペピオ駅まで飲食店が沢山あるのでお昼前に行ってこの辺りでランチも良いですね。

シードラ屋
マドリード、サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂横シードラ屋、筆者撮影

ゴヤのパンテオン:ゴヤの銅像

ゴヤのパンテオンの向かい側にゴヤの銅像がある。プラド美術館の物より威厳があって個人的に好きです。頑固者らしい感じが出ている。ゴヤはアラゴン人で頑固者で「自分の頭で釘が打てる」と言われていたその頑固さが良く出ている。

ゴヤの銅像
マドリード、サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂

銅像の下にゴヤのサインが拡大されて彫刻になっていた。

ゴヤの銅像
マドリード、サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂、筆者撮影

ゴヤのパンテオン:サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ詳細


場所 Glorieta de San Antonio De La Florida

時間:火曜から日曜日:9時30分から20時(開館時間は予告なく変更があります)

休館日:月曜日、1月1日、6日、5月1日、12月24日、25日、31日

値段: 無料、写真不可

市役所のホームページ  http://www.madrid.es/ermita

ゴヤのパンテオン:サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ教会行き方


メトロ:Principe pio(10号線、6号線)から徒歩10分

路線バス:スペイン広場から75番、46番のバス、アトーチャ駅近くから41番のバスでサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ下車直ぐ

 

メトロだと結構歩くのでバスがいいかもですね。もちろんスペイン広場から歩きも可能です。

スペイン広場からの地図

マドリードのマラサーニャ地区にあるバル「ラ・ドミンガ」はフージョン料理を楽しめるバル・レストラン

マドリードのマラサーニャ地区にあるバル「ラ・ドミンガ」は創作料理を出すバル・レストラン。マラサーニャ地区はマドリードの中心部にありスノッブな地区で若者が多く周りもおしゃれなブティックやお店が並ぶ。ラ・ドミンガの料理は創作フージョンでちょっと良いレストランで出しても充分なレベルだ。今日はマドリードのマラサーニャ地区の個性派バル、フージョン料理の「ラ・ドミンガ」を紹介します。

マドリード・マラサーニャ地区

マドリードのマラサーニャ地区は中心部に有りながらあまり観光客がいない地区で個性的なブティックやおしゃれなバルやレストランが並ぶ。古めかしい懐かしいムードとアバンギャルドなセンスがうまくミックスした魅力的な地域だ。すぐ隣にチュエカ地区がありこの辺り一帯マドリードの若者文化の発信地になっている。グランビア通りから徒歩でも10分ほど、最寄りの地下鉄は1号線Trubunal。

マドリード、マラサーニャ地区

マドリード、マラサーニャ地区
マドリード、マラサーニャ地区、筆者撮影

 

バル、ラ・ドミンガ

夜はアーティストや有名人もやって来るというバルの店内はボヘミアンなムードでお食事はフージョン。ガイドブックなどにあまり乗っていないので外国人観光客は見かけず地元の若者が多い。最初に電話をかけた時からとても感じが良くてすぐに好きになった。働いている人達はみんな素敵で感じよくお料理の質も最高。是非またリピートしたいおすすめバルです。

<マドリードのバル、ラ・ドミンガ入り口>

ラ・ドミンガ入口
マドリードのバル、ラ・ドミンガ、筆者撮影

スペインのバルの定番で入ったら直ぐバーカウンターで大声で話しながらビールを飲んでいる人達、横にテーブル席がいくつかの小さな店舗。座席は20席ほどしかない。

ラ・ドミンガ内部
マドリードのバル、ラ・ドミンガ

建物の古い部分を利用しながら斬新な内装でセンスが良いなと隅々まで感心した。

<マドリードのバル、ラ・ドミンガの内装>

ラ・ドミンガ内部
マドリードのバル、ラ・ドミンガ
ラ・ドミンガ
マドリードのバル、ラ・ドミンガ

メニューはスペイン語と英語の併記。イタリアンとアルゼンチンと中国と日本とスペインを色々ミックスした感じのフージョンな中身でどれも美味しそう。公式ページを先に見て来ていたけど季節や時期で変わるみたいで貰ったメニューは少し違っていた。

ラ・ドミンガのメニュー
マドリードのバル、ラ・ドミンガ、筆者撮影

今日は3人なので4皿頼んでシェアーすることに。ワインはリベラ・デル・ドゥエロの赤POZO DE NIEVE 16.80 ユーロ

うちの夫と行くと茄子と餃子は必ず付いてくる。写真下は茄子のサラダ。11.50€

ラ・ドミンガ
マドリードのバル、ラ・ドミンガ、筆者撮影

次はチキンの餃子。ラビオリと餃子の間な感じの食感。メニューにもRavioliではなくGyozaになっていた。甘い醤油が意外と癖が無く餃子にマッチした。醤油とミリンで配合の自家製かも。11.50€

ラ・ドミンガ
マドリードのバル、ラ・ドミンガ、筆者撮影

キノコのリゾットはあっさり味、パルメザンチーズでイタリア風、ローズマリーでスペイン風のフージョンだ。14.20€

ラ・ドミンガのリゾット
Madridのバル、ラ・ドミンガ、筆者撮影

羊肉のオーブン焼き(Taco de Cordero) 丁寧に骨を取ってパリッと香り良く焼かれていて羊の臭みは全くなく美味。これをほぐしていただきました。「うーん」これは美味しいと納得の味。15.80 €

ラドミンガ、羊料理
マドリードのバル、ラ・ドミンガ、筆者撮影

もうお腹いっぱいだけどデザートも試したいので2皿を3人で。Crumbleリンゴのコンポート5.5€

ラ・ドミンガ、デザート
マドリードのバル、ラ・ドミンガ、筆者撮影

どこに行っても私は大好きなチーズケーキを頼みます5€

ラ・ドミンガ、デザート
マドリードのバル、ラ・ドミンガ、筆者撮影

どのお料理も素材にこだわっているのが伝わって来て大変満足。「ラ・クエンタ」精算しようと思ったけど、最後にワインが足りなくてグラスで2杯追加。合計86.30€。いつもの通りワイン飲まなければもっとエコノミーに終われます。

ラ・ドミンガ、請求書
マドリードのバル、ラ・ドミンガ、筆者撮影

帰る前にキッチンが覗けたので「写真撮っていいですか?」と聞いたら快諾してくれました。「とっても美味しかったです。また来ます。」と挨拶して帰ってきました。素敵~

ラドミンガ、キッチン
マドリードのバル、ラ・ドミンガ、筆者撮影

 

バル「ラ・ドミンガ」の詳細

場所:calle del Espiritu Santo15,28004 Madrid

メトロ Tribunal徒歩5分、カジャオ広場から11分

電話:915233809

時間:月曜から木曜と日曜12時から00時

金曜、土曜12時から02時30分

ラ・ドミンガの公式ホームページ

カジャオ広場から徒歩11分

最後に

私たちは祝日のお昼に行きましたが夜はカクテルもあって随分ムードが違うと思う。有名人や芸能人も来るらしい。直ぐ近くにマドリード歴史博物館が有るのでマドリードの古い地図や街の模型等が展示されている。ついでに歴史博物館と合わせて行ってはいかがでしょう。

サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院<ロマネスク回廊とグレゴリオ聖歌>

ブルゴス県にあるサント・ドミンゴ・デ・シロス修道院には2つの有名なものがある。ひとつはスペインで最も美しいロマネスクの回廊、もうひとつが1993年に世界のヒットチャートで1位になったグレゴリオ聖歌のミサ。そして街は世界遺産に指定されている。あまり日本語の情報が無いのでサント・ドミンゴ・デ・シロスについてまとめました。

 

サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院歴史

古いビシゴート時代の僧院(6世紀~8世紀)がコルドバのアルマンソールにより破壊されたものを11世紀に再建された。修道院の名前は再建したリオハからやって来た修道士「聖ドミンゴ」に由来する。

 

クラウストロ(回廊)

サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院のロマネスク回廊はスペインで最も美しいと言われていて3人のマエストロ(師匠)によって創られているがそのマエストロの名前も人生も詳しい事は何もわかっていない。特に最初の彫刻家の物が特筆に値する。内部はガイドと一緒に回るがスペイン語のみの説明で一旦入ればグループと離れて楽しんでも大丈夫。

<回廊、サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院>

サント・ドミンゴ・デ・シロスの回廊
筆者撮影、サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院

ロマネスクの回廊は大抵柱頭彫刻を見るのが楽しいがここサント・ドミンゴ・デ・シロス修道院では回廊の角に有る8枚のパネルが素晴らしい。その中でも最も美しいのが写真下のエマオの道。もちろん最初のマエストロの作品。美しくて見とれてしまうロマネスク彫刻です。

<エマオの道・サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院>

サント・ドミンゴ・デ・シロス回廊
筆者撮影、サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院

*エマオの道:エマオは新約聖書のルカの福音書に登場する地名でエルサレムから11キロ程離れた街、復活したイエス・キリストが最初に現れた場所。2人の弟子が最近起こった出来事(イエスの磔刑やその後の復活の噂)について語り合っていたところにイエス・キリストが近づいてきて彼らと共に歩きはじめたという話。

ロマネスクでは重要な人物を他より大きくする。右端のイエス・キリストが他の2人より少し大きく創られている。布地の透明感が12世紀とは思えない程素晴らしい。太ももの動きが透明な布地から透けていて良くわかる。足の指まで丁寧に彫刻されていてイエス・キリストの右足が振り返った様子を出すためにねじれている。3人が右の方へ話しながら歩いている動き良く出ている。イエスの腕と弟子の腕が平行で躍動感、そして左手が衣服を抑えていてその下にホタテの貝殻を持ちサンチアゴの巡礼者のようなのはスペインらしい表現。時代が丁度この地域のレコンキスタが進みサンチアゴの巡礼が盛んになった頃


写真下はキリストの十字架降下。右側の弟子が十字架のイエス・キリストの腕を下ろそうとして動いている感じがする。左側の弟子がイエスの体を抱きかかえようとしている。左端の聖母マリアがイエス・キリストの右手を持ち悲壮な表情に哀しみが伝わる。地面に渦巻きを沢山掘ることにより地震が起こったことを表現。足元ではアダムが地面から生き返っている。

<キリストの十字架降下、サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院>

サント・ドミンゴ・デ・シロスの回廊のパネル
筆者撮影、サント・ドミンゴ・デ・シロス回廊

*キリストの磔刑とアダム:イエスキリストが磔になったゴルゴダの丘はアダムの墓の上だと言われている。アダムとイブは神との約束を破って楽園から追放され人間は神から原罪を受ける。神は人間を救うためにイエス・キリストをこの世に使わしイエス・キリストの磔刑により人間は救われるというのがキリスト教の考え方。磔刑に有ったイエス・キリストの足元からアダムが生き返った事を現す。

写真下:キリストの埋葬と復活。中央水平線に横たわるイエス・キリストで場面はは上下に分けられる。上部では棺のふたを天使が支えているような構図で三角形を作りイエスキリストの左右にニコデモとホセデマリアテア?。その上の空間では3人のマリアが哀しみの中近づいてきた。墓の下では眠り落ちているローマ兵たちが7人。ひとつの石板に時間の経過の表現、構図など素晴らしい作品。

 

<キリストの埋葬と復活、サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院>

サント・ドミンゴ・デ・シロス回廊のパネル
筆者撮影、サント・ドミンゴ・デ・シロス回廊

 

写真下:聖トマスの不信。これはサント・ドミンゴ・デ・シロス修道院のポスターにも使われる有名な作品。一回り大きく創られたイエス・キリストが右手を挙げて左側の聖トマスが傷に指を入れている場面。

*聖トマス:イエスキリストの12弟子のひとり。現実主義者で疑り深い弟子。イエスキリストの復活を信じなかった時イエスキリストが現れ脇腹の傷跡に手を入れて初めて復活を信じた。その後インドで殉教。

イエス・キリストより右側の弟子たちの顔が聖トマスとキリストに注がれて全員が注目している感じが出ている。私たちの視線も自然にそちらに引き付けられる。光の加減でうまく写真が取れなくて残念。弟子たちの表情や動きが素晴らしい作品です。

<聖トマスの不信、サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院>

サント・ドミンゴ・デ・シロス回廊
筆者撮影、サント・ドミンゴ・デ・シロス回廊

 

写真下:キリストの昇天。弟子たちとマリア(上段の中央部)が上を見上げている。その上の雲が波になっていて天使がその雲をカーテンの様に持っているのが可愛い。今イエス・キリストが昇天して上昇していく感じをよく表してる。これも写真がうまく取れなくてとても残念でした。ずっと見ていたい綺麗な作品です。

<キリストの昇天、サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院>

 

サント・ドミンゴ・デ・シロス回廊のパネル
筆者撮影、サント・ドミンゴ・デ・シロス回廊

写真下:受胎告知。南西の端の彫刻は受胎告知又は聖母戴冠と呼ばれる。今迄の最初のマエストロの物ではなくもう少し後世のもの。ゴシックの影響が少し見られるが。天使の羽が不自然等の指摘がある。

サントドミンゴデシロス修道院
サントドミンゴデシロス修道院の回廊、筆者撮影

修道院の回廊入場時間

火曜日から土曜日:10時から13時、16時30分から18時

日曜祝日:12時から13時、16時から18時

月曜休み、1月1日、12月25日、復活祭の木曜、金曜、土曜、日曜は休み

入場料:3.5€

サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院グレゴリオ聖歌

サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院の修道士たちのミサで歌われるグレゴリオ聖歌をミサに参加する事で聞くことが出来る。修道院横のサン・セバスティアン教会にて毎日朝から行われるミサで実際にここの修道院の修道士たちによるグレゴリオ聖歌が歌われる。

<サント・ドミンゴ・デ・シロスのサン・セバスティアン教会>

サント・ドミンゴ・デ・シロスの教会
サント・ドミンゴ・デ・シロス、筆者撮影

写真撮影禁止、ミサなので極端に肌を露出した服装は禁止。

写真下はミサの時間。毎日7回のミサ、私が行ったのは夏なので冬時間やクリスマスなどは時間が違うと思います。ミサに参加する場合教会の表示が一番確実なので確認してから参加してください。<注意>教会の公式ページも時間が違いました。

<サント・ドミンゴ・デ・シロスのミサの時間>

ミサの時間
サントドミンゴデシロス修道院、筆者撮影

 

グレゴリオ聖歌とは

現存する中で再生できる最古の西洋音楽だそうで「男性によりラテン語で歌われる無伴奏単旋律のローマカトリックの聖歌」

古代ローマ時代から歌われてきた様々な聖歌を7世紀前半にローマ法王グレゴリオ1世(540年?~604年)によってまとめられた物だと言われてきたが現在ではカロリング朝にローマ時代やガリア地域で歌われてきたものをまとめたと考えられている。現存する最古の楽譜は9世紀後半の物だそうでそれ以前は口頭で伝承されていた。

世界的な大ヒット

1993年EMIに吸収合併されたスペインの会社に残っていたグレゴリオ聖歌の録音がCDになり発売されるとスペイン国内で数日間で売り切れ翌年には世界的な大ブームとなった。癒し系の音楽としてアメリカを中心にクラッシック部門だけでなくポップス部門でも一位になった。

サント・ドミンゴ・デ・シロス村は小さく素朴

世界遺産ですが人口297人。ミサとロマネスク回廊の時間の合間に村の散策。修道院に入れる時間が短くミサに参加しても時間がたっぷり有り余るので嫌でも村の散策をすることになる。小さな素朴な村なのでプラプラと街中あるいても10分位。

<サント・ドミンゴ・デ・シロス>

サント・ドミンゴ・デ・シロス
サント・ドミンゴ・デ・シロス、筆者撮影

サント・ドミンゴ・デ・シロスの修道院から川沿いに少し下って行くと丘に登れてそこから村全体を眺められる。村より修道院の方がうんと大きい。

<サント・ドミンゴ・デ・シロス全景>

サント・ドミンゴ・デ・シロス
サント・ドミンゴ・デ・シロス、筆者撮影

修道院の後ろの方に中庭があって修道士の毎日の聖務日課が貼ってあった。

サント・ドミンゴ・デ・シロス修道士の日課
サント・ドミンゴ・デ・シロス、筆者撮影
サント・ドミンゴ・デ・シロス旅行記

サント・ドミンゴ・デ・シロスのグレゴリオ聖歌のミサに参加した時の旅行記です。参考にしてください。。

 

キャンピングカーの週末小旅行、サント・ドミンゴ・デ・シロスのグレゴリオ聖歌とログローニョのお祭り。

サント・ドミンゴ・デ・シロス行き方

(マドリードから230キロ北、ブルゴスから58キロ南)

公共の交通機関の場合ブルゴスから路線バス又はタクシー

ブルゴスからバス会社:ARCERDILLOアルセルディージョ社のCALERUEGAカレルエガ行き

月曜から木曜17時30分発

金曜日18時30分発

土曜、日曜、祝日無し

ブルゴスからタクシーで1時間およそ50€

*マドリードからブルゴスはALSAというバス会社が2時間30分から3時間程で頻繁につないでいる。(Esacion sur de autobus 南バスターミナルから)

マドリードの中心部バスク料理人気レストラン<ピミエント・ベルデ>

マドリードのバスク料理レストラン<ピミエント・ベルデ>を紹介します。バスク料理店は有名店や超高級店が多い中ここは割とリーズナブルなお値段でお食事が出来る。そしてなんといってもマドリード中心部にあるのが便利で魅力。マドリードの中心部のレストランはツーリスティックなところが増えていて値段ばかり高くなって安心して楽しめるところが減って来たのが事実。ここで紹介するピミエント・ベルデはマヨール広場すぐ横に有りながら地元民マドリレーニョがやって来るバスク料理レストランです。

レストランの場所はサン・ミゲール市場すぐ横

レストランの場所はマドリードを旅行中なら誰もが訪れるマヨール広場すぐ近く、サン・ミゲール市場のすぐ横にある。この辺りは観光客が非常に多い地区でレストランもツーリスティックなところが多く味もサービスもちょっとおざなりになりがちな中、頑張っているレストランも実は結構ある中のひとつ。

レストラン外観
筆者撮影、マドリード中心部レストラン

セントロ(中心部)のピミエント・ベルデは店舗が小さいのでできれば予約を入れていきましょう。今回私たちは予約せずにやって来て13時30分頃に訪れたら最後の一席が残っていました。土曜日というものあって賑わっていて遅い時間、15時とか15時30分になるとスペイン人が大勢やって来る。ピミエントベルデはプリンセサ地区やサラマンカ地区にも店舗がありマドリードに合計4店舗。以前プリンセサ地区のピミエント・ベルデに行った時もほぼ満席でした。

レストラン店内
ピミエント・ベルデ

座席に着くと早速ピンチョが出て来た。クロワッサン地のパンにチーズとハムが挟まって焼いてあるガッツリ系。これでかなりお腹がいっぱいになる。

前菜
筆者撮影、前菜

カルタ(メニュー)はスペイン語の下に英語が書いてある。

ピミエントベルデのメニュー
筆者撮影、マドリードレストラン

お店の名前ピミエント・ベルデのピミエントはピーマンの事でベルデは緑。緑のピーマン。グリーンペッパーです。

お皿の模様
筆者撮影、ピミエントベルデのお皿

ワインはリベラ・デ・ドゥエロのクリアンサをボトルで頂くことに。19,50€

ワイン
筆者撮影、マドリード・レストラン

人気メニューはアーティチョーク、チュレトン・デ・ブエイ、アンコウ、お米料理などなど

メニュー
筆者撮影、アーティチョーク

今日は人気メニューのフローレス・デ・アルカチョファFLORES DE ARCACHOFA(アーティチョークのお花)を前菜にいただきました。とっても綺麗にお花の形になっていてこれどうやって調理したんだろう。お店の人が全員忙しそうでとても聞けるムードではなかった。

前菜アーティチョーク
筆者撮影、アーティチョークのお花

アーティチョークはスペイン語ではアルカチョファ。デトックス効果が高くポリフェノールの一種シナリンやカリウム、マグネシウムを多く含むが生を自宅で調理するのはとっても面倒な野菜、というか私は買ったこともない。

アーティチョーク
筆者撮影、アーティチョーク

もう1つ前菜をシェアー。随分悩んで野菜とエビのボック味噌風味。中華料理みたいでしたが美味しかった。ボック(WOK)は大きな中華鍋の事で強火で炒めた料理をいう。

野菜とエビのボック
筆者撮影、野菜とエビのボック

メインはチュレトン・デ・ブエイが食べたかったけど最低2人分からで今日の私たちにはとても無理な感じなのでフォアグラが乗ったソロミージョのペドロ・ヒメネスソース添えをシェアー。ペドロ・ヒメネスは甘口のシェリー酒。ソロミージョはサーロインの事。焼き加減を聞いてくれたのでメディオ(ミディアム)で。

ソロミージョとフォアグラ
筆者撮影、マドリードレストラン

お米料理や魚料理もあってどれも美味しそう。どんどん出ていくお皿がどれも魅力的で又来ますと心に決めた。でもデザートは食べて行こう。別腹。

大好きなチーズケーキで迷ったがバスクのデザート、パンチネータを頼みました。ミルフィーユのバスク版です。

パンチネータ
筆者撮影、マドリードレストラン

では精算お願いしま~す。ラ・クエンタ・ポルファボール。合計84.10€でした。ワイン飲んだしね~。ワインをボトルで飲まないともう少し安く上がります。

請求書
筆者撮影、

 

ピミエント・ベルデのデータ

ここで紹介したのは中心部のサンミゲール市場のすぐとなり。サラマンカ地区に2店舗とプリンセサ地区に1店舗あるので都合が良い所でどうぞ。

住所:Call Conde de Miranda 4

電話:915764135

時間:13時~00:00

中心部の店名は英語でザ・グリーン・ペッパーで登録されていました。

下はレストランのホームページ

<http://www.elpimientoverde.com/>

 

少しだけ残念だったのは働いているホールの人達が外国人ばかりで忙しすぎててんてこ舞いな感じが伝わって来た事。スペインのちょっとだけ良いレストランに行くとプロのメートレ(ヘッドウェイター)と話しながらメニューを決めたり質問したり、指令系統がちゃんとしたお店だと絶妙のタイミングで次のお皿が出て来て感心する事度々なのですが、中心部なので仕方が無いのかもでした。土曜日のお昼だったので特別忙しいというのも有ったと思います。それらも鑑みてもとってもおすすめレストランです。