マドリードおすすめレストラン4軒、地元の人が通う昔ながらの老舗のお店<レストラン編>

 

マドリードにあるおすすめレストランをご紹介します。老舗の昔ながらのレストランで安心してお食事できる筆者がマドリードで個人的に行く(実はあまり教えたくない)レストランです。今回は今流行りの創作料理レストランではなく流行に左右されずに長年の伝統を守っているマドリードの地元の人に愛されているレストランです。地元の人達が中心なのであまり英語は通じないかもしれませんがツーリスティックでなく対応も丁寧なレストランを選びました。

 

Casa Alberto カサ・アルベルト<カスティーリア料理>


C/Huertas 18

地下鉄1号線2号線3号線ソルから徒歩10分。プラド美術館から徒歩10分位

レストランの公式ページ

<http://www.casaalberto.es/>>

 

カサ・アルベルト
筆者撮影

1827年創業レストランなので日本はまだ江戸時代で葛飾北斎が活躍していた頃から営業しているレストラン。マドリードの闘牛ファンが集まり討論をかわし昔は劇場の切符も売っていたそうで観劇帰りの人でにぎわった歴史のあるお店です。レストランと手前にバルがあってどちらもいつも込み合っています。建物はセルバンテスが住んでいたという400年前の歴史ある建造物です。

<カサ・アルベルト、入るとバルが有りその奥がレストラン>

カサ・アルベルト
筆者撮影

レストランは座席が30席ほどと小さく地元の人達でいつも混んでいます。なるべく予約して行ってください。

今回は13時45分頃到着、まだ開店すぐですが一組既にお食事中でした。

カサ・アルベルト
筆者撮影

メニューは木の表紙でずっしり重い。

カサ・アルベルト
筆者撮影

スペイン語の下に英語とフランス語が書いてあります。

カサ・アルベルト
筆者撮影

私たちは前菜にアーティチョーク一皿を2人で分ける事にしてメインにお肉とイカを各自取ることにしました。一皿が大きいので(下の写真)前菜はシェアーでいいかもしれません。

カサ・アルベルト
筆者撮影

メインにエントレコット(牛肉のあばら肉リブロース)焼き具合を聞いてくれます。

カサ・アルベルト
筆者撮影

私はチピロネス(イカ)と手前の黒いのは玉ねぎのイカスミ風味

カサ・アルベルト
筆者撮影

デザートはチーズケーキをひとつだけ頼みました。

カサ・アルベルト
筆者撮影

ワインはCUNEのクリアンサを頼んで約合計70ユーロ位、チップは3ユーロ置いてきました。

コシード・マドリレーニョ(エジプト豆の煮込み)を食べている人が多かったのは毎週木曜日はコシードの日だそうです。

カサ・アルベルト
筆者撮影

レストランの手前はバルで樽出しのベルモット(少し甘いアルコール強化ワイン)が有名。つまみも有るので軽くつまみとかちょっと一杯だけの場合はバルもおすすめ。有名店でなのでバルはいつも込み合っていて座るのは難しい。キッチンが開いている時間だと無料でおつまみが出ます。

 

Can Punyetes カン・プンジェテス<カタラン料理>


カタラン料理レストランで冬にはネギのカルソッが有りますお肉が炭焼きでマドリードの地元民に人気。カルソッは冬の12月から3月頃までのみ。平日のお昼は定食も13ユーロ50セントで提供している。プラド美術館近くにも同じレストランがあります。メニューも店員さんもスペイン語のみのお店です。定食も聞かないと教えてくれません。

can punyetes 本店

Calle de los Señores de Luzón 5

地下鉄 2号線オペラ、1号線ソル

レストランの公式ページです

<http://www.canpunyetesmadrid.es/>

 

マドリード中心部マヨール広場のすぐ近くにあるレストラン。市役所広場から30秒の所。こんなに中心部にあるのに全く観光客ずれしていない昔ながらのお店です。流行に迎合せずしっかりやっているレストランなのでいつまでもこのまま続いてほしい一店です。

マヨール広場のすぐ横にある市役所広場(plaza de la villa)を背中にしてマヨール通りを渡ると正面にある狭い路地にあるレストランです。

<カン・プンジェテス外観>

カン・プンジェテス
筆者撮影

 

<カン・プンジェテス内部>

カン・プンジェテス
筆者撮影

<Calçot カルソッ、ねぎ焼き>

ネギ焼きカルソッ
筆者撮影

外の皮をむいて奥にある黄色っぽいソース(ロメスコソース)をたっぷりつけていただきます。しっとり甘くていくらでもいただけます。顔を上に向けて手でネギを顔の上にぶら下げて頂きます。こんな食べ方して大丈夫かという感じですがこれがカルソッの食べ方です。タルーニャ地方タラゴナに行くとカルソッの専門店が沢山あります。

<チャンピニオン、マッシュルーム>

マッシュルーム
筆者撮影

マッシュルームが今回はこんなに大きかったですが季節によって小さいのが沢山入っていることもあります。素材が甘くておいしいので炭火焼きで何もつけないで美味しいです。

<グリーンアスパラの炭火焼き>

カンプンジェテス
筆者撮影

グリーンアスパラを炭火で焼くところは少ないです。素材が美味しいのでこのまま岩塩だけでもいいですがソースも手作りのもので美味しいです。

<チュレタ・デ・コルデロ、子羊のあばら肉の炭火焼き>

子羊の炭火焼き
筆者撮影

子羊のあばら肉の炭火焼きです。これはおすすめしたい一品。全く臭みが無く油が落ちてミルクの味がします。日本で子羊が食べれない方でも絶対おいしくいただけます。

<ブティファラ、カタランソーセージ>

カンプンジェテス
筆者撮影

ブティファラはカタルーニャのソーセージ。炭火で油が落ちているので他で食べた事無い位美味しいです。ブティファラカタランがこの写真のもので他にブティファラネグラという黒ソーセージもありました。ソーセージの隣はパン・コン・トマテ。パンにトマトを擦りつけてオリーブオイルをかけたカタルーニャの一品。注文はしていなくブティファラに付いているみたいです。

<クレマ・カタラン、カタルーニャクリーム>

カンプンジェテス、デザート
筆者撮影

デザートも手作り感があってどれも美味しい。これはクレマカタラン。カスタードクリームの上をオーブンでパリッと焼いてある。カタルーニャのデザートといえばこれですね。

ワインも頼んで合計80ユーロ位でチップを4ユーロ置いてきました。

*近くにバルでタパスが無料で出る地元の人が集まるバルが有ります。お昼の定食も定評。別記事でこちら。

*Ñeru ビールに無料のおつまみ

El Buey エル・ブエイ <陶板焼き牛肉>


地下鉄2号線オペラ近く

 

レストランの公式ページ

http://<https://restauranteelbuey.com/>

 

マドリード王宮、オペラ座近くのお肉専門店。上院議会場のすぐ横なので議員さん達もやって来る。熱く焼いた陶板の上で牛肉をお好みで焼いていただきます。ゴヤ地区にも同じレストランがあります。

<エル・ブエイ入口>

エルブエイ
筆者撮影

<開店早々のお店の様子>

エルブエイ
筆者撮影

<ベレンヘナ・コン・ベチャメル、茄子のグラタンソース>

エルブエイ、茄子の前菜
筆者撮影

今日の前菜の一部はメニューに書いていないお勧めをウェイターさんがこんなのもありますと口頭で伝えてくれます。

<セタ・アラ・プランチャ、キノコのソテー>

エルブエイ、キノコ
筆者撮影

セタ(seta)は大きなマイタケの一種でオリーブオイルで焼いて粉チーズがかかっていました。

<チュレトン・デ・ブエイ、牛肉の陶板焼き>

エルブエイ
筆者撮影

熱く焼いた陶板のお皿で肉を好みの焼き加減でいただきます。写真は2人前を3人で分けました。お皿は冷めたら取り替えてくれます。真ん中のポテトフライはお肉に付いてきます。

15時過ぎお腹いっぱいいただいて帰るころは超満員。どこのレストランもスペイン人でいっぱいになるのは14時過ぎからです。

エルブエイ
筆者撮影

ワインも頼んで合計100ユーロ位でした。チップ4ユーロ置いてきました。

 

*お肉好きならレアル・マドリードのサッカー場近くに選手達も良く行く有名店があります。私の一押しです。別記事でこちらへ。

*アサドール・ドノスティアラ。

 

 

GOIZEGO KABI  ゴイツェゴ・カビ<バスク料理>


Call del Comandante Zorita,37 derecha

地下鉄2号線クアトロカミーノから徒歩10分(*1号線のアルバラードから徒歩5分ですが途中移民の多い少し危険地区を歩くので注意!)帰りはタクシーを使いましょう。

レストランの公式ページ

http://<http://kabi.goizeko-gaztelupe.com/>

 

バスクに本店があるバスク料理のマドリード店老舗レストランです。エレガントなムードですが気取っていないところが人気の秘密かもしれません。こじんまりしていてサービスも洗練されていますので接待などにも最適です。同じゴイツェゴ・カビ・レストランがサラマンカ地区のホテル・ウェリントン横(ベラスケス通り)にゴイツェゴ・ウェリントンがあります。同じメニュー宿泊している地域によってはそちらへどうぞ。

アミューズは「かぼちゃのクリーム」ピンボケで・・・スミマセン。

ゴイツェゴカビ
筆者撮影

冷たい前菜に「アスパラガスとツナのサラダ」をシェアーで頼みました。

ゴイツェゴ・カビ
筆者撮影

暖かい前菜から「コートを着た海老ゴイツェゴ風」

ゴイツェゴ・カビ
筆者撮影

「チピロン(イカ)の玉ねぎ風味」

ゴイツェゴ・カビ
筆者撮影

「エビの鉄板焼き」季節によりエビの種類が変わる。

ゴイツェゴ・カビ
筆者撮影

「エントレコット(牛肉のリブロース)扇風」

ゴイツェゴ・カビ
筆者撮影

22時頃の店内の様子。常連さんが多い感じでした。割と気さくな服装で楽しくお食事が出来るエレガントな高級店です。メトレ(ヘッドウェイター)、カマレロ(ウィエター)もプロな動きですが慇懃過ぎずシンパティコ(感じ良く)でリラックスしてお食事が出来ます。

ゴイツェゴ・カビ
筆者撮影

今回はア・ラ・カルタで頼みましたが週替わりのメニュー・ガストロノミコはデザートとワイン付きで55ユーロは少しずつ色々な料理が楽しめる。Madridajeと言ってワインを何種類かお食事に合わせてもらうと10ユーロ増し。アラカルタで頼むのが面倒な時は良いですね。ただ沢山出てくるので量は覚悟しましょう。ワインリストも充実していてベガ・シシリア等の高級ワインもそろっていました。

*メニュー・ガストロノミコやメニュー・デグスタシオンというおすすめ料理が数皿のコースの場合は同席する人全員同じメニューを人数分頼む事になります。一皿は通常の物より小さいサイズで様々な物を試せます。

 

マドリードでお肉を食べるならここ<レストラン・アサドール・ドノスティラ>レアルの選手に会えるかも。

最後に

スペインは大抵どこで何を召し上がってもあまり失敗はないです。ただ最近は中心部のツーリスティックなところは残念なお店も増えて来て悲しい。星の数ほどあるレストランの中からもし親しい友達が来たら教えたいレストランをご紹介しました。英語はあまり通じませんので愛嬌と度胸で行ってください。

 

スルバラン(フランシスコ・デ・スルバラン){プラド美術館スペイン17世紀黄金世紀の巨匠達}

 

 

スルバランはスペイン17世紀バロック期に登場した画家。同時に多くの天才画家達が登場したこの時代を17世紀スペイン黄金世紀と呼ぶ。国王フェリペ4世の時代、世界を手に入れていたスペインは宗教改革や戦争で緩やかに下り坂を迎えた。対抗宗教改革に国中が燃え上がりトリエント公会議の後の厳しい宗教裁判が行われた時代、書物だけでなく絵画に関しても検閲が行われていた。歴史的にカトリックの擁護者の国スペインでは厳しい異端審問が行われていた為画家達への注文は宗教画に限られた。唯一例外的に宮廷で肖像画と神話画が注文されている。純粋なカトリック信仰が残ったスペインの民衆も敬虔な信仰心と祈りの中で生きていた時代だった。忘れてはいけないのは当時のスペインの画家達は芸術家というより職人。身分も高くは無くただひたすら神を信じ自分に与えられた才能を真摯に作品に投影していった。

スルバラン(フランシスコ・デ・スルバラン)

1598年11月7日―1664年8月27日

 

エストレマドゥーラの小さな村フエンテ・デ・カントス(ポルトガル国境近く)に生まれる。スルバランが生まれた時エル・グレコ(1564-1616)はトレドで晩年を過ごしていたしベラスケス(1599-1660)は1年後に生まれ、ムリーリョ(1618-1682)は19歳後輩になる。スルバランとベラスケスは共にセビージャで徒弟時代を過ごしている。スルバランの父親はバスク人の商人だったが息子の絵の才能を見抜き生まれた街で絵の勉強をさせていた。15歳で今は無名のセビージャの画家ペドロ・ディアスに弟子入りした。ここでアロンソ・カノやプランシスコ・パチェコと出会ったようだ。

セビージャでの成功

セビージャの街は新世界への船が入港する華やかで豊かな時代だったが同時に一攫千金を狙う野心家も集まる荒れた街でもあった。

<16世紀のセビージャ、グアダルキビール川に入って来る船>

16世紀のセビージャ
De atribuido a Alonso Sánchez Coello – [2], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1713560
1617年19歳で結婚しレジェーナで3人の子供が生まれ地元のエストレマドゥーラの修道院や教会から注文を受けて仕事をしている。

スルバランは次第に生まれた街では名の知れた画家になっていた。1625年に裕福な10歳年上の未亡人と再婚し彼の仕事と経済状態は良くなった。1626年にセビージャのドミニコ会の修道会からの注文で8か月で21作品を書き上げた。そのひとつが磔刑のキリスト、画家29歳の作品。この時からセビージャに移住している。

<1627年磔刑のキリスト、シカゴ・インスティテュート>

スルバラン、磔刑のキリスト
De Francisco de Zurbarán – 1. Art Institute of Chicago2. Web Gallery of Art:   Image  Info about artwork, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15400705

この時代に磔刑図は非常に多くさまざまな画家によって描かれていてほぼ同時期にベラスケスが描いたものがプラド美術館にある。どちらの作品もベラスケスの師匠のプランシスコ・パチェコによるキリスト教図像学に忠実にキリストに穿たれた釘は4本、頭は少し右に倒れている。

<キリストの磔刑、1633ベラスケス、プラド美術館>

ベラスケス、キリストの磔刑

Cristo crucificado
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

新しい修道院が次々と建立されスルバランは大がかりな作品の注文を受けるようになり成功を収めた。1628年セビージャの履足メルセス会修道院から同時に22点の注文を受けた。

<セビージャのメルセス会修道院>

セビージャ、メルセス会修道院
De © Benoît Prieur / Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=34597349

履足メルセル会修道院は13世紀セビージャがイスラム支配から解放されてすぐに作られた修道院でその建物が現在セビージャ美術館になっている。

その中の遺体安置所に置かれた「聖セラピオ」は傑作と言われる作品だが大変残念な事に現在アメリカのワーズワースの美術館にある。衣装の量感や質感、白い色が何度も丁寧に塗られている。一滴の赤い血も描くことなく聖人の拷問の痛ましさと殉教を表している

<聖セラピオ1629年、ウォッズワース・アーシニアム>

スルバラン・聖セラピオ
wikipedia public domain Object history
Deutsch: Urspr. im Mercenarier Kloster in Sevilla
Source/Photographer Wadsworth Atheneum

聖セラピオは13世紀のメルセル会修道士。ムーア人の捕虜となったキリスト教徒の身代わりに敵地へ行き殉教した聖人。暗闇の中で白い修道衣が光に照らされている明暗法はカラバッジオの影響。両手の指の描写や衣服のひだの量感が素晴らしい。

 

また同じ修道院の回廊の為に修道院創立者ペドロ・ノラスコの生涯というテーマで大作を描いた。静謐で禁欲的な作品は注文主の希望で当時の画家は注文主からの希望通りに忠実に描く職人だった。

<聖ペドロ・ノラスコに現れた聖ペテロ1629年、プラド美術館>

スルバラン、聖ペドロ・ノラスコの生涯
museo del prado

メルセス会修道院の創立者聖ペドロ・ノラスコの生涯。右側の聖ペドロ・ノラスコにその名前の由来になった聖ペテロが現れた。聖ペテロは逆さ十字で殉教したイエスキリストの弟子。痛ましい殉教の聖ペテロの苦しそうな目の表情のリアル、暗がりの中の聖ペドロ・ノラスコの衣装の美しい白い布地の量感が美しい。

<聖ペドロノラスコの幻視1628~29 プラド美術館>

スルバラン、ペドロ・ノラスコの生涯
museo del prado

聖ペドロ・ノラスコの幻視。上の作品と同じ聖ペドロ・ノラスコの生涯のシリーズ。左上にエルサレムの街、右側に天使が天から降りて来てエルサレムを指さしている。天使のピンクとブルーの衣装の素材感、聖人の腰から下がるロザリオが美しい。これらはプラド美術館で鑑賞できる。

1630代年はスルバランの頂点をなす時期。セビージャ大聖堂のサンペドロ礼拝堂の祭壇の制作やへレス・デ・ラ・フロンテーラのカルトゥジオ会の祭壇、グアダルーペの王立修道院に修道士たちを描いた大作を残している。

<グアダルーペ修道院の回廊にあるスルバランの作品>

 

グアダルーペ修道院
monasterio de guadaluupe
マドリードへ

セビージャで成功をおさめたスルバランは1634年マドリードの宮廷に呼ばれる。このチャンスをくれたのは友人ベラスケスだった。既にペラスケスは宮廷画家としてマドリードで活躍しており同郷の2人の画家は同じ時期にセビージャで徒弟時代を過ごしていた。マドリードでブエンレティーロ宮殿の諸王の間を飾る作品が描かれる。ベラスケスのブレダの開城を筆頭に12点の戦争画が用意されることになった。

<ベラスケス作ブレダの開城、プラド美術館>

ベラスケス、槍

Las lanzas o La rendición de Breda
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

 

スルバランは1625年のカディスの街が英国軍の攻撃にさらされた時にスペイン側が追いやった歴史的勝利の場面を描いた。

<カディス防衛1634年、プラド美術館>

スルバラン、カディス防衛
museo del prado

実はこの作品の評価は低く英雄の活躍の大胆さや勝利の場面の緊迫感に欠けると言われている。スルバランは修道院で光を放つ画家だったのだ。

同じくブエンレティーロ宮の為にギリシャ神話のヘラクレスの偉業のテーマの作品群を10点制作している。スルバランの神話画も戦争画もこの時の宮廷からの注文のみで生涯にわたって宗教画を描いた画家だった。これらはプラド美術館で鑑賞することが出来る。

<ヘラクレスの牛の退治1634年、プラド美術館>

スルバラン、ヘラクレス牛退治
Hércules y el toro de Creta
ZURBARÁN, FRANCISCO DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

ギリシャ神話の中に出てくる長いお話でヘラクレスはゼウスが人間との浮気で生まれた子供。嫉妬をしたゼウスの正妻ヘラによって人間では不可能なとんでもない挑戦をさせられることになった。そのひとつがクレタ島の巨大な牛の退治だった。それらヘラクレスの偉業をスルバランは作品にしている。ヘラクレスの体の筋肉等人体研究がされている。

マドリードで「宮廷画家」の名を手に入れたがスルバランは翌年にはセビージャへ戻っている。

アッシジの聖フランシスコ

その後セビージャの修道士の共同体からの注文と思われるシリーズで描いたアッシジの聖フランシスコ。

<アッシジの聖フランシスコ1630-35年頃、ロンドン・ナショナルギャラリー>

スルバラン、フランシスコデアッシジ
De Francisco de Zurbarán – http://www.nationalgallery.org.uk/paintings/francisco-de-zurbaran-saint-francis-in-meditation/27646, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=160387

上の作品とほぼ同じ物がメキシコシティーのソウマヤ美術館にある。2度目の結婚の妻が亡くなり画家になった息子も同じころペストで死亡している。画家の作品に更に深い静謐さが現れるのはこの時代。カラバッジオの明暗法の影響がみられ禁欲的な修道士の内面が感じられる。

<自分の墓にいるアッシジの聖フランシスコ、1630-34アメリカ・ミルウォーキー美術館>

スルバラン、自分の墓のアッシジの聖フランシスコ
Milwaukee Art Museum
Communications Department
700 N. Art Museum Drive, Milwaukee, WI 53202

 

(下)同じアッシジの聖フランシスコのスルバラン晩年記の作品。カラバッジオのテネブリズム(明暗法)は使わず背景に空が描かれている。衣装の擦り切れた素材感の技術が素晴らしい。

<聖フランシスコ、1659年プラド美術館>

スルバラン聖フランシスコ

San Francisco en oración
ZURBARÁN, FRANCISCO DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado
神の子羊

生贄として神にささげられる子羊はイエス・キリストの象徴。犠牲や従順、信仰を現す。

<神の子羊1640年、プラド美術館>

スルバラン、神の子羊
Agnus Dei
ZURBARÁN, FRANCISCO DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

 

足を縛られた子羊の無力さの正確な表現、神に対する従順を的確に表す。他に何も宗教的な物は描かれていないが、力なく横たわる子羊に強い信仰心を感じさせる。1640年妻と息子をペストで亡くした頃の作品。

スルバランの描く聖女たち

スルバランは単身で聖女たちを何点も描いている。それぞれ美しい豪華な衣装に身を包んでいて繊細な描写が素晴らしい作品。手にの宗教的象徴物(アトリビュート)を持ち聖人画と分かるがまるで近代の肖像画のように描かれている。当時の豪華な衣装、宗教画だと思わずファッションの特集の様に衣装の美しさも楽しめる。

 

<聖カシルダ又はポルトガルの聖イサベル1640年頃、プラド美術館>

聖イサベル
Santa Isabel de Portugal
ZURBARÁN, FRANCISCO DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

長い間薔薇を象徴物とする聖カシルダと呼ばれていたが最近ではポルトガルの聖女イサベルとの解釈もある。

*聖カシルダ=9世紀に生まれたムーア人の王女。父の意に反してキリスト教となり殉教した。手に持つバラの花は聖カシルダの象徴物。捕らえられた時にパンをキリスト教徒の為に持って行こうとしていたが捕まった一瞬パンがバラの花に変わった奇跡があった。

*ポルトガルの聖イサベル=ポルトガルの王に嫁いだアラゴンのイサベルは貧しい人々にいつも奉仕していたが王はあまり快く思っていなかった。貧者にパンを届けに出かけるイサベルを見つけ咎めようとした王がイサベルが衣装に隠している篭を見るとパンが薔薇に変わった奇跡があった。

<聖カシルダ1630-35、ティッセンボルネミッサ美術館マドリード>

スルバラン、聖カシルダ
De Francisco de Zurbarán – Museo Thyssen-Bornemisza, Madrid, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=19491619
スペインの没落

30年戦争での戦費やペストの流行等スペインの現状は次第に画家達にも影響を与え大規模な注文が亡くなった。又新しい画家ムリーリョの登場で時代は変わって行った。スルバランの厳格な宗教感よりムリーリョの甘美なマリアの方が大衆受けしたと私は思っている。

 

<無原罪の御宿り、ムリーリョ、プラド美術館>

ムリーリョ、無原罪の御宿り
By バルトロメ・エステバン・ムリーリョ – The Yorck Project: 10.000 Meisterwerke der Malerei. DVD-ROM, 2002. ISBN 3936122202. Distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=155969

 

 

セビージャの街はアメリカ大陸へ向かうガレー船が停泊する港だった事もあり新大陸向けに画家達は作品を描き始め収入源にした時代。次第に注文が減ったスルバランも1640年頃から新大陸向けの物を描き始めたその頃の物は大量生産で工房の手が入り玉石混合。

聖ウーゴの食卓と奇跡

セビージャ、グアダルキビール川の対岸にあるカルトゥジオ会修道院からの注文で描かれた「慈愛の聖母」と「聖ウルバヌス2世と聖ブルーノ」と共に描かれた一枚が「聖ウーゴと食卓の奇跡」。

<聖ウーゴと食卓の奇跡1645年、セビージャ美術館>

スルバラン、サンフーゴの奇跡
De Francisco de Zurbarán – Museo de Bellas Artes de Sevilla, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3118429

*奇跡の物語=復活祭前のある日カルトゥジオ会を創設した聖ブルーノと仲間の修道士たちは聖ウーゴから与えられた肉を食べるか食べまいか迷っていると突然意識を失い四旬節の間眠ってしまう。聖ウーゴが45日後の復活祭に彼らを訪ねると目を覚ました修道士たちの目の前でその肉が灰に変わったという奇跡。

圧倒されるほど大きな作品で修道士たちはほぼ投身大。「今、目覚めた!」奇跡の一瞬の臨場感がある。テーブルクロスや衣装の白色の美しいトーンがスルバランらしい。食器に光が当たり素材感がスルバランの静物画の丁寧な静謐さを感じる。

スルバラン静物画

<静物画1650年頃、プラド美術館>

スルバラン、静物画

Bodegón con cacharros
ZURBARÁN, FRANCISCO DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

静物画というジャンルは1600年頃にフランドルとスペイン、イタリアで同時に描かれ始めた。スルバランはそこにある自然物を正確に描写しているだけでなく質素な修道院の生活を想像させ精神性をの高さ、暗い背景に浮かび上がる一直線に並んだ焼き物がまるで聖画のようなムードを讃え他の画家の静物画と一線を引く。

 

スルバラン最後の時代

1658年既に60歳の画家はセビージャでの仕事を失いマドリードに活路を見出そうとする。アルカラ・デ・エナレスのフランシス会修道院のレ・マルケの聖ヤコブ等が知られている。スルバランの最後の作品は「聖母と赤子キリストと洗礼者ヨハネ」。現在スペイン北部バスク地方のビルバオ美術館にて展示されている。

<聖母と赤子キリストと洗礼者ヨハネ1662年、ビルバオ美術館>

museo bellas artes Bilbao

画家はその2年後1664年マドリードで病死。質素な家具や衣類等の財産目録が残るそうだがかなり貧しかった。マドリードのレコレトス通りにあったコパカバーナ修道院に埋葬されたが修道院は19世紀に破壊され埋葬されていた画家の墓も行方不明。

まとめ

スルバランの作品は世界中に散らばっていてプラド美術館でさえも多くは無い。1835年にスペインで修道院永大財産廃止令が出て多くの宗教画が世界中に分散するという残念な事が有った。しかしそれによって次第に世界各地でスルバランの作品が知られ評価されるようになり後年ピカソ、クールベ、マネなどによって賛辞されている。フランシスコ・デ・スルバランは深い宗教性のある心の届く作品を残した素晴らしい画家だった。

 

イスラム科学がルネッサンスを生み宗教改革がイエズス会を作ったという歴史のお話

 

 

イスラム科学とルネッサンス、そして宗教改革とイエズス会の登場までの歴史のお話。世界は繋がっていて歴史は絡み合って動いている。イスラム教が始まっていなければルネッサンスは興らなかったし宗教改革が無ければイエズス会は出来なかったのだ。イエズス会が無ければ日本にキリスト教は伝わらなかったかもしれない。世界布教を目指したイエズス会が結成されるところまでの歴史の物語です。

イスラム圏は先進地域だった


バグダッドの「知恵の館」

長い間知識の先進地域はイスラム圏だった。アラビア半島でイスラム教が始まりモハメッド登場から僅か15年で巨大な大帝国を作り上げた。草原の民が作った道をアラビア商人たちは商品だけでなく文化や文明や知識を運んだ。

<商人たちのルート>

シルクロード
Whole_world_-_land_and_oceans_12000.jpg: NASA/Goddard Space Flight Center
public domain

交通網が整備され海上交通も盛んになり重要な街が貿易路として繋がった。

<ムーア人のバザール>

ムーア人のバザール
public domain
Title The moorish bazaar wikidata:Q20058474
Source/Photographer Edwin Lord Weeks

ウマイヤ朝の後のアッバース朝は古代のギリシャをはじめとする古典の知の遺産をアラビア語に翻訳して知識を継承していた。830年にバグダードに作られた「知恵の館」は図書館であり学術研究所であり天文台も併設されていた。

<13世紀の書物に描かれた当時の図書館>

13世紀のイスラム圏の図書館
By Zereshk – wikipedia public domain
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2809505

 

製紙法

タラス川の戦い(現カザフスタン751年)で唐と一戦を交えたアッバース朝が捕虜にした中国人に紙漉き職人がいた。これによって製紙法がイスラム世界に伝わる(別の説もあるそうです)。羊皮紙のコーランを作るためには300頭もの羊が必要だったが紙が伝わることで大量に作ることが出来たコーランは飛躍的に人々に伝わって行った。それまで羊皮紙にオイル・ランプから取られる煤で書かれた文字は水で簡単に消すことが出来き書類が改ざんされる恐れがあったが紙の伝搬でこれが出来なくなった事は大きな副産物だった。知識を多くの人が共有できる時代になった「紙の伝搬」は当時の社会に大きな変化を与えた。現在のインターネットの普及に似ている状態だと思う。

<13世紀?頃の紙にアラビア語で手書きの書物>

wikipedia CC BY-SA 3.0
Source/Photographer Transferred from en.wikipedia to Commons using CommonsHelper. on 9 February 2008 (first version); 9 February 2008 (second version). Original uploader was Danieliness at en.wikipedia.

 

「知恵の館」には古代ギリシャのプラトンの国家論、アリストテレスの形而上学、ユークリッド、アルキメデス、プトレマイオスの書物やヒポクラテスの医学書が積極的に集めれ訳された。インドの数学や天文学の著書が訳され最初のアストロラーベ(天文観測器)が作られた。インドとギリシャの数学を総合して代数学=アルゴリズムが確立した。バグダッドはユーラシア一の知識の宝庫だった。2003年米軍主導多国籍軍により陥落したバグダッドはそんな大切な街だった。

*古代ギリシャではすでに地球は丸かったしほぼ正確に地球の大きさを計測していた。平面充填や三角関数等の数学や物理、人はなぜ生まれ生きるか、物の根源は何なのかと哲学者が考えて暮らしていた。今から2000年以上も前の人々の知識。

12世紀ルネッサンス・知識の継承


十字軍遠征

セルジューク・トルコの拡大に驚いたビザンチン帝国がローマ法王ウルバン2世に支援を頼んだのが発端となりエルサレムに向かって聖地回復の軍が向かった。

<第5回十字軍の上陸するキリスト教徒の騎士たち>

第5回十字軍ダミエッテ上陸
wikipedia public domain

熱狂的に約200年の間合計7回略奪と残虐の限りを尽くしたが十字軍のキリスト教徒達だった。災難だったのはイスラム圏の民衆でこれは天災なのかと驚き逃げまどい焼き討ちに逢い殺戮され略奪された。十字軍遠征で人が移動し東方からの進んだ文明が遅れたヨーロッパに入って来た。

スペインのトレド

イスラム圏で大切に受け継がれた知識を今度はラテン語やカスティーリア語に訳す翻訳作業が始まった。スペインで実は戦争ばかりしていたわけではなかった。陥落した後期ウマイヤ朝のコルドバから学者が集まって来てトレドに呼ばれ厚遇された。

<トレドの街>

トレド展望台
筆者撮影

 

12世紀から13世紀にカスティーリア王のもと翻訳学校が作られアラビアの医術や天文学を積極的に取り入れていた時代があった。13世紀のアルフォンソ10世は「アルフォンソ天文表」を編纂させ17世紀(コペルニクス登場まで)ヨーロッパで使われていた。

<アルフォンソ10世賢王>

アルフォンソ10世
wikipedia public domain
Source http://www.asesoriamoran.com/historia_de_la_contabilidad.htm
Author Alfonso X el Sabio (1221 — 1284)
Permission
(Reusing this file)
PD-Old

イスラム圏とキリスト教世界の中継地点としての役割を担うトレドに翻訳集団が集まりイスラム教徒ユダヤ教徒キリスト教徒たちが協力して多くの文献をラテン語やカスティーリア語に訳した。これらによってヨーロッパは当時の先進技術に触れることになる。ヨーロッパの人々が古代のギリシャの知恵を知ったのはイスラム圏を通してだった。

イタリア・ルネッサンス


十字軍遠征をきっかけにイタリア諸都市は繁栄し香辛料の貿易で商人達が豊かな財力を手にした。胡椒などの香辛料は伝染病の予防に使われペストが流行ったヨーロッパで高価な値段で取引される貴重品だった。

<死のダンス、ペストの流行の頃の人々の人生観>

死のダンス
public domain

香辛料や絨毯、宝石等豪華な品物と共に東方からの進んだ文明が伝わって来る。繰り返すがいつの時代も商人たちは物と一緒に文化や知識を運んだ。長い間イスラム教徒達によって研究されていたアラビア語に訳されたギリシャの文献が商品と共に北イタリアに入って来て人々を刺激し科学を推し進めた。またコンスタンティノープルの陥落でビザンチン帝国の学者たちが北イタリアに逃げて来て知識を運んだ。

<コンスタンティノープルの陥落>

コンスタンティのポリスの陥落
wikipedia public domain
Source www.bnf.fr
Author Bertrandon de la Broquière in Voyages d’Outremer
フィレンツェ

お金があるところに洗練された文化が栄える。北イタリアは貿易で栄え富裕な商人たちが登場し潤沢な税金を払い国も栄えた。

<フィレンツェの街>

フィレンツェ
wikipedia CC3.0
Source Own work
Author Amada44

金融業で財をなしたメディチ家が登場しフィレンツェにプラトン・アカデミーを作った。名前はアカデミーだが学校というより仲間が集まるサロンのようなものでコシモ・ディ・メディチがメディチ家の別荘を利用してプラトンの著作をラテン語に訳させたのが始まり。コジモの孫のロレンツォもこれを引き継ぎ発展させ人文主義者だけでなく建築家や彫刻家、画家たちが集まり保護し援助した。

<ロレンツォ・ディ・メディチ、イルマニフィコ>

ロレンツォ・ディ・メディチ
wikipedia public domain

 

まだ子供だったミケランジェロは最初ドメニコ・ギルランダイオに弟子入りするがそのずば抜けた才能に感心した師匠からロレンツォ・ディ・メディチに紹介され引き取られる。ロレンツォが亡くなった後ミケランジェロはフィレンツェを離れしばらくしてからローマへ向かいローマ法王の仕事をすることになる。レオナルド・ダビンチも同じころにロレンツォ・ディ・メディチの仕事をしている。ルネッサンスのマルチ天才たちの登場だ。

 

科学者たちの登場

古典の書物がヨーロッパに伝わり絵画や彫刻、建築が発達したと同時に科学者たちは宇宙の真理を説明しようとした。世界の秩序には私たちには手の届かない神の力が関係あるに違いないと思いそれを知りたいと思った知的欲求が科学の始まりで今もそれは続いている。

遅れていたヨーロッパにコペルニクスやブルーノ、ガリレオが登場した。望遠鏡が作られ惑星の不規則な動きを見た科学者たちが天動説に疑問を持ち始めた

<コペルニクスの「天体の回転について」>

コペルニクスの天体
By Nicolai CoperniciCreated in vector format by Scewing – [1], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=31611378
<ガリレオ・ガリレイによる月の満ち欠けの研究図>

ガリレオの月の満ち欠けの研究
By Galileoyh – 不明, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=238890

*天動説=地球は不動のもので宇宙の中心にあり天体は地球の周りを廻っているという説。2世紀プトレマイオスが宇宙を説明しようと唱えた説だがギリシャの学者たちは既に地動説も説明しようとしていた。聖書の記述と天動説を結び付けたのがキリスト教。20世紀にローマ教会が地動説を正式に認めた。

 カトリック世界


ローマ法王とサンピエトロ寺院

キリスト教の力が絶対だった中世から十字軍遠征の失敗で権威を失墜したローマ教会。またペストの流行で街が壊滅する中、教会は苦しんでいる人々の救いにならなかった。聖職者も私財を肥やし聖職の地位を売買するものまであらわれた時代だった。

<ジョバンニ・パオロ、サンピエトロ寺院>

サンピエトロ寺院、ジョバンニパオロ
wikipedia public domain
 ローマ法王

ローマ法王はカトリック世界のトップ、神の代理人。今でも枢機卿達から法王選挙で選ばれる。ルネッサンス時代は莫大な袖の下を配り当選するローマ法王達が登場する。

アレッサンドロ6世

聖職売買と親族登用で有名なのがボルジア家のスペイン人ローマ法王アレッサンドロ6世。スペインのイサベル女王とフェルナンド王にカトリック両王(Reyes・catolicos)という名前を与え、トルデシージャス条約の線を引いて地球を2つに割ったのもこの法王だった。現代でも時々登場する権力を乱用し私利私欲の為に暴利をむさぼりこの世の春とばかり現生を生き抜く人物だ。神に近づく為に宇宙の秩序を解決しようとする人々の対局にいたのがローマ法王、神の代理人だった。

<アレッサンドロ6世>

アレキサンダー6世
wikipedia public domain http://www.comune.fe.it/diamanti/mostra_lucrezia/quadri/q08.htm

この時代のローマ法王は政治力の有る人物が多く権力を振りかざすいわゆる強欲な悪人だが豪快で決断力があり自己中心だが魅力的な人物が連続して登場した。

ユリウス2世

次のユリウス2世はアレクサンドル6世とは終生ライバルだった人物でアレキサンドル6世亡きあとローマ法王に選ばれると、ここぞとばかりボルジア家の力を一掃する。アレクサンドル6世の息子チェーザレ・ボルジアが力尽き戦死したのもこの時代。

<ユリウス2世、ラファエル画>

ローマ法王ユリウス2世
By ラファエロ・サンティ – National Gallery, London, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=100865

ユリウス2世は芸術愛好家でブラマンテ、ラファエロ、ミケランジェロなどに援助を惜しまなかった。ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の天井画を頼みサンピエトロ寺院の新築を決定する。ミケランジェロは彫刻家で何をおいても彫刻がしたかった。絵画なんてやりたくなかったのでこの注文から何とか逃げようとしていたがユリウス2世の説得と策略で有名なシスティーナ礼拝堂の天井画は完成する。

<ミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂一部、神の手>

システィーナ礼拝堂、ミケランジェロの神の手
wikipedia public domain
Web Gallery of Art[1]
Permission
(Reusing this file) PDArt
レオ10世

その後のレオ10世はフィレンツェのメディチ家出身。フィレンツェの黄金時代を築いたロレンツォ・ディ・メディチの次男。ミケランジェロやラファエルらを使い贅沢三昧に湯水の様にお金を使ってサンピエトロ寺院を飾り立てた。特にラファエルを取りたて多くの作品を注文した。

<レオ10世、ラファエル画>

ローマ法王レオ10世
By ラファエロ・サンティ –  パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=52177989

レオ10世の浪費はとんでもなくその資金が足りなくなると免罪符をドイツで売って資金を稼いだ。優秀な営業マンのような修道士テッツェルが登場しドイツの民衆に売りさばきローマに大金が流れ更にローマの街は飾り立てられていった。(ローマに対するドイツ民衆の憎悪は募り後のサッコ・ディ・ローマに繋がる)

<免罪符を売る修道士テッツェル、19世紀の絵画>

免罪符を売る修道士
wikipedia public domain
免罪符(贖宥状)

人は必ず死ぬ。カトリックでは死後の魂の存在は永遠だがその後、地獄へ落ちるか天国へ行けるかは大きな問題だ。地獄へ落ちたら燃え盛る炎で焼かれてしまう。でも、「これを買えばあなたの罪は許されて魂は間違いなく天国へ行けます!」という素晴らしいものが売り出された。これが免罪符(贖宥状)。

<レオ10世発行の免罪符>

レオ10世発行の免罪符
パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=384403

例えば「一年間位の収入だったのでは?」という説がある。少し高いが天国へ行けるのなら日常は少し貧しい生活をしてでも手に入れたい。買えば死んだあと天国へ行けるのだから。ところが暫くしてローマのお金が使いつくされると又新しい免罪符が販売された。今度の新製品は改良版「あなたの死んだお父さんもお母さんも天国へ連れていけます!」

<地獄で苦しむ人々、教会の彫刻>

教会の地獄の彫刻
筆者撮影

ペストの流行で家族の死を人々が身近に見た時代、教会の力は絶大で今日を我慢してでも天国へ行きたいと思った民衆の心を利用した。しかしそんな横暴がいつまでも続くわけは無く振り子は大きく揺れ戻す。

宗教改革


ここで登場するのがマルティンルター。修道士だったルターは腐敗する大きな権力に対し立ち向かった。1517年10月31日ビッテンベルク教会の門に95か条の論題を張り出してカトリック教会を批判した。この前年スペインではフェルナンド王が亡くなり孫のカルロス(後の神聖ローマ帝国カルロス5世)がスペインへやって来る。

 

*カルロス1世スペイン王は(後の神聖ローマ帝国皇帝カルロス5世)生涯プロテスタントに苦しめられる。フランスはカトリックの国なのに対スペインでプロテスタントを煽りイギリスのエリザベス女王の時代は後ろからネーデルランドを動かしスペイン王フェリペ2世は苦しめられた。ずっとずっとスペインの頭痛の元になるプロテスタント問題がここから始まった。

 

<ルターが95か条の論題を張り出す。19世紀の絵画>

ルター95か条の論題
By Ferdinand Pauwels – flickr, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3767049

聖書の中に免罪符は出てこないしローマ法王の存在自体書かれていない。カトリックには山のように聖人がいるがこれも聖書には書かれていない事だ。「信仰は個人と神の間でなされるものではないのか」という神学論争をローマ教会に仕掛けた。

本人はこれほど大きなうねりになるとは思っていなかっただろうと想像するがこれが宗教改革となり、小さな一石が大きな波となった。

 

*当時の聖書はラテン語で書かれていて礼拝や聖歌、ミサで使われる言葉もすべてラテン語だった。庶民には全く解らず神の言葉は普通の人に理解できないものだった。それがわかる神父や聖職者は庶民と神を繋いでくれるありがたい存在だ。ルターはラテン語とギリシャ語の聖書をドイツ語に訳しそれがグーテンベルグの印刷術の発明によって一気に広まった。人々が自分たちが話す言葉で聖書を読めるようになった事は画期的な変化だった。聖職者を介さず人と神の間にあるのは聖書のみというのがプロテスタントでローマ法王、懺悔、聖人等すべて否定した。

 

<1568年の印刷所の様子、1時間に240枚印刷出来た。>

1568年印刷をする職人
By Jost Amman – Meggs, Philip B. A History of Graphic Design. John Wiley & Sons, Inc. 1998. (p 64), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2777036
対抗宗教改革

これは大変とカトリック教会が動き出した。実はもっと前から教会改革は様々な修道会によって行われていたし改革者たちウィクリフやヤン・フス、サボナローラなどが登場して各種修道会が作られ教会を改革し刷新しようとしていた。スペイン国内では積極的に様々な修道会が宗教の純化に向かっていた。ここにカトリック教会の中の宗教改革が始まった。これを対抗宗教改革又は教会改革呼ぶ。

トリエント公会議

混乱を収束させカトリックの立て直しを目指す為にカルロス5世の要望で始まったのがトリエント公会議。ローマ法王パウルス3世の招集により1545年に始まった。この会議はなんと1563年カルロス5世の死後までの間18年間に渡って断続的に行われた。

<トリエント公会議、17世紀の絵>

トリエント公会議
By 不明 – Staatliches Hochbauamt Donauwörth, Museo Diocesano Tridentino, Heiligenlexikon; transfered from de Wikipedia, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1148806

トリエント公会議にてカトリックの改革と異端審問が始まる事になる。異端審問や魔女狩りは既にあったが厳しい宗教裁判が行われるようになり振り子は極端に揺れ戻し特に書物の内容に対しても厳しい検閲が行われる時代がやって来る。

*カトリック公会議=カトリック教会においてローマ法王がすべての枢機卿、司教、神学者等を集めて教義や教会法について決定する最高議決機関。

 

<パウルス3世、ティチアーノ作>

パウルス3世
wikipedia public domain

イエズス会


結成

カトリック教会内部の宗教改革となる対抗宗教改革の中1534年ローマ法王への服従を誓いカトリックの世界布教を目指す修道会が作られた。ローマ法王を頂点とするピラミッド組織の軍隊のような規律を持ち宣教師は全員良家の息子で大学出のエリート集団、これがイエズス会。1540年にパウルス3世から承認をされ神とローマ法王の戦士として世界宣教に努めることを使命として結成された。イグナチウス・ロヨラを中心とし6人の同志と共にパリのモンマルトルの丘で誓約をたてた。

聖イグナチウス・デ・ロヨラ

ロヨラは1491年バスクの山の中のアスペイティアにあるロヨラ城で貴族の子として生まれた。今も出生のロヨラ城は残る。

<バスク地方アスペイティアにあるロヨラ城>

ロヨラ城
wikipedia CCBY SA3.0
Source Fotografía propia
Author Txo

フランスとスペインの戦争のパンプローナの戦いの対フランス戦で負傷し8か月ロヨラ城で療養する。その時そこにたまたまあった宗教書を読み漁るうちに回復する頃には神の戦士になっていた。元々はこの世の富と名誉を求めるタイプの人間だったロヨラは怪我によって精神世界の探究者となった。

<聖イグナチウス・デ・ロヨラ>

イグナチウス・デ・ロヨラ
De Peter Paul Rubens – Trabajo propio, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6675601

カタルーニャのモンセラの修道院で全生涯の告白をしマンレサの洞窟で瞑想と苦行。この頃の瞑想体験をまとめたのが「霊操」で今もイエズス会の重要な修練方法として使われている。聖地巡礼をした後バルセロナのラテン語学校に33歳で入学し子供たちと机を並べて勉強した。サラマンカ大学へ行った後、パリ大学に1528年に37歳で入学。そこで同志となる人物を探し計画を実現するため説得をして1534年8月15日聖母被昇天の日にモンマルトルの丘で神に誓願を立てた。その同士の中に同じバスク人のフランシスコ・ザビエルがいた。

聖フランシスコ・ザビエル

フランシスコ・ザビエルは今のスペイン北東部で生まれたバスク人。その頃スペインはカトリック両王がグラナダを陥落させほぼ統一された時代に北東部にあったナバーラ王国の貴族の子として1506年に産まれる。ロヨラより15歳年下になる。今もフランシスコ・ザビエルが生まれた城「ザビエル城」が残る。

<ザビエル城>

ハビエル城
CC BY-SA 3.0 es
Source Own work
Author Rayle026あ

*ナバーラ王国=ピレネー山脈ふもとにあった国でフランク王国からバスク人を中心に反乱を起こして別れた。スペインとフランスの国境にあるため紛争地となり1515年フェルナンド・カトリック王によってスペインに併合される。

 

<ムリーリョが描いた聖フランシス・コザビエル>

フランシスコ・ザビエル
De Bartolomé Esteban Murillo – Wadsworth Athenaeum, Hartford (CT) [1]Originally from la.wikipedia; description page is (was) here* 20:22, 6 Decembris 2005 [[:la:User:Tbook|Tbook]] 694×958 (108,346 bytes) (Imago Sancti Francisci Xavier)(Uploaded using CommonsHelper or PushForCommons), Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1262446
フランシスコ・ザビエルの父親はナバーラ王国の首相、母親は貴族の出身。5人兄弟の末っ子として生まれた。彼が6歳の時にスペイン(カルロス5世)とフランス(フランソワ1世)で戦争が起こり両国に挟まれ古くからの交通の要所だったナバーラ王国は中立を保とうとするがスペインから攻撃され併合される。(ロヨラが負傷したと同じ戦争だが敵味方だった)ザビエル家は没落していくがフランシスコ・ザビエルは18歳でパリ大学へ入り抜群の成績で卒業する。そこでロヨラに気に入られ説得されイエズス会の結成メンバーとなった。

ポルトガル王の援助

この頃スペインとポルトガルは既に大航海時代に入っていた。トルデシージャス条約(1494年)によりスペインは西へ、ポルトガルは東へと行先が決まっていた。東へ向かうポルトガルはアフリカ西岸からインド航路を発見し1510年にはインドのゴアを武力占領してインド洋の覇権を握っていた。

<ポルトガル船のルート、喜望峰からインド洋に入りインドのゴアへ>

バスコダガマのルート
By User:PhiLiP – self-made, base on Image:Gama_route_1.png, Image:BlankMap-World6.svg, GFDL, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4805180

マレー半島からマラッカ(1511年)を武力で占領し香辛料貿易と交易システムを築いていた。これによってベネチア共和国の経済は大打撃を受けた。更に明王朝の中国に入り1517年には広州で通商を開始している。

 

ジョアン3世はアジアのポルトガル領土にキリスト教を布教する為にイエズス会に協力を頼んだ。明朝の中国での交渉に失敗し武力だけでは無理だと思った為宗教の力を利用しようとした。イエズス会の目的は世界宣教、渡りに船の形でポルトガル船に乗ってインド航路を通ってインドのゴアを目指す事になった。

<ポルトガル王ジョアン3世>

ポルトガル王ジュアン3世
By クリストヴァォン・ロペス – From en:Image:John III of Portugal.jpg, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=481187

*ポルトガル王ジョアン3世はマヌエル1世とカトリック両王の3女マリアの息子。ジョアン3世の結婚相手が狂女ファナの末娘カタリーナ。

 

 

ザビエルはリスボンに呼ばれ1541年4月35歳の誕生日にポルトガル船で出発。途中モザンビーク滞在後インドのゴアに翌年1542年5月に到着している。

<フランシスコ・ザビエルのルート>

ザビエルの旅
File:St. Francis Xavier – Asia Voyages.svg is a vector version of this file. It should be used in place of this raster image when not inferior.
File:Xavier f map of voyages asia.PNG Go-green.svg File:St. Francis Xavier – Asia Voyages.svg

その翌年1543年種子島にポルトガル商人が到着している。ザビエルはその後東南アジアで鹿児島出身の日本人アンジロウかヤジロウという名前の男に逢い日本に行くことを決心し1549年日本にキリスト教が伝わる。ザビエルの苦労の多い旅についてはまた別記事で書きたいと思います。

長い記事読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

マドリードおすすめバル6軒、昔ながらの地元人気店をご紹介します<バル編です>

 

 

マドリードは様々なバルやレストランが集まり高級店から格安店まで時と場合に応じて食を楽しめる。マドリード中心部でサンミゲール市場、マッシュルーム屋、マヨール広場も行ったあなたに地元民に愛される昔ながらのおすすめバルをご紹介します。お店によっては英語は全く無理、メニューは手書きのスペイン語。でも絶対心に残る楽しくおいしい思い出になること間違いなしです。

 

*サンミゲール市場とマッシュルーム屋についてはこちらの記事へ。

*マドリード観光、初めてのマドリードなら外せないスペイン広場とマヨール広場、そしてバル街へ

 bar snturce  バル・サントゥルセ いわし屋


Plaza del Gral Vara de Rey,14

地下鉄5号線ラ・ラティーナから徒歩5分又はマヨール広場から徒歩10分

*バル・サントゥルセの公式ページ

*http://www.barsanturce.com/

 

 

毎日12時から16時頃(月曜休み)夜は毎日閉まる

ここは私の一番おすすめバルです。日曜日のラストロ(蚤の市)の日は大変混みあいます。バルで椅子のないカウンターのみ。イワシの鉄板焼きが人気で安くておいしいです。それ以外にイカやエビ、ピーマン。メニューは壁にある物のみ。時間が遅くなるほど混むので早めに行くのがコツ。ディープなマドリード楽しみたいなら劇混みの15時頃に行くとギューギューにスペイン人が入って大声でお喋りしているところで楽しめます。

入り口の看板は長年壊れたまま。

バル・サントゥルセ
筆者撮影

メニューは壁に

バル・サントゥルセ
筆者撮影

黒板一番上サルディーナ(イワシ)が12匹で3,90ユーロ。少し下がってピミエント・デ・パドロン(しし唐ピーマン)が一皿4,90ユーロ。カウンターだけの小さなバルです。座れないので長居はしません。

バル・サントゥルセ
筆者撮影

どんどん焼かれていくイワシ。ここに来る人達はイワシが目当てです。他の物も少しありますが周りの人達はみんなイワシを食べています。

バル・サントゥルセ
筆者撮影

 

イワシ(サルディーナ)は小ぶりで(季節にもよります)一皿12匹なので2人~3人で一皿で丁度いい位。頼み方は「ウナ・デ・サルディーナ・ポルファボール」とか「ウナ・ラシオン・デ・サルディーナ・ポルファボール」それと飲み物を何か。ビールなら「カーニャ・デ・セルベッサ」もちろんアルコールのない飲み物もある。

*フォークもナイフもありません。手でいただきます。

バル・サントゥルセ
筆者撮影

イワシを頼むと「ピーマンいるの?(キエレス・ピミエント?)」って毎回聞かれます。しし唐ピーマン(ピミエント・デ・パドロン)の鉄板焼きに岩塩がまぶしてある。甘くておいしいですが時々滅茶苦茶辛いのが有ります。獅子唐辛子の辛さです。岩塩ととても相性がいいですが塩が要らない人は「シン・サル」で。

ピミエントデパドロン
筆者撮影

私たちはちょっと足りなかったのでイカ焼き頼みました。ほたるいかの鉄板焼きをハーフポーションで。「メディオ・デ・チピロネス・ア・ラ・プランチャ」。チピロネスがホタルイカです。メディオは半分という意味。ア・ラ・プランチャは鉄板焼きでフリート(フライ)もあります。一皿の場合は「ウナ・ラシオン・デ・チピロネス・アラ・プランチャ」

バル・サントゥルセ
筆者撮影

写真が無いですがエビも美味しいです。エビはスペイン語でガンバス。鉄板焼き(プランチャ)かフリッター(フリート)が選べます。

写真は日曜日の13時頃。そろそろ混み始めました。とっても混むので早めに行くのがコツですね。

バル・サントゥルセ
筆者撮影

ここのお手洗いはあまり綺麗ではないので次へ行きましょう。

マヨール広場から徒歩10分です。

*英語はあまり通じません。旅行中に便利なバルで使えるスペイン語をまとめてある記事です。

*バルで使えるスペイン語<旅行中に便利なスペイン語バル編>

 

ここを出たらマヨール広場まで登り坂歩いて10分程で到着。坂道を登って行くとマヨール広場なのでその近くに沢山バルやメゾンが有ります。サンミゲール市場やマッシュルーム屋に行くのも良いですね。マヨール広場近くにおつまみ無料のバルがあります。ここも地元人しかいない昔ながらのおすすめバル。別記事です。

*Ñeru ビールに無料のおつまみ

casa labra  カサ・ラブラ タラの天ぷら


c/Tetuan12(ソル広場すぐ)

毎日11時から15時30分 午後18時から23時

*カサ・ラブラの公式ページです

*http://www.casalabra.es/

 

タラの天ぷらが有名。創業1860年なので日本は西郷さんが活躍していた頃からやっているマドリード老舗バルです。スペイン社会党発祥の地。

プエルタ・デル・ソル(太陽の門広場)のすぐ近く。デパート(エル・コルテ・イングレスのソル店)の横なのでお買い物のついでやちょっと小腹が減ったときに立ち寄ります。

<カサ・ラブラ外観>

カサ・ラブラ
筆者撮影

入り口は向かって右側の方。時間によっては随分並んでいるので列についてタラとコロッケを注文。キッチンで揚げたのを持って来て無くなったら揚がって来るのを少し待ちます。

カサ・ラブラ
筆者撮影

スペイン語でタラはバカラオ、コロッケはクロケタ。スペイン語で注文なら例えば「タラふたつにコロッケふたつ」だと「ドス・デ・バカラオ・イ・ドス・デクロケタス・ポルファボール」となります。ここで食べ物を注文して持って行って飲み物を奥のバル・カウンターで注文する

<出来上がったバカラオを注文するところ>

カサ・ラブラ
筆者撮影

<黒板に手書きのメニュー>

カサ・ラブラ
筆者撮影

黒板上からタラのフライ(タハダ・デ・バカラオ)1,5ユーロ、タラのクリームコロッケ(クロケタ・デ・バカラオ)1,05ユーロ。食べ物の支払いはここで済ませます。

奥のカウンターで飲み物注文。カウンターで暫くお店の人を我慢強く見つめ続けると中のおじさんが「何する?」といってくれるので「ドス・カーニャス」(ビールふたつ)とか「ドス・チャトス・デ・ビノ」(ワインふたつ)と飲み物を注文。その場で支払いです。英語も大丈夫です。

*カーニャスは小さいコップのビールでチャトスは小さいコップのワイン。スペインは一軒のお店でゆっくりせずに何件もお店を回るので小さなコップで飲みます。

カサ・ラブラ
筆者撮影

写真は週末午後20時頃マドリードの地元の人達がやって来ます。混んでいますが回転も速いです。みんなビール一杯飲んでタラを1つ2つで次へ行ってしまいます。

カサ・ラブラ
筆者撮影

何とか場所を見つけてスペイン人はお喋りしながら楽しみます。壁沿いにお皿を置ける台があるのでうまく場所を見つけましょう。遠慮していてはいけません。失礼が無いようにですが頑張って落ち着く場所をじわじわとゲットしましょう。

カサ・ラブラ
筆者撮影

奥にレストラン風に座席のある部屋もありますがカウンターでタラのフライとビールかワイン一杯で出るのが地元風。タラは時々塩抜きが足りなくて塩辛いときがあります。コロッケはタラが入ったクリームコロッケでとっても美味しいですが私は一個で充分。タラとコロッケを食べたら次へ行きましょう。ここはお手洗いも綺麗です。地下へ階段を降りていくと改装された清潔なお手洗いが有ります。

ソル広場から徒歩5分

Casa de abuelo カサ・デ・アブエロ エビのアヒージョ


calle victoria,12

毎日12時から01時頃

カサ・デル・アブエロの公式ページ

*https://lacasadelabuelo.es/

 

エビのアヒージョはいかがでしょうか。ソル広場から歩いて10分くらいでエビのアヒージョ専門店が有ります。このお店は市内に何軒かあるので都合のいい場所で行くことが出来ます。マヨール広場直ぐ近くにも開店しました。

カサ・デ・アブエロ
筆者撮影

目の前でエビをアヒージョにしてくれます。ほかにエビのフライも。

海老のアヒージョ
筆者撮影

ソル広場から徒歩5分

*カサ・デル・アブエロは別記事があるのでこちらもどうぞ

エビのアヒージョ100年の老舗カサ・デル・アブエロ

 

Bar Las Bravas バル・ラス・ブラバス 元祖ポテトのサルサ・ブラバ


上記エビのアヒージョの老舗カサ・デル・アブエロのすぐ近くにあるポテトのサルサ・ブラバ(ピリ辛ソース)の発祥の地。他にも支店が2件あります。下の公式ページで確認できます。

Calle de Espaz y Mina,13

地下鉄1号線ソル

*ラス・ブラバスの公式ページです。

 

このバルも歴史のあるお店で他のメニューも豊富なので座って色々食べるのにおすすめです。

ポテトのフライに少しピリ辛ソースをかけたものを「パタタス・ブラバス」と呼びます。今はスペイン中の色々なバルで定番物として出されていますがここのお店が最初に始めたそう。お店は1933年から営業していてサルサ・ブラバス(ピリ辛ソース)は1950年に始めたそうです。今はサルサ・ブラバス(ピリ辛ソース)だけでも持ち帰りが出来る程の人気。

ラス・ブラバスの外観。新しく改装してちょっとチープなつくりになってしまったのは残念。しかしファースト・フードぽくて入りやすいかもですが。

ラス・ブラバス
筆者撮影

 

店内は明るくて広々して清潔。

ラス・ブラバス
筆者撮影
ラス・ブラバス
筆者撮影

これがパタタス・ブラバス。上にかかっているオレンジのソースがサルサ・ブラバ。店員さんの服もブラバソースのオレンジ色です。

パタタス・ブラバス
筆者撮影

それ以外にもトルティージャやタコやコロッケ等色々あります。ゆっくり座って食べたいときにもいいですね。メニューはスペイン語と英語あり。下の写真はお店のウェブから。豚の耳のフライにブラバスソース。店内でこれを食べている人が多かったです。オレハス・コン・ブラバ(豚の耳焼いたのにブラバ・ソース)

ラス・ブラバス
las bravas web

お持ち帰りも出来ますと書いてありました。お部屋に帰って食べたいときにもいいですね。持ち帰りは Para llevar パラ・ジェバールと言ってください。

ラス・ブラバスがある通りはバルとレストランぎっしりのバル街の真っただ中。

バリオ・デ・ラス・レトラス
筆者撮影

バリオ・デ・ラス・レトラス地区はバルが沢山あってどこに入っても楽しいこと間違いなしです。そしてソルから近いので便利ですね。ポテト、えびのアヒージョとはしごが出来るおすすめ地区です。

エビのアヒージョのカサ・デル・アブエロから1分です。

 

Casa Dani カサ・ダニー  スペイン・オムレツ


calle ayala28

7時から19時頃

カサ・ダニ―はサラマンカ地区(高級住宅街)にあるメルカード・デラ・パス(mercado de la paz)の中にある庶民派バルです。

市場の中に飲食店が有るのは日本も同じ。食材が新鮮なので大抵市場の中のお店は安くておいしいのが相場。最近は再開発で市場をおしゃれな飲食店で飾るのが流行りの様でここメルカード・デラ・パスも随分と綺麗になった。

メルカード・デラ・パスの果物屋

メルカード・デラ・パス
筆者撮影

メルカード・デラ・パス、食材屋

メルカード・デラ・パス
筆者撮影
カサ・ダニ―
筆者撮影

朝食のスペインオムレツが有名。朝食といってもスペイン人は10時から12時頃に労働者たちも主婦たちも子供達も2度目の朝食を食べる。いつも込み合っていますがみんなコーヒーとスペインオムレツ又は他の朝食ですぐで出ていきます。もちろん朝食時間以外でもオムレツ食べれますが朝食にすると値段がお得です。

スペイン・オムレツはスペイン語ではトルティージャ・エスパニョーラと言って中にじゃがいもが入っている玉子焼き。中身は少し半熟です。

カサ・ダニーのトルティージャ
筆者撮影
カサダニ―
筆者撮影

オムレツ以外にもカタツムリ(カラコレス)や内臓料理(カジョス)イカのフライ等もありますが残念なのは市場の閉店と共に夜は閉まってしまいます。カウンターと奥に部屋があり、お昼の定食も人気があっていつも並んでいます。

メルカード・デラ・パスは他にもおいしそうなお店が沢山。ガイドブックにも出ていませんので各国観光客は見かけないです。ショッピングにこの地区に来たら休憩にいかがでしょうか。

メルカード・デラ・パス
筆者撮影

メトロのセラーノ駅から徒歩5分

taberna Angel Sierra タベルナ・アンヘル・シエラ


c/gravina,11   メトロ5番線 チュエカ出てすぐ

毎日11時から02時頃

*タベルナ・アンヘル・シエラの公式ページです。

 

創業1917年のバル。チュエカ地区はスノッブな若者と同性愛者の地区で流行の発信地。なのでお店も素敵なところが多いので最近は人気が出て来ていてヨーロッパの観光客が増えています。

アンヘル・シエラ
筆者撮影

このバルは入り口が二つあって正面から入るとカウンターだけ。木造の天井やカウンターが素敵です。

スペインでは同性愛者も差別感なく堂々としています。結婚も許可されているので日本から来られた方は驚くかもしれませんが普通に恋人同士が楽しく過ごしています。もちろんそこにも男女のカップルが一緒にいて他人の事は気にしていません。自由な生き方を感じられますね。

アンヘル・シエラ
筆者撮影

横の方にも入り口があって正面のカウンターの反対側に行ける。そちらはテーブルもあってゆっくり座れます。

アンヘル・シエラ
筆者撮影

ここは樽出しのベルモットが有名。少し甘い薬草が入ったワイン。

アンヘル・シエラ
筆者撮影

ベルモットを頼むとオリーブが付いてくる。スペイン語だと Vermut ベルムー。(後ろのムーにアクセントをつけて発音)。若者街らしく英語も通じる。後シードラ(リンゴの発泡酒)やビールワイン各種お酒何でもあります。

アンヘル・シエラ
筆者撮影

キッチンが無いバルなので食べるものはカナッペとかオリーブとかのみのスペイン語オンリーのメニューです。スペイン人たちは食前酒を飲んですぐ出ていきます。

アンヘル・シエラ
筆者撮影

今回私たちが頼んだのは、手前はクリームチーズの上にアンチョビが乗ったカナッペその後ろがエンパナディージャ(パイの中にツナが入っている)

アンヘル・シエラ
筆者撮影

茄子のアルマグロ風。ドン・キホーテの物語にも出てくる茄子の漬け物。

アンヘル・シエラ
筆者撮影

ここは一杯だけ飲んで出るお店、ガッツリ食べるものは無いので何か食べたい場合は直ぐ近くにメルカード・サン・アントンが有ります。元食料品市場だった建物の中に飲食店が沢山入っているので色々楽しめます。同じ建物の地上階にスーパーが有ります。

メルカード・サン・アントンはチュエカ地区にある市場系バル

 

マヨール広場近くに地元の人が集まるおつまみ無料バルが有ります。

マドリード地元人気バル。中心部の老舗「Ñeru 」ビールに無料のおつまみ。お昼の定食も人気。

最後に


今回御紹介したのは個人的にマドリードで良く行くバルです。お友達が来たらおすすめするバルばかりですから安心して行ってください。バルはマドリードの街中に他にも沢山あるので宿泊している地区の近くにお気に入りのバルを見つけて通うのも良いですね。兎に角スペイン中どこにでもあるのがバルで生活に密着していてなくてはならないものなのです。同じ店に行くとなじみになって旅先なのに自分の居場所が見つかる感じが私はたまらなく好きです。昔ながらのお店に懐かしいスペインらしさが残る、巨大になったマドリードの都会の中のバルに昔のスペインが生きています。

 

狂女ファナ(ファナ・ラ・ロカ)の一生、スペインの歴史、ファナ1世女王の哀しい物語

 

狂女ファナ(ファナ・ラ・ロカ)と呼ばれるが本当に狂っていたか真相は謎。カトリック両王の娘、神聖ローマ帝国皇帝カルロス5世の母親、そして事実上スペイン女王だった。華やかな大航海時代に冷たいトルデシージャスの城に46年間幽閉され76歳で亡くなる。

ファナの両親<イサベル女王フェルナンド王>


当時のスペイン

15世紀のスペインは未だ統一国家ではなくいくつかのキリスト教国家と南にはグラナダ王国というイスラム教徒の国があった。1469年にカスティーリア王国の王女イサベルとアラゴン・カタルーニャ王国の王子フェルナンドが結婚しスペインは初めてほぼ統一国家となる。2つの国の国王が結婚したがあくまでも別の国家として存続していた。

この2人をカトリック両王と呼ぶ。この呼び名は当時のボルジア家出身ローマ法王アレキサンドル6世による。

<カトリック両王の結婚>

カトリック両王
wikipedia public domain
Avila Madrigal de las Altas Torres, Convento de las Augustinas

翌年1470年に長女イサベル誕生、1478年に長男ファンが誕生、翌年1479年にトレドで生まれたのが今回のファナ王女。

「卵型の顔に繊細な鼻、明るい色の肌に栗色の髪」との記述が残る。頭が良くラテン語が得意で音楽が好きだった。仲睦まじく尊敬しあう父母の元で厳格に、しかし愛情いっぱいの家庭で育った美しく明るい聡明な少女だった。

<ファン・デ・フランデス作ファナ王女17歳頃>

ファナ1世
Kunsthistorisches Museum
public domain

カトリック両王の結婚政策

堅実なイサベル女王の人生に、もし失敗があったとすればひとつは異教徒追放令、もうひとつが子供達の結婚相手だったのかも・・・と思っている。

殆どの子供達がもし他の結婚をしていればもう少し幸せな人生を送ったかもしれない。当時のスペインは大航海時代に入っていてアメリカを手に入れ大帝国になったばかり。一流国への仲間入りとまわりの列強諸国との利害関係の為、子供達は政治の道具として結婚させられていく。

長女イサベルはポルトガル王と結婚、長男ファンはブルゴーニュ公国の王女と、そしてファナは同じくブルゴーニュ公国の王子と結婚が決まった。妹の三女マリアは姉の後妻としてポルトガル王妃、末っ子のカタリーナはイギリス王妃となる。

<イサベル女王と子供達、真ん中左寄りがファン皇太子>

イサベル女王と子供達

La reina Isabel la Católica, presidiendo la educación de sus hijos
LOZANO SIRGO, ISIDORO SANTOS
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

繁栄していたブルゴーニュ公国

この頃ヨーロッパの経済的先進地帯だったのがブルゴーニュ公国。現フランス東部のブルゴーニュ地方とベルギー・オランダのフランドル一帯。高級毛織物やタペストリーを海外へ輸出してヨーロッパ随一の繁栄で優雅な発展を謳歌していた。

<ブルゴーニュ公国領土、フランドル含む時代>

ブルゴーニュ公国
Marco Zanoli (sidonius 12:09, 2 May 2008 (UTC))

その経済力を背景に画家のヤン・ファン・アイク(1395~1441)やバン・デル・ウェイデン(1400~1464)、ブルーゲル(1525~1569)などが登場し、文化的成熟を誇る地域だった。フィリップ善良公の時代には領土は大きくなりその孫娘マリー・ド・ブルゴーニュがハプスブルグ家のマクシミリアンと結婚した。ブルゴーニュは当時のヨーロッパ随一の優雅な先進国でハプスブルグは田舎の貴族という不釣り合いな結婚だった。

<ブルゴーニュのマリー>

マリ―・ド・ブルゴーニュ
wikipedia public domein
Musée Condé Link back to Institution infobox template wikidata:Q1236032
Chantilly

マリー・ド・ブルゴーニュは可憐で美しく領民たちからも慕われていた。父王シャルル突進公の突然の死により20歳でブルゴーニュ公国を継承。父の死によりフランスから侵攻を受けて周りの大国の思惑の混乱に陥る中、父王か決めたハプスブルグ家のマクシミリアンとの縁談を慌てて決行して結婚した。

<マクシミリアンとマリー>

マクシミリアンとマリーの出会い
wikipedia public domain

マクシミリアンとの仲は睦まじく幸せな結婚だった。2人の間に一男一女が生まれる。長男はフィリップと名付けられた。ハンサムだったのでフィリップ美公と呼ばれ後のファナの夫となる人物。その後妹のマルグリットが誕生、マルグリットはスペンの皇太子ファンと結婚する事になる。

運命の神は意地悪だ。

幸せの絶頂に突然の不幸が訪れる。夫と馬で狩猟に行っている時、マリーは落馬して重症。小さな命を授かっていたが流産の上3週間後1482年25歳で亡くなった。ブルゴーニュ全体が深い悲しみで包まれ葬儀には多くの人が訪れた。今はブルージュの聖母教会に埋葬されている。

*フィリップはスペイン語ではフェリペ、マルグリットはスペインではマルガリータ。ここは混乱するのでフィリップとマルガレーテで統一する。

ファナの結婚と王位継承権の行方


この時ファナは王位継承権第3位

スペインでは男子王位継承が優位でその後は年齢の順になるので兄のファンが王位継承権第1位、姉のイサベルが第2位、ファナはその後なのでこの段階では全くファナに王位が行くことは誰も想定していない。カトリック両王も、そしてファナ本人はなおさら。

長女イサベルは母親似のしっかり者の美しい王女だった。幼いころから各国から縁談があったがポルトガル王ジョアン2世の息子アフォンソと1490年に結婚する。ポルトガルで熱狂的に迎え入れられ結婚式が行われた。

*ジョアン2世は喜望峰発見の時のポルトガル王。コロンブスの援助を断った王。

<イサベル王女>

長女イサベル王女
De Fernando Gallego, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=21188497

好事魔多し、とはまさにこの事だ。

翌年にカトリック両王がポルトガルを訪れて祝いの祝宴の折、狩りに出かけた新婚の夫アフォンソは帰らぬ人となる(1491年)。落馬して即死だった。失意の中、長女イサベルは祖国へ戻されることになり4年の歳月を過ごす。

その間にスペインではグラナダの陥落とコロンブスの出港、ユダヤ人追放令と時代は目まぐるしく動いていく。

ポルトガルから知らせが届いた。「ジョアン王急死」

スペイン大使によると妻のレオノーラによる毒殺説が囁かれていた。空位となったポルトガル王位にレオノーラの弟マニュエルが即位。新ポルトガル王からイサベルは求婚されたが俗世を捨てて修道院に入るつもりだったイサベルに結婚の意志は無かった。しかし母は娘に「王家の人間としての役目」をわきまえる様に説得しポルトガルへ再び旅立っていく。

ファナの結婚

アラゴンとフランスは度々イタリアを巡ってもめていた。ブルゴーニュは国境を接するフランスとは小競り合いが続いていた。ここに対フランスの利害関係で二つの国が結びつくことになった。

スペイン王国の王子・王女とブルゴーニュ公国の王子・王女の結婚が決まった。

イサベル女王の長男ファンとブルゴーニュ公国のマルグリット、次女ファナとフィリップの結婚なので2重の婚姻で憎きフランスを挟み撃ちに出来るという算段だ。

ファナの兄はイサベル女王の一人息子。アラゴンとカスティーリアの王位継承者*アストゥリアス皇太子だ。少し体が弱い18歳。結婚をもう少し先に延ばしてはという忠言はあったがイサベル女王はアラゴンとカスティーリア両王国の王座を手にする世継ぎの誕生を急いでいた。一方美人そろいの姉妹の中でも抜き出て美しいと言われていたファナは16歳でフェリップ美公との結婚が決まりスペインとブルゴーニュの2重縁組となる。

*アストゥリアス皇太子Principe de Asturias=スペイン王国の次の相続者、すなわち皇太子に与えられる称号で14世期に始まった。現在の王位継承者は王女なのでPrincesa de Asturias,皇太女になっている。

<15世紀のカラベル船>

キャラベル船
マドリッド海軍博物館、筆者撮影

王女ファナを乗せたカスティーリアの王国艦隊が復路にブルゴーニュのマルガレーテをスペインに連れて来ることで両国の合意に至る。

つつましい生活を好むイサベル女王が珍しく壮大な大艦隊を準備させる。北部ラレード港は船で埋め尽くされまるで都市のようだった。聖職者、神学者、有力者、侍女、教育係、兵士と嫁のマルガレーテを連れ帰る侍女やお付き等従者だけで4000人総勢15000人で出かけていった。1496年大小さまざまの120隻の船が準備され出港していく。

イサベル女王は娘の船に乗り込み一昼夜を共にし別れを惜しんだ。これでもう二度と娘とは会えない、という予定だったのだから。

<ラレード港>

ラレード港
http://www.laredospain.com/historia/

1496年8月21日の夜中から22日にかけて錨を挙げ艦隊は出発していった。

「すべての船が出港するのに次の日の日中までかかり海岸からは日が暮れてもまだ船の帆が見えた」という大変な数の船団だった。

ところが9日目に風の向きが変わり大時化となって艦隊は8月31日イギリスのポーツマス港に緊急入港をした。3日間の時化で船の乗組員までも大変な疲労困憊の中、王女は平静に堂々と歩いて感謝のミサをいただきに教会へ出向いた、そして誰よりも美しかった。スペイン王女の美しさは忽ち評判となりイギリス王の耳にも入り当時スペインの王女カタリーナと息子の結婚の交渉中だったヘンリー7世はこっそりファナを見にやって来た程だった。

<ファナ、1495年頃>

ファナ1495年頃
By Master of the Legend of the Magdalen – Bilddatenbank Kunsthistorisches Museum, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4624955

 

2日後、海が静まり艦隊は出発した。9月9日にフランドル到着。港到着後は華々しく行列を作り民衆へのファナのお披露目が行われた。道中歓迎する人々の熱狂は冷めずアントワープ迄続いた。未来の夫は父王の代理でリンダウに行っており不在。その間フランス語を習いあっという間に使えるようになり周りを驚かせた。

<アントワープ、グローテ・マルクト>

アントワープのグロース広場
wikipedia CC 3.0 ASCII 12 imágenes, Dimensiones: 10181 x 4007, FOV: 155.75 x 61.30, RMS: 2.80, Objetivo: Estándar, Proyección: Esférica, Color: LDR

ファナの女官達も美人そろいでフィリップの元には毎日ニュースが届き話題の婚約者に会いたい気持ちを募らせる。フィリップは自筆でファナに手紙を書き送り飛脚がそれを運んだ。ファナも戻る飛脚に手紙を持たせ2人は人知れず愛を育んでいた。

実は当時のスペインはカトリックの元に禁欲的で厳格な社会が築かれておりフランドルは享楽的だった。貿易の豊かさは庶民にも行きわたり酒場で飲んだくれ道徳は地に落ち、男女関係もおおらかだったのが今のオランダ・ベルギー、フランドル地方だった。

<酒場でタバコを吸う紳士たち>

タバコを吸う紳士たち
Medium painting
Source/Photographer Encyclopedia Britannica Online, entry “smoking”. 2007-07-21

このひどい堕落に驚いたのがスペイン人たちでファナは下界から離れてリールの修道院で婚約者を待つことになる。ファナは冷静で常識的で真面目だった。その間修道院の行事に参加し自分を戒め神学を学びラテン語で教養あふれる会話を楽しんだ。

<ベルギーリールの街>

ベルギーリールの街
wikipedia CC3.0
Source Own work
Author Michielverbeek

フィリップ美公の登場

修道院で過ごす事9日目、ずぶ濡れの騎士の一行が早馬で駆けつけ修道院の戸を叩く。会議を終えたフィリップが先鋭のお付きだけを連れてファナに会いに馬を走らせやって来た。気の利いた修道院長はこっそり内部に彼らを招き入れ衣服を乾かし食事を準備した。

<フリップ美公ルーブル美術館>

フィリップ美公
wikipedia public domain

背は高く瞳は青く甘いまなざしの魅力を自ら知っていた。陽気で話がうまくダンスが得意でスポーツ万能、手足が長く美しい指が自慢。女性にもてないわけがない。

始めて逢った2人は惹かれあい修道院長を説得しフィリップは「誰でもいいから司祭を連れて来い!」とその場で即刻結婚した。1496年フィリップ美公18歳ファナ16歳。この時からファナは一途にフィリップに恋い焦がれる事になる、彼が死んだ後も。

その6日後ブルッセルの大聖堂で壮麗な結婚式が行われファナは正式にブルゴーニュ大公妃となる。この時まだファナのスペイン王位継承権は3番目だった。

<ファナとフィリップの結婚、インスブルック宮廷教会の彫刻>

ファナとフィリップの結婚

フィリップは自慢の美しい妻を連れて領土を旅して歩いた。2人の幸福な姿はあらゆるところで見られファナは幸せの絶頂にいた。そしてフランドル風の街や陽気な人々や快楽的な街を気に入っていた。この国で生涯暮らすのだから夫好みになろうとしたのかもしれない。

ブルゴーニュ公妃として一生を終えていれば普通の幸福な人生だった。そんなファナは直ぐに子供を宿した。

兄ファン皇太子と姉イサベル王女


王位継承権第1位のファンの結婚と2位姉イサベルの再婚

スペインではイサベル女王の愛情とスペインの期待を担ったファン皇太子の結婚の準備が整った。

ファナを運んだ船団が今度はブルゴーニュ公女マルガレーテを乗せてフランドルを出発する。途中嵐に見舞われたがサンタンデールに到着したのが1497年3月初旬。17歳のマルガレーテは豊かな金髪に大きな褐色の目、人々を魅了したのは言うまでもない。

<ブルゴス大聖堂>

ブルゴス大聖堂
筆者撮影

ブルゴスで華やかに祝宴が行われ19歳のファンと17歳のマルガレーテは祝福され未来のスペイン王と王妃としてふさわしかった。美しいマルガレーテに王子ファンは夢中になった。そして早く世継ぎをと周りからも期待されていたのもあった。

「最近ファン様の顔色が悪いようですが…」

との忠告もあったがイサベル女王も未来の世継ぎを一日も早くとの思いがあった。そして王妃が懐妊した。

同じ年の秋、ファナの姉イサベルの再婚が決まり結婚式が執り行われた。修道院で余生を過ごそうとしていたイサベルだったがポルトガル王マニュエル幸運王から求婚され結婚が決まった。28歳と27歳の結婚で当時ではかなり晩婚になる。ポルトガルでの結婚式にカトリック両王は参列し娘の姿に満足していた。

<マヌエル、ポルトガル王>

マヌエル、ポルトガル王
De Desconocido – Arquivo Nacional Torre do Tombo, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=28974731

運命のいたずら

長女イサベル王女のポルトガル王との結婚式の最中に不吉な知らせが届いた。

「皇太子ファンの様態が良くない」

もともと体が弱く病気がちだったファンは結婚後の式典が続きあまり調子が良くない中サラマンカでの祝賀会に参加しているところだった。父フェルナンド王は急いでサラマンカへ向かうが、ファンはあっけなく死んでしまう。

1497年10月4日結婚の6か月後だった。

イサベル女王の最愛の息子でスペインの希望だった未来が幕を引いた。19歳、これほど悼まれた死は他に無い。スペイン中が喪に服し悲しみ国中の教会の鐘が哀しみの音を鳴らし続けた。その遺体はアビラの修道院に今も眠る。

<ファン皇太子の霊廟、サント・トメ修道院アビラ>

ファンの墓
wikipedia public domain

*ファンの死因は結核とも天然痘とも強壮剤として食べた亀の肉が悪かったとも、そしてマルガレーテに夢中になりすぎてベッドの時間が多すぎたとも言われている。

この時ファンの子供を宿していたマルガレーテに注目が集まる。

「もし男の子ならスペインを継がせたい」「いや、女の子でもカスティーリアの王冠は問題ない」

ところが突然の早産の結果この子もあっけなく神に召されてしまう。その後マルガレーテはフランドルへ戻りサボア公と再婚するがまた夫が死別しその後は国をまとめる政治家としての才能を生かし懸命に祖国の為に働く。誠実で聡明なマルガレーテは人々に尊敬されファナの子供達、後のカルロス5世達を大切に育てた。イサベル女王とはその後会うことは無かったが生涯手紙のやり取りをしお互いに尊敬しあった。

<マルガレーテ>

マルガレーテ
De Bernard van Orley – The Yorck Project: 10.000 Meisterwerke der Malerei. DVD-ROM, 2002. ISBN 3936122202. Distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH., Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=156042

姉イサベルに王位継承権

弟ファン皇太子の死でポルトガルに嫁いだ姉イサベルは深い悲しみの中に沈んでいた。そんな悲しみの中、王位継承権が新婚のイサベルの元にやって来た。

<イサベル、ポルトガル王妃>

イサベル ポルトガル王妃
By 不明 – Transferred from German Wikipedia, originally http://genealogia.sapo.pt/pessoas/pes_show.php?id=2278, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2051914

ブルゴーニュのフィリップ美公、ファナの夫が突然王位の主張を始めた。その野心に警戒を始めるスペイン側は早く長女イサベルに王位継承の手続きを踏ませたくスペインへ召喚する。

そんな中イサベルが懐妊した。

体調が安定するのを待ちカスティーリア王国の議会で王位継承の誓約は終わった。今度はアラゴン王国での承認へとサラゴサへ向かい長引く議会の途中イサベルは男の子を産む。人々は歓声を挙げて喜び街中に響き渡る声で「イサベル万歳」と叫んで祝砲が鳴る。

ところが運命の神はここでも黒い矢を放つ。

宮殿の中はひっそりと静まり返り凍り付いていた。子供に生を与え力尽きたイサベルはその1時間後この世を去った。

1498年28歳で亡くなったイサベルは「イサベル・ラ・トゥリステサ」、「悲しいイサベル」と呼ばれる。母の命と引き換えに生まれた男の子はミゲールと名付けられた。

一躍この子「ミゲール」に期待と注目が集まった。

*夫のマニュエル王はカスティーリアの王冠をあきらめリスボンへ帰って行った。後にイサベルの妹マリアと再婚しその死後はファナの長女レオノールと結婚する。

 

フアナの運命


フェリペの浮気

兄ファンが亡くなり姉イサベルが亡くなった頃ファナは最初の娘レオノールを産んでいた。夫の行動が怪しくなり始めたのもこの頃で身重の妻の目を盗んでは他の女性の元へと行き始めるのだ。当時の王家には普通にあった事でイサベル女王も度々フェルナンド王の不貞に心を痛めた。

ただファナは黙って我慢するタイプではなかったようで人前も憚らず夫を罵り声を荒げた。そしてフェリペは度を越していた。

丈夫で健康で嫉妬深いファナはフェリペから目を離さず、乗馬も狩りも何でも行動を夫と共にした。妊娠が気づかれないようお腹を隠して馬に乗っていたほどだ。

<フィリップ美公とファナ>

ファナとフェリペ 1505年頃
By Master of Affligem – Juanna_Filips_Klein.jpg:derivative work: Maximus0970 (talk), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6487377

そして次の年ファナは待望の男の子をベルギーのゲントで産む。(1500年2月24日)

「カルロス」と名付けられたこの子が後の「カルロス5世」。

ブルゴーニュは喜びに沸いた。しかし、その少し後マドリードから悲しい知らせが届く。

姉イサベルの忘れ形見、ミゲールが亡くなった。

2歳にさえなっていなかった。1500年7月20日グラナダで死亡、トレドに埋葬されるがその後グラナダの王室礼拝堂へ移動し今もそこに眠る。

そしてブルゴーニュ公妃として一生を終えるはずのファナの所にスペインと新大陸の王位継承権がやって来る。

動き始める策略


妹マリアとカタリーナの結婚

ミゲールの死で希望の光は消えたが泣いているわけにはいかない。

カトリック両王は動き出す。約一か月後ポルトガルとの絆を消さない為マニュエル王に三女マリアを嫁がせた。マリアはイサベル女王の子供の中で唯一幸福な人生を歩む。35歳で惜しまれて亡くなるまでにポルトガル王に5男2女を与えた。

末娘カタリーナはイギリスへ行くことになる(1501年)。フランスを周りから包囲するためにはイギリスは最適の相手だった。カタリーナはヘンリー7世王の息子アーサー王子と結婚が決まる。

ファナは6年ぶりのスペインへ

ファナに王位継承権がやって来るとにわかに優しくなったのが夫のフェリペだった。

いやフェリペだけではなく周りのほとんどが地位とお金目的でファナを利用しようと動き始めた。ファナはそんな中1501年にブルッセルで3人目の子供を産む。女の子でイサベルと名付けられた。

同年夫妻はカスティーリアとアラゴンの王位継承者の承認を得るために陸路スペインへ向かう。大きな馬車が100台は準備され大行列で華々しく出発した。

フェリペはフランスびいきだったのがスペイン側の見当違いだった。

彼の野望はスペインの王冠を手にした後、息子カルロスをフランス王妃と結婚させ昔のカール大帝の大帝国を再現させることだった。陸路フランスへ入りルイ12世の居城ブロア城でしばらく世話になる。

<ロアールのブロア城ルイ12世の居城>

フランス、ブロア城
wikipedia CC3.0
Source No machine-readable source provided. Own work assumed (based on copyright claims).
Author No machine-readable author provided. Calips assumed (based on copyright claims).

ある日の日曜日

顔合わせを祝ってミサが行われれ、献金用の袋が回って来るとルイ12世はまるで家臣にするように金貨をフィリップに渡す。フィリップ美公はそれを有り難く受け取って袋に入れた。これは主人が従者に行う儀式だった。

<フランス王ルイ12世>

ルイ12世
By 不明 – 不明, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4064320

同じことをフランス王妃アンヌがファナにしようとするとファナは金貨を手に取り裏表何度も見た後突き返し自分の高価なイヤリングを片方袋に入れた。その所作は大変優雅で気品に満ちていた。ファナはスペイン王女で未来の女王なのだから対等なのだという意思表示だ。

そしてミサが終わると教会から出るときルイ12世が出るとフィリップ美公は直ぐに後ろをお付きの様について出たがファナはフランス王妃が出た後も祈り続けしばらくしてから優雅に席を立って外へ出た。お蔭でフランス王妃は寒い教会の外でファナを待つ羽目になった。おまけにファナは教会を出るとフランス王妃の前を堂々と歩いて先に行った。

<フランス王妃アンヌ>

フランス王妃アンヌ
By ジャン・ブルディション – http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b52500984v/f14.item, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=23536213

夫はこの妻の行動を称賛するが片方になった高価なイヤリングを取り返す方法を心配していた。

部下を通じ何とか取り返したイヤリングをファナは

「既に神のものとなった物を受け取れません。両方にそろえて神にお返しします」と司祭に渡したというエピソードが残っている。

国境を超えスペインに入ると景色は険しくなり山や谷やバスク地方の武骨な風景になりフランドル人たちが悲鳴を上げ始め不満を言い出す。

<スペイン北部の山岳地帯>

カーレスの谷
筆者撮影

フィリップ美公は持病の痔を患っており悲鳴を挙げながら峠を越え良くなったらまた今度は麻疹にかかり、貧しい村には大した食べ物も無く散々な旅となり武骨なスペインに不満を募らせる。

ファナは抜群の体力でかいがいしく夫の面倒を見るその時間は彼女の最高の幸せだった、に違いない。到着した議会ではファナは立派に役目を果たし堂々とアラゴンの議会の議長を務めている。

フェルナンド王とフィリップの確執

フェルナンド王は大した人物でその心の内は推し量れない。

大物でマッキャベッリの君主論にも登場する策略家だった。もちろん当時のヨーロッパの政情を見るとそれくらいでないと国王は務まらない。ナポリでフランスと揉めているアラゴン王国の王冠を手に入れる娘の婿はフランス寄り政策なのだから面白いはずはない。

戦費はかさみスペインにとっては厳しい時期だった。ことごとくフェルナンドとフェイリップは対立する。

そこで新しい悪い知らせがやって来る。

イギリスへ嫁いでいた末娘カタリーナの夫アーサー皇太子が亡くなった。フェルナンドが心配したのは娘ではなく同盟関係だった。

<フェルナンド王>

フェルナンド王
wikipedia public domain

カタリーナはイギリスに留め置かれアーサーの弟「ヘンリー8世」と婚約が決まる。

フィリップは1人ブリュッセルへ

何かと堅苦しいスペインが気に入らないフェリップ。

フェルナンド王とも対立が続き1502年12月19日フィリップは身重のファナを置いてフランスへ向かう事が決まる。息子カルロスとフランス王女の縁談話をまとめる予定だ。

ファナの出発を許さなかったのはカトリック両王だった。身重の娘が敵国フランスで子供を産む事などあり得ないというわけだ。

そして翌年の1503年3月ファナはスペインで男の子を産んだ。フェルナンドと名付けられたこの子は未来の神聖ローマ皇帝となる。

ファナの健康は瞬く間に回復し早く夫と子供の所へ帰りたいと激しく訴えた。その訴え方は兎に角尋常ではなかったとされる。ファナを帰さなかったのはイサベル女王だった。この頃のイサベル女王は発熱を繰り返し良い状態ではなかったが未来の女王ファナに君主としての教育をとの気持ちがあったと解釈する歴史家もいる。

ファナをメディーナ・デル・カンポのモタ城に幽閉した。フランドル行きの船が出る方へ行けると喜んで出発したファナだったのが不憫。

<メディーナ・デル・カンポ、モタ城>

メディーナデルカンポ、モタ城
De Chefocom – Trabajo propio, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=16601825

城で泣き叫ぶファナはあらゆる手段で脱出しようとするが城門は閉められ跳ね橋は上げられた。

イサベル女王は何故ここまで夫に会いたいと泣き叫ぶ娘をスペインにとどめたのか。フランスと戦争が落ち着いたらとの約束があったが1503年11月停戦協定が決まった後もファナには内密にされた。それを知ったファナは更に暴れ母に対して猜疑心を募らせる。

ある時ファナは「私はブルゴーニュ公妃なので妻として夫と共にいなければなりません。歩いてでも帰ります。」といってフランス側を向いた塁砲の近くの城門に体当たりし叫び座り込み、凍てつく寒さの中で夜を過ごした。

この頃のファナの言動は確かに普通ではない。心配してやって来たイサベル女王にこの上ない暴言を吐いたのがファナと母の最期の会話となった。

イサベル女王はその1年後に神の元へ召される。

ブルゴーニュへ

これらの事件の後ファナは帰国が許され翌年春ラレード港からフランドルへ帰る。ファナ25歳。夫と離れて1年半が過ぎようとしていた。

フィリップは妻の帰還を心から喜ぶが心配した通り愛人がいた。

いつもの通り金髪の色白の女官。まわりは親切にもファナに色々情報を持ってくる。問い詰められた夫は白状し女と縁を切ると約束するが女の方がファナに挑戦状をたたきつけた。フェリペが女に渡した手紙を豊かな胸元に入れファナの前に現れたのだ。ファナは鋏を持って飛びかかりその自慢の金髪を切り刻み頬に切り傷を入れたという。

フィリップは激高し2人の中は冷めきった。今度は報復にフィリップはスペインから連れて来たファナに忠実なモーロ人のお付きたちを宮廷から追い出した。これをきっかけにファナはの精神状態は更に悪くなり時折爆発し手が付けられなくなった。部屋に閉じ込められると夫の浮気を疑い壁を叩き叫び続けた。

イサベル女王の死


遺言状

ファナの現状は逐一スペインに届けられていた。

それがイサベル女王の心を痛め死期を早めたかもしれない。1504年11月26日イサベル女王崩御。遺言によりファナがカスティーリア王国の女王となった。

死期間近の女王は最後に文言を付け加えた。「ファナにカスティーリアを、ただ統治不能な場合はファナの父フェルナンド・アラゴン王が摂生となる。」

*カスティーリアとアラゴンは別の法を持つ別の国家。この時ファナが継承したのはカスティーリア王国の王冠。

<イサベル女王の最後、口述で遺言をしたためる>

イサベル女王最後の日
Eduardo Rosales, 1864
museo del prado

フィリップは周りに担がれ動き出し、フェルナンド王は娘の狂気を期待した。

フランスはこの混乱をチャンスと考えローマ法王やイギリス国王までも美味しい果実を手に入れようと動き始めた。

そしてフィリップは妻に優しくなり、再び4人目の子供マリアを懐妊しこの子は1505年に誕生する。

フェルナンド王の再婚と偽の書簡

フェルナンドの心には「このまま自分が死んだらカスティーリアとアラゴンと新大陸の王冠の行方は憎らしい義理の息子フィリップ又はベルギー生まれの孫のカルロスのもとへ」

それを阻止したいフェルナンドは60歳に手が届く頃仇敵フランスのルイ12世の姪と結婚している。努力の甲斐あり子供が生まれるがその子は生まれて間もなく亡くなってしまう。なんとか世継ぎをと怪しい媚薬にまで手を出してまさに必死だった。がこれがカスティーリアの貴族たちの反感を買い彼らは反フェルナンド派となる。

*アラゴンの議会ではフェルナンド王に男子世継ぎが出来なかった場合ファナとフィリップに王位継承権という注釈があった。

フィリップ美公にチャンスがあるとすればファナの精神状態がまともな場合。義理父フェルナンドにとってはファナが狂っている方が都合がいい。又カスティーリアの貴族の多くはアラゴン人のフェルナンドに国を治められたくなかった。

まわりの思惑が錯綜する中、ファナの偽の書簡が用意され「自分は精神状態は普通であり愛する夫にカスティーリアの統治権を譲る」というものだ。フィリップはファナに署名を強要するがファナは5度にわたって断りついに署名しなかった。

*実はファナは殆ど署名をしなかったという説がある。ある時夫に錯綜する陰謀の中簡単に署名はするなと言われた後一度しか署名をしていないという説だ。

王位継承権を手に


再びスペインへ

フィリップ美公はスペインへ行く決心をする。

艦隊を準備し1506年1月7日プリシンゲン港を出発した。とんでもない嵐に会い3日間の最悪の状況の船での中でもファナだけは顔色も変えず冷静だったという。

船を守るために船乗りたちは積荷を海に投げ入れ始めしまいには船底に馬と一緒に押し込められていた娼婦達まで海に捨てようとした。

それを見たファナが「この女たちを海に捨てるなのらまずは彼女たちを食い物にした男たちを先に捨てましょう。神に許しを請うには身分は関係ありません」と嵐の甲板で女たちを救った。

この嵐の後で大打撃を受けた艦隊を休める為一行はイギリスへ寄る。ここでファナは妹カタリーナに逢っている。カタリーナは夫アーサーが亡くなりその弟ヘンリー8世との縁談がまとまったところだった。イギリス王ヘンリー7世はファナを見てその美しさを讃えたという。

<ファナの妹カタリーナ、イギリス王と結婚する>

カタリーナ
wikipedia public domain

フィリップ美公は王様気取りで上機嫌。ふたりはしばらくのイギリス滞在中蜜月を過ごし再びファナは末娘カタリーナを懐妊する。

1506年スペインに到着。

到着した一行は歓迎を受けた。フェルナンド王はフィリップ美公との対立と内戦を憂慮し和解したように見せ実権を握ろうとした。陰謀が渦巻く中ファナを狂気のせいで女王の地位から遠ざけようとする輩もいたがフェルナンド王に危険を感じるカスティーリア貴族も多くいた。カスティーリア提督ファドリケ・エンリケスがバジャドリードで面会する。

この時のファナはいつもよりかなり冷静で慎重に受け答えし議会は1506年7月1日ファナを正式な女王陛下として承認した。同時にフィリップ美公も「カスティーリア王フェリペ1世」を名乗り上機嫌となる。

最愛の夫フィリップ美公の謎の死と彷徨う遺体

2人はファドリケ・エンリケスのブルゴスの城に招待されて過ごし、美しい城で国王として扱われ28歳のフィリップ美公は満足だった。

そこでペロータというテニスに似たスポーツをして汗をかいたフィリップは冷たい水を所望した。一気に飲み干したがその後強い吐き気を感じ苦しみだす。フィリップは立っていることも出来なくなり倒れ高熱が出て体中に黒い斑点。当時そのあたりではペストが流行して多くの人々をあの世に送っていたらしい。

ファナは妊娠5か月の身で寝ずの看病をしとにかく世話を焼く。力尽きたフィリップの魂が体を離れた後もファナは体をさすったり話しかけ続け2人を引き離すのに苦労したと記録にある。

最愛の夫フェイリップ美公は死んだのだ。

<フィリップ美公の死>

フィリップの死
By Charles de Steuben – Juana la Loca, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=36246297

不思議なのは都合よくフィリップだけがペストにかかり他の誰も罹患していなかった事。フィリップ美公の死は今も謎のまま。この時彼の死を望んでいなかったのはファナのみだったのだから。

フィリップ美公の遺体は防腐処理が施されブルゴスのミラフローレス修道院に安置された。ファナはミサを行い、祈りはフィリップ美公の生前の行いの懺悔と霊魂の救済だった。(決して後世の人々が期待するフィリップの復活ではない)この後夫の遺体を再び掘り起こしカスティーリアの荒野をさまよい時折棺を開け口づけをし復活を祈ったという伝説になっているが事実は不明。

<フランシスコ・プラディージャ、荒野をさまようファナ>

狂女ファナ荒野をさまよう
wikipedia public domain
museo del prado

 

わかっている事実のひとつはこの頃ペストがブルゴス近くまで来ていた。ファナは実はそれほど狂っていなく最愛の夫の棺を持ってペストから逃れたのかもしれない。

イギリス国王ヘンリー7世からの求婚

50歳になるヘンリー7世が未亡人になったファナに食指を伸ばす。持参金やその後のスペインが目当てだがファナに恋い焦がれていたのも本当だ。

ファナにその話が舞い込んだ時フェルナンドは引き延ばした。カスティーリアの王冠を狙っているのは間違いない。もし男子誕生なんてことになれば大変だというわけだ。

<ヘンリー7世イギリス王>

ヘンリー7世イギリス王
By 匿名 – http://www.marileecody.com/henry7images.html, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=983653

そして、その少し後にヘンリー7世は亡くなった。

ファナの心がどう動いたかはわからないがもしもこの時イギリスに嫁に行っていたらその後は違う人生だったかもしれない。そして妹のカタリーナも姉がいればヘンリー8世の愛人に追いやられる事無く過ごしたかもしれない。

トルデシージャスへ


父フェルナンドの都合

父フェルナンドは賢明だった。

このままではカスティーリアは混乱したであろう。ブルゴス近くの街トルトレスでファナとフェルナンドは謁見し政治の実権は父の元へ。ファナはその後アルコス(ブルゴスから10キロ)に移動し息子フェルナンドと娘カタリーナの2人の子供達と夫の棺と共に幸せに暮らしていた。

<フェルナンド>

フェルナンド
wikipedia public domain

フェルナンド王はスペインで生まれた孫フェルナンドをことのほか可愛がった。

出来ればブルゴーニュで生まれたカルロスではなくスペインで生まれたフェルナンドにこの国を継がせたいと思っていた。

ある日6歳になるフェルナンドを父が連れ去出した。

いつもの様にファナの発作は満月の夜、息子がいないと夜中に起きだし馬に蔵をつけよ、息子を探し出せと大騒ぎになった。息子が行った方を眺め続け夜を過ごした。この事件をきっかけに息子フェルナンドはファナの手元に戻るが家族の移動が決まった。

夜中に父王フェルナンドはアルコスに向かいフィリップの棺と共にファナと末娘カタリーナをトルデシージャスへ連れていく。ファナ29歳、この後75歳で亡くなるまでトルデシージャスの城で暮らす事になる。

フェルナンド王にとっては娘は狂った状態で長生きしてくれるのが望ましいのだ。他の不満分子に利用されては困る。結婚も娘もすべては政治と国の安泰の為に利用された時代だった。

フェルナンドの死

殆ど誰もが自分の利益と都合と欲望で動いていた。純粋だったのはファナだけだったのかもしれない。

<トルデシージャス、サンタ・クララ修道院>

サンタ・クララ修道院
De José-Manuel Benito – Trabajo propio, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=519592

フィリップの棺はトルデシージャスの城の横のサンタ・クララ修道院に安置された。毎日夫の棺の元へ通うファナに狂気を見る歴史家もいるが純粋に祈りに通ったと見る説もある。

そんな頃父王フェルナンドが倒れた。

亡くなる前日まで頭は冴え最後の遺言状が口述された。1516年1月22日グアダルーペへ向かう旅の途中だった。不憫な娘に会いに行こうとした旅なのかは不明。

王位継承者にカルロス王子を指名した。現在はグラナダの大聖堂横王室礼拝堂に眠る。

<フェルナンド王とイサベル女王の墓、グラナダ王室礼拝堂>

wikipedia
Javi Guerra Hernando – Trabajo propio
CC BY-SA 4.0

トルデシージャスでのファナ

ファナの面倒を見るトルデシージャスの城主は何度か変わっている。最初のルイス・フェレール氏は食事を拒むファナの口に無理やり食べ物を押し込み発作が起こると真っ暗な陰気な部屋へ押し込んだ。

これを知ったシスネロス枢機卿が心を痛めファナの信頼していた女官をトルデシージャスへ送り新しい城主を探した。そこに登場したのが修道士になろうとしていたエルナン・ドゥーケ・デ・エストラーダだった。謙虚で質素で誠実にファナに仕える彼の誠意が伝わりファナは街を歩いたり馬で遠出まで出来る程に回復した。ところがまわりの欲深い廷臣たちから疎まれ2年程でエルナン・ドゥーケは女王から遠ざけられてしまった。

カルロス・スペインに

フェルナンドの死はファナには伏せられた。フランドルの動きは早くファナの長男カルロス王子がカスティーリアとアラゴンの国王となると宣言する。

カルロスとポルトガルへ嫁に行く姉のレオノールは1517年40隻の艦隊を準備しスペインに向かった。

向かう先はラレード港だったが何かの間違いで着いたのは田舎の漁村タソネス。多くの艦隊に驚いた村人たちは海賊の襲撃と思い棍棒を持って出迎えたという。

*マクシミリアンの命で弟フェルナンドはフランドルへ向かう。

<タソネスの漁港>

タソネスの漁港
筆者撮影

そして母のいるトルデシージャスへ向かい謁見をした。

カルロスと姉レオノールはファナに礼儀正しく女王陛下として接しファナは2人を抱き寄せてさめざめと涙を流した。

欲にまみれたフランドルの重臣たちは様々なお膳立てを準備しファナに「わが名において息子カルロスがカスティーリアの統治を行う。ただ父カトリック王が亡くなった場合において。」と宣言させた。未だファナはまだ父の死を知らされていなかった。同席した重臣達によって都合が良いように書類は作成されカルロスはスペイン王となる。

ファナは署名はしていない。

<カルロス1世王1516年>

カルロス5世
wikipedia public domain File:Charles V. – after Bernaerd van Orley – depot Louvre-Musée de Brou, Bourg-en-Bresse.jpg

そのころのファナの唯一の心の拠り所は末っ子のカタリーナだった。天使のような末娘はこの頃10歳でまともに外に出たことも無く生まれてからずっと母と共にいた。

姉レオノールは妹を不憫に思い城から連れ出す作戦に成功する。「母は狂っているから気が付かない」とでも思ったのだろう。

その後のファナは暴れるどころかぼんやり宙を見つめ抜け殻の様になる。カタリーナの脱出に手を貸した使用人がその後のファナの現状に胸を痛め女王の惨状をカルロスに訴えた。娘も母が嘆き悲しんでいると知るや母の元へ戻してほしいと訴えカタリーナはファナの元に戻された。

<トルデシージャス城のファナとカタリーナ、フランシスコ・プラディージャ>

ファナ トルデシージャス
Francisco Pradilla, La Reina Juana la Loca, recluida en Tordesillas con su hija, la Infanta Catalina, 1906 – Museo del Prado

コムネロスの乱

フランドル人に良いようにされてきたカスティーリア人たちが面白いはずは無かった。

税金はかさみ重職は持って行かれ頭の上を利益は通り過ぎる。カルロスはスペイン語も話さず要職は全てフランドル人に与えスペインからは吸い上げる一方、その金も一切還元されず遠い所で使われた。カルロスの神聖ローマ皇帝の選挙にも随分と金品が使われた。

1520年反乱軍はセゴビアを皮切りにトレド等を巻き込みファナを女王にしてカルロスの王権に対立した。しかし翌年国王軍に適わず大敗し処刑された。

<コムネロスの処刑>

コムネロスの処刑
wikipediai
public domain

この時コムネロス達の期待に添いファナは「自分が女王である」という宣言をしているが署名はしていないという。同じ頃に父の死を知らされ鬱状態に陥り精神状態は不安定に陥っている。

反逆罪でファナの処刑という筋書きもあったかもしれないというが、カルロスは母ファナにどんな時も「女王にふさわしい待遇を」と命令した。そしてファナが亡くなるまですべての書類に自分の名とファナの名を署名した。

末娘カタリーナの結婚とファナ最後の日々

時は流れ末娘カタリーナは18歳になった。ポルトガルのジョアン3世との結婚が決まりカタリーナは母には何も告げずに出発、ファナはその一行が去って行った橋の方を夜になっても朝になってもいつまでも眺めていたという。

そしてまた歳月は流れた。もうファナの事を覚えている人もいなくなった。

最後のトルデシージャスの城主は愛情なく表面的な世話を焼くだけの人物だった。そこにイエズス会士フランシスコ・デ・ボルハが送られてきた。

<聖フランシスコ・デ・ボルハ>

聖フランシスコ・デ・ボルハ
De Alonso Cano – Museo de Bellas Artes de Sevilla, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3118742

ボルハは後に聖人に聖別される人物で信心深く慈悲深く優しかった。

*ボルハはボルジアのスペイン語読み、あのローマ法王まで出したボルジア家の人物ファナはボルハとの会話を楽しみ彼の助言はよく聞いた。

ファナが人生の最後の時間をボルハと過ごしたのは幸運だった。ボルハはファナの最後の告解を引き受けたがそれは長い間錯乱状態にあった人物とは思えない思慮深い言葉で全人生を振り返るものだったという。

1555年4月11日復活祭の聖金曜日の早朝「スペイン女王ファナ1世」は静かに息を引き取った。同じ年10月息子のカルロス5世は退位してユステの修道院に隠居する。

トルデシージャスの城はその後誰も住み着かず18世紀に取り壊された。

<フィリップ美公とファナの墓。グラナダ王室礼拝堂>

フィリップ美公とファナの墓
Description
wikipedia CC4.0
Date 7 October 2014, 06:08:26
Source Own work
Author Javi Guerra Hernando

 

遺体はグラナダに埋葬され、ファナはやっと最愛の夫と2人になれた。

<グラナダ王室礼拝堂の地下墓所、中央がカトリック両王>

グラナダの王室礼拝堂のカトリック両王の墓
wikipedia public domain

 

*ファナとフェイリップ美公の遺体はカトリック両王の横、地下墓所に一緒に眠る。舅フェルナンドは可愛くない義理の息子が隣に来て墓の下で舌打ちしていることでしょう。フィリップの方も「毒を盛ったの貴方ですか」と言っているかもです。

幼くして死んだミゲール王子(イサベル・ラ・トゥリステサの息子)もここに眠る。

 

カルロス5世(スペイン史カルロス1世)神聖ローマ帝国皇帝。スペインの黄金時代

世界の歴史をグローバルに。遊牧民の時代から南蛮人が茶の湯を知るまで。

 

世界の歴史をグローバルに鳥瞰図的にまとめました。このブログは「スペイン」がテーマですがここでは少し広げて世界の歴史を「遊牧民が移動し歴史を動かし日本へ南蛮人がやって来た所まで」をまとめてあります。人が歩き道が出来て西域から遊牧民族が移動し物と文化と歴史を動かした。世界の歴史は面々と繋がっていて影響しあって今日まで続いている。(中央アジアにはもっと複雑に多くの民族が勃興していますが筆者の独断と好みで省略しています。)

 

 

シルクロードの遊牧民の時代からイスラム商人の活躍まで


時代は今から2千年ほど前。西域すなわちシルクロードは唐の長安(今の中国、西安)から地中海までの陸と海の道で古代から人と物と文化の交流のルートだった。その西の端をローマ、東の端を日本のとする説もある。奈良の正倉院には今も中国を経由してやって来たインドやペルシャの宝物が保存されている。草原の道、オアシスの道、海の道と繋がり多くの人と物を運んでいた。ローマ帝国と漢の中国が既に海と陸で繋がっていた。

シルクロード
Whole_world_-_land_and_oceans_12000.jpg: NASA/Goddard Space Flight Center
public domain
ササーン朝ペルシャ

現在のイランにササーン朝ペルシャが成立(226年)。ここは古代からの先進地域で洗練された文明のペルシャ人はアーリア系。今もイランはアラブではなくペルシア人、アーリア系の人々が住む。ペルシャは国境を接したローマ帝国と、その後分裂したビザンチン帝国(東ローマ帝国)と約600年間揉め続け戦争しお互いに疲労していく。

ササン朝ペルシャ
map by vivonet.com http://www.vivonet.co.jp/
ローマの分裂

繁栄をつづけたローマが衰退を始め4世紀コンスタンティヌス帝が首都をローマから東へ移動させ新しい都市を作った。そして「コンスタンチ・ノープル」と自分の名前を街につけた。その後ローマ帝国は西ローマと東ローマに分裂する。東ローマ帝国はビザンチン帝国とも呼ばれ1453年のオスマントルコの侵入迄続く。

<ローマ帝国の分裂>

ローマの分裂
C.C 3.0世界の歴史マップ
ゲルマン民族の大移動

道を通って遊牧民が移動する。4世紀、シルクロードを渡ってモンゴル系の匈奴の末裔といわれるフン族が襲ってきて来てゲルマン民族の大移動がはじまり西ローマ帝国は滅亡する。これにより移動したゲルマン民族が西ヨーロッパに移動して国を作り今のヨーロッパの国々の元が出来る。

<ゲルマン民族大移動図>

ゲルマン民族の大移動
Source German Wikipedia
Author Sansculotte
イスラム教が始まる

アラビア半島では7世紀初頭予言者モハメッドが登場しイスラム教が始まる。日本では聖徳太子が活躍するのがこの時代で予言者モハメッドと生きた時代が重なる。

*イスラム教徒とウマイヤ家、スンニー派シーア派についての記事です

       *<イスラムの始まりとウマイヤ家>

ビザンチン帝国とペルシャの長きにわたる抗争でシルクロードが安全に通れなくなり交易路はアラビア半島に迂回しメッカやメディナは貿易で繁栄しイスラム商人たちが活躍する。(イスラム教の創始者モハメッドはもともとは商人だった。)これがイスラム教が広がるのに有利に働いた。

<イスラム商人の新しいルート。シルクロートを迂回してアラビア海から紅海へ入った>

ササン朝ペルシャとビザンツ帝国
map by vivonet.com http://www.vivonet.co.jp/

 

ササーン朝ペルシャが滅亡(651年)して住人たちはイスラム化し、改宗したくない多くのペルシャ人が長安に逃れ華麗なペルシャの文物を運んだ。奈良の正倉院にはササン朝ペルシャとこの時代に長安に逃れたペルシャ人が運んだガラス器が残る。

<白瑠璃の椀 正倉院>

白瑠璃の椀 正倉院
(写真は『白瑠璃碗』正倉院 – 宮内庁より)

イスラム商人たちはウマイヤ朝の時代(7世紀)からアラビア海に進出してインドや東南アジア、中国にまで交易で移動していた。このウマイヤ朝の勢力が711年にスペインに入って来て西ゴート(ビシゴート)王国を滅ぼした。

*西ゴート崩壊の歴史の記事です。

*<西ゴート王国の崩壊>

 

<西ゴート王国の首都トレド、スペイン>

トレド展望台
筆者撮影
フランク王国とカール大帝

イスラム勢力はピレネー山脈を越えてフランス迄行っているがフランク王国のカール・マルテルにツール・ポワティエの戦い(732年)で負けてスペイン側に戻って行く。

<ポワティエの戦い、ベルサイユ宮殿蔵>

ポワティエの戦い
wikipedia public domain

勝ったカール・マルテルの人気は大変なものでその息子がピピン3世として即位。カロリング朝を開きローマ法王に土地をプレゼントした。これが今のローマ法王庁の始まりとなる。ピピン3世の息子がカール大帝。800年にローマ法王レオ3世により戴冠し西ローマ帝国の復活となる。

<800年カール大帝の戴冠>

カール大帝の戴冠
By Jean Fouquet, Tours – http://expositions.bnf.fr/fouquet/grand/f008.htm, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=204704
レコンキスタの始まり

カール大帝の戴冠の頃スペインの北西の端で聖ヤコブの遺体が発見された(813年)。その地は今も聖地、サンティアゴ・デ・コンポステーラという名のカトリック3大巡礼地となっている。有る時イスラム教徒と戦うキリスト教徒達を白い馬に乗った聖ヤコブが助けてくれる奇跡が起こる。聖戦、レコンキスタの始まりだ。

<サンティアゴ・デ・コンポステーラの聖ヤコブ>

聖ヤコブ
筆者撮影

*スペインのレコンキスタの記事です

*<レコンキスタの開始・トレド陥落からアルハンブラの開城>

アッバース革命

イスラム世界では革命が起こり8世紀中頃新しいアッバース朝が始まる。アッバース朝の時代になって現エジプトのアレキサンドリアやインド洋、南シナ海の回路のルートを開拓していた。実はポルトガルのバスコ・ダ・ガマのインド航路発見頃にはイスラム商人によってルートは出来上がっておりガマの船の水先案内をしたのはイスラム商人だった。

<インドからイタリアへの商人のルート>

イタリアからインド洋

Author The original uploader was Bunchofgrapes at English Wikipedia Later versions were uploaded by Twinxor at en.wikipedia

イスラム商人が東南アジアに進出し東南アジアのイスラム化をもたらす。今でもインドネシアはイスラム教が最大の宗教となっているしマレーシアやフィリピンにも多くのイスラム教徒が存在する。

イスラム世界の分裂とセルジューク朝と十字軍


イスラム世界の分裂

アッバース革命が起こりウマイヤ朝が倒されウマイヤ家の血を引く人は皆殺されたが奇跡的に生き残った王子がスペインまで逃げてコルドバを首都に後期ウマイヤ朝を作った。

*後期ウマイヤ朝についての歴史記事です。

*<後期ウマイヤ朝。コルドバカリフ王国の繁栄>

この影響でそれまでひとつだったイスラム世界の分裂が始まる。

<セルジューク朝以前のイスラム世界の地図>

10世紀のイスラム世界

分裂した勢力の中のブワイフ朝はイラン人の軍事政権シーア派のイスラム王朝。946年バグダードを占領しアッバース朝を制圧した。そこに草原の遊牧民がやって来る。もともとカスピ海にいた部族でトルコ系騎馬民族セルジューク族。彼らがブワイフ朝を滅ぼしアッバース朝のカリフを助けスルタン(王)の称号を与えられた。

ヨーロッパの分裂とレコンキスタ

この頃ヨーロッパ中央ではカール大帝によって統一していたフランク王国が分裂を始めフランス、ドイツ、イタリアと別れていく。スペインではビシゴートの貴族がイスラムの侵略からスペイン北部に逃れイスラム教徒と戦うレコンキスタを進めてキリスト教君主国を建国。

<キリスト教君主国の宮廷があったカンガス・デ・オニス>

カンガスデオニス
筆者撮影

 

セルジューク朝は次第に力を持ち領土を拡大し聖地エルサレムまでも占領しコンスタンティノープルのすぐそばまでやって来た。

<11世紀のセルジューク・トルコ>

セルジュークトルコ
Source Own work
Author MapMaster
GNU Free Documentation License,
十字軍遠征

これに驚いたのがビザンチン帝国で当時のローマ法王ウルバン2世に援助を頼んだ。「エルサレムをキリスト教徒の手に取り戻せ」とローマ法王の野心も手伝い「神はそれを望んでおられる」の号令のもと十字軍遠征が行われた。

<第一回十字軍アンティオキア包囲戦>

十字軍遠征
wikipedia
public domain

200年間に約7回の遠征、キリスト教徒側の身勝手な理由で残酷な殺戮が行われた。その中には本来の目的とは違うアルビジュア十字軍による同じキリスト教徒の大虐殺やコンスタンティノープルを陥落させ破壊の限りを尽くした第4回十字軍がある。大抵いつも残酷で非道で身勝手なのは西欧側なのです。

聖地巡礼

巡礼は様々な宗教で行われる人間の普遍的な行為のようだ。ヨーロッパからエルサレムへ向かう巡礼ルートに宿場町が出来交易が行われ人と物が移動した。人間の本質に移動という欲求があるのかもしれない。

エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地で今も紛争の元になっている。1000年頃のキリスト教徒達の生涯の重要事項はエルサレムへの巡礼だった。

<エルサレム地図>

エルサレム地図
wikipedia public domain

ヨハネの黙示録の世紀末感が漂っていた時代、人々はエルサレムに巡礼に行ってキリストが架けられた十字架の破片や来ていた衣、汗をぬぐった布などを有り難く持ち帰った。これを「聖遺物」といい今も各教会に収められている。偽物も多く取引されたようでキリストのかけられた十字架の破片はすべて合わせると大きなビルになるそうだ。

十字軍の結果ベネチアなど北部イタリア諸都市はエルサレムへ行くルートから様々なものを売り買いする商人たちが登場しベネチアの街は大変栄える。道が出来て人が動き物が動いてお金が動く。東方からやって来る高価な商品の中に香辛料があった。

<ベネチア、ドゥーカレ宮殿>

ベネチア、ドージェ宮殿
wikipedia

 

そして歴史は次の主役を準備していた。弱体化したセルジューク・トルコはモンゴル人侵攻によって13世紀に滅亡する。ウマイヤ朝、アッバース朝と続いたカリフの系統は殺されて途絶えた。

モンゴル帝国


チンギス・ハーン

いつの時代も安全なルートは商売には不可欠。それを成し遂げたのは西域の遊牧民だった。モンゴル高原で分散していた遊牧民を一つにまとめ国家にしたのがチンギス・ハーン(1162~1227)だ。巨大統一国家モンゴル帝国(1206)を作ったチンギス・ハーンは騎馬軍団を引き連れ瞬く間にユーラシア大陸を制圧し中国、中央アジア、中東からヨーロッパの一部にまでもやって来た。

<チンギス・ハンの即位>

チンギスハン
wikipedia public domain

彼らの圧倒的な強さは馬の使い方。少し小ぶりの持久力のあるモンゴル馬を一人5~6頭所持し乗り換えながら移動した。重い鎧を着ないで弓を走りながら射掛ける戦法で戦った。

<モンゴル帝国最大時の領土、なんと地球上の陸地の25パーセント>

モンゴル帝国最大図
Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported license.
活躍したのはイスラム商人

モンゴル帝国は武力で占領した地域に対しては税金さえ払えば干渉せず宗教に寛容で土地に執着することも無く政策もおおらかだった。ただ抵抗する都市に対しては徹底的に虐殺をして周辺諸国に恐れられ戦う前に降伏させた当時の世界最強最大の帝国だった。イスラム系の官僚を登用しイスラム商人達を利用して大規模な交易をおこなった。

イスラム商人が中国で活躍したのは元が初めてではなくイスラム教が始まって初期の頃既に海路中国の唐の都長安にて最初のモスクが創られていた。「大食」と呼ばれたイスラム教徒たちは「ペルシャ語でアラブ人を意味するTAZI」が起源でアラブ人より先にペルシャ人商人がシルクロードを経由して中国へ来ていたようだ。驚くのは既に信用取引の紙幣にあたるものを使っていた。

フビライ・ハーン

<フビライ・ハーン>

フビライハン
Kublai Khan as the first Yuan emperor, Shizu. Yuan dynasty (1271–1368). Album leaf, ink and color on silk. National Palace Museum, Taipei, 000324-00003. Photograph © National Palace Museum, Taipei.

フビライ・ハーン(1215~1294)の時代に安全な陸路と海路が保証され関税を一元化(一度だけ払えばいい税金)してヨーロッパから中東、中国にまでわたる流通が自由になった。

マルコ・ポーロ

そのころベネチアからやって来た商人がマルコポーロだった。17歳の時に父と叔父と共になんと24年間に渡りアジアを旅した。その距離は15000キロという。フビライ・ハーンに気に入られ17年間仕えたという説がある。「フビライ・ハーンの宮殿は途方もなく大きく豪華絢爛だった。壁は金銀で覆われ彫刻で飾られていた」とマルコは述べている。ベネチアに戻ったときはイタリア語を忘れかけていたという。

<タタールの衣装を着るマルコポーロ>

マルコポーロ
wikipedia public domain
蒙古襲来

マルコ・ポーロが中国についたのが1271年から1275年頃、その少し後に日本への2度の元寇が行われている。フビライ・ハーンがマルコ・ポーロから日本の豊かさを聞いたのが原因という説もあったが現在は否定されている。蒙古襲来に鎌倉時代の日本は大慌てだったようだが幸運にも神風が吹いて助かった。

<蒙古襲来図>

蒙古襲来
By 竹崎季長 – 『蒙古襲来絵詞』, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8013793

しかしモンゴル帝国の繁栄にも終わりがやって来る。中国には明が建国されモンゴル帝国の領土と経済の中心を失っていくころ中東ではオスマン・トルコが力を伸ばす。

モンゴル帝国が衰退すると陸のシルクロードの安全性は失われたがマラッカ海峡経由の海のシルクロードは中国に住むイスラム商人たちによって継続して使われていた。マラッカは重要な商業中継地点だった。

<イスラム商人のルートと取扱い商品>

イスラム商人の交易路
ムスリム商人のおもな貿易路と主要取引品地図 – 世界の歴史まっぷ

オスマン・トルコ


オスマン族はもともと遊牧騎馬民族だった。ルーツはセルジューク朝の傭兵部隊のオスマン一族。騎馬戦術に長けた勇敢な遊牧民が次第に強大になり西アジアから東ヨーロッパにかけてオスマン帝国を作る。そして東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに向かってやって来た。

<1453年コンスタンティノープルの包囲>

コンスタンティノープル1543年
Author Bertrandon de la Broquière in Voyages d’Outremer

1453年コンスタンティノープルの陥落によって東ローマ帝国は滅亡した。古代ローマ時代から続いたひとつの時代が終焉し当時ジェノバやベネチアが独占していた地中海の交易をオスマン・トルコが奪いはじめる。地中海での貿易に高い税金がかけられるようになりヨーロッパでの経済秩序が乱れ始めた。

<16世紀イスタンブールの天文学者達>

16世紀の天文学者
public domain

遅れたヨーロッパで大航海時代の序曲


貴重品だった香辛料

病原体が発見されるまでペストの蔓延は匂いによると信じられていた。臭いを消す香辛料はアジアからシルクロードを渡りベネチアの商人の手を通ると大変な高級品で銀と胡椒が同じ値段で取引されていた。マルコポーロを代表とするベネチアの商人達の最大の利益となったのが香辛料だった。

香辛料
Source http://www.flickr.com/photos/judepics/409841087/
Author judepics
コロンブスの登場

もしも地球が本当に丸いのならば関税の高いオスマン帝国を通過せず西回りでも直接持ってくることが出来ると思ったの人物がコロンブスだった。コロンブスについては謎の部分が多いがポルトガル船に乗ってポルトガル王に仕えていたことは間違いない。

コロンブス
wikipedia public domain

丁度この頃世界地図が作られ航海術が発達してポルトガルは既に大航海時代に入っていた。1488年バーソロミュー・ディアスが喜望峰を発見した為コロンブスはポルトガル王に西回り航海の援助は断られてしまう。喜望峰からインド洋が近い事をポルトガルは手に入れた為、西回りでインドに行く意味が無くなった。更にセネガルの奴隷貿易で既にポルトガルは利益を得ていた。

<アフリカ最南端、喜望峰>

喜望峰
wikipedia public domain

ポルトガル王からの援助をあきらめたコロンブスは隣のスペインへ移動しイサベル女王に謁見する。

*イサベル女王についての記事です。

*<イサベル女王とその時代>

スペインはその時まだ南スペインのイスラム教徒の国グラナダ王国の陥落戦の最中だった。「援助は無理」と断られコロンブスはスペインをあきらめようとしたが、1492年1月2日にグラナダのアルハンブラ宮殿が陥落する。

<グラナダの陥落、右側がイサベル女王とフェルナンド王>

グラナダの陥落
De Francisco Pradilla – See below., Dominio público, Enlace

再度会議が行われコロンブスに援助することが決まりコロンブスは西回り航海に出港することになった。

*大航海時代についての歴史記事です

       *<大航海時代の始まり、スペインとポルトガル>

 

1492年8月3日スペインを出港したコロンブスは10月12日に今のバハマ諸島に到着し、翌年西回り航海から戻ると問題が起こった。既にスペインとポルトガルで結ばれていたアルカソバス条約(1479)ではコロンブスが到着したところがポルトガル領土になっていしまう。

<アルカソバス条約>

アルカソバス条約

1492年は同じ年にグラナダの陥落、コロンブスの出港とスペイン人ローマ法王の即位があった不思議な年だった。枢機卿に袖の下をばら撒きローマ法王になったアレッサンドロ6世は地球を縦に割るトルデシージャス条約を結びスペインは西へポルトガルは東へと行先が決まった。

<トルデシージャス条約>

点線はアレキサンドル6世が引いたもので後の交渉で少し左の実線に決まる。

トルデシージャス条約
change from wikipedia cc
Source Own work
Author JjoMartin
ポルトガルは東へ、そして種子島へ

この条約でスペインとポルトガルの旅立つ方向が決まった。スペインは西へポルトガルは東へ。1497年、ポルトガルはインド洋へ入ってカリカットへ到着した。これが世界史で習うバスコ・ダ・ガマのインド航路発見だが実際はインド洋の海域はイスラム商人達には既に良く知られた航路だった。古代からシルクロードを商人たちが行きかっていたので既に安全なルートは出来上がっていた。ポルトガルからの王への贈り物は帽子や外套、サンゴ等だったがイスラム商人に馬鹿にされた。

<ポルトガル船のルート>

バスコダガマのルート
By User:PhiLiP – self-made, base on Image:Gama_route_1.png, Image:BlankMap-World6.svg, GFDL, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4805180

その後ポルトガルは1510年にインドのゴアを武力占領しさらにマラッカ王国を征服してイスラム商人を殺害して追い出す。ゴアはアジアにおける最初のヨーロッパ諸国による植民地となり1961年に返還されるまでポルトガル領土だった。その後南シナ海に進出して中国の明との接触を開始したがマラッカの占拠など悪評が既に伝わっており公式の貿易の道は立たれ密貿易を始めた。ポルトガル商人は中国船に同乗する者もいた。

スペインは西へ

トルデシージャス条約でスペインは西へと行先が決まり多くのコンキスタドーレス達が金銀を求めアメリカ大陸へ冒険に行った。スペイン国王の許可を必要としたが財政の援助は無くコンキスタドーレスが自分で資金を集め組織した私利私欲と暴利を求める山師の集まりだった。1521年にアステカ王国をコルテスが、1533年にピサロがインカ帝国を侵略したスペイン史の最も恥ずべき黒い歴史。ポルトガルがアジアで傍若無人にふるまいスペインはアメリカで残酷の限りを尽くした。

<コルテスのマヤの破壊>

コルテスのマヤ襲撃
De Desconocido – http://www.kislakfoundation.org/collectionscm.html, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6894018

救いはそれを見逃さない良心を人間が持っていたことだ。ラス・カサスという宣教師を中心にひどい扱いを受けているインディオ達を救うために立ち上がっている。

鉄砲伝来


倭寇、王直

東アジアで中国沿岸部から朝鮮半島を荒らした海賊集団を倭寇(わこう)という。当時は今のような日本人とか中国人、朝鮮人と言う区別は明確に無かったようで九州から瀬戸内海を拠点として日本人やポルトガル人も含んでいたグローバル海賊集団だった。

<倭寇のルート>

倭寇のルート
Source Transferred from en.wikipedia to Commons.
Author The original uploader was Yeu Ninje at English Wikipedia

その中に王直がいた。王直は中国生まれで塩商人をしていたが失敗し密貿易の世界に入る。当時の明の中国では貿易は禁止されていたのでシャムやマラッカに渡り活躍していた海賊の頭目だった。1540年には五島列島に住み着き1541年には松浦隆信に召喚され平戸に移り住んだ。

王直像

1543年の台風の季節、この王直がチャーターしたジャンク船が種子島に漂着。漂着したのか王直が選んで到着したかは今も専門家の意見が分かれている。

「天文12年8月25日種子島の西の村に大船がやって来た。どこの船かもわからず見たこともない服装をしていて言葉も通じない。船にのる明国人と砂浜に杖で文字を書いて筆談をした」その筆談の通訳が王直だった。

<中国のジャンク船>

中国のジャンク船
wikipedia public domain
Source http://collections.rmg.co.uk/collections/objects/102565.html
Author Rock Bros & Payne
火縄銃の製造

当時の種子島の領主は16歳の種子島時堯(ときたか)。南蛮人が持っていた火縄銃に興味を示しそして購入した。値段は2丁で2千両、今のお金に換算して2億円という説がある。

種子島銃
Arquebus.(Tanegashima Hinawajyu・Japanese:種子島火縄銃)
this The Arquebus is in the Portugal Pavilion in Expo 2005 Aichi Japan.
Photo by Gnsin

真偽はともかく大変な高額を支払って2つ購入し1つは種子島の刀鍛冶に渡し「同じものが作れるように」という命令が下った。家臣に火薬の調合を習わせ鍛冶屋は銃筒を作った。種子島はもともと砂鉄が取れる製鉄の島。八板金兵衛清定という鍛冶屋は似たようなものを作れるようになったが自分でどうしても解決できなかったのがネジだと言われている。日本にネジが無いのでネジ山の作り方がわからず鍛冶屋は苦悩した。

種子島には苦悩する父の為に娘の若狭は南蛮人に嫁いでネジの作り方を教えてもらったという伝説が残る。口承のみで史実は不明だが若狭の墓が残る。

<種子島の若狭の墓>

若狭の墓
wikipedia CC3.0
Source Own work
Author みっち

もうひとつの火縄銃は紀州根来(きしゅうねごろ)の僧兵津田堅持に上納し後大量生産している。根来寺(ねごろでら)は僧兵1万を持つ軍事僧集団だった。

日本人は自分達で銃を作るようになった初めてのアジア人となる。この時種子島に来ていた堺の商人「橘屋又三郎」が火縄銃の作り方を学んで堺に持って帰り当時のヒット商品となった。鉄砲の製造と使用は瞬く間に広まり1570年石山本願寺の戦いでは8000邸の銃が使われ長篠の合戦で武田軍を破った。鉄砲伝来から27年間で日本は軍事大国となった。その後ろには現代にもつながる日本の工業技術の基礎が既にあった事がわかる。その後日本人は独自の方法で銃の性能を高めていったのも今の日本人と通じるものがある。

<長篠の戦いの屏風絵一部>

長篠の合戦屏風絵一部
By 不明 – 徳川美術館蔵, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6386115
火薬と鉛

鉄砲が作れても火薬と玉が無いと武器は役に立たない。玉を作る鉛は国産もあったようだが東南アジアや中国から輸入した。後にやって来るイエズス会やオランダ商人達もこの貿易に一役かっている。

一方火薬の原料は硫黄、木炭、硝石で当時の日本では硝石が取れないのでインドから輸入されることになった。通訳をした倭寇の王直が種子島への硝石の取引を開始しそれを信長が大量に買い硝石貿易を境で独占する。これらの貿易は戦国大名の大きな収入源となって行く。

東洋のベニス<堺>

堺は財力を蓄えた商人たちが活躍する自治都市だった。戦国時代に山口、九州、土佐へ向かう瀬戸内海航路の起点で海上交通の要、日本最大の物流の拠点だった。又金属産業が古くから栄え鋳物産業の国内の中心だったので刀や武具が多く製造されていた。鉄砲が商人によって伝わり大量に堺で作られたのはこれらの基礎があった。

<16世紀の屏風、右上に堺の街>

16世紀の屏風
By 不明 – Universalmuseum Joanneum, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=40008986

信長は堺を抑えることで武器と経済を手に入れ天下を取った。

茶の湯

茶の湯は戦国武将だけでなく堺の豪商たちの間でも広まり「わびさび」の文化が産まれる。元々は町衆と言われる有力商人の親睦の場で次第に客人をもてなす美学や茶器などを選ぶ目利き、心構えや態度なども求められるようになる。

信長が茶の湯に興じたのは精神面だけでなく豪商たちとの親睦と経済力を政治の手段として用いたと思われる。

 

イエズス会の結成とアジアへの布教


ヨーロッパでは宗教改革の嵐のなかカトリックの対抗宗教改革の流れで新しい修道会が作られた。エリート集団イエズス会の結成。イグナチオ・デ・ロヨラが中心となりアジアにキリスト教を広めに行きましょうと決まりフランシスコ・ザビエルがポルトガル王ジョアン3世の依頼を受け1541年リスボンを出発した。

フランシスコ・ザビエル
wikipedia public domain

インド航路を通ってインドのゴアから東南アジアに渡ってマラッカ(当時ポルトガル領土)で布教をしていた時に日本人と出会った(1547年)。鹿児島出身のアンジロウかヤジロウという名前の男性で日本で犯罪を犯して逃げて来ていたらしい。1549年アンジロウと共にフランシスコ・ザビエルは鹿児島に到着した。鹿児島では伊集院城で大名島津貴久に謁見し宣教の許可をもらう。都を目指す途中の山口では大内義隆に謁見、堺で豪商の日比谷了珪の知遇を得る。スペインはカルロス5世の晩年、息子フェリペに遺書をしたためた頃だ。

*カルロス5世(スペイン史カルロス1世)についての記事です

*<カルロス5世神聖ローマ帝国皇帝>

 

茶道とミサ

日本での布教を成功させるためにイエズス会の宣教師たちは日本の事を細かくリサーチしている。茶室や茶の湯の事も報告書に記載されていてヨーロッパでは金銀ルビー等に価値があるのに日本人は茶室や茶器に莫大なお金を使う事に驚いている。千利休がイエズス会の宣教師と同席することもあったし千利休がミサに出席することもあったと想像する。茶道の帛紗(ふくさ)の使い方にミサの所作と似ている動きがあるのは古くから指摘されている。

<南蛮人と話す日本の大名>

宣教師とサムライ
wikipedia public domain

最後に

ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは信長や秀吉と謁見し日本の習慣や日本史を書いた。これにより約10年にわたって書かれた戦国時代の客観的な通年史を私たちは知ることが出来る。フロイスは長崎で26聖人の殉教を見届け執筆し亡くなっている。またポルトガル人宣教師ルイス・デ・アルメイダによって外科医術が日本に伝わる。私財を日本のライ病患者や貧しい子供達の為に使い奉仕した。

この後スペインはフェリペ2世の時代ポルトガル領土も手に入れこの国に日が沈む事が無い大帝国となる。

*フェリペ2世についての記事です

*<フェリペ2世「日の沈む事無き大帝国」の国王>

 

日本とスペインの間を宣教師や使節が移動する。天正遣欧少年使節団が日本を出発するのが1582年、秀吉による伴天連追放は1587年。26聖人の殉教は1597年。奇しくもフェリペ2世と秀吉はどちらも同年1598年に没している。

歴史は動き時代は移り変わって行く。イエズス会と日本のキリシタン大名や2回の遣欧使節については別の章を作って書いてみたいと思います。

読んでいただいてありがとうございました。

 

フェリペ2世「スペイン・日の沈む事無き大帝国」の国王

 

フェリペ2世、「この国に日が沈む事無き」と呼ばれた時代のスペイン国王。

父王カルロス5世(スペイン史ではカルロス1世)からスペインと新世界、ナポリ、シチリア、サルディーニャおよびミラノ、フランドルを継承し、後にポルトガル王位継承権がやって来る。スペインの領土は文句なく史上最大となった。

がその治世は困難が多く父王からの負の遺産も多く受け継いでいる。さらにプロテスタント問題、ネーデルランド独立、無敵艦隊の敗北など辛酸な屈辱も多く味わった王でもある。日本との関係では天正遣欧使節団が謁見し随分と厚遇してもらっている。広大な帝国を支配しながら慎重王と呼ばれ華美な事を好まず4人の妻に先立たれ最後は修道僧のような生活をしたスペイン国王フェリペ2世の生涯の物語。

フェリペ2世


フェリペ誕生1527年バジャドリード

バジャドリードはちょっと特別な街。

カスティーリア王国の首都だったこともあり12世紀以来重要な位置を占めていた。カスティーリア王ペドロ1世残酷王はここで結婚式を挙げ、カトリック両王(イサベル女王とフェルナンド王)もこの街で結婚式を挙げている。この特別な街で特別な王子が生まれた。

父王カルロス5世26歳、母イサベル23歳。その日は朝から雨だった。

ピメンテル宮殿は窓のカーテンがすべて閉められ誰にもその苦しみにゆがんだ顔を見られないよう頭からシーツでくるまれた王妃イサベル。苦しみに耐え13時間の陣痛の末1人の男の子を産んだ。結婚1年目の待望の男子誕生に国中が沸き上がった。

<カルロス5世とイサベル王妃、ティチアーノ作をルーベンスが模写>

カルロス5世とイサベル
wikipedia public domainマドリード、リリア宮

ピメンテル宮殿は今はバジャドリードの県庁になっている。

2週間後の洗礼式はサン・パブロ教会でトレドの大司教により執り行われ街は華やかに飾られ民衆には騎馬試合や闘牛や祭りが提供された。

この子の名前は祖父フィリップ美公の名前をとりフェリペと名付けられた。

<フェリペの洗礼式>

Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1863854

フェリペの小さいころは狩り遊びに興じていたが6歳の頃から家庭教師がつけられ教育が始まる。サラマンカは1215年に既に大学があった学問の街。子供時代のフェリペは家庭教師によりサラマンカで教育を受ける。

体は少し弱かったようだが子供のころから無口で感情をあまり外に出さない男の子だった。

フェリペの母イサベル・デ・ポルトガル

母イサベルはポルトガルの王女。カトリック両王の三女マリアの娘、なので父カルロスと母イサベルは母親同士が姉妹の関係。

<フェリペの母イサベル王妃、ティチアーノ作>

ポルトガルのイサベル
De Tiziano – [2], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=20202270
イサベル王妃の母マリアはポルトガルのマニュエル王に切望され嫁いだカトリック両王の娘。不幸が続いたカトリック両王の子供達の中で唯一幸福な結婚をした人物だ。

イサベルはまわりの期待通りの美しくしとやかで聡明な王妃だった。結婚式の1時間前に初めて会ったカルロスはすぐに恋に落ちた、清楚で気品のある女性。そんな母親から生まれ大切に育てられたのはフェリペ2世の人生の中で最も幸運な事だった。

実際父王カルロス5世は戦争と会議と旅で不在な事が多い中イサベル・デ・ポルトガルは国を守り子供たちを育てた。

しかし、幸福な時間はそう長くは続かなかいものだ。

イサベル王妃はもともと体が弱くベッドに伏せることが多かった。当時産褥で亡くなる女性が多かった中フェリペの下に妹2人、さらに男の子を産んだ後体調を崩しその子は生まれて間もなく死亡、さらにもう1人を授かるが死産。これがたたりイサベルはもう起き上がることはほとんどなくなりトレドの*フエンサリーダ宮殿で息を引き取る。

フェリペは12歳だった、多感な少年時代に最愛の母を失った。

*トレドのフエンサリーダ宮殿は貴族の館、アルカサールが工事中だったので国王たちはフエンサリーダ宮殿を宮廷に使っていた。現在カスティーリア・ラ・マンチャ州の議会場となっている。

<イサベル王妃の死、プラド美術館>

フェリペの母イサベルの死
De José Moreno Carbonero – Galería online, Museo del Prado., Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=42463134

父王カルロス5世は棺の傍らで祈り続けその後1か月間トレドの修道院に籠った。

イサベル・デ・ポルトガルは現在エル・エスコリアル修道院にカルロス5世と共に埋葬されている。カルロス5世はこの後生涯結婚せず亡き妻を慕い続けた。一人の世継ぎ、フェリペだけでは心配との周りの声もあったがカルロス5世は独身を通した。

フェリペの結婚


フェリペ2世は生涯に4回結婚する。男子誕生に恵まれず妻と子の死を何度も経験し結婚を繰り返す事になる。

<フェリペ2世、20歳頃、ビルバオ美術館>

フェリペ2世
public domain

最初の結婚はポルトガル王女マリア・マヌエラ、1543年

フランス王女との話はあったが母親の面影を探してか父の話を振りきり従妹の*マリア・マヌエラと結婚。どちらも狂女フアナの孫にあたる16歳同士の結婚。

亡きイサベル王妃を慕う父王カルロスに再婚する意志は無く、したがってひとり息子フェリペの結婚は大切な政治だった。

「美しい王女様です」とポルトガル大使から報告を受けていた。華やかな結婚式はサラマンカで執り行われ闘牛やお祭りが民衆に振舞われた。

その後2人の共通の祖母、狂女フアナがいるトルデシージャスへ向かった。城に監禁されていた狂女フアナは若い2人の孫を見て大変喜んだそうだ。。

<マリア・マヌエラ>

マリアマヌエラ、フェリペ2世の最初の妻
wikipedia Dominio público

マリア・マヌエラは陽気で明るい王妃で音楽が得意で宮廷は明るいムードに包まれた。2人の間にやがて子供が出来、大変な難産で男の子を産んだ。マリア・マヌエラはその後熱が下がらず2度と起き上がること無く、18歳の短い生涯を終えた。

マリア・マヌエラの遺体はいったんグラナダに運ばれ、後に完成したエルエスコリアル修道院へ移動。今もそこに眠っている。

*マリア・マヌエラはポルトガル王ジョアン3世と王妃カタリーナの娘。ジョアン3世はマヌエル1世とカトリック両王の3女マリアの息子。母カタリーナはフィリップ美公と狂女フアナの末娘。父と母はいとこ同士。フェリペの父親カルロス5世も狂女フアナの息子なので父方も母方も従妹になる。血の濃い結婚の結果がスペイン・ハプスブルグを蝕み始めた。

母の命と引き換えに生まれた息子は弱く小さくカルロスと名付けられるが生まれながらに異様であった。見た目は異様で性格が陰鬱で残酷性があった。シラーの戯曲、後ヴェルディ―のオペラになったドン・カルロスの誕生だ。

この後フェリペを苦しめる事になる王子の誕生だ。

<カルロス10歳頃、プラド美術館>

ドン・カルロス
De Alonso Sánchez Coello – [1], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=630429

フェリペの初めての海外領土視察1548年

父王カルロスは王位継承者フェリペに政治経験と広大な領地を見せる為ネーデルランドへ呼びドイツや北イタリアの領土を見せる。フェリペは生涯常に父の命令に従順だ。

しかし社交性が無く不愛想で無口、オランダ語もフランス語も出来ないフェリペはあまり領民には人気が無かった。フェリペも豪華な宮廷文化は好みでは無く、根っからの不器用なカスティーリア人だった。2年9か月の旅を終えスペインに戻る。

<フェリペ2世1551年ティチアーノ、プラド美術館>

フェリペ2世1551年
De Desconocido – http://www.museodelprado.es/imagen/alta_resolucion/P00411.jpg, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=140998

時代背景:この頃イエズス会士フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着し日本にキリスト教を伝えている。日本は戦国時代真っ只中。

イングランド女王メアリーチューダー

次のフェリペの妻になるメアリーは幼少の頃に辛酸を舐め尽し他人を信じる事より疑う事で強い信念を培い生きた王女だった。

後にプロテスタント迫害でブラッディ―・メアリー、血のメアリーと呼ばれる。

<即位前のメアリーチューダ->

メアリー1世
wikipedia public domain
National Portrait Gallery

メアリーの父親はイギリス王ヘンリー8世、母親はカタリーナ・デ・アラゴン、又してもカトリック両王の娘だ。カタリーナが5度の妊娠に失敗し死産を繰り返し6度目の懐妊で生まれたのがメアリー。ヘンリー8世は4歳年上のカタリーナに最初は熱心だったが6度の出産後、容姿にも衰えが目立つカタリーナへの愛情は次第に無くなる。

カタリーナの侍女だったアン・ブリーンは国王の愛人となり次第に発言力を持ち王妃の座を所望。男子がいなかったヘンリー8世はカタリーナと離婚してアンを正式な王妃に迎えるためにカトリック教会と決裂し、ここに英国国教会が誕生する。

<ヘンリー8世2度目の王妃アン・ブリーン>

アンブリーン
By 不明 – http://www.siue.edu/~ejoy/eng208lecturenotessonnets.htm (see also National Portrait Gallery, London: NPG 668), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1283649

やがてアン・ブリンは娘を産んだ、この子が後のエリザベス女王となる。

庶子に落とされたメアリーにアンは娘エリザベスの侍女となるよう強要するがメアリーは断固これを突っぱねた。幽閉状態になりアンにより毒殺されかけるが危険を感じ取り提供される食事はなにも食さず生き延びる。メアリーの母カタリーナが城に監禁され孤独な死を迎えた時アン・ブリンはそれを祝ったという、なんとも憎らしい。

しかし後にアン・ブリンは国王ヘンリー8世によって斬首刑、次の王妃の息子がエドワード6世として即位するが15歳で夭折、とこれは大変と周りはメアリーを拘束しよう動き出す。

命からがらメアリーは脱出し彼女を支持する民衆と共に1553年「メアリー1世」としてイングランド女王に即位。

辛酸舐め尽くし女王となったわけだ。

<メアリーのロンドン入場、後ろにいるのがエリザベス>

メアリーのロンドン入場
public domain
The Entrance of Queen Mary I with Princess Elizabeth into London, 1553
by John Byam Liston Shaw © Palace of Westminster WOA 2592

イングランド女王メアリーとの結婚、1554年

結婚は政治、フェリペはいつも父の命令に従順だ。

イギリスの女王となったメアリー1世とフェリペは2度目の結婚をする。この二人は叔母と甥の関係になる。メアリー側にとっては国内のプロテスタントに対抗できるメリットがあった。

フェリペより11歳年上のメアリーはすでに37歳、フェリペ26歳。交換し合ったメアリーの肖像画が今もプラド美術館にある。

<メアリー1世、1554年、アントニオモーロ、プラド美術館>

ブラッディ―メアリー
By アントニス・モル – Museo del Prado Catalog no. P02108 [2], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4314226
<フェリペ2世1554年ティチアーノ、ピッティ―宮殿>

フェリペ2世
wikipedia pabulic domain
Source/Photographer Web Gallery of Art: Inkscape.svg Image Information icon.svg Info about artwork

フェリペがイングランドに入りメアリーと過ごし、おそらくメアリー1世の人生で初めての幸福な時間を過ごす。多くのカスティーリアの男の様にフェリペは優しく紳士だった。

そして、メアリーの懐妊が発表される。

が実は水腫と想像妊娠だった。メアリーはフェリペに恋していたに違いない。

フェリペはイングランドを離れスペインへ戻り2人は遠距離結婚となる。それぞれが国王なので仕方がない。フェリペはこの時の1年2か月のイングランド滞在とその後サンキンティンの戦費の無心で3か月滞在しかしておらず実際1年5か月の夫婦生活だったがメアリーにとっては白馬の王子さまとの蜜月、人生で唯一の幸福な日々だった。

カルロス5世の退位とフェリペ2世の即位


父カルロス5世は1555年アウグスブルグの和議のあと退位。ハプスブルグ帝国を守るため戦争と会議と旅に明け暮れたカルロス5世は涙の引退声明の後、スペインのユステの修道院へ妻の絵を持って隠居する。

<ユステのカルロス5世>

カルロス5世ユステ

フェリペは父の退位により1556年1月16日「フェリペ2世」としてスペイン国王に即位。さらにオーストリアを除く領土を受け継ぐ。叔父のフェルディナンドが皇帝位を継承。

ここに「スペイン国王フェリペ2世」が登場した。

*これ以降ハプスブルグ家はスペイン・ハプスブルグとオーストリア・ハプスブルグに分かれ親戚で結婚を繰り返す。

サン・キンティンの戦いとエル・エスコリアル

1557年8月10日聖ロレンソの日。

フェリペ2世は即位後初めての戦争でフランスを破る。フランス北部の街サン・キンティン(仏サン・カンタン)の戦いで相手はアンリ2世。戦後カトー・カンブレジ条約で長年のフランスとの軋轢のイタリア戦争に終止符が打たれた。

この勝利を記念して建造されたのが巨大なエル・エスコリアル修道院。マドリードから40キロ、バスや鉄道で簡単にアクセスできる。

<サンキンティンの戦い、エル・エスコリアル修道院蔵>

サンキンティンの戦い
public domain
Source http://www.unapicaenflandes.es/imagenes/Asedio.jpg
Author Niccoló Granello

この戦費をイングランドに助けてもらうためフェリペは妻のメアリーに会いにイギリスへ2度目の旅に出た。これが最後のイギリスの滞在となる。

メアリーはこの少し後に死去。卵巣腫瘍だった。(1558年、5年間の在位)

次にイギリス王位に就くのがメアリー腹違いの妹、エリザベス1世。実はフェリペ2世はこの後エリザベス1世女王に求婚しているが断られている。

同年父カルロス5世ユステで崩御。慕っていた叔母2人もほぼ同時に亡くなりフェリペ2世は孤独感を強めていく。

フランス王アンリ2世の長女イサベル・デ・ヴァロアとの結婚

又しても世継ぎなく妻に先立たれた。

では次、として決まるのがフランスの王女イサベル・デ・ヴァロア、この王女はカトリーヌ・ド・メディシスの娘。

ここでメディチ家登場、少しだけカトリーヌ・ド・メディシスについて触れておく。

メディチ家はイタリアのフィレンツェで丸薬と銀行業で大成功をした豪商家族。ボッティチェルリやミケランジェロのパトロンで有名だ。メディチ家の最盛期はロレンツォ豪華王の時代、ロレンツォの曽孫にあたるカトリーヌ・デ・メディシスはフランス王家の血も引く。

<フランス王子アンリとカトリーヌの結婚>

アンリ2世とカトリーヌデメディシス
wikipeida public domain

 

フィレンツェ生まれのカトリーヌはフランソワ1世の次男アンリと14歳で結婚。アンリの兄フランソワが突然死したので夫がアンリ2世としてフランス王となりカトリーヌはフランス王妃となった。あまり美しいとは言えない女性だったが体が丈夫で頭が良く機転が利く。夫アンリには20歳上の愛人がいたがお構いなく9人の子供を産み夫亡きあとは摂生として大活躍し女帝となる。

そのカトリーヌとアンリ2世の娘、イサベル・デ・ヴァロアとフェリペ2世は結婚する。

サンキンティンの戦いの後のカトー・カンブレージ条約の一環、戦争ばかりしていたフランスと仲良くしましょうと結婚が決まった。カトリーヌの長女イサベル・デ・ヴァロアは13歳でスペイン王妃となる。

<イサベル・デ・バロア、プラド美術館>

イサベル・デ・バロア
wikepedia public domain

当時の国王の結婚式は最初に代理結婚式が行われる。

1559年6月パリで行われた代理結婚式では5日間にわたり祭典や舞踏会、馬上槍試合が行われた。

その祭りの最中に不吉な事が起こる。

騎馬試合でフランス国王アンリ2世が槍で目を刺され落馬し帰らぬ人となる。後を継いだフランソワ2世も一年後に亡くなり、次男シャルルが10歳で即位。

カトリーヌは摂生となり以後30年にわたりフランスを統治する女帝となった。

フェリペの長男、ドン・カルロス

実はイサベル・デ・ヴァロアと婚約していたのはフェリペ2世の長男カルロスだった。

カルロスはフェリペの最初の結婚で生まれた王子、生まれた時から体は弱く容姿は異様で性格は残酷だった。度々の異常な行動に廻りには黒いうわさが絶えなかった。

息子は次第に父フェリペに敵対するようになりプロテスタントのネーデルランドへ行って父王に反旗を翻そうとしたところ捕まり幽閉され23歳で謎の死を遂げる。オペラ、ドン・カルロスではフェリペ2世が若い2人の恋を邪魔してイサベルを妻にしという話になっているが、それはどうやら事実ではないようだ。

イサベル・デ・ヴァロアとの幸福な時間

スペインのグアダラハラの宮殿で1560年にフェリペ2世とイサベル・デ・バロワの結婚式がわれた。

フェリペはイサベルより18歳年上。若い王妃は最初は流産をするが1566年にイサベル・クララ・エウヘニアが生まれ1567年に妹カタリーナ・ミカエラを出産。

<イサベル・クララ・エウへニアとカタリーナ・ミカエラ、プラド美術館>

フェリペ2世の2人の娘
SÁNCHEZ COELLO, ALONSO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

2人の可愛い娘と美しい王妃はフェリペに大きな幸福を与えた。実際この二人の娘たちはフェリペ2世のお気に入りで生涯にわたって国王の心の支えだった。

しかし妻イサベルは帰らぬ人となる。

1568年に新たに男子を妊娠するが死産の後、イサベル崩御。息子ドン・カルロスが亡くなって間もなくの事。息子と妻をほぼ同時に失くしたフェリペの悲しみは深くさらに心を閉ざし口数も減っていく。

今は2人ともエル・エスコリアル修道院に埋葬されている。

*冷徹で近寄りがたいと言われるフェリペ2世だが娘達への手紙に「お前の善良な父より」と愛情を込めて署名してる。この娘たちによってフェリペ2世の人生は少しだけ明るいものになった。特に長女のイサベラは優秀で機転が利き生涯フェリペのお気に入りだった。

4度目の結婚ハプスブルグのアナ・デ・アウストリア

「もう結婚なんてしたくない」と思ったかもしれない。

王様家業は大変だ。4度目の相手探しが始まった。野心家のカトリーヌ・ド・メディシスは末の娘を押してきたが最終的に決まったのはオーストリア・ハプスブルグからアナ・デ・アウストリア。

フェリペ2世の妹の娘なので叔父と姪の関係になる。フェリペ2世41歳アナ19歳。

<アナ・デ・アウストリア、プラド美術館>

アナデアウストリア
wikipedia publc domain

1570年プラハで代理結婚式が行われた後セゴビアのアルカサールで結婚式が行われた。

アナの母(フェリペの妹マリア)は小さい頃から娘にカトリックとスペイン語とカスティーリアの習慣を教えていた。誠実で質素、金髪でブルーの瞳、エレガントで愛らしく直ぐにマドリードの宮廷に馴染み人々に愛される。3歳と4歳の前王妃の娘達にも慕われ幸福な日々の中最初の男子を授かる。

フェリペ2世に笑顔が戻った。そんな頃に戦争がはじまった。

弟フアンとレパントの海戦

実はフェリペに母違いの弟がいた。

カルロス5世の庶子フアン。「やんごとなきお方のお子様」と田舎で秘密裡に育つがカルロスは生前公にはしていない。

<ユステでカルロス5世に紹介されるフアン、プラド美術館>

フアンデアウストリアのカルロス5世への紹介
Eduardo Rosales – Museo del Prado

金髪の美しい青年に育ちカルロス5世からの遺言に従いフェリペ2世は彼を宮廷に呼ぶ。それ以来ドン・ファン・デ・アウストリアと呼ばれ軍人の道を歩む。

<ドン・ファン・デ・アウストリア、スペイン海軍所蔵>

wikipedia public domain

この時代オスマン・トルコが地中海で暴れだしキプロス島を制覇した。怯えるベネチア共和国はスペインに援軍を求めるがフェリペ2世は消極的だった。危機感を抱いたローマ法王が出て来て十字軍を提唱。カトリック連合軍「神聖同盟」が結成されその総司令官にドン・フアン・デ・アウストリアが選ばれる。

1570年10月7日メッシーナ海峡に連合艦隊300隻が集結しギリシャ沖で285隻のオスマントルコと対峙したのがレパントの海戦。結果約1時間半で神聖同盟の勝利となりドン・フアンはヒーローとなる。この戦士の中にまだ23歳のミゲール・セルバンテスがいた、後の「ラマンチャの男」ドン・キホーテの物語の作者だ。

アナの死と子供達

待望の男子誕生で湧き上がった。

アナ・デ・アウストリアは5人の子供を産んでいる。長男が生まれたのがレパントの海戦のすぐあと。この子はフェルナンドと名付けられフェリペはたいそう喜んだ。神のご加護、異教徒を倒し世継ぎを授かったと早速ティチアーノに描かせた作品がプラド美術館にある。

<勝利へ捧げるフェルナンド王子とフェリペ2世、プラド美術館>

勝利の神へフェルナンドを捧げるフェリペ2世
wikipeida public domain

アナは最後の女の子の出産の後の旅の途中に病気で31歳で亡くなる。誕生した5人の子供達で育ったのは1人だけだった。

レパントの海戦後生まれた期待のフェルナンドは7歳で病気で死亡。次のカルロスは2歳、3男のディエゴは7歳でと次々と夭折し1578年に生まれたフェリペのみが生き残り後のフェリペ3世となる。

妻と子供たちは今もエル・エスコリアル修道院に眠る。

ポルトガル王位

ポルトガル王ジョアン3世の唯一の皇太子セバスティアンが24歳で無謀な戦争に出かけ戦死。王はすでに亡くセバスティアンの母はフェリペ2世の妹ファナだった為フェリペ2世に王位継承権がやって来た。

1580年フェリペはポルトガル王フェリペ1世として即位。トルデシージャス条約で世界を2分割していたポルトガル領土まで手に入れ申し分なく「日の沈む事無き大帝国」になった。

フェリペがポルトガル王即位の後、日本からの天正遣欧少年使節団がリスボンに上陸している。4人の少年達がイエズス会の宣教師に連れられ九州からやって来た。リスボンからは陸路、長い旅の後マドリードのサン・ヘロニモス教会(プラド美術館横)でフェリペ皇太子の宣誓式に参列している

*ジョアン3世妃ファナは夫亡き後マドリードに戻りデスカルサス・レアレス修道院を創設。今もマドリードの中心部に修道院は現存する。息子の肖像画を見たいとファナがリスボンから取り寄せた物が下の写真。

*デスカルサス修道院で1614年仙台藩士支倉常長が洗礼を受けている。慶長使節団は伊達政宗の使いでメキシコ経由で通商貿易が目的だった。

<セバスティアン王11歳、デスカルサス修道院蔵>

セバスティアン王子
wikipedia public domain

 

エリザベス女王とアルマダの海戦

エリザベス1世との間にゴングが鳴った。

母アン・ブリーンは処刑されエリザベスは庶子に落とされたが巡り巡って女王に即位、まさに起死回生の復活だ。エリザベスはフェリペの求婚を断り敵対してきた、ネーデルランドのプロテスタントを後ろから援助をして北部8州はネーデルランド独立共和国を宣言。更に海賊フランシス・ドレイクを雇ってスペイン艦隊を度々襲わせている。

<エリザベス1世、ナショナル・ポートレート・ギャラリー>

エリザベス1世
wikipedia public domain

エリザベスが最も恐れていたのはスコットランドのメアリー・スティアートの人気だった。夫の死後スコットランドに戻って来ていたメアリーをエリザベスは陰謀の末幽閉、後に斬首の刑にする。

<メアリー・スティアートの処刑>

メアリースティアートの処刑
wikipedia public domain

数々の陰謀とカトリックのメアリーの処刑にフェリペ2世は黙っているわけにいかなくなり戦争へ突入。

1588年アルマダの海戦が始まる。

結果は散々でスペインの大型ガレー船は英仏海峡での動きが悪く更に悪天候のなか小型帆船の英国に惨敗。

<英仏海峡アルマダの戦い、グリニッジ病院コレクション>

アルマダの戦い
wikipedia public domain

アルマダの海戦の勝利でエリザベス1世女王の英国での地位は揺らぎないものとなった。そしてスペインの没落は止まらなくなっていく。

フェリペ2世の晩年

アルマダの海戦の敗北、ネーデルランドの独立と続く戦争、ポルトガルの反乱などの困難な大帝国を息子に託す準備を始める。老いた国王は毎日膨大な書類に自ら目を通したと言われる。

<フェリペ2世最晩年、パントハ、エル・エスコリアル修道院>

フェリペ2世1590-98頃
wikipedia dominio publico

1598年、あまり健康状態がすぐれない中エル・エスコリアル修道院に移動。

椅子ごと担がれ通常ならマドリードから1日の道のり、休みながら約1週間かけて移動した。その椅子は今もエル・エスコリアル修道院に展示されている。

痛風だった。

ベッドに横たわり息子を呼びよせ「この世にどれほどの巨大帝国を持っていても人は弱っていく、朽ちていくんだ」という事を唯一の皇子フェリペに語ったといわれる。

1598年9月13日、フェリペ2世崩御、71歳だった。

望んだ通りエル・エスコリアル修道院の自室に横たわり、質素なベッドからは礼拝堂が見えるようになっていた。

日本ではその前年長崎で26人のキリスト教徒たちが秀吉によって処刑されている。

ひとつの時代が終わった。

聖書と絵画。絵画で読み解く新約聖書。宗教画を楽しもう。

絵画で聖書が読めたら楽しい、現在も小説よりアニメの方が好きな人も沢山いるに違いないしそれは500年前も同じだった。美術館にある宗教画は字が読めない人にも聖書がわかるように描かれた。絵画で聖書を読んでいこうという記事です。

聖書を知ったら絵画はもっと楽しい


ヨーロッパの美術館は宗教画が満載だ。でも宗教画が好きな日本人は私はあまり見たことがない。でも、ちょっとだけ知っていると美術館はもっと楽しくなります。

まずは、聖書って?


聖書はキリスト教の聖典→聖書には旧約聖書と新約聖書が有る

旧約→人類の歴史

実は分厚い聖書の75パーセントは旧約聖書で占められていて天地創造から始まる旧約は興味深いが読み解くのにはかなりの知識と忍耐が必要になる。

新約→イエス・キリストの生涯

新約聖書の方はイエス・キリストの生涯が中心で馴染ある題材の物が多く親しみやすい。

<12世紀のギリシャ語の新約聖書>

12世紀のギリシャ語の聖書
wikipedia public domain
Source Codex Harleianus 5557 (minuscule 321 in the Gregory-Aland numbering)
Author Unknown

新約聖書はギリシャ語で書かれているって知ってる?

新約聖書は当時の共通語のギリシャ語で書かれている、新約聖書は大体紀元50年から120年頃に書かれていて、聖書の中に登場する人々が話していたアラム語やへブル語ではなく、さらにすでにローマ帝国の時代だったにもかかわらずラテン語ではなくギリシャ語で書かれている。

弟子たちはこの物語がより広い世界で読まれるためにギリシャ語を選んだ。それほどギリシャ語は当時の広い世界で使われていた言語だった。

素晴らしい科学の発見を日本語で発表するより英語で論文を書く方が多くの人に読まれると考えれば理解できる。後にギリシャ語からラテン語に訳された。

このページでは新約聖書の物語をプラド美術館の絵画を中心に受胎告知やイエスキリストの誕生等をみて行きます。

 

聖書と絵画:受胎告知 


「おめでとう、恵まれたお方。主があなたと共におられます。」ナザレの大工ヨセフと婚約していたマリアの所に大天使ガブリエルが現れてこう言ったと新約聖書に記述があります。

 

受胎告知は非常に人気がある場面で様々な時代に様々な作品が描かれている。ここでは何人かの画家の作品を見ながら国際ゴシックからバロックまでを並べて時代によって絵画が変換していった様子をご紹介。

 

受胎告知

①聖母マリアが聖書を読んでいたところに天使が降りて来たので聖書が描かれる。

②マリアは驚いているか怖がっている、または恥じらっている、または受け入れている。

③純粋を現す白いユリが描かれる。

④マリアの衣装は赤い服にブルーのマント(時には逆又はほかの色なども有る)

*実は旧約聖書の「イザヤ書」に「見よ乙女が身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエル(神は我々と共におられます。という意味)と呼ばれる」という記述がありマリアはそこを読んでいた。新約聖書にはマリアが聖書を読んでいたとは書かれていなく実は初期の絵画には出てこない。11世紀頃から次第に描かれるようになってきた。

受胎告知の日は3月25日。クリスマス(イエス・キリストの誕生)の9か月前で、中世ヨーロッパで使っていたカエサル歴の一年の始まりの日だった。そのすべての始まりの日に聖母マリアは受胎告知を受けた。

 

 

<シモーネ・マルティーニ、1333年、ウフィツイ美術館>

聖母マリア、嫌がってる?

シモーネ・マルティーニはイタリアのシエナの画家で国際ゴシック期に属す。

同じ時代のフィレンツェの画家たちが現実の世界を正確に描いたのと対照的に優雅な動きや現実にはあり得ない神の世界を可視化して宗教画を残している。

この作品は板に金箔を使ったもので左側の天使の後ろ側に揺れる布地がシエナらしい優美な動き。マリアは驚いて怖がっている。

public domain
Source/Photographer The Yorck Project: 10.000 Meisterwerke der Malerei. DVD-ROM, 2002. ISBN 3936122202. Distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH.

聖母が恥じらいながら振り返って「え?な、な、なんですか?」とジワリと逃げ腰な動作が感じられる。天使の衣装の後ろ側が揺れて動いているのがたまらなく好きです。

天使がユリではなくオリーブを持っているのはユリの花が政敵フィレンツェの象徴なのであえてユリは向こうに置いたという説がある。

184センチx210センチという巨大な板に描かれたテンペラ画でその前に立つだけで迫力に煽られそうになる祭壇画です。

<受胎告知、フラアンジェリコ、1425年頃、プラド美術館>

90年ほど経ったので絵画が発展しているのがわかります?

例えば遠近法が使われている、二次元の世界に三次元が描けている。

現実のフィレンツェの部屋のムードを宗教画に取り入れることでより一層物語を現実的に描いた。

フラ・アンジェリコは質素なドメニコ会修道士。その「祈る姿が美しく、キリスト磔刑図絵を描くときはうっすら涙をを流していた。」と伝えられいつも「天使のような微笑みを讃えていた」。フラ・アンジェリコの本名はグイード・ディ・ピエトロ。

フラアンジェリコ受胎告知
public domain
Accession number P00015
Source/Photographer Galería online, Museo del Prado

未だ国際ゴシックの特色を残す作品で彼の10点ほど現存する受胎告知の一枚。

左側の天使の衣装の曲線が美しく、天使が本当に今空から降りて来て衣装が揺れている。左側には旧約聖書のアダムとイブの楽園の追放が描かれている。

<受胎告知、レオナルド・ダビンチ、1472年頃、ウフィツイ美術館>

さらに50年ほど経った、50年弱しか経っていないとは思えない程の現実感。

え?よく見ると、聖母の右手が長いんです。

この絵は壁の上の方に置かれる予定で描かれ、見る人の位置を考えての事と言われている。

この作品は師匠のベロッキオとの共同作だがレオナルド20歳頃のおそらくデビュー作。

お約束通り左に天使、手にユリの花を持って右側の聖書を読むマリアに表れている。

レオナル・ド・ダビンチは科学者や発明家としても活躍をした天才で絵画で完成されたものは実は15点程で非常に少ない。完璧主義でその興味は多岐に渡りあらゆる方面で天才的だった。

 

受胎告知、レオナルド
By レオナルド・ダ・ヴィンチ – sAErNLFH1KFYmw at Google Cultural Institute, zoom level maximum, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=13514513

部屋の中で行われている場面だが遠景が綺麗に遠くまで描かれてるのは受胎告知としては珍しい。

<受胎告知、エルグレコ、1570年、プラド美術館>

エルグレコも受胎告知を沢山描いていて現存するのが14点。

今までと大きな違い?

マリアと天使の位置に注目していただきたい。他の画家達の作品はマリアが右側で天使が左側にいた。エルグレコは全ての受胎告知でこのように描いているが理由は諸説で良くはわかっていない。

 

エルグレコ、受胎告知
By エル・グレコ – [2], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=27348

ちょっと、「ぽっちゃり」してません?

エル・グレコがまだベネチアにいたころの作品で、若い頃のエル・グレコはぽっちゃりした絵を描いていた。26センチx20センチのは大変小さな作品。

床の線に注目してください!

床の大理石の線で遠近法、向こうに向かって線を一つの点に向かって狭めていく透視技法。後ろの遠景にベネチアの街が見える。鮮やかな色彩もティチアーノやティントレット等の影響。

<受胎告知、エルグレコ、プラド美術館>

同じ画家の絵?というくらい描き方が変わった。

突風が起こって天使がヒュ〜っと風と一緒に降りてきた感じ、聖母はびっくりして振り返ったところ。

天上界の天使たちがまさに綺麗な音楽を奏でていて絵を見て音楽を感じるってすごいなって思いませんか。

この絵もマリアが左側です。

受胎告知、エルグレコ
This is a faithful photographic reproduction of a two-dimensional, public domain work of art.

 

受胎告知と呼ばれているが実際は聖母に神の子が宿ったその瞬間を描いたものでエル・グレコらしい美しい色で神秘の世界が描かれている。

聖母マリアのモデルはエル・グレコの奥様です。

エルグレコの聖母はいつも同じ女性がモデルで後にエルグレコの妻になったヘロニマというトレドの女性。

キリスト教徒同士だがエルグレコはギリシャ正教徒だったため正式の結婚は許されなかった。エル・グレコは受胎告知を生涯にわたって描いているがこの作品はドーニャ・マリア・アラゴン学院大祭壇画用に描かれたもので6枚の絵画で構成される大きな祭壇になる予定だった。これはおそらく中央に置かれるはずだったもの。

<受胎告知、ムリーリョ、1660年、プラド美術館>

最初のシモーネマルティーニから330年も経過した。

写真さえ超えた?

この時代の画家たちの作品は写実画どころか写真さえ超えている。現実の世界に登場しそうな程の写実の中で行われる聖書の場面を絵画に真摯に描いた。

 

ムリーリョ、受胎告知

La Anunciación
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

スペインのバロック画家バルトロメオ・エステバン・ムリーリョは南スペインのセビージャで生まれた。画面全体が薄もやに包まれたような幻想的な作品で甘美な天使や聖母マリアを多く描いた画家。

中央に精霊を現す白い鳩が飛んでいてマリアの右側に純潔を現す白いユリとさっきまで読んでいた聖書。

胸の前で手を合わせる驚きながら受け入れている風の聖母。手前に手仕事用の篭が置いてあるのはムリーリョの作品の共通点でさっきまで手仕事をしていた現実感を出している。

マリアはムリーリョの奥様

ムリーリョの聖母マリアもエルグレコと同じでいつも同一人物がモデル。聖母マリアや天使たちが甘美で美しく当時のヨーロッパで大変人気が有ったのがムリーリョの作品。

聖母マリアの問題点「えっ、問題あるの?」はい、あるんです。

聖母マリアってそんなに偉かったの?ってことが問題になっている。聖母マリアは聖書の中での扱いは少なくプロテスタント諸派は聖人化していない。

でも、人間が求めているのは許してくれる存在、女神、母性的な優しさなんです。

ユダヤ教やキリスト教の唯一神の神は厳しい父親的な神で人間にすぐに罰を与える。

スペインの各教会には美しいマリア像が人々の信仰の対象に、今もなっている。

<マカレナのマリア、セビリア>

マカレナのマリア像、セビージャ
Author
José Luiz Link back to Creator infobox template
Attribution
(required by the license) © José Luiz Bernardes Ribeiro / CC BY-SA 3.0

 

聖書と絵画:聖母のエリザベス訪問 


聖書に出てくる聖母が天使から受胎告知を受けたころ親戚のエリザベスも懐妊した。受胎告知の折に聖母はこれを天使から告げられる。

エリザベスは長年子供が出来ず年老いていたのでマリアは神の力に驚きエリザベスを訪問した。(ここでは日本で使われているエリザベスを使いましたがスペイン語ではイサベルです)

<聖母のエリザベス訪問、ラファエル工房、1517年、プラド美術館>

ラファエロ・サンティは若くして成功し異例なほどの大規模な工房を経営していた。37歳で死去した惜しまれる画家のひとり。マリアの画家と呼ばれたラファエルの描く聖母マリアは美しい。

聖母のエリザベス訪問 ラファエルの工房
La Visitación
PENNI, GIOVANNI FRANCESCO,ROMANO, GIULIO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

 

工房の弟子の作品だがおそらくラファエルの手も入っているだろう。右側のマリアの美しい表情などにラファエルらしい繊細な魅力がある。背景の風景にヨルダン川で洗礼者ヨハネによって洗礼を受けるイエスキリストが描かれている。

 

聖書と絵画:キリストの誕生、羊飼いの礼拝 


聖書に「さあ、ベツレヘムへ行って主がお知らせくださった出来事を見てこようではないか!」の記述がある。

イエス・キリストが誕生したころイスラエルはローマ帝国の支配下にはいっており初代皇帝アウグストゥスの時代。「人口調査をせよ」との命令が出たので人々は自分の故郷へ帰って行った。

ヨセフはダビデの家系でその血統だったのでユダヤのベツレヘムというダビデの街へ帰って行った。すでにマリアは身ごもっており月が満ち男の子を産んだ。

羊飼いたちが群れの番をして野宿をしていると天使が現れた。「今日ダビデの街で救い主がお生まれになった。あなた方は飼い葉おけに寝ている赤ん坊を見つけるであろう」(ルカによる福音書)ベツレヘムにある家畜小屋で羊飼いたちはマリアとヨセフと幼子を見つけ天使が言ったお告げが本当だったと語り合った。

羊飼いたちの礼拝は14世紀中頃から盛んに描かれるようになった場面。

<羊飼いたちの礼拝、エル・グレコ、1612年、プラド美術館>

これはエル・グレコが亡くなる直前に描いた画家最後の作品。トレドにある小さな教会の祭壇画の為に描かれエル・グレコの葬儀がこの祭壇画の前でおこなわれた。

エルグレド、羊飼いたちの礼拝

Adoración de los pastores
EL GRECO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

鮮やかな色彩と光の使い方に晩年のエルグレコの熟練がみられる美しい作品。現実の世界を超えた超越的な物を感じさせる。天上界の天使たちが集まって来ている。大きな工房で弟子を雇っていたエルグレコだがこの作品は隅々にいたるまで画家本人の作と言われている。

<羊飼いの礼拝、ムリーリョ、1650年頃、プラド美術館>

ムリーリョのマリアは甘美で美しく、お祝いに駆け付けた人々は当時の現実の世界にどこにでもいたであろう人々。エル・グレコの現実の世界を超越した作風と対照的。

羊飼いたちの礼拝

Adoración de los pastores
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

あえて天使のいない空間に身近なの出来事のような感じを与える。犠牲を現す羊が右にいて登場人物の視線がすべてキリストに注がれているが、左端の牛だけがこちらを向いている。

聖書と絵画、東方三賢者の礼拝 


「ユダヤの王としてお生まれになられた方はどこでしょう。東の方でその星を見たので拝みにやってきました」イエスはユダヤのヘロデ王の時代に生まれた。その時東方から3人の賢者がヘロデ王のもとに来て尋ねた。

ヘロデ王はたまたま王になっていたが本物の王が生まれると聞いて動揺し偉い学者を集めてその子がどこで生まれるかを調べさせた。と聖書の中に書かれている「ベツレヘムの馬小屋です」これは実は旧約聖書に書いてある物語。ヘロデ王は三賢者に「その子を見つけたら教えいただきたい。私も言って拝みたい。」と伝えた。

三人の賢者が出発すると東の方から星が出て彼らを導いた。そしてその星の止まった家に入ると赤ん坊のイエスが飼い葉桶の中に眠っていて捧げものとして黄金,乳香、没薬を贈った。三賢者は帰り道にはヘロデに合わずに帰って行った。

三人というのは聖書には記述は無く後からつけられた。

 <東方三賢者の礼拝、ベラスケス、1619年、プラド美術館>

 

東方三賢者の礼拝ベラスケス

Adoración de los Reyes Magos
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

 

 

ベラスケス20歳頃の作品でまだセビージャにいたころに描かれた初期のもの。

登場人物のモデルはマリアが結婚した妻のファナ、幼子イエスキリストはこの年に生まれた娘のフランシスカ、手前にひざまずくのが画家ベラスケス、背後の横顔の老人が師匠のパチェーコ。絵を描くのにモデルが必要なので画家たちの身近な人々が度々モデルになった。

<東方三賢者の礼拝、ルーベンス、1628年、プラド美術館>

 

東方三賢者の礼拝
La Adoración de los Magos
RUBENS, PEDRO PABLO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

 

ルーベンス壮年期の作品。ベルギーのアントワープ市庁舎を飾るための物だった。オランダの独立戦争の休戦協定を記念して描かれた作品で休戦の平和の喜びが画面全体に出ている。

衣装の描写も丁寧で三賢者が持つプレゼントも豪華に描かれている。右端の少し上に馬上に乗るのがルーベンス本人。この作品を後にスペイン国王が購入しスペインに渡ったあとルーベンスがスペインに再訪した折に自分を付け加えた。

聖書と絵画:エジプト逃亡


「立って、幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして貴方に知らせるまでそこに留まりなさい。ヘロデが幼子を探し出して殺そうとしている。」

ヨセフの夢に天使が現れヨセフはエジプトに逃亡、ヘロデはベツレヘムにいる二歳以下の男の子を殺したが予言によってイエス・キリストは助かった「やっぱりヨセフは偉い!」という事になっている。

*幼児虐殺は「旧約聖書のエレミヤ書」の中にも出てくる場面。旧約の出来事が予言の様に繰り返された・・・となる記述は新約聖書に多いがこの幼児虐殺はマタイによる福音書のみに出てくる場面で歴史的事実は不明。ヘロデ大王は実在した人物で紀元前4年に亡くなっている。キリストの誕生を西暦0年とすると整合性に疑問が残る部分なのです。今の歴史学者はイエスキリストが生まれたのは紀元前7世紀から4世紀の説を取っている。300年も開きがある。

 

<エジプト逃亡、エル・グレコ、1570年、プラド美術館>
エジプト逃亡、エルグレコ

La huida a Egipto
EL GRECO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

アニメのようで愛らしい作品。風景がこれほど沢山描かれたエル・グレコの作品は珍しい。未だエル・グレコがベネチアにいたころの習作で17センチx21センチの小さな板に描かれたもの。

<エジプト逃亡、ムリーリョ、1647年、デトロイト美術館>
ムリーリョ エジプト逃亡
wikipedia
public domain

幼子イエスの顔が写実的でまさに生まれたばかりの赤ちゃん。ムリーリョ30歳頃の作品。登場する人々の衣装は17世紀の庶民が来ていた衣装をまとっている。ヨセフはたいていどの宗教画でも扱いが軽いのですがこのヨセフは随分かっこいい。

ベラスケスの初期の東方三賢者に出てくる幼児キリストと非常に似ている。

 聖書と絵画、無原罪の御宿り


無原罪の御宿りは聖書には出てこない題材でカトリック独特の信仰のひとつ。

キリスト教の考え方では人間はみな生まれながらにして罪を持って生まれてくる。旧約聖書に出てくるアダムとイブが神との約束を破って禁断の実を取って以来私たちは罪深いのです。

<エヴァ、デューラー プラド美術館>

エヴァ、デューラー
https://tabispain.com/nuevo-testamento-prado/

神の怒りは収まらず私たちはエデンの園から追放され、日々労働をしなければ食べ物を得ることが出来なくなり、女性は苦しんで子供を産み、人はみな年老いて死んでいく。

<アダムとイブの追放、ゴヤ、1771年、プラド美術館>

アダムとイブの楽園からの追放
Expulsión de Adán y Eva del Paraíso
GOYA Y LUCIENTES, FRANCISCO DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

 

が、マリアは母親に宿った時に既に汚れの無い「無原罪」だった。

よく誤解される「マリアがキリストを宿した時に無原罪だった」ではなく、「聖母マリアがその母アナに宿った時に無原罪だった」その御宿りをお祝いする日が12月8日となりカトリックの祝日です。

聖母マリアのお誕生日は9月25日、なので計算は合うようになっています。。

<無原罪の御宿り、ムリーリョ、1678年、プラド美術館>

無原罪の御宿りのマリアは白い服にブルーのベール。下弦の三日月がお約束ですがムリーリョは上弦の三日月にのせた。

無原罪の御宿り

La Inmaculada Concepción de los Venerables
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

綺麗なマリア像はこの時代大変人気があり厳しい父親的な神から受け入れていくれる女神や母親的な信仰対象を求めていた人々に受け入れられていく。

 

「無原罪の御宿り」の教義に関しては度々公会議で議論され、異端になりかけたこともあった。イエス・キリストは救世主で罪なき神の子だがその母親までも罪なき人にするのはどうか・・・・、というわけです。

正式にカトリックの教義になったのは1854年ローマ法王ピオ9世の時。反宗教的な社会情勢に対抗しての策とも言われているが随分反対もあったようです。

*ちなみにこのピオ9世は史上最長のローマ法王在位の方でいイタリア統一運動やナポレオン3世や大変な時代を乗り切った。日本の「26聖人」を聖別したのはこの方です。

カトリックの国では12月8日は祝日で本来この日からクリスマスの準備が始まり12月25日のキリストの誕生から東方三賢者の日1月6日までがクリスマスとなります。この時期カトリックの国を旅行する方は祝日の注意が必要です。

宗教画の決まり事、知れば楽しく鑑賞できる聖人達のアトリビュート=象徴物

大航海時代の始まり、スペインとポルトガルの世界制覇への道。

 

スペインではレコンキスタが進んでいき遂にグラナダが陥落(1492)した。そしてコロンブスがイサベル女王からの援助を手に入れスペインは大航海時代に入って行く。様々な技術の発達やイスラム教徒との交流で世界観が広がって新しい時代がやって来た。

スペインより一足早く大航海時代に入っていたのは隣のポルトガル。地中海は遠くそこではすでにイタリア諸都市やカタルーニャが活躍している。大西洋に面したポルトガルは早くからエンリケ航海王の登場で大西洋へ出ていた。

<大航海時代のリスボン>

リスボン
By Duarte Galvão (1435-1517) – Crónica de Dom Afonso Henriques de Duarte Galvão, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15332858

*エンリケ航海王子(1385年~1433年):ポルトガル王ジョアン1世の息子。自らは航海せず王位にもついていないが熱心にアフリカ西岸探検に取り組んだ。ザグレスの航海学校は有名だが本当にあったかは疑問視されている。最大の功績はボジャドール岬を超えたことで長い間これを超えると「急流がある」や「グツグツ煮えている」や「恐竜がいる」などと船乗りたちに恐れられていた。

<発見のモニュメント、右端がエンリケ航海王>

発見のモニュメント、リスボン
発見のモニュメント、筆者撮影

ペストの流行や十字軍遠征、航海術の発達や世界地図の作製と当時のヨーロッパの世界観が広がって行きスペインとポルトガルが競って大海原へ出ていきいずれは日本へ到着する。種子島に南蛮人がやって来る直前までの歴史のお話。

大航海時代の準備


十字軍遠征

キリスト教の聖地エルサレムはイスラム教徒の聖地でもある。セルジューク・トルコ朝が領土を拡大しアナトリア(現トルコ)に進出すると脅威を感じたビザンチン帝国(東ローマ帝国)のローマ皇帝はローマ法王ウルバヌス世に救援を求めた。

これを受けたローマ法王はクレルモン公会議を開いて十字軍遠征を呼びかけ、諸侯や騎士たちが立ち上がり第1回十字軍が1096年に出発。「神はそれを望んでおられる。あなたがもしも死んでしまっても、魂は救われるだろう!」

<第1回十字軍遠征>

十字軍遠征
wikipedia
public domain

十字軍遠征は約200年間合計8回にわたりキリスト教徒側の勝手な大義名分のもと蛮行と破壊行動が繰り広げられた。結局失敗に終わるが東方貿易が活性化しベネチアやジェノバなどのイタリアの都市国家が東方貿易で利益を得て発展していく。

最大の功績は、東方の進んだ文化がヨーロッパにもたらされたのだ。

プレスター・ジョン伝説

12世紀のヨーロッパ、十字軍遠征盛んな頃に「遠く離れた東方にキリスト教徒が住んでいる。その指導者プレスター・ジョンが十字軍を助けてくれエルサレムの奪回を助けてくれる」という伝説があった。

<東方見聞録にある挿絵、キリスト教国の君主オンカン>

東方見聞録に出てくるオンカン
wikipedia
public domain

15世紀になるとポルトガル人たちはプレスター・ジョンはアフリカにあり豊かな黄金の産地であると思い込む。イベリア半島に残るイスラム教徒を挟み撃ちにし豊かな黄金を手に入れたいを言う思い入れが大航海時代を推進させていく。

世界地図

現存する最も古い世界地図は紀元前600年のバビロニア、その後古代ギリシャの学者達によって既に地球を球体であることを前提として創られたものがあった。(いったん中世のヨーロッパではこれが否定される)この時代にほぼ正確に地球の大きさを測ったりしている事には驚く。

<プトレマイオスの世界地図の再現、150年頃>
プトレマイオスの世界地図
By Credited to Francesco di Antonio del Chierico – Ptolemy’s Geography (Harleian
public domain
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=193697

マルコポーロの東方見聞録や十字軍の遠征でそれまでの世界地図は大きく改良される。

*マルコポーロは1254年頃にベネチアの商人の家で生まれた。17歳頃に父と叔父と24年間15000㎞の貿易の旅をした。帰還した後ベネチアが敵対していたジェノバと戦争になり志願して従軍し捕虜になったときにこの旅の話をほかの捕虜に話した。それをまとめたのが東方見聞録。

<マルコポーロの旅のルート>
マルコポーロの旅
Author
Travels_of_Marco_Polo.svg: *Asie.svg: historicair 20:31, 20 November 2006 (UTC)
derivative work: Classical geographer (talk)
derivative work: Classical geographer (talk)

 

1375年に交易が盛んだったカタルーニャでかなり正確なカタロニア地図が作られていて地中海からアラビア半島や紅海、ペルシャ湾やインドが描かれた地図が作られている。

<カタロニア地図の再現 1375年>
カタラン地図
By Cresques Abraham – pubulic domain
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=670189

その後マルテル図が1490年にドイツの地理学者によってすでに喜望峰が描かれた地図が作られている。

<マルテル図 1490年>
public domain
Artist Heinrich Hammer the German (“Henricus Martellus Germanus”)
Author Ptolemy
<トスカネッリの地球球体説>

イタリア、フィレンツエの地理学者で天文学者で数学者のトスカネッリは当時のフィレンツェの知識人たちの中心にいた。友人にブルネレスキ(建築家)やアルベルティ(建築、芸術、多方面の天才)がいて様々な知識や学問が集積していた。ドイツを旅した折ギリシャ人哲学者に会い古代ギリシャ人「ストラボン」の事を知る。その後友人に書き送った手紙に西回りでモルッカ諸島へ行けるという夢のような計画が述べられていた。この手紙の筆写版をコロンブスが手に入れていたらしい。

<トスカネッリの世界地図>

トスカネッリの世界地図
wikipedia public domain
Source Narrative and critical history of America, Volume 2
Author Justin Winsor

*ストラボン:紀元前63年頃~23年頃。古代ローマ帝国ギリシャ系の地理学者、歴史家、哲学者。彼の旅はイタリアから地中海沿岸都市、エジプトやエチオピアにいたりその見聞を17巻にいたる「地理書」に残した。

航海術の発達

今でも技術の発達は世界を変える。航海術が飛躍的に発展しそれまでのヨーロッパ人の世界が地中海から大西洋へ広がって行った。

様々な発見は偶然から始まる。大航海時代がやって来るにあたり何世紀もかけて準備がなされた。

船の形の変換

{ガレー船}

もともと古代からヨーロッパで使われいた船はガレー船と言ってたくさんの漕ぎ手を必要とする大型船だった。多くの漕ぎ手の食糧や飲料水を必要とし風に弱く遠洋航海には向いていなかった。風向きの良く変わる地中海では大きなマストよりこの方が都合が良かった

ガレー船
wikipedia CC
Source my own photograph, digitally worked by me
Author Myriam Thyes

{ジャンク船}

中国では古くから三本マストの木造船大型ジャンク船を使っており羅針盤を使い商人たちがインド洋まで出ていた。乗組員500人という大型の船や、もう少し小ぶりの船で乗組員200人くらいの中型船があった。明時代にはアラビア半島やアフリカの東海岸に到着している。

鉄砲を日本に伝えたポルトガル人が乗って来た中国のジャンク船はこのタイプ。

中国のジャンク船
wikipedia public domain
Source http://collections.rmg.co.uk/collections/objects/102565.html
Author Rock Bros & Payne

{ダウ船}

アラビア人たちは紅海やペルシャ湾を拠点に中国や東南アジア、アフリカ東海岸で交易をやっており優れた航海技術を持っていた。彼らが使ったのはダウ船という今のヨットのような一本マストと三角帆で季節風を利用して巧みな航海技術で海のシルクロードで交易をやっていた。

ダウ船
wikipedia
public domain

ヨーロッパ人達よりも早くに中国人やアラビア人達はアジアで進んだ技術で航海をやっていてバスコ・ダ・ガマのインド航路発見に水先案内人として活躍したのはアラビア人だった。インド航路はヨーロッパにとっては「発見」でもアラビア人にはすでに知られた航路でしかなかった。

中国やアラビアの進んだ帆船が次第にヨーロッパに伝わって行き船の形が進化していく。

{キャラック船}

15世紀に地中海で開発された形の船。スペインではこの型の船をナオと呼ぶ。遠洋航海を前提に作られた大型船で乗組員と物資貨物を大量に搭載できる。欠点は巨大すぎて小回りが利かず強風に弱い。

<日本に来たポルトガルのキャラック船>

wikipedia public domain
Source Kobe City Museum
Author Kano Naizen

{キャラベル船}

少し小型のキャラベル船は座礁の危険が少なく沿岸地帯や河川には入れたので未知の世界での探検に向いていた。

<ポルトガルのキャラベル船>

ポルトガルのカラヴェル船
By Unknown – Livro das Armadas, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=28565761

 

 羅針盤

磁石が南北を示すことを発見したのは中国人が最初。陸の見えるところを航海していた時代なら方向は目視できるが目印の無い海の中、方角と位置を確認する作業は生死にかかわる。11世紀には既に中国で航海に使われそれをアラビア商人がヨーロッパに伝えた。海の上で正確に方向を知るための羅針盤が発展し実用化し使われた。

ペストの流行と胡椒

黒死病と言って恐れられたペストはヨーロッパの人口を一気に減少させたが当時の食糧難を救った側面があった。

病原体が発見されるまで伝染病がうつるのは臭いによると信じられていたため臭いを消す香辛料が高額で取引されていた。また多少臭いの強い肉を食べる場合もあり香辛料は貴重品で胡椒と銀が同じ値段だったと言われている。シルクロードを渡ってベネチアの商人の手を通ると高額になる胡椒を直接西回りで手に入れようと思った男が登場する。

コロンブスの登場


コロンブスには今だ謎の部分が多い。出生地もいまだに正確にはわかっていないがポルトガルのジョアン2世国王に仕えて船に乗っていた事は間違いない。

<コロンブス>

コロンブス
wikipedia public domain

マルコポーロの東方見聞録に興味を持ちトスカネッリの地球球体説を知り西回り航海を考えた。ポルトガルはすでにアフリカ西海岸セネガルの奴隷貿易をやっていて暴利をむさぼり、1488年喜望峰に到着。バルトロメオ・ディアスの喜望峰発見でインド洋が近い事を手に入れたポルトガルにとってコロンブスの提唱する西回りに意味が無くなってしまった。

<喜望峰発見のバルトロメオ・ディアス>

バーソロミューディアス
wikipedia CC
Source
Bartolomeu_Dias,_South_Africa_House.JPG
Author
Bartolomeu_Dias,_South_Africa_House.JPG: RedCoat (en:User:RedCoat10)
derivative work: Biser Todorov (talk)

 

ポルトガル王の援助をあきらめスペインへやって来たコロンブスはウエルバにあるラ・ラビダ修道院で滞在した。修道院長のフワン・ぺレス神父はコロンブスの話に感銘を受け様々な援助を惜しまなかった。その縁で知り合ったメディナ・セリ公から紹介されカトリック両王に謁見が許された。

当時グラナダへの戦争(最後のイスラム王朝陥落戦)をやっていたスペインに費用は無く一旦断られコロンブスはあきらめてフランス王に援助を求めて旅立つところだった。

<グラナダの陥落>

グラナダの陥落
De Francisco Pradilla – See below., Dominio público, Enlace

1492年グラナダの陥落の直後イサベル女王の伝令がコロンブスを追いかけピノス・プエンテの村の橋の上でコロンブスに追いついた。もしも、この時追いつかなければコロンブスはフランス王の援助で出港していたかも、中南米がフランス語圏になっていたかもしれないという歴史のひとこまです。

<イサベル女王とフェルナンド王>

カトリック両王の結婚

陥落したアルハンブラ宮殿でイサベル女王から宝石箱を譲り受けそれを売って船の準備の一部にした。

ピンソン兄弟

実はイサベル女王からの援助だけでは航海の準備には不十分だった。特に船員の数は足りなく「よそ者と未知の航海へ乗り出そう」という船員などいなかった。この国では今でもコネが力を発揮する、当然当時もそうだったに違いない。よそ者など誰も信じていないのだ。

前述のラ・ラビダ修道院フワン・ぺレス神父がマルティン・アロンソ・ピンソンを紹介してくれて状況が一変する。パロス港で海運業をやっていたピンソン家は優秀な船乗りで船員や航海に必要な様々なものを提供してくれた。特に航海技術や操舵技術においてピンソン兄弟の経験と知識はコロンブスの航海に大きく貢献している。

<パロス・デラ・フランテーラのピンソン兄弟>

ピンソン兄弟
Source Own work
Author Miguel Ángel “fotógrafo” 2007

パロス・デラ・フランテーラに行くとコロンブスの銅像も通りの名前も見当たらない。街の英雄はピンソン兄弟なのです。

アレキサンドル6世の即位


1492年は世界史的な事件が続いた不思議な年でグラナダの陥落、コロンブスの出港、フィレンツェではメディチ家のロレンツォの暗殺と続いた。そしてスペインのボルジア家ローマ法王の登場。カトリックの頂点にあたるローマ法王という地位は最も人間のどろどろした部分が渦巻いていた世界だった。そこに好色で強欲な好人物が登場する。

<ローマ法王アレキサンドル6世>

アレキサンダー6世

金と権力と女を手に入れたアレッサンドロ6世は愛人との間に子供までいた。法王選挙で払える限りの袖の下をばら撒いて自分に投票させた超やり手スペイン人ローマ法王の登場となる。

アルカソバス条約とトルデシージャス条約

発見の時代にスペインとポルトガルの海での領有権をはっきりさせる為1479年ポルトガルはアゾレス諸島、マデイラ諸島、ヴェルデ沖岬を領有しスペインはカナリアス諸島を領有すると取り決めたのがアルカソバス条約。地図に左右に線を引き地球を横割りにした条約だった。

コロンブスが1493年に戻って来るとアルカソバス条約では到着した土地の領有はポルトガルの物になる。スペイン側は時のローマ法王アレキサンドル6世に自分たちの領有についての訴えを起こした。スペイン人ローマ法王があまりにもスペイン有利な回勅を発行したのでポルトガルがスペインに乗り込んできてトルデシージャスで会議が行われた。

<トルデシージャスの街>

トルデシージャスの街
wikipedia CC
Source http://www.flickr.com/photos/jlcernadas/6348008109/in/set-72157629525535730
Author Jose Luis Cernadas Iglesias

1494年に地球に新しい境界線を引いたのがトルデシージャス条約。今度は地図に南北に線を引いて地球を縦に割った。

下の地図の点線の方がアレキサンドル6世の引いた線だったが会議で少し西へ引き直したのがトルデシージャス条約の線。この後ポルトガルはブラジルへ到着する。今も南米でブラジルのみはポルトガル語圏なのはこの線より内側にポルトガルはブラジルを発見したから。

change from wikipedia cc
Source Own work
Author JjoMartin

ポルトガルはこの線より東へ、スペインは西へ行くことが決まる。ポルトガルは東へ向かい喜望峰を通過してバスコダガマのインド航路発見に繋がる。

バスコ・ダ・ガマ

トルデシージャス条約でポルトガルは東回りでアジアに向かうことが決まり、すでに喜望峰が発見されているので東回りでインドに派遣されたのがバスコダガマ。1497年にリスボンを出発。

<バスコダガマのリスボン出港>

バスコダガマのリスボン出港
wikipedia public domain
Author John Henry Amshewitz

途中モザンビークではイスラム教徒から砲撃を受けるがマリンディでは歓迎されアラビア人の水先案内人を雇って1498年にムガール帝国のインド、カリカットに到着。

<喜望峰からインドのバスコ・ダ・ガマのルート>

バスコダガマのルート
By User:PhiLiP – self-made, base on Image:Gama_route_1.png, Image:BlankMap-World6.svg, GFDL, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4805180

 

バスコダガマの持って行ったポルトガル交易品はカリカットで取引されている品物に比べるとみすぼらしく馬鹿にされたと記録に残る。

カリカットの王との間に揉め事や監禁事件が起こり胡椒を積み人質を取って逃げるように退散してリスボンに戻って行く。

その後ポルトガル商人はインドから更に中国へ渡って行き活躍し、中国人には南蛮人と呼ばれる。

<中国の南蛮人>

中国の何番人
By Français : Kano Naizen, 1570-1616 – リスボン国立古美術館, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=353039

そしてポルトガル商人が乗った中国のジャンク船が台風の風に流されて種子島に到着するのはあともう少しだ。

ビルバオとグッゲンハイム美術館<世界で最も成功した再開発ビルバオ効果の街と近代アート>

 

ビルバオにあるグッゲンハイム美術館とビルバオの街についての記事です。スペインバスク州にあるビルバオは2018年のヨーロッパの最優良都市賞に選ばれた。リュブリャーナとウイーンとビルバオの3都市が最終選考に残っていた中からの最優秀賞。街の規模がちょうど歩いて廻れるサイズで視線に入るすべてのものがとても綺麗。私はもともと「バスク好き」なのですが最近は「ビルバオ好き」になったので仕事用に色々調べたことをまとめました。ビルバオのグッゲンハイム美術館の展示作品、ビルバオの街や再開発ビルバオ効果について書いてみました。

ビルバオ旧市街
筆者撮影

ビルバオはバスク自治州ビスカヤ県の県都。都市の人口35万人だが周りの都市圏の人口を入れると100万人の大都市。北部スペインでは最大の街となる。街の名前ビルバオはバスク語では「ビルボBilbo」道路や街の標識はカスティーリア語(標準スペイン語)とバスク語2カ国語表記。

ビルバオは歴史ある街


ビルバオはグッゲンハイム美術館で有名になったがもとは中世にサンチアゴの巡礼街道として栄えた小さな街。1300年頃にはネルビオン川に沿って発展し海洋交易で栄えた。今も旧市街に行くとサンチアゴ大聖堂や中世の街並み、ネルビオン川沿いには昔の風情が残る。

ビルバオ1575年
wikipedia public domain

鉄鉱石で栄えたビルバオには1857年(日本の明治維新よりも10年も前)には鉄道が走りビルバオ銀行(現BBVA銀行の前身)やビルバオ証券取引所が設立されている。ビスカヤ橋は明治25年に創られた運搬橋。当時の先端技術で作られた世界で最も古い運搬橋で現在も公共の交通機関として使われている。

<ビルバオ郊外にあるビスカヤ橋>

ビスカヤ橋
筆者撮影

<ビスカヤ橋の記事>

<1899年のビルバオ 製鉄工場>

1899年のビルバオ
Standard Oil Refinery No. 1 in Cleveland, Ohio, 1899 (Wikimedia Commons)

ビルバオは19世紀の中頃付近の山から取れる鉄鉱石の採掘で発展し船でイギリスへ輸出し帰りに石炭を持って帰って来た。これによって製鉄業が発展した工業の中心地となった。

ビルバオは世界で最も成功した再開発の街

ビルバオ
筆者撮影

鉄鉱石が取れ歴史的に造船が主力だったビルバオは第2次世界大戦後は鉄鋼業で栄えたが次第に重工業の衰退、日本や韓国等との競争で負け、公害とETA(バスクの独立を求める過激派組織)のテロで人口減少が進み失業者があふれてスラム化し煤けたイメージの街になる。

工業都市としての未来が見えない中ビルバオに1983年大洪水が起こり、これを機に工業の街からサービス業へと産業構造の大転換を図ることになる。

1989年にビルバオの都市の再生と文化への投資の計画が始まった。「15億USドル」の総合的な再開発プロジェクトが計画され都市インフラの整備、文化施設の建設や港湾の再整備等18件のプロジェクトが準備された。

ビルバオ新空港や街のインフラの整備

ビルバオ空港
wikipedia CC
Source Own work
Author Basotxerri

街から9キロの所にあるビルバオ空港を2000年に新しく完成させた。建築はスペイン人建築家サンチアゴ・カラトラーバ氏。イメージは白い鳥が翼を広げて空を見上げる。きれいな流線型のカラトラーバらしいエレガントなデザイン。2002年街へ向かうバイパスが山の中に開通することによってビルバオの街と空港のアクセスが抜群に良くなった。市内の地下鉄と同じICカードBARIKが使える。路線バスに乗れば中心部までたったの15分。

<ノーマン・フォスターによるビルバオメトロの入り口>

ビルバオのメトロ
筆者撮影

地下鉄やトラムを走らせ人の流れを即し、河によって分断されていた労働者地区と富裕層の地区を橋を架けて移動できるようにした。街作りのコンセプトは人の流れ。

<サンチアゴ・カラトラーバのスビスリ橋>

スビスリ橋
筆者撮影

 

工場の跡地に公園を作り、商業施設や図書館等を整備し、グッゲンハイム美術館の誘致に成功した。自転車道や遊歩道を町中に巡らせ創ることで「人の移動」をコンセプトに入れた街を計画的に時間をかけて完成させた。「ビルバオプラン」は最も成功した街の再開発例と呼ばれている。現在のビルバオは町のいたるところに公園や広場があり人々がくつろぐ姿が街のゆとりとして感じられる。

グッゲンハイム美術館ビルバオ


グッゲンハイム美術館のビルバオ分館。ビルバオが鉄鋼の煤けた街から近代アートの街への変換の起爆剤になったのはこのグッゲンハイム美術館の誘致だった。1997年10月18日に開館。2017年は美術館開館20周年で記念行事が行われ、一か月間ビスカヤの住民は無料で美術館へ招待され普段興味のない人達も随分やって来た。

<住宅街の向こうに見えるグッゲンハイム美術館>

グッゲンハイム・ビルバオ
筆者撮影

何でもないレンガの集合住宅の向こうに斬新な建物が見える、このグッゲンハイムの見えた方が一番かっこいい、と個人的に思う。

グッゲンハイム財団て何?

グッゲンハイム家はスイスに起源を持つユダヤ系ドイツ人の家系。後にアメリカに移民したマイアー・グッゲンハイム一家は鉱山の経営と精錬で財を成した。マイアー・グッゲンハイムの息子ソロモン・ロバート・グッゲンハイムが66歳で引退し現代アートのコレクターとなる。財団が設立されニューヨークのマンハッタンに美術館を開館。5番街の現在地に移ったのは1949年。別途姪のペギーグッゲンハイムがベネチアの館を購入し自身のコレクションを公開。彼女の死後ペギーグッゲンハイムコレクションとして同財団が運営。

<ニューヨーク五番街のグッゲンハイム美術館・フランク・ロイド・ライト建築>

ニューヨークグッゲンハイム美術館
wikipedia
Source Own work
Author Jean-Christophe BENOIST

最初は1939年に自動車ショールームを改装してグッゲンハイム氏のコレクションを公開した。1959年に上記写真の本館が開館。建築はフランク・ロイド・ライト氏。しばらくは本館のみの運営だったが1988年に館長がトーマス・クレンズ氏になり美術館を国際的に広げ行く戦略のひとつがビルバオ。

グッゲンハイム・ビルバオは開館した時は5つ目の美術館だったが現在運営中のグッゲンハイム美術館3館中のひとつとなる。

(グッゲンハイム・ラスベガス、グッゲンハイム・エルミタージュ、ドイツ・グッゲンハイムは閉館。グッゲンハイムヘルシンキは建設中止、グッゲンハイムアブダビは現在建設停中)

グッゲンハイム財団のグローバル戦略

グッゲンハイム財団の理事会が世界的な美術館グループを創造する計画を採択した「グローバル戦略」が決定した、丁度その時バスク州政府からビルバオ市の再開発への参加の要請があった。お互いの利害関係が上手くリンクした相思相愛の結果、数か月の交渉の末基本合意が結ばれた。

グッゲンハイム・ビルバオ

グッゲンハイムビルバオがある場所はスペイン国鉄のコンテナ置き場や造船所があった一帯でアバンドイラと呼ばれる地帯。1993年にスペイン内外から5人が招待され指名コンペが行われアメリカに住むアルゼンチン人のシーザーペリの案が入選。遊歩道やショッピングセンタ―、ホテルなどのシンプルな案が採用された。写真右端の高層ビルはシーザーペリの設計、イーベル・ドローラ(エネルギー会社)本社ビル。

ビルバオの街
wikipedia CC
Source Own work
Author Andrea Bocchino www.andreabocchino.it
グッゲンハイム美術館誘致の条件

条件は1億USドルの建設費用をバスク自治州が負担すること、5000万USドルを作品の新規購入費用に充てる事、グッゲンハイム財団に展示会一回あたり2000万USドルを支払う事。美術館年間予算1200万USドルを補助することなど。受け入れ側にとって負担の大きいこれらすべてを承諾しバスク州とビスカヤ県とビルバオ市で賄った。

グッゲンハイム美術館
筆者撮影

 

 

建築に8900万USドルか使われ予算も日程も予定通り建設された。開館後すぐに世界中からビルバオに観光客が訪れ最初の3年間に400万人5億ユーロの経済効果を得る。バスク政府は観光客がホテルやレストラン、ショッピングで使う金額は年間1億ユーロになり支払った以上の恩恵があったとしている。2005年のビルバオ年間観光客数が5万人、現在年間約100万人の観光客を受け入れており最も成功した都市再開発の例で「ビルバオ効果」などと呼ばれている。今も都市計画は続いていて、街は活気あふれ未来へ目を向けている。

計画当社は「財力に任せて作品を買いあさるアメリカの美術館」をビルバオに置くことに懐疑的な人が多かったが結果を見て納得の住民が増えたのは間違いない。

建築家フランク・オー・ゲイリー

グッゲンハイム・ビルバオのコンペには日本人の建築家、磯崎新氏、オーストリアのクープ・ヒメウブロイ氏が参加。バスク州政府とグッゲンハイム財団による審査でフランク・オーゲイリー氏の案が採択された。

フランク・オー・ゲイリー氏はユダヤ系カナダ人。現在はアメリカ合衆国のロサンゼルスを本拠とする。1929年生まれ。本人は否定するが脱構造主義の旗手と呼ばれプリツカー賞や日本の高松宮殿下記念世界文化賞などの賞で評価を受ける。

建築家フランクオーゲイリー
¹Source http://www.flickr.com/photos/nationalbuildingmuseum/5489221895/?edited=1
Author National Building Museum; photo by Paul Morigi

ソフトウェア技術に精通し航空力学・機械設計ソフトを建築に使い複雑な形を現実の構造にするのに解決している。技術がゲイリーの建築に追いついた形だ。

フランク・オー・ゲイリーはビルバオの近くの山に登ったり飛行機から見下ろして街の地形に最もふさわしい建築を考えた。

ビルバオの街とグッゲンハイム
筆者撮影

 

構造は鉄骨、その上に2㎜の亜鉛メッキが貼られ表面にチタンが貼られている。チタンはアメリカ製、イタリアで加工。複雑な構造を解析するため航空機などに使うコンピュータープログラムcatiaが使われた。

グッゲンハイム・ビルバオ
筆者撮影

 

表面には平らな面が一切なくチタンの板がうねる。チタンは強く、錆びにくく、軽い、が細工が難しい。そして高額である。丁度ロシアの宇宙開発が下火になりチタンの値段が下がったという条件がそろった。

グッゲンハイム・ビルバオ
筆者撮影

石とガラスとチタニウムの不思議な建物の全体像は咲き始める花の様にも、川に浮かぶ船の様にも、そして表面のチタンは魚の鱗のようでもある。フランク・オー・ゲイリーはユダヤ教の宗教的な儀式で家族で魚を食べる事が度々あった。子供の頃の記憶に何か独特の感覚があったようで魚をテーマにしたほかの作品もある。

<神戸にあるフィッシュダンス フランク・オー・ゲイリー>

フィッシュダンス
wikipedia CC
Source Own work
Author 663highland

フィッシュダンスは神戸開港120年を記念して創られた作品。フランク・オー・ゲイリー設計、安藤忠雄監修。海のそばにあるので亜鉛メッキが錆び、神戸市が勝手にピンクに塗り替えて(鯉だから?)作者から「作品に対する侮辱」と大クレームが来て塗りなおしたという経緯がある。今も神戸のメリケンパークにさりげなく元の色で置いてあります。

脱構造主義について少しだけ

もともと脱構造主義は哲学用語。フランス人の哲学者ジャック・デリダの著書「脱構築」という思想に影響を受けている。既存の床と壁で創られたありきたりの建築からの脱皮で長い間アンビルド建築(建てられない建築)と呼ばれてきたが技術の進歩で現実化するようになった。イラク出身のザハアディド氏、日本では磯崎新氏、安藤忠雄氏、等が有名。

 グッゲンハイム美術館には外にも作品(これらは無料で見れる)
パピー <ジェフクーンズ>

<秋の着替えの後のパピー>

グッゲンハイム・パピー
筆者撮影

ウエスト・ハイランド・ホワイト・テリア(犬)。年に2回だけ衣装替えします。春の方が花の色が鮮やか。内部から水をあげるシステムと一番上にも水が散布され機械が付いている。身長12.4メートルの巨大な子犬は美術館のシンボルになっている。

<春の着替えの後のパピー>

パピー グッゲンハイム
筆者撮影

もともとはドイツの展示会用に創られた。鉄の骨組みはいったん解体されオーストラリアでステンレス・スティールの骨組みに作り直し灌漑設備を付け再建された。1997年にソロモン・グッゲンハイム財団が購入。ジェフクーンズいわく「アートというのは見た人が幸せな気分になればそれでいいのだ」だそうです。

除幕式の日に庭師に変装したテロリストが爆弾を仕掛けようとしたがビルバオ警察が未遂で発見といういわく付で今はまさにビルバオの新しい顔のひとつ。

 

ママン <ルイーズ・ブルジョア>
ママン
筆者撮影

足の長い独特のスタイルの母蜘蛛は今にも動き出しそう。作者はフランスのソルボンヌ大学卒業の数学者。絶妙なバランスの巨大な蜘蛛のお腹には卵がいて大理石製。ルイーズブルジョアは子供の時から蜘蛛が好きで良く見ていた。複雑な環境で育った子供時代の母親に対する愛情や切なさがこの蜘蛛になった。

霧の彫刻<中谷芙二子・ナカヤフジコ>
霧
筆者撮影

毎時0分に約5分間美術館の後ろ側の橋から霧が噴出する。風の少ない日はグッゲンハイム美術館が神秘的な霧で包まれる。アートとテクノロジー、自然とアートのコラボレーション。北海道出身のアーティストは父親が氷雪の研究者で世界的に有名な中谷宇吉郎。ナカヤフジコは霧の作品で自然と私たちの関わりを作品にしている。1970年の大阪万博ペプシ館ですでに霧の作品を展示。水の粒子や消えていくもの、自然界の変化を美術作品にすることで自然との共生を訴える。

火の噴水<イブ・クライン>
火の作品
筆者撮影

若くして亡くなったフランス人イブ・クラインの1961年の作品。毎日18時30分に池から火が噴出する。夏はこの時間まだ明るいのでインパクトが小さいが冬は暗い中水の中から火が噴き出て迫力がある。

チューリップ<ジェフクーンズ>
チュ―リップ
筆者撮影

ジェフクーンズについては賛否両論。「チープだ、悪趣味だ、売名行為だ」等さんざん言われているが今一番稼いでいるアメリカ現代アーティストのひとり。まるで「ネットでの炎上を狙ったツイート」の様に話題性に事欠かないアーティスト。スキャンダルも「チープに消費されていくアート」としてその短命ささえも売りにしている?チューリップはセレブレイションという一連の作品のひとつ。ステンレス・スティールを彩色したもの。子供の頃の誕生日や祝い事の楽しい思い出などを作品にしてある巨大なチューリップ。

グッゲンハイム・ビルバオ内部

グッゲンハイム・ビルバオ内部は常設展と巡回展で運営されていて常設展も入れ替えが行われる。巡回展はグッケンハイム財団の持つ近代アートを中心に展示される。以下2作品は常設展の中で恒常的にあるもの。

マターオブタイム(リチャードセラ)
リチャーセラ
© FMGB Guggenheim Bilbao Museoa, 2017

マター・オブ・タイムがある巨大な部屋はリチャードセラの作品を置くために創られ、これらの巨大な作品はこの部屋に置くために制作された「サイト・スペシフィック・アート」=「場所限定作品」。鉄の街だったビルバオにふさわしい鉄の巨大オブジェ。巨大な何百トンの鉄の板は一部を除いてくぎ打ちされておらず微妙なバランスの中で置かれている。中に入ることが出来る彫刻というのは非常に珍しく60度の傾きは内側に向いたり外側に離れたり中に入ると独特な感覚。歩き回って時間と空間の歪の中で楽しんでいる人達も作品の一部。動かない彫刻が空間を切り取って動いているような不思議な感覚を体験できる。ドイツの工房で作り陸路ビルバオまで運び部屋の奥からクレーンなどを使って設置した。奥の部屋で模型やビデオで作品の事が説明されている。

インスタレーション・フォー・ビルバオ(ジェニーホルツアー)
ビルバオインスタレーション
Jenny Holzer
Installation for Bilbao, 1997
Electronic LED sign, 9 columns
Site-specific dimensions
Guggenheim Bilbao Museoa

インスタレーション・フォー・ビルバオはワードアート=言葉を使ったアート作品で、サイトスペシフィック作品=場所限定なのでここに置かれる為にだけ創られた。発光ダイオードの光の文字がまるで証券取引場のような感じを見る人に与えるが一つ一つの簡単な言葉が心を打つ。エイズの基金に使われた言葉が繰り返し大地から湧いてきては天から降って来る。「I love you」「I touch you」「I hate you」等の簡単な言葉が次々地面から湧いては消えていく。作者はグッゲンハイム美術館のこの曲線のある場所が随分気に入ったそう。表面は光が反射する素材を選び色が変わると部屋全体のムードががらりと変わる。建築の曲線と反射する光も作品の一部。

後ろ側は同じ言葉がバスク語でブルーの発光ダイオードで繰り返される。使うことを禁止されたバスク語が後ろ側に使われることが作者からのメッセ―ジになっている。バスク語になると部屋がブルーに暗く輝き哀しい思い出で満ちる。じっと座って言葉を読んでいると湧いては消えていく言葉の繰り返しに不思議な感情がこみ上げてくる。

グッゲンハイム・ビルバオ展示品その他

巡回展が中心で一年間を通して様々な特別展が行われる。

建築があまりにもインパクトがあるので作品が霞んで見えると言われているが他にも抽象芸術や彫刻など近代アートが楽しめる。ロシア人マルク・ロスコ―、アメリカ人アンディーウォーホールやバスキア、カタラン人のタピエスの壁画、バスク人のオテイサ、チジーダの彫刻。

その他のビルバオ見どころ

ビルバオ美術館

ビルバオ美術館
wikipedia CC
Source Own work
Author MuseoBBAABilbao

2001年に改装され12世紀から近代までの作品が展示されている。エルグレコ、ムリーリョ、スルバラン、ゴヤ等スペイン絵画やクラナッハ、ゴーギャン、フランシスベーコン、広重とコレクションの幅は広く静かな中でゆっくり絵画を堪能できます。絵画好きなら足を運んでみては。

<ゴーギャン洗濯女>

ゴーギャン洗濯女
Laveuses à Arles. (Lavanderas en Arlés)
museo de bibao

ビルバオ旧市街

1300年ころにはサンチアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼街道の街として栄えていた。旧市街の中心にサンチアゴ教会がある。元は七つの通りと呼ばれていたようにサンチアゴ教会の周りに七つの通りが今もある。通りの名前も昔のままで風情がある。

<18世紀の絵と今も全く変わっていない>

中世のビルバオ
Public Domain
File:Bilboko irudi historikoa.jpg
Created: 18th century

旧市街は小さく店舗が沢山集まっていてショッピングも楽しめる。大聖堂とヌエバ広場やリベラ市場バスク博物館等を見ながら歩くと楽しい。

<旧市街の一角>

ビルバオ旧市街
筆者撮影

リベラ市場は1929年に創られた当時ヨーロッパ最大のマーケット。現在もビルバオの胃袋になっていて2011年に改装が行われ上の階には飲食店が入った。

<リベラ市場は生鮮食料品と上の階にはバル>

リベラ市場
筆者撮影

スペインの古い街には石の広場が残り何世紀も人が集まった。ビルバオのヌエバ広場は美味しいバルが集まっている。

<ヌエバ広場>

ヌエバ広場
筆者撮影
ヌエバ広場のバル
筆者撮影

 

スビスリ橋と磯崎アテア

<手前の橋がスビスリ橋で奥のツインタワーが磯崎アテア>

スビスリ橋と磯崎アテア
筆者撮影

橋は1997年開通。サンチアゴカラトラーバらしい流線型の美しい橋で、川で分断されていた街の右岸と左岸を繋いだ。「スビスリ」はバスク語で「白い橋」という意味。雨の日に表面がツルツル滑ると住人のクレームが付いたり建築家が向こうに出来た磯崎アテアに向かって自分の橋が架かっているようで不満だなどと街に訴訟を起こしたりと何かと話題になった。

磯崎アテアは2008年に完成した日本人建築家磯崎新氏とバスク人建築家のイニャキ・アウレコエチェアによる複合ビル。アテアはゲートという意味。もともと税関の仮置き場だった行程差のある不規則な土地に創られた。83メートル23階建てでバスクでは一番高い建築となっている。

アルチャンダ展望台へ

<アルチャンダ展望台からグッゲンハイム美術館と街>

ビルバオの街とグッゲンハイム
筆者撮影

スビスリ橋から山側の方へ少し歩くとフニクラの駅がある。ビルバオのmetroICカードが使える。登山電車でアルチャンダへ。

フニクラ駅
筆者撮影

1915年に開業した登山電車。15分おきに運行していて約3分で山頂駅に。山の上にもレストランがある。ここからビルバオの街が見渡せる。

フニクラ
筆者撮影

サン・マメス・サッカー場

アトゥレティック・ビルバオ

1898年設立のチームなので100年以上の歴史。ほかのスペインリーグのチームとの違いはこのチームのユースからの選手かバスク地方のクラブから来た選手しかいない。(バスク人の純潔主義で有名ですがバスク人でなくてもバスクのユース以下のクラブでプレーしていれば入団できるようです。)限られた人数からの選手達なのに常にトップレベル。もちろん一度も2軍に落ちたことが無いのが誇りの名門チーム。

<サンマメス球場>

ビルバオサンマメス球場
wikipedia CC
Source Own work
Author Euskaldunaa

 

 ビルバオ・アクセス


ビルバオ空港から市内を結ぶ3247番のバス。空港と中心部Plaza de Moyua又はtermibus(バスターミナル)へ。

ビルバオ市バス

ビルバオへはマドリードやバルセロナから飛行機で1時間。サン・セバスティアンからバスで1時間30分ー2時間。

ビルバオ空港へはイベリア航空、ブエリング航空、英国航空、エアーフランス、ルフトハンザ、アリタリア、ブリュッセル航空、スイス航空、タップポルトガル航空、トルコ航空、等が乗りいれている。

ビルバオのバル


新市街や旧市街に個性的なバルが沢山ありそれだけでも来る価値あり。さらに美術館や様々な建築など街を目で楽しめる。

 

ラ・ビニャ・デ・エンサンチェla viña de ensanche

ビルバオ新市街地にある地元人気バル「ラ・ビニャ・エンサンチェ」はピンチョのレベルがとんでもなく高い。一つ一つの料理が高級レストランのレベルで地元の人でいつもいっぱいだ。

 

720分料理したイベリコ豚。小皿で3.5ユーロでした。

タパス
筆者撮影

ビルバオのビニャ・デ・エンサンチェの店内はいつも地元の人達でいっぱい。

ビルバオのバル
筆者撮影

ラ・ビニャ・デ・エンサンチェのホーム・ぺージ

http://www.lavinadelensanche.com/es/

ビルバオグッゲンハイム美術館からラビ―ニャデエンサンチェは徒歩13分

 グレトキ  gure toki

ヌエバ広場にあるバル・ラ・グレトキはピンチョコンクールで優勝もしたことがある有名バル。ちょっとおしゃれなピンチョがカウンターに並んでいる。

ビルバオのバル・グレトキ
筆者撮影

グレトキのピンチョ

ビルバオのバル、グレトキ
筆者撮影

 

グレトキのホームページ

http://www.guretoki.com/

ビルバオ・グッゲンハイムからプラサヌエバのグレトキへ徒歩20分

 

ビルバオまとめ


ビルバオは治安がよく街がきれいでアクセスが抜群に良い。街の規模が丁度よくツーリスティック過ぎず生活感のあるところが又気分が良い。サン・セバスティアンは最近人気で随分混んでいるがビルバオはまだ静かで日常感たっぷり。そして物価はサンセバスティアンより安いのでバル巡りも安く楽しめる。

ビルバオ効果で世界の成功例となったひとつはバスクの経済力だ。バスクが潤沢に資金を使えるのは税収入を自分たちで使える権利を持っていて一部を中央政府に納入する。バスク州だけのBDPはヨーロッパ平均より高い。

*独立問題で燃えているカタルーニャがスペイン政府に求めている事のひとつが税金の徴収権。