<カタルーニャの独立問題>なぜこんなに揉めているのかまとめてみた。

 

カタルーニャの歴史や民族については別記事で書いているのでここでは省略。今揉めているのはそれ以上の様々な事柄が絡み合っている。目まぐるしい出来事を自身の忘備録も兼ねて記録しておきます。

originally posted to Flickr as DSC_0024
Author Galceran
wikipedia C.C

まず2017年10月1日から独立宣言までの出来事を時系列で


カタルーニャ政府は2017年7月4日「分離独立関連法」を成立させ「10月1日の住民投票で賛成多数を得た場合48時間以内に独立を宣言する」と発表。中央政府は住民投票は違憲「10月1日に住民投票は無い」と平行線のまま当日を迎える。EUはスペイン国内問題と主張し無干渉。

<10月1日>

国民投票当日。中央政府から違法を言い渡された中の投票。あらかじめ中央政府は投票箱の没収や投票用紙の印刷会社差し止め、国家警察と治安警察が召喚される。早朝や2日前から学校などの投票所を強制閉鎖から守るため住民が寝泊まりしていた。あれだけ中央政府が投票所閉鎖や投票箱没収をしたにもかかわらず小さな村々で人々はこっそり連絡を取り合い秘密裡に数百万枚の投票用紙を準備した。いくつかの投票所に警察が押しかけ市民に対して暴力で投票所を閉鎖する場面がテレビやSNSで投稿され世界中を駆け巡った。投票用紙も身分確認も無いままの投票で同じ人物が2度3度投票したケースもあったにもかかわらずカタルーニャ政府は90パーセントの独立賛成と発表、週明けにも「独立宣言」と公表。有権者530万人中、投票した人220万。乱暴にも過半数の賛成を得たので「独立宣言」をすると公表。

<10月1日の投票所と投票箱>

Source 01.10.2017 Referendum ilegal 1-OCT
Author HazteOir.org from España
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<10月3日>

カタルーニャでゼネスト。中央政府の締め付けに抗議して公共交通はぼ全機能停止。幹線道路の閉鎖、交通機関や大学各美術館等も休館となった。

<10月4日>

国王フェリペ6世のテレビ演説。カタルーニャ自治州指導者らを非難し同州に憲法の秩序を守るよう要請。カタルーニャの人々を落胆させたのは間違いない。カタルーニャにはもともと反王政の人達が少なからずいるのでさらに独立派感情をあおった。

<スペイン国王フェリペ6世>

フェリペ6世
Source Los reyes de España dieron la bienvenida oficial al presidente Macri
Author Casa Rosada – Argentina
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<10月5日>

スペイン憲法裁判所はカタルーニャ自治州議会が週明け9日に予定する本会議の招集を差し止める命令を出す。

サバデル銀行、カイシャ銀行が本社機能をカタルーニャ外に移すと発表。 スペインの憲法裁判所が9日に予定されていたカタルーニャ州議会総会の中止を命令。

スペイン中央政府、企業が本社所在地変更手続きの簡略化の法案を検討。

<10月6日>

アルトゥーロ・マス前カタルーニャ首相「カタルーニャはまだ独立の準備はできていない。」とコメント。

フェレシェネとコドルニウ(カタルーニャの地場産業発泡酒メーカー)が本社をマドリードへ、ガスナチュラル・フェノサ(大手エネルギー会社)もマドリード移転を決定。カイシャバンクが本社をバレンシアに移転。

<フレッシェネ・カタルーニャ発泡酒メーカー>

フレッシェネ社
Picture taken by Onar Vikingstad Outside the Freixenet headquarters in Catalunya. Building from architect Josep Ros i Ros

 

<10月7日>

白い旗を持つ人達が「話しましょう」とマドリッドでデモ。良識のあるサイレントな人達が集まり中央政府とカタルーニャ政府の対話を求めた。

大手出版会社プラネタが移転を検討。グルッポ・プラネタは出版会社だがマスコミと言論界に強い影響力を持つ。

首都マドリードで「カタルーニャ独立運動に反対」するデモと集会。

<10月8日>

バルセロナで「カタルーニャ独立反対派」のデモが警察発表で35万人、主催者発表で95万人。

<10月10日>

「独立宣言」予定で世界中のジャーナリストがバルセロナに集まる。独立派の人々は独立を祝うため用意された大きなスクリーン前で独立宣言を待つ。が、18時の予定が1時間遅れと発表が有りどよめく、17時より少し遅れ、州首相は「独立の宣言とその延期」を同時に発表。全員唖然。連合政権のCUPには突然の発表だったようで梯子を外された形になり憮然とした態度。が独立宣言の紙にサインは行われる。

<10月11日>

中央政府では臨時閣僚会議が開かれ首相会見。憲法155条発動かどうか未定。カタルーニャ政府に質問「あれは独立宣言だったのですか?」月曜日までに回答をとボールを投げた。 食品会社ビンボウとコラカウがカタルーニャから移動を表明。

<10月12日>

スペインの祝日。コロンブスが新大陸に到着した日ですべてのイスパニックの日。カタルーニャ代表欠席。

バルセロナではこの祝日を祝うため「反独立派」6万5千人がスペイン国旗とカタルーニャ国旗あるいはEUの旗などを持ち「我々はスペインでありカタルーニャだ」とデモ。

 

経済問題


カタルーニャはスペインの中でも産業の際立って発達している地域。地中海に開けたバルセロナ港があり多くの外国の企業やカタルーニャの企業が活躍しスペイン経済の牽引力。スペインのGDPの約20パーセントを稼ぎ出すがいったん中央政府に収めると政府は貧しい地域に優先に使っていくためカタラン人たちの中に不公平感がある。(歳出不均衡なのは他にもマドリード、バレンシア、バレアレス諸島等もなのでカタラン人だけが損をしているわけではない)

<18世紀のバルセロナ港>

e Barry Lawrence Ruderman Antique Maps Inc.
Author Joseph Friderich Leopold
wikipedia Public Domain
スペイン経済破綻

2008年のリーマンショックはギリシャやイタリアだけでなくスペイン、そしてカタルーニャに大きな打撃だった。多くの企業が倒産し失業者があふれローンを組んだが返せず家を奪われ借金だけ残った人があふれた。(現バルセロナ女性市長アダ・コラウはこの時代に活躍した市民活動家)。各自治州の抱える赤字の中でカタルーニャの抱えるものが2014年に全体の27パーセントを占めていた。

後ろに見え隠れする政治

当時のカタルーニャ政府CIUはジョルディ・プジョールの時代からカタルーニャ政府を長年にわたって支配して来たが資金不正疑惑が発覚し市民の失望の中、不満の矛先を中央政府の緊縮政策にフォーカスしてきた経緯がある。中央政府が右寄り政権「国民党」(PP)なのでカタラン人の憎悪を押し付けるには都合がよかったかもしれない。(国民党(PP)=フランコ後にフランコ体制の政治家を中心に創られた国民同盟を前身とする政党)カタルーニャはフランコの独裁政権時代に迫害を受けている記憶がまだ生々しく人々に残っている。独裁が終わってまだたったの42年。

不満のひとつ

またバスク州とナバーラ州はスペイン17自治州の中で特別にほぼすべての徴税権限を持っている。Soberania fiscalと言って州が徴税権を持っていてその一部を中央政府に収める形になっている。1876年にこの経済協定は締結されていて一旦フランコの時代に停止されたが1978年の憲法により復活している。今もナバーラとバスクは医療制度等が充実しているので有名。カタルーニャはこれを望んで交渉しているが中央政府は拒否。

もし独立したら?

もしカタルーニャが独立した場合EUとシェンゲン協定から出ることになる。カタルーニャ製品には関税がかけられ人の移動も今の様に簡単ではなくなり観光客の数は大幅に減る。カタルーニャ経済はスペインそしてEU内にあるので潤っている。外国企業は「EU外のカタルーニャ」には興味は無く拠点を移すのは間違いない。既にそれはとっくに始まっているが”理想を掲げる独立推進派”は市民に説明どころか本人たちもこのデメリットを想定していなかった。

 

この記事を書いている間に状況はどんどん変化しすでにスペインIBEXを構成する大手企業各社がカタルーニャからの本社機能移動を発表。2017年10月12日現在、今月の12日間だけで540企業がカタルーニャから移動した。

カタルーニャ自治憲章 estatuto de autonomía


 

自治憲章=憲法に盛り込まれている各自治州の憲法

Constitución Española de 1978
Author Own work
wikipedia Public Domein

1978年に制定されたスペイン憲法ではカタルーニャやバスク地方は「民族態」とされそれらの地方言語は「豊かな言語様態」の表れとして「特別の尊重および保護の対象」となると謳われている。2006年の「カタルーニャ州新自治憲章」がカタルーニャを「ネーション=国家」と位置づけ様々な他地域から反発を招いた。

新カタルーニャ憲章の経緯

2003年のカタルーニャ州議会選挙と2004年スペイン議会総選挙の選挙戦当時の左派スペイン社会党の首相候補だったサパテロは新たなカタルーニャ自治憲章の規定を約束。(何故約束したかは私の想像ですが:スペインでは当時の過去の総選挙で第一政党だけでは過半数にならなかったケースが2度あった。地方政党の支持が不可欠となり協力と引き換えに地方政党の要求を受け入れる必要があった。)

<ホセ・ルイス・サパテロ>

www.la-moncloa.es
wikipedia PublicDomain

2005年9月のカタルーニャ州議会で可決され2006年6月当時の社会党政権スペイン下院でも可決された。カタルーニャ州で住民投票に掛けられ賛成多数で2006年”カタルーニャ自治憲章が承認された”

 

この直後、当時野党の国民党(PP)は新自治憲章がスペイン1978年憲章に照らし合わせて違憲であるとスペイン憲法裁判所に提訴。審議は4年かかり2010年6月「カタラン語の使用、財政、司法、域内行政の独自性の強化を目指した14条」を違憲と判決を受ける。

絡み合う経済と政治問題


2010年

世界金融不安の後の緊縮財政の中、上記”2010年カタルーニャ自治憲章が憲法裁判所により違憲とする判決が下された”。これが間違いなくカタルーニャ人の独立意識に火をつけた。2010年以前の独立主義の支持率は20パーセント未満だったがこの頃から際立って上昇。7月には「我々は国家だ、我々が決める」のスローガンのもとバルセロナ中心部で大きなデモ。警察発表110万人主催者発表150万人。

<2010年「我々は国家である」のデモ>

Lohen11 – Josep Renalias
wikipedia C.C

この独立機運を利用し2010年11月28日のカタルーニャ州議会選挙で大躍進したのが連合政党CIU(集中連合)。アルトゥール・マスが州首相に就任し一気に独立主義へ舵取りをしていく(今頃になってカタルーニャはまだ独立の準備はできていないと言った人物)。その後ろには汚職と不正資金問題などの多くのスキャンダルから目をそらせる意図があった。

Generalitat de Catalunya
wikipedia C.C

*CIU(集中連合)は老練な政治家ジョルディ・プジョールの指導のもとカタルーニャ経済界と結びつきが強くカタルーニャの完全独立を求めるよりは現在のスペイン国家の中で地域の利益を最大限に引き出す政策を取って来た政党。アルトゥール・マスはジョルディ・プジョルの弟子。「カタルーニャから企業は逃げない」と言いきれたのはこの時代の経済界との結びつきがあったから。だが時代は変わっていた。

<ジョルディ・プジョール>

Convergència Democràtica de Catalunya
wikipedia C.C
2011年

翌年2011年スペイン議会総選挙ではPP(国民党)マリアーノ・ラホイがスペイン首相に就任。今、カタルーニャ政府とやりあっているのがこのマリアーノ・ラホイ首相。重複するがPP(国民党)はフランコ後にフランコ体制の政治家を中心に創られた国民同盟を前身とする政党。カタラン人たちの反発は大きくなる一方でPPは反カタランで結束する。

<現スペイン首相マリアーノラホイ>

EPP Congress Rome 2006
Author European People’s Party
wikipedia C.C
2012年

2012年11月25日カタルーニャ州議会選挙でマス州首相は「この選挙で過半数を取れば独立か否かの国民投票をする」と州民に発表する。独立機運の高まった州民の票を取ろうとしたが過半数を取れず議席を減らす。そこで躍進し議席を増やしたのが筋金入りの独立推進左派政党ERC。18議席を失ったマスは心ならずもERCと協定しその見返りにカタルーニャ独立への道を約束。ERCの党首が現在のカタルーニャ副首相ジュンケーラス。

ここで初めて州選挙に出て3議席を獲得したのが急伸左翼で反資本主義の独立派CUP(人民連合の候補者)。マスの思惑はここで崩れ去り独立問題をうやむやにできなくなる。

2013年

2013年のディア―ダの日(9月11日)には人々は独立旗を掲げ手を握り合い480キロの人間の鎖を作りカタルーニャの独立をアピール。これは旧ソビエト連邦からの独立を支持するバルト三国が1989年に組織したバルトの道をモデルにしている。その後バルト三国は1991年に独立を達成している。

カタルーニャ独立
11 September 2013, 16:26:56
Source Own work
Author Clara Polo Sabat

もうだれにも止められなくなった状態で2013年12月カタルーニャ政府は中央政府に対し翌年にカタルーニャの独立の賛否を問う拘束力のない住民投票を行うと発表。中央政府からの反対が有ったがこの住民投票は2014年11月9日に行われ独立反対派が棄権したことから投票率は40パーセント、投票者の80パーセントが独立賛成。

2014年

ディア―ダはカタルーニャにとって特別な日だ。1714年9月11日カタルーニャは自治権を奪われた。その300年祭2014年9月11日のディア―ダにかつてない程の大規模なデモが行われた。約300万人のカタラン人が集まった。

<2014年ディア―ダのデモ>

カタルーニャ・ディア―ダ2014
Source Own work
Author Konfrare
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運命の2015年カタルーニャ議会選挙を迎える


CIUの分裂とジュンツペルシー

CIUはもともと2つの党の連合体だったが独立関連で意見が分かれ分裂し解散。マスのいるCDCとジュンケラスのERCが中心になり選挙の為の連合体を作ったのが「JxSiジュンツペルシー」。訳すと「共にイエス」。2015年カタルーニャ州議会選挙に向けて独立派選挙連合JxSiとCUPは過半数議席を獲得すれば18か月以内に独立を宣言と発表。

選挙の結果はジュンツペルシーの独立派が獲得議席は過半数確保だが得票率は48パーセントと実際独立支持者は半分以下という事が浮き彫りになった。

共有するのは「独立」のみで他の政策で様々な違いの有る選挙に勝つための寄せ集め集団で首相選びは難航。前カタルーニャ首相マスでひとまず決まりかけるがCUPはこれに猛然反対し出直し選挙の噂も流れる。翌年独立推進派の議員でジローナ市長のカルラス・プッチダモンで落ち着く。このプッチダモンが現カタルーニャ州首相。独立に向けてまっしぐらにダッシュし、独立宣言のすぐ後独立宣言を延期した人物。

<カルラス・プッチダモン現カタルーニャ州首相>

プッチダモン
Source http://www.president.cat/pres_gov/president/ca/presidencia/galeria-presidents/index.html
Author Generalitat de Catalunya
wikipedia C.C

癒えない傷、スペイン内戦


スペイン内戦の後のフランコ独裁政権下はカタルーニャは厳しい弾圧を受けジェネラリターは閉鎖されカタラン語は禁止された。カタルーニャ首相は処刑されカタルーニャのアイデンティティーは全て否定された。まだその記憶が生々しい中今回の警察による投票所の閉鎖や包囲戦はフランコ時代を思い出させた。

分断と混乱、カタルーニャ民衆が失ったものは大きすぎる。「企業が出ていくはずはない」と人々を暗示にかけ扇動し、「ヨーロッパが助けてくれる」と信じていたカタルーニャの政治家たちの無能さに驚く。「プランB」は準備していなかったのか?それならその甘さにあきれる。プッチダモンの飄々とした態度に・・・・もしかしたらもう一枚後ろに何かカードを準備しているのか?まだまだこの後どうなるのか未知数のカタルーニャです。

唯一得たものは世界に「カタルーニャ」という強く独立を希望している地域がスペインに有ることをアピールできた事かもしれない。

<カタルーニャ>スペインから独立を希望する州カタルーニャについて(民族や歴史)。

補足メモ(2001年からの国内の出来事リスト)


<2001年>民衆党アスナール首相 自由経済導入

<2002年>実質的なユーロ導入により物価の高騰と住宅バブル。不動産の値段が瞬く間に上がり人々は浮かれて踊り銀行は無理なローンを組ませ許可のない地区に住宅が作られていった。

<2003年> カタルーニャ与党CIU(結束と統一)によりカタルーニャ新自治憲章が提起される

<2004年>マドリード列車爆破テロと選挙により政権が社会党サパテロ政権に移る。サパテロ首相新たなカタルーニャ自治憲章の制定を約束。

<2006年> カタルーニャ自治憲章の改正が行われるがはこれを国民党議員100名が違憲と憲法裁判所に提訴。(この段階でのカタルーニャ独立希望者は20パーセント)

<2008年>世界金融不安によりバブル崩壊。税金が上がり社会保障は切られ中小企業が閉鎖し小売店は姿を消していった。

<2009年>カタルーニャ州内の自治体で独立に関して法的拘束力のない住民投票がおこなわれた特率賛成派多数と発表。投票率27パーセント。

国民党のギュルテル事件捜査に関連し国民党の会計バルセナが起訴される。が判事バルタサル・ガルソンが司法界から追放され事件はいったんお蔵入り。

<2010年6月28日>憲法裁判所によりカタルーニャ自治憲章の改正のいくつかが違憲であると判定が下される。

<2010年7月10日>カタルーニャ大規模デモ。110万人参加。

<2010年12月>アルトゥーロマス州首相就任。(マスは州内の問題を独立の陰に隠しカタルーニャ民衆の独立心を利用)

<2011年>5月15日M15運動=大衆運動=始まる。11月20日総選挙で国民党ラホイ首相就任。

<2014年>1月ポデモス結党。9月11日カタルーニャの自治権が奪われた記念日ディア―ダ=スペイン王位継承戦争でカタルーニャの自治権が奪われた300周年に300万人のデモ。

<2015年>カタルーニャ州議会選挙でJxSi(独立諸派連合)は過半数を取れず反資本主義極左独立派CUPと連合政権。CUPはマスとは同調できないという事で「バリバリ独立派プッチデモン」がカタルーニャ州首相に。

<2017年>10月10日独立宣言とその延期

カルロス5世(スペイン史カルロス1世)神聖ローマ帝国皇帝。スペインの黄金時代

 

15世紀が終わり新しい時代がやって来た。ここに一人の王子が誕生する。西暦1500年今のベルギーのゲント(ガン)で生まれたのが後のカルロス5世。父親はブルゴーニュ公国のフィリップ美公。フィリップはハプスブルグ家の世継ぎで神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の息子。母親ファナはスペインのフェルナンド王とイサベル女王の次女、のちに狂女と呼ばれる。

レコンキスタが完成しアメリカ大陸発見の頃のスペイン王国。という絵空事の様なものすごい血筋の王子が誕生した。

カルロス5世(スペイン史ではカルロス1世)の生涯とその時代


幸福なカルロス5世幼少時代

<中央がカルロス、左端が祖父のマクシミリアン1世>

カルロス五世と父方の家族
Bernhard Strigel – Kunsthistorisches Museum Bilddatenbank

カルロスの生まれたブルゴーニュ公国というのは現在のフランス東部とドイツ西部、ネーデルランドを含む地域。羊毛産業で経済的に大変栄えたヨーロッパ随一の先進地域だった。

<15世紀のブルゴーニュ公国>

ブルゴーニュ公国
Marco Zanoli (sidonius 12:09, 2 May 2008 (UTC))

<カルロス5世の父フィリップ美公>

フィリップ美公

<カルロス5世の母ファナ>

ファナ王女
Johanna I van Castilië
ca. 1500; 34,7 x22,4 cm
Spaans Nationaal Beeldenmuseum, Valladolid

舞台としては申し分ない時代と登場人物が用意された。

ローマ法王レオ10世、フランスのフランソワ1世、ドイツのマルチンルター、イギリスのヘンリー8世、オスマントルコのシュレイマン大帝、個性的な人々が活躍した激動の時代だった。

<毛織物産業で繁栄するフランドルのゲントの街>

ゲントの街

 

新大陸発見で沸き立つスペインの王位継承者に不幸が続きカルロスの母ファナの所に次期王位継承権がやって来た。カルロスの両親はそろって*カトリック両王に会いにスペインへ旅をする。

*カトリック両王=アラゴン王フェルナンドとカスティーリャ女王イサベルの事。グラナダを陥落させ新大陸にキリスト教を広めたカトリックの保護者である国王二人にローマ法王アレキサンドル6世によって授けられた称号。

その旅でのまさかの父親フィリップの突然死(フェルナンド王による毒殺もささやかれる)と母親ファナの発狂(これについては諸説)。

これらはカルロス6歳の頃の出来事だった。それでも両親不在のベルギーのメッヘルンで幸せな子供時代を送る。

叔母の*マルガレーテ大公妃は教養のあるルネサンスの才媛で、その周りに集まる教養人と共に豊かな教育を受けられたのはカルロスの人生にとって最大の幸運だった。

<ベルギーメッヘルン>

ベルギーメッヘルン
Ad Meskens – Trabajo propio

*叔母マルガレーテはスペインのイサベル女王の1人息子ファンと結婚したが結婚式の最中ファンが突然死。懐妊していたがその子も生まれて間もなく死亡。イサベル女王とは仲良く信頼関係がありその後故郷に戻った後誠実な政策を取り国民にも生涯愛された。

<カルロスの叔母、マルガレーテ大公妃>

マルガリータ大公妃
ce Musée municipal de Bourg-en-Bresse
Author Hugo Maertens

カルロス・ブルゴーニュ公になる

<カルロス5世15歳頃>

カルロス5世

 

1515年1月。15歳のカルロスは既に充分な威厳を持ち備えており歴史の表舞台に登場。ブルッセルで儀式が行われブルゴーニュ公国の君主となる。

同じ年フランスでルイ12世が死亡しフランソワ1世が即位。*フランソワ1世は生涯にわたってのカルロスのライバルである。

そして、ハプスブルグ対ブルボンの因縁の対決の始まりのゴングが鳴った。

<フランソワ1世 1515年頃>

フランソワ1世1515年

*フランソワ1世はこの後のイタリア戦争の後、レオナルド・ダビンチをフランスに呼び寄せた。この時レオナルドが持参した数少ない物の中に「ジョコンダ」があった。現在ルーブル美術館にある「モナリザ」である。

母方祖父であるスペイン王フェルナンドの崩御

<スペイン王フェルナンド>

フェルナンド王

カルロス5世の母ファナ、カスティージャ女王は精神に異常をきたしたという理由で城に幽閉されその父親であるフェルナンド王が摂生としてカスティージャの政治をしていた。フェルナンドはアラゴン・カタルーニャの王でスペイン東部と南イタリアと地中海の島々を持っていた。

そのフェルナンド王が1516年に亡くなった。

フェルナンドはスペインの王冠がハプスブルグに継承されない為、晩年フランスの貴族の娘と再婚し男子をもうけるがその子は夭折。世継ぎを残すため怪しい媚薬にも手を出していたという。

せめてカルロスの弟、スペイン育ちのフェルナンドにスペイン王位を継承させたいと努力するがそれも適わず。病床に付いたフェルナンドはどれ程悔しい思いをしたことか。

フェルナンドが執念深く阻止しようとした悪夢は遂に現実となった。

カルロス・スペイン王になる

17歳のカルロスが40隻の船でスペインへ向かい予定のサンタンデール港から少し外れたアストゥリアスのタソネスの漁港に到着、というより漂着。

住民たちは見たこともない数十隻の船団に驚き手に手に棍棒を持ち戦いの準備をしたそうだ。髭をそり香水をつけて降りたカルロスはあまりの田舎にがっかりしここでは滞在せずに直ぐに移動した。

<タソネスの漁港>

タソネスの漁港

 

カルロスがスペインへ着いてまず最初に逢いに行ったのは物心つかない頃分かれた母、狂女ファナだった。

カルロスはこの後幾度となく城に幽閉された母ファナに逢いに行っている。

その後バジャドリードにいた弟フェルナンドとも再会を果たす。弟のフェルナンドはスペイン育ちでスペイン国内では彼ににスペイン王冠をという動きがあった。

マクシミリアン皇帝はこれらの事情をすべて理解しこれ以上フェルナンド派が行動を起こす前に彼を叔母マルガレーテ大公妃の待つネーデルランドへ送る。

カルロス達2人の兄弟と4人の姉妹は生涯にわたり力を合わせてハプスブルグの為に協力し合った。フェルナンドは後フェルディナンド1世としてドイツ皇帝、オーストリア大公、ボヘミア王、ハンガリー王となり幸せな結婚をし生涯スペインには帰らなかった。

<カルロスの弟フェルディナンド1世1521年>

フェルナンド1世
Hans Maler zu Schwaz – Kunsthistorisches Museum: Bilddatenbank
Abgebildete Person:Kaiser Ferdinand I. Sohn des Philipp von Habsburg Österreich

父方祖父神聖ローマ皇帝マクシミリアンの逝去

1519年マクシミリアン1世(カルロスの祖父)が亡くなる。

「神聖ローマ皇帝が亡くなった」のでヨーロッパは大揺れに揺れた。

神聖ローマ帝国の皇帝は7人の選帝侯によって選ばれる選挙制。7人の票のうちの4票をどれだけの資金で手に入れるかという選挙だ。カルロスの最大のライバルはフランスのフランソワ1世、そして既に買収は始まっていた。

当時のローマ法王はフランスびいきのメディチ家出身レオ10世。

カルロスが皇帝になるのを阻むためフランソワ1世を後ろから支援する。派手好きイベント好きのルネッサンスローマ法王はロレンツォ・ディ・メディチの息子。浪費好きでローマの街を当時の最高の芸術家を集め飾り立てていた。前ローマ法王が着手していたサンピエトロ寺院の建設を引き継ぎミケランジェロやラファエルを起用した。その資金を捻出する為に*免罪符を売り出した。

<ラファエルによるレオ10世>

ローマ法王レオ10世

*免罪符または贖宥状=カトリックでは罪を犯すと最後の審判で地獄へ落とされる。罪と言うのはカトリックがいう「7つの大罪」で大食や怠慢など普通に誰もがやってしまう事。そして地獄は永遠だと脅された人々は罪が許される切符=免罪符を購入しその資金がローマに行きサン・ピエトロ寺院を飾り立てた。

1519年19歳でカルロス5世神聖ローマ皇帝

選挙の資金は叔母のマルガレーテが大富豪フッガー家から援助を受ける。またドイツの諸侯たちがメディチ家のローマ法王の後ろ盾を嫌ったこともあり選挙は満票でカルロスが勝利。フランスはハプスブルグ家に囲まれた形になりこの後も戦争は続く。

<カルロス5世時代のハプスブルグの領土>

赤紫―カスティージャ 赤―アラゴン 黄-オーストリア 黄土―ブルゴーニュ

カルロス5世支配地域
Original by Lucio silla, modification by Paul2 – Modification of Europa02.jpg

スペイン国内では王が外国の為にお金を使いブルゴーニュから沢山の人がやって来て要職をほしいままに。人々の反感が高まりコムネロスの乱がおこりスペインは混乱。腕利きの総裁に後は任せ国王カルロスは「3年で戻る」と約束しスペインを後にする。この反乱は自然崩壊となりカルロス5世が3年後に戻るころには国内はほぼ平和が回復されていた。

1520年カール大帝ゆかり地アーヘンで戴冠式が行われた。

<ドイツ西部アーヘンの大聖堂>

アーヘン大聖堂

時代背景=この頃スペインではマゼランが5隻の船を率いてセヴィージャの港を出港し大西洋に到着。そして多くのコンキスタドーレス達がアメリカへ渡り欲望のままマヤ、アステカを破壊し財宝を吸い尽くしていた。日本は室町時代の後期、信長が生まれるより15年ほど前。

マルティン・ルターの登場

宗教改革が始まった。

カルロス5世を生涯苦しめるひとつの難題の登場だ。ルター本人はそんな大それた事をするつもりは無かったはずだ。

たまたま投じた一石の波紋が広がった。

ルターはドイツの修道士であり神学教授だった。

前述のローマ法王レオ10世の時代「ローマのサンピエトロ寺院」の建設費を集めるためにドイツで免罪符が販売される。「これを買ったら天国へ行ける!」というのが免罪符。そのお金はローマへ集まり豪華絢爛のサンピエトロ寺院の建設に使われた。これに異を唱えた小さな抵抗が宗教改革の大きな嵐になっていく。

<1517年ヴィッテンベルグ城に95か条の論題を張り出すルター>

マルティンルター95か条
Ferdinand Pauwels

ヴォルムスの帝国議会

1521年1月21日に開かれたヴォルムス国会が歴史に名を残したのはルター問題。

免罪符の販売で一番搾取の大きかったドイツではローマに対する恨みが募っていた。この会議でマルチン・ルターはローマ法王レオ10世によって破門される。ひとりの修道士の小さな反抗が波紋を広げた、そんな頃に開かれた国会がヴォルムス帝国会議だ。

ルターは自説を曲げず堕落したカトリックに対抗。いかなる権威も認めずひたすら聖書と自分の関係に信仰を求めるルターの態度は変わることは無かった。カルロスは帝国とカトリックの崩壊を恐れ、しかしルターを禁固するでもなく処刑するわけでもなくルターに自由通行証を与えた。

これはひとえにもカルロス5世とハプスブルグ家の正義感や騎士道精神による。この誠実な態度はハプスブルグの代々の王達に継承されていく。

<ヴォルムス会議で弁明するルター>

ヴォルムス会議
1556
Source Unknown
Author Unknownwikidata:Q4233718

カルロス皇帝スペインへ

約束通り3年ぶりにスペインへ戻ったカルロスはこの後7年間スペインに滞在しスペイン語を話しスペインを愛するスペイン人になる。そしてスペイン人たちにも愛される国王になる。臣下の者達の間でも結婚などで融合が行われていく。

ローマ法王レオ10世の死去により次のローマ法王ハドリアヌス6世が即位。

ハドリアヌスはカルロス5世の家庭教師だったオランダ人。学者肌でローマ法王より修道僧が向いているタイプの人物だ。教会改革を進めるが残念ながら在位期間が短かすぎ、約一年半で疲労がたまり死去。学僧として本に囲まれて暮らしていればもっと別の人生があった惜しい人物が、この世で最も生臭い地位「ローマ法王」に選ばれたのは不幸としか言えない。

<ローマ法王ハドリアヌス6世>

ハドリアヌス6世
Jan van Scorel – Unknown for original uploader, but it can be found at the Centraal Museum of Utrecht.

その次のローマ法王は又してもメディチ家のクレメンス7世、レオ10世のいとこがローマ法王に即位。またしてもメディチ家のローマ法王の登場。

<ローマ法王クレメンス7世>

ローマ法王クレメンス7世
wikipedia Public Domain

パビアの戦い

事あるごとに関わってくるのがフランス、フランソワ1世である。

ギリシャ沖のロドス島にオスマントルコの手が伸び聖ヨハネ騎士団が死守しようとしている東地中海の島が陥落しようとしていた。

そこに後ろから手を貸しているが又してもフランスのフランソワ1世。

さらにイタリアのミラノとナポリの継承戦争で再びフランスが手をまわして来る。そこにヨーロッパ諸国の利害関係が絡みイタリア戦争が再び始まる。イタリアにとったら災難でしかない。

その後イタリアの北部パビアで皇帝軍とフランス軍の戦い。ミラノを攻撃して来たフランス軍を4時間半でカルロス5世軍が破りフランソワ1世はあっけなく捕虜になる。

<パヴィアの戦い>

パヴィアの戦い
Bernard Van Orley, The Battle of Pavia, RIHA Journal.

戦争終了後「マドリード条約」が結ばれる(1526年)。イタリアとブルゴーニュのスペイン領有が決まった。

なんとフランソワ1世の母はオスマン・トルコと密約を交わし、さらにイギリスヘンリー8世に袖の下をたんまり与えその後の準備に余念がない。敵の敵は味方だ、チャンスあらば何にでも手を出した。

実際このパヴィアの戦いでヨーロッパの勢力図は一気にスペイン・ハプスブルグの拡大になる。パワーバランスが崩れるとこっそり寝返り後ろから手をまわすのがヨローッパの外交政策。今もそうは変わっていないだろう。

フランソワ1世は聖書に手を置いて誓約をかわし*国境エンダーヤで2人の息子に変わって釈放された。

*エンダーヤは人気のサン・セバスティアン=バスクのグルメの街からすぐの小さな国境の街です。

この後フランソワ1世は幾度となくカルロス5世を裏切る。

カルロス5世の結婚

フランス王を釈放した後カルロスはセビージャへ向かった。

大航海時代のセビージャは大型船が出入りし華やかな時代。巨大な大聖堂は完成間近。1526年セビージャのアルカサール(王宮)で祝宴が行われた。ポルトガル王女イサベルとカルロスは母親同士が姉妹。

*カルロスの妻になるイサベルの母は「イサベル女王の娘」。イサベル女王の4人の娘たちの中で唯一幸福な結婚をした三女マリア。カルロスの母も「イサベル女王の娘、狂女ファナ」なのでイサベル女王の娘の子供同士の結婚となる。

<イサベル・デ・ポルトガル、カルロス5世妃>

イサベル皇后

写真上の絵はイサベル妃が亡くなった後にカルロス5世がティチアーノに若き日の王妃を描いてもらったものでカルロス5世が生涯自分の近くに置いていた。現在プラド美術館所蔵。

カルロスとイサベルは新婚旅行に出かけたアルハンブラ宮殿で暫くの蜜月を過ごした。美しくしとやかで聡明なイサベルにカルロスは最初から心を奪われた。この結婚は仲睦まじく幸せな結婚だった。王族同士の政略結婚で少ない幸福だったケースだ。「結婚は幸運に左右されるなあ」と歴史を読むたびに納得。

2人の間に5人の子供が生まれ、その長男が後のフェリペ2世となる。

サッコ・ディ・ローマ(ローマ劫掠)

カルロス5世の知らないうちにフランソワ1世はイギリスやローマ法王クレメンス7世と手を組み反ハプスブルグ同盟を結んでいた(コニャック同盟)。

そして対抗するカルロス5世軍はドイツからの傭兵を中心とした部隊でイタリアに集結。このドイツの傭兵達のローマに対する恨みは積もり積もっており憤懣やるかたない中、カルロス5世の資金も底をつき支払いが滞っていた。怒り狂った群衆が飾り立てたローマの街へなだれ込み略奪・強盗・放火・強姦のしたい放題でローマの街を9か月間にわたって破壊した。これが有名なサッコ・ディ・ローマ(1527)そしてこれが盛期ルネッサンスの終焉になる。

サッコディローマ
Johannes Lingelbach – L’Histoire April-June 2009, p.74
『Sack of Rome of 1527』

カルロス5世はこれほどまでの略奪を黙認したのか手が付けられなかったのか謎のままだが事態は有利に終わる。1529年ローマ法王クレメンス7世と条約を結びイタリアはカルロス5世の支配下にはいる。ボローニャでローマ法王によって神聖ローマ皇帝の戴冠式が行われた。

<カルロス5世ローマ法王により戴冠>

カルロス世ボローニャで戴冠

この間にスペインではカルロス5世の長男フェリペが誕生。

イギリスではヘンリー8世がカタリーナ・デ・アラゴン(カルロス5世の叔母・カトリック女王イサベルの娘)との離婚を希望するがカトリックでは離婚が認められない為イギリス国教会を作る。カタリーナ(キャサリン)は監禁生活を強いられ、修道女の衣服を着て暮らし苦境の中も精神は高潔であったという。

<イギリス王ヘンリー8世とアラゴンのカタリーナ>

ヘンリー8世カタリーナ

ヘンリー8世とカタリーナ(キャサリン)の間の娘がイングランド女王メアリー1世、通称「ブラッディ―マリー」。メアリー1世は後にフェリペ2世と結婚する。

<メアリー1世、新教徒を激しく迫害したため血のメアリーと呼ばれた>

メアリー1世

カルロスのチュニス遠征

1492年のグラナダの陥落によってイベリア半島を追われたイスラム教徒たちが北アフリカで海賊になり報復をしていた。地上ではオスマントルコのシュレイマン大帝がウィーンまで迫ってヨーロッパの脅威になっていた。その後ろにはやはりフランソワ1世が反ハプスブルグで見え隠れする。カルロス5世はチュニジアまで遠征し軍はチュニジアの街を3日間略奪しつくす。

<オスマントルコの勢力図>

オスマントルコ勢力図
OttomanEmpireIn1683.png から日本語化。(The Japanese meaning from OttomanEmpireIn1683.png .)
投稿者:斎東小世(Saito chise)

大体オスマントルコがこんなに勢力を拡大できたのはフランスが後ろから援助をしていたからに他ならない。もちろんフランスはカトリックの国である。

 アウグスブルグの会議

1530年に開かれた帝国会議は宗教問題。10年前のヴォルムスと同じテーマ「マルティン・ルター」だ。しかし状況はすっかり変わっており多くの都市が新教側を支持していた。カルロス5世は何とか状況の打開と両派の和解を図ろうとするがカトリック側の既得権を得た枢機卿達の反対もあり平行線。ドイツ人の人文主義者のメランヒトンによる「アウグスブルグの信仰告白」提出されるが調停に失敗。

<1530年アウグスブルグの会議>

アウグスブルグ1530年

<カルロス5世1530年ティチアーノ作>

カルロス5世1530年
museo de Prado

その後もイタリア戦争

第三次イタリア戦争でフランソワ1世はミラノの侵攻に失敗し、オスマン帝国のシュレイマン大帝と政治同盟を結ぶ。1542年オスマントルコと連合したフランス軍は再び大敗。これでやっとフランスはイタリアをあきらめた。その後フランスはルター派を支持しシュマルカンデン同盟でカルロスと対戦。

そう、繰り返すがフランスは今もカトリックの国。宗教なんて関係なしだ。

第四次イタリア戦争でローマ法王の取り持ちでなんとかカルロス5世とフランソワ1世は和約にいたる。(1538年)

<フランソワ1世とカルロス5世の和約>

ニースの和約

この後しばらくはカルロス5世とフランソワ1世は蜜月を過ごすが再び第5次イタリア戦争勃発。フランスは懲りずもまたイタリアに侵攻してくる。

さらに新教徒連合軍との戦争「シュマルカンデン戦争」が始まり1547年カルロス5世はシュマルカンデン同盟を破りこの戦争にひとつの終止符を打つ。この最後の戦いの勝利がミュールベルグの戦い。勝利の後の「カルロス5世騎馬像」というティチアーノの作品がプラド美術館に展示されている。

<ミュールベルグの戦いの後のカルロス5世、ティチアーノ>

カルロス5世ミュールベルグの戦い

 

<勝利者カルロス5世と負けた人々>中央がカルロス5世 左からシュレイマン大帝、ローマ法王クレメンス7世、フランソワ1世

カルロス5世と負けた人達
ジュリオ・クロヴィオ – Panorama de la Renaissance, by Margaret Aston |Dat

この後病気で体調を崩したフランソワ1世死去。しかし戦争はその息子アンリ2世に引き継がれる。フランスはスペインに対抗して大陸航海も始めカナダのケベックに到着。今もカナダのこの地域はフランス語圏。スペイン人にとっては災難でしかないフランソワ1世はフランスではフランス国土を広げイタリアから芸術家を集めフランスの文芸を高めた王として人気がある。

カルロス5世息子に遺書

持病の通風で足が痛く気も弱くなっていたカルロス5世、息子フェリペに「ハプスブルグ家をカトリックを擁護する立派な家とし結婚政策で大きくするよう」に遺言をしたためている。波乱多く人生疲れ切った様子のカルロス5世の内面が書き出されているティチアーノの一作。48歳は今なら未だ精悍な年齢だがこの絵のカルロスは万感尽きた老人のよう。

<カルロス5世1548年>

カルロス5世1548年

 

その後片腕の公爵に裏切られ、プロテスタントの勢力は無視できない状態になりオスマントルコの侵攻も激しく、フランスは次のアンリ2世は今だ後ろから手をまわしてくる。

アウグスブルグの和議(1555)

「ルターを暗殺しておけばと良かった」と思ったかもしれない。

もう手が付けられない程にプロテスタントの力は大きくなっていた。ローマの横暴や拝金主義等どう見ても言っていることはプロテスタントの方がまともだった。カルロス5世の弟フェルディナンド1世の主催で南ドイツのアウグスブルグで会議が行われ宗教対立の収束を図った。

<アウグスブルグの和議・左端がカルロス5世>

アウグスブルグの和議

ユステの修道院へ

1555年、旅と戦争と裏切りと痛風に苦しみ退位を決意。ブルッセルでの退位式の言葉は

「私は多くの過ちを犯してきた。しかし誰かを傷つけようという意図は持っていなかった。もし万一そんな事があればここに許しを請いたい」

と涙で演説が途切れたという。

<カルロス5世退位式、ブルッセル>

カルロス5世退位式
atelier Leyniers et Reydams - http://bruxellesanecdotique.skynetblogs.be/post/7116434/palais-du-coudenberg Tápiz del siglo XVIII, de Leyniers y Reydams , representa la abdicacion de Carlos I de España en el Palacio de Coudenberg

両親から受け継いだスペインとネーデルランド、新大陸は息子のフェリペ2世に譲り、父方の祖父からのオーストリア、神聖ローマ帝国の地位と領土は弟のフェルディナンド1世に継承させた。ここにスペインハプスブルグとオーストリアハプスブルグに分かれることになる。

<弟フェルディナンド1世>

フェルナンド1世

同じ年1555年4月12日母親ファナ女王がトルデシージャスの城で亡くなっている。事実上は母ファナがスペイン女王だった。

<ユステのカルロス5世、亡き妻の絵が壁にかかっている>

カルロス5世ユステ

スペインの西の僻地にあるユステ。北部は意外と降雨量があり樫林や果樹園が多い。そこの樫林の中の静かな修道院で隠居生活に入り、1558年58歳で亡くなった。

<カルロス5世ユステの修道院>

カルロス5世の最後

広大な帝国と地位を手にした皇帝の最後の場所には地味すぎる修道院。

ひとつの時代が終わった。

 

フェリペ2世「スペイン・日の沈む事無き大帝国」の国王

 

<カタルーニャ>スペインから独立を希望する州カタルーニャについて(民族や歴史)。

 

スペインにある17州のひとつ。大きさは関東平野位のところに人口750万人。地中海に開けた港があり古くから交易で栄えた「国家」だった。国としての歴史は「スペイン国」より古い。首都はバルセロナ。1977年カタルーニャはスペイン政府から強い自治を手に入れているがスペインからの独立を希望している。今年2017年10月1日に独立に関してのカタルーニャの国民投票をすると言っているがスペイン政府は強く反対を唱えている。いったいカタルーニャとはどういうところなのかをまとめてみました。

地理

イベリア半島の北東部の一部。北はピレネー山脈、南東には地中海西側にエブロ川が流れアラゴンと接している地域。

カタルーニャ地図
Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported

 

言語カタラン語(カタルーニャ語)

ラテン語から生まれたロマンス語はその後いくつもの言語にわかれてラテン語の諸語となる。南フランスで今も使われているプロバンス語のひとつオック語の仲間がカタラン語。10世紀には自立した言語となり12世紀には公用文書として使われている。なのでカタラン語はスペイン語の方言というよりプロバンス語の仲間と言った方が正しい。文法的構造も耳で聞いた印象もプロバンス語に近くカタラン語は語のリエゾンを持っている。

彼らはカステジャーノ(スペイン語)とのバイリンガル。バルセロナでは国内移民のスペイン人が多く共通語としてのカステジャーノ(スペイン語)を普通に耳にするがカタラン人同士ではカタラン語を話している。道路標示や案内、美術館の説明などもすべてカタラン語又はカタラン語とカステジャーノ(スペイン語)2カ国語併記。

カタラン語は中央政府から禁止され弾圧を受けた歴史があります。現在のカタラン人の頑なな態度に辟易とすることは私個人的にもありますが守って行かなければ歴史は繰り返される。言語は民族のアイデンティディーだからです。

カタラン語圏

カタラン語は以前のカタルーニャ君主国圏で今も話されているので広範囲にわたる。地中海のバレアレス諸島(マヨルカ島、メノルカ島、イビサ島)サルデーニャ島(現イタリア)の一部、バレンシア州全体、アラゴン州の一部、国境を越えたフランス側のピレネーアリアンタル県、アンドラ公国で話されている。

カタラン語圏
English: Map of the Catalan Countries, including the Catalan language domain.
Date 09/08/2007
Source Own work
Author Marc Belzunces

 

歴史

最初の方の歴史はスペイン史と同じ

謎の先住民族イベロ族が住んでいたところへギリシャ人やカルタゴ人が商売でやって来る。その後ローマ帝国の植民地になり多くの街が創られた。バルセロナの街の地下には今もローマの遺跡が残る。その後ゲルマン民族の大移動で西ゴートの支配下にはいる。南からイスラム教徒が入って来た折フランク王国のカール大帝がイスラム征伐で南に降りて来て801年バルセロナを占領する。ここにひとつの砦を創り辺境領として伯爵を置いた。

<カール大帝>

カール大帝

バルセロナ伯爵領

カール大帝がイスラムに対する砦の領主に伯爵の位を与えたのが<スペイン辺境領バルセロナ伯爵>となる。この後数百年にわたってカタルーニャを支配するバルセロナ伯の始まり。878年にギフレ1世毛むくじゃら王( Wifredo el Velloso)がバルセロナ伯に任じられる。ギフレ1世(カタルーニャ初代君主)は世襲制で伯爵の地位を継承させ1412年まで続いた。

<ギフレ1世>

バルセロナ伯ギフレ1世

9世紀にはフランク王国との主従関係は終わっているのでこれがカタルーニャの起点。コルドバカリフ王国からイスラム教徒の遠征が度重なる。何度もフランク王国に援助を頼むが助けてもらえずバルセロナは壊滅的な打撃を受ける。「援助が無いなら主従関係も終わりましょう」とバルセロナ伯ポレイ二世は987年フランク王国と縁を切る。しかし一度も「カタルーニャ王国」は名乗っていない。この1000年ころがカタルーニャ君主国の誕生と言われる。

アラゴン王国と連合

1137年にバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世(ラモン・ベレンゲール)が隣のアラゴン王国の女王ペトロニーラと結婚。今思えばカタラン人にとってこの結婚がすべての間違いの始まりだったかも。ここからアラゴン・カタルーニャ連合王国が始まる。この頃にバルセロナ伯が領有する土地を指して「カタルーニャ」という言葉が初めて文献に登場する。この時代にアリカンテまでの地中海沿岸地域を手に入れてイベリア半島で最も強力な権力を持つ君主となる。アラゴンとカタルーニャはお互いの自治を尊重していた。

カタルーニャとアラゴン

 

<ペトロニーラとラモン・バランゲ4世>

ラモンバランゲーとペトロニーナ

ジャウマ1世(ハイメ1世)征服王の時イスラム教徒からマヨルカ島を取り戻しバレアレス諸島、バレンシア王国を征服した。

<ジャウマ1世>

ジャウマ1世

海洋帝国

13世紀ジャウマ1世とペドロ3世の時代には地中海に野望を持つ商人たちの海洋帝国となる。マグレブ、チュニジア、エジプト、コンスタンティノープルに商館を立てせっせとお金儲けをやっていた。相手が異教徒であろうとうまく折り合いをつけ解決をして冒険家のように外へ出ていきシチリア島にまで支配を伸ばす。(シチリアの晩鐘)

 

 

14世紀にはギリシャのアテネまでも占領しコンスタンティノープルと対抗し東方貿易の基地となる。当時のヨーロッパ世界の中心は地中海だった事を考えるとまさに絶頂期。当時の地中海の貿易商人たちは商人という言葉では表しきれないような探検家や冒険家のようで知らない土地へ行き言葉のわからないところで異教徒たちと交渉して活躍していた。

カタルーニャ

 

カタルーニャのコルツ(コルテス)ヨーロッパ最古の議会

ベネチア共和国が非常に民主的であったように商業民族は民主的で現実的である。カタルーニャはベネチア共和国よりも古い議会を持っていてコルツ(コルテス)と呼ぶ。

最初の起源は不明だがジャウマ一世の時1214年に王権に対抗して貴族と市民たちが自分たちの権利を主張し手に入れた。これはイギリスのマグナカルタよりも1年早い。この時彼らは「カタルーニャ人民の代表」と称して伯に向け「自分たちの相談なく又は協約による定めなしに課税や拘禁を行ってはいけない」と要求した。これは前年に即位したジャウマ1世に対する忠誠との交換条件。コルツ(コルテス)の代表はバルセロナ伯の配下の貴族達と聖職者団。そしてもう一つはバルセロナ市で活躍する商人や手工業者団体。後に百人委員会「コンセホ・デ・シエン」を置き都市有力者たちの手による集団支配。カタラン人たちは上からの命令を嫌う体質であり中央に反発をする傾向がこの頃から既にあった(まさに今の中央政府に対する彼らの反抗)。彼ら商人たちは自分たちの機関として海外に領事館や商館を持ち13世紀にはその富を背景に伯にいくつもの要求を掲げる。国内外における商人の保護政策を求めバルセロナにおける裁判権をも伯から奪い取った。カタルーニャの発展を都市商人たちが支えていたのだから当然の事であった。

<コルツに集まる代表>

カタルーニャのコルテス

没落のきっかけはコロンブスの新大陸発見

カスティーリアの王女イサベルとアラゴン・カタルーニャのフェラン(フェルナンド)の結婚によりスペインという国が出来上がる(1469年)

<イサベルとフェルナンドの結婚>

カトリック両王の結婚

スペイン王国はコルツ(コルテス)に対して冷淡であった。後のハプスブルグ朝からブルボン朝にいたる3世紀間のカタルーニャの反抗はコルツ(コルテス)の権利の主張、抵抗だった。

スペイン王国成立と共にカタルーニャは「バルセロナ伯の国家」ではなくなったがカタルーニャ政府は残されジェネラリターと呼ばれる。いったん1716年に廃止されるが現在のジェネラリター(カタルーニャ政府)の始まり。現在も同じ場所にある。

15世紀になるとオスマントルコの登場やイタリア諸都市が力を伸ばしてい次第にカタルーニャの過日の勢いはなくなって行くが一番の原因はアメリカ大陸の発見。

コロンブスの大陸到着

 

フェルナンド王はカタラン人に恨まれても仕方がない。新大陸発見のコロンブスに援助をしたのは妻のイサベル女王だった。大西洋航海に行ったのはカスティーリアの貴族やごろつきで固められ新大陸からの船はすべてセビージャに入港した。

<セビージャの港16世紀>

セビージャの港16世紀

カタルーニャが没落していったのは当時の人々の関心が地中海から大西洋に変わったその波の乗れなかったのが理由。大体フェルナンドがイサベルと結婚していなければカタルーニャは今も独立国家だったに違いない。フェルナンドはアラゴン人。カタラン人ではないのでカタルーニャに対する愛情は無かったと、私は思っている。

この後のカタルーニャは何度も何度も打ちひしがれ立ち上がっては倒され瀕死の状態でも抵抗していく。

その後のカタルーニャの不幸と抵抗
<30年戦争後の収穫人戦争>

30年戦争の末期。フランス王ルイ13世対スペイン王フェリペ4世。スペインへ幾度となく手を出してくるフランス。敵の敵は味方と後ろから手をまわしポルトガルのスペインからの独立を支援し次はカタルーニャのスペインへの反抗を手助けする。

<有名な絵ラス・メニーナスの鏡の中にいるのがフェリペ4世>

ラスメニーナス

*{フランス王ルイ13世はアンリ4世とメディチ家のマリード・メディシスの息子。結婚相手が対戦相手フェリペ4世の姉である。その2人の息子が太陽王ルイ14世。ルイ14世の妻はスペインのフェリペ4世の娘。ここでスペイン・ハプスブルグ王家はブルボンと婚姻関係が強くなり後に辛酸をなめる}

<ルイ13世フランス王>

ルイ13世
United States public domain tag

<カタルーニャの農民が鎌を持って反乱を起こす>

1640年の農民の反乱

 

スペインとフランスの国境にあるカタルーニャは自然と激戦区になりカスティーリアの軍隊が何年も駐留。乱暴狼藉を繰り返し堪忍袋の緒が切れた農民たちが立ち上がる。聖体祭の日に収穫用の鎌を持った農民たちがスペイン王の代理の公爵を殺してしまう。12年間の反乱の末カタルーニャは降伏。その後西仏戦争は続き両国間で調印されたのが「ピレネー条約」フランスはカタルーニャの一部を割譲する。いまだにカタルーニャの一部ルシオン地方はフランス領。

<スペイン王位継承戦争・またしても叩きのめされる>

<カルロス2世・4歳まで歩けず7歳まで話せなかった王>

カルロス2世

フェリペ4世の2度目の結婚の長男カルロス2世は体も頭も弱く世継ぎなく他界。スペイン・ハプスブルグ家はブルボンとも親戚関係が出来ていて両方が王位継承を主張して戦争になる。12年間の戦争後フランスが勝利をおさめスペイン・ブルボン朝が始まる。前述太陽王ルイ14世の孫がスペイン王フェリペ5世として即位。

<フェリペ5世>

フェリペ5世

歴史の表面上は王家が変わっただけの様に見えるがフランスの中央集権的な絶対王政によりスペインの各地方都市は制圧され、カタルーニャの反感は強かった。1713年から各地で戦闘が始まり14か月の抵抗が続きそして再びカタルーニャは力尽き敗れた。その籠城戦のリーダーが「ラファエル・カサノバ」。今もカタルーニャ独立のシンボル的な存在。

<1714年9月11日、バルセロナの陥落>

バルセロナの陥落1714年9月11日

1714年9月11日バルセロナ陥落。ブルボンのフェリペ5世の制裁は冷酷だった。カタルーニャにこれまで特権的に認められていた地方政府は解散を命じられ犯行の中心だったバルセロナ大学は閉鎖される。バルセロナを見張る為の軍隊の駐屯地が創られる。このシウダデーラは今は公園になっている。

最後には懲罰としてカタラン語の公文書への使用が禁止されカタラン語を公的な場で使うことを禁止された。そしてジェネラリターは廃止された。

カタルーニャが自由を奪われた9月11日は毎年「ディア―ダ」という国民の祝日になっている。「ラファエル・カサノバ」の像の前に人が集まる。

<1914年9月11日ラファエル・カサノバの銅像に集まるカタラン人>

ラファエル・カサノバ

サッカーの時バルセロナのカンプ・ノウでは試合開始後17分14秒に一斉に独立のコールが上がる。

<ナポレオン戦争>

またしてもフランスである。フランス革命の後ナポレオンがヨーロッパ遠征を始めスペインにもフランス革命の「自由を輸出してあげよう」とやって来た。カタルーニャは最初にナポレオン軍の侵入を受けたところで激しい抵抗戦が行われた。長い籠城戦のあと落城。特にジローナの街は7か月の籠城戦を戦い飢えと疫病で息絶える。

<さらにスペイン内戦でノックアウト>

スペイン内戦は簡単に分けるとファシズムと反ファシズムの戦いなのでカタルーニャの対スペイン反抗ではない。

スペイン内戦

内戦の前のプリモデリベラ将軍の独裁政権ですでにカタラン語の公的な場での使用は禁止、カタラン人の民族舞踊や民族旗の使用は禁止されていた。この間にカタルーニャ・ナショナリズムは水面下で急伸。1931年スペイン第2共和政が成立するとジェネラリターが再び発足、翌年「カタルーニャ自治憲章」が承認された。1934年スペイン国会で右派が政権を獲得し自治憲章は再び停止、36年は左派の人民戦線が勝利しカタルーニャ自治憲章復活。1936年にバルセロナで人民オリンピックが行われる予定だったが内戦が勃発。「幻の祭典」となる。

<1936年人民オリンピックのポスター>

バルセロナ人民オリンピック

 

1938年バルセロナは反乱軍による無差別爆撃を受け39年反乱軍によって陥落。共和国側の犠牲者だけでなくフランコ支持者の聖職者たちもアナーキストによって処刑された。

<バルセロナの無差別攻撃>

バルセロナの空爆
De Italian Airforce – http://www.barcelonabombardejada.cat/?q=ca/imatges, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=25495577

 

フランコ体制下カタラン語とカタルーニャのアイデンティティーは全て厳しく弾圧され自治政府や自治憲章は廃止。首相は銃殺され多くの共和国支持者が投獄又は処刑された。カタルーニャは再び恥辱され瀕死の状態となる。

<フランコ総統のバルセロナ入場>

スペイン内戦

フランコ後にやっと立ち上がる

1975年に独裁者フランコが死去。新内閣アドルフォ・スアレス首相の下スペインの民主化が進められた。スアレス首相はジェネラリターの復活を優先し1979年カタルーニャ自治憲章が制定されカタルーニャ自治州が発足した。スペインは1986年にヨーロッパ共同体に加盟し多くの外国企業がカタルーニャへ進出する。もともと商業民族のカタラン人たちはあっという間に経済復興し1992年にバルセロナオリンピックが行われ世界へカタルーニャが紹介された。競技場は「幻の祭典」となった「人民オリンピック会場」を拡張して使われた。まさに92年はカタルーニャの復活を象徴していた。

バルセロナオリンピック1992年

<カタルーニャの独立問題>なぜこんなに揉めているのかまとめてみた。

スペインからの独立気運

カタルーニャはスペインのGDPの約20パーセントを稼ぎ出すなか中央政府に多額の税金を収めるが再分配は貧しい州に回され不公平感を募らせている。実際カタルーニャの財政は危機状態。(これには諸説、マドリードも高額支払っているが援助は少ない)

2006年カタルーニャ自治憲章の改正が行われ民族の独自性、カタラン語をスペイン語に優先して公用語とする事、財政司法行政などの自治権の拡大を大きく謳った。しかしスペイン中央政府はこの自治憲章が違憲であるとスペイン憲法裁判所に提訴。2010年6月28日にいくつかの部分が違憲であると判決が下された。

 

2009年にはカタルーニャ州内の自治体で独立に向けた法的拘束力のない住民投票が行われ独立賛成派が多数だったが投票率は27パーセント。投票に行ったのは独立賛成派だったと言われている。

2010年7月10日の大規模デモ110万人が参加した。カタルーニャ憲章が憲法裁判所から違法と判定を受けた後という事もあり人々の関心に火をつけた形になった。

2013年9月11日17時14分にカタルーニャの独立を支持する人たちが手を繋いで世界にアピール。カタルーニャの北から南までにわたる400キロ人の鎖が出来た。

<カタルーニャの道、Via Catalunya>

カタルーニャ独立
11 September 2013, 16:26:56
Source Own work
Author Clara Polo Sabat

2014年はスペイン王位継承戦争でカタルーニャの自治が奪われた300周年。9月11日のデモの参加者は180万人に膨れ上がった。

<エルパイス新聞の記事。独立旗アスタラーダを振る民衆>

カタルーニャの日2014

2017年9月11日も同じく多くの独立旗アスタラーダ(エステラーダ)が振られデモが行われた。警察の発表では昨年より参加者は少なかったとのこと。今年2017年10月1日カタルーニャの独立の国民投票が行われるが中央政府はそれを違法と反対を唱えている。2005年までのカタルーニャの独立派は約20パーセントだったことを鑑みれば今の中央政府のやり方がカタラン人たちを煽ってしまったと思う。

「独立旗アスタラーダはカタルーニャの旗(サニェーラ)にブルーの三角と白い五芒星を使たもの。キューバの国旗、キューバのスペインからの独立に発想を得ている。1918年に既に分離主義者によって使われている」

カタルーニャ独立旗

独立はカタルーニャにとってはデメリットが多い。ヨーロッパユニオンから出ることになりユーロ圏にも入れない。多くの外国企業が既にカタルーニャから撤退をしている。それでも独立を目指すのか。長い歴史の中で何度も踏みつけられてきた民族のアイデンティティー。

ヨーロッパ全体に民族問題がありヨーロッパ内では黙殺されているカタルーニャ独立問題。この後まだまだどうなるか目が離せません。

 

イサベル女王<スペイン建国の母>とその時代

 

イサベル女王の時代、まだスペインという国はなくイベリア半島の中央にカスティーリア王国という国があった。騎士たちがイスラム教徒と戦いながら城郭を作り、そこを基礎に更に戦って城を築き国を強くしていった戦いの時代だった。スペイン語で城の事をカスティージョと呼ぶ。カスティージョが沢山あるカスティーリア王国に一人の王女が生まれた。スペインの歴史で重要なイサベルの生涯についてまとめました。

イサベル、カスティーリアの田舎の村で誕生


イサベル誕生

後のイサベル女王の生まれはマドリガル・デ・ラス・アルタ・ストレスというカスティーリアの小さな村。マドリガルは恋歌とか牧歌という意味でラス・アルタス・トレスは高い塔の複数形。「高い塔の恋歌」というロマンチックな名前の田舎の村でカスティーリア国王フアン2世の2番目の妃の長女として誕生。

宮殿というのもはばかれる質素なお城で1451年4月22日に誕生。奇しくも同じ年にコロンブスが生まれている。日本は室町時代足利義政将軍の時代。

<イサベル女王生誕の城は現在は修道院になっている>

マドリガル修道院
マドリガル・デ・ラス・アルタス・トレスの修道院

 

イサベルの父王ファン2世

父王フアン2世は49年の長い治世を行うが「カスティーリアの不運」と言われるほどの王で芸術を好む温和な人物だが政治は無能。母親がイギリスのランカスター家から嫁いできたキャサリン(スペイン語だとカタリーナ)。

この父王ファン2世の最初の結婚はアラゴン王家の王女マリア・デ・アラゴン。2人の間に娘3人息子1人に恵まれこの息子が次の王になるエンリケ。国王就任後はカスティーリア王エンリケ4世不能王と呼ばれる。

<イサベル女王の父、ファン2世>

ファン2世

 

ファン2世の2度目の結婚が後のイサベル女王の母

<イサベル・デ・ポルトガル>

ポルトガルのイサベル

ファン2世の2度目の結婚がポルトガル王女イサベル。同じ名前が多くて複雑だがこの2人の間に生まれたのが後のイサベル女王。

母イサベルは若く奔放で美しく、気弱なファン2世は次第に翻弄されるようになる。奔放なだけではなく常識を逸した行動が度々目立ち始める。そして夫である国王フアン2世をそそのかし言いなりに動かし長年の宰相をバジャドリードの広場で公開処刑する。気弱な国王ファン2世は後悔と自責の念で弱りきり人々の同情と軽侮の中亡くなる。

この時イサベル王女3歳、弟のアルフォンソ王子8か月。

義理兄エンリケ4世の即位

父王の突然の死去で兄のエンリケ4世即位。ここから王女イサベルの悲運な日々が始まる。時々狂気の行動をする母イサベルと王女イサベル、弟のアルフォンソは近くの荒野のアレバロの城に追放され、少ない共の者達と身を寄せ合うように貧しく暮らすことになる。

<エンリケ4世>

エンリケ4世
De Desconocido – web, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2261931

 

兄王エンリケ4世は父王にも負けず劣らずのグウタラ王で無能で女たらし。父王フアン2世が亡くなる少し前に妻であった王妃と離婚した。

カトリックでは離婚は認められていないが「その結婚に問題があることを証明」できればローマ法王の許可のもと「結婚の解消」が出来る。その理由がなんと「不能」。”何か不吉な力”によってこの王妃と関係が持てない。

この王様それ以来「エンリケ不能王」と不名誉な名前で呼ばれる。

そして再婚、王の仕事の大切なひとつは世継ぎを残す事。その為に新しい妻を迎えた。

エンリケ不能王が2度目の妻に迎えるのがポルトガル王の妹ファナ王女。若く美しく陽気な新しい王妃との盛大な婚礼が執り行われ側近たちは今度こそはと期待するが「その夜には何も起こらなかった・・・・」と王室記録官。

<ファナ王妃>

ホアナ、エンリケ4世妃

”高貴な女性とは特に無理”な「国王エンリケ不能王」は妻の女官のもとに通い始め王妃のもとには若くハンサムで野心家の「ベルトラン卿」が通い始める。

もちろん王と王妃の間には冷たい風が吹き始める。

王妃のご懐妊

突然のニュースは結婚6年目。エンリケ不能王の妃が懐妊したという。噂好きのスペイン人たちは昔もそうは違わなかったはず。国中でみんなの話題になった事だと想像できる。「王妃のお腹の子はベルトランの子供じゃないの?」

1462年に生まれた女の子は母と同じ名前ファナと名付けられ生まれた時から人々の好奇の目にさらされる。そしてついたニックネームは「ファナ・ラ・ベルトラネーハ=ベルトランの娘ファナ」

<フォナ・ラ・ベルトラネーハ>

ベルトラネーハ

不思議なのは国王エンリケ4世はベルトラン卿を随分厚遇し出世させていること。公爵の娘と結婚させ出世街道まっしぐら。これには嫉妬深い周りの貴族たちも面白くない。ついにイサベルの弟アルフォンソに与えられていた「サンチアゴ騎士団長」の名誉迄も与える有り様。嫉妬と屈辱の周りの不満分子たちは次第に王の知らないところで結束を始めていた。

国内の分断

この頃イサベル王女達はセゴビア城で質素に暮らしていた。

<セゴビア城>

アルカサール

カスティーリアの貴族の不満分子たちはエンリケ4世を見限りイサベルの弟アルフォンソを王に祭り上げようと画策し国内は分裂。優柔不断なエンリケ不能王は右往左往する中アルフォンソにアストゥリアス皇太子の称号を認め不満貴族達への懐柔策を始める。

しかし時すでに遅くアビラの高原に王座が置かれアルフォンソを新国王アルフォンソ12世として擁立。オルメドでの戦闘はアルフォンソ側有利に進み反乱を起こすトレドへ進軍するもその時突然、アルフォンソは倒れた。

前日夜に鱒を食べた後苦しみ始めたとあるが毒殺か疫病か不明。享年15歳。

イサベル女王の心の支えだった弟アルフォンソはブルゴスのカルトゥーハ・ミラフローレス修道院に眠る。

<ミラフローレス修道院にあるアルフォンソのお墓>

アルフォンソのお墓
Wikimedia Commons Author Ecelan

イサベルの聡明さ

アルフォンソの死後国内はまだ内戦状態でイサベルを女王と担ぎ上げようとする勢力がいる中17歳のイサベルは「兄エンリケ4世こそが正当の国王。がその嫡子の正当性に問題があるならばその次の王位継承権は自分にある」と主張した。

当時の人々が早熟であったとしてもカスティーリアの有力者の権力闘争の中で17歳の女性が堂々と大人相手に張り合い自分の意志を通した。

一躍未来のカスティーリア女王となる。

イサベル女王

イサベルの婿選びと結婚

当時の王族の結婚はすべて政略結婚。恋愛は別物で自国の利益の為に子供達はその道具としてあらゆる方法で使われた。王女達は15歳位で嫁に行くのが普通だったがイサベルは17歳。すでに周りの国々から色々な縁談話が来ている。

ポルトガル、イギリス、フランス。その中に隣のアラゴン・カタルーニャ連合王国の皇太子フェルナンドからの話があった。「おじいちゃん同士が兄弟」という関係で同じトラスタマラ王家。先方に送った密偵の話ではなかなかの美男で切れ者らしい。

イサベルの心がどこにあったか知る由もないが17歳の王女の心に恋心が芽生えても不思議ではないと思う。そしておそらくこの婚姻によるカスティーリアの利益も。

<アラゴンのフェルナンド>

フェルナンド王
De Michel Sittow – [1], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4714691
ところがそこには色々な周りの大人の思惑があり「ポルトガル王の後妻」の話が兄王から言い渡される。言いなりになるつもりはないイサベルは逃げた。

イサベルに味方したのはトレド大司教、そしてアラゴン王国だった。

度々フランスから圧力を受けているアラゴン側もこの結婚での利益に興味を持った。当事者フェルナンドはイサベルのひとつ年下だがマッキャベリの君主論に出てくる程の人物。

イサベルは時の権力者たちに捕らわれそうになるもバジャドリードに逃げそこへ一足早くフェルナンドが駆けつけ1469年バジャドリードのフアン・デ・ビベーロの屋敷で結婚式は執り行われた。(この建物は現存)

イサベル18歳フェルナンド17歳。この年ポルトガルでバスコダガマが生まれ、日本では応仁の乱の混乱の時代。

<イサベルとフェルナンドの結婚>

カトリック両王の結婚

イサベルの戴冠

<セゴビア城にあるイサベル女王戴冠の絵>

イサベル女王戴冠

優柔不断な兄王はまたしても有力者にそそのかされフランス王の弟と出生不明の娘フアナの結婚話を進めイサベルに対抗しようとするも当事者のフランス王弟の死去とエンリケ王側についていたローマ法王の死去。

新しいローマ法王シクストゥス4世は政治的混乱と飢饉で弱り切ったカスティーリアにルネッサンス時代の大人物を送り込む。

後のローマ法王アレッサンドロ6世ロドリーゴ・デ・ボルジア。

この野心家が祖国の混乱に心を痛めたかどうかは疑わしいがイサベルとエンリケの仲を取り持ちセゴビア城で和解。

その翌年あっけなくエンリケ4世死去、いつも針の筵にいた妃も何故かその半年後に35歳で亡くなっている。

セゴビア城にいたイサベルはサン・ミゲル教会で戴冠(この教会も現存)

1474年23歳のイサベルはカスティーリアの女王になる。イサベル女王の誕生、歴史家はこの日をスペイン近代史の始まりとする。

<セゴビア・サンミゲール教会>

セゴビアのサンミゲール教会

<教会入口に1474年12月13日イサベル女王戴冠>

1474年12月13日

 

そう簡単ではなかったイサベル女王就任

ところがそれでは納まらない勢力がこれまでファナ・ラ・ベルトラネーハを押してきた陣営。ポルトガル王アフォンソ(以前イサベルとも縁談があった王)とファナ・ラ・ベルトラネーハを結婚させる話が持ち上がる。

ポルトガル王とは叔父と姪の関係。姪のファナがカスティーリアの正当な継承者なら結婚すれば自分はポルトガルとカスティーリアに君臨出来るという目論見でイサベルに対抗し戦争。4年間の戦争の間に国は荒廃しついに和睦の条約でファナ・ラ・ベルトラネーハは諦め修道院へ隠居。

周りの都合で翻弄され続けたファナは自分の王位継承を信じて疑わずリスボンの修道院で69歳で亡くなるまで”我女王”のサインをしたという。厚い修道院の壁の中からこの後のイサベル女王の死やその子供たちの不幸な人生を知ったかどうかは不明。

この頃のスペイン

その時代のスペインは南にイスラム王朝のグラナダ王国が細々と存続していたレコンキスタの末期。キリスト教徒側ではイサベルとフェルナンドの結婚により今のスペインという国の概念がやっと出来る。

そして最後のイスラム国への戦争が始まる。

発端は南スペインでの小さな小競り合い。グラナダの美しいアルハンブラ宮殿の内部は陰謀と裏切りで権力闘争が続く中キリスト教徒軍が押し寄せてくる。それでも10年間耐え続けたのは奇跡だった。

フェルナンドとイサベル率いるキリスト教徒軍が迫りアルハンブラは無血開城。

1492年1月2日。ヨーロッパに残る最後のイスラム王朝グラナダ王国が滅びた。

<グラナダの陥落>

グラナダ陥落

 

コロンブスの登場

<サンタマリア号模型・スペイン海軍博物館>

サンタマリア号

いつもそうだ、時代はすでに準備ができている。

ルネッサンスの数々の発明によって航海術は進歩していた、そこで登場するのがコロンブスという謎の男。西回りでアジアに行けると信じたコロンブスがポルトガル王に断られスペインにやって来たのは1484年。何度か断られたり説得したりが続きグラナダ陥落後アルハンブラ宮殿でイサベル女王からの援助を手に入れ大航海時代が始まる。

第1回航海は1492年8月3日出発。

コロンブスは生涯に4回大西洋を渡っているが死ぬまでそこはアジアの一部と信じていた。コロンブスはイサベル女王死後は殆どの約束を反故にされ惨めな最後を遂げる。

<コロンブスの新大陸到着>

コロンブスのアメリカ到着

1492年

15世紀末のこの年、当時の人々はヨハネの黙示録に出てくるこの世の終わりがやって来ると世紀末感に怯えていた。ペストの流行がさらに世紀末感に拍車をかけていた頃グラナダの陥落、コロンブスの出港、と世界史的な事件が続く。

そしてスペイン人ローマ法王の即位。兄王とイサベルの和解に出てきた超野心家聖職者ロドリーゴ・デ・ボルジア、アレッサンドロ6世の即位。

有名なボルジア家出身で聖職者なのに愛人との間に子供がいた。息子が有名なチェーザレ・ボルジア、娘が絶世の美女のルクレチア・ボルジア、野心、好色、大物、自己中心、権力とお金の為なら何でもやるタイプの人物。聖職者にはもったいない。

<アレキサンダー6世>

アレキサンダー6世

トルデシージャス条約

コロンブスはアジアに着いた、そしてスペイン人ローマ法王の登場だ。そこで、ポルトガルが慌てた。

このままスペインに上手くやりこめられてはたまらない。地球を半分に割って将来揉めないように条約を結んだ。大西洋の上に縦に線を引いてここから西に将来発見されたらスペイン領土東だったらポルトガル領土。

これでスペインは西へ、ポルトガルは東へと行先がきまり航海者達は船を出す。

イサベル女王の子供達の運命


イサベル女王5人の子供達

混乱と戦争と権力闘争の中イサベル女王は1男4女をもうけている。愛情を注いで育てるこの5人の子供たちは可愛いだけではなく大切な戦略の道具。

当時のヨーロッパの勢力図を考え巡らせ将棋の駒のように誰との結婚が自国に有利かを冷静に見つめ結婚相手を決めていく。

カトリック両王とその子供達

長女イサベルはポルトガル王と結婚

長女イサベルはポルトガル王ジョアン2世の息子アフォンソ皇太子と結婚。夫婦仲は睦まじく娘イサベルはポルトガル宮廷で大切にされて幸せの絶頂のある日、夫のアフォンソが落馬して死亡。

子のまだ無いイサベル王妃は喪に服しスペインへ帰国。その後さらに亡き夫の父ポルトガル王ジョアン2世が死去し(王妻と折り合いが悪く突然の死には毒殺説)その妻の弟がマニュエル1世として即位(この辺りは陰謀の香りがする)。

イサベルはマニュエル1世から激しく求婚され再びポルトガル王妃になる。

このマニュエル1世の時代にポルトガルはインド航路発見、ブラジル到着。後に出てくるスペインの期待を担った弟ファンの死後王位継承権がイサベルにやって来るが息子を産んだ後すぐに死去。

残されたミゲールと名付けられた大切な皇太子はスペインを背負う運命の中1500年7月20日2歳の誕生日を迎えずにグラナダで死去。

今もグラナダの王立礼拝堂に埋葬されている。

長男ホアン

セビージャのアルカサールで誕生した皇太子ホアンはイサベル女王にとって特別な存在で大切に育てる、が体が弱かった。

ホアンの結婚はフランスを恨む者同士の連合で当時の先進国ブルゴーニュ公国の王女との結婚。神聖ローマ帝国皇帝の娘。

美しく華やかな17歳マルガレーテ王女との結婚で当時のスペイン宮廷は湧くが体の弱いホアンは結婚の行事のあと姉の結婚式に参加する途中サラマンカで突然死亡。(あまりにも美しいマルガレーテに恋し過ぎて、ベッドでの時間が多かったのが致命傷という説がある)すでに懐妊していたマルガリータは死産。

国中が喪に服した。今はアビラの修道院に埋葬されている。

<アビラのサント・トーマス王立修道院にあるホアンの霊廟>

ホアンのお墓
wikipedia
public domain.

次女ファナは後に狂女ファナ(ファナ・ラ・ロカ)と呼ばれる

ファナは兄ファンとの2重結婚で一足早くベルギーのフィリップ美公に嫁ぐ。

フィリップ美公は神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世とブルゴーニュ公国マリアの長男。洗練された都会人フィリップのとの蜜月は短く夫に翻弄されながら精神を病んで行き6年後祖国に帰るころは別人に変り果てイサベル女王を悲しませた。

兄ホアン、姉イサベルが続いて亡くなった後はスペインの王位継承権が手に入り再び夫妻でスペインに戻るがフィリップは突然死亡。父フェルナンドによる毒殺がささやかれるが謎のまま。彷徨いながらフィリップの遺体をグラナダに運ぶ一行、ファナは棺を時折開け死んだ夫に話しかけたとも遺体を隅々まで触って確認したとも言われる。

そのころファナはフィリップの子供を妊娠しており合計6人の子供を産んでいる。事実上スペイン女王となるが狂気が理由で父親と息子(のちのカルロス5世)によってトルデシージャスの城に幽閉されながら75歳まで生きる。

実際ファナが狂っていたかは謎で今の歴史家達は否定している。

<夫の棺と荒野をさまようファーナ>

ファーナラロカ

 

三女マリアはポルトガルへ

マリアは長女イサベルの亡くなった後妻としてポルトガル王マヌエルの所へ嫁ぐ。マリアのみが唯一の幸せな結婚生活を過ごし5男2女を王に与え惜しまれて35歳で亡くなる。

マリアの長女がのちのカルロス5世の妻、フェリペ2世の母イサベル王妃。

<マリアの長女イサベル、後のカルロス5世王妃>

ポルトガルのイサベル

四女カタリーナはイギリスへ

最も不憫な末娘カタリーナは15歳で同い年のイギリス皇太子アーサーと結婚する。病弱で気弱なアーサーは結婚後すぐ死亡。なんとその父親ヘンリー7世との縁談が起こるがヘンリー7世も死亡しアーサーの弟のヘンリー8世と再婚。

ヘンリー8世は5回の妻のうち2人は斬首刑というシェイクスピアに出てくる残酷で冷血な王。カタリーナとヘンリー8世との間の娘が有名なブラッディメアリー。プロテスタントを残酷に殺した為「血のメアリー」と呼ばれる。赤いお酒の名前はそこから取られている。

カタリーナはその後何度か妊娠、死産を繰り返す中ヘンリー8世は宮廷の若い女官アンブリンとの結婚の為カタリーナを離婚、いや結婚の無効を主張。アンブリンとヘンリー8世の間の娘が後のエリザベス1世女王。ヘンリー8世はローマ法王が離婚を許可しないので英国国教会を作りカトリックから分離する。

カタリーナは3年間城に幽閉され隔離された中で49歳で寂しく死んでいく。

<カタリーナ・デ・アラゴン>

カタリーナ

<ヘンリー8世>

ヘンリー8世

イサベル女王の最後


スペイン統一とグラナダの陥落やコロンブスの援助と華々しい歴史を生きたイサベル女王は期待の長男ファンの死と長女イサベルの死、その息子ミゲールの死と三女ファーナの狂気、母親としては悲しみの連続だった。晩年メディーナ・デル・カンポの質素なお城で最後まで国の為仕事をしたという。

少なくとも四女カタリーナの不幸を知らずに亡くなったのは幸いだった。1504年11月26日53歳の生涯を閉じる。

イサベル女王最後の日

遺言通り遺体はグラナダに運ばれサンフランシスコ修道院に埋葬されフェルナンド死後は共にグラナダ大聖堂横の王室礼拝堂にある。

<カトリック両王の霊廟、グラナダ王室礼拝堂>

カトリック両王の霊廟
wikipedia
public domain.

イサベル女王の娘、ファナの生涯の記事です。

狂女ファナ(ファナ・ラ・ロカ)の一生、スペインの歴史、ファナ1世女王の哀しい物語

質素で誠実で敬虔なカトリック教徒。国の為に自分を捨て戦ったイサベル女王は今もスペインで人気の女王様です。

 

バルセロナの魅力<ガウディだけじゃない魅力的な街バルセロナ>

 

バルセロナは歴史の古い街で地中海に面した陽光明るい都市。あまりにもサグラダ・ファミリア教会やアントニ・ガウディが人気ですがバルセロナの街はローマの遺跡中世がそのまま残り海と山に囲まれた経済活動盛んな魅力的な街です。今はスペイン17州の中のひとつ「カタルーニャ州の州都」ですがもともとはカタルーニャは「ひとつの国家」でその首都がバルセロナ。スペインという国が出来るより前からあった国でした。最近は近代建築も創られていて今も変化を続けているダイナミックな街です。今回はアントニ・ガウディ以外バルセロナをご紹介します。

ゴシック地区<バリオ・ゴティコ>

13世紀から15世紀の中世の街が残る地区。バルセロナ旧市街ランブラス通りの東側から大聖堂の後ろ側一帯に中世の建物がそのまま連続して残る。大都会の中に時間を止めた古い町並みが残されていて素敵なバルやブティックなども街並みに溶け込んで共存している地区。これがバルセロナの魅力のひとつ。

通りを歩くと人が住んでいる生活感、路地に入って行くと何百年もの人が生きてきた重みを感じる。私はこの地区が大好きでバルセロナを訪れると目的もなく歩きに行く。この中世の街のすぐ下にローマの遺跡が残り今も一部見学が出来る。紀元前一世紀頃に大聖堂のあたりに住み着き3世紀頃には要塞化していく。

最近は古い集合住宅が短期滞在者用のアパートホテルなどに変えられ住民が追い出されるケースが出てきた。早く行政が対応して住民を守ってもらいたいと心から願う。ロマネスク教会やカタルニャゴシック教会が点在しピカソ美術館もこの地区にある。是非とも足を踏み入れてさまよってこの町の魅力を感じて下さい。ヨーロッパに古い街はたくさんあるけれどこんな大都会の中に連続して13世紀から15世紀の建物が残っているところは他にあるんでしょうか?

 

<ゴシック地区・大聖堂>

バルセロナ、カテドラル

バルセロナの大聖堂は殉教聖人サンタ・エウラリアに捧げて創られたカタルーニャ・ゴシック様式の建造物。内部の地下へ降りると地下聖堂がありサンタエウラリアが埋葬されている。カタルーニャ・ゴシックは通常外側にあるフライングバットレスの部分を内側に入れ込んだ内部が広い様式。4世紀にはここに小さなバシリカが作られ11世紀にロマネスク様式の教会に変わり13世紀末から150年間位で作ったのが現在の大聖堂。サグラダファミリアがあまりにも有名ですが街の大聖堂はここ。地元の人はセウと呼ぶ。日曜日には前の広場に人が集まり「サルダーナ」を踊っている。この踊りはフランコの独裁政権時に禁止されたカタルーニャのアイデンティティそのもの。クリスマス頃は前の広場でクリスマスマーケットが開かれる。

<行き方>

地下鉄4号線Jauma I から徒歩5分

<時間>

8時から12時45分(日曜~13時45分)17時45分~19時30分(土日は17時15分から20時)

注意・極端に短いパンツやスカート、肩の出た服装では入場できません。お祈りの場なので教会に対する礼儀に気をつけましょう。

<ゴシック地区>・サンジャウマ広場(ジェネラリターと市役所)

大聖堂向かって右側の石畳通り(Carrer del Bisbe Irurita)をサンジャウマ広場に向かって歩くとそこは中世のムード。その先にカタルーニャ自治政府庁<パラウデラジェネラレイタ>カタルーニャが国家だったころからあるカタルーニャ政府の建物。現在の物は15世紀から17世紀にかけて建てられた。

向かいにはバルセロナの市役所。正面は19世紀だが横の方は14世紀のゴシックの建築が残る。パラディス通りに入るとローマ時代の神殿の円柱が残る。アウグストゥス神殿の遺跡。

<ゴシック地区>王の広場

バルセロナ王の広場

バルセロナはフランク王国がイスラム教徒の砦として創った伯爵領でそのバルセロナ伯爵の屋敷があった広場。コロンブスが最初の航海から戻ったときにイサベル女王に謁見をした場所。この下にはローマ時代の遺跡。

<ゴシック地区>バルセロナ市立博物館
バルセロナ歴史爆物館
http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0

バルセロナ旧市街ゴシック地区の地下はローマ時代の遺跡。建物自体が14世紀の建物で中に入ると地下に広大なローマ時代の遺跡を見ることが出来圧巻。ローマの遺跡は地中海沿岸諸国色々なところで見れますが現代の街の下に広がる遺跡を見れるところは他に聞いたことが無い。パリやロンドンもローマの街の上に創られていることを考えると地下にこのような広大な遺跡が今もきっとあるんだと思いをめぐらせてしまう。

<時間>

火曜から土曜 10時から19時 日曜10時から20時月曜休み

 

<ゴシック地区>サンタ・マリア・デル・マル教会

海の聖母教会

この地区の教区教会で今も使われているサンタ・マリア・デル・マル教会。カタルーニャゴシック様式ではたぶん最も美しい教会。創られた当時はすぐそこが海で「海で働く男たち」を守るマリア様に捧げて創られた。海の男たちが聖母の教会を作るため持てる僅かな財源を捧げ奉献した。毎日石を運んだ様子が正面入口に彫刻で残っている。内部は荘厳で静謐。私はバルセロナに行くと時間があればここへ行くと心が洗われるようなすがすがしい気分になれる。柱が細くて繊細なイメージで垂直線がどこまでも軽やかで昔はきっと海の音が聞こえたんだと想像しながら。

注意・地元の信仰の対象の大切な教会です。お祈りしている信者さん達やミサの時は適切な敬意が必要です。

<行き方>

地下鉄4号線 JaumaI 徒歩5分。

<時間>

9時から13時(日曜10時から14時)、17時から20時30分

<ゴシック地区>ピカソ美術館
ピカソの母
museo de picasso barcelona

この絵はピカソ15歳の頃の作品。紙にパステルで描いた母親の横顔。下を見ながら編み物でもしている様な目のとらえ方。優しいムードに包まれた作品。

 

ピカソは南スペイン,アンダルシアのマラガで生まれ青年時代をバルセロナで過ごしている。この美術館があるモンカダ通りは裕福なモンカダ一族の名前が取られた中世のお屋敷街で通りも広く中庭の有る門構えのしっかりした建築が続く。そのいくつかを利用して創られた美術館。ピカソ美術館は他の国にも沢山有りますがバルセロナが凄いのはピカソの若いころの物が充実している。ピカソの親友の寄贈とその後ピカソの家族からの寄贈の作品が中心なのでピカソの家族や身近な人々が作品の中に登場して暖かい気持ちになる。中学生くらいのピカソの作品や青の時代バラ色の時代等年代順に置いてあるので若いころのピカソの作品を楽しめる。

<行き方>

地下鉄4号線 Jaume I 徒歩5分

<時間>

火曜から月曜 9時から19時 木曜9時から21時30分

月曜休館(2017年7月24から9月25まで月曜試験的に開館)木曜18時から無料

 

<注意>たいていいつも大変混んでいます。入場券を買うのに何時間も待つことが多いのでネットで予約を入れていくことをお勧めします。

ピカソ美術館の予約のページに飛びます(英語)(https://entrades.eicub.net:8443/muslinkIII/venda/index.jsp?lang=3&nom_cache=PICASSO&property=PICASSO&grupActiv=1

カタルーニャ美術館

Museo  Nacional d`Arte de Catalunya

カタルーニャ美術館
By Sergi Larripa (User:SergiL) –  CC 表示-継承 3.0, Link

 

バルセロナの街の西側、モンジュイックの丘にある国立美術館で中世から20世紀までのカタルーニャ美術を中心としたコレクション。言葉を失うほどの素晴らしいコレクションで「ルネッサンス以前のヨーロッパ美術だけに絞る」とおそらく世界一のコレクション

見どころはロマネスク壁画の収集。雨の多いピレネーの山の中にある小さな村の教会のフレスコ画が湿度で傷みが激しくなっていた。ロマネスク教会は壁構造だったため壁画が多い。19世紀の終わりに国立美術館の技術者を総動員して小さな村の教会からフレスコ画を丁寧に細密にはがして移築した。祭壇画や木製の十字架等この美術館のロマネスク美術は他で見ることはできないレベルと量。

12世紀から13世紀の物なのでまだ緻密な表現、バランスも悪く単純な構図。キリストの頭が歪に長く目がアニメに出てきそうなくらい大きかったりする。どっしりとした存在感ドラマチックな構図はミロの絵のよう。独特の地中海ロマネスクの壁画はいくら見ていても飽きない程のユーモラスとバリエーション。

カタルーニャ美術館タウルのキリスト
https://en.wikipedia.org/wiki/Museu_Nacional_d%27Art_de_Catalunya

<行き方>

地下鉄 1・3号線 Espanya から徒歩10分

<時間>

毎日10時から20時(日曜日は~15時)

第一日曜と土曜の15時から無料。

モンジュイックの丘にはジュアンミロ財団美術館や考古学博物館、スペイン村、1992年のオリンピック競技場もある。

海洋博物館 Museo Maritim

海洋博物館
Fritz Geller-Grimm – Trabajo propioCC BY-SA 2.5

バルセロナ旧市街ランブラス通りの海側に立つコロンブスの塔のすぐそばにある博物館。造船所をそのまま使っているので巨大な実物大のガレー船と船の模型をそのまま展示。(7隻は14世紀3隻は17世紀の物)。バルセロナは古くから重要な港だった。実際にこの造船所は18世紀まで使われていた。カタルーニャが海洋帝国だった事が良くわかる。目玉はギリシャ沖レパントの海戦ホアン・デ・アウストリアが乗ったガレー船「レアル号」の模型。レパントの海戦は1571年足並みのそろわないヨーロッパ連合軍がオスマントルコを倒した海戦。

<行き方> 地下鉄3号線 Drassanesn 徒歩3分

<時間> 10時から20時毎日

まとめ

今もスペイン経済GDPの20パーセントを稼ぐカタルーニャの首都バルセロナは活気のある近代都市です。年間数多くの国際見本市も開かれホテル不足が問題。ホテルは早めに取りましょう。【Booking.com】世界のホテル割引予約

他にもまだまだ有るバルセロナの魅力。今回はゴシック地区中心ですがまた次回ほかのテーマでバルセロナを紹介したいと思います。写真が無くてやめたのはプエルト・オリンピコ(オリンピックの港)市内にある港へ行くとヨットハーバーの前にレストラン街、すぐ横にはビーチがあり海水浴が出来る。海も山も歴史もたっぷりで食も充実、サッカーは世界のトップ。こんな近代都市他にありますか?

 

アストゥリアス地方<グリーンスペイン>スペイン君主制発祥の地

アストゥリアスはスペイン北部の海と山に囲まれた緑の多い地域。私たち日本人のスペインのイメージからはかけ離れた景観が続き「グリーンスペイン」「緑のスペイン」と呼ばれる

スペインの歴史の中で重要なレコンキスタが始まり最初のキリスト教王国が作られたところでコバドンガカンガス・デ・オニス等歴史に出てくる都市やピコス・デ・エウロパという険しい山やコスタベルデと呼ばれる等の自然の景観が楽しめるところです。

アストゥリアス地図

 

 

首都オビエド

オビエド大聖堂

 

アストゥリアス州首都のオビエドは人口22万人の小さなこじんまりした街。ゴシック様式の大聖堂を中心に綺麗な旧市街。魚市場やシードラ屋、町中に銅像等があって散策するにもちょうどいい規模の美しい街。初めて行ったときに懐かしいような親近感を感じたのは山と海が近い小さな町に日本の素朴な綺麗な街が記憶の中でリンクしたと感じている。

大聖堂

ゴシック様式のサン・サルバドール大聖堂。中のカマラ・サンタにはビシゴート王国崩壊の時トレドから持って逃げた宝物、コバドンガの戦いペラヨが使った十字架そしてなんと聖骸布。埋葬されたイエスキリストの頭を包んでいた布です。。聖骸布というとイタリアのトリノが有名ですがこちらも同じく聖骸布。1メートルx0.6メートルで重厚な箱にしまわれていて年に3度一般公開されます。

カンポアモール劇場

毎年11月スペイン皇太子賞の授与式が行われる劇場。1981年から行われているスペインのノーベル賞にあたるもの。各界の貢献者に賞金5万ユーロとミロデザインのトロフィーが授与される。2011年には「福島の英雄」<東日本大震災で活躍した消防・警察・自衛隊の現場の指揮者5人に授与された>当時まだ皇太子だった現スペイン国王フェリペ6世は2017年日本に行った折ぜひまたあの「福島の英雄達に会いたい」と希望され再会を果たした。

ナランコ山に世界遺産のアストゥリアス建築

近くのナランコ山には世界遺産のアストゥリアス建築(プレロマネスク建築)がある。ロマネスクが始まるより前に高度な技術で天井を支えた石の建築でサンタ・マリア・ナランコサン・ミゲール・デ・リーリョ、少し離れてサンタ・クリスティーナ・デ・レーナ教会プレロマネスク建築群として世界遺産に指定されています。

サンタ・マリア・ナランコ

ピコス・デ・エウロパ国立公園

ピコスデエウロパ

アストゥリアスにあるピコス・デ・エウロパ山脈は海から30キロメートルの所に突然2500メートル級の険しい山脈。浸食によりギザギザになった石灰岩の峰は遠洋漁業から戻った船乗りたちによってヨーロッパの頂<ピコス・デ・エウロパ>と名付けられた。トレッキングコースや本格的な山登り、かわいい村があり独特の景観が素晴らしい。

1<フエンテ・デ>

 

ピコス・デ・エウロパの山に囲まれた標高1000メートルの地。国営ホテル「パラドール」は近代的な建物で快適な滞在が出来る。アストゥリアスでも最も人気なのは気軽に山が楽しめる。パラドールの横にロープ―ウェイがあり山頂駅迄運んでくれるので360度の景観は迫力。そこから山道を歩いて山小屋迄行くことも可能。地元のエージェントがやっている4輪駆動のジープで回るコースなども各種。山登りが得意でなくても険しい山が楽しめる。

2<カーレス渓谷>

ポンセボとカインの間にいくつかのトレッキングコースがあり山の中の散策又は本格的な山登りも出来ます。その中の代表的なコースを3つ紹介します。

<①ポンセボからブルネス>

ポンセボからブルネスに向かう登り1時間30分くらいでかわいい街ブルネスまで。登山電車フニクラで登ることも可能。ブルネスに着けばバルやルーラルハウスなど宿泊施設もある。

ポンセボからブルネスへの道

ブルネス

ポンセボからブルネス間は川沿いに登り道結構激しい部分もあるけど山の中景色がいいので初心者でも子供連れでも大丈夫。

ブルネスの村

ブルネス村

<②ルタ・デ・カーレス>カーレスルート

プエンテ・デ・ポンセボからポサダ・デ・バルデオンまでの片道12キロのルート。コースは平らで難しくはないが谷底が見える険しい景色を見ながらのドキドキするルート。往復すると24キロ。帰り道同じ道を歩かずルートを離れても帰れるが危険なところもあるので子供連れなどは本道を行くこと。

カーレスのルート

カーレスの谷

 

<③パンデバノからブルネスの山小屋迄2時間45分>

最初は山が見えないが途中からこの変わった形のウリエジュ(Urriellu)山を目指して登る景色のいいコース。最後の方は急な山道が続く。ウリエジュ山はブルネス・デ・ナランホという名前も持っているがなぜかこのウリエジュと言う名前が気に入ってこちらで紹介しています。

最初はこんな感じでなだらか

ナランホデブルネス

<Pico de Urriellu が見えてくると急な山道>

ウリエジュ

肩のところに山小屋がありそこまで2時間45分。途中から急な登りになります。本格的な登山シューズや水や防寒具が必要。

3<コバドンガ>

行き方 オビエドからバスで1時間40分から2時間30分。

<サンタクエバ>

サンタクエバ

アストゥリアスはスペイン発祥の地と言われる。ビシゴート王国崩壊の時トレドから逃れたキリスト教徒たちが隠れ住みペラヨ率いるキリスト教徒軍が722年最初にイスラム教徒から勝利を得たところ。険しい山の景色が続く深い谷の中にある聖域。<サンタクエバ>聖なる洞窟は勝利に導いてくれた聖母マリアを讃えて作られた。アストゥリアスの守護聖人ラ・サンティ―ナやペラヨのお墓ペラヨの娘婿アルフォンソ1世のお墓。礼拝堂は人々がいつも祈りを捧げている。

コバドンガ

<バシリカ聖堂>

コバドンガ

 

バシリカ聖堂はネオロマネスク様式19世紀後半の建造。山の中にいこの教会からの鐘が鳴り響く。コバドンガからさらに山道を車で登って行くとエルノ湖とエルシナ湖。コバドンガからバスが出ている。

 

<カンガスデオニス>

ペラヨがコバドンガの戦いでの勝利の後宮廷を置いた町。アストゥリアス王国の首都があった街です。石のローマ橋(実際は中世の橋)と川の景観は素晴らしいが他には特に何もない。2キロくらい離れた所に元修道院だったパラドールがあります。

<カンガス・デ・オニスのローマ橋>

カンガスデオニス

カンガス・デ・オニスのローマ橋はローマ時代の物ではなく中世に作り直された。この町は他に見るべきものはない。

スペインの歴史はこの記事です <レコンキスタの始まり。トレド陥落からレコンキスタ>

コスタベルデ

アストゥリアスの大西洋海岸線を「緑の海岸」<コスタベルデ>と呼ぶ。入り江の小さな漁師町や透明な水のビーチ等まだあまり観光地化していない素朴な街が沢山。緑の牧草から突然切り立った断崖絶壁、その向こうに透明で青い大西洋の荒波がザブーンと音を立てる。

ヒホン

ヒホンはアストゥリアス随一の大きな町で人口280万人ヨットハーバーや綺麗な広場等。中心部は昔の漁村のムードも残っている。オビエドからバスで40分。頻繁に出ているのでオビエドからの日帰りでも可能。

ヒホン

 

クディジェロ

コスタベルデにはきれいな小さな町が続く。美しい入り江の漁師町がありこれぞアストゥリアス。坂に向かって町が広がりどこに登っても絵になる景色。

 

プラヤ・デ・シレンシオ

アストゥリアス・コスタベルデで一番きれいだと言われている海岸。道路は崖の上なのでかなりの坂道を下りていく。その分静かで人が少なく海が綺麗。

シレンシオ海岸

シレンシオ海岸

ルアルカ

アストゥリアスには絵になる綺麗な漁村がいくつもある。昔は大西洋はクジラが沢山いたのでクジラ漁が盛んだった。嵐の日は船主たちは多数決で漁に出るかどうかを決めたそう。

ルアルカ

ラストレ 

向こうにピコス・デ・エウロパ山脈が見える。冬は山は雪で覆われ真っ白な山脈が街の向こうに見えて綺麗。昔は敵から見つからないように入り江の山肌に人々は住んだ。

ルアルカ

ブエルナ 

コスタベルベルデの水は透明で冷たい大西洋の風が吹いて波の音がドーンと遠くから聞こえる。ブエルナは小さな綺麗な村で入り江のビーチも綺麗でした。

ブエルナ

タソーネス

皇帝カルロス5世が最初に到着した港。船で髭をそり身づくろいをし香水も振りかけて下船したがあまりにも田舎でお気に召さなかったそうです。小さな漁村でシーフードレスランが並びスペイン人の観光客でにぎわっている。

タソーネス

アストゥリアスで何を食べる

アストゥリアスの名物は色々。海のそばなので魚介類はもちろん山には放牧地があるのでお肉も美味しい。有名なのはヤギのチーズ、豆の煮込み<ファバダ>と<コシード・マラガト>。<ファバダ>は白い大きな親指位ある大きな豆の煮込み。<コシード・マラガト>はエジプト豆の煮込み。飲み物はシードラ=リンゴの発泡酒です。素材がいいので何でもおいしい。一皿が無茶苦茶大きいので注意です。

<写真はファバダとアサリの煮込み>

 

行き方

マドリッドやバルセロナから飛行機やバスでオビエドまで。又は長距離バス。村と村の間はALSA のバスが走っている。小さな村もバスが走っているので細かく調べれば移動可能。車がある方が自由に動けますね。

ALSAのアストゥリアスの時刻表のページに飛びます。出発地と目的地を入れる       < https://www.alsa.es/destinos/asturias.htm>

まとめ

スペインは意外と山岳国で国内に険しい山脈が連なっている。今のような交通機関が発達していなかったころに山の中でそれぞれの文化が熟成していったので一つの国に沢山の国が有るようだと言われる。アストゥリアスは自然の景観の綺麗な素朴な地域。ピコス・デ・エウロパやコスタベルデはスペイン人に人気のデスティネーションです。フラメンコや闘牛以外のスペインも是非とも楽しんでください。buen viaje!

 

 

トレド観光行き方と歩き方、絶対外せない世界遺産の街歩き方モデルコース付き

 

トレド観光は数々あるスペインの世界遺産で絶対に外せない街。ここではトレドの行き方と歩き方、そして歴史を説明しています。日本を訪れた外国人が京都には絶対に行くように「もしもスペインであなたに1日しかなければトレドへ」と言われる世界遺産。マドリードから南に70キロの距離でバスで1時間、新幹線で33分。

トレドの街はコンパクトですが侵入してきた敵が迷うように作られている為それも楽しむ覚悟で散策。石畳の狭い曲がりくねった通りを歩くと突然広場に古い教会の塔その先にはユダヤ教会があったり時を忘れて歩けます。

スリがマドリードから出張しているようですので貴重品の管理は注意ですが基本安全です。

トレド行き方はバスか新幹線か各社ツアー


トレドの行き方それぞれのメリットとデメリット

*バスは1時間又は1時間20分ほどでマドリードとトレドを結び早朝から深夜まで約30分ごとに出ているので行きも帰りも予約せずに駅に着いて乗ればいいので非常に楽で値段は一番安い。ただトレド行きのバルターミナルが少しマドリード中心部から離れている。

*新幹線は予約が必要で本数も少ないため予定を立てにくいが乗れば33分でトレドに到着、そして快適。マドリードのアトーチャ駅出発なのでアクセスが楽だしトレドの駅もムデハル様式で昔の面影があり鉄道好きにはたまらないムードです。

*現地のツアーだと半日で戻って来れて見どころを現地のガイドと説明を聞きながら見て回れるので失敗が無い。モニュメントの説明はもちろんバスの中で色んな現地の話も聞けるので充分価値あり。その分好きなところに行ったり自分のペースの観光はできないし、迷子になる楽しみは奪われる。

トレド観光の参考に

*6月から9月の午後は暑いので午前中のトレドをお勧めします。午後の16時から17時が一番暑く日没は22時です。涼しい朝から行動してゆっくり目のランチ、午後は美術館などで過ごすと良いですね。(日曜日は大聖堂は午前中ミサの為入れません)

*モニュメントが沢山あるが町全体が世界遺産なのでどこにも入らなくててウロウロしても楽しめる。適当に歩いて迷子になっても街は小さいので大丈夫。

 

バスでトレドへ行く方法

「バスでトレド」が私のおすすめ。地下鉄6号線プラサ・デ・エリプティカ(街の南の方)バスターミナルから。

地下鉄トレド行きバスターミナル
筆者撮影

プラサ・デ・エリプティカの地下鉄の駅。出口=salidaとバスターミナルはこっちと矢印が有る方へ。

トレド行き地下鉄駅
筆者撮影

分かれ道があるとバスターミナル=Terminal de autobusesの矢印に向かう

トレド行きバスターミナル
筆者撮影

メトロの出口を出るとこのエスカレーターの左の方から向こう側へ行く。何社かのバス会社が乗りいれているのでALSAの窓口へ。

トレド行きバス
筆者撮影

マドリードからトレドに向かうバス会社ALSAの切符売り場。

トレド行き切符売り場
筆者撮影

 

有人の切符売り場が開いていればここでトレド行きの切符を買う。休憩時間で閉まっていれば外の機械で購入する。

トレド行きバスターミナル

トレド行き切符、片道で5€47セント

トレド行き切符
筆者撮影

切符を買うと出発口へ移動する。トレド行きの出発口は通常7番。

トレド行きバスターミナル
筆者撮影

エスカレーターを登って行きTOLEDOの標識に従って移動。

トレド行きバスターミナル
筆者撮影

乗る時にトレド行きの切符をドライバーに見せるだけ。荷物があればバスのトレンくに各自のせる。

トレド行きバス
筆者撮影

バス会社の時刻表ページ出発地目的地と日付を入れて検索

https://www.alsa.es/en/bus-schedules

切符は往復も買えるが帰りの時間を気にするより帰りは帰りでトレドで買えばいいと思う。

トレドのバスターミナルのALSAの切符売り場。

トレド行きバスターミナル
筆者撮影

新幹線でトレドへ行く場合

トレド行きの新幹線が出るのはアトーチャ駅=Metro 1号線Atocha Renfe。トレド行きの新幹線の本数が少ないがアトーチャ駅は便利なので片道新幹線利用も有りだと思う。バスターミナルよりアトーチャ駅はうんと便利な場所にある。

 

*アトーチャ駅は近郊線(Cercanias)と長距離線(Ave)に分かれている。

*トレド行きはAveの方に行く地上階(日本の1階)の手荷物検査場から出発。

*当日では切符が無い可能性があるのであらかじめ購入する事をお勧めします。ネットかアトーチャ駅の切符売り場で購入。

スペイン国鉄の時刻を調べるページhttp://www.renfe.com/EN/viajeros/horarios.html

下の記事はアトーチャ駅の構造をまとめています。参考にどうぞ。

マドリード・アトーチャ駅の解説書、新幹線乗り場やメトロとの連絡口、空港行きエクスプレスバスの乗り場を図解入りで説明

トレドにバスで着いたら

トレド地図

トレド・バス・ターミナルから

トレドに着くとバスが着くのは地下なので人の流れに従い上に登って行く。

トレドのバスターミナル
筆者撮影

トレドの街にあまりトイレが無いのでバスターミナルで済ませることをお勧めします。トレド・バスターミナル出ると右側へ移動する。(反対側のトイレ近くにも出口があるのでどちらから出ても大丈夫)

トレドバスターミナル
筆者撮影

ホテルとタクシー乗り場がある。ここからタクシーで展望台経由で街に行くのもひとつの方法。タクシーに乗らない場合はこのまま真っ直ぐ歩いて行く。

トレドバスターミナル
筆者撮影

前方に城壁が見えるのでロータリーを超えて横断歩道を渡り更に5分くらい歩いていく。

トレドバスターミナルから市内
筆者撮影

先の方にトレドの街に登って行くエスカレーターの入り口が見えて来た。

トレドの街へ
筆者撮影

このエスカレーターをどんどん上に登って行く。

トレド
筆者撮影

一旦外に出ると更に登って行く。

トレド
筆者撮影

最後は徒歩で5分くらい歩いて登るとトレドの中心のソコドベール広場に到着。

 

トレド、ソコドベール広場
筆者作成

トレドの観光はここから始めましょう。ソコドベール広場はトレドの中心の広場でインフォメーションや飲食店、トレドの観光バスやソコトレンの切符売り場がある。

トレド
筆者撮影

 

 

 

 

 

 

 

ソコ・トレンはソコドベール広場の少し上のアルカサール近くから出発。全景が見える丘に登って町を一周してくれる。音声ガイドを聞きながらトレドの街の景色を楽しめる。

トレド
筆者撮影

ダブルデッカーのトレド観光バスもアルカサール近くから出発。ソコトレンか観光バスをお好みで利用するといい。どちらも展望台に行く。

トレド
筆者撮影
トレドに新幹線で着いたら

トレド鉄道駅からも歩いてアルカンタラ橋を目指して登って行くと20分くらいでトレド中心部ソコドベール広場。

又は上記のエスカレーターのほうに歩いていき街に入る。街はずっと歩いて観光になるのでトレドの駅からタクシーを使うのもいいと思う。

タクシーを使う余裕のある方はここから展望台経由ソコドベール広場又は大聖堂迄タクシーで移動すると時間の節約です。

トレド
筆者撮影

赤い2階建てバスが1時間に一本鉄道駅に止まります。

<ムデハル様式のトレドの鉄道の駅内部>

トレド駅

展望台(トレドの観光はここだけでもいいくらい絶対行こう)

展望台(パノラミカ)は是非とも行きましょう。街の全景を見ることが出来ます。大抵のガイドブックなどのトレドの紹介の写真はここからです。

タクシー、ソコトレン、2階建てバス、徒歩等の方法でアクセスできます。時々歩いているツワモノも見かけます。45分くらい歩けば着きます。

*一日中逆光になりませんのでいつ行っても大丈夫。

*きれいな写真を撮るには朝か夕方の太陽が少し斜めになった方が綺麗ですが夏は夕方になるのは21時です。

*冬の朝が時々霧が深くて見えない時があります。時間が立って気温が上がれば霧も晴れます。

<トレド展望台からの景色>

トレド展望台

では再びトレドの観光はソコドベール広場から

トレド、ソコドベール広場
筆者作成

ソコドベール広場(plaza de zocodover)はもともとトレドにイスラム教徒がいたアラブ時代に<市>マーケットが立った広場。

ここからトレド大聖堂も近いしアルカサールやサンタクルス美術館もすぐそこ。電気の観光電車<ソコトレンZocotren>乗り場はここから坂道を少し登った所からし出発する。

 

*ソコトレンは約40分で街を一周、展望台で少し止まってソコドベールに戻ります。電車の中の音声ガイドは日本語もあるのでまずこれに乗って町の概要をつかむといいですね。

*二階建てのツーリストバス(Bus Turistico)もあり1日券なら乗り放題で展望台も止まります(新幹線の駅にも止まるのですが1時間に1本)。

*ソコドベール広場にインフォメーションもあるので地図をもらって観光を始めましょう。

<ソコドベール広場>このアーチをくぐるとサンタクルス美術館

ソコドベール広場

トレドの色んなモニュモント

<トレド観光モデルコース>

全部入場しなくてもこの順で歩くと大体無駄なく街を歩けます。

トレドのモニュメントの位置

回り方はさまざまですがモデルコースとして1・サンタクルス美術館>>2・アルカサール(省いても)>>3・トレド大聖堂>>4・サントトメ教会>>5・グレコの家>6・トランシトユダヤ教会>>7・サンタマリアラブランカ教会>>そのまま大通りをっ下って行くとカンブロンの門に出るので右に歩いていくとビサグラ門。ここからトレド・バスターミナルは歩いて下り5分。

トレド、サンタクルス美術館

トレドの中心ソコドベール広場から馬蹄形アーチの城門をくぐって少し下ると16世紀初期の慈善病院が美術館になっている。トレドの大司教で枢機卿だったペドロ・ゴンザレス・メンドーサが病人と孤児の為の慈善施設を作ろうとしたが実現できずに亡くなった。イサベル女王が彼の遺志を受け継ぎ完成させた。建築はプラテレスコ様式で壁面の見事な細かい彫刻は見事。内部にはトレド近郊で発掘された考古学関連の出土品、エル・グレコの聖母被昇天リベラ、ゴヤの作品やレパントの海戦(オスマントルコとヨーロッパ連合軍の海戦)で使った旗(ここの一番の宝)が展示されている。

アルカサール

ローマ時代に裁判所があった場所にアルフォンソ6世の時代に作られた要塞。その後トレドを支配した民族が使用して来た。カルロス5世の時に増築されその後度々の改造と戦争で破壊された。スペイン内戦ではフランコ軍のモスカルド大佐が72日間籠城した。内部は軍事博物館になっている。(内部はあまり面白くないので行かなくてもいいというのは私の個人的意見です。)

 

トレド大聖堂

ソコドベール広場からマクドナルドの横の細い通りを覗くとトレド大聖堂の尖塔が見える。またはメインストリートを10分程歩くとトレド大聖堂。入口は正面向かって左側の通り沿い。切符と一緒にイヤホンガイド(日本語無)が付いてくる。

<注意>入場時男性は脱帽、2017年現在写真はフラッシュなし可能。

<トレド大聖堂外観>

トレド大聖堂

トレド大聖堂の歴史

西ゴート時代7世紀に既に教会があった。その後のイスラム教徒の時代はそこに大モスクが作られ。レコンキスタの後1227年フェルナンド3世の時代に現在のゴシック様式で着工。完成したのが1493年。(なんと270年間)その後の増改築で内部はいろんな時代の物が混在する。現スペインカトリックの総本山。

内部

中央祭壇>>> 木製の祭壇に新約聖書の場面が彫刻されている。

聖歌隊席>>>中央祭壇に向かい合ってコロという聖歌隊席。クルミの木で作られた席の背もたれはグラナダの陥落の様子。奥の中央はアラバスタ―の一枚石に彫刻されたキリストのタボル山での変容。

<聖歌隊席・グラナダの陥落の場面>

聖歌隊席

後陣(Girola) >>>ここだけがバロック時代の物で午前中の太陽の光を取り入れるために後から作られた。光が当たる方にもおびただしいバロック彫刻がある。

聖職者会議室>>重要な会議が行われる部屋でムデハル様式の天井や高聖職者たちの肖像画が楽しめる。

サクリスティア>>>天井はルーカジョルダンによる聖母マリアの奇跡。奥にエルグレコの聖衣剥奪やキリストと12弟子たち。

<サクリスティアにあるエル・グレコ聖衣剥奪>

エルグレコ聖衣剥奪

テソーロ(宝物館)>>>聖体顕示台(custodia)は一年に一度聖体祭の時に外に持ち出されて街の中を山車に乗せて練り歩く。重さ200キロの純銀製に金箔。

<聖体顕示台>

聖体顕示台

 

 

聖母降臨の礼拝堂>>7世紀トレド大司教になった聖イルデフォンソの為に聖母マリアがカズラを届けに天から舞い降りてきたところ。もともとここにあった西ゴートの大聖堂の礼拝堂でイスラム教徒の時代も壊されずに守られた。聖母が降りてきた石に触れられるようになっている。

 

トレド、サント・トメ教会

14世紀のムデハル様式の教会にエル・グレコの最高傑作「オルガス伯爵の埋葬」が展示されている。絵が有名になったのでお祈りする人の邪魔にならないように絵画を見る人の入り口が後から併設されて入場料を払って見学。一枚の絵しかない世界でも珍しい美術館。実在したオルガス伯爵が私財を寄付して教会を修復し信者たちに感謝された。1323年にオルガス伯爵が亡くなった折この教会でお葬式をしているとトレドの守護聖人でもある「二人の聖人が天から降りて来て遺体の埋葬を手伝った」という伝説を16世紀にエルグレコが作品にした。絵の中にエル・グレコと息子のホルヘ・マニュエルが登場する。それ以外のお葬式に参列している人物達も全員エルグレコの時代の実在した人々がモデル。

<サントトメ教会のオルガス伯爵の埋葬>

オルガス伯の埋葬

 

トレド、エル・グレコの家美術館

実際にエル・グレコがここに住んだわけではなくこの地区に住んでいた。ここはトレドの裕福なユダヤ人地区だった場所で当時の邸宅の様子が良くわかる。20世紀の初めにベガ・インクラン公爵が自分の屋敷のひとつをエル・グレコとその時代の美術館の為に提供した。エル・グレコのトレド全景12使徒達聖ベルナルディーノ等の作品や16世紀の家具、ムデハル様式の天井など建築も素晴らしい。

<エル・グレコのトレド全景・今と街の様子はほとんど変わっていない>

グレコ トレド全景

トランシト・ユダヤ教会

トレドのこの地区は12世紀重要なユダヤ人地区だった。フェルナンド3世聖王アルフォンソ10世賢王の時ユダヤ人学者たちが重用され集まったので13000人のユダヤ人がトレドに住んでいた。当時は10のユダヤ教会があったようだが現存するのはこことサンタ・マリア・ラ・ブラ教会のみ。ここは14世紀にペドロ1世残酷王の財務官を務めたサミュエル・レビが出資して創らせた。

<トランシトユダヤ教会内部>

トランシトユダヤ教会

サンタ・マリア・ラ・ブランカ教会

トレド最古のユダヤ教会として創られた。先のトランシトと同じで興味深いのはユダヤ人は本来寺院を持たないので当時のモスクの様式でイスラム教徒によって創られた。1405年にキリスト教の教会になるが壊さずそのまま使っていたので当時の様子をしのぶことが出来る。ムデハル様式と同じで気にしていなかったし寛容な時代だったのですね。

<サンタ・マリア・ラ・ブランカ内部>

サンタマリアラブランカ

それ以外のトレドの興味深いモニュメント


もっとディープなトレドモデルコース

エスカレーター登ったら>>8・クリストデラルス教会とプエルタデルソル>>ソコドベール広場>>3・大聖堂>>>4・サントトメ>>5・グレコの家>>6・7トランシトとサンタマリアラブランカ>>4サントトメに戻り後ろの方へ>>9・サンロマン教会>>10サント・ドミンゴ・エル・アンティグオ教会>>ここから急な坂を下るとエスカレーターで城壁の方へ降りれます。右の方へ歩くとビサグラ門。ビサグラ門を背に少し歩くとタベラ病院。バスターミナルまで歩いて10分

クリスト・デ・ラ・ルス教会とプエルタ・デル・ソル

街の城門だった太陽の門(プエルタ・デル・ソル)はムデハル様式で14世紀頃の再建。上の登ることが出来る。すぐ横にローマの石畳と下水の後がありここがローマの街だったのが良くわかる。

そのそばにクリストデラルス教会。西ゴート時代の教会の廃墟を使って1000年ころにイスラム教徒がモスクを作った。教会の入り口の足元部分はローマの遺跡が見える。その後12世紀に教会に変えられた。言い伝えによるとアルフォンソ6世がトレド入城の際王に随行していたエル・シドの馬がこの教会の前で突然ひざまづき進まなくなった。不思議に思って中を調べると壁の中から西ゴートのキリスト像がランプに照らされて発見された。「光のキリスト」が教会の名前>>「クリストデラルス」

 

西ゴート博物館(サンロマン教会)

13世紀のムデハルの教会だったものでサント・トメの塔とほぼ同じ形。ビシゴートの宝飾品や13世紀の平面のフレスコ画は見事。この辺りは車も通らない史お店も無く中世のムードが良く残っている。

サント・ドミンゴ・エル・アンティグオ教会

1579年エル・グレコはこの教会の祭壇画を完成させた。トレドに来て初期の大きな仕事でもありエル・グレコの思い入れの有った教会。そしてエル・グレコの最後の作品もこの教会の祭壇画「羊飼いたちの礼拝」現在はプラド美術館蔵。画家のお葬式はこの教会で行われここに今もエルグレコは埋葬されている。

<プラド美術館にある羊飼いたちの礼拝は元はこの教会の祭壇画>

エル・グレコ

タベーラ病院

トレド城壁の外に大きな建物があり16世紀に完成した病院。エルグレコの息子はここの礼拝堂の建設に携わっている。図書館には古文書が残されていて調度品の数々象牙のキリスト像等。絵画ではエルグレコやティントレット、リベラ、カラバッジョなどの作品が並ぶ。

トレドの歴史を少し


ローマから西ゴート

ローマ人はトレドの戦略的な地形を利用してイベリア半島の中央にあるこの町にトレトゥムという要塞都市を作った。その後のゲルマン民族の大移動で5世紀に到来した西ゴート族は早くも554年にトレドを首都に選んでいる。周りが川に囲まれている地形は自然の要塞。40西ゴートレカレード王は589年の公会議でカトリックに改宗しスペインの宗教統一を果たす。陰謀と分裂で腐敗した西ゴートは711年イスラム教徒に敗北しトレドにはイスラム教徒たちが住むがキリスト教徒やユダヤ教徒と共

トレドとユダヤ人

スペインに多くの離散ユダヤ人が住んでいたが南がイスラム化した折迫害を受けキリスト教スペイン世界に多くのユダヤ教徒は移住してくる。12世紀にはトレドのユダヤ人人口は1万2000人を超えていた。スペインにいたユダヤ人をヘブライ語でセファルディと呼び独特の世界観を作って行く。ドイツのユダヤ人をヘブライ語でアシュケナジと呼んで区別した。

フェルナンド3世(1217-1252)は特に寛容な政策を取り様々な人種の融合が促進され賢王アルフォンソ10世(1252-1284)の時好んでユダヤ人学者を集め翻訳学校を開いた。アラビア語とラテン語に精通したユダヤ人やコンベルソ(改宗ユダヤ人)等知識人が集まり<トレド翻訳集団>が活躍。古典文献やイスラム教徒のアラビア語文書から哲学、神学、自然科学等が訳された。

アルフォンソ10世は特に自然科学に興味を持ち天文学に重心が置かれる。トレドで天体観測機器を使った観測を行わせ「アルフォンソ天文表」が作成されこれは1627年までヨーロッパの天文学の基本文献だった。フェルナンド3世とアルフォンソ10世はセビージャで亡くなりセビージャの王室礼拝堂に埋葬されている。

次第に反ユダヤ感情が高まりカトリック両王による1492年ユダヤ人国外追放で文化的経済的に大きな痛手を受ける。(特にフェルナンド王はユダヤ人からの借金取り消しと彼らの財産狙いだった)

トレドはムデハル様式の街

様々な人種と宗教が共存していたトレドにはキリスト教徒支配下のイスラム様式を開花する。この様式をムデハル様式と呼ぶ。当時のユダヤ教会(トランシト、サンタ・マリア・ラ・ブランカ)やキリスト教教会(サントトメ教会、サンロマン教会等)等トレドにはたくさんのムデハル様式を見ることが出来る。今ではほとんど考えられないことでカトリックの教会がアラビア様式。ほかの国では見ることのできない非常に珍しいものです。

大帝国スペインの首都に

グラナダ陥落のあと統一スペインの首都は移動宮廷と言って国王達が特に首都を定めなかったがカルロス5世とフェリペ2世の時にトレドは大帝国の首都になる。この時代が日の沈む事無き大帝国。

フェリペ2世が首都をマドリードに移動させることによってトレドは時間を止めた。エル・グレコはこの頃にトレドにやって来て生涯トレドで過ごした。またこの頃日本からの天正遣欧使節団がトレドで滞在していることがわかっている。日本からの少年使節達がトレドでエル・グレコの絵を見たかも、すれ違ったかもしれないのです。

トレド観光まとめ

スペインに沢山ある世界遺産の中でも重要なトレドがマドリードから簡単にアプローチできるのは観光客としては有り難い。持ち時間と興味によって半日でも一日でも又は一泊しても充分楽しめる街です。旧市街の中に小さなホテルがいくつかあって夕暮れ時の静かになった観光客が歩いていないトレドは本当に素敵です。

モデルコースを用意しましたが迷子になるのも旅行の楽しみのひとつ。発見や出会いがそういうところに隠れているに違いない。行ってらっしゃーい。

スペインの歴史ダイジェスト版

マドリードで是非行きたい所<美術館・博物館・教会編>

マドリードで見逃せないポイントをご紹介します。市内の見どころはギュッと集まっているので地下鉄や路線バス、タクシーを使って効率よく回ることが出来ます。町がとっても綺麗で散策しながら建築を見たりバルに入ったりしながら楽しめます。まず今日は美術館・博物館・教会編です。

1・プラド美術館

エル・グレコ

ぜった外せないプラド美術館は王家のコレクションが納められた世界有数の絵画館です。建物は元自然科学博物館。殆どの絵画がガラスのケースに入っていなくてゆったり絵を鑑賞できます。エルグレコの受胎告知、ベラスケスのラスメニーナスゴヤの裸のマハヒエロニムスボスの快楽の園フラ・アンジェリコの受胎告知等美術史の本に出てくる作品がゆっくり堪能できる美術館です。サンヘロニモス教会横のヘロニモスの入り口のあたりはスペイン人建築家ラファエル・モネオによる改造部分。建築好きな方は必見です。

時間

毎日10:00-20:00(日曜10:00-19:00)閉館2時間前から無料

行き方

メトロ 地下鉄2号線バンコデエスパーニャ、セビージャ、1号線アトーチャから徒歩10分。

プラド美術館の回り方をまとめた記事です<プラド美術館・無駄なく回る1時間コース>

 

2・ソフィア王妃芸術センター

 

1992年開館の近代美術館です。ピカソのゲルニカが有名ですがダリの若いころの作品ミロの初期、ピカソやグリスのキュビズムダリやミロのシュルレアリズム等4階に行くとタピアスやチジーダ等近代の作品などたっぷり楽しめます。さっくり見ればそれほど時間がとられないので是非ともおすすめです。建築好きな方は後ろ側の増築部分がフランス人のジャンヌーベル(ヌーベルの入り口エントラーダ・ヌーベル)正面のガラスのエレベータ―(サバティーニの入り口エントラーダ・サバティーニ)はイギリス人のイアン/リッチー作です。

ゲルニカについて書いた記事です <ピカソのゲルニカ(ソフィア王妃芸術センター)>

時間

10:00-21:00 (日曜10:00-19:00)閉館2時間前から無料。              日曜日は14:30から無料。定休日火曜日

行き方

地下鉄1号線アトーチャ下車すぐ。プラド美術館から徒歩10分。

3・ティッセン・ボルネミサ美術館

ティッセン男爵2代にわたるコレクションをスペイン文科省が買い取り展示している美術館。個人の持ち物だったとは思えない素晴らしい幅のあるコレクションで13世紀から20世紀末までの多岐にわたる作品群。カラバッジョ、ファンアイク、ラファエル、ドガ、ロートレック、ピカソ、ブラック、ダリ、ミロ、アンディーウォーホール等何でもあるヨーロッパ屈指の美術館。隣に男爵の妻カルメンのコレクションが展示されている新館も併設。

時間

毎日10:00-19:00 月曜12:00-16:00(月曜無料)

行き方

地下鉄2号線バンコ・デ・エスパーニャ又はセビージャ徒歩10分 プラド美術館から5分

4・国立考古学博物館

有史以前の物から古代の遺跡、ローマギリシャビシゴートの芸術イスラムロマネスクゴシックの作品等スペインに来た諸々の民族が残していったものが楽しめます。マンモス象の牙バレアレス諸島の巨石文化、有名なエルチェの婦人像ローマ時代のモザイク中世キリスト教彫刻、等本当に楽しめて私のたまらなく大好きな博物館です。いつも空いていて見どころ満載。お買い物ゾーンのセラーノ通りにあるので是非寄ってみて下さい。博物館入り口手前にはアルタミラ洞窟の復元模型。洞窟の天井に野牛の壁画が描かれている。

時間

毎日9:30-20:00日曜祝日9:30-15:00 月曜休館

行き方

地下鉄4号線 セラーノ徒歩3分

5・マドリード王宮

マドリード王宮

1931年まで王室の住居として使われていた。今は国有財産となり公式謁見国際会議などに使われている。公式行事が無いときは見学することが出来、順路になっているので1時間から1時間30分くらいで見学することが来ます。パリのベルサイユ宮殿はフランス革命でかなり壊され家具なども殆どないですがマドリードの王宮はつい最近まで使われていたまま残されています。調度品、家具、絵画、天井画等言葉に尽くせません。中庭の端の方には武器博物館があり甲冑や武器等が置かれた部分があってそこに日本の鎧やカルロス5世の使っていた本物の甲冑が展示されています。

 

時間

4月―9月 毎日9:00-20:00(日曜祝日ー15:00)                       10月ー3月毎日9:30-18:00(日曜祝日ー14:00)

<注意>公式行事・謁見や特別行事で度々閉まります。

行き方

地下鉄2号線5号線R線オペラ下車5分、スペイン広場から徒歩10分

 

6・デスカルサス・レアレス修道院

カルロス5世の娘ファナ・デ・アウストリアが16世紀に設立したサンタ・クララ修道会。以後2世紀にわたって俗世を離れて生きる名門の貴族の僧院となる。中に入ると突然中世の壁画の中に、マドリードの繁華街にあるのを忘れてしまう16世紀の世界。ルーベンスの下絵によるタペストリーやブリューゲル、リベラ、スルバラン、ティチアーノなどの数々の作品を所蔵する。

時間

毎日 10:00-14:00 16:00-18:30(日曜祝日10:00-15:00)月曜閉館

行き方

地下鉄3号線ソル、カジャオから徒歩5分。2号線R線オペラから徒歩5分

7・サンフェルナンド美術アカデミー

ゴヤ・イワシの埋葬

18世紀以降のスペイン美術の中心である学院=アカデミーの中にある美術館。絵画や彫刻など16世紀から20世紀の作品約1400点の絵画1300点の彫刻15000点のデッサンを所蔵。ルバラン、ベラスケス、ムリーリョ、ゴヤ等。ゴヤはこのアカデミーの会員で有名なイワシの埋葬自画像がある。

時間

毎日10:00-15:00 月曜休館

行き方

地下鉄1号線2号線3号線ソルから徒歩5分

 

8・ラザロ・ガルディアーノ美術館

ホセ・ラサロ・ガルディアーノの個人的な美術のコレクションを後にスペイン国家へ寄贈したもの。象牙や七宝フランスのリモージュ中世の金銀細工、宝飾品、家具。絵画はエルグレコ、スルバラン、ムリーリョ、ゴヤ、ヒエロニムス・ボス等豊富な作品を楽しめる。これも個人のコレクションとは驚くばかり静かな邸宅で美しい芸術品や工芸品が楽しめるヨーロッパならではの美術館。

時間

毎日10:00-16:30(日曜ー15:00)月曜・祝日休館

行き方

地下鉄5号線ニューネス・デ・バルボア駅徒歩5分

8・ソローヤ美術館

光の画家と呼ばれたホアキン・ソローヤのマドリードの自宅兼アトリエが美術館になっている。入口にあるお庭や邸宅も必見。画家の道具なども展示されていてこじんまりしているが見ごたえのある美術館。画家の家族の海辺での作品など愛着を持って描かれたものが沢山展示されている。いつも空いているのでのんびりと鑑賞でき優雅な気分になる美術館です。

ソローヤ 海辺の散歩
De Joaquín Sorolla y Bastida – http://museosorolla.mcu.es, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=22735943
時間

毎日9:30-20:00日祝10:00-15:00月曜休館

土曜15:00からと日曜は無料

行き方

地下鉄5号線ルーベンダリオから徒歩5分

地下鉄10号線グレゴリオマラニョンから徒歩10分

 

 

9・ゴヤのパンテオン

ゴヤのパンテオン

 

正式にはサン・アントニオ・デ・ラフロリダ教会。サン・アントニオ(聖アントニオ)という聖人はお参りすると恋人ができるというご利益で若い女性に人気の教会。ゴヤが描いた天井画はサン・アントニオの奇跡を描いた見事な作品。ゴヤの天井画がお参りの人のろうそくで汚れるので同じ形の教会を隣に作りゴヤのパンテオンの方は無料で公開している。教会内部の祭壇の横にゴヤが埋葬されている。(すぐ隣にあるシードラ屋は地元の人に人気。ローストチキンとシードラを安価で楽しめます)

時間

毎日9:30-20:00 月曜・祝日休

まとめ

美術館や教会等まだまだあるのですが今回は以上です。入場時間や休館日はなるべく更新していますが変更もあるので公式サイトなどでもう一度ご確認ください。

 

 

スペイン旅行、マドリードから日帰りで行けるおすすめ世界遺産の街

 

スペイン旅行するなら絶対外せない数々の世界遺産。マドリードから日帰りで行ける世界遺産をご紹介。マドリードはスペインのほぼ中央に位置していて周りに沢山の世界遺産や綺麗な街があります。東京のような街で首都になったのが1541年。比較的新しい街なのでマドリードはお買い物や美術館を楽しんで観光は郊外の街へ出かけることになります。ここではマドリードから日帰りで行ける世界遺産と綺麗な街をご紹介します。もちろんそれぞれの街に宿泊すると更に素敵な時間を過ごせます。

1・トレド(世界遺産)

トレド全景

「もしもあなたに1日しかスペインで時間が無いのならばトレドを見てください。」と言われる。トレドを見るだけでスペインの歴史を見ることができます。

ローマ時代にすでにトレトゥムという要塞都市があり西ゴート王国首都イスラム教徒の時代は回教寺院が多く作られレコンキスタの後ムデハル様式(キリスト教徒時代のアラビア様式)からゴシックの大聖堂はスペインカトリックの総本山。キリスト教徒の時代にもアラビア人やユダヤ人の学者たちが重宝されアルフォンソ10世王の時は天文台が作られ天文学の研究がされていた。

トレドの街は16世紀エル・グレコの時代そのまま。そのころ九州のキリシタン大名の遠縁の子供達がイエズス会によりスペインにやって来てトレドに滞在。天正遣欧使節団は日本からの最初の公式の使節団で日本を出るころ12歳から14歳の4人の少年達。彼らが見た街がそのまま今も残ります。大聖堂や教会、イスラム建築やユダヤ教会等見どころ満載の街です。エル・グレコのオルガス伯爵の埋葬という有名な絵はサント・トメ教会にあります。

行き方

マドリード・アトーチャ駅からスペイン新幹線で33分又はバスターミナル(メトロPlaza de Eliptica)から約1時間。新幹線は早いですが本数が少ないです。バスは1時間又は1時間半ですが頻繁に出ていて便利です。行きは新幹線帰りはバスでもいいかもですね。どちらの駅もトレド中心部から登り徒歩20分くらいです。バスターミナルの近くに新しくエスカレーターが出来ていてソコドベール広場近くまで登れるようになりました。

とにかくスペイン旅行で間違いなく行かなくてはならない街がトレドです。

*トレドの行き方や現地の観光の仕方等。歴史やモニュメントについてまとめてあります。

 <要塞都市トレド。スペインで絶対外せない世界遺産モデルコース付き>

2・セゴビア(世界遺産)

 

水道橋

スペインを含むイベリア半島は2000年前にローマの植民地になり多くのローマの街ができる。セゴビアには当時水を街に運ぶための2000年前の水道橋が綺麗に残る。地中海沿岸に今も多くのローマの水道橋が残るがセゴビアはその形の美しさでは秀でている。

綺麗な旧市街も世界遺産で中世の街が残り街の規模が散策するのにちょうどいい。予定も決めずに歩いて廻って疲れたら立ち止まって中世の街を楽しめる。

セゴビア城はウォールトディズニーの白雪姫のアニメのモデルになった。13世紀頃にあった要塞を各時代の王達が改築して今の形になったのは16世紀頃。イサベル女王も生活していた事があるお城です。水道橋からお城まで2キロ位を旧市街を散策しながら歩いて楽しめます。途中沢山のレストランや商店、中世のロマネスク教会等があるのでのんびり散策やお食事を楽しめます。

名物料理は生後3週間以内の子豚をさっくりと焼き上げ肉は柔らかくジューシーで皮はパリッとしている子豚の丸焼き。街中のレストランで提供しています。

行き方

マドリード・チャマルティン駅からスペイン新幹線で約30分又はモンクロア・バスターミナルからバスで⒈時間15分。新幹線の駅は町から離れているので到着したらタクシー又は路線バスで水道橋迄。バスで行った場合はセゴビアのバスターミナルは水道橋から歩いて5分。本数が多いので便利です。セゴビア記事別途準備中です。

 

*セゴビアの行き方と歩き方をまとめた記事です

<ローマの水道橋がある街セゴビア>

3・アビラ(世界遺産)

アビラ城壁

中世の城壁で完璧に今も囲まれている町。大聖堂はスペインで一番最初に作られたゴシック様式もので後陣部分はロマネスク部分が残り建築の移り変わりが見れ興味深い。16世紀の聖女テレサの生誕の地でもあり生家や修道院が現存。城壁に上ることも出来て沢山の教会も楽しい。町は大変小さいのですべて徒歩で大丈夫。パラドールや昔の貴族のお屋敷を改装したホテルなど宿泊しても楽しめる。クアトロ・ポステスまで行くと綺麗に町の全景が見れる。

 

行き方

マドリードチャマルティン駅から列車で1時間30分から2時間。駅からアルカサール門までは徒歩20分。

各現地エージェントがアビラとセゴビアセットのツアーを販売しています。

 

4・アランフェス(世界遺産)

アランフェス王宮

タホ川の恵みで土地が豊かなアランフェスは作物が豊かで動物がいるので古くから狩りの館や春の別荘としての王宮があり代々の国王達に愛されてきた小さな町。カトリック両王の時代にすでにあったものをフェリペ2世が改装を行った。王宮だけでなく広大な庭園に農夫の家と言う名の別邸や船の博物館(王家の舟遊びに使った豪華な船が数々展示されています)。季節によってはチキトレンという電気で走るちんちん電車で街を回れる。

行き方

アトーチャ駅から近郊線セルカニアスで30分。駅から徒歩15分くらいで王宮。

夏限定でスペイン国鉄が蒸気機関車でマドリード・アランフェスを結んでいます。人気があるので早めに予約が必要。

5・エル・エスコリアル修道院(世界遺産)

エル・エスコリアル

フェリペ2世がフランスとの戦い(1557年サンキンティンの戦い)の勝利を記念して作らせた修道院兼王宮兼王家の霊廟。質素で堅実なフェリペ2世は修道士の様な姿で晩年ここで暮らした。一切の華美を排除しフェリペ2世が理想とした単純な形式にして気品と威厳に満ちた建築となる。中は国王が暮らした部屋、美術館、図書館等。エル・グレコが描いた「聖マウリシオの殉教」もここの美術館にある。この絵がフェリペ2世に気に入られずエル・グレコはトレドに仕事を求めて移住する。パンテオンはスペイン国王カルロス5世からの代々の国王達が眠る霊廟になっている。丁度完成したころ日本からやって来た天正遣欧少年使節団が宿泊している。

巨大な修道院兼王宮は多くの美術作品を公開しています。絵が好きな方は必見です。また図書館がありフェリペ2世のコレクションが納められています。

行き方

モンクロア・バスターミナルからバスで約1時間。エル・エスコリアルのバスターミナルから修道院は徒歩10分。

6・コルドバ

コルドバには2000年前に既にローマの街があった。今も町の中にローマ神殿が残る。756年から1031年の後期ウマイヤ朝の首都として栄華を極める。その時の回教寺院<メスキータ>が現在大聖堂になっている。メスキータの周りは白い村で散策も楽しい。新幹線を使えばマドリードから日帰りで充分行って戻れます。メスキータと白い街旧市街が世界遺産。

私個人的にはせっかくスペインまで来たらコルドバは是非見ていただきたい街です。スペイン史の重要な後期ウマイヤ朝の首都で1000年前には大学や図書館があり当時のヨーロッパの最高の文化が栄えた街です。

*コルドバの歴史の記事はこちら

 <スペインの歴史・後期ウマイヤ朝・コルドバカリフ王国>

行き方

マドリード・アトーチャ駅からスペイン新幹線で1時間40分。コルドバ駅からメスキータは約2キロ。路線バスかタクシーでメスキータ迄。

 

 

まとめ

旅行の形態として<移動と滞在>と分ける場合マドリードを起点に<滞在>して周りに沢山の世界遺産を見ながら毎日マドリードに戻って来るのも良いと思う。他にもクエンカやチンチョンやペドラサ等の日帰りで行けるかわいい街が沢山あります。マドリードで何日かの滞在型旅行だと荷物を持って毎日移動しなくて良く同じホテルに毎日帰って来るのはとっても楽です。バルセロナまでも新幹線で2時間半なのでホテルが高くて取りにくいバルセロナ、日帰りもチョイスのひとつに。では良い旅を~。

トレド観光行き方と歩き方、絶対外せない世界遺産の街歩き方モデルコース付き

スペイン人のとっても素敵なところ

ヨーロッパや世界のいろんな国を回ってきて私には一番居心地がいい国がスペインでした。これは個人的な経験とその人の性格や好みがかなり左右されるので「私にとっては」という話なので色んなご意見もあると思いますが今日はそのスペイン人のとっても素敵なところをご紹介します。

 

 

めちゃくちゃ他人に親切

他人というのは全くの赤の他人です。困っている人にとにかく親切で私は何度助けられてたか数えられません。地下鉄の駅の階段で転んだらすぐに沢山の人が走って助けに来てくれて抱きかかえられます。大きな荷物を持っていたら知らない男性が一緒に持ってくれたり(そこに下心は無く)、ベビーカーの人が階段で困っていたらいろんな人が一緒に持って上がります。以前年配の日本の方と一緒に夜歩いていてその方が少しヨロッとしたら5メートル向こうにいたスペイン人が走って来てコートを脱いで丸めてその人をベンチで横になりなさいと言って立ち去ろうとしてびっくりしました。いえいえコートお返ししますのでと断るのが大変でした。今もギリシャ沖でボートで来る難民を助けるためにスペイン人の消防士さん達が活躍していますし昔中国の「農村の貧しい家の2人めの子供」を救うために養子縁組キャンペーンで沢山の子供たちが救われました。スペインに住む許可証の無い外国人(つまり税金を払っていない居住者)に「医療と教育は無料で」というのがすべての政党のマニフィエストに入っていて実際そうなっています。この心の広さはどうやっても適いません。議論の順序が日本とは違って「まずは助けることが先にあり」その後のことは後でやって行く。後で混乱もあって大変なんですけれど。

人と人の距離感が近い

初めてあった人でもすぐに打ち解けていろんな話が出来る。エレベーターに乗り合わせたり地下鉄で隣に座ったり別に何でもないけど会話をしてすぐ別れる、この微妙な距離感がとっても居心地がいい。遠慮が無い分直球でわかりやすくてめんどくさくないのが好きです。そして都会でもどこでもみんなが知り合いみたいで安心感がある。

仲間意識が強い

いったん仲間と認識されたら全力で助けてくれます。友達とか仲間が大好きで「個人主義」と言われる中サッカーやバスケット、シンクロスイミング等が強いのはこれなんではないかと思っています。仲間で何かを成し遂げるときに援助を惜しまず馬力を出し切ってくれるので一緒に仕事をしても信頼できる。縁故主義や癒着にこれが繋がるんですが・・・・。

流されない

長いものに巻かれない。簡単にマスコミに誘導されないし反骨精神旺盛で流行とかにも簡単に乗らない。自分の意見をしっかり持っているので何がしたいかを知っている。中々同調してくれないので説得に困ることも多いですがいったん理解すると動きは速い。社会全体がそうなので政治家の演説も用意された紙を読んでいる人はいなくて自分の言葉で自分の信じている信条を語る。日本の政治家に足りないのはこれだと思います。

若い女も媚びない

社会が求めるスタイルに人間はなろうとする。これはいつの時代もそうだった。日本の女子高生(あるいはもっと低学年から)がお化粧したりアイドルに憧れたりするのは社会全体が「若い事」に価値を置いているから。こちらから見るとあれは異常で食い物にされていて消費されているのに社会全体で持ち上げている独特の現象。スペインのオンナの子はもっと自然体で野性的な感じで流行に媚びていない気がする。あ、もちろん全体的な印象で日本にも沢山そうじゃない人達もいるしスペインにもなんだかなあな子たちもいますが。これはマスメディア全体で経済や社会を動かそうとしている日本の問題で流行や美術館や音楽や何でも嗜好をコントロールしようとしていると感じます。それにの踊らされない強さがある。

偉い人もふんぞり返っていない

社会的に偉いと言われる人と何度か会ったり話す機会があったけど本当に対等。これはすべてのスペイン人が持っている神の前にはみな平等意識だと思う。威張っている人も居ると思いますが人間同士の上下関係みたいなのが少なくて楽です。お客様は神様的なのが無いので期待していないし求めていない。逆にお店のお姉さんの態度の悪さに怒りそうになる自分を制していい人ぶるのにてこずりますが・・・・。

掃除が上手

とにかく綺麗好きで小さな田舎の町でバルに入ってもお手洗いの綺麗な事には感心します。スペイン人のお掃除好きはもはや「技」のレベルです。家中隅々まで綺麗に磨き上げていて便利さより美しさを優先させるのでそこにゴミ箱あった方がいいのに無い。見えないところに格納されていて必要な時に出す。水道の蛇口やドアのノブまでいつもピカピカです。片づけと掃除はぜったいにスペイン人に適わない。自分の家はきれいにするのに公共の物はどうでもいい人が多くて困るんです…トホホ

語彙が多くて話が面白い

スペイン語の構成上もあるのですが話をしていてみんな導入部から展開部へもっていく話の仕方がうまい。そして単語量が半端なく多くて表現力が豊か。例えばですが食べ物の話だけでもこんなに展開できるのかと感心するし昨日のサッカーの試合の話を始めたら止まらない。スペイン語は沢山の語彙があって褒めたたえる言葉や綺麗な形容詞が豊かです。もちろんののしる言葉も豊
富ですのでビビります。

逆に「本当に驚くスペイン人の困ったところ」の記事もどうぞ

注意が必要なスペイン人の困ったところ>


まとめ

スペイン人と言ってもいろんな人がいて「考え方」や「良い人度」や「親切度」も違いますが何となく全体の特色をまとめてみました。すべては表裏一体なのでとっても良いこれらの個性が裏側では大変困った事にも度々遭遇しております。さらっとお読みくだされば幸いです。