スペイン建築史

 

 

スペイン程複雑に民族が入れ替わり立ち代わりやって来た国はそうはない。その過ぎ去って行った民族が色んなエッセンスをスペインに残していき生活や言葉、人々の風貌等に彩を添えている。北はピレネー山脈でヨーロッパと接し南はジブラルタル海峡からアフリカと、東は地中海が広がる。地理的にはまさに十字路として様々な民族が通り過ぎていった。今日はその中で形として一番残る建築について。スペインの建築史をまとめてみました。

未知の時代の不明な巨大な構造物

スペイン南部マラガ近郊のアンテケーラにドルメンという巨大な建造物が残る。紀元前3000年から2500年頃の物で31個の巨大な石で構成されたドルメンは無料で入ることが出来る。総重量1600トンというとんでもない大きな物で一番重いものは320トン。これを運んでくるだけでも私たちの想像を超えた人数やテクノロジーがあったに違いない。おそらく死者を埋葬するための物で家よりお墓に時間を労力を注いだのは死への恐怖や畏敬や不安が人類にとっての最も大きな関心事だった時代だったから。今も変わらないかもしれませんが。

<アンテケーラ・ドルメン内部>

アンテケーラのドルメン

バレアレス諸島のマジョルカ島、メノルカ島では紀元前1500年頃の巨石文化の遺跡が現存します。新石器時代の物で住居や神殿等。マルタ島にある巨石文明やイギリスのストーンヘンジとの関連は不明です。

フェニキア人

紀元前8世紀頃ガレー船に乗ってやってきた商業民族フェニキア人。南スペイン・アンダルシアの西端カディスにやって来て植民地化し寺院や巨大な建造物を建てたと言われるが残念ながら失われてしまい今残るのはお墓のみ。

<カディス フェニキア人墓地>

カディス フェニキア

このフェニキア人が使っていたのが表音文字でフェニキアン・アルファベット。今のABCアルファベットの元になります。建築は残りませんでしたがアルファベットは世界で今も使われているのが素晴らしい。どんな建築を作っていたのか知りたいなあ。

ギリシャ人

現在のスペイン東部カタルーニャにあるアンプリアス(エンポリオン)。紀元前6世紀頃今のフランスのマルセイユにいたギリシャ人がイベリア半島にパライアポリスという商港を開いた。ここが数年後に発展していく。現在の遺跡は1000年間にわたる色々なものが積み重なって解読は困難な遺跡が残っています。スペインに残る数少ないギリシャ建築。

<エンポリオン遺跡>

エンポリオン遺跡

イベロ族とケルト族

一応イベリア半島先住民族と言われるイベロ族ですが正確には族と言われるほどの整った文化形体は示しておらずもともといた原住民が後からやって来たカルタゴ人ギリシャ人ローマ人との接触のうち独特のイベロ族という文化を作って行ったのではと考えられています。建築らしいものは残っていないが塁壁に囲まれ堀をめぐらして中央に大通りを作り道路は舗装されていた。家の間口は狭く重層だったと考えられている。必ず寺院と墓地を持ち墓地は大きく巨石文化の影響がみられる。

又別系統でやって来たケルト人はピレネーを越えて紀元前8世紀頃にイベリア半島に入って来る。イベロ族と混血していきケルトイベロ文化を形成。「ヌマンシアの戦い」で有名なローマに対して籠城戦で抵抗したヌマンシアはケルトイベロの街。ただその遺跡は後のローマによってほとんど原形をとどめない(大抵の他の遺跡もローマ人の入植の後はローマ風に変えられている、ローマの罪なところ・・・)

ケルトの遺跡

スペインガリシアサンタ・テクラ、ポルトガル北部のブリテイロスサブローソイベロ、ケルト・イベロよりは建築や都市計画的には劣っていて初歩的。防御に都合が良い地形と水源を求めて集落を作った。家屋は平面で回るく石を積み上げて屋根は藁や枝。墓地としてのネクロポリスは持たなかった。2500年経ったいまもガリシア地方にパジャサと呼ばれる民家として受け継がれている。

<ガリシアのサンタテクラ遺跡>

サンタテクラの遺跡

ローマ

半島のローマ化は紀元前218年第2次ポエニ戦争から409年のゲルマンの侵入まで。精力的に道路を作りシーザー、アウグストゥスの時代に銀の道等1000キロ以上の道路の建設、橋や寺院そして円形劇場や浴場が作られた。驚くのが19世紀に使われていた橋のすべてがローマ時代の建設。今も使われているアルカンタラ橋は紀元後105年ころ完成の深い谷にかかる橋で今も大きなトラックが行きかう。メリダの街やセゴビアの水道橋、タラゴナの水道橋等。コンクリートやスクリューなど目を見張る技術が駆使された。ローマ人の土木に対する情熱には本当に驚かされる。この数行ではとても無理なので又の機会に詳しく書きたいテーマです。

<エストレマドゥーラ州カセレスのアルカンタラ橋>

アルカンタラ橋

 

ゲルマン民族の建築

ローマ帝国の崩壊後 ゲルマン民族はイベリア半島を支配するが文化的には支配したローマの模倣で終わる。あまり特徴のある建築は残っていないが金銀細工と独特の素朴な模様、イスラム以前の馬蹄形アーチは興味深い。現存するのは小規模な教会建築で幾何学模様と東方的な装飾や模様などが独特。

550年ころの建築と考えられるカベサ・デ・グリエゴ教会(ほとんど原形をとどめていない)661年サン・ホアン・デ・ロス・バニョスなどイスラム以前にすでに馬蹄形アーチは使われていておそらくシリアからの影響。(どういう経路でシリアの影響がイベリア半島までやって来たかの説明はついていないが昔の建築家や学者は長い旅をしていたようです。)

<カスティーリアレオン州パレンシアのサン・ホアン・デ・ロス・バニョス内部>

ゲルマン建築

アストゥリアス建築(プレロマネスク)

アストゥリアス建築というのは西ゴートの最後の王ロドリーゴが殺されて半島はイスラム教徒の手に落ちた頃わずかに残っていたキリスト教勢力によって作られた建築。アストゥリアス地方にのみ見られる建築で8世紀後半から10世紀にかけての物。まだ謎多き建築で後のロマネスク時代に使われる石造りの架構をすでに使っている

オビエド近郊のナランコの丘に848年に離宮として建てられたサンタ・マリア・デ・ナランコ。建物は2層で石造りのトンネルボールトの天井や柱の彫刻、控え柱も西欧でほとんど最初の登用。ロンバルディア様式が生まれるより以前に使われている。シリアからの影響と言われているがいまだに経路も明確にされていない。すぐ近くのサンミゲール・デ・リージョ教会等アストゥリアスに多数現存している。

<オビエド郊外のサンタ・マリア・ナランコ>

プレロマネスク建築

モサラベ

半島の回教徒は寛大な政策をとり住民には宗教の自由もあった。そしてイベリア半島のローマの道路や館、橋を見て感嘆しギリシャ思想に惹かれた。キリスト教徒たちは安全や経済的な理由からアラビア語を話し娘をイスラム教徒に嫁がせ息子をコルドバに留学させただろう、と思う。この時代のキリスト教徒をモサラベと呼ぶ。そしてイスラム教徒支配下のキリスト教美術もモサラベと呼ぶ。

<レオンのサンミゲールデエスカラーダ修道院>

モサラベ サンミゲールデエスカラーダ

レオンのサンミゲール・デ・エスカラーダ913年はコルドバ出身のキリスト教徒の建築家によるモサラベ建築。他にバジャドリッドマソーテにあるサン・セブリアン教会などが現存する。

イスラム建築

後期ウマイヤ朝コルドバのメスキータ

ダマスカスでの革命から逃れたウマイヤ家の王子は785年もともとそこにあったサン・ビセンテ教会を買い取って(略奪ではなく)回教寺院を作らせた。当時まだ回教寺院の様式が確立していなかったのもあって北アフリカにあったモスクをモデルにしたであろう。(現在の回教5様式に属さないそれ以前のモスク)

ローマの遺跡から持って来た円柱をメリダのローマの遺跡にある水道橋から学んだアーチで木造の天井を支えた。

<コルドバメスキータ内部>

コルドバ、メスキータ

コルドバ郊外にはメディナ・アサーラという夏の離宮。後の火災と略奪で見る影もないが10世紀の宮殿は金銀で噴かれた屋根、中央に大きな真珠、床には水銀のため池、8本のアーチには黒檀、象牙、宝石が埋め込まれていて日差しが入るとキラキラと輝いたという。

セビージャのアルモラビッドとアルモハッド

コルドバのウマイヤ朝の没落の頃北アフリカから2族が呼ばれアルモラビッド(サハラ砂漠の遊牧民)とアルモハッド(アトラスの山岳族)がセビージャで回教文化を開花させる。

セビージャのカテドラルの鐘塔ヒラルダの塔オレンジのパティオの一部、アルカサールのパティオ・デ・ジェソ、黄金の塔、アルメリアのカテドラルの石膏装飾、サラゴサのアルハフェリア宮殿等建築物が残る。

<セビージャのヒラルダの塔>

ヒラルダ

グラナダの回教王国 アルハンブラ宮殿

グラナダはコルドバ、セビージャ陥落の後スペインの唯一残ったイスラム王国。現在のマラガ、グラナダ、アルメリア県を合わせた約3万平方キロメートルの王国。もともとはキリスト教徒から守るために作られた見張りの城塞だった。赤い丘と呼ばれたグラナダを見下ろす丘陵地に9世紀にたてられた城塞を初代グラナダ回教王国王モハメッド1世が24の塔を城壁で結びそれ以降城塞から宮殿的なものに変わって行った。スペインに残るイスラム建築の最高峰。

外観の無装飾と比べ内部の繊細な装飾、増築していくことにより内部の平面構造は複雑になる。ユスフ1世のアラヤネスの中庭やモハメッド5世のライオンの中庭等が最も重要。レコンキスタが激しくなりキリスト教国から逃れてきたコルドバの建築家や芸術家たちの手腕による。

<ライオンの中庭>

ライオンの中庭

ふんだんな水と植物や花の色と香り、光を取入れアラベスク模様によるコーランの一説等等筆舌を越えたという言葉がこれほどふさわしい建造物は見たことが無い。水と香と色と光とそこに残る儚い美しさ、ゆらゆらと揺れる陰に平家物語の様な哀しさを感じる。

ムデハール建築

キリスト教社会に存続したイスラム教徒をムデハールと呼ぶ。半島のレコンキスタが進みキリスト教社会の中で安価な労働力としてまたスペインの王の東洋趣味などもあって頻繁にイスラム様式が使われる。レンガや石膏を使い馬蹄形アーチやモザイク、アラベスク模様を使った建築が教会にも使われ興味深い。キリスト教の教会がアラビア様式で創られ今現在もミサが行われている。多く使われた理由の一つは中世のスペインの道路事情が悪く良い石材を運ぶのは大変な労働。(ローマの街道は分断されていた)そして身近にいるイスラム教徒(安く使えた)に彼らの得意なレンガの細工を任せた。かかわっていた人達は美しいものであれば良く何様式なんて気にしていなかったと思う。後世の人達が様式に名前を付けたのだから。

<サアグンのサンティルソ教会>

サグアン、サンティルソ

サン・ファン・デ・ドゥエロの回廊、サアグンのサンロレンツォやサンティルソ。トレドのサントトメ教会やサンロマン等数えきれないくらいのムデハール建築がある。現代の私たちからは不思議な感じですがきっと気にしていなかったのだと思います。「神の家を美しく作ることが出来ればアラビア様式でも問題なし。」だったと。

ロマネスク建築

ヨーロッパ中世の建築様式で1000年ころから1200年ころまで流行した構造・丸いアーチの建築。ローマ人が好んで水道橋などに使った丸いアーチ(ローマンアーチ)を使っているのでローマ風>>ロマネスク様式、またはロマネスク建築。壁がふんだんにあるので壁画がふんだんに描かれた。

カタルーニャ

早くにイスラムを追い出してフランク王国から独立していたカタルーニャには現存する最も古い957年の教会堂がある。サン・エステバン・デ・バニョーラス(ジローナ)とサンタ・セシリアデ・モンセラ。又ピレネーの山中のタウルには12世紀回教徒の手から逃れた僧たちの一団が作った教会群がありすばらし壁画が残る。(壁画はバルセロナのカタルーニャ美術館に移築)

<タウルのサンクレメント教会>

ボイタウル サンクレメンテ

サンティアゴの道

サンティアゴの巡礼が盛んだったころとロマネスク建築が重なるのは偶然ではなく道と巡礼と一緒に伝わって行った。サンティアゴデコンポステーラに現在の大聖堂が創られ始めたのは1071年。当時の建築家や画家、彫刻家はインターナショナルに移動しながら注文を受けていた。サンティアゴの大聖堂を作るのにフランス人のロベールという腕利きの建築家が弟子を50人も連れてやってきた。当時フランスですでに始まっていたロマネスク様式をスペインに伝えながら旅をした。良く写真で紹介される現在のサンティアゴの教会堂の正面はバロック期の大きな物ですが内部や後陣部分はロマネスク建築。

<サンティアゴの大聖堂・栄光の門ロマネスク彫刻>

栄光の門

 

ゴシック建築

フランスで始まった建築様式。それまでのロマネスクでは天井の高さに限界があるのでもっと高くするためにリブボールトを入れて高い天井を手に入れる。それまでの壁構造から柱構造にすることで背を高く。先のとんがったアーチや大きな窓そこにステンドグラスを入れて外からの太陽の光を取り入れた。

<ブルゴス大聖堂>

ブルゴス大聖堂

 

フランスゴシック

ブルゴスのマウリシオ大司教がフランスからドイツを旅した時にゴシック様式に魅せられブルゴスに戻った後そこにあったロマネスク様式の教会をすごい情熱でゴシックに変えていった。レオンの大聖堂もおそらく同じ建築家による。

<レオンの大聖堂のステンドグラス>

カタルーニャゴシック

カタルーニャでは別系統で13世紀後半から14世紀にカタルーニャゴシック建築が発達。フランスゴシックのフライングバットレス(壁を外から支える為の石で作った部分)を内部に収めた独特の形。内部空間が広い。

<バルセロナ・海の聖母教会内部>

海の聖母教会

ルネッサンス

スペインにルネッサンスは無いという説も強くありますが時代的な要素や特徴はあるので一応ルネッサンスにいれました。大航海時代によりアメリカ大陸を手に入れた頃のスペインでイサベル女王の新大陸への興味とフェルナンド王のイタリア地中海地域への影響力が混じった形。

プラテレスコ様式

金銀細工に施す細かい細工を建築に石で掘って行く。サラマンカ大学の正面やアルカラ・デ・エナレスの建築家ロドリーゴヒルデオンタニョンによるスペインのルネッサンス代表作。

<サラマンカ大学>

サラマンカ大学

アルハンブラ宮殿のカルロス5世宮殿

1492年のグラナダの陥落のあとカトリック両王でさえも美しさに感嘆し壊されないように勅令を出したそうだがその孫カルロス5世はアルハンブラ宮殿の中に自分用の宮殿を創ることに。建築家はペドロ・マチューカ。ミケランジェロの弟子としてローマで学んだらしいがあまりよく分かっていない建築家。円形のパティオ均衡と調和はまさにイタリアルネッサンスの特徴。

<アルハンブラ宮殿カルロス5世宮内部>

アルハンブラ宮殿カルロス5宮

エルエスコリアル修道院とエレーラ様式

カルロス5世の息子フェリペ2世の時代スペインは日の沈む事無き大帝国になる。その大帝国の国王フェリペ2世は華美を嫌う地味で真面目で慎重な国王。

当時の王室建築家コバルビアスの建築に不満なフェリペ2世はナポリからファン・バウティスタ・デ・トレドを呼び寄せる。サンピエトロ寺院の建築にミケランジェロの傍らで働いていたらしいファン・バウティスタに巨大な建築物を依頼する。これがエル・エスコリアル修道院。ところがファンバウティスタが建設開始4年後に没してしまいその弟子ファン・デ・エレーラがその後を引き継ぐ。彼は建築家ではなく哲学者(すごい抜擢)だったがフェリペ2世の希望通りの装飾性を排除し単純な形態、質素なイメージの中に統一性のある非常にエレガントな修道院が作られた。

<エルエスコリアル修道院>

エルエスコリアル

バロック建築

スペインのバロックはチュリゲラ一族によって始まるのでチュリゲラ様式ともいう。装飾過剰なバロックは大航海時代の金銀と重なり絢爛豪華な悪趣味のやりすぎ装飾になって行く。でもなぜかスペイン人の得意とする様式でもある。サラマンカの大聖堂、マヨール広場やトレド大聖堂のナルシソトメのトランスパレンテ等。

<サラマンカ・マヨール広場>

サラマンカ マヨール広場

 

ネオクラシック建築

ローマ時代のクラッシックな建築をネオ新しく作った時代で神殿調の柱等を使ったすっきりした建築。マドリードのプラド美術館や現農業省等。

<マドリード・プラド美術館>

プラド美術館」

モデルニズム建築

ヨーロッパ世紀末芸術、フランスのアールヌーボー、イギリスのモーダンスタイル、ドイツのユーゲントシュティル、オーストリアのセセッションの時代。それまでの既成の芸術から自由奔放に作品を作り始めた頃カタルーニャは産業が産業が発展し建築が創られる。当時のカタルーニャのお金持ちが自由に別荘やマンションを建築家に頼んだので主に建築が盛ん。ガウディ―が有名だが当時はドメニクムンタネールの方が評価されていた。

<カサ・バトリョ、ガウディ作>

バトリョ邸

近代建築

現在国内外の建築家により近代建築が多く作られている。スペイン人ではサンティアゴ・カラトラーバやラファエル・モネオ、カナダ人フランクオーゲイリー(グッゲンハイム美術館)、フランス人のジャンヌーベル(ソフィア王妃芸術センター増築部分)等これはこれで又一つの記事として扱いたいくらい厚い層のあるテーマです。

<ビルバオ・グッゲンハイム美術館>

ビルバオグッゲンハイム

 

*スペインの歴史を5分で読めます

 スペインの歴史ダイジェスト版

まとめ

長い歴史の中で人間が残してきた建築を見るのが好きなので移り変わりをまとめてみました。石の文化で乾燥した空気等の好条件のもと(地震や台風が無いのも)ヨーロッパには本物の古い建築が残っていて肌感覚でこれらを楽しめるのはうらやましい限りです。素敵な建築の中にいるだけでブルッと嬉しい鳥肌になります。

カトリック両王のスペイン統一、イサベルとフェルナンドの結婚

 

カトリック両王と呼ばれるイサベルとフェルナンドが結婚する事でスペインは統一される。スペインは元はいくつかの小さな国家がレコンキスタと王様達の結婚で合併していった。約500年前にイサベル女王とフェルナンド王の結婚により今の統一国家という概念が出来る。

統一前のスペインの国々


カスティーリア王国

711年にイスラム教徒がやって来てビシゴート王国が崩壊後、北部アストゥリアス地方の山岳地帯に逃げていたキリスト教徒が初めての勝利を得た。これが「722年コバドンガの戦い」という最初のキリスト教徒の勝利。フランスからも沢山の騎士がやって来て戦った。戦争をしながらキリスト教徒達が国を広げてアストゥリアス王国建国、今のスペイン君主国の始まりだ。

<アストゥリアスにあるコバドンガ>

コバドンガ

イスラム教徒と戦いながらキリスト教徒の中心は少し南に降りてレオン王国ができる。もともとはレオン王国がイスラム教徒との砦としてひとつの伯爵を置いたのがカスティーリア王国の始まり。10世紀レオン王国が弱体化したときに主従関係を断ち切って独立伯領となる。1035年キリスト教徒が沢山入植してきて勢力が拡大しカスティーリア王国になりレオン王国と婚姻関係を持ちカスティーリア・レオン王国となる。

<1210年のイベリア半島>

1210年スペインの地図
wikipedia CC
Source Own work
Author Alexandre Vigo

当時フランスとスペインの国境の両側にナバーラ王国があった。いったんカスティーリアはナバーラに併合されるがサンチョ大王の死後カスティーリア・レオンは独立しアルフォンソ6世の時にトレドを陥落させる。

<トレド>

トレド全景

この頃はまだあまり十字軍的な意味合いはなくアルフォンソ6世はイスラム教徒ユダヤ教徒キリスト教徒三つの宗教の皇帝と呼ばれていた。異教徒も積極的に活躍できる政策で人々は宗教に関係なく寛容に暮らしていた。

<アルフォンソ6世のトレド入場>

アルフォンソ6世のトレド奪回
wikipedia CC
Source Own work
Author CarlosVdeHabsburgo
カタルーニャ

フランク王国のカール大帝はイスラム教徒をバルセロナから追い出し今のカタルーニャ一帯はフランク王国の中に組み入れられる。フランク王国は南仏のナルボンヌからバルセロナに至るあたりを16の伯爵地として統治しイスパニア辺境区と呼ぶ。その一つが今のバルセロのバルセロナ伯爵。

986年この辺境区の中心バルセロナ伯が結束を呼びかけフランク王国から独立。これが今のカタルーニャの歴史的起源。地中海に向けて港があり交易が盛んだったカタラン人たちはまるで冒険者たちの様に自由に勇敢に海を渡って地中海を渡り外国へ行って商売をしていた。伯爵から自分たちの権利を取り付けその代わりに忠誠を誓う立派な独立国家だった。

<カタルーニャの議会>

カタルーニャのコルテス

アラゴン王国

ピレネー山脈ハカでイスラム教徒を退治した住民たちが結束しアラゴン伯領が誕生。その後1035年ラミロ1世がアラゴン王国を築く。さらに勢力は南へ進軍し当時のイスラム教徒の拠点の一つサラゴサを制圧した。アラゴンは後にカタルーニャと併合するが今もアラゴン人とカタラン人は仲が悪い。

アラゴン・カタルーニャ連合王国

バルセロナ伯爵ラモン・ベレンゲール隣国アラゴンの王女と婚約してアラゴン王位を継承。ちなみにこの時ラモン・ベレンゲールは23歳、王女は3歳。この2人の結婚によりアラゴン・カタルーニャ連合王国が誕生。

<ラモンゲレンゲールとペトロニーナ>

ラモンバランゲーとペトロニーナ

 

地中海への勢力拡大を積極的に進めハイメ1世の時に地中海のマヨルカ島とイビサ島さらにバレンシア王国を手に入れる。13世紀にはシチリア王国の内乱を契機にシチリア王位につきサルディーニャ島や南イタリア・ナポリ王国も征服。カタルーニャ人たちはもともと商人。この地中海征服を利用し貿易をして各地に商務官を置いて経済活動を広げながら地中海一帯を勢力範囲として活躍する。

カスティーリア王女イサベル(1451年~1504年)


「スペイン建国の母」と言われるイサベル女王は父カスティーリア王ホアン2世の2番目の妻(ポルトガル王女)の長女。父が他界すると兄(父王ホアン2世の最初の結婚の息子)が国王エンリケ4世として即位するがイサベルと弟のアルフォンソは母とともに追放され惨めな時代を生きる。

<イサベル女王>

イサベル女王

 

この兄王エンリケ4世は不能王という不名誉なあだ名があってどうやら女性と関係が持てない。特に高貴な女性と・・・。ところが王妃(ポルトガル王女)が突然ご懐妊。父親は国王エンリケ4世では無いという疑惑の中王位継承問題が生じる。

<エンリケ4世>

エンリケ4世
De Desconocido – web, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2261931

イサベル女王の弟アルフォンソに王位継承権をと担ぎ出されるがひとつの国に2人の君主がいる状態で内乱になり、戦争の途中あっけなくアルフォンソが死亡。王位継承権はイサベルにわたるがイサベルは「兄がいる間は兄が国王である。だたその娘の出生に疑問があるなら自身がその次の王位継承者」と明確に宣言。これなんとイサベル17歳の時の言葉です。

アラゴン王子フェルナンド(1452年~1516年)


アラゴンの山の中ソス・デ・レイ・カトリコという町がある。今はお城がパラドール(国営ホテル)になっているがイメージ的には片田舎。アラゴン王子フェルナンドとしてそこで誕生。母は父王の2度目の結婚の王妃でカスティーリア貴族の娘。9歳の時に異母兄が死去しフェルナンドはアラゴン王国の正当な王位継承者になる。父親からシチリア王位を継承。父王を補佐しながらフランスと対抗。マッキャベリの君主論に名前が出てくるほどの冷血で冷静な君主。

<フェルナンド2世>

フェルナンド王

イサベルとフェルナンドの結婚

1469年カスティーリア王国のイサベル王女とアラゴン王国のフェルナンド皇太子が結婚。この結婚は秘密裏に行われた。国内での反対勢力もありイサベルの兄カスティーリア王エンリケ4世にも内密にひっそりとバジャドリッドの貴族の館で執り行われた。

<イサベルとフェルナンドの婚礼>

カトリック両王の結婚

今のように写真があるわけでもなく先に密偵は送られていたようだがこの結婚式で2人は初めて出会う。イサベル18歳フェルナンド17歳。フェルナンドはなかなかのいい男でイサベルは美人だったので若い2人はひかれあった…かも。

1474年カスティーリア王エンリケ4世が亡くなるとイサベルは王位継承権を主張。兄王の娘(出生に謎の有るホアナ)の即位を画策する新ポルトガル勢力を駆使しイサベル女王戴冠(1479年)。セゴビアのマヨール広場近くにあるサンミゲール教会にて戴冠しサベルはカスティーリア王国女王となる。

<イサベルの戴冠>

イサベル女王戴冠

同じ年アラゴンではフェルナンドの父王ホアン2世が死去。これでフェルナンドはアラゴン・カタルーニャの王となる。

これでカスティーリアとアラゴン・カタルーニャの共同統治が始まりかつてない強大な勢力がイベリア半島に誕生した。

カトリック両王の政策


異教徒追放

イサベルとフェルナンドが行ったことはまず国内キリスト教勢力をまとめる為コンベルソと言われる改宗ユダヤ教徒を弾圧する異端審問所が作られた。1480年から1516年までに6000人のユダヤ人が火あぶりの刑にあったと言われる。宗教的な統一という名目のもとユダヤ人の財産狙いだったに違いない。

グラナダ陥落戦

もう一つがグラナダへの軍事攻勢。1481年イベリア半島に残るイスラム王朝グラナダ王国へ攻撃を始めた。ロンダが14885年マラガは1487年に陥落。特にマラガは重要な港だった。のど元を抑えられながらグラナダは1年半の籠城戦のあと降伏した。

<グラナダの陥落>



1492年1月2日グラナダ王国アルハンブラ宮殿にイサベル・フェルナンド両王が入場した。800年近く続いたレコンキスタの終了。

コロンブスへの援助

グラナダ陥落の同じ年コロンブスイサベル女王から援助を手に入れる。陥落したアルハンブラ宮殿で宝石箱をプレゼントされそれをお金に換えて船の準備の一部を賄い西回り航海へ出発していく。

<コロンブスの新大陸到着>

コロンブスのアメリカ到着

フェルナンド王はコロンブスの事を快く思っておらずイサベル女王亡きあとはフェルナンド王はコロンブスとの約束事を反古にし惨めな対応を受け牢獄に繋がれる。

 

スペイン人ローマ法王アレキサンドル6世

1492年法王選挙でスペイン人ローマ法王が選ばれる。有名なボルジア家出身ローマ法王アレキサンドル6世はこの2人の偉業をたたえて1496年にカトリック両王という称号を与えた。

*話はそれますが、このローマ法王の息子がチェーザレ・ボルジアというイケメンの軍人、娘がルクレチア・ボルジアという絶世の美女。(ローマ法王に愛人がいて子供がいたんです!)

ローマ法王はカトリック世界のトップ。今も法王は選挙で選ばれるがこの選挙権を持つ位を枢機卿と呼ぶ。アレキサンドル6世は枢機卿にお金をばら撒いて法王の地位を手に入れた人物。が、それも当時では珍しい事ではなく宗教の世界とはいえ権力を手に入れる為権謀術数が渦巻くドロドロの状態のカトリック世界だった。そこでトップに立つにはそれなりのカリスマ性が有ったに違いない。

<ローマ法王アレキサンダー6世>

アレキサンダー6世

トルデシージャス条約

もともと1481年ローマ法王シクストゥス4世の時にカナリアス諸島以南の新領土はポルトガルに与えると決まっていた。その後スペイン出身のローマ法王アレキサンドル6世はこれを変更させポルトガルと揉めていた。新世界における両国の紛争を解決するために1494年スペインのカスティーリアにあるトルデシージャスで会議を開き地球に線引きをした。(ほかの国に許可も無くです)

<トルデシージャス条約条文>

トルデシージャス条約
By Biblioteca Nacional de Lisboa, photos probably taken by User:Joserebelo, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=472983

西アフリカのセネガル沖に浮かぶカボ・ベルデ諸島の370リーグ(1770キロメートル)の海上に縦に線を引きそれから東側に将来発見されたらポルトガル領土西側だったらスペイン領土と決まる。1506年ローマ法王ユリウス2世によって廃止される。

次の時代へ

ルネッサンスにより技術は既に進歩していた。進んだ科学はイスラム教徒により継承され昇華されている。羅針盤、天球儀、印刷術等ヨーロッパにイスラム圏を通り伝わった。いよいよカトリック両王の婚姻政策と大航海時代でスペインは大帝国になる準備は整った。日の沈む事なき大帝国の時代がやって来た。

 

レコンキスタの開始<トレドの陥落からアルハンブラの開城>までのスペインの歴史

711年にジブラルタル海峡からイスラム教徒がスペインに入って来る。招いたのは西ゴート貴族、実は王の腹心。晩年の西ゴート王国は腐敗と混乱の中、周りの貴族たちは国王を見捨て裏切った、そして裏切った貴族たちも無事では済まなかった。ついに西ゴート王国の首都トレドは陥落し王国は崩壊した。その日の夜中、トレドから持てるだけの財宝を持って馬で逃げた集団がいた。彼らは西ゴートの王の血を引く貴族達。スペイン北部の山岳地帯まで行きイスラム教徒と戦って小さな領土を手に入れ国を建国、そこからイスラム教徒への反撃を開始した。これがレコンキスタ=国土再征服の戦争。1492年にグラナダ王国が滅びるまでのレコンキスタの歴史記事です。

 

レコンキスタの開始

トレドがイスラム教徒によって陥落したとき王族貴族達の一部は馬に乗って持てるだけの宝物や聖遺物を持って北へ北へと逃げていった。スペインの北西部のアストゥリアス地方からフランスとの国境にあるバスク地方にかけての山岳地帯は今も険しい切り立った山が続く。冬は雪に閉ざされ作物もあまり取れない地域だ。

 

 

<アストゥリアスの山岳部>

カーレスのルート

 

不毛な地帯で険しい山岳部なのでイスラム教徒たちもあまり興味もなかったに違いない。(この時トレドから持って逃げた聖遺物や宝石が今もアストゥリアス首都オビエドの大聖堂のカマラ・サンタに保存されています。)

<アストゥリアス・オビエド大聖堂の中カマラサンタ>

オビエド・カマラサンタ

コバドンガの戦い・ペラヨ

スペインの歴史上重要な戦争、722年この山の中「コバドンガ」でキリスト教徒が初めて勝利を手に入れた戦いがコバドンガの戦い。レコンキスタの始まりです。

コバドンガにあるペラヨ像

この時のリーダーがペラヨペラヨはトレド陥落の時に逃れた王族の血をひくと言われるが詳細は分かっていない。勝利したキリスト教徒たちはペラヨを王に選びアストゥリアス王国を建国。これが最初のキリスト教国家で今のスペインの基礎。今もスペインの皇太子はアストゥリアス皇太子と呼ばれる。(イギリスの皇太子をウェールズ皇太子と呼ぶように)ここからスペインの歴史で需要なレコンキスタが始まる。

<コバドンガ>

コバドンガ

 

722年のコバドンガの戦いは西ゴート王国崩壊後たったの11年後にキリスト教徒が初めてイスラム教徒に勝った戦争。コバドンガに行くと険しい山の中に洞窟<サンタクエバ>がありそこにペラヨは今も埋葬されている。

<サンタクエバ、向こうにバシリカが見える>

サンタクエバ

アストゥリアスはキリスト教君主国スペイン発祥の地

722年アストゥリアス王国が建国される。今のスペイン君主国のもとになった国が出来た。アストゥリアスの人たちは長身で金髪に碧眼が多い。ビシゴートの末裔ゲルマンの血を引くからなのです。今のスペイン王妃(超美人)レティシアさんもアストゥリアスの出身。

 

フランク王国とサンティアゴの遺体の発見

丁度このころ今のフランスではフランク王国のメロビング朝宮宰カールマルテルがツールポワチエでイスラム教徒を撃退しその名声を高めた。

 

その息子がピピン3世として即位。フランク王国の国王になれたのはローマ法王(ステファヌ3世)の協力のお蔭なので見返りにラベンナを奪いのその土地をローマ法王に献上した(ピピンの寄進)これがローマ法王領の始まり。

その息子カール大帝が800年西ローマ皇帝に戴冠。その3年後スペインの北西の端で聖ヤコブの遺体が発見される。

聖ヤコブはスペイン語でサンチアゴ

聖ヤコブはキリストの12弟子のひとり。イベリア半島に布教にやって来ていたという伝説は古くからあった。エルサレムに戻った折にヘロデオ・アグリッパ王によって首を切られて処刑された。聖ヤコブの弟子たちが遺体を石の船に乗せて行先は風の向くまま旅に出た。その船がスペインのガリシアに着いたらしい。そしてその遺体が発見されたのが813年。大切に遺体を埋葬して教会を創ったら奇跡が起こった。山の中でイスラム教徒と戦っているキリスト教徒を助けに白い馬に乗った聖ヤコブが応戦してくれたのだ。

これは偶然ではなく政治と宗教が後ろにあったに違いない。

<白い馬に乗って戦う聖ヤコブ>

聖ヤコブ

スペインの歴史上重要なレコンキスタの始まり

「コンキスタール」は征服するという意味のスペイン語。これに「レ」再びという言葉をつけて「レコンキスタ」。国土再征服運動の始まり。聖ヤコブの力を借りながら「あなたが戦争で異教徒と戦って死んでしまうかもしれません。でも魂は間違いなく天国に行けますから」と聖戦が行われた。

周りの小さなキリスト教徒勢力を少しづつ併合し首都は山の中から次第に南へ移動。カンガスデオニスに宮廷が置かれさらにオビエドへ移動。

アストゥリアス地図

 

次第にレコンキスタが進み首都はレオンに。王様の結婚などでアストゥリアス王国はレオン王国となる。さらにカスティーリア王国との結婚や遺産分割によりレオンはカスティーリアに併合されカスティーリア・レオン王国となる。

この頃南スペインはコルドバカリフ王国

シリアで革命が有りウマイヤ家の王子がはるばるスペインのコルドバまで逃げて来た。そして後期ウマイヤ朝が始まりコルドバの街にはモスクや大学、図書館が作られ人口が増え学者が集まり繁栄を極めていた。世界遺産メスキータはこの時代に創られた。

<コルドバ・メスキータ内部>

コルドバ、メスキータ

コルドバカリフ王国の記事はこちらです。別のウインドウで開きます。     <後期ウマイヤ朝。コルドバカリフ王国の繁栄>

再びトレドはキリスト教徒の手に

歴史を振り返って永遠に続いた帝国はひとつもない。そして内部からの亀裂が崩壊に向かっていく。豊かなコルドバ王国は繁栄し紀元1000年にこれほどの栄華を極めた街は他に無かった。しかし世の常、権力者の欲望と裏切り、内部紛争もあり11031年に後期ウマイヤ朝が崩壊する。

 

これがキリスト教徒たちに追い風となった。レコンキスタは進んでいきアルフォンソ6世率いるキリスト教徒軍が1085年にトレドを奪い返す。

<アルフォンソ6世のトレド奪回>

アルフォンソ6世のトレド奪回
wikipedia CC
Source Own work
Author CarlosVdeHabsburgo

<トレドの街>

トレド

トレドを奪い返したカスティーリア国王アルフォンソ6世に2人の娘がいた。それぞれをレコンキスタで戦った勇敢な騎士と結婚させ土地を封土する。1人にカスティーリア王国を与え、もう1人は少し離れたイベリア半島西の端の方の土地を与えた。名前がポルト、そして川の対岸の街がカーレ。このふたつの名前がひっついてポルトカーレと呼ばれるようになる。これがポルトガルの始まりとなる。 

アルフォンソ6世

アルフォンソ6世の時代はイスラム教徒たちも税金さえ払えばイスラム教徒として生活することが許されていた、または現実路線を取る人達はキリスト教徒に改宗し優遇されていた。コルドバから沢山の知識階級のイスラム教徒たちがトレドに集まり次第にトレドは当時のヨーロッパ随一の学問の都になって行く。ユダヤ教徒やイスラム教徒などの豊かな技術と知識、金融とネットワークをうまく利用した政策が取られていた。

最後の砦グラナダ王国アルハンブラ宮殿

キリスト教徒たちがさらにレコンキスタを進め南下していき1212年のハエンのナバス・デ・トロサの戦いで圧勝。これが天下分け目の合戦となりキリスト教徒が力をつけ勢い付く。イスラム勢力は内紛と裏切りの中セビージャは1248年に陥落。

最後に残ったイスラム王朝がグラナダ王国。ハエンの領主がやってきてグラナダに王国を作り何世代もの王たちが不規則な地形を整備して宮殿を作った。

<アルハンブラ宮殿>

アルハンブラ、コマレス宮

スペインに残った最後のアラブ王朝の宮殿がアルハンブラ宮殿。1492年にカスティーリア王国イサベル女王率いるキリスト教徒軍により陥落するまでヨーロッパに残った最後のイスラム王朝です。奇跡ともいわれる存続で周りはキリスト教徒に囲まれ税金を払い裏切りや嫉妬が渦巻く宮殿の中では千一夜物語が続いていた。

アルハンブラ宮殿についての記事です。別のウィンドウで開きます。      <アルハンブラ宮殿グラナダ王国<イスラム建築の最高芸術>

1492年1月2日最後のアラブの王は無血開城を選び一族郎党を引き連れシエラネバダの与えられた土地を好まずモロッコへ逃げていった。グラナダの陥落でレコンキスタは終了しスペインはこの後大帝国へとなって行く。

 

コルドバ・カリフ王国の繁栄、アッバース革命と後期ウマイヤ朝。

 

スペイン最南端にそこに立つとアフリカが手が届きそうに見える海峡が有る。大西洋と地中海の入り口の海峡の名前はジブラルタル。14キロのジブラルタル海峡を渡ってイスラム教徒がスペインへ入ってきて西ゴート王国が崩壊した。スペインにイスラム教徒の時代がやって来た。アラビア半島ではシリアのウマイヤ朝が勢力を広げて巨大な帝国を作っていた時代。トレドから逃げたキリスト教徒たちは北スペインの山岳地帯で戦いながら小さなキリスト教徒の君主国を作っていた。そんな時代にシリアで革命が起こり一人の王子が逃げて来た、後期ウマイヤ朝・コルドバカリフ王国の始まり。

後期ウマイヤ朝のはじまり

舞台はアラビア半島、今も内戦が続くシリアのダマスカスでアッバース革命が起こり14代続いたウマイヤ朝は倒された。ウマイヤ家はアラビア人優遇政策をとり身内ばかりを贔屓にしてた。不満が爆発し政敵アッバース家が革命を起こした。アッバース朝は後に首都を今のイラク・バグダットに定め東カリフ王国と呼ばれる。

<シリアのウマイヤッドモスク、現存する最古のモスク>

シリア、ウマイヤッドモスク
wikipedia CC
Source Own work
Author Jerzy Strzelecki
*アッバース革命

イスラム教の創始者モハメッドが後継者を決めずに死んでしまう事によって当時のイスラム共同体は大混乱に陥る。そんな中ウマイヤ朝が実権を握りシリアのダマスカスを首都にウマイヤ朝が繁栄していた。711年にジブラルタル海峡を渡ってスペインに来た勢力はこのシリアのウマイヤ家からの勢力。661年に成立したウマイヤ家には最初から正当性に疑問があった。そしてウマイヤ家優遇政策を取り特権意識の強いウマイヤ家には敵が多かった。アッバース家は預言者モハメッドの叔父の血筋だがウマイヤ家によって中央政権から外されていた為、不満分子のシーア派と結んでついに革命が起こったのがアッバース革命。

 

 

*シーア派とスンニー派に分かれたところはこちらの記事をご覧ください。別のウインドウで開きます。<ウマイヤ家の始まり。スンニー派とシーア派はここから揉め始める>

ウマイヤ家の王子が逃げてくる

倒されたウマイヤ家の王子がはるばる北アフリカ経由でイベリア半島までやってきた。隠し持った宝石を売りながら助けられたり騙されたりしながらの逃亡劇。アル・アンダルス(南スペイン)のアミールを破り756年独立したアミールとして即位したのがアブ・ドゥラーマン1世。

*アミールはアラビア語で司令官、総督を意味し次第にイスラム世界で王族や貴族の総称になる。後にスペイン語化しアドミラル=司令官という言葉になる。

アブドラーマン1世は緑の目でカリスマ性のあるイケメン王子だったそう。シリアのウマイヤ家の血を継承することからスペイン後期ウマイヤ朝と呼ぶ。ここからスペインでのウマイヤ家によるアル・アンダルスの支配が始まる。

<コルドバの街とメスキータ>

コルドバ、メスキータ
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Source Flickr: [1]
Author Toni Castillo Quero
メスキータ(スペイン・後期ウマイヤ朝のモスク)

スペイン・後期ウマイヤ朝は宮廷の内紛や陰謀などの続く中250年間コルドバを首都に栄える。その時に作り始め代々のカリフが拡大した回教寺院がメスキータという世界遺産。モスク(回教寺院)の事をスペイン語でメスキータと呼ぶ。

メスキータ内部

コルドバ、メスキータ

メスキータに入ってすぐの最初の部分の柱はローマの遺跡から持って来た柱が使われているので柱一本一本は2000年前の物。天井はオリジナルではなく後の修復再建。

中央部分はキリスト教徒の時代にほとんど柱が取り払われてしまった部分。大変残念ですが今では回教寺院メスキータの中に現役の大聖堂がある不思議な建築物になっている。

<内部の大聖堂聖歌隊席部分>

コルドバ、メスキータ、カテドラル部分
wikipedia CC
Source Flickr: IMG_5289
Author Jan Seifert

奥の方のミヒラーブ(メッカの方向に向かって作られた窪み)には漆喰に美しい文字でコーランの一説が彫刻されていてその周りは唐草模様で飾られている。壁面を規則正しく文字や模様で埋め尽くすためにはユークリッドの幾何学が使われた。数学が発達していないと不可能なのです。

<一番奥のミヒラーブ、ビザンチンの技術者を連れて来て作った>

メスキータ、ミヒラブ

この時代のキリスト教徒の教会に行くと祭壇に新約聖書の物語や聖母マリア・聖人たちが彫刻されている。識字率が低かったので字が読めなくても絵によって、彫刻によって聖書を教えていった。宗教を広めるために絵画や彫刻が必要だった。イスラム世界はそれが許されなかったので識字率が高くなければいけなかった事がわかります。

 

回教寺院は通常異教徒は入れないことがほとんどです。内部がどういう風になっているかを見れる良い機会にもなります。

イスラム教徒は「偶像崇拝の禁止」が重要な教えなので彫刻に人間や動物を創ることが出来ない。コーランの一説(文字)を装飾し、神の言葉なので美しく完璧に。アラビア語で文字が繰り返し彫刻されています。その文字は今と同じアラビア文字なので読むことが出来ます。繰り返し神を称える言葉が視界に入ってくることによって神に近づき祈りは深くなる。

偶像崇拝が禁止なので回教寺院には祭壇はないのがモスク。では何に向かって祈るかというとメッカにあるカーバ神殿に向かって。回教寺院に入るとメッカに向かい祈ることが出来るミヒラーブいう部分がある。そこを美しい装飾で飾った。

*(実際コルドバのメスキータのミヒラーブは少し角度がずれています。もともとあった教会をもとに作った関係上基礎を移動させることが出来なかった様です)今はスマートフォンのアプリでメッカがわかるようになっています。

良く「アニメのメッカ」とか「スポーツのメッカ」とかいう言葉の「メッカ」はここからきています。サウジアラビアにあるイスラム教徒の最大の聖地。巡礼地。

スペイン・後期ウマイヤ朝絶頂期

アブドゥラーマン3世は自らをカリフとして僭称しバグダッドとの主従関係を断ち切り独立したカリフすなわち王となった(929年)。この時代がスペイン・ウマイヤ朝絶頂期。メディーナ・アサーラ宮殿を作りメスキータも増築が進む。次のアルハカム2世の時には貿易も盛んになりイスラム圏とヨーロッパ諸国をつなぐ架け橋となり人と物が移動し繁栄した。

軍事力は強化され北部のキリスト教徒の地域に軍事遠征が行われる。国家収入は商品取引による租税で占められた。都市では絹織物、陶器類、金属製品、武器や紙農産物などが取引された。取引相手は同じイスラム圏だけではなくヨーロッパのキリスト教徒圏も含まれていた。

アルアンダルスからはオリーブ油と織物や手工芸品等が輸出されヨーロッパからは毛皮、金属、武器、奴隷(スラブ人の白人奴隷とスーダンから黒人奴隷)を輸入した。

西方の真珠<コルドバカリフ王国>

人口は50万人モスクや大学、公共浴場、図書館が作られヨーロッパ最高の大学として数学、天文学、医学、化学などの中心だった。メスキータはさらに増築され一度に2万5千人もの人が礼拝できたそう。

<メスキータの塔、現在は大聖堂の鐘楼になっている>

コルドバ、メスキータ、塔
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スペイン・後期ウマイヤ朝はバグダッドに対抗し多くの学者を厚遇を持って受け入れ図書館を作り大学を創り学者を集めた。当時の図書館の蔵書は60万冊と言われている。

キリスト教ヨーロッパにまだこの時代大学はなかった時代ボローニャやパリに大学ができるのが12世紀。。コルドバはヨーロッパ中世の数学、天文学、医学、化学や文学など諸学問の中心地であった。その後約400年間にわたって学問の中心地となる。(レコンキスタのあとキリスト教徒たちによって知識の継承がされていった)西方の真珠と呼ばれた。

次第にキリスト教徒のレコンキスタが進んで1031年コルドバは陥落する。

メスキータは壊されずキリスト教徒の礼拝堂が内部の端の方に創られ日曜日にはキリスト教徒金曜日にはイスラム教徒が礼拝をして仲良く使っていた。

<メスキータ内部の礼拝堂部分>

コルドバ、メスキータ、礼拝堂

陥落後コルドバの学者たちはトレドに呼ばれこの後はキリスト教世界で厚遇され様々な知識がキリスト教世界へ伝わって行った。

 

ウマイヤ朝とアッバース朝、アル・アンダルス

アル・アンダルスは南スペイン全体のイスラム時代の呼び名。「スペインは違う」と言われるのは長いスペインの歴史の中で700年以上にわたるイスラム支配が有った。スペインに711年に入って来たイスラム教徒たちはイベリア半島を短期間に制圧。ローマ時代の橋や幹線道路が半島中に巡らせれていたのでそれらの道路を使いイベリア半島ほぼ掌握する。それらの橋には今も使っている物がある。そして西ゴートの貴族階級は抵抗せずイスラム軍と和解する方を選んだようだ。スペインのイスラム支配時代が始まった。

アル・アンダルースのイスラム支配

当時のシリアは先進地域でイスラム教を広めながら北アフリカを制圧し西ゴートの混乱に乗じてスペインに入って来た。北部の山岳地帯をのぞいてはアル・アンダルスと呼ばれ首都をコルドバに定めた。シリアのダマスカスからの「ウマイヤ朝カリフ」の支配下にはいり総督を派遣しイベリア半島を統治した。カリフはアミールと呼ばれる総督を派遣してイベリア半島を統治させた。

実際は差別のある混合部隊

イスラム教徒と書いているのは実際は民族的にはいろんな種族がやって来ていて共通点は宗教、すなわちイスラム教徒という事だけだった。アル・アンダルスはアラブ人シリア人ベルベル人などの混合部隊によって統治される。その彼らの間も軋轢や紛争があったようで特にシリアのウマイヤ朝アラブ人優遇政策を取ったので貴族や指導者階級はアラブ人でモロッコのベルベル人は山岳地帯や貧しい土地で生活を余儀なくされ格差がその後の確執の種になる。

他宗教にも寛容な政治

キリスト教徒やユダヤ教徒も税金さえ余分に払えば信仰の自由があったので財産を没収されたり戦って命を落とすより和平を選び懐柔されていく。又イスラム教徒に改宗し自由の身になる奴隷もいた。貴族階級にもイスラム教徒と婚姻関係を持ち支配階級に入るものもいたので宗教的にも寛容な時代だった。

 

イスラム教徒にとってユダヤ教もキリスト教も同じ聖典の民なので宗教的な対立はなかった。これが半島の征服を容易にしたと言われる。

トゥール・ポワチエの戦い

この勢力がさらに北へ進軍しピレネー山脈を越えてフランスまで行く。フランスはフランク王国の時代だった。勢い増したイスラム軍は732年トゥール・ポアチエの戦いでカール・マルテルに敗れる。以降イスラム教徒たちはアル・アンダルスに留まった。(カール・マルテルの息子がピピン。ローマ法王によって戴冠しそのお礼に土地をプレゼントしたのが今の法王領の始まり。さらにその息子がカール大帝)

キリスト教徒側では大勝利と歴史に名を残す大戦争になっているがイスラム側に記述では数多く戦った中の珍しく負けた戦争位の感覚だった。私たちが学校で習う世界史は全部ヨーロッパ側から見たもの。歴史は両側から見てみないと本当の理解は難しい。

ダマスカスで革命が起こりウマイヤ朝は倒れる

ウマイヤ朝の首都ダマスカスアッバース家が革命を起こしウマイヤ王朝は倒れた。もともとウマイヤ朝の成立にも不明な点があり不満分子が多かった。(4代目カリフ・アリーの暗殺はウマイヤ家によると言われている。その後ウマイヤ家はダマスカスを首都にウマイヤ朝を作った)アラブ人優遇政策など非アラブのイスラム教徒に対してもキリスト教徒と同じく税金が課せられていた。ムアーウィヤが今までの慣例に反して世襲制を導入。歴代のカリフたちの享楽的な生活などが厳格なイスラム教徒たちの非難の的だった。

アッバース家はイスラム教の始祖モハメッドの叔父の子孫。ウマイヤ朝を倒し新しい王朝が始まる。非アラブ人特にペルシャ人との融合し革命が起こった。アラブ人優遇政策をやめイスラム教徒はみな平等に非課税。ペルシアの進んだ文化と融合。

製紙法が唐から伝わる

話は少しそれますがこのアッバース朝時代中国は唐の玄宗皇帝の時代。領土拡大政策をとっていた唐に侵略されると思った弱小国家タシュケントから支援を頼まれたアッバース朝は唐と戦って大勝しています。この時の中国の捕虜の中に紙漉き職人がいて製紙法が伝わったと言われています。紙が使わることによって後に多くの古代の文献を訳したものを書き移し保存することが出来るようになる。

首都はバグダッドへ

次の時代に首都はダマスカスから今のイラクのバグダッドに移動し人が集まり大いに栄える。100万人とか150万人とかいろんな説があるがとにかく当時にしたら他に無いほどの巨大都市だった。

知恵の館

アッバース朝第2代カリフのアル・マンスール(754-775年)はビザンチンの皇帝に施設を派遣し古代ギリシャの数学の教科書、特にユークリッドの著書を求めている。そのために同じ重さの金を支払ったと伝えられている。

第7代カリフ、アル・マアムーンの時(830年)に知識吸収欲は最高潮となりバグダッドに知恵の館という政府機関を作っている。知恵の家には多数の学者を雇ってビザンチン帝国から求めてきたギリシャ語の文献をまずシリア語に訳しそれをアラビア語に訳した。ギリシャ語からシリア語に訳すのにキリスト教徒が雇われた。

国家権力を使って大規模な翻訳事業が約200年間行われ当時存在したギリシャ語の文献はほとんどアラビア語に訳されたという。訳したものを残すために紙に書くということが必要になる。その紙の製紙法は上記で触れた唐の時代の中国との戦いで手に入れた。

後期ウマイヤ朝(後ウマイヤ朝)

この革命から命からがら逃げたウマイヤ家の人々がいた。親戚筋を頼って隠れたり助けられたりしながらはるばるアル・アンダルス迄やって来てコルドバを首都にカリフ王国を創る。バグダッドも遠いところだったのであまり気にせずほっておいてくれたようで、ここからスペインで正当のウマイヤのカリフによるアルアンダルス支配、後期ウマイヤ朝(後ウマイヤ朝)が始まる。

スペインの歴史はドラマチックで次から次へと民族や宗教が変わって混血していくのです。

後期ウマイヤ朝の記事はこちらから <後期ウマイヤ朝の記事はこちら>

スペインの歴史ダイジェスト版はこちらから  <スペインの歴史ダイジェスト版>

西ゴート(ビシゴート)王国の崩壊、トレド陥落とイスラム教徒の侵入

スペインの歴史は複雑で様々な民族が足跡を残していった。ローマ帝国を崩壊させたゲルマン民族の大移動でスペインにやって来た西ゴート王国(ビシゴート王国)はトレドを首都に繁栄するが実は裏切りと陰謀の世界だった。人間の本能はいつの時代も同じで嫉妬と欲望の末大抵の王国は陰謀が渦巻き滅びていく。西ゴート王国も例外ではなく王室で日々血なまぐさい事件が続く。末期の西ゴート王国の歴史についての記事です。

西ゴート(ビシゴート)王国末期

国王と国王を選出する権利を持った大貴族と高位聖職者の間での利害関係の衝突で常に不安定な状態が続いていた。

 

 

506年にイベリア半島で西ゴート王国が始まって711年までに26人の国王が誕生した。204年間で26人もの国王の交代。陰謀に次ぐ陰謀。

<西ゴート王国首都トレド>

トレド展望台

711年スペインにイスラム教徒がやってくる

7世紀にアラビア半島で始まったイスラム教は急速に北アフリカを征服。シリアを首都にウマイヤ朝が始まっていた。

あまりにも早い伝搬に何故と思うのですが一説にはビザンチン帝国の弱体化と一部のコプト教徒(キリスト教の一派)はビザンチン支配を嫌いイスラムを受け入れたと言われている。それにしても一気に伝搬している。

8世紀初めには南スペインジブラルタル海峡をはさんでアフリカ側(現モロッコ)にすでにイスラム教徒が来ていた。混乱する西ゴート王国、民衆の中にも不満が高まっている中、北アフリカ原住民ベルベル族を中心とする総勢12000人のイスラム教徒が711年にイベリア半島に上陸。イスラム帝国北アフリカ総督ムーサの命令のもと凄腕指揮官ターリク・ブン・ジアードが率いる軍がジブラルタル海峡を渡って来る。彼はそこにあった岩山を自分の名前を付けジャバル・アル・ターリク(ターリクの岩)と名付けた。ここを今私たちはジブラルタルと呼ぶ。「スペインの歴史は違う」と言わるイスラム支配がここから始まる。

そこは14キロの海峡でヨーロッパとアフリカが一番近いところ。大西洋と地中海の入り口で今も戦略的に重要なところです。海峡のヨーロッパ側は現在イギリス領。

<ヨーロッパとアフリカの間の海峡>

ジブラルタル海峡

*イギリス領になった経緯:1700年スペインのカルロス2世が子供が無いまま他界。スペイン王位を狙ってハプスブルグとブルボンが戦争になりヨーロッパ各国は利害が絡みブルボンの勝利となる。この戦争でイギリスがスペインから奪ったのがジブラルタルで今もイギリス領土。

<スペイン側から、向こうに見える山はジブラルタル>

ジブラルタル

 

ある美女の伝説

話は戻り西ゴート王国。北アフリカのセウタ総督フリアン伯爵の令嬢フロリンダはトレドの宮殿に行儀見習いとして来ていた。とっても美しいフロリンダに国王ロドリーゴは思いを寄せていた。でも全く相手にしてもらえない。ある日彼女がタホ川で水浴びをしていたのを見つけたロドリーゴ王は無理やり思いを遂げる(今なら合意なのか強姦なのか裁判で争点になる部分)泣きながら顔を晴らした娘から話を聞いたフロリンダの父親は国王に復讐をすると娘に誓う。そしてセウタの城門を開けイスラム教徒たちイベリア半島に入れる手引きをし、娘の復讐を果たした。真偽のほうは不明だそうで歴史ではなくあくまでも伝説。

トレド陥落

イスラム教徒の軍がジブラルタル海峡を渡ったころ西ゴートの国王ロドリーゴは北スペインのバスク人の紛争の鎮圧のためにパンプローナに駐屯していた。慌てて10万人(一説には3万3千人)の西ゴート軍は南下するが大敗。おそらく味方同士の裏切りや兵士の士気の低下が原因と言われる。また西ゴート軍の大部分は貧しい農民や奴隷からなる歩兵部隊で斧やこん棒などで武装していても訓練は行き届いていなかった。

グアダレーテの戦い

<グアダレーテの戦いを指揮するロドリーゴ王>

グアダレーテの戦い
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南スペインのへレス・デ・ラ・フロンテーラ近くのグアダレーテ川の戦い。実はロドリーゴ王に不満を持つ西ゴートの貴族たちはターリクと密約をかわし国王を裏切っていた。国王を殺させてうまく立ち回ろうとしていたようだ。士気の下がった西ゴート軍の隙間にイスラム兵たちが切り込み西ゴート軍は敗走を始めるが川の流れが急で川幅も広く多くの西ゴート軍は溺れ死んだ。国王を裏切った貴族たちも殆ど助からなかったと伝えられる。

<現在のグアダレーテ川>

グアダレーテ川
wikipedia CC
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Author
Emilio J. Rodríguez Posada (1986– ) Link back to Creator infobox template wikidata:Q30564104

ロドリーゴ王の行方は分からず戦場には王の白い愛馬の遺体が横たわっていた。馬具にはきらびやかな宝石をつけたまま。そしてその近くには王のブーツが片方あったそう。これであっけなく西ゴート王国は崩壊した。

トレドはその後も文化都市だった。

トレドはイスラム圏に入るがイスラム教徒寛容な政策をとりキリスト教徒やユダヤ教徒も人頭税だけ払えば信仰の自由があった。長い間キリスト教徒の学者が訪れイスラム文化への窓口になり多くの学者が学ぶ3つの文化の融合する都市となる。アラビア語の哲学書や数学書などがラテン語に訳される翻訳集団ができる。

<トレド大聖堂13世紀から15世紀の建築>

トレド大聖堂

 

個人的に気になっている部分があって亡くなったロドリーゴ王の妃なんですが・・・「その後ウマイヤ朝北アフリカ総督ムーサ―の息子と結婚した。」とあって。国王を裏切ったのは西ゴートの貴族じゃなくって奥さんだったんじゃないのかしら・・・・・とほぼ想像ですが確信しています。総督の息子と結婚って若かったのか息子が年上好みだったかは謎。歴史の後ろに女の恨み。今も昔もよく似た事件があるものです。

イスラム勢力は716年ころにはイベリア半島のほとんどを征服。一部の西ゴート王国貴族や聖職者たちが持てるだけの財宝や聖遺物を持って北スペインの山岳地帯(アストゥリアス地方やバスク地方)に逃れた。その中に西ゴートの王の血を引くペラーヨがいた。

この後レコンキスタが始まり再びキリスト教徒がイベリア半島を奪い返していく。

スペインの歴史ダイジェスト版

スペインの歴史をざっくり5分で読めるようにまとめてあるダイジェスト版です。いつ頃人類がスペインにたどり着いたかはまだ不明な点が多いが180万年から150万年前と考えられている。180万年前から始めているのでゆっくり読んだら5分は無理かも〜です。

スペインの歴史ダイジェスト版


イベリア半島にやってきた最初の人類

イベリア半島に最初に人類が到着したのがいつなのかは不明な点が多いが180万年前から150万年前という。あまりにも遠いのでこの辺は省略。

イベリア半島で発見された最古の人骨はアタプエルカ(ブルゴス近郊、世界遺産)にある。19世期の鉄道のトンネル工事の時に発見され1984年の発掘調査では150体の人骨が見つかっている。ヨーロッパに最初に到着した人類の遺構で40万年から20万年前のものだという。

スペイン北部アルタミラ洞窟に2万年前の壁画

時計をうんと進めていこう!後期旧石器時代にホモ・サピエンスの仲間クロマニヨン人がイベリア半島に移住してきた。

約2万年前の洞窟壁画アルタミラはこの時代のもの。

1875年アマチュア考古学者が娘と草原を歩いていると娘が洞窟の中へ入って行って壁画を発見。牛や鹿の後期石器時代マドレーヌ文化のもので生き生きとした動物たちが描かれていた。そのあとフランス・スペイン国境あたりでラスコーなど数々の壁画の発見に繋がる。

<カンタブリア アルタミラの洞窟>

2万年も前の人類がとても生き生きと動物を天井に描いていて振り返ったビソンテや馬など、アルタミラ洞窟は現在傷みが激しく見学できるのは横にある複製。併設する博物館は一見の価値ありです。マドリードの考古学博物館にも洞窟の一部の複製があり見学できる。

何故造った?大きな巨石文化

紀元前2000年ころ、イベリア半島にも巨石文化時代があった。いまだにどういう民族が残したか不明でエーゲ海のクレタ島や地中海のマルタ島などの関連があるかもと言われている。主にアルメリアなどの地中海とバレアレス諸島に集中。

巨石文化はイベリア半島からヨーロッパに広がりフランスのカルナックやイギリスのストーンヘンジ等へ伝わって行ったらしい。しかし巨大な石を屋根にかけたり壁に置いたり、運んでくるのさえ大変だったに違いない。

 

アンテケーラのドルメンの中に入った時にちょっと意識が吹っ飛んだ?感じになった、ここには何かがある、かもね。

<アンテケーラのドルメン>

フェニキア人

フェニキアは現在のレバノンにあった海洋国家。地中海を船で渡って交易をしてスペインの南西の端に紀元前1100年頃今のカディスを建設した。フェニキア人が岩塩や錫を求めてやって来た頃カディスはもとは小さな島だったが土砂の堆積でイベリア半島に繋がった。

それにしても木造船で何千キロもよく移動したなあと感心する。

タルテッソス

南スペインのセビージャ近郊で1958年に建築作業員が偶然発見した金の装飾品郡は「カランボロの財宝」と呼ばれる。紀元前1000年ころ南西部グアダルキビール河のほとりに誕生した国でいまだに謎が多い。旧約聖書に出てくるタルシュスだと言われているが彼らは突然姿を消している。伝説のアトランティスではないかという説も。

 

スペインにもバグパイプ、ケルト人の足跡

紀元前900年ころからインドヨーロッパ語族がピレネー山脈を越えて入って来る。先住民族イベロ族と混血を繰り返し今のスペイン人のルーツとみなされるケルト・イベロ族が形成される。

<ケルトの遺跡  ガリシア・サンタ・テクラ>

ガリシアに行くとケルトの特徴の渦巻模様や石の円形の建築物、バグパイプがある。サンチアゴ・デ・コンポステーラに行くと大聖堂の横でバグパイプの演奏をしていることがある。

ギリシャ人

フェニキアから幾分か遅れてスペインにやってきたのがギリシャ人。彫像や芸術をスペインにもたらした。土着のものと融合してグレコ・イベリアと言われる美しい様式が生まれた。アリカンテの近くで出土したエルチェの婦人像がその代表.。

<エルチェの婦人像 マドリッド国立考古学博物館>

カルタゴとローマ

フェニキアの植民地カルタゴがスペインに入って来るとギリシャ人を駆使し今のイビサを建設。イビサ島は今はセレブの島で有名だが本来素朴な島でカルタゴの遺跡も少しだが存在する。カルタゴはその後シチリアにまで支配権を拡大しローマと衝突。そして有名なポエニ戦争が始まる。

第1回ポエニ戦争は新興国ローマが勝利。負けた将軍がイベリア半島に移住する。その息子がハンニバル。

第2回ポエニ戦争は28歳のハンニバルが像を連れてピレネー・アルプスを越えてローマへ進軍するがローマの勝利。

そして第3回ポエニ戦争でローマはカルタゴを完璧に破壊、そしてイベリア半島にローマ人が入ってくる。

カルタゴの遺跡は殆ど後のローマに破壊されているがカルタヘナに行くとカルタゴの城壁が残る。

ローマの支配

ローマ人もそう簡単にここを手に入れたわけでは無い。かなりの抵抗もあり200年の歳月をかけて制圧しイベリア半島はローマ化した。アウグストゥス帝の時代から5賢帝の時代に多くの寺院や水道橋、劇場などが作られる。オリーブやマグロの塩漬け、小麦、ワイン、金や銀がイベリア半島からローマに輸出される。 。

<メリダの劇場>

キリスト教の伝来とビシゴート

やっとこさ紀元後になった。がここからまだ2000年残っている。

紀元後1世紀中頃スペインにキリスト教が伝来。最初は殉教者を多く出すが次第に深く根差していく。ローマ帝国が分裂し末期状態になった頃ゲルマン民族の大移動、スペインにはビシゴート族がやって来てビシゴート王国が始まった。その首都がトレド(世界遺産)だ。

<トレド>

ビシゴートは先住民のイスパノ・ローマと融合しカトリックに改宗。しかし内紛が多く血なまぐさい事件が続き政治は不安定、民衆の不満に乗じて南からイスラム教徒がやって来る。

イスラムの侵入

スペインの歴史がほかのヨーロッパと違うのがここからのイスラム支配。

711年イベリア半島を虎視眈々と狙っていたアラブ系ベルベル人を主力とするイスラム教徒(サラセン帝国・首都シリア)がジブラルタル海峡を渡って半島に侵入。

遂にビシゴート王国の崩壊。イスラム教徒は寛大な政策を取りキリスト教徒と共存したのが半島征服をたやすくした。イスラム教徒は半島南部を支配。その地域はシリアのウマイヤ朝支配下のアル・アンダルスと呼ばれる。キリスト教徒として人頭税などを払う人をモサラベ、イスラム教徒に改宗した人をムラディと呼ぶ。

後期ウマイヤ朝

シリアで続いていたウマイヤ朝、ところが革命が起こりウマイヤ朝が倒されアッバース朝に交替した。カリフの座を追われたウマイヤ家の血を引く王子がはるばるスペインまでやって来る。そしてコルドバを首都に後期ウマイヤ朝が始まった。

「シリアから正当の王子がやって来てスペインでイスラム王朝が始まった」というわけだ。

その時に作られた回教寺院がコルドバのメスキータという世界遺産。後に929年アブ・ドラーマン3世は自らをカリフ(王)としアル・アンダルスをウマイヤ朝カリフ王国とする。コルドバは栄華を極め数学、医学、天文学、化学などの中心となる。

<コルドバのメスキータ内部>

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Author Steven J. Dunlop, Nerstrand, MN
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レコンキスタと聖ヤコブの遺体の発見

イスラム化しなかった北スペインの山岳地帯でビシゴートの貴族の末裔ペラーヨは722年コバドンガの戦いで初めてイスラム教徒を撃破。

<コバドンガ  サンタ・クエバ>

レコンキスタの始まりだ。

キリスト教徒は北部スペインにアストゥリアス王国を作りイスラム社会からの避難民やフランスからの貴族戦士たちを受け入れ戦って土地を奪い返していく。

フランスではカール大帝が戴冠しレコンキスタを始めていた頃、偶然聖ヤコブの遺骸が発見されている。政治と宗教が絡んで民衆を煽っていったと読むのが妥当だろう。

<聖ヤコブ像>

 

白い馬に跨った聖ヤコブがイスラム教徒と戦ってくれる奇跡が起こる。「神はそれを望んでおられる」というスローガンのもとレコンキスタが進んでいく。1234年コルドバ陥落、1248年セビージャ陥落。この頃ヨーロッパは十字軍思想に燃えていた。

<聖ヤコブ蔵>

スペインの統一とグラナダの陥落

キリスト教徒がレコンキスタを進めながら少しずつ国がまとまって行きカスティーリアの王女イサベルとアラゴン・カタルーニャの王子フェルナンドの結婚。これでほぼ今のスペインのキリスト教世界の統一が完了した。

レコンキスタが進みイスラムの最後の砦はグラナダ王国のみ。実は最後の方のグラナダ王国はカスティーリア王国に高額の税金を払う立場での存続だった。そんな不安定な時代、アルハンブラ宮殿(グラナダ、世界遺産)で千一夜物語が繰り広げられていたわけだ。この王朝は22代254年間続く。

<アルハンブラ宮殿ライオンの中庭>

イサベル女王率いるキリスト教徒軍は1481年グラナダ攻撃をはじめた。約10年間の戦いの間に裏切りや寝返りが続き、1492年にグラナダ陥落。

その同じ年にコロンブスがイサベル女王の援助のもと西回り航海へ。大航海時代の幕開けとなる。さらに、同じ年にスペイン人ローマ法王が即位する。有名な、悪名高いアレッサンドロ6世、ボルジア家のローマ法王だ。

イサベル女王の後

イサベル女王の5人の子供たちは成長すると政略結婚の駒となるが、次々不運に見舞われていく。

長男ホワンは結婚式の途中で亡くなり、長女イサベルはポルトガル王に嫁ぐが産褥死。その息子も死去。次女ホワナはブルゴーニュ公フィリップ美公と結婚し王位継承者となるがフリップ美公突然の死のあと発狂(狂女ファナ)。唯一幸せな結婚をしたのは三女マリア、姉の死後ポルトガル王に嫁ぎ十人の子女を得、その長女イサベルは後にカルロス5世妃となる。

一番下のカタリーナは一番かわいそうで、結婚相手はイギリスのヘンリー7世の息子アーサー、が結婚数か月後に死別。その弟ヘンリー8世と再婚するが彼に愛人ができ離婚されロンドン塔に幽閉。その娘がメアリー・チューダー、又の名をブラッディ・メアリー(血のメアリー)だ。愛人アン・ブリンは最後ロンドン塔に幽閉されるがその娘がエリザベス1世女王となる。

話をスペインに戻して、前述の夫の死後発狂したホアナは正統のスペイン王位継承者。6人の子供を産み長男に王位継承権が移動。

カルロス5世

狂女ファナの長男がスペイン王カルロス1世として即位した。遺産相続で母親側からスペイン、アメリカ大陸、南イタリア、父親側からハプスブルグ領土を手に入れる。神聖ローマ帝国の皇帝になりカルロス5世と呼ばれる。ここからスペインの歴史の黄金時代がやってくる。

<カルロス5世 ティチアーノ作>

 

フェリペ2世

カルロス5世の息子がフェリペ2世。さらにポルトガル領土を手に入れスペインの国土は最高になる。日の沈まぬ大帝国と呼ばれたのがこの時代。フランスとの戦いに勝ちエル・エスコリアル宮殿の造営、レパントの海戦でオスマン・トルコに勝利し絶好調の時代だ。

日本から九州のキリシタン大名の遠縁の子供たち「天正遣欧少年使節団」がスペインにやってきたのはフェリペ2世に謁見するためだった。

しかし次第にその勢いに陰りが見え始め、イギリスのエリザベス女王との敵対関係の末無敵艦隊が英国海軍に負ける。真面目で質素で寡黙で「慎重王」とあだ名されている。

<フェリペ2世 ティチアーノ作>

フェリペ3世

フェリペ2世は世継ぎが生まれず妻に先立たれ4度結婚を繰り返している。最後の結婚で生まれた王子がフェリペ3世として即位。

フェリペ3世は日本から伊達藩の使いの侍たち「支倉常長一行」が謁見した国王。  フェリペ3世は政治にあまり興味のない王で「怠惰王」とあだ名されている

<フェリぺ3世ベラスケス作>

フェリペ4世

その次、フェリペ3世の息子がフェリペ4世。世襲制が続きやはりあまり政治に興味がない国王だ。芸術に目がない国王で絵画と演劇と馬術が好きだったらしい。

<フェリペ4世 ベラスケス 作>

フェリペ4世
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フェリペ4世 は2度結婚する。最初の結婚がフランスのブルボンの王女でイサベル・デ・ブルボン。ふたりの間の娘がフランス国王ルイ14世に嫁いでいる。

*ルイ14世は太陽王と呼ばれたベルサイユ宮殿を作ったフランス国王、その母親も妻もスペインの王女です。

フェリペ4世の王妃が亡くなり、大事な王子も17歳で天に召された。世継ぎが必要と国王の2回目の結婚が決まった。相手は実はフェリペ4世の姪でオーストリア・ハプスブルグの王女マリアーナ、ふたりの間に可愛い長女が生まれた。

長女はマルガリータと名づけられ沢山の肖像画が描かれた。プラド美術館にある有名な作品ベラスケスのラス・メニーナスの中央にいる王女様です。

<ラス・メニーナス ベラスケス 作>

スペイン・ハプスブルグの終焉

そして次に待望の男子誕生、カルロスと名づけられ国王になる。カルロス2世として即位するがスペイン・ハプスブルグ家の血の濃いい結婚のつけが回ってきた。体が弱く子供がないまま他界してしまった。

<カルロス2世 コエーリョ>

スペインは代々「ハプスブルグ家」だったがブルボンとも親戚関係を持っていたこともあり王位継承権を巡ってハプスブルグ対ブルボンの大きな戦争になる。ヨーロッパ列強を巻き込んで12年間の戦争の末ブルボンの勝利。ルイ14世の孫がフェリペ5世として即位しスペイン・ブルボン朝が始まる。

この戦争でスペインはジブラルタルをイギリスに割譲。スペインの最南端ジブラルタルはいまだにイギリス領土です。

スペイン側からパチリ、この先がイギリス

カルロス4世とフェルナンド7世

フェリペ5世の息子カルロス3世は立派な王様だったが次のカルロス4世は人がいいが無能な国王。

下の絵、プラド美術館にあるゴヤの「カルロス4世の家族」の真ん中より少し右にいる人物だ。この時代にフランス革命、そしてナポレオン戦争と混乱が続く。王の息子フェルナンド、下の絵の左から2番目はナポレオンに味方して父王の退位を手伝ったという人物で、ナポレオンののちのスペインで「フェルナンド7世」として即位するがスペインに混乱のみを与える。

<カルロス4世と家族 ゴヤ作>

イサベル2世とアルフォンソ12世

フェルナンド7世には娘しかいなかった。本来ブルボンの王位継承の法律では女性は王になれないので次は弟が王のはず、が法律を変え娘を次の女王にする。イサベル2世として即位。なので、王になるはずだった弟側とのちょっとした戦争になっている。

<イサベル2世>

イサベル2世
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イサベル2世の息子がアルフォンソ12世。米西戦争の敗北キューバの独立やプエルトリコの割譲、フィリピンの売却という散々な時代、16世紀の日の沈まぬ国は斜陽の下り坂を突き進む。

<アルフォンソ12世>

アルフォンソ12世
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アルフォンソ13世とスペイン内戦

その息子アルフォンソ13世は16歳で即位するも国内の民族問題モロッコの反乱、アナーキストの台頭、国内の内乱はスペインの持病に違いない。大変な混乱そして亡命が待っていた。

<アルフォンソ13世>

スペイン内戦

国王亡命、左右両勢力の対立激化政治家の暗殺事件そして軍事クーデター。スペインは長い内戦に突入。

内戦でヘミングウィーやジョージオーウェル等が国際旅団でスペインにやって来る。多くの知識人階層が外国に亡命。

芸術家たちもフランスに亡命する。ピカソやミロなどがパリ万博に作品を展示し戦争の悲劇を人々に訴える。 バスク地方のゲルニカの爆撃 はこの時に起こった。

この戦争は1939年反乱軍の勝利で終わりスペインはフランコの独裁政権が始まる。戦争の後も多くの共和国主義者が処刑されている。独裁政権下はバスクやカタルーニャは自分たちの言葉を話す事も禁止され抑圧をうける。

冷戦時にアメリカが反共反ロシアでスペインに近づいてきて北太平洋条約機構に加盟。フランコは晩年中道政策を取り始める。

フランコ後

1975年独裁者フランコが死去し前国王ホアン・カルロスが即位。議会を開いて首相を任命し議会制民主主義の国になる。

1992年バルセロナ・オリンピックとセビリア万博が行われ世界に近代スペインを表明。同じ年にオリンピックと世界万博が同時に行われたのは史上初めてだったそうです。

現代のスペイン

国民一人当たりのGDPは日本とほぼ同じ。平均寿命日本とほぼ同じ。食物自給率120パーセント。官民連携事業の受注世界一。世界の交通事業の40パーセントを請け負う。

コロナ禍で大きな痛手を受けましたがポストコロナに向けて動き始めました。

 

まとめ

長いスペインの歴史をざっくり読めるようにまとめてみました。5分はちょっと無理でしたか?スペインは複雑、様々な民族が通り過ぎ何かを置いていった。それらの残していったもの全てが今のスペインの魅力です。旅をするのに少しだけ歴史を知っていると見るもの訪れるところの価値もグッと上がって行きます。

 

スペインの南にあるジブラルタルは今もイギリス領、その歴史のお話

スペイン南部にある「ジブラルタル海峡」。ヨーロッパとアフリカが一番近い海峡で約14キロメートルしかない。そこに立てばアフリカに手が届きそうだ。地中海と大西洋の入り口で今も多くの船が行き交う重要な地点。そこにあるジブラルタルト言う町は今もイギリス領だ。何故スペインにイギリス領があるのかという歴史のお話です。

ジブラルタルは今もイギリス領


ジブラルタル海峡

ジブラルタル海峡はたったの14キロメートルでもうそこにアフリカが見える。
地中海と大西洋の入り口になっている重要な海峡で対岸はモロッコ。

ジブラルタル海峡
筆者撮影

古代にはギリシャ人がヘラクレスの柱と呼んでいた。フェニキア人たちはここを通り抜けブリテン島の錫やアフリカ西海岸から金を手に入れ商売をしていた。後にカルタゴ人ローマ人ゲルマン民族と様々な民族たちが通って行った。その後この地に遠征して来たイスラム教徒ウマイヤ朝の司令官のターリク・ブン・ジヤードの名前からターリクの山=ジャバル・アル・ターリク=ジブラルタルになった。

ここは昔からマグロ漁で有名。今も大西洋から地中海に入るマグロと地中海から大西洋に出ていくマグロを捕る。すでに古代ローマ人がここのマグロを捕って塩漬けにしていた遺跡が残っている。写真はジブラルタルすぐ横にあるカルテイアの遺跡。かなり綺麗に残る遺跡だ。

<カルテイアのローマ遺跡>

ローマの遺跡、マグロの塩漬け
carteia san roque  筆者撮影

ローマ人たちは四角い石の入れ物でマグロの塩漬けを作り本国へ船で運んだ。

ジブラルタルは1713年からイギリス領

海峡の岩があるあたりは現在イギリス領でスペイン側から入るには今もパスポート検査がある。毎日スペイン側から労働者が歩いて出勤している面積7平方キロメートルの小さなところに3万3000人のイギリス人が住んでいる。と言っても醸し出すムードはアンダルシア人で人々は英語とスペイン語のバイリンガル。政治的に非常にデリケートなところで今も両国の扁桃腺になっている。

 

ジブラルタル海峡写真
筆者撮影
スペイン・ハプスブルグ家の終焉

ここがイギリス領になったのは約300年前の事。スペインにカルロス2世という王様がいた。写真下はプラド美術館にあるカルロス2世の肖像画。不幸の始まりは王子はどこかの王女としか結婚できなかった。スペイン・ハプスブルグの王達は子供達を親戚王族同士で結婚させ続けその結果が遂にこの王の元へやって来た。カルロス2世は3歳まで歩けず8歳まで話せなかった。癇癪もちで2度結婚するが世継ぎを残さず39歳で他界しヨーロッパ全体を巻き込んだ戦争の原因になった。(スペイン王位継承戦争)

<カルロス2世、カレーニョ作プラド美術館>

カルロス2世

 

プラド美術館に有名なベラスケスのラス・メニーナスという作品がある。ベラスケスの大作で中央に王女と奥の鏡の中に国王夫妻がいる

<ラスメニーナス、ベラスケス作プラド美術館>

ベラスケス
Las meninas
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

奥の鏡の中の国王フェリペ4世は若くして即位した国王だ。ヨーロッパの強国スペインも少し陰りを見せ始めた頃の王で2度結婚している。鏡の中の隣の王妃は2度目の結婚の王妃マリアーナ。マリアーナは王の妹の娘なので叔父と姪の結婚にあたる。

フェリペ4世の最初の結婚はフランスの王女でフランス王アンリ4世とマリード・メディシスの娘イサベル・デ・ブルボン。

<イサベル・デ・ブルボン、ベラスケス作プラド美術館蔵>

ベラスケス、イサベル・デ・ブルボン
De Diego Velázquez – See below., Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15587965

 

フェリペ4世の最初の妃との間の8人の子供が生まれている。大切な皇太子として生まれたのがバルタサール・カルロスだった。(写真下)

<バルタサール・カルロス、ベラスケス作プラド美術館蔵>

museo del prado
wikipedia public domain

ところが大切な皇太子が若くして亡くなってしまいイサベル王妃は1644年に42歳で亡くなっている。

さらに複雑になるのがフェリペ4世とイサベル・デ・ブルボンの末娘マリア・テレサがフランス王ルイ14世に嫁いでいる。

<マリア・テレサ、ベラスケス作ウィーン美術館蔵>

wikipedia public domain

 

この2人の結婚式が行われたのがスペイン・フランスの国境にあるサン・ジャンド・リューズ。今はフランス・バスク側の綺麗な町で観光客に人気がある。マリーはいつまでもフランス語をうまく話す事が出来ず夫のルイ14世には多くの愛人がおり孤独な人生をベルサイユ宮殿で44歳で終える。彼女がスペインからチョコレート(カカオ)をフランスに持って行った。

 

さて父王フェリペ4世に話を戻そう。国王の大切な仕事のひとつは世継ぎを残す事、皇太子が無くなり王妃もこの世にいない。「では次」と王の再婚相手に決まったのが亡くなった息子の婚約者オーストリア・ハプスブルグの王女マリアーナ。

<マリアーナ、ベラスケス作、プラド美術館蔵>

ベラスケス、マリアーナ・デ・アウストリア
By ディエゴ・ベラスケス – The Yorck Project: 10.000 Meisterwerke der Malerei. DVD-ROM, 2002. ISBN 3936122202. Distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=159947

 

親戚のオーストリア・ハプスブルグ家はカルロス5世以来の親戚関係。マリアーナの母親はフェリペ3世の娘、という事は叔父と姪の関係になる。もとは息子の嫁になるはずはバルタサール・カルロス皇太子が無くなったのでその父親と結婚したというわけだ。そして生まれた長女がマルガリータ王女。

<王女マルガリータ、ベラスケス作ウィーン美術史美術館>

ベラスケス、青い服のマルガリータ
De Diego Velázquez – pAHSoRgE1VSx2w en el Instituto Cultural de Google resolución máxima, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=22003519

マルガリータ王女の次に待望の男子が誕生した。カルロスと名付けられるが生まれた時から様子がおかしい。先天性疾患を数々持ち合わせ癇癪を起し知的障害も有ったようだ。父王亡きあとスペイン国王となる。

<カルロス2世、カレーニョ作プラド美術館>

カルロス2世
museo de prado

国内は経済破綻が続き戦争もある中ルイ14世の弟の娘と結婚しているが子供無く妻は先立つ。再婚もするがカルロス2世の行動はますます怪しくなり1700年に後継者を残さず決まらずに没した。結果スペイン・ハプスブルグ家の最後の王となった。

スペイン王位継承戦争

カルロス5世から続いたスペイン・ハプスブルグ家は巨大な帝国を築いてきたがここに終焉。その結果ヨーロッパ大混乱の末戦争になる。親戚のオーストリア・ハプスブルグとこちらも親戚のフランス・ブルボンの戦い「スペイン王位継承戦争」は約13年間も戦った。代々のハプスブルク支配を嫌った各国がフランスに味方をしてこのときイギリスが上手く立ち回り戦略上重要な地中海と大西洋の入り口の片足を持って行った。

ジブラルタル海峡
筆者撮影
複雑な住民の民意と近辺の人々

未だにイギリス領土です。毎日7千人のスペイン人が国境を越えて働きに行く。
Brexitのときは95,9パーセントがEU残留に票を投じた。イギリスがEUから離脱するとスペイン側からの労働者は仕事を失う。ジブラルタル側のイギリス人も陸の孤島となってしまう。

スペイン側は直ぐ「ジブラルタルのスペイン返還でもわが政府は構わない」
と発表したがジブラルタル首相は「見当違いも甚だしい。絶対スペインの一部にはならない」という声明。

 

ただ国境を封鎖されれば往来は船か飛行機のみの孤島。イギリスのBrexitが再びこの辺りを揺らしている。今後の展開に目が離せない状態だ。この辺りのスペイン側海岸線には多くのイギリス人リタイヤー組が別荘を持っている。今後のBrexitの準備でスペイン在住イギリス人がスペイン国籍を取るケースが増えているという。