エビのアヒージョ100年の老舗<カサ・デル・アブエロ>

 

旅行の楽しみは絶対食べ物が大きい。スペインは美味しいものがいっぱいありますがバルだと色んなものをあれこれ試して楽しめます。まずはおすすめしたいのが「エビのアヒージョ」。マドリードには老舗のバルが沢山あって迷ってしまったときはここに是非行ってみてください。絶対おすすめです。中心部ソル広場からすぐ。

バリオ・デ・ラス・レトラス


この地域の名前はバリオ・デ・ラス・レトラス。文学の地域と呼ばれる一角はなぜか今はバルや飲食店がいっぱいでいつも賑やか。ソル広場からすぐの所。16世紀から17世紀にセルバンテスやケべド、ローペ・デ・ベガ等の文学者たちが住んだ地区です。このあたりは今風のかっこいいお店もいっぱい出来ていて近くの「サンタ・アナ広場のテラス」でおいしいビールも素敵ですが今日は100年以上営業しているお店エビのアヒージ老舗バルにご案内します。

 

 

カサ・デル・アブエロ


カサは家、アブエロはおじいちゃん。「おじいちゃんの家」という意味のバル。本店は椅子のない小さな店舗。1906年創業なので正確には111年前から営業です。オリーブオイルにニンニクと岩塩だけの味付けなのに何故か自分の家でこの味が再現できない。エビのアヒージョはスペイン語で「ガンバス・アル・アヒージョ

今は4代目で同じファミリーで今もやっているそう。最初はボカディージョ(サンドイッチ)屋だったらしいですが1940年ころからエビを初めて今に至っている。エビのメニューはフライと鉄板焼きとアヒージョ。

もちろん注文が入ってから作ってくれる。入口の横に小さなキッチンがあっておじさん達交代でアヒージョ作り。小さなガスコンロが沢山あってそのうえでジュージューと目の前で作って出てくる様はまるでたこ焼き屋さん。平日でも何時もいっぱいです。地元の人達もやって来て一杯飲んでエビのアヒージョを食べたらすぐに出ていく。「バルで長居はしない」これスペイン風。

向かい側にも店舗

本店のバルはいつも混んでいて椅子も無いのでギューギューの所で立って食べたくない方はこちら。本店より空いていて広くて椅子もある。道挟んで向かい側です。本店で作ったのを運んでいるので味は一緒。足痛いしいっぱい歩いたしなんて時座りたい時は是非こちらへ。

*現在カサデアブエロがマヨール広場近くに出来ています。マヨール広場のサンイシドロ教会に向かうアーチをくぐってすぐ左側。サンミゲール市場、マッシュルーム屋の後に行くならこちら。  住所call de Toledo13.

 

注意

どちらもスペイン人が来る時間はかなり込みます。お昼の13時30以降から16時、夜の20時以降から23時。できれば少しその時間を少し外していきましょう。お昼の12時からノンストップでずっと開いています。

カサデアブエロ、レストラン

エビだけじゃなくてもっと色々食べたいときはこちら

 

もう少し他の物も食べたいしゆっくりしたい方にお勧めなのはこちら。すぐ近くにもう一軒カサ・デル・アブエロ。こちらはレストランなのでメニューも沢山あります。割といつも空いているので落ち着いてゆっくりあれこれ食べたいときはこちらがいいです。もちろんエビのアヒージョもあります。

 

 

アスパラガスの鉄板焼き

パエリア一人分から。通常最低2人前なのでこれは嬉しい。

ほかにも子豚とかタコとかイカとか何でもあるので居酒屋風にいろいろ頼むのも楽しいです。もちろんエビのアヒージョもあります。

手長エビは鉄板焼きにしてくれます。

このあたりずっとバルです。沢山あって迷子になりながら気に入ったところ梯子して楽しんでください。

もう一軒なら


スペインはバルは何軒かはしごをするのがふつうです。私たちはもう一軒ならムール貝屋さんで仕上げます。店内はムール貝で装飾されていて食べた後のムール貝がお店の床に散乱しています。床にゴミが落ちているほどスペイン人が立ち去った後=すなわち地元民ではやっている安くて美味しい店のしるし。

周りは今風のかっこいいお店ばかりになったけど流行おくれの昭和の香りのまま頑張っているバルです。色んな味付で楽しめてアリオリ(ニンニクとオリーブのソース)やピカンテ(ピリ辛)何種類もあります。他にポテトやタコもあります。

他記事です

*中心部にはこんなバルもありますよ

*<ビールを頼むとタパスが無料で付くバル >

 

行き方

メトロ1号線2号線3号線 ソル下車徒歩5分(ソルからヘロニモス通りをプラド美術館方面に歩くとムセオ・デル・ハモンがある。そこを右に曲がると突き当り右手)

お店のホームページ

http://lacasadelabuelo.es/

本店 la casa del abuelo  calle victoria 12  毎日12:00から00:00

レストラン calle Nunez de Arce 5  毎日12:00から01:00

*新店舗がマヨール広場からトレド通りに入ったところに。マヨール広場界隈からならそちらへ。

まとめ

この界隈バルが軒並み続いていて歩いているだけで楽しめます。どこに入っても失敗なしです。道が入り組んでいて斜めに交差しているのでいまだに私は迷子になります。それも楽しんでスペイン旅行マドリードおすすめのバル街。絶対本場のエビのアヒージョ試してお帰り下さい。

 

マドリード海軍博物館

海軍博物館

マドリード、スペイン海軍総本部の横にある博物館。カラベラ船やキャラック船の時代から無敵艦隊そして最近にいたるまでの船の模型が展示してあります。船好きでなくても美しい船の模型は圧巻、充分楽しめる博物館です。プラド美術館すぐそばなのでマドリッドで時間があれば是非お勧めです。

展示は時代ごとで最初は北海や地中海で活躍していた船やベネチア艦隊の船から始まる。

船の発展が良くわかる

1200年代のノルウェー船模型

1200年代地中海の貿易船模型

1300年代地中海の貿易船模型

 

ベネチアのカラック船模型 1500年ころ

スペインのカラック船模型 1500年ころ

 

カラック船

カラック船(キャラック船)は15世紀に地中海で開発された帆船。スペインではNaoポルトガルではNauと呼ばれた。ずんぐりしているが大西洋の高波でも耐えられた。もともとは物資、貨物を運ぶため貿易船として開発されたが戦闘用にも甲板が安定していて砲台を置くことも可能だった。ただあまりにも大きく突風での転覆や回転性能などの小回りの弱点があった。

 

カラベル船(カラベラ船)

もともとは北ヨーロッパで開発された商業船。13世紀から14世紀頃イタリアのジェノバ3で開発される。基本3本マストで3角帆を装備した外洋航海可能な帆船。スペインではCoca と呼ばれる。50トンから200トンの間で当時は中型船。ポルトガルのエンリケ航海王の時代に大西洋へ航海が始まり遠洋航海用に開発された。バルトロメオ・ディアスの喜望峰発見はこのt船。コロンブスの1回目は3隻のうち2隻がカラベル船1隻はカラック船。高い操舵性を持つことから探検活動が盛んになった主にスペイン・ポルトガルの探検家達に愛用された。

サンタ・マリア号模型

カラック船コロンブスの第1回目の航海。

ニーニャ号模型

カラベル船 コロンブスの第1回目航海

天球技や地球儀

 

1492年コロンブスはイサベル女王の援助のもとインドを目指してパロス港を出港。サンタマリア号(カラック船)に提督のコロンブス、ピンタ号とニーニャ号にピンソン家族が航海長として乗船し船員集めもピンソン家族に依頼。イサベル女王からの援助だけでは資金が足りなかったので船主たちに援助してもらう必要があり。ピンソン家族は熟達した船乗り達で彼の貢献なしでは大陸発見はあり得なかった。

六分儀 オリジナル18世紀

天体や物標の高度末平方向の角度を測るための道具。弧が60度なので360分の6で六分儀と呼ばれる。今でもほとんど形が変わっていないのが凄い。

使い方が良くわからないけど当時のいろんな道具が色々展示されています。

レパントの海戦

左端がローマ法王ピオ5世 館内の照明が光ってうまく写真がうまく取れない。

1571年今のギリシャのレパント沖での戦い。ヨーロッパ史初めての大海戦だった戦争。オスマントルコの地中海での前進を防ぐためにスペイン、ベネチア、ローマ法王、スペイン配下のイタリア諸都市、マルタ騎士団などが参加しキリスト教徒軍の勝利。

ガレー船

主に人力で櫂を漕いで進む軍船。古代からあった船の形。レパントの海戦が双方がこのガレー船で激戦を繰り広げた。構造が複雑で建造費が高くつき水封の調達が難しくなりレパントの海戦がガレー船の頂点だったと言われる。

 

 

ガレー船模型

ドン・ファン・デ・アストゥリアス

レパントの海戦でキリスト教連合艦隊総司令官。24歳だった。フェリペ2世の腹違いの弟。かっこよくて女性にもてもて。スコットランドのメアリースチュアートとの結婚話が持ち上がり本人はスコットランド国王になれるので乗り気で熱望。そのころにペストかチフスで死去。

 

 

往時のセビージャの街。大型船が大聖堂のすぐ横まで入っていた様子がわかる。

 

 

ホワン・デ・コサの地図 オリジナル1500年

この博物館の目玉はこれのようです。

ヨーロパで初めて新大陸を地図に描いた人物。左側がアメリカ大陸。コロンブスの1回目と2回目の航海に随行。合計8回の新大陸の航海に随行している。現コロンビアで先住民族に槍で刺されて死亡。

ラクダがかわいい

 

おしゃれな携帯用磁石 18世紀

インク壺。18世紀。揺れる船内で報告書や手紙を書くのは大変だったでしょうね。

 

ガレオン船

カラック船が発展した形式。4-5本の帆柱を備え1列から2列の砲列を持つ。」荷物が多く詰めてカラックよりスマートなので速度が出る。これがのち大量の砲を備えた戦列艦に発展していく。風の力で走るので漕ぎ手がいらないのでスペースが大きく物資を多く運べた。スペインのガレオンは派手さを意識し性能は悪くスピードもあまり出なかったので海賊の襲撃に弱かった。

 

ガレオン船 17世紀終わりから18世紀

ガレオン船 17世紀終わりから18世紀初め

 

この後スペインは凋落の時代を迎えるので負けた戦争はあまり展示なしでした。知らない海戦の絵も沢山ありオランダ・イギリスに相当やられたなあという感想。

インフォメーション

航海博物館 住所 paseo del Prado5 プラド美術館からすぐ

時間 火曜から日曜 10時から19時 8月10時から15時

入場無料 寄付金3ユーロ



いつも空いていて喧騒から離れて楽しめる博物館です。船やスペインの歴史をゆっくり堪能できます。大航海時代や無敵艦隊の頃を思いながら船乗りたちの夢や絶望が伝わって来る思いです。船好きでなくても楽しめる博物館です。

バルで使えるスペイン語<旅行中に便利な簡単なスペイン語・バル編>

 

 

スペインを旅行すると絶対お世話になるバル。どこの町でも自動販売機はなくてもバルはある。こんな良いもの世界中にあればいいなと本気で思います。是非旅行中にバルでコーヒー飲んだり定食食べたりビール飲んだり楽しんでください。

スペイン人の日常生活に欠かせないものでどんな小さな村に行っても必ずバルはあります。最初はちょっと居心地悪いけどすぐに馴染んできますので気にしないで入りましょう。

スペイン語は発音が簡単なので大きな声ではっきりカタカナで書いて発音すれば通じます。

 

 

まずは挨拶


オラ!hola!

オラはスペイン語で英語のハーイみたいな気さくな挨拶。日本で知らない人に挨拶しませんがこちらは一つの礼儀なので必ず挨拶しましょう。エレベーターに乗り合わせたりお店の店員さんにも挨拶を忘れずに。スーパーでお買い物の時も道を尋ねるときもオラ!と挨拶してみてください。挨拶は潤滑油、コミュニケーションの力です。

呼びかけ


オイガ oiga もしもし

相手に話しかけるとき「ちょっとスミマセン~」と言いたいときに使います。

「oir」「聞く」というスペイン語の動詞、命令形の丁寧な形です。バルでも街で道を聞くときでもホテルのレセプションの人でもいつでも使える呼びかけ言葉です。

ぺルドン perdon

スペイン語の「スミマセン、ごめんなさい」英語のパードンと同じ感じで使えるのでこれも覚えておくと便利です。

ちょっと道を開けてほしいとき、人にぶつかってしまったとき、何か間違ってしまったとき等に使えます。

ポルファ・ボール por favor

スペイン語で英語のpleaseプリーズにあたる言葉でいろんな時に使えますね。

ちょっと長いですが覚えておくと便利な言葉です。呼びかけるときでもお願いしますという意味でも使えます。

バルでオラ!オイガ、ポルファボールと言ったら

バルのカウンター越しに挨拶とお願いします~と言ったら中からこんな返事が返ってきます。何を言ったかわからなくてもたいてい何にしますか?だから大丈夫。

ケ・デセア? que desea ?何をお望みですか?

ケ・テ・ポンゴ?que te pongo?何を置きますか?

注文 querer~


quererは欲しいというスペイン語の動詞、一人称はquiero キエロ

正確には「キエロ・ 数・品物・ポル・ファボール」 となります。

スペイン語の 構文の順序は英語と同じ キエロは英語のI wantにあたるのでI want one coffee with milk please

*カフェオレを一つ下さい

キエロ・ウン・カフェ・コン・レーチェ・ポルファボール

*生ビールを二つ下さい。(生ビールはカーニャ小さいコップで入れてくれます)

キエロ・ドス・カーニャス・ポルファボール

*赤ワインをグラスで一杯ください

キエロ・ウナ・コパ・デ・ビノ・ティント ポルファボール

*実際は最初のキエロは省略することが多いのでビール2個なら「ドス・カーニャス・ポルファ」と言う風に略して注文します。

*欲しくない時は「ノーキエロ」で通じます。

朝食 desayuno


スペインの朝食は2回あります。1回目は家で簡単にコーヒーとトーストやお菓子みたいなものを少し。2回目に街のバルで11時頃にコーヒーとチュロスなどの朝食のスペイン人たちで街のバルは賑わいます。労働者も15分間の休憩が有るのでみんなバルにやって来て2度目の朝食をいただきます。

朝食の看板

 

<コーヒーの種類>

コーヒーは日本のコーヒーのような薄いのは好まれず濃い目のエスプレッソマシーンで一杯づつ作ります。コーヒーをスペイン語でカフェ。カフェにミルクを少しとかカフェだけとか細かく注文します。

カフェ・コン・レーチェ cafe con leche  ミルクがたっぷり入ったコーヒー

カフェ・ソロ cafe solo  エスプレッソコーヒー

カフェ・コルタード cafe cortado  エスプレッソに少しミルク

チョコラーテ・コン・チューロス chocolate con churros  ホット・チョコレートとチュロス

*カフェオレを下さいを覚えておくと便利ですね。もう一度。

ウン・カフェ・コン・レーチェ・ポル・ファボール

<パン>

セットの朝食だとコーヒーにパンやチュロスが付いて2,7ユーロなどの設定。コーヒーを頼むと「パンはどれ?」と聞かれます。隣の人が食べてるのが良かったら指さして「あれと同じ」でもいいですが一般的なのを書いておきます。

パン・コン・トマテ pan con tomate パンにオリーブオイルとおろしたトマト

ナポリターナ デ クレマ napolitana de crema  カスタードクリームが入った菓子パン

<ジュース>

スーモ・ナランハ・ナトゥラル zumo naranja natural 絞りたてオレンジジュース

<それ以外の飲み物>

セルベッサ cervesa ビール

アグア agua お水

サングリア sangria サングリア

~ありますか


アイ ~?hay~?~ありますか?

英語の「Is there?」 何かあるかを聞くときに使えます。バルはお品書きがない事も多くどこ行っても決まったものしかないので~ありますか?と聞くときに使えます。お品書きも朝食だと看板に手書きだったり何も書いてなかったりなので質問をして尋ねる必要があるとき使えます。無言でほとんど何でもできる日本からだと面倒くさいですがこれも旅の楽しさ。

アイ・チュロス?hay churros? チュロスありますか?

アイ・ガスパチョ?hay gaspacho ? ガスパチョありますか?

アイ・カルタ・エン・ハポネサ?hay carta en Japonesa?日本語メニューありますか?まずないけど。

アイ・カルタ‣エン・イングレス?hay carta en Ingres?英語のメニューありますか?

これ頼んでない


間違って頼んでないものが来た時。

ノー・エ・ペディード・エスト no he pedido esto.これは頼んでいません。

間違って違うものが来たらはっきり言いましょう。

お支払い


最後にお支払い。しばらく食べたり飲んだりする場合も最後で大丈夫。

バルだと「クアント・エス?」 cuanto es ? いくらですか?

レストランだと「ラ・クエンタ・ポル・ファボール」 清算お願いします

又は空に字を書くジェスチャーはヨーロッパ共通ですね。

ぼられないですよ。私は一度もないし聞いたこともないです。おつり間違って少なかったり多かったりはあると思いますがみんなスペイン人一般的に真面目なので安心してバルに行きましょう。そしてスペイン語を使ってみて下さい。

最後はアディオースadios さようなら。また明日来るならアスタ・マニアーナ。

ブエン・ビアッヘ

旅行で使うスペイン語、機内やホテルで即使える便利で簡単な表現集

 

宗教画の決まり事、知れば楽しく鑑賞できる聖人達のアトリビュート=象徴物

ほんの少しの知識で美術館は何倍も楽しくなる。

宗教画、知れば楽しく鑑賞できる


今日はキリスト教の宗教画の楽しみ方をご紹介。キリスト教の宗教画には決まり事があって持っている物で誰かわかるようになっている。

この持っている物を「象徴物」=「アトリビュート」と呼ぶ。

プラド美術館の作品を中心にキリスト教の聖人達を見ていきます。

アトリビュート=象徴物

これを知っていたら絶対楽しめる宗教画

キリスト教の宗教画は苦手な方が多いかも。でもアトリビュートや決まりを抑えれば楽しく鑑賞できます。

もともとはうまく絵が描けなかった頃、聖人が誰かわかるように少しづつ決まっていった。

聖ペテロは黄色い服に鍵


黄色い服に鍵=聖ペテロ

イエス・キリストの一番弟子「ペテロ」はもともと漁師。

聖書によると

イエスはペテロに鍵を授けた。

「私についてきなさい。貴方を人間を釣る漁師にしてあげよう。」

「そして貴方をペテロ(岩)と呼びその岩の上に我々の教会の基礎を作ろう」

「貴方にこの鍵を捧げよう。天国の鍵を」

ということで彼の象徴物は「鍵」

たいてい黄色い服を着て天国の鍵を持っています。


知ってました?ローマ法王はペテロの後継者

ペテロが殉教したところが今のサンピエトロ寺院。私は貴方をペテロ(岩・イタリア語でピエトロ)と呼びその岩の上に我々の教会を…の言葉が成就したということでバチカンのサンピエトロ寺院がカトリックの総本山に。ローマ法王はペテロの後継者。


では鍵を持っている聖ペテロを見ていきましょう。

ジュゼップ・リベラ(ホセ・リベラ)の聖ペテロ

<聖ペテロ、プラド美術館>

*ジュゼップ・リベラはスペインではあまり評価されずイタリアのナポリで活躍した画家。

*カラバッジョの明暗法を継承しレアリズムの画家として人気。

*聖人を描いているのに理想像ではなく現実の人間臭い感じ。額の皺の深さにモデルはおそらくナポリの漁師。

 

エル・グレコの聖ペテロ

<聖ペテロ、トレド・グレコの家博物館>

エル・グレコはギリシャ人画家。トレドに移住してほとんど彼の注文主は教会だった。

シリーズで12弟子を描いていてそれぞれの聖人が象徴物を持っている。

 

ピーターポール・ルーベンスの聖ペテロ

<聖ペテロ、プラド美術館>

ルーベンスは画家だけでなく人文学者で外交官もやっていたエリート。

イタリアのマントバ公からスペイン王フェリペ3世へのプレゼントを抱え外交官としてスペインにやって来る。

 


こっちも聖ペテロ↓↓↓

「逆さ十字の刑」も聖ペテロ

同じく聖ペテロはローマで逆さ十字の刑にされるので逆さ十字の絵も。


知ってました?

ローマのサン・ピエトロ寺院は聖ペテロが逆さ十字に会ったところに造られた教会。


カラバッジオの聖ペテロ=逆さ十字

<聖ペテロ ローマ、バジリカ・デ・サンタ・マリア・デル・ポポロ>

エウヘニオ・カヘスの聖ペテロ=逆さ十字

<聖ペテロ トレド大聖堂>

では他の聖人達も見ていきましょう


少し女性っぽいのが聖ヨハネ↓↓↓

聖ヨハネの象徴物は「盃」


聖ヨハネ

キリストに最も愛された。

たいてい年齢も若く女性的か中性的に作品になる。

エフェソスで毒のお酒の飲まされて殺されかけたが盃が蛇になって逃げていって助かったという話から象徴物は「盃」


エル・グレコの聖ヨハネ

<聖ヨハネ プラド美術館>

聖ペテロと比べると若くて中性的な感じなのがよくわかる。

手に蛇がついた盃を持っている。

ピーターポール・ルーベンスの聖ヨハネ

<聖ヨハネ プラド美術館>

肌の色の透明感や髪の巻き毛が綺麗。

やはり手に盃を持っている

*手に盃を持っていて若い男性、ちょっと中性的か女性的だったら聖ヨハネで間違いなし。


こちらも名前はヨハネですが別のヨハネ↓↓↓

洗礼者ヨハネは毛皮と生首


毛皮を着ていたら洗礼者ヨハネ

洗礼者ヨハネって誰?

*イエス・キリストのいとこで荒野を禁欲生活をおくりながら人々に洗礼を行っていた。

*ラクダの毛皮をまとっていたので象徴物の一つは毛皮。

エル・グレコの洗礼者ヨハネ

<キリストの洗礼、プラド美術館>

エル・グレコ、キリストの洗礼のヨハネ
public domain

上作品の下半分拡大図↓

エル・グレコ、キリストの洗礼
pubic domain wikipediaより

右側の男性が腰に毛皮を巻いているので洗礼者ヨハネ。聖書の場面でイエス・キリストに洗礼を施しているところ。

エステバン・ムリーリョの洗礼者ヨハネ

<幼子の洗礼者ヨハネ・プラド美術館>

毛皮見えにくいですが背中側のあたり。

 

レオナルド・ダ・ビンチの洗礼者ヨハネ

<洗礼者ヨハネ・ルーブル美術館>

誘ってる感じですがお約束の毛皮を着て十字架を持っているので洗礼者ヨハネです。


「私が欲しいものは洗礼者ヨハネの首」

洗礼者ヨハネは首を切られて殉教したので「首」

 

洗礼者ヨハネは「悔い改めよ、天国は近づいた」と言って人々にお説教をしていた。

エルサレムの王ヘロデ・アンティパスが兄弟の妻を娶ったのを非難していた。

妻ヘロデアの娘がサロメ。

王の誕生日会でサロメがうまく踊った褒美に欲しいものは「洗礼者ヨハネの首」と言ってっ首を切られて亡くなった。

ティチアーノの洗礼者ヨハネの首

<洗礼者ヨハネの首 プラド美術館>

サロメがお盆に洗礼者ヨハネの首を持って踊っている。

カラバッジオの洗礼者ヨハネの首

<洗礼者ヨハネの首 マドリッド王宮>

やはりサロメが洗礼者ヨハネの首を持っている。


女性で赤い服にブルーのベールは絶対マリア

聖母マリア

イエス・キリストの母マリア

*基本赤い服にブルーのベール。

*おそらく12世紀頃から使われていた。

*真実や慈悲を現すブルーに血や愛を現す赤が使われる。

*その他の象徴物→純潔を表すユリ、12の星の冠や三日月など

例外はフランドル絵画ではブルーのみ又はブルーの服に赤いベールの場合もある。

19世紀にローマ法王ぴお9世により無原罪の御宿りの教義において聖母の衣装は白になる。

 

ベラスケスの聖母マリア

<聖母戴冠  プラド美術館>

エル・グレコと工房の聖母マリア

<聖母マリア プラド美術館>

フラ・アンジェリコの聖母マリア

<聖母マリア プラド美術館>

 

ブルー青は希少だった

ブルーはラピスラズリからとるのでたいへん高価なもので希少価値のあるものであったのも聖母に使うのにふさわしいと昔の人は感じたのかもしれない。

生命は海からやってきたなら命の根源を感じるからなのか様々な絵画に綺麗なブルーが使われそれを見た人間が癒されてきた。

 


アレキサンドリアの聖カタリーナ=車輪 

聖カタリーナまたはサンタ・カタリーナって誰?

*アレキサンドリアの知事の娘。

*3世紀頃当時の最高の教育を受けたカタリーナは母親の影響でキリスト教徒に。

*迫害者ローマ皇帝マクセンティウスのもとに行きキリスト教の迫害を非難する。

*手足を車輪に括り付けて転がされるという拷問を命じられるがカタリーナが触ると車輪はひとりでに壊れた。

*その後斬首刑。

カラバッジオの聖カタリーナ

<聖カタリーナ ティッセン・ボルネミッサ美術館>

カラバッジオのドラマチック感が出ていて挑戦的な視線。綺麗な赤い座布団の上には殉教聖人を現す棕櫚

棕櫚の葉は殉教聖人を表す

フェルナンド・ヤネスの聖カタリーナ

<聖カタリーナ プラド美術館>

足元に壊れた車輪。

聖ルシアは「眼」

びっくりな絵ですがシラクサの聖ルシアはディオクレティアヌスの時代キリスト教を捨てるよう強要される。のどを切っても死なないので目をくりぬかれた。ルシアはラテン語で光という意味luxから。今も光の神様。目の悪い人の守護聖人。冬至の少し前12月13日がサンタ・ルシアの日。一年で最も日照時間が短い時期に光に帰ってきてもらうためサンタルシアを祝った。

スルバランの聖ルシア

<聖ルシア・フランス・シャルトル美術館>


聖アガタは乳房

聖アガタって誰?

*シチリア島カターニアの裕福な貴族の生まれの美しい娘。

*子供の頃にカトリック教徒として神に身を捧げる決意をしていた。

*ローマの総督が彼女の美貌と財産に目をつけ求婚するが断られ腹いせに牢屋に入れ乳房を切り落とす

*祈り続けると傷が完治するがそのあと火あぶりの刑で殉教。

スルバランの聖アガタ

<聖アガタ フランス・モンペリエ・ファーブル美術館>

お盆の上に眼。

スルバランの聖女達はファッション雑誌みたいで綺麗です。


宗教画は意外と面白いのまとめ

象徴物を知っているだけで美術館の時間が楽しくなります。知らない街で知っている聖人に出会うだけで旅はもっと豊かになります。

象徴物はもっと沢山あって探していくと面白いです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

スペインの歴史ダイジェスト版

スペインの歴史をざっくり5分で読めるようにまとめてあるダイジェスト版です。いつ頃人類がスペインにたどり着いたかはまだ不明な点が多いが180万年から150万年前と考えられている。180万年前から始めているのでゆっくり読んだら5分は無理かも〜です。

スペインの歴史ダイジェスト版


イベリア半島にやってきた最初の人類

イベリア半島に最初に人類が到着したのがいつなのかは不明な点が多いが180万年前から150万年前という。あまりにも遠いのでこの辺は省略。

イベリア半島で発見された最古の人骨はアタプエルカ(ブルゴス近郊、世界遺産)にある。19世期の鉄道のトンネル工事の時に発見され1984年の発掘調査では150体の人骨が見つかっている。ヨーロッパに最初に到着した人類の遺構で40万年から20万年前のものだという。

スペイン北部アルタミラ洞窟に2万年前の壁画

時計をうんと進めていこう!後期旧石器時代にホモ・サピエンスの仲間クロマニヨン人がイベリア半島に移住してきた。

約2万年前の洞窟壁画アルタミラはこの時代のもの。

1875年アマチュア考古学者が娘と草原を歩いていると娘が洞窟の中へ入って行って壁画を発見。牛や鹿の後期石器時代マドレーヌ文化のもので生き生きとした動物たちが描かれていた。そのあとフランス・スペイン国境あたりでラスコーなど数々の壁画の発見に繋がる。

<カンタブリア アルタミラの洞窟>

2万年も前の人類がとても生き生きと動物を天井に描いていて振り返ったビソンテや馬など、アルタミラ洞窟は現在傷みが激しく見学できるのは横にある複製。併設する博物館は一見の価値ありです。マドリードの考古学博物館にも洞窟の一部の複製があり見学できる。

何故造った?大きな巨石文化

紀元前2000年ころ、イベリア半島にも巨石文化時代があった。いまだにどういう民族が残したか不明でエーゲ海のクレタ島や地中海のマルタ島などの関連があるかもと言われている。主にアルメリアなどの地中海とバレアレス諸島に集中。

巨石文化はイベリア半島からヨーロッパに広がりフランスのカルナックやイギリスのストーンヘンジ等へ伝わって行ったらしい。しかし巨大な石を屋根にかけたり壁に置いたり、運んでくるのさえ大変だったに違いない。

 

アンテケーラのドルメンの中に入った時にちょっと意識が吹っ飛んだ?感じになった、ここには何かがある、かもね。

<アンテケーラのドルメン>

フェニキア人

フェニキアは現在のレバノンにあった海洋国家。地中海を船で渡って交易をしてスペインの南西の端に紀元前1100年頃今のカディスを建設した。フェニキア人が岩塩や錫を求めてやって来た頃カディスはもとは小さな島だったが土砂の堆積でイベリア半島に繋がった。

それにしても木造船で何千キロもよく移動したなあと感心する。

タルテッソス

南スペインのセビージャ近郊で1958年に建築作業員が偶然発見した金の装飾品郡は「カランボロの財宝」と呼ばれる。紀元前1000年ころ南西部グアダルキビール河のほとりに誕生した国でいまだに謎が多い。旧約聖書に出てくるタルシュスだと言われているが彼らは突然姿を消している。伝説のアトランティスではないかという説も。

 

スペインにもバグパイプ、ケルト人の足跡

紀元前900年ころからインドヨーロッパ語族がピレネー山脈を越えて入って来る。先住民族イベロ族と混血を繰り返し今のスペイン人のルーツとみなされるケルト・イベロ族が形成される。

<ケルトの遺跡  ガリシア・サンタ・テクラ>

ガリシアに行くとケルトの特徴の渦巻模様や石の円形の建築物、バグパイプがある。サンチアゴ・デ・コンポステーラに行くと大聖堂の横でバグパイプの演奏をしていることがある。

ギリシャ人

フェニキアから幾分か遅れてスペインにやってきたのがギリシャ人。彫像や芸術をスペインにもたらした。土着のものと融合してグレコ・イベリアと言われる美しい様式が生まれた。アリカンテの近くで出土したエルチェの婦人像がその代表.。

<エルチェの婦人像 マドリッド国立考古学博物館>

カルタゴとローマ

フェニキアの植民地カルタゴがスペインに入って来るとギリシャ人を駆使し今のイビサを建設。イビサ島は今はセレブの島で有名だが本来素朴な島でカルタゴの遺跡も少しだが存在する。カルタゴはその後シチリアにまで支配権を拡大しローマと衝突。そして有名なポエニ戦争が始まる。

第1回ポエニ戦争は新興国ローマが勝利。負けた将軍がイベリア半島に移住する。その息子がハンニバル。

第2回ポエニ戦争は28歳のハンニバルが像を連れてピレネー・アルプスを越えてローマへ進軍するがローマの勝利。

そして第3回ポエニ戦争でローマはカルタゴを完璧に破壊、そしてイベリア半島にローマ人が入ってくる。

カルタゴの遺跡は殆ど後のローマに破壊されているがカルタヘナに行くとカルタゴの城壁が残る。

ローマの支配

ローマ人もそう簡単にここを手に入れたわけでは無い。かなりの抵抗もあり200年の歳月をかけて制圧しイベリア半島はローマ化した。アウグストゥス帝の時代から5賢帝の時代に多くの寺院や水道橋、劇場などが作られる。オリーブやマグロの塩漬け、小麦、ワイン、金や銀がイベリア半島からローマに輸出される。 。

<メリダの劇場>

キリスト教の伝来とビシゴート

やっとこさ紀元後になった。がここからまだ2000年残っている。

紀元後1世紀中頃スペインにキリスト教が伝来。最初は殉教者を多く出すが次第に深く根差していく。ローマ帝国が分裂し末期状態になった頃ゲルマン民族の大移動、スペインにはビシゴート族がやって来てビシゴート王国が始まった。その首都がトレド(世界遺産)だ。

<トレド>

ビシゴートは先住民のイスパノ・ローマと融合しカトリックに改宗。しかし内紛が多く血なまぐさい事件が続き政治は不安定、民衆の不満に乗じて南からイスラム教徒がやって来る。

イスラムの侵入

スペインの歴史がほかのヨーロッパと違うのがここからのイスラム支配。

711年イベリア半島を虎視眈々と狙っていたアラブ系ベルベル人を主力とするイスラム教徒(サラセン帝国・首都シリア)がジブラルタル海峡を渡って半島に侵入。

遂にビシゴート王国の崩壊。イスラム教徒は寛大な政策を取りキリスト教徒と共存したのが半島征服をたやすくした。イスラム教徒は半島南部を支配。その地域はシリアのウマイヤ朝支配下のアル・アンダルスと呼ばれる。キリスト教徒として人頭税などを払う人をモサラベ、イスラム教徒に改宗した人をムラディと呼ぶ。

後期ウマイヤ朝

シリアで続いていたウマイヤ朝、ところが革命が起こりウマイヤ朝が倒されアッバース朝に交替した。カリフの座を追われたウマイヤ家の血を引く王子がはるばるスペインまでやって来る。そしてコルドバを首都に後期ウマイヤ朝が始まった。

「シリアから正当の王子がやって来てスペインでイスラム王朝が始まった」というわけだ。

その時に作られた回教寺院がコルドバのメスキータという世界遺産。後に929年アブ・ドラーマン3世は自らをカリフ(王)としアル・アンダルスをウマイヤ朝カリフ王国とする。コルドバは栄華を極め数学、医学、天文学、化学などの中心となる。

<コルドバのメスキータ内部>

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Author Steven J. Dunlop, Nerstrand, MN
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レコンキスタと聖ヤコブの遺体の発見

イスラム化しなかった北スペインの山岳地帯でビシゴートの貴族の末裔ペラーヨは722年コバドンガの戦いで初めてイスラム教徒を撃破。

<コバドンガ  サンタ・クエバ>

レコンキスタの始まりだ。

キリスト教徒は北部スペインにアストゥリアス王国を作りイスラム社会からの避難民やフランスからの貴族戦士たちを受け入れ戦って土地を奪い返していく。

フランスではカール大帝が戴冠しレコンキスタを始めていた頃、偶然聖ヤコブの遺骸が発見されている。政治と宗教が絡んで民衆を煽っていったと読むのが妥当だろう。

<聖ヤコブ像>

 

白い馬に跨った聖ヤコブがイスラム教徒と戦ってくれる奇跡が起こる。「神はそれを望んでおられる」というスローガンのもとレコンキスタが進んでいく。1234年コルドバ陥落、1248年セビージャ陥落。この頃ヨーロッパは十字軍思想に燃えていた。

<聖ヤコブ蔵>

スペインの統一とグラナダの陥落

キリスト教徒がレコンキスタを進めながら少しずつ国がまとまって行きカスティーリアの王女イサベルとアラゴン・カタルーニャの王子フェルナンドの結婚。これでほぼ今のスペインのキリスト教世界の統一が完了した。

レコンキスタが進みイスラムの最後の砦はグラナダ王国のみ。実は最後の方のグラナダ王国はカスティーリア王国に高額の税金を払う立場での存続だった。そんな不安定な時代、アルハンブラ宮殿(グラナダ、世界遺産)で千一夜物語が繰り広げられていたわけだ。この王朝は22代254年間続く。

<アルハンブラ宮殿ライオンの中庭>

イサベル女王率いるキリスト教徒軍は1481年グラナダ攻撃をはじめた。約10年間の戦いの間に裏切りや寝返りが続き、1492年にグラナダ陥落。

その同じ年にコロンブスがイサベル女王の援助のもと西回り航海へ。大航海時代の幕開けとなる。さらに、同じ年にスペイン人ローマ法王が即位する。有名な、悪名高いアレッサンドロ6世、ボルジア家のローマ法王だ。

イサベル女王の後

イサベル女王の5人の子供たちは成長すると政略結婚の駒となるが、次々不運に見舞われていく。

長男ホワンは結婚式の途中で亡くなり、長女イサベルはポルトガル王に嫁ぐが産褥死。その息子も死去。次女ホワナはブルゴーニュ公フィリップ美公と結婚し王位継承者となるがフリップ美公突然の死のあと発狂(狂女ファナ)。唯一幸せな結婚をしたのは三女マリア、姉の死後ポルトガル王に嫁ぎ十人の子女を得、その長女イサベルは後にカルロス5世妃となる。

一番下のカタリーナは一番かわいそうで、結婚相手はイギリスのヘンリー7世の息子アーサー、が結婚数か月後に死別。その弟ヘンリー8世と再婚するが彼に愛人ができ離婚されロンドン塔に幽閉。その娘がメアリー・チューダー、又の名をブラッディ・メアリー(血のメアリー)だ。愛人アン・ブリンは最後ロンドン塔に幽閉されるがその娘がエリザベス1世女王となる。

話をスペインに戻して、前述の夫の死後発狂したホアナは正統のスペイン王位継承者。6人の子供を産み長男に王位継承権が移動。

カルロス5世

狂女ファナの長男がスペイン王カルロス1世として即位した。遺産相続で母親側からスペイン、アメリカ大陸、南イタリア、父親側からハプスブルグ領土を手に入れる。神聖ローマ帝国の皇帝になりカルロス5世と呼ばれる。ここからスペインの歴史の黄金時代がやってくる。

<カルロス5世 ティチアーノ作>

 

フェリペ2世

カルロス5世の息子がフェリペ2世。さらにポルトガル領土を手に入れスペインの国土は最高になる。日の沈まぬ大帝国と呼ばれたのがこの時代。フランスとの戦いに勝ちエル・エスコリアル宮殿の造営、レパントの海戦でオスマン・トルコに勝利し絶好調の時代だ。

日本から九州のキリシタン大名の遠縁の子供たち「天正遣欧少年使節団」がスペインにやってきたのはフェリペ2世に謁見するためだった。

しかし次第にその勢いに陰りが見え始め、イギリスのエリザベス女王との敵対関係の末無敵艦隊が英国海軍に負ける。真面目で質素で寡黙で「慎重王」とあだ名されている。

<フェリペ2世 ティチアーノ作>

フェリペ3世

フェリペ2世は世継ぎが生まれず妻に先立たれ4度結婚を繰り返している。最後の結婚で生まれた王子がフェリペ3世として即位。

フェリペ3世は日本から伊達藩の使いの侍たち「支倉常長一行」が謁見した国王。  フェリペ3世は政治にあまり興味のない王で「怠惰王」とあだ名されている

<フェリぺ3世ベラスケス作>

フェリペ4世

その次、フェリペ3世の息子がフェリペ4世。世襲制が続きやはりあまり政治に興味がない国王だ。芸術に目がない国王で絵画と演劇と馬術が好きだったらしい。

<フェリペ4世 ベラスケス 作>

フェリペ4世
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フェリペ4世 は2度結婚する。最初の結婚がフランスのブルボンの王女でイサベル・デ・ブルボン。ふたりの間の娘がフランス国王ルイ14世に嫁いでいる。

*ルイ14世は太陽王と呼ばれたベルサイユ宮殿を作ったフランス国王、その母親も妻もスペインの王女です。

フェリペ4世の王妃が亡くなり、大事な王子も17歳で天に召された。世継ぎが必要と国王の2回目の結婚が決まった。相手は実はフェリペ4世の姪でオーストリア・ハプスブルグの王女マリアーナ、ふたりの間に可愛い長女が生まれた。

長女はマルガリータと名づけられ沢山の肖像画が描かれた。プラド美術館にある有名な作品ベラスケスのラス・メニーナスの中央にいる王女様です。

<ラス・メニーナス ベラスケス 作>

スペイン・ハプスブルグの終焉

そして次に待望の男子誕生、カルロスと名づけられ国王になる。カルロス2世として即位するがスペイン・ハプスブルグ家の血の濃いい結婚のつけが回ってきた。体が弱く子供がないまま他界してしまった。

<カルロス2世 コエーリョ>

スペインは代々「ハプスブルグ家」だったがブルボンとも親戚関係を持っていたこともあり王位継承権を巡ってハプスブルグ対ブルボンの大きな戦争になる。ヨーロッパ列強を巻き込んで12年間の戦争の末ブルボンの勝利。ルイ14世の孫がフェリペ5世として即位しスペイン・ブルボン朝が始まる。

この戦争でスペインはジブラルタルをイギリスに割譲。スペインの最南端ジブラルタルはいまだにイギリス領土です。

スペイン側からパチリ、この先がイギリス

カルロス4世とフェルナンド7世

フェリペ5世の息子カルロス3世は立派な王様だったが次のカルロス4世は人がいいが無能な国王。

下の絵、プラド美術館にあるゴヤの「カルロス4世の家族」の真ん中より少し右にいる人物だ。この時代にフランス革命、そしてナポレオン戦争と混乱が続く。王の息子フェルナンド、下の絵の左から2番目はナポレオンに味方して父王の退位を手伝ったという人物で、ナポレオンののちのスペインで「フェルナンド7世」として即位するがスペインに混乱のみを与える。

<カルロス4世と家族 ゴヤ作>

イサベル2世とアルフォンソ12世

フェルナンド7世には娘しかいなかった。本来ブルボンの王位継承の法律では女性は王になれないので次は弟が王のはず、が法律を変え娘を次の女王にする。イサベル2世として即位。なので、王になるはずだった弟側とのちょっとした戦争になっている。

<イサベル2世>

イサベル2世
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イサベル2世の息子がアルフォンソ12世。米西戦争の敗北キューバの独立やプエルトリコの割譲、フィリピンの売却という散々な時代、16世紀の日の沈まぬ国は斜陽の下り坂を突き進む。

<アルフォンソ12世>

アルフォンソ12世
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アルフォンソ13世とスペイン内戦

その息子アルフォンソ13世は16歳で即位するも国内の民族問題モロッコの反乱、アナーキストの台頭、国内の内乱はスペインの持病に違いない。大変な混乱そして亡命が待っていた。

<アルフォンソ13世>

スペイン内戦

国王亡命、左右両勢力の対立激化政治家の暗殺事件そして軍事クーデター。スペインは長い内戦に突入。

内戦でヘミングウィーやジョージオーウェル等が国際旅団でスペインにやって来る。多くの知識人階層が外国に亡命。

芸術家たちもフランスに亡命する。ピカソやミロなどがパリ万博に作品を展示し戦争の悲劇を人々に訴える。 バスク地方のゲルニカの爆撃 はこの時に起こった。

この戦争は1939年反乱軍の勝利で終わりスペインはフランコの独裁政権が始まる。戦争の後も多くの共和国主義者が処刑されている。独裁政権下はバスクやカタルーニャは自分たちの言葉を話す事も禁止され抑圧をうける。

冷戦時にアメリカが反共反ロシアでスペインに近づいてきて北太平洋条約機構に加盟。フランコは晩年中道政策を取り始める。

フランコ後

1975年独裁者フランコが死去し前国王ホアン・カルロスが即位。議会を開いて首相を任命し議会制民主主義の国になる。

1992年バルセロナ・オリンピックとセビリア万博が行われ世界に近代スペインを表明。同じ年にオリンピックと世界万博が同時に行われたのは史上初めてだったそうです。

現代のスペイン

国民一人当たりのGDPは日本とほぼ同じ。平均寿命日本とほぼ同じ。食物自給率120パーセント。官民連携事業の受注世界一。世界の交通事業の40パーセントを請け負う。

コロナ禍で大きな痛手を受けましたがポストコロナに向けて動き始めました。

 

まとめ

長いスペインの歴史をざっくり読めるようにまとめてみました。5分はちょっと無理でしたか?スペインは複雑、様々な民族が通り過ぎ何かを置いていった。それらの残していったもの全てが今のスペインの魅力です。旅をするのに少しだけ歴史を知っていると見るもの訪れるところの価値もグッと上がって行きます。

 

ビスカヤ橋は世界遺産、ビルバオからメトロで簡単にいけます

ビスカヤ「橋」と名前がついていますが頭の中にある「橋」の概念をまずは取り払って行きましょう。120年以上前にこんな発想で橋を作った人がいた。ビルバオから12キロにある世界遺産のビスカヤ橋って何?という記事

ビスカヤ橋は世界遺産です


ビスカヤ橋というからには橋です、でも運搬橋

スペイン北部バスク地方にあるビルバオから12キロ。ビルバオは鉄鉱石が取れてローマ時代から重要な街。今もスペインで最も重要な工業の街で鉱工業で栄えたビルバオに沢山の大型船が入ってくる。大きな橋を架けると橋の下を船が通れない、かといって背の高い橋にしようとすると両岸にある街に大きな導入部を作らなければならなくなる。そこで考えたのがこの運搬橋。ビスカヤ橋は今も地元の人々の重要な交通機関として使われていてそして世界遺産です。

ビスカヤ橋は明治26年完成 120年以上前の技術

丁度ここは労働者地区ポルトガレテと対岸の富裕層地区ゲッチョを往来する人々の為に渡し舟があった。橋を架けると下を大型船が通れない、背の高い橋にすると急勾配で登れない。そこで橋ではなくてゴンドラが往来する運搬橋が架けられた。
1893年日本は明治26年、パリのエッフェル塔が1889年完成なのでその4年後です。

下の写真の白い四角いのがビスカヤ橋のゴンドラでここに車と人が乗り川のあちら側とこちら側を行き来する。渡し舟がぶら下がっているイメージ。

渡るのは公共の交通機関ですが別料金で上に上ることも出来ます。両方の橋げたにエレベーター。売店で切符を買って歩いて渡ることができます。ビスカヤ橋を歩いて渡る方は値段が高く5ユーロ位。時々エレベーターが壊れて反対側からしか降りれなかったりします。

<ビスカヤ橋>

ビスカヤ橋
筆者撮影

ビスカヤ橋には当時の革新的な技術を用いた鉄製のワイヤーが使われている。
164メートルの距離を2分弱かけて渡る。6台の自動車と300人の人を運ぶことができ24時間大体8分毎。運賃はビルバオの交通と一体化しているためバスや地下鉄と同じ切符が使える。

<ビスカヤ橋>

ビスカヤ橋
筆者撮影

ビスカヤ橋の建築家はエッフェルの弟子

建築家はアルベルト・パラシオ。パリのエッフェル塔の建築家ギュスターフ・エッフェルの弟子。エッフェルは鉄の技師だった。その鉄の技術がこの橋を支えた。アルベルト・パラシオはほかにマドリッドでスペイン銀行、クリスタル宮殿、アトーチャ駅を作っている当時の有名建築家だった。

運搬橋は他にもあるらしい

ビルバオは工業都市なので大型船が海から物を運んでやって来る。船を通すために橋を高くすると急こう配を登って行くか導入経路を長くする必要がある。それを解消できたのが運搬橋。現在もフランス、ドイツ、イギリス、アメリカ、ロシアに運搬橋が現存する。その最古がこのビスカヤ橋なのです。

「世界最古の今も使われている運搬橋」がビスカヤ橋

ビスカヤ橋行き方

ビルバオから地下鉄で河のどちら側にも行けるので往復で別ルートにすれば同じ道を通らずビルバオから行って帰れます。

ゲッチョ側最寄りarreta ,ポルトガレテ最寄り portugalete 行きはゲッチョで降りてビスカヤ橋を渡ってポルトガレテから戻ってくる、またはその逆。どちらも橋の近辺にバルやスーパー、公衆トイレあり。

ビルバオはメトロ2路線しか線ががないのでわかりやすい

<L1>arreta <L2>portugalete。

ビスカヤ橋まとめ

ビスカヤ橋が凄いのは今も公共の交通機関として使われている。ビルバオの地下鉄の切符の安い値段で24時間運航している市民の足なのです。ビスカヤ橋にはビルバオからメトロで行く事が可能なので時間があれば是非行ってみてください。ビスカヤ橋の下を小型飛行機が飛ぶ航空ショー等のイベントも行われます。


 

マドリード地元人気バル。中心部の老舗「Ñeru 」ビールに無料のおつまみ。お昼の定食も人気。

マドリードの中心部に沢山バルが有りますが最近は観光客ばかりのお店が増え値段は上がりサービスは低下した。働いているのも殆ど外国人であまり愛想良くなく大抵感じ悪い。そういうバルに地元のスペイン人は近づかない。ここでは中心部にあるのに地元のスペイン人が通うバル、そしてビールを頼むとおつまみが着くお店をご紹介します。混んでいると満員電車並みの時もありますが、じわじわ自分の場所を確保して大声でスペイン語で注文してみてください。平日のお昼は定食メニュー・デル・ディアもあります。

マドリッド中心部のSidreria(シードラ屋)

マドリード地元人気バルが中心部、ツーリスティックなところに残る。スペイン旅行中必ずお世話になるのがバル。このお店はビールを頼むとタパス(おつまみ)無料です。昔はおつまみ付けるバルが普通にあったけど最近はマドリッドでは少なくなった。ビール1,5ユーロで無料のタパス(おつまみ)。地元の人がたくさんやって来るお店なので地元民に混じってバルを楽しむのは旅行の醍醐味。

すぐそこはマヨール広場やサン ミゲール市場という賑やかな1等地。華やかなツーリスト向けのお店が沢山ある界隈に古くから続く地元民のバルがある。

 

 

アストゥリアス料理のバル・ レストランです。アストゥリアスはスペイン北部の山岳地帯。バル・ レストランは大抵奥がレストランで手前に細長いバル。地元のお客さん達がひっきりなしにやってくる。看板にsidreriaとあるのはシードラ屋ですという意味でアストゥリアスはリンゴの発泡酒の産地。シードラはリンゴの発泡酒。

 

みんな1杯飲んだら出ていく感じです。

2杯目頼むとまた別のタパス

生ビール1杯「ウナ カーニャ」と頼むと何が良い?と聞いてくれて私は「トルティージャ エスパニョーラ」 スペインオムレツ。ポテトが入ったオムレツでスペインのバルの定番メニュー。もちろんシードラでもワインでもおつまみ付きます。言葉通じなくても目の前においてあるのを指さしてもいいし隣の人のを指さしで「あれ」で通じます。

 

トルティージャ作りたてでボリュームあります。

地元ピープルのバルは床にゴミを捨てる。最近はあまり見なくなってきたけどここにはまだ本物のスペインが残っていた。

じゃあ2杯目 いきまーす。「オートラ・ カーニャ・ ポルファ」「もう1杯ビールください」と「頼むと何にする?」「選べるんだ。」「何がありますか?」と聞くとチーズか魚のフライだそうで魚のフライにしました。

地元のおじさん達は1杯ビール飲んでおつまみでさっさと帰って行く。「バルで長居はしない」スペイン人の鉄則。私は2杯めのおつまみ片口鰯のフライ。値段はビール代だけで1,5ユーロですよ〜170円位です。友達はシードラとチーズ。牛とヤギのチーズのミックスで臭みの無い柔らかい味。もうこれでお腹いっぱいになりましたがレストラン部門見に行きましょう。

大抵のバルには奥や階下にレストラン部門があってすわってゆっくり前菜メインデザートとコースでお食事ができます。お昼は定食<メニューデルディア> <menu del dia >があってアラカルトより割安でお食事ができます。

 

階段下はレストラン・定食16ユーロ

たいていのバルは奥にレストラン。ランチ13時夕食20時から。

定食16ユーロ

定食は menu del diaメニューデルディア。

下の写真がお品書き primeros 前菜  から一品segundos  メインから一品bebida 飲み物 ビール、ワイン、ミネラルウォーター、ジュース類など。 postore o cafe デザートかコーヒーで16ユーロ

デザートはたいてい口頭で今日何があるか教えてくれる。プリン、アイスクリーム、季節の果物、など。

前菜

fabes con almejas  大きな白い豆の煮込みにアサリ入り

gaspacho

夏はこれですね

ガスパチョに入れますか?野菜の切ったのを持ってきてくれます。と聞いてくれるのでお好きな物を。パン、きゅうり、ピーマン、トマト。全部入れても大丈夫。私はいつも<全部少しづつ> <ウン・ポコ・デ・トド>

 

メイン

bonito con tomate カツオのトマト風味

 

 

calamares negros イカの墨煮

デザート

cuajada  凝乳

natilla カスタード・クリーム

 

清算はラ・クエンタ

ラ・クエンタというか空に字を書くジェスチャーで清算。請求書はテーブルに持ってきます。座ったまま会計。カードだとテーブルに機械を持ってくるので暗証番号を入れる。 チップは2人で1ユーロで大丈夫。カードで払ってもチップは現金でね。請求書が入っていたお皿にチップだけ置いて立ち去ります。

行き方

Restaurante ÑERU  c/Bordadores,5

地下鉄5号線opera 下車徒歩5分(1号線、3号線sol から10分、3号線callaoから10分)マヨール広場からすぐ。

まとめ

スペイン旅行でマドリードにいるなら絶対おすすめのバル。マドリードにあるタパス無料のバル。マヨール広場やソル広場も近く散策の途中で寄ってみてください。地元の人が大勢いるので交流のチャンスです。基本椅子なしですがバルのカウンターの奥の方にひとつだけ4人掛け位のテーブルとイスがあります。誰もいなければ座って大丈夫です。

ブエン・アプロベッチョ~良いお食事を~

スペイン人の人生観

 

 

人生で大事な事は今を楽しむ事。この国に住んでいつも感心するのはみんなとにかく楽しむことが上手で参った。楽しませてもらうのを待っていなくて自分で勝手に楽しんでいる。

街を歩いていても難しい顔で歩いている人はあまりいない。スペイン人はみんな楽しそうだ。遠慮とか先に相手の事を考えるように育っていないので気楽でいい。

そう大事なことは「人生は楽しむためにある」

 

 

パーソナルディスタンス

お喋りしていてもエネルギッシュで顔と顔がくっつきそう。

なのにすごい大きな声で話している。

耳悪いんじゃないの?

どっかに金鉱でも見つけたわけ?

一緒に話すとこちらはヘトヘトになる。

 

パーソナルディスタンスというのがあって

文化によって人と人が話すときの距離が違う。

アングロサクソンは遠くてラテンは近い。

スペイン人のパーソナルディスタンスは目茶近い。

目がクラクラする。

後ろに下がると向こうが近づくから又下がる。

人生観

仕事でも子育てでも悲壮感がない。

貧しい人も病気の人も離婚した人やシングルマザーも

 

知り合いのスペイン人の男性が離婚して

「僕のエックスワイフ(離婚した前奥さん)に彼氏ができてさ~

この間紹介されたよ。今その彼と暮らしているんだって。

僕が買った家にね」

って明るく話してくれた。

 

もちろん問題がないわけでも悩みや苦しみが無いわけでもないけど

若者の失業や政治家の汚職、問題山積みだけど。

今この時間は楽しむためにあるなら楽しく過ごすのよ~という考え方。

もう遺伝子レベルだと思う。

問題が無いわけではない

テレビのニュースを見れば失業や事件は数々あるけれど。今の自分をわきまえながら又は悲しい現実を受け入れながらも今を生きる事に執着しているのがスペイン人。

守られた労働者が働かないとかもっと安い東欧諸国に生産拠点が移動するなど今も労働環境は問題は山の様にあります。

ライフワークバランス

「ライフ・ワーク・バランス」というの言葉をご存じでしょうか。人生の中で仕事と自分の時間のバランス。

これがすごくいいのがスペイン。残業なんかしないし、単身赴任はもちろん無い。仕事が終わったらあっという間にみんな自分の趣味の時間。金曜日は午前中で仕事は終わる会社が沢山ある。バカンスは年間4週間確実に消化。自殺者より交通事故死のほうが多い。それはそれで問題ですが。

先日学校の子供たちの宿題が多すぎると言って父兄会が学校に抗議。だって、家族で楽しむ時間減るでしょうって・・・・

日本から見るとスペインはまだまだ遅れている国という感覚が強いかもしれません。日本からくる観光客の方々はスペインの休憩時間やバカンスの話をすると「働けよ!」というリアクションが多いですが今一人当たりのGDPは日本もスペインもほぼ同じです。残業しない国でバカンス取って労働時間はずっと少ないという事です。日本も新しい時代を迎えないといけない時期がやって来ました。

でもそれとこれは別

様々な問題を抱えて生きている人が外に出てバルに行くと生き生きと楽しそうに語りだし周りもみんなで連れ出して楽しむ。外に出て人と会話をすることが人を明るくするのだと思う。弱者にも優しい社会なので様々な人々が街で楽しめるのが魅力ですね。ボートで命からがらやって来た人が生きていける社会があるのは素晴らしいと思う。

 

ピカソのゲルニカ(ソフィア王妃芸術センター)

ゲルニカ

ピカソの「ゲルニカ」という作品がある。

 

現在マドリッドにある近代美術館「ソフィア・王妃芸術センター」の珠玉の逸品。
「Centro de arte Reyna Sofia」

 

「ゲルニカ」は人類にとって非常に大切な作品。

もうこの美術館から出ることは無い。

image.jpeg
この写真自分で撮ったものです。

以前撮影が許可されていた時期があって。
もっと色々撮ればよかった。
その許可は直ぐに無くなってしまったから。

ピカソ

「ピカソ」と聞くと何をイメージしますか?
「変な絵を描く人?」
「歪んだ顔を描く奇人?」

 

丁度写真機が小型化して画家たちが失業した時代があった。
それまでの既存の写実画をカメラがやってくれる時代がやってきた。

 

神様は全てを準備して天才をこの世に送り込む。

ゲルニカは町の名前

「ゲルニカ」は町の名前
パイス・バスク (バスク州)にある工場も無ければ武器も作っていない今も存在する小さな町の名前。

スペイン内戦

スペイン内戦、または市民戦争と呼ばれる悲惨な戦争があった。
内戦なのでスペイン人同士が戦った戦争です。

第一次大戦後国内で民衆の不満が高まり共和派と保守派の対立が大きくなり
国王アルフォンソ13世の亡命、内政の混乱、フランコの登場。

内戦が始まると列強各国が集まって会議を開くが結局は自国の利益が大事。イギリス・フランスはスペインが共産国になるのは困るので不干渉政策。当時ドイツでヒットラー、イタリアでムッソリーニが登場していた。彼らは反乱軍フランコに援助をはじめる。最後にロシアがスペイン共和国軍に援助を決めスペイン内戦は後ろに大国が先端技術を実験する場。今のシリアの内戦と同じで後ろに大国や魔の商人達の思惑が絡んだ代理戦争になる。

ドイツのヒットラーとスペインのフランコの利害関係が一致。バスク地方は鉄鉱石や石炭などが取れ造船などもやっている重工業地帯。そこを手に入れようと思ったドイツのヒットラーがコンドル部隊を送って来る。一般市民に対し飛行機から無差別に爆弾を落とし街を陥落させる威力の練習場とする。

ゲルニカ

ゲルニカは小さな町です。
町のお祭りの日を選んで着飾って出てきた民衆に向かいフランコに要請されたドイツのコンドル部隊が無差別に民衆に向けて爆弾を落とした。

 

町は焼け野原になり人々は希望を失い家族を殺された。
家は焼かれ子供達は死んでいった。
若者は夢を奪われ未来を失った。残ったのは絶望と憎しみ。

パリ万博

丁度その頃スペイン人のアーティスト達はパリに亡命していた。
ピカソやミロ達。

 

そのパリで7度目の国際万国博覧会が行われることに。万国博覧会のテーマは「科学技術と日常生活の芸術」科学がメインのテーマ。
亡命スペイン人アーティスト達が助け合って祖国のパビリオンに飾るものを
準備し始めていた。

ゲルニカの爆撃

1937年4月26日ゲルニカの爆撃。
小さな小さな町をドイツのコンドル部隊が2時間半にわたって爆撃。当時飛行機が発明されたころ人々は大きな爆音を立ててやって来る飛行機さえも驚いてみたに違いない。そこから爆弾が投下された。お祭りを楽しみにやって来た民衆に向けて。

暫くして飛行機がいなくなった後防空壕に避難した人たちが戻ったようだ。死体の中から家族を探し怪我人を助けたりしているところにもう一度飛行機が戻って来て低空飛行をはじめ機関銃を持った兵士が民衆を狙い撃ちした。

 

爆撃後の廃墟の写真が新聞に発表されピカソはしばらく沈黙した。
そして構想を全て変更し6月4日にこの作品を完成させた。

ピカソからのメッセージ

縦3,5メートル横7,8メートルの巨大な作品には今もピカソからのメッセージ
image.jpeg
ある時ナチスドイツがピカソに「あなたが描いたんですか」
と聞きに来た。
ピカソの返事は
「違いますよ、あなた達がやったんです」

 

1937年パリ万博のテーマ
「科学技術と日常生活の芸術」
科学技術を絶賛する万博にこの作品がスペイン館に置かれた意味は大きい。

ソフィア王妃芸術センターアクセス

メトロ一号線アトーチャ駅から徒歩3分

プラド美術館から徒歩10分(paseo del Prado)

ガラスのエレベータの間を入っていくと切符売り場です。

開館時間、休館日、無料の時間等

月曜~土曜 10時―21時(火曜日休館日)

日曜 10時~19時

休館日 火曜日(1月1日、6日、5月15日、12月24,25日31日変更有)

平日の19時からと日曜13時30分から無料

写真撮影ーゲルニカとその周りの部屋は全部禁止。                       それ以外はフラッシュなしで。 ビデオは禁止。

 

入場するのにセキュリティーチェック

空港とほぼ同じ要領だと思ってください。(液体のものは持って入れます。)

大きなカバン、大きめのリュックサック、刃物、棒状の長いものはダメ。

杖の先が金属のものはダメ(先がゴムのものは大丈夫)

荷物を預けるところがあります。

念のため貴重品は出しましょう。

シエラ・ネバダの綺麗な村

スペインは山岳国

知られていませんがスペインはヨーロッパではスイスについでの山岳国。

多くの地域では冬は雪に閉ざされる。

大きな山脈が国内を分断していて交通機関が発達していなかった頃に

山に分断されたそれぞれの地域で独特の文化が育っていった。

アンダルシア

南スペイン・アンダルシア地方
なんとなく私達外国人の持つスペインのイメージにぴったりな所です。

人々はのんびりしていて陽気で人懐っこい。
人が集まると輪が出来て誰か歌い誰かが踊りだしそうだ。

 

そのアンダルシアに「グラナダ」という町がある。

私にとっては特別な町。
町中にお花の香りとイスラムの残像。

自分の記憶の中に「香り」が克明に残っているのはグラナダだけなんです。

イスラム教徒は香りのいいお花を好んで植えていった。
少し小高い丘の上に。
だから風が香りを運んでくる。

シエラネバダ

スペインは山岳国でいがいと沢山の山がある。                           一番南、アンダルシアにシエラ・ネバダ。
最高峰はムルアセン3478メートル

シエラは山、ネバダは雪が積もったという意味

シエラ・ネバダは冬にはたっぷりと雪を積もらせ地中海の風を堰き止めるので         冬のグラナダは底冷えがするほど寒い。

ヨーロッパで1番緯度の低いところにあるスキー場                         お天気がいいとスキー場から地中海が見える。

アルプハーラス

この山の中に綺麗な村が点在する。
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1492年アルハンブラ宮殿がキリスト教徒により陥落したあとのイスラム教徒達が
隠れ住んだ村。
こんな山の中までは追ってこなかった。
段々畑に作物を作ってひっそり暮らしていた村です。
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Alpujarras アルプハラスの村々
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グラナダから車で2時間ほど。
中央の線もないような曲がりくねった登り坂を延々と。
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Lanjaron ランハロン1085m 〜Pampaneira パンパネイラ1296m〜
Bubion ブビオン1296m〜Capileira カピレイラ1436m
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と真っ白い綺麗な村がつづく
スペインで1番の長寿村でもあります。
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グラナダからアルプハーラス行き方

グラナダバスターミナルEstacion de Autobus からアルサAutobus Alsa
10:00発 12:00発 16:30発 各村を通り
時刻は変更あります。www.alsa.es
Alsaというバス会社の公式ホームページから確認できます。

 

カピレイラまでには約2時間〜2時間30分
タクシーだとランハロン51ユーロ
パンパネイラ76ユーロ
ブビオン80ユーロ
カピレイラ82ユーロ
それぞれ時間や曜日によって多少変わります。
目安だと思って下さい。

 

小さなホテルやレストランが何軒かあります。
山好きなら8キロくらいで山小屋まで。
昨年の5月まだ雪の中でした
標高2500メートル以上はアイゼン・ピッケル要

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