スペインの治安は?盗難やスリの手口、本当にあったケースを紹介。スペイン旅行事情

 

 

スペインの治安は実はそんなに悪くはなく凶悪犯罪が非常に少ない国です。地元のスペイン人たちはみんなとっても親切で善悪の感覚も日本人と同じです。しかし大都会では残念ながら外国人スリ集団が活躍していて観光客を狙っています。

楽しい旅行をする為に知っているだけで防げることが沢山あります。ほとんどの犯罪がスリや置き引き、それも気が付かないうちになくなっていたというケースです。日本が安全なのでどしても日本からの方は隙が多く現金所持率が高いので盗難にあいやすい。ほんの少しだけ気をつけると防げるような盗難やスリ、置き引きが殆どです。それ程大きな被害は無くてもせっかくの旅行の思い出はズタズタになります。

ここではスリや置き引きの手口とケーススタディを楽しいスペイン旅行をしていただくためにまとめてあります。

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本当にあったケースを知ってケース・スタディー


ちょっとしたスキを狙ってのスリ<本人の不注意編>

*食事をしているときに背もたれに掛けていた貴重品が入ったバッグが盗まれた。

*靴の試着をしているときに椅子の横に置いたパスポートを入れたカバンが無くなった。

*4つ星ホテルのビュッフェの朝食時座席確保の為にに置いたカバンが戻ったらなかった。

*リュックに入れた貴重品が街を歩いている知らない間になくなっていた。

*食事をしているときにテーブルに置いたスマホが気が付いたら無かった。(スマホやカメラの盗難も良くあります。特にI-Phoneは転売が出来るので気をつけましょう。)

*ホテルでベッドに貴重品が入ったカバンを置いたまま別の部屋の友人の所へ行ってほんの少しの間なので扉をあけて出た。戻ったら貴重品が消えていた。

*地下鉄で空港から町に向かうとき何人かに囲まれて気が付いたら夫婦2人とも貴重品が盗まれた。

これらは本当に本人の不注意です。食事をするときも貴重品が入ったかばんは膝の上や足の間と習慣付けましょう。ホテルの部屋は誰でも入ってこれます。プロの泥棒は狙っているのを忘れないように。空港から市内に地下鉄などで向かう場合は腹巻型や首からかけて洋服の中に隠せるタイプの貴重品袋に大切なものは入れましょう。空港からの地下鉄は観光客を狙ったプロのスリがいます。私もいつも地下鉄を使いますが普段は安全です。気をつければ防げますのでいつも注意をしましょう。

これは複雑<劇場型の凝った手口>

*複数人に話しかけられてしばらくして気が付いたら反対側に置いたカバンが無くなっていた。(相手は何人かのグループで犯行に及ぶ。話しかける人物、持って行く係り、持って走る役等)

*「日本が好き」と話しかけられ仲良くなって一緒にビールを飲んだらその場で眠ってしまい目が覚めたら貴重品が無くなっていた。(ビールに何か知らない間に入れられた可能性があります。)

*洋服にケチャップがついていて親切な人達が紙で拭いてくれ、その時におろしたカバンが気が付いたら消えていた。(スペイン人はとても親切なのでもしかしたら仲間じゃないかもしれませんがこれは怪しいですね。)

スペイン人の名誉の為に繰り返しますがほとんどが外国人のプロの集団です。少し見極めれば怪しい相手かどうかわかると思います。街で知らない人と友達になることはどこの国でもあり得ません。簡単に人を信用しないようにしましょう。

 

高級ホテルでの置き引き等 実際にあった手口

*ロビーで待ち合わせている間に横に置いたカバンが無くなった。

*ホテルの喫茶でお茶をしている間に背中にかけたバッグが消えてなくなった。

*高級ホテルで部屋に置いていたアクセサリーが無くなった。

*何人かで一緒に歓談中すぐ横に置いていたカバンが他の物にすり替えられていた。

*ホテル入り口で夜遅く煙草を吸っていたら手に持っていたバッグをひったくられた。

これらもちょっとした注意で防げそうな事ですね。高級ホテルだからと安心しないように。高級ホテルにいるプロの泥棒達はスーツに毛皮のコートで犯行に及びます。

出発前に準備出来る事

*パスポートのコピーを取っておきましょう。タックスフリーの手続きなどはコピーで代用できる場合が殆どです。本物はカバンの中でなく腹巻や安全金庫に入れコピーを持ち歩きましょう。また盗難にあった場合の再発行にもコピーがあると便利です。

*クレジットカードの番号と連絡先はクレジットカードに書いてあります。クレジットカードの盗難にあうと連絡先が分からなくなります。カードの連絡先やクレジットカードの16ケタの番号は別に控えましょう。盗難にあった場合の手続きの時間が短縮されます。

*腹巻型や首からかける貴重品袋を用意してきましょう。

*すべての貴重品を一か所で持たないように。それを取られたら動きが取れません。危険は分散して持ちましょう。

クレジットカードの盗難にあったら

*なるべく早くクレジットカード会社に連絡をしてカードを止めてもらいましょう。最後に使ったのはいつか聞かれます。それ以降に使われていたら不正使用されたことになり早く連絡すればカード会社の保険で対応してくれます。

パスポートの盗難にあったら

日本大使館や領事館に連絡をしてください。パスポートの再発行又は渡航書の手続きが必要になります。パスポートが無いと飛行機にさえ乗ることが出来ません。土日祝日、日本の祝日とスペインの祝日は休館です。緊急対応の電話があるのでメッセージを残せば緊急度に応じて対応してくれます。

今の格安航空券は日程の変更が難しく変更不可能だったり手数料が高かったりします。パスポートが無ければ飛行機に乗ることはできません。予定の日程で帰れないと分かったら変更手続きをするか新しく航空券を買いなおす事になります。その間の滞在や航空券代など余分な出費のもとです。パスポートの盗難は無いように注意しましょう。

 

 

日本大使館

マドリッド日本大使館 住所 calle Serrano 109                                            9:30~13:15/ 14:45~17:30  ( 7月8月9:00~14:30) tel:915 907600

バルセロナ領事部 住所Avenida Diagonal,640                                                      9:00~13:00 /15:00~16:00 tel:932 803433

地域によってあまりお勧めできない場所もある。

ホテル選びは慎重に。個人旅行でホテルを選ぶ場合はホテルの場所の治安も調べましょう。場所によってはあまりおすすめできない地域もあります。旅行中は朝出かけたり夜遅くなったりスーツケースを持って出かけたりするので治安の安全な地域のホテルに泊まりたい。値段だけで決めずに安全性や利便性も考えて取りましょう。

スペインで盗難に合ったとき何をするかをまとめた記事です。

スペインで盗難に合ったらどうする。クレジットカードやパスポートやスマホの盗難どうしようまとめ

 

最後に

治安に注意が必要なのは基本大都市だけで地方都市はまず問題ありませんがアンダルシアのセビージャ、グラナダ、マラガなど世界中の観光客が来るところは盗難があります。やはりいつでもどこでも注意をしましょう。

外国からきているプロのスリ集団達がほとんどです。全く気が付かないうちにカバンから貴重品だけが消えています。または何人かで仕掛けてくる劇場型もあります。まずは狙われないようにするのが一番大切です。

ちょっとした注意で旅行が楽しいまま終わるかとんでもない思い出になるかが決まります。日本が安全なのでうっかりしてしまう事があると思いますが狙われないように、狙われても大丈夫なように工夫をして楽しい旅行をしてください。

貴方の楽しいスペイン旅行の為に!

 

ベラスケスの作品と生涯。斜陽のスペイン・ハプスブルグの歴史をベラスケスの絵画で説明

 

ベラスケスは17世紀にスペインで活躍した画家。本名は「ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス」。スペイン国王フェリペ4世に仕え生涯王の為に絵を描いた。時代は斜陽のスペイン帝国。プラド美術館の巨匠達の中でも格別の扱いの画家である。17世紀に同時にスペインで多くの天才画家たちが登場している。

この時代をスペイン黄金世紀と呼ぶ。スルバラン、リベラ、ムリーリョ等天才的な画家たちが同時期に活躍した時代で多くの作品をプラド美術館で鑑賞できる。その中でもベラスケスはスペイン国王フェリペ4世に寵愛され24歳で国王付の画家になり並外れた成功を手にした画家。ベラスケスの生涯と作品を見ながら斜陽のスペインの歴史をハプスブルグの終焉迄見ていきます。

 

ディエゴ・デ・ベラスケス


ベラスケスはスペイン国王フェリペ4世に24歳で気に入られ生涯宮廷画家として活躍した。ベラスケスが生まれた1599年トレドでエル・グレコは晩年を過ごしていた。ベラスケスは絵画だけでなく宮廷の様々の仕事を受け持ちその人格も高貴で国王に信頼された。王家の結婚式の準備なども取り仕切り時間を割かれた為絵画作品数は非常に少なく長い間海外では知られていなかった。

 

セビージャで誕生

生まれは南スペインのセビージャ、当時のセビージャは大航海時代の船が入り人が集まる大都会だった。スルバランやムリーリョも同じ時代にコスモポリタンの街セビージャで活躍した。1599年6月6日にセビージャでベラスケスが洗礼を受けていることが分かっている。ベラスケスというのは母方の姓でアンダルシアでは母方の姓を名乗ることが多かったようだ。7人兄弟の長男として生まれ貴族の血を引く家系だったが格別裕福というわけでは無かったようだ。

<ベラスケスが生まれた頃のセビージャ>

16世紀のセビージャ
De atribuido a Alonso Sánchez Coello – [2], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1713560
新大陸からの富を積んだ船が入港するセビージャは当時のスペインで最も豊かな街で芸術も栄えていた。人が集まりインフレも激しく野望を持ったいかさま師や一攫千金を狙った詐欺師達が集まる混乱した大都会だった。

師匠フランシスコ・パチェーコ

1611年9月(12歳)にセビージャの画家フランシスコ・パチェーコに弟子入りしている契約書が残る。様々な事に才能を見せた息子に絵の才能を見抜いた両親が選んだ師匠だ。

パチェーコは画家で教養人で詩人で彼の家には芸術家や学者が集まるサロンのような場所になっており知的な雰囲気に溢れていた。そのためベラスケスも若いころから様々な事に興味を持つ人物に育つ。ベラスケスが幸運だったのは師であるパチェーコが弟子の優秀さを公然と認める心の広さを持った人物だったことだ。

<フランシスコ・パチェコ、ベラスケス1620、プラド美術館>

ベラスケスの描いたパチェコ
De Diego Velázquez – [2], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15587626
師匠の資格と結婚

1617年3月14日(18歳)ベラスケスは資格審査を受け当時の画家の最高位「宗教画の師匠」と認められ独立する。(絵画の師匠も資格制だった)

(下)ベラスケス初期(1618年19歳)の作品で無原罪の御宿り。ベラスケスが画家組合の親方に登録されておそらく初めての公的な仕事。無原罪の御宿りは「聖母マリアが母の胎内に宿ったときに既に原罪を免れていた」と言うカトリックの教義。対抗宗教改革の時代にスペインで好まれて多くの画家達が描いた。マリアのモデルはベラスケスが後に結婚するファナ。師匠パチェーコの娘。

<無原罪の御宿り1618年ベラスケス、ロンドン・ナショナルギャラリー>

ベラスケス無原罪の御宿り
Full title: The Immaculate Conception
Artist: Diego Velazquez
Date made: 1618-19
Source: http://www.nationalgalleryimages.co.uk/
Contact: picture.library@nationalgallery.co.uk
Copyright © The National Gallery, London

ベラスケスの師匠パチェーコは「絵画芸術論」を記した人物で宗教画の様々な規定をまとめた。「絵画芸術論」が出版されるのはパチェーコ没後だが師匠から様々な絵画論を聞いていたであろうベラスケスは師の規定に忠実にこの作品を描いている。”無原罪の御宿りのマリアは12-3歳の少女の姿で両手は胸の前で祈りの形をして、マリアの乗る純潔をあらわす三日月は下を向くべきである”とされた。

(下)又同じころに描いた風俗画。そこに描かれる手前のボデゴン(静物画)は見事な素材感。手前のお皿やナイフ、陶器の入れ物等が素晴らしい。

<卵を料理する老婆と少年、ベラスケス1618年、スコットランド国立美術館>

ベラスケス
De Diego Velázquez – Google Art Project: Home – pic Maximum resolution., Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=19980800

約1年後に師匠パチェーコの娘ファナと結婚。花嫁16歳ベラスケス19歳。2人の間に1619年に長女フランシスカ、1621年に次女イグナシアが生まれているが次女は夭折している。おそらくベラスケスの次に紹介する作品「東方三賢者の礼拝」の聖母が妻ファナで赤子キリストが長女フランシスカ、手前のひざまつく男性がベラスケス本人。画家20歳頃の作品でプラド美術館にある。

<ベラスケス、東方三賢者の礼拝、1619年、プラド美術館>

ベラスケス東方3賢者の礼拝

Adoración de los Reyes Magos
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)イエス・キリストの誕生を祝って東方の三賢者がベツレヘムの馬小屋で礼拝をするという聖書の場面。ベラスケスはこの頃既にセビージャでは有名な画家になっていた。

ボデゴンの画家

ベラスケスは初めボデゴン(静物画)で名を成している。下の作品は21歳のベラスケスが描いた当時のセビージャの日常の様子で「セビージャの水売り」。手前の大きな壺の透明な水滴が落ちていく様子が素晴らしい。交易の船が出入りしたセビージャは国際都市で北方で好まれた民衆の生活の絵を若いベラスケスは描いていた。

<セビージャの水売り、1620年ロンドン・ウェリントン美術館>

ベラスケス、セビージャの水売り
De Diego Velázquez – Apsley House Collection., Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=45378708
マドリード

1622年にベラスケスはマドリードを訪れエル・エスコリアル修道院で王家のコレクションに触れている。国王の肖像画を描ける機会を狙っての上京だったがその目的は果たせずセビージャへ帰った。ところがマドリード滞在時に描いたルイス・デ・ゴンゴラという詩人の肖像画が素晴らしい出来で後に「オリバーレス公・伯爵」によって再びマドリードに呼び戻されることになった。

<ルイス・デ・ゴンゴラ、模写、プラド美術館>

ベラスケス、ルイスデゴンゴラ
Luis de Góngora
ANÓNIMO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

上記作品「詩人ルイス・デ・ゴンゴラ」のベラスケスの本物は現在ボストン美術館にある。プラド美術館で現在見れる作品は模写。ベラスケスはマドリードに移動後の作品は肖像画が主流になりボデゴン(静物画)は描いていない。画風もティチアーノの影響がみられる軽いタッチに変わって行く。

オリバーレス伯爵

オリーバーレス公・伯爵(ドン・ガスパール・デ・グスマン)はセビージャ出身で当時の王の宰相を務め事実上の権力者だった。同郷の人物を引き立てることは当時からよくあったことでベラスケスはオリバーレス伯爵によって1623年にマドリードに呼び戻された。国王フェリペ4世の肖像画(消失)を描き王に気に入られ宮廷画家となる。オリ―バレス伯爵は約30年間フェリペ4世の後ろで権力をふるい斜陽のスペインにかつての栄光を取り戻そうとした。

<オリバーレス伯爵、ベラスケス1634年頃、プラド美術館>

ヴェラスケス、オリバーレス伯爵

Gaspar de Guzmán, conde-duque de Olivares, a caballo
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)この作品は35歳のベラスケスがオリバーレス伯爵を描いたもの。見上げる程の巨大な作品で前足を上げた馬に乗り振り返るオリーバーレス伯爵の大胆な構図。後ろ目に振り返る目にオリーバーレスの尊大な雰囲気がうかがえる。遠景の雲や空気のの層の描き方のタッチは後に「ベラスケーニョ」「ベラスケス風」と呼ばれる。

宮廷画家の名誉と王宮営繕監督という仕事

ベラスケスは24歳で国王の寵愛を受けそれ以来宮廷画家として絵を描くことになる。国王フェリペ4世はベラスケスの6つ年下だったが時間があると画家のアトリエを訪れ制作を眺めていた。ほかの画家の嫉妬を買い中傷を受けるベラスケスの為国王は他の3人の画家とベラスケスに「モリスコの追放」という作品を同時に描かせて競争させた。結果はベラスケスの勝利だったがこの作品は残念ながら1734年のマドリードのアルカサールの火災で焼失している。国王は気に入ったベラスケスに様々な肩書を与え色々な仕事をさせた為忙殺な日々の中ベラスケスが絵に費やせる時間は限られていった。

<フェリペ4世、ベラスケス1626-28年、プラド美術館>

ベラスケス、フェリペ4世

Felipe IV
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado
ルーベンスの来西

1628年にフランドルのピーター・ポール・ルーベンスが外交官の仕事でマドリードを訪れた。約9か月間の滞在でスペイン王家の肖像画を描きベラスケスとも親交を結んでいる。

(下)ルーベンスがマドリード滞在中にティチアーノの作品を模写した物が今もプラド美術館に残る。

<アダムとイブ、ルーベンス1628-29年、プラド美術館>

ルーベンス、プラド美術館
By ピーテル・パウル・ルーベンス – 1. The Yorck Project: 10.000 Meisterwerke der Malerei. DVD-ROM, 2002. ISBN 3936122202. Distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH., [1]2. Museo del Prado, Madrid, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=158489
ベラスケスとルーベンスはエル・エスコリアル修道院に2人で何度も通い王立コレクションに触れている。特にティチアーノを鑑賞していたベラスケスは是非ともイタリアへ行きたいと考えるようになりルーベンスと共にイタリアへ旅行する計画を立てた。しかしルーベンスはアント―ワープへ帰還することになり翌年ベラスケスは1人でイタリアへ旅行する。

1度目のイタリア旅行

ベラスケスの希望が叶えられ1629年8月にイタリアへ旅立つ。バルセロナからジェノバ、ベネチア経由でフェラーラを通りローマへ到着。ローマで1年程滞在した後当時はスペイン領だったナポリへ渡る。その頃ナポリではスペイン人の画家「ホセ・デ・リベラ」が活躍していた。リベラはベラスケスより8歳年上で既にナポリで成功して数々の聖人や哲学者などを描いている。下の絵はベラスケスがナポリへ行った頃のリベラの作品。ベラスケスとリベラは逢って話をしたのだろうか。仲間や同郷人が大好きなスペイン人同士肩を抱き合って話をしたに違いないと思っている。

<リベラ、デモクリトス1629-31年、プラド美術館>

リベラ、デモクリト

Demócrito
RIBERA, JOSÉ DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

ベラスケスは1631年1月にはマドリードに戻っている。イタリア旅行中に多くの模写などをしている作品は散逸しているが「ヨセフの長衣を受けるヤコブ」(エル・エスコリアル修道院蔵)と「ウルカヌスの鍛冶場」(プラド美術館蔵)は今もスペインで鑑賞することが出来る2枚。

<ウルカヌスの鍛冶場、ベラスケス1630年、プラド美術館>

ベラスケス、プラド美術館

La fragua de Vulcano
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)ベラスケスの神話画「ウルカヌスの鍛冶屋」、妻のビーナスの浮気の話を伝えにアポロンが降りて来た、「えっ」と驚いた顔のウルカヌスの表情が面白い。鍛冶屋で働く男たちの筋肉の描写、道具の素材感等が美しい。

<メディチ家別荘、1630?ベラスケス、プラド美術館>

ベラスケス、プラド美術館
Vista del jardín de la Villa Medici en Roma
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)ローマのメディチ家別荘を描いたもので2点並んで展示されている両手で持てそうな位の小さな作品。描いた時期についてはまだ議論されていて2度目のイタリア旅行時(1650年頃)という説も捨てがたい。絵の完成度やタッチ等が印象派の絵のよう。移り行く時、太陽の光の動きを意識して描かれている。

 

 

フェリペ4世と斜陽のスペイン


国王フェリペ4世

国王フェリペ4世はベラスケスが不在の間は他の画家に肖像画を描かせなかったらしくイタリア旅行から戻ったベラスケスに早速注文した作品。

<銀と茶の衣装のフェリペ4世、ベラスケス1631-32年、ロンドン・ナショナルギャラリー>

ベラスケス、フェリペ4世
De Diego Velázquez – [1], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9555111

「銀と茶の衣装のフェリペ4世」はフェリペ4世国王27歳頃、しかし描かれた年代に関しては1635年説もある。絵のタッチにイタリア旅行で鑑賞して来たベネチアの巨匠の影響がみられる。

<狩猟の姿のフェリペ4世、ベラスケス1632-34年、プラド美術館>

ベラスケス、フェリペ4世
Dominio públicoocultar términos
File:Diego Rodríguez Velázquez – Felipe IV, cazador (Prado, Madrid).jpg

狩猟姿のフェリペ4世は国王と示すものを何も描かずこちらを向く王の内面や威厳を描きだしている。

芸術愛好家のフェリペ4世の治世

16歳でスペイン国王に即位したフェリペ4世は並外れて芸術を愛好した。絵画だけでなく演劇をこよなく愛した王だった。この時代にスペインの劇作家が多く登場したのはフェリペ4世が新しい芝居を求めたからでカルデロンやローペ・デ・ベガ等が登場している。芝居に夢中になり快楽の中で生きた王だが当時のスペインは30年戦争(1618-48)で壊滅的な状態だった。広大な領土は維持しながらもウエストファリア条約でオランダの支配権を失いポルトガルは独立しカタルーニャは反乱を起こした。経済はズタズタで救いようがない状態で税金を上げれば民衆は苦しみ農業生産は低下し国民は農民も貴族も翻弄されていた。政治はオリバーレス伯爵の私利私欲の道具にされ国王にとって政治は退屈だった。芸術以外に興味があったのは狩りでフェリペ4世はすぐれた馬術家で12時間馬上にいる事もいとわなかった。

 

ブエン・レティーロ宮の建設

国の斜陽を横目にマドリードでは眩いばかりの催しが行われ新しい宮殿の建設が始まった。建築内部を飾る為12点の戦勝を記念する作品が描かれることになった。今もプラド美術館の近くにこの建物の一部と広大な公園が残る。

<ブエンレティーロ宮殿、1637年>

ブエンレティーロ宮殿
De atribuido a Jusepe Leonardo – investigart.wordpress.com, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3014571

(下)ブエンレティーロ宮殿を飾る為に描かれた作品

<ブレダの開城、1634-35ベラスケス、プラド美術館>

ベラスケス、槍

Las lanzas o La rendición de Breda
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

オランダの街ブレダは30年戦争で10か月の包囲の後スペイン側に落ちた。中央部右側がスペイン側の指揮官スピノラ。寛大な降伏条件だった戦争でスペインの指揮官の表情や態度に温情感が読み取れる。実はこの絵が描かれた2年後にオランダはブレダを奪回している。

この時に同郷の画家スルバランをベラスケスは王に紹介しマドリードへ呼び寄せている。スルバランはベラスケスより一歳年上で同じセビージャ出身だった。スペイン人は同郷人が好きなのだ。スルバランがこの時にブエン・レティーロ宮殿の為に描いた作品が今もプラド美術館に残る。

<スルバラン1634年カディス防衛、プラド美術館>

スルバラン
museo del Prado

これらの勝利の場面ばかりを大きなサロンに飾ったさまは荘厳だったに違いないが現実のスペインは敗北と斜陽の時代だった。スルバランは他にも神話画「ヘラクレスの偉業」を描いていてプラド美術館で見ることが出来る。スルバランの作品は実は評価は高くなくこの後失意の中セビージャへ戻っている。

フェリペ4世の2回の結婚

フェリペ4世は2度結婚している。王家の結婚は全て政略結婚、王の重要な仕事は世継ぎを残す事だ。最初の妻はフランスの王女イサベル・デ・ブルボン、フランス王アンリ4世とメディチ家のマリード・メ・ディシスの長女。伝統的に戦争ばかりしていたスペインとフランスの間で行われた政治同盟の一環でブルボンからの妻を迎えた。

<イサベル・デ・ブルボン、ベラスケス1635年、プラド美術館>

ベラスケス、イサベル・デ・ブルボン
De Diego Velázquez – See below., Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15587965

これらはブエン・レティーロ宮殿の諸王の間を飾る為の作品。衣装の金糸の素材感が素晴らしい。王と王妃の大きな騎馬像画の間に大事なバルタサール・カルロス皇太子の肖像画が置かれた。

<バルタサール・カルロス皇太子、ベラスケス1635年、プラド美術館>

ベラスケス、バルタサールカルロス皇太子
museo del prado
wikipedia public domain

(上)この絵はベラスケスが描いたバルタサール・カルロス皇太子6歳の時の騎馬像。大切な世継ぎの絵を大きな部屋の中央上の方に飾り訪れた人々が見上げる様に描いた。描かれた約10年後にカルロス皇太子は突然17歳で早世。子供の時に決められた婚約者はオーストリア・ハプスブルグ家のマリアナ・デ・アウストリアだった。マリアナの母はフェリペ4世の妹マリア・アナなのでいとこ同士の結婚の予定だった。

<マリアーナ・デ・アウストリア、ベラスケス1652年、プラド美術館>

ベラスケス、マリアーナ・デ・アウストリア
By ディエゴ・ベラスケス – The Yorck Project: 10.000 Meisterwerke der Malerei. DVD-ROM, 2002. ISBN 3936122202. Distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=159947

大切な世継ぎである息子が亡くなってしまったフェリペ4世は息子の婚約者と結婚する事となる。大事な世継ぎがいないのである。妹の子供なので叔父と姪の結婚。ハプスブルグは「ベッドで帝国を築いた」と言われるがスペイン・ハプスブルグは親類同士の結婚で崩壊していく。フェリペ4世とマリアーナの間に生まれた長女が下の絵のマルガリータ王女。ベラスケスはマルガリータ王女を子供のころから何点も描いている。

<マルガリータ王女、ベラスケスと工房1655年、ルーブル美術館>

ベラスケス、マルガリータ王女
Web Gallery of Art: Inkscape.svg Image Information icon.svg Info about artwork
wikipedia public domain

これらのベラスケスが描いたマルガリータ王女の作品はせっせとウィーンに見合用に送られていく。マルガリータの嫁ぎ先は生まれた時からオーストリアと決まっておりオールトリア皇帝レオポルド1世に嫁ぐ。嫁入り道具に少しでも故郷の物をと母が持たせたものにスペインの馬術が有った。馬が躍るスペイン馬術学校がウイーンに今も有るのはマルガリータ王女の嫁入り道具のひとつだった。

<青い服のマルガリータ、ベラスケス1659年、ウィーン美術史美術館>

ベラスケス、青い服のマルガリータ
De Diego Velázquez – pAHSoRgE1VSx2w en el Instituto Cultural de Google resolución máxima, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=22003519
王の愛人

国王フェリペ4世には数えきれない程の愛人がおり庶子も30人を超えた。にも拘らずまともな世継ぎを残せなかったのは悲劇だ。その中でお気に入りは女優のマリア・カルデロ―ナだった。ふたりの間に息子も生まれており後にスペインの宰相になる。

<フェリペ4世の愛人、ラ・カルデローナ>

カルデローナ
De Sparganum – Trabajo propio, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7150433

 

ベラスケス1648年再びイタリアへ

ベラスケスの今度の旅はローマ法王イノケンティウス10世への特命大使として派遣された。絵画と彫刻作品の購入の仕事を賜り20年後2度目のイタリアへ旅立つ。その時にイタリアから持ち帰ったものが今もマドリード王宮に置かれている

国王フェリペ4世からの帰国の催促が度々あったが約2年半ベラスケスはイタリアに長居した。理由のひとつはマルタという名の未亡人がベラスケスの庶子を宿していた。その子はアントニオと名付けられた事以外はあまりわかっていない。実はベラスケスはその後1657年にもう一度イタリア旅行を国王に願い出ているが王に拒否されている。

<イノケンティウス10世、1650年ベラスケス、ローマ・ドーリア・パンフィーリ美術館>

 

ベラスケス、イノケンティウス10世
By 不明 – 不明, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=38007

(上)キリスト教世界のトップローマ法王は権謀術数の中生き抜く大変な職業だった。こちらを見つめ返す目に人を見透かすようなイノケンティウス10世の内面が良く表れている。ティチアーノを称賛していたベラスケスはおそらくティチアーノのパウルス3世を意識してこの絵を描いた。

<ティチアーノ、パウルス3世、ナポリ・カーポ・ディ・モンティ国立美術館>

パウルス3世
wikipedia public domain

 

<鏡を見るビーナス、1648年頃ベラスケス、ロンドン・ナショナル・ギャラリー>

ベラスケス
By ディエゴ・ベラスケス – Key facts. The National Gallery, London. Retrieved on 25 June 2013., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=984326

(上)ベラスケスの珍しい裸体画。当時のスペインは厳しいカトリックの体制の中ほとんどの画家が裸体画を描いていない、と公式では言われているが実は上流階級の個人の邸宅などには裸体画は飾られていた。フェリペ4世も王宮の中の食後の休憩部屋に祖父であるフェリペ2世が集めたティチアーノの裸体画やルーベンスの裸体画を飾っていた。それらは今もプラド美術館にある。フェリペ4世の特別扱いを受けていたベラスケスが裸体画を描くことにあまり問題は無かったに違いない。ベラスケスが描いた裸体画は他に3点あったと言われているがすべて現存していない。この絵はおそらくベラスケスの2度目のイタリア旅行中に描かれている。モデルはベラスケスの子供を産んだ愛人マルタではないかと推測されている。

ベラスケス晩年

1652年にベラスケスは王宮配室長に任命されている。この仕事は晩餐会の手配や準備などで画家に随分ストレスを与えたようだ。大変な仕事量の中も素晴らしい作品を残している。

 

<織女達、ベラスケス1655-60年、プラド美術館>

ベラスケス
Las hilanderas o la fábula de Aracne
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)晩年のベラスケスの作品「織女達」は手前に現実の織物を織る女性達。奥には神話の物語でアラクネが神を冒涜したため蜘蛛に変えられる変身物語を同時に扱っている。変身と時間、現実と神話の織りなす作品。奥のアラクネが織ったタペストリーはティチアーノのエウロパの略奪を使っている。

そのティチアーノの作品は現存しないがスペインに来ていたルーベンスが模写をしたものがプラド美術館に残る(下)。ベラスケスの織女達の奥にこの作品をアラクネが織ったタペストリーとして使っている。

<エウロパの略奪、ルーベンスがティチアーノを模写、プラド美術館>

エウロパの略奪 ルーベンス

El rapto de Europa
RUBENS, PEDRO PABLO
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

 

 

(下)プラド美術館の作品で最も重要で有名な作品がベラスケスのラス・メニーナス。若い頃のピカソも絶賛している。ラス・メニーナスは一度もプラド美術館から外へ出ていない作品でおそらく将来も出ない。

 

<ラス・メニーナス、ベラスケス1656年、プラド美術館>

ベラスケス
Las meninas
VELÁZQUEZ, DIEGO RODRÍGUEZ DE SILVA Y
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」という題名は19世紀につけられたもの。今も絵の解釈は様々でベラスケスが描いているのは王女なのか国王夫妻なのか。いずれにしても鏡を使う事で絵を見ているのか見られているのか私たちに混乱を与える。後ろにかかる2枚の絵はルーベンスの神話画で「無謀に芸術の神に挑戦をして失敗する人間たちの姿」なのは私たちに様々な事を示唆している。

 

当時のフェリペ4世の王女マリア・テレサとフランス王ルイ14世の結婚の準備でベラスケスはフランス国境のフエンテ・ラビアへ行った。マリア・テレサはスペイン王フェリペ4世と最初の結婚のイサベル・デ・ブルボンの娘。

<マリア・テレサ、ベラスケス1652-53年、ウィーン美術史美術館>

ベラスケス、マリアテレサ
De Diego Velázquez – Kunsthistorisches Museum, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=159945

マリア・テレサはフランスに嫁ぐがいつまでもフランス語がうまくなかった。義理母(ルイ14世の母)はスペインの王女(フェリペ3世の娘)なので義理母とスペイン語の会話を楽しんだという。

ベラスケスはこの結婚の準備の債務と旅に疲れ果て1660年6月26日にマドリードに戻り王宮内の自室で床に伏し8月6日に天に召された。国王フェリペ4世の哀しみと嘆きは大きかった。国王フェリペ4世はその6年後に亡くなりあまり悲しむ者も周りにいなかったという。混乱を残して亡くなりそれを受け継いだ皇太子はスペイン・ハプスブルグ最後の王となる。

画家の家族

<ベラスケスの家族、マルティネス・デル・マーソ1665年、ウイーン美術史美術館>

ベラスケスの家族
De Juan Bautista Martínez del Mazo – Kunsthistorisches Museum Wien, Bilddatenbank., Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4662029

マーソはベラスケスの弟子で後に宮廷画家となる。ベラスケスの娘フランシスカと結婚しその間の子供達が左側に再婚の妻とその子供達が右側にいる。背景にベラスケスが描いたフェリペ4世と奥の部屋で仕事をするベラスケス、又はマーソ自身がマルガリータ王女の絵を描いている。

 

補足・その後のスペイン

フェリペ4世の唯一育った息子はカルロスと名付けられた。先ほど登場したマルガリータ王女の弟にあたる。体が弱く3歳まで歩けず8歳まで話せなかった。そして結婚はするが世継ぎのないまま1700年に崩御した

<カルロス2世、1673年カレーニョ、プラド美術館>

カルロス2世
museo de prado

その結果スペイン王位継承戦争が始まりヨーロッパ全体を巻き込んだ戦争となる。最終的にフランスのルイ14世の孫がスペイン王フェリペ5世として即位する。この時にイギリスにジブラルタルを奪われ今も返還交渉中だ。ここにカルロス5世から始まったスペイン・ハプスブルグ家が終焉した。

 

マドリード中心部のカバ・バハ通りの美味しいバル2軒、カバ・バハ通りは300メートルに50軒の飲食店。

 

今日はマドリード中心部のおすすめ美味しいバル通り「カバ・バハ」CAVA BAJAをご紹介。マドリードの中心部のバル街はいくつかの地区に分かれていてそれぞれの地区で完結できる様になっている。マヨール広場近辺やラス・レトラス地区、チュエカ地区、それぞれ特徴があり何軒か梯子をすれば一晩中楽しめる。今日はマヨール広場から更に少し下って行ったところにあるカバ・バハ通り(Cava Baja)を紹介します。マヨール広場から5分くらい坂道を下って行くかメトロ・ラ・ラティーナからでもすぐです。既にサンミゲール市場も美味しいマッシュルーム屋もエビのアヒージョ専門店のカサ・デル・アブエロも行ったしという方をもう少しディープな世界へお連れしましょう。別に危険はないですがイギリス人の超酔っ払いが時々出没します。あ、でも食事中も貴重品には気をつけましょう。

カバ・バハ通りCall CAVA BAJA

マヨール広場とサン・ミゲール市場の間の下り坂を下りてマッシュルーム屋も通り過ぎると小さな広場に出る。プエルタ・セラーダという名の広場で昔はここに小さな城門があったところ。目印はこの十字架。

<プエルタ・セラーダ>

プエルタ・セラーダ
筆者撮影

丁度この十字架の向こうにまだ細い道が伸びていてそこが目的のカバ・バハ通りだ。(交差している通りではなく同じ方向に下って行く細い通り)

近くにあるセバダ広場は穀物を集めたところでそれらを売る商店がこの通りに集まるようになったらしい。今は300メートルの細い通りにバルやレストランが集まり炭焼きの美味しい老舗レストランや美味しいピンチョが並ぶバル等が約50店舗程並んでいる賑やかなバル街になった。歩いてみて気に入ったバルに入ればそれで間違いない楽しい時間を過ごせる。週末は大変混みあうのでスペイン人の行く時間より少し早めに行く事をお勧めします。お昼は13時、夜は20時ならまだスペイン人には早すぎて空いている。月曜日は休むバルやレストランが多いので注意ですが開けているところもあります。

<カバ・バハ通り。CAVA BAJA>

カバ・バハ通り
筆者撮影

通りの壁にこのセラミックが見えたら大丈夫。通りの反対側にも通りの名前が壁に出ていますので確認しましょう。旧市街は似たような道がいっぱいですので注意。

カババハ通り
筆者撮影

 

カバ・バハ通りに入ると約300メートルの細い通りにバルやレストラン等飲食店が約50軒並んでいます。地元人気バルやピンチョス屋、伝統のある本格レストランもあり、又最近は店舗の変化も早く来るたびに変わって行きファーストフードも出来ていてちょっと残念です。週末のランチ時や週末の夜はマドリードの地元の人々でにぎわう地域で絶対おすすめのバル街です。日本のガイドブックなどに紹介されていないようですが心配いりません。少しディープなところですが安全です。お食事中の貴重品の扱いは気をつけてください。食事中のバッグの盗難等は時々あるようです

<カバ・バハ通り>

カババハ通り
筆者撮影

 

バルは何軒か梯子をするのがスペイン式、気に入ったバルに入ってピンチョやつまみを頼んでみてください。やはり混んでいるところは絶対に美味しいし失敗は無いですね。今日は私の個人的に行く美味しいおすすめバルを2軒ご紹介します。

カババハ通り
筆者撮影

ポサーダ・デ・レオン・デ・オロ

マヨール広場側から下ってて行くと右側にある。ポサーダは昔の宿泊施設の事で小さなブティック・ホテルも営業している。

カバ・バハ通り
筆者撮影

中はモダンなつくりで広々している。ワインセラーもあってこだわりが感じられる作りだ。ここは料理もしっかりしていて定評がある。座れる確率が高いので日本の方とご一緒して座っていただきたい場合はここに来ています。テーブル席でつまみがいただけるのは有りがたい。

<マドリードのバル通り、カバ・バハにあるポサーダ・デ・レオン・デ・オロ>

カババハのバル
筆者撮影

入ると最初はバルでワインを飲みながらサッカーを見ている人達。

<マドリード、カバ・バハ通りおすすめバル>

カババハ通りバル
筆者撮影

メニューは看板に料理とワインがリストになっている。席にもお品書き。手前はバルメニューで奥の座席はレストランメニューで少し内容が違う。レストランメニューの方が種類が多いので色々試したいときは奥へ行きましょう。言い方は、「食事です」Para comer=「パラ・コメール」だとしっかり食べます、「つまみだけです」=Para picar「パラ・ピカール」だとつまむだけです、少ししかいただきませんというニュアンスです。

<マドリード、カバ・バハ通りおすすめバル>

カバ・バハのバル
筆者撮影

私たちは「パラ・ピカール」つまみだけですで手前のバルコーナーへ。まずはワインを頼むとおつまみを出してくれました。エンパナディージャというパイ地の中に魚と野菜の詰め物。

<マドリード。カバ・バハ通りおすすめバル>

カバ・バハのバル
筆者撮影

<マドリード、カババハ通りのおすすめバル>

カババハのバル
筆者撮影

 

(上)今日はオックステールを注文しました。スペイン語でラボ・デ・トロ(Rabo de Toro)牛のしっぽを長時間煮込んだもの。ここはエレガントに骨は外れて食べやすくして出てきました。独特のコッテリソースが美味でした。これはレストランメニューでしたがバルでもいただけます。

 

タベルナ・デ・ルシオ

マドリードの老舗の有名レストラン「ルシオ」の直営のタベルナです。ルシオは芸能人や有名人が来たら絶対訪れると言われている有名レストラン。カバ・バハといえばこのレストランなのですが予約も取りにくい。そしてレストランでは前菜メインとデザートと注文すると値段も2人で70ユーロとか100ユーロになる。タベルナはバルの少し上にあたるカテゴリーで料理がしっかりした居酒屋みたいな位置付けです。こちらの「タベルナ・デ・ルシオ」でレストランと同じ料理が少し安く、そしてカウンターで一皿だけでもいただけるのがうれしいのが人気の秘密。いつも劇混みです。ワインと一品だけにしたいときや梯子したいときは私はカバ・バハならここに来ます。

<マドリードのバル通りカバ・バハにあるタベルナ・デ・ルシオ>

カババハのバル
筆者撮影

 

ルシオの有名な料理はポテトの卵落とし。何とも単純で簡単な料理と呼んでいいのかと思う一品ですがこれをいただきにはるばる人々は劇混みのルシオに来るのです。Huevos rotosウエボス・ロトス 又は Huevos estrellados con patatasウエボス・エストレジャードス・コン・パタタス。ウエボスはスペイン語で卵の事でロトスは壊れたという意味でまさに卵がポテトの上で壊れています。まわりのスペイン人たちは見事に全員これを頼んでいます。私たちはウエボス・ロトスにチストラというバスクのソーセージが乗ったのを頼みました。

カババハのバル
筆者撮影

レストランで12ユーロ位の一皿がタベルナで9ユーロで少し安くいただけます。

ここはお肉も有名ですのでサーロインステーキ(ソロミージョSolomillo)を試してみました。

<マドリード、バル通りカバ・バハのタベルナ・デ・ルシオ>

カババハのバル
筆者撮影

お肉の味がしっかりしていて美味しいです。脂身のないお肉ですが牛自体の味が美味しいのがスペインの牛肉。放牧なので飼料も気を使って育ているのが美味しい牛肉の秘密です。でレストランだと一人でこれを一皿いただくのですがバルなので2人から3人で分けても大丈夫です。

<マドリードバル通りカバ・バハのルシオ。

カババハのバル
筆者撮影

マドリードのウエルタスとカババハのバルを巡る動画です

行き方

マドリード中心部マヨール広場から徒歩10分、地下鉄5号線ラ・ラティーナから徒歩5分

まとめ

マドリードのカバ・バハ通りの美味しいおすすめバルを2軒ご紹介しました。ここは昔からの地元の人がやって来るバル通りで旧市街の中心地。ガイドブックに載っている中心部のサンミゲール市場やマヨール広場は観光客ばかりで最近は質もサービスも低下している。せっかくマドリードに来たら絶対美味しいものを食べてお帰り下さい。

 

聖フランシスコ・ザビエル、日本にキリスト教を伝えたスペイン人ザビエルとイエズス会の宣教師たち。

 

 

フランシスコ・ザビエルはスペイン人(バスク人)のイエズス会宣教師。ポルトガル王に派遣されアジアへ向かった。この頃スペインは女王フアナ1世(狂女ファナ)の時代。女王は既に城に幽閉され深い精神の闇の中で生き、ファナの息子カルロス5世(カルロス1世)がスペイン王と神聖ローマ帝国皇帝として君臨していた。カルロス5世の息子、フェリペはすでに最初の妻を亡くし22歳になっていた。イギリスではカトリックから破門されたヘンリー8世は既にこの世になくメアリー・チューダーの即位少し前、ドイツでは宗教改革のマルティン・ルターは3年前にこの世を去っていたがヨーロッパはカトリックとプロテスタントで分断されていた。鹿児島にザビエルが到着した1549年、信長15歳、秀吉12歳、家康6歳、ヨーロッパでも日本でも歴史の大物が同時に登場した。片道切符でリスボンを出発しアジアでキリスト教の布教に努め中国で亡くなったフランシス・コザビエルの人生を追ってみました。

時代背景


ザビエルは何故ポルトガル王からの派遣だったか

 

大航海時代に入っていたスペインとポルトガルが海外領土で揉めないように条約が結ばれた。1494年スペインのトルデシージャスで結ばれた条約で大西洋に縦に線が引かれスペインは西へポルトガルは東へと行先が決まった。東へ向かったポルトガルはインド航路発見の後インドのゴアを武力で手に入れマラッカ迄も手中に収めていた。香辛料貿易を独占したポルトガルは貿易網を拡大し世界的な交易システムを築き上げた。マラッカはインド洋から南シナ海へのルートで古代からの需要な海の十字路だった。ポルトガルはそのマラッカを手に入れ多くの貿易商人達が居住していた。

ポルトガルの交易路
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Attribution: The Red Hat of Pat Ferrick at the English language Wikipedia

更に明王朝の中国にまで進出したポルトガルは1517年には広州で貿易を開始しマカオに居住しはじめた。

<マカオの聖ポール教会>

マカオの聖ポール教会
パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=173567

 

ポルトガル商人達は火器を香辛料に替えインドのゴアに集め喜望峰を回ってリスボンに持ち帰った。それらはアントワープやロンドンに運ばれリスボンにはお金と人が集まった。ポルトガルのアジアの香辛料貿易は国家事業となりドイツのフッガー家も出資した。種子島にポルトガル人が到着したのはこの時代(1543年)で日本に火縄銃が伝わった。

<種子島銃>

種子島銃
Arquebus.(Tanegashima Hinawajyu・Japanese:種子島火縄銃)
this The Arquebus is in the Portugal Pavilion in Expo 2005 Aichi Japan.
Photo by Gnsin

1550年には平戸に商館を置いて中国産の生糸や火縄銃に使う火薬の原料を中国で安く買い日本で高く売りつけて大儲けをした。九州では大名たちがこの利益にあやかった。種子島にポルトガル人がやって来たときの船をチャーターしたのはマラッカから東アジアを中心に活躍していた倭寇の王直で海賊の頭だった。

<倭寇のルート>

倭寇のルート
Source Transferred from en.wikipedia to Commons.
Author The original uploader was Yeu Ninje at English Wikipedia

鉄砲が作れるようになっても火薬と玉が無いと武器として役には立たない。玉を作る鉛は国内にもあったようだが火薬の原料は硫黄、木炭、硝石で日本では硝石が取れずインドから輸入した。王直が硝石の取引をはじめ信長が大量に買い硝石貿易で随分とお金が動いた。

ポルトガル王ジョアン3世(1502-1557)

フランシスコ・ザビエルの時代、この大事業をやっていたのがポルトガル王ジョアン3世。ジョアン3世はスペインのカトリック両王の孫にあたる人物で父親はマニュエル1世、母親はイサベル女王の3女マリア。

<ポルトガル王ジョアン3世>

ポルトガル王ジュアン3世
By クリストヴァォン・ロペス – From en:Image:John III of Portugal.jpg, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=481187

ジョアン3世の結婚相手は同じくカトリック両王の孫のカタリーナ王女。カタリーナ王女は狂女ファナの末娘でトルデシージャスの城に幽閉されながらも最後まで手元に置いていた王女だ。

<トルデシージャス城で末娘カタリーナと暮らす狂女ファナ>

ファナ トルデシージャス
Francisco Pradilla, La Reina Juana la Loca, recluida en Tordesillas con su hija, la Infanta Catalina, 1906 – Museo del Prado

イグナチオ・デ・ロヨラが新しい修道会を創設したと聞いたジョアン3世はアジアのポルトガル植民地の異教徒へキリスト教徒を布教する宣教師を派遣してほしいと頼んだ。

*ジョアン3世とカタリーナ王妃の間に9人の子供が生まれるが育ったのは2人だけだった。一人娘はスペインのフェリペ2世と結婚したマリア・マヌエラ、皇太子ジョアン・マヌエルは病弱で16歳で父王より先に早世する。16歳で既に結婚はしており亡くなる少し前に息子が生まれセバスティアンと名付けられた。世継ぎセバスティアンが無謀な戦争に出かけて早世した結果スペインのフェリペ2世にポルトガルは併合されてしまう。

イエズス会の結成


この時代のヨーロッパではカトリックの総本山サンピエトロ寺院の建設にお金がかかり過ぎ、困ったローマが考えついた錬金術が免罪符の販売だった。搾取が多かったドイツを中心にローマ・カトリック教会に対しての反発から宗教改革が始まっていた。スペインを中心にカトリック側では倒れかけた教会を守るために様々な改革が行われるようになりその一環で対抗宗教改革が始まった。この背景の中で結成されたのがイエズス会だった。

イグナチオ・デ・ロヨラ

イエズス会はスペイン北部出身のバスク人イグナチオ・デ・ロヨラによって結成された当時の新しい修道会。ロヨラは若いころは戦争での功名を狙った戦士で現世の出世を願う人物だった。パンプローナでの戦いで負傷し治療中にキリスト教の聖人伝を読んでいるうちに熱中し元気になるころには神の戦士になっていた。ロヨラには申し訳ないがマニアックで狂信的なタイプの人だったと想像している。心を入れ替え瞑想と巡礼をし新しい境地を開き自分の信じた道へ突き進んでいった。

<イグナチウス・デ・ロヨラ>

イグナチウス・デ・ロヨラ
By 匿名 – http://www.spiritual-exercises.com/images/ignatius2.jpg, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=86025

その時にロヨラが作った瞑想法、心霊修業がイエズス会の修行法に今も使われている。パリ大学で仲間を見つけ異教徒と戦う戦士の為にとエルサレムに行こうとしたが不可能だったのでアジアへ行先を変えた。最初の予定ではポルトガル人のシモン・ロドリゲスとスペイン人のニコラス・ボバディージャの2人だったがニコラス・ボバディージャが重病にかかりピンチヒッターで決まったのがフランシスコ・ザビエルだった。

フランシスコ・ザビエル(フランシスコ・ハビエル)


1506年4月7日にナバーラ王国の貴族の子としてパンプローナ近くザビエル城で誕生。父方の祖父は農業を営んでいたがフランシスコ・ザビエルの2代前の人物が有能でパンプローナに出て来てナバーラ王室に仕え功績を立てた。父親も仁徳も学識もある人物で首相のような地位にいた。フランシスコ・ザビエルの母は貴族の出でザビエル城は母の持参金の一部だった。

<スペイン北部パンプローナ近くのザビエル城>

ハビエル城
CC BY-SA 3.0 es
Source Own work
Author Rayle026

ナバーラ王国は交通の要所で重要な位置にあった。フランシスコ・ザビエル6歳の時にフランスとスペイン間で戦争が起こりザビエル9歳の時にスペインに併合された。今はスペインの17州のひとつナバーラ州となっている。父親はその心労で亡くなり王国が滅び家族の苦労を見て育ったフランシスコ・ザビエルは当時の若者が抱く出世や一攫千金等の夢は無く大学へ進み故郷の為に家の復興を助けたいと願う若者だった。

フランシスコ・ザビエルとイグナチオ・デ・ロヨラとの出会い

1525年18歳でパリ大学へ留学し抜群の成績で卒業する。そこで知り合ったのがイグナチオ・デ・ロヨラだった。ロヨラは15歳年上の37歳で大学へやって来た変わり者、フランシスコ・ザビエルはパリのソルボンヌ大学の聖バルバラ学院で既に哲学教授の講義をしていた大学教授だった。

大学の寮で同室になったロヨラをフランシスコ・ザビエルは初め遠目に見て避けていたようだ。パリ大学の教授の職を得ていたが次第にロヨラの言葉に感銘を受け1533年28歳の時に神の使徒として働く決意を固めた。1534年28歳の時パリのモンマルトル聖堂で6人の同士と共に清貧と貞潔を誓いキリストに従い聖地へ巡礼を誓う。8月15日聖母マリア聖天の日だった、この日がイエズス会創立の日となる。

<イエズス会16世紀の紋章>

イエズス会紋章
By Collegium Societatis Jesu – Annuae litterae Societatis Jesu: anni MDLXXXIV, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=50510456

フランシスコ・ザビエル達「イエズス会同志たち」は聖地エルサレムへ向かう船に乗る為イタリアのベニスに歩いて向かったが戦乱で出港が出来ずベニスの病院で人々に奉仕する。ローマに向かいローマ法王パウルス3世に謁見しイエズス会が法王によって正式に認可された。(1540年)

<ローマ法王パウルス3世>

パウルス3世
wikipedia public domain

 

フランシスコ・ザビエル、リスボンを出発

ロヨラに選ばれたボバディージャは病気にかかりロドリゲスは宮廷に引き留められピンチヒッターのフランシスコ・ザビエルのみがインドに向かう船に乗ることになった。1541年4月7日ザビエルの35歳の誕生日だった。

<リスボン、発見のモニュメント>

発見のモニュメント、リスボン
筆者撮影

インド航路を通り13か月の船旅で1542年にインドのゴアに到着。ゴアを中心にインド沿岸からマラッカ、モルッカ諸島をめぐり5年間の布教。布教の妨げになったのはポルトガル人商人たちの生活態度だった。拝金主義が横行し目の前の快楽におぼれる人々を見てフランシスコ・ザビエルを悲しませた。

インドの南は読み書きの出来ない人達も多く祈りの言葉を現地の言語に訳したりメロディーをつけたり苦労した。鐘を鳴らし子供達を集め歌で祈りを教え、家に帰った子供達が歌い家族に広まるようにした。

フランシスコ・ザビエルとアンジロウ

フランシスコ・ザビエルは始めはインドのゴアを中心に布教していたがマラッカ、モルッカ諸島まで巡っていた時にマラッカでアンジロウ又はヤジロウという名の鹿児島出身の日本人に会った。フランシスコ・ザビエルがロヨラへ送った手紙が残る。「私はこのアンジロウを通じてすべての日本人を想像しますと今迄発見された民族の中で最も研究心の発達したものだと考えます。」

アンジロウ又はヤジロウはおそらく日本で犯罪を犯して亡命し、悔悛しており救いを求めてザビエルを探し当ててマラッカ迄来ていた。罪を悔いておりザビエルを訪ねたがその時不在の為あきらめて船に乗って鹿児島へ戻ろうとしたら船が大時化に会いザブ~ンとマラッカに戻され運よくフランシスコ・ザビエルに謁見ができた。彼の出自や本名などは不明、ザビエルが日本を去った後布教活動から離れ海賊になった、又は仏僧の迫害を受け日本出国を余儀なくされ中国付近で海賊に捕まった等諸説ある。(*以下アンジロウで統一)

フランシスコ・ザビエルはアンジロウと2人のお付きの日本人にゴアの学院でポルトガル語と教理を勉強させ洗礼を授けた。1549年4月15日ゴアを出発し中国船に乗り換えアンジロウの故郷鹿児島を目指す事となった。

ポルトガルのカラヴェル船
By Unknown – Livro das Armadas, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=28565761

 

フランシスコ・ザビエル鹿児島へ

ポルトガル船が種子島についてから6年が経っていた。フランシスコ・ザビエルが鹿児島へ入港したのは1549年、奇遇にも聖母マリア聖天の日8月15日。同行したのはコスメ・デ・トルレス神父、フェルナンデス修道士、アンジロウと2人の日本人、中国人とインド人。

<南蛮寺が描かれた屏風>

南蛮屏風
By attributed to Kano Domi – 不明, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=353058

9月29日薩摩の領主島津貴久に一宇治城(イチウジジョウ)にて謁見が許されポルトガル船の貿易に魅力を感じていた島津は領内での布教の自由を与えた。フランシスコ・ザビエルはアンジロウの助けを借り日本語を学び布教を始めた。

島津家の菩提寺である福昌寺の住職、忍室(ニンジツ)と親しくなり2人は寺の縁側で語り合ったようで誠実なフランシスコ・ザビエルの人柄が重職に伝わったようだ。1年間の鹿児島滞在中に100人の人々に洗礼を授けた。しかし期待したポルトガル船がやってこないので島津は布教を禁止する。

ザビエル都へ、京都へ

鹿児島を出発して平戸へ向かう。大名松浦の家来木村という侍とその家族に洗礼を授けフランシスコ・ザビエルは京へ向かう。木村の孫のセバスティアン木村は日本人最初の司祭となるが1622年に長崎で殉教している。

フランシスコ・ザビエルはその後博多へ渡り大内義隆の領内山口へ渡り一か月滞在。岩国から船で堺へ。貧しい身なりの外国人の旅人をかわいそうに思った堺の商人が豪商「日比谷了慶ヒビヤ・リョウケイ」を紹介してくれた。当時にしては珍しい瓦屋根3階建ての建物に住む富豪で了慶は後にコスメ・デ・トルレス神父やルイス・フロイスの面倒を見、自宅を教会に開放している。その屋敷のすぐ近くに千利休が住んでおり了慶は他の商人達と同じく茶人でもあり千利休とも親しくしていた。了慶は後に自身も洗礼を受けており、利休も洗礼したという説がある。茶室は神聖な場所でミサにふさわしく利用したかもしれない。茶道の帛紗(ふくさ)の使い方とミサの所作が似通っているのは以前から指摘されている。

<千利休>

千利休
By painted by 長谷川等伯, calligraphy by 春屋宗園 – http://www.omotesenke.com/image/04_p_01.jpg , Omotesenke Fushin’an Foundation, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=735711

堺の港は遣明船の発着港で日明貿易で栄えてた。種子島に鉄砲が伝わるとすぐその製造法が堺の商人によってもたらされ堺の経済を発展させていた。ポルトガル商人の窓口は平戸や長崎だったが堺の商人は九州に出向いて絹や生糸と銀を交換した。商人達が自治権を持ち街の周りに堀をめぐらせ武士の侵入を防いだ。有力商人達が会合衆(えごうしゅう)と呼ばれ力を持ち街を治めていた。彼らは茶の湯に集まり情報交換をしたり親交を深めており茶室は重要な場だった。イエズス会は日本の事を良くリサーチして茶の湯や茶室の事も報告されている。

 

フランシスコ・ザビエルは日本の大学として聞いていた比叡山へ行こうと目指す。坂本という比叡山ふもとにある僧侶の街まで行くが比叡山に上る許可はもらえぬまま京都は応仁の乱で荒廃し足利将軍の政権は地に落ちていた。がっかりし鳥羽から堺へ向かう。比叡山をフランシスコ・ザビエルはヨーロッパの大学にあたる場所と考えておりで訪れたいと切望していた。

山口へ

フランシスコ・ザビエルは日本では地方の有力大名にこそ実権があると山口へ向かう。日本人の心理の一面を理解したフランシスコ・ザビエルは「日本人は体裁を重んじ、身なりによって人の品位を定める。身分の高い人物に会うためにはそれなりの身支度と贈呈品を持つのが礼儀」と知り平戸へ戻り衣服を整え時計、鉄砲、楽器、メガネ、洋画を馬の背に積み1550年に山口の城下町へ向かった。

<大内義隆>

大内義隆
By 日本語: 不明(異雪慶珠賛) – The Japanese book “Bōchō no Bijutsu to Bunka (防長の美術と文化)”, Gakushu Kenkyu-sha, 1983, パブリック・ドメイン, Link

大内公は機嫌を良くしフランシスコ・ザビエル達に「大道寺」という寺を提供し領民への布教を許した。(大内家はその後謀反を起こされ1551年に滅びる。)

 

昼夜を問わず訪問客が押し寄せ神の本質、霊魂の事、地獄や煉獄、地球の形状や太陽の運行について質問の質問にフランシスコザビエルは誠実に明快に回答をして行き人々の好奇心を満足させるが改宗者は現れなかった。

 

ある日同行のフェルナンデス修道士が通りすがりの日本人から顔に唾を吐きかけられても怒るでもなく落ち着いて静かに説教を続ける姿を見ていた民衆の中から洗礼を受けようという人物が現れ次第に改宗者が出て来た。

この頃フランシスコ・ザビエルは「神」の事をアンジロウの訳に従って「大日」と呼び真言宗の僧侶から好感を持たれていたが良く調べると「大日」はキリスト教の「神」全知全能の創造主ではない事に気がき「大日」から「デウス」に呼び変え人々は混乱し僧侶たちと争いが起こる。

フランシスコ・ザビエル大分へ

大分港にポルトガル船が着き豊後の大友義鎮(後の大友宗麟)から招待を受けた。1551年当時22歳の大友義鎮はフランシスコ・ザビエルの人格に心を打たれ布教の許可を出したと言われるが戦後時代ポルトガル商人からの鉄砲の火薬の原料が本来の目的ではあるまいか。その30年後に自らも洗礼を受けドン・フランシスコと名乗り理想郷ムジカ(無鹿)を作ろうとする。ムジカはスペイン語で音楽の事。

<大友宗麟>

大友宗麟
By 不明 – 大徳寺塔頭瑞峯院蔵, パブリック・ドメイン, Link

そのポルトガル船にインドからの郵便物が無く宣教師たちを残しフランシスコ・ザビエルはゴアへ戻る。再び日本へ戻って来る予定だったが中国の情報を入手し「日本で布教の成功を手に入れるには中国へ」行こうと渡った上川島(広州)で熱病にかかり1552年に倒れた。ザビエル46歳だった。

遺体はインドへ

上川島で亡くなったフランシスコ・ザビエルの遺体をすぐには運べないので一旦そこに埋葬された。2か月半後に墓を開けてみたら顔も体も腐敗していなく衣服も美しいままだった。マラッカの丘の上の聖母教会へ埋葬。イエズス会の神父がやって来て墓を開けるが遺体はきれいなままだった。フランシスコ・ザビエルの東洋の布教の拠点だったインドのゴアへ移動させ聖パウロ学院に安置、その後1624年にボムジェス教会に移管された。今もザビエルは銀の棺に入れられ10年に一度公開されている。

イエズス会は遺体をローマに移動させたかったが長い船旅に絶えられないだろうと右腕だけをローマへ送った。1622年3月12日カトリック教会によって聖人に列せられ「聖フランシスコ・ザビエル」となる。

フランシスコ・ザビエル後のイエズス会宣教師たち


コスメ・デ・トルレス神父

フランシスコ・ザビエルが去った後はコスメ・デ・トルレス神父が18年間日本に滞在し日本文化を尊重し質素な着物を着て日本人と同じものを食し地道に活躍した。ザビエルの遺志を継いで夢を実現させたのはコスメ・デ・トルレス神父だった。

ルイス・デ・アルメイダ神父

コスメ・デ・トルレス神父に感化されイエズス会に入信したルイス・デ・アルメイダはポルトガル人貿易商人で日本の貿易で巨万の富を手に入れていた。もともと南蛮外科医だったルイス・デ・アルメイダは山口でコスメ・デ・トルレス神父の誠実さに心を動かされ富と名声を捨てイエズス会に入信した。貧しい日本の田舎で子供達が間引きされ河に沈められているのを見て私財を投じ孤児院を建て命を救った。またハンセン病患者の為のホスピタルを作りマカオやゴアから自費で薬を取り寄せ多くの人々の命と心が救われた。これが日本初の病院となる。

ルイス・フロイス司祭

ルイス・フロイスはポルトガル人司祭で戦国時代に日本で信長や秀吉に謁見している。イエズス会からの命令で日本におけるイエズス会の活動を記録する事になる。この記録が「日本史」として今も読むことが出来る統一して第三者から語られた戦国時代の重要な全体像の歴史書となっている。

<ルイス・フロイスの日本史>

ルイスフロイス日本史
wikipedia public domain

 

最後に


フランシスコ・ザビエルは志半ばでこの世を去った。異国の旅で故郷を思い出す事は有ったのだろうか。インドへ出発した後日本に戻る予定だったと言われているが日本を去った後にイエズス会へ送った書簡には日本について書かれたものが無いという。南蛮商人達が日本を良いように搾取していたのは間違いなく、その後スペイン王フェリペ2世がポルトガルを併合し日本も侵略しようとしていたという説が有力だ。フランシスコ・ザビエルは日本の人々に愛着を持ち侵略されないように筆を控えたとも考えられる。ポルトガル人によって日本人が奴隷に売られているのをイエズス会は禁止するように呼びかけていた。

フランシスコ・ザビエルが洗礼した日本人のベルナルド神父がリスボンへ渡りローマでイエズス会へ入信している。おそらく最初にローマを訪れた日本人となる。長旅で病気にかかりポルトガルのコインブラで永眠した。故郷に帰らず遠い異国で屈辱もあっただろう人々の人生に思いを馳せる。

 

 

スペイン旅行クレジットカードとお金事情。プリペイドカードや現金について注意事項。

 

スペインへ行く旅行の準備を始めて心配なのはクレジットカードやお金の事。これは間違いなく最重要事項のひとつで検討が必要。どのくらいクレジットカードが使えるか、どのクレジットカードが便利か、デビッドカードやプリペイドカードは使えるのか、お金はどのくらい現金で持って行くのか、ユーロに替えた方が良いのか、日本円は使えるのか等のスペイン旅行の最新お金事情をまとめました。

 

クレジットカードは必需品


クレジットカードは個人旅行でスペインだけでなくヨーロッパを廻るなら絶対に最低1枚は必要です。ホテルに泊まる場合はデポジットとしてクレジットカードの提示を求められる。ツアーで旅行なら無くても何とかなる場合が殆どですが個人旅行なら出来れば1枚ではなく2~3枚あった方が安心です。スーパーマーケットでもお土産店でも美術館でも殆ど決済はクレジットカードが可能です。少額の場合5ユーロ以上等と指定している店舗もありますが日本よりもクレジットカードやデビットカードが日常的に使われています。今は海外で使えるプリペイドカードなどもあり使い分ければ万が一に備えられる。時々通信関連で原因不明のトラブルで利用不可な事、または盗難にあう事も想定できるので念のためサブカード補助カードやプリペイドカードや別のクレジットカード、デビットカードがあると安心です。

 

 

どのクレジットカードが便利?

スペイン旅行にまず一枚絶対持って行きたいクレジットカードはVISAとMASTER。使えない所が無いと断言してもいいくらい利用できる店舗が多い。AMEXは店舗側の手数料が高いため小さな店等では断れる事もある。JCBは使える店舗は増えては来ているがまだまだ少ないのでサブカードとしてならいいでしょう。という事でメインカードにVISA /MASTERと別に既に持っているならAMEX/JCB等で合計3枚あると安心です。

ICチップは付いていますか?

スペインおよびヨーロッパ旅行ではクレジットカードは絶対にセキュリティーの高さからICチップ付きの物を持って行きましょう。磁気ストライプ式の物は情報を読み取りやすく複製が作りやすい為危険です。ICチップの入ったものは高度な高速暗号化機能が付いている為情報が盗まれにくい。もし現在使っているカードが磁気しかないものならICチップ付きの物に替えて出発しましょう。

 

暗証番号知っていますか?

クレジットカードの暗証番号をご存知ですか?スペインではクレジットカードを利用するたびに暗証番号を入力する必要があります(約15ユーロ以上)。又暗証番号が判れば現金をATMでクレジットすることも可能です。不明な方はは必ずクレジットカードの暗証番号を確認して出発しましょう。出発してから手に入れることはほぼ不可能です。

カード会社の連絡先を控えましょう

盗難にあった時などのクレジットカードの連絡先を控えましょう。クレジットカード自体に連絡先が入っているのでカードの盗難にあうと連絡先が分からなくなります。クレジットカードの16ケタの番号と共に連絡先と金融機関名などを別の紙に控えておきましょう。盗難にあった時のクレジットカード会社との手続きが迅速です。

 

 貴重品は分けて持ちましょう

スペインではスリや盗難に注意しましょう。大切なものは貴重品入れにまとめて持つと思いますが盗難にあうと全ての貴重品とクレジットカード、現金を取られてしまい身動きが取れなくなります。パスポートも携帯電話もクレジットカードも現金も全部盗られたケースも聞いています。危険は分散して分けて持ちましょう。なるべく腹巻型や首掛け型の洋服の中に入れられる貴重品袋を使い財布の中には1枚のクレジットカードといくらかの現金のみにしましょう。

暗証番号を入れる前に金額を確認しましょう

スペインのレストランなどで誤魔化しやぼったくりは聞いたことが無いですが念のため支払いの前に金額を確認、支払った後の控えの値段を確認しましょう。間違って違う金額の請求が入っている事が有ります。ホテルで飲んでいないミニバーの請求や頼んでいないルームサービスが付いていないか確認してから支払いましょう。間違って請求されていた場合キャンセルが可能です。その場で必ず確認してからそこを立ち去りましょう。

クレジットカードが絶対必要な時というのは


ホテルのデポジット

スペインではホテルチェックイン時にデポジット≪支払い保証金≫としてクレジットカード提示を求められます。旅行会社で予約をしてホテル代の支払いが終わっていてもクレジットカードが必要です。チェックアウト時に何もなければ請求は来ないので安心してください。クレジットカードが無い場合は現金で保証金を求められるケースもあります。プリペイドカードやデビットカードも使えますが一旦引き落とされるので注意。

レンタカーを借りるとき

レンタカーを借りるとき等もデポジット≪支払い保証≫としてクレジットカードの提示を求められます。

ネットでの入場予約

スペインの旅行でバルセロナのサグラダファミリア教会やピカソ美術館、グラナダのアルハンブラ宮殿等入場の予約を取った方が良いモニュメントが数多くあります。サッカーの切符や飛行機をネットで予約をしてクレジットカードで支払いをする場合もあると思います。ネットでの購入は全てクレジットカードでの決済になります。

クレジットカードのメリットは


安心です

スペインに限らずヨーロッパは日本よりは盗難や置き引き等の被害にあいやすい。現金は盗難に会えばもうあきらめるしかないがカードの場合は止めることが出来、盗難後に不正に使われた金額はカード会社が保証する。

レートが良い

お金は両替をすればするほど目減りする。日本円をユーロに替えるときに2~3パーセント位の手数料を銀行に支払う事になる。そして残ったユーロを日本円に替える時に又2~3パーセントの手数料を払うのでお金の価値は合計4~5パーセントは減ってしまう。レートの換算が入るので気が付きにくいがなるべくお金は両替しない方が得なのです。(後でレートが円高に振れて増えることは有りますが)クレジットカードの場合カード会社によって異なるが1.6~2パーセントの手数料なので断然お得です。

ATMで現金を引き出す事も可能

現金が足りなくなった場合もクレジットカードならATMでユーロを引き出す事が可能。自分のクレジットカードがどの種類のATMに対応しているのかを調べておきましょう。

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ATMの注意

*クレジットカードの両替手数料と現地のATMの手数料が別途かかります。

*スペインのATMは道路沿いにあり日本の様に銀行の敷地の中に入らずに出金します。お金を出した時に盗難にあわないように注意が必要です。

*カードが機械の飲み込まれる事があります。カードをしばらく機会に差し込んだままにしておくと安全の為(取るのを忘れた場合の為)に機械が飲み込むシステムになっています。その場合は銀行の人に言えば取り出してくれますがセキュリティー関係の人の同行が必要で時間かかかります。又銀行の営業時間外だと別の日に行くことになります。なるべく銀行の営業時間にATMを使いましょう。

 

海外旅行傷害保険付帯のクレジットカードの注意

各クレジットカードが付帯している海外旅行傷害保険が有りますがそれぞれ条件等が違うので出発前に内容を確認しましょう。よく読むと死亡後遺障害のみ負担だったり疾病の入院費用が少なかったり、行きの交通費に使った場合のみの保険付帯だったりと各クレジットカード会社により様々です。ヨーロッパで怪我や病気をして手術や入院、又日本から家族を呼ばなくれば行けなかったり等があると高額な負担になります。内容を良く調べて必要なら別途保険に加入して出発しましょう。

デビットカード


使えます

スペインではデビットカードもクレジットカードと同じくらい普及しています。こちらは限度額ではなく銀行に残高があれば使えるのでクレジットカードと別に一枚あると便利です。VISAや JCBのデビットカードのみが使用可能です。さらにスペインのATMでもキャッシュが引き出せるので便利です。

注意

*日本国内のキャッシュカードのJ-Debitカードは海外では使えないので注意してください。

*ホテルのデポジットにデビットカードを使った場合いったん引き落とされてしまうので銀行残高が少ない場合は注意が必要です。その後予定していたところで使えなくなったりしないよう残高を確認しましょう。

*ATMでユーロを引き出す場合は金融機関によっては手数料がかかります。それと別に為替手数料と現地のATMの手数料がかかりますので注意が必要。各金融機関で確認してください。

*殆どのデビットカードが海外で利用する場合にon-lineで海外利用可に設定したり限度額を入れたりなど設定を変更する必要があります。ネットに繋がれば可能なので利用の前に確認しましょう。

*スペインのATMを使う時の注意は上記クレジットカードと同じです。

国際キャッシュカード


使えます

国際キャッシュカードも日本と同じ感覚でスペインのATMからユーロの現金を出すことが出来便利です。通常使っている各銀行の物はそのままでは使えない事が殆どです。出発前に各銀行で確認しましょう。

*日本の金融機関の手数料と現地のATMの手数料と両方かかります。出金するたびにかかるので少額を何度も出金すると無駄に手数料を払う事になりますので注意。

*スペインのATMを使う時の注意は上記クレジットカードと同じです。

プリペイドカード


事前にプリペイドカードにチャージしておきチャージした金額を限度に現地通貨をATMから引き出せるプリペイドカードです。国内でも利用できVISA が付いているのでショッピングでそのまま利用できます。銀行口座を開設しないで簡単に発行されるので簡単です。コンビニでチャージしてそのままカードを使うように簡単に利用できます。各社それぞれ為替手数料やチャージの規定が違うようです。決まった額をチャージして盗難や紛失の場合は連絡をして止めてもらうので現金より安心です。


両替のレートが銀行よりもお得なのが良いですね。銀行で並んだり紙に書いたり煩わしい手続きも必要ないのがメリットです。

*ホテルのデポジットに使った場合はいったん引き落とされるので残高に注意が必要です。

*ATMで利用する場合は現地のATMの手数料が別途かかります。

 

現金ユーロはいくらいる?


やはり現金は必要

クレジットカードで殆ど対応できるとしてもやはり現金は必要です。乗換空港でお水を買いたい、到着空港からタクシーに乗るけどカードは受け付けないと言われた等があります。また夜にマドリードの空港についたけどATMが壊れていたとか、到着地で両替するつもりが滅茶苦茶レートが悪い等が想定できます。

日本でユーロに替えて来るのが一番

スペインの銀行で円をユーロに両替するより日本でいくらかユーロに替えてきましょう。時間が無い人は出発の日本の空港でも両替できますので日本からユーロを用意してきましょう。日本円は一番強いのは日本です。日本で両替するのがヨーロッパについてからよりもレートが良いです。

日本円は使えるの?

殆ど使えません。観光地等で時々使えるところがあってもレートが悪いケースが多いので確認してから使いましょう。ツアーで行程中に行くような場合はレートが銀行並みに良い所もあるので確認して使いましょう。街のレストランやバル一般商店では基本使えません。

 

スペインで両替の場合の注意

それでも仕方なくスペインに着いてから両替する場合は街にある両替商CAMBIO/CHANGE等と表示があるところはレートが大変悪いので銀行へ行きましょう。銀行で両替の時はパスポート等身分証明書の提示を求められます。仕方なく少額を両替する場合はホテルで替えた方が手数料を考えるとレートが良い場合もありますし時間も節約になります。

いくら必要

基本クレジットカードを使いホテルなどは先に支払ったとしてそれ以外に現金が必要なのはバルでの少額の食事やチップ、タクシー(クレジットカードが使えるタクシーもある)バスに乗ったりアイスクリームを食べたり等。又はATMの使い方がわからないや時間が無いけどとにかく今現金が必要な事も有ります。

物価の目安と想定額

食事はお昼の定食で10ユーロから18ユーロ。バルでビール一杯1.5ユーロ、バルで軽食を食べて15ユーロ。個人差がかなりあるとしても高級店での夕食はクレジットカードを使うとすれば1日例えば30~50ユーロx 滞在日数と少し予備費でいかがでしょう。

*10日間の旅行で300~500ユーロの現金があれば後はクレジットカードで大丈夫ではと思います。(これは個人差のある事なのであくまでも参考までに。)

*少額紙幣を用意しましょう。銀行で500ユーロを全部100ユーロ紙幣とか200ユーロ紙幣で用意すると使えない時があります。特にスペインの空港に夜到着しバスに載る場合やお水を買うのに100ユーロは取って貰えない事があります。

*現金は盗難にあうと保証が有りません。カバンの中には必要金額をいれ大きな金額は腹巻や体の中に入れるタイプの貴重品袋を使いましょう。

*大切なものを全部一か所で持ちとられてしまうケースがあります。危険は分散してクレジットカード全部とパスポートまとめて盗難にあわないよう分けて持ちましょう。

スペインの治安、スリの手口等の記事です

スペインに旅行する方は目を通してください。スリや置き引きに気をつければ全く治安は心配ありません。

スペインの治安は?盗難やスリの手口、本当にあったケースを紹介。スペイン旅行事情

マドリードのセバダ市場のバル(メルカード・ラ・セバダ)魚屋のバルと市場の中は新しい食事スポット

 

メルカード・ラ・セバダ(セバダ市場)はマドリード旧市街のラ・ラティーナに位置する古い市場でソル広場やマヨール広場から歩いてすぐの所にある。日曜日はラストロ(蚤の市)もあり劇場や市場があるディープな地区だ。メルカード・ラ・セバダ(セバダ市場)はもともと16世紀に穀物を集めた市が立ったところに19世紀に鉄の建物が作られ現在でも広さはマドリードの市場で一番大きい。このところの郊外型のショッピングセンターとグロバリゼーションですっかり忘れ去られた存在でシャッターが下りている店舗も目立っていた。セバダ市場の中のある魚屋が土曜日にバルを始めたら次第に口コミで人気が出て他の店も土曜の午後にも仕事をやり始めた。今は毎週土曜日の11時から17時と第一日曜日の11時から17時まで。(注意*第一日曜日が復活祭等連休に重なる時は次の週になったり不定休な時も。)

 

 

セバダ市場=メルカード・ラ・セバダ

メルカード・ラ・セバダ(セバダ市場)はマドリード中心部にある今も普通の生鮮食料品を扱う市場。マヨール広場からだとほんの950メートル、10分ほど下り坂を下りたところだ。平日は今も主婦や主夫たちがお買い物をしている。今もスペインの市場の中にはバルやレストランが入っていて買い物途中の人がお茶を飲んだり市場の新鮮な食材で作ったランチを食べるのは昔から行われていた。

<メルカード・ラ・セバダ、セバダ市場外観>

セバダ市場
筆者撮影

しかし郊外型の大型ショッピングセンターやスーパーマーケットが多くでき、さらに若者はこの地区にあまり住んでいなく高齢化が進んでいた。市場の店主も高齢化し後継者がいないままシャッターが下りたままの状態の店舗が増えていた。

<メルカード・ラ・セバダ。セバダ市場内部>

セバダ市場
筆者撮影

そんな中法律の改正もあり生鮮食料品店でも飲食が出来るようになり酒類(一部除く)の提供が可能になった。そこで若い魚屋の店主が土曜日に魚貝のつまみとワインやビールの小さなバルを始めたのが2015年頃。

<メルカード・ラ・セバダ、セバダ市場魚屋>

セバダ市場
筆者撮影

次第に口コミで人気が出て今はかなり混みあっている。新鮮で安いのが魅力だ。これとかあれと指させばいいので言葉の問題も無い。キッチンは無いので茹でるかセビチェの様に準備されたものだけになる。嬉しいのは地元のお客さんが多いのと働いている人も地元のスペイン人たちで観光客に辟易していなく対応が良いので気分が良い。

<メルカード・ラ・セバダ、セバダ市場魚屋>

セバダ市場
筆者撮影

私たちはまずマテ貝を頼んでみることにした。マテ貝はスペイン語でナバハス。砂抜きがちゃんとできていて茹でた後アリオリソースをかけてくれた。新鮮でおいしい。

<マテ貝、ナバハス>

セバダ市場
筆者撮影

満足したので追加に何しようか…と悩んでタコのガリシア風にします。タコはスペイン語でプルポ。今スペインのタコは値段が上がっていてガリシアもマドリードも値段は変わらないし高くなった。スペイン沖ではあまりとれなくなっていてモロッコ産が増えている。タコの味がスペイン産かモロッコ産かわかる程の通ではないので安くておいしければ満足だ。この分量だとレストランで今18ユーロはするのがセバダ市場で10ユーロ、これは即決いただこう。

白ワインはルエダ(カスティーリア・レオン)にする?アルバリーニョ(ガリシア)にする?と聞いてくれた。どちらも魚介類に持ってこいのさっぱり系です。私はルエダが好きなので「キエロ、ドス、コパス、デ、ルエダ、ポルファ」ワインの値段はたぶん一杯1ユーロ。

<タコのガリシア風、プルポ・ア・ラ・ガジェガ>

セバダ市場
筆者撮影

ちょっと満足したので色々他も見てみよう。魚屋が成功して人が来るようになったので他の店も土曜日の午後は休んでいたのがタパスや軽食を始めるようになったらしい。カウンターがあるところは元から市場内のバルとして営業していたところ。

<メルカード・ラ・セバダ、セバダ市場内部>

セバダ市場
筆者撮影

<セバダ市場内部>

セバダ市場
筆者撮影

寿司屋があった。最近どこにでもあるけどね。ブラジル人オーナーで日本に行ったことは無いが日本食店で修業して来たらしい。寿司とラーメンがあって配達もします。今回は試していないので何とも。また今度きますと言って別れて来た。

<セバダ市場、すし屋>

セバダ市場
筆者撮影

ハンバーガー屋は大きなビールを楽しんでいる北方系のヨーロッパ人が楽しそうに頬張っていました。

<セバダ市場、バル>

セバダ市場
筆者撮影

古本屋はゆっくり見たいけど今日はもうワイン飲んだので無理。面白い本が見つかる事が有るのですが。おじさんが真剣に何かを探していた。

<セバダ市場、本屋>

セバダ市場
筆者撮影

ビノテカ(ワインショップ)はかなり混んでいる。各地のワインが楽しめそうです。ここは平日もやっていた記憶がある。夫があまり飲めないので今日は残念ながら見るだけ。

<セバダ市場、ビノテカ>

セバダ市場
筆者撮影

他にもいろいろピンチョやタパス等があり一回りしたら楽しめる。

<セバダ市場、バルのピンチョ>

セバダ市場
筆者撮影

なんといってもサン・ミゲール市場(マヨール広場横)の様に混んでいないしお店の人が感じが良い。まだこれから頑張る人達のエネルギーに満ちている。

私たちは次は何をいただくか散々迷ってここにしようか・・・・。ここは平日もやっているバル・レストラン。手書きの看板も気に入ってカウンターに座ってみた。

<セバダ市場、バル・レストラン>

セバダ市場
筆者撮影

カウンターの中のセニョールはさっきから大鍋でパエリアを作ったりお皿を洗ったり忙しそうだ。振り向いてくれるだろうか(スペインではお客様が威張ってお店の人を呼びつける事はご法度です。気が付いてくれるのを遠慮深く待ちます)。カウンターでは市場の他の店からコーヒーやリキュール飲みに人がひっきりなしにやって来る。地元の人が来る店は基本美味しいに違いない。ここに決めた!。

<セバダ市場、バル・レストラン>

セバダ市場
筆者撮影

中の大きなセニョール怖そうだけど、初めてのお客でアジア人ですが振り返ってくれるでしょうか・・・と、そんな心配は必要なくすぐに「何する?」と聞いてくれた。グラスの赤ワインとエントレコット(牛肉)を注文。焼き具合も聞いてくれジュウジュウと目の前で焼いてもらいシェアーしました。平日は定食もやっているそうです。

<セバダ市場、エントレコット>

セバダ市場
、 筆者撮影

つまみも出してくれました。ラッキーにもセニョールがさっき作っていたパエリアが出来上がった。ウン、美味しかったです。店主はぶっきらぼうで愛想も何もないけどスペイン人らしい「良い人感」満載でした。マドリードの人に良くある媚びていなくて相手のリアクションは全く気にしていないけど実は優しい善良なおじさん。慣れるまでビビるけど解ってきたらこれは大変居心地いい「ほっといてくれる感」。

<セバダ市場、バルのつまみ>

セバダ市場
筆者撮影
場所

*メトロ*5番線ラ・ラティーナ下車すぐ。。メトロを降りたらすぐ見えますがわからなければ「メルカード・ラ・セバダ?」と地元っぽい人に尋ねてください。誰でも知っている昔からある市場です。

*又はマヨール広場やソル広場から徒歩で10分とか15分です。

メルカード・ラ・セバダ=セバダ市場営業時間

市場自体は平日の9時から14時、お昼休みをはさんで17時30分から20時30分、土曜日9時から18時。通常やっているバルやレストランはこの時間帯で営業。

*魚屋のバルが出るのは土曜日11時から17時30分と第一日曜日(復活祭の日曜日などは翌週に変更になる)メルカード・ラ・セバダ(セバダ市場)の公式ホームページはまだ準備中の様です。

 

 

キリスト教のミニ知識、復活祭(セマナ・サンタ)と移動祝祭日そして旧約聖書の関係

 

キリスト教のミニ知識としてスペインの復活祭(セマナ・サンタ)、そして旧約聖書と復活祭の関係を紹介します。キリスト教の最も重要な行事のひとつ「復活祭」はスペイン語では「セマナ・サンタ」、「聖なる週間」という意味で英語では「イースター」。「セマナ・サンタ=復活祭」は毎年変わる移動祝祭日。十字架に掛けられたイエス・キリストの復活を記念する日でクリスマスと並んで一年間で最も重要な行事となる。カトリックの国スペインでは1年間の祝祭日はキリスト教の宗教行事で埋められている。スペインの復活祭は受難の苦しみを追体験する荘厳で厳粛な宗教行事となる。

この期間は学校もお休みになり(お休みの期間や曜日は各州によって様々)金曜日は全国祝日になる。ヨーロッパの人々が一斉に旅行をするのでホテルなども取りにくくなり値段も上がる。商店等はお休みになるが各町で山車が出たり教会に通う人々を見るものスペインの一面を知る良い体験になると思う。復活祭の歴史や行事についてまとめました。

復活祭=セマナ・サンタ


移動祝祭日とは

キリスト教の祝日にはクリスマス等固定されたものと移動する祭日がある。復活祭(セマナ・サンタ)やカーニバル、ペンテ・コスタは毎年移動する移動祝祭日。中心になるのは春分の日の後にやって来る最初の満月の日その後にやって来る最初の日曜日が復活の日曜日(スペイン語でドミンゴ・デ・レスレシオン)となりすべての移動祝祭日はこの復活の日曜日を中心に決定される。これはAD325年ニケーア公会議で決められた。キリスト教がローマ帝国で公認されたのがAD311年なのでその直後。しかし当時使われていた暦はユリウス暦で1年が365.25日、1000年以上もたつと実際の天の運行との誤差が大きくなり教会の大問題になった。ローマ法王グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ1582年10月15日にきめたのがグレゴリウス暦。4年に1度の閏年を取り入れ春分の日を3月21日と制定した。(東方教会はユリウス暦で計算するため西方教会とは日付が違います。)

元になったのはユダヤ教の「過ぎ越し祭」

イエス・キリストはユダヤ人でその弟子たちもユダヤ人。彼らの重要なお祭りに「過ぎ越しの祭り」がある。旧約聖書の中に様々な長い物語が書かれているが「出エジプト記」という長いお話がある。イスラエルの民はエジプトで奴隷になって神殿建築などに使われていたがモーゼが登場し彼らをエジプトから連れて逃げた話だ(BC1500年頃)。その長いお話の中にユダヤ人たちが「災いが過ぎ越され救われたた話」が出てくる。それを祝うのが「過ぎ越しの祭り」でユダヤ人たちは今もこの祭りの初日に食事会をする。イエス・キリストの最後の晩餐も過ぎ越しの食事会だった。

<最後の晩餐、レオナルド・ダ・ビンチ1495-98年>

レオナルドダビンチ、最後の晩餐
By レオナルド・ダ・ヴィンチ – 不明, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=24759

この祭りの事をヘブル語で「ペサハ」という。初代教会の頃はギリシャ語で「パスカ」と呼んだそう。今でもスペイン語で復活祭をパスクアPascuaという。

旧約聖書

聖書は旧約聖書と新約聖書あわせて全66巻、その39巻は旧約聖書で占められている。ユダヤ教徒にとっては旧約聖書のみが唯一の聖典となる。キリスト教徒は旧約と新約を聖典として使い、実はイスラム教徒も旧約聖書の一部を啓典としている。旧約聖書の内容は天地創造から始まりイエス・キリストが生まれる400年程前までのイスラエルの歴史が書かれている。旧約聖書がまとまったものとして書かれたのは紀元前5世紀から紀元前4隻頃のペルシアの支配下にあったと言われており次第に文書が付け加えらていった。

<グーテンベルグの印刷した旧約聖書>

グーテンベルグの旧約聖書
public domain wikipedia

創世記に出てくるイスラエルの族長アブラハムの息子がイサク、その子がヤコブ、その子がヨセフだった(全部長いお話なのでここでは省略)。ヤコブの子ヨセフは出来が良すぎて兄弟達に妬まれ嫌われ穴に落とされた、ヨセフを見つけたエジプト人商人に連れていかれエジプトで奴隷に売られた。その時のエジプトのファラオ(エジプトの王)は奇妙な夢を毎日見るのに悩まされていた。「よく肥えた7頭の牛が河から上がって来て草を食べていると、別の7頭の痩せた牛が河から上がって来て肥えた牛を襲い食い尽くす・・・」。

ヨセフは夢判断が出来るという噂を聞いたファラオが「この夢を解いてみよ」とヨセフに聞くと「7年の豊作の後に7年の凶作がやって来る」ヨセフはファラオに「豊作の7年間に作物を蓄え次の凶作の7年に蓄えるべきです」助言をした。そしてファラオはヨセフにその対策を依頼し、予言通り7年の豊作の間に蓄えた食料が後の7年の凶作の時に役に立ちエジプトは栄えた。ファラオはヨセフに感謝し取り立てられエジプトの宰相に出世しヨセフの子孫すなわちイスラエル人たちがエジプトに栄えた。

<エジプトのファラオとヨセフ>

ヨセフ、エジプトのファラオに迎えられる
De James Tissothttp://thejewishmuseum.org/collection/26324-joseph-and-his-brethren-welcomed-by-pharaoh, Dominio público, Enlace
モーゼの出エジプト

時代は変わりファラオも変わり人は忘れる、特にやって貰ったことは忘れやすいのはエジプト人も同じだった。エジプトで暮らすイスラエル人たちは人口が増え地元の人とは別の独特の社会を築いていた、そしてその閉鎖性と独自性が嫌われエジプトで神殿建設などの労働者として使われていた。イスラエル人たちの抵抗が大きいのでファラオがイスラエル人の生まれたばかりの男子を殺す命令を出した。モーゼが生まれたのはこんな頃だったが母がこっそりモーゼを飼い葉おけに乗せてナイル川に流しそれを見つけたファラオの娘に育てられた。

<3世紀シナゴグの壁画、モーゼがナイル川から拾われる所>

モーゼがナイル川から拾われる壁画
By 不明 – https://classconnection.s3.amazonaws.com/718/flashcards/968718/png/untitled251354209928127.png, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1352339

大人になったモーゼは神の啓示を受けイスラエルの民をエジプトから連れて逃げる予言を受けた。神がモーゼを指導者と決め約束の地へ向かわせようとするがファラオがこれを妨害しようとする、神は怒りエジプトに10の災いを下す事にした。その10番目に神はモーゼに言った「子羊の血を家の鴨居に塗りその肉を焼いて食べよ。酵母を入れないパンを食べよ。私は夜エジプトへ行き人であれ家畜であれすべての長子を殺すが鴨居に子羊の血が塗られた家は過ぎ越す」予言通りに子羊の血を塗ったイスラエル人達の家はこの禍は過ぎ去った。これが過ぎ越しの祭りの由来。

ローマ帝国

時は経ちローマ帝国が次第に支配を広げ今のイスラエルもローマ帝国支配下になった。イエス・キリストが生まれたのはその時代。ローマ帝国の中で迫害を受けながらもキリスト教は広まって行った。ローマ帝国で弾圧を受け禁止されていたキリスト教が公認されるのがコンスタンティヌス帝の時代の紀元後311年ミラノ勅令、その後ローマの国教となるのが紀元後380年。

広大なローマ帝国とその周辺国に大きく広がったため復活祭を祝う日付がバラバラになった。これを是正するためにカトリック教会の代表が集まって開いた会議がニケーア公会議だった。ユリウス暦ではズレが生じるのをグレゴリオ13世ローマ法王の時に是正した話は上に書いた通り。

復活祭の様々な行事

カーニバル

日本語では謝肉祭と呼ばれるカーニバル、リオ・デ・ジャネイロやベネチアが有名ですが実はただのお祭りではなくキリスト教の宗教行事で復活祭の一環。復活祭の前に日々の生活全般を慎み心身を清めお肉を断つ40日間=四旬節(クアレスマ)という期間がある。その前に最後にいっぱい食べて飲んで踊って楽しみましょうというのがカーニバル。

キリスト教がローマ帝国で広がって行く中で色々な事をローマの習慣と同化させていった。ローマ人たちのお祭りや習慣がキリスト教に取り入れられすり合わせた行った中サトゥルナーリアというお祭りと結びついたと言われている。サトゥルヌスは農耕の神様、毎年の豊作をサトゥルヌスに祈り仮装をして宴会をした祭りサトゥルナーリアとカーニバルが結びついた。語源はラテン語のカルネム・レバーレ、肉を取り除くという意味。

基準は復活祭の日曜日。そこから46日(40日間と日曜日6回)戻った水曜日が「灰の水曜日」でカーニバルの最後の日になる。「灰の水曜日」と言う名は前年の棕櫚の枝を燃やした灰を額に十字架のしるしを付け罪の償いをした事からくる。

「灰の水曜日」にスペインでは各町でイワシの埋葬が行われる。質素な食事の象徴イワシを埋葬する事でこれからの日々の貧しい食事を呼び起こす。マドリードでは毎年ゴヤのお墓になっている教会サンアントニオ・デ・ラ・フロリダ教会からイワシの埋葬の行列が行われる。

<ゴヤ、イワシの埋葬、フェルナンド美術アカデミー>

ゴヤ、イワシの埋葬
De Francisco de Goya – Mirar abajo., Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=18394275

 

 

枝の主日(棕櫚の主日)

復活祭の一週間前の日曜日を枝の主日と呼ぶ。スペイン語ではドミンゴ・デ・ラモス。イエス・キリストが受難の前エルサレムに入城した日、群衆がナツメヤシ(棕櫚)の枝を道に敷き、または手に持って迎えたことを記念する。スペインやイタリアではオリーブを使う事も多い。棕櫚は復活のシンボル、オリーブは勝利の象徴。

<イエス・キリストのエルサレム入場、ジオット1304年>

キリストのエルサレム入場
De Giotto – Web Gallery of Art:   Image  Info about artwork, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15884092

この日に各教会前に棕櫚やオリーブが準備されそれを持ってミサを受ける。祝福された棕櫚を1年間自宅に飾っておくのは神社の御札のようなものだと私は思っている。

<飾りになっている棕櫚の葉>

棕櫚の日曜
筆者撮影
聖木曜日

復活祭直前の木曜日を聖木曜日と呼ぶ。スペイン語では「フエベス・サントJueves santo」。最後の晩餐の日でイエス・キリストが裏切られ捕まった日に当たる。復活祭前の一週間は特別な時期でその中でも聖木曜日からの三日間は特別な典礼やミサが行われる。プロセシオン(山車の行列)はスペイン中の街の教会から出るが特にこの日はセビージャのいくつかの教会からの夜中から朝まで出る「マドゥルガッMadurgad」は壮観。満月の下2000人以上の信徒会が眼だけ出た三角棒で静かに行列を歩いているのを見ると魂ごと持ち去られそうになる。

スペイン復活祭
筆者撮影

 

聖金曜日

金曜日はイエス・キリストが十字架にあった日でカトリックの信者の人々は軽い断食をする。この日は一年で教会で唯一教会でミサが行われない日である。この日も大きな山車の行列がスペイン中の教会から出る。

<マドリード、メディナセリ教会のキリスト像>

マドリード、メディナセリ
筆者撮影
復活の日曜日

前日の土曜日の夜中に教会では復活のミサが行われる。ユダヤ教では日没が一日の終わりで始まりだったので復活も土曜日の夜中に行われたと考えられている。夜中というのに教会には多くの人々がミサに参加している。

まとめ

ミサが行われ山車が出、それを見に行くスペイン人は子供にいたるまで正装に近い服装。重い山車を担ぐスペイン人は長い時間の重労働が大変な名誉で終わった後の感動は言葉では表せない程だという。年によっては雨で催行されない事もあり、大人達がワンワン泣いているのがニュースで放映される。スペイン人の中にあるこの感情は日本語に訳すのは不可能だと思う言葉でDevocion/fe/creyente,等は一応訳語になっている「信仰」とか「奉仕」というのとは次元が違う「絶対かなわない大きな存在に対するひれ伏すほどの巨大な感覚」なのだと思う。スペインに住んでいると、ものすごく大きな愛情に宗教とか信仰とかでは計り知れない深い物を感じることが有り、そのひとつが私にとってはセマナ・サンタ、復活祭です。

宗教画を楽しむ。絵画で読み説く新約聖書、クリスマスの物語・キリストの誕生と無原罪の御宿り

 

サンタ・マリア・デ・グアダルーペ、全スペイン語圏の守護聖母黒いマリアの街は世界遺産

 

グアダルーペの正式名称はサンタ・マリア・デグアダルーペ、ポルトガルと国境を接するエストレマドゥーラ州はスペインの西部地域。広大な高原地帯に樫林が続く雄大な景色の中動物たちが放牧されている。のどかな風景に突然現れる巨大な建物がグアダルーペの修道院だ。小さな街には大きすぎる修道院で全スペイン語圏の守護聖母マリアが今も信仰の対象となっている。日本からの天正遣欧使節団も滞在したカトリック信仰上重要な街がグアダルーペ。スペインの魅力は各地域の独特の景色や田舎の小さな素朴な街にある。エストレマドゥーラは地味ながら綺麗な小さな街が沢山残る。サンタ・マリア・デ・グアダルーペを紹介します。

 

サンタ・マリア・デ・グアダルーペ


エストレマドゥーラ州、カセレス県、人口2500人、標高640メートル。マドリードから250キロ。近くにカサレスやトゥルヒージョ、プラセンシア等綺麗な小さな街がある。グアダルーペの街の名前はアラビア語で隠れた河。グアダルーペの街の名前は正式にはサンタ・マリア・デ・グアダルーペ。メキシコにも聖母の出現があったグアダルーペ寺院がある。

 

伝説
グアダルーペ
筆者撮影

ヒル・コルデロという名の牛飼いが大切な牛が1頭足りない事に気が付いた。深い森の中を何日も探していると樫の木の下に既に息絶えた牛が横たわっていた。せめて皮でも取って帰ろうと羊飼いはナイフを取り出し牛の胸に十字の切れ目を入れた。すると牛が突如生き返り立ち上がった。驚く羊飼いの前に今度は聖母マリアが現れ「怖れるな。我は神の母。村に戻り村人に告げこの場所を掘らせなさい。」牛飼いは言われた通り村に戻り疑う村人を連れ聖母の現れたところへ戻った。村人たちを連れてその場所を掘るとそこに美しい聖母の像が現れた。羊飼いと村人はそこに石を積み上げて小さな祠を作った。それがグアダルーペの修道院の始まりとなる。

 

黒いマリア
グアダルーペ黒いマリア様
筆者撮影

肌が茶色いマリアは実はいくつも存在しその起源をケルト信仰と結び付ける説もある。又は聖書外典に聖母が「私は褐色、そして美しい」で始まる詩編がある事などから肌が茶色いマリアが有るとされる。カタルーニャにあるモンセラ修道院やマドリードのアルムデナ大聖堂のマリア像も褐色、テネリフェやサラマンカ県のカボコのマリア像等褐色のマリアは他にも存在するがグアダルーペのマリア像は黒い。グアダルーペのマリア像がいつ誰の手で作られたかは定かではない。一説によると聖ルカが彫りセビージャの大司教へ贈ったという。8世紀スペインにイスラム教徒が来た時に教会の僧侶たちが大切なものを異教徒から守るために山奥の洞穴や土の中に隠した。もちろんその中にマリア像があった。時は流れ長い年月の間に忘れ去られ牛飼いに発見された。発見の話は忽ち人々の間で広まり国王の耳に入った。1340年噂を聞いたカスティージャの国王アルフォンソ11世がグアダルーペのマリアに祈るとその直後のサラードの戦いでイスラム教徒を撃破。感謝の祈りをささげここに壮大な修道院を築くことになる。それ以来歴代の国王に崇拝されるマリアとなり対イスラムの守護聖母として信仰され民衆にあがめられることとなる。

グアダルーペ
筆者撮影

15世紀から17世紀には巡礼地となり最後のイスラム王国グラナダを陥落させたスペインの絶対的な信仰の対象となる。コロンブスも大航海の前にグアダルーペのマリアに加護を祈り到着したカリブ諸島のひとつにグアダルーペと名付け新大陸でのキリスト教化の象徴ともなった。新大陸から連れてこられたインディオ達は修道院の前のサンタマリア広場の噴水で最初の洗礼を受け、旅の無事を感謝したコロンブスはグアダルーペに巡礼をした。サンティアゴ・デ・コンポステーラの聖ヤコブやサラゴサの柱のマリアと同等のスペインのレコンキスタの象徴。

修道院には医学学校や病院、図書館、学校等が併設され学問の分野でもスペイン中に知れ渡っていた。その図書館だった建物が現在はパラドールになっている。

衰退

18世紀になりスペイン帝国の衰退とともにグアダルーペ修道院も衰退を始める。19世紀にはナポレオン率いるフランス軍がスペインに入って来た時グアダルーペの修道院も略奪に逢い大半の財宝は失われた。

フランシスコ会による再建

廃墟化したグアダルーペ修道院を再建したのはフランシスコ会の修道士たちだった。1908年彼らはここに住み修復を始める。今も10人のフランシスコ会の修道士が生活している。

教会

14世紀の修道院創設の時からある教会。主祭壇の中央に聖母マリアが祭られている。18世紀に内部は手が加えられた。教会だけなら無料で入れる。

修道院見学

見学は40人位の人数が集まってから修道院のガイドが各部屋の鍵を開けたり閉めたり誘導しながら約1時間ほどで見学、スペイン語のみ。中庭のみ写真撮影可能。参事会室に108冊の聖歌本、一冊の重さは48キロ~50キロでヒラトリオというぐるりと回る台に載せてゆっくり動かしながら聖歌をうたった。旧食堂には司祭服の展示、中のひとつはイサベル女王の時代の物。絵画彫刻展示室にはペドロ・デ・メーナののエッコホモ像、象牙のキリスト像、ゴヤの小作品で「獄中の懺悔」、スルバランやエルグレコ等素晴らしいコレクションが展示されている。聖具室にはスルバランの聖ヒエロニムスの生涯や修道士たちを描いた11点。最後に階段を登って行くとカマリンという小さな部屋へ。修道士の説明で壁のルーカジョルダノの絵画や周りの旧約聖書の勇敢な女性達の彫刻の話の後奥の部屋の扉があく。グアダルーペのマリア像がくるりと回り聖母の祈りが始まる。信者の皆さんは銀製のマリア像にキスをするが遠慮しても大丈夫。

内部は写真不可、中庭のみ写真可。

グアダルーペ修道院
筆者撮影

宿泊

街にはオスタルや簡易の宿泊施設が沢山あるのでお祭りの時でなければ着いてから探してもいくらでもありそう。

グアダルーペのパラドール

修道院から坂道を上ったところにあるパラドールは14世紀頃は学問の中心だった。15世紀に巡礼者の病院として使われていた建物。

グアダルーペのパラドール
筆者撮影

内部は綺麗に改装されていて快適。スタンダードのダブルルーム。

グアダルーペのパラドール
筆者撮影
グアダルーペのパラドール
筆者撮影

バスルームは大理石で広々していた。

グアダルーペのパラドール
筆者撮影

お庭に向かってテラスが付いていたのでビールで乾杯

カーテンも素朴な模様で部屋のムードとよくあっている。

グアダルーペのパラドール
筆者撮影

お部屋にはグアダルーペのマリアのセラミック

グアダルーペのパラドール
筆者撮影

 

回廊は修道院のようなムード

グアダルーペのパラドール
筆者撮影

お庭もあって夏の夜は外のお食事が素敵です

グアダルーペのパラドール
筆者撮影

私たちが泊まった日はギターの演奏があってテラスから楽しめた。

グアダルーペのパラドール
筆者撮影
オスペデリア・デ・モナステリオ

修道院の一部が2つ星のホテルになっている。今回は私たちはパラドールに泊まったが見に行ったらとっても親切に案内してくれた。2つ星なので躊躇したがパラドールと遜色ないように見えたので次回はこちらに泊まってみたい。値段がパラドールより3割ほど安いのでお買い得だと思う。

グアダルーペ、オスペデリア
筆者撮影

オスペデリア共有部分。

グアダルーペのオスペデリア
筆者撮影

寝室は質素だが綺麗でお部屋も充分広い

グアダルーペのオスペデリア
筆者撮影

バスルームもバスタブ付き

グアダルーペのオスペデリア
筆者撮影

大きなバンケット会場は結婚式やパーティに使える。

グアダルーペのオスペデリア
筆者撮影

バンケット会場にかかるタペストリー。タラベラ焼きの壺なのか綺麗な焼き物が並ぶ大きなタペストリーはいつの時代の物なんだろう。

グアダルーペのオスペデリア
筆者撮影

壁にグアダルーペのマリアのセラミックがかかっている。

グアダルーペのオスペデリア
筆者撮影

行き方

マドリードの南バスターミナル(estacion sur de autobus)から毎日朝8時と午後15時の2回。運行スケジュールは変更が有るので必ず確認してください。

 

 

ムリーリョ(バルトロメオ・エステバン・ムリーリョ)プラド美術館17世紀黄金世紀の巨匠たち

 

ムリーリョ(バルトロメ・エステバン・ムリーリョ)は17世紀・黄金世紀に南スペインのセビージャで活躍した画家。当時のセビージャは新大陸からの大きな船が出入りし人があふれる賑やかな街だった。半面そこには貧富の差や一攫千金を狙った野望が入り混じる荒れた時代でもあった。ムリーリョが愛情を持って描いた貧しい少年達にその時代の片鱗が感じ取れる。スペイン全体で対抗宗教改革が始まり教会が内部から浄化を始めた頃多くの修道院が作られ壁面を飾るための聖人や聖母マリアの絵画を大量に必要とした時代に活躍した画家がムリーリョだった。ペストの流行や緩やかに没落していくスペインでムリーリョの甘美な聖母マリアは人々のすさんだ心に響いたに違いない。

ムリーリョ生誕400年祭で2018年から2019年にかけてセビージャで様々なイベントが行われています。

バルトロメオ・エステバン・ムリーリョ

1618年(1617年)ー1682年

*誕生は1617年末。公式の記録として残るのは1618年の1月1日の洗礼


セビージャで誕生

ムリーリョはセビージャの街で生まれた生粋のセビージャーノ(セビリアっ子)。父親は理髪師兼外科医(当時理髪師が外科医というのは普通にあった)、母親は金銀細工師および画家の家系で芸術に関わっていた血筋なのが判っている。ムリーリョという苗字は母方の名前でアンダルシアでは母方の苗字を名乗る習慣があった。解っている最初の公式資料はセビージャのマグダレナ教会で1618年1月1日に洗礼を受けているので実際に生まれたのは1617年の終わり。14人兄弟の末っ子で生まれ、子供の頃の家庭は裕福だった。ところが9歳の時に父と母を続けて亡くし結婚していた姉に引き取られるが13歳で母方の親戚の画家ファン・デ・カスティージョの工房に入っている。1633年(15歳)に中米への移民を考えたようで書類に署名していたことが判っている。ムリーリョについて初期の作品や若い頃の事はわかっていないが新大陸への作品を描いていたようだ。

ムリーリョ初期

<聖母とラウテリオ修道士とアッシジの聖フランシスコとアキーノの聖トマス、1638-40年、英ケンブリッジ、フィッツ美術館>

ムリーリョ
De Bartolomé Esteban Murillo – www.fitzmuseum.cam.ac.uk, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9649001

(上)解っている中でおそらく最も初期の作品のひとつ。聖母マリアが修道士フランシスコ・ラウテリオの為神学の教えを伝えに降りて来た奇跡の場面。ムリーリョがまだ20歳から22歳頃の作品。同時に描いた聖母の奇跡「聖母が聖ドミンゴにロザリオをもたらす奇跡」がセビージャの大司教館に現存する。

 

1645年27歳の時に5歳年下のベアトリス・カブレラと結婚した頃から本格的な創作活動に入るが作品は数点しか現存していない。ムリーリョの絵に登場するマリアは殆どが妻になったベアトリスだった。

<蚤を取る少年、1645-50年、ルーブル美術館>

ムリーリョ、ノミを取る少年
From Wikimedia Commons, the free media repository publci domain

(上)ムリーリョは聖母マリア等の美しい宗教画が有名だが現実の人々も描いている。当時の北方で好まれた庶民の日常を外国人からの注文で描いたものだと思われる。光の扱いがカラバッジオの影響のテネブリズムが使われている。手前の壺や篭とリンゴなどに丁寧なボデゴン(スペインの静物画)が描かれている。画家本人も子供のころに孤児になりセビージャの街には日常にこういう風景があふれていたに違いない。無心に蚤を取る少年の足の裏の泥や今食べていたエビの殻までが現実的で愛着を感じる。

1649年からペストの蔓延で多くの犠牲者を出したセビージャは新大陸の航海も不振になり多くの人口を抱えるが仕事も無く貧しい子供達であふれていた。ムリーリョの優しい作品は人々の心を癒したに違いない。

 

<小鳥のいる聖家族、1650年以前、プラド美術館>

ムリーリョ

Sagrada Familia del pajarito
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)聖家族(聖母マリアと聖ヨセフと幼子キリスト)という宗教的なテーマの中に暖かい日常を感じる作品。キリスト教宗教画で聖ヨセフは端の方や後ろなど遠慮がちに描かれることが多いがこの作品では中央にどっしりと大きく暖かい父親として描かれている。16世紀の終わりから聖ヨセフの扱いは少し良くなってきた(それ以前は後ろから遠慮がちに手を差し伸べるような軽い扱い)。今もセビージャにはホセという名の男性が多い。温かみと包容力のある身近な人の様な親近感を覚える人物に描かれている。室内の光の扱いや布地の描写、篭の素材感が美しい。マリアが動かす糸車がくるくると廻っている。

サンフランシスコ修道院からの大きな注文

<サン・フランシスコ修道院>

1645年から翌年にかけてセビージャのサンフランシスコ修道院(消失)の回廊を飾る13点を手掛けている。その中に「修道士フランシスコと天使の台所」がある。

<修道士フランシスコと天使の台所、1645年、パリ・ルーブル美術館>

ムリーリョ 天使の台所
Musée du Louvre / Erich Lessing

今はルーブル美術館にある巨大な作品で180メートルx450メートル。セビージャの修道院で賄いをしていたフランシスコ・ペレスは神に仕える求道者だった。有る時高官の訪問を受けもてなしに困って祈っていると体は宙に浮き天使たちが現れてもてなしの料理を整えたという奇跡。ムリーリョらしい可愛らしい天使たちが現れ動き回ってが働いている様子が伝わって来る。道具や皿、銅の鍋などの静物の表現も正確で素晴らしい。

受胎告知

受胎告知は様々な画家たちに描かれた人気の題財。聖母は妻のベアトリスがモデル。1650年と1660年の10年の間で画家の作風が変わって行ったのが良くわかる。

<受胎告知、1650年頃、プラド美術館>

ムリーリョ

La Anunciación
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

<受胎告知、1660年、プラド美術館>

ムリーリョ

La Anunciación
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

 

サンタ・マリア・ラ・ブランカ教会

ムリーリョの仕事は順調な中大きな注文を受ける。セビージャのサンタ・マリア・ラ・ブランカ教会はシナゴーグ(ユダヤ教会)を改装して創った教会。1662年からの再建工事が行われ絵画や彫刻が一新された。1665年8月5日にクーポラや壁も真っ白に漆喰で覆われた。ブランカは白いという意味。

<ヨハネの夢、1662-65年、プラド美術館>

ムリーリョ
Fundación de Santa María Maggiore de Roma. El sueño del patricio Juan
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)注文主はセビージャの修道士フスティーノ・ネベ、ムリーリョの個人的な友人でもあった。フスティーノ・ネベはセビージャの慈善病院ロス・べネラブレスの創設者でもある。テーマはローマのサンタ・マリア・マッジョーレ教会の奇跡「4世紀の貴族ヨハネの夢に聖母が幼児キリストと共に現れ教会の建立を願う場面」。ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ教会の守護聖母は雪の聖母(サンタ・マリア・ラ・ブランカ)、この教会の守護聖母でもある。

同じ時期にカプチン会修道院の為に連作21点を制作している。これらはセビージャ県立美術館にある。

 

ムリーリョはセビージャで度々引っ越している。妻との間に11人の子供が生まれ(実際に育つのは4人)人数が増えるたびに広い所を求めたのかもしれない。1663年に妻が11人目の子を産み直ぐに亡くなり、生まれた子も間もなく天に召された。後は再婚はせずにサンタ・マリア・ラ・ブランカ教会の近くへ引っ越した。

成熟期

1660年頃から40歳を超えたムリーリョは成熟期に入り注文は順調で後進の芸術家の育成にも力を注ぐ。その頃に描いたのがセビージャ大聖堂からの注文で聖母の誕生。

<聖母の誕生、1660年頃、パリ・ルーブル美術館>

ムリーリョ、聖母の誕生
Accession number MI 202retrieved from Wikidata
Source/Photographer Web Gallery of Art: Inkscape.svg Image Information icon.svg Info about artwork
public domain

(上)この少し前におそらくマドリードを訪れており王室コレクションを見ている。先人の先輩たちの作品に触れたムリーリョの円熟期の作品となる。残念な事に現在ルーブル美術館にある。

無原罪の御宿り

無原罪の御宿りはカトリックの教義で聖母マリアはその母アナの胎内に宿ったときに既に無原罪だった。宗教改革に対抗してカトリック世界ではパウルス5世ローマ法王のもと対抗宗教改革で異端審問教令が広まった時代に無原罪の御宿りの教義を通じ聖母の神格化が始まった。この教義を絵画を通してスペインに普及させようと多くの画家によって描かれている。ムリーリョは1560年頃から無原罪の御宿りを描いていて没年まで多くの傑作を描いた。

<エル・エスコリアルの無原罪の御宿り、1660-65、プラド美術館>

ムリーリョ

La Inmaculada del Escorial
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prad

<アランフェスの無原罪の御宿り、1675年、プラド美術館>

ムリーリョ

La Inmaculada Concepción ”de Aranjuez”
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

 

ムリーリョの描く民衆や子供達

ムリーリョは美しい宗教画で有名な画家だが当時のセビージャの子供達を描いている作品が何点かある。対抗宗教改革のスペインでは宗教画以外は売れない時代だったが外国の商人達がお土産として購入していった。

<サイコロで遊ぶ少年達、1675年、ミュンヘン・アルテピナコテーク>

ムリーリョ
Source/Photographer Web Gallery of Art: Inkscape.svg Image Information icon.svg Info about artwork
wikipedia public domain

 

<窓辺の少女達、1655-60年、ワシントン・ナショナルギャラリー>

ムリーリョ
Bartolomé Esteban Murillo (Spanish, 1617 – 1682), Two Women at a Window, c. 1655/1660, oil on canvas, Widener Collection 1942.9.46

 

<3人の子供達、1660-65年、ロンドン・ダルウィッツ・ギャラリー>

Source/Photographer http://www.dulwichpicturegallery.org.uk/collection/search_the_collection/artwork_detail.aspx?cid=146 
wikipedia
public domain

<微笑む窓辺の少年、1675年、ロンドン・ナショナルギャラリー>

ムリーリョ
De Bartolomé Esteban Murillo – 1./4. National Gallery, London – online collection2./3. young.rzd.ru, Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=16079389

当時のセビージャの道端にいたような普通の子供達や貧しい少年達が無邪気で可愛い。この種類のムリーリョの絵が一枚もスペインには現存していないのは残念。ムリーリョは画風が優しいだけでなく人間的にも慈愛の溢れた温厚で善良で謙虚な人物だった。子供達を描く画家の視線にムリーリョの人間的な温もりを感じる。

 

晩年のムリーリョ

名声に包まれ成功を手にした晩年だったが妻に先立たれ子供の多くを夭折させており育った一人の娘は聾者で修道院に、ひとりは新大陸へ旅立ち末弟は宗門に入ろうとしていた。セビージャの街も一時の華やかさとは裏腹にペストの流行や貿易の不振で街には孤児や娼婦があふれていた。そんな時代にカリダード病院からの注文を受けた。

<病者を担うサン・ファン・デ・ディオス、1672年、セビージャ・カリダード病院>

ムリーリョ
De Bartolomé Esteban Murillo – [4], Dominio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2372108
(上)サン・ファン・デ・ディオスが貧しい病人を助けているのを天使が手伝いにやって来た場面。カリダード病院の創設者は新大陸の貿易商だったが妻を亡くし残りの人生を貧しい人の為に施す事に決めカリダード信徒会に入会した。ムリーリョは彼の友人だったので仕事で神に奉仕をしようと同じく信徒会に入会し病院内の聖堂に大作を数点残した。

薄霧の様式=バポロッソ

ムリーリョの晩年の作品はバポロッソ=霧がかかった様な独特の様式になり柔らかなタッチ。

<貝殻の子供達、1670年、プラド美術館>

ムリーリョ

Los niños de la concha
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)まだ子供の洗礼者ヨハネにイエス・キリストが貝殻で水を与えるところ。実際聖書にはこの2人の子供の頃の事は書かれていないので画家の想像の世界だがある程度の画家による脚色は許されていたようだ。十字架と羊で後の殉教をほのめかす。

<聖アンドレスの殉教、1675-82、プラド美術館>

ムリーリョ

El martirio de san Andrés
MURILLO, BARTOLOMÉ ESTEBAN
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)125センチx209センチの大きな作品。同じくプラド美術館蔵にある聖パウロの回心と対をなす。ルーベンスの作品を模した版画が残りマドリードへ旅をした折に見たであろう王室のコレクションからの影響があると言われている。

最後の仕事

スペイン南西部の港町カディスのカプチン会修道院のサンタ・カタリーナの聖堂祭壇の装飾「聖カタリーナの神秘の結婚」制作中に足場を踏み外して梯子から墜落。この事故が元で1682年4月3日に64歳の生涯を閉じた。

<聖カタリーナ神秘の結婚、1682年、カディス美術館>

ムリーリョ
Source/Photographer juntadeandalucia.es
wikipedia public domain

作品はムリーリョの弟子フランシスコ・メネセス・オソリオによって完成され今はカディス美術館に展示されている。

 

まとめ

現存するムリーリョの作品が450点あるそうだが半数近くは外国に出てしまった。18世紀頃までムリーリョの人気は外国で高まり分散してしまっている。スペイン王フェリペ5世の妻イサベル・デ・ファルネーゼがセビージャでムリーリョを収集したものが現在のプラド美術館のコレクションの基礎となっている。同じ時代に外国人の貴族やコレクターに買われていったので一部ながらもスペインに大作が残ったのは偶然とは言え奇跡かもしれない。ムリーリョの子供達は殆ど早くに亡くなり唯一残ったのが新大陸へ行った息子だった。ムリーリョの残した財産も大西洋を渡ったようだ。外国に行ってしまったのはムリーリョの大量の絵だけではなかった。穏やかで包容力があって慈愛にあふれた可愛げのある男がスペインには今も存在する。絵を描くことで忠実に神に仕えようとした典型的なセビージャーノ(セビリア人)、素朴で優しい夫で父親で、そして敬虔なカトリック信者だった。

ギリシャ神話は面白い。絵画で楽しむギリシャ神話。(プラド美術館を中心に)

リベラ(ホセ・デ・リベラ){プラド美術館スペイン17世紀黄金世紀の巨匠達}

 

 

ホセ・デ・リベラ(スペイン語名)又はジュゼップ・ディ・リベラ(イタリア語読み)は17世紀のスペインの画家。プラド美術館で鑑賞できる巨匠のひとりだ。スペイン国王フェリペ4世の頃、同時に個性のある天才画家たちが多く登場した時代をスペイン17世紀黄金世紀と呼ぶ。エルグレコ、ベラスケス、スルバラン、ムリーリョ等プラド美術館でおなじみの画家たちが同時期に登場している。リベラはスペインでは認められずスペイン領だったイタリアのナポリで活躍した画家。異彩を放つホセ・デ・リベラについて紹介します。

ホセ・デ・リベラ(ジュゼップ・ディ・リベラ)


<1591-1652>

リベラはスペインの地中海側にある商業都市バレンシア近郊のハティバで靴職人の子として生まれる。17世紀のバレンシアは豊かな商業都市として栄えていた。対抗宗教改革の時代に登場したバレンシア大司教(ファン・デ・リベラ)の元多くの教会や修道院が作られ、その壁を飾る宗教画が作成され画家たちが集まった。フランシスコ・デ・リバルタはバレンシアを代表する画家として大司教の寵愛を得多くの作品を描いている。ホセ・デ・リベラは若いときフランシスコ・デ・リバルタに師事したという。

リベラは若い頃に弟とイタリアに移住しているが移住時期などについてはわかっていない。1611年(20歳頃)にパルマ公の絵を描いており、1615年(24歳頃)にはイタリアのローマに滞在していた事は確実。その頃にはリベラは既にカラバッジオの影響を受けた作品を描いていた。1616年にナポリへ移住し活躍している。「ホセ」はスペイン名で「ジュゼップ」はそれのイタリア語なのでホセ・デ・リベラ又はジュゼップ・ディ・リベラ又はイタリア語のニックネーム「ロ・エスパニョレット」で知られた。絵に署名を残すときは「スペイン人」または「バレンシア人」と書きリベラは終生スペイン人であることを誇りにしていたが祖国では評価されず異国で活躍し客死した。

作品

現存するリベラの初期の作品は「味覚」1615年頃にローマで描いた人間の五感のシリーズ。良く太った大食漢の庶民的な男が赤ら顔で食卓についている。衣装や食卓の様々な静物の質感が素晴らしく再現されている。

 

<味覚、1615年、ハートフォード、ウォッズワース・アシーニアム>

リベラ、味覚
wikiart public domain
Location: Wadsworth Atheneum, Hartford, CT, US

ローマでリベラは北方出身の画家たちと寝食を共にしていたことが判っておりその影響がみられる。

 

<執筆の聖ヘロニモ、1615年、プラド美術館>

リベラ

San Jerónimo escribiendo
RIBERA, JOSÉ DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)聖ヘロニモは聖書をラテン語に訳した聖人。テネブリズモの技法、カラバッジョの明暗法が既にみられる。

1616年夏にリベラはローマからナポリに移住。当時スペイン副王領として貿易で栄えていたナポリはインターナショナルな活気ある街だった。カラバッジオの影響を大いに受け明暗法を駆使した作品を描いている。代々のナポリ副王にもスペイン人であるという事で重用され活躍する。

リベラの描く聖人たちは地元の漁師や貧しい浮浪がモデルになり人間臭いのが特徴。聖人達さえも理想化せずに皺や皮膚のたるみまでも現実的に赤裸々に描き出した。特に1620-30年代の作品に顕著にその特徴がみられる。

<聖アンドレス、1630年頃、プラド美術館>

リベラ聖アンドレス

San Andrés
RIBERA, JOSÉ DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)聖アンドレは兄のペテロと共にガリラヤの漁師だった。イエス・キリストに最初についていった弟子でギリシャのパトラスで捕らえられ拷問に会いⅩ型の十字架に掛けられたが絶命するまで周りの人に説教を続けた。節くれだった手の皺やお腹の肉のたるみ等、聖人を描くにもかかわらず理想とはかけ離れたナポリの漁師がそこにいる。

<デモクリトス、1629-31年頃、プラド美術館>

リベラ、デモクリト

Demócrito
RIBERA, JOSÉ DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)「笑う哲学者」と通称される作品。ナポリ副王だったアルカラ公爵の為に制作。古代の哲学者のデモクリトスを、ぼろをまとった現実の世界の庶民として描いた。今にも話し始めそうなこちらを見つめる眼差しや親しみやすい笑顔が親近感を与える。左手に紙を持ち右手にコンパスを持つのでアルキメデスとも呼ばれていた。顔や節くれだった手の皺の描写がやはりナポリの漁師を思わせる。

<アッシジの聖フランシスコの幻視、1636-38年、プラド美術館>

リベラ

Visión de san Francisco de Asís
RIBERA, JOSÉ DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)対抗宗教改革の頃に好まれたテーマ、頭蓋骨は改悛や謙虚を象徴する。天使が持つ透明なガラスの水は純粋さを現す。透明感に画家の技量がみられる。明暗法が使われているが次第に絵のタッチが柔らかく変化している。リベラは若い頃にローマでラファエロの作品に感銘を受けている。またローマ=ボローニャ派の画家たちがナポリに到着しており次第に彼らの影響をを受け激しいリアリズムから脱却する。

<天使による聖ペテロの開放、1639年、プラド美術館>

リベラ
San Pedro libertado por un ángel
RIBERA, JOSÉ DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)激しいテネブリズムから脱却した1630年代後半の作品。捕らわれた聖ペテロに天使が合わられた場面。ヤコブの夢と連作で描かれた。

悔悛のマグダラのマリア、1641年、プラド美術館>

リベラ

Magdalena penitente
RIBERA, JOSÉ DE
Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado

(上)リベラの作品に聖母マリアや聖女たちの作品は少ないのはスルバランやムリーリョとの大きな違いとなる。数少ない聖女画の代表作。明るい背景の曇り空で美しい聖女を甘美に描いている。

 

まとめ


対抗宗教改革のヨーロッパで厳しい検閲などが行われていた時代背景もありリベラの描く作品は厳格な宗教感が漂う。自国で成功できずにナポリへ渡りスペイン人であることを最後まで誇りに活躍をした画家。祖国に帰らずナポリで最後を迎えた。生前から多くの作品がスペインへ送られた事もありプラド美術館でリベラ様々な時代の作品を鑑賞することが出来る。