スペイン建築史

 

 

スペイン程複雑に民族が入れ替わり立ち代わりやって来た国はそうはない。その過ぎ去って行った民族が色んなエッセンスをスペインに残していき生活や言葉、人々の風貌等に彩を添えている。北はピレネー山脈でヨーロッパと接し南はジブラルタル海峡からアフリカと、東は地中海が広がる。地理的にはまさに十字路として様々な民族が通り過ぎていった。今日はその中で形として一番残る建築について。スペインの建築史をまとめてみました。

未知の時代の不明な巨大な構造物

スペイン南部マラガ近郊のアンテケーラにドルメンという巨大な建造物が残る。紀元前3000年から2500年頃の物で31個の巨大な石で構成されたドルメンは無料で入ることが出来る。総重量1600トンというとんでもない大きな物で一番重いものは320トン。これを運んでくるだけでも私たちの想像を超えた人数やテクノロジーがあったに違いない。おそらく死者を埋葬するための物で家よりお墓に時間を労力を注いだのは死への恐怖や畏敬や不安が人類にとっての最も大きな関心事だった時代だったから。今も変わらないかもしれませんが。

<アンテケーラ・ドルメン内部>

アンテケーラのドルメン

バレアレス諸島のマジョルカ島、メノルカ島では紀元前1500年頃の巨石文化の遺跡が現存します。新石器時代の物で住居や神殿等。マルタ島にある巨石文明やイギリスのストーンヘンジとの関連は不明です。

フェニキア人

紀元前8世紀頃ガレー船に乗ってやってきた商業民族フェニキア人。南スペイン・アンダルシアの西端カディスにやって来て植民地化し寺院や巨大な建造物を建てたと言われるが残念ながら失われてしまい今残るのはお墓のみ。

<カディス フェニキア人墓地>

カディス フェニキア

このフェニキア人が使っていたのが表音文字でフェニキアン・アルファベット。今のABCアルファベットの元になります。建築は残りませんでしたがアルファベットは世界で今も使われているのが素晴らしい。どんな建築を作っていたのか知りたいなあ。

ギリシャ人

現在のスペイン東部カタルーニャにあるアンプリアス(エンポリオン)。紀元前6世紀頃今のフランスのマルセイユにいたギリシャ人がイベリア半島にパライアポリスという商港を開いた。ここが数年後に発展していく。現在の遺跡は1000年間にわたる色々なものが積み重なって解読は困難な遺跡が残っています。スペインに残る数少ないギリシャ建築。

<エンポリオン遺跡>

エンポリオン遺跡

イベロ族とケルト族

一応イベリア半島先住民族と言われるイベロ族ですが正確には族と言われるほどの整った文化形体は示しておらずもともといた原住民が後からやって来たカルタゴ人ギリシャ人ローマ人との接触のうち独特のイベロ族という文化を作って行ったのではと考えられています。建築らしいものは残っていないが塁壁に囲まれ堀をめぐらして中央に大通りを作り道路は舗装されていた。家の間口は狭く重層だったと考えられている。必ず寺院と墓地を持ち墓地は大きく巨石文化の影響がみられる。

又別系統でやって来たケルト人はピレネーを越えて紀元前8世紀頃にイベリア半島に入って来る。イベロ族と混血していきケルトイベロ文化を形成。「ヌマンシアの戦い」で有名なローマに対して籠城戦で抵抗したヌマンシアはケルトイベロの街。ただその遺跡は後のローマによってほとんど原形をとどめない(大抵の他の遺跡もローマ人の入植の後はローマ風に変えられている、ローマの罪なところ・・・)

ケルトの遺跡

スペインガリシアサンタ・テクラ、ポルトガル北部のブリテイロスサブローソイベロ、ケルト・イベロよりは建築や都市計画的には劣っていて初歩的。防御に都合が良い地形と水源を求めて集落を作った。家屋は平面で回るく石を積み上げて屋根は藁や枝。墓地としてのネクロポリスは持たなかった。2500年経ったいまもガリシア地方にパジャサと呼ばれる民家として受け継がれている。

<ガリシアのサンタテクラ遺跡>

サンタテクラの遺跡

ローマ

半島のローマ化は紀元前218年第2次ポエニ戦争から409年のゲルマンの侵入まで。精力的に道路を作りシーザー、アウグストゥスの時代に銀の道等1000キロ以上の道路の建設、橋や寺院そして円形劇場や浴場が作られた。驚くのが19世紀に使われていた橋のすべてがローマ時代の建設。今も使われているアルカンタラ橋は紀元後105年ころ完成の深い谷にかかる橋で今も大きなトラックが行きかう。メリダの街やセゴビアの水道橋、タラゴナの水道橋等。コンクリートやスクリューなど目を見張る技術が駆使された。ローマ人の土木に対する情熱には本当に驚かされる。この数行ではとても無理なので又の機会に詳しく書きたいテーマです。

<エストレマドゥーラ州カセレスのアルカンタラ橋>

アルカンタラ橋

 

ゲルマン民族の建築

ローマ帝国の崩壊後 ゲルマン民族はイベリア半島を支配するが文化的には支配したローマの模倣で終わる。あまり特徴のある建築は残っていないが金銀細工と独特の素朴な模様、イスラム以前の馬蹄形アーチは興味深い。現存するのは小規模な教会建築で幾何学模様と東方的な装飾や模様などが独特。

550年ころの建築と考えられるカベサ・デ・グリエゴ教会(ほとんど原形をとどめていない)661年サン・ホアン・デ・ロス・バニョスなどイスラム以前にすでに馬蹄形アーチは使われていておそらくシリアからの影響。(どういう経路でシリアの影響がイベリア半島までやって来たかの説明はついていないが昔の建築家や学者は長い旅をしていたようです。)

<カスティーリアレオン州パレンシアのサン・ホアン・デ・ロス・バニョス内部>

ゲルマン建築

アストゥリアス建築(プレロマネスク)

アストゥリアス建築というのは西ゴートの最後の王ロドリーゴが殺されて半島はイスラム教徒の手に落ちた頃わずかに残っていたキリスト教勢力によって作られた建築。アストゥリアス地方にのみ見られる建築で8世紀後半から10世紀にかけての物。まだ謎多き建築で後のロマネスク時代に使われる石造りの架構をすでに使っている

オビエド近郊のナランコの丘に848年に離宮として建てられたサンタ・マリア・デ・ナランコ。建物は2層で石造りのトンネルボールトの天井や柱の彫刻、控え柱も西欧でほとんど最初の登用。ロンバルディア様式が生まれるより以前に使われている。シリアからの影響と言われているがいまだに経路も明確にされていない。すぐ近くのサンミゲール・デ・リージョ教会等アストゥリアスに多数現存している。

<オビエド郊外のサンタ・マリア・ナランコ>

プレロマネスク建築

モサラベ

半島の回教徒は寛大な政策をとり住民には宗教の自由もあった。そしてイベリア半島のローマの道路や館、橋を見て感嘆しギリシャ思想に惹かれた。キリスト教徒たちは安全や経済的な理由からアラビア語を話し娘をイスラム教徒に嫁がせ息子をコルドバに留学させただろう、と思う。この時代のキリスト教徒をモサラベと呼ぶ。そしてイスラム教徒支配下のキリスト教美術もモサラベと呼ぶ。

<レオンのサンミゲールデエスカラーダ修道院>

モサラベ サンミゲールデエスカラーダ

レオンのサンミゲール・デ・エスカラーダ913年はコルドバ出身のキリスト教徒の建築家によるモサラベ建築。他にバジャドリッドマソーテにあるサン・セブリアン教会などが現存する。

イスラム建築

後期ウマイヤ朝コルドバのメスキータ

ダマスカスでの革命から逃れたウマイヤ家の王子は785年もともとそこにあったサン・ビセンテ教会を買い取って(略奪ではなく)回教寺院を作らせた。当時まだ回教寺院の様式が確立していなかったのもあって北アフリカにあったモスクをモデルにしたであろう。(現在の回教5様式に属さないそれ以前のモスク)

ローマの遺跡から持って来た円柱をメリダのローマの遺跡にある水道橋から学んだアーチで木造の天井を支えた。

<コルドバメスキータ内部>

コルドバ、メスキータ

コルドバ郊外にはメディナ・アサーラという夏の離宮。後の火災と略奪で見る影もないが10世紀の宮殿は金銀で噴かれた屋根、中央に大きな真珠、床には水銀のため池、8本のアーチには黒檀、象牙、宝石が埋め込まれていて日差しが入るとキラキラと輝いたという。

セビージャのアルモラビッドとアルモハッド

コルドバのウマイヤ朝の没落の頃北アフリカから2族が呼ばれアルモラビッド(サハラ砂漠の遊牧民)とアルモハッド(アトラスの山岳族)がセビージャで回教文化を開花させる。

セビージャのカテドラルの鐘塔ヒラルダの塔オレンジのパティオの一部、アルカサールのパティオ・デ・ジェソ、黄金の塔、アルメリアのカテドラルの石膏装飾、サラゴサのアルハフェリア宮殿等建築物が残る。

<セビージャのヒラルダの塔>

ヒラルダ

グラナダの回教王国 アルハンブラ宮殿

グラナダはコルドバ、セビージャ陥落の後スペインの唯一残ったイスラム王国。現在のマラガ、グラナダ、アルメリア県を合わせた約3万平方キロメートルの王国。もともとはキリスト教徒から守るために作られた見張りの城塞だった。赤い丘と呼ばれたグラナダを見下ろす丘陵地に9世紀にたてられた城塞を初代グラナダ回教王国王モハメッド1世が24の塔を城壁で結びそれ以降城塞から宮殿的なものに変わって行った。スペインに残るイスラム建築の最高峰。

外観の無装飾と比べ内部の繊細な装飾、増築していくことにより内部の平面構造は複雑になる。ユスフ1世のアラヤネスの中庭やモハメッド5世のライオンの中庭等が最も重要。レコンキスタが激しくなりキリスト教国から逃れてきたコルドバの建築家や芸術家たちの手腕による。

<ライオンの中庭>

ライオンの中庭

ふんだんな水と植物や花の色と香り、光を取入れアラベスク模様によるコーランの一説等等筆舌を越えたという言葉がこれほどふさわしい建造物は見たことが無い。水と香と色と光とそこに残る儚い美しさ、ゆらゆらと揺れる陰に平家物語の様な哀しさを感じる。

ムデハール建築

キリスト教社会に存続したイスラム教徒をムデハールと呼ぶ。半島のレコンキスタが進みキリスト教社会の中で安価な労働力としてまたスペインの王の東洋趣味などもあって頻繁にイスラム様式が使われる。レンガや石膏を使い馬蹄形アーチやモザイク、アラベスク模様を使った建築が教会にも使われ興味深い。キリスト教の教会がアラビア様式で創られ今現在もミサが行われている。多く使われた理由の一つは中世のスペインの道路事情が悪く良い石材を運ぶのは大変な労働。(ローマの街道は分断されていた)そして身近にいるイスラム教徒(安く使えた)に彼らの得意なレンガの細工を任せた。かかわっていた人達は美しいものであれば良く何様式なんて気にしていなかったと思う。後世の人達が様式に名前を付けたのだから。

<サアグンのサンティルソ教会>

サグアン、サンティルソ

サン・ファン・デ・ドゥエロの回廊、サアグンのサンロレンツォやサンティルソ。トレドのサントトメ教会やサンロマン等数えきれないくらいのムデハール建築がある。現代の私たちからは不思議な感じですがきっと気にしていなかったのだと思います。「神の家を美しく作ることが出来ればアラビア様式でも問題なし。」だったと。

ロマネスク建築

ヨーロッパ中世の建築様式で1000年ころから1200年ころまで流行した構造・丸いアーチの建築。ローマ人が好んで水道橋などに使った丸いアーチ(ローマンアーチ)を使っているのでローマ風>>ロマネスク様式、またはロマネスク建築。壁がふんだんにあるので壁画がふんだんに描かれた。

カタルーニャ

早くにイスラムを追い出してフランク王国から独立していたカタルーニャには現存する最も古い957年の教会堂がある。サン・エステバン・デ・バニョーラス(ジローナ)とサンタ・セシリアデ・モンセラ。又ピレネーの山中のタウルには12世紀回教徒の手から逃れた僧たちの一団が作った教会群がありすばらし壁画が残る。(壁画はバルセロナのカタルーニャ美術館に移築)

<タウルのサンクレメント教会>

ボイタウル サンクレメンテ

サンティアゴの道

サンティアゴの巡礼が盛んだったころとロマネスク建築が重なるのは偶然ではなく道と巡礼と一緒に伝わって行った。サンティアゴデコンポステーラに現在の大聖堂が創られ始めたのは1071年。当時の建築家や画家、彫刻家はインターナショナルに移動しながら注文を受けていた。サンティアゴの大聖堂を作るのにフランス人のロベールという腕利きの建築家が弟子を50人も連れてやってきた。当時フランスですでに始まっていたロマネスク様式をスペインに伝えながら旅をした。良く写真で紹介される現在のサンティアゴの教会堂の正面はバロック期の大きな物ですが内部や後陣部分はロマネスク建築。

<サンティアゴの大聖堂・栄光の門ロマネスク彫刻>

栄光の門

 

ゴシック建築

フランスで始まった建築様式。それまでのロマネスクでは天井の高さに限界があるのでもっと高くするためにリブボールトを入れて高い天井を手に入れる。それまでの壁構造から柱構造にすることで背を高く。先のとんがったアーチや大きな窓そこにステンドグラスを入れて外からの太陽の光を取り入れた。

<ブルゴス大聖堂>

ブルゴス大聖堂

 

フランスゴシック

ブルゴスのマウリシオ大司教がフランスからドイツを旅した時にゴシック様式に魅せられブルゴスに戻った後そこにあったロマネスク様式の教会をすごい情熱でゴシックに変えていった。レオンの大聖堂もおそらく同じ建築家による。

<レオンの大聖堂のステンドグラス>

カタルーニャゴシック

カタルーニャでは別系統で13世紀後半から14世紀にカタルーニャゴシック建築が発達。フランスゴシックのフライングバットレス(壁を外から支える為の石で作った部分)を内部に収めた独特の形。内部空間が広い。

<バルセロナ・海の聖母教会内部>

海の聖母教会

ルネッサンス

スペインにルネッサンスは無いという説も強くありますが時代的な要素や特徴はあるので一応ルネッサンスにいれました。大航海時代によりアメリカ大陸を手に入れた頃のスペインでイサベル女王の新大陸への興味とフェルナンド王のイタリア地中海地域への影響力が混じった形。

プラテレスコ様式

金銀細工に施す細かい細工を建築に石で掘って行く。サラマンカ大学の正面やアルカラ・デ・エナレスの建築家ロドリーゴヒルデオンタニョンによるスペインのルネッサンス代表作。

<サラマンカ大学>

サラマンカ大学

アルハンブラ宮殿のカルロス5世宮殿

1492年のグラナダの陥落のあとカトリック両王でさえも美しさに感嘆し壊されないように勅令を出したそうだがその孫カルロス5世はアルハンブラ宮殿の中に自分用の宮殿を創ることに。建築家はペドロ・マチューカ。ミケランジェロの弟子としてローマで学んだらしいがあまりよく分かっていない建築家。円形のパティオ均衡と調和はまさにイタリアルネッサンスの特徴。

<アルハンブラ宮殿カルロス5世宮内部>

アルハンブラ宮殿カルロス5宮

エルエスコリアル修道院とエレーラ様式

カルロス5世の息子フェリペ2世の時代スペインは日の沈む事無き大帝国になる。その大帝国の国王フェリペ2世は華美を嫌う地味で真面目で慎重な国王。

当時の王室建築家コバルビアスの建築に不満なフェリペ2世はナポリからファン・バウティスタ・デ・トレドを呼び寄せる。サンピエトロ寺院の建築にミケランジェロの傍らで働いていたらしいファン・バウティスタに巨大な建築物を依頼する。これがエル・エスコリアル修道院。ところがファンバウティスタが建設開始4年後に没してしまいその弟子ファン・デ・エレーラがその後を引き継ぐ。彼は建築家ではなく哲学者(すごい抜擢)だったがフェリペ2世の希望通りの装飾性を排除し単純な形態、質素なイメージの中に統一性のある非常にエレガントな修道院が作られた。

<エルエスコリアル修道院>

エルエスコリアル

バロック建築

スペインのバロックはチュリゲラ一族によって始まるのでチュリゲラ様式ともいう。装飾過剰なバロックは大航海時代の金銀と重なり絢爛豪華な悪趣味のやりすぎ装飾になって行く。でもなぜかスペイン人の得意とする様式でもある。サラマンカの大聖堂、マヨール広場やトレド大聖堂のナルシソトメのトランスパレンテ等。

<サラマンカ・マヨール広場>

サラマンカ マヨール広場

 

ネオクラシック建築

ローマ時代のクラッシックな建築をネオ新しく作った時代で神殿調の柱等を使ったすっきりした建築。マドリードのプラド美術館や現農業省等。

<マドリード・プラド美術館>

プラド美術館」

モデルニズム建築

ヨーロッパ世紀末芸術、フランスのアールヌーボー、イギリスのモーダンスタイル、ドイツのユーゲントシュティル、オーストリアのセセッションの時代。それまでの既成の芸術から自由奔放に作品を作り始めた頃カタルーニャは産業が産業が発展し建築が創られる。当時のカタルーニャのお金持ちが自由に別荘やマンションを建築家に頼んだので主に建築が盛ん。ガウディ―が有名だが当時はドメニクムンタネールの方が評価されていた。

<カサ・バトリョ、ガウディ作>

バトリョ邸

近代建築

現在国内外の建築家により近代建築が多く作られている。スペイン人ではサンティアゴ・カラトラーバやラファエル・モネオ、カナダ人フランクオーゲイリー(グッゲンハイム美術館)、フランス人のジャンヌーベル(ソフィア王妃芸術センター増築部分)等これはこれで又一つの記事として扱いたいくらい厚い層のあるテーマです。

<ビルバオ・グッゲンハイム美術館>

ビルバオグッゲンハイム

 

*スペインの歴史を5分で読めます

 スペインの歴史ダイジェスト版

まとめ

長い歴史の中で人間が残してきた建築を見るのが好きなので移り変わりをまとめてみました。石の文化で乾燥した空気等の好条件のもと(地震や台風が無いのも)ヨーロッパには本物の古い建築が残っていて肌感覚でこれらを楽しめるのはうらやましい限りです。素敵な建築の中にいるだけでブルッと嬉しい鳥肌になります。

スペイン語がこんなに沢山日本語に!<日本語になっているスペイン語をまとめてみました>

 

 

普段何気なく使っている日本語に実は沢山のスペイン語があります。「エー―これも~?」と思うよう様な単語もあって日本とスペインのつながりの長さに「ジ~ン」と来るのは私だけでしょうか。中国にいたポルトカル商人が台風の風に流され種子島に偶然やって来て鉄砲が伝来し(1543年)その後フランシスコザビエルが鹿児島にやって来てキリスト教が伝わったのが1549年。イエズス会の宣教師たちはキリスト教が禁止された後も隠れキリシタン達にミサをあげるために命がけで五島列島に潜伏しました。1582年九州からキリシタン大名の遣いとして4人の少年たちがイエズス会の宣教師によってヨーロッパに派遣されました。これが「天正遣欧少年使節団」。その後1614年江戸時代には伊達藩の遣い「慶弔使節団」が日本からスペインにやって来ています。遠い国ですが私たちお付き合い長いんです。日本語の中のスペイン語ポルトガル語をまとめてみました。

 

 

カルタ Carta

カードの事をスペイン語でカルタ。もうあまりしないかもしれませんがカルタ遊びのカルタ

カパ Capa>>カッパ

雨合羽(アマガッパ)なんて言葉はもう死後でしょうか。マント、表面にかぶせるもの。闘牛師の肩に掛ける布もスペイン語でカパ

マール Mar>>丸

海の事をスペイン語でマール。船に「にっぽん」「カイリン」等とつけるはスペイン語の海から。

パン   pan

これは意外と思う方多いんですがスペイン語でパンパンです。パン屋さんのパン。菓子パンパン

メディアス Medias>>メリヤス

編んだもの、伸び縮みする布地。ストッキングをスペイン語でメディアス。これが日本でメリヤスという言葉になる

イニエスタ Hiniesta>>エニシダ

春に黄色い花を咲かせる植物日本でエニシダと呼んでいる物をスペン語でイニエスタ。バルサのサッカー選手の名前です。イニエスタがなまってエニシダと呼ばれる。同じ植物をレタマRetamaとも呼びこちらは連玉と言われた。

タバコ Tabaco

コロンブスが新大陸に到着した時のお土産だったのがタバコ。スペインに持ち帰ってバルセロナから上陸したのでヨーロッパで最初にタバコを吸ったのはバルセロナの人達。その後日本に伝わったのでスペイン語でもタバコ。

カスティーリア Castilla >>カステラ

カスティーリア又はカスティージャはスペインの地域の名前。当時のスペイン大航海時代のカスティーリア王国の時代に日本にキリスト教が伝わった。スペインではビスコッチョというお菓子をカスティーリアのお菓子ですと紹介したのがカステラになったと言われている。

オジャ Olla>>おじや

オジャはスペイン語で鍋の事で今でも使う言葉。日本で鍋の後にお米を入れておじやにしますね。これもスペイン語からの借用です。意外ですね。

リアス Rias>>リアス式

スペイン北西部ガリシア地方にリアス・アルタス、リアス・バイシャスという入り組んだ海岸線がある。このリアスが日本語のリアス式海岸という言葉になった。

ボトン boton >>ボタン

ボトンはスペイン語で洋服に着けるボタンや機械にあるボタン。

ビドゥリオ VIdrio>>ビードロ

江戸時代にガラスでできた小さなおもちゃをビードロと呼んだ。口で吹くと音が鳴る。ビドゥリオはスペイン語でガラスの事。ポルトガル語でVidroビドロなのでこちらが近い。

ハボン Jabon >>シャボン

ハボンはスペイン語で石鹸の事。シャボン玉のシャボンです。ポルトガル語でシャボンなのでポルトガルからですね。

カラメロ Caramelo >>カラメル(キャラメル)

キャンディーの事をスペイン語一般名詞でカラメロという。カラメルソースとかキャラメル

コンフェイトウ Confeito>>コンペイトウ

ポルトガル語です。今もある砂糖菓子の事。

コパ copa >>コップ

英語のカップより先にこちらが到着している。スペイン語でコパcopaポルトガル語でコポcopo。

オンブロ Hombro>>おんぶ

オンブロはスペイン語で肩の事。ポルトガル語もombro。おんぶに抱っこのおんぶ

オチョ Ocho>>おいちょ

オチョはスペイン語で数字の8、ポルトガル語でオイトOito 。おいちょカブというゲームの名前になる。

バテイラ /バテリアBatera /Bateroa>>バッテラ

ポルトガル語で船、船団の事をバテイラ、スペイン語でバテリア。舟形に入れて作るからバッテラ寿司になった。

ボーロ Bolo >>ボーロ

ポルトガル語で丸いもの。日本に行って~ボーロという名前のお菓子に使う。

クルス Cruz>> 久留主、来栖

クルスはスペイン語で十字架の事。ポルトガル語も同じ。九州にクルスという苗字や長崎にある黒須島(クロス島)はこの十字架というスペイン語から。

アランビーケ Alambique>>蘭引

蒸留酒を作る器具。イスラム学者が発明した蒸留器具アランビックがスペイン・ポルトガルへ入りアランビーケとなり日本では江戸時代に薬油やアルコール類の蒸留に使った。

まとめ

まだまだいっぱいあって約400語位のスペイン語からの外来語があると言われています。ピンキリはピンタとキリスト、襦袢はポルトガル語の下着、水やりに使うジョーロ天ぷらもポルトガル語からと言われるが正確には不明でいくつかの説があるようです。使ったことないですが「なに~このアマ~」のAmaもスペイン語、ポルトガル語で家にいる女性や乳母等の事。主婦をama de casaアマ・デ・カサと今でも使う。鎖国の後オランダ人がやって来るのでその後オランダ語由来の外来語が増えていきます。私たちは知らないうちに実は沢山のスペイン語を使っていました。

最近では車の名前やマンションの名前オーディオ製品などにもスペイン語が良く使われていてプラサ(広場)やカーサ(家)は良く使われます。ディーガ(言って下さい)はDVDレコーダーの名前。日本車の名前は聞きなれたものが沢山です。シーマ(頂上)ファミリア(家族)スープラ(超越した)トゥルエノ(雷鳴)セレナ(穏やかな)プリメラ(一番目の)プレミオ(優れた賞)セリカ(天空)セフィーロ(西風)等。意外と身近にたくさんスペイン語があります。

アメリカの地名になっているスペイン語の記事

https://tabispain.com/spanish-name-of-city-ameria

スペイン旅行するなら注意が必要な<スペイン人の困ったところ>

どこの国にも良い人も悪い人も好きな部分も嫌いな事もあって色々な面があるのも承知で「ったくスペイン人って」と思うことがある。仕方ないと諦めながら時々「エー違うでしょ、それ」をちょっとまとめてみました。スペイン旅行するなら注意するべきスペイン人の困ったところです。日本に住んでいる外国人の「ったく日本人って」が知りたい。

スペイン人って


人によって答えが違う

まずはスペイン旅行中一番遭遇するのが「道を聞く」ではないでしょうか?これに注意が必要。街で道に迷って人に尋ねるときは最低3人は聞いたほうが良い。知らなくても教えてくれるし、間違ってるとは思わないので自信たっぷりに行き方を教えてくれる。次の人に聞いたら全然違う方向を教えてくれたりする。なのでもう1人聞いてみるべき。3人目も違ったらもう1人聞いて多数決にするしかない。

 

 

道を尋ねる位ならいいのですが生活していると労働許可証の更新や税務署への申告など猥雑な事務処理をやらなくてはならない。それさえ人によって違うことを言われるのでせっかく作った書類の形式が違ったり並んだ列が間違ってたり本当にこれは住んでいて困る。

会話の途中で話し始める

「人の話は最後まで聞きましょう」と思っているスペイン人は1人もいないんだと思う。テレビの討論会なんて司会者も含めて何が何だかわからないくらいみんな同時に議論している。複数の相手の話を聞きながら話す力は聖徳太子なみ。

スペイン語と日本語の構造もあってスペイン語は最初に動詞や否定形が来るので初めの方を聞けば大体相手の意見が想像できる。日本語は最後まで聞かないと何が何やら全く分からない。動詞は最後だし否定形も最後なので否定文かどうかさえ最後まで聞かないとわからない。

一度スペイン人が話し始めて全員の日本人が黙って聞いていたらスペイン人が黙ったことがある。「えっ?」「なんで黙るの」「黙られると聞いてないみたいで不安になる」そうです。

街を歩いてスペイン人同士が話しているのを注意して観察してみてください。2人いたら2人とも同時に話しています。3人でもたいてい同時に話しているのに会話が成り立っているのが凄いです。

自己主張が無茶苦茶凄い

これはほかのヨーロッパ人もそうだと思いますが絶対自分が正しく自分の主張を曲げない。正当性をどこまでも追及する。折り合いをつけるとか妥協するとか適当なところでまあまあ~が無い。なるべく対立を避けてなあなあになんてしない。小さな子供でもしっかり自分の欲しい物がわかっていて親に対して主張するしテレビの街頭インタビューなんて延々と話してる。相手に合わせることが無いので日本だと「空気が読めない人」扱いされる人がどっさりなのがスペイン。注意するほどでもないですが議論は絶対勝ち目なし。

信じてはいけない

これも注意が必要。日本はいいなあと思う事はこれ。小さな商店で何か注文してもちゃんと指定した日に来ているし誰かに何かを頼んだらその通りに出来ているのが普通だから。スペインではそうはいかない。車の修理を頼んでも予定通りに終わっていないし連絡もないので出かけようと思っていた時に車が使えないとか。

以前家のペンキ塗りを頼んだ時に決めた時間に家で待っていたけど結局永遠に現れなくてまた別の業者に頼んだ事があった。私の1日どうしてくれる。

まずはできないことを想定して事を進めるべし。ちゃんとした人もいっぱいいるけど基本知らないところで何かを頼んだらまずは信じない事。

No pasa nada とValeの使い方が間違っている。

気にしなければいい。そう自分に言い聞かせて暮らしてきたけど、時々「えっ?」と思うことがある。No pasa nada は「何でもないよ」とか「大丈夫」みたいな意味。相手が遅れてきたときにこちらがNo pasa nada なら別に何も言わないんです。遅れてきた側の人がNo pasa nada というのがスペイン。以前本当にあったのが横断歩道の歩行者がいるので車をブレーキを踏んで止めたら後ろの車はアクセル踏んできて(スペインでは信号黄色は多くの場合アクセル)コツンとぶつかった。車から双方降りて私の車のあてたところを見ながら相手はNo pasa nada! 違うでしょ~。地下鉄で足を踏まれたとき「ウィッ」と言ったら踏んだ人がNo pasa nada といったこともあったなあ。

valeの方は「オッケー」とか「いいよ」みたいな意味でカジュアルな表現。これも「ちょっと待てよ」と思う場面が良くある。バス停でバスを待っていた私。後から杖をついた年配の女性が来たのでどうぞお先にと譲ったときに「vale」と言われると心の中で「valeじゃなくてgraciasでしょッ」とつぶやく。あちこちでケンカにならないのはスペイン人的に問題ないからで心が狭いのは私なんだと思いますが。


まとめ

以上スペイン旅行で注意が必要な「スペイン人の困ったところ」をまとめてみました。スペインでも地域によっても違うでしょうね。これがローカルルールなのでケンカにもならず日常生活がすごされる。良い面も沢山あってスペイン大好きで住んでいますが日本人的に違うなと何年たっても思うことをまとめてみました。基本こういう時は怒らずに諦めるか笑うことにして自分を保っています。そうNo pasa nada(何でもない)とつぶやきながら。

カトリック両王のスペイン統一、イサベルとフェルナンドの結婚

 

カトリック両王と呼ばれるイサベルとフェルナンドが結婚する事でスペインは統一される。スペインは元はいくつかの小さな国家がレコンキスタと王様達の結婚で合併していった。約500年前にイサベル女王とフェルナンド王の結婚により今の統一国家という概念が出来る。

統一前のスペインの国々


カスティーリア王国

711年にイスラム教徒がやって来てビシゴート王国が崩壊後、北部アストゥリアス地方の山岳地帯に逃げていたキリスト教徒が初めての勝利を得た。これが「722年コバドンガの戦い」という最初のキリスト教徒の勝利。フランスからも沢山の騎士がやって来て戦った。戦争をしながらキリスト教徒達が国を広げてアストゥリアス王国建国、今のスペイン君主国の始まりだ。

<アストゥリアスにあるコバドンガ>

コバドンガ

イスラム教徒と戦いながらキリスト教徒の中心は少し南に降りてレオン王国ができる。もともとはレオン王国がイスラム教徒との砦としてひとつの伯爵を置いたのがカスティーリア王国の始まり。10世紀レオン王国が弱体化したときに主従関係を断ち切って独立伯領となる。1035年キリスト教徒が沢山入植してきて勢力が拡大しカスティーリア王国になりレオン王国と婚姻関係を持ちカスティーリア・レオン王国となる。

<1210年のイベリア半島>

1210年スペインの地図
wikipedia CC
Source Own work
Author Alexandre Vigo

当時フランスとスペインの国境の両側にナバーラ王国があった。いったんカスティーリアはナバーラに併合されるがサンチョ大王の死後カスティーリア・レオンは独立しアルフォンソ6世の時にトレドを陥落させる。

<トレド>

トレド全景

この頃はまだあまり十字軍的な意味合いはなくアルフォンソ6世はイスラム教徒ユダヤ教徒キリスト教徒三つの宗教の皇帝と呼ばれていた。異教徒も積極的に活躍できる政策で人々は宗教に関係なく寛容に暮らしていた。

<アルフォンソ6世のトレド入場>

アルフォンソ6世のトレド奪回
wikipedia CC
Source Own work
Author CarlosVdeHabsburgo
カタルーニャ

フランク王国のカール大帝はイスラム教徒をバルセロナから追い出し今のカタルーニャ一帯はフランク王国の中に組み入れられる。フランク王国は南仏のナルボンヌからバルセロナに至るあたりを16の伯爵地として統治しイスパニア辺境区と呼ぶ。その一つが今のバルセロのバルセロナ伯爵。

986年この辺境区の中心バルセロナ伯が結束を呼びかけフランク王国から独立。これが今のカタルーニャの歴史的起源。地中海に向けて港があり交易が盛んだったカタラン人たちはまるで冒険者たちの様に自由に勇敢に海を渡って地中海を渡り外国へ行って商売をしていた。伯爵から自分たちの権利を取り付けその代わりに忠誠を誓う立派な独立国家だった。

<カタルーニャの議会>

カタルーニャのコルテス

アラゴン王国

ピレネー山脈ハカでイスラム教徒を退治した住民たちが結束しアラゴン伯領が誕生。その後1035年ラミロ1世がアラゴン王国を築く。さらに勢力は南へ進軍し当時のイスラム教徒の拠点の一つサラゴサを制圧した。アラゴンは後にカタルーニャと併合するが今もアラゴン人とカタラン人は仲が悪い。

アラゴン・カタルーニャ連合王国

バルセロナ伯爵ラモン・ベレンゲール隣国アラゴンの王女と婚約してアラゴン王位を継承。ちなみにこの時ラモン・ベレンゲールは23歳、王女は3歳。この2人の結婚によりアラゴン・カタルーニャ連合王国が誕生。

<ラモンゲレンゲールとペトロニーナ>

ラモンバランゲーとペトロニーナ

 

地中海への勢力拡大を積極的に進めハイメ1世の時に地中海のマヨルカ島とイビサ島さらにバレンシア王国を手に入れる。13世紀にはシチリア王国の内乱を契機にシチリア王位につきサルディーニャ島や南イタリア・ナポリ王国も征服。カタルーニャ人たちはもともと商人。この地中海征服を利用し貿易をして各地に商務官を置いて経済活動を広げながら地中海一帯を勢力範囲として活躍する。

カスティーリア王女イサベル(1451年~1504年)


「スペイン建国の母」と言われるイサベル女王は父カスティーリア王ホアン2世の2番目の妻(ポルトガル王女)の長女。父が他界すると兄(父王ホアン2世の最初の結婚の息子)が国王エンリケ4世として即位するがイサベルと弟のアルフォンソは母とともに追放され惨めな時代を生きる。

<イサベル女王>

イサベル女王

 

この兄王エンリケ4世は不能王という不名誉なあだ名があってどうやら女性と関係が持てない。特に高貴な女性と・・・。ところが王妃(ポルトガル王女)が突然ご懐妊。父親は国王エンリケ4世では無いという疑惑の中王位継承問題が生じる。

<エンリケ4世>

エンリケ4世
De Desconocido – web, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2261931

イサベル女王の弟アルフォンソに王位継承権をと担ぎ出されるがひとつの国に2人の君主がいる状態で内乱になり、戦争の途中あっけなくアルフォンソが死亡。王位継承権はイサベルにわたるがイサベルは「兄がいる間は兄が国王である。だたその娘の出生に疑問があるなら自身がその次の王位継承者」と明確に宣言。これなんとイサベル17歳の時の言葉です。

アラゴン王子フェルナンド(1452年~1516年)


アラゴンの山の中ソス・デ・レイ・カトリコという町がある。今はお城がパラドール(国営ホテル)になっているがイメージ的には片田舎。アラゴン王子フェルナンドとしてそこで誕生。母は父王の2度目の結婚の王妃でカスティーリア貴族の娘。9歳の時に異母兄が死去しフェルナンドはアラゴン王国の正当な王位継承者になる。父親からシチリア王位を継承。父王を補佐しながらフランスと対抗。マッキャベリの君主論に名前が出てくるほどの冷血で冷静な君主。

<フェルナンド2世>

フェルナンド王

イサベルとフェルナンドの結婚

1469年カスティーリア王国のイサベル王女とアラゴン王国のフェルナンド皇太子が結婚。この結婚は秘密裏に行われた。国内での反対勢力もありイサベルの兄カスティーリア王エンリケ4世にも内密にひっそりとバジャドリッドの貴族の館で執り行われた。

<イサベルとフェルナンドの婚礼>

カトリック両王の結婚

今のように写真があるわけでもなく先に密偵は送られていたようだがこの結婚式で2人は初めて出会う。イサベル18歳フェルナンド17歳。フェルナンドはなかなかのいい男でイサベルは美人だったので若い2人はひかれあった…かも。

1474年カスティーリア王エンリケ4世が亡くなるとイサベルは王位継承権を主張。兄王の娘(出生に謎の有るホアナ)の即位を画策する新ポルトガル勢力を駆使しイサベル女王戴冠(1479年)。セゴビアのマヨール広場近くにあるサンミゲール教会にて戴冠しサベルはカスティーリア王国女王となる。

<イサベルの戴冠>

イサベル女王戴冠

同じ年アラゴンではフェルナンドの父王ホアン2世が死去。これでフェルナンドはアラゴン・カタルーニャの王となる。

これでカスティーリアとアラゴン・カタルーニャの共同統治が始まりかつてない強大な勢力がイベリア半島に誕生した。

カトリック両王の政策


異教徒追放

イサベルとフェルナンドが行ったことはまず国内キリスト教勢力をまとめる為コンベルソと言われる改宗ユダヤ教徒を弾圧する異端審問所が作られた。1480年から1516年までに6000人のユダヤ人が火あぶりの刑にあったと言われる。宗教的な統一という名目のもとユダヤ人の財産狙いだったに違いない。

グラナダ陥落戦

もう一つがグラナダへの軍事攻勢。1481年イベリア半島に残るイスラム王朝グラナダ王国へ攻撃を始めた。ロンダが14885年マラガは1487年に陥落。特にマラガは重要な港だった。のど元を抑えられながらグラナダは1年半の籠城戦のあと降伏した。

<グラナダの陥落>



1492年1月2日グラナダ王国アルハンブラ宮殿にイサベル・フェルナンド両王が入場した。800年近く続いたレコンキスタの終了。

コロンブスへの援助

グラナダ陥落の同じ年コロンブスイサベル女王から援助を手に入れる。陥落したアルハンブラ宮殿で宝石箱をプレゼントされそれをお金に換えて船の準備の一部を賄い西回り航海へ出発していく。

<コロンブスの新大陸到着>

コロンブスのアメリカ到着

フェルナンド王はコロンブスの事を快く思っておらずイサベル女王亡きあとはフェルナンド王はコロンブスとの約束事を反古にし惨めな対応を受け牢獄に繋がれる。

 

スペイン人ローマ法王アレキサンドル6世

1492年法王選挙でスペイン人ローマ法王が選ばれる。有名なボルジア家出身ローマ法王アレキサンドル6世はこの2人の偉業をたたえて1496年にカトリック両王という称号を与えた。

*話はそれますが、このローマ法王の息子がチェーザレ・ボルジアというイケメンの軍人、娘がルクレチア・ボルジアという絶世の美女。(ローマ法王に愛人がいて子供がいたんです!)

ローマ法王はカトリック世界のトップ。今も法王は選挙で選ばれるがこの選挙権を持つ位を枢機卿と呼ぶ。アレキサンドル6世は枢機卿にお金をばら撒いて法王の地位を手に入れた人物。が、それも当時では珍しい事ではなく宗教の世界とはいえ権力を手に入れる為権謀術数が渦巻くドロドロの状態のカトリック世界だった。そこでトップに立つにはそれなりのカリスマ性が有ったに違いない。

<ローマ法王アレキサンダー6世>

アレキサンダー6世

トルデシージャス条約

もともと1481年ローマ法王シクストゥス4世の時にカナリアス諸島以南の新領土はポルトガルに与えると決まっていた。その後スペイン出身のローマ法王アレキサンドル6世はこれを変更させポルトガルと揉めていた。新世界における両国の紛争を解決するために1494年スペインのカスティーリアにあるトルデシージャスで会議を開き地球に線引きをした。(ほかの国に許可も無くです)

<トルデシージャス条約条文>

トルデシージャス条約
By Biblioteca Nacional de Lisboa, photos probably taken by User:Joserebelo, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=472983

西アフリカのセネガル沖に浮かぶカボ・ベルデ諸島の370リーグ(1770キロメートル)の海上に縦に線を引きそれから東側に将来発見されたらポルトガル領土西側だったらスペイン領土と決まる。1506年ローマ法王ユリウス2世によって廃止される。

次の時代へ

ルネッサンスにより技術は既に進歩していた。進んだ科学はイスラム教徒により継承され昇華されている。羅針盤、天球儀、印刷術等ヨーロッパにイスラム圏を通り伝わった。いよいよカトリック両王の婚姻政策と大航海時代でスペインは大帝国になる準備は整った。日の沈む事なき大帝国の時代がやって来た。

 

レコンキスタの開始<トレドの陥落からアルハンブラの開城>までのスペインの歴史

711年にジブラルタル海峡からイスラム教徒がスペインに入って来る。招いたのは西ゴート貴族、実は王の腹心。晩年の西ゴート王国は腐敗と混乱の中、周りの貴族たちは国王を見捨て裏切った、そして裏切った貴族たちも無事では済まなかった。ついに西ゴート王国の首都トレドは陥落し王国は崩壊した。その日の夜中、トレドから持てるだけの財宝を持って馬で逃げた集団がいた。彼らは西ゴートの王の血を引く貴族達。スペイン北部の山岳地帯まで行きイスラム教徒と戦って小さな領土を手に入れ国を建国、そこからイスラム教徒への反撃を開始した。これがレコンキスタ=国土再征服の戦争。1492年にグラナダ王国が滅びるまでのレコンキスタの歴史記事です。

 

レコンキスタの開始

トレドがイスラム教徒によって陥落したとき王族貴族達の一部は馬に乗って持てるだけの宝物や聖遺物を持って北へ北へと逃げていった。スペインの北西部のアストゥリアス地方からフランスとの国境にあるバスク地方にかけての山岳地帯は今も険しい切り立った山が続く。冬は雪に閉ざされ作物もあまり取れない地域だ。

 

 

<アストゥリアスの山岳部>

カーレスのルート

 

不毛な地帯で険しい山岳部なのでイスラム教徒たちもあまり興味もなかったに違いない。(この時トレドから持って逃げた聖遺物や宝石が今もアストゥリアス首都オビエドの大聖堂のカマラ・サンタに保存されています。)

<アストゥリアス・オビエド大聖堂の中カマラサンタ>

オビエド・カマラサンタ

コバドンガの戦い・ペラヨ

スペインの歴史上重要な戦争、722年この山の中「コバドンガ」でキリスト教徒が初めて勝利を手に入れた戦いがコバドンガの戦い。レコンキスタの始まりです。

コバドンガにあるペラヨ像

この時のリーダーがペラヨペラヨはトレド陥落の時に逃れた王族の血をひくと言われるが詳細は分かっていない。勝利したキリスト教徒たちはペラヨを王に選びアストゥリアス王国を建国。これが最初のキリスト教国家で今のスペインの基礎。今もスペインの皇太子はアストゥリアス皇太子と呼ばれる。(イギリスの皇太子をウェールズ皇太子と呼ぶように)ここからスペインの歴史で需要なレコンキスタが始まる。

<コバドンガ>

コバドンガ

 

722年のコバドンガの戦いは西ゴート王国崩壊後たったの11年後にキリスト教徒が初めてイスラム教徒に勝った戦争。コバドンガに行くと険しい山の中に洞窟<サンタクエバ>がありそこにペラヨは今も埋葬されている。

<サンタクエバ、向こうにバシリカが見える>

サンタクエバ

アストゥリアスはキリスト教君主国スペイン発祥の地

722年アストゥリアス王国が建国される。今のスペイン君主国のもとになった国が出来た。アストゥリアスの人たちは長身で金髪に碧眼が多い。ビシゴートの末裔ゲルマンの血を引くからなのです。今のスペイン王妃(超美人)レティシアさんもアストゥリアスの出身。

 

フランク王国とサンティアゴの遺体の発見

丁度このころ今のフランスではフランク王国のメロビング朝宮宰カールマルテルがツールポワチエでイスラム教徒を撃退しその名声を高めた。

 

その息子がピピン3世として即位。フランク王国の国王になれたのはローマ法王(ステファヌ3世)の協力のお蔭なので見返りにラベンナを奪いのその土地をローマ法王に献上した(ピピンの寄進)これがローマ法王領の始まり。

その息子カール大帝が800年西ローマ皇帝に戴冠。その3年後スペインの北西の端で聖ヤコブの遺体が発見される。

聖ヤコブはスペイン語でサンチアゴ

聖ヤコブはキリストの12弟子のひとり。イベリア半島に布教にやって来ていたという伝説は古くからあった。エルサレムに戻った折にヘロデオ・アグリッパ王によって首を切られて処刑された。聖ヤコブの弟子たちが遺体を石の船に乗せて行先は風の向くまま旅に出た。その船がスペインのガリシアに着いたらしい。そしてその遺体が発見されたのが813年。大切に遺体を埋葬して教会を創ったら奇跡が起こった。山の中でイスラム教徒と戦っているキリスト教徒を助けに白い馬に乗った聖ヤコブが応戦してくれたのだ。

これは偶然ではなく政治と宗教が後ろにあったに違いない。

<白い馬に乗って戦う聖ヤコブ>

聖ヤコブ

スペインの歴史上重要なレコンキスタの始まり

「コンキスタール」は征服するという意味のスペイン語。これに「レ」再びという言葉をつけて「レコンキスタ」。国土再征服運動の始まり。聖ヤコブの力を借りながら「あなたが戦争で異教徒と戦って死んでしまうかもしれません。でも魂は間違いなく天国に行けますから」と聖戦が行われた。

周りの小さなキリスト教徒勢力を少しづつ併合し首都は山の中から次第に南へ移動。カンガスデオニスに宮廷が置かれさらにオビエドへ移動。

アストゥリアス地図

 

次第にレコンキスタが進み首都はレオンに。王様の結婚などでアストゥリアス王国はレオン王国となる。さらにカスティーリア王国との結婚や遺産分割によりレオンはカスティーリアに併合されカスティーリア・レオン王国となる。

この頃南スペインはコルドバカリフ王国

シリアで革命が有りウマイヤ家の王子がはるばるスペインのコルドバまで逃げて来た。そして後期ウマイヤ朝が始まりコルドバの街にはモスクや大学、図書館が作られ人口が増え学者が集まり繁栄を極めていた。世界遺産メスキータはこの時代に創られた。

<コルドバ・メスキータ内部>

コルドバ、メスキータ

コルドバカリフ王国の記事はこちらです。別のウインドウで開きます。     <後期ウマイヤ朝。コルドバカリフ王国の繁栄>

再びトレドはキリスト教徒の手に

歴史を振り返って永遠に続いた帝国はひとつもない。そして内部からの亀裂が崩壊に向かっていく。豊かなコルドバ王国は繁栄し紀元1000年にこれほどの栄華を極めた街は他に無かった。しかし世の常、権力者の欲望と裏切り、内部紛争もあり11031年に後期ウマイヤ朝が崩壊する。

 

これがキリスト教徒たちに追い風となった。レコンキスタは進んでいきアルフォンソ6世率いるキリスト教徒軍が1085年にトレドを奪い返す。

<アルフォンソ6世のトレド奪回>

アルフォンソ6世のトレド奪回
wikipedia CC
Source Own work
Author CarlosVdeHabsburgo

<トレドの街>

トレド

トレドを奪い返したカスティーリア国王アルフォンソ6世に2人の娘がいた。それぞれをレコンキスタで戦った勇敢な騎士と結婚させ土地を封土する。1人にカスティーリア王国を与え、もう1人は少し離れたイベリア半島西の端の方の土地を与えた。名前がポルト、そして川の対岸の街がカーレ。このふたつの名前がひっついてポルトカーレと呼ばれるようになる。これがポルトガルの始まりとなる。 

アルフォンソ6世

アルフォンソ6世の時代はイスラム教徒たちも税金さえ払えばイスラム教徒として生活することが許されていた、または現実路線を取る人達はキリスト教徒に改宗し優遇されていた。コルドバから沢山の知識階級のイスラム教徒たちがトレドに集まり次第にトレドは当時のヨーロッパ随一の学問の都になって行く。ユダヤ教徒やイスラム教徒などの豊かな技術と知識、金融とネットワークをうまく利用した政策が取られていた。

最後の砦グラナダ王国アルハンブラ宮殿

キリスト教徒たちがさらにレコンキスタを進め南下していき1212年のハエンのナバス・デ・トロサの戦いで圧勝。これが天下分け目の合戦となりキリスト教徒が力をつけ勢い付く。イスラム勢力は内紛と裏切りの中セビージャは1248年に陥落。

最後に残ったイスラム王朝がグラナダ王国。ハエンの領主がやってきてグラナダに王国を作り何世代もの王たちが不規則な地形を整備して宮殿を作った。

<アルハンブラ宮殿>

アルハンブラ、コマレス宮

スペインに残った最後のアラブ王朝の宮殿がアルハンブラ宮殿。1492年にカスティーリア王国イサベル女王率いるキリスト教徒軍により陥落するまでヨーロッパに残った最後のイスラム王朝です。奇跡ともいわれる存続で周りはキリスト教徒に囲まれ税金を払い裏切りや嫉妬が渦巻く宮殿の中では千一夜物語が続いていた。

アルハンブラ宮殿についての記事です。別のウィンドウで開きます。      <アルハンブラ宮殿グラナダ王国<イスラム建築の最高芸術>

1492年1月2日最後のアラブの王は無血開城を選び一族郎党を引き連れシエラネバダの与えられた土地を好まずモロッコへ逃げていった。グラナダの陥落でレコンキスタは終了しスペインはこの後大帝国へとなって行く。

 

イスラム教の歴史まとめ、ウマイヤ朝が始まりスンニー派とシーア派はここから揉め始めるんです。

イスラム教は比較的新しい宗教で創始者モハメッドが生まれたのが紀元後570年頃日本は奈良時代。イスラム教があっという間に伝搬していったなかでスンニー派とシーア派に分裂する。今もイスラム圏の多くの紛争はスンニー派とシーア派の宗派の違いによるところが多い。このブログのテーマはスペインですがスペインはほかのヨーロッパと違うのがイスラム支配を700年以上受けている。スペインの歴史を知るために少しだけイスラム教の始まりとシーア派とスンニー派に分かれウマイヤ朝が始まる歴史をまとめました。

 

モハメッドの誕生

イスラム教の創始者モハメッドは今のサウジアラビアのメッカで生まれた商人だった。現在サウジアラビアのメッカはイスラム教徒の最大の巡礼地となっている。日本語で使う「新婚旅行のメッカ」とか「山歩きのメッカ」などはここからきている言葉。

 

モハメッドは読み書きができなかったと言われているが非常に誠実で真面目な人格者だったようだ。

イスラム教の重要な教えの中に偶像崇拝の禁止があるため絵画などにモハメッドの肖像画が残っていないのは残念。

<巡礼者達であふれるのメッカ・カーバ神殿のまわり>

メッカカーバ神殿
wikipedia CC
Source Al-Haram mosque
Author Al Jazeera English
イスラム教の始まり

モハメッドは40歳超えたころ610年ころに大天使ガブリエルを通して神の声を聴いて唯一神を唱えた。神からの啓示はそれから23年間も続きその時に神から授かった啓示がコーランにまとめられている。

突然40歳を超えた大人が神の声を聴いたと言っても誰も信じてくれない。大変な迫害を受けたので622年420キロ離れたメディナに移住した。(その時のお弟子さんの数が150人イエスキリストは最初12人いや11人。)ジハードという聖戦を続けメッカを征服する頃には1万人もの人が従った。

メディナはイスラム教徒の第2の聖地。予言者のモスクはモハメッドが最初に建てたモスクであり住居でありイスラム共同体の本部にあたるところ。今スペインの企業がメッカからメディナに新幹線の工事をやっている。

<メディナの予言者のモスク>

wikipedia CC
Source Own work
Author Noumenon

モハメッドの死後

問題の始まりは632年モハメッドは後継者を決めずに亡くなってしまったことから始まる。(経営者の方は後継者選びちゃんとしましょう)イスラム教の信者の共同体はその代表を決める必要に迫られるが派閥がありうまく調整ができない。内々に決めるには組織が巨大すぎたのだ。

当時ウンマ(信徒共同体)には3つの派閥①モハメッドとメッカからメディナ一緒に移住した最古参。②メディナでモハメッドに援助したもの③最初はモハメッドに反抗したが後改宗したメッカの有力者ウマイヤ家

 

混乱に陥った共同体は崩壊を避けようという意見だけは何とかまとまり人選を始める

アブーバクル

最古参でモハメッドの妻アイーシャの父親アブーバクルが選ばれる。「モハメッドが最後の預言者、彼以降は預言者はいない」ことになっているのでアブーバクルはモハメッドの代理人ハリーファとされる。カリフという言葉はこれがなまったもの。(預言者というと予言者と紛らわしいですが予言する人ではなくて神の言葉を聞く人、それを伝えることが出来る人という意味です。)

ウマルその後ウスマーン(ウスマーンはウマイヤ家)

アブーバクルのあとウマルがカリフを継承。ウマルアブーバクルの親友。ウマルの時代にイスラム勢力はエジプトにまで拡大している。大きくなりまとまりが亡くなって来ていた。ウマルのあとにウマイヤ家ウスマーン。彼はウマイヤ家の一門を重用しすぎたようで嫌われて656年に暗殺される。

 

アリーの暗殺

4代目にアリーがカリフになる。ここからが大変。アリーはモハメッドの従妹で娘婿。しかしアリーは3代目のカリフ・ウマイヤ家のウスマーンの暗殺に関わっていたとして661年暗殺される。その後大混乱の中教団の総意でカリフは出なかったのでこの4代目カリフアリーまでを正統カリフ時代と呼ぶ。

シーア派の始まり

事実上支配者となったウマイヤ家ムアーイヤがその後シリアのダマスカスを首都にウマイヤ朝カリフとなる。ウマイヤ朝が領土を広げ711年にスペインに入って来たイスラム教徒たち。

<750年のウマイヤ朝の領土>

ウマイア朝領土750年
wikipedia
public domain

 

アリーとその血筋のみが正当と主張する人々はウマイヤ家に反抗する。アラビア語で党派をシーアシーア・アリー>アリーを支持する党派という意味。これが省略されシーア派と呼ばれる。彼らは今もムアーイヤ以降を認めていない。すなわちウマイヤ家に敗れた人達をシーア派と呼ぶ。今もシーア派は少数派。

アリーの息子もウマイヤ家に殺される

暗殺されたアリーとファティマ(モハメッドの娘)の間に息子がいた。名前がフセイン。父亡き後シーア派の最高指導者「イマーム」として精力的に布教していたが680年イラク中部のカルバラでウマイヤ家に包囲されて戦死している。このカルバラシーア派の聖地。

現イラクのカルバラのフセインのお墓はシーア派の巡礼地となっていてシーア派の宗教学校やイスラム法学者が集まる学問の中心でもある。

<イラクのカルバラ>

カルバラ
wikipedia CC4.0
Source Own work
Author Taisir Mahdi

毎年イスラム歴(太陰暦なので毎年太陽暦とずれます)1月10日にアシュラーという際礼が行われシーア派の人々はフセインの死を悼み剣を掲げ自分の背中を鎖の束で打ちながら行進をするらしい。1300年も経っているのに今もこの殺害を悼んで自分を傷つけ血を流して男たちはこぶしで胸を打ちながら行進するという事です。

シーア派の考えでは4代目のアリーは預言者モハメッドから初代イマームに任命されていた。イマームというのは聖なる世界と俗界を結んでくれる特別な存在。873年12代イマームがお隠れになりいまだにお隠れ中らしいです。終末直前に最後のイマームが救世主となって再臨しこの世の悪から救済されると信じられています。

イスラム教徒の85パーセントはスンニー派、シーア派は15パーセントと少数派。

アリーの暗殺が紀元後661年なので日本は飛鳥時代。聖徳太子没が622年で三蔵法師がインドに行ったのが629年なので大体その頃のお話です。

ウマイヤ家は革命で倒される

話は戻りその後ウマイヤ家が革命で倒され(750年)アッバース家の時代になる。アッバース家は後に首都をイラクへ移動させイスラム文化の栄華を極める。

倒されたウマイヤ家の正統の血を引く王子がスペインに逃げて来て作ったのが後期ウマイヤ朝・コルドバカリフ王国。代々の王たちがコルドバの街にモスクや図書館、大学を作って繁栄した。

<コルドバのメスキータの内部>

メスキータ コルドバ

コルドバを首都に後期ウマイヤ朝は756年から1031年まで栄華を極めます。「スペインは違う」と言わるのはこの長いイスラム支配がある国だからです。イスラム教徒達は古代のギリシャの文献をアラビア語に訳しインドの数学を自分たちの物にして進んだ先進文明を既に既に築いていた。そしてキリスト教徒の時代になってもイスラム教徒の科学者や学者がカスティーリアの王によって重用されていた時代があった。

 

知らない町で奇跡に救われた件

知らない町で

あの時はある日本の偉い方の同行で「行ったことはあるけど曖昧な記憶」の世界遺産の、でもあまり有名でもない街をご案内する行程になっていた。地図も見つからずとりあえず「エイッ」「気合で何とかなるッ」と歩き始める事にした。

ヨーロッパの街は大体慣れると中心があるので知らなくても何とかなることが多い。たいてい真ん中に教会と市庁舎その周りに寄り添うように人々が集まって町が作られ親鳥に寄り添う小鳥たちみたいだ。

旧市街に入り「どっち向いて歩こうか」って思っているところにお客様の携帯電話が鳴った。どうやら御家族からみたいで旅の事やら家の事やらしばらく会話は終わりそうにない。聞いていると申し訳ないので少し遠慮して離れたところに移動した。

そこに木のベンチがあって広告みたいな紙が折りたたんで置いてある。見逃しても構わないくらいに落ちているのか置いてあるのか。別にどうってこともないけど電話も終わりそうにないし何気にそれを手に取ってみた。

「・・・・・」「うそでしょ」

なんとそれはその街の地図。目を疑うとはこの事で「嘘でしょ」って何回も心の中で叫んだ。

電話は結構な長電話だったのでその間に回り方を決めて見るべきものを確認してまるで良く知っている街のように観光を終えることが出来ました。

これって偶然?それとも奇跡?

その後サンティアゴに行く日だったので「サンティアゴ様有難う~」と大聖堂で感謝のハグしてきました。

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コルドバ・カリフ王国の繁栄、アッバース革命と後期ウマイヤ朝。

 

スペイン最南端にそこに立つとアフリカが手が届きそうに見える海峡が有る。大西洋と地中海の入り口の海峡の名前はジブラルタル。14キロのジブラルタル海峡を渡ってイスラム教徒がスペインへ入ってきて西ゴート王国が崩壊した。スペインにイスラム教徒の時代がやって来た。アラビア半島ではシリアのウマイヤ朝が勢力を広げて巨大な帝国を作っていた時代。トレドから逃げたキリスト教徒たちは北スペインの山岳地帯で戦いながら小さなキリスト教徒の君主国を作っていた。そんな時代にシリアで革命が起こり一人の王子が逃げて来た、後期ウマイヤ朝・コルドバカリフ王国の始まり。

後期ウマイヤ朝のはじまり

舞台はアラビア半島、今も内戦が続くシリアのダマスカスでアッバース革命が起こり14代続いたウマイヤ朝は倒された。ウマイヤ家はアラビア人優遇政策をとり身内ばかりを贔屓にしてた。不満が爆発し政敵アッバース家が革命を起こした。アッバース朝は後に首都を今のイラク・バグダットに定め東カリフ王国と呼ばれる。

<シリアのウマイヤッドモスク、現存する最古のモスク>

シリア、ウマイヤッドモスク
wikipedia CC
Source Own work
Author Jerzy Strzelecki
*アッバース革命

イスラム教の創始者モハメッドが後継者を決めずに死んでしまう事によって当時のイスラム共同体は大混乱に陥る。そんな中ウマイヤ朝が実権を握りシリアのダマスカスを首都にウマイヤ朝が繁栄していた。711年にジブラルタル海峡を渡ってスペインに来た勢力はこのシリアのウマイヤ家からの勢力。661年に成立したウマイヤ家には最初から正当性に疑問があった。そしてウマイヤ家優遇政策を取り特権意識の強いウマイヤ家には敵が多かった。アッバース家は預言者モハメッドの叔父の血筋だがウマイヤ家によって中央政権から外されていた為、不満分子のシーア派と結んでついに革命が起こったのがアッバース革命。

 

 

*シーア派とスンニー派に分かれたところはこちらの記事をご覧ください。別のウインドウで開きます。<ウマイヤ家の始まり。スンニー派とシーア派はここから揉め始める>

ウマイヤ家の王子が逃げてくる

倒されたウマイヤ家の王子がはるばる北アフリカ経由でイベリア半島までやってきた。隠し持った宝石を売りながら助けられたり騙されたりしながらの逃亡劇。アル・アンダルス(南スペイン)のアミールを破り756年独立したアミールとして即位したのがアブ・ドゥラーマン1世。

*アミールはアラビア語で司令官、総督を意味し次第にイスラム世界で王族や貴族の総称になる。後にスペイン語化しアドミラル=司令官という言葉になる。

アブドラーマン1世は緑の目でカリスマ性のあるイケメン王子だったそう。シリアのウマイヤ家の血を継承することからスペイン後期ウマイヤ朝と呼ぶ。ここからスペインでのウマイヤ家によるアル・アンダルスの支配が始まる。

<コルドバの街とメスキータ>

コルドバ、メスキータ
wikipedia CC
Source Flickr: [1]
Author Toni Castillo Quero
メスキータ(スペイン・後期ウマイヤ朝のモスク)

スペイン・後期ウマイヤ朝は宮廷の内紛や陰謀などの続く中250年間コルドバを首都に栄える。その時に作り始め代々のカリフが拡大した回教寺院がメスキータという世界遺産。モスク(回教寺院)の事をスペイン語でメスキータと呼ぶ。

メスキータ内部

コルドバ、メスキータ

メスキータに入ってすぐの最初の部分の柱はローマの遺跡から持って来た柱が使われているので柱一本一本は2000年前の物。天井はオリジナルではなく後の修復再建。

中央部分はキリスト教徒の時代にほとんど柱が取り払われてしまった部分。大変残念ですが今では回教寺院メスキータの中に現役の大聖堂がある不思議な建築物になっている。

<内部の大聖堂聖歌隊席部分>

コルドバ、メスキータ、カテドラル部分
wikipedia CC
Source Flickr: IMG_5289
Author Jan Seifert

奥の方のミヒラーブ(メッカの方向に向かって作られた窪み)には漆喰に美しい文字でコーランの一説が彫刻されていてその周りは唐草模様で飾られている。壁面を規則正しく文字や模様で埋め尽くすためにはユークリッドの幾何学が使われた。数学が発達していないと不可能なのです。

<一番奥のミヒラーブ、ビザンチンの技術者を連れて来て作った>

メスキータ、ミヒラブ

この時代のキリスト教徒の教会に行くと祭壇に新約聖書の物語や聖母マリア・聖人たちが彫刻されている。識字率が低かったので字が読めなくても絵によって、彫刻によって聖書を教えていった。宗教を広めるために絵画や彫刻が必要だった。イスラム世界はそれが許されなかったので識字率が高くなければいけなかった事がわかります。

 

回教寺院は通常異教徒は入れないことがほとんどです。内部がどういう風になっているかを見れる良い機会にもなります。

イスラム教徒は「偶像崇拝の禁止」が重要な教えなので彫刻に人間や動物を創ることが出来ない。コーランの一説(文字)を装飾し、神の言葉なので美しく完璧に。アラビア語で文字が繰り返し彫刻されています。その文字は今と同じアラビア文字なので読むことが出来ます。繰り返し神を称える言葉が視界に入ってくることによって神に近づき祈りは深くなる。

偶像崇拝が禁止なので回教寺院には祭壇はないのがモスク。では何に向かって祈るかというとメッカにあるカーバ神殿に向かって。回教寺院に入るとメッカに向かい祈ることが出来るミヒラーブいう部分がある。そこを美しい装飾で飾った。

*(実際コルドバのメスキータのミヒラーブは少し角度がずれています。もともとあった教会をもとに作った関係上基礎を移動させることが出来なかった様です)今はスマートフォンのアプリでメッカがわかるようになっています。

良く「アニメのメッカ」とか「スポーツのメッカ」とかいう言葉の「メッカ」はここからきています。サウジアラビアにあるイスラム教徒の最大の聖地。巡礼地。

スペイン・後期ウマイヤ朝絶頂期

アブドゥラーマン3世は自らをカリフとして僭称しバグダッドとの主従関係を断ち切り独立したカリフすなわち王となった(929年)。この時代がスペイン・ウマイヤ朝絶頂期。メディーナ・アサーラ宮殿を作りメスキータも増築が進む。次のアルハカム2世の時には貿易も盛んになりイスラム圏とヨーロッパ諸国をつなぐ架け橋となり人と物が移動し繁栄した。

軍事力は強化され北部のキリスト教徒の地域に軍事遠征が行われる。国家収入は商品取引による租税で占められた。都市では絹織物、陶器類、金属製品、武器や紙農産物などが取引された。取引相手は同じイスラム圏だけではなくヨーロッパのキリスト教徒圏も含まれていた。

アルアンダルスからはオリーブ油と織物や手工芸品等が輸出されヨーロッパからは毛皮、金属、武器、奴隷(スラブ人の白人奴隷とスーダンから黒人奴隷)を輸入した。

西方の真珠<コルドバカリフ王国>

人口は50万人モスクや大学、公共浴場、図書館が作られヨーロッパ最高の大学として数学、天文学、医学、化学などの中心だった。メスキータはさらに増築され一度に2万5千人もの人が礼拝できたそう。

<メスキータの塔、現在は大聖堂の鐘楼になっている>

コルドバ、メスキータ、塔
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スペイン・後期ウマイヤ朝はバグダッドに対抗し多くの学者を厚遇を持って受け入れ図書館を作り大学を創り学者を集めた。当時の図書館の蔵書は60万冊と言われている。

キリスト教ヨーロッパにまだこの時代大学はなかった時代ボローニャやパリに大学ができるのが12世紀。。コルドバはヨーロッパ中世の数学、天文学、医学、化学や文学など諸学問の中心地であった。その後約400年間にわたって学問の中心地となる。(レコンキスタのあとキリスト教徒たちによって知識の継承がされていった)西方の真珠と呼ばれた。

次第にキリスト教徒のレコンキスタが進んで1031年コルドバは陥落する。

メスキータは壊されずキリスト教徒の礼拝堂が内部の端の方に創られ日曜日にはキリスト教徒金曜日にはイスラム教徒が礼拝をして仲良く使っていた。

<メスキータ内部の礼拝堂部分>

コルドバ、メスキータ、礼拝堂

陥落後コルドバの学者たちはトレドに呼ばれこの後はキリスト教世界で厚遇され様々な知識がキリスト教世界へ伝わって行った。

 

ウマイヤ朝とアッバース朝、アル・アンダルス

アル・アンダルスは南スペイン全体のイスラム時代の呼び名。「スペインは違う」と言われるのは長いスペインの歴史の中で700年以上にわたるイスラム支配が有った。スペインに711年に入って来たイスラム教徒たちはイベリア半島を短期間に制圧。ローマ時代の橋や幹線道路が半島中に巡らせれていたのでそれらの道路を使いイベリア半島ほぼ掌握する。それらの橋には今も使っている物がある。そして西ゴートの貴族階級は抵抗せずイスラム軍と和解する方を選んだようだ。スペインのイスラム支配時代が始まった。

アル・アンダルースのイスラム支配

当時のシリアは先進地域でイスラム教を広めながら北アフリカを制圧し西ゴートの混乱に乗じてスペインに入って来た。北部の山岳地帯をのぞいてはアル・アンダルスと呼ばれ首都をコルドバに定めた。シリアのダマスカスからの「ウマイヤ朝カリフ」の支配下にはいり総督を派遣しイベリア半島を統治した。カリフはアミールと呼ばれる総督を派遣してイベリア半島を統治させた。

実際は差別のある混合部隊

イスラム教徒と書いているのは実際は民族的にはいろんな種族がやって来ていて共通点は宗教、すなわちイスラム教徒という事だけだった。アル・アンダルスはアラブ人シリア人ベルベル人などの混合部隊によって統治される。その彼らの間も軋轢や紛争があったようで特にシリアのウマイヤ朝アラブ人優遇政策を取ったので貴族や指導者階級はアラブ人でモロッコのベルベル人は山岳地帯や貧しい土地で生活を余儀なくされ格差がその後の確執の種になる。

他宗教にも寛容な政治

キリスト教徒やユダヤ教徒も税金さえ余分に払えば信仰の自由があったので財産を没収されたり戦って命を落とすより和平を選び懐柔されていく。又イスラム教徒に改宗し自由の身になる奴隷もいた。貴族階級にもイスラム教徒と婚姻関係を持ち支配階級に入るものもいたので宗教的にも寛容な時代だった。

 

イスラム教徒にとってユダヤ教もキリスト教も同じ聖典の民なので宗教的な対立はなかった。これが半島の征服を容易にしたと言われる。

トゥール・ポワチエの戦い

この勢力がさらに北へ進軍しピレネー山脈を越えてフランスまで行く。フランスはフランク王国の時代だった。勢い増したイスラム軍は732年トゥール・ポアチエの戦いでカール・マルテルに敗れる。以降イスラム教徒たちはアル・アンダルスに留まった。(カール・マルテルの息子がピピン。ローマ法王によって戴冠しそのお礼に土地をプレゼントしたのが今の法王領の始まり。さらにその息子がカール大帝)

キリスト教徒側では大勝利と歴史に名を残す大戦争になっているがイスラム側に記述では数多く戦った中の珍しく負けた戦争位の感覚だった。私たちが学校で習う世界史は全部ヨーロッパ側から見たもの。歴史は両側から見てみないと本当の理解は難しい。

ダマスカスで革命が起こりウマイヤ朝は倒れる

ウマイヤ朝の首都ダマスカスアッバース家が革命を起こしウマイヤ王朝は倒れた。もともとウマイヤ朝の成立にも不明な点があり不満分子が多かった。(4代目カリフ・アリーの暗殺はウマイヤ家によると言われている。その後ウマイヤ家はダマスカスを首都にウマイヤ朝を作った)アラブ人優遇政策など非アラブのイスラム教徒に対してもキリスト教徒と同じく税金が課せられていた。ムアーウィヤが今までの慣例に反して世襲制を導入。歴代のカリフたちの享楽的な生活などが厳格なイスラム教徒たちの非難の的だった。

アッバース家はイスラム教の始祖モハメッドの叔父の子孫。ウマイヤ朝を倒し新しい王朝が始まる。非アラブ人特にペルシャ人との融合し革命が起こった。アラブ人優遇政策をやめイスラム教徒はみな平等に非課税。ペルシアの進んだ文化と融合。

製紙法が唐から伝わる

話は少しそれますがこのアッバース朝時代中国は唐の玄宗皇帝の時代。領土拡大政策をとっていた唐に侵略されると思った弱小国家タシュケントから支援を頼まれたアッバース朝は唐と戦って大勝しています。この時の中国の捕虜の中に紙漉き職人がいて製紙法が伝わったと言われています。紙が使わることによって後に多くの古代の文献を訳したものを書き移し保存することが出来るようになる。

首都はバグダッドへ

次の時代に首都はダマスカスから今のイラクのバグダッドに移動し人が集まり大いに栄える。100万人とか150万人とかいろんな説があるがとにかく当時にしたら他に無いほどの巨大都市だった。

知恵の館

アッバース朝第2代カリフのアル・マンスール(754-775年)はビザンチンの皇帝に施設を派遣し古代ギリシャの数学の教科書、特にユークリッドの著書を求めている。そのために同じ重さの金を支払ったと伝えられている。

第7代カリフ、アル・マアムーンの時(830年)に知識吸収欲は最高潮となりバグダッドに知恵の館という政府機関を作っている。知恵の家には多数の学者を雇ってビザンチン帝国から求めてきたギリシャ語の文献をまずシリア語に訳しそれをアラビア語に訳した。ギリシャ語からシリア語に訳すのにキリスト教徒が雇われた。

国家権力を使って大規模な翻訳事業が約200年間行われ当時存在したギリシャ語の文献はほとんどアラビア語に訳されたという。訳したものを残すために紙に書くということが必要になる。その紙の製紙法は上記で触れた唐の時代の中国との戦いで手に入れた。

後期ウマイヤ朝(後ウマイヤ朝)

この革命から命からがら逃げたウマイヤ家の人々がいた。親戚筋を頼って隠れたり助けられたりしながらはるばるアル・アンダルス迄やって来てコルドバを首都にカリフ王国を創る。バグダッドも遠いところだったのであまり気にせずほっておいてくれたようで、ここからスペインで正当のウマイヤのカリフによるアルアンダルス支配、後期ウマイヤ朝(後ウマイヤ朝)が始まる。

スペインの歴史はドラマチックで次から次へと民族や宗教が変わって混血していくのです。

後期ウマイヤ朝の記事はこちらから <後期ウマイヤ朝の記事はこちら>

スペインの歴史ダイジェスト版はこちらから  <スペインの歴史ダイジェスト版>

西ゴート(ビシゴート)王国の崩壊、トレド陥落とイスラム教徒の侵入

スペインの歴史は複雑で様々な民族が足跡を残していった。ローマ帝国を崩壊させたゲルマン民族の大移動でスペインにやって来た西ゴート王国(ビシゴート王国)はトレドを首都に繁栄するが実は裏切りと陰謀の世界だった。人間の本能はいつの時代も同じで嫉妬と欲望の末大抵の王国は陰謀が渦巻き滅びていく。西ゴート王国も例外ではなく王室で日々血なまぐさい事件が続く。末期の西ゴート王国の歴史についての記事です。

西ゴート(ビシゴート)王国末期

国王と国王を選出する権利を持った大貴族と高位聖職者の間での利害関係の衝突で常に不安定な状態が続いていた。

 

 

506年にイベリア半島で西ゴート王国が始まって711年までに26人の国王が誕生した。204年間で26人もの国王の交代。陰謀に次ぐ陰謀。

<西ゴート王国首都トレド>

トレド展望台

711年スペインにイスラム教徒がやってくる

7世紀にアラビア半島で始まったイスラム教は急速に北アフリカを征服。シリアを首都にウマイヤ朝が始まっていた。

あまりにも早い伝搬に何故と思うのですが一説にはビザンチン帝国の弱体化と一部のコプト教徒(キリスト教の一派)はビザンチン支配を嫌いイスラムを受け入れたと言われている。それにしても一気に伝搬している。

8世紀初めには南スペインジブラルタル海峡をはさんでアフリカ側(現モロッコ)にすでにイスラム教徒が来ていた。混乱する西ゴート王国、民衆の中にも不満が高まっている中、北アフリカ原住民ベルベル族を中心とする総勢12000人のイスラム教徒が711年にイベリア半島に上陸。イスラム帝国北アフリカ総督ムーサの命令のもと凄腕指揮官ターリク・ブン・ジアードが率いる軍がジブラルタル海峡を渡って来る。彼はそこにあった岩山を自分の名前を付けジャバル・アル・ターリク(ターリクの岩)と名付けた。ここを今私たちはジブラルタルと呼ぶ。「スペインの歴史は違う」と言わるイスラム支配がここから始まる。

そこは14キロの海峡でヨーロッパとアフリカが一番近いところ。大西洋と地中海の入り口で今も戦略的に重要なところです。海峡のヨーロッパ側は現在イギリス領。

<ヨーロッパとアフリカの間の海峡>

ジブラルタル海峡

*イギリス領になった経緯:1700年スペインのカルロス2世が子供が無いまま他界。スペイン王位を狙ってハプスブルグとブルボンが戦争になりヨーロッパ各国は利害が絡みブルボンの勝利となる。この戦争でイギリスがスペインから奪ったのがジブラルタルで今もイギリス領土。

<スペイン側から、向こうに見える山はジブラルタル>

ジブラルタル

 

ある美女の伝説

話は戻り西ゴート王国。北アフリカのセウタ総督フリアン伯爵の令嬢フロリンダはトレドの宮殿に行儀見習いとして来ていた。とっても美しいフロリンダに国王ロドリーゴは思いを寄せていた。でも全く相手にしてもらえない。ある日彼女がタホ川で水浴びをしていたのを見つけたロドリーゴ王は無理やり思いを遂げる(今なら合意なのか強姦なのか裁判で争点になる部分)泣きながら顔を晴らした娘から話を聞いたフロリンダの父親は国王に復讐をすると娘に誓う。そしてセウタの城門を開けイスラム教徒たちイベリア半島に入れる手引きをし、娘の復讐を果たした。真偽のほうは不明だそうで歴史ではなくあくまでも伝説。

トレド陥落

イスラム教徒の軍がジブラルタル海峡を渡ったころ西ゴートの国王ロドリーゴは北スペインのバスク人の紛争の鎮圧のためにパンプローナに駐屯していた。慌てて10万人(一説には3万3千人)の西ゴート軍は南下するが大敗。おそらく味方同士の裏切りや兵士の士気の低下が原因と言われる。また西ゴート軍の大部分は貧しい農民や奴隷からなる歩兵部隊で斧やこん棒などで武装していても訓練は行き届いていなかった。

グアダレーテの戦い

<グアダレーテの戦いを指揮するロドリーゴ王>

グアダレーテの戦い
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南スペインのへレス・デ・ラ・フロンテーラ近くのグアダレーテ川の戦い。実はロドリーゴ王に不満を持つ西ゴートの貴族たちはターリクと密約をかわし国王を裏切っていた。国王を殺させてうまく立ち回ろうとしていたようだ。士気の下がった西ゴート軍の隙間にイスラム兵たちが切り込み西ゴート軍は敗走を始めるが川の流れが急で川幅も広く多くの西ゴート軍は溺れ死んだ。国王を裏切った貴族たちも殆ど助からなかったと伝えられる。

<現在のグアダレーテ川>

グアダレーテ川
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Author
Emilio J. Rodríguez Posada (1986– ) Link back to Creator infobox template wikidata:Q30564104

ロドリーゴ王の行方は分からず戦場には王の白い愛馬の遺体が横たわっていた。馬具にはきらびやかな宝石をつけたまま。そしてその近くには王のブーツが片方あったそう。これであっけなく西ゴート王国は崩壊した。

トレドはその後も文化都市だった。

トレドはイスラム圏に入るがイスラム教徒寛容な政策をとりキリスト教徒やユダヤ教徒も人頭税だけ払えば信仰の自由があった。長い間キリスト教徒の学者が訪れイスラム文化への窓口になり多くの学者が学ぶ3つの文化の融合する都市となる。アラビア語の哲学書や数学書などがラテン語に訳される翻訳集団ができる。

<トレド大聖堂13世紀から15世紀の建築>

トレド大聖堂

 

個人的に気になっている部分があって亡くなったロドリーゴ王の妃なんですが・・・「その後ウマイヤ朝北アフリカ総督ムーサ―の息子と結婚した。」とあって。国王を裏切ったのは西ゴートの貴族じゃなくって奥さんだったんじゃないのかしら・・・・・とほぼ想像ですが確信しています。総督の息子と結婚って若かったのか息子が年上好みだったかは謎。歴史の後ろに女の恨み。今も昔もよく似た事件があるものです。

イスラム勢力は716年ころにはイベリア半島のほとんどを征服。一部の西ゴート王国貴族や聖職者たちが持てるだけの財宝や聖遺物を持って北スペインの山岳地帯(アストゥリアス地方やバスク地方)に逃れた。その中に西ゴートの王の血を引くペラーヨがいた。

この後レコンキスタが始まり再びキリスト教徒がイベリア半島を奪い返していく。